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 新時代社発行の『週刊 かけはし』2011年10月24日号の「韓国は、いま」欄に掲載された聖公会大・日本学科教授のクォン・ヒョッテ「ベトナム派兵を拒否し翻ろうされ続けた2人の脱走兵」の翻訳で、原文は韓国の『ハンギョレ21』2011年9月26日付けに出たもの。   および、「『かけはし』編集部から」の「キム・ドンヒ(金東希)のその後について」という注釈の文も続いてある。
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され、まず尚韓の悼肌 hu羽

1964年の第 1次ベトナム派兵時、釜山市民らが派兵将兵らを「歓送Jしている O

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変えなければダメだという

考えから脱営を敢行した。

だ、と言う。彼は、自身を

戦争孤児として追い出した

韓国戦争の経験からベトナ

ム戦争を見ていた、という

のだ2

人の脱営と亡命は、日

本という舞台の上で繰り広

げられた。なぜ、そうなの

だろうか。もちろん当時、

先に述べたベ平速という市

民川体が存在し、ベトナム

の米半脱営兵を支援する

「反戦脱走兵米事兵士援助

日本技術委員会」

にじ)が組織的活動を通じ

て、この兵士た吃のめ3同

亡命を非合法的に展開して

いたという点が大きく作用

した可能性はある。実際に

多くの米軍脱営兵たちは、

これらの組織の存在を事前

に知り脱営を敢行したとい

う。けれども記録によれば、

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2人がベ平速や

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の存

ιを脱営前から知って

いたという状況は全く把握

されていない。これらの川

体の支援を受けたのは、す

べて脱営以降だ。そ、つなら

ば、彼らを日本に導いたも

のは別の脈絡から見なけれ

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に立ち寄った紋は

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るが、日本政府は米川州の

引き渡し要求を受け入れ、

これを拒存するの結川、仰

はキューバ大使館をこっそ

り脱け出し計崎、米軍脱ど

兵を支援していたベ平述の

助けを得て、ソ連経由でス

ウェーデンに亡命する。彼

の日本脱同はキム・ドンヒ

とは違って「密航」だった

ようだ。キム・ドンヒと川

事していると一

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様に、彼の足取りはその伎、

ベトナム戦争と枠千島

2人の脱営と亡命い、い

ずれもベトナム係長か出川

として作川したいベトナム

戦争当時、米同で徴兵を相

否した人は、だに町万人に

りとんと仁仙、えられてはいな

いただ、ベ平速の下務川

以だった平和運動家・ lH川

川?の証言によれば、亡命

というのであればベトナム

の人々の運命がどうなる

か、その未ト米を考えさせら

れたのです」。そうして「ベ

トナムの人々の苦痛を打撃

してこれに加担すること、

米合衆削の市民になるこ

と、すなわち実際には犯罪

者になるということ、いか

なる興味も希望も持でなく

キム・ドンヒ自身が「亡

命申請書」で「怠法前文お

よび辺氏リ条の戦争放京を

川型化した平和主義を貫徹さ

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以後に

ほど日本を訪

れ、北欧で家

一の貿易に従

流転に垂れ込めた陰の歴史

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拘ったフ γン・ソギヨン(黄

刊川

の(武器の影〉には

米市脱九日兵の姿が拙かれて

いる

従って米軍兵士キ

ム・ジンスの脱吋と亡命は

明らかに特殊なケ

スでは

韓半島に一廃ったけれども、

済州島4・3民衆蜂起や韓

国戦争を体験した済州島の

多くの人々がそうであった

ように、彼も Hm

N本への「密

航」を強行する。彼の 3人

の兄弟が日本で暮らして

いたのだから、彼の

への密航は梅めてれ然なこ

とだ。在日朝鮮人作家・徐

点楠のおじさんがそうだつ

たように((言語の監獄))、

日本で育った作日朝鮮人に

とって密航は「家族が暮ら

している地」へ「帰って行

く道」だった。

こういうわけでキム・ド

ンヒは 1955半4月に密

航して約5与問、日本で片生

活する。この期間に彼は民

族学校にも通い、日本の大

学にも入学する。けれども

警察に逮捕され1960年

3月、韓同に強制送返さ

れ、再び 1962年5月に

密航した後、

月に再び送

還される。

1965年の脱

常と密航は 3度目というわ

けだ。結局、「家族が暮ら

している地」である

本で

暮らそうとする彼の夢は実

現されなかった。終着駅が

確認されていない彼らの人

生の流転には植民地、

4・3

民衆蜂起、韓国戦争、ベト

HH

ナム戦争、南北分断が暗い

陰を落としている。

キム・ドンヒとキム・ジ

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平和憲法の現実だった。ンス、

2人を探したい。そ

事実、キム・ドンヒは日うして公的な歴史によって

本に「川住」する権叫があ寸隠された寸陰の恒

に出

た{彼は 1937年に済州合ってみたいυ

(

「ハンギヨ

品で生まれたけれども、すレ泊」第878号、日年9

ぐに日本に渡り、小学校4

月郡日付、クオン・ヒヨツ

年の時まで日本で暮らしテ/聖公会大・日本学科教

たの担年の解放直後、再び授)

「かけはし」編集部から

「ハンギョレ辺」のクオ

ン・ヒヨツテ教授の文章でJ

はキム・ドンヒ(金東希

について、「けれども彼が

実際に北韓に到着したの

か、それともそのままソ速

にとどまることになったの

か、彼のその後が伝えられ

たことは全くない」と記し

ているが、

H本で公刊され

ている以トの書籍によると

金東希は北朝鮮(朝鮮民主

かけ、支援を得て日本中i白川

主義人民共和国

に行き、

J

その後行方不明(あるいは

死亡している)になってい

ることが分かるの

在日朝鮮人目万λが北朝

鮮に帰国した。「帰国手業」

に責任者として関わった張

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必いけれどもキム・ジン

ペの脱引にはベトナム戦争

合判(判鮮)ア品の脈柿で

深刻にそけとめる彼の円悩

かい山川ついている

川本脱

山川附、彼の支隠れた人仁

U

せようとして努力している

日本」だからだと明らかに

しているように、平和広法

が彼らを

本に導いた背景

として作用した可能性が高

いυ

武装と武器の使川を禁

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守人--ン、

,一丸内んじぶされた米川、

止している日本の平和憲法

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2500円+税

明秀(一冗朝鮮総連新潟県本

部副委封長」は共和国で帰

同者が行方不明になること

を知り、その責任を痛感し

1988年、総連の活動を

退いたい彼はぺ共和利州制

者問題対策協議会」を結成

し、行方不明問題を追及し

ていく。彼は『裏切られた

楽土」(講談社、 1991年)

の中で、金東希について以

下のように触れている。

「・千葉県のある地域在

日朝鮮人商工会会長の息子

が六五年ごろ帰問し、ピヨ

ンヤン国立交響楽聞のメ

ンバーとして活躍してい

たが、行方不明になったの

私がこの話を聞いたのは

一九七五年のことで、実は

これが帰国者の行方不明

問題を初めて知った第一号

である。当時、私は総連中

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して帰国重吉携わってお

り、この話を杜会局長(故

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を脱走し、共和凶に亡命し

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は六七年、韓国の軍隊を脱

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1964年の第 1次ベトナム派兵時、釜山市民らが、派兵将兵らを「歓送j している。

なった」し「今の米国」を

変えなければダメだという

考えから脱営を敢行した。

だ、と一言、っ。彼は、自身を

戦争孤児として追い出した

韓国戦争の経験からベトナ

ム戦争を見ていた、という

のだ

02人の脱営と亡命は、行

本という舞台の上で繰り広

げられた。なぜ、そうなの

だろうか。もちろん当時、

先に述べたベ平速という市

民団体が存在し、ベトナム

の米軍脱常兵を支援する

韓半島に戻ったけれども、一

済州島4・3民衆蜂起や韓一

回戦争乞体験した済州島の

多くの人々がそうであった

ように、械も

本への「需

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航」を強行する。彼の 3人

の兄弟が日本で暮らして

いたのだから、彼の日本

への常航は極めて自然なこ

とだ

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京植のおじさんがそうだつ

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トロッキー研究日号

アジアのトロツキズム運動

ゴ--ヴアン「不屈の革命家||ベトナム・

卜口ツキスム運動史」一(上)

丁一言賓「現代中国における陳独秀研究とト

ロツキズム運動」

たように(〈言活の監獄))、

250OR+税

朝鮮人に

明秀(元朝鮮総連新潟県本

部副委員長)は共和国で帰

国者が行万不明になること

を知り、その責任を痛感し

1988年、総連の活動を

退いたい彼は「共和同川市削

者問題対策協費五」を結成

し、行方一小明問題を迫及し

ていく。彼は「裏切られた

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楽土」(講談社、

1991年)

の中で、金東希について以

下のように触れている。

「・千葉県のある地域在

日朝鮮人商工会会長の息子

が六五年ごろ帰同し、ピヨ

ンヤン国立交響楽団のメ

ンバーとして活躍してい

こが、行方不明になった

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私がこの請を聞いたのは j

一九七五年のことで、実は

これが帰国者の行方不明

問題を初めて知った第一号

である。当時、私は総連中

央社会局で実質的責任者と

して帰国事業に携わってお

り、この話を社会局長(故

河田日玉氏)に報行した

ると局長から、寸韓同同市

を脱走し、共和国に亡命し

た金東希青年もスパイとし

て処刑されているくらいだ

から」との返事がかえって

きた」。

「補足すると、八五東希と

は六七年、持凶の軍隊を脱

走し、円本に情入国したが、

捕えられたの当時、総述で

はこの金青年の行為を英雄

のごとく称え、社会党、共

産党、日朝協会などに働き

かけ、支援を得て日本当局

に抗議、陳情した結果、金

青年は六八年にソ連を経由

して共和国に亡命した。共

和国ではその英雄視された

金青年でさえ処刑されたの

だから、説日通の帰出者の行

、方不明くらいはものの数で

はない、というわけである」

キム・ドンヒとキム・ジ

平和憲法の現実だった。ンス、

2人を探したい。そ

事実、キム・ドンヒは什うして公的な歴史によって

本に寸川住」する権利があっ附された陰の歴史」に出

-H

H

た。彼は 1937年に済州介一ってみたいじ(「ハンギヨ

品で生まれたけれども、すレ旦」第878号、

年9

ぐに日本に渡り、小学校4

川部日付、クオン・ヒヨツ

年の時まで日本で暮らしテ/聖公会大

本学科教

た。品年の解放直後、再び段)

ている以下の書籍によると

金東希は北朝鮮(朝鮮民主

主義人民共和国)に行き、

その後行方不明(あるいは

死亡している)になってい

ることが分かる。

在日朝鮮人目万人が北朝

鮮に帰国した円「帰国事業」

に責任者として関わった張

日本で育った存

ZA

とって密航は「家族が暮ら

している地」へ「帰って行

く道」だったの

こういうわけでキム・ド

ンヒは 1955年4月に密

航して約

5q問、日本で生

亡命を非合法的に展開して

活する。この期間に彼は民

が大きく作用

族学校にも通い、日本の大

m

学にも入学する。けれども

警察に逮捕され 1960年

3月、韓国に強制送還さ

れ、再び 1962年5月に

密航した後、

月に再ぴ送

還される。

1965年の脱

位と密航は 3度目というわ

けだり結局、「家族が暮ら

している地」である日本で

暮らそ、っとする彼の夢は実

現されなかった。終着駅が

確認されていない彼らの人

生の流転には植民地、

4・3

民衆蜂起、韓国戦争、ベト

ナム戦争、南北分断が暗い

陰を落としている。

(JAT

「反戦脱走兵米軍兵士援助

日本技術委員会」

J

いいいじ

が組織的活動を通じ

て、この兵士たちの第3凶

いたとい、

した可能性はある。実際に

JATEC

多くの米軍脱常兵たちは、

これらの組織の存在を事前

に知り脱営を敢行したとい

う。けれども記録によれば、

2人がベ平速や

の存在を脱営前から知って

いたという状出は全く把握

されていない。これらの凶

体の支援を受けたのは、す

というのであればベトナム

の人今の運命がどうなる

か、そのよ米を考えさせら

れたのです。そうして「ベ

トナムの人々の片山をい咳

してこれに加判すること、

米合衆回の市民になるこ

と、すなわち実際には犯罪

者になるということ、いか

なる興味も希望も持でなく

べて脱営以降だ。そうなら

ば、彼らを日本に導いたも

のは別の脈絡から見なけれ

ばならない。

流転に垂れ込めた陰の歴史

トロッキー研佳

唱頁 )0

本文で触れている脱た米

兵を国外に逃がすジャテイ

の活動を

担った鈴木道彦(一万一橋大

学教授)が「越境の時

一九六 0年代と在日』(集

英社新書、

2007年)で

「ベトナム戦争の脱走兵・

金東希の救援活動」につい

て、やや詳しく触れている。

本文で阿じ内容が紹介され

ているので、その部分は省

ノ¥。「今も私の手許には、大

村収容所の金束希本人から

六八年一月三日付で送られ

てきた手紙がある。当時彼

の北朝鮮への「帰国先希望

(qi

書」なるものの写しが出

(JATEC)

回っていたので、それを不

審に思った私が子紙で質問

したのに答えたものだ。そ

こには、『私はまが(ママ)

いなく日本に亡命をねがっ

ているものであります。ぞ

れいがいなにものもありま

せん」と明記されている。

おそらく、日本政府から亡

命を距否された彼は、韓間

に送還されることだけは避

けようと、やむなく北朝鮮

への「帰国」を「希望」さ

せられたのだろう」。

「その北朝鮮に彼がとつ

ぜん送り出されたのは、

六八年一月二六日の朝だっ

た。:::この妥協的措置に

私は釈然としなかった。そ

の後の彼の情報は分からな

い」

(147頁)。

その後、小田実が訪朝し

念日成、王席に、金東希のこ

とを問いただしたが、そん

な人はいないという回符が

返ってきた下りが紹介され

ている。

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Hj

h

キム・ドンヒ自身が「亡

命申請汗」で「忍法前文お

ノ刊

よひぷ止り条の戦下仙以来や」

規定した平和主義を貫徹さ

せようとして符

心している

日本」だからだと明らかに

しているように、平和憲法

が彼らを

本に導いた背景

として作川した可能性が高

いい式決と式出の使用を祭

止している日本の平和憲法

を日本社会が実践に移して

いたならば、彼らの亡命劇

は日本で終わったことだろ

う。けれども平和憲法は実

際には機能しなかったし、

むしろベトナム戦争のため

の基地を米国に無限大に提

供し、自衛隊が武力を増強

するという現実がけ本に位

置づいていた

彼らを日本

に導いたのは平和定法の瑚

念だったけれども、彼らを

日本の外に追い出したのも

はキム・ドンヒ(金東希)

について、「けれども彼が

実際に北韓に到着したの

か、それともそのままソ速

にとどまることになったの

か、彼のその後が伝えられ

たことは全くない」と記し

「かけはし」編集部から

キムドンヒ(金東希)

のその後について

「ハンギヨレ辺」のクオ

ン・ヒヨツテ教授の文章で

ているが、日本で公刊され