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Square 067 Research Journal Issue 01 スクエア 広場001 / 016 キーワード釜ヶ崎 寄せ場 暴動 夏祭り 共有地 原口剛Takeshi Haraguchi 神戸大学人文学研究科・准教授専門は社会地理学・都市論。 1976 年、千葉県生まれ、鹿児島育ち。 2000 年より大阪市立大学大学院で地 理学を学び、大阪・釜ヶ崎の戦後誌や、現代都市における社会的・空間的排除について研究してきた。主 著に『釜ヶ崎のススメ』 共編著、洛北出版、 2011 、『ホームレス・スタディーズ』 共著、ミネルヴァ書房、 2010 ど。 2012 10 月より現職。 スクエア生成の過程と条件 寄せ場・釜ヶ崎からの視点

リサーチ・ジャーナル01 原口剛「〈スクエア〉生成の過程と条件─ 寄せ場・釜ヶ崎からの視点」

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Research Journal Issue 01

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[キーワード]

釜ヶ崎

寄せ場

暴動

夏祭り

共有地

原口剛│Takeshi Haraguchi [神戸大学人文学研究科・准教授]

専門は社会地理学・都市論。1976年、千葉県生まれ、鹿児島育ち。2000年より大阪市立大学大学院で地

理学を学び、大阪・釜ヶ崎の戦後誌や、現代都市における社会的・空間的排除について研究してきた。主

著に『釜ヶ崎のススメ』(共編著、洛北出版、2011年)、『ホームレス・スタディーズ』(共著、ミネルヴァ書房、2010年)な

ど。2012年10月より現職。

〈スクエア〉生成の過程と条件─寄せ場・釜ヶ崎からの視点

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1 ─ 共有地としての釜ヶ崎

大阪都心の南端に、釜ヶ崎と呼ばれるエリアがある。繁華街・ミナミの

さらに南側に位置し、日本一の高層ビルをうたう「あべのハルカス」

に沸く天王寺駅からはJR環状線でたったひと駅、100周年記念で

にぎわう新世界とは環状線を挟んで隣接する一帯だ。この地に足を

踏み入れれば、目に入る風景や臭い、音の景色はがらりと変わり、まる

で異世界に身を置いたような感覚をおぼえることだろう。

このエリアの伝統的な住人は、日雇い労働者である。ここに住まう日

雇い労働者は、2万人とも3万人ともいわれてきた。だが、正確な人

数は誰にもわからない[1]。確かにいえるのは、膨大な日雇い労働者

が労働と生活を営んだ地帯である、ということだ。一帯には「ホテル」

の看板と屋号を掲げた建物が建ち並んでいる。長年のあいだ、日雇

[1]たとえば、もっとも信頼される人口統計データのひとつは国勢調査であるが、それは人びとが一定の地に定着していることを

前提として設計されている。したがって、釜ヶ崎のみならず全国各地の現場や飯場を

転 と々する日雇い労働者の総数は、国勢調査ですら正確に把握できるものではな

い。1970年代を例にとって単純化して考えると、釜ヶ崎には当時約200軒のドヤがあり、各々が100室程度を有していたから、その収用可能総人数はおおよそ20,000人となる。だがこのほかに新旧の労働者人口としては、一定のあいだ飯場などに滞在している労働者や、公園や路上で野宿する労働者などを数え入れなければならない。あるいは、地域としてその人口を捉えようとするならば、定着して暮す地域住民を、もちろん考慮に入れなければならない。

│図1│釜ヶ崎の位置(原口剛ほか編『釜ヶ崎のススメ』洛北出版、2011年、11頁より)

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い労働者の住処として機能してきた建物である。旅館業法では「簡

易宿所」に分類されるが、日雇い労働者は自身の住処を「ドヤ」(宿を

ひっくり返した俗称)と呼んでいる。

まちを歩いてみると、荷物預かり所やコインロッカーがあちらこちらに点

在していることに気づく。この何気ない風景は、じつは日雇い労働者の

労働と生活について、多くのことを物語っている。釜ヶ崎の日雇い労働

者は、主として建設労働に携わってきた。かれらは全国各地の現場を

転 と々する、流動を常とする労働者である。現場が遠隔地ならば、しば

らくのあいだ飯場に入ることになる。飯場でも宿泊費が賃金から差し

引かれるのだから、仮に月極めのアパートで定住したならば、飯場代

とアパートの家賃とを二重に支払う算段になってしまう。だから、釜ヶ

崎の居所が日払いのドヤであるのは理にかなっている。そして、旅先

には持っていけないような大切なものは、預かり所やコインロッカーに

預けておくのである。

労働者の居所であるドヤの外観も、また多くのことを物語っている。

釜ヶ崎のドヤには戦後に全面建替えの時期が二度あった。その結

果、釜ヶ崎には3種類のドヤが存在する。戦災直後のドヤは、木造

二階建てで労働者が雑魚寝する様式が主流だった。しかしながら、

1960年代後半に第一の建替えの波がおとずれた。この時期のドヤ

は、「カンオケ式」という呼称が示すように、人間ひとりがやっと横にな

れる室内空間を凝集させた様式へと塗り替えられた。第二の波がお

とずれたのは、1980年代後半である[2]。この時期の建替えによって、

ドヤは三畳半ほどの広さをもった個室に変わり、現在はこのタイプの

ドヤが主流である。

現存する3種類のドヤは、岩に刻まれた地層のように、それぞれの時

代の政治・経済的状況の層を表わしている。1960年代後半に起き

た第一の建替えの波は、高度経済成長の真っただ中で生じた。この

時期の大阪は、1970年の日本万国博覧会の開催に向け熱狂の渦

中にあった。問題は、いったい誰がこの労働を担うのか、ということであ

る。70年万博の期日までに、なんとしても万博会場を建設し終え、都

市を改造しなければならない。それに足る労働力が、圧倒的に不足し

ていたのである。このとき、足元にある釜ヶ崎に目が向けられた。大阪

には、炭鉱の閉山や農業の機械化により地元で食い扶持を失った

若い単身の労働者が、職を求めて続 と々流入しつつある。200軒を超

えるドヤを擁する釜ヶ崎にかれらを起居させるならば、必要なときに・

[2]1980年代後半のドヤの建替えは、関西国際空港の建設、都心の再開発、ウォーターフロント開発をはじめとする大規模都

市開発が繰り広げられるなか、釜ヶ崎の日雇い労働市場への需要が激増した時期

に対応して起こった。

釜ヶ崎に点在するコインロッカー

1960年代初頭のドヤの内部

第1次の建替えを経たドヤの構造(西山卯三『日本のすまい(参)』勁草書房、1980年、431

頁より)

現存する数少ない第1次建替え時のドヤ

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必要なだけの労働力を確保できる大規模な労働力の貯蔵地を創り

だすことができるだろう─かくして、釜ヶ崎を日雇労働力の供給地に

特化した空間へと改造しようとする対策が、政府主導のもとで始動さ

れた。じっさい、1960年代までは、まちには貧しいながらも日々 の生活

を営む家族や女性、子どもの姿があふれかえっていた。しかしながら、

1960年代に繰り広げられた対策のなかで家族や子どもは釜ヶ崎か

ら分散させられ、かわりに単身の男性労働者の流入が促進された。

その一環としてドヤは全面的に建替えられ、「カンオケ式」へと変えら

れていったのである。カプセルホテルの原型となる「カプセル住宅」

を黒川記章が披露したのは1970年万博会場においてのことだった

が、その会場建設の過程のなかで、釜ヶ崎ではその先駆けともいうべ

き形態の宿が、設計者不在のまま産み落とされたわけだ。

このように釜ヶ崎の成り立ちを少し振り返っただけでも、次のことははっ

きりとわかるだろう。釜ヶ崎とは決して自然発生的に生み出されたので

はなく、資本の要請によって創られたまちである。また、労働者は勝手

気ままに集まったのではなく、必要とされる労働力として用立てられ、

集められたのである。日雇労働市場としての釜ヶ崎は、東京の山谷や

横浜の寿町、名古屋の笹島と並んで「寄せ場」とも呼ばれる。この呼

称は、寄せ集められた労働者の地という釜ヶ崎の性質を、的確に表

わしている。

けれども、「寄せ場」はときに「寄り場」と言い換えられることもある。「寄

り場」とは、寄せ集められた労働者たちが、その地を自分たちの土地

として、寄り集まるべき拠点として意味づけるときに用いられる言葉だ。

1960年代初頭の釜ヶ崎、こどものいる風景

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述べたように、万博開催に向けて釜ヶ崎のドヤは、人間ひとりがやっと

寝起きできるサイズの内部空間へと塗り替えられた。このことは、ドヤ

内部での生活機能が就寝だけに特化されることをも意味する。だか

ら、食べる・飲む・語りあうといった機能は、ドヤの外側で、つまり食堂や

立ち飲み屋、路上や公園など、まちのいたるところに広がらざるを得な

い。たとえば、はやくも1960年代から釜ヶ崎界隈で日雇い労働者とし

て生活していた詩人の寺島珠雄は『釜ヶ崎語彙集 1972 -1973』の

なかで、次のように叙述している。

住む、というのは寝るだけではない。食うこと呑むこと、またくつろぎ憩うことなども住

むないしは暮らすことのなかみだ。そして労働者はドヤの一畳のあまりのスペース

に住んでいるのではなく釜ヶ崎に住んでいる。釜ヶ崎で酒を呑み飯を食い仲間と

しゃべり喫茶店や三角公園でテレビを眺めなどする。要するに現在一般化した

住居様式でならダイニングキッチンや居間の役割を、労働者は釜ヶ崎という範

囲の町に果たさせているのだ。果たさせる以外の方法がないのだ。だから釜ヶ崎

は一つの町であるが、労働者にとっては仕事場から帰りついた住み処という性格

が認識されている。ドヤはそのうちの単なる寝室にすぎない。酔いすぎた者が寝

室以外でも眠るのはむしろ自然なので、そう咎めだてする必要はない。[3]

いわばまち全体が、リビングでありダイニングであり、社交場であり井

戸端である─そのような状態が生み出されたわけだ。このような空

間の性質とは、プライベートなのかパブリックなのかと考えたところで、

さほど意味がないように思われる[4]。ただ確実にいえるのは、群れを

なす労働者たちが、釜ヶ崎と呼ばれる土地を共有していたという事実

である。この意味で、釜ヶ崎とは労働者たちの共有地なのだ。

2 ─ 暴動の時空間

戦後釜ヶ崎のあゆみを書き記すうえで、暴動について書くのを避ける

ことはできないし、避けてはならない。暴動については、これまであまり

に語られ過ぎてきてしまった側面と、あまりにも語られなかった側面と

がある。語られ過ぎてしまった側面、というのは、以下のような事態だ。

1961年8月に起こった第1次暴動に端を発し、2008年の第24次暴

動にまで連なる一連の暴動をめぐっては、新聞記事から研究論文に

いたるまで、さまざまなメディアを媒介として、数多くの言葉が積み重

[3]寺島珠雄編著『釜ヶ崎語彙集 1972 -1973』、新宿書房、2013年、120頁。[4]というのも、だいたいの場合そのような議論は、土地が私的に所有されることをあらかじめ前提としてしまっている。地球上の永い歴史の視点にたつならば、都市空間を私有地/公有地に分割しうるという観念じたいが、そもそも不自然だと考えるべきだろう。

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ねられてきた。暴動を「やけくそな暴力」や「狂気」として描き出す者も

いれば、その原因を推定したうえで再発を防ぐ改良手段を提言する

者もいた。これらすべての言説は、治療されるべき都市の社会病理と

みなす空間認識や、「危険なところ」という場所イメージを、釜ヶ崎に

対して塗り重ねていった。このイメージは、私たちが釜ヶ崎を理解する

ことを妨げる壁として、いまだに分厚く存在しつづけている。

これらのありきたりなイメージを脇に置いて、次のように問うてみよう。

「暴動」と呼ばれる集合的行為をよくよく観察するならば、そこに釜ヶ

崎に住まう日雇い労働者たちの理性や道徳を見出すことができるの

ではないか、と。いざこのような問いにたつとき、膨大に積み重ねられ

たはずの新聞記事やルポルタージュや学術論文は、まったく役に立

たないことに気づく。というのも、暴動になんらかの理性を見出そうとい

う発想など、端からそれらの眼中にはないのだ。

だが、大手メディアや学術論文があれやこれやと暴動を「解説」する

かたわらで、ひっそりとではあるが、鋭い観察眼をもって暴動を書き記

した著述家がたしかに存在していた。幸いなことに、私たちはかれら

の書き記した文章を手掛かりとして、暴動の内実を違う角度からうか

がい知ることができる。以下では、清凉信康なる人物が記録した文章

「釜ガ崎─その未組織のエネルギー」を手がかりとしながら、第1

次暴動の再現を試みてみよう。

1961年8月。ひとりの日雇労働者が、釜ヶ崎の道路上でタクシーに

轢かれ殺された。警察官はこの事故現場にやってきたものの、倒れ

た労働者にムシロをかけたまま立ち去り、数十分間にわたって放置し

てしまった。釜ヶ崎の住人に対する差別意識を凝縮させたともいえる

この処遇に対する怒りは、あっという間にまちじゅうに広がり、五日間に

わたる暴動が勃発したのである。その口火を切ったのは、石を投げる

行為であった。

だれかがはじめて石を投げた。これは英雄と呼んでいい行為だろう。二人めが

投げた。これは勇気と呼んでいい。三人めが投げた。これは野次馬。その後の

無数の投石は政治。この地帯の住人は自らの感情を政治に転じて押し広めて

いった。そこにはかれらが長年つちかってきたあらゆる集団行動への経験と創意

性が凝縮されていた。何に向けて行為することがこの場合最も有効であるかとい

う問に対して、かれらに考えさせる必要は何もなかったほど、日常性としてかれら

の体内にひそんでいた。[5]

[5]清凉信康「釜ガ崎─その未組織のエネルギー」、『別冊 新日本文学2』、1961年、169頁。

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こうして、派出所へと投石の雨あられが向けられた。すぐさまこの事態

に対し警機動隊が動員され、圧倒的な権威を誇示することによって事

態は収拾されるかのように思われた。ところが、この対応によって暴動

の熱量は、いっそう高次の段階へと高められていった。暴動に加わる

労働者の数は、飛躍的に増大した。それだけでなく、暴動そのものも、

石を投げる行為から火を放つ行為へと、質的に転換したのである。

かれらは動員された警官そのもの、警官が表出する権力そのものに向けて悪罵

を投げた。闘いの次元は変った。集まったすべての人がこのことを感じとったとき、

その量は飛躍的に増加した。これら住人の行動をシンボライズするためには原

生人的な感覚が頭をもたげてくる。聖火と呼ぼうが、狼火と呼ぼうが質的に変り

ない。この場合住人の希求する行為をさまたげるものに向けられるのは、その初

歩的な意味において当然だった。機動隊という権力像と対峙している気高い住

人たちに対して、けちな私欲を優先させようとしたタクシーにはじめての火が向け

られたとしても、それは当然といわなければならないだろう。[6]

このように書き残された記録から、私たちは暴動と呼ばれる集合的行

為が刻一刻と展開していくさまをありありと知ることができる。のみなら

ず、あたかも無秩序であるかのようにみえる暴動のうちには、じつのとこ

ろ釜ヶ崎の日雇い労働者独自の自律的な共同性や集合性が発露

されていたことを知るところとなる。

この書き手は、新聞が「暴徒化」という表現を乱用するのとは対照的

に、暴動という行為のなかに一定の倫理が作用していることを決して

見逃さなかった。「火が火を呼び、とりあえず東田派出所を燃やせと

要求する一群があったとしても、それは暴徒ではない。その証拠を望

むなら隣家に類焼するのを防いだのはだれであるかをあげるだけ

で充分だろう。それは火を放った当人たちであったことは明らかであ

る」。[7]日雇い労働者たちが抗議するべき敵は、あくまで警察であり、

それが代表する権威そのものであった。そのような視点にたつならば、

警察が編さんした資料ですら、有益な手がかりとなる。図2は、大阪

府警編さんの資料をもとに、日雇い労働者の「主たる蝟集場所」(つ

まり、労働者たちが寄り集まって抗議していた場所)を地図化したものである。

これをみれば、日雇い労働者が寄り集まる場所が警察署や派出所

の周囲であったこと、つまり暴動とはなにより警察に対する抗議行動で

あったことは、一目瞭然だろう。

[6]同、169頁。[7]同、169頁。

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さらにこの書き手にとって、暴動という非日常は、釜ヶ崎の日常と地続き

の出来事として、その日常が爆発した出来事として捉えられるべきもの

であった。彼はこう述べる。「無駄なことにはかかわらない日々 、それが

釜ガ崎の掟のようである。もっとも現代的な人間感情のようにエゴイ

ズムである。それでいて心やさしい住人たちである。信用する自己とそ

の自己にかかわりのある他人との強烈な共生感を突出させる生活感

情と、いっさいの権力を信用しない敵愾心が、この緑地帯の住人の

全生活をささえている強みである。八月一日のでき事はそのことを立

証したささやかな動乱であった」。[8]

釜ヶ崎の日雇い労働者が共有する心性。それは、エゴイズムであり、

共生感であり、そして権力に対する敵愾心なのだという。釜ヶ崎の日

雇労働者は、故郷から遠く切り離され、家族や地域共同体から引き

剥がされ、ただならぬ紆余曲折を経てこの地へと辿りついた。差別さ

れた苛酷な労働環境のなか、身体ひとつで生き延びるために、エゴ

イズムこそ自身が依るべき心性であることは、なんら不思議ではない。

それゆえ、釜ヶ崎の日雇労働者を語る言説には、「疎外」や「社会解

体」、「自暴自棄」といった用語がつきものであった。しかし、それぞれ

が似たような境遇をもち、同じような労働環境に置かれた者たちは、

釜ヶ崎という一片の土地を共有していた。[9]その条件こそが、エゴイ

ストでありながら、集団的でもあるという労働者の心性を生みだす素

地となった。暴動は、そのようにして形成された労働者の共同性が、

一挙に発露した出来事だったのである。

[8]同、167 -168頁。[9]ただし、労働者たちが共有していたのは釜ヶ崎という土地だけではない。流動を常とする労働者たちは、山谷や寿町、笹島などの他の寄せ場を流浪して生きてきた。そのように考えるならば、労働者たちが群れをなして共有していた土地とは、各都市の片隅にありながら群島のように連なる流動的

な地勢であったというべきかもしれない。この点については、稿を改めていずれ論じることとしたい。

│図2│第1次暴動の「主たる蝟集場所」(原口剛ほか編『釜ヶ崎のススメ』洛北出版、

2011年、242頁より)

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3─「我らまつろわぬ民、ここに自らを祭らむ」

三角公園は、釜ヶ崎のもっとも象徴的な公園である。この公園を舞台

として、毎年8月13日から15日のお盆の時期には釜ヶ崎夏祭りが

開催される。お盆の時期、というのが重要だ。一般の人びとであれば、

この時期は故郷に帰省して家族や親戚一同集まりともに時間を過ご

すだろう。しかし釜ヶ崎の住人の多数は、故郷に帰りたくても帰れない

人びとである。むろんこの時期には建設現場が休業になるという事情

も大きいが、故郷に帰るに帰れない釜ヶ崎の住人たちは、似たような

境遇をもち、同じ土地を生きているという共同性を拠り所として寄り集

まり、夏祭りの輪に加わるのである。祭りでは、ステージ上での演奏や

相撲大会[10]など、さまざまな催しが行われるが、なかでもやぐらを中

心にみなが参加する盆踊りは祭りのクライマックスであるといえる。耳

慣れた炭坑節も、ここ釜ヶ崎においては、住人の出自を想起させずに

はいられない。

現在では地域恒例の行事として定着している夏祭りであるが、その第

1回が開催されたのは1972年である。釜ヶ崎にとって72年は、転回

点ともいうべき重要な年だ。1960年代後半から70年代初頭にかけ、

学園紛争を闘った若手活動家たちが、闘争の末に釜ヶ崎へと流入し

ていた。若手活動家の情熱と労働者の文化とが混じり合い、緊張を

孕んだ化学反応を引き起こしたことで、釜ヶ崎の政治文化が爆発的

に開花したのである。夏祭りの開催もまた、まちのいたるところで繰り広

げられた闘争の一環として勝ち取られたものにほかならない。

まずは、釜ヶ崎の政治文化が展開する画期となった出来事、鈴木組

闘争と呼ばれる闘争について記しておこう。鈴木組とは、ヤクザ組織

が経営し、日雇い労働者を調達することをなりわいとする、違法な手

配師組織だ。釜ヶ崎のような日雇労働市場・寄せ場とは、言わば公認

されたブラック・マーケットである。上述した釜ヶ崎対策のなかで、万

博会場建設をはじめとする一連の都市改造工事を完了させるため

に、政府公認の日雇い労働市場が建造された。万博と同じ年、1970

年に完成した「あいりん総合センター」がそれである。この巨大な建

造物は、不思議なことに一階部分が空洞になっている。じつはこの空

洞部分がもっとも重要なのであり、早朝になると労働者を求める求人

業者と、その日の仕事を求める労働者が集まり、この場で労働力の売

り買いが行われる。その光景は魚市場さながらの文字通り「市場(い

[10]夏祭りが開催されるきっかけとなったのは、相撲であった。前年の1971年12月10日、三角公園では、行政に越年対策を要求するための決起集会が開催された。しかし、寒さゆえに参加者はあまり集まらず、集会は早めに切り上げられる羽目になった。ひまを持て余した越冬対策実行委員会の

メンバーは、なんとなしに相撲を始めた。すると、相撲には続 と々労働者が集まり、行司をかってでる者、見物料としてカンパを出す者まで現われた。この経験を踏まえて、その年の越冬闘争では文化や体育の場を設

け、ソフトボールや相撲、のど自慢大会やもちつき大会を企画してみた。のど自慢大会には100人近い労働者が入れ替わり立ち替わり歌を披露し、数百人の労働者が聞き入るという活況が生まれた。このような経験から、実行委員会は、労働者が自分たち自身の文化を共有する場の重要性をはっきり

認識した。こうして、8月のお盆の時期に三角公園を会場として夏祭りを開催しよう、という提起がなされたのである。

釜ヶ崎夏祭りの光景

あいりん総合センター

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ちば)」であり、人間の身体が労働力商品として売りに出される様が露

骨に繰り広げられる。さらに、このような労働力の売り買いは当時の法

律によって禁止されていたにもかかわらず、政府お墨付きの例外的

市場として公認されたのである。この例外状態ゆえ、そこにはヤクザ

が介入するグレーゾーンが生み出され、条件違反や労働者に対す

る暴力やリンチが跡を絶たなかった。

1972年5月26日、このセンターで何人かの日雇い労働者が鈴木建

設の求人に応募し、その日の仕事に向かおうとした。だが、建設事務

所に到着すると、求人で提示されていた条件とは違うことが分かった(求人条件には「市内」と書かれており、当然「大阪市内」であるはずのところ、実

際の現場は奈良「市内」であった)。このことを知って労働者たちは抗議し、

うち数名は就労を拒否して現場から逃げ出した。[11]この労働者の

必死の抗議行動に対し、鈴木組は報復の意味で労働者を拉致し、リ

ンチを繰り広げたのであった。

と、ここまでの経緯は─にわかには信じがたいかもしれないが─寄

せ場では日常茶飯事のことがらにすぎない。違うのは、ここからの展開

である。一連の報復リンチに対し、活動家たちはセンターにおいて抗

議行動を繰り広げた。そこに、鈴木組組長を筆頭にして木刀を手に

した十数人の組員が、いっせいに殴りかかってきた。しかし、まわりを取

り巻くのは大勢の日雇い労働者である。かれら労働者がいざその気

になれば、ヤクザ組織であろうがかなうはずもなかった。じっさい、日雇

い労働者たちは組長をつかまえて、労働者が取り巻くなかでリンチを

加えたことを謝罪させたのであった。

この出来事に、日雇い労働者たちは沸き立った。日雇い労働者が泣

き寝入りさせられる寄せ場は、一転して労働者の自治空間へと転じ

たのである。その勢いのままに、翌6月には「暴力手配師追放釜ヶ崎

共闘会議(釜共闘)」が結成。釜共闘は、結成されるや否や、労働者

の自治空間を釜ヶ崎のまちなかへと拡大させようとした。そのエネル

ギーが向かった先が、三角公園だったのだ。

この当時、三角公園で夏祭りを開催するということは、とてつもない一

大事だった。というのも、当時の三角公園はヤクザが仕切る賭場と化

していたのである。まして8月のお盆の時期は、各地の現場から労働

者がお金をもって釜ヶ崎に帰ってくるのだから、またとない稼ぎ時であ

る。そんな場で夏祭りを開催するということは、ヤクザから公園を奪い

返し、真っ向から喧嘩を売ることを意味した。開催された当初の夏祭

[11]暴力的な飯場や現場から命からがら逃げ出す実践は、労働者の日常用語で「トンコ」と呼ばれる。この言葉がもつ歴史性について、寺島珠雄は次のように解説している。「トンコの語源はわからない。朝鮮人労働者の多かった戦中戦前の炭坑では、トマンカスあるいはトマンカッソというのがトン

コと同じ意味で使われ、それは朝鮮語だったと理解されていたが当否を確認していな

い」(寺島、『釜ヶ崎語彙集』、前掲、76頁)。この解説を踏まえるならば、「トンコ」と呼ばれる実践は、炭鉱や港湾の労働世界に共通する都市下層の日常的実践であると考えら

れる。また、その語源を辿れば朝鮮人労働者の記憶に連なる可能性が示唆されてい

る。興味深いことに、この点は、筑豊の炭鉱労働世界の用語「ケツワリ」を解説した上野英信による次の指摘とも重なり合う。「ケツワリとは逃亡・脱走の意であり、動詞としてはケツをワルというふうに用いられている。ケツワリ坑夫といえば脱走坑夫のことになる。よく尻割という漢字が宛てられるけれど、これはバケツを馬穴と書くのと同じく、まったくの宛字にすぎない。もともと脱走を意味する朝鮮語の『ケッチョガリ』の転訛であることは明らかだ。係員のことをヤンバンといったり、飯をくえというところをパンモグラといったり、炭鉱で日常用語と化した朝鮮語がすこぶる

多いが、これはすでに明治時代からかなり多くの朝鮮人移民が流れこんできているた

めである。たとえそれが不幸な出会いであるにせよ、地の底における日本人と朝鮮人との結びつきは歴史的に深い」(上野英信『地の底の笑い話』、岩波書店、1967年、108 -109

頁)。このように、釜ヶ崎の日雇い労働者が何気なく用いる語彙のひとつひとつは、そこから「地の底」の世界が顔をのぞかせるような、奥深い歴史性を有している。

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〈スクエア〉生成の過程と条件─寄せ場・釜ヶ崎からの視点

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りには、ヤクザや右翼からの襲撃、警察による弾圧によって幾度とな

く潰されかけた。とくに労働者たちがみずからの手で建設するやぐら

は、祭りの象徴であった。やぐらが破壊されるのを防ぐために、主催者

たちは徹夜でやぐらを囲み、守りきったのだという。そのような熾烈な

攻防を経て、夏祭りは生み出されたのである。

重要な点は、72年を起点とする夏祭りなどの数 の々政治文化とは、

暴動の文化の延長線上においてこそ展開した、ということである(前節

で暴動について書かなければならなかった理由も、この点にある)。この祭りがも

つ意味を考えるために、ここでもういちど第1次暴動の時空間へと立

ち戻ってみたい。寺島珠雄は、『釜ヶ崎暴動略誌』と題する未公刊の

手稿のなかで、暴動について次のように書き記している。

釜ヶ崎の労働者がどれもどのエネルギーを日本の産業に安く吸いとられている

かは、一々例証するまでもない明白な事実である。つまりエネルギーは潜在して

いるのではなく顕在しているが、それを巧妙にまた冷酷に他人のためだけ消費

させられていたということだ。暴動は、もうそれじゃイヤだ、イヤなんだ! と怒ったわ

めき声である。わめき声であるがゆえに、それは発作的であったり意味不明で

あったりしているが、しかしわめくことを誰が押しとどめ得るか。……「鈴木組事

件」等をふくめて暴動の跡をたどって行くことによってわめき声が主張のある叫び

に推移しつつあることが理解されるに相違ない。[12]

第1次暴動以来、1960年代に暴動は数多く起こりつづけた。けれど

も、きわめて少数の著述家をのぞいて、暴動の声に耳を傾ける者は

[12]寺島珠雄『釜ヶ崎暴動略誌』、未公刊、執筆年不明。上記『釜ヶ崎語彙集』と同時期の1970年代初頭に執筆されたものと推察される。

左:釜共闘のポスター右:『労務者渡世』の表紙

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誰もいなかった。それゆえ暴動は、発作的で、意味不明な「わめき声」

でありつづけなければならなかった。釜ヶ崎の住人たちは、それでも繰

り返し「わめき」つづけた。そしてようやく1970年代、暴動に感応する

者たち─当時の反乱する若者たち─がぞくぞくと現われたのであ

る。72年の鈴木組闘争は、その画期であった。暴動には言葉が与え

られ、「わめき声」はついに「主張のある叫び」になった。

「我らまつろわぬ民、ここに自らを祭らむ」。この言葉は、第1回の夏祭

りのスローガンである。いまでも暴動について話を聞くと、あたかもそ

れが祭りであったかのように振り返る労働者に出会うことが多い。そ

の語りの意味するところを、この短いスローガンは教えてくれる。「まつ

ろわぬ民」とは、服従を拒否する者、という意味である。それは、警察

に代表される権威への服従の拒否を表わすだろうし、また、「あるべ

き」とされる家族像や市民像から切り離され、身体ひとつで生きる者

の心性をも表わしているといえるだろう。暴動とは、そのような者たちが

自分たちの集合性を爆発させ、「自らを祭」ることによって、一時的に

であれ自律的な時空間を切り開く集合的行為であった。72年に起

源をもつ釜ヶ崎の政治文化は、「わめき声」に言葉を与え、そうして多

彩な表現文化を生みだしていった。[13]このような表現行為のなかで

こそ、暴動という形態ですでに発露されていた集合的行為のエネル

ギーは、夏祭りをはじめとする一連の政治的実践の文化[14]へと接

続され、発展していったのである。

4─〈スクエア〉の条件:釜ヶ崎からの視点

釜ヶ崎とは、創りだされた空間である。そこは、1970年万博の開催

をはじめとする都市再編のなかで、単身日雇い労働力の供給地とし

て生み出された地である。しかし、釜ヶ崎は日雇い労働者の共有地

でもある。資本の要請に従って寄せ集められた労働者たちは、辿り

ついたその地を寄り集まるべきおのれの空間へと塗り替え、暴動から

夏祭りへといたる政治文化を開花させていった。強要された地であ

る「寄せ場」を、自分たち自身の「寄り場」へと反転させるこの過程に

見出されるのは、みずからの力で広場を生みだそうとする民衆的行

為である。これを、〈スクエア〉の生成過程であると捉えよう。近年のカ

イロのタハリール広場、ニューヨークのズコッティ公園、イスタンブー

ルのタスキム広場/ゲジ公園における蜂起のなかに、釜ヶ崎におい

[13]このような表現文化のひとつとして、雑誌『労務者渡世』が挙げられる。これは労働者による、労働者のためのミニコミ誌であり、1974年の創刊号から1985年の第38号まで発刊された。地域内の5カ所の委託店舗において500部が販売され、毎号ほぼ売り切れていたのだという。各号の特集として取り上げられるのは、「めし」「ふろ」といった労働者の日常文化であり、また、労働者が投稿した詩歌が掲載されるなど、労働者の声を表現する媒体でもあった。[14]この時期に生み出された政治文化のなかでも重要な実践のひとつは、越冬闘争である。年末年始の時期は、釜ヶ崎の日雇い労働者にとっては、現場がいっせい休業期間に入り仕事が途絶える失業の季節とし

てある。真冬の寒さは確実に身体を蝕み、この時期に何人もの野宿労働者が路上で命

を奪われる。冬を越すということが労働者にとっては生命をかけた闘いなのであり、それが越冬闘争と呼ばれる所以である。野宿する労働者が公園に集い、食やテントや焚火を分かち合うこの取り組みは、1970年冬に第1回が開始された。とくに世界的恐慌が襲うなかで日雇いの仕事が急減した1970年代半ばに、この取り組みはますます重要なものとなった。さらに、この時期には越冬闘争に対する弾圧と公園からの強制排除が繰り

広げられ、それがこの取り組みの闘争的な性格をいっそう強めた。釜共闘の中心メンバーであった船本洲治が、このような闘争のなかで生み出した次の言葉は、公共空間の占拠の積極的意味を表明した先駆である

といえる。「七二年五月二八日の対鈴木組闘争から、その後不屈に闘い抜かれた現場闘争の中から生み出された戦闘的青年労

働者の組織釜共闘が、ただ単に青年労働者の利益のために闘うだけではなく、資本によって労働力商品としての価値を否定され

た病人、老人、資本の自己増殖の過程で廃人にされたアル中たちを引き受けようとし

たこと、否、彼らが参加できる形で共に闘おうとしたこと、そして、敵と対決し、打ち勝つために衣食住総体の労働者階級の問題を解

決しようとしたこと、これが越冬闘争の意味である」(全国日雇労働組合協議会編『黙って野たれ死ぬな─船本洲治遺稿集』、れんが書房

新社、1985年、137 -138頁)。このような歴史的経緯をもつ越冬闘争は、1990年代以降の公共空間における野宿労働者の占拠=テント村闘争として受け継がれ、いまなお重要な実践として繰り広げられている。

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て積み重ねられた実践が地球規模で再演されているような感覚を

覚えるとするならば、おそらくそれは錯覚ではない。私たちがそこに垣

間見るのは、全 ─世界に共通する〈スクエア〉生成の民衆的素地の

一端なのだから。

それでは、〈スクエア〉とはなにか。これまで述べた釜ヶ崎での事例を

振り返るならば、その生成の条件として欠かせないいくつかの点を挙

げることができるだろう。

まず、〈スクエア〉とは過程である。60年代の暴動から70年代への祭

りへといたる経緯のなかに私たちがみたのは、生成と変化の過程で

ある。それは、単身で故郷から切り離され身体ひとつで生き延びる気

高いエゴイストたる労働者たちが集団と化し、暴動という行為のなか

に自分たちの集団性を開花させる過程であった。そして、そのような

暴動のわめき声が、やがて主張のある叫びへと転化され、また夏祭り

という実践が生み出される過程であった。このようにみるならば、〈スク

エア〉とは設計されうるようなものではない。むしろ〈スクエア〉生成の

端緒を切り開くのは、設計されて在ることを拒絶する態度だ。このとき

思い起こされるべきは、「やられたらやりかえせ」や「黙って野たれ死

ぬな」といった、1970年代に釜共闘が編み出したスローガンである。

釜ヶ崎の住人たちが黙って泣き寝入りする存在であることをやめ、やら

れっぱなしの存在であることをやめ、みずからの力でなにものかになろ

うとするとき、その希求は暴動という表現形態をとった。それゆえ寺島

珠雄は、暴動の渦のなかに「もうそれじゃイヤだ、イヤなんだ! と怒った

わめき声」を聞き取ったのであった。暴動が設計や秩序を拒絶する

叫びであったことは、なにより、権威を象徴する警察こそがかれらの攻

撃対象だったという事実が端的に物語っている。[15]

それゆえ、暴動とは政治的な過程であった。石を投げる、火を放つと

いう行為は、単なる破壊ではなくそれ自体が創造の行為だった。か

れらはなにを創造したのか。のちの夏祭りのスローガン「我らまつろわ

ぬ民、ここに自らを祭らむ」が表わすように、かれらが創造したのはみ

ずからの自律的な時空間であった。このときかれらは、電車の線路に

敷き詰められた石をかき集め投石の武器として用い、またそれによっ

て電車の運行を遮断させた。都市機能を麻痺させることによって、か

れらは自分たち自身の自律的空間を出現せしめたのであった。と、ここ

で忘れてはならないのは、かれらが建設業や港湾運送業といった都

市基幹産業に欠かせない労働力として寄せ集められ、活用される存

[15]警察のほかにたびたび暴動の標的となったもうひとつの対象は、パチンコ屋であった。パチンコ屋が暴動の標的となった理由についての寺島珠雄の見解はこうであ

る。「切っても切れぬ、というように労働者と結びついているのが、仕事、ドヤ、めし屋、立ち呑み屋、パチンコ屋だが、なかでもいつも憎まれているのはパチンコ屋。それは『あんなもの世の中から無くしたらいいのや』という類の、やめられない自分への怒りもこめた恨みになっていて、暴動の度にパチンコ屋が攻撃を受けるのはそのためである」(寺島、『釜ヶ崎語彙集』、前掲、151頁)。この類推が正しいとするならば、パチンコ屋を攻撃する際の労働者の心性は、警察署を攻撃する際の「権力に対する敵愾心」とはやや異なるのであろう。そこに発露されているのは、酒をやめたくてもやめられぬアルコール依存(「アル中」)と

同様のもがきや苦しみであり、依存から脱却したいという切なる希求であろう。またパチンコ屋を標的とした暴動に表明された「恨み」とは、やめられぬ自分に対する怒りであると同時に、アルコールやギャンブルの依存へ自分たちを追いやる巧妙な社会の仕掛けに

対する怒りであるといえるだろう。

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在であったということである。かれらにとって都市とは、自分たちの手が

作り上げた作品であるのに、ひたすら他人の便益のためだけに使用

されるインフラである。都市機能を麻痺させることで、かれらは自身の

作品を自分たちの手に、一時的にであれ取り戻したのであった。これ

ら一連の実践に一貫しているのは、権威の拒絶や不服従という態度

である。それを見落としてしまったならば、暴動は「騒ぎ」にしかみえな

いし、夏祭りはただの賑やかしにしかみえなくなってしまうだろう。〈スク

エア〉もまた然りである。政治的過程であることを欠いたままそれが構

想されてしまったならば、一転してそれは、むしろテーマパークに近いよ

うな疑似的空間と化してしまうだろう。[16]

最後に、これら一連の過程を作動させた根底的な条件として、土地

の共有という事実がある。万単位の労働者は、それぞれが似たような

生い立ちを抱え、労働現場で搾取されながらも、釜ヶ崎という一片の

土地を共有していた。食堂で、立ち飲み屋で、路上で、公園で、かれ

らはともに語らい、そうして労働者は群れとなった。だから、タクシーに

轢き殺された労働者に対する警察の処遇は、ただひとりの労働者に

対する処遇ではなく、「われわれ釜ヶ崎の住人」に対する処遇であっ

たのだ。労働者の身体をつたって怒りは瞬く間にまちじゅうに広がり、

そうして暴動が起こされた。かような共有地性とともに指摘しておかな

ければならない要素は、釜ヶ崎が有する「中心性」(アンリ・ルフェーブ

ル)であり、つまり、寄り集まるべき地としての性質である。清凉信康が

暴動の火を「狼火」と表現したことは、この点を的確に示しているといえ

よう。暴動の火は寄り集まるべき地を示す狼火となり、やがてこの火に

若者たちが次 と々引き寄せられていった。そうして1970年代初頭の

釜ヶ崎には多種多様な政治文化が生み出され、暴動は夏祭りへと

発展したのだった。

ところで、ここに書き記した年代誌は、現在となっては時代錯誤に感じ

られるかもしれない。1990年代以降、寄せ場としての釜ヶ崎の機能

は縮小しつづけ、釜ヶ崎は生活保護を受給しながら定住する〈福祉

のまち〉へと変わりつつあるからだ。隣接する阿倍野再開発エリアに

目を転じれば、釜ヶ崎を見下ろすかのように「あべのハルカス」がそそ

りたっている姿が否応なしに目に入る。開発の波はぎりぎり阿倍野区

と西成区とを分かつ上町断層の際でとどまっているが、堰が切られた

ならば、またたく間に釜ヶ崎は塗り替えられてしまうかもしれない。そう

なってしまったなら、「釜ヶ崎」という地名や、その名のもとで積み重ねら

[16]1980年代以降消費を軸として都市空間を新たに商品化する「テーマパーク化」の動向が台頭するとともに、野宿生活者や都市下層への排除は激化していっ

た。釜ヶ崎の界隈に関しては、関西国際空港のオープンを目前にした1990年、阿倍野再開発エリアに隣接する天王寺公園

が大規模に改装され、全面がフェンスで囲われた有料公園に変貌させられた。その目的は「大阪の南玄関」としての天王寺のイメージを向上させること、言いかえれば「明るい」イメージを阻害する日雇い労働者や野宿生活者を追い出すことにあった。このように公園を改造する際にモデルとし

て参照されたのは、1983年に開業された東京ディズニーランドである。ディズニーランドをモデルとすることで、公共空間を消費空間として再定義しようとする試みが、天王寺公園を実験台として行われたわけだ。そしてこの実験の「成果」として、野宿労働者は公園から一掃された。この事例からあきらかなように、テーマパークは民衆(とりわけ都市下層民衆)の〈スクエア〉とは、質的に異なるどころか、敵対的なものですらある。それは、「多様性」を謳いながら、〈スクエア〉が有する民衆性や雑多性、重層性を一掃するような仕掛けである。〈スクエア〉にまつわる用語から政治性や対抗性、敵対性を取り除いてしまったなら、その帰結として民衆性の排除という真逆の事態を引き起こ

してしまいかねないという点は、よくよく注意しなければならないだろう。

三角公園から「あべのハルカス」をのぞむ

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れてきた記憶もまた、一掃されてしまうのではないか。そのような危惧

を抱かずにはいられない状況にある。

その反面では、「社会の総寄せ場化」というフレーズが物語るように、

かつて釜ヶ崎に例外化されていた労働や生活の状況は、いまや社

会のいたるところに遍在している。かつて寄せ場労働者がそうであっ

たように、重層的な下請け構造の最末端で安価な労働力として酷使

され、不要となれば容易く首を切られる労働者で溢れかえっている。

けれども、かつての寄せ場労働者とは異なり、かれらには寄り集まるべ

き場が与えられることはない。かつては、必要なときに必要なだけの労

働力をかき集められる環境を生みだすために、労働者を万単位で

一定の地に集住させておくことが必要であったが、情報技術の発展

は、そのような手間のいっさいを不必要なものにした。労働者が肌身

離さず持ち運ぶ携帯電話にアクセスし、「寄せ集める」のではなく「呼

び出す」だけで、その場しのぎの労働力は確保できてしまうのだから。

携帯電話は、いわばモバイル寄せ場なのである。

また、かつてのドヤと同じような機能を担っているのが、たとえばネット

カフェやビデオ試写室のような、新たな消費空間である。[17]だが、

ひとりひとりを薄い壁で区切ったその室内は、釜ヶ崎の喧騒とは正反

対に、いつも静まり返っている。各室の個人はインターネットで遠い誰

かに接続されていながら、隣室に住まう者同士の接触は厳密に禁じ

られている。そもそも、都市に点在するインターネットカフェが、ドヤ街

のような「街」を形成することはない。〈私〉は〈私〉であることを果てしな

く強いられ、群れとなることを許されない。

かたや都市には、いまや監視カメラがいたるところに設置されている。

釜ヶ崎は、日本で最初に路上に監視カメラが設置された地域でも

あった。次頁の写真をみると「防犯カメラ設置区域」との表記が眼に

入るが、それが釜ヶ崎に設置された経緯を踏まえるならば、「防犯カ

メラ」すなわち「人びとの身を守るカメラ」ではなく、正しくは「監視カ

メラ」と表記すべきである。監視カメラは、暴動を封じ込めることを第

一の目的として、日雇い労働者が路上で寄り集まることを監視するべ

く、1966年に設置された。このカメラは、「いつでも頭上や背後から

民衆一般を監視する仕掛け」[18]なのである。監視カメラだけではな

い。野宿生活者が寝ころべないように仕切りを設けたベンチや、出入

りを禁止するゲートは、もはやありふれた光景と化してしまった。創造

性やイノベーションというフレーズが流行り言葉になるのとは裏腹に、

[17]この現代的変容を象徴する凄惨な事件が、2008年に起こった。この年の10月、ミナミのビデオ試写室で起こった火災により、室内で15人が命を落とした。犠牲者のうち数名が身分証明を所持しておら

ず、身元がすぐに判明しなかったことから、このビデオ試写室が「宿」として利用されている実態が明らかとなった。このとき想起されるのは、1970年代に釜ヶ崎のドヤで多発した火災である。「カンオケ式」へと改装されたのちに、内部に小部屋を密集させたドヤは、中央部分が空洞となった巨大な煙突のような構造となり、ひとたび火災が起きればあっという間に建物全体を焼

きつくした。それに加えて、警察の指導により部屋から寝具が盗まれないようドヤの窓

には鉄格子がはめられ、宿泊する労働者は火災が起こった際の逃げ場を失った。これらのことから、70年代のドヤ火災で何人もの労働者が命を奪われたのである。2008年のビデオ試写室の火災においても、入口が一カ所しかない構造によって、多数の犠牲者が生み出されてしまった。いわば、1970年代の釜ヶ崎におけるドヤの悲劇が、かたちを変えて現代都市の只中で再現されたのである。[18]寺島、『釜ヶ崎語彙集』、前掲、225頁。

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〈スクエア〉生成の過程と条件─寄せ場・釜ヶ崎からの視点

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都市の地表上に巷の人びとが(暴動がそうであったように)創造性を表明

しうる余地はますます狭められ、封じられつつある。これら列挙した事

実は、「社会の総寄せ場化」があらゆる場所に浸透しつつある事態を

示すのみならず、本稿で述べた意味での〈スクエア〉の条件がどれほ

ど奪われているのかをも示している。

だが、忘れてはならない。〈スクエア〉とは、所与のものではなく生成す

る過程なのである。設計された都市環境は、それを自分たちのため

の空間として活用することができたならば、〈スクエア〉の条件へと反転

させることができる。たとえば情報技術は、たしかにモバイル寄せ場と

して機能している一方で、人びとが権威に異議を唱えるべく寄り集ま

るためのツールとして用いられうる。堅固に管理された現代の都市空

間であっても、よくよくみるならば、〈スクエア〉の素材になりうる要素が

あちらこちらに転がっているのかもしれない。それに気づくためには、〈ス

クエア〉の生成とは、自分たちが強いられた存在であることを拒絶し、

別のなにものかになるべく群れと化し、おのれの空間を生みだす創造

的行為であることを知ることが、なによりも必要だ。この教訓を、釜ヶ崎

の年代誌は繰り返し私たちに教えてくれるのである。

「防犯カメラ設置区域」の標識