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173 雑  報 聖マリアンナ医科大学雑誌 Vol. 42, pp. 173–176, 2014 横浜山手病院について 13. 解説編 横浜婦人慈善会病院の沿革 うち かず ひで 受付 平成 26 8 15 索引用語 横浜根岸病院横浜婦人慈善会病院済生会神奈川県病院渡辺多満周布貞子 聖マリアンナ医科大学 麻酔学教室 はじめに 前報では横浜婦人慈善会発足までの背景ならび 本シリーズに関連性が認められる横浜共立学園 の概略的沿革について言及した本稿では横浜婦人 慈善会病院 横浜根岸病院の沿革について記述す 横浜根岸病院の設立 1892 3 19 14 久良岐郡根岸村西竹之 31633170 および 3174–3176 番地の敷地 現横 浜市中区西竹之丸 48507880 および 81 おいて93 坪の 2 階建て一般病棟と平屋建て伝染病 棟からなる横浜根岸病院の開院式が挙行された 日新聞 1892 3 19 日号神奈川県公報 第 492 1892 4 4 日参照1したがって,「横浜婦人 慈善病院として開院したとする記述 1は誤りであ 院長は廣瀬佐太郎医員は浅井昌明と菱川ヤス であった当該施設における職員数と患者数の推移 1 に示す上記伝染病棟は渡辺福三郎 1855 3 6 1934 5 10 の寄付により建設されたもので ある 12彼は海産物貿易商石福商店の経営者と 横浜共同電燈会社の取締役を兼務すると共に浜市会議員でもあった 三丸興業 HP 150 年史参 23この伝染病棟を横浜最初の伝染病患者収容 施設だと主張する資料があるがその根拠は示され ていない 21864 9 月に痘瘡病院が設立され シリーズ 1 参照), 1877 9 19 日には太田避病院 が設立されているので 4上記主張に正当性は認め られない当該施設の名称について 横浜根岸病院は横浜婦人慈善会病院に改称された その時期は不明である明治東京地震の被災者 が当該施設に運ばれた時毎日新聞 1894 6 22 日号では婦人慈善会の根岸病院と記載してい 本シリーズ 8 参照)。 1892 年と 1893 年のデータ を収集し1895 3 月に出版された神奈川県統計書 では,「横浜は省略されているものの既に 婦人 慈善会病院の名称が使用されている 1)。ゆえ 1894 1895 年頃に改称されたものと思われ 次に改称の理由を推察する施療患者は横浜婦人 慈善会が発行する証明書が必要であったことと 1療を原因とした病院の赤字経営により度々資金集 めを横浜婦人慈善会が行ったことで 1低所得者層 と高所得者層の両方に施設名より運営母体名の方が強い印象を与えたのが改称の一因と考えられる横浜根岸病院が開院する以前の 1879 武蔵 国豊島郡金杉村 現台東区根岸に日本最古の民間精 神科病院である根岸病院が既に開設されており乱の回避も改称理由の 1 つかも知れない 根岸病院 HP 内歴史と特色参照)。 当該施設の建物は赤色に塗装されていたので根岸の赤病院と呼ばれた 1559

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173

雑  報 聖マリアンナ医科大学雑誌Vol. 42, pp. 173–176, 2014

横浜山手病院について 13. 解説編:横浜婦人慈善会病院の沿革

内うち

田だ

 和かず

秀ひで

(受付:平成 26年 8月 15日)

索引用語横浜根岸病院,横浜婦人慈善会病院,済生会神奈川県病院,渡辺多満,周布貞子

聖マリアンナ医科大学 麻酔学教室

はじめに

前報では,横浜婦人慈善会発足までの背景ならびに,本シリーズに関連性が認められる横浜共立学園の概略的沿革について言及した。本稿では横浜婦人慈善会病院(横浜根岸病院)の沿革について記述する。

横浜根岸病院の設立

1892年 3月 19日 14時,久良岐郡根岸村西竹之丸 3163,3170および 3174–3176番地の敷地(現横浜市中区西竹之丸 48,50,78,80および 81番)において,93坪の 2階建て一般病棟と平屋建て伝染病棟からなる横浜根岸病院の開院式が挙行された(毎日新聞 1892年 3月 19日号,神奈川県公報 第 492

号 1892年 4月 4日参照)1)。したがって,「横浜婦人慈善病院」として開院したとする記述1)は誤りである。院長は廣瀬佐太郎,医員は浅井昌明と菱川ヤスであった。当該施設における職員数と患者数の推移を表 1に示す。上記伝染病棟は,渡辺福三郎(1855年 3月 6日-

1934年 5月 10日)の寄付により建設されたものである1)2)。彼は海産物貿易商「石福商店」の経営者と「横浜共同電燈会社」の取締役を兼務すると共に,横浜市会議員でもあった(三丸興業 HP内 150年史参照)2)3)。この伝染病棟を横浜最初の伝染病患者収容施設だと主張する資料があるが,その根拠は示されていない2)。1864年 9月に痘瘡病院が設立され(本

シリーズ 1参照),1877年 9月 19日には太田避病院が設立されているので4),上記主張に正当性は認められない。

当該施設の名称について

横浜根岸病院は横浜婦人慈善会病院に改称されたが,その時期は不明である。明治東京地震の被災者が当該施設に運ばれた時,毎日新聞(1894年 6月 22

日号)では「婦人慈善会の根岸病院」と記載している(本シリーズ 8参照)。1892年と 1893年のデータを収集し,1895年 3月に出版された神奈川県統計書では,「横浜」は省略されているものの,既に「婦人慈善会病院」の名称が使用されている(表 1)。ゆえに,1894年-1895年頃に改称されたものと思われる。次に改称の理由を推察する。施療患者は横浜婦人慈善会が発行する証明書が必要であったことと1),施療を原因とした病院の赤字経営により,度々資金集めを横浜婦人慈善会が行ったことで1),低所得者層と高所得者層の両方に施設名より運営母体名の方が,強い印象を与えたのが改称の一因と考えられる。また,横浜根岸病院が開院する以前の 1879年,武蔵国豊島郡金杉村(現台東区根岸)に日本最古の民間精神科病院である根岸病院が既に開設されており,混乱の回避も改称理由の 1つかも知れない(根岸病院HP内歴史と特色参照)。当該施設の建物は赤色に塗装されていたので,通称「根岸の赤病院」と呼ばれた1)5)。

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内田和秀

病院の経営状況と横浜婦人慈善会の動向

上述のように病院の経営状況は思わしくなく,篤志家(philanthropist)の寄付と横浜婦人慈善会の補助金により病院は維持された1)。補助金には横浜婦人慈善会の会費が充当されたが十分ではなかった。そこで寄付金の募集およびバザー,遊戯会,音楽会と演芸会の開催により資金を集めた1)。

1897年 4月,里吉きん /錦子 /欣子(不明-1941

年 12月 29日)6) が第 2代会長に就任し,法人化に向けて尽力した1)。夫の里吉時次郎(1856年 9月 25

日-1928年 4月 19日)は薬種商を営み,貿易を行っていた7)。夫婦共にメソジスト教会の信者であった。1900年 5月 31日,横浜婦人慈善会に社団法人の認可が降りた(横浜貿易新聞 1900年 6月 1日号)8)9)。認可の時期を同年 6月 1日とする資料1)2)は誤りである。これを機に,周布貞子が第 3代会長に就任したとする資料があるが1)2)10),これらの資料に根拠は示されていない。就任時期は翌年5)6)あるいは 1901年4月2)11)とする資料がある。ある資料2)は,両方の時期を記載しながらなんの説明もなく,その矛盾を見

過ごしている。夫の周布公平(1851年 1月 7日-1921年 2月 15日)12) は,第 19代(官選第 6代)神奈川県知事(在任期間: 1900年 6月 16日-1912年1月 9日)であった13)。社団法人の認可に伴い,神奈川県と横浜市から年々補助金が給付されることになった8)。1901年には仏教徒である渡辺たま /多満 /

玉子(1858年 4月 18日-1938年 10月 26日)10) が,理事として病院経営に参加した1)2)5)。夫は伝染病棟を寄付した渡辺福三郎である。1906年 6月 4日 13

時より横浜婦人慈善会総会が開催され,伝染病室の新築と宿直医の配置を決議した(横浜貿易新報 1906

年 6月 6日号)。1909年から 1912年に渡り,内務省から助成金が支給された8)。

横浜婦人慈善会病院の活動

当病院の主な活動は施療であるが,特筆すべきいくつかの活動について次に述べる。1894年 6月 20

日に発生した明治東京地震における被災者の治療については,既に記述した(本シリーズ 8参照)。

1902年 3月 24日,足尾鉱毒事件の被害者である北村トノと松本イワを当病院に収容した(横浜貿易

表 1 横浜婦人慈善会病院における職員数と患者数の推移

175横浜婦人慈善会病院の沿革

新聞 1902年 4月 6日号)1)。本事件とキリスト教徒の関係については,資料14)に詳しい。

1906年 7月 18日夜,横浜市根岸町で火災が発生し,根岸の大火と呼ばれた(横浜貿易新報 1906年 7

月 20日号)。火災の規模は全焼 595戸,半焼 28戸で,臨時救護所に西有寺(現横浜市中区大平町 96),東漸寺(同大平町 101)および横浜婦人慈善会病院が選定された。負傷者と病人 10数名を当病院に収容すると共に,一般罹災者に対する救済活動を行った(横浜貿易新報 1906年 7月 25日号)。

済生会の設立と病院の委譲

1911年 5月 30日,恩賜財団済生会が設立され,同年 8月 21日に貞愛親王が初代総裁に就任した(本シリーズ 9)。済生会事業の実施は地方長官に一任された。神奈川県においては,横浜市南吉田町に本県診療所を開設すると共に,横浜婦人慈善会病院,横浜市立十全医院および各郡市の医師会・薬剤師会に嘱託して,1912年 8月より施薬救療が開始された8)。全国的に済生会事業が開始されると,同一事業を

2団体で行うよりむしろ,病院を済生会に寄付して運営を任せるという案が提出された1)。1913年 6月4日 14時より横浜婦人慈善会総会が開催され,病院と付属財産を済生会に寄付し,貧民および罹災者救済事業を維持することが可決された(横浜貿易新報1913年 6月 5日号)1)。済生会から横浜婦人慈善会宛に送付された受納書が現存しているらしい2)。その受納書によれば,1913

年 7月 31日に寄付された総額は 68,360円で,その内訳は証券額面高 45,000円,土地の時価 14,230円,建物の時価 6,830円および器具など一切の価格 2,300

円であった。残念なことにこの受納書の複写が参考資料2)に掲載されていない。筆者が参考資料の著者に問い合せたところ,受納書は手元に保管されておらず,確認は不可能とのことであった。寄付の内訳では各資料でほぼ一致しているものの,寄付の時期が資料により異なっている。 例えば上記以外で,1913年 7月9),同年 8月5),同年 9月 1日15)16)あるいは 9月1)17–19)である。現在,済生会神奈川県病院では開院を 1913年 9月 1日と定め,2013年 9月 1日に開院 100周年を祝った20)。

済生会神奈川県病院について

済生会が受納した病院は済生会神奈川県病院と改

称され,全国済生会の第 1号病院として開院した(済生会神奈川県病院 HP参照)20)。1923年 8月,岡野町診療所(現横浜市西区岡野町)の建物(170坪)が増築されて 693坪の規模となったが,翌 9月 1日の関東大震災により建物は大破した12)21)。応急処置を施して震災当日から多数の傷病者を収容した。更なる工事により持久的施設として,同年 10月 1日から翌年 6月 30日まで,済生会臨時横浜病院として診療を行った15)21)。1924年 7月 1日,神奈川県病院(根岸町)は根岸診療所に,岡野町診療所は神奈川県病院と改称された。1945年 5月 29日,横浜大空襲により神奈川県病院は焼失し,1946年 4月 15日に海軍釜利谷工員宿舎(現横浜市金沢区平潟町)を借りて,仮病院として診療を開始した。1949年 3月 10

日,神奈川県病院は横浜市神奈川区富家町 6–6に移転し,仮病院は若草病院として発足した(済生会若草病院 HP参照)15)。

おわりに

病院委譲後の横浜婦人慈善会は,活発な救済活動が新聞記事に認められず,本来の活動は病院の委譲と共に終了したと見る資料がある1)。しかしながら,その考えはいささか短絡的である。病院委譲を可決した時点で副会長であった多満は(横浜貿易新報1913年 6月 5日号),1914年 10月 1日に横浜婦人慈善会の会長に就任した2)。したがって,病院を済生会に引継ぐまで理事で,後に副会長を務めたとする記述1)は誤りである。1915年 11月 10日,京都御所における大正天皇の即位式を前にした同年 8月 6

日 13時から,横浜市役所で市内の婦人が奉祝の相談会を開いた2)。参加者 60余名の中には渡辺多満,二宮わか,稲垣寿恵子など横浜婦人慈善会の主要メンバーがいた。団体の名称は御大典奉祝横浜婦人連合会とし,目的は奉祝と社会事業への寄付であった。国旗型徽章を作製し,70万個を販売して目的を達成した2)。横浜婦人慈善会における 1917年の救済回数は 6回(454円)で,資産は 10,751円という記録があり9),活動が終了したとは決して考えられない。

1923年 9月 1日,関東大震災が発生した。同年11月 25日,横浜連合婦人会がテントの下で発足した2)。女性の立場から市民の救護と復興に奔走した。1924年 1月 18日 14時より,横浜連合婦人会役員総会において,財団法人へ移行するのと同時に,横浜婦人慈善会から基金 10,000円を提供して合流する

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内田和秀

こととなった1)。すなわち,この日をもって横浜婦人慈善会は解散した。同年 9月,多満は横浜連合婦人会の会長に就任した。続報では横浜婦人慈善会病院の医師について言及する。

謝  辞

御助言を頂きました神奈川県立公文書館資料課 薄井達雄様に深謝致します。また,資料調査に御協力頂きました神奈川県立図書館企画サービス部地域情報課 芳賀こずえ様に厚く御礼申し上げます。

付  記

本文において,第 19代神奈川県知事周布公平の任期を明記しているが,Wikipediaでは異なる退任時期(1912年 1月 12日)を,根拠を示すことなく記載している。官報と神奈川県公報には周布の退任時期が掲載されていないことおよび,第 20代神奈川県知事大島久満次の就任時期が 1912年 1月 12日であること(官報第 8567号 1912年 1月 13日)13) から,県知事に空位の期間はない筈であるという思い込みが,誤りを誘発した原因と推測される。退任時期は本文通り 1912年 1月 9日であることは,複数の資料13)22–25)ならびに,枢密顧問官への栄転を伝える新聞記事と官報(横浜貿易新報 1912年 1月 10日号,官報第 8564号 1912年 1月 10日)より明らかである。すなわち,1912年 1月には神奈川県知事の不在期間が 2日間あったことになる。

文  献

1) 中積治子.根岸の丘の赤病院-横浜婦人慈善会を支えた女性たち-.史の会研究誌1993; 2: 213–

231.

2) 鈴木隆.渡辺多満の生涯,初版,タングラム,横浜,2008: 121–146, 263–289, 318–342.

3) 横浜市中区役所編.横浜のおんなたち,初版,横浜市中区役所,横浜,1977: 23–26.

4) 内海孝.横浜疫病史-万治病院の百十年-,初版,横浜市衛生局,横浜,1988: 15–19.

5) 森和平編.露香,初版,森和平,横浜,1929:

1–62.

6) 横浜上原教会百年史編集委員会編.横浜上原教会百年誌,初版,日本キリスト教団横浜上原教会,横浜,1975: 104–127.

7) 日本メソヂスト横浜教会編.日本メソヂスト横浜教会六十年史,初版,日本メソヂスト横浜教会,横浜,1937: 1–97.

8) 神奈川県編.神奈川県誌,初版,神奈川県,横浜,1913: 560–565.

9) 高野義夫編.社会福祉人名資料事典 第 2巻,初版,日本図書センター,東京,2003: 57.

10) 中積治子.史料紹介「横浜婦人慈善会自明治三十五年四月一日至明治三十六年三月三十一日報告書」他.史の会研究誌 2001; 4: 144–147.

11) 横浜商業会議所編.横浜開港五十年史 下巻,初版,名著出版,東京,1973: 242–244.

12) 講談社出版研究所編.講談社日本人名大辞典,初版,講談社,東京,2001: 1026, 2088.

13) 神奈川県立公文書館編.歴代知事と県のあゆみ「国際化」の担い手たち,初版,神奈川県立公文書館,横浜,2005: 7, 14.

14) 日本キリスト教団横浜上原教会百年史編集委員会編.横浜上原教会史料Ⅱ,初版,横浜上原教会,横浜,1973: 59–65.

15) 済生会神奈川県病院編.150年のあゆみ,初版,済生会神奈川県病院,横浜,1980: 20–23.

16) 済生会編.恩賜財団済生会七十年誌,初版,済生会,東京,1982: 57, 868.

17) 芹沢勇.神奈川県社会事業形成史,初版,神奈川新聞厚生文化事業団,横浜,1986: 28–93.

18) 田中義郎.横浜社会事業風土記,初版,神奈川新聞厚生文化事業団,横浜,1978: 17–92.

19) 神奈川県編.恩賜財団済生会神奈川県病院写真帖,初版,神奈川県,横浜,1925: 震災前ノ病院病舎の頁.

20) 済生会神奈川県病院編.なでしこ通信,初版,済生会神奈川県病院,横浜,2013: 1.

21) 済生会編.大震火災臨時救療誌,初版,済生会,東京,1924: 350–360.

22) 神奈川県議会事務局編.神奈川県会史 第 3巻,初版,神奈川県議会,横浜,1955: 999.

23) 大霞会編.内務省史 第 4巻,初版,地方財務協会,東京,1971: 617.

24) 歴代知事編纂会編.日本の歴代知事 第 1巻,初版,歴代知事編纂会,東京,1980: 926–927.

25) 戦前期官僚制研究会編.戦前期日本官僚制の制度・組織・人事,初版,東京大学出版会,東京,1981: 338.