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■はじめに イスラームというキーワードで生徒たちの態度を観 察すると,中東イスラーム世界と欧米キリスト教世界 という二項対立で理解しようとしていることに気づく。 もちろん,イスラーム世界それ自体のなかにも,欧米 対イスラームという構図で理解しようとする動きが あったのも事実だが,それにイスラーム世界を代表さ せるのはあまりにも乱暴である。メディアはわかりや すい報道を心がけている反面,生徒たちに画一的なイ スラーム世界像を提示しているともいえる。 以上のような課題を抱えながら,イスラーム世界の 歴史から何を学ぶことができるのだろうか。ここでは, 便宜的に従来のイスラーム世界を設定し,1コマの授 業を想定して,イスラームの拡大という小単元の取り 扱いを示したい。使用する教材は,帝国書院『新詳  世界史B』のp.80〜82と帝国書院『最新世界史図説  タペストリー 十二訂版』(以下,タペストリー)の p.126である。 ■イスラームの拡大とその概観 イスラームの拡大は,地域的な広がりとともに,民 族も多様で,生徒からは「複雑でわかりにくい」との 声が上がる。そして,その感想は的を射ている。タペ ストリー p.126の「イスラーム王朝興亡年表」(以下, 興亡年表)は,7世紀のウマイヤ朝から20世紀までを, 限られたスペースではあるものの網羅しており,イス ラーム世界の変遷を概観するのに有効である。ここで は諸王朝(のおもに支配層)がアラブ系,イラン・ア フガン系,トルコ系,ベルベル系,その他の5色で分 類されている。地域は,西はイベリア半島から東はイ ンドまでを範囲としている。したがって,授業では, これらの複雑な情報が一定の方向性やテーマをもつよ うに指導する必要がある。 授業の導入では,7世紀におこったイスラームを標 榜する国家が,アラビア半島から支配領域を広げ,ウ マイヤ朝時代には西はイベリア半島から北アフリカ, 東は西アジア・トルキスタンなどの中央アジアまでを イスラーム王朝の領域としたことを確認する。しかし, 8世紀末から大きく状況が変化することになる。アッ バース朝の繁栄にはかげりがみえはじめ,次第に衰退 へと向かう。支配の領域もその変化が一目瞭然である。 ここで,生徒には8世紀末から9世紀にかけて,興亡 年表の支配層 4 4 4 の系統に3色あることが注目されるよう な発問をする。簡単な質問なので,生徒からの反応と して,「ピンク,ピンクと水色のしま模様,紫の3色 です」という答えが期待される。つまり,後ウマイヤ 朝だけでなく,マグリブそして中央アジアではイラン 系やアフガン系の諸王朝が成立して「3色」となって くる。こうした変化をタペストリー p.126 「1イスラー ム世界の変遷」の一連の地図も参考にしながら,本時 の取り扱う時代を概観させるのである。ここで注意が 必要である。筆者は, 「支配層の」と述べた。イスラー ム世界のどの時代にも共通して,キリスト教徒やユダ ヤ教徒などの非ムスリムは存在したのであり,彼らが “啓典の民” である限り迫害されることはほとんどな かった。したがって,イスラーム世界というときのイ スラームとは,もっぱら支配層がムスリムとしてイス ラーム国家を標榜している場合であり,教員は常に被 支配者として非ムスリムがいたことを意識し,生徒に 念を押しておかねばなるまい。 ■カリフ権の衰退と地方政権の独立 授業の展開の部分では,アッバース朝の解体からト ルコ人の進出までを扱う。カリフ権の衰退とマムルー クの増加は大きく関係しているといえる。 アッバース朝カリフの権威は,絶頂期とされる第5 代カリフのハールーン=アッラシード(位786〜809) の死後すぐに衰退している。イラン・トルキスタン方 面でターヒル朝(820,または821〜873年)が独立し たのである。またイラン東部にサッファール朝(867 〜903年),エジプトにトゥールーン朝(868〜905年) が成立したのも9世紀中葉である。 こうした地方政権の自立あるいは独立の背景には, 中央から地方管理をまかされた総督たちが私的に軍事 世界史 授業実践例 B 〜タペストリー活用術〜 イスラーム世界の変容をどう教えるか 鎌倉学園中学校・高等学校 神田基成 − 12 −

sekaisi14 01 p12~14 - 帝国書院...力を強大化させてきたことがある。例えば,軍人ター ヒルは,ホラーサーン(イラン北東部)軍を指揮して

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Page 1: sekaisi14 01 p12~14 - 帝国書院...力を強大化させてきたことがある。例えば,軍人ター ヒルは,ホラーサーン(イラン北東部)軍を指揮して

■はじめに イスラームというキーワードで生徒たちの態度を観察すると,中東イスラーム世界と欧米キリスト教世界という二項対立で理解しようとしていることに気づく。もちろん,イスラーム世界それ自体のなかにも,欧米対イスラームという構図で理解しようとする動きがあったのも事実だが,それにイスラーム世界を代表させるのはあまりにも乱暴である。メディアはわかりやすい報道を心がけている反面,生徒たちに画一的なイスラーム世界像を提示しているともいえる。 以上のような課題を抱えながら,イスラーム世界の歴史から何を学ぶことができるのだろうか。ここでは,便宜的に従来のイスラーム世界を設定し,1コマの授業を想定して,イスラームの拡大という小単元の取り扱いを示したい。使用する教材は,帝国書院『新詳 世界史B』のp.80〜82と帝国書院『最新世界史図説 タペストリー 十二訂版』(以下,タペストリー)のp.126である。■イスラームの拡大とその概観 イスラームの拡大は,地域的な広がりとともに,民族も多様で,生徒からは「複雑でわかりにくい」との声が上がる。そして,その感想は的を射ている。タペストリー p.126の「イスラーム王朝興亡年表」(以下,興亡年表)は,7世紀のウマイヤ朝から20世紀までを,限られたスペースではあるものの網羅しており,イスラーム世界の変遷を概観するのに有効である。ここでは諸王朝(のおもに支配層)がアラブ系,イラン・アフガン系,トルコ系,ベルベル系,その他の5色で分類されている。地域は,西はイベリア半島から東はインドまでを範囲としている。したがって,授業では,これらの複雑な情報が一定の方向性やテーマをもつように指導する必要がある。 授業の導入では,7世紀におこったイスラームを標榜する国家が,アラビア半島から支配領域を広げ,ウマイヤ朝時代には西はイベリア半島から北アフリカ,東は西アジア・トルキスタンなどの中央アジアまでを

イスラーム王朝の領域としたことを確認する。しかし,8世紀末から大きく状況が変化することになる。アッバース朝の繁栄にはかげりがみえはじめ,次第に衰退へと向かう。支配の領域もその変化が一目瞭然である。ここで,生徒には8世紀末から9世紀にかけて,興亡年表の支配層

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の系統に3色あることが注目されるような発問をする。簡単な質問なので,生徒からの反応として,「ピンク,ピンクと水色のしま模様,紫の3色です」という答えが期待される。つまり,後ウマイヤ朝だけでなく,マグリブそして中央アジアではイラン系やアフガン系の諸王朝が成立して「3色」となってくる。こうした変化をタペストリー p.126「1イスラーム世界の変遷」の一連の地図も参考にしながら,本時の取り扱う時代を概観させるのである。ここで注意が必要である。筆者は,「支配層の」と述べた。イスラーム世界のどの時代にも共通して,キリスト教徒やユダヤ教徒などの非ムスリムは存在したのであり,彼らが“啓典の民” である限り迫害されることはほとんどなかった。したがって,イスラーム世界というときのイスラームとは,もっぱら支配層がムスリムとしてイスラーム国家を標榜している場合であり,教員は常に被支配者として非ムスリムがいたことを意識し,生徒に念を押しておかねばなるまい。■カリフ権の衰退と地方政権の独立 授業の展開の部分では,アッバース朝の解体からトルコ人の進出までを扱う。カリフ権の衰退とマムルークの増加は大きく関係しているといえる。 アッバース朝カリフの権威は,絶頂期とされる第5代カリフのハールーン=アッラシード(位786〜809)の死後すぐに衰退している。イラン・トルキスタン方面でターヒル朝(820,または821〜873年)が独立したのである。またイラン東部にサッファール朝(867〜903年),エジプトにトゥールーン朝(868〜905年)が成立したのも9世紀中葉である。 こうした地方政権の自立あるいは独立の背景には,中央から地方管理をまかされた総督たちが私的に軍事

世界史 授業実践例B 〜タペストリー活用術〜

イスラーム世界の変容をどう教えるか鎌倉学園中学校・高等学校 神田基成

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力を強大化させてきたことがある。例えば,軍人ターヒルは,ホラーサーン(イラン北東部)軍を指揮していた将軍であり,かつホラーサーン総督となった人物である。総督就任ののち,カリフへの服従を拒否してターヒル朝を建てた。 アッバース朝がウマイヤ朝から政権を奪取したころまで話はさかのぼるが,アッバース朝革命で活躍したホラーサーンの軍隊は,当初アッバース朝カリフに重用され,そのおひざ元である首都バグダードには3万人が駐屯した。彼らをはじめとする軍人たちには,年間予算からアターとよばれる俸給が支払われていた。しかし,アッバース朝成立後50年ほど経つと,忠誠心が低下したあげく特権ばかりを主張した。それをけむたがったカリフによって,奴隷軍人のマムルークが多く採用されるようになるのである。なお,中央アジアのサーマーン朝がマムルークを大量に供給したことで知られている。 このように,軍の動員に関して,俸給を支払う必要がなく忠誠を誓ってくれるマムルークはカリフにとってかえがたい人材だったのである。しかし,それも時代とともに変化していった。いわば,古参のホラーサーン軍と俸給問題,新参者だがよくいうことをきく(ようにみえたが,次第にきかなくなった)マムルークの取り扱いでカリフ権の衰退・アッバース朝の解体は進んだのである。■名目的なカリフ権 9世紀末にはマムルークにあやつられるようになってしまったカリフだったが,アッバース朝カリフ権は,10世紀になってもほそぼそとだが,一応保たれていた。しかし,これが表向きにも変更されたとわかる事態が生じる。その状況は,「カリフ権が名目的になる」と概説されるが,どのようなことか生徒にはわかりにくい。結果的には,大アミール(大将軍)という肩書きが登場する場面なのだが,

「カリフは存在するが,実権がないということか? じゃあ実権って何?」

「そもそも,権威があるとか,ないとか,どんなことからわかるの?」 などいろいろなコメントが寄せられてしまいそうである。ここでのカリフ権の衰退と大アミールの登場は,このあとのイスラーム世界の展開や日本史における権力の移り変わりを考える好材料にもなるので,授業で取りあげたい。 936年に複数の行政区の総督を兼任していたイブン=

ラーイクという人物が,バグダードにいるカリフのラーディーから首都に来るよううながされる。首都に来たラーイクに対し,カリフは軍隊の指揮権をゆだねて大アミールに任命し,統治権も委任したという。ここでいう統治権とは,帝国全土のハラージュ地(地租の徴収対象となった土地)や鉱山などの管理権である。さらに注目すべきは,毎週金曜日の集団礼拝の際,礼拝に先立つ説教(フトバ)でイブン=ラーイクの名前を唱えるように命令を発したことだ。 フトバで唱えられる名前は,聴く者にとって主権者として認識されるものであり,これにカリフでない者の名前が唱えられるのは,統治権などが移譲されたこととあわせて史上初めてのことだった。 以上のように,イスラーム世界では生活に根ざした礼拝のなかに統治者(主権者)が誰であるのかが明確に示されていた。これがアッバース朝カリフ以外でもかまわないのだということが広く民衆の知るところとなったのは,支配者と民衆の関係を考えるうえでも興味深い。■アター制からイクター制へ 10世紀の初めは,カスピ海西南部にブワイフ家が台頭した時期であった。ブワイフ家のアフマドはバグ

『最新世界史図説 タペストリー 十二訂版』p.126

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ダードをめざし,946年,入城に成功して大アミールに任命された。シーア派を奉じる軍事政権という性格をもつブワイフ朝が,大アミールとして,スンナ派のアッバース朝カリフから統治権を与えられたかたちである。 しかしブワイフ朝のもとでも支配層のダイラム人

(ブワイフ家と同じ出自の歩兵たち)とマムルーク(ブワイフ朝ではトルコ人騎士)との主導権争いで,政情不安定となり,11世紀にはいるとカリフ権も大アミールの権限も統治に実効性をもたなくなってしまっていた。 ところで,ブワイフ朝といえば,イクター制が創始された時代である。軍人が,俸給のかわりに割りあてられた農地の管理権と徴税権を与えられるイクター制は,セルジューク朝,アイユーブ朝,マムルーク朝で施行されたが,セルジューク朝時代にはブワイフ朝期のイクター制の問題点を修正していた。さらに体系化が進んだのはアイユーブ朝・マムルーク朝時代とされる。しかし,その起源はブワイフ朝にあり,以後の軍事政権の支配体制の基盤固めに役立ったのである。セルジューク朝以後,イクター制によってスルタンはイクターの授与を通じて,配下の武将たちとの関係を強化し,政治的な秩序の安定を創出できたのである。タペストリー p.126にはアター制とイクター制の違いがわかりやすくまとめられているので,参照させたい。 スルタン(君主)から配下の軍人に対し徴税権を認める制度は,イスラーム世界に広くみられるようになる。16世紀に成立したムガル帝国も,のちに徴税権

(ディーワーニー)を各州知事に認めた。そして,これは17世紀以降,インドに関心を寄せたイギリス東インド会社によって,つけ込まれる要因となるのである。■イスラーム世界の多様性 ここまでで前述の興亡年表は,「5色」の11世紀となっている。授業の前半で示した「3色」からの変化は,生徒の目にも明らかである。このようなイスラーム世界の多様性こそが,イスラーム世界から学ぶべきものであり,これは現代世界にも通ずるものである。 例えば,トルコ人がムスリムとなっていったことはイスラームの拡大に重要な意味をもつ。マムルークとしてユーラシア大陸のほうぼうで活躍することとなったトルコ人は馬をたくみにあやつり,長距離の移動にも長けていた。彼らはイスラーム王朝と接触して,イスラームを受容し,そこで頭角をあらわしていった。人のネットワークで結ばれた地域は相互に刺激を受け

て変化する。イスラーム世界から飛び出したムスリム商人たちは,商業活動を通してイスラームを伝える役割も担った。 14世紀のイスラーム法学者(旅行家)イブン=バットゥータはメッカ巡礼という目的もあったが,法学研究も目的として旅に出た。共通するイスラーム法学をおさめていれば,他地域のイスラーム王朝でも大法官として,比較的容易に働くことができたのである。イスラーム世界には,こうした寛容性もあったことを授業では強調しておきたい。これは,現代のステレオタイプ的なイスラーム理解に対するささやかな抵抗となるかもしれない。■おわりに そもそも,イスラーム世界という定義そのものに意義があるか疑わしい。しかし,便宜的に設定し地域世界の歴史として理解しようとする際に,一定の有効性をもつことは事実であろう。 今後の高校世界史において,イスラーム世界というくくり方が存続してゆくかどうかはわからない。事実,グローバル化が進んだ現代世界において,歴史用語としてのイスラーム世界をそのまま中東にあてはめることは危険であるように感じる。しかし,現代が抱える問題を認識したうえであれば,むしろ地域世界への歴史的理解もさらに深まることとなろう。

【参考文献】佐藤次高『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』(中央公

論社,1997年)佐藤次高「イスラーム国家論─成立としくみと展開─」『岩

波講座世界歴史10 イスラーム世界の発展:7−16世紀』(岩波書店,1999年)

三木亘ほか編『別冊環4 イスラームとは何か?「世界史」の視点から』(藤原書店,2002年)

『最新世界史図説 タペストリー 十二訂版』p.126

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