11
-ー__.・ ーーー聞. -掴回目_. 良広 七六 ( OO ) 百血 労働者 階級意識と 教育川 -・・・・園. 階級意識をめぐる混乱 すでにみたように、階級理論 、階 級概念が暖昧にされている現状では、階級意 その上 、階 級存在といわゆる階級意識といわれているものの間 ズレ 、乃 至矛盾かあり それか問題を一層複雑にし ているが ここでは 現在現われている典型的な見解のみを取上げよう。ま 観念論的階級論の中最も極端なものは、 人々の階級帰属意識から 逆にその人々の所属「階級」を規定する o つまり 自分自身が(センターズ) あるいは他人か を規定する。すなわち センターズは : (2) 化す ることである」とし (ウオーナ )いかなる「階級」に所属していると 信じたり、思ったりしているかということを線拠にして、 「ある人間の階級とは 、彼 のエゴの一部であり 自分より大きい何ものかに同一 「階級」 社会的に優越あるいは劣等の地位にあると信じら (3) れ、そのように等級づけられた二つあるいはそれ以上の人々の序列である」 だから、労働者階級の存在も 、人 々が主 ウオーナーは 地域社 会の成員によって 観的に存在すると思えば存在するし(センタ ズ〉 存在しないと思えば存在しない(ウオーナ )というのである して、何れのはあいも 上流階級」はあるがブルレョア ν ーはいない 資本家階級とか 労働者階級はいないということになる これに類する調査はもちろんアメリカに限らず 「幸福な人たち 気の毒な人たち」がいる 日本にも 挙に いとまがない程あるか これを一々取上ける必要はなかろう o それよりも、彼らよりもっと「勝れた」 そして

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-ー__.・ーーー聞.

- 掴 回目_.

良広

七六

(一

二OO)

百血

-・・・・園.

階級意識をめぐる混乱

すでにみたように、階級理論、階級概念が暖昧にされている現状では、階級意識につい(氏、混乱は当然のことであり、

その上、階級存在といわゆる階級意識といわれているものの間には、ズレ、乃至矛盾かあり、それか問題を一層複雑にし

ているが、ここでは、現在現われている典型的な見解のみを取上げよう。まず、観念論的階級論の中最も極端なものは、

人々の階級帰属意識から、逆にその人々の所属「階級」を規定するo

つまり、自分自身が(センターズ)、あるいは他人か

を規定する。すなわち、センターズは、

:

(2)

化することである」とし、

(ウオーナー)いかなる「階級」に所属していると、信じたり、思ったりしているかということを線拠にして、

「ある人間の階級とは、彼のエゴの一部であり、自分より大きい何ものかに同一

「階級」

社会的に優越あるいは劣等の地位にあると信じら

(3)

れ、そのように等級づけられた二つあるいはそれ以上の人々の序列である」と。だから、労働者階級の存在も、人々が主

ウオーナーは

「地域社会の成員によって、

観的に存在すると思えば存在するし(センターズ〉

、存在しないと思えば存在しない(ウオーナー)というのである。そ

して、何れのはあいも、

「上流階級」はあるがブルレョア

νーはいない。

か、資本家階級とか、労働者階級はいないということになる。これに類する調査はもちろんアメリカに限らず、

「幸福な人たち」と

「気の毒な人たち」がいる

日本にも

枚挙にいとまがない程あるか、これを一々取上ける必要はなかろうo

それよりも、彼らよりもっと「勝れた」

、そして、

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.

系統的にマルクスを「超克しよう」とし。

(4)

たタ

iレンドルフのばあいを見ょうo

彼は、

ビッツ)、

スイス

(ウィルナj)および、

イギリス

アメリカ

ヘセンターズ)ドイツ

のものも階級分裂を認める者は極めて少いこと、

(ホガ!ト)

での調査をもとに、

DKグループが多いこと、それ以外

ラlf自らを

J

労働者階級だという者もあるということ、これらのことから、

ぇFりに、

労働者で自らを「中間階級」と思今荷もあれ、ょ、

「配一昨

vkE~tw」ムでの社会刈立は、ホ

ワイト・カ

の確信したもの

(資本対労働

(5)

い」というo

そ位、このような意識調佳でその存在と内容を発見できる事実こそ尊重すべきであり、

チのいう階級概念は「哲学的・思弁的」であるとして、

とは殆んと無関係であり、「そのことに関しては、社、ぶ主者と一般此論との削に

f一政はな

マルクス

州ほか

「誤って」思考する(虚偽意識のこと

l引用ぎ

るのである。.

つまり、

マルクスやルカ

l

という説明は、

「現実の諸問題を説明すべき科学的理論では、

人々の大

明らかに無意味である」

として、

簡単に葬られ

.しかし、

タ!レントルフのはあいは、

fの所有、

非所有という、

(8)

全く思弁的な基準によるのであるから、

始めから階級立思議など出てくるはずはなく、

また、

大衆の日常的な感情、

観念を自己の階級理論のい旬利な似拠としてその

まま固定化、

普遍化して真実なるものと独断する。

ものであること、

従って、

そしてそれらが、

まさに、

彼らのおかれた社会的な新条件から作れた

彼らは、

その条件の変化によって克服さるべき幻想を極めて多く持っているということを理解

むしろ、

逆にその幻想を根拠にして、

ウオーナーらと同じように、

彼ら

できず、

古ホた、

理解しようともしないのである。

の存在を規定するのであるから、

ところで、

労働者、の

階級意識とわれわれがいうばあい、

到底科学的であるとはいえない。

ような、

単なる個人的な所属心理、

彼らが、

自然発生的に日常持ヲている、

親和感、

北パ属感という

調査」

あるいは、欲求不満、

「マス意識」

「ムラ意識」

(松下圭一)というような、

「意識

の結果でてきた、

古仇た、

抽象的・無原則的な、

ある時点における平均的な心理傾向を指すのではない。

つまり、

エゴイスティックでアナ

iキィな「反抗」

-「憎悪」

「怒りL

という管でも幻。

階級と教育

E

七岬む

(一二

Oご

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ー,

階級と教育

E

~l::;

(一二

O二)

労働者の階級意識とは、労働者階級が、自己の階級的な地位とその歴史的な役割について明確に自覚することである。つ

まり、彼らか自己の歴史的な使命を科学的に意識することである。従って、自己自身の階級存在についての客観的

・科学

的認識か不可欠のものとなるか、それは、社会全体を意識的に変革し、階級そのものを止揚するという歴史ヒ最後の労働

者階級の歴史的使命からいって、固定的

・閉鎖的な認識ではない。すなわち、

「労働者階級の自己認識は現代社会のすべ

ての階級の相互関係についての、完全に明瞭な理解i:::

・・:ーをもつことと、切

っても切りはなせないように結びつい

(印)

ている」のである。従って、労働者の階級存在そのもの(基本的には、生産手段からの解放と生産的労働)が、彼らの、

-

階級意識を規定するし、また、そのような意識を持ちうる客観的な条件となるが(従って、そこから自然発生的な労働組

合的意識もでてくる)、しかし、この客観的な条件に、意識的に働きかけることなくしては、右のような階級意識の形成

/

は不可能である。また、階級社会では、意識か存在によって規定されるというばあいの存在の本質は、階級関係なのであ

るから、それを無視して、

「意識を規定する物質的な社会的存在のことを、人々の直接日常の生活条件、あるいはもっと

(日〉

単純に、人々の胃袋の利害」

、と解釈し、それと、意識の存在への反作用を無視する考えか一緒になれば、生活の'窮乏↓

意識の高揚、生活の向上↓意識の低下

・中間層意識という俗流唯物論的見解がでてくる。この見解が労働運動の中に持込

まれると、労働者の階級意識の高揚は、たた賃銀が実質的に低下さえすれば、恐慌か来さえすれば、ということになって、F

賃銀斗争などは、なくもがなという、全くバカげた空想がでてくる。このような考えからは、前の社会学者たちの考えと

同様、階級意識の形成における教育はもちろん、宣伝や説得の役割りなどは全くでてこない。

-・・・・・圃.階級意識形成における自然成長主義

日取近の労働運動か第二の回り角にあるといわれるとき、とくに、国家独占による合理化か企業間で行われるのみならず、

労働首の日常生活にも及び、さらに、右翼社会主義を積極的に飼育することによって、労働者階級のイデオロキl土の混

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乱と幻想か大量に産出されようとしているとき、われわれが最も警戒しなければならないことは、労働運動における意識

的要素の軽視てある。

(ロ〉

芝田氏は、最近、労働者階級の階級意識の形成について極めて電要な労作を出された。

J1ま、

ス主義の也場から、

階級意識の問題を正面から理論的に取組んだ、恐らく最も勝れた論文し旬

HUhhトつ観念

マルク

的幻想の娘、源を、

労働者階級の客観的な存在条件の中に求め、

労働汗の階級志識の

μ戊η川民

-111

4

T/

11

〈IA1

それの詳細な分析から逆に、

源を求めるという弁証法的方法を用いている。

それは階級意識の解明に貴重な貢献をなしたといわねばならない。

しかし、芝田氏の論述は、極めて積極的かア説得的なもの

(特に前半)をもちながら、それが、消極的なものによって

相殺され、欠陥によって歪められていることを、残念ながら指摘せざるを得ない。それは、

一一一一一口でいえ、は、

独日資

u

q

f一

1いう事実から出発」しながら、資木主義社会の、

ロギ!と互角で対立しているかのような錯覚に陥っている。

「唯物論的」

意識の積極的な役割りを軽視していることである。

とくに

過少に評価し、

労働者階級か恰も、ブルジョア

・イデオ

は観念論的である。

「労働青は笑践においては唯物論的てあるが、認識において

このさい、

各々の労働者において、

二つの哲学は対立し、

唯物論と観念

矛盾し、

斗争しあっている。

論の斗争の道程か進行している。

-・労働者は、

観念論者でありながら、

また自然発生的に「唯物論者」なのである」と。

しかしそのように考えるのは、

戸ih

、,、

AUEνJ/心、

yv

当然のことかも知れない。なぜなら、

大昔の生産関係か商品生産の生産世智一0.か

ものから発生する労働者の幻想に重点をおいているのだから

o

氏は、

「マス

・コミ」ややブルジョア

・イデオロ

lグ

占資本家が伝達手段を資本主義的に利用し、そのイデオロギーを宣伝するのは当然のことであり

目木

(そうでなけれは、

は独占資本主義国ではないであろう)、:・:大切なことは、資本主義のもとで・は、「マス

・コミ」かなく、官仇た、ザルJV

ア・イデオロ

lグかいなくても、

(前のカッコの言葉でいえば、

このばあいはもう資木主義ではないはず

j羽.:.17二.,.πl

¥ーノ

階級と教育

E

-[:;

jG

(一二

O一一一)

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階級と教育E

入10

(一二

O四)

日常的、自然発生的に、

恥わのしrAいから舟生れかのてあって」

たえず前述のような観念論的幻想か生れ、

これが労働者をとらえる点にある。

幻想は、

生産諸関

(傍点モ

トノママ)。このばあい、

一体どんな生産諸関係か、大昔の生産諸関

係なのか、それとも、単なる生産過程にすぎないのか。それはともかく、マス

・コミとブル

νョア・イテオロ

lグは、氏

にとっては、このはあい、基本的なことでないということは確かである。従ってまた、労働者の社会主義への「本能的な

引きつけ」

(レ

lニン)か過大祝されてくるのも当然であろう。

けれとも、忘れてならないことは、

(けは)

「支配階級の思想は何れの時代においても支配的な思想である」ということや、ま

「、フルレョア

・イテオロキーか、社会主義的イテオロキーより、その起源においてずっと古く、い

っそう全面的に仕

(日)

上けられており、ルトトいいい小いほと多くの普及手段をもっている」こと、ブル

νョア、イテオロ

iグもまた寝り込んで

た、はいないという一般的なことと共に、さらに電要なことは、国際的には社会主義の優勢という条件かあり圏内の自然発生

的な運動の高揚かありなから、臥vh川A

いb貯の面では「東風か西風を圧している」とは決していえない情況にあるというこ

とである。従って労働者階級は、社会主義にひきつけられるとはいうものの、彼らに自然発生的にもっとも多くおしつけ

られてくるのは、最も普及しており、たえす極めて多種多様な形で復活されているブルレョア

・イテ方

ロキ!なのである。

(2)

ところでわれわれの立っている現在の社会の情勢を右のように認識したところで、それは絶望を意味するのでもな

く、また、労働者階級をいやしめることでもない。われわれは、

「プ

ロレタリ

アートを、まるで本当のことをいってきか

せることのできない、そして、にけ出さないようにと、たえずお位辞を言って聞かせなければならない気まぐれなお嬢さ

(凶)

んのように考えて」はならない。

その階級的本質から、

は、資本家階級とは反対に、真理とは勝利をもたらす武誌であり、社会の本質の正しい洞察は、労働者階級にとって、

労働者階級は、

真実を恐れないのであり、

労働者階級にとって

かも労働者階級にとってのみ、もっとも重要な勢力の要因となるo

たからこそ「労働者階級は、全面的な、いきいきとし

た政治的知識を、何よりも第一に必要としており、たとえこの知識か「自に見える成果」などを何一つ約束しないでも、

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それ

を積極的な斗争

転イじする能力をもーコ

とも多くも

る17しー)

σ〉である

田氏は臼木dラ

0')

ロヨ

想的,情

j兄とし

この労働者階級の優位性、可能性をこそ指摘すハぺきてあった。

しかし、イデオロギーの社会的根源を重視する芝田氏は、逆に、

マルクス主義を単純化する。人間の社会的意識か、

する (:3)

イデオロギーの積板的な役制りをイψlに過小枠制

つねに彼らの社会的い印有によη

て呪川位されるとい

うことは、史的唯物論の基本的な命題である。しかし、

明することではないn

さらに、史的唯物論は、

このことは、

社企的成思議を直地内経済からあるいはんし点、過科一治、ハ品

いったん常生したイずオロキ!の詩形態炉、

そのだ以にさいして相刈的な

独立性を獲得し、

それらが、

社会的存在に反作用して、

社会の物質的生活の成a

熟した任務の解決を徹底的に逆行し、d

での

いづそうの発展を可能にするための必要な諸条件を作りだすということを教えている。

また、

イデオロギーの積極的な役

割とその意義は、

無原則な終験かいかに尊品川い-されてきた

戦後の日本において、

「実践」

の名の下に粗雑な行動

・無方向、

か、そして、

そのことによって、

理論か軽視され、無意識のうちに、

内らブルジョア

・イデオロ共!の出になっていると

芝田氏か、

いう根強い傾向を考えるとき、

とくに重要であろう。もちろん、

イテオロギ!斗争を無J

悦しているわけではな

い。すなわち氏は、

「労働省政党のイデオロキ

l斗争か決定的に電要になってくるL

「労働行政党にとって、

円HH仁、一川吋同一回ISM-d

泊、

F日夜重え

らひに教育活動は第一級の地位を占める」

という。

しかし、すくその後て

「そのけ的は、

やはり労働舟階級の字践にあ

る」という。

このはあいの実践とは何を意味するのか、

イデオロギー斗争は実践ではないのか。

あるいは、

イテオロ宍l

斗争は労働者政党が、

「実践」

は労働者階級が、

ということなのか。

むしろ、

理論を軽視した

「実践」が強調されること

によって、

まさに実践が低められて来たのが戦後の特徴ではないのか。

「革命的理論なくしては革命的述勤もありえない。

流行の日和見主義の説教に、

実践活動のもっとも狭い形態への熱中か、

(日)

くこの意義を主張しても足りない」のである。

表裏ともなっているような時代には、

どれほど強

「たしかに、

Lかしながら、

批判の武器は武器による批判にとってかわることはできない0

1

(

印)

物質的な力となる」。

理論も、

それか大衆をつかむやいなや、

そして、

イデオロ

41斗争は、

mrに、

エしの

階級と教育

E

ノ¥

(一七

O一点)

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階級と教育

E

八二

(一二

O六)

ことによって、ブルレョア!と斗争するばかりではなく、同時に、労働者階級が自己自身と斗争し、自らがブル

νョア的

偏見から解放されるための不可欠の実践であり、斗争なのであるo

AT

芝田氏は、

「労働者階級の階級意識を発展させるためには、

「労働者に「教条」を「注入」

する必要もなければ、

どのような「レンボル」で「操作」すべきかを思いめぐらす必要もない」という。全くそのとおりであり、むしろ、必要

がないどころか労働者に「教条l

一を注入したり、

ばならないのである。またコ氏は、

「レンボル」で「操作」したりするものに対して、徹底的に斗わなけれ

「今日の「左翼小児病」的政治運動のうちにうけっかれた」

「教条主義的

・観念論的

思想方法」を批判するために、

レlニンの引用した、有名なカウッキ!の言葉を詳細に説明している。だが、氏は、この

ばあい、肝じんのことを無視している。

従って、

て成立しうるもの」であり、

このさい

「外部からl

一ということか、

ただ深遠な科学的洞察をもととしてはじめ

(初)

「この意識か階級斗争のなかからひとりでに発生してくるもの」でないこと、なのである。

「すべての社会民主主義者(労働者政党)」

つまり、

「近代の社会主義的意識は、

ということよりも、まず、社会主義的理論が、「自然発生的な運動の成長には全く無関係に、いな、

(幻)

動に逆って、さえつくりあけられる」ということをこそ指摘しなければならない。さらに、氏は、「注入」それ自体を問

題にして、内容は全く二の次になり、方法か、スタイルか基木になっている。しかし、レ

lニンが「注入」を否定したか

否かということよりも、労働者か自然発生的には階級意識を持っていないということ、および何を彼らの中に持込むかと

であるのか、

この運

インテリの一部であるのか、

いうことに核心かある。

ればならないこと、

の指導

'性の

義では

すななかわっ「

ちた何学、ろを習 、うなさかすれ 。 べなさきけらかれに」ば、て

な「ーら社貫な会しい王てこ(義強と22か調L '-.../科さ、学れ

とてな いつるたのかはらに 革は命、 理

ま るム亘問

た 、

科、社学、会と、主し、義て、的と意り識あつ おか.よわ びれ前な 衛け党

そして、

社会主義と結びつかない労働運動は不可避的に

堕落して、労働組合主義的性質をおび、、フルレョア・イテオロキ

lに従属することを指摘せずに、

斗争と発展のなかで形成される能力であり、過程である」というのては、いかに「理論と実践との弁証法的統こといっ

「「階級意識」もまた

a、

~

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ても無理てあろう。また、右のことを軽視して、実践

l

集中l実践、あるいは、職場↓企業1v産業、地域の交流、行動1v

組織

γ思想の統一ということを繰返すのでは、最近、折角芽生えてきた労働者聞の理論尊重の傾向を

、逆に経験主義のトリ

向にひきもとすことになるであろう。

-一-階級意識の形成と学校教育

科学に反し、

現実を歪めるブルジョア

・イテオ

ロキ!とは反対に、労働背の階級意識は、

首尾一貫して科学的な

木来

イデオロキーを向指すものてあり、

彼らの日常的

・心理的な意識が、

いかにズレており、

そし

幻想に汚、染されていても、

て、その階級h

思議ノ

の自覚か極めて困難であろうとも、

すてに見たように、

自覚への可能性は明確

その階級的存在から、

に条件

e

つけれられており、

困難たからこそ、

積極的に行われなければならないという課題

ますます、

政治教育が意識的、

が、解決てきる課題として、

われわれの前に与えられているのてある。

そのための当面の方策は、労働荷かおかれた現尖

の諸条件と階級斗争の過・程に応して立てられなけれはならないか、

しかし、

基本的なことは、労働背階級の指導者向体か、

現実を科学的、

議論的に分析する能力を身につけること、

とか先、決なのである。

そして、

彼ら自身が、

自己の円和見主義の思想を点服するこ

そして、

かりにも階級意識の発展なとという渡りま、

‘l

fire

Jhur

根強いブルジョア民族主義から解

さし当り、

放されるために、

白木の現状を科学的に観察することから始めねばならない。

明らかに帝国主義国として自立している今

日の日本で、

国家独占のことはこの次にして、

反米帝民族斗争、

階級意識

軍事基地、沖縄ということに集中するのでは、

はおろか、

当の民族矛盾をも解、決する条件を無にしてしまうであろうo

ところで、

階級意識は、

意識というからには、

単なる認識、

盲理目論的と、は

非異合り理的実な践f') "'" のので意は欲な(い14感、0-情

とし〉

う要素を

タ'k今

でいる。

しかし、労働者の階級意識に含まれる意欲、

一定の思想内容と結び

感情は、

ついていない感情は存在じないか、

たとえば、

憎しみの感情は、

科学的思想と結びつくことによって、

向的と『刈象と方訟

階級と教育

E

八三

(一二

O七)

..

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階級と教育

E

八四

ご二

O八)

を適確に捉え、確乎とした見通し

のもとに、決定的な瞬間には徹底的非妥協的な行動へと労働街をかりたてるのである。

従って階級意識というものを、科学的思想と切りはなして、心情化し、情緒化することは誤りであり、反動的でさえある。

「労働者の階級意識とは抵抗の意識である」

「問題は憎しみの度合なのだ」とか、あるいは逆に、

「労働者の階級意識は

ヒューマニズムた」ということか、科学的思想と切りはなして抽象的に主張されれば、それは労働者に近代主義的エゴイ

ズムとニヒリズムを注入することになり、彼の感情は具体的な目標と妥当な方法を見失い、

的・観念的な目標に向

って、狂犬のようにあるいは小羊のように走っていくことになろう。

主観

そこから、

必然的に、

さて、労働者階級の意識形成と学校教育との関係はとうであろうか。まず考えられるのは、学校での政治教育であるが、

いわゆる

「性急な政治教育」というものは、子どもの全面的発達の点からはもちろん、将来の労働者の階級意識

の形成という点からも、

.不必要なばかりでなく、逆に有害無益である。それは、多くのばあい、教師のがわの主観的あせ

りに始まり、結局は自己満足に終るのであるか、このやり方は、まだ科学的

・理性的に考える準備のととのわない問題に

子ともをつき当らせるのであるから、どうしても、子ともはこれを感情的・情緒的にしか受けとめられず、教師の説明を

も、丸呑みにする外はないので、後になって適確な治療か加えられない限り、それは下痢を起すのである。独占によって、

しかし、

-・

政治に無関心で無知な子どもか作りたされようとしているとき、逆にわれわれが政治教育を不当に狭め、情緒化し、性急

(お)

に行うことは危険である。政治教育は、学校教育の全体系の中で、段階的に行われなければ無力であろう。

学校教育が、将来の労働者階級の意識形成に関してもつ意義は、それが、子どもに対して、系統的に科学の方法と知識

を与え、自然と社会の発展の法則を認識する能力を与えるということに重点がある。すなわち、労働者の階級意識は、自

己の階級的地位と歴史的な役割についての科学的な認識を基盤とすること、そして科学的認識は、盲目的、情緒的反応と

は異り、人類の二千年に亘る自然、社会、人間思惟についての研究と実践の成果を批判的に摂取することを媒介として成

立すること、その科学的認識、民主的な態度(モラル〉、生産的労働に対する理論的・実践的準備、身体および感情の発

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陶冶可能

殺最も多い成長期の子どもの教育に期待されるということ、

デオ

ロキ!的な分野」

達は、

および、学校は、

「社会生活のも

っともイ

八瓦

三二O九)

てあること、これらのことから、労働者の階級意識の形成に関して学校教育がもっ積核的な意、義と

役割りがててくる,また、このことから、

利学と民主主義に甘宅く教育の杭

極的な計画を自ら作成し、

労働者階級全休が、独占の文教政策に反対し、

〈幻)

推進することの重要性が明かとなろ句。

(未完)

註同

σ片山-wH)-N∞mw・

。-FZW仰のω一のゆωのEnygcロハ日

閉山・りωFEロ(問。門戸匂・ロゅ・

なお、吋V-の2mmw円一

go関目白

ωω2Mmgo--ωの

}g-片付

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その権威は結局、

生産関係によって、決定されざるをえないが、彼はそれを認めない。そして、この基準を用いることによって、階級

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30Z255;ひきあいにだすことによ勺て、無階級社会の「階級」を

もしそうであれば「太陽族」や「怒れる若者」といわれる連中が最も強いプ

ロレタリア意識をもっていることになろう。

レ!ニン「何をなすへきか一(国民文庫版)

O頁。

M

lチン

・ラズモウスキ

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島、直

唯物論」五八五J六頁o

M

芝田進午「階級意識の形成」(「唯物論研究」

に、意識か存在の変化に遅れるのは、意識が存在の反映であること、意識の中の諸観念が保守的傾向右もつこと

0

・受配階級によ

って、

古いほーが積根的に保存されること等の理由による。従って、小市民

・農民出身の労働者が自己の出身階級の意識を恨強く持っ

ていること

JWしろ当然である。また、現在、階級的には区別のない大部分の俸給労働者の間に資本家があらゆる種類の人為的送別

)を設け、両者グ創刊芦を誇張していることも考慮される必要があろう。

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一九ムノの年

Eロヴ〉。

階級と教育

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Page 11: 階級意識と - Osaka City Universitydlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd0111206.pdf · 階級意識をめぐる混乱 すでにみたように、階級理論

階級と教育

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八ムノ

(=二

O)

同一般の社会学

・社会心理学、あるいは世論調査報告ではなしに。

同マルクス「ドイツ

・イデオロギー」第一分冊(国民文庫版)五三頁o

M

レlニン、前掲書、六七頁。

「スターリン全集」

I(大月書庖)一三九頁o

mレlニン、前掲龍一回、

二ニ八頁。

同同前四一頁。

「マルクス

・エンゲルス選集」補巻町

(大月書庖)一八三頁。

凶レ!ニン、前掲書、六三!四頁。

制スターリン、前掲書、七八頁。

lニン、前掲書、四五頁

側「社会民主主義者(共産主義者)は前衛であるなどといっているその社会民主主義者が、現在、自然発生性がほとんど完全にわが運

動を支配しているときに、この世の中でなによりもいちばんに「自然発生的要素の過小祝」をおそれており、

「かがやかしい、完成さ

れた思想の宣伝にくらべて、平凡な日常斗争の漸進的な歩みの意義を軽祝する」ことをおそれているということ、などを知ったら、わ

が立憲主義者の軽いうす笑いは、とめどない大笑いにかわるであろう!」レ!ニン、前掲書、

一三二頁。

凶たとえば、いかに搾取に対する憎しみが深くとも、いな、深ければ深いほど、それがテロリズムという絶望的な行動へはいかないとい

うことは現在の労働運動ではすでに常識になっている。

閥「学校と政治との結びつきという原則を粗雑な、奇怪な意味に解釈し、歪曲して、これから、準備教育をうけなくてはならないまだ年

少な成長期の世代の頭に、この政治をへたくそにもちこもうとくわだてるような誤りヒ試み:::基本的な原則をこのように乱暴に適用

することと、われわれがつねにたたかわねばならないことはいうまでもない。」(レ

lニン「第二回全ロレア教員H

国際主義者大会に

おける演説」

、矢川編「レ!ニン教育論」一

O七!入頁〉

lニン「民族問題にかんする批判的覚書」

(国民文庫版)入二頁。

聞このことに関しての詳論は続稿にゆずらなければならないが、とりあえず、海老原治善「国民教育運動における反独占の問題」(「附

物論研究」

E)および、剣持清一「変革の論理」(「現代教育科学」一九六

O年八月号)を参照されたい。

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