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61 〔研究ノート〕 法学・法理論・法哲学 その関連についての覚書はじめに 1)私の研究生活は、刑法という法分野で始まった。修士論文の研究 テーマは、誤想防衛を中心とする「違法阻却事由の錯誤」で、犯罪論 Verbrechenslehreのなかの責任論 Schuldlehreの問題である。そして、日 本の通説とは反対に、ドイツの Hans Welzel に従い、誤想防衛を責任説 Sculdtheorieの立場から違法性の錯誤として扱った①。したがって、この とき責任説という「理論」 Theorieを研究したことになる。しかし、大学 院法学研究科における私の所属は、「刑法学」 Strafrechtswissenschaft専攻 の研究室であった。「刑法学」とは、まさに実証主義的な「刑法教義学」 Strafrechtsdogmatikである。 2)やがて、Welzel に従うならば、彼の唱導する目的的行為論 finale Handlungslehreを徹底的に研究するべく、その研究をすることにした②。と ころが、この目的的行為論は意味志向性 Sinnintentionalität論であり、しか もその志向性は、Welzel によると生物学的に基礎づけられていたので③、 私は、彼の刑法学以外の論文を読破しなければならないと考え、彼の実践 的な刑法学論文ではなく、彼の目的的行為論という刑法学を基礎づけてい る「法哲学」 Rechtsphilosophie関係の論文を読み始めた④。 3)つまり私は、「刑法学」を研究するために、Welzel の「(刑)法理論」 に寄り添い、更に彼の「法哲学」に首を突っ込んだのである。しかも、彼

法学・法理論・法哲学 - 駒澤大学repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/36110/rhg016-1...本の通説とは反対に、ドイツのHans Welzelに従い、誤想防衛を責任説

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二八

61

〔研究ノート〕

法学・法理論・法哲学―その関連についての覚書―

松 村   格

はじめに

 (1)私の研究生活は、刑法という法分野で始まった。修士論文の研究

テーマは、誤想防衛を中心とする「違法阻却事由の錯誤」で、犯罪論

(Verbrechenslehre)のなかの責任論(Schuldlehre)の問題である。そして、日

本の通説とは反対に、ドイツの Hans Welzel に従い、誤想防衛を責任説

(Sculdtheorie)の立場から違法性の錯誤として扱った①。したがって、この

とき責任説という「理論」(Theorie)を研究したことになる。しかし、大学

院法学研究科における私の所属は、「刑法学」(Strafrechtswissenschaft)専攻

の研究室であった。「刑法学」とは、まさに実証主義的な「刑法教義学」

(Strafrechtsdogmatik)である。

 (2)やがて、Welzel に従うならば、彼の唱導する目的的行為論(fi nale

Handlungslehre)を徹底的に研究するべく、その研究をすることにした②。と

ころが、この目的的行為論は意味志向性(Sinnintentionalität)論であり、しか

もその志向性は、Welzel によると生物学的に基礎づけられていたので③、

私は、彼の刑法学以外の論文を読破しなければならないと考え、彼の実践

的な刑法学論文ではなく、彼の目的的行為論という刑法学を基礎づけてい

る「法哲学」(Rechtsphilosophie)関係の論文を読み始めた④。

 (3)つまり私は、「刑法学」を研究するために、Welzel の「(刑)法理論」

に寄り添い、更に彼の「法哲学」に首を突っ込んだのである。しかも、彼

二七

62 法学・法理論・法哲学(松村)

の刑法理論を支える「事物論理的構造」論という法哲学的見解を理解す

るために、比較文献として、事物の本性に関する Gustav Radbruch, Arthur

Kaufman, Karl Engisch, Helmut Coing, Herbert Schambeck, Welner Maihofer, な

どの法哲学文献を考察することにしたのである⑤。私の処女論文は、まさ

に「『事物の本性』と目的的行為論の基礎」であり、次いで「正犯と共犯

の事物論理的関係―ヴェルツェルとエンギッシュの論争を中心にー」へと

発展した⑥。

 (4)ところが、Welzel は晩年に、目的的行為論は、サイバネティクス行

為論であると言明し、それ以上を語らずに鬼界に入ってしまったので⑦、

私は、この点の問題を自分で検討せざるを得なくなったのである。こうし

て私は、サイバネティクスというシステム理論の世界に入り込み⑧、やが

て一般的システム理論⑨そして社会的システム理論⑩へと進み⑨、かかる

システム理論を根拠とした刑法学方法論を確立しようと試み⑪、更にオー

トポイエーシス(アウトポイエセ)理論にまで視線を伸ばした次第である⑫。

 (5)このような変遷を振り返ってみた時、はてさて「(刑)法学」つまり

「(刑)法教義学」と「(刑)法哲学」そして「(刑)法理論」とは如何なる関

係にあるのかという疑問が湧いてきた。研究者生活を終える時期が到来す

ると、増々その疑問が深まってきた。しかし、この問題は、基礎法学の専

門分野の問題であり、特段に刑法という実定法の分野で生きてきた私には、

解くことのできない問題であるが、何らかの納得できる私なりの覚書でも

まとめれば幸いと考え、基礎法分野の研究者にとって本稿は稚拙な論稿に

思われることを覚悟して、僅かながらドイツ文献を中心的資料として自分

なりの頭の整理をしておきたいと思うに至ったのである。なお日本では。

「法哲学」と「法理学」との関係が問題にされたようだが、この点に関しては、

本稿では立ち入らない⑬。

① Hans Welzel, Der Irrtum über einen Rechtfertigungsgrund, NJW 1952.; Ders., Zur

二六

63法学・法理論・法哲学(松村)

Abgrenzung des Tatbestantsirrtum und Verbotsirrtum, MDR 1952.

② H. Welzel, Um die finale Handlungslehre. Recht und Staat, Heft 146,1949.; Ders.,

Studien zum System des Strafrecht. ZStW, Bd.58,1939.

③ H. Welzel, Persönlichkeit und Schuld, ZStW. Bd.60, 1941.

④ H. Welzel, Strafrecht und Philosophie, 1930. in: ders., Vom Bleibenden und vom

Vergänglichen in der Strafrechtswissenschaft, Marburg 1964.;Ders., Über Wertungen

im Strafrecht, in: Der Gerrichtssaal Bd.103, 1933.; Ders., Naturaliamus und

Wertphilosophie im Strafrecht. Untersuchungen über die ideologischen Grundlagen der

Strafrechtswissenschaft, Manheim/Berlin/Leipniz 1935, in:ders., Abhandlungen zum

Strafrecht und zur Rechtsphilosophie, Berlin/New York 1975.

⑤ Gustav Radbruch, Rechtsidee und Rechtsstoff. Eine Skizze, in: Die ontologische

Begründung des Rechts, in: Arthur Kaufmann(Hrsg.), Die ontologische Begründung des

Rechts, Darmstadt 1965. 野田良之訳「法理念と素材―1個のスケッチー」ラー

トブルフ著作集『法における人間』東大出版・第 5巻 1962年所収 ; Ders., Die

Natur der Sache als juristische Denkform, in: Festschrift Rudolf Laun. 久保正幡訳「法

学的思考形式としての「事 物の本性」」ラートブルフ著作集『イギリス法の精

神』東大出版・第 6版 1967年所収 ; Ders., Vorschule der Rechtsphilosophie, 3.Aufl .

Heidelberg 1965, besorgt von Arthur Kaufmann.; Ders., Rechtsphilospohie. Hrsg. von

Erik Wolf, 7.Aufl . Stuttgart 1970.

Arthur Kaufmann, Die ontologische Struktur des Rechts, in: ders. (Hrsg.), a.a.O..; Ders.,

Analogie und „Natur der Sache‟. Zugleich ein Beitrag zur Lehre von Typus. 宮沢 / 小

林訳・法学研究(慶応)第 39巻第 7号。

Karl Engisch, Zur „Natur der Sache‟im Strafrecht.Ein Diskissionsbeitrag, in:

Art. Kaufmann(Hrsg.), a.a.O.; Ders., Die Idee der Konkretisierung in Recht und

Rechtswissenschaft unserer Zeit, 2.Aufl. Heidelberg 1968. ; Ders., Vom Weltbilt des

Juristen, 2.Aufl. Heidelberg 1965. ; Ders., Auf der Suche nach der Gerechtigkeit.

Hauptthemen der Rechtsphilocophie, München 1971.

Helmut Coing, Grudzüge der Rechtsphilosophie, Berlin 2.Aufl .1969, 5.Aufl .1993.;

二五

64 法学・法理論・法哲学(松村)

Herbert Schambeck, Der Begriff der „Natur der Sache‟. Ein Beitrag zur

rechtsphilosophischen Grundlagen-Forschung, Wien 1964.

Werner Maihofer, Die Natur der Sache, in: Art.Kaufmann(Hrsg.), a.a.O.

⑥ 法学新報・第 80巻第 11号。

⑦ H.Welzel, Zur Dogmatik im Strafrecht, in: Festschrift für Reinhart Maurach, 1972.

⑧ 代 表 的 な 文 献 だ け を 挙 げ る と、Nobert Wiener, Cybernetics. or control and

communication in the animal and the machine, Cambridge/Massachusetts 2 edition

1962.(独版 : Kybernetik. Regelung und Nachrichtenübertragung im Lebewesen und in

der Maschine, Düsseldorf/Wien 2.Aufl . 1963.)池原 / 彌永 / 室賀 / 戸田訳『ノーバー

ト = ウィーナー・サイバネティックスー動物と機械における制御と通信―』第

2版・岩波書店がある。N.Wiener, The Humann Use Of Human Beings. Cybernetics

and Society, New York 1967. 池原訳『人間機械論―サイバネティックスと社

会―』みすず書房 1972年がある。H.-J. Flechtner, Grundbegriff der Kybernetik,

Stuttgart 1.Aufl. 1972. ; W.Ross Ashby, Einführung in die Kybernetik, Frankfurt am

Main 1.Aufl .1972.; Felix von Cube, Was ist Kybernetik? ,Bremen 3.Aufl . 1975.

⑨ 代表的な文献として、Lidwig von Bertalanffy, General System Theory. Foundation,

Development, Applications, New York 1968. 長野 / 太田訳『フォン・ベルタラン

フィ 一般システム理論―その基礎・発展・応用』みすず書房 1973年 ; Walter

Buckley, Sociology and Modern Systems Theory, New Jersey 1967. 新 / 中野訳『一般

社会システム論』誠信書房・昭和 55年。; 新田俊三著『社会システム論』日

本評論社 1990年。

⑩ Talcott Parsons, Societies Evolutionary and Comparative Perspectives, Engewood

Cliffs, New Jersey 1966. ; Ders, Social Structure and Personality, London 1970. ; Ders.,

Durkheim’s Contribution to the Theory of Integration of Social System, in: Kurt H,

Wolf(Hrsg.), Emil Durkheim, 1858-1917. A Collection of Esssay. With Translation and

a Bibliography. Colombus (Ohio, Reprint. New York 1960.) ; Niklas Luhmann, Soziale

Systeme―Grundriß einer allgemeinen Theorie, Frankfurt am Main 3.Aufl . 1988. ; Wolf-

Dieter Narr, Theoriebegriffe und Systemtheorie, Stuttgart/Berlin/Köln/Mainz 4.Aufl . 1976.

二四

65法学・法理論・法哲学(松村)

; Georg Kneer/Armin Nassehi, Niklas Luhmanns Theorie sozialer Systeme, München

1993. 館野 / 池田 / 野崎訳『ルーマン 社会システム理論』新泉社 1995年。

⑪ 拙著『刑法学方法論の研究』八千代出版 1991年(博士論文・中央大学)。

⑫ Werner Kirsch, Kommiunikatives Handeln, Autopoiese, Rationalität - Sondierungen zu

einer evolutionären Führungslehre, München 1992. ; Humberto R. Maturana/Francisco

J. Varela, Autopoisis and The Realization of The Living, Holland 1991. 河本英夫訳

『オートポイエーシスー生命システムとは何か』国分社 1991年 ; H.R.Maturana/

F.J.Varela, Der Baum der Erkenntnis. Die Biologischen Wurzeln des Menschlichen

Erkennens, Bern/München 3.Aufl . 1984. 菅啓次郎訳『知恵の樹』朝日出版社 1987

年。; Gunther Teubner, Recht als autopoietisches System, Frankfurt am Main 1.Aufl .

1989. 土方 / 野崎訳『オートポイエーシスとしての法』未来社 1994年。

⑬ なお、八木鉄男「法哲学と法理学」『法の理論 4』成文堂所収によれば、明治

14年に穂積陳重が Rechtsphilosophie を「法理学」と訳し、その後に「法律哲学」

の表現を経て、昭和 10年に尾高朝雄が『法哲学』を出版して以来、戦後に「法

哲学」の呼称が普及したようである。ただし、「法哲学」とか「法律哲学」の

呼称では、形而上学に限られる懸念があることを理由に、穂積は、経験主義的・

実証主義的な Jurusprudenz(法律学)との結びつきをも考慮して「法理学」と称

したようである。他方、八木によれば、イギリスの Jurisprudenz は、19世紀後

半から 20世紀にかけて広がりを示し、戦後には大陸の「法哲学」への関心と

相まって、Jurisprudenz に対して Philosophy of Law の世界が併存し、両者の間

には厳密な分界線はないと世界的法哲学者の Herbert Lionel Adolphus Hart が言

明するまでになったようである。

第 1節 法理論について

 1-1節 理論とは?

 (1)私が 初にミュンヘン大学に留学した 1979年には、ドイツではすで

に Schriften zur Rechtstheorie(法理論に向けての諸論文)という季刊誌が存在

二三

66 法学・法理論・法哲学(松村)

していて、法論理学・法学方法論・サイバネティクス・法社会学などが扱

われていたが、日本で私が法理論(Rechtstheorie)という学問表現を目にした

のは、法学(法教義学)・法哲学・法社会学などという学問標識よりも後の

ことであり、原秀男 /ホセ・ヨンパルト /三島俶臣編の季刊誌『法の理論1』(成

文堂)の初版発刊(1981年)で初めて目にした。そして当該季刊誌は、法に

関する幅広い学問論争の場とされ、基本的には法理論と法哲学に関する問

題追及が方針とされていた。私も、ヨンパルト教授の要請により、『法の

理論 2』に拙論「システム論と自由意思―ヨンパルト論文『刑法と自由意思』

への釈明―」を寄稿したし、『法の理論 14』にも書評「ホセ・ヨンパルト著『法

の理論と哲学におけるディヒョトミー化』」を寄稿した。そこで、本稿では、

初に法理論について考えてみたいと思う。

 (2)法理論を考えるにあたっては、その前に「そもそも理論とは何か」

を熟考する必要があると Bernd Rüthers/Christian Fischer/Axel Birk が言う①。

彼らによれば、「人間の認識は、観察すること(Beobachten)と省察すること

(Nachdenken)と比較すること(Vergleichen)の協働に依拠する」ものだが、元

来ギリシャ語の theorein は、schauen(視察する)とか beobachten の意味であ

り、認識対象を注意深く考察するべく指摘しているので、したがって、「理

論という言葉は」、一方では「経験的な意味において、外界の個々の経験

と観察についての一般化(ギリシャ語の empeiria=Erfahrung)として理解さ

れ」、他方では数学や哲学のように「観察や実験秩序に基づくのではなく

て純粋な省察によって得られる認識をも表す」のだと言う②。

 (3)Thomas Vesting によれば、「理論」(Theorie)という言葉の語源は、ギ

リシャ語の(theόrein)という動詞から演繹された名詞(theόria)(観想)に由

来するもので、この(theόria)は、「ギリシャの哲学者 Aristoteles の創作」で

あって、「theόria は、直観(Anschauung)ないしその成果、厳密に視察するこ

と(Schauen)に由来する知識を意味する」のだと言う③。Aristoreles は、そ

の場合に、厳密な視察もしくは目撃の義務があると感じた生活様式あるい

は生活形式および何かより綿密な分析をする場合に読み書きと関わった生

二二

67法学・法理論・法哲学(松村)

活様式もしくは生活形式を theόria と称し、ニコマコス倫理において理論

的(観想的)生活様式(bios theόretikos)を政治的生活様式と純粋な享楽的生活

(bios apolaustikos)から限界づけ、徹頭徹尾物事の観察を処方したような生活

様式を『理論的』と名づけたようである④。

 (3)この点では、Ralf Dreier もまた、法理論は実証主義的な科目で、法

哲学は非実証主義的な科目であると言うのは疑問であるとし、例えば、

Platon や Aristoteles から Kant や Hegel に至るまでの法哲学は、実践的哲学

であったし、それ自体は法律外の科目であり、Hobbs や Spinoza も法実証

主義的な内容の哲学であったと言う⑤。Vesting もまた、「Aristoteles が理論

と実践を区別するとき、このことは、理論が彼にとって何か非実践的な若

しくは全く脱世界的なことであり社会的な現実と何も関わりを持っていな

かったということを意味するものではない」と言明している⑥。

 (4)そして Rüthers/Fischer/Birk によれば、「経験的な意味における理論は、

その出発点を特定の対象についての観察から取り出す」であり、「学問的

な理論の一般的な構造を探求する」場合に必要な要素は、「理論は、相互

に演繹可能で論理的に密である一般的な文章のシステムである」こと、「理

論の文章は、情報的でなければならない」こと、「文章は、事実に関して

吟味され得るように定式化されていなければならない」ことであって、理

論にはこの吟味可能性が必要であり、まさに「法理論にとっての問題は、

経験的な吟味可能性のメルクマールである」と言う⑦。

 (5)かくして Rüther/Fischer/Birk によれば、理論は、「批判的な観察によ

る古い理論の論駁によって、関連して新しい理論による探求が生起し、そ

の新しい理論が生起する問題を解明することができる」のであるから、「学

問は、その着眼点を理論の確証に置くのではなくて、理論の矛盾に置くべ

き」こととなる⑧。したがって、われわれが理論と称するのは、「経験的

な観察と経験を規範的な原理によって用心深く暗中模索し、常に自己批判

的に修正しながら一般化すること」であり、「理論は、偶然もしくは意識

的に取捨選択され、学問的な観察の視野に入る特定の諸対象から出てくる」

二一

68 法学・法理論・法哲学(松村)

のである⑨。

① B.Rüthers/C.Fischer/A.Birk, Rechtstheorie. Mit Juristischer Methodenlehre, 7.Aufl.

München 2013, S.5.

② Rüther/Fische/.Birk, a.a.O.S.6(Rn.6).

③④ Thomas Vesting, Rechtstheorie, 2.Aufl . München 2015, S.9(Rn.14,15).Vgl.Aristteles,

Nikomashische Ethik, 1095b17, 1177a12ff.「ニコマコス倫理学」『アリストテレス

全集 13』岩波書店 1973年 9頁、343頁。

⑤ R.Dreier, Zum Verhältnis von Rechtsphilosophie und Rechtstheorie, in:Volker

Schönburg(Hrsg.), Philosophie des Rechts und das Recht der Philosophie, Frankfurt am

Main/Berlin/Bern/New York/Paris/Wien 1992, S.17. 彼はまた、Saviny の法理論も

実証主義的な理論ではないと言う(S.18)。

⑥ T.Vesting, a.a.O.S.9(Rn.15).

⑦ Rüthers/Fischer/Birk, a.a.O.S.7.(Rn.7),8(Rn.8).

⑧ Rüthers/Fischer/Birk, a.a.O.S.9(Rn.10).

⑨ Rüthers/Fischer/Birk, a.a.O.S12(Rn.17).

 1-2節 法理論とは?

 (1)Dreier によれば、「法理論」という表現は 19世紀に使用されたが、今

日の「一般的な法理論」の意味においてではなくて、法実務とは区別され

た法学一般の関係においてであって、19世紀後半になって初めて「一般的

法理論」という表現が出現し、実践的な法律学すなわち法教義学とは区別

して、法実証主義的なプログラムに拘束されずに、「法と法学の一般的な

理論、特に法律的な理論の習得」を使命としていたようである①。そして、

彼によれば、その後、Gustav Radbruch が一般的な法理論を「法哲学のオイ

タナジー」と称して、この制限的な意味で 20世紀に「法理論」という表

現が「一般的な法理論」に関する類義語として使用されるようになったよ

二〇

69法学・法理論・法哲学(松村)

うである②。

 (2)B.Rüthers によれば、法理論という言葉を考えるにあたり、「哲学」(智

ることへの愛)と「理論」(直観すること Anschauen・見ること Sehen・認識

すること Erkennen)についてのギリシャ語の語源に遡れば、「智ることへの

愛」は直観と認識を前提とするから、「法理論の概念は、法哲学の概念よ

りも先に位置づけられる」ことになるが、決して「上位にあるのではない」

と言う③。かくして彼によれば、「法理論は、法それ自体とその折々の法

システムを、その現実的な機能過程において認識し記述する試み」であり、

「法理論は、具体的な職業に関する問題分野の証明および法と法の因果要

因と法の作用のより良い理解に奉仕する」ものであるから、「法理論の概

念で以て、法についての熟慮の記述的な局面が強調される」のだと言う④。

 (3)法理論の概念と機能について彼は、法理論的な考察と熟慮の出発点

は「社会秩序と国家秩序と法秩序との相互交換的な影響関係」であり、「そ

の点で法理論は、実践的な哲学の一部」でもあるので、「社会学と経験的

な社会研究と自然科学との緊密な結びつき」が明白だから⑤、「法理論の

概念は、法をひとまとめにして(法教義学を含むあらゆる現象形式におい

て)システマティッシュに観察し、そのことについて思索し、事後検証可

能な(論駁可能な)認識を獲得する試みを言う」のであり、「法理論には、

経験的と称され、分析的と称され、規範的と称される 3つの機能がある」

と言う⑥。

 (4)まず第 1に経験的なことについて彼は、「法は人間の関係を制御し社

会と国家を秩序づける」ので、「法理論にとっては、社会に対する規範の

作用が問題であり」、「法規範が人間の態度に影響するかどうか、どのよう

な方法で影響するかという社会技術的・心理学的な疑問」に対して、「社

会における法の事実上の適用と服従および裁判官と市民によるその承認に

ついての研究」が問題であって、「法理論は、外部からの中立的な観察者

のように法適用の機能を研究する」のだと言う⑦。かくして法理論は経験

的科学なので、経験的な社会学や経済学と関わりを持つのである⑧。

一九

70 法学・法理論・法哲学(松村)

 (5)第 2の分析的機能の観点では、「法言語と法規範の構造の研究および

法秩序の構造が問題であり」、それは「法の基本概念を解明すること」であっ

て、この場合に問題なのは「例えば主観的権利(Recht)や客観的正義(Recht)

のような表現」が法秩序の至る所で反復されるので、したがって「法理論

は法秩序の統一のために貢献し」、その限りで「法理論は法形式理論とも

称される」のだと言う⑨。さすれば法理論は分析的科学ということになる

ので、分析的哲学や論理学と結びついていることになる⑩。

 (6)第 3の規範的機能は、「規範的な問題の研究」であり、その場合、「法

の概念、法の効力根拠、法適用の方法が問題」なので、したがって、「法理論」

は、「現行法の確認に留まるのではなくて正しい法の探求を問いかける」「法

内容理論をも包括する」が、その場合に考慮されることは、「法の機能様

式と法の定立および法の貫徹の問題が歴史的に変わり易いこと」であり、

如何なる時代にも「その時代の」法があるから、その時代その時代の法理

論的な問題が中心であると言う⑪。かくして法理論は規範的科学なので、

哲学的な倫理と親和性を有するのである⑫。

 (7)もちろん法理論には限界もあるので、特に実践的哲学や批判的社会

学というような隣接科学との関連づけが必要であり、しかもこのことが

法と法の因果要因、法の機能様式と作用についてのより良い理解に役立

つことから、「法理論は、同時に、法律家の自己認識、自己確認、所為の

自己批判に対する寄与」であって、この寄与は重要であり不可避であると

Rüthers は言う⑬。

① R.Dreier, a.a..O.S.17.18.

② R.Dreier, a.a.O.S.18.

③④ B.Rüthers, Rechtstheorie. Begriff,Geltung und Anwendung des Rechts, München

1999, S.7(Rn.6).

⑤ B.Rüthers, a.a.O.S.8(Rn.8).

一八

71法学・法理論・法哲学(松村)

⑥ B.Rüthers, a.a.O.S.15(Rn.21).

⑦ B.Rüthers, a.a.O.S.16(Rn.22)..

⑧ Rüthers/Fischer/Birk, a.a.O.S.26(Rn.47.).

⑨ B.Rüthers, a.a.O.S.16(Rn.23).

⑩ Rüthers/Fischer/Birk, a.a.O.S.26(Rn.47).

⑪ B.Rüthers, a.a.O.S.16(Rn24).

⑫ Rüthers/Fischer/Birk, a.a.O.S.26(Rn.47).

⑬ B.Rüthers, a.a.O.S.17(Rn.25).; Rüthers/Fischer/Birk, a.a.O.S.15~16(Rn.27).

 1-3節 法理論と法哲学

 (1)Rüthers/Fischer/Birk によれば、「法理論は、法規範そのもの…および

法規範の社会と現実に対する作用様式についての一般的な吟味可能な言明

をすることを試みる」のであるが、しかしこのことは、「法哲学」も「一

般法学」もまた行っているので、2つの異なった表示は、「本質的には純

粋なレッテルであり、それ故に、広範囲に亘って交換可能である」し①、

Arthur Kaufmann もまた、「法哲学と法理論の区別は不鮮明」で、「法哲学は

実質的に調整されていて、法理論は形式的に調整されているということは、

塩の一粒ほどは(cum grano galis)的を得ているが、しかし、形式なき素材は

存在しないし、素材なき形式は存在しない」ように、「厳密な限界づけを

得ることはできない」と言っている②。

 (2)Rüthers/Fischer/Birk によれば、「法理論は、法そのものとその折々の

法システムを、その現実的な機能経過において認識し記述する試みである」

が、しかしこの「機能方式の直観と記述から明らかになることは、この機

能方式の原因つまり『何故 ?』という更なる問題」であって、(a)「法は『正

しい』から妥当するのか ?」、したがって、(b)「法は『正しい』と『間違っ

ている』との区別、『真実』と『不真実』との区別に向けられるのか ?、あ

るいは(c)「そのことと離れて『合目的的』と『非合目的的』、『適切』と『不

適切』という区別が問題なのか ?」、あるいは、(d)「法は『正義』…との断

一七

72 法学・法理論・法哲学(松村)

ち切れない結びつきによって法になるのだろうか ?」という問題が論究さ

れなければならず、「これらの問題は、古典的には法哲学の対象と種類と

して考察され」てきたものである③。

 (3)そうすると、Vesting が言うように、「法理論は、建築法規ほど高級で

はない」ことになり、「法理論は、決して法学の『基礎部門』でもないし、

いずれにしても他の全ての法律的な専門領域にとっての原理的な方向づけ

機能もしくはコントロール機能を有しているわけではなく」て、「法理論

の特殊性は、階層的に記述されるのではなくて、機能的にのみ記述され得

る」にすぎないこととなる④。したがって、「法理論は、 終的には『法

的現実性』という『実在』によって持ち出される問題の記述と解決をめぐっ

て、他の法学的部門と競合する」のである⑤。

 (4)例えば、Rüthers によれば、「個々の法領域の法教義学もまた異なっ

た種類の理論を提示する」が、これらの理論は、「素材を整理し、新しい

問題の解決したがって将来の事例の決定を可能にする」から、「法理論は、

教義学的な作業に際して生じる現象と問題を観察し分析」し、「法理論は、

教義学の所為を熟慮し、教義学の上にある抽象化レベルを意のままにする」

ので、「法理論は、一種のメタ教義学である」ことになる⑥。そうすると、「法

理論は、所与の法的素材の選別と整理と処理に直接関係しているわけでは

ない」ことになる⑦。

① B.Rüthers/Fischer/Birk, a.a.O.S.13(Rn.20).

② Arthur Kaufmann, Rechtsphilosophie, Rechtstheorie, Rechtsdogmatik, in:Art. Kaufmann/

Winfried Hassemer/Ulfrid Neumann(Hrsg.), Einführung in Rechtsphilosophie und

Rechtstheorie der Gegenwart, 7.Aufl .Heidelberg 2004, S.9. 彼によれば、「基本的に

法理論が法哲学から際立つのは、その動機によってのみである」と言う(S.9)。

③ Rüthers/Fischer/Birk, a.a.O.S.13~14(Rn.21,22).

④⑤ T.Vesting, a.a.O.S.10(Rn.16).

一六

73法学・法理論・法哲学(松村)

⑥ B.Rüthers, a.a.O.S.15(Rn.21).

⑦ T.Vesting, a.a.O.S.12(Rn.18).

第 2節 法哲学

 2-1節 法哲学とは?

 (1)Heinrich Weber-Grellet によれば、「法哲学の中心的テーマは、正義」

であり、「法と正義と法哲学は、密接な関係にある」し、「法哲学は、法の

根拠であり法が基づく基礎であって、法学の一部である」が、しかし、「法

学は、…法哲学なしには思考不可能である」と言う①。Vesting によれば、「法

哲学は、ドイツにおいては、およそ同時代に生起した法学(Rechtswissenschaft)

との競合から専門科目として創設された」ようであり、「『法学』という言

葉がすでに 18世紀後半に流行り出したのに対して、一方『法哲学』とい

う言葉は、世紀の変わり目頃つまり 19世紀後半に初めて固有に使用された」

ようである②。

 (2)Vesting によれば、Kant は 1800年頃にはまだ「法論(Rechtslehre)」に

ついて語っていたにすぎず、Hegel が 1820年後期に「法の哲学」ないし「哲

学的な法学」について語ったようであるが、両者共に 17世紀と 18世紀に

自然法から出てきた議論形式の一部だったので、したがって法哲学は、自

然法から受け継いだ正しい国家秩序もしくは社会秩序に対する問題からは

分離できないと言う③。Weber-Grellet とは異なり、Art.Kaufmann は、「法哲

学は、哲学の 1つの分科であって、法学の分科ではない」し、「法哲学は、

したがって、法学でもなければ、とりわけ法教義学でもない」のであって、

Giorgio Del Vecchio もまた、「法哲学は、法に関わる哲学の分科もしくは部

分である」と言明する④。

 (3)Art.Kaufmann によれば、「如何なる学問にとっても特徴的なことは、

その形式客体であり、一方、実質客体は多くの学問に共通し得る」ので、

「法哲学と法教義学とが異なっていることは、…対象領域の差異に示され」、

一五

74 法学・法理論・法哲学(松村)

法哲学には「ますます哲学がより重要になる」が、「哲学の本質は、その

形式客体の総体性によって特徴づけられ…哲学において大事なのは、…全

体、相互関係、基本的なことで」あることから、「哲学と法哲学の『対象』は、

存在ないし法の全体である」ということになる⑤。その点で D.Vecchio も

また、法学と法哲学の区別は「考察する方法にある」のであって、「哲学

は全体の研究である」ので、「法哲学は(法の)全体に関して考察する」の

だと言う⑥。

 (4)Max Ernst Mayer によれば、「法哲学は、正確には哲学と同じ使命を有

している」けれども、その対象として割り当てられているのが実定法であ

るので、「法哲学は、(a)法の原理論であり、(b)法の価値論である」し、そ

して、その「基本概念は、…個別性の統合(Zusammenfassung)」であり、法

の原理に関しては、「法の概念の背後にある基本概念…例えば、主観的な

権利、法的義務、法的効果、あるいは法概念に先行し法概念自体が依拠す

るような基本概念」が問題であると言う⑦。もっとも、これらについては

一般法学も問題とし法を前提とするが、単にスローガンに終わるだけで、

法哲学は「法の前提条件を探求する」点で異なるとし、法哲学にとっては

更に法の価値が究明され確定されねばならないが、このためには、法の理

念が問題にされるべきで、それ故に、「法哲学は、法の概念と理念ついて

の理論である」という定義が補充されねばならないと言う⑧。

 (5)Vesting によれば、法哲学は、Kant,Hegel,Radbruch の場合には「哲学

の一部」とされたので、法理論に対して重要な相違があったが、今日の法

哲学は、2つの変形によって実践されると言う。1つには、今日の法哲学

は、19世紀に由来する「法―国家」観念が背景にあるので、『法の哲学と

国家の哲学』として理解されるべきであり、したがって、今日の「法哲学

と国家哲学の法は、第 1次的に政治的な支柱を基礎にしている」と言う

⑨。そして 2つ目の変形は、「法の対話理論」としてであり、「法の熟慮的

な(ラテン語の deliberato すなわち協議 Beratschlagung・熟慮)手続きへの依存

が研究関心の中心にある」として、その原点を Max Weber の「制定された

一四

75法学・法理論・法哲学(松村)

法」の「正統性」問題や、「法の対話理論の知的な育ての親」である Jurgen

Habermas に求めている⑩。

 (6)Weber-Grellet によれば、既述の如く、「法哲学は全ての法の根拠である」

ので、われわれは「至る所で法哲学に遭遇している」のであって、例えば、「刑

法においては刑罰の目的について熟慮するとき、民法においては公序良俗

違反の取引を査定するとき、公法においては亡命者庇護権の場合あるいは

税金を査定するとき」であり、そうすると、ドイツの「基本法と全憲法は、

結局は『実定化された』法哲学であることになり、「法哲学は、法におけ

る 終の問題についての目標とされた思考であるのみならず、充実した実

践的な意義を有している」とされる⑪。

 (7)そして今日のドイツにおいては、「法律の内容は、憲法と民主主義的

法治国家によって保護され保障される」ので、「基本法の実定化に当たっ

ては、特定の法哲学の問題は…むしろ僅かな意義がある」にすぎず、むしろ、

「基本法こそが具体化されるべき法哲学であり」、「基本法が、平等を達成

し人間の尊厳と自由と所有権を保護する」から、「今日の法哲学は、したがっ

て、多くの事例で、法の全体の個々の問題に専念する」ことができる⑫。

法治主義原理に担われた憲法の下にある日本においても、同様に考えるこ

とができるので、今後の改憲の是非と要否および改憲の目的と内容こそが

注目されねばならない。

① Heinrich Weber-Grellet, Rechtsphilosophie und Rechtstheorie, München 2014, S.1.

もっとも、Max Ernst Mayer は、法哲学の価値論の問題を、「法の正統性のため

の基準を見出す点に見るかどうか、あるいは…法の正義を問いかけるかどう

かは、重要ではない」と言う(Rechtsphilosophie, Berlin 1922, S.6.)。

②③ T.Vesting, a.a.O.S.15.(Rn.24).

④ Art. Kaufmann, a.a.O.S.1. 浅田 / 竹下 / 永田 / 福瀧 / 真鍋 / 山中訳『A. カウフ

マン/ W. ハッセマー編 法理論の現在』ミネルヴァ書房 1979年 1頁参照。

一三

76 法学・法理論・法哲学(松村)

G.D.Vecchio, Lehrbuch der Rechtsphilosophie, Berlin 1927, S.1.

⑤ Art.Kaufmann, a.a.O.S.3,5. 浅田ほか訳・前掲書 3頁、4頁、6頁。

⑥ G.D.Vecchio, a.a.O.S.1.

⑦⑧ M.E.Mayer, a.a.O. S.4,5,6.

⑨ T.Vesting, a.a.O.S.17(Rn.26,27.). 彼によれば、Kant は抽象的一般的な原理から、

つまり「形而上学的な初発原因」から法哲学を展開し、Hegel は、抽象的な法、

道徳、道義性の段階を越えて実現する「理念」から法哲学を展開していると

言う(S.16.(Rn.25).)。

⑩ T.Vesting, a.a.O.S.18(Rn.28.).

⑪ H.Weber-Grellet, a.a.O.S.1(Rn.1). 彼によれば、すでに Aristteles は、哲学の実践

的意義を認めていたようであり、「われわれは、われわれの市民的義務を正し

く履行し正しく私生活を組織しようとするならば、哲学に専念しなければな

らない。哲学の使命は、当然に後にも先にも誤解された安全性を阻害し強い

て強調することである」と言っているようである。

⑫ H.Weber-Grellet, a.a.O.S.2(Rn,3).

 2-2節 法哲学とその周界

 (1)D.Vecchio によれば、既述のように、「法を全体性との関係で考察する」

「法哲学は、法学の特殊な事実を全て統括し…法を一般的な原則において

説明し、結局は実定法をより高度な観点から評価しようとする」ので、「法

哲学は、法学に対しては、非依存性と独自性を有するが、しかし、それに

も拘わらず法学と必然的な関係と結びつきを有する」と言う①。何故なら、

「法学が、法哲学から指導的観点を取り出すが故に法哲学の必要性を有す

るならば、法哲学もまた、その観点を再吟味し適用することができるため

に、(法学から提供される)歴史的な現実を顧慮しなければならない」から

である②。

 (2)すなわち、「法の論理的な全てを包括する概念は、個々の法律的な現

象に対置されねばならず、この現象は…正義という理念的な原理に近づく

一二

77法学・法理論・法哲学(松村)

ことに応じて評価されなければならない」が、この哲学に固有の処置は、「こ

の現象すなわち法学の客体である実定法の認識を明らかに前提とする」の

で、したがって、「法の科学(Wissenschaft)と哲学は、並存するし並存しな

ければならないのであって、法哲学は、法律的な個別科学の重要性を誤認

することは許されない」と D.Vecchio は言う③。このことは、理念を問題

にする法哲学が、法を把握するためには実定法という存在の把握すなわち

認識が必要であることを意味するので、法哲学は認知論(Gnoseologie)(認識

論 Erkenntnistheorie)に対する必然的関係を有することになると言う④。

 (3)D.Vecchio によれば、「法哲学と人間の行動の原則を研究する実践的

哲学もしくは倫理との間にも緊密な関係があり」、それは例えば、自由と

義務と善意の理念の倫理であるが、「法もまた、人間の態度のための実践

的な理想像と規制的な原則である」し、「広義における実践的哲学もしく

は倫理は、…法の哲学と道徳の哲学(あるいは狭義の倫理)に分節され、「両

者の間には、実際に、継続的な並行がある」ので、「法の研究に際しては、

われわれは常に道徳と接触している」のだと言う⑤

 (4)ところで、法理論と法社会学は切り離せないが、社会学そのものは

「常に現象の学問」であり、法哲学は、「とりわけ法の論理的な概念決定と

その脱存在論的な研究すなわち法の概念と理念の探求を 終目標にしてい

る」ので、「法哲学は社会学によって代替され得ない」が、しかし、法哲

学には「社会学と共通に配分されたプログラムを提示する問題設定―しか

も現象学的問題設定―が存在し」、この問題設定は「法の起源と歴史的発

展に向けられる」し、この分野では、法哲学は「法的形象の宗教的・道徳的・

経済的等の現象との連結・結合・交差を観察する」ので、法哲学と法社会

学は全く無縁ではいられないと思われる⑥。

①② G.D.Vecchio, a.a.O.S.8.

③ G.D.Vecchio, a.a.O.S.9.

一一

78 法学・法理論・法哲学(松村)

④ Vgl.G.D.Vecchio, a.a.O.S.9.

⑤ G.D.Vecchio, a.a.O.S.11.

⑥ G.D.Vecchio, a.a.O.S.14~15.

第 3節 法教義学

 (1)Art.Kaufmann が「法哲学は法学ではないし、とりわけ法教義学では

ない」と言う「教義学」とは、Kant によれば、「純粋理性の独断的手続き

であり、その手続き自身の能力を事前に批判することがない」ので、「教

義学者は、吟味しないで既に決まったこととみなす前提から出発する」よ

うであり①、Vesting によれば、「法教義学は、正しいと認識された問題解

決から繰り返し取り扱い可能な概念と原則を生み出す」のだと言う②。

 (2)Dreier によれば、法教義学は、「実践的な法律学」であるが③、

Vesting によれば、「ギリシャ・ラテン語の dogma(信条 Glaubenssatz もしく

は教義 Lehrsatz)あるいはその複数形の dogmata がローマ法の法律学のあれ

これの原典に検出されるときでさえ、『法教義学 Rechtsdogmatik』あるいは

『法律的教義学 juristische Dogmatik』という名称は、決して法律学とは違っ

た意味で用いられていない」ようで、例えば、ローマの法学者は、iuris

prudentia という名称を用いたし、Cicero は、しばしば praeceptae(Regel ルー

ル、Vorschriften 規則)について語っているようである④。

 (3)また、中世のローマ法は、「決して洗練された教義学的な意味論

を認識していないし、『法教義学』という名称の下に、実証価値ありと

見なされ収集された知識を明白に認識していない」ようであり、また

19世紀においても「(実践的な法律学 Jurisprudenz の意味における)法学

Rechtswissenschwft と法教義学というような形式を使用して、何ら取り立て

て言うほどの区別をしなかった」ようであって、Rudolf v.Jhering が、1857

年に「教義学」という概念を使用したようである⑤。そして、Paul Laband

にとっても「法教義学は、(実証主義的な)法学に対する類義語だった」し、

一〇

79法学・法理論・法哲学(松村)

1932年においても Gustav Radbruch は、「法教義学」を「法学の論理学」の

中に組み入れていたとされる⑥。

 (4)Vesting によれば、法教義学は、2つの意味層に区別されると言う。

一方で「法教義学は、事例問題の解決に向けられていて、そこから出発し

つつ法原則と法概念の文書的な定式化と精密化と洗練化に奉仕する」(例

えば、所有と所持、契約と不法行為、行政行為と事実行為などのような諸

概念の相反する限界づけと規定に従事)し、更に教義学の目標は「事例か

ら得られた原則と概念を、それらが他の事例(と文脈)において再使用する

場合に、できるだけ問題化される必要がないように言語的に固定化する」

ことである⑦。

 (5)したがって法教義学は「数学的機能あるいは数学的積分のように経

験を短縮するので…常に新しく照合される必要はない」が故に⑧、「法教

義学は、求める理屈の理由づけにとってのストップルールを構築すると定

式化することもできる」し、「法教義学を、法における決定指導的な概念

的論証の必要性のための全表現と称することもできる」ことになる⑨。法

教義学は、このように「事例に向けられた学習」のみならず、「裁判所に

よる事例問題の実務的克服なのための寄与」にも関わっていて、これは、

古代ローマ法においても、コモンローにおいても事実であったし、新時代

の世界像のシステム概念とも解きがたく結びつけられているので、「法教

義学」には、法の「概念的な確証とシステマティッシュな論証という…2

つの側面」が肝要であると Vesting は言う⑩。

 (6)既述の如く、法学(Rechtswissenschaft)もしくは法律学(Jurisprudenz)は、

法哲学と違って、法を個別において探求する法律的な個別科学なので、個々

の法システムを時代と民族に関して個別的に考察することになる。例えば、

ローマ法とゲルマン法、公法と私法、公法は更に、憲法、行政法、刑法、

税法など、私法は更に、民法、商法に分離して考察することになる。した

がって、「法とは何か(quid ius)を問題にする法哲学とは異なり、法学は、「特

定のシステムの法から何が命じられているのかという問題」すなわち「法

80 法学・法理論・法哲学(松村)

律とは何か(quid iuris)」という「法律問題」を扱うのである⑪。

① Art, Kaufmann, a.a.O.S.1. 浅田ほか訳・前掲書 2頁。

② T.Vesting, a.a.O.S.14(Rn.21).

③ R.Dreier, a.a.O.S.17.

④⑤ T.Vesting, a.a.O.S.13(Rn.20.).Jering は、「今日のローマの私法とドイツの私法

の教義学のための年報」(Jahrbücher für die Dogmatik des heutigen römischen und

deutschen Privatrechts.) で使用したようである。

⑥ Vgl. T.Vesting, a.a.O.S.14(Rn20.).P.Laband, Staatsrecht des Deutschen Reiches,

Bd.1(1911), 1964, Vorwort, Ⅸ . Und Bd.2,S.178. 本稿では本書に当たっていない。

⑦ T.Vesting, a.a.O.S.14(Rn.21).

⑧ T.Vesting, a.a.O.S.14(Rn.21). Vgl. Franz Wieacker, Diskussionsbeitrag, 1989, S.83,84.

本稿では、本書には当たっていない。

⑨ T.Vesting, a.a.O.S.14(Rn.21). Vgl. Josef Esser, Juristisches Argmentieren im Wandel des

Rechtsfi ndungskonzepts unseres Jahrhunderts,1979, S.20ff. 本稿では、本書に当たっ

ていない。

⑩ T.Vesting, a.a.O.S.14,15(Rn.22).

⑪ G.D.Vecchio, a.a.O.S.1~2.

第 4節 法社会学とシステム理論

 4-1節 法社会学とは?

 (1)H.Weber-Grellet が言うように、「法哲学と法理論がとりわけその規範

性において法に携わるのに対して、法社会学では事実が重要である」。し

たがって、「法社会学は、例えば裁判官が何故にそのように判定し別の判

定をしなかったのかという問題に際して、彼の判決は法律に依拠するとい

う説明で満足するのではなくて」、更に、「裁判官は、実際に法律によって

81法学・法理論・法哲学(松村)

指導され得るのか ?」、「どの程度法律は、実際に裁判所、官庁、社会構成

員から服従され得るのか ?」、「法律は、何故この内容であって別の内容で

はないのか ?」、「法律は、誰に有益で誰を害するのか ?」、「社会の法的な組

織は、そもそもどのように機能するのか ?」、「法的現実性はどのように見

えるのか ?」ということが問いかけられなければならない①。

 (2)新カント主義では、法規範の純粋に規範的な Sollen の世界と法の外

的事実の Sein の世界が厳格に区分され、Sein から Sollen は演繹されないと

考えられたが、法理論が 20世紀初頭に規範理論へと変節する前には、法

理論は、19世紀に生み出された社会学の構成部分であって、法理論は、(法)

社会学の形式として現れたようであり、例えば、Karl Marx のドイツイデ

オロギーや Émile Durkheim の理論に見られるし、Max Weber の 1914年の

草稿は、Marianne Weber/Melchior Palyi によって、法社会学の名称の下で第

7章として差し込まれたようである②。

 (3)しかし Weber は、Sein と Sollen の区別を基に、法社会学を法学的領

域から隔絶しようとしたようで、彼によれば、法律的な考察方法は意味問

題についての論理的解明に従事するので、法律学は「如何なる規範的な意

味が法規範として生起する言語的な形象に論理的に正しく帰属すべきなの

か」を問題とし、これに対して法社会学は、人間の行動の事実的な規定根

拠の表現としての法に関心を示すものであって、社会学が問題にするのは、

何が「共同体の内部で事実としてこの形象のために生じたのかということ

である。何故なら、共同体の行動に関与した人間は…一定の秩序を有効だ

と主観的にみなし実践的に扱い、したがって自分の行動を秩序に方向づけ

る機会が現存するからである」③。

 (4)Weber の方法論的な文献によれば、法律学的意味と社会学的意味の

厳格な区別から、法の法律学的考察方法と社会学的方法の区別が想定さ

れ、新カント主義に近いが、Hans Kelsen の純粋法論の場合には、両者の間

には架橋不可能な方法論的対立があり、Weber の場合には、両者の間には

調停と部分的重なりがあると Vesting は言う④。そして彼によれば、Eugen

82 法学・法理論・法哲学(松村)

Ehrlich が、法社会学としての法学と法社会学そのものを基礎づけようとし

て、両者の区別を均等化したが、この場合、Weber と違って、「法は社会的

な諸関係のなかで発生し、そこから遊離され得ない」と考え、「法は『生

きた法』であり、実際に使用され実践される法で、社会的な現象と装置

の展開に従う」もので⑤、「法発展の重心は、全ての時代におけるように、

われわれの時代においても、立法にも判例にも存在するのではなくて、社

会自体に存在する」のだとされた⑥。

 (5)ところで Vesting によれば、初期の法社会学的なアプローチと法理論

的なアプローチに対しては、20世紀後半の法理論が法外な展開をしたが、

それは、一方では、社会学的な法理論としてのシステム理論の考案と展開

であり、他方では、それと連結しながらも距離をおく法の文化理論および

メディア理論に関係し、本稿の「はじめに」でも述べたように、システム

理論は、Talcott Parsons によって「規範的な社会学として基礎づけられ」、

Nikas Luhmann によって肉づけされ、「方法論的にみれば…法理論的な研究

プログラムの根本的な書き換え」を必要としたのである⑦。この点につい

て、次 4-2節で概観する。

① H.Weber-Grellet, a.a.O.S.135.

② T.Vesting, a.a.O.S.2(Rn.3).

③ Vgl.T.Vesting, a.a.O.S.2(Rn.3). 本稿では原典の M.Weber, Wirtschaft und Gesellshaft,

1922,S.181. に当たっていない。

④ T.Vesting, a.a.O.S.3(Rn.4).

⑤ Vgl. T.Vesting, a.a.O.S.3(Rn.5). 本稿では原典の Eugen.Ehrlich, Die Grundlegung

des Rechts. 1913, S.382f. に当たっていない。なお、河上倫逸訳『法社会学の基

礎理論』みすず書房 1984年がある。

⑥ Vgl. T.Vesting, a.a.O.S.3(Rn.5). 本稿では、原典の E,Ehrlich, a.a.O.Vorrede. および

Manfred Rebinder, Die Begründung der Rechtssoziologie durch Eugen Ehrlich, 1967.

83法学・法理論・法哲学(松村)

に当たっていない。

⑦⑧ T.Vesting, a.a.O.S.4.(Rn.6.).

 4-2節 システム理論

 (1)システム理論によれば、「法は、…社会的なシステムとして、永遠

に進展するコミュニケーションシステムとして考えられ、法の根拠と本

質を問う問題が、その境界を問う問題によって代替される」が、その場

合の中心的な問題提起は、「法という単位体は、それを人がシステム理論

的 - 社会学的な手段で以て、すなわち、システム(法)と環境(社会つまり

他の社会システム)との区別として記述し、法を自分で生産し再生産する

コミュニケーションシステムとて記述するならば、どのように見えるの

か」ということである①。したがって、システム理論の「古い法理論や法

社会学に対する根本的な相違は、システム理論は(法の文化理論とメディ

ア理論の大部分のように)ダイナミックな(動態的な)関係で分化理論的

(differrenztheoretisch)思考に置き換えられる点に見られる」ことになる②。

 (2)したがって、システム理論によれば、「法システムの操作は、何ら所

与の秩序の適用ではない」し、「秩序は実践の成果であり、実践の前提要

件ではない」こととなる③。何故なら、「法は、情報処理する決定システ

ムとして作動する」が、「このシステムは、階層的に手続するのではなくて、

異層的に、ネットワーク的に、近隣関係的に、帰納的に手続をする」から

であり、「法のコミュニケーションを時代の流れのなかで「水平に」結び

つける」からである。例えば、裁判所が新しい決定を出す場合、先例の決

定を拠り所とし、新決定から将来の決定のために生じる条件を拠り所とす

るように「水平的」に結びつけるからである④。

 (3)特に、オートポイエーシス理論に基づくシステムの自己準拠性を顧

慮すると⑤、システム理論の中心的意味は、「常に迅速な出来事(法的決定、

操作)の回顧的な連鎖による法システムの進展する自己定常化である」の

で、「システム理論の法理論的なプログラムの意味は、法理論と社会理論

84 法学・法理論・法哲学(松村)

との関係の定立にある」が、そうすると、「社会学的な法理論は、法シス

テムという単位体、法の意味、法の社会的な機能を問う」こととなり、し

たがって「法社会学としてのシステム理論は、法学的な法理論とは反対に、

法システムの一部でもなれれば、何らかのメッセイジを法システムに直接

に宛てるものでもない」こととなる⑥。

 (4)Vesting によれば、「システム理論はー法の科学的な観察の形式とし

てーいつも事実と関わっている」が、「システム理論にとって、規範と事

実の相違は、法システムの内在的な区別」なので、「Sein と Sollen の区別

は、それ故に、社会学的な法理論には継受され得ない」こととなる⑦。こ

の点、新カント学派であるRadbruchの晩年の継承者であるArt.Kaufmannも、

Kelsen や Hart と異なり、Sein と Sollen の「相応」(Entspruchung)を説いたし⑧、

価値内在的存在論を説いた Welzel に傾倒した私もまた、Sollen が規範と法

律を経て演繹的に Sein に影響し、その Sein から帰納的に Sollen が生起す

るという Sein と Sollen の連鎖的な「回路システム」を提唱した⑨。

 (5)Gerd Roellecke もまた、システム理論的な見方は、従来には浮上しな

かった例えば環境汚染、世界平和、社会的保障、メディアによる公共意見

の影響などという問題に対する法的な議論を助長したが、その結果、法理

論は法システムの意味凝縮的な自己記述であるという Luhmann の主張に対

しては、法哲学者は社会科学者、哲学者、論理学者と対決して反証するこ

とはできないと言う⑩。何故なら、現代の法哲学は、古い法哲学と異なり、

「法システムの中でのみ支えられている」からであり、「法の自己記述は、

法システムの外部に固定され得ない」が、しかし「システム理論において

も法哲学と法理論を不必要にはしない」ので、「問題は、自己記述がどの

ように限界づけられ得るか」だからであると言う⑪。

 (6)法哲学と法理論は、従来的には規範性を問題にし、法社会学は事実

性を問題としたが、他方、法理論は法社会学の形式としても発展し、事実

性をも対象にしてきたが、更に、法をシステムして把握するシステム理論

が誕生し発展し、従来の法学的な法理論とは異なる法社会学的としてのシ

85法学・法理論・法哲学(松村)

ステム理論は、規範性(法)と事実性(環境)の壁を作らず、いずれも法シ

ステムの内在的な問題として両者の動態的な相互関係を説いてきたと言え

よう。

① T.Vesting, a.a.O.S.4(Rn.7).

② Armin Nassehi, Der soziologische Diskurs der Moderne, Frankfurt am Main 2006, S.302.

T.Vesting, a.a.O.S.4(Rn.7). より引用。

③ T.Vesting, a.a.O.S.4(Rn.7).

④ オートポイエーシス理論と自己準拠性については、本稿「まえがき」の註⑪掲

載の文献のほかに、河本英夫『オートポイエーシスー第三世代システム』青

土社 1995年。;河本英夫『オートポイエーシスの拡張』青土社 2000年。;山

下和也『オートポイエーシスの世界―新しい世界の見方―』近代文芸社 2004

年。;山下和也『オートポイエーシス論入門』ミネルヴァ書房 2010年など参照。

⑤ T.Vesting, a.a.O.S.5(Rn.7,8).

⑥ T.Vesting, a.a.O.S.5~6(Rn.9).

⑦ Art.Kaufmann, Analogie und „Natur der Sache“. Zugleich ein Beitrag zur Lehre vom

Typus, in: ders, Rechtsphilosophie im Wandel. Stationen eines Weges, Frankfurt am

Main 1972, S.272ff. Bes.S.287.

⑧ 拙著『刑法学方法論の研究―存在論からシステム論へー』八千代出版 1991年

10頁、22頁、153頁参照。拙著『刑法学への誘い』(全訂版)八千代出版 7~8頁。

⑨ Gerd Roellecke, Theorie und Philosophie des Rechts, 1987, in: ders.(Hrsg.),

Rechtsphilosophie oder Rechtstheorie, Darmstadt 1988, S.20,21.; N.Luhmann,

Rechtssoziologie, 2.Aufl .Opladen 1983, S.360.

⑪ G.Roellecke, a.a.O.S.21.

86 法学・法理論・法哲学(松村)

おわりに(まとめ)

 (1)第 1節から第 4節までの論者の主張をまとめてみると、そもそも教

義学は、すでに決まったこととみなす前提を吟味することなく出発点とす

るので、法教義学(Rechtsdogmatik)もまた、正しいと認識された問題解決

から繰り返し取り扱い可能な法の概念と原則を産み出す。法教義学は、し

たがって、新しきを照合しないで法における決定指導的概念を確証する

ための全表現であり、いわばストップルールであり、法を個別において

探求する法律的な個別科学なので、実定法が研究対象となり、実証的な

法律学である。つまり、実践的な法律学(Jurisprudenz)の意味における法学

(Rechtswissenschaft)である。

 (2)また理論とは、そもそも「直観すること」「視察すること」「省察す

ること」なので、理論の確証が学問ではなくて、理論の論駁と理論の矛盾

追及が学問であって、そこからまた新しい理論が誕生するのである。かく

して法理論は、教義学的な作業に際して生起する現象と問題を観察し分析

することによって、教義学の所為を熟慮するから、法理論は、一種のメタ

教義学でもある。かといって法理論は、実証主義科目ではないとは断言で

きず、具体的な法と法の因果要因や法の作用の理解に奉仕するために、法

理論的な考察と熟慮の出発点は、社会秩序と国家秩序と法秩序との相互関

係であるから、法理論は、実践的な哲学の一部と言えるので、社会学や自

然科学とも密接に関係する。

 (3)法哲学の中心的テーマは、正義すなわち法の根拠ないし法が基づく

基礎であるから、法哲学は、哲学の一部であって法教義学ではない。しかし、

法哲学は、非実証主義的科目であると断言することもできず、法哲学と法

理論の区別は不鮮明であって、単なるレッテルの相違にすぎないとも言え

るし、法学ないし法教義学と無縁でもなさそうである。何故なら、法学は、

法哲学から指導的観点を得るし、個々の法律的現象は正義という理念的な

原理に応じて評価されるし、他方、法哲学は、この観点を再吟味するため

87法学・法理論・法哲学(松村)

に法学から提供される現実を顧慮し、この現象すなわち実定法という法学

の対象の認識を前提とするから、法学と法哲学は、並存すべきだからであ

る。

 (4)かくして、法哲学は、法学に対して独自性と非依存性を有するが、

必然的な関係もあり、法律的な個別科学の重要性を誤認することは許るさ

れないが、ただ一般的には、哲学の本質は形式客体の総体性に特徴がある

ので、哲学の一部である法哲学の対象は、法の全体であり、法の前提条件

の探求であるから、法哲学は法の概念と理念の理論と言われてきた。しか

し、哲学(知ることへの愛)は直観と認識を前提とするから、法理論の概念

は、法哲学の概念の上位にあるわけではないが先行するという関係にある。

そして、法理論も実践的哲学の一部として、経験的機能(社会に対する規

範の作用・影響を問題)・分析的機能(法言語・法規範と法秩序の構造の研

究)・規範的機能(法概念・法の効力根拠・法適用方法という規範的問題)

を有するので、法理論も法哲学も規範性に携わる点では区別がない。

 (5)もっとも、法哲学が専ら法の理念の理論だとすれば、現代のドイツ

では、人間の尊厳と自由と平等については基本法と憲法に体現されている

ので、基本法と全憲法こそが、「実定化された」法哲学であって、そこに

法哲学的な基本的な確信が表現されていると言われる。すなわち、法律の

内容は憲法と民主主義的法治国家によって保護され保障されていて、基本

法が具体化されるべき法哲学であることになるので、特定の法哲学の問題

は、今日ではむしろ僅かな意義しかなく、したがって今日の法哲学は、多

くの事例で法の全体の個々の問題に専念することになると言われている。

 (6)法社会学は、事実性に携わる法的現象の科学であり、法理論と法哲

学は規範性に携わり、法哲学は特に法の概念と理念を研究する科学である

ので、法社会学は法理論・法哲学とは無縁のようである。しかし、法哲学は、

その研究目的のために、社会的現象と理念的な宗教的・道徳的・経済的な

現象との連結や交差を観察する必要があるので、法哲学は法社会学と無縁

ではいられない。また、法理論は、20世紀初頭には規範理論へと変節した

88 法学・法理論・法哲学(松村)

が、19世紀には社会学の構成部分ないし社会学の形式として出現したので

あるから、法理論もまた法社会学と無縁ではない。そして、現在、社会学

的な法理論としてのシステム理論が考案され、法はシステムとして 1つの

単位体であるという社会システム理論が展開されて、法の根拠と本質を問

う問題は、(法)システムと(社会)環境とを問う問題へと発展していること

が、法と法学・法理論および法哲学そして法社会学を考えるための視座に

据えなければならないと思われる。 以上