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Title リグ・ヴェーダ「一切神讃歌」の神観念 Author(s) 藤井, 正人 Citation 待兼山論叢. 哲学篇. 15 P.49-P.64 Issue Date 1982-01 Text Version publisher URL http://hdl.handle.net/11094/4109 DOI rights Note Osaka University Knowledge Archive : OUKA Osaka University Knowledge Archive : OUKA https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/ Osaka University

Osaka University Knowledge Archive : OUKA · ただ、インドラ讃歌がインドラを歌ったものである 一切神讃歌がぐ応 42 ロ2ur(以下〈ロと略す)を歌ったものであるとは必ずしも言えない。〈ロの言及が

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Title リグ・ヴェーダ「一切神讃歌」の神観念

Author(s) 藤井, 正人

Citation 待兼山論叢. 哲学篇. 15 P.49-P.64

Issue Date 1982-01

Text Version publisher

URL http://hdl.handle.net/11094/4109

DOI

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Note

Osaka University Knowledge Archive : OUKAOsaka University Knowledge Archive : OUKA

https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/

Osaka University

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リグ・、ヴェーダ

「一切神讃歌」

の神観念

分けられている。その一つとして、

リグ・ヴェーダの讃歌は、後のアヌクラマニ|(「目録」)によって、対象となった神格に応じて種々の讃歌群に

(1)

「〈

-U202与に捧げられたもの

(〈伊

-ugpg)」という名称のもとに分類さ

れた一連の讃歌が、ここで取り上げる「一切神讃歌」である。ただ、インドラ讃歌がインドラを歌ったものである

ように、

一切神讃歌がぐ応

42ロ2ur(以下〈ロと略す)を歌ったものであるとは必ずしも言えない。〈ロの言及が

一切神讃歌に特に多いわけではなく、またそれの言及が全くない一切神讃歌が少なくないからである。ヤ

lスカは

ニルクタの中で、

(2)

と述べている。またブリハッド・デ|ヴァタ

lの作者は、

「多神格に捧げられたものは何であれ、それは

『〈ロに捧げられたもの』の代わりに用いられる」

「その中に多くの神格の結合が見られるマントラ(祭文)

を、ャ

lスカとシャ

iンディリアの両学匠は、『〈ロに捧げられたもの』と言う。行であれ、半詩節であれ、詩節で(

3)

あれ、讃歌であれ、多神格に捧げられたものはすべて、『〈ロに捧げられたもの』と言うことができる」と述べる。

アヌクラマニ

lの分類がこうした解釈を踏まえてなされたことを考えれば、「一切神讃歌」として分類された諸讃歌が、

何よりも「多神格に捧げられたもの」として理解されていたことがわかる。

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一切神讃歌は、多くの神々に対する呼びかけや祈願の集まりによって構成された讃歌である。

一詩節に一神格ず

つを配する規則的なもの、

一詩節の中に多数の神名をはめ込んだもの、

さらには讃歌全体がほとんど神名の羅列か

らなっているものまで様々な形があるが、この多くの神名を列挙する傾向は、

一切神讃歌の主要な特徴となってい

る。

L・ルヌ

lは、この神名列挙の特徴から一切神讃歌の成立について、

「一切神文学のこうした面はすべて、短い

連」晴、列挙のリスト||祭儀書中のそこここに保存されているニヴィッド(連梼句)に比べられるーーから生じた

ものであり、それらの要素が時がたつにつれて、完全な讃歌を形成するように増幅され、連接されたであろうと考

(4)

えられる」と推測している。一切神讃歌が有名祭官族の家集に集中している事実も、その成立の基礎に連鵡句の蓄

積を考えるこの説によって説明される。

それでは、讃歌の材料として連樽句はどのように用いられたのか。次にあげる二つの例は、それについて一つの

示唆を与える。

神々の幸多き好意は、行い正しき者たちに属する。神々の賜物は我らの方へ回り来たれ。我らは神々の友情

を求め得た。神々は我らの寿命を延ばせ、

〔我らがより長く〕生きるために。

我らは古来のニヴィッド(連樟句)によって彼らを呼ぶ、パガ、ミトラ、

アディティ、過つことなきゃタクシ

ャ、アリアマン、ヴァルナ、

lマ、両アシユヴィンを。幸運をもたらすサラスヴァティーが我らに安楽を授

けんことを。

(同〈

]「∞。

N1ω)

この讃歌が歌い出される以前に、「パガ」に始まる神名の列挙が連樽句として存在していたことは、「古来の(百円〈世)L

という語によって示されている。この連樟句が、前半の

「神々

(

2E)」への祈願をうけて、各神格への呼びかけ

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として用いられている。

両アシユヴィンを〔讃辞の〕先頭に置け、因富山〔を得んが〕ために。プ

lシャンを先頭に〔置け〕。彼らは本

来強力だから。敵意なきヴィシュヌ、ヴァ

l夕、

リブクシャンが||、願わくは、われが神々をわが方へ向け

んことを、好意〔を得んが〕ために。

(

同-一戸∞⑦唱]戸

C)

リグ・ヴェーダ戸一切神讃歌」の神観念

この詩節は、ルヌーによって一切神讃歌の成立に関する彼の説の証拠として、あげられたものの一つである。第

lダ

三行の短い列挙が主格になっているのに対して、それをうける最後の行の「神々」は目的格(門

H23)になってい

(5)

る。ルヌーによれば、こうした破格の列挙は、文脈に合わしきれずに残った古い連鵡句の断片であるという。ここ

においても、先の例と同様、そうした古い連帯句は「神々」という語に対応するようにはめ込まれている。このよ

(7)

一切神讃歌に多く見い出される。したがって、

という語の前後に神名列挙が現れる例は、

一切神讃歌

7に

「神々」

の核になる部分は、連樽句の単なる集積によってではなく、それらを「神々」という対応語を介して文脈内に取り

込むことによって成立したと言えよう。

「不死になるものたち

(gMご岱)L

神々は母品ゲ以外に、

「祭るにふさわしきものたち(立言可忠二」

「ヴァス

たち(〈伊国伊〈与)」等の語によっても一不される。以下の例では、これらの語はいずれも神名列挙に対応している。

パガの神、富の

〔賦与者)

アンシャ、財宝を取得するヴリトラの

リフク

〔殺害者〕インドラ、

サヴィトリ、

シャン、ヴァ

lジャ、およびプランディは、

我らに恩恵を与えよ、力強き不死なるものたちは。(同〈-u-AHN・

)

リブクシャン、

〔祭儀

サヴィトリ、駿馬を鼓舞するアパ

iム・ナパ

lトは、

〔我らの〕詩想と

51

の〕勤めに満足した。我は汝らのために、祭るにふさわしきものたちょ、これらの捧げられた

〔ことば〕を望

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むOi--・(門戸〈・

N

・ω]了。

)

〔もし、汝らの今の友情がないならば〕、我らは汝らの未来の〔友情〕によって、一体何をなさん、ヴァスたちょ、

昔の友情によって何を〔なさん〕。ミトラ・ヴアルナ、

安寧を授けたまえ。(岡山〈-N・NFω)

アディティ、インドラ・マル卜たちょ、

汝らは我らに

」のように、

「神々L

は一切神讃歌の要となる語である。このことは、讃歌全体の構成の上で、冒頭や結末の詩

(8)

への祈願にあてられていることからもうかがわれる。これは、

一切神讃歌のような、神々へ

節がしばしば「神々」

の祈願を内容の中心とする讃歌にあっては当然のことであろう。神々への祈願とは、

Aの神格に

aを祈願し、

B の

神格に

bを祈願することではなく、神々全体の人間に対する思恵を願って、個々の神格が呼び求められることであ

るから。例えば、

「インドラよ、:::神々によって定められた聖句を〔授けよ〕。祭られるべき神々の好意を〔授け

よ〕」

(ω-bw品)の一節は、神々と個神との関係をよく示している。また七・三五の讃歌では、

各神格は

印戸口戸

(幸い)という語によって同じ祈願をうけ、最後の詩節で「神々」としてまとめられている。この神々全体の恩恵

を求める人間の願いは、次のように歌われている。

このように、家畜に富む子孫のために、神々よ、死すべきもの

(人間)は汝らを得んとする。神々よ、死す

べきものは汝らを得んとする。

(HN

ぐ・

印-KHH-

一口胆ゲの)

ところで、営〈伊の複数形である仏

2与は、厳密には総称的な「神々しではなく、複数性を表示しているにすぎな

い。その語自体には「神々」ほどの包括性はない。リブ三神のような少数の神をさすこともあれば、神名列挙をま

とめる時のように神々の全体を表すこともある。この宕品「の欠点を補うために、

一切神讃歌では神々全体を表す

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様々な工夫がなされている。

(「すべての神々」)が第一にあげられるが、そのほ

一切神讃歌にその名を与えた〈ロ

(9)

「各々の神((目。〈広巾〈胆)」、「神の一族(含守三』VZσ)」または「天の一族((四日〈

1

T】与)」(冶)通常は「全

アlリア人」を表すが、神々全体の意味に転用されている「五種族(匂宮の伊]吉川子)」などがある。

かには、

神々全体がいくつかの集団によって表されることもある。なかでも、

アlディティア・ルドラ・ヴァスの三神群

による表現が特に注目される。例えば、

リグ・ヴェーダ「一切神讃歌」の神観念

我ら人聞は汝らのために、神々の招待の

アーディティ

〔準備を〕

しよう。我らの祭杷を正しく前方ヘ導け。

ルドラたち、惜しみなく与えるヴァスたちょ、唱えられつつあるこれらの聖句を活気づけよ。

(ロ)

H0

・。?

H

N

)

(

アたたえ

なにゆえこれらの三神群が神々を包括するものとして選ばれたのか。

G-デユメジルの三機能説からの興味深い

(日)

解釈はしばらくおくとしても、各神群をそれぞれ天・空・地の三界に対応させている七・一二五・一四の例から、三

神群による神々の包括が三界観と関連していることがわかる。後に詳説するように、

(U)

三神群を〈りの下位区分と考えることもできる。また、

「天・空・地の神々」は〈巴

「インドラがインドラに属す

の空間的な表現であるから、

マルトたちがマルト

〔に属するもの〕たちとともに、

アディティがア

lディティアたちとと

るものたちとともに、

もに、我らに庇護を与えんことを」

(]「

]E、ア

N

丘)という奇妙な一節も、それに類似する一

0・六六・三を考

慮すれば、この三神群を述べたものかもしれない。

53

「三十二一L

という数によって神々を総括する工夫もなされている。こうした箇所はリグ・ヴェーダ全体

(日)

で十あるが、この内の三つは一切神讃歌に属している。この

さらに、

「三十二一」という数は、個々の神格を数え上げたもの

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ではなく||神々の個数は三十三よりもはるかに多い|!神々のすべてを数によって尽くそうとしたものであろう。

ルドラ十一神、

(日)

説明されている。ここにも先の三神群が現れていることは注目される。

「三十二一L

は後のブラ

lフマナでは、ヴァス八神、

アlディティア十二神、その他の二神と

なわ、こ

のように、(円。〈酔ゲを補完するために、

一切神讃歌においては神々を包括する種々の表現がとられている。神名

列挙と仏巾品r、そしてこれらの包括表現によって、

ていくのである。ところで、

一切神讃歌は祈願の対象が神々全体であることをより明瞭にし

一切神讃歌を理解する上での〈ロ等の重要性は、それらが多くの文脈で示す全体性の

特徴にある。その文脈を考察することによって、

一切神讃歌において祈願される神々が、

いかなる視点からまとめ

られているかを知ることができるのである。

一切神讃歌は神々への祈願を内容の中心としていると述べたが、ここでいう祈願は、リグ・ヴェーダの讃歌の内

(げ)

容についての、ブリハッド・デ

lヴァタ!の二分法「讃美(由吉江)」と「祈願(忠目的)」をうけたもので、神々の思

恵(すなわち願い事が神々の賜物として実現すること)を求める行為またはことばをさしている。こうした神々へ

の祈願は、当然予想されるように、祭杷の場で行われ、ある種の身体的な行事を伴っていた。次の一節はこの状況

を伝えている。先行の詩節の〈巴や神名列挙をうけて、神々の先導者としてアグニに祈願して言う、

カンヴァ家の者たちは、思恵を求めて汝(アグニ)に祈願する、祭儀の敷草を刈り、供物を持ち、

〔祭儀の

用具を〕整える彼らは。

(同〈

]「]{品・

。1)

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これに対して、祭杷の場で行われる祈願の行為は、祭組以外のものから区別されている。六・五二の一切神讃歌

は、次のような強い調子の一文から始まっている。

天にかけて、地にかけて、我はそれを認めない。祭杷にかけて、そしてこの

〔祭儀の〕勤めにかけて、

れを認め〕ない。揺ぎなき山々が彼を押しつぶさんことを。極端な祭杷を行う者がうち捨てられんことを。

リグ・ヴ、ェーダ「一切神讃歌」の神麗陰

「祭杷(宮古PTと「祭儀の勤め

(ppgH)」が「極端な祭杷(主ぞ旦酔)」と対立している。

杷」の内容は明らかではないが、おそらく次の一節に語られる行為に関わっているのであろう。

「極端な祭

ここでは、

(魔物)たちに心を向ける者を、

よ神つ々での蝶ひ招き待たにおおせい。て

フクンヤ

マルトたちょ、車輪なき

〔汝らの馬車〕

〔祭儀を〕勤めた者の勤めを非難せんとする者が、空しき望みをいだかんことを、

とえ彼自身〕汗をかいて

〔励んだとしても〕。(同〈・

印-KHN-HC)

祈願が祭杷に含まれるか否かは、

(国)

「神々の招待(門問。〈伊〈宮)」という点にかかっている。この点を離れれば(右の

(ω)

それはすぐさま祭杷ならざるものへと堕するのである。

例では「ラクシャスたちに心を向ける」という)、

神々への祈願が祭杷の中に位置づけられていたことは、祈願の文脈の中に、祭杷の場を表す種々の表現が見い出

されることからもうかがわれる。その中で最も多く現れるのは、

「ここ

(FV)」というばく然とした語である。サ

ーヤナは注釈の中で、ほとんど常にこの語を「祭杷において(可丘町。)」に置き換えている。また、単に「場(白骨円四

gp)」

同)あるいは「天則の場」

「父祖以来の場」

(∞-

K

門戸

H

)

とも言われ

(吋・

ωAY

という語で示されることもある。

(却)

ている。そのほか「祭儀の敷草

(E岳町)」、より明瞭な「祭杷の場(〈応笠宮)」、

「祭壇h

〈PE)」等の語が見られる。

55

ところで、祭杷に関連して特筆すべきは、

〈ロとそれとの関係である。〈ロのほとんどの文脈は祭杷への何らか

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や「祭られるべき(苫言々日)」

(幻)

という修飾語をうけ、〈HUJ『033HEY-iU233宏子およびヨ宮司王芝生という代用表現すら作っている。ま

の言及を含んでいる。例えば、

〈巴は多くの箇所で「祭るにふさわしき(リ忌]伊丹

E)」

た「祭杷において祭られるべきものたち」

(吋・

ωφ

kHHH0

・hvω

ω)や、

「祭られるべき神々の内で特に祭られ

るべきものたち」

(叶・

ωFE)と呼ばれている。そのほか

「祭儀を希望する」

(ω・NC噌

]

(

U1

・ω。・

九日)、

一寸

f共

犠を享受する」

ωwmw)

、「祭儀を見通す」

(]5・。?

「祭杷を生み出す」

(目。・。デ

N

)

等。この〈ロ

と祭杷との結び付きは、次の一節に明瞭に示されている。

まかれた祭儀の敷草の上で、燃えたつ火のもとで、偉大な讃歌と拝礼によって、我は

〔汝らを〕得んと欲す

る。この我らの祭杷の場にて、今日、祭るにふさわしき〈巴よ、供物に喜、び酔いたまえ。

(見〈・

。-UN--吋)

祭杷は人間と神々の接点である。したがって、

〈ロが祭杷に関係していることは、それが祭杷を介して人間と結

び付いていることでもある。このことは、

〈ロに固有のエピセットである「マヌ

(人間)にとって祭るにふさわし

てきいもる22の。)た

B 伊、

口。司

に〈担、

~

担1.::0-'

L

および「マヌにより祭られるべきものたち(ヨh50『可

ERユ「)」によって示され

この祭肥との関係は、神々全体、特に〈巴を表すっ三十一二の神々しにもそのまま当てはまる。後に取り上げる一

-二二九・一一を除いて、すべての用例から祭杷との関わりを示す文脈を注(日)の順に取り出すと、

持ち、歌を愛でる

「赤い馬を

〔アグニ〕よ、彼ら三十三〔の神々〕を運び来たれ」

(H-KFF N

)、「祭儀の敷草に坐った三十

とさらに三の神々」

(∞-

N

∞-

「三十三であり、

マヌにより祭られるべき神々」二∞・

ω。

N

)、

「アグニよ、妻

を伴った三十三の神々を運び来たれL

(ω・少。)、

J

二倍の十一の神々とともに、

」こへ蜜酒を飲むために来たれ、

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両アシュヴィンよ」

(]「

ω?]己)、

「三倍の十一の〈ロとここにで、両アシユヴィンよ、

ソlマを飲め」(∞・

ω♂ω)、

「彼(アグ一ニが三倍の十

〔の神々〕をここにで祭らんことを」

(∞・

ωタ

。)、

コ二倍の十一の神々は汝らを仰

ぎ見た。祭杷LC

〔ソ

lマの〕圧搾に満足して、両アシュヴィンよ、

「ソ

iマ・パヴァ

ソiマを飲め」

(∞・∞ア

N

)、

マlナよ、汝の秘密の場所に、

〔住する〕L

(

。・。NW

山)である。

三倍の十一の、

かの〈巴は

リグ・ヴェ ダ「一切神讃歌」の神観陰

一切神讃歌においては、

一つにまとめられた神々全体の呼び名である。それ

〈りと「三十三の神々」はともに、

故、それらが祭杷と結び付いていることは、祈願される神々の全体が祭肥と関連していることを示している。それ

では、

どのように祭杷と関連しているのか。このことは、神々の世界が一切神讃歌でいかに語られているかを検討

することによって明らかとなる。ニ

ルクタやブリハッド・デ

lヴァタ

lの中で、

「天・空・地」の三界観を基礎に整理

リグ・ヴェーダの神界は、

(幻)

・統一されている。しかしリグ・、ヴェーダにおいては、個々の神格が三界に分類されているわけではなく、

いくつ

かに分割された空間が神々の世界として想定されているだけである。空間の分割の仕方にも、

「天・空・地しのほ

かに種々の類型が見い出される。

「天・地」、

「天・地・水」、あるいはそこにいくつかの要素が加わって世界全体を

意味することもある。

これらの神界の諸領域は、単なる神々の活動の場所と考えられたのではなく、それ自身神格として祈願の対象と

57

なっている。例えばって五四の讃歌では、終末部の神々への祈願が、天・空・地・水への呼びかけから始まってい

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る。さらに、次のような例もある。

よき導きをもっァ

lディティアたち、

ルドラたち、ヴァスたちは、天地、大地、中空は、神々は連合して祭

(μ)

∞)

(河〈・

ω・∞・

杷を支援せよ。祭儀のしるし(祭柱)を高く掲げよ。

第一行の三神群は、前述のように神々を包括する三つの集団である。これらの三神群と第二行の天・空・地によ

って、神界の全体が表されている。第三行はこの神界全体をうけているc

パJダ

に特徴的に現れる語であるから、第三行の

「連合して(印£

02印伊ザ)」は〈ロの文脈

「神々は連合して」は〈ロを暗示しているようである。そうであれば、

この一節は、二一神群・三界

1〈ロという図式を示すことになり、

三神群が三界に関連し、

〈りの下位区分であると

いう先の推定の、今一つの根拠となろう。

右の図式が〈ロから三界へという逆の方向へ展開したものに、

〈ロの空間配分がある。それは、

〈ロの全体性を

示すエピセットの一つとして、これを「各領域にいるものたち」に弁別する一節である。

一切神讃歌にはこうした

箇所が八つある。まず「天・地・水」による配分は、

一・一三九・一一、六・五二・

一五、七・三五・一一、

O

六五・九の四例にみられる。

一0・六三・二では「天しが「アディテイ

(無限)」という語で示されている。

一方、

「天・空・地」による配分は六・五二・一三でなされている。この箇所の「アグニを舌とするものたち(兵コtテ〈附ゲ)」

ふみ、

「地にれるものたち」の代わりであろう。また、七・三一五・一固と六・五

0・

寸牝午から生まれたもの

たち(ぬか」伊丹岳)」が中空に関するものであれば、それぞれ〈ロを「天・空・地」と「天・空・地・水」に分けてい

ザ令。

各領域に配分されたものたちの数は、次のように述べられている。

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神々よ、天に十一いて、地上に十一いて、威力をもって水中に十一住む神々よ、この供物を享受したまえ。

領域

十トー

神~ず、‘ 6つを戸配)する

節は

(問〈・

「三十二一」という数が神々を数え上げたものでないことを示すととも

に、それが「天・地・水」ないし「天・空・地」の考え方に関連していることを知らせる。

「三十二一」は多く「

倍の十

(同ユヨ巾百円Htrpf)」と記されているが、その場合の

「三」はまさに神界の三領域を表している。

リグ・ヴェーダ「一切神讃歌」の神観念

このように一切神讃歌においては、神界は〈りと、あるいは同じことであるが

コ二十三の神々」と深く関わって

いる。ところですでに指摘したように、

〈りや「一二十三の神々」は多く祭杷に関連して言及されている。とすれば、

神界そのものも一切神讃歌では、人間の世界から隔絶した単なる神々の世界ではなく、祭杷との結び付きを持つ世

界ではないだろうか。次の一節はそれを示唆している。

大河たちょ、一二倍の三は詩人たち(神々)の共同の場であり、

の場における統王である。三は、天則を保持する若き妻、水の

さらに三人の母を持つもの

(アグニ)は祭杷

〔女神〕たちであり、

日に三度、祭杷の場を支

(閉山〈・

ω・ω。・C刀

、.../

配する。

(部)

「三倍の三」は、それぞれが三層に分かたれる神界の三領域を表している。「共同の場(印

EYEFP)」は、∞邑

Z

「天・空・地」が神々の集う場所として、

lsZに基づく語で、

パ!ダ

第二行以下の「祭肥の場」に対応するように語られている。神界と祭杷との関連は、

「共に集まる場」を意味している。ここでは、

」のほか「三つの祭杷の場(可{三

59

iEHY間三どという語によっても示されている。祭杷の行われる場所を一般的に表す〈包

EEが、いくつかの箇所で

(幻)

神界の領域の意味に転用されている。これは、祭杷に集まる人間の状況を神々の世界に投影したものであろう。

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ところで、

「天・地・水」または「天・空・地」の内、大地はあくまでも人間の世界であり、人聞が祭杷を行う

場所である。祭杷の始まりを告げる一文、

「広大な大地は背をもって拡がった。

〔大地の〕広き表面の上で、

f一一、生又又ゴミ

杷の〕火は燃え上がった」

(叶・

ωデ

同)は、これを歌っている。三界を領する神々への呼びかけや祈願は、

'-

地上の祭杷の場で行われる。

〈ロよ、我のこの呼びかけを聞け、中空にいるものたちょ、天にいるものたちょ、

アグニ(祭火)を舌とす

るものたちょ、あるいはまた、祭るにふさわしきものたちょ、この祭儀の敷草の上に座して、喜び酔いたまえ。

(同〈・

∞-UN--ω)

それ故、神界は祭杷の場を包む世界だと言えよう。神々は、

「〔祭杷の〕場の至る所から我らの呼びかけを聞け」

(]「

]{NN

・。)、「至る所から我らのもとへ来たれ」(

H

・∞FH)と祈願されるのである。このことは、神々を各方

位に配して神界全体を表現する八・二八・三にも認められる。守護者たち(向。

Ef)として祭杷を取り囲む神々は、

最後の行で、〈ロを暗示する定型句「全一族を伴って(印可

gEヨ広)」をうけている。

さらに次の例では、

て問ロ」

82,A-稲川中

の場が世界の中心であるという言明すらなされている。

我は汝に問う、

祭壇であり、世界の臓はこの祭杷である。:::(問〈・

大地の最果てを。

我は問う、

ほぞ

世界の瞬(中心)のあるところを。:::大地の最果てはこの

H

・5?ω

九日

ω切伊

σ)

このように、

一切神讃歌の語る神界は、祈願の行われる場(祭把の場)を中心とする

「祭杷空間」とでも称し得

る世界である。祈願の対象となった神々は、こうした空間を占める存在として表象されたのである。この祭杷を中

心に空間的に把握された神々の集合体こそが、

「天・空・地の神々」やコ二十三一の神々」と言われる〈巴の内容で

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ルめヲhvo

アiディティア・ルドラ・ヴァスの三神群も、

おそらくは同むものを表している。

ところで、このように捉えられた神々は、もはや神話に語られる個性ある諸神格ではない。神名列挙に典型的に

見られるようにぺ神名のみによって示される神々の集団の構成員であるにすぎない。三界配分の一例である一

0・

〈りが「すべての名

(iz開

35官一)」という語で表され、それが

(却)

祭られるべきもの」と述べられていることは、これを示唆している。神々の個別性を捨象するこの傾向は、

六三了二で、

「拝すべきもの・称賛すべきもの・層

リグ・ヴ、ェーダ「一切神讃歌」の神観念

押し進められた形で次の詩節に現れている。

ヴラタ

最初の曙光が輝いたその時に、偉大なことばは牝牛の場で生まれた。神々の誓約を堅固にしつつ

〔我は宣言

する〕、|!神々のアスラの力(恐るべき神力)は偉大にして唯一のものである。

最後の行は、当讃歌のモチーフとして全詩節で繰り返されている。個々の神格の特性を離れた、

(同〈・

ω・ωω・

ド・4

)

「神々」そのも

のの偉力(伊田己円旦〈伊)を、唯一絶対なものとして讃えるこの一節は、

(初)

つものである。

一切神讃歌における神々の記述の項点に立

以上論ピて来たように、神々の全体への呼びかけや祈願を主主内容とする一切神讃歌において、神々は、祭杷の場

を中心とした空間を占める集団として捉えられている。

一切神讃歌にその名を与えた〈ロ(「すべての神々」)は、こ

のように空間的に把握された神々の全体である。神々の集まる空間が

「天・空・地」等に分割されているので、

は「天・空・地の神々」あるいは各界十一神、ずつの

「三十三の神々」とも一言われている。

61

ところで、個々の神格の個別性を越えて、神々を統一体として捉える一切神讃歌の神観念は、神々を緋ベる一者

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62

への思弁を展開する、リグ・、ヴェーダ第一

O巻のそれヘ通じているように思われる。事実、

「唯一のもの」に対す

る幾分まとまった思弁が、すでに一切神讃歌三・五四・五九に見い出されるのである。また、最後に引用した詩

叶即の

「唯一のアスラの力」にも、

一者に対する思弁の萌芽を認めることができる。

一切神讃歌のリグ・、ヴェーダに

わける重要性は、まさにこの点にあると言えよう。

注(1) 「すべての神々」を意味するが、

mmヨ丘酔(以下戸〈・)では術語的な価値を持っていること、∞

E752胆等では一つ

の神群とみなされていることから、従来「一切神」等の固有名詞で置き換えられて来た。

(2)Z町crgHド

hH0・

(3)∞吋}戸伊《EgdsN-一EN--ωω・

(4)

「。己目的問問ZOFRr2S5222H吉町。10巾〈刷73

。。言語言。2と

332sz宮町皇室吟。

¥~-zrN(Z由者

ロ巾ま・5gv宅・ロ叶llH叶∞・

2・色白C

刃向

zoF同町

aeMZbAS2と

3233理師、日〈(句号

F

E印∞)・?印・彼はそ

の証左としI

て、統語上の枠と一致しない省略や破格構文による列挙の存在をあげている。

(5)2・∞口zr巾}03FEU-巾Z5(山SEEPPM印

r・3NUミca(EE)・?ω∞・彼はこの箇所の

E〈広が

Z一三千

立i}】〕『開可imw

中の〈ロへの

Eiιをさしていると述べるが、〈ロへの

ZJtの内容を検討すれば、それが一切神讃歌以

前に存在したとは考えがたい。

(6)閉山開

zoF同でHVHJ

〉??コ・]「

(7)H-z-Nfcc-HfH8・HlNHHCア

NIYHNN-WN・ωYH|N一ω-g・叶lphH・ω♂

民ー口え口・

(8)

「∞∞一HCU1JHωC山

H∞⑦日ω・忠一品・四一。・U()

一日NU叶・ωω一∞-N吋hN∞一ω。一∞ω一H0・ω∞一。ωめ⑦・

同一印-KHNW

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(出)

5. 42

, 16; 43,

15.

(日)

6.49,

1,; 52

,12; 10.63,17; 64

,17.

(口)

6.51,11.

(;:::1) Also

2.31,

1; 7.

35,

6; 14; 10.

66, 3.

(口)

Georges DUMEZIL

,“

Mitra-Varu¥la

, lndra

, les

Nasatya comme patrons

des trois

fonctions cosmiques

et

sociale吉

StudiaLinguistica

1 (1947)

, pp.

127-128. きさとよ吋~'当

Fけ£

ω(;1

1]葉稔竺ト一子トギ命(;;刑事翌・

結畏・削悩

(;111饗単品

J*,~除£ど術~'時

J.'\二ω111

相'-!..L{,やトノ走々(;<>>1送後若草巡-Y'~隠屈託

j与二十J二のよ

J:,. ~í' 0

(ヨ)

Cf. 10.

125,

1ab.

(巳)

111十

11]葉:(;111

1IT同組在

'11]十

111J-

1. 45,

2; 8.28,

1; 30

, 2.

'111+11HI称{.!.将」一一一

3.6,

9.

'11]週

g(;十

1J

-1

. 34,

11; 8. 35

,3; 39

, 9; 57

, 2;

9. 92

, 4.

'Hく

型特

斗十

1いやJ-

1.

139, 11.

(出)

Cf. DUMEZIL,

L'heritage indo-

叩ropeen

a Rome (Paris

, 1949

), p.

216.

(巳)

Brhaddevata

1,

7.

(出)

Cf.

also 10.

35,

14; 66

,12.

(~)事態8~主題よJ~

\--J'~々(;liS同情さ(

avas )・主主制(sumati

, sutnna )・

2安曇

(rati,

riidhas)俳誌J9持母叩ト

JAJ包

~~挙o路

j杓ヰ二

F1E々AJ-<~(;~宝ミ~~己怨軽々

ú.'\二t{ð.ljJ~'R今~':t:

'-0.'¥二時。

(日)

Also 1.

122,

6; 8.

27,

5.

(尽vi主ve

yajatra};l: 1.

65,

1; 3.

57,

5; 6.

21, 11.

viちve

yaj五iy孟};I

: 4.

1, 20.

vi色ve

yajatii};l:

2. 5, 8.

(自manor

yajatr亘.};I

: 7.

35,

15; 10.

65, 14.

manor yajnlya};l

8. 30, 2; 10.

36, 10.

(~) Nirukta

熔-tJ羽町Br・haddevata

憾1

' 1

1~1昨。

( ~ )

Anukramal]l

~ f J 8糎昔話ぬ

Jyupastuti心4ii-W

かの後,

;;;:;E!E紅海~士竺

vai主vadevaAJ -Hl i日

Jレユの。

(Ki) Cf.

Maurice BLOOMFlELD

, Rig-Veda Repetiti

οns (Cambridge, Mass.,

1916), p.

317.

め~羅芝nb寸採網走Bl」争hlHb・争、「戸

Cず3

<0

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64

(お)の『・∞凹Hmwqmw但仏

ω・切。・

uu同〈内ロム司・。何回L

ZE-U2同公ーでEE

(幻)由・臼-

N

U

叶・

2・

5u∞・

ωア∞・

(部)「大地と祭壇は同じ拡がりを持つL

の意。

(却)のア』自のozロy~〈。言師。ぉ弓。車内崎号&NFぬミミ言。~、。。札制

shS23内宮内出札。

(のpgrzιmmrζ自由・・目。印同

)yu-kpcω・コ

(〉ヨ印件。丘胆

EaHScv?∞一三

(却)佐保田鶴治『インド正統派哲学思想の始源』(創文社‘一九六三年)七ページ参照。なお、本稿を草するにあたって

この書に教えられるところが多くあった。ここに感謝します。

(大学院学生)