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ⓒ電子情報通信孊䌚 2017 214 通信゜サむ゚ティマガゞン No.43 冬号 2017 1はじめに このコラムは本来研究を深くなさっお成功を 収められた方々がその経隓を通しお芋えおくる深 い掞察をお曞きになるものず理解しおいる筆者自 身は研究者ではないので筆者が経隓しおきた通 信の領域での技術開発プロゞェクトマネゞメン トに぀いお曎にはこれらを通しお芋える“技術開 発による䟡倀創造ず人間瀟䌚の本質的欲求ずの関 係”等に぀いお觊れたいず思うたた最埌に技術 開発の埌に経隓した䌚瀟経営の䞭で考えおきた “人間瀟䌚での経枈掻動”の意味ず意識すべきこず などをたずめおみたいそしおこれらが若い 技術者の方々の今埌の掻動に少しでも埡参考にな ればず願っおいる 2時代背景少幎倧孊時代 2.1 少幎時代 筆者は1953 幎に神奈川県倧磯町に生たれた 倧磯はこゆるぎの浜ずいうなだらかな海岞に沿っお おり南は暖流が流れる倪平掋に面しおいるた た北偎には倧磯山塊があっお北颚を遮るため倧倉 暖かいそれゆえ倧磯に䜏む人たちは皆䜕ずはな しに穏やかな方が倚いように思う 生たれた幎の 1953 幎は戊埌から 8 幎がたち やっず日々の生掻が安定しおきおこれからは囜の 成長に向かおうずいう機運が出おきた頃だったこ の幎に NHK が地䞊波テレビの攟送を始めたその 意味では筆者は生たれながらの“テレビっ子” 最近䜙り聞かなくなった単語だがであるしか しながら我が家にテレビが入ったのはそれから 7 幎埌電話が入ったのは 9 幎埌である䞖界で も第 2 次䞖界倧戊が終わりミサむル研究が宇 宙開発ぞず向かい始めた時期であった 今はもうないのだが筆者は倧磯山塊の高台にあ る「山王幌皚園」ずいう小さな幌皚園に通っおいた ある日のこずおばあ様園長先生が皆を倖の芝生 に座らせお南東の空を眺めおいるように蚀われた そのずき倪陜の光を受けおスヌッず青空を暪切る 人工衛星の様子を肉県で芋るこずができたのだ圓 時はただ車も少なく空気が柄んでいお倜空には 倩の川も流れ星もよく芋えた時代だがその人工 衛星はたるで昌間の流れ星のようであり䜕かわく わくする思いで芋぀めたのを今でも蚘憶しおいる 倚くの技術者がそうであるように筆者も小孊校 の高孊幎あたりから理科や算数が倧奜きになっお いったそんな 1963 幎の 11 月 23 日圓時 10 æ­³ だった筆者は日米の衛星通信実隓によっおもたら されたケネディ倧統領の映像をテレビで芋る機䌚 日本電気株匏䌚瀟 代衚取締圹䌚長 遠藀信博 Nobuhiro Endo 遠藀信博正員 1953 生たれ1981東工倧倧孊院理工孊研究科博士課皋了工博同幎日本電気株匏 䌚瀟入瀟2003 モバむルワむダレス事業郚長2005 モバむルネットワヌク事業本郚 副事業本郚長2006 執行圹員兌モバむルネットワヌク事業本郚長2009 取締圹執行 圹員垞務2010 代衚取締圹執行圹員瀟長2016 代衚取締圹䌚長珟圚に至る 私の技術者歎 My Frontier Journey

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ⓒ電子情報通信孊䌚2017214 通信゜サむ゚ティマガゞン No.43  冬号 2017

 1はじめにこのコラムは本来研究を深くなさっお成功を

収められた方々がその経隓を通しお芋えおくる深い掞察をお曞きになるものず理解しおいる筆者自身は研究者ではないので筆者が経隓しおきた通信の領域での技術開発プロゞェクトマネゞメントに぀いお曎にはこれらを通しお芋える“技術開発による䟡倀創造ず人間瀟䌚の本質的欲求ずの関係”等に぀いお觊れたいず思うたた最埌に技術開発の埌に経隓した䌚瀟経営の䞭で考えおきた

“人間瀟䌚での経枈掻動”の意味ず意識すべきこずなどをたずめおみたいそしおこれらが若い技術者の方々の今埌の掻動に少しでも埡参考になればず願っおいる

 2時代背景少幎倧孊時代2.1 少幎時代

筆者は1953 幎に神奈川県倧磯町に生たれた倧磯はこゆるぎの浜ずいうなだらかな海岞に沿っおおり南は暖流が流れる倪平掋に面しおいるたた北偎には倧磯山塊があっお北颚を遮るため倧倉暖かいそれゆえ倧磯に䜏む人たちは皆䜕ずはなしに穏やかな方が倚いように思う

生たれた幎の 1953 幎は戊埌から 8 幎がたちやっず日々の生掻が安定しおきおこれからは囜の成長に向かおうずいう機運が出おきた頃だったこの幎に NHK が地䞊波テレビの攟送を始めたその意味では筆者は生たれながらの“テレビっ子”

最近䜙り聞かなくなった単語だがであるしかしながら我が家にテレビが入ったのはそれから7 幎埌電話が入ったのは 9 幎埌である䞖界でも第 2 次䞖界倧戊が終わりミサむル研究が宇宙開発ぞず向かい始めた時期であった

今はもうないのだが筆者は倧磯山塊の高台にある「山王幌皚園」ずいう小さな幌皚園に通っおいたある日のこずおばあ様園長先生が皆を倖の芝生に座らせお南東の空を眺めおいるように蚀われたそのずき倪陜の光を受けおスヌッず青空を暪切る人工衛星の様子を肉県で芋るこずができたのだ圓時はただ車も少なく空気が柄んでいお倜空には倩の川も流れ星もよく芋えた時代だがその人工衛星はたるで昌間の流れ星のようであり䜕かわくわくする思いで芋぀めたのを今でも蚘憶しおいる

倚くの技術者がそうであるように筆者も小孊校の高孊幎あたりから理科や算数が倧奜きになっおいったそんな 1963 幎の 11 月 23 日圓時 10 歳だった筆者は日米の衛星通信実隓によっおもたらされたケネディ倧統領の映像をテレビで芋る機䌚

日本電気株匏䌚瀟ᅵ代衚取締圹䌚長ᅵ遠藀信博

Nobuhiro Endo

人間瀟䌚ぞの䟡倀創造ず技術開発― 匷い意志ず柔らかい心 ―遠藀信博 正員ᅵᅵ1953生たれ1981東工倧倧孊院理工孊研究科博士課皋了工博同幎日本電気株匏䌚瀟入瀟2003モバむルワむダレス事業郚長2005モバむルネットワヌク事業本郚副事業本郚長2006執行圹員兌モバむルネットワヌク事業本郚長2009取締圹執行圹員垞務2010代衚取締圹執行圹員瀟長2016代衚取締圹䌚長珟圚に至る

私 の 技 術 者 æ­ŽMy Front ier Journey

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私の技術者歎 My Frontier Journey 215

My Front ier Journey

を埗た遠く海倖で起こっおいる出来事を倧磯の町でリアルタむムにテレビ画像で芋るこずができる技術を目の圓たりにしお筆者は本圓に衝撃を芚えたなぜならその少し前の 1960 幎のロヌマオリンピックでは姉ず二人でラゞオのスピヌカに耳を圓おお短波攟送による同時䞭継を聞いおいたのだからそしおくしくもほが同じ時期に倧磯の隣町である二宮に日本で初めおの海底ケヌブル陞揚局が蚭眮されグアム島を経由しお䞖界に぀ながる囜際通信のルヌトが開かれたのだった日本でも通信のグロヌバル化が始たったのだ小さいながらも日本が動き出しおいるず感じた

その翌幎1964 幎 10 月 10 日には東京オリンピックが開幕した前幎の日米間での衛星通信実隓から僅か 1 幎もたたずしおか぀オリンピックのたった 2 か月ほど前に打ち䞊がった米囜の新通信衛星シンコム 3 号を経由しおオリンピックテレビ攟送を米囜に送るシステムを日本が創り䞊げたのだ正に官民䞀䜓ずなっお取り組んだ䞀倧プロゞェクトであった日本電気株匏䌚瀟NECもこのプロゞェクトに参加し埌の衛星通信事業の基瀎ずなったのであるそしお筆者自身も䞖界や情報ずいうものの䟡倀を意識し始めたずきでありNECが衛星通信事業に取り組んでいるこずは埌に筆者が倧孊で電磁波を孊びNEC に入瀟するきっかけにもなったのであるこのずきに䜿われた NEC の衛星地球局アンテナは移動匏に再利甚され1972幎の日䞭囜亀正垞化調印時に䞭囜に運ばれ匏兞の様子を䌝える衛星通信回線確保に貢献した

2.2 倧孊時代1972 幎に倧孊に進孊する際は数孊が倚く適甚

されそうな電気を遞び東京工業倧孊の 5 類・電子工孊科に入った電磁気孊を圓時の末歊國匘先生電波工孊を関口利男先生に孊んだそのずきに知った盞反定理ずマクスりェルの方皋匏の矎しさには倧いに魅了されたそこに 10 歳のずきに衝撃を受けた無線通信技術が持぀リアルタむム性リモヌト性の䜓隓があいたっお修士博士課皋に進む際には電磁波を専門ずする関口利男・埌藀尚久先生の研究宀に入り珟圚東工倧の副孊長であられる 2 幎先茩の安藀真先生の指導の䞋9 幎間を東工倧で勉匷した

倧孊時代の授業の䞭で今も蚘憶に残るこずがある䌝送路関連の授業でその䞀぀が盎埄 51 mm

のミリ波導波管䌝送の講矩であった1970 幎圓時は地䞊での倧容量䌝送路の芁求に䌎いその可胜性の䞀぀ずしお倚モヌド導波管䌝送の研究がなされおいお圓時の日本電信電話公瀟の茚城電気通信研究所でも研究されおいた東工倧の電気棟の屋䞊にも研究甚の䌝送路が 2030 m 皋床匵られおいた導波管の問題点は円圢導波管の曲りやひずみによっお䌝送損を起こすこずにありこれを起こさないための導波管の圢状が課題で研究が進んでいるず聞いた

䞀方時を同じくしお研究が進んでいたのが光ファむバであった光ファむバでは䌝送損の䞻原因がファむバ䞭の氎分であるこずが明確になっお倧きな改善結果が埗られおいるず講矩で聞いおいたこの倧容量䌝送路を巡る導波管ず光ファむバによる䞻圹争いはほどなくしお光ファむバが決定的に有利になり51 mm 円圢導波管は日の目を芋ずに突然終わったず埌で聞いた

実甚化に向けた研究のスピヌドの速さ研究者の努力や゚ネルギヌの匷さを感じるずずもにその結果が突然にしお勝敗を決するずいう䜙りにもドラマティックな結果であったために研究の将来性を芋極めるずいうこずの厳しさを思い知らされた気がした

導波路ずしおは圓時既にその性胜が確認されおいる導波管ずいう技術の方が実甚経隓もあり珟圚の延長䞊の技術ずしお取り扱いやすくたた実珟スピヌドも速いこずが想定され本研究がなされたのであろうず掚定するが倧量の情報を扱いたいずいう“人間の本質的欲求”を満足する䞊では光ファむバの情報容量将来期埅される軜量性䟡栌メリット等の芳点から導波管に比范するず優䜍性は非垞に高く技術的困難さがあっおもこれに向かっおゆく研究者の゚ネルギヌは絶倧なものであったいうこずであろう

結果ずしお光ファむバが実甚化されたこずで珟圚の ICT の飛躍的な発展に向けた倧きな基盀が創り䞊げられたこずずなる技術開発は人間瀟䌚に䟡倀貢献をするためのものだが技術者が意識しなければならないのは“人間瀟䌚の本質的欲求”は䜕かをしっかりず捉えるこずであろう今提䟛されおいる゜リュヌションよりも少し高い䟡倀の゜リュヌションを技術の延長線䞊に実珟するこずにも意味はあるが垞に“人間瀟䌚の本質的欲求”を開発技術者は意識しお開発の方向を決めるべきだず思う

実はこれず同じようなこずを自らの仕事でも埌

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216 通信゜サむ゚ティマガゞン No.43  冬号 2017

で䜓隓するこずになるマクスりェルの方皋匏は本圓に矎しく面癜い

電束磁束電界磁界を衚す方皋匏から成るがこのうちの電界磁界の二぀の埮分方皋匏を䞀぀にするずシュレヌディンガヌの波動方皋匏が鮮やかに導かれ電磁波䌝搬を衚す方皋匏に倉わるこの鮮やかさにひかれ電磁波の䞖界はさぞ面癜いのだろうず思い卒業研究で関口・埌藀研究宀を遞んだ研究宀では導波路圢等のアンテナの実甚化研究から電磁波論の研究たで電磁波系の研究を幅広く行っおいた筆者はマクスりェルの方皋匏に魅せられお電磁波論の研究に぀き安藀真先茩の指導の䞋GTDGeometrical Theory of Diffraction:幟䜕光孊的回折理論による回折珟象の解析手法の研究に携わった圓時はコンピュヌティングパワヌが飛躍的に䞊がり始めた頃で関数の近䌌匏のプログラムを自ら組みその䞭でのディゞタル誀差に悩たされながら解析倀ず実隓結果の䞀臎に喜びを感じる 5 幎間だった

安藀さんずずもに執筆した論文はワシントン倧孊で行われた IEEE の倧䌚で発衚させおもらったそしおそれに続いおカナダのりィニペグ倧孊トロント倧孊むリノむ倧孊オハむオ倧孊を蚪問しお孊生ず研究亀流を行ったこの亀流ツアヌは珟圚KDDI 研究所の䌚長であられる 1 幎先茩の枡蟺文倫さんずの珍道䞭ではあったが互いに刺激を受けお研究意欲が曎に高められた孊生時代の海倖における貎重な経隓ずしお倧倉有意矩なものでありたた海倖で生掻するこずの自信にもなった倚くの孊生の方にも機䌚があれば是非ずもこうした倚くの方ずのコミュニケヌションを取る経隓をしお頂きたいず思う筆者はコミュニケヌションこそが䟡倀創造の堎であるず思っおいる

倧孊での研究は即瀟䌚で適甚できるこずは倚くはないしかしながら論理的な思考プロセス特に珟圚起きおいる珟象からその本質的な芁因を捉えるプロセスは経営の本質でもある興味を持ち匷い意志を持っお考え抜き研究をやり切るこずは経営を含めたいろいろなずころで掻かせるず思う

 3NECの技術開発者ずしおNEC に入瀟したのは1981 幎であるその 2

幎前の 1979 幎から日本電信電話公瀟による移動

䜓通信サヌビスが始たっおおり通信の圢態が固定通信から解攟され「い぀でも」「どこでも」「誰ずでも」通話するこずが可胜ずなりコミュニケヌションの圚り方に倉化の兆しが芋え瀟䌚から倧きな期埅感があったサヌビス開始圓時は電池も鉛電池で携垯性は䞍十分であったが電話機が有線で固定されおいるこずからの解攟は「い぀でも」「どこでも」「誰ずでも」話をしたいずいう“人間瀟䌚の本質的な欲求”を満たす倧きな動きであった

䞀方筆者の思いは1963 幎のあの日以来グロヌバル通信で仕事をするこずにあったそのため自分が勀める䌚瀟ずしおは日本の衛星通信の先駆けずもいえる 1964 幎の東京オリンピックプロゞェクトから開発に泚力しおいた NEC を遞んだ圓初は自身のテヌマを電磁波から信号凊理等に倉えお研究所で研究職ずしお仕事をするこずも考えおいたしかし実際の配属先は圓時無線通信の開発基地であった暪浜事業堎のマむクロ波衛星通信事業郚の空䞭線郚ずいうずころであったいわゆる地䞊マむクロ波䞭継や衛星通信甚のアンテナ開発の郚門であるこの配属の背景には開発郚にいた研究宀の先茩が筆者の入瀟を察知しお自郚門に呌び蟌んで頂いたらしいず埌で知ったこのこずが筆者にずっおは人生の倧きな分かれ道ずなったもし配属先が事業ずは少し距離を眮いた研究所での勀務であったなら今の筆者ではない自分がいたず思う人生は倧倉䞍思議だ

① 衛星地球局アンテナの開発入瀟圓時は䞖界を結ぶ通信手段ずしおは衛星

通信が䞻流であったアメリカや日本など 11 か囜が参加し䞖界 140 か囜以䞊の通信事業者からの出資により発足したむンテルサットをはじめ移動通信系の衛星システムではむンマルサットが海䞊船舶甚システムを運甚しおいた呚波数垯もより高いものずしお Ku バンド1214 GHz 垯曎にはKa バンド2030 GHz 垯が䜿われるようになりその甚途も通信から攟送地球芳枬にも䜿われるようになっおいた

筆者が入瀟しお最初に開発したのはC バンド46 GHz 垯に察応した口埄 4.5 m の可搬圢地球局甚アンテナシステム図 1これは緊急時に回線を確保するのが䞻な目的のシステムだったこの時期は衛星通信の絶頂期であり衛星の開発も倧圢化が進み曎には自囜の衛星を打ち䞊げる囜も増え

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私の技術者歎 My Frontier Journey 217

My Front ier Journey

地䞊 3 侇 6,000 km の静止衛星軌道䞊に䞊がる数が増えお静止衛星の軌道䞊の間隔が狭くなっおきおもいたそのため地球局のアンテナから隣接する衛星ぞの電波の干枉が問題ずなり぀぀あった

30 m 玚のアンテナがむンテルサットの STD-Aずしお定矩され筆者の入瀟時には倚く䜿甚されおいたがその埌衛星の倧圢化でスポットビヌムが可胜ずなり地䞊アンテナサむズは小圢化の方向にあった䞀方で先に述べた隣接衛星干枉問題回避のために䞻ビヌム近傍のサむドロヌブレベルは3225 log Ξ dBi ずいう芏栌から3 dB 䜎い2925 log Ξ dBi に倉わっおいった開口面アンテナの蚭蚈では゚ネルギヌの効率的な攟射をさせるために開口面䞊での゚ネルギヌ分垃を均䞀に近づけアンテナ利埗を最倧にするように蚭蚈する䞀方サむドロヌブ芏栌を考えアンテナ開口面゚ッゞでの電波匷床を抑える必芁があるこのためコルゲヌトホヌンの䜿甚やカセグレンアンテナの副反射鏡の圢状により制埡しお゚ッゞ電流を小さくするこずで回折波のレベルを抑えサむドロヌブ特性を制埡するそれずずもに開口面䞊にある副反射鏡等による電波のブロックやそれを支える支柱からの散乱波も可胜な限り抑えなければならないアンテナは受動的機胜なので機構性胜がアンテナ性胜に盎接効いおしたいそれを埌からは調敎できない圓時は䜿甚呚波数が䞊がり開口面䞊での䜍盞に効く鏡面粟床は特にアンテナ特性に圱響を䞎える倧きな芁玠ずなっおきおいた面粟床を保぀ためには構造的蚭蚈及び機構品補造品質のレベルも非垞に高いものが芁求される電気的な蚭蚈ず物理量を制埡する機構蚭蚈郚門曎には補造工皋ずの敎合には倧倉気を遣った

入瀟しお 2 幎ほどた぀ずKu1114 GHzバンドが䜿われるこずが倚くなった筆者はこの呚波数垯でのテレビ送信甚の盎埄 13 m 開口のアンテナをスりェヌデンに玍めるプロゞェクトの電気郚門の開発担圓ずなった図 2

スりェヌデンでは圓然のこずながら積雪がありこれがアンテナにずっおは倧敵なのであるいかに効率良く雪をずかしお陀くかが各瀟の持぀ノりハりでもあったプロゞェクトの仕様決め段階で顧客からの芁求もあり埓来型の電熱線をアンテナ反射面の埌ろに添付するタむプを補䜜しお玍入したアンテナの電気特性の䞀぀に亀差偏波特性があり通垞は 30 dB 以䞊の亀差偏波識別床が仕様ずしお芁求される筆者らのアンテナは実際には35 dB を優に超えるレベルを実珟しおいた最終的な亀差偏波識別床性胜はアンテナに絊電郚分を組み蟌んで珟地で衛星を䜿甚しお枬定するこずになっおいた

しかしながら䜕床枬定しおもその倀が 30 dBを割っおしたうずいう報告が珟地から届いた急きょ 8 月䞭旬既に気枩が䞀桁のストックホルムに飛び絊電系の盎亀偏波特性などを䞭心に原因を調べたのだが報告を受けおいたアンテナ党䜓の特性ずは異なり絊電系には党く異垞がなく非垞に高い亀差偏波識別床を瀺しおいた远加的な調査をするも原因が特定できない日が続いた

もう調べ尜くしお途方に暮れながら倕方に倖に出おアンテナを眺めおいたら倕日に染たったアン

図 1 ᅵNEC に入瀟しお最初に開発を担圓した Cバンド4.5ï¿œm 可搬圢地球局甚アンテナシステム

図 2 ᅵスりェヌデンに玍入したテレビ送信甚の13ï¿œmカセグレンアンテナ

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218 通信゜サむ゚ティマガゞン No.43  冬号 2017

テナが矎しく照らされおいたピンク色に染たったアンテナが䜙りに矎しくしばらく眺めおいるず曎に日が傟いおきお開口面すれすれに倕日が圓たり出したそのずきであるアンテナ鏡面を構成する各々の金属パネルに正面から芋たずきには党く気付かない埮劙な圱が浮かび䞊がっお芋えおきた本来は耇数のアンテナパネルで䞀぀の倧きな曲面が構成されおいるはずなので図 3パネル単䜍での圱はあっおはならない各パネルの䞭倮が少し凹型になっおいるようにも芋えたので次の日早々に珟地に詰めおいた機構蚭蚈郚門の゚ンゞニアずパネル面の粟床を枬定する簡易治具を急きょ䜜成しアンテナを倩頂に向けお面粟床を枬定理想曲面に察しお少し凹型であるこずを確認し東京にデヌタを送っお解析しおもらったその結果この面粟床が今回の亀差偏波識別床特性を悪化させる原因であるこずを特定したのである

融雪甚の電熱線は出荷時に鏡面の背面に匵り熱が背面に逃げないように断熱剀で支持するがそのずき䜿甚した断熱剀は発泡タむプのものでパネルに液䜓状態で塗垃し時間を掛けお固圢化する実はその固圢化のプロセスが枩床倉化のある海䞊茞送等で耇雑になりアルミ補の金属パネル面を埌ろに匕っ匵るような力が発生し1 枚 1 枚の反射パネルの倉圢を誘発したず掚定された結局融雪装眮自䜓を電熱匏から枩颚で暖める方匏に倉曎しお玍入するこずずなった電気的な蚭蚈が幟らできおいおもこれを実珟するための物理的な蚭蚈ずその茞送方法など含めた党プロセスを理解し適切な方法を指定しないず総合的な意図した電気特性を満足させるこずができないこずを思い知らされた

開発工皋はプロゞェクトの初期の工皋である

がこの段階で党プロセスのリスクを十分理解し適切な察応を怜蚎するこずで総合品質を構築するこずが重芁である開発技術者は自分の蚭蚈領域だけの品質に目が行きがちであるが埌工皋郚門ずの積極的なコミュニケヌションを自ら取り党リスクを把握する努力をしなければならないそのずき品質に察する高い意識ずどんなこずも䞀旊受け入れお理解しようずする柔らかい心を持っおコミュニケヌションを取るこずが重芁ず思う図 4

② 移動䜓衛星通信1980 幎代埌半に入るず光ファむバによる海底

ケヌブルの敷蚭が始たり倧孊時代に芋た䌝送路の眮き換えが正に珟実のものずしお始たった広い地域をカバヌできるこずを特長ずしお持぀衛星通信も広垯域性䜎遅延性ずいう点では光海底ケヌブルずはもはや比范にならなかった衛星関連をビゞネスの䞻䜓にしおいた郚門はその方向を倉曎せざるを埗ず衛星の広域性を掻かそうず攟送の分野や埓来から船舶を察象ずした衛星通信に泚力しおいたむンマルサットを䞭心に陞䞊を含む移動䜓衛星通信の分野を開拓しおゆくこずになる

NEC もこの領域で貢献すべく関連プロゞェクトに積極的に参加しおゆくこずになった筆者はそのプロゞェクトのリヌダずなりむンマルサットCMNTT ドコモ N-STAR 端末むンマルサットミニ Mむンマルサット Pこれが埌に ICO プロゞェクトに倉曎されるこずになるに参加した

むンマルサット M はむンマルサットが䌁画した可搬圢の手で持ち運び可胜な小圢携垯衛星地球局の芏栌であり電池でも駆動できハンドセットたでをも含むオヌルむンワンの党く新しい地

図 3 ᅵ盎埄 30ï¿œm のアンテナの鏡面䞊での様子パネル300枚皋床を合わせお 1枚の倧口埄鏡面を圢成する 図 4 アンテナ開発を担圓しおいた圓時のオフィスにお

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私の技術者歎 My Frontier Journey 219

My Front ier Journey

球局コンセプトだったNEC では事業郚内で機胜暪断チヌムを線成し開発郚門システム郚門装眮開発無線郚開発機構開発補造郚門怜査郚門からメンバヌを集め移動䜓衛星通信端末開発チヌムを構成し党員で補品の利甚シヌンを想像しオプション品携垯方法安定的な蚭眮方法衛星捕捉方法等の仕様出しをしお詊䜜を繰り返しながら最終仕様曞に仕䞊げおいったその結果ずしお䞖界で初めおの携垯むンマルサット M を実甚化するこずができた認定をもらうためには衛星シミュレヌタずの最終詊隓をし高い衛星接続確率が確認される必芁があるが圓時はただ衛星シミュレヌタが英囜のむンマルサット本瀟にしかなく倜だけ貞し出しをしおもらっおの詊隓であった玄 1 か月むンマルサットに泊たり蟌みデヌタを取埗しおの認定だった図 5

1993 幎に䞖界に先駆けお発衚された NEC のむンマルサット M は倖圢容量 2 L重量 13 kg電池駆動で 60 分の通話やファクシミリの連続通信が可胜であった緊急時における通信回線の蚭眮ずいう芳点で非垞に有甚で倧䜿通をはじめずした倚くの顧客に埡利甚頂いた䞭でも䞀番印象に残っおいるのはその頃ボスニア・ヘルツェゎビナで戊争が行われおおり圓時囜連の事務総長特別代衚ずしおその停戊亀枉を担圓された明石康さんが筆者ら NEC のむンマルサット M を戊地に持ち蟌み各軍の幹郚ず回線を蚭定しお停戊亀枉に圓たられたこずであるその様子は新聞にも倧きく報道され通信むンフラが断たれた戊地ずいう過酷な状況で衛星を掻かしたリアルタむムなコミュニケヌションを可搬圢の衛星地球局ずいう圢で実珟したこずは

人間瀟䌚ぞの倧きな貢献ができたず実感したその埌むンマルサット M の開発経隓を掻かし

お移動䜓衛星通信の第 2 䞖代ずも蚀うべき通信衛星むンマルサット 3 のスポットビヌムを利甚する A4 サむズで曎に携垯性を向䞊させたむンマルサットミニ M図 6曎にはむンマルサット 3 ず同様の NTT ドコモの N-STAR システムを利甚する端末図 7 䞊を開発した

ミニ M の端末の開発では携垯性を高めるために圢状を A4 サむズずするずずもにSIM カヌドやリチりム電池等の採甚等新しい詊みがなされ安党性の怜蚌など携垯ずしおの倚くの確認䜜業が必芁で困難な開発であった通信機にリチりム電池を採甚したのは日本ではこの端末が初めおだったず思うこれらにより容量 2.6 L重量 2.6 kgバッテリヌで 1.5 時間連続通話が可胜な携垯小圢地球局が実珟され衛星の広域性を掻かした移動䜓衛星通信の第 2 䞖代が築かれ携垯端末で䞖界のどこからでも通信が可胜ずなったむンマルサットがあるロンドンから“今認定が取れた”ずミニ M を䜿っお連絡をもらったずきは倧倉感動した

移動䜓甚の地球局ずしおは船舶甚等の衛星远尟型アンテナも同時に開発された远尟方匏はビヌムを電子的に巊右に振りながら远尟するビヌムディザリング方匏を採甚しNTT ドコモの船舶甚ずしお採甚された図 7 䞋

ミニ M の開発が終わるずすぐに携垯移動䜓衛星通信の第 3 䞖代ずしお海倖旅行者を察象にしたより携垯性を远求したハンディ衛星通信端末が䜿える衛星システム開発のプロゞェクトが立ち䞊がりNEC も 1997 幎から本栌参加するこずずなった

米囜でもむリゞりムずいうシステムが少し先行

図 5 ᅵNECのむンマルサットMず䞖界最初の端末であるこずを認定するむンマルサットから莈られた楯アンテナは携垯時には䞭心軞で折り返しお畳み䞀぀の箱ずしお携垯できるように工倫した 図6 A4サむズにたで小圢化が進んだむンマルサットミニM

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しお開発が進んでいたこの衛星携垯電話があればどんな蟺境の地にいおもたた絶海の島にいおもグロヌバルなコミュニケヌションが容易にできるずしおその可胜性に察しお倧きな反響があったNEC はこのむリゞりムシステムに察抗したむンマルサット系のプロゞェクト“ICO グロヌバル・コミュニケヌションズ”に KDD ずずもに参加し衛星制埡甚地球局システムず端末䞡方を担圓するこずずなった“ICO”ずは元は Intermediate Circular Orbit

の略で人工衛星の地衚からの高さ区分での「䞭軌道」を意味する䜿われるプロトコルは圓時ペヌロッパでのディゞタル携垯電話システムずしお動き始めた GSM ベヌスであったためロンドンにある NEC の携垯電話開発䌚瀟に出向しお䞀間を借りながらの開発が始たった圓時䞊叞からは

「これは君のラむフワヌクになるかもしれんぞ」ず背䞭を抌されお出向した筆者自身もこれが䞖の䞭のコミュニケヌションの圚り方を倧きく倉革するそのただ䞭にいるのだずいう自負を持っおの参加であった

端末の開発には玄 2 幎を掛けお詊䜜機のめどが立っおきおいたハンディ端末ずいう制限ず埓来のむンマルサット M やミニ M ずは異なり12個の地球を呚回する衛星を䜿甚するネットワヌクであるため䞀番間近の衛星であっおもその方向を特

定するこずができないので端末のアンテナは無指向性でなくおはならなかったこのため衛星通信が最も嫌う雑音を拟っおしたい通信特性の実珟が難しいこうした倚くの困難があったが1999 幎の䞭頃には通垞は GSM の端末ずしお䜿甚でき衛星通信が必芁なずきにはICO の機胜を持った衛星通信郚分を装着しお衛星端末に倉身するピギヌバック方匏の端末を詊䜜し完成が近づいおいた

しかしながら1999 幎 7 月にこの ICO グロヌバル・コミュニケヌションズ瀟が突然米囜の連邊倒産法第 11 条いわゆる「チャプタヌ・むレブン」に基づく砎産手続きに入っおしたう正に寝耳に氎であった原因はこの数幎間に携垯電話のGSM システムがグロヌバルスタンダヌドずなり曎に各囜間の通信が光ファむバケヌブルで぀ながりそしお「囜際ロヌミング」の可胜性が急速に増しおきた結果近い将来衛星を介さずずも GSM端末での囜際通信が可胜ず予枬されたためである

各囜で䜿甚する呚波数垯域はITU で分けられた䞉぀の領域に個別に呚波数がアサむンされおいお各囜独自の裁量でその呚波数の䜿い方を決めるこずができる曎に圓時は電波を発する通信機噚の管理認蚌は党お各囜が個別に行うこずになっおいたため他囜で認蚌された携垯電話等の通信機噚を囜境をたたいで搬入しか぀これを囜内で䜿甚するこずは非垞に障壁が高い状態であった

ペヌロッパグルヌプ䞻導で創り䞊げた GSM の芏栌はその政治力によりアメリカや日本が提案・実甚化しおいた芏栌に勝っお䞖界暙準ずなったその結果GSM 端末の囜をたたいだ䜿甚が可胜な仕組みを築き䞊げた曎には 1999 幎初頭にはロヌミング技術が䞀般化されGSM ネットワヌクが構築されおいる囜であれば GSM 端末䞀぀で地䞊ネットワヌクを通じおグロヌバル通信ができる状況に近づいおきおいた結果圓初人工衛星による携垯電話システムに期埅されおいたグロヌバルに単䞀の機噚で通信が可胜であるずいう垂堎䟡倀は倧きく損なわれるこずになり投資された資金が急速に匕き揚げられICO 瀟はチャプタヌ・むレブンに入ったのである

筆者が倧孊時代に経隓した 51 mm 導波路ず光ファむバずの競争ず同様のこずを自ら実業の䞖界で味わうこずになったのである

筆者がこの経隓から匷く認識したこずは技術開発ずいうものは“人間瀟䌚のより本質的な欲求”

図 7 ᅵNTT ドコモN-STAR 向け電話端末䞊ず船舶甚アンテナ䞋

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私の技術者歎 My Frontier Journey 221

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を満たすための䟡倀創造に泚力されひずたびそれが動き始めるずものすごい勢いで実珟に向けお加速しおゆくずいうこずだった前述したように第 1 䞖代の携垯地球局むンマルサット Mミニ Mが成功しその延長䞊に想定される䟡倀の䞖界のみを芋぀め過ぎおいた筆者はこの“人間瀟䌚の本質的な欲求”ここでは「い぀でも」「どこでも」「誰ずでも」をより簡易にできるずいう芳点であくたでロヌカル゜リュヌションずしお理解しおいたGSM をグロヌバル通信の察象ずしお移動䜓衛星通信ず比范しお芋おいなかった

技術や資金政治力など含めた開発の゚ネルギヌが“人間瀟䌚の本質的欲求”を満足させる方向に向かうずそれに賛同する人々が雪だるた匏に参加し実珟するスピヌドは䞀気に加速されるこのスピヌド感を筆者は読み切るこずができなかったのである

筆者はむノベヌションずは“人間瀟䌚の本質的欲求”に今たで以䞊に近づく解を提䟛するこずであるず思っおいる意識すべきはむノベヌションによっお“新たな欲求”が生たれおいるわけではないずいうこずである技術の革新は継続的に進んでいおそのずきそのずきの技術を䜿い切っお“人間瀟䌚の本質的欲求”を満たす゜リュヌションを垂堎に提䟛しそれがマッチすればニヌズずなるだがその゜リュヌションより曎に“欲求”に近く満足床の高い゜リュヌションが提䟛されるず前のニヌズず呌ばれる゜リュヌションは垂堎から消え新たな゜リュヌションがむノベヌションずしお垂堎でニヌズずなる技術者は垞にこの“人間の本質的欲求”を芋極めお理解するずずもに技術の動向を泚芖しこれらどのように䜿い切っお“欲求”に近い゜リュヌションを提䟛できるかを考え続けるこずが必芁だず思う

2000 幎 6 月に筆者はペヌロッパでの党おの開発掻動を収束させ垰囜したICO が砎産手続きに入っおから玄 1 幎間その収束に掛かったこずになる倧きな開発契玄を幟぀もしおいたので倧倉な亀枉を日々こなしおいた始めるずきより終えるずきの倧倉さも孊んだ図 8

垰囜しおからは衛星通信の領域から携垯基地局の開発郚門に異動し3G 方匏の基地局開発を担圓曎に 2003 幎からは事業郚長ずしお「パ゜リンク」ずいう簡易察向の無線リンク装眮を担圓した入瀟しお以来四぀の領域の開発を担圓したこずになる

③ 3G開発協業プロゞェクトリヌダ3G の基地局開発では囜内甚ずドむツのシヌ

メンス瀟ずの協業によるグロヌバル甚ず 2 皮類の開発を同時に進めおいた途䞭からの参加であったがこの開発協業プロゞェクトのリヌダずなった協業を進めるために開発項目ず仕様決め開発スケゞュヌル電気機構装眮間むンタフェヌス品質補造プロセス等々党おのむンタフェヌスを2 瀟で敎合させながらのプロゞェクトを遂行するそのためプロゞェクトリヌダは瀟内怜蚎による亀枉ポむントの敎合ず明確化をしシヌメンスずの亀枉ずを次々ずこなし敎合点を芋いだしおゆかねばならなかった海倖向けの機噚開発は倚くの囜々の顧客を察象ずするので機胜リリヌスのスケゞュヌルが極めお重芁であるたずは期限を切っお必芁ず思われる機胜をお互いにプヌルする共通の箱に投げ蟌んで行くプヌルされた機胜を定期的に䞡者で怜蚎しお取り入れるべき機胜曎には実珟期日等の敎合を取っお行くお互いのお客様のサヌビス実珟のタむミングをむメヌゞしおリリヌス仕様の投げ蟌みをするためメニュの統䞀化リリヌス時期の敎合は䞀筋瞄ではいかないお互いの利点を捜しながらの䜜業は倜を培するこずもあったシヌメンス瀟はアフリカ等ペロッパ以倖の地域の顧客も倚くそれらの垂堎党䜓を芋おの最適を目指す䞀方でNEC は高床なサヌビス提䟛競争の䞭にいる重芁顧客に察する個別最適化を目指しおいたので個々の機胜の開発スピヌド品質の考え方などが倧

図 8 ᅵ日の目を芋るこずがなかった ICO向け衛星通信携垯端末の開発モックアップ手前がGSM端末埌方が衛星端末郚

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222 通信゜サむ゚ティマガゞン No.43  冬号 2017

きく異なっおいた欧米䌁業のマヌケティングぞの力の入れ方これを基にした補品ラむフサむクルのマネゞメント及びシステム仕様曞の䜜り方この郚分が補品䟡倀を巊右するのでこの担圓には垂堎ず技術を芋枡すこずができる高床な技術者がおり博士取埗者が倚かった蚘録文曞の圚り方及び亀枉の圚り方等々孊ぶものが倚いプロゞェクトであった

日本ず欧米の䌚瀟の開発協業は難しいのではずいうのが圓時ちたたの予想であったが3G 垂堎ではNEC – シヌメンス連合は䞡者による決定プロセスの確立で滑り出し良く競合の゚リク゜ンノキアず぀ばぜり合いをしおいた

ただ倧倉残念ながらこの順調に行っおいたプロゞェクトは2007 幎にシヌメンス瀟がその通信機噚郚門をノキア瀟ず統合する遞択肢を実行したこずによりある日突然にプロゞェクトの解消ずなったシヌメンス偎の圓事者たちも䞀様に「寝耳に氎」の状態で圌らも残念に思っおいたこの結果ドむツには通信を扱う䌚瀟がなくなりドむツ囜内垂堎は倧きく倉貌しおしたったこの埌の解散亀枉も困難が䌎い玄 1 幎間ミュンヘンヘルシンキを行き来した

④ パ゜リンク事業2003 幎に事業郚長になっおからパ゜リンクず

いう NEC の䌝統的な地䞊の無線装眮事業に携わるこずになったパ゜リンクは小圢のマむクロ波通信装眮で簡易に回線を蚭眮できるので光ファむバ等ず比范しお安䟡に玠早く回線蚭定できるメリットがある筆者が事業郚長になったずきちょうど囜内でのパ゜リンク導入が䞀段萜しおおりその埌の䞻な垂堎ずなる海倖での展開に苊しんでいた赀字事業を存続させるこずはできないが自分の事業郚長の任は 3 幎ず勝手に定めこの間に必死で黒字化を目指そうず決めた3 幎埌にただ赀字であれば蟞職しおも構わないず思ったこの事業に真摯に携わっおいる倚くの人たちの力を最倧限掻かさねばならないず思った

早々にNEC グルヌプの生産䌚瀟がある犏島に出掛け珟地の瀟長にたず出荷量を幟らにすれば黒字になるのかを尋ね圓時月産 4,000 台だった出荷を 1.5 倍の 6,000 台にすれば黒字にするず宣蚀しおもらった工堎は効率を䞊げる掻動を積極的に行っおおりその努力は NEC 党䜓の䞭でも

顕著であったのでその 6,000 台で黒字化するずいう蚀葉を信じた

たず垂堎の調査から始めた月に 4,000 台ずいうのは既存の顧客の情報から積み䞊げた数字で実珟性が高かったがこのたたでは赀字を匕きずる党おの関係者を集めお新芏の顧客回りをするこずずしたリストを䜜りそこに茉せた新芏の顧客を月に 2 回必ず蚪れお戻っおくるこずずした月に最䜎 2 回蚪れないず新芏の顧客は顔を芚えおくれずNEC を理解しおくれない䜕週間も掛かっお回っおくる人もいた数か月しお圓時モバむル垂堎が急速に拡倧しおいたむンドから倧型の匕き合いが来た䟡栌の厳しいむンドであったが開発郚門が倧幅な原䟡䜎枛提案を出しおくれおそれをベヌスにプロゞェクトを実行するこずにしたこれがパ゜リンク事業黒字化ぞの道の始たりだった量が増えおくるず4 か月掛かっおいた玍期が最短で 2 週間皋床にたで短くできるようになりそれが新たな顧客の信甚を埗るのに倧きなメリットずなっお結果的に NEC の顧客が増えるこずずなった筆者自身もむンドをはじめ東南アゞア䞭東東ペヌロッパロシアラテンアメリカ等䞇遍なく顧客回りをした事業郚長になった 4 幎埌の2007 幎には䞖界垂堎での NEC のシェアは 30を超え競合他瀟を抑えお 1 䜍ずなり幎間出荷量は 30 䞇台を超えた図 9事業郚長になった2003 幎圓時の 6 倍であるもちろん運もあったず思うが事業郚長の職を蟞さずに枈んだ

 4経営者ずしお2003 幎に事業郚長に就任しおからNEC の瀟長

を 6 幎務め終わるたでの 13 幎間筆者は䌚瀟の経営ずいうものに携わっおきたその間䌚瀟ずいう

図 9 ゚ゞプトに玍入したパ゜リンク

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私の技術者歎 My Frontier Journey 223

My Front ier Journey

ものは䜕か そしおどうあるべきかを考えおきた䌚瀟は倚くの人が集たり協力しお人間瀟䌚

に䟡倀を提䟛するこずで人間瀟䌚で“掻かしお頂き”“生きお”いるその芳点で䌚瀟経営にずっお最も重芁なのは継続である“䟡倀の継続的提䟛”ず“䟡倀を創る人々の堎䌚瀟の継続性”である

各䌚瀟ずもこれから 100 幎先も継続しお倧きな貢献を続けおほしいず願っおいるしかしながら100 幎先に残念ながら我々はいない残るこずができるのは䌚瀟にある「文化」だけである我々人間は残れないが今䌚瀟にある良い文化は新しく入っおきた瀟員に䌝承されるこずにより䟡倀ある文化ずしお 100 幎先も残り䌁業はこの文化をベヌスに人間瀟䌚に継続的な貢献をしおくれるはずである

では䌁業掻動の䞭でどのような文化が必芁だろうか 最埌に幟぀か䟋を挙げたい

筆者は運ずいうものは党おの人に平等に䞎えられおいるのだず思っおいるが埳川将軍家の剣術指南圹を代々務めた柳生家の家蚓に

小才は瞁に出䌚っお瞁に気付かず䞭才は瞁に出䌚っお瞁を掻かせず倧才は袖觊れ合う瞁をも掻かす

ずあるここにある「才」ずは䞀䜓䜕であろうか 䜕の

才胜のこずであろうか 垂堎の動きを感じる才胜は必芁だず思うがそうした感性は生たれたずきから備わっおいるものではない

筆者はむしろこの才ずは「意志の力」だず理解しおいる顧客に䜕ずしおも貢献したいずいう“匷い意志”があれば顧客垂堎に自ら接しおゆき緊密なコミュニケヌションを取り必芁な情報を取りに行くだろうそしお曎に埗られた情報を分析掚定するこずで“人間瀟䌚の真の欲求”の理解ずその欲求に合臎するように補品に必芁な特性を深める努力をするだろう

筆者は“意志”こそが才胜を創り䞊げるのであり人々に平等に降っおくる運オポチュニティを自分のものにするこずができるのだず信じおいる䌚瀟を通しお人間瀟䌚に貢献するずいう“匷い意志”こそが䌚瀟にずっお重芁な文化であるず

思っおいる技術者の芳点でも党く同じだず思っおいる

そしおもう䞀぀筆者は講挔などを頌たれた際にはい぀も最埌に“Strong Will & Flexible Mind”ずいう蚀葉で締めくくるこずにしおいるStrong Will匷い意志は今申し䞊げたこずであり意志こそが才胜の根源であり成功の根源であるずいうこずだ

もう䞀方の Flexible Mind柔らかな心は花を芋たずきのこずを䟋えおお話をしおいる

花を芋たずき人間には䞉぀のレベルの感じ方がある

①花が咲いおいるこずを理解する花に目が行く心の䜙裕がある②矎しい花だず思う

矎しいずいう圢容詞が付くほど花をよく芋る䜙裕があった

③䜕ず矎しい花だろうず「感動する」筆者はこの 3 番目の「感動する」心の䜙裕を

垞に持っおいおほしいず願うこれが「柔らかな心」の本質である

意志を実行する䞊では他人の意芋をよく聎き盞手に察しおも真摯に向き合う心の䜙裕が必須であるこの“Strong Will”ず“Flexible Mind”を持぀こずがその人の胜力を高め倢を実珟する力になるのだず信じおいる

最埌に筆者は人間の人生に぀いおこう思っおいる

人生は有限しかしながら 人生が有限であるこずが刹那刹那を倧切にし人間の力を最倧化させる 人生が有限であるこずが次の䞖代ぞの亀代で新たな進化を生むそしお 人生が有限であるこずを意識するこずこそ人生を豊かにする

倚くの機䌚に恵たれた若い方々が“Strong Will Flexible Mind”を持っお自らの力を最倧化し新たな道をひらき成功されるこずを願っおやたない