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研究論文 「キャラ」とパーソナリティの発達に関する一試論 -現代的な関係性と自己観の心理学的見直し- Personality Development andKyarain Japanese : Psychological Reconsideration of the Contemporary Human Relationship and the Self 井上 嘉孝 Yoshitaka Inoue 要約 本稿の目的は、人間関係における類型的役割を意味する「キャラ」について概観し、パーソナ リティ発達の観点からそれを考察するとともに、現代的な対人関係と自己のあり方を再考するこ とである。対人関係とはパーソナリティ発達において相互作用的・変容促進的に働くが、キャラ 化した対人関係はパーソナリティを単純化し固定するとともに、苦痛と疲労を伴う。それでも若 者たちがキャラを求めるのは、認知的オーバーフローに陥った対人関係を円滑化することによ る。さらにキャラとは、従来の発達観に収まらないパーソナリティの統合から分化へ、アイデン ティティの確立から動態へという流れを示しており、心理学的な自己観の見直しが求められる。 キーワード:「キャラ」、パーソナリティの発達、関係性 Abstract The purposes of this article are evaluation ofKyarafrom the viewpoint of personality development, and reconsideration of personal relationships, interaction and the self in contemporary Japan. Kyara, which is an abbreviation for the word of character in Japanese, means typological roles in personal rela- tionships especially at school life for children and youth. Now, Kyara in personal relationships is not uncommon in Japanese society. In general, social interaction promotes personality development, but Kyara simplifies social interaction and fixes personal relationships. Some people in Kyara-based rela- tionships are exhausted and distressed. Nevertheless, the youth of Japan need Kyara in order to more smoothy process the overflow of information about the personal relationships. Kyara makes it easier to communicate with each other. Kyara shows the contemporary shifts from personality integration to dif- ferentiation, from identity achievement to movement. It is necessary to construct a theory for the psy- chological image of the self as differentiation and movement. 人間科学部研究年報 平成 29 43

Personality Development and Kyara in Japanese ......のことを指す。語源はギリシャ語のχαρακτήρας(kharaktêr)、「特徴」のほかに「文字」という意

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研究論文

「キャラ」とパーソナリティの発達に関する一試論-現代的な関係性と自己観の心理学的見直し-

Personality Development and“Kyara”in Japanese :Psychological Reconsideration of the Contemporary Human Relationship and the Self

井上 嘉孝Yoshitaka Inoue

要約

本稿の目的は、人間関係における類型的役割を意味する「キャラ」について概観し、パーソナ

リティ発達の観点からそれを考察するとともに、現代的な対人関係と自己のあり方を再考するこ

とである。対人関係とはパーソナリティ発達において相互作用的・変容促進的に働くが、キャラ

化した対人関係はパーソナリティを単純化し固定するとともに、苦痛と疲労を伴う。それでも若

者たちがキャラを求めるのは、認知的オーバーフローに陥った対人関係を円滑化することによ

る。さらにキャラとは、従来の発達観に収まらないパーソナリティの統合から分化へ、アイデン

ティティの確立から動態へという流れを示しており、心理学的な自己観の見直しが求められる。

キーワード:「キャラ」、パーソナリティの発達、関係性

Abstract

The purposes of this article are evaluation of“Kyara”from the viewpoint of personality development,

and reconsideration of personal relationships, interaction and the self in contemporary Japan. Kyara,

which is an abbreviation for the word of character in Japanese, means typological roles in personal rela-

tionships especially at school life for children and youth. Now, Kyara in personal relationships is not

uncommon in Japanese society. In general, social interaction promotes personality development, but

Kyara simplifies social interaction and fixes personal relationships. Some people in Kyara-based rela-

tionships are exhausted and distressed. Nevertheless, the youth of Japan need Kyara in order to more

smoothy process the overflow of information about the personal relationships. Kyara makes it easier to

communicate with each other. Kyara shows the contemporary shifts from personality integration to dif-

ferentiation, from identity achievement to movement. It is necessary to construct a theory for the psy-

chological image of the self as differentiation and movement.

人間科学部研究年報 平成 29年

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Keywords:“Kyara”, Personality development, Personal relationship

1.はじめに

本稿の目的は、現代日本の若者たちの学校や社会生活に不可欠な、いわゆる「キャラ」という

ものについて概観し、パーソナリティの発達という観点からそれを考察することである。また、

その考察を通じて、従来の定型発達様式を再考するとともに、現代的な対人関係と自己のあり方

を見つめ直すことである。

後ほど詳しく触れるように、キャラという言葉はもともとゲームやマンガ、アニメなどの登場

人物=キャラクターの略称として 1980年代から用いられるようになり、1990年代以降、人間関

係における類型的役割を指し示す言葉として用いられるようになった。代表的なものは「天然キ

ャラ」や「いじられキャラ」と呼ばれるものであろう。

ある個人がしっかりしたキャラを持っていることを「キャラが立っている」と言い、そうでな

い場合には「キャラが薄い」と称される。また、ひとつの集団内で同じキャラが二人以上いるこ

と、つまり「キャラがかぶっている」場合には、その人の居場所が危うくなる。今や小学校から

大学まで、子どもや若者たちの対人関係や自己のあり方を知るうえでキャラに関する理解は欠か

せない。なおかつ、それは決して若者に限った現象ではなく、政治家ですら自他のキャラを取沙

汰するほど、現代の日本社会全体に浸透した現象でもある。したがって、キャラ化した対人関係

と自己のあり方を考えることは、現代を生きる全ての世代にとって極めて根本的な問題であると

言えるだろう。

こうしたキャラに関する研究は、2000年代以降盛んに見られるようになった。まず哲学者の

鷲田清一(2002)、社会学者の土井隆義(2004)、マンガ表現論の伊藤剛(2005/2014)らによる

論考を嚆矢として、その後は主に社会学の立場を中心にキャラ研究は発展してきた(例えば土

井,2009 ; 2014.瀬沼,2007 ; 2009など)。また、現代文化論の立場からも注目されており、相

原(2007)や小田切(2010)はビジネスと文化・社会の両面から、さやわか(2015)はポップカ

ルチャー横断的にキャラの分析を行っている。現場に近い議論としては、荻上(2008)はいじめ

やスクールカーストとの関連について指摘している。さらに、精神科医の斎藤環(2011)は、主

として精神分析の立場からキャラを論じ、現代文化から精神病理まで広がる射程の深い議論を展

開している。臨床心理学の立場からは、岩宮恵子(2016)が、スクールカウンセリングの事例に

基づいてキャラを生きる若者の苦悩を浮かび上がらせている。実証的なデータに基づいた心理学

的研究としては、大学生や中学生を対象とした千島・村上(2015 ; 2016)による質問紙調査が挙

げられる。社会学的立場からの調査は従来さかんに行われてきたものの、心理学的な実証的研究

は千島らのほかは見当たらず、今後の発展が期待される。

その千島・村上(2016)によれば、“キャラに関する問題状況について、発達的観点から明確

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にすることが、キャラに関する研究の教育的意義の拡大に貢献する”と指摘されている。「発達」

とは、進化・進歩・発展をめざして急速に近代化や科学化をすすめてきた 19世紀から 20世紀と

いう時代を象徴することばであり、その近代という時代精神から生まれた「発達」をどう問うて

いくかが、今後の私たちには託されている(下山,1998)。

発達心理学的観点によれば、現在キャラをもっとも色濃く生きている思春期・青年期の若者に

とって、最重要の発達課題はアイデンティティの確立だとされてきた。そうした従来の見方によ

れば、キャラを生きることは、ペルソナや偽りの自己に支配され、真のアイデンティティが確立

されていない状態であり、発達上の問題を抱えている状態と捉えられるのではないだろうか。し

かし、それは従来の理論を現象に当てはめているだけであり、「最近の若者はなっていない」と

いう見方の範疇を出ない。あくまで今現実に生じている現象に立脚して理論を見つめ直すこと、

すなわち現代の対人関係と自己のあり方を改めて心理学的に見直すことが必要なのではないだろ

うか。そのとき、キャラという現象は私たちに新しいパーソナリティ発達のあり方を示してくれ

るのではないだろうか。

本稿では、以上のような問題意識に立って、まずは先行研究や調査に基づいてキャラという現

象を概観する。そのうえで、従来の定型発達様式とアイデンティティ理論を再考するとともに、

現代的な対人関係と自己のあり方に立脚したパーソナリティ発達の観点を提示したいと思う。

2.いわゆる「キャラ」とは何か

1)「キャラ」と「キャラクター」

キャラという言葉のもとになったキャラクター character の本来の意味は「特徴」や「性質」

のことを指す。語源はギリシャ語の χαρακτήρας(kharaktêr)、「特徴」のほかに「文字」という意

味をもつが、どちらも「刻み込まれたもの」という原義に由来している。人間や物事に刻み込ま

れるのが「特徴」であり、石板や紙に刻まれるのが「文字」となるわけである。やがてフィクシ

ョンの登場人物を指す言葉として英語圏で一般化したのが 18世紀半ば以降であるという(小田

切,2010)。

心理学の領域ではキャラクターは「性格」と訳されることが多く、「パーソナリティ(人格)

personality」や「気質 temperament」の類似・近接概念とされる。「気質」は比較的先天的で変化

しづらい要素を、それに対して「性格」は比較的後天的で変化しやすい要素を指すことが多い。

また「パーソナリティ(人格)」はその人を構成する要素全体、あるいは部分の総和以上のもの

としての個人の全体像を指すのに対して、「性格」はどちらかというと部分的なものを指してい

る。

したがって「あの人は性格が変わった」とは言うけれども、「あの人は気質が変わった」とは

あまり言わないし、「あの人は人格が変わった」と言う場合にはその人のなかで非常に重大な出

「キャラ」とパーソナリティの発達に関する一試論

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来事が生じたように感じられる。

しかしながら、後述するが、キャラが変わること=「キャラ変え」には周囲から強い抵抗感を

持たれるし、自分自身で自分のキャラを変えることはかなり困難なのである。これは、本来部分

的で後天的な要素の集まりであるに過ぎないはずのキャラクターがキャラ化したとき、強調・誇

張・デフォルメされた全体像として捉えられるようになったということを示している。

話を元に戻すと、小説・映画・マンガあるいはアニメーション等といった物語の登場人物もキ

ャラクターと呼ばれる。伊藤(2005/2014)は、マンガ文化の表現史を追うなかで、キャラとキ

ャラクターの違いを以下のように明確に定義している。

キャラとは、「多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指さ

れることによって(あるいは、それを期待させることによって)、『人格・のようなもの』として

の存在感を感じさせるもの」。

一方、キャラクターとは、「『キャラ』の存在感を基盤として、『人格』を持った『身体』の表

象として読むことができ、テクストの背後にその『人生』や『生活』を想像させるもの」。

したがって、キャラクターとしての強度は、物語に明示されているものも暗示されているもの

も含めて、その人生や生活、性格などがしっかりと表現されているかどうかに懸かってくる。一

方、キャラとしての強度とは、“テクストに編入されることなく、単独に環境の中にあっても、

強烈に「存在感」を持つことと規定できる”(伊藤,前掲書,p 134)。

例えば、くまモンやふなっしーといった人気の「ゆるキャラ」、あるいは時代や国を超えて愛

されているハローキティやミッフィーなどを想像すれば、キャラが状況・文脈・物語に対して横

断的な存在感をもつということが納得できよう。「ゆるキャラ」や「萌えキャラ」にとってはそ

の図像・造形のみが重要であり、その人生や生活上の文脈などはキャラの魅力にとって無意味や

邪魔なものでしかない。斎藤(2011)が、複製によってよりリアルになるのがキャラであり、複

製はできないけれども転送できるのがキャラクターであると指摘するのも、同様の観点であろ

う。キャラクターはストーリーの文脈のなかにあるけれども、キャラはそこから切り離されてテ

クスト横断的に存在する。そのようなキャラの特徴は、エピソードや場面を越えて生きることや

複製されることを可能にしている。

2)日本におけるキャラクターの「キャラ化」

「現代用語の基礎知識」によれば、キャラという言葉が初めて記載されたのは 1987年である。

しかし、それは当初、ゲームやアニメなどのキャラクターの略称としてのみ紹介されていた。瀬

沼(2007)によれば、キャラとはもともとアニメやマンガの登場人物、あるいは TV で活躍する

芸能人の芸風やイメージといった意味の業界用語として使われ、マンガ文化のなかで、あるキャ

ラクターの個性や役割が周囲との関わりの中で際立っていることを「キャラが立つ」と表現され

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るようになっていった。

こうしたキャラ化の背景について、アニメ映画監督の宮崎駿が 1960年代から 80年代までの日

本の TV アニメーション制作現場を振り返って、以下のように語っていることは示唆的である。

経済的時間的条件から、作画枚数を可能な限り減らさざるを得ない。…とにかく TV の放映に

間に合わせること。しかも、アニメーションの最大の特色である動く絵の「動き」を最小限に

して、作品を作らねばならないのである。…ひたすら迫力、カッコ良さ、カワイラシサが視聴

者の眼にとび込むように仕組まれた。人物は仕草や表情で生命を持つのではなく、一枚の絵で

その魅力のすべてを表現するデザインを要求された。そのときかぎりの表現が中心となれば、

登場人物たちは複合体ではなく、ある属性のひとつふたつだけを強調し、デフォルメされて描

かれることになる。

(宮崎,1996, p 107)

ストーリー性ではなく「一目でわかるそのときかぎりの表現」、あるいは複雑で複合的な内面

性ではなく「デフォルメされた属性」などの特徴は、キャラクターのキャラ化につながる要因で

あり、そこにはアニメ制作現場の厳しい状況が背景にあったと言える。

宮崎駿は同書のなかで、さらに興味深い指摘をしている。“読みたくないものは読まない…そ

れから際限なく空間と時間が捻じ曲げられるというもの(筆者注:マンガのもつ特徴)が、日本

の文化に大きな影響を与えてるということが、僕らの抱えてる最大の問題点です。それは良いも

悪いも含めての問題だと思います”(宮崎,前掲書,p 132)。

不快感・異物感・他者性といった要素の取り入れを排除できるということ、ストーリーや現実

の前提となる時空間が歪められうるということ、マンガというメディアがもつそういった特徴が

日本文化に大きな影響を与えており、それは良いも悪いも含めた問題になっているというのであ

る。この指摘は、まさに日本におけるキャラ文化が生み出されることになった背景とともに、不

快なものを取り除くとともに時空間を均質化するというキャラ文化の本質を指し示している。

3)キャラ化する人間関係

1990年代に入ると、キャラは TV のなかで個性を売りにしている芸能人たち、とりわけお笑

い芸人たちによって、他の芸能人とは差別化された自分自身の個性・役割を指す言葉として用い

られるようになってきた(瀬沼,2007)。こうしてマンガやアニメ、TV に親しんで育った子ど

もたちの人間関係のなかに、キャラが入り込んでいくことになる。

現在のような人間関係における類型的役割としての意味が「現代用語の基礎知識」に初めて記

載されたのは 1999年のことである。したがって「個人的役割の類型」を指し示すものとしての

「キャラ」とパーソナリティの発達に関する一試論

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キャラが誕生したのは 1990年代、それが定着したのは 2000年代に入ってからのことであると思

われる。

本田(2011)は、積極的なキャラの受け入れはクラス内で弱い立場に立たされそうになった者

の防衛的反応であって、安定した立場にある者は自分のキャラに自覚的なふるまいをしないと言

う。確かにキャラがいわゆるスクールカーストと深い関係にあることは間違いない。しかしなが

ら、キャラはスクールカーストの底辺にいる者のみならず、どの階層でも必要とされる。千島・

村上の質問紙調査(2015 ; 2016)によれば、約半数の生徒・学生が「自分が『キャラ』を持って

いる」と答えている。約半数でも十分に多い数であるが、自らのキャラに無自覚な者を含める

と、その割合はさらに高まることが予想される。

クラスの人間関係のなかでは、会話に「ツッコミ」を入れたり、人を「いじったり」して上手

くトークを回していく子がいたり、おいしく「いじられる」ことによってキャラが立ち、クラス

のなかである種のポジションを獲得して居場所を確保している子がいる(岩宮,2009)。キャラ

による対人関係は、個々人のストーリー性や複雑性を排除することによって、その場に安定的な

人間関係を保つことに役立っている。人物像のキャラ化によって、あえて人格の多面性を削ぎ落

とし、最小限の要素だけを平板化して示すことで、互いの理解は表面的になるものの、容易に掴

みやすいものになる(土井,2014)。物語や文脈から離れたものとしてのキャラを通じた人間関

係は、軽やかで気楽である。お互いの反応の予測もしやすいし、安心できる。それは確かに良い

面であろう。

しかし、土井(2009)が指摘するように、今では子どもや青年たちが友人との間で自らのキャ

ラをどのように生きるかということは生活上の必須の課題であり、時としてそれはいじめ自殺に

まで発展するほどの死活問題となる。また斎藤(2011)は、思春期事例の治療においてはキャラ

の理解なくして彼らの悩みに共感することは難しいと述べる。

例えば遠くの学校から転校してきたり、昨晩親と喧嘩して寝られなかったり、そうした人生や

生活上の文脈を抱えて生きているのが人間である。だからこそ重くて複雑なのである。キャラと

は、その重さや複雑さを捨てられる代わりに、自らの固有性を抑圧しながら、与えられたスペッ

クに従わされる苦痛を伴う(斎藤,2011 ; 2013)。人間関係における安定と安心の代償として、

かけがえのない個性や自由や変化の可能性が奪われ、固定されるのが、キャラを生きる苦痛であ

る。

さらにキャラは、ひとたびそれが人間関係に適用されると、自分自身と関係性をつねに監視し

続けるメタレベルの視点となる。対人関係が安定化し円滑化される一方で、ピリピリするほどの

緊張感や苦痛が付きまとってくる。鷲田(2002)は、近年の若者がもつ自他関係へのメタ認知の

鋭さを、いみじくも「ディレクターの視点」と称している。キャラを演じつつ、自他をディレク

ターの視点で見つめ、評価する。そこには、ただ存在しているということの尊厳を認められるよ

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うな居場所感はない。

4)「キャラ疲れ」

では、苦しくなったらキャラを離れたり、変えたりすればよいと思われるだろう。しかし物事

はそう簡単ではない。学校臨床に詳しい岩宮恵子は、次のように指摘する。

キャラは、もちろんまるごとの自分自身ではない。自分の一部をデフォルメした社会とのコネ

クタがキャラなのだ。今の子どもたちの日常のなかで、キャラは、いつもそこに同じようにあ

るものとして、何よりも安定感が望まれる。つまり人間関係のインフラのひとつなのだ。だか

らこそ、その場その場でそのキャラ設定が勝手に変わること(たとえそれが進歩や成長だとし

ても)は、決して望まれない。「やられキャラ」だった子が、そんな自分は嫌だと決意して、

「そういうのはやめて」などと言おうものなら、予定調和を壊した(つまりインフラを破壊し

た)犯罪者のようにして断罪されることもある。…「キャラ」という単調な人間に対しての切

り口をお互いが共有して安心しあっているような集団は、例外を許さないので、ほんとうに薄

氷を踏む思いでの日々を送っている子たちは多いのだ。

(岩宮,2016, p 94-96)

キャラによる人間関係を、岩宮(前掲書)は人格の「着ぐるみ」や「コスプレ」、そして社会

との「コネクタ」および人間関係の「インフラ」と表現する。また、鷲田(2002)は自分の居場

所を探し続ける「椅子取りゲーム」に、土井(2009)は予定調和の関係に自分の形を合わせる

「ジグソーパズル」に喩える。

キャラとは自ら主体的に選び取れるようなものではないし、能動的に変えられるものでもな

い。それは、インフラやゲームに喩えられるように、そう振舞わざるを得ない関係性の根底にあ

るルールであり、着ぐるみやコネクタと表現されるように、関係性の接点を生み出すツールであ

る。だから、一見して自ら楽しそうにキャラを演じているように見えても、心底そうであるとは

限らず、主体的な選択と受動的な強制の間の境界はそれほど明確ではない(本間,2009)。

「私、キャラ変えしたいんです。このままじゃ、自分が馬鹿になりそう」。山陰地方のある中学

校に設けられた相談室。夏の初め、臨床心理士の岩宮恵子さんのもとを制服姿の女子生徒が訪

れた。生徒はもともと、アニメ好き。だが、みんながよく知らないアニメの話をすると「キモ

イ」と言われそうで、友達がする興味のない話に適当にあいづちを打っていた。「本当はわか

ってないんじゃない?」と突っ込まれるのが怖かった。「だから天然キャラの不思議ちゃん、

っていうことにした。場を読めなくてもごまかせるでしょう?」何を言われてもニコニコ。会

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話のテンポをわざとずらした。友達から厳しく突っ込まれることはなくなった。「でも、こん

なのは本当の自分じゃない。高校に入学したら別のキャラに変えたい。」

「キャラ 演じ疲れた」2010年 11月 20日 朝日新聞朝刊より

今日の子どもたちは、自らの人格イメージを単純化・平板化させたキャラを演じ合うことで、

価値観の多様化によって複雑化した人間関係を、しかし破たんさせることなく円滑に回していこ

うと必死になっている(土井,2014)。そのような場において違和感や抵抗感とともに生じてく

るのが苦痛であり、慢性的にはキャラの不変性と、抵抗への無力さに伴う疲労感である。

キャラとは、価値観が複雑かつ多様化した現代社会で、対人関係を容易にするために若者の社

会でしばしば用いられるコミュニケーションツールであり、ルールである。キャラは、複雑な人

格や関係性を単純化し、固定し、安定させる。しかしながら、個人の人格の一部分を切り取った

り、誇張したりしているに過ぎないにも関わらず、あたかもそれがその人の全体像であるかのよ

うに関係のなかで扱われ、そこから外れた言動は集団内で厳に慎まれることになる。変化するこ

とは拒まれ、想定内の言動が半ば強制される。こうしたことは対人関係において安心感や安定感

を生み出すことにはつながっているけれども、言い知れない苦しみや疲労をも生じさせる。さら

には成長・成熟しない関係性として、鷲田(2002)や土井(2009 ; 2017)を始め、多くの研究者

がそれを否定的、批判的に取り上げている。

3.今の大学生たちはキャラをどう生きているか

1)キャラ変えの難しさ

改めて現代の大学生たちの生の声を聴いてみると、その対人関係と自己のあり方がキャラによ

って非常に強く規定されていることがいよいよ痛感させられる。

2017年 7月、筆者が大学生 39名を対象にキャラに関する探索的な調査を行った。そこで「い

わゆる『キャラ』について、あなたはこれまでどのような経験をしてきたか」を問う自由記述式

のアンケートの結果、一番多かった回答として 15名(38.5%)が「キャラ変え」の困難あるい

は不可能さを訴えた。以下にその内容を示す。

学生 A は、中学校時代から今も変わらず、グループのなかで自分は常に「いじられキャラ」

であると言う。「もっと違う目で自分を見てほしいし、違う態度で自分に接してほしいと思うけ

れども、グループのなかではいつも固定的な役割を演じることになってしまう」。この学生のよ

うに、自分が「いじられキャラ」であることを心苦しく感じている人は珍しくないし、それはし

ばしばいじめやハラスメントといった深刻な問題にも発展することもある。

学生 B は、キャラのせいで不本意な言葉を投げかけられたエピソードを語っている。「自分は

いじられキャラで、気が付けばその位置にいた。コンプレックスをいじられ、ある人が『それは

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言ったらいけない』と言ったが、別の人から『いじられキャラだから何を言ってもいいんだ』と

言われて、とても傷ついた」。キャラを強いられるからこそ、こうした不本意な状況が生じるた

め、キャラを変えたいと思っている人は多い。

キャラ変えの難しさは、第一に集団の力動にある。それは、いわば外力である。しかし「キャ

ラ変え」の難しさを考えるうえでもう一つ重要なのは、たとえ強制されていたキャラであって

も、いつのまにかそれが板に着いてしまって、時としてキャラを変更することに対して自分自身

でも違和感が生じるという点である。つまり、変化に対する内的な抵抗感である。学生 C はこ

う語る。「キャラは一度定まると、そのグループの中だけでなく、色々なところで自分はこうい

うキャラなんだと思ってしまう。そのため、なかなか変更が出来ず、今でもずっと同じキャラで

いる。もはや長年同じキャラだったので、本当の自分なのかキャラなのかよくわからなくなって

きている」。鬼の面が顔に張り付いて取れなくなる昔話のように、いつもどこでも気が付けばあ

る特定のキャラを担いがちになる。自分でも不本意ながら、他のキャラになるにはどうすればよ

いかわからないし、変化することが不安なのである。

2)キャラの受容

あるいは、キャラを強制されることに自覚的であり、自らのキャラに対して受容的な人もい

る。「キャラは自分がスクールカーストを生き抜いていくための装備みたいなもので、変えたり

やめたりすることは無理だと思う。一度安定してしまうと心地よいから、そのままでいたい」と

いう学生 D は、積極的受容というよりも、消極的受容と言うべきであろう。だが、そうであっ

ても、そこには心地よさもある。

さらには、「いじられキャラ」を積極的かつ好意的に受け止めている人もないことはない。学

生 E は、自分が「いじられキャラ」であることを「グループの影の支配者」だと表現している。

「自分のキャラは小学校から高校まで変わらずいじられキャラである。俗にいじられキャラは良

くない、行き過ぎたらイジメだと言われるが、自分はすごく好きで気に入っていた。案外いじら

れキャラはそのグループになくてはならない存在で、グループの中心になれ、自分の好きなこと

や発言、行動をしても軽くいじられるだけで、自由度の高いポジションだった。その人の技量に

よるが、スクールカーストの割と高位置に立つことができる」。つまり、自分こそがグループの

中心にあり、そのグループの雰囲気や動きを作りだしているのだと言う。

こうしたキャラの受容に関して、認知的不協和の解消という見方もできるかもしれない。ただ

仮にそうであっても、千島・村上(2016)によれば、自らのキャラの受容度と精神的安定度には

正の相関があることがわかっている。議論を単純化しすぎるきらいはあるけれども、抵抗すれば

「キャラ疲れ」が生じ、消極的にであれ積極的にであれ、自分のキャラを受け入れることができ

れば集団および自己の安定が生じると言えるのかもしれない。

「キャラ」とパーソナリティの発達に関する一試論

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3)キャラ変え経験者

しかし、安定するのが良いとも限らない。調査のなかで「キャラ変え」の経験がある、もしく

は可能だとする学生は比較的多く、11名(28.2%)であった。内的には変化を求めているのに、

外的にはそれが許されないとき、自分の意思や性格等に反して、あるキャラの役割を強制的に担

い続けざるを得ないのはとても辛い。変化の機会を待ち続け、変化しようという意思を持ち続け

ていると、徐々に変化していく可能性があるようである。

学生 F は自分のキャラを意図的に作っていたが、進学を機に変えることにした。「中学までは

静かにしようと頑張っていたが、高校に入ってしんどいのでやめたら、すごく楽になった。キャ

ラを作るのは大変なことだと思う」。「キャラ変え」の最大のチャンスは、高校デビューや大学デ

ビューと言われるように、集団が入れ替わる進学やクラス替えのときである。

学生 G も、グループ内で半ば強制されてきたキャラを、大学進学を契機にして無理に変えた。

「自分は今まで何回もキャラを変えたいと思ってきたが、一度グループができて自分の立ち位置

が定着してしまうと、変更はほぼ不可能に近かった。なので、大学入学時、これが最後のチャン

スだと思って無理して明るいキャラを作った。その結果、今は昔よりもずっと明るい自分になれ

た。最初は無理して作ったキャラだったのに、今ではそれが定着して全く違和感なく過ごせてい

る。この変化には自分でも驚いている」。ここでのキャラ変えは、苦しみから逃れるだけではな

く、苦しみを伴う脱皮のようなものであったように思える。

同様に学生 H は、自己変革に伴う内的動因を「殻を破りたい」という言葉で表現している。

「中学校時代は『まじめキャラ』として振る舞ってきたが、高校時代から自分の殻を破りたいと

いう気持ちが生じてきた。しかし、周囲に昔から自分を知っている人が多い集団においては変わ

らず『まじめキャラ』であることが暗黙裡に求められており、それ以外の自分になることは難し

かったし、自分自身も急なキャラ変更にはためらいがあった。そこで、大学生になってから心機

一転、外向的なキャラを演じるようになり、半年ほど経って少しずつ板についてきた感じがする

し、より自然に自分の言いたいことを言えるようになってきた」。

学生 F・G・H の「キャラ変え」の例にも共通するのは、まず周囲から強制された違和感のあ

るキャラから、より自分らしいキャラに能動的に変化を試みたということであろう。換言すれ

ば、内的な自己と外的な自己とのあいだで「自己の不一致」を経験し、殻を破りたいという強い

内的動因に基づいて、安定を抜け出して自己の変革を図ったと言えるだろう。自然な流れもあれ

ば、かなり苦労と努力を重ねて実行される場合もある。

4.キャラと関係性

1)発達心理学から見た関係性のはたらき

さて、ここまで若者の対人関係を強く規定しているキャラという現象の背景と特徴を概観して

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きたわけであるが、こうしたキャラについて、関係性を基盤としたパーソナリティ発達の観点か

ら見ると、どのように理解できるのであろうか。

発達心理学において、心身の仕組みに関する様々な発達/変化には、他者との関係性がなくて

はならないものとされる。人間の誕生は、ポルトマン(Portmann, A.)によって「生理的早産」

と呼ばれている。私たちが自らの足だけで立ち、全身を自分の思うままに移動させることができ

るようになるのは、生後一年ほど経過したころである。また、クーイングや喃語といった鳴き声

と言葉の中間段階を経て、第三者にも伝わる言語を発することができるようになるのも、同じく

生後一年ほどを待たないといけない。それまでの乳児は母子一体と表現されるような自他未分化

の世界に生きている。したがって、生後一年間は「子宮外胎児期」と呼ばれるほどに他者(主と

して母親)を頼らずして生きていけないのが人間という存在である。

それほどまでに他者との関係性が重要であるからこそ、新生児・乳児の段階から私たち人間に

は様々な能力が備わっている(高橋・波多野、1990.二宮・大野木・宮沢,2012.岡本・深瀬,

2013など参照のこと)。

例えば、ファンツ(Fantz, R. L.)による有名な選好注視の実験では、様々な図形を乳児に見せ

たところ、人の顔のような図形を一番長く注視することが明らかになっている。乳児は自分を覗

き込んだ人の顔をじっと見つめ、そして天使のように微笑む。それは人見知りが始まる以前の、

スピッツ(Spitz, R.)の言葉によれば無差別微笑(三か月微笑)として知られている。この天使

の微笑みを目の前にすると、愛おしい気持ちが自然と湧き上がってくるのは母親だけではあるま

い。生後八か月ころになるとこうした無差別微笑は消滅し、スピッツが八か月不安と呼んだ、い

わゆる人見知りが発生する。人見知りにしても、母親との愛着や他者との区別ができるようにな

ったからこそ生じるものであり、私たちが関係性を生きている証である。このようにして新生

児・乳児は周囲の大人から愛情を向けられ、相互的な愛着を育てていく。

やがて、第一次・第二次反抗期に見られるように、自我の芽生えはまずもって他者の否定とい

うかたちをとってやってくる。ぶつかり、否定するべき他者が自分の前に現れるからこそ、自我

は芽生え、育つ。精神分析理論では、自我の芽生えとともに、その自我をコントロールしようと

する親のしつけが内在化された心の働きを「超自我」と呼ぶ。また、他者の視点を取り入れるこ

とによって、私たちは「心の理論」を獲得したり、自己中心性から脱中心化していくことにな

る。そうした認知機能の発達に伴い、自分で自分自身の認知的特徴を認知できること、すなわち

メタ認知の働きが生じてくる。

また、発達における関係性の意義は、決して子どもの側にのみとどまるものではない。「育児

は育自」と言われる通り、親も子育てによって成長させられる。家族は赤ん坊に育てられること

によってのみ赤ん坊を育てることができる(Erikson, 1959/1973)。つまり、一人の人間が発達し

ていくことということは、同時に、それと関わる周囲の人間の発達を伴っている。

「キャラ」とパーソナリティの発達に関する一試論

― 53 ―

さて、児童期に入った子どもたちは、家族関係のみならず、友人関係が発達を促進する重要な

関係になる。同性同年代の子どもたちが集まって徒党を組んで、秘密基地を作ったり、悪巧みを

したりするいわゆる「ギャング集団」は、子どもたちが役割分担や計画性を学び、社会性の基礎

を身に着ける大事な場所である。

小学校高学年、つまり前思春期の頃になると、同じ趣味や価値観を共有する親友関係である

「チャムシップ chumship」が形成される。それは私たちが親の価値観から離れて一個人としての

アイデンティティを形成し、やがて特定の他者と親密な関係をもち、新たな家庭を築いていくた

めの前段階となる大切な関係性である。チャムシップにおいては、親友に理想的な自我を投影し

たり、同一化したりすることによって、より複雑で多様に分化したパーソナリティというものが

作られていくことになる。

パーソナリティの分化、自我発達が進むと、メタ認知の働きがさらに深く自己の内面へ向か

う。それが、思春期・青年期である。友人関係、親友関係を通じて、時に俯瞰的に、時に沈潜的

に自分とは何者か悩みながら、アイデンティティを形成していく。

このように、誕生してから大人になるまで、人間は関係性を基盤にして段階的かつ漸成的に、

すなわち順序を追って徐々に発達していくことが知られており、それが定型的な発達の様式であ

ると考えられてきた。また、関係性はそれが相互作用的かつ変容促進的に作用するがゆえ、パー

ソナリティ発達と分化のプロセスにおいて重要な意味をもつと考えられてきた。

2)現代における友人関係の特徴とキャラ

しかしながら、先述した通りキャラはパーソナリティを単純化・平板化し、変化や成熟しない

ことによって、対人関係を安定的で円滑に進めさせるものである。関係性は相互作用的かつ変容

促進的に働かない。その背景には、現代ならではの友人関係の重みがあると考えられる。

ギャング集団やチャムシップでは、内輪の団結を強めるためにメンバー相互の同質性が非常に

重視される。そのため、必然的に異質な他者を排除しようとする論理が働く。したがってそもそ

も児童期から青年期にかけての友人関係は緊張感が増してくるのである。

だが近年、その緊張感はとみに増している。いくつかの調査データに基づいて、土井(2004)

は“最近の子どもたちは、一見しただけでは、さしたる屈託もなく友人と付きあっているように

見えます。しかし、その裏では、潜在的に大変な駆け引きと、その対立が顕在化しないような高

度な配慮がつねに展開されているようです”と述べている。筆者も心理臨床現場を通じて、同様

のことを感じている。例えば大学に進学したクライエントが、部活の見学に行ったあとで、そこ

での上下関係のあり方や、同期の雰囲気や特徴を事細かく分析して報告してくれたことがある。

部活は大学生活における重要な場所だとは言え、たった一度の見学でそれほどまで鋭敏な人間観

察をするわけであるから、ましてや日常の学校生活における対人関係にはどれだけの配慮をして

人間科学部研究年報 平成 29年

― 54 ―

いることであろうか。現代の若者はこれほどまでに人間関係にアンテナを張り巡らせていないと

世間を渡っていけないのかと愕然とさせられる。

こうした友人に対する高度な配慮は、とくに親密な友人関係でもっとも必要とされる。土井

(2004 ; 2009)は、最近の子どもたちの対人関係の特徴について親密圏内での過剰な配慮と優し

い関係、およびそれと裏腹な圏外の他者に対する無配慮を指摘する。親密圏内のイツメン(いつ

ものメンバー)にしても安心しきっていられるわけではなく、予定調和の世界を崩さないように

お互いの内面への深入りを避けて過ごし、全体の構図に収まるキャラを踏み外さないように生き

ている(土井,2017)。

そもそも青年期には、一方で社会性の発達や友人関係の広がりがあり、他方で認知的能力の拡

大がある。そのため、内的・外的に処理すべき情報が爆発的に増える。その結果、悩みや戸惑い

は深まるとともに、少なからず誤解も増え、時に妄想的にさえなる。青木(2002)によれば、青

年前期に認知課題の成績が低下する「U 字発達曲線」が認められることが実験的に明らかにさ

れている。認知課題の成績が幼少期から青年期へと年齢が上がるにつれて右肩上がりに上昇する

わけではなく、青年期に一旦落ち込むということは、こうした青年期の特徴を考えれば必然であ

る。

さらに社会性と認知機能の発達は、内的な〈私〉のあり方にも大きな変革をもたらす。他者に

見せる仮面と自分だけの内面が分化するとともに、本当の自分と偽りの自分という意識に気づ

く。したがって、自己の不一致を感じ、自己が統一的でなくなるのもこの時期の特徴である。

つまり、現代における青年期の自他関係における情報処理は、いわばオーバーフロー状態なの

である。社会性と認知能力の拡大、親密圏内での高度な配慮、自他関係の情報処理における認知

的なオーバーフロー。キャラを通じたパーソナリティの単純化と平板化は、対人関係を容易に

し、円滑化する(土井,2009:斎藤,2011)。ある種のステレオタイプ的なパーソナリティ理解

を持ち込むことによって、お互いの気持ちや言動は扱いやすく、掴みやすくなる。つまり、対人

関係上の情報処理をシンプルにすることができる。こうして、認知的オーバーフローを起こした

現代的な関係性に安定をもたらす窮余の策こそがキャラであると考えられる。

5.キャラと自己のあり方

1)アイデンティティとキャラ

青年期における重要な発達課題として、アイデンティティ(自我同一性)の確立という問題が

ある。キャラによる対人関係は、アイデンティティの確立とどのように関係しているのだろう

か。

アイデンティティとは、今や常識的な概念にすらなっているが、その本質を理解するのは意外

に難しい。アイデンティティ理論を提唱したエリクソンは、次のように述べる。「青年期の終り

「キャラ」とパーソナリティの発達に関する一試論

― 55 ―

に確立される最終的な同一性は、過去の各個人とのどんな同一化をも超えたものである。つま

り、それはすべての重要な同一化を包括するが、しかもこの同一性は、それらの同一化から独自

で適切なまとまりをもった全体を形成するようにこれらの同一化群をつくりかえてしまう」

(Erikson, 1959/1973, p 148)。例えば母親から感じ取った愛情、父親から取り入れた道徳、きょう

だいや友人から受け取った理想など、つまり、様々な他者との関係のなかで影響を受けてきた要

素の全てを、自分ならではのまとまりへと再構成する。自分ならではのまとまりができると、自

己が安定しつつ、関係のなかで相互に影響しあえると考えられる。だからこそ、親密なパートナ

ーシップや家族関係をつくっていく前の段階で、まずはパーソナリティの統合とアイデンティテ

ィを確立が求められるのである。

まとめるとアイデンティティとは、まず、「自分はこういう存在である」という自分による自

分自身に関する「同一性」の認識のことである。自分による自分自身に対する認識は、これが他

ならぬ自分であるということと、あれは自分ではないということの、いわばポジとネガの両面を

もつが、それらの複雑な要素が「統合」されている。そして同時に、その自己認識が他者からの

認識とある程度矛盾なく、なおかつ時間的な「連続性」をもたなくてはならない。そして、それ

らの認識が自分自身の「固有性」、すなわち自己のかけがえのなさを保証するとともに、他の人

びととの「共通性」や人間としての「一般性」をもっていることであると言える。パーソナリテ

ィ発達のプロセスにおいて、そのようなものとしての〈私〉が統合され、確立されることが、長

らく青年期の課題とされてきた。

一方、キャラはパーソナリティの断片によって対人関係を単純化していく。しかし、それは決

して異常な事態ではない。現代社会における自己像とは、統一性と連続性を欠き、断片的で一時

的なものに変わっている(片桐,2011)。小説家の平野啓一郎は、友人グループを横断するよう

な統一的な自己をもつことについて違和感を覚えた自身の経験から、現代を生きやすくなるため

に「個人から分人へ」と表現する(平野,2012)。また、心理療法や精神医療の臨床現場でも今

や、単一で固有の人格という概念は、もはや前提にできない過去のものとなりつつある(田中,

2010.内海,2012)。キャラとはこうした、パーソナリティの統合から分化へという現代的な自

己像の変化の流れと軌を一にしていると考えられるだろう。

キャラは「同一性」を確保することと引き換えに「単独性」や「固有性」を犠牲にする、つま

りキャラを生きることは、同じような他のキャラと同型であるがゆえに代替可能な存在となるこ

とであり、自己のかけがえのなさを犠牲にしていると指摘される(斎藤,2011;土井,2017)。

しかしながら、型にはまっていない純粋な「単独性」や「固有性」など存在しないのではないだ

ろうか。武道や芸道における修行の道筋では、守破離と呼ばれるように、まずは型をきちんと守

るところから始めて、やがてそれを破り離れていく。型が個性を奪うわけではなく、型にはまる

からこそ個性への欲求が生まれ、自分の殻を破ろうとする動因も生じるのではないだろうか。

人間科学部研究年報 平成 29年

― 56 ―

同様に、キャラへの違和感やキャラ疲れのなかでは、自己の不一致や多様性への気づきが生じ

ている。換言すれば、自己の内部で並列的であった断片的な要素は、「これは自分じゃない」「違

う」「嫌だ」「殻を破りたい」といった感覚とともに、仮面としての自分と本当の自分へと内面が

分化していく。実際に何が仮面で何が本体なのか、そもそも本体があるのか否かなどは問題では

ない。意識が分化していくことこそが重要なのである。このように考えると、キャラとは内的な

自己が芽生え、育ちゆく契機になるとも言えよう。そこにはアイデンティティの確立とは異な

る、動態としての自己のあり方が見えてくる。

2)日本的な自己観とキャラ

パーソナリティやアイデンティティという概念は、西欧精神史と不可分であるわけだが、現代

的な自己観の変化に関連して言えば、そもそも日本人にとっての自己のあり方とは、それほど安

定的で固定的な〈私〉というものをつくり上げることだったのだろうか。

西欧における自分自身を指す言葉は I、Ich、Je など定まっているが、日本語では私、僕、俺

など多様であり、同一人物が関係性や集団によって様々に使い分ける。また、日吉丸、木下藤吉

郎、羽柴秀吉、あるいは猿…と様々な名前を持っていた豊臣秀吉の例を挙げるまでもなく、一生

のあいだに何度も名前を取り換えたり、場所によって呼ばれる名前が異なるのも日本人の古くか

らの特徴である。

さらに『今昔物語集』(十九巻)には、「信濃の王藤観音の出家する話」というものがある。あ

る村人が夢を見た。その夢のお告げによると「これこれの格好をした男が明日この村の温泉にや

ってくる、それが観音様である」という。その夢が村中に広まり、人びとが待っていると、まさ

に夢のお告げの通りの時間に、言われた通りの姿の男がやってくる。皆は礼拝するが、当人は何

のことか全くわからない。尋ねると、そこにいた僧が夢の由来を告げる。男はそれを聞くと「我

ガ身ハ然レバ観音ニコソ有ルナレ」、そういうことならば自分は観音であるのだろうと言って、

そこで武器を捨て、髪を切って出家をした、という説話である。

古典学者の西郷信綱(1972)は、この説話や他にも多くの事例を引いて、古代人と近代人の心

性の違い、すなわち思考や意思決定の拠り所として自己の内部を重視するか、外部にそれを求め

るかという違いや、夢の神性の歴史的変遷を詳細に読み解いている。

しかしながら、ここでは日本人の自己のあり方の根源にある、他者あるいは関係依存的なあり

方を指摘しておきたい。それは例えば、歴史学者の阿部勤也による一連の「世間論」、文化心理

学者の北山忍による「相互協調的自己論」などとつながる。阿部(1995)は「個人の集合として

の社会がある西欧に対して、世間があってそこから自己を見出す日本」を指摘し、北山は日本人

の自他相対的なメンタリティーを「相互協調的」と呼んでいる(Markus & Kitayama, 1991)。碩

学の議論に詳しく触れるだけの紙幅の余裕はないが、この二人は文化の文脈から日本的自己のあ

「キャラ」とパーソナリティの発達に関する一試論

― 57 ―

り方を関係的なものとして取り上げている。

日本的な〈私〉は古来、固定的なものではなく流動的で関係的なもの、静的なものではなく動

態として捉えるべきと言えるのではないだろうか。そして、同時に自己と対する他者も、世間と

いう漠たるものであったのではないだろうか。

臨床心理学者の河合隼雄は、自らの臨床経験および日本神話の分析から、西欧のような中心統

合的モデルと対比して、日本人の深層心理を分析するための中空均衡モデルを提唱している(河

合,1999)。河合は次のように述べる。

中空の空性がエネルギーの充満したものとして存在する、いわば無であって有である状態にあ

るときには、それは有効であるが、中空が文字どおりの無になるときは、その全体のシステム

は極めて弱いものとなってしまう。後者のような状態に気づくと、誰しも強力な中心を望むの

は、むしろ当然のことである。あるいは、中空的な状態それ自身が、何ものかによる中心への

侵入を受けやすい構造であると言ってもよい。

(河合,前掲書,p 63)

ポストモダン社会、すなわち多くの人びとが共有できる価値観やイデオロギーなどといった

「大きな物語」が失われ、多様な価値観が乱立し、それを選ぶ明確な基準がない時代と言われて

久しい。そしてキャラを生きることは、ポストモダン的な自己のあり方とも指摘される(例えば

石川,2014)。それは単一の自己を統一的・連続的に生きることではなく、複数の自己を多元

的・並行的に生きることだからである。

斎藤(2011 ; 2013)は、このようなキャラとしての生き方と解離性同一性障害における交代人

格との近似性を指摘している。精神科医の内海健も同様に、責任主体としての自己が一つでなく

てはならないというのは近代社会の強い命法であるが、「一である自己に対して、意識は本来も

っと自在で融通無碍である。…いったん一なる自己をつくり上げたわれわれは、意識の豊かな広

がりに身を沈め…それらを取り戻すためには、あえて解離という手段を使わなければならないこ

とがあるのかもしれない」(内海,2012, p 257)と述べる。

しかしながら、中心統合的で一神教的な価値観をもたず、絶えざる関係性のなかに生きてきた

のは日本人の自他の根本的なあり方ではなかったか。したがって発達心理学がモデルとする融合

から分離へ、共生からの個体化という自我発達の道筋(例えば Mahler(1981)による分離-個

体化理論など)は、日本においては単純には成り立たない。

3)キャラという〈症状〉から学ぶ

日本的自己観に関連して、北山は次のように指摘する。「日本文化では、過去四半世紀、関係

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性は明示レベルでは否定されてきた。その結果、文化的に培われてきた暗黙レベルの関係志向的

自己を否定するといった自己矛盾が生じ、日本人全体が、やる気も起きないし、幸せでもなくな

ったし、いろんな問題を抱えてきてしまったのではないだろうか。さらに、この関係性を否定す

る個人主義がますます増大、肥大化して、日本にある多くの社会問題が噴出してきたと言えるの

ではないだろうか」(北山,2013)。北山はその問題のひとつとして、ひきこもりを挙げている。

急速な西欧化・近代化とともに、日本の中空に入り込んできた「個人主義」は、千年を超える西

欧の「個人」の歴史と比べるとあまりにも脆弱である。ひきこもりの問題は私たちの抱える根深

い関係志向と脆弱な個人主義との自己矛盾をつきつけてくる。

しかし、ひきこもり以上にこの自己矛盾はキャラ化した対人関係に反映されているように思わ

れる。個性を出そうとしつつ全体的な関係性を崩さないようにするためには、先述したように、

キャラによる予定調和の人間関係、単独性を犠牲にした同一性による人間関係は最適なかたちで

あろう。

他方、現代では個人主義の高まりとともに、学校でも社会でも幅広い人間関係のなかで「コミ

ュ力」=コミュニケーション力ばかり重視されていることも事実である。しかしながら、「コミュ

力」とは、自己主張や議論や共感などといった深い対人関係を築いていく能力というよりも、斎

藤(2013)が指摘する通り、主として「場の空気を読む能力」や「笑いを取る能力」のことにな

っている。したがって、“このような社会にあっては、「発達障害」などの正当な理由なしに、コ

ミュニカティブならざることは承認されにくい”と斎藤(前掲書)はアイロニカルに述べる。確

かに、心地よさだけを追求した表層的なコミュニケーション偏重に陥っている現代の日本で、空

気を読めず、マイペースやこだわりの強い発達障害あるいは自閉症スペクトラムは明らかに増加

している(田中,2010)。

北山は、私たちが関係志向的な自己を否定して、急速に個人主義を取り入れようとしてきた弊

害のひとつがひきこもりの問題であると言う。斎藤は、コミュ力偏重の社会で、コミュニカティ

ブにならないためには発達障害でなくてはならないと言う。それらは現代をそれぞれ別の側面か

ら見た鏡像のように思える。

こうして個性尊重と同調圧力のはざまで、複雑化し多様化する価値観を抱えて認知的にオーバ

ーフローする若者たちは、キャラを通じた対人関係を生きている。空気を読み続け、自己のかけ

がえなさを犠牲にしてでも求められるキャラ化した人間関係とは、極言すれば、自他の関係性と

個性とを巡る文化的軋轢が必然的に生み出した集合的な〈症状〉であるとも考えられるのではな

いだろうか。

精神科医であり心理学者であったユングは、症状と人間の関係を次のように語る。

私たちは神経症を取り除こうとすべきではなく、むしろそれが何を意味するか、何を教えよう

「キャラ」とパーソナリティの発達に関する一試論

― 59 ―

としているのか、その目的が何なのかを体験しようとすべきである。私たちは神経症に感謝す

ることを学ぶべきですらある。さもなければ、私たちはそれを通り過ぎ、本当の私たち自身の

あり方を知ることになる機会を逃してしまう。神経症は、それが自我の間違った態度を取り除

いたときにのみ、真に取り除かれる。私たちが神経症を癒すのではなく、神経症が私たちを癒

すのである。

(Jung, 1934, para.361.筆者訳)

心の病は、私たちがそれを治すというよりも、しばしばそれによって私たちのあり方を直され

るものでもある。そこから敷衍すれば、私たちはキャラ化した人間関係という〈症状〉を治すの

ではなく、そこから学ぶことによって私たち自身が、そして私たちの観点が変わらなくてならな

いのだろう。そこでは「パーソナリティ」を統合する、あるいは「アイデンティティ」を確立す

るという道筋から自由になることが、現代における発達心理学や臨床心理学に求められていると

言える。

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