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Nidānasamyukta 20における(名和隆乾) 105 Nidānasamyukta 20における 遺体供養について (大 阪 大 学) はじめに 三十年ほど前は,インド仏教において出家僧は葬儀に関わらなかったと いうのが通説であった。しかしその後の研究により,出家僧は葬儀をはじ め,種々の儀礼に関与していたことが明らかにされてきた。この種の問題 の一つに,出家僧は在家の葬儀を行うか,というものがあるが,これにつ いては異なる見解が提出されている 。本稿はこの問題に関わるものである。 本稿が取り上げる Nidānasamyukta ₂₀Tripāthī [₁₉₆₂, pp. ₁₇₀₇₈]. 以後 NidSa ₂₀)では,upāsaka となった Acelakāśyapa の死後,ブッダが 比丘達に,Acelakāśyapa への śarīrapūjā(遺体供養 )を行うよう命じてい る。この用例は一見,出家僧が在家信者の遺体供養を行っている様に見え る。しかし本経には,ただちにこれを「ブッダが出家僧に,在家信者への 遺体供養を命じた用例」とは解し難い要素が含まれる。そこで本経に対す る妥当な理解を求めるべく,以下に検討を行う。 §1 NidSa 20.1724のテキストと和訳 NidSa ₂₀.₁₁₅(段落番号は Tripāthī に従う)では,Acelakāśyapa はブ

Nidānasamyukta 20における 遺体供養についてnbra.jp/publications/78/pdf/78_a-2_05.pdf以下ではまず ₃.₁でAcelakā㶄yapaの死が般 涅槃であったことを確認し,次いで

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  • Nidānasamyukta 20における(名和隆乾) 105

    Nidānasamyukta 20における遺体供養について

    名 和 隆 乾(大 阪 大 学)

    はじめに

     三十年ほど前は,インド仏教において出家僧は葬儀に関わらなかったと

    いうのが通説であった。しかしその後の研究により,出家僧は葬儀をはじ

    め,種々の儀礼に関与していたことが明らかにされてきた。この種の問題

    の一つに,出家僧は在家の葬儀を行うか,というものがあるが,これにつ

    いては異なる見解が提出されている⑴。本稿はこの問題に関わるものである。

     本稿が取り上げる Nidānasamyukta ₂₀(Tripāthī [₁₉₆₂, pp. ₁₇₀‒₁⑵₇₈].

    以後 NidSa ₂₀)では,upāsakaとなった Acelakāśyapaの死後,ブッダが

    比丘達に,Acelakāśyapaへの śarīrapūjā(遺体供養⑶)を行うよう命じてい

    る。この用例は一見,出家僧が在家信者の遺体供養を行っている様に見え

    る。しかし本経には,ただちにこれを「ブッダが出家僧に,在家信者への

    遺体供養を命じた用例」とは解し難い要素が含まれる。そこで本経に対す

    る妥当な理解を求めるべく,以下に検討を行う。

    §1 NidSa 20.17‒24のテキストと和訳

     NidSa ₂₀.₁‒₁₅(段落番号は Tripāthī に従う)では,Acelakāśyapaはブ

  • 106 遺体供養について(名和隆乾)

    ッダと問答を交わした結果,ブッダに圧倒される。圧倒された

    Acelakāśyapaは,ブッダに upāsakaとなることを宣言する。

    NidSa ₂₀.₁₇‒₂₄ (Tripāthī[₁₉₆₂, p. ₁₇₆ff]; Hs. ₂₂.₃‒₂₃.₁.)

      [₁₇] abhikkrānto ’ham bhadanta abhikkrāntah / eso ’ham bhaga-

    vantam śaranam gacchāmi dharmam ca bhiksusamgham ca / upāsakam

    ca mām dhārayādyāgrena yāvajjīvam prānopetam śaranagatam abhiprasa-

    nnam / [₁₈] athācelakāśyapo bhagavato bhāsitam abhinandyānumodya

    bhagavatpādau śirasā vanditvā bhagavato ’ntikāt prakrāntah / [₁₉]

    athācelakāśyapo ’ciraprakrānto bhagavato ’ntikād gavā tarunavatsayā

    jīvitād vyaparopitah / tasya maranasamaye vi(prasa)nnānīndriyāni

    pariśuddho mukhavarnah paryavadātas tvagvarnah / [₂₀] atha

    sambahulā bhiksavah pūrvāhne nivasya pātrac(ī)vara(m) ādāya

    rājagrham pindāya prāviśan / aśrausuh sambahulā bhiksavo rājagrham

    pindāya carantah / yo ’sāv acelakāśyapo bhagavantam (rāja)grhe

    praśnam prstavān so ’ciraprakrānto bhaga(va)to ’nti(kā)d gavā

    tarunavatsayā jīvitād vyaparopitah / tasya maranasamaye vi (pra)-

    sannānīndriyāni pariśuddho mukhavarnah paryavadātas tvagvarnah /

    [₂₁] śrutvā ca punā rājagrham pindāya caritvā kr(ta)bha(k) takrtyāh

    paścādbhaktapindapāta-pratikrāntāh⑷

    pātracīvaram pratiśamya pādau

    praksālya yena bhagavāms tenopajagmuh / upetya bhagavatpādau

    śirasā vanditvaikānte nyasīdan / ekāntanisannāh sambahulā bhiksavo

    bhagavantam idam avocan / [₂₂] iha vayam bhadanta sambahulā

    bhiksavah pūrvāhne nivasya pātracīvaram ādāya rājagrham pindāya

    prāviśāma / aśrausma vayam samba(hu)lā bhiksavo rājagrham

    pindā(ya carantah)pūrvavad yāvat paryavadātas tva(gva) rnah /

  • 遺体供養について(名和隆乾) 107

    tasya bhadanta kā gatih kopapattih ko ’bhisamparāyah / [₂₃]

    dravyajātīyah sa bhiksavah kulaputrah / pratyabhijñāsīc ca me

    dharmesv anudharmam / na ca m(e) vihethitavān dharmādhikārikī-

    (m kathām v) y (āk) rtā(m) sa kulaputrah / kuruta tasya śarīre

    śarīrapūjām iti / [₂₄] tatra bhagavān acelakāśyapam pa(ramam⑸

    vyākaranam) akārsīt //

     [₁₇]「立派な人よ,私は圧倒された。圧倒された。この私は世尊と,

    dharmaと教団とに帰依する。そして,命の限り,生命を備え,帰依し,

    実に澄み渡っている私を,upāsakaとして,たった今より君は保て」。

    [₁₈]さて,Acelakāśyapaは,世尊によって言われたことに歓喜し,心

    から喜び,世尊の両足元にぬかづいてから,世尊のもとから進み出た。

    [₁₉]さて,世尊のもとから進み出て間もなく,Acelakāśyapaは,若い

    牛を連れた雌牛によって命を奪われた。死期に際し,彼の諸感官は澄み

    渡っていて,顔色はすっかり清浄で,肌色はすっかり清澄だった。[₂₀]

    さて,多くの比丘達は,午前中に着衣してから,鉢・上衣を取り,

    Rājagrha に托鉢物の為に入った。多くの比丘達は,托鉢物の為に

    Rājagrha を歩みつつ,〔次のことを〕聞いた。「あの Acelakāśyapa は

    Rājagrhaで世尊に質問したが,彼は世尊のもとから進み出てから間もな

    く,若い牛を連れた雌牛によって命を奪われた。死期に際し,彼の諸感

    官は澄み渡っていて,顔色はすっかり清浄で,肌色はすっかり清澄だっ

    た」。[₂₁]そして聞いて後,Rājagrhaを托鉢物の為に歩んでから,食事

    に関して為されるべきことを為し,食事後,戻ってきた。鉢・上衣を片

    付けてから,両足を洗い,世尊のいる方へと近づいた。近づいてから世

    尊の両足元にぬかづき,一隅に座った。一隅に座ったまま,多くの比丘

    達は,世尊にこのことを語った。[₂₂]「立派な人よ,我々多くの比丘達

  • 108 遺体供養について(名和隆乾)

    は,ここで午前中に着衣してから,鉢・上衣を取り,托鉢物の為に

    Rājagrhaに入った。我々多くの比丘達は,Rājagrhaを托鉢物の為に歩

    みつつ,〔次のことを〕聞いた……乃至,かつてのように……肌色はすっ

    かり清澄だった。立派な人よ,彼の(死後の)行き先は何か,(死後の)

    到達先は何か。(死後の)到着先は何か」。[₂₃]「比丘達よ,かの良家の

    一員は,有能な者⑹である。法随法(dharmesv anudharmam)を彼は理

    解した。また,良家の一員である彼は,私によって解説された,dharma

    を主題とする話を邪魔しなかった。彼の遺体に対し,遺体供養⑺を君達は

    為せ」と。[₂₄]そのとき,世尊は Acelakāśyapaを最高の解説と為した⑻。

    §2 upāsaka となった “Acela”‒kāśyapa

     上で示した通り,NidSa ₂₀.₁₇でAcelakāśyapaは upāsakaとなる宣言を

    為すから,この後の彼が仏教徒であることは明らかである。ただし,次に

    述べる様に,upāsakaとなった彼をいわゆる「在家信者」とは断じ難い面

    が あ る。ま ず,NidSa ₂₀全 体 を 見 て も,upāsaka と な る 以 前 の

    Acelakāśyapaが anyatīrthikaか否か,在家か否かといった情報は,パー

    リパラレルの様には⑼与えられていない。彼のそうした所属を知る手掛かり

    は,upāsakaとなる前後共に acela(無衣)と称されるという程度しかない。

    しかし,この acela という呼称に問題がある。というのも,Dharmas-

    kandha ₃.₁₆(Dietz[₁₉₈₄, p. ₇₃f])における upāsaka の条件には “grhī

    avadātavasanah(在家で,白い服を着た(10)

    )”が含まれ,acelaであることが

    avadātavasanaという条件と合わないからである(11)

    。ゆえに,upāsakaとな

    ってから死ぬまでの Acelakāśyapaが仏教徒であることは間違いないが,

    彼が在家か否かは断じ難いということになる。以上を考慮した上で

  • 遺体供養について(名和隆乾) 109

    Acelakāśyapaが upāsakaとなる前後の所属をまとめれば,次の様になる。

     元は在家の非仏教徒  → upāsakaとなった。つまり在家信者。

     元は非在家の非仏教徒 → upāsakaとなって以降は在家扱い。つ

    まり在家信者。

     元は非在家の非仏教徒 → upāsakaとなって以降も非在家。つま

    り「非在家の upāsaka」。

     つまり,upāsaka となった後の Acelakāśyapa の所属は,在家信者か

    「非在家の upāsaka」のどちらかとなるが,どちらにせよ彼が仏教の出家

    教団に属さないことは確実である(12)

    。以上,NidSa ₂₀における遺体供養が,

    出家教団に属さない信者に対するものであることを確認した。ただしこの

    遺体供養が在家者に対するものであるか否かは決定し難い。

    §3 遺体供養が命じられた理由

     §1で示した NidSa ₂₀.₂₃‒₂₄にある通り,死亡した Acelakāśyapaに対

    し,遺体供養が命じられる。以下ではまず§₃.₁でAcelakāśyapaの死が般

    涅槃であったことを確認し,次いで§₃.₂にて遺体供養が命じられた理由

    を考察する。

    §3.1 Acelakāśyapa と般涅槃

     NidSa ₂₀.₂₃におけるブッダの発言では,Acelakāśyapaは優れた人物と

    して賞賛されている。一方,以下に示す様に,パラレル『雜阿含經』第三

    〇二経,『業施設論』所引の NidSa ₂₀.₂₃におけるブッダの発言には,

    NidSa ₂₀.₂₃には含まれない「般涅槃」,“yons su mya nan las ’das”が現れ

    る。

  • 110 遺体供養について(名和隆乾)

     『雜阿含經』第三〇二経(T vol. ₂, p. ₈₆b)

     [₂₂]  「世尊,我今晨朝衆多比丘入城乞食。聞阿支羅迦葉從世尊聞

    法律。辭去不久,爲護犢牛所觸殺。於命終時,諸根清淨,顏色

    鮮白。世尊,彼生何趣,何處受生,彼何所得」。[₂₃]佛告諸比

    丘。「彼已見法,知法,次法,不受於法,已般涅槃。汝等當往供

    養其身」。[₂₄]爾時,世尊爲阿支羅迦葉受第一記。

       『業施設論』所引のNidSa ₂₀.₂₃‒₂₄ (P Khu ₂₇₂b₄‒; D I ₂₂₂b₆‒)

     [₂₃]  dge slon dag rigs kyi bu de ni nor du ’gyur te // chos kyi

    rjes [D ₂₂₂b₇] su mthun pa’i chos mnon par rtogs so // chos

    kyi skabs nas na la cun zad kyan mtho btsams pa med do //

    [P ₂₇₂b₅] dge slon dag rigs kyi bu de ni yons su(13)

    mya nan

    las ’das kyi(14)

    de’i lus la lus kyi mchod pa gyis śig ces(15)

    / [₂₄]

    der bcom ldan ’das kyis(16)

    ’od sruns gi(17)

    rigs gos med dge [D

    ₂₂₃a₁] slon gi dge ’dun gyi mdun [P ₂₇₂b₆] du mchog tu lun

    bstan te.

     [₂₃]  「比丘達よ,かの家の息子は,有能な者である(nor du ’gyur)。

    法随法を理解している。dharmaの機会(chos kyi skabs)から,

    私を少しも煩わせなかった。比丘達よ,かの家の息子は,般涅

    槃した(yons su mya nan las ’das)ので,彼の遺体に,遺体

    供養をしなさい。」[₂₄]そのとき世尊は Acelakāśyapaに,托

    鉢修行者の集まりの前で,最高の解説をなさった。

     次にNidSa ₂₀.₂₄を見ると,Tripāthī による復元では “acelakāśyapam pa-

    (ramam vyākaranam) akārsīt”とある。しかしこれでは akārsītが二重対

    格を取って「Acelakāśyapaを最高の解説と為す」という程の理解になり,

    意味を成さない。この復元には問題が残るが,『雜阿含經』第三〇二経に

  • 遺体供養について(名和隆乾) 111

    「第一記」とあり,『業施設論』所引のNidSa ₂₀.₂₄に “mchog tu lun bstan”

    とあるから,NidSa ₂₀.₂₄には「最高の解説を為した」に相当する梵文が

    あったと推測される。そして,この「第一記」の語義は「解説対象者が阿

    羅漢であることの解説」と考えられる(18)

     以上をまとめると次の様になる。まず,NidSa ₂₀.₂₃には「般涅槃」に相

    当する語は見られないが,パラレルである『雜阿含經』第三〇二経,『業施

    設論』所引の NidSa ₂₀.₂₃にはそれが見られる。次に,NidSa ₂₀.₂₄には

    「第一記」に相当する梵文があったと推測され,「第一記」の語義は「解説

    対象者が阿羅漢であることの解説」と考えられる。以上の二点から,

    NidSa ₂₀における Acelakāśyapaの死は阿羅漢の死,つまり般涅槃である

    と考えられる。

    §3.2 遺体供養が命じられた理由

     前節では Acelakāśyapaの死が般涅槃であることを確認した。次いで本

    節では,遺体供養が命じられた理由を考察する上で有用と思われる三つの

    用例を挙げる。すなわち,仏教の出家教団員でも在家信者でもないが,般

    涅槃した者に対して遺体供養が行われるケース(§₃.₂.₁),在家者である

    が,般涅槃した者に対して遺体供養が行われるケース(§₃.₂.₂),不還果

    に達した在家信者に対して遺体供養が行われないケース(§₃.₂.₃)である。

    これらを示した後,NidSa ₂₀で遺体供養が命じられた理由を考察する(§

    ₃.₂.₄)。

     §3.2.1 Ud I 10  当該用例では,樹皮をまとう(dārucīriya)Bāhiya

    の死後,ブッダが比丘達に,Bāhiyaの塔の作成を命じる。Bāhiyaは死亡

    するまで upāsakaとなっていないし,出家・具足戒を得ることも望んでお

  • 112 遺体供養について(名和隆乾)

    らず,また地の文がBāhiyaをāyasmā(尊者)と称していない(註⑼参照)。

    ゆえに Bāhiyaは,仏教の出家教団員でも在家信者でもない者と考えられ

    る。以下は,そうした Bāhiyaの塔が作成される際の記述である。

    Ud I ₁₀ (p. ₈f.)

     atha kho Bāhiyassa dārucīriyassa bhagavato imāya samkhittāya

    dhammadesanāya tāva-d-eva anupādāya āsavehi cittam vimucci.

    atha kho bhagavā Bāhiyam dārucīriyam iminā samkhittena ovādena

    ovaditvā pakkāmi. atha kho acirapakkantassa bhagavato Bāhiyam

    dārucīriyam gāvī tarunavacchā adhipātetvā jīvitā voropesi. atha kho

    bhagavā Sāvatthiyam pindāya caritvā pacchābhattam

    pindapātapatikkanto sambahulehi bhikkhūhi saddhim nagaramhā

    nikkhamitvā addasa Bāhiyam dārucīriyam kālankatam. disvāna

    bhikkhū āmantesi. ganhatha bhikkhave Bāhiyassa dārucīriyassa

    sarīrakam. mañcakam āropetvā nīharitvā jhāpetha. thūpañ c’ assa

    karotha. sabrahmacārī vo bhikkhave kālankato ti. evam bhante ti kho

    te bhikkhū bhagavato patisunitvā Bāhiyassa dārucīriyassa sarīrakam

    ganhitvā(19)

    mañcakam āropetvā nīharitvā jhāpetvā thūpañ c’ assa

    karitvā yena bhagavā ten’ upasankamimsu. upasankamitvā

    bhagavantam abhivādetvā ekamantam nisīdimsu. ekamantam nisinnā

    kho te bhikkhū bhagavantam etad avocum. daddham bhante

    Bāhiyassa dārucīriyassa sarīram. thūpo c’ assa kato. tassa kā gati. ko

    abhisamparāyo ti. pandito bhikkhave Bāhiyo dārucīriyo paccapādi

    dhammass’-ānudhammam. na ca mam dhammādhikaranam viheseti.

    parinibbuto bhikkhave Bāhiyo dārucīriyo ti.

     さて,世尊の簡潔な dhammaに関するこの教示によって,まさし

  • 遺体供養について(名和隆乾) 113

    くそれだけで,執着しないで,流入(āsava)達から,樹皮をまとう

    Bāhiyaの心が解き放たれたのだ。さて,世尊は樹皮をまとう Bāhiya

    に,簡潔なこの訓示によって訓示してから進み去ったのだ。さて,世

    尊が進み去って間もなく,樹皮をまとう Bāhiyaに若牛に連れた雌牛

    が突進し,命を奪ったのだ。さて,世尊は Sāvatthī を托鉢のために歩

    んでから,食事の後,托鉢から戻り,多くの比丘達と共に街から去り,

    樹皮をまとう Bāhiyaが死んでいるのを見たのだ。見てから,比丘達

    に〔世尊は〕告げた。「比丘達よ,樹皮をまとう Bāhiya の遺体

    (sarīraka)を君達は摑め。担架(mañcaka)に乗せ,運び出し,君達

    は焼け。そしてこの者の塔を君達は作れ。比丘達よ,君達と梵行を同

    じくする者(sabrahmacārin(20)

    )が死んだ」。「立派な人よ,その様に」

    と,かの比丘達は世尊に返答してから,樹皮をまとう Bāhiyaの遺体

    を摑み,担架に乗せ,運び出し,焼き,そしてこの者の塔を作ってか

    ら,世尊のいる方へと近づいたのだ。近づいてから,世尊を敬仰し,

    一隅に座った。一隅に座ったかの比丘達は,世尊にこのことを語った

    のだ。「立派な人よ,樹皮をまとう Bāhiyaの身体(sarīra)は焼かれ

    た。そしてこの者の塔が作られた。彼の(死後の)行き先は何か。(死

    後の)到達先は何か」と。「比丘達よ,賢者である樹皮をまとう

    Bāhiya は,法随法(dhammassānudhamma)を実践した。また,

    dhammaを主題とする私を煩わせなかった。比丘達よ,樹皮をまとう

    Bāhiyaは般涅槃した」と。

     ここでは,ブッダが比丘達に「遺体を摑み(ganhatha)……この者

    (Bāhiya)の塔を作れ(thūpañ c’ assa karotha)」と命じている。その直後

    に Bāhiyaが sabrahmacārinと呼ばれる理由には問題が残るが(註⒇参照),

    当該用例から分かることとして,仏教の出家教団員でも在家信者でもない

  • 114 遺体供養について(名和隆乾)

    者に対し,比丘達が塔の作成までの一連の行為を行う点,そしてその一連

    の行為をブッダが命ずる点が注目される。一方,死んだ Bāhiyaに塔が作

    成された理由について,註釈(Ud‒a)は次の様に述べる。

    Ud-a (p. ₉₇)

      tʰūpañ  c’  assa  karotʰā ti assa Bāhiyassa sarīradhātuyo gahetvā

    cetiyañ ca karotha. tattha kāranam āha, sabraʰⅿacārī vo bʰikkʰave 

    kāˡakato ti. tass’ attho. yam tumhe setth’-atthena brahmam

    adhisīlādipatipattidhammam sandittham caratha, etam so tumhehi

    samānam brahmam acarī ti sabrahmacārī maranakālassa pattiyā

    kālankato. tasmā tam mañcakena nīharitvā jhāpetha. thūpañ c’assa

    karothā ti. ……(中略)…… kiñcāpi(21)

    tassa thūpakaranānattiyā va

    parinibbutabhāvo atthato pakāsito hoti, ye pana bhikkhū tattakena

    na jānimsu, te tassa kā gatī ti pucchimsu. pākatataram vā

    kārāpetukāmā tathā bhagavantam pucchimsu.

     thūpañ c’ assa karothaとは,この Bāhiyaの遺骨(sarīradhātu)達

    を摑み,そして君達は墓標(cetiya)を作れ〔という意味である〕。

    そこで,sabrahmacārī vo bhikkhave kālakatoと,理由を言っている。

    それの意味は〔次の通り〕。「最高の意味という点で,すぐれた生活習

    慣を初めとする実践という dhamma であり,共に見られた

    (sandittha)その梵〔行〕を君達が行うところの,君達と同じかの梵

    〔行〕を,彼(Bāhiya)は行なったと〔いう意味で〕梵行を同じくす

    る者が,死の時の到達によって死んだ。それゆえに彼を担架で運び出

    し,君達は焼け。そしてこの者の塔を君達は作れ」と。……(中略)

    ……彼(Bāhiya)の塔を作ることに関する命令だけによって,般涅槃

    したことは意味の点からは明らかにされているが,それだけ(塔を作

  • 遺体供養について(名和隆乾) 115

    ることに関する命令が為されただけ)でその比丘達が〔Bāhiyaが般

    涅槃したことが〕分からなかったところの,彼らが「彼の(死後の)

    行き先は何か」と尋ねた。或いは,より明らかにさせたくて,その様

    に世尊に尋ねた。

     ここでは,Bāhiya の塔作成が命じられた理由は “yam tumhe setth’

    -atthena ...... maranakālassa pattiyā kālankato”とされている。一方,この

    記述より後には「彼(Bāhiya)の塔を作ることに関する命令だけによって,

    般涅槃したことは意味の点からは明らかにされている(tassa

    thūpakaranānattiyā va parinibbutabhāvo atthato pakāsito)」とある。ここ

    で Ud‒aが「塔が作成される者が般涅槃者であることは自明」と述べる以上,

    先の “yam tumhe setth’-atthena ...... maranakālassa pattiyā kālankato”の

    部分は,内容的には Bāhiyaが般涅槃したことを述べていることになる。

    つまり Ud‒aは,塔作成が命じられた理由を Bāhiyaが般涅槃したためと

    解している。ただし,Ud‒aの理解がUd I ₁₀の意図するところと一致する

    か否かには検討の余地が残る(註⒆参照)。

     §3.2.2 Dhp-a  当該用例では,在家者 Santati大臣が般涅槃した後,

    塔が作成される。以下の引用は,Santati大臣がブッダの説法を聞いて阿

    羅漢となった後,ブッダに命じられ,自身の過去世を語り終えた所からの

    ものである。

    Dhp-a (III p. ₈₂f.)

     ākāse nisinno va tejodhātum samāpajjitvā parinibbāyi. sarīre jālā

    utthahitvā mamsalohitam jhāpesi. sumanapupphāni viya dhātuyo

    avasissimsu. satthā suddhavattham pasāresi. dhātuyo tattha patimsu.

    tā pakkhipitvā catumahāpathe thūpam kāresi, mahājano vanditvā

  • 116 遺体供養について(名和隆乾)

    puññabhāgī bhavissatī ti.

     〔Santati大臣は〕空中にまさしく座った状態で,火界に到達してか

    ら般涅槃した。〔Santati大臣の〕身体に炎が出現し,肉と血を焼いた。

    遺骨達は,ジャスミンの花達が〔降る〕如くに降った。先生(ブッダ)

    は清まった衣を広げた。遺骨達はそこに落ちた。落ちたそれら(遺

    骨)を収めてから,「大衆が礼拝すれば,福徳を享受する者となるだ

    ろう」と,四つ辻に塔を kāresi(「作った/作らせた(22)

    」)。

     ここでは,般涅槃した Santati大臣の遺骨をブッダ自身が集めた後,四

    つ辻に塔を kāresi(〔ブッダが〕作った/〔誰かに〕作らせた)。註21参照)

    とある。この kāresiを使役で解すると,誰に作らせたかは明示されていな

    いことになる。その場合でも,般涅槃者だが明らかに在家者である

    Santati 大臣の塔の作成を,ブッダが命じている点が注目される。この

    kāresiをどちらの意味で解すべきか,今は判断材料を持たないので,問題

    点の指摘に留めておく。また上の引用箇所からは,般涅槃した在家者

    Santati大臣の塔を礼拝(√vand)すれば,福徳(puñña)が得られること

    が知られる。

     §3.2.3 MN 91  当該用例では,在家信者となったバラモンが死亡し

    た際,比丘達が彼の再生先を尋ねると,ブッダは死んだバラモンが不還果

    に達したことを述べる。しかし,ここでは葬儀に関する記述は含まれない。

    MN ₉₁ (II p. ₁₄₆)

     Brahmāyu bhante brāhmano kālakato. tassa kā gati. ko abhisam-

    parāyo ti. pandito bhikkhave Brahmāyu brāhmano. paccapādi

    dhammassānudhammam. na va mam dhammādhikaranam vihesesi.

    Brahmāyu bhikkhave brāhmano pañcannam oramb hāgi yānam

  • 遺体供養について(名和隆乾) 117

    samyojanānam parikkhayā opapātiko hoti. tattha parinibbāyī

    anāvattidhammo tasmā lokā ti. idam avoca bhagavā. attamanā te

    bhikkhū bhagavato bhāsitam abhinandun ti.

     (比丘達が世尊に尋ねる)「立派な人よ,Brahmāyuバラモンが死ん

    だ。彼の(死後の)行き先は何か,(死後の)到達先は何か」と。「比

    丘達よ,Brahmāyu バラモンは賢者である。法随法を実践した。

    dhammaを主題とする私を決して煩わせなかった。比丘達よ,Brah-

    māyuバラモンは,五下分結を滅ぼし尽くして化生者となる。そこで

    般涅槃し,かの世界から戻らぬ定めを持つ者である」と。このことを

    世尊は語った。〔喜びのあまり〕思考が奪われたかの比丘達は,世尊

    によって語られたことに歓喜した,と。

     ここでは不還果に達した在家信者が死亡しても,ブッダは比丘達に葬儀

    を命じていない。般涅槃した在家者に対し,遺体供養が行われる§₃.₂.₂

    の用例と比較すると興味深い。

     §3.2.4 遺体供養が命じられた理由  上に検討した三例を考慮すると,

    NidSa ₂₀において遺体供養が命じられた理由は次の様に解され得る。まず,

    出家教団に属さない者に対し,出家教団が葬儀を行っていることが確実な

    のは,Ud I ₁₀とNidSa ₂₀の二例である。Ud I ₁₀で葬儀が指示された理由

    は,死亡者が sabrahmacārinであったからか,或いは般涅槃したからかの

    どちらかであった。一方,NidSa ₂₀の Acelakāśyapaは般涅槃しているが,

    sabrahmacārinとは称されていない。ゆえに,sabrahmacārinであること

    が NidSa ₂₀で遺体供養が命じられた理由とは考え難い。また,Ud‒aは

    Bāhiyaに対して塔作成が命じられた理由を,Bāhiyaが般涅槃したからと

    解していた。また,般涅槃した在家者には塔が建立されたが,不還果に達

  • 118 遺体供養について(名和隆乾)

    して死亡した在家者には葬儀に関する記述は含まれなかった。以上から,

    NidSa ₂₀でブッダが比丘達に,出家教団に属さない Acelakāśyapa(在家

    信者または「非在家の upāsaka」)への遺体供養を命じた理由は,彼が般涅

    槃者であったからと考えられる。

    §4 まとめ

     これまでの検討を以下にまとめる。ブッダからの説法後,Acelakāśyapa

    は仏教の在家信者,または「非在家の upāsaka」となった。現段階ではど

    ちらか決し難いが,upāsakaとなっている以上,少なくとも彼が出家教団

    に属さない者であることは明らかである。その後,Acelakāśyapaは阿羅

    漢として死んだ(つまり般涅槃した)。そして,出家教団に属さない

    Acelakāśyapaに対し,ブッダは比丘達に遺体供養を命じた。遺体供養が

    命じられた理由は,Acelakāśyapaが般涅槃したためと考えられる。NidSa

    ₂₀における遺体供養は,以上の様に解される。

     ところで,例えば DN ₁₆(II p. ₁₄₂)では,在家信者による仏塔への捧

    げ物や礼拝は利益や安楽になるとされる。また同箇所によれば,如来など

    の塔を見て人々が心を澄み渡らせることで,死後に生天するという。しか

    し,NidSa ₂₀ではブッダは,そうした世俗的な利益を求める在家信者にで

    はなく,解脱を最終目標とする出家僧達に遺体供養を命じている。なぜこ

    こではブッダは,出家僧達に Acelakāśyapaへの遺体供養を命じたのか。

    出家僧が死亡した場合ならば,同僚の出家僧が彼の葬儀を行うことは知ら

    れているが(榎本[₂₀₀₇, pp. ₁₆₃ff.]),Acelakāśyapaは出家教団員でもな

    い。この疑問に関連して興味深いのが,§₃.₂.₂の用例である。ここでは般

    涅槃した在家者 Santati大臣の塔を礼拝すれば,福徳が得られると述べら

  • 遺体供養について(名和隆乾) 119

    れていた。これに基づいて考えると,NidSa ₂₀で出家僧達に,般涅槃した

    Acelakāśyapaへの遺体供養が命じられた理由とは,出家僧達自身に利益

    をもたらすことが目的とされていたのではなく,礼拝すれば福徳をもたら

    す般涅槃者の塔を作成することで,人々が福徳を積むきっかけを作るため

    だった可能性が考えられる。初期仏教における,仏弟子(ここでは特に出

    家僧)とは何か。そう問われたとき,我々がすぐに思い浮かべるのは,自

    らの解脱のために修行したり,他者に教えを説く出家僧の姿である。しか

    しそうした側面以外にも,出家僧達は般涅槃者の塔を作成することで,

    人々が福徳を積むきっかけを作る役割をも担っていた可能性が考えられる。

    参考文献J. Chung [₂₀₀₈] A  Survey  of  tʰe  Sanskrit  Fraɡⅿents  Correspondinɡ  to 

    tʰe Cʰinese Samyuktāɡaⅿa雜阿含經相當梵文斷片一覧,山喜房佛書林。S. Dietz (ed.) [₁₉₈₄] Fraɡⅿente des Dʰarⅿaskandʰa︐ Ein Abʰidʰarⅿa︲

    Text  in  Sanskrit  aus  ɢiˡɡit, AAWG Phil.-Hist. Klasse ₃, Folge ₁₄₂, Göttingen.

    P. Masefield [₂₀₀₁] Tʰe  Udāna  Coⅿⅿentary, ₂ vols., Oxford (first published ₁₉₉₄) .

    Ch. Tripāthī (ed.) [₁₉₆₂] Fünfundzʷanziɡ Sūtras  des ɴidānasaⅿyukta, Berlin.

    E. Waldschmidt [₁₉₆₂] Das Catusparisatsūtra, III, Berlin.榎本文雄[₂₀₀₇]「インド仏教における葬儀と墳墓に関する研究動向」江川溫(編)『死者の葬送と記念に関する比較文明史 ─ 親族・近隣社会・国家 ─ 』,pp. ₁₆₀‒₁₆₉.河崎豊[₂₀₀₆]「saddharmaという複合語について」『待兼山論叢』₄₀(哲学篇),pp. ₁‒₁₅(L).佐々木閑[₁₉₉₈]「グレゴリー・ショペンによる僧団研究の新たな展開」仏教史学会例会口頭発表,₁₉₉₈年3月₂₈日,佛教大学。

  • 120 遺体供養について(名和隆乾)

    玉城康四郎[₁₉₈₈]「「死」の覚え書き」『死』(『仏教思想』₁₀),平楽寺書店,pp. ₄₆₁‒₅₄₆.

    福田琢[₁₉₉₉]「『業施設』について」『日本佛教學會年報』₆₅,pp. ₅₅‒₇₆.藤田宏達[₁₉₈₈]「原始仏典にみる死」『死』(『仏教思想』₁₀),平楽寺書店,

    pp. ₅₅‒₁₀₅.

    註⑴ 当該問題を含め,インド仏教における葬儀と墳墓に関する先行研究を追うにあたって佐々木[₁₉₉₈],榎本[₂₀₀₇]を参照した。なお,紙幅の都合により,発表当日に挙げていた先行研究と考察を一部割愛している。

    ⑵ NidSa ₂₀のトランスクリプション(Hs. ₂₀.₁₀‒₂₃.₁)及び復元テキストはTripāthī[₁₉₆₂]に基づくが,適宜,International Dunhuang Projectのウェブサイトで公開されている写本の画像を参照した。復元テキストにおける記号表記は Tripāthī に従っている。NidSa ₂₀パラレルについては Chung[₂₀₀₈, p. ₁₁₁f.]参照。これに登録はないが,『業施設論』から NidSa ₂₀全文が回収できる(福田[₁₉₉₉]参照)。また,本稿が用いる略号は A Criticaˡ Pāˡi Dictionaryの Epilegomenaに従う。使用するパーリ語文献は Ee を底本とし,適宜 Be(Chattha Sangāyana CD‒ROM),Se(電子テキスト)を使用した。⑶ śarīrapūjā と塔作成の関係については榎本[₂₀₀₇, p. ₁₆₀f]参照。⑷ Hs. paścādbhaktapindapātam pratikrāntā pātracīvara[m]; Tripāthī

    paścādbhaktapindapātam pratikrāntāh / pātracīvaram; E. Waldschmidt et aˡ.︐ Sanskrit︲Wörterbucʰ der buddʰistiscʰen Texte aus den Turfan︲Funden, ₁₉₇₃ff.(以後 SWTF)s. v. paścādbhakta-pindapāta-pratikrān-tāh.⑸ Hs. par · ·· ·· ·· ·· · āk[ā]rsīt //; Tripāthī pa(ramam vyākaranam)akārsīt.⑹ dravyajātīya. SWTFによるこの語の登録はこの箇所のみ。SWTF s.v.

    dravyajātīya “von tüchtiger Natur, tüchtig, fähig”; Tripāthī [₁₉₆₂, p. ₁₇₈] “ein Mann von Substanz.”⑺ śarīre śarīrapūjām. śarīreは複合語 śarīrapūjā の前分の格を説明したものと考えられる。河崎[₂₀₀₆]参照。

  • 遺体供養について(名和隆乾) 121

    ⑻ 当該箇所については§₃.₁で考察する。⑼ パーリパラレル SN ₁₂,₁₇(II pp. ₁₈‒₂₂)では,Acelakassapaはブッダの説法を聞いた後,ブッダのもとで出家・具足戒を得ることを望むが,彼が aññatitthiya(異教徒)であったために parivāsaが求められる。「Kassapaよ,かつての異教徒が,この教え・教団規則において出家を望み,受戒を望むところの,その者は四か月間別住する(yo kho Kassapa aññatitthiyapubbo imasmim dhammavinaye ākankhati pabbajjam, ākankhati upasampadam, so cattāro māse parivasati. SN ₁₂,₁₇(II p. ₂₁))」。また次に示す通り,Acelakassapaが出家・具足戒を得ると,地の文における呼称が acelaから āyasmā(尊者)に変化する。「Acelakassapaは世尊のもとで出家を得,受戒を得たのだ。また一方で,一人で不放逸に,熱心に,努力して過ごす,受戒して間もない尊者(āyasmā)/Kassapa は ……(alattha kho acela Kassapo bhagavato santike pabbajjam, alattha upasampadam. acir’-ūpasampanno ca panāyasmā Kassapo eko vūpakattho appamatto ātāpī pahitatto viharanto nacirass’ eva ...... SN ₁₂,₁₇(II p. ₂₁))」。こうした呼称の変化は多数見られる(例えばMN ₅₇(p. ₃₉₁f.) acelo Seniyo kukkuravatiko → āyasmā Seniyo; Catusparisatsūtra ₁₉.₄‒₆(Waldschmidt [₁₉₆₂, p. ₄₅₄f.]) kulikaput rāh→āyusmantah; 『雜阿含經』第九七九経(T vol.₂, p. ₂₅₄b) 須跋陀羅外道出家→尊者須跋陀羅)。⑽ SWTF s.v.(avadāta-vasa)na “dessen  Kˡeidunɡ  ʷeiß  ist︐  ʷeißɡekˡe︲

    idet”; CPD s.v. odāta-vasana “ʷearinɡ ʷʰite cˡotʰes.”ただし当該箇所のパラレルとされる『雜阿含經』第九二七経では「在家清白修習淨住」(T vol. ₂, p. ₂₃₆b)。

    ⑾ 一方,SN ₅₅,₃₇(V p. ₃₉₅)における upāsakaの条件は三帰依のみで,grhinや avadātavasanaは含まれていない。「ブッダに帰依し,教えに帰依し,僧伽に帰依した人となるゆえに,この限りで,Mahānāmaよ,upāsaka と な る の だ」と(yato kho buddham saranam gato hoti, dhammam saranam gato hoti, sangham saranam gato hoti. ettāvatā kho mahānāma upāsako hotī ti. SN ₅₅,₃₇(V p. ₃₉₅))。⑿ ちなみに NidSa ₂₀.₂₃におけるブッダの発言では,死亡した

  • 122 遺体供養について(名和隆乾)

    Acelakāśyapaは kulaputraと称される。しかし本註で以下に示す様に,この語は出家者に対して用いられることもあるから,kulaputraと称されることは在家者であることを必ずしも保証しない。まず SN ₄,₃,₃では,Godhikaは bhikkhuとは称されないが,地の文が彼を āyasmā と称すること(註⑼参照),そして Th(当該文献に現れる偈の誦者は出家者)の第₅₁偈に Godhikaの偈が見られることから,Godhikaは出家教団員と考えられる。その Godhikaが以下に示す箇所で kulaputtaと称される。SN ₄,₃,₃(I p. ₁₂₂) 「Godhikaという良家の一員の(Godhikassa kulaputta-ssa)」;SN ₄,₃,₃パラレル『雜阿含經』第一〇九一経(T vol. ₂, p. ₂₈₆b)「瞿低迦善男子」。次に,SN ₂₂,₈₇では bhikkhu である Vakkhali(SN ₂₂,₈₇. III p. ₁₁₉ Vakkhali bhante bhikkhu ābādhiko dukkhito)が,以下に示す箇所で kulaputtaと称される。SN ₂₂,₈₇(III p. ₁₂₄)「Vakkhaliという良家の一員の(Vakkalissa kulaputtassa)」;SN ₂₂,₈₇パラレル『雜阿含經』第一二六五経(T vol. ₂, p. ₃₄₇b)「跋迦梨善男子」。⒀ P om. yons su.⒁ P kyis.⒂ P om /.⒃ P kyi.⒄ D kyi.⒅ 「第一記」の語義については藤田[₁₉₈₈, p. ₇₅],玉城[₁₉₈₈, p. ₄₇₄]に言及がある。両氏によればこの語は般涅槃を意味するというが,以下に述べる様に,筆者には「第一記」の語義は「解説対象者が阿羅漢であることの解説」の様に思われる。いずれで解しても筆者の論旨との齟齬は生じない。さて,藤田[₁₉₈₈, p. ₇₅]は『雜阿含經』第一二六五経に現れる「第一記」を「「般涅槃」をさす」として,「第一記」が現れる『雜阿含經』第三〇二,一〇二五,一〇九一経を指摘する。また,玉城[₁₉₈₈, p. ₄₇₄]は『雜阿含經』第一二六六経に現れる「第一記」を「おそらく般涅槃のことを指す」として,「第一記」が現れる『雜阿含經』第一〇九一経を指摘する。ただし両論文では「第一記」の用例が指摘されるのみで,詳しい考察は為されていない様に思われる(ちなみに両氏の指摘した用例における「第一記」対象者は,全て般涅槃していると思わ

  • 遺体供養について(名和隆乾) 123

    れる)。しかし,「第一記」の用例として,さらに『雜阿含經』第九六四経が指摘できる。ここでは「第一記」対象者は阿羅漢となるが,死亡してはいない。したがってここでの「第一記」は般涅槃を意味しない。次に『雜阿含經』第一二六六経を除き,「第一記」が用いられる際の記述は,例えば『雜阿含經』第三〇二経(T vol. ₂, p. ₈₆b)を挙げれば,次の様な形式を取る。『雜阿含經』第三〇二経(T vol. ₂, p. ₈₆b)「佛告諸比丘。彼已見法,知法,次法,不受於法,已般涅槃。汝等當往供養其身。爾時,世尊為阿支羅迦葉受第一記」。ここで,「第一記」が般涅槃を意味するとすれば,太字で示した「爾時」が「前後の文の言い換え」として機能している必要がある。だが,この「爾時」に相当すると思われるサンスクリットの単語は “tatra(NidSa ₂₀.₂₄)”である。tatraが繫ぐ前後の文は通常,言い換えではない。したがって「第一記」が般涅槃を意味するとは考え難い。吏に,次の用例が参考となる。『中阿含経』第一六一経(T vol. ₁, pp. ₆₈₉c‒₆₉₀a)「……於是,衆多比丘舍衛乞食時,聞彼彌薩羅梵志梵摩以偈問佛事,彼便命終。諸比丘聞已,食訖,中後收舉衣鉢,澡洗手足,以尼師檀著於肩上,往詣佛所,稽首作禮,却住一面,白曰。世尊,我等衆多比丘平旦著衣,持鉢入舍衛乞食時,聞彼彌薩羅梵志梵摩以偈問佛事,彼便命終。世尊,彼至何處,為生何許,後世云何。世尊答曰。比丘,梵志梵摩極有大利,最後知法,為法故不煩勞我。比丘,梵志梵摩五下分結盡,生彼得般涅槃,得不退法,不還此世。爾時,世尊記說梵摩得阿那含。佛說如是。梵志梵摩及諸比丘,聞佛所說,歡喜奉行」。ここでは比丘達が,死亡した在家信者の再生先を尋ねる。これに対しブッダが「梵志梵摩極有大利……不還此世」と解答した後,地の文で「世尊記說梵摩得阿那含」と続く。ここでの一連の流れが「第一記」の用例と形式的にパラレルであるにも関わらず,「記説」の内容が「死亡した在家信者が四果中の阿那含果を得ていたこと」である点が注目される。これを参考にすると,「第一記」の語義は「解説対象者が四果中の最高(「第一」)の果(つまり阿羅漢果)に達したことを解説すること」であると考えられる。『雜阿含經』第一二六六経の検討は紙幅の関係で割愛するが,これを検討しても,やはり以上の様に解する方が自然な様に思われる。⒆ Ee, Seに g̀anhitvā はないが,Beの読みを取った。

  • 124 遺体供養について(名和隆乾)

    ⒇ 仏教の出家教団員でも在家信者でもない Bāhiyaが,何故に比丘達と「梵行を同じくする者(sabrahmacārin)」と呼ばれるのか。ブッダのもとを訪れる以前の Bāhiyaは,神格から「決して阿羅漢ではないし,或いは阿羅漢性への道に到達した者でもないし,それによって君が阿羅漢であるか,或いは阿羅漢性への道に到達した者であり得るところの,その実践も君には存在しないのだ(n’ eva kho tvam Bāhiya arahā, nāpi arahattamaggam vā samāpanno, sā pi te patipadā n’ atthi, yāya tvam arahā vā assa arahattamaggam vā samāpanno. Ud I ₁₀(p. ₇))」と語られている。ゆえに,ブッダから説法を受ける前の Bāhiyaが sabrah-macārinとは考え難い。従って Bāhiyaが sabrahmacārinと呼ばれる理由は,ブッダからの説法以降,般涅槃するまでの間に求められねばならない。ここで,Bāhiyaが sabrahmacārinと呼ばれる理由として次の二つの可能性が考えられる。すなわち,阿羅漢果を得るには至らずとも,ブッダの説法を理解したことによって sabrahmacārinと見なされた可能性,もう一つはブッダの説法を理解したのみでなく,加えて阿羅漢果に到達したことによって sabrahmacārinと見なされた可能性である。しかし Bāhiyaは説法を受けた直後に阿羅漢になっていると考えられるから,上記二つの可能性のいずれが sabrahmacārinと呼ばれる理由なのかは判断が難しい。更なる考察は sabrahmacārinという術語を考察した上で為されるべきなので,今は問題点の指摘にとどめる。21 Ee kiñcāpi tassa thūpakaranam n’ atthi yāva; Masefield [₂₀₀₁ vol. ₁,

    p. ₂₆₀, n. ₁₅₀₁] “Reading thūpakaranānattiyā va with Ce Be Se for text’s(筆者註:Ee’s) thūpakaranam n’ atthi yāva.” Masefieldに従う。22 kāresi. CPD s.v. kārayati(p. ₄₅₄a, ˡ. ₁) “~ ati and kāreti are ⅿostˡy 

    used in a non︲causative ⅿeaninɡ.”

    078_a-2_05_101_Part20078_a-2_05_102_Part19078_a-2_05_103_Part18078_a-2_05_104_Part17078_a-2_05_105_Part16078_a-2_05_106_Part15078_a-2_05_107_Part14078_a-2_05_108_Part13078_a-2_05_109_Part12078_a-2_05_110_Part11078_a-2_05_111_Part10078_a-2_05_112_Part09078_a-2_05_113_Part08078_a-2_05_114_Part07078_a-2_05_115_Part06078_a-2_05_116_Part05078_a-2_05_117_Part04078_a-2_05_118_Part03078_a-2_05_119_Part02078_a-2_05_120_Part01