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This is a translation into Japanese (by Mr. Yoshi Miki) of my November 15, 2012 keynote address to the Japan Exhibition Society in Osaka.
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1. この度の展示学会の創立 30周年を、心からお祝い申し上げます。記念すべき年の総会にお招きにあずかり、この日を皆さまとご一緒できるのを光栄に存じます。先ずこの場をお借りし、基調講演にわたしを指名してくださった、京都国立博物館、副館長の栗原祐司さんと、講演原稿を翻訳してくださった国立歴史民俗博物館、客員教授の三木美裕さんにお礼を申し上げたいと存知ます。2. さて、以下の三つのミュージアムは、展示学会が設立されたと同じ 1982年に開館しました。神戸市立博物館、岐阜県美術館、そして熱海のMOA美術館です。博物館建設ラッシュが続いた 1980年代ではありますが、それは何も経済成長下でブームに便乗したからだけではないと思います。3. 博物館は市民の生活に深く関わり、展示や活動をこえて、人々の暮らしに欠かせない存在となっています。一昨年の地震と津波のあと、例えば大船渡の博物館のように、ミュージアムが被害にあった方々の心の拠り所となったのは、皆様もご記憶と思います。 4. 職業を同じくする同志が、一丸となって被害を受けた資料の救出にあたりました。国内外で募金活動が繰り広げられました。ここにある森美術館の活動もその一つです。日本でも海外でも、ミュージアムは時代の良いときも悪いときも市民と共にあり、信頼されるところと思われています。それが、皆様がここにお集まりになられている理由でもあると思います。 5. 今日は、わたしたちの将来を見据えて、これまで現場で検証してきた中から学んだことを、皆さんに話しようと思います。アメリカのミュージアムが題材となりますが、それが皆さまのお働きの、何かの参考となれば幸いです。といいますのも、歴史は何事も繰り返すもので、わたしたちはそこから学べるからです。 全米博物館協会、百周年記念事業の一環として、わたしは市民に開かれたミュージアムの歴史について書いたものを出版しました。2006年のことでした。『Riches, Rivals, and Radicals: 100Years of the Museums in America』という題です。百年の間、ミュージアムが発展していく中で、資金集めの苦労や、互いが競争する中で起こった問題、そこから学んだ教訓、またいくつかの興味深い、リスクを伴った大胆な変革が行われたこと、などを述べました。幸い初版は売り切れ、今年になって改訂第二版が出ました。6. 執筆にあたって、わたしがどのように調査したかお話します。先ず全米博物館協会の書庫で保存されている、資料の数々に目を通しました。百年分の広報誌、ミュージアム・マガジンなどの出版物、会議録、理事会の議事録、そのほか諸々の記録です。次にこれは、と考えたいくつかのミュージアムを回り、そ
こでも書庫を漁りました。二百人以上の、ご高齢の先輩方にもインタビューし、彼らの記憶と見識を仰ぎました。既に引退された方も多く、とっておきの秘密話も聞かせてもらえました。ゴシップも含め、実に様々な話を聞きましたが、ある種のパターンがあるのに気づき、おかげで調査が益々面白くなりました。7. そこで、もう少し大きな視点で考えようと思い、政治、経済、教育、産業技術からデザインの流行まで、当時の歴史に目を配るようにしました。経済の好不況、都市の発達、戦争、大統領を含むその時々の指導者、政治の問題、交通網の発達、学校教育、出生率、人気の職業、新しい技術、それに税制改革まで、その時々の事象が、ミュージアムの歩みに及ぼした影響を検証しました。 結果、その多くがミュージアムの歴史と関わっているのに気づきました。中には想像通りのものもありましたが、思っていた以上につながりがありました。それは、ミュージアムは時代と社会の事象を映す鏡であり、また様々な出来事に対応できるに十分な、複層した組織であるという、証明でもありました。8. 例えばごく初期の段階で、テクノロジーの発達がミュージアムに影響した例があります。1900年代初頭、科学館の数が急増しますが、これには自動車が発明が影響しています。誰もが遠出できるようになり、珍しい標本の採集が容易になったからです。ところが増え続ける動物標本、岩石、鳥の巣、鉱石などを、自宅に全て置ける人はそうはいません。アマチュアの科学者たちが、各地で博物館を始めたのです。ここに隠れた教訓があります。テクノロジーの発展は、私たちの職場に何らかの影響を及ぼす、というものです。9. 展示の解説板が現れたのは 1920年代でした。それはなぜか、というのに興味が湧きました。答えを見つけるのはそれほど難しくありませんでした。識字率が高まったからです。義務教育が始まり、読み書き能力が飛躍的に高まり、そこで展示の解説を表示するようになったのです。学校教育の発展・改革も、我われの仕事に影響します。10. 経済問題と戦争も忘れてはなりません。アメリカを大不況が襲った 1930年代、失業率は 25%に達しました。政府の助成により、ミュージアムは、印刷の植字術から剥製技術まで、軍人に職業訓練を施す場となりました。第二次世界大戦中、これも想像がつくと思いますが、政府がスポンサーとなって、戦意高揚のための展示が増えます。またスタッフの専門性を、戦争に役立てることも考えられました。例えば展示デザイナーは、戦車の偽装工作のデザインを考案し、ミュージアム・エデュケーターは、兵士に展示資料を使って民主主義思想を教えたのです。11. 戦後 50年代には、ベイビーブームが到来します。ここでは、家電製品の発達が、ミュージアムに意外な影響を及ぼしました。暮らしが豊かになり、例えば
家事を補う洗濯機の登場で、主婦の生活に時間の余裕が生まれました。この時代、ミュージアムではミドルクラスの女性ボランティアが急増します。おかげで、館内のギャラリーツアーの回数が増えましたし、資金集めのイベントも盛んに打てるようになりました。参加する機会が増えて、人はミュージアムを身近かに感じるようになりました。それが 1960年代から 70年代にかけて起こった「ミュージアム・ブーム」を引寄せました。12. この時代に、ミュージアムが次第にその活動の間口を広げていけた背景には、出生率の増加もあります。第二次世界大戦後のベイビーブームにより、60年代にはチルドレンズ・ミュージアムが、次々とオープンしました。この人口統計を参考にする考え方に従えば、この世代の高齢化が進む現在、我われが何をすべきかを考えるのは、時の流れといえます。13. 実はわたしもその一人ですが、このベイビーブーマーが就職に突入した時代、ミュージアムでも特筆すべき変革がありました。お聞き及びと思いますが、館内力学でこれまで強かった研究職学芸員の影響力が低下し、マーケティングやビジネスを担当する者が台頭しました。経済学を学んだわたしも、その流れの中にいました。1980年代、そのころ最盛期にあったボストンのチルドレンズミュージアムに勤めました。 たった一人の学芸員が企画を仕切る形から、チームで展示開発にあたるようになった転換期が、1980年代であったのが、今回の調査ではっきりしました。それは、まさに私たちベイビーブーマーが受けた教育を反映しています。 同じくこの時代、日本製品があふれ、日米の交流も様々なレベルで盛んになりました。展示学会が創設された時期でもあります。世界の流れとビジネスの興隆に注目することで我われの仕事を顧みる、それは、次世代のミュージアムスタッフを育成する際にも役立つと分かります。これについては後でも触れます。14. ミュージアムはその国の文化遺産や、記念すべき物を保存し、それぞれの展示や活動は時代を反映しているのを、皆様はご存知のはずです。それなのに、なぜわたしは、またわざわざ世界規模の社会や経済事象、テクノロジーの発達など、いくつも例をあげ、それらがミュージアムの歴史に影響したと強調しようとしたのでしょうか。 一国のミュージアムを俯瞰して見渡せば、それは国民やその社会を映す鏡に見立てられると思います。市民に開かれた組織としてその歴史を見、それが国民の価値観、特質、性格や流行をいかに映し出してきたかを検証するのは、僭越ですが、日本の研究者の方々にも興味深い研究対象となるはずです。その意味で、今日のお話しすることが、皆様の参考になればよいのですが。 15.
これから、アメリカのミュージアムの歴史を紐解くのに欠かせない、三つのことをお話してみます。 (1)1900年代初頭、富裕層の指導者たちにより形成された倫理観と、ミュージアムプロフェッショナルとしての価値観。 (2)1930年代、政府の働きかけで始まった、教育普及と来館者サービスの流れ。 (3)80年ごろから政府や富裕層からの助成金が激減し、ミュージアム間での厳しい生存競争を勝ち抜く必要から生まれた、興行主義的な考え方。この三点です。16. ご存知と思いますが、ミュージアムの源流は中世ヨーロッパにあり、王侯貴族が創り出した「不思議の部屋」(Cabinet of Curiosity)-様々な珍品を集めた博物陳列室に始まったとされます。最初の二つの公立ミュージアムは、イギリスとフランスの民主主義の台頭から生まれました。ロンドンの大英博物館と、パリのルーブル美術館です。 17. アメリカ社会はヨーロッパを模しましたから、初期アメリカのミュージアムがこのヨーロッパのものを模したのも当然と言えます。建物はヨーロッパ風のお城をまねています。この写真、1850年代首都ワシントンにつくられたスミソニアンにある、乱雑に詰め込んだ展示は「不思議の部屋」を模したと言えます。 18. ただしヨーロッパとは一つ大きな違いがありました。アメリカで最も力を誇ったコレクターたちは王侯貴族でなく、ビジネスマンだったという点です。産業王と呼ばれた彼らは、ビジネスの分野で競うだけでなく、収集でも競い合いました。オークションの場で相手を出し抜き、値段を釣り上げ、時にはだましたり、という馬鹿げた逸話がたくさん残っています。彼らは儲かるほどに、美術品や骨董に惜しみなくお金をつぎ込みました。 19. 彼らはまた、アジア、特に中国で地下に眠る恐竜の卵や陶器の発掘競争のスポンサーとなりました。アメリカ西部やアフリカで行われた、動物標本の採集もそうです。銀行王の JP モーガン、鉄鋼王と呼ばれたアンドリュー・カーネギーは、時に手を取り合って政府に働きかけ、発掘品を輸送する際の輸入税法を、自分たちの都合よいように変えました。 20. 一般大衆はこのようなことを快く思いませんでした。お金の無駄遣いと思ったのです。金持ちが支配するエリート主義のミュージアムに向い、新聞や雑誌はこぞって、「こんなことはやめるべきだ」と書きたてました。収集に血道をあける前に、きちんとした管理運営ができるようになるまで、新しいミュージアムを建てる資金集めはやめるべきだと。20世紀前半、コレクションやミュージアムの数が急増する反面、鑑識眼を持った人、カタログ化や保存、展示をす
る人まで、多くの分野で人材不足が発生していました。誰もどのように運営してよいか、わからなかったのです。21. これがミュージアムの歴史の第一幕です。ヨーロッパの模倣から脱却し、独自性を打ち出し始めました。1906年には、全米博物館協会(American Association of Museums)を創設しています。大学教育が急速に発展した時期でもあり、1907年には、アイオワ大学に初めてのミュージアムスタッフを養成するコースが生まれました。 収集に巨額のお金が動いたため、贈収賄も起こりました。無節操な収集家やディーラーが、ミュージアムとのコネを利用して価格を操作したり、スタッフを買収して偽物を買わせたりしました。1925年、全米博物館協会ではこの分野で最初の職業倫理規則を採択しました。スタッフは富裕なコレクターや影響力ある理事に迎合せず、一般の来館者を第一義にすると謳っています。22. 全米博物館協会、第一回会議の内容は教訓に富んでいます。美術館、自然史博物館、科学館、歴史博物館で働く 71人の専門家が、ニューヨークのアメリカ自然史博物館に集まりました。当時としては、かなり大胆な内容になっています。我われは互いに競い合うのでなく、助け合い協働していくべきだというものです。今日でも共感できます。なかでも、このとき話し合われた大事な議題の二つは、今に通じるところがあります。23. この 1906年に議論されたのは、「いかに展示と教育プログラムを連動させ、展示体験を楽しいものにできるか」、というものでした。興味があったので展示学会のホームページを見てみましたが、1980年代最初の会議の内容も似ています。「よい科学展示をつくるには」でした。24. 1906年の協会での次の議題は、運営を司る館長に求められる大切な資質とは、でした。全出席者に質問票が配られ、回答から理想的な館長が持つべき、四つの条件が導き出されました。(1)ミュージアムの歴史と、そのあるべき姿を理解している。(2)無償でものを手に入れたり、資金集めに長けている。(3)展示づくりの過程と、その仕上がり具合の勘所を掴んでいる。(4)健康である。いかがでしょうか。今とあまり変わっていないように思えます。しかし、変化したところもあるかも知れません。それは次にお話しします。25. 先ほどふれた大学のことですが、アイオワ大学は、1907年に展示や剥製技術を学ぶ、初の博物館学コースを始めました。他の大学もそれに続きます。ミュージアム・エデュケーションや運営について、偽物作品を見分ける術を学ぶコースまで現れました。26.
今日の話題の沿って、特に大学教育がミュージアムの発展に貢献した分野として、「来館者研究」があげられます。1926年、エール大学で心理学を専攻する学生が、三つの町の三つのミュージアムで、千人の利用者を観察しました。ストップウォッチを手に、来館者が作品の前で立ち止まって鑑賞する、その平均時間を測りました。 さて、今日ここにお集まりの皆様にお尋ねします。どなたか、この 1926年の、来館者が展示の前で立ち止まった時間の平均を当ててみて下さいませんか。最初に正解された方には賞品を用意しました。(答えは、4秒)27. 1906年、全米博物館協会の設立以来、会員は展示開発について討議を重ねました。しかしながら、変革はなかなか進まず、20年過ぎた 1926年の時点でも、大きな変化はありませんでした。来館者は相変わらず、幾重にも連なる展示ケースの列を、次から次へとひたすら歩きました。それを、エール大学のエドワード・ロビンソン教授は、お客さんは知らぬ間に「歩き疲れ」してしまう、と表現しています。28. 「見学疲れ」とでも呼びましょうか。日本語にはそれに符合する表現があるかもしれません。29. 協会が専門家たちを支援する体制が整いはじめ、来館者を第一義に考える職業倫理観も浸透し、大学の博物館学コースの発展などの要素も加わって、ようやく第二の変革の波が押し寄せました。それが教育普及事業と来館者サービス分野での発達につながります。これには政府が支援の手を差し伸べてくれました。30. 1930年代になると、ミュージアムは政府系の大型の助成金が流れ込んできます。お陰で、それまでの資料で混み合っていた展示ケースが、物語や写実性を取り込んだ、わかりやすい展示に変わっていきました。それまでは、アフリカ・ライオンもアラスカのへら鹿も一緒くたに押し込んでいたのを、剥製技術の発達により、標本は設定した物語とその舞台の中で劇的に蘇りました。 有名な例は、最古のジオラマと言われるピッツバーグ、カーネギーミュージアムの(向かって右側のスライドです)、ライオンがラクダの上のガイドに襲いかかる、恐ろしい情景のものです。もし展示デザイナーが、収蔵品をその展示のストーリーに落とし込めなければ、無理して展示ケースに押し込まず、当時発明されたばかりの収蔵庫の整理棚に戻されました。31. ジオラマは、1930年代までにはこのニューヨーク・アメリカ自然史博物館の写真にあるような、草原や岩を再現した、リアルな背景を持つ舞台設定型に変わっていきます。まだYouTubeや、テレビの野性ドキュメンタリー番組もない時代です。これらの展示は、当時都市部に住む人たちに大きなインパクトがあ
りました。32. 専門家は、新しいタイプの展示の前で、来館者の滞空時間が伸びたのを確認しています。1920年代は 4秒だったとお話ししました。それでは、この物語展示の前では、それがどれほど伸びたか、平均時間をお答え下さいませんか。こんども正解者には賞品を差し上げます。(答えは、4分)33. 60年代になると、ジオラマの成功だけでなく、ボランティアのフロアスタッフによる、ギャラリーツアーが行われるようになったこともあり、来館者の滞空時間はまた伸びています。他にも、展示室に入る前に荷物を預かれるようにしたり、教育遊具や展示カタログなども売るミュージアムショップ、簡単な軽食で空腹を満たせるカフェテリアなど、多彩な来館者サービスが提供されるようになります。当時は、このレストラン、ショップなどは、あくまでも来館者サービスの一環と考えていました。34. ご存知のように科学技術の発達は日進月歩で、目新しかったジオラマや舞台仕立ての展示も、60年から 70年代には新鮮ではなくなってしまいます。科学的に正確でないとか、なかには不気味だと感じる人もでてきました。義務教育の普及により就学児童の数も増えました。教育心理学者は、「こどもの学び」について研究を始めます。そこから、来館者は見るだけより、触れたり自分の手で操ったことはもっと記憶に残りやすい、という結論を得ました。この教育原理は、「インタラクティブ」とよばれる「参加体験型の展示」手法となり、チルドレンズミュージアムや科学館のみならず、美術館の展示にも波及ました。35. いまでは参加体験型はすっかり普及しましたが、当時はとても大胆な試みと捉えられ、旧来の研究職の学芸員や、保守的な保存修復の専門家から強い抵抗を受けました。一方で大賛成するところもありました。それは連邦政府でした。36. ここで、参加体験型の展示で皆さんもよくご存知の、フランク・オッペンハイマーさんが創設した、サンフランシスコの「エクスプロラトリウム」(Exploratorium)についてお話します。1969年に、連邦政府の援助により始められました。第二次対戦中は原子爆弾を研究し、その後平和主義者に転じた人で、彼は、アメリカ人はこれから科学的知識を、賢明に使いこなさないといけないと考え、エキスプロラトリウムを創設しました。 場所はゴールデンゲイト・ブリッジ近くの、大きな飛行機の格納庫で、家賃は連邦政府が持ちました。誤解のないようにしたいのですが、連邦政府がこのプロジェクトを支援したのは、彼が平和主義者だからではなく、アメリカは他国に比べ、十分に科学者を育成していないと考えたからでした。 エキスプロラトリウムの科学の体験型展示とその開発手法は、世界中に影響を与えました。この中で、エキスプロラトリウムに行った方は、何人いらっし
ゃいますか?37. エキスプロラトリウムの体験型展示は、例えば、光や波、振動など、自然現象を、利用者にわかりやすく伝える工夫がなされています。展示を見ると、先ず利用者が自分で操るように仕向けられ、そのうえで解説が仕組みを理解するのを助けます。ここにいると、展示を見るより、それに挑戦しているお客さんを見ている方が面白いです。展示デザイナーは、展示の見た目より、開発のプロセスそのものを見せるのが大事と考えていました。38. ここは騒がしくて、展示は方々に散らばり、展示動線もないのに、楽しさに溢れています。お客さんものびのびとしています。さて、ここで皆さんに質問です。体験型展示の前で、利用者は平均で、どれだけの時間を過ごしていると思われますか。45分です。 世界中のミュージアムが、競ってこの仕組みを取り入れました。展示の仕方よりも、その開発過程を重視して見せる試みは、そこで働く人にも大きな変革となり、展示室だけでなく、館の運営自体にも変化の兆しが出ました。39. 日本では展示学会が生まれ、博物館建設ブームが続いた 80年代初頭、アメリカでは、運営のヒントをビジネスの世界に求め始めました。80年に就任したロナルド・レーガン大統領は、小さな政府を提唱し、大胆に国家支出を削り、企業の進出を促しました。自動車産業からミュージアムに至るまで、経済効率を追求するようになりました。ビジネスの研究をする人たちは、日本の自動車産業の成功ぶりに注目しました。日本に出かけ、優れたチームワークによる製造過程が、高い顧客の満足度を引き出す過程を学ぼうとしました。その研究は展示開発に取り入れられたのです。40. これまでのように、研究者や学芸員が独断で展示内容を決めていた時代から、今日では、学芸員のみならず、ミュージアム・エデュケーター、展示デザイナー、地域住民の代表、マーケッティング担当者などから成るチームが、展示開発過程で決断を担うようになりました。いまでは展示の 90%以上が、この「チーム」によって制作されています。41. 同じころ、新しいビジネスの試みも始まりました。70年代には、Tシャツやポスターなどに、ミュージアムのロゴをあしらった商品群が現れました。ギャラリーや館内のスペースを、様々なイベント、結婚式などに貸出して収入を得るようになりました。42. 純粋な教育施設から、消費者志向で商品売買まで含む商業的な姿に移りゆくなかで、現場サイドが求める理想的な館長像は、もはや施設運営の能力だけでなく、スーパーヒーロー的な姿に変貌しました。いま現場の人たちが考える館
長に欠かせない「五つの資質」をあげると、(1)最大限に利益を上げる方法を知っていて、(2)スタッフだけでなく、誰とでも上手く話ができ、(3)資金調達に長けていて、(4)それも、我われの期待以上に資金集めができて、(5)起業家精神に富んでいる、ということになります。 この起業家的な発想を導入して、厳しい競争社会でうまく組織を導き話題となった例をご紹介しましょう。43. 90年代になると、今まで以上に外食がはやります。自宅で料理する機会が減りました。人々は、以前に増してユニークな商品を掘り出して、自宅を飾りたいと思うようになりました。同じようなものを売るチェーンストアや、ショッピングモールで買物する人が減りました。ミュージアムでは、レストランの料理やミュージアム・ショップの商品の質を上げ、より収益を上げる方向へ舵を切りました。いまや都市部のミュージアム・ショップやレストランは、単なる来館者サービスの一環と見做されていません。閉館時間をこえて営業を続け、来館者のみならず、それだけを目ざして来る本物の顧客を追うようになりました。 90年代になると、サンフランシスコ近代美術館のミュージアム・ショップの一坪当たり売上げは、市内のどの商店よりも高くなりました。2000年代には、ミュージアム・レストランはもはや来館者の小腹を満たすだけではありません。展示作品をテーマにしたメニューまで用意しています。この写真は、ミュージアム・キャフェの、美術作品に似せたデザートです。幸い、お味も悪くありません。44. ミュージアムショップでも、Tシャツや小物だけ売る時代ではなくなりました。ここにしか売っていない多種多様な「ミュージアムブランド」を用意し、店頭販売だけはなく、クリスマスシーズンには、メイルオーダー・カタログを配り、アマゾン・ドットコムで注文もできます。45. 先ほどスライドで、カーネギーミュージアムのライオンが襲いかかるジオラマをお見せしました。2011年から、これもメイルオーダーで、スノードームに入ったジオラマが 50ドルで買えます。ほかの有名なジオラマも、シリーズ化して販売するそうです。ミュージアムの名前をブランド化し、ユニークなオリジナル商品が注目されれば、カーネギーミュージアムの名前も売れて、宣伝になると考えています。46. ブランド化では、もう一つの例をお話します。これは、努力したのはわかるけれど、少しやりすぎでは、という例です。ニューヨークのグッゲンハイムミュージアムでは、とても高価な、有名なあのフランク・ロイド・ライト設計の建物に模したティーポットを売っています。「グッゲンハイムの白」という、白色のペンキの缶まで売っています。自宅の改装をするときに、これで自分の
部屋の壁を、グッゲンハイムのギャラリー独特の白色に塗れますよ、というのです。グッゲンハイムのトーマス・クレンス館長は、この起業家的な思考と、名前のブランド化について説明しています。成功するには、誰の目にもとまる優れた建物と、年に大入りの展覧会を二本、そして評判のよいレストラン、広々としたショップを用意することだ、と。 ただ、彼に欠けていたのは、本来の展覧会の質を守り、教育普及事業と来館者サービスにも力を入れることでした。これら長年かけて培っていくべきものを置き去りにして、目先の利益に囚われてしまうと、そこには落とし穴があります。それを説明しましょう。47. 90年代から 2000年代初頭、この起業家的精神の最たるものは、新館の建築事業でした。なかでも特に大胆で象徴的とだったのが、グッゲンハイムミュージアムが、スペインのビルバオに建てた分館、「グッゲンハイムミュージアム・ビルバオ」です。この時期多くのミュージアムが新館や分館を建設しました。グッゲンハイムのように、ほかにも海外に分館をオープンさせた館があります。 新館や分館が急増したのは、文化施設は観光資源にもなると考えられるようになったからです。その陰には国内の航空運賃が急落し、旅行が盛んになっていた背景があります。ミュージアムの新しい建物はその町の顔になり、ブランド力も高められる、という読みです。90年代から 2000年初頭までのおよそ十年間、なんと毎週のように、複数の新館工事が着工される状況が続きました。もう一度繰り返しますが、毎週、二つか三つの町のミュージアムが、新館工事に着手する事態が十年近くも続いたのです。それぞれの館は、起債したり、銀行から融資を受けて資金を調達し、よりユニークで注目される外観の建物の建設を目ざしました。その結果、我われは昔ながらの、ミュージアムが互いに競い合う姿に戻ってしまいました。資金調達に血道を開け、奇抜な外観で人を呼び込むのに夢中になりました。その影で地元民を大切にし、手を携えて文化の振興に歩むという、本来あるべき姿を忘れてしまいました。48. 最も残念なのは、このとき資金力にあかせて、歴史的価値のある建物や展示室を壊してしまったことです。何よりも問題なのは、経済のパターンを知っていれば、バブル経済はいつか弾けるということ、そして地元市民や利用者のニーズに応える地道な事業を継続するのがミュージアム本来の姿、というのを忘れてしまったことです。わたしが何を言おうとしているか、皆さんはもうご存知と思います。この時代、建物は増えましたが、増えたのは建築家のエゴによる奇抜なデザインであって、利用者のこれが見たいという展示や活動のニーズは置き去られてしまいました。 例えば、デンバー美術館の巨大な新館を覆う奇抜な大屋根は、開館三週間後に雪と雨で雨漏りをはじめ、修復に三年を要しました。ラスベガスのリブレイスミュージアムは、建物のデザインで人を呼び込もうとしましたが、その建築費用が高騰して支払いきれず、閉館に追い込まれました。新館建設ブームは、
2008年には事実上破綻し、大多数のミュージアムで、予算が 5%~25%%近く削減されました。拡張工事のための資金集めは停止され、展示や教育プログラムの予算も縮小を余儀なくされました。悪いニュースが続く中、希望を感じるものもあります。この長びく経済不況下でも、この国全体を見渡すと、来館者数は依然として増加を続けていました。なぜでしょうか。49. 特に成功を収めていたのは、身近かな利用者である地元市民に的を絞ったプログラムでした。観光客や大型展覧会企画での観客動員にも努めますが、いま利用者から期待されているのは、新しい技術を使ったもの、余計なものに無駄遣いせず、みんなが一緒になって、やってみたいことに挑戦できるような企画だと思われます。 ここで、ニューオーリンズのルイジアナ州立博物館の例をお話しします。2005年、カトリーナと名づけられた超大型のハリケーンが襲い、町は壊滅的な被害を被りました。その後地元のルイジアナ州立博物館では、そのハリケーン・カトリーナをテーマに自主的な企画展を開きました。そこには、ハリケーンを科学し、自然災害への備えや、わたしたちが直面する地球温暖化現象、巨大災害時の社会心理とその対応などが語られました。日本でも、2011年の地震災害をテーマにした展示があると知りました。 これは例えば、世界中にエキスプロラトリウムの展示をコピーした科学館が生まれた事態と比べればよくわかります。ルイジアナの例は、自己を見直すことで、ミュージアム自身が自ら生まれ変わる、新しいブランド化として捉えられます。地元市民が抱える問題やニーズ、その思いを汲んで市民と一緒に歩むという姿勢が見えます。では、「ミュージアムの持つブランド力を見直す」というのは、いったいどういうことなのでしょうか。 それは、その館ならではのテーマを見極め、それを堅実にかつクリエイティブな方法で、地元民に向かって伝えていく工夫です。そうすれば人々は、自分たちの生活に欠かせない、大切な存在として認知してくれるようになるのではないでしょうか。50. エキスプロラトリウムでさえ、そのブランド力の見直しにかかっています。創設から 43年がたちました。今でも世界のどこかで展示をコピーされるような存在ですが、いま展示も、その場所自体さえ新しく生まれ変わろうとしています。そのために利用者に直接問いかける手法で、人々がここで何を体験してみたいかを、探る試みを続けています。これまでサンフランシスコの市街地の端にあったのが、街の中心に極く近い、港の埠頭に移転して、2013年にオープン予定です。51. 時にはブランド力を見直そうとして、誤った方向へ向かう組織もあります。つい最近、全米博物館協会は、その団体名称そのものとロゴを変更しました。新しい名前は、全米博物館同盟です。「協会」という意味のアソシエーション
を、「同盟」という意味のアライアンスに変更しました。一言の違いで、辞書を引いても意味は同じでした。仕事内容もなんら変わっていません。これでは、何もブランド力を見直したとはいえません。ルイジアナ州立博物館やエキスプロラトリウムのように、自己を見直して生まれ変わろうとしているようには思えません。52. 次に、これは現在進行形で、サンフランシスコのジューイッシュ現代博物館(Contemporary Jewish Museum)で始まっているプログラムを紹介します。著名な写真家が集めた、ニューヨークのユダヤ人の歴史にまつわる、美しい歴史写真の展覧会です。それがオープンする前に、スタッフは博物館友の会の会員に一斉にメイルを送りました。サンフランシスコ市内や展示室内で、この展示に触発された写真を自分で撮って、博物館に送ってください、というものです。 この企画は、SFフォトハント(SF photo hunt)と題されました。SFは、 サン・フランシスコの頭文字です。アイフォーンを使い、展示テーマに沿ったスナップを撮って送ってください、というものです。これが話題になり、一週間もしないうちに、アマチュア写真家による写真が 1200枚届きました。それをスタッフは片っ端から保存していきました。選ばれたものは展示室のデジタルスクリーンで公開し、それを撮った人全てに通知しました。今では毎週 5000枚の写真が送られてくるそうです。それを一つ一つチェックしている、わたしの知り合いのスタッフは、整理に追われ疲れ切っていました。その数は増加の一途を辿っているそうです。ということは、博物館はメイリングリストに載せられるお客さんの数を、毎週ずごい勢いで増やしていることになります。さて、ここで皆さんにお尋ねします。この展覧会に来たお客さんが、展示室で一番長く時間をかけて見る作品はどれだと思われますか。もちろん、自分で撮った写真の前です。53. 話題を変えます。わたしは最近、20人の館長さんを一堂に集め、インタビューを試みました。わたしはサンフランシスコ大学で、将来ミュージアムスタッフを目ざす学生を教えているので、現場の館長から、いまの館長職に必要とされる、その資質を聞き出したいと考えました。戻ってきた答えは、(1)ビジネスに対する洞察力、(2)優れた会話力、(3)来館者をよく理解し、その変化に敏感であること、(4)変化に即応でき、情熱があり、創造性がある、というものでした。なかでも私は、2008年の不況下で我われが学んだ、目の前にいる利用者を大切にして行動する、という教訓が生かされているのを知って、安堵しました。54. そろそろ、話のまとめに入ります。今日は、歴史を顧みて、大切と思われる三つのことを考えてきました。(1) 職業倫理と、ミュージアムの専門家として行動すること、(2) 教育普及と来館者サービス、(3) 起業家的な精神を持つことの大切さです。そのうえで、社会や経済、教育事情、技術の変化などに、これま
で、どのように対応してきたかもお話しました。55. 私たちの目の前には、いまどんな問題が広がっているでしょう。六つのことを提議しておきたいと思います。仕事上、金銭感覚を鋭くしておく、というのはその一つです。予算の使いすぎや、好景気や不況のサイクルを見極めて、支出を考えることです。世界的に値段が高止まりしている現代美術の市場は、そのよい例です。むしろ、その代わりに地元の才能ある作家に注目すべきです。第二次大戦中のナチス・ドイツによる美術品略奪後、美術館に流れた作品を所有者に返還する問題は、これからも長引くと思います。美術館は、人々の信頼を失うかもしれません。56. さて、教育普及と来館者サービスについてですが、これは、我われが次々と現れる新しい技術を使いこなせたら、その未来は明るいと思います。この「使いこなす」というのが肝心で、利用者はそれをよく知っています。むやみにブランド力を押しつけるグッゲンハイムの白のペンキや、名前だけを変え何も変化のない博物館協会のようなものには惑わされませんが、逆に「利用者のために」という理念で、新しい技術を使った、例えばジューイッシュ現代博物館の教育プログラムには鋭く反応しました。私たちは、お客さんがその体験を楽しいと思っていただくためには何事も厭いはずです。そこには、来るべき高齢化社会の利用者に、居心地よく過ごしてもらう準備も含まれています。57. これで最後にします。誰でもちょっとした新しいアイディアで、お金儲けをしたい誘惑に駆られるものです。建物を大きくして観光客を呼び込もうとした、90年代から 2000年にかけての失敗は、目先の華やかな事業に気を取られて、歴史の教訓を読み取らないとどうなるのか、を示しています。 新しいチャレンジは、資金集めにまい進するのではなく、創造力と柔軟性、情熱を持って、仕事に打ち込む中から生れます。これは、次世代のミュージアムスタッフの育成を担う、私たちが忘れてならないことでもあると思うのですが、いかがでしょうか。58. 我われが地域に欠かせない存在である限り、お客さんはミュージアムに期待し、信頼していてくださると思います。ありがとうございました。