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れい - WAKWAKpark1.aeonnet.ne.jp/~pekingdo/sinkokumonogatari.pdfえ秦は、紀元前476 年の厲 れい 公、躁公、簡公、出子までの90 年間(紀元前385 年まで)、庶長

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秦国しんこく

物語ものがたり

(始皇帝の父親まで) 秦の王は、西方の騎馬民族だった。先祖が禹

とともに治水し、秦に封じられたという。

しかし実のところは周孝王の時代、馬を飼うのがうまかったため、農作物がなくて人口の

少ない秦の土地をあてがわれ、貴族にしてもらったのが秦である。中国は、最初の世襲王

朝である禹の夏、殷いん

(商)、周と王朝が移り変わり、やがて宗主を周として、魯ろ

、斉さい

、晋しん

、秦しん

楚そ

、宋、衛、陳ちん

、蔡さい

、曹そう

、鄭てい

、燕えん

、呉ご

という 14 の都市国家に分かれた。これが春秋と呼ば

れる時代である。それが戦争によって併合されたあと、中原の大国であった晋が、韓かん

、魏ぎ

趙ちょう

の三晋に分かれた。そして周を形式上の宗主とし、秦、魏、韓、趙、楚、燕、斉の七国

に分かれた戦国時代が始まった。これを戦国七雄と呼ぶ。燕は現在の北京にある小国で、

長城の隣は匈奴きょうど

だった。秦は貧しい黄土高原で、函谷関かんこくかん

により周と接していた。このなか

で楚と斉は広大な面積を持っていたが、斉も部下の田氏に乗っ取られ、王は交代していた。

斉は現在の斉南あたり、楚は楊子江のあたりで、現在の南京ぐらいにある。 ここに挙げるのは秦国の秦孝公→恵文君→武王→昭襄

じょう

王→孝文王→庄襄王の秦王時代。

そして統一国家を作り上げた政(秦始皇帝)→胡亥こ が い

(二世)→子嬰し え い

(三世)と、秦国滅亡までの物

語である。秦国物語なので、個々の登場人物については、詳しい履歴を述べてない。 中国には、人間を女神の女媧

じ ょ か

が作ったという伝説がある。女媧が、黄土をこねて人形を

作り、それに生命を吹き込むと人間になった。こうして女媧は人間を作り続けたのだが、

それでは数を作れないので、最後には木の枝を泥水に浸し、それを落としてできた土の塊

を人間にした。だから人間には、美しい貴族、そして不格好な庶民ができたのだという。

こうして人間不平等の神話を作り上げた。 最後に女媧は、もっとうまい人間製造方法を考えついた。それは人間どうしを結婚させ

て、子供を作らせる方法だった。こうして人間は土から作られ、死ぬと土に帰る。だから

人間の価値は、女媧の手作りなのか、それとも木の枝でつくった大量生産品なのかによっ

て決まるとされていた。だから上等の人間である貴族や大臣が、農民や兵士をしいたげる

のは、当時の世では当然のことだったのである。 一、帝国秦の礎(孝公と商鞅

しょうおう

) 秦国は中原の西に位置し、政治、経済、文化が未発達で、土地も痩せて人口も少なく、

牧畜ぐらいしか産業がなかった。そのように未発達な秦だったから、秦は他国に夷狄い て き

と見

なされ、魏に戦争をしかけられては、河西の領土を奪われてしまう。それは戦国時代にな

ったとき、魏文侯が、魏国の社会制度を改革し、強い国家を作ったからだ。それに引き換

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え秦は、紀元前 476 年の厲れい

公、躁公、簡公、出子までの 90 年間(紀元前 385 年まで)、庶長

(官職名)の専横による国王の取り替え、内乱勃発などで国力が弱まり、戦争に負けて次々と

領土を魏に奪われた。 紀元前 413 年、魏は秦を攻めて鄭

てい

で破った。紀元前 412 年、魏は秦を攻めて繁龐はんほう

を占領

した。紀元前 409 年、魏文侯は、呉起を将軍とし、秦国を攻め続けて、臨晋、元里、洛陰、

郃こう

を攻め取った。 このままでは滅びるしかない。そこで改革が必要だった。紀元前 385 年、秦献公が即位

し、秦国の社会改革をおこなった。そして紀元前 366 年から紀元前 362 年にわたる韓魏連

合軍に対して、初めて勝利した。紀元前 361 年、秦献公が死んだ。 秦献公が死ぬと、秦の孝公が即位した。若干 21 歳だった。孝公は、自分の領土を奪われ

る状態を憂いて、秦を強化しようと考えた。それには秦献公の改革では、生ぬるいと感じ

ていた。 そのころの秦国では、貴族が威張りくさり、自分が法だと言わんばかりに、勝手放題を

していた。また痩せた土地なのに農民への年貢取立が厳しく、兵は貴族の下で働いて、兵

が敵を倒しても、兵の上司である貴族が手柄を横取りしていた。 こんな状態を改善しなければ、秦を強国にすることはできない。 孝公は、まず秦を改革するために、優秀な人材が必要だと考えた。そこで「秦国人であ

れ、外国人であれ、秦に富をもたらし、強くした者には、金と地位を与えよう」と公布し

た。そのため中原で就職できなかった多くの人材が、秦を目指してやってきた。 そのなかに衛国の貴族であった衛鞅がいた。彼は孝公に会わせてもらうと、「国に富をも

たらすには、農業を保護しなければなりません。国を強くするには、兵に報奨を与えねば

なりません。国家を治めるには、必賞必罰とすべきです。褒美を与えて、罰を下せば、政

府の権限は保たれ、改革がしやすいでしょう」と言った。 衛鞅の話を聞くと、孝公は賛同した。それでは、さっそく改革しよう。 しかし秦国の貴族と大臣達は、孝公が衛鞅の方法を採用することに反対した。その改革

は、農民と兵士の地位を高めることになるからだ。 孝公は衛鞅の改革を完全に支持したのだが、だれもが反対し、また自分も即位したばか

りなので無理ができず、反乱が起きないよう、しばらく放置することにした。そして2年

あまりの歳月が過ぎた。孝公は、ますます改革の必要性を感じた。自分の王位が安定した

ところで、衛鞅を左庶長の職にし、大臣達に言った。 「今日から制度改革のことは、すべて衛鞅に任せる。衛鞅に反抗することは、王に反抗

することである」 衛鞅が左庶長となった紀元前 359 年、彼は改革の草案を作って孝公に見せた。孝公も納

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得し、それを秦国に新法として発布することにした。 衛鞅の心配は、貴族や大臣の抵抗だけではなかった。これまで法律のなかった国で、法

令を発布しても、国民が本気にするのだろうか? そこで彼は、南の城門に丸太を置き、張り紙をした。そこには、こう書いてある。 「法令。この丸太を北の城門へ移動させたものには、金十両を与える」 すぐに南の城門に人垣ができた。人々がワイワイ騒いでいる。 「こんな杭、誰だって動かせるわい。こんなものを、たった北門へ移動させるだけで十

両も払うバカがいるか?」 「たぶん左庶長の悪い冗談だろう」 「そうだな。これを運んだら、おおかた、引っ掛かったぁ!と喜ぶんだろう」 みんな集まって見ているだけで、誰も運ぼうとはしなかった。 衛鞅は、誰も運ぶものがいないと聞いて、彼は賞金を5倍にした。 「法令。この丸太を北の城門へ移動させたものには、金五十両を与える」 賞金が上がり、みんなは「そんなアホな」と騒ぎ始めたが、やはり運ぶものはいない。 すると男が人垣から現れ、「オレが担いでゆく」と、本当に運び出した。みんなは道を開

け、無邪気な子供のように笑いながら男の後をついて行った。 男が北門まで丸太を運ぶと、待っていた衛鞅が言った。 「君は、王の法律を守る善人だ。法律どおり賞金を与える」 男は、茫然として賞金を受け取った。が、しばらくして喜びに変わった。 取り囲んでいた人々も、やはり茫然と見ていたが、しばらくすると悔しがった。 みんな口々に「明日も丸太が出ていたら、ぜったいにオレが運んでやる」 この事件は、その日のうちに秦じゅうで噂となり、知らぬものはいなくなった。 「左庶長が言ったことは、絶対に間違いない。彼の命令は、本当だ」と人々は噂した。 次の日に、みんなは北門へ向かった。だが丸太はなく、張り紙があっただけだった。 誰も字を読めなかったので、そばに役人がいて読み上げた。内容は三つだった。 一、犯罪連座制。五軒を一伍、十軒を一什とし、一伍と一什は、互いに監督する。その

組のうち一軒が法を犯したら、他の九軒が告発する。告発しなければ、罪人と同罪である。

告発すれば、敵を殺したと同じく功績となる。各人に居民証を発行する。居民証がなけれ

ば通行できず、宿泊もできない。 二、戦争による昇級。官職や地位に関係なく、手柄および殺した敵の数によって功績と

する。敵一人を殺せば功一分とし、一級ほど昇級する。功績が大きいほど地位が高くなる。

田畑、住宅、馬車や馬、お手伝い、服などは、地位の等級よって決める。軍事上の功績が

なければ、金があっても等級以上の生活をしてはならない。貴族も戦争の功績によって地

位が決まる。 三、農業の奨励。庶民で、食料や布を増産したものは、政府の強制労働を免除される。

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商売をしていたり、怠惰なため貧乏なものは、妻や子供とともに政府へ入ってお手伝いを

する。兄弟は成人したら分家し、戸籍を作って税金を払う。分家しなければ、成人ごとに

税金を取る。 新法の公布は、秦国に大きな変化をもたらした。まず軍事的に功績のない貴族や領主は

特権を失った。彼らは金があっても、たんなる金持ちに過ぎず、政治的には地位がない。

軍事で功績があれば地位がもらえ、うまくすれば領主になれる。ただし領主と言っても、

領地から税金を徴収できるだけで、領民を管理できない。 貴族が領主だった秦国は、そのときから地主制の領主へと変わった。こうした大きな改

革に対し、貴族領主は抵抗したものの、孝公は衛鞅を信任し、新法に反対する大臣を一人

ずつ処罰していった。 こうして3年が過ぎると、民衆は新法が良いものだと感じ始めた。生産量がアップし、

生活も豊になった。民衆が最も喜んだのは、生産量を上げれば政府の労働を免除されるこ

とだった。人々は、農業生産や機織りを増やすことに文句はないが、兵隊に取られて家族

と離れ離れになることを嫌った。兵士たちも、良い待遇を受けたければ、敵を殺せばよい

ので、誰もが勇敢な兵士になった。 衛鞅の新法によって、秦国は農業生産が増え、軍事力も強くなった。それにより魏国の

西部に攻め入って河西を取り返したばかりでなく、河東まで攻め入って、魏国の首都であ

る安邑まで攻め上った。紀元前 350 年、強国だった魏国も、ついに秦と講和するしかなか

った。秦の孝公は、さらに改革を進めるため、魏の恵王に譲歩して会見し、同盟条約を結

んで、河西の大部分と安邑を魏国へ返した。孝公は時間をかけて目的を達することにした

のだ。魏の恵王は、秦の孝公を良い人だと考え、友達だと信じ、もう秦国が戦争しに来る

ことはないと安心した。 秦の孝公は、改革の第一段階が成功したと思った。彼は、魏の恵王と同盟してから、衛

鞅に大規模な改革を実施させた。それは 一、阡陌

せんばく

と封疆ふうきょう

:阡陌とは、戦車が通るための農村の道路である。春秋時代は戦車が多

用された。そのため東方の国々は、早くから田畑に道路が作られている。だから秦も、田

畑に道路を作るだけでなく、広大な阡陌を平坦にして作物を植える。封疆とは、貴族を領

主として分けられた国境や防衛のための土累、荒れ地、林、溝などである。こうした土地

を開墾して田畑にする。それは開墾した人の所有になる。田畑は自由に売り買いできる。 二、統治機構を作った:貴族領主が所有する領地以外は、県と呼べる地区がなかったの

で、町や村を合併して、大きな県を作った。各県には県知事を置き、県全体のことを管理

させる。県知事には助役がおり、それを県丞けんしょう

と呼ぶ。県知事と県丞は、国家が直接任命す

る。こうした国家が直接統治する地方機関は、全部で 41 作られた。

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三、咸陽かんよう

へ遷都せ ん と

:東に発展するため、首都を雍城ようじょう

から東の咸陽へ移した。 こうした改革に、当然反対する人々はいた。噂によると一日のうちに七百人余りの改革

反対者を殺したため、渭河の水が赤く染まったという。 王子の教育係は、この改革は横暴だと感じ、快く思っていなかった。その影響を受け、

王子も改革を批判して守らなかった。それで衛鞅は困ってしまった。 衛鞅は孝公に「国家の法律は、例外なく守られねばなりません。もし上に立つ者が守ら

ねば、庶民は国家を信用しなくなります。王子は法を犯しました。しかし王子に刑罰を科

すわけにはゆきません。これは王子の教育係の責任なので、教育係が刑罰を受けるべきで

す」と言った。秦孝公は、衛鞅の意見に同意した。そこで王子の教育係を捕らえ、公子こ う し

虔けん

鼻を削ぎ落とし、公孫こうそん

賈か

は顔に刺青いれずみ

をした。この一件から新法を批判する大臣はいなくな

った。 秦国は山地で、土地が広くて人口が少ない。隣国の三晋(魏、韓、趙)は、古くから発達し

ていたので、人口は多いが土地は少ない。そこで衛鞅は、他国の農民が秦国へ来て農業を

するならば、そのものに田畑と住宅を無料で進呈するという法律を作った。秦国は、本国

人には必ず兵役を科し、順番に徴兵したので、ますます兵力が増した。外国から来た人は、

農業と機織りを熱心にしていれば兵役を免れるのだ。また秦国の定規は長さがバラバラ、

計量カップも量がマチマチ、重さも統一されていなかった。そこで衛鞅は、全国の長さ、

容量、重さに基準を作った。このように全国一律に度量衡を決めることで、納税や商売に

非常に便利となった。 秦国は改革して十数年のうちに、豊かな強国になった。そこで周王朝の天皇は、秦の孝

公を王と認めて「方伯」に任命した。周王朝は、かつては中国の支配者だったが、そのこ

ろには領地も小さくなり、象徴としての地位でしかなかった。周王朝は、地方の権力者を

王として任命することで、細々と象徴としての立場を守り続けていたのだった。中原の諸

国も、秦国が豊かな強国になったのを知り、西の夷狄扱いはやめ、王と認められたことを

祝辞した。そして天下統一を目指していた王達は、秦国が衛鞅を採用して強国に変貌した

のを見て、自分たちも人材を探し始めた。 のちに秦孝公は、商の地一帯を衛鞅に与えて封建領主にしたので、衛鞅は商君と呼ばれ

るようになった。のちの商鞅とは、小国衛から来た衛鞅のことである。 紀元前 338 年、秦の孝公は病死し、太子が即位した。それが恵文王である。恵文王は太

子の時に、衛鞅の改革に反対したため、太子の教育係が、鼻を剃られたり刺青をされた。

太子が即位すると、教育係の二人は勢力を盛り返した。そして衛鞅に恨みを抱いていた秦

の恵文王は、衛鞅に謀反の罪を着せて殺してしまった。しかし恵文王は、弱小国であった

秦を強国へと変貌させた衛鞅の改革までは取り消さなかった。

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二、合縦

がっしょう

(蘇秦そ し ん

) この頃、蘇秦

そ し ん

と張儀ちょうぎ

という二人の人物が、秦の天下統一に向けて動く。 蘇秦は洛陽

らくよう

の人で、合縦論を唱えた。合縦とは、強大な秦国に対抗する、中国大陸を横

切る黄河の横線に垂直な連合という意味である。つまり戦国七雄のうち、秦を除く国が同

盟を結んだ。 蘇秦は鬼谷子

き こ く し

のもとで、張儀とともに弁論術を学んでいた。鬼谷子とは、鬼の谷に住む

先生という意味だが、鬼というのは幽霊のことだから、おおかた大勢が殺された谷に住ん

でいたのだろう。 蘇秦は自分の弁論術を使って、どこかの国に仕官できさえすればよかった。まず彼は、

周天王のところへ行った。しかし周は宗主といえども実質的な力がなく、人材を登用して

も意味がなかったので、だれも王に蘇秦を紹介してくれるものはなかった。 「やはり自分の弁論術は、発展する強国でなければ意味がない」 そう思った蘇秦は、天下一の強国である秦へと向かった。当時は戦国時代で、戦国七雄

が天下を取ろうと、虎視眈々と狙っていた。なかでも衛鞅の改革を取り入れた秦は、他の

国を凌駕して最強の国へと変貌していた。 蘇秦は「秦は強国なのだから、一つずつ七国を併合して、天下を取るべきだ」と主張し

た。だが秦の恵文王は、衛鞅を殺した後でもあり、外国人を登用したくなかった。恵文王

は、蘇秦の話を聞き終わると、 「秦は、それほど強くはない。そんなこと、できるわけがない。先生の話は筋が通って

はいるが、何年か準備して強国になったら先生の意見を取り入れましょう」と拒否した。 蘇秦は、拒否されても諦めずに長文の手紙を書き、他国の併合を進言した。だが恵文王

は、パラパラッと手紙を見ただけで、すぐに机に置いた。 それでも蘇秦は一年あまり辛抱した。だが家から持ってきた金も使い尽くし、服もボロ

ボロになり、そのまま滞在していれば旅館や食事の金すらなくなる。帰るしかなかった。 蘇秦は帰宅したが、仕官して有名になろうという考えは捨て切れなかった。 「秦国がダメなら、他の六国へ行けばよい。利害を説いて説得すれば、一国ぐらい雇っ

てくれるだろう。そのためには兵法だ」 各国が、兵法を学んだ孫臏

そんびん

を欲しがったことを蘇秦は知り、仕官したい一心で、兵法を

研究し始めた。本を読んでいて眠くなると、錐を自分の太股に刺して眠気を覚まし、勉強

を続けた。こうして蘇秦は姜太公の兵法を覚え、各国の地形や政治状況、軍事力を暗記し

た。また諸侯の心理も研究し、以前のような失敗を繰り返さないようにした。蘇秦は十分

に勉強したと感じると、兄弟に「もう十分すぎるほど勉強した。もう手を伸ばしさえすれ

ば、天下の富が手に入る。もし私に旅費を出して、私に遊説させてくれれば、私が官にな

ったとき、必ず兄弟にも、いい目をみせてやる」と言って、姜太公の兵法や、各国の状況

を話して聞かせた。それを聞いて信用した兄弟たちは、蘇秦に旅費を出してやった。

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蘇秦は、滅び行く天子の国、宗主国の周には二度と行かなかった。また自分の手紙を読

みもせずに捨てた秦の恵文王を憎んだ。秦は、外国人でも能力があれば気軽に登用すると

いう噂だったのに、行ってみると相手にされなかった。 せっかく秦に天下を統一させてやろうと思ったのに、秦の恵文王は自分をないがしろに

した。戦国七雄なら誰でも、チャンスがあれば天下を統一してみたいはずだ。 秦が天下を統一したくなければ、自分の生きている限り、秦には絶対に天下を統一させ

てやるものか。 蘇秦は、さまざまな国へ行ったが、どこの国にも相手にされなかった。 紀元前 334 年、蘇秦は燕国へ行った。戦国七雄のうち燕国は、北の辺境にある最弱小国

である。国王の燕文公に謁見し、 「燕国は、二千里の土地を持ち、数十万の兵がいて、六百台の戦車があり、六千余りの

騎兵がいますが、西の趙国、南の斉国と比べると力不足は否めない。この数年で、趙国も

斉国も強国になった。しかし強い国は戦争ばかりしているのに、弱い燕国は平和だ。なぜ

だか判りますか?」と言った。 燕文公が「判らない」と答えると、 「燕国は、秦国に侵略されないからです。趙国が秦国を防いでいます。燕国は秦国から

遠い。秦国が燕国を侵犯するときは、必ず趙国を通らねばなりません。秦国は、趙国を通

らずに燕国と戦争することができません。だが趙国が燕国と戦争するのは簡単だ。朝に兵

を進めれば、午後には着く。王が近くの趙国と仲良くせずに、遠い秦国へ土地を進呈する

のは悪い方策です。もし王が、私の計略を使うのならば、まず隣国の趙と同盟を結んでか

ら、中原の各国と同盟を結び、共同で秦国に対抗しましょう。そうすれば燕国は、本当の

平和を手に入れることができます」と蘇秦。 燕文公は、なるほどと思った。だが強国の秦と対抗するといっても、列国の心が一つに

なるだろうか? 「では、まず私が趙国に行って、交渉してきましょう」と、蘇秦が言う。 そこで燕文公は蘇秦に、趙への贈り物、旅費、馬車、部下などを与えて、趙国と交渉し

てくれるように頼んだ。 趙国の趙粛侯

しゅくこう

は、燕国から客人が来たと聞いて、自分で会ってみることにした。 「わざわざ、おいで下さって、ごくろうでした。どんな用事ですか?」 蘇秦は言った。 「現在の中原各国では、一番強いのが趙国でしょう。だから秦国は、趙国を一番に滅ぼ

したいはずです。だが、それはできない。なぜ秦国が趙国を攻めないのか? それは秦

国が趙国に兵を進めれば、西南にある韓国と魏国が、秦国へ攻め込む恐れがあるからです。

つまり趙国は、韓国と魏国によって秦国から守られているのです。しかし韓国と魏国は、

敵から国境を守る山も河もない。もし秦国の大軍が、韓国と魏国を攻めたら、とても守り

切れないでしょう。そうして韓国と魏国がなくなったら、趙国は秦国の大軍から国を守り

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切れないでしょう。私は各国の地形と政治を細かく分析しました。すると中原各国の面積

は秦国の五倍あり、兵を合わせると秦国の十倍います。もし趙,韓,魏,燕,斉,楚の六

カ国が合同で秦国に対抗すれば、秦国に攻められることはありません。そうすれば今まで

のように、各国が秦国へ土地を献上して機嫌を取る必要もないわけです。六カ国が、めい

めいに土地を秦国へ進呈して戦争を避けようとするのは、決して良策ではありません。六

カ国の土地には限りがあり、秦の欲望は無限だからです。このままでは、秦が六カ国の土

地すべてを奪ってしまい、それぞれの国は滅びるでしょう。もし大王が諸侯と義兄弟にな

って同盟すれば、秦が、どの国と戦争しようが、他の五カ国も一緒になって戦います。孤

立した秦国だけでは、連合した六カ国を敵に回して戦争するわけにゆきません。やはり我々

は他国と会議を開き、共同して秦と対抗する策を相談すべきでしょう」 趙粛侯は、蘇秦の同盟計画を聞いて、なるほどと思った。 「あなたの計画は、趙国を守ることになる。それでは趙国の総理大臣になって、その同

盟計画を進めてください」 そういうと趙粛侯は、趙国の総理大臣印鑑を蘇秦に渡し、さらに百台の馬車、千斤の銅

銭、百の宝玉、千反の絹を与えて、各国と交渉してくるように頼んだ。 蘇秦は、趙国の総理大臣になった。一国の総理大臣ならば、どの国も必ず相手にしてく

れる。今までのような個人と違い、他国の総理大臣を相手にしなければ戦争になることも

覚悟せねばならない。これまで秦国は、難癖をつけて各国の領土を少しずつ奪ってきた。

また衛鞅の改革を続行しているのも、富国強兵にして天下を統一しようという野望がある

からに他ならない。これからは本格的に、秦への恨みを返すことができる。 蘇秦は、天にも昇る気持ちだった。ただちに韓国と魏国へ出発しようとした。 ところが出発しようとしていた矢先、趙粛侯に呼ばれた。 「たった今、国境から報告があって、秦国が魏国へ侵攻し、魏国が負けた。魏王は秦国

に降参し、河北の城を十ほど秦国へ譲ると約束した。もし秦国が、ここまで攻めてきたら

どうしよう」 蘇秦は驚いた。もし秦国が趙国へ攻め入れば、趙国も魏国のように領土を渡して講和す

るだろう。そうなったら秦国への恨みを晴らせない。蘇秦は勤めて平静を装って言った。 「秦国の兵は、魏国と戦った後です。疲れ切っているので、すぐには趙国へやってこな

いでしょう。もし来たら、私にも兵を引き下がらせる方法があります」 「もしそうであれば、他国へ行くのは延期してください。秦国の兵が来なければ、その

とき交渉に行ってください」と、趙粛侯が言う。 蘇秦は留まるしかなかった。趙粛侯に、ただちに敵を防ぐ準備をするように伝え、自分

は官邸へ帰った。 官邸に帰って、いろいろ考えた。そしてついに同級生の張儀を使うことを考えついた。

だが張儀は、非常に利口な人だった。そう簡単に、蘇秦の思い通りに動いてはくれない。

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そこで策を練った。 三、秦の領地拡大(張儀) 張儀は、魏国の人だった。やはり鬼谷子について政治を学んだ。そして魏国の魏恵王の

ところへ行ったが、国王は採用しなかった。そこで妻を連れて楚国へ行き、楚威王と会お

うとしたが、王は会ってくれなかった。ついに楚国の総理大臣である昭陽のところへ行き、

そこの居候になった。 ある日、昭陽は客人や家臣と一緒に、池のほとりに建てた日除けで酒を飲んでいた。す

ると客人の一人が、 「大臣は、国王から天下の国宝である『和氏璧

か ず し へ き

』を戴いたそうですな。我々にも『和氏

璧』を見せていただけないでしょうか?」と言った。 そこで昭陽は家臣に『和氏璧』を持ってこさせ、その場にいた客人に手渡しながら見せ

ていた。そのとき池の鯉が跳ねた。みんなが池を見つめた。鯉は次々に跳ねた。しばらく

すると黒雲が湧き、今にも雨が降り出しそうになった。昭陽は、あわてて客人に、家へ入

るように言った。その混乱のなかで『和氏璧』が見えなくなった。昭陽は腹を立てたが、

客人を責めるのも気がひけたので、そのまま客人を帰らせた。しかし居候達が隠してない

かと疑った。 昭陽の家臣が言った。 「張儀は貧乏だから、『和氏璧』を盗んで売ろうとしているに違いない」 そこで昭陽は、張儀に白状させるように家臣へ命じた。張儀は、棒で何百回も叩かれた

が白状しなかった。身体中を叩かれた張儀が気絶した。昭陽は、張儀が死んだと思って引

きあげた。張儀に濡れ衣を着せた家臣は、息絶え絶えになった張儀を家まで送った。 張儀の家では、妻が張儀のボコボコにされた姿を見て泣いた。 「あなたが私の言うことを聞かないから、こんな姿になってしまった。仕官しようと思

わなければ、こんなことにはならなかったのに」 張儀はウンウン唸りながら尋ねた。 「俺の舌は、まだ残っているかい?」 「バカね。人にボコボコに殴られて、まだ冗談言うの? ちゃんと舌は付いてるわ」 張儀は 「よし、舌さえ残っていれば恐くない。おまえも安心していいぞ」 と言った。しばらく養生してから張儀は魏国へ帰った。しかし、このときの恨みから、

張儀は楚国を滅ぼしてしまう。 張儀が魏国へ帰って半年もすると、かつての同級生だった蘇秦が趙国の総理大臣になっ

9

たことを知った。そこで蘇秦を尋ねて、仕官の推薦をしてもらうことにした。 ちょうど玄関に商人が来たので、張儀が出て行って尋ねると、彼は趙国から来たことが

判った。その商人は賈舎人か し ゃ じ ん

という名前だった。張儀が質問した。 「噂では、趙国の総理大臣は、蘇秦というそうだが、本当か?」 賈舎人は答えた。 「先生は、何という名前なのですか? まさか我国の総理大臣と知り合いではないでし

ょうに」 「私は張儀という。大臣と友達で、同級生だった」 賈舎人は喜んだ。 「失礼、失礼。実は、我々は大臣の家の者ですよ。あなたが大臣に会いに行けば、きっ

と大臣も喜ぶでしょう。もしかすると仕官に推薦してくれるかもしれません。私の商売は、

ここで終わりです。帰らねばなりません。もし先生が私を信用してくれるなら、馬車は用

意してあります。私と道連れになって一緒に帰りましょう」 張儀は喜んで、一緒に趙国へ向かった。 かれらは街はずれに到着した。中国の都市は、敵から守るために街の周りを城壁が囲ん

でいた。街の中には都会人が住み、城壁の外には農民が住んでいた。 その城壁から入ろうとしたとき、賈舎人が言った。 「私は城壁の外に住んでいます。ここで、お別れせねばなりません。大臣の官邸から近

い街に、粗末な宿屋があります。東に大きな木があるので、すぐ見つかります。先生が街

へ入ったら、そこで泊まっていてください。私は暇を見つけて、必ず伺いますから」 張儀は賈舎人に感謝し、一人で城壁の中へ入っていった。 翌日、張儀は蘇秦を尋ねて行った。だが誰も取り継いでくれなかった。そうしたことが

続いた五日目、やっと門番が奥へ取り継いだ。そして帰ってくると 「今日は総理大臣は特に忙しい。大臣は先生の住所を書いてもらえという。後で人を迎

えに寄越すらしい」 張儀は住所を残し、宿屋に戻って待つしかなかった。しかし何日過ぎても、何の便りも

なかった。 蘇秦は偉くなったら、張儀のことなど友達とも思ってないようだ。 張儀は腹を立て、宿屋の主人に事情を話し、話し終えると帰ろうとした。しかし主人は 「あんたは、大臣が人を迎えに寄越すと言ったじゃないか! もし迎えが来たとき、あ

んたがいなければ、どこを捜せばいい? 数日どころか一年半でも、あんたを帰らせはし

ないよ」と言う。そこで張儀は主人に、賈舎人の住所を尋ねたが、彼は何も知らなかった。 そうこうして数日が過ぎ、張儀は再び蘇秦を尋ねた。蘇秦の門番が「明日会う」と伝え

た。そのとき張儀は旅費を使い果たし、服装も季節外れのものとなっていた。大臣に会う

のだから、少しはまともな身なりをしなければならない。張儀は主人から服と帽子を借り

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ると、次の日に官邸へと出向いた。張儀は、門で蘇秦が待っていると思い込んでいた。だ

が門は閉められ、門番は潜り戸く ぐ り ど

から入るようにいう。張儀は、背を丸めて潜り戸から入っ

た。張儀が奥へ入ろうとすると、家臣たちが呼び止めた。 「大臣の公務は終わってません。ここで待っていてください」 張儀は廊下で待たされた。上を見ると、何人かの役人が蘇秦と喋っていた。なかなか話

が終わらないが、終わると次の一団がやってくる。張儀は立ち続けて足が怠くなった。昼

になっていた。気分が悪くなってきたとき、二人の家臣が声を上げた。 「張先生、どうぞ」 「大臣が呼んでいます」 張儀は、服装を整えて階段へ向かった。きっと蘇秦は、駆け寄ってくるだろう。 しかし蘇秦は腰掛けたまま動かなかった。張儀は階段を駆け上がると御辞儀した。 蘇秦は、ゆっくりと立ち上がると「何年も会わなかった。元気か?」と聞いた。 張儀は、怒って答えなかった。 「昼食です」と家臣が告げた。 蘇秦は 「公務が忙しくて、長いこと待たせてしまった。ここで簡単な食事だが済ませてくれ。

私のほうは、まだ君と話がある」 そういうと家臣が張儀を連れていった。 張儀は部屋から追い出されて庭へ座らされ、出された食事は青菜と麦御飯だけだった。

部屋の蘇秦を見ると、山海の珍味がテーブルの上に並んでいる。張儀は、こんな扱いを受

てまで食べたくなかったのだが、空腹には勝てなかった。 食事が終わってしばらくすると、 「張先生、どうぞ」と呼ばれた。 張儀が部屋に上がると、蘇秦が尻を動かしているのが見えた。張儀は耐え切れず 「季子

り し

よ!私は君を友達だと思って遠くからやって来た。だが君は、僕を友とは思って

ない。同級生だったことも忘れてしまっている。君は、本当に無情な奴だ」と言った。 蘇秦は笑いながら 「君は才能が僕より上だと言った。そして君が先に鬼谷子のところから出た。しかし、

そんな惨めな境遇になろうとは思わなかった。僕は君を国王に推薦したりなんかしない。

君は、あれこれと迷うから何一つできない。そうなると僕まで巻きぞえを食う」 張儀は顔を真っ赤にして、 「私は富が欲しければ自分で稼ぐ。君の推薦なんかいらない」と言った。 蘇秦は、薄笑いを浮かべながら 「じゃあ君は何しに来たんだい? わかった。同級生のよしみで金をやろう。好きなよ

うに使うといいさ」 そういうと家臣が張儀に、十両の金を渡した。張儀は、金を地面に叩きつけると出てい

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った。蘇秦は頭を振っていたが、張儀を引き留めなかった。 張儀が旅館へ帰ると、自分の荷物が外へ運び出されていた。張儀は尋ねた。 「どうしたんですか?」 主人は、うやうやしく 「先生は大臣に会われたのでしょ? とうぜん役人になったはずだ。こんなところに住

めますか!」と言った。 張儀は頭を振りながら 「本当に腹が立つ。こんなことがあるのか」 そう言いながら、主人から借りた服や靴、帽子を脱いで返した。 「どうしたんですか?」と、主人。 張儀は、今日のことを簡単に説明した。主人は 「同級生ではなかったのですか? 先生は、少し身分違いの人と付き合おうとしたので

すね。だが金は持ってくるべきだった。ここの部屋代、食事代も、ツケが溜ってるんです

よ!」 部屋代や食事代のことを持ち出されると、張儀は、どうしてよいやら判らなくなった。 ちょうど、そのとき賈舎人がやってきた。そして張儀を見ると、 「このところ忙しくて、あなたに会いに来られなかった。ほんとうに申し訳ない。総理

大臣に会われましたか?」と言う。 張儀は、うなだれて 「ふん。あんな冷酷な奴のことなんか持ち出すな」 賈舎人は茫然

ぼうぜん

として 「どうして先生は、彼を罵るのですか?」と聞く。 腹を立てて口も利けない張儀に代わって、主人が事の次第を説明した。そして 「もし先生がツケを払わず、家に帰っても金がないのでは、こんどは俺が困ることにな

る」と付け加えた。 賈舎人は、張儀と主人の困り切った顔を見て、自分も気分が沈んできて、頭を掻きなが

ら張儀に言った。 「もともと私が余計なことを申し上げて、ここに先生を連れてきたのです。だが、その

ことで先生に迷惑をかけてしまいました。おわびに宿屋の代金は私が払い、先生を家まで

送りましょう。それでよろしいでしょうか?」 張儀は 「そんなことができようか? それに家へ帰っても会わせる顔がない」 しばらく張儀は黙っていた。 楚国では死にそうな目に会い、ここでは昔馴染みに邪険にされる。彼は復讐する方法を

考えていた。蘇秦は趙国を守るために同盟軍を作った。では自分が崩してやろうじゃない

か!だったら秦国へ行って、次々と同盟国を離反させてやる。

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「秦国へ行ってみようと思う。だがしかし……」 秦国は辺境の地で、山国であり、その道は険しかった。 すると賈舎人が口を開いた 「えっ、先生は秦国へ行きたいのに供がない。ちょうどよかった。私も秦国へ行くので

す。秦国の親戚に会ってこようと思うのです。一緒に行きましょう。そこに馬車も用意し

てあります。それに旅費だって要りません。互いに助けになるでしょう」 それを聞いて張儀は感激した。 「世の中には、こんなに義理固い人だっているんだ。蘇秦に爪の垢でも煎じて飲ませて

やりたい」 賈舎人は宿屋の精算を済ますと、馬車に乗って西へ向かった。そして秦国に着くと、賈

舎人は役人に賄賂わ い ろ

を掴ませ、張儀が国王に謁見できるようにしてやった。 そのころ秦の恵文王は、外国人だという理由で蘇秦を追い払ったことを後悔していた。 蘇秦は、最初に「秦に天下を取らせてやる」と約束した。だが秦恵文王は、蘇秦など必

要ないと追い返した。秦恵文王は、強大な秦国の軍隊をもってすれば、他国は簡単に次々

と降参するに違いないと思っていた。確かに、その通りだった。だが自分の追い出した蘇

秦が、同盟関係の盟主となって秦国に対抗してきた。それでも秦国は、他国に戦争を仕掛

け、「どの国の軍隊であろうと、秦国軍に対して攻撃した軍隊があれば、その国から攻撃す

る」と公言していた。それまでは、どの国を攻めても、秦国が恐くて、誰も攻撃しなかっ

た。しかし蘇秦が同盟を結んでからというもの、それまでは近くで見ていただけで戦いを

挑んでこなかった他国の援助軍も、本当に秦国軍を攻めるようになった。秦国軍は、救援

軍に攻められるとは思ってなかったので、初めて大敗した。それからは秦国が脅しても、

領地を献上する国はなくなった。こんなことなら蘇秦を登用すべきだった。 すると今度は張儀が来た。家臣も人材だと推薦している。秦恵文王は、家臣が賄賂をも

らって推薦していようとは思わないので、すっかり採用する気になっていた。 そして張儀は、秦国の外国人官僚になった。まず何よりも賈舎人に礼をしなければ。 すると折よく、賈舎人が別れを告げにきた。張儀は、目に涙を溜めながら 「私が不運だった頃、誰も私を相手にしなかった。あなただけが私の親友だ。あなたに

何度も助けられた。そうでなければ今の私はなかっただろう。これでやっと、いい生活が

できるというのに、どうして帰ると言うのですか!」と聞いた。 賈舎人は笑いながら 「もう嘘は終わりにします。本当のことを言うと、先生の親友は、私ではない。蘇秦大

臣なのです」 張儀は、さっぱり訳が分からないという様子で 「それは、どういう意味かな?」と尋ねた。 賈舎人は、人に聞かれてはマズイというようすで、耳を貸してくれというと 「大臣は、中原各国を同盟させようと計画していますが、秦国が趙国を攻めて、この同

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盟計画が失敗するのを心配しています。そこで大臣は、自分の信頼できる人物を秦国へ派

遣し、秦国をコントロールしようと考えたのです。大臣の信頼できる人は、先生のほかに

なかった。秦国を掌握する能力を持ち、また王の信頼を得られるような人材は、そう簡単

には見つかりません。大臣は、自分の同級生だった貴方に見当をつけたのです。そこで私

に商人の格好をさせ、先生を趙国に連れてこさせたのです。大臣が先生を推薦することも

できたのですが、それでは先生が大臣の部下になってしまう。親友が部下になって上下関

係となり、友人関係が崩れてしまうことを大臣は恐れたのです。そこで大臣は、先生に憎

まれようと計画しました。そうすれば先生は、大臣に敵対するため、絶対に秦国へ行くは

ずです。また秦国だって、趙国の大臣に支援された人物など信用しません。先生は何とか

して秦国に登用されるように頑張り、また先生が登用されるよう、私は国王周辺の大臣達

に賄賂を送りました。そうして秦王が、絶対に先生を登用するよう、大臣たちの推薦を取

りつけたのです。私は大臣の居候です。今、すべては終わりました。私は帰国して大臣に

報告せねばなりません」 それを聞くと張儀は、あっけにとられていた。しばらくして深い溜め息をつくと 「あーあ、私は自分を頭の切れる人間だと思っていた。だけど今まで、ずーっとだまさ

れ続けていた。私など、季子の足元にも及ばない。あなたが帰国したら、私が季子に礼を

言っていたと伝えてください。そして季子が生きている限り、秦王は絶対に趙国を攻める

ことがないと伝えてください」 賈舎人は帰国すると、蘇秦に首尾を報告した。そこで蘇秦は趙粛侯に 「これで秦国は、絶対に趙国を攻めることはないでしょう。では各国の諸侯に会ってき

ます」と言った。 趙粛侯は同意して、蘇秦に金銭と馬車、そして部下を与えて各国へ旅立たせた。蘇秦は

韓、魏、斉、楚へ出向き、領地を秦国へ提供して和平を求めることの不利益、そして連合

して秦国と対抗する利点を丁寧に説明した。一国ずつ説得し、六国の連盟ができあがった

ので、蘇秦は趙国へ帰った。帰国すると、趙粛侯は蘇秦に領地を与え、武安君という貴族

に昇格させた。そして趙粛侯は、斉、楚、魏、韓、燕の五ケ国に使者を送り、趙国の洹水えんすい

会合を開くように約束した。 紀元前 333 年、蘇秦と趙粛侯は洹水へ行き、諸侯を招待する準備をした。五日ほどの間

に、諸侯は続々と集まってきた。蘇秦は各国の家臣と席順を相談した。楚国と燕国は昔か

らある国で、韓、趙、魏は晋が分かれた国、家臣の田常が簡公を殺して乗っ取った斉も、

王が代わった新しい国だった。また国の大きさでは、楚、斉、魏、趙、燕、韓となる。そ

のなかで楚、斉、魏は、周の天子が王と認可したが、趙、燕、韓は諸侯なので身分が違っ

ている。これでは対等な関係として同盟を結べそうにない。そこで蘇秦は、全員を王と呼

ぶことに決めた。趙王が発起人なので、盟主として上座、そして国の大きさ順に並べた。

各国の国王も納得した。

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会議が開かれると、各国の国王は席に着き、蘇秦は演説台に上がると 「お集まりの六ケ国の王は、広大な領地を持ち、人口も多くて、兵力もある。それなの

に秦王にペコペコして、何の理由もなく自分の領地を少しずつ差し出したいのか?」 国王たちは、一斉に首を振る。 「同盟を結んで秦国に対抗する計画は、すでに話した通りです。これから皆で同盟を結

び、兄弟となって、互いに助け合いましょう」 君主たちは同盟を天地に誓い、六枚の契約書を作って、各国が一枚ずつ受け取った。 趙王が 「蘇秦は六ケ国を奔走して、同盟を結ぶために働いた。我々は彼にポストを与え、同盟

を管理してもらったらどうだろうか?」と提案した。 残りの五ケ国の王も全員が賛成し、蘇秦を「同盟委員長」にして、六ケ国の総理大臣印

鑑を蘇秦に渡した。すぐに蘇秦は地面に正座し、王達に礼を述べた。六人の王達は、喜び

のうちに帰国した。 紀元前 318 年、楚、趙、魏、韓、燕の五カ国連盟軍は、函谷関へ行き秦軍と戦った。 これを聞いた秦王は、秦国の総理大臣である公孫

こうそん

衍えん

に 「六ケ国が一つになったので、秦国には発展する可能性がなくなった。なんとかして同

盟を壊さねば」と相談した。 公孫衍は 「同盟は、趙国が音頭を取りました。まず大王は趙国に戦を仕掛け、どこかが助けにき

たら、そこの国から攻撃しましょう。六ケ国の諸侯に、秦国の恐ろしさを判らせれば、ど

の国だって秦軍と戦うのを恐がります。そうすれば彼らの同盟関係なんて、あっというま

に壊れてしまいます」と答えた。 それを聞くと張儀が反対した 「六ケ国は同盟を結んだばかりで、やる気満々です。すぐには壊れないでしょう。もし

秦国が趙を攻めて、楚、斉、魏、燕、韓が共同で助けにきたら、いったいどうするのです? 厳しく対処するほど相手は恐がります。恐ければ、ますます一緒になって抵抗しなければ

なりません。そんなことをするよりは、もう少し頭を使うべきです。例えば同盟国の一部

と仲良くします。そうすれば彼らは、一部の国が敵に通じているのではないかと疑いを抱

きます。内部で疑惑が起きれば、必ず同盟関係は崩れるでしょう。秦国と一番近いのは魏

国で、一番遠いのは燕国です。つまり魏国から奪った城を、いくつか魏国へ返してやるの

です。そうすれば魏国は感激し、秦国と友好を結ぶでしょう。そして燕国の王子に大王の

娘を嫁にやれば、秦国と親戚になります。こうすれば秦国が孤立することはないでしょう。

まず近くと遠くの両国を仲間にすれば、後のことはうまく行きます」 秦王は、公孫衍の外部から攻める方法と、張儀の内部崩壊を狙う方法を比較した。

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張儀の言い分ももっともで、外部の敵は結束を強める可能性がある。やはり内部崩壊を

誘ったほうが得策だ。 そこで張儀の策を採用し、趙国を攻めるのは止めて、魏国と燕国を仲間にすることにし

た。魏国は城を返してもらえ、燕国は大国秦と親戚になる。おいしい話しだ。両国は秦国

と仲良くなった。張儀も、秦国に趙国を攻めさせない約束を守ることができた。 四、蘇秦の最後 同盟国の一部が秦国と友好を結んだことを趙王が知ると、同盟委員長の蘇秦を呼びつけ

て怒鳴った。 「おまえが勧めた六ケ国同盟は、一年もしないうちに魏国と燕国が秦国に引き抜かれた。

もし今、秦国が趙国に攻めてきたとしたら、いまも両国は趙国を助けるだろうか? 同盟

は信用できるのか?」 それを聞くと蘇秦は焦った。方法を考えないと蘇秦は終わりだ。 「わかりました。では燕国に行き、そのあとで魏国へ向かいます。両国を何とかしまし

ょう」と蘇秦が答える。 蘇秦が燕国へ到着したときには、燕文公は死んでおり、息子の燕易王

えきおう

が即位していた。

燕易王は蘇秦に会うと、総理大臣としての蘇秦に御辞儀した。燕国の総理大臣を引き受け

ることは、簡単なことではなかった。燕易王は、蘇秦に頼ったのだ。 というのは燕の東南にあった強国斉が、燕文公が死去したチャンスに攻めてきて、十個

の城を奪ったからだった。 蘇秦は六カ国同盟を結んだとき、各国の総理大臣の印鑑を預かったが、それは各国の総

理大臣としての地位を意味する。 燕易王は、総理大臣としての蘇秦を頼って 「あなたの話は、先王から聞かされていました。同盟して秦国に対抗し、六カ国は仲良

くして互いに助け会う。それには賛成ですが、先王の葬式も終わらぬうちに、斉国は燕国

から十の城を奪ったのです。いったい同盟は意味があるのでしょうか。あなたは同盟委員

長です。どうにかしてください」 蘇秦は、燕国と秦国の結婚を詰問しに来たのだが、こうなっては、この問題を先に解決

するため斉国へ行かなければならない。 「では私が斉国へ行って、十個の城を取り戻してきましょう」 蘇秦は斉国へ着くと、斉威王に 「燕王は、大王と同盟国であり、また秦国の娘婿です。大王は、たかが十個の城のため

に彼らと仇になってしまった。目先の利益のために大きな目的を失うのでは、あまりにも

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もったいない。もし大王が私の計略を採用して、十城を燕国へ返せば、燕王は大王に感謝

し、秦国も喜ぶでしょう。斉国が隣国の燕、そして強国の秦に信用され、彼らに後押しさ

れれば、斉国は必ずや天下を統一するでしょう」と言った。 それを聞いて、斉威王は喜んだ。 なぜ斉国は燕国を攻め、同盟関係を壊したのか? もともと斉国は大国で、西国の秦国から遠く離れた東の果てにあるため、秦国に侵略さ

れることもなかった。秦国と斉国の間に、昔の晋国であった韓、魏、趙があったからだ。

だから六カ国同盟に参加する必要はない。では、なぜ同盟に参加したのか? それは強国の斉が天下を統一するためには、同盟を利用してリーダーになったほうが早

道と考えたからだ。ところが小国の趙が同盟のリーダーになった。これでは斉威王は納得

がいかない。斉と秦は、勢力が拮抗している。西国の秦は、六カ国を併合して統一しよう

との野望をもっているが、東国の斉も同じである。 斉威王は、蘇秦の話を聞いて、十城の見返りに天下を取ったほうが得策だと考えた。す

ぐに蘇秦の意見を受け入れて、燕国に土地を返した。 燕易王は、蘇秦が口先一つで十個の城を取り返してきたのを見て喜んだ。しかし日増し

に蘇秦の名声が高まり、蘇秦の勢力が強くなってくると、燕易王は不安になってきた。そ

れというのも大国の晋が、以前に強い勢力を持った家臣に乗っ取られ、王位を奪われたう

え三晋に分裂したり、また斉国では有能な総理大臣が王位を奪ったことを知っていたから

だ。蘇秦に人望が集まると、王位を奪われると心配したのだった。しかし大国の晋や斉な

ら王位も欲しかろうが、小国燕の王位を奪うつもりは、蘇秦には全く無かった。蘇秦は燕

易王の不安を感じ取ると、言った。 「ここに私がいても燕国の役には立ちません。斉国へ行ったほうがいいでしょう。そこ

で斉国の大臣をしながら、裏では燕国の便宜を図りましょう」 燕易王は 「どうぞ、好きなようにしてください」と言った。 蘇秦は、燕易王に罪を着せられ、もう燕国にいられないような風を装って、斉国へ逃げ

てきた。斉威王は蘇秦を利用しようと思い、彼を外国人の役人とした。 しばらくすると斉威王が死に、彼の息子が斉宣王となった。 蘇秦は、六カ国が秦国を恐れるから同盟が成立するのであって、同盟国のなかに秦国と

匹敵するような強国があると同盟の障害になると考えていた。そこで斉国の力を、他の同

盟国並みに弱めようと考えた。幸いに斉宣王は若く、頭も回らなかった。彼は、女好きで

貪欲だった。 蘇秦は、新王を使って斉国を弱めることを考えた。そこで家臣を派遣して、各国から美

女を捜し集めるとともに、豪華な宮殿と花園を建設し、それを賄うため国民に重税を科し

た。また亡き先王への孝行という名目で、斉国の国費と労力を使い、斉威王の巨大な墓を

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建造した。こうして斉国は、みるみる疲憊ひ へ い

していった。 こうした蘇秦のやり方は、斉宣王に見破られることはなかったが、先王の斉威王に信任

されていた田文、つまり孟嘗君はだまされなかった。孟嘗君は刺客を差し向けて、蘇秦を

殺してしまった。 蘇秦が死ぬと、蘇秦の手下により、燕王のため斉国を疲憊させようという陰謀が明らか

になった。斉宣王も蘇秦にだまされていたことが判り、斉と燕は再び仇どうしになった。 紀元前 314 年には燕国で内乱が起こり、そのチャンスに斉宣王は燕国を攻めて燕王を殺

したので、危うく燕国は滅亡するところだった。そして斉の勢力は拡大した。それだけで

なく斉国は、南の大国である楚国と同盟を結んだ。こうして斉と楚の両大国に同盟を結ば

れると、秦国だけでは天下を統一することができなくなった。 蘇秦が死んだので、いよいよ張儀が本領発揮する番だった。張儀が秦国を中心に、国家

を西から東へと連合させるためには、どうしても斉と楚の同盟関係が障害になる。そのこ

とを張儀は秦恵文王に説明すると、楚国へ向かった。 五、張儀の活躍と死 戦国七雄のうちで、もっとも大国だったのは秦、斉、楚だった。韓、魏、趙は大国の晋

が3つに分かれたものだから、一国あたりの面積は小さく、北の辺境にある燕国は人口も

面積も小さかった。だから秦と斉には天下を統一する力があった。斉と楚が、手を組んで

しまったので、張儀は同盟を壊して障害を取り除くことにした。 張儀が楚国へ到着したころは、以前に張儀が楚国に住んでいたときの楚威王

い お う

は死に、息

子が即位して楚懐王かいおう

に代わっていた。楚懐王は、張儀が秦国の総理大臣だと聞いており、

また「和氏璧」事件を知っていたので、きっと張儀が仕返しに来たに違いないと思って心

配していた。すると張儀がやってきたので、ねんごろに接待した。 張儀は楚国へ来ると、まず楚懐王の家臣で、もっとも気に入られている靳尚

きんしょう

に、高価な

贈り物をし、そのあと楚懐王に会った。張儀は 「現在、天下には七つの強国があります。なかでも最強なのは斉、楚、秦です。もし秦

国が斉国と連合すれば、斉国は楚国より強くなります。また秦国が楚国と連合すれば、楚

国は斉国より強くなります。だから秦王は、わざわざ私を派遣して、楚国と仲良くしたい

と考えました。けれど残念なことに、あなたは斉国と同盟しています。斉国は楚国のため

に、何かしてくれましたか? もし大王が斉国と絶交すれば、秦王は楚国と永久に仲良

くするばかりでなく、商と於の土地を六百里ほど差し上げます。そうすると楚国に3つの

メリットがあります。一つは六百里の土地がもらえる。二つめに斉国の勢力を弱めること

ができる。三つめに秦国が楚国と戦争することはない。一石三丁です。こんなおいしい話

はないでしょう。大王、どうされます?」と言った。 それを聞くと楚懐王は喜んで、

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「秦国がそういう考えならば、どうしても斉国と同盟する理由はない」と言った。 楚国の大臣たちも、労せずして六百里の土地が手に入ると思うと、みんな楚懐王にお祝

いを述べた。だが、突然一人が立ち上がった。 「そんなことをすれば、後悔することになるぞ。何が祝いだ!」 見れば外国人官僚の陳軫

ちんしん

だった。みんな不機嫌そうに 「どうしてだ」と尋ねる。 「秦国が、どうして六百里もの土地を大王に送るのか? それは大王が斉国と同盟を結

んでいるからです。楚国は斉国と義兄弟になって戦力が拡大したので、秦国も戦争を仕掛

けられなくなったのです。もし大王が斉国と絶交なさるなら、それは自分の首を絞めるこ

とになります。そうなれば斉国の救援を得られなくなり、楚国は戦争を仕掛けられるでし

ょう。大王が張儀の提案を受け入れて斉国と絶交し、また張儀も約束を守らないとしたら? 各国から領地を奪い取った秦国が、楚国に土地をくれなかったら、大王はどうなさいます

か。先に商と於の地を受け取ってから斉国と絶交しても遅くはないでしょう」 王族の屈原

くつげん

も、きっぱり斉国と絶交することに反対した。 「張儀の話は信用できません。大王は、絶対に彼の話しを真に受けないように」 しかし張儀から賄賂をもらっている靳尚は 「斉国と絶交しなければ、何の理由もなく秦国が土地をくれるはずがありません」と反

対した。 楚懐王は 「そりゃあ道理だ。まず人を派遣して商と於の地を受け取ろう」と決定した。 楚懐王は逢侯丑

ほうこうちゅう

を使者にして、張儀と一緒に秦の首都である咸陽へ行き、商と於の地を

受け取る一方で、斉国へも使者を派遣して絶交することにした。 逢侯丑と張儀が咸陽へ着くと、張儀は足を捻挫したから治療してくると告げ、どこかへ

行ってしまった。逢侯丑は三カ月待たされて焦ったが、張儀が土地を割譲する約束したこ

とを、秦文恵王に手紙で訴えるしかなかった。秦文恵王は 「総理大臣が約束したのなら、その通りにしよう。しかし楚国は、まだ完全に斉国と絶

交したわけではない。私は見知らぬ人の手紙を、疑いもなく信じ込むわけにゆかぬ。やは

り総理大臣の病気が治ってからの話だ」と答えた。 逢侯丑は、秦文恵王の言葉を楚懐王に報告した。すると楚懐王は 「もしかすると秦王は、我々が斉国と絶交したのを信じられないのではないだろうか」

と考えた。そこで使者を斉国へ派遣し、ご丁寧に斉宣王を罵倒した。 斉宣王は、楚国の使者が会いに来たと聞くと、この間の同盟破棄と国交断絶を白紙に戻

すという話だと思い、会ってみたところ、いきなり使者が大声で罵り始めた。それを聞く

と斉宣王は、怒り心頭に達した。すぐに秦文恵王のところへ外務大臣を派遣し、一緒に楚

国を攻めようと約束した。

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斉と同盟して楚国を攻める約束が結ばれると、張儀は逢侯丑を訪問した。 「将軍は、まだ秦国におられたのですか。まさか土地を受け取ってないとか?」 逢侯丑は 「秦文恵王は、大臣の病気が治ってからの話だと言われるのです」と答える。 張儀は 「私の六里の土地を楚王へ献上するのに、なにも秦王に相談することはないでしょう」

と言う。逢侯丑は耳を疑った。 「私は、商と於の六百里の土地を受け取りにきたのですよ」 張儀は答えた 「ありえない! 秦国の土地は、すべて戦争で取ってきたのですよ。簡単に人へやれま

すか? 六百里どころか六十里でも無理だ。私が言ったのは六里で、六百里ではない。そ

れは私の土地で、秦国の土地ではない。たぶん楚王が聞き違えたのだろう」 それを聞いて逢侯丑は、張儀が、とんでもないペテン師であることを知った。 張儀としては、思い通りに計画が進んだ。昔、楚国の総理大臣である昭陽に、半死半生

の目に遭わされた張儀は、これでやっと借りが返せると思った。もう間もなく、秦と斉の

連合軍が、楚を攻めるだろう。 逢侯丑が帰国して報告すると、楚懐王は目を怒らせた。紀元前 312 年、楚懐王は屈

くつかつ

大将、逢侯丑を副将にし、十万の兵をもって西北へ遠征に出かけ、秦を討ちに行った。対

する秦文恵王は、魏章を大将、甘茂を副将にし、やはり十万の兵で楚に応戦した。そして

斉国に、一緒に参戦するように勧めた。 絶交したのみならず、使者まで派遣して斉宣王を罵倒した楚国に、目にもの見せてくれ

ようと思っていた斉宣王は、この呼びかけに応え、匡章を大将とする五万の兵で、楚国と

交戦しに出かけた。 楚国の大将は一人だけ、西の秦と交戦していると、東からは斉の軍勢が背後から国を侵

犯してくる。引き返さないと都が危ない。だが秦との戦争は拮抗状態だ。退けば、背後か

ら矢が飛んでくる。気が気ではない。目前の秦と戦っていれば故郷を失ってしまうかも知

れないのだ。こうして兵は家族が心配になって次々と脱走し、楚の軍は総崩れになった。

十万の兵も2~3万しか残らず、漢中の六百里あまりの土地も秦国に奪われてしまった。

それだけで終わらなかった。北に面していた韓国と魏国も、楚軍の負け戦を知って、この

チャンスに兵を挙げて国境付近を占領し始めた。楚懐王は、焦って頭を掻きむしり、屈原

を斉国へ派遣して謝罪し、外国人官僚の陳軫を秦軍の駐屯地へ行かせて講和し、さらに二

城を献上した。 秦国の大将は、伝令を秦文恵王に派遣して報告した。秦文恵王は 「二つも城はいらない。それより商と於の地を黔中

けんちゅう

と交換して欲しい。もし楚王が同意

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すれば、すぐに兵を退こう」と言った。 魏章が、それを楚懐王に伝えると、怒りに燃えていた楚王は 「交換には及ばない。張儀を引き渡してくれれば、喜んで黔中を献上する」と言った。 大臣たちは 「張儀一人と、数百里の土地を交換するのでは、釣り合いがとれません」と反対した。 しかし怒りで冷静な判断のできない楚懐王は、張儀と引き換えることを決定した。

秦王は、それを聞くと 「そんなこと、できるわけがない」と怒鳴った。 だが張儀は 「引き渡しなさい。商と於を手放すこと無く、ただで黔中が手に入るのでは、おいしい

話じゃあ、あ~りませんか」 秦文恵王は 「そんなことをしたら、楚王に捕まって殺されてしまうぞ。御前が殺されたら、どうや

って秦は天下を取ったらいいのだ。強国の楚がダメになったとはいえ、まだ斉は無傷だ」

という。 「大丈夫です大王! 私が楚を引っ掛けたのだから、楚王が私を恨むことは計算済みで

す。必ず戻って来て、次は大王のために斉を潰しますから。早く私を楚に引き渡してくだ

さい。楚には内通者がいますから絶対に大丈夫です」 張儀がそう言うと、秦王は半信半疑で、張儀を楚へ向かわせた。 張儀は楚へ着く前に、楚懐王の寵臣

ちょうしん

である靳尚へ、贈り物を持たせた使いを出した。 使いは 「張儀が楚へやってくる。たぶん楚懐王が捕まえるだろう。だが、張儀が責められたら

内通者のことを喋るかもしれないし、あなたが内通者であることは秦王も御存知です。だ

から、事が公になれば、あなたも困るし、私達も困る。だから張儀を取りなして、逃がし

てください」という。 「そんなことを言われても、あれだけ楚懐王が怒っているのだから、私が止めれば、私

が殺される」と、靳尚。 「もちろん、あなただけでは困難でしょう。だけど王には、お気に入りの女がいるでし

ょう? それを使って張儀を逃がせば、あとはうまく行きます」 と、使者は、靳尚に張儀の計画を聞かせた。 張儀が楚へ到着すると、すぐに楚懐王が捕まえた。そして牢屋に閉じ込めて、吉日を選

んで処刑することにした。 張儀と内通している靳尚は、楚懐王の最愛の美人、鄭袖

ていじゅ

に贈り物を見せた。さまざまな

絹の流行服、それに西国で採れる宝石、化粧品、そうした品々を見せられると、鄭袖は何

21

としてでも欲しくなった。それは張儀が逃げられたときの成功報酬だという。 楚懐王が朝廷から帰って、鄭袖のところへ行くと、鄭袖は言った。 「最近、張儀と申す人を捕まえたそうね」 「そう。とんでもないペテン師だ。ワシをだました。処刑しようと思う」 「まあ、おやさしい大王には似合わないわ。大王は、おやさしくて国民に尊敬されてい

るのに。国では仁愛じんあい

があり、もっとも王として相応ふ さ わ

しい人だと噂しておりますのよ。大奥

でも女たちが、大王はやさしくてダンディな方だと人気がありますのよ。そんなやさしい

大王が、人を殺すのは似合いませんわ。帰してあげたら、やっぱり大王は仁と愛の持ち主

に恥じませんことよ。だまされても、笑って許してやるほうが、大王らしいわ」 愛人から、そのように言われると、楚懐王の気持ちがぐらついてしまうのだった。 そして昼に朝廷へ行くと、寵臣の靳尚がやってきた。楚王は 「この間は、おまえの言うことを聞いてエライ目にあった。だが憎い張儀は捕まえた」

という。靳尚は、 「張儀は、秦国の総理大臣ですから、まさか嘘を言っているとは思いませんでした。そ

れに陳軫は外国人なので、楚国に対する愛情がありませんから。彼は楚の国の利益など、

どうでもよいのです。あれは自分の存在を目立たせるために、反対して見せただけでしょ

う。あのときは、みんなが張儀を信じたのです。私だけではありません。そりゃあ屈原は

反対しましたが、あの口うるさい爺さんは、今度に限らず、何に対しても文句ばかり言っ

てます。取り合わなくて当然ですよ。大王だって、張儀を信じたじゃあないですか」 「そりゃあ、そうだ」と、楚王。 「でも大王。私は、いまでも思うのですが、たかが詐欺師の張儀を、黔中の何百里と交

換したのは、もったいないのではないでしょうか?」と、靳尚。 「ワシも、だまされた直後は、何を犠牲にしてもいい。とにかく張儀を捕らえて仕返し

してやる、と思っていたのだが、いざ捕らえて牢に閉じ込めてみても、おまえの言うとお

りだ。あいつの処刑の吉日を待っていると、だんだん冷静になってきて、なんともったい

ないことをしたものかと、今更ながら後悔し始めている」と、楚王。 「そうですね。秦では、張儀は総理大臣にすべき人材でも、前に楚国にいたときは、総

理大臣の家に飼われていた居候ですからね。秦国には、よっぽど人材がいないんですね。

何の能力もない居候に、総理大臣を任せるのですから。楚国にいたとき、張儀は『和氏璧』

を盗んだというじゃあありませんか。そんな盗みと詐欺しかできないような人間を、広い

領地と交換するのは、もったいないですよ」 そう靳尚に指摘されると、だんだん張儀を捕らえたことを後悔してくる楚懐王であった。 「そうだな、鄭袖にも張儀を殺すことは、やめたほうがいいと言われた」 「そうですよ。イメージダウンですよ。それに張儀を渡してくれたら土地を献上すると

申しましたが、張儀を殺すとは言ってません。一国の総理大臣を殺されては、秦国も黙っ

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ちゃいないでしょう。すぐに攻めてくるはずです。張儀を殺せば、それが口実となり、秦

と斉は、きっと攻めてくるでしょう。この前の戦争でも、秦は理由らしい理由もないのに

攻めてきたじゃあありませんか! ここは私に任せてください。張儀と土地の交換をチャ

ラにします」 そう靳尚が言うと、楚王も、そのほうがいいと思い始めた。何よりも土地が惜しくなっ

たのだ。 こうして昼は靳尚、夜は鄭袖に説得され、楚懐王は張儀を帰すことにした。 張儀は秦に帰ると、魏章に兵を退かせ、秦文恵王には漢中の土地を半分返し、新たに楚

と講和するように勧めた。楚懐王は、 「本当に張儀は、いいやつだ」と喜んだ。 張儀は、アメとムチで楚国をコントロールし、少しずつ楚国の領土を取り上げていった。

そのため秦文恵王は、張儀に五つの城を与え、武信君という貴族にした。そして張儀を各

国に向かわせ、秦国と連合するように説得させた。 張儀は、まず斉国へ行き、斉宣王に会うと 「楚王は娘を、秦国の王子と結婚させました。秦王も、娘を楚国の貴族と結婚させまし

た。二つの大国は、親戚になったのです。韓、趙、魏、燕の四国も、秦国との戦争を避け

るため、秦国へ領地を献上しています。つまり斉を除く五カ国は、秦と連合しています。

どうして斉は、秦と連合しないのですか? もし大王が孤立すれば、秦王は、韓と魏に斉

国の南方を討たせ、趙国に西方と北方を攻めさせて、そのうえ秦国も大軍を率いて斉を攻

めるでしょう。そうなれば、かつての楚国と同じ目に遭いますよ! そのときに秦と講和

しても遅いのです。今の状況では、どの国であれ、秦国と講和すれば安全です。そして秦

国と敵対する国は滅亡します。大王も、よくお考えください」と言った。 斉宣王は、ついに張儀に説得されて、秦と講和を結ぶことにした。 次には燕国へ行った。そのとき燕は、蘇秦の時の王が死去し、新王である燕昭王の時代

になっていた。張儀は新王に 「王は、国境を接する南国趙からの侵攻だけに注意されています。だが今は、楚、斉、

韓、魏、趙の五カ国が、秦の傘下となり、秦王に城を献上しています。大王が秦の傘下に

入らねば、秦王は外務大臣を派遣し、趙、韓、魏に燕国を攻めさせるでしょう。そうなっ

ても国を保てますか? もし大王が秦に従えば、大船に乗ったのと同じで、誰も戦争を仕

掛けて来ないでしょう」と言った。 このように張儀が脅すと、燕昭王は洹水東辺の五城を秦王に献上した。 張儀が、斉宣王、趙武霊王、燕昭王を説得して秦に従わせると、だいたいの連合が完成

した。口先一つで領地を献上させ、張儀は意気洋々と秦へ帰った。しかし、張儀が秦国の

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都、咸陽へ到着する前に秦文恵王は死んでしまい、その王子が即位して秦武王となった。

秦武王は王子の頃から張儀を嫌いだった。それは王子を取り巻く家臣たちが、張儀を批判

していたからである。 昔の秦国は弱国だった。そこで秦孝公の時代に外国人の衛鞅を登用し、改革して強国に

なった。その子、秦文恵王は外国人を嫌ったが、結局は外国人である張儀を登用し、各国

から口先一つで領地を取り上げて大国にした。こうして秦は、外国人を重用することで強

大になっていった。だが秦国の家臣たちは、才能のある外国人が、昔からの臣下である自

分たちより上に立つことを嫌った。やはり自分たちの下で、外国人が働くことが正しいと

思っていた。そのため王子の教育係は、張儀の悪口ばかり言っていた。 「父王は、外国人ばかり珍がって重用しています。衛鞅は秦を強国にした、張儀は領地

を拡大したというが、そんなことは誰にだってできます。だが秦の国を一番よく知ってい

るのは、昔からの秦の家臣です。あいつらは外国から来て、何も仕事がないから、あんな

こともできたのです。我々は、秦国のことで忙しいから何もできない。もし我々が重用さ

れていたならば、秦は今頃、世界を統一していたでしょう」 王子は「外国人は、国のことを何もしないから大きな仕事ができるのだ」と教えられて

育った。もし秦の大臣に、外国人と同じ仕事をさせていれば、秦は、さらに強国になった

と思っている。 張儀が咸陽へ到着し、秦文恵王が亡くなったことを知った。新王の秦武王は、秦国の取

り巻きの中で、恐らく外国人の悪口を聞かされて育っただろうということは想像できた。

もし王が張儀を嫌っていれば衛鞅のように殺されるだろう。秦国から逃げ出すしかない。

だが新王が、自分を重用するならば、逃げ出す前に必ず引き留めるだろう。 張儀は、秦武王に会うと言った 「噂によると斉王は、ずいぶん私を憎んでいるとか。私にだまされたので、必ず仇を討

ちたいそうです。そこで策略があります。私は総理大臣を辞め、お別れして魏国へ行きま

す。斉王は、私が魏国にいると判れば、すぐに魏国と戦争を始めるでしょう。大王は、斉

国と魏国が戦争している隙に、韓国へ派兵してください。韓国を占領したら、遮さえぎ

るものが

なくなるので、周へ直接行くことができます。周の天皇は、昔からの中国の統治者ですか

ら、周を我がものにすれば、かつての周王国の領土は、大王のものです」 秦武王は、中国の象徴である周の首都を見てみたかったので、すぐ張儀に三十台の馬車

を与えて魏国へ行かせた。魏襄王じょうおう

は、かの有名な張儀が、強国秦の総理大臣を辞めてまで

魏国に来たことを喜んで、さっそく総理大臣にした。 張儀に説得された斉宣王は、すでに韓、趙、魏が秦国と連合していると思い込み、秦に

攻め込まれたくない一心で、秦国に領土の一部を献上した。しかし他国の話を聞くと、張

儀は斉国の威光を借りて、他国を脅していたと判った。それを知って斉宣王は、猛烈に腹

を立てた。そのうち秦文恵王が死んだことを聞かされた。そこで斉国の総理大臣である田

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文を使って各国に知らせ、新たに抗秦同盟を作り、斉宣王が委員長に収まった。そして斉

宣王は、張儀に城十個の懸賞をかけた。すると張儀は魏国で総理大臣をしているという。

すぐに魏国へ派兵した。 魏襄王は、慌てて張儀に相談した。張儀は安心するように言って、斉宣王のところに自

分の腹心の部下である馮ふう

喜き

を派遣した。馮喜は、斉宣王に会うと 「噂では、大王は張儀を憎んでおられるそうですが、本当ですか?」と言った。 「だれかが違うと言ったのか?」と斉宣王。 「もし大王が張儀を憎んでおられるならば、彼を助けないでください」と馮喜。 斉宣王は、目を丸くして 「だれが張儀を助けるものか!」と言う。 すると馮喜は、誠実そうに 「私は咸陽から来ました。噂では、張儀が秦を離れたのは計略らしいのです。秦王は、

張儀が魏国へ行けば、大王が必ず魏国に戦争を仕掛けるだろうと読んでいます。斉と魏が

戦争になれば、その隙に秦は韓を攻め落とし、そのまま韓国を通って周に攻め入り、自分

が天皇になろうと狙っているのです。だから秦王は、張儀に三十台の馬車を与えて、魏国

へ行かせたのです。どうやら大王は、魏国に戦争を仕掛けようとしていらっしゃいます。

これでは彼らの思うツボではないですか!」と言った。すると斉宣王は、頭を掻きながら 「アイヤー、もうちょっとで、だまされるところだった」 そう言って、すぐに斉宣王は軍隊を撤退させ、魏国に派兵することを辞めた。 張儀の言葉通りに、斉は魏への軍勢を撤退させたので、ますます魏襄王は張儀を信用し

た。しかし歳老いた張儀は、しばらくすると病気になって魏国で死んだ。 六、楚を浸食する秦 張儀が死んだものの、秦武王は韓国を占領して周へ行くことを諦めなかった。紀元前 307年、秦武王は甘

かん

茂も

を大将にし、韓国の宜陽ぎ よ う

を征服して周へ行った。そして周の天皇に会う

前に、周の国宝である九個の鼎かなえ

を見に行った。鼎とは、一般に青銅で作られた3本足の器

と思われているが、四本足の鼎もあり、人が入れるほどの大きな鼎もある。伝説によると、

その九個の鼎は、禹王の時代[紀元前 2205 年~2198 年]に鋳造ちゅうぞう

されたという。当時の中国

は八卦があり、方向が八方向に分かれていた。それが東、東南、南、南西、西、西北、北、

北東と中央の九方向である。それを九州と呼んだ。その九個の鼎は、禹王の夏王朝から殷

王朝を経て、周王朝へと受け継がれたものだった。秦武王は、鼎を一つ一つ見て回り、「雍よう

州」とある鼎を取ると、 「雍州とは秦国だ。この大鼎は我々のものだ。咸陽へ持って帰るぞ」というと、力自慢

の秦武王は、900kg の大鼎を担ぎ上げた。だが力が足りずに大鼎は落下し、王の足に落ち

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て足を切断した。その夜、王は息を引き取った。 秦武王には、まだ子供がなかったので、大臣たちは王の従兄弟を王にした。それが秦昭

襄王である。秦昭襄王が即位すると、できるだけ楚懐王と同盟を結んだ。連立委員長であ

る斉宣王も、韓国や魏国と同盟し、同盟に加わらない楚国を一緒に攻撃した。 そこで楚懐王は、王子を秦国へ人質にやり、秦国の救援部隊を要請した。すると秦昭襄

王は、救援軍を派遣したので、連合国軍は撤退した。 そのころ楚の王子である横

おう

は、秦国で奴隷のような扱いを受け、楚国へ舞い戻った。秦

国は、それを理由にして楚国へ攻めてきた。そして多くの城を奪い、何万人もの楚人を殺

した。そこで楚懐王は、楚国を逃げ出して、新たに斉国の同盟に加えてもらい、王子の横

を斉国へ人質にやった。楚国が斉国と同盟すれば、当然だが秦国には都合が悪い。そこで

秦昭襄王は、楚懐王へ丁寧な手紙を書き、武関ぶ か ん

で会う約束し、両君主が盟約を結んで、永

遠に友好しようということにした。 楚懐王は、秦昭襄王からの手紙を受け取ると、困って大臣たちに相談した。 「秦昭襄王が、私と盟約を結びたいという。しかし人質に出した王子の横が、奴隷扱い

されて楚へ逃げ帰ると、それを口実にして秦が攻めてきた。いつも秦王には、裏切られて

きた。こんどは盟約を結ぶために招待するという。行かなければ秦王の恨みを買うし、か

といって行けば捕まって殺されるだろう。どうしたら良いものだろう」 すると屈原が口を開いた。 「私が斉国に行き、斉宣王に謝って帰国したとき、王に張儀を殺すように忠告したはず

です。しかし王は、靳尚と鄭袖の言うことを聞いて、張儀を逃がしてしまいましたね。こ

んどこそ言わせてもらいます。秦国は、狼のように悪賢いのです。我々が秦国にだまされ

たのは、一度や二度ではありません。王が行けば、ワナに落ちるでしょう」 それを聞いて靳尚が言った。 「確かに張儀を逃がすように勧めました。だけど結果的に、秦国は漢中の土地を返して

くれました。楚国の盗人である張儀を、漢中の土地と交換して殺しては割に合いません。

それに秦国は、親戚ではありませんか! 自分の頼るべき親戚を、敵と見做して戦ったた

めに負け戦となり、何人もの兵士が死に、領土も失ったのです。自業自得でしょう。でも

今は、秦国が親善を求めているのだから、親戚としても行くしかないでしょう」 すると楚懐王の下の息子である蘭

らん

も 「僕の姐ちゃんは、秦国の王子と結婚したんでしょ? 秦国の王女は、僕のお嫁さんに

なるのでしょ? 親戚どうしだったら仲良くしなきゃ!」と言った。 そこで楚懐王は、秦国へ行くことに決めた。 だが当時の秦国では、秦王の第一夫人を始めとして何人も夫人がいたので、子供だって

顔を覚え切れないほどいた。それに王は、子供と接する機会もあまりなく、それぞれ教育

係が父親の代わりとなって指導していた。だから血縁関係があったというほどのことだけ

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で、王子にとっては乳母とか教育係のほうが、王よりも親しみの持てる存在だった。また

王も、子供よりは若い夫人のほうに熱心だったので、人質に出した息子が殺されようが、

ほとんど胸が痛まなかったのである。だから秦王には何十人もの兄弟姉妹がいるが、一緒

に育つ兄弟もなく、兄弟姉妹といっても年齢の違う、大きな学校の生徒のようなものだっ

た。そのへんが限られた兄弟しか持たない我々とは、親子関係の感覚がかなり違っていた

のである。だから始皇帝の父親も、長男でもないのに王になれたのだ。そして秦の王子た

ちも、各国へ人質に出されて、奴隷のような扱いを受けていたのである。 楚懐王が秦国へ到着すると、果たして屈原の予想通り、楚懐王は捕まってしまった。 「おまえは以前、黔中の地を秦国へ献上すると約束したが、まだ実行していない。わざ

わざ来てもらったのは、土地の割譲をしてもらうためだ」 そういうと秦昭襄王は、楚懐王を咸陽へ連れてゆき、楚国に土地を献上するように命じ

た。その手紙が届くと、楚国の大臣は、斉国へ王子の横を迎えに行って即位させた。それ

が楚頃襄王である。そこで使者を秦国へ送り、楚国に新しい王が即位したことを知らせた。 怒った秦王は、白起を大将すると十万の兵を組織し、武関から楚国を攻撃した。その戦

争で、楚国は五万の戦死者を出し、十六城を奪われた。 秦国に捕らわれている楚懐王は、楚国の敗戦を聞いて涙した。楚王は、秦国で一年以上

も捕らわれていた。看守も王を哀れに思い、王を見張る仕事にも嫌気がさしてきて、仕事

をさぼるようになった。楚懐王は、その機会にボロボロの服に着替えると、咸陽を逃げ出

した。楚懐王は祖国へ逃げ帰ろうとしたが、楚国への道には検問が敷かれ、南へも東へも

逃げられない。そこで小道を北へ向かい、趙国の国境へと逃げた。趙国の主父が保護して

くれさえすれば、楚懐王は生き延びることができた。 楚懐王が趙の国境へたどり着いたとき、運悪く趙の主父は本国にいなかった。 その主父とは、趙武霊王だったのである。 趙武霊王は、見識が鋭く、大胆な君主であった。趙武霊王は、秦国と対抗するために服

装改革をした。それまでの服は、浴衣のような服で、裾はヒラヒラと風になびき、袖の大

きい、振袖のような服だった。そんな服では馬に乗って弓を射ることができず、風の抵抗

を受けて動きも鈍くなるので、軍服を現在の洋服のような衣服に改めた。こうして匈奴の

服装を取り入れ、馬に乗って弓を射る戦法を取り入れることで、趙の軍隊は強くなった。 それまでの戦争は歩兵が主役で、馬は車を曳

いて人や物を運ぶのに使われていた。馬に

乗って戦うのは、車を持たない文化の遅れた匈奴がする戦法だったのだ。 紀元前 300 年までに、騎兵隊を組織した趙武霊王は、近隣諸国を次々に征服して国を拡

大していった。こうして趙武霊王は、国外の戦争に明け暮れていたのである。だから内政

は長男が執と

っていた。だが趙武霊王は、長男の無能を知り、年下の子供に跡を継がせた。

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その子供が、後の趙恵文王である。子供を即位させると、趙武霊王は主父と名乗った。そ

うして子供を即位させた後、息子たちに政治ポストを任せ、総理大臣を決めた。 ちょうど実権を持った会長のようなものである。 国のポストが安定すると、主父は外務大臣になって、秦国へ偵察に出かけた。そして秦

昭襄王と話をし、相手の考えを聞きだすと、正体がバレないうちに趙国へと逃げ帰った。

そして秦との国境付近に、王城と夫人城を築いたのだ。 ちょうど主父が外務大臣として咸陽へ出かけ、秦昭襄王の動きを探っているときに楚懐

王が逃げてきたのである。懐王は、趙主父が助けてくれると信じた。だが主父が留守だっ

たので、子の趙恵文王は秦国の怒りを恐れ、楚懐王を国境内に入れなかった。楚懐王は、

前の趙国へは入れないし、後ろからは秦兵が追ってくるしで、気が気でなかった。やはり

南へ向かって楚に帰ろうとした途中、秦兵に捕まって咸陽へ連れ戻された。楚懐王を逃が

した看守が、車裂きの刑に遭ったことは言うまでもない。 趙国の主父は、趙恵文王が楚懐王を助けなかったことを聞いて、長男の安陽君を王にし

ようと思った。だが大臣たちは、新王となって自分たちの地位も安定していたし、そうし

ょっちゅう王を替えられてもたまらないと思ったので、こぞって反対した。しかし主父は

無理やり王を交替させようとした。するとやはり内乱が起こり、安陽君は殺されて、主父

は捕らえられ、宮殿で鎖につながれて、餓死することになった。主父がいなくなると、二

十歳そこそこの王では徐々に趙国の力が衰えてゆき、秦に対抗できなくなってしまった。 逃亡して捕らえられた楚懐王の待遇は、捕虜としてもひどいものだった。楚懐王は吐血

して病気になり、紀元前 296 年に秦国で死んでしまった。秦国は、楚懐王の死体を楚国へ

送り返した。楚人は、楚懐王が秦国でいじめられ、死んでしまったことに深い憎しみを抱

いた。各国の王たちも、秦国のやり方はひどすぎると感じ、再び同盟を結んで秦国に対抗

した。楚国の屈原も秦国に怒りを抱き、楚頃襄王に仇を討つように言い続けた。 楚頃襄王は、口うるさい屈原が嫌いだった。いくら親戚筋でも口やかましすぎる。だか

ら先王と同じように、ほめてくれる太鼓持ちの靳尚を重用した。 屈原は、全土から人材を集めて、太鼓持ちを遠ざけ、兵士を訓練し、先王の仇を討つこ

とばかり言っている。だが、強い秦国の兵に勝つことは容易なことではない。 秦国では、早くから人材を登用して改革したために、兵士は誰でも敵を殺したがってい

た。敵を殺せば、自分の地位や給料が上がるからだ。 だが他の六国では、これまでどおり貴族の下に兵士が組織され、兵士が敵を殺したとこ

ろで自分の地位は変わらず、上官である貴族の手柄になってしまう。兵士自身にはメリッ

トがない。だから戦場では、敵を殺すことより自分が殺されないことが重要になる。敵を

殺したところで、自分のメリットはないからだ。だから秦国の兵は強かったのだ。

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張儀のスパイであった靳尚は、自分を王から遠ざけようとする屈原が邪魔だった。 靳尚は、楚頃襄王に 「屈原が、王のことを何と言っているか知っていますか? 大王は先王の仇を討たない。

貴族の蘭は、秦を恐れている。こんなに情けない君臣では、楚国が滅んでしまうと言いふ

らしてますよ」と言った。 貴族の蘭に聞いても、同じ答えが返ってくる。 怒った楚頃襄王は、屈原を解雇して、洞庭湖のほとりへと追いやった。 紀元前 278 年、秦国は白起を大将とし、楚国へ討ちかかってきて、楚の都が占領された。 その知らせを聞いた屈原は、声を上げて泣いた。そのとき屈原は 62 歳になっていた。そ

して楚国の寺が秦兵の手に落ちると、屈原は大きな石を抱え、大河に身を投げて死んだ。

それが五月五日の子供の日である。 漁師たちは屈原が大河に身を投げたことを知ると、すぐに船を出して助けようとした。

しかし死体すら上がらなかった。 それが今の中国でも受け継がれ、龍の形をした船で競争するのだが、これは誰が一番先

に屈原を救うかという、このときの漁師の行動が伝承されたものである。 翌年の五月五日からは、屈原の法事のため、餅米を炊いて竹筒に入れ、河に投げ込むよ

うになった。それが五月五日、端午の節句にチマキを食べる習慣となって伝承された。し

てみると日本人の先祖は、楚国人なのだろうか? 数字の数え方も南方と同じだし、漢字

の読み方も南方とよく似ている。 屈原の心が、楚国の忠臣だったことには間違いない。だが批判ばかりされて、小言ばか

り聞かされていれば、誰だって嫌になる。楚頃襄王だって、即位してから毎日毎日「なぜ

仇を取らない、なぜ兵を訓練しない、なぜ国のために骨身を惜しまない」と非難され続け

れば嫌になってくる。自分にも自信がなくなる。当然にして、こうした気分の悪くなる相

手には会いたくなくなる。屈原は王の親戚筋だったため、王を批判することができた。そ

れで逆に楚が滅びてしまった。その言葉も、先王の仇を討つためという小さな目標にしか

過ぎなかった。 同じ忠臣でも衛鞅は違った。外国人だから王の批判はできない。まず秦国は、強国にな

るべきだと勧めた。こうした目標を掲げたから、王もやる気になって、実際に秦国は強国

になった。そして蘇秦や張儀も、強国の秦は天下が統一できると目標を掲げた。それで王

もやる気になって領土を拡張した。つまり彼らは外国人だったので、まず王の願望に沿っ

た提案を掲げ、王と一丸になって目標を達成したのだ。特に衛鞅の場合は、貴族や大臣の

反対を押し切ってまで王が支持した。屈原のように仇を討つだけ、そして大きな目標も掲

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げないのでは、大国の楚が滅亡しても当り前なのかもしれない。そもそも楚が張儀を登用

していれば、楚国が天下を統一していたかもしれない。もともと外国人官僚である陳軫の

言うことを聞かず、張儀の話に乗ってしまったのだから、楚国は乗っ取られやすい同族会

社のようなものだったのである。外国人でも登用し、総理大臣の地位までつける秦国と比

較すれば、勝負あったというところだろう。始皇帝が誕生する以前の秦国では、ほとんど

外国人同様だった息子を王につかせてしまう。そうした外部の人間を登用する下地が、秦

にはあった。 七、ライバル斉の衰退 紀元前 301 年、斉宣王は死に、息子が即位して斉湣王

びんおう

となった。 紀元前 286 年、斉宣王の子である斉湣王は、楚国や魏国と共同し、宋国へ戦争を仕掛け、

宋国の領地を分配した。その結果、斉国は宋国の大部分を占領したが、それでも斉湣王は

不満だった。 「宋国を滅亡させたのは、すべて斉国の力だ。楚国と魏国は、何もしていない」 そう思って、斉王は両国の新たな領土を奪うことにした。 楚軍と魏軍は、宋国との戦争が終わって安心していた。すると突然に、強力な軍勢が襲

いかかってきた。 楚軍と魏軍は、斉、楚、魏の軍が同盟していると思っていたので、他国の軍隊が急に襲

ってくることを考慮していなかった。そのため剣を取り出す暇もなく、あっというまに矢

で射られたり、剣で刺し殺されてしまった。急襲したのは斉軍だったのである。 こうして斉湣王は、楚国と魏国の取り分まで独り占めしてしまった。 襲ってきたのが同盟して戦っていたはずの斉軍だと知って、楚国と魏国は怒り、斉国と

の同盟を辞め、秦国と連合することにした。 斉湣王は、宋国を併合すると、ますます横暴になっていった。そして大臣たちに 「私は、そのうちに周朝を滅ぼして天皇になる。力さえあれば、誰も反対できない」と

言った。 それを聞いて、斉国の総理大臣である孟嘗君

もうしょうくん

は、 「宋王は思い上がって天狗になり、列国が腹を立てたから、大王が成敗されたのではな

いですか。大王も彼のようにならないでください。天皇は戦力こそ持ってはいませんが、

列国諸侯の君主であることには違いありません。大王は、どうして天皇を攻撃するなどと

いうことが言えるのですか?」と諌いさ

めた。 すると斉湣王は、 「どうして攻撃できないことがあろう。成湯

せいとう

は桀けつ

王を成敗して殷王朝を開き、武王が紂ちゅう

30

を成敗したから周王朝の天皇がいるのではないか? 私がどうして湯王や武王のようにな

れないことがあろう。ただ惜しいことに、湯王や武王には伊尹い い ん

や太公望たいこうぼう

などの臣下がいた。

けれど私には優秀な臣下がいない」 そういうと斉湣王は、孟嘗君から総理大臣の印鑑を取り返した。 孟嘗君は、斉湣王の迫害を恐れ、居候たちを連れて大梁

だいりょう

へ逃げ、魏の王子である信陵しんりょう

君くん

のところへ行った。 斉湣王は、諌める孟嘗君がいなくなると、本気で周へ攻め込んで天皇になろうと考えた。

当然、周王を象徴的な天子としてきた列国は、斉に反発した。斉が孤立したのを知ると、

小国の燕国が斉国を討とうと考えた。 前にも述べたが、紀元前 314 年に燕国で内乱が起きたとき、それに乗じて斉宣王が燕国

に攻撃を仕掛け、燕国が滅亡しかけたことがあったからだ。28 年前のことだが、その恨み

を燕国は忘れてはいなかった。 燕昭王は、斉湣王が優秀な大臣である孟嘗君を追い出したことを知り、また周まで攻撃

しようと計画していることを知った。斉は強力な臣下を失って力を無くした上に、同盟し

ていた楚国や魏国を裏切った。そのうえ尊敬されている周の天皇も殺そうとしている。こ

れでは斉国は、よそ国の助けを得られない。今こそが斉国攻撃のチャンスだと考えた。そ

して信頼する楽毅が く き

将軍に 「燕国は、隣国の斉に虐

しいた

げられてきた。それだけでなく、つねに私は先王の仇を取りた

いと願っていた。だが斉は強国なので、攻めるチャンスがなかった。だが今は、無法な斉

王に、天下の人々は怒っている。今こそ斉国を滅ぼすチャンスだ。列国も斉国に恨みを抱

いている今、全国の軍隊とともに斉を討とうと思う。どう思う?」と聞いた。 すると楽毅は、こう言った。 「斉国は土地も広く、人口も多い強国です。我々だけでは攻め切れません。大王が斉を

成敗するには、他の国々と共同で攻めねばなりません。我が国と接しているのは、趙国と

斉国です。大王が趙国と組めば、きっと韓国も仲間になるでしょう。また魏国へ逃げた孟

嘗君も、斉王を恨んでいるはずです。もしかすると魏国も加わるかもしれません。そうな

れば燕国は、趙、韓、魏と共同で攻撃できますが、こうなると斉国も勝てないでしょう」 それを聞いて燕昭王は、楽毅を列国に派遣して相談させた。 ちょうど秦昭襄王も、強すぎる斉国が邪魔だったので、燕国に協力したいと申し出た。

こうして燕国は楽毅、秦国は白起は く き

、趙国は廉頗れ ん は

、韓国は暴鳶ばくえん

、魏国は晋しん

鄙ひ

を大将とし、そ

れぞれ自国の兵馬を連れて、約束した日に集合した。そして燕国の楽毅を大将軍とし、五

ケ国連合軍を率いて斉国へ攻め込んだ。紀元前 284 年のことだった。 大将軍の楽毅は、敵の最前線で指揮した。四国の兵士は、それを見ると猛然と斉軍に襲

いかかり、ズンズンと攻め進んだ。

31

趙、韓、魏、秦の兵士たちは何度か勝ち戦を続けると、それで満足して占領した幾つか

の城に駐留し、それ以上の侵攻をしなかった。楽毅は、奪った城を彼らが占領しても意に

介さず、燕軍を率いて侵攻を続けた。そして燕軍が礼儀正しいことと、斉国の人々を重税

から解放すると宣伝した。小国の燕軍では、武力だけで大国斉の人々を抑えつけるのは無

理だと考え、斉国の人々の心を掴んで燕軍に繋ぎ止めようとしたのだ。斉国の人々に支持

されなければ、大国の斉に勝つのは不可能だと考えた。中国に革命を起こした共産軍も、

やはり礼儀正しく、重税からの解放をやっていた。 もともと燕昭王は、自由に行き来して商売をしている斉国の人々を憎んでいるわけでは

なかった。彼が憎んでいたのは、あと少しで燕国を滅ぼしかけた斉王だったからである。 楽毅は斉国で半年ほど戦い続け、七十余りの城を占領し、斉湣王も殺した。 斉国の人々は、燕軍が来るのを歓迎し、斉国の城も次々と開け渡された。そして斉国で

抵抗しているのも莒城きょじょう

と即墨城そくぼくじょう

の二つだけになった。そこで楽毅は、彼らに降伏するよう

呼びかけた。 楽毅は占領した先々で、斉王の過酷な法律を廃止し、税金を軽くして、斉国人の風俗習

慣を尊重し、それまでどおりに地方の名士を優遇した。こうして楽毅は莒城と即墨城を囲

んだが、三年しても城は落ちなかった。そこで兵を退かせ、大群を城から5キロ位のとこ

ろに駐屯させ、命令を出した。それは 「城内の人々が、外に出て柴を刈ったり、自由に出入りしても、咎

とが

めだてをしない。空

腹ならば食べ物を与え、寒ければ服を与える」というものだった。 ここで中国の城は、日本の城と異なることを説明しておかねばならない。日本の城に、

一般民衆が住んでいることは、まず有り得ない。住んでいるのは殿様と武士ぐらいだ。だ

が中国の城というのは都市のことなのだ。中国の都市は、周囲を城壁で囲まれていて、城

壁には門がある。そして城内に住む人がいて、そこでは市があって商売されており、庭が

あって植物も植えられており、井戸があって水にも困らない。 そして城壁の外には田園や山が広がり、農民が住んでいる。つまり都市の人々と、農民

とは城壁によって隔てられていた。 例えば、北京や南京は城である。北京は、ほとんどが取りこわされたが、一部に城壁が

保存されている。直径が 40km ぐらいの城と想像して欲しい。そして故宮の城壁だが、あ

れは内側の宮殿の城壁で、都市の城壁ではない。だから今でも人々は、家から出て街へ行

かけることを「城に入る」という。北京の昔の家は、四合院で中庭があり、そこで家族が

食べる野菜を栽培することができる。つまり都市国家は、麦や米の貯えさえあれば、野菜

を育てながら何年でも城内で生活することはできるのだ。 しかし火を燃やすための柴、また主食である麦や米、服を作るための絹や綿は、さすが

に城内で生産するわけにはゆかない。だから楽毅の命令は、今まで通りに不自由なく生活

できることを意味するものだったのだ。しかし命令を守らない兵士もいたので、それが楽

毅の悩みの種だった。

32

燕国の官僚である騎劫き ご う

は、燕の王子に 「斉王が死んで、斉国は2つの城を残すのみとなりました。楽毅は半年のうちに七十以

上の城を落としました。それなのに3年かけても2つの城が落ちない。これは楽毅が何か

を企たくら

んでいるからに違いありません」と言った。王子は、なるほどと思った。騎劫は 「噂によると、楽毅は斉国人が心から服従しないのではないかと恐れ、徳によって斉国

人を感化しようとしているそうです。斉国人が楽毅になびけば、楽毅は斉王になるに違い

ありません。燕国へ帰って臣下に戻るはずがありません」と続けた。 それを信じ込んだ王子は、それを燕昭王に伝えた。 それを聞いた燕昭王は、 「先王の仇は、誰が取ってくれたのだ? 楽毅の働きぶりは喩えようがない。それなの

に感謝するどころか悪口を言う。楽毅が斉王になっても文句はない」 そう言うと、王子を二十叩きの刑にした。 そのあと楽毅のところへ使者を派遣し、斉王に任命した。楽毅は 「燕昭王の心遣いは、非常に嬉しく思います。だが楽毅は天に誓って、たとえ死んでも

斉王になれとの命令は受けられません」と拒否した。 紀元前 279 年、燕昭王は死に、王子が即位して燕恵王となった。燕恵王は、燕昭王が楽

毅を信任したと同じように騎劫を重用したが、楽毅に斉国攻めの大将を辞めさせるような

ことはしなかった。楽毅が戦争を始めたのが紀元前 284 年だから、はや5年にもなる。 しかし、しばらくすると燕国内で、またデマが飛び交った。それは 「本来なら楽毅は、とうに斉王になっていた。だが先王に嫌われないため斉王とならな

かっただけだ。今は新王が即位したので、楽毅は王になるだろう。もし新王が別の将軍を

任命すれば、きっと莒城と即墨城が落ちるだろう」というものだった。 そこで燕恵王は、デマを信じて騎劫を大将にし、楽毅を帰らせた。 楽毅は、将軍を騎劫と交替させられたのを知ると、自分は新王に信頼されてないと思っ

た。楽毅は溜め息をついて、 「燕国へ帰って新王に殺されたとしても、命などは惜しくないが、自分が殺されてしま

っては燕国を守るものがいなくなる。燕国が滅亡しては、先王に申し訳がない」 そういうと、楽毅は出身地の趙国へ帰ってしまった。 当時は、実力者の臣下に権力を奪われることがあったので、危険な人物は、たとえ功労

者であっても殺してしまっていたのだ。だから趙国へ帰ったのだ。 楽毅の能力を高く評価していた趙王は、楽毅が帰国すると喜んで貴族にしてしまった。 こちらは新将軍の騎劫である。斉国へやってくると、楽毅から軍隊を受け取り、それま

での方法を全部変えてしまった。燕軍は納得しなかったが、正面だって将軍に反対するも

のはなかった。騎劫は即墨城を囲んだ。大軍で何重にも囲んだ。だが即墨城を守っていた

のは田単だったのである。

33

田単は、斉国王である田氏の遠縁である。斉湣王の時代は、パッとしない下っ端軍人だ

った。のちに燕軍が即墨市に侵攻してきたとき、市の長官は抵抗し、重傷を負って死んだ。

即墨城に主がいなくなったのだ。城内に指揮者がいなくなり、軍隊の規律は乱れて略奪が

起きそうになった。そこで皆が王の遠縁である田単を将軍に推し、やっと統制がとれたの

だ。 田単は兵士たちと一緒に軍隊の食事を食べ、兵士たちと一緒に寝て、生活を共にした。

そして自分の一族や妻も、軍隊に参加させた。それを見た即墨市の人々は、田単なら燕軍

を追い出して、斉国を復活させてくれるのではないかと期待した。当時の国の人々は、み

な同族だったのだ。 兵士と同じ食事をし、生活を共にしたのは、兵法で有名な孫子が最初である。 それまでの将軍は、軍隊と違うテントに寝て、違う食事をし、高い所から命令した。だ

が孫子は、兵士と一緒に寝て、兵士と一緒に同じ物を食べ、ケガをして傷口から膿を流し

ている兵士を見れば、孫子は傷口に口を当てて膿を吸い出したという。それをやられた兵

士は、親でも汚くてしないことを将軍にしてもらったと感激し、この人のためなら死んで

もいいと思うようになるという。だから孫子の軍隊は強かった。情報戦と人心掌握に長じ

た孫子の軍隊は、向かうところ敵なしだった。 田単も孫子と同じように人心を捕らえたからこそ、即墨市の人々は希望を持ち、城が落

ちなかった。 しかし田単は、楽毅のすごさを知っていたので、城から出て彼と戦うことなどせず、お

となしく城を守っていたのだ。なんとかして楽毅を追い出さねば、我々に勝ち目はない。

そのうち燕昭王が死んだと聞いた。燕恵王が即位すると、田単はスパイを派遣した。スパ

イは暗闇に紛れて城を抜け出すと、燕国へ行って楽毅を誹謗するデマを振りまいた。 案の定、若い燕恵王はデマに引っ掛かり、騎劫を楽毅と交替させた。 これで田単の作戦は、半ば成功したようなものだった。 次に田単は、腹心の部下に農民の格好をさせると、城外で世間話をさせた。その内容は 「前の楽将軍は良かった。捕虜を捕まえても、その待遇は良かった。だから城内の人々

は、少しも恐がらなかった。だから戦い続けることができた。もし燕国人が捕虜の鼻を削

ぎ落としていたら、斉国人は戦闘意欲を無くしていただろう」 すると、もう一人が 「我々の先祖の墓は、すべて城外にある。もし燕国の軍隊が墓をあばいたら、どうすれ

ばいいだろう」 こうした話は、噂となって騎劫のテントまで届いた。 騎劫は、いいことを聞いたと思い、捕虜の鼻を全て削ぎ落とし、城外の墓をあばいて先

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祖の骨を焼いた。 それを聞いて怒ったのは即墨の市民である。燕国軍が斉国人を虐待していると聞いて、

怒りがこみ上げ、また城壁に登っていた見張りが、燕国の兵士が先祖の墓をあばいて骨を

焼いていることを報告すると、みんなが大声で泣いた。怒りや悲しみが憎しみに変わり、

みんな口々に仇を討とうと騒ぎ始めた。 即墨の兵士と市民は、次々に田単の所へやってきて、燕軍と戦わせてくれと懇願する。 そこで田単は、五千人の若者、千頭の牛を選び、まず訓練を始めた。女や老人には、城

壁で外を見張るようにいう。また田単は金を集め、何人かに裕福な身なりをさせて、こっ

そり騎劫のテントに行かせた。彼らは燕国軍のテントに着いて騎劫に会うと、金を渡して

言った。 「城内の食料はなくなっています。三日のうちに降参するでしょう。あなたの大軍が城

内に入ったとき、私の家を襲わないようにしてもらえませんか?」 騎劫は喜んで引き受け、彼らに十本の旗を渡した。門に挿して目印にせよという。 騎劫は得意満面で、兵士たちに言った。 「ワシを見ろ!楽毅と比べてどうだ!あいつが三年かかってできないことを、わずか三

日で終わらせるぞ」 兵士たちは 「将軍は、楽毅より遥かに強い」と答えた。 こうなると燕軍は、田単が降参してくると思い込み、戦闘準備などしなかった。 騎劫のテントに送り込んだスパイが戻ってくると、田単は千頭の牛に戦闘準備させた。

牛に布を掛けて、その布に赤や緑で、おかしな模様を描いた。牛の角には鋭い刀を括くく

り付

け、牛のシッポには油に浸した麻とガマの穂が結んである。その様子は、二本の剣が突き

出たダンボール箱のようである。これが先鋒の牛隊である。そのあとに続くのが五千人の

若者から成る「決死隊」であるが、彼らも顔を五色で彩色し、大刀と斧を持つといった、

いでたちである。彼らは牛隊の後に続く。 夜中になると城壁を壊し、牛隊を連れて出てゆく。昔の中国は、今ほど明るくない。街

灯もないので、月がなければ星のまたたく山のなかのようだ。 燕軍は、城門を見張っていたが、まさか外敵から守っている城壁を自分で壊すとは思っ

てない。 暗闇の中、騎劫のテントを目指して牛隊が進んだ。燕軍は、城門の見張りを残して眠っ

ている。これまで五年間も、戦闘らしい戦闘はなかった。 テントが見える所まで来ると、決死隊は牛のシッポに結び付けた油麻に火を着ける。決

死隊が火を着けると、牛は尻が熱いので逃げようとする。そこで一斉に手を放すと、牛隊

は燕軍のテント目がけて一直線に駆け出した。その火が動いたのを合図に、城内では鍋や

釜を叩き出し、城外へ出てワーワーと叫び始める。

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大きな音で目が覚めたのは燕軍だ。みんな何が起こったかとビックリして起き上がる。

そこで目に入ったのは、頭から刀を生はや

した怪物である。その生き物が、自分を目がけて頭

から突っ込んでくる。「これは夢か現実か?」と迷っていると、その後ろから歌舞伎のよう

な化粧をした怪人が、斧を振ふ

るってやってくる。ただ唖然としているうちに、燕軍は何人

も兵士が殺された。 大将の騎劫は、怪物と怪人が攻め込んでくるのを見て、逃げようとして馬車へ乗る。そ

こへ田単がやってきた。こうして騎劫は討ち取られてしまった。 大将の騎劫を殺すと、田単は直ちに反撃に出た。それで斉国は騒ぎになった。敵の将軍

が死に、田単が大勝利した話を聞くと、降伏していた兵士たちも反撃し始めた。もともと

人口の多かった斉国は、数で上回る斉国の兵士たちが燕軍を撃退し、田単を迎える準備を

した。田単軍の行った先で、民衆は兵に加わった。こうして田単軍は、ますます強力にな

り、それから数ケ月のうちに、燕、秦、趙、韓、魏の五ケ国が占領していた七十余りの城

を一つ一つ取り戻した。兵士たちと人々は、田単は祖国を復活させた人として、斉王にし

ようとした。だが田単は 「王子の法章が莒城にいる。私は王子と連絡をつけた。王子がいるのに、私が王になれ

るはずがない」 そう言うと王子を迎えに行き、日を選んで王子を王にした。それが斉襄王である。 斉襄王は田単に 「斉国は、もう滅亡した。だが叔父さんのおかげで再建できた。この功績は、とても大

きい。そこで叔父さんを安平君にします」 田単は、それを受けて貴族になった。そして斉襄王に、国力を充実させて、もう二度と

燕国に攻められることがないように頑張るように言った。しかし斉国は、何年にも及ぶ戦

争で疲憊し、国力が消耗して、もう秦国と天下を争う力がなくなっていた。 燕恵王は、大将の騎劫が殺され、燕軍が斉国から追い出されると、やはり楽毅を将軍に

しとくべきだったと後悔した。燕恵王は楽毅に手紙を書き、帰ってくるように頼んだが、

帰れる状態にないとの返事だった。 燕恵王は、斉国に攻められるのではと心配し、また楽毅が自分を恨んで趙国軍とともに

攻めてくるのではないかと不安だった。そこで燕国に残っていた楽毅の息子に父親の爵位

を継がせ、その心配を消し去った。 八、遠交近攻(範雎

はんしょ

) 斉襄王が即位して国力を強めだすと、斉王が仇討ちに魏国へ攻め込むのではないかと、

魏昭王は心配だった。そこで総理大臣の魏斉と相談し、官僚の須賈す か

を使節として斉国へ派

遣した。須賈は範雎を連れていった。範雎は、須賈の食客(居候)だった。 斉襄王は、魏国の使節を見ると言った。

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「御前たちは、燕国と一緒になって斉国へ攻め込み、もう少しで斉国は滅亡するところ

だった。自分たちのやったことも忘れて、よくも会いに来たものだな」 須賈は、出鼻をくじかれて、何も言い出せなくなってしまった。すると範雎が 「このたびは、斉王に即位されまして、おめでとうございます。我々の王も大変喜んで

います。大王には斉桓公の事業を継いで、湣王の悪事を帳消しにされるよう、お祝いにき

ました。両国が改めて友好できるように。大王は人を責めることばかりで、自分の非が判

らないわけではないでしょう。まさか大王は、斉国を発展させた斉桓公を見習うのではな

く、危うく滅亡させかけた湣王を模倣されるわけではないでしょうに」と言った。 すると斉襄王は、思わず腕を組んで、 「これは私が悪かった」と述べ、須賈を見ると 「この方は、どなたですか?」と尋ねた。 須賈は 「うちの食客の範雎です」と答えた。 斉襄王は、範雎に感心し、彼を斉国に引き留めようとした。そこで、こっそりと人をや

り、範雎に伝えた。 「わが王は、先生を大変に気にいられ、外国人官僚になって欲しいと頼まれました。ど

うか、お願いします」 そういうと、十斤の金子、一盆の牛肉、一瓶の酒を送ったが、範雎はガンとして辞退し

た。使いは、土産だけでも受け取ってくれと言い 「これは大王の気持ちです。先生が受け取って下さらなければ、私は帰れません」 そこで範雎は、肉と酒を受け取ったが、金子だけは受け取らなかった。 この事件は、いち早く須賈に伝えられた。須賈は、範雎が斉国と密通しているのではな

いかと疑った。帰国すると、この事件を総理大臣の魏斉に報告した。 「斉王は、ひそかに範雎の所へ人を寄越し、よい酒と牛肉、そして大金を持ってきまし

た。何も見返りがないのに、斉王がそんなことをするでしょうか?」 須賈は、自分では何も言い出せなかったのに、範雎が使節の使命を果たしてしまったこ

とを妬ねた

んでもいた。 魏斉

ぎ さ い

は、範雎が何を斉国人に伝えたかを聞き出すため、拷問することにした。 「天に誓って、私は間違ったことをしてません。何を白状させようというのですか?」 範雎は、息絶え絶えになりながら訴えた。それを眺めながら須賈は笑っていた。 魏斉は、範雎が何も白状しないのを見て怒り、手下に殴り殺してしまえと命令した。最

初は、範雎が「濡れ衣だ」と叫んでいたが、そのうち声も出さなくなってしまった。 手下が魏斉に 「死んでしまいました」と報告した。 魏斉が確かめにくると、全身打撲で肋骨が折れ、それが皮膚を破って飛び出していた。

歯も折れてなくなっていた。それを見ると魏斉は、範雎をムシロに包んで便所に放り込ま

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せ、その上に小便をかけさせた。 空が暗くなると、範雎は意識が戻ってきた。一人の手下が近くで見ている。範雎は彼に

向かって言った。 「私は、もう死んでしまう。家には何両かの金子がある。どうせ死ぬなら家に帰って死

にたい。もし家で死なせてくれたら金を全部やる」 その手下は言った。 「おまえは、もうしばらく死人のように寝てろ。総理大臣に帰れるように頼んでくる」 そして魏斉の所へゆくと、 「範雎の死体が臭くてたまりません」と言った。すると魏斉は 「城外(都市の城壁の外)へ捨てに行って、ハゲタカのエサにしろ」と答えた。 死体の見張り番は、暗くなるのを待ち、誰もいないことを見計らって、範雎を背負うと

家に届けた。範雎の家族は、無残な範雎の姿を見て泣き叫ぼうとした。だが範雎は、声を

上げるなと注意し、金子を出して見張りに渡し、被っていた破れムシロを城外の荒野に捨

ててくるよう頼んだ。そして範雎は家族に命じた。 「もしかすると魏斉は、私がどうなったか聞いてくるかもしれない。早く私を西門の鄭

てい

へ連れていってくれ」 家族は、その夜のうちに、範雎を親友である鄭

てい

安平あんへい

の家に送り届けた。範雎は家族に 「このことは決して漏らさないように。そして明日になったら家で葬式するように」と

命じた。 鄭安平は、範雎に薬を与えて養生させた。範雎が動けるようになると、鄭安平は範雎を

山に隠した。範雎は張禄と名前を変え、もう範雎のことを噂にする人もいなくなった。 だが範雎の怒りは、フツフツと煮えたぎっていたのである。自分をひどい目に遭わせた

魏国へ、何とかして仕返しをしたい。そのためには強国の秦に仇を打たせるのが一番だ。 そこで鄭安平の助けで、張禄は秦国の咸陽へ出向いた。秦昭襄王は、外国人の幹部候補

生である張禄を客室に住まわせ、そのうち会ってみることにした。 張禄が客室に住んで一年以上過ぎた。しかし一回も秦昭襄王に呼び出されたことはなか

ったので、張禄は失望した。 ある日、張禄が咸陽の街へ出てみると、人々の噂が聞こえてきた。秦の総理大臣である

穰侯じょうこう

が、斉国の剛城ごうじょう

と寿城じゅじょう

を攻めるという。張禄は、傍らにいた老人を捕まえて聞いた。 「斉国は、秦国と遠く離れていて、その間には韓国と魏国があるのに、どうしてそんな

に遠くまで行って剛城と寿城を攻めるんだ?」 すると老人が、張禄の耳に噛みつくようにして言った 「あんたは何も知らないのか? われわれ秦国の支配権は、すべて皇太后と総理大臣の

手にあるのだよ。剛城と寿城は、総理大臣の領地である陶邑とうゆう

と隣合わせなんだ。総理大臣

が二つの都市を奪ってしまえば、自分の領地が増えるだろう?」 それを聞いた張禄は、すぐに客室へ帰ると、その夜のうちに秦昭襄王へ手紙を書いた。

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それには、とても重要な話があると書いてある。秦昭襄王は、日時を決めて離宮で張禄と

会うことにした。 約束の日になると、張禄は離宮に出かけた。その途中で、秦昭襄王の乗った馬車に出く

わした。だが張禄は、王に挨拶するでもなく、避けるわけでもなく、堂々と歩き続ける。

周りの家来たちが、 「大王が、お通りだ。避

けろ」と叫ぶ。 張禄は、 「なに! 秦国には、まだ大王が残っているのか?」と答えた。 まさに言い争いになろうとしていたとき、秦昭襄王が到着した。 張禄は、 「秦国には、皇太后と穰侯がいるだけだ。どこに、どんな大王がいるというのだ?」 と騒ぎ始めた。 それを聞いた秦昭襄王は、すぐに馬車を止めさせ、うやうやしく張禄にひざまずいて一

緒に馬車へ乗ってくれるように頼み、ともに離宮へ向かった。 秦昭襄王は人払いをすると、張禄に向かって御辞儀をし、 「先生の炯眼

けいがん

には恐れ入ります。よろしく御指導を願います。どんなことであれ、上は

皇太后から、下は朝廷の大臣まで、率直に言ってください」と言った。 張禄は 「大王に、このような機会をいただき、たとえ死んでも本望です」 と言いながら御辞儀すると、秦昭襄王も返礼した。そして二人は本題に入った。 張禄は言った。 「秦国に来るには函谷関を通らねばなりませんが、そのような両側に絶壁がそそり立つ

天然の城門を持っている国は他にありません。つまり他国が秦国を攻めるとき、函谷関の

大門を閉じられたら攻めようがないわけです。また戦車についても、兵士の勇猛さにおい

ても、秦国は群を抜いている。そのうえ秦国人ほど、法律を守る国民はいない。秦国のほ

かには、中国を支配できる国はないでしょう。秦国は中国統一だけを考えていましたが、

何十年も、これといった成果がありませんでした。なぜでしょうか? それは原則となる

政策がなかったからです。しばらく他国と連合していたかと思うと、今度はその国と戦争

を始めるといった具合にコロコロ変わる。最近の噂では、大王は総理大臣にだまされて、

斉国を攻めに行かれるとか」 「それが何か問題なのか?」と秦昭襄王。 「斉国は秦から離れています。秦国と斉国の間には、韓国と魏国があります。もし出兵

が少なければ斉国に負けてしまい、秦国は諸国の笑い物になるでしょう。しかし多く出兵

すれば国内で反乱が起きるかもしれません。うまく斉国に勝てたとしても、大王は斉国を

秦国に持ってくることはできません。離れたところを、どうやって管理しますか? 魏国

は昔、趙国を挟んで中山ちゅうざん

王国おうこく

を占領しましたが、結局は中山王国が隣国の趙国に併合され

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てしまいました。どうしてか判りますか? 中山王国は趙国と近く、魏国から離れていた

ので、近い国に取られてしまったのです。私が大王ならば、やはり遠くの斉国や楚国と仲

良くし、近くの魏国や韓国を攻めます。遠くの国家と仲良くしても、遠くで起きたことは

我々に影響しません。だけど隣の国を征服すれば、秦国の領土は広がります。1cm 侵攻す

れば 1cm、1m 侵攻すれば 1m が秦国の領土になります。韓国と魏国を併合すれば、斉国や

楚国は対抗できません。これはカイコがクワの葉を食べるように、近くから遠くへ攻めて

ゆく方法です。これを遠交近攻と言います」と、張禄が言った。 すると秦昭襄王は、パンと膝を叩き、 「秦国が六国を併合でき、中原を統一できるとしたら、それは先生の遠交近攻政策のお

かげだ」と叫んだ。 すぐに張禄を外国人官僚にした。そして彼の計画にしたがって、紀元前 270 年から斉国

を攻めに行かせていた兵は、全部撤退させた。そのときから秦国が戦争を仕掛ける相手は、

斉国から韓国と魏国へ変わった。 秦昭襄王は張禄を非常に信頼し、いつも二人で張禄と政治のことについて話し合った。

数年ののち張禄は、完全に秦昭襄王の信任を得た。次には、いかにして皇太后と貴族の勢

力を弱め、君主が実権を握るかという計画を実行に移した。秦昭襄王は、自分の兵を用心

深く配置した。 紀元前 266 年、秦昭襄王は穰侯の総理大臣印を取り戻し、穰侯を領地の陶邑へ隠居させ

た。穰侯は、長年にわたって掻き集めた財宝を千台あまりの馬車に積んで持ち帰った。な

かには秦国の宝物庫ですら無いような一品があったという。何日か過ぎると、秦国で最も

勢力のあった三貴族を、またもや函谷関の外に住まわせた。最後に母親である皇太后が、

政治に一切口出しできなくした。そして秦昭襄王は張禄を総理大臣に任命し、応城を与え

て応侯という貴族にした。 秦昭襄王は張禄の計画通り、韓国と魏国を攻める準備をした。魏安僖王

あ ん き お う

は、そのニュー

スを聞くと、すぐに大臣を集めて対策を協議した。すると魏の王族の信陵君が、 「秦国が、何の理由もなく攻めてくるのは、あまりにも理不尽です。きちんと城を守っ

て、目にもの見せてやりましょう」という。 総理大臣の魏斉は 「今や秦は強国で、魏は弱国だ。勝てるわけがない。噂によると秦国の総理大臣の張禄

は、魏国人だそうだ。彼だって両親の祖国に、少しは思い入れがあるだろう。まず彼と連

絡を取り、内部から説得してもらおう」と主張した。 魏安僖王は、魏斉の主張を受け入れて、官僚の須賈を秦国へ送った。 須賈は秦国へ着くと、まず客室に泊まり、総理大臣の張禄と会うことにした。 張禄は須賈が来たことを知ると、復讐の喜びに燃えたが、辛くもあった。

40

「やっと仇が討てる」 張禄はボロボロの服を着て、須賈に会いにいった。 須賈は張禄を見た途端、びっくりして 「範さん! あんた、まだ生きていたのか。私は、てっきり魏斉に殺されてしまったか

と思っていた。どうやって、こんなところへ来たんだ」と尋ねた。 「見張りが私を城外、つまり街の外へ放り出した。次の日に昏睡状態から醒めた。しか

し、そこは人けのない荒野の中、やはり死ぬしかなかった。ちょうどそのとき旅の商人が

通りかかり、私の命を助けてくれたんだよ。私も家へは帰らず、そのまま商人と一緒に秦

国へ来た。ここで高官に会えるとは思わなかった」と張禄が答える。 「範さんは秦国へ来て、秦王に会いましたか?」と須賈。 「昔、私は魏国で刑罰を受け、もう少しで命を無くすところだった。今は、ここへ避難

してきているが、そんな罪人が王に口出しできるわけが無いでしょう」と張禄。 「それなら範さんは、ここでどうやって生きているんだい?」と須賈。 「人の家で、召使として働いている。どうにかこうにか生きてるよ」と張禄。 須賈は範雎に能力があることを知っていた。だから魏斉が自分より範雎を重用するんじ

ゃないかと恐れた。それで魏斉に殺させようとしたのだった。そうした恨みがありながら

範雎は、秦国に来た自分によくしてくれている。須賈は、だんだん自分のしたことを後悔

してきた。須賈は、 「範さんが、こんなにひどい境遇になろうとは思わなかった。ほんとうに申し訳ない」 須賈は、溜め息をつきながらそう詫びると、範雎と一緒に食事をし、丁寧に彼を接待し

た。 季節は冬だった。見ると範雎は、ボロボロに破れた服を着て震えている。 「範さん、そんなに寒いのか。昔の友人として、見ちゃあいられない」 そう言って須賈は絹の外套を取り出すと、範雎に掛けた。 「高官の外套を、どうして私などが着られますか!とんでもない!とんでもない!どう

か、しまって下さい。気持ちだけ受け取ります」と範雎。 「高官? 高官はないだろう。友達じゃあないか。遠慮するなよ」と須賈。 範雎は外套を着ると、何度も礼を述べて、 「こんど高官が秦国へ来られたのは、いったい何の用事ですか?」と聞く。 「噂によると秦昭襄王は、総理大臣を大変信頼しているそうだ。私は総理大臣と話に来

たのだが、誰も紹介してくれない。範さんは、ここへ来て何年にもなるのだから、知り合

いの中に総理大臣と親しい人もいるだろう。私に紹介してくれないか?」と須賈。 「私の主人も、総理大臣と友達だ。それで首相官邸へ何度かついて行ったことがある。

総理大臣は話好きだが、あるとき主人が答えに詰まったことがあった。そのとき私が代わ

りに答えた。総理大臣は、私が口が達者なことを知ると、よく私と一緒に食事し、私に一

目おいている。高官が総理大臣に会いたければ、私と一緒に行ってみますか?」と範雎。

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こんなボロボロの服を身にまとい、ブルブルと震えている男が総理大臣と知りあいだ なんて。そんなことを聞いても須賈は信じられなかった。本当なのか? 「あなたに一緒に来ていただければ願ってもないことだ。しかし私の馬車は壊れてしま

った。車軸が折れて、馬が捻挫してしまった。ちょっと馬車を借りられないだろうか?」

と、須賈は尋ねてみた。馬車を準備できないようならば、たぶんデタラメだろう。 「私の主人の馬車なら、ちょっと借りることができます」と範雎が答えて出てゆく。 しばらくすると範雎は、自分の馬車に乗って須賈を迎えにきた。須賈は、こんなボロボ

ロの服を着た男が、どうしてすぐに馬車を借りることができたのかと不思議だったが、馬

車に乗って一緒に総理大臣と会うことにした。首相官邸に着くと馬車が止まった。範雎は

須賈に 「高官は、ここで暫く待っていてください。私が知らせてきます」というと、官邸へ入

っていった。須賈が門の外で待たされ、少しイライラしてきた頃、 「総理大臣のお出まし」という声が聞こえた。しかし範雎は出てこない。 須賈は門番に、 「さっき私と一緒に来た範さんは、どうして出てこないんだい?」と尋ねた。 門番は 「一緒に来た範さんだって? さっき入っていったのは、我々の総理大臣だ!」 それを聞くと須賈は、範雎こそが張禄だったんだと気付いた。サッと血の気が引き、頭

がクラクラする。すぐに臣下の礼をとり、門の外に正座した。そして門番に 「総理大臣に伝えてください。魏国の罪人、須賈が、門の外で死を待っています」と言

った。 須賈が門の外で、ひざまずいていると、なかから連絡係が出てきて、須賈に入るように

いう。だが須賈は、ひざまずいたまま立ち上がらない。正座したままで進んでゆく。その

まま範雎の前まで来ると、額を地面に打ち付けながら言った。 「私は愚かだった。すみませんでした。どうか私を罰して下さい」 範雎は、高台に腰掛けて 「おまえは大罪を幾つ犯したんだい?」と聞いた。 「私の髪の毛と同じほどたくさんあります。数え切れません!」と須賈。 範雎は言った。 「私は魏国人だ。先祖の墓も魏国にある。だから斉国の官僚にはならなかったのだ。そ

れなのに、おまえは私が斉国と通じているとデタラメを言い、魏斉の前で陥れた。魏斉は

怒って、私の歯を折らせ、私の肋骨を折ったが、おまえは止めようともしなかった。そし て私をムシロにくるんで便所に放り出し、おまえは酔って私に小便までかけた。今まで、

こんなに悔しい思いをしたこともないし、こんなに侮辱されたこともない。今おまえは、

私の手の中にある。これは天が報復の機会を与えてくれたということだ。さあ、おまえの

頭を切り落としてやろうか? おまえの歯を折ってやろうか? おまえの肋骨を叩き折っ

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てやろうか? それともムシロに包んで犬に食わせようか?」 須賈は、ドンドンと額を地面に叩きつけながら 「当然です!当然です!その通りです」と答える。 「だが、おまえは私に外套をくれた。まだ人情が残っていたということよ!そのことで

私は、おまえの命を助けてやろう」 そう範雎が言うと、須賈は涙を流しながら額を打ち続けた。 「公務のことは、明日にしよう」 そう範雎は答えると、須賈を官邸に泊めた。 翌日、範雎は秦昭襄王に言った。 「魏国は高官を派遣し、講和を求めてきました。秦国は一兵卒も動かすことなく、魏国

の土地を手に入れました。これも全て大王の徳のおかげです」 秦昭襄王は喜んで 「やはり、あなたの功労だ」と答えた。 すると突然、秦昭襄王の前に範雎が土下座した。 「私は大王に嘘をついていることがあるのです。どうか、お許しを」 秦昭襄王は、慌てて範雎を助け起こし 「何か困ったことがあれば言ってみろ。私は絶対に責めないから」と言う。 「私は、実は張禄ではありません。魏国人の範雎です」 そして斉国へ出かけたことから秦国へ逃げてきたことまで、一部始終を話した。 「いま、その須賈が秦国へ来ています。私の本当の名前を漏らしてしまいました。どう

か、お許しを」 すると秦昭襄王が言った。 「私は、あなたが、そんなに大きな災難に遭っていようとは思わなかった。だが今は、

須賈みずからが網にかかりに来たようなものだ。殺して仇を討とう」 すると範雎は 「彼は公務で来たのです。殺すわけにはゆきません。それに私を殺そうとしたのは魏斉

です。この恨みを全て須賈に被せるわけにはゆきません」と答えた。 「魏斉の仇は、私がとってやる。須賈のことは任せる」 と秦昭襄王が言った。 範雎は須賈を総理府に呼び、 「帰ったら魏王に、早く魏斉の首を持ってくるように言え。そうすれば秦王は、魏国の

土地を割譲する講和に応じる。さもないと私みずからが大軍を率いて大梁だいりょう

を討つ。そうな

ってから後悔しても遅いぞ」 須賈は範雎に礼を述べると、魏国へ帰っていった。そして魏安僖王に、範雎が魏斉を恨

んでいるため、秦が魏国と韓国を攻めることになった経緯と、攻められないためには魏斉

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の首を差し出して、領土を割譲するしかないことも話した。魏安僖王は、条件を呑んで講

和することに同意した。魏斉は、自分が恨みを買う原因となった須賈を責めたが、どうす

ることもできないので自殺した。こうして魏国は魏斉の首を差し出し、かなりの領土を秦

国へ献上した。 こうして秦昭襄王は、範雎の「遠交近攻」の政策を基に、遠方の斉国や楚国と友好条約

を結び、近隣の小国を攻めて領土を拡大してゆく方針を固めたが、魏国と講和した現在と

なっては、当面の目標が韓国に定まった。こうして範雎の「遠交近攻」は、秦が統一国家

となるまでの政策方針として続いた。 九、三晋への攻撃 紀元前 261 年、秦昭襄王は、王齕

おうこつ

を大将にして韓国に攻め込み、野王城を占領して、上

党と都城の連絡を断った。そのため上党の軍隊は、孤立無援となってしまった。上党は山

地で、クコがよく摂れるところだが、連絡が断たれたために韓国の首都は、クコが全く入

らなくなってしまった。上党軍のリーダーである馮亭ふうてい

は、兵士たちに言った。 「秦国へ降参するよりは、趙国に降参したほうがましだ。趙国が上党を手に入れたら、

秦国と争うに違いない。そうなれば趙国は、韓国と連合するしかないので、共同で秦国と

戦える」 もともと韓国と魏国、趙国は、晋国が分かれたもので元

もと

は一つ、みんなが賛成した。 そして使者を出し、上党の地図を持って趙国へ向かった。そのころ趙恵文王は死んで、

息子が即位して趙孝成王となり、平原君の趙 勝ちょうしょう

が総理大臣をしていた。趙勝は王の親戚だ

った。 趙孝成王は、平原君を大将にして5万の軍隊を率いて上党を受け取った。そして、やは

り馮亭に上党を守らせた。平原君が、上党を受け取って帰ろうとすると、馮亭が 「上党が趙国の領土になれば、秦国は必ず攻撃してきます。お帰りになったら、すぐ趙

王に大軍を派遣するように伝えてください。そうすれば秦軍を撃退できます」と言った。 平原君が、上党を受け取って帰ってきた経緯を趙孝成王に報告すると、王は有頂天にな

って、毎日酒ばかり呑んでいた。そして上党を攻めようとしている秦軍のことなど忘れて

しまっていた。 その間に秦国の大将王齕は、上党を取り囲んだ。馮亭は二ケ月ほど守っていたが、いつ

までたっても趙国の救援軍がこないので、しかたなく城門を開いて、趙国へ逃げ出すこと

にした。馮亭の敗残兵は、上党の難民を連れて長平関まで来たとき、やっと趙国の大将で

ある廉頗が率いた二十万の救援部隊と遭遇した。だが、すでに上党は落ちていた。 廉頗と馮亭は一緒になると、どうやって反撃するかを相談した。そのうち秦国軍が続々

とやってきて、すぐに趙軍の前衛部隊は討ち破られた。すぐに廉頗は陣地に戻り、守りの

態勢を固め、とりでの壁を高くして堀を深くし、遠方から出陣した秦軍と向かいあい、長

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期にわたって抵抗を続けた。 王齕は何度も挑発してみたが、趙軍はとりでから出てこない。挑発した軍勢に、高い壁

の上から弓矢を射かけられ、戦死者が増えるばかりであった。こうして双方とも4ケ月以

上にらみあったが、王齕には、どうしても攻め込む方法がなかった。そこで王齕は、秦昭

襄王の指示を仰いだ。 「廉頗は、経験豊富な老将です。簡単に出てきて交戦しません。我々は遠方から来たの

で、こんなに長期にわたって、にらみあっていれば食糧が尽きてしまいます。どうすれば

良いでしょうか?」 秦昭襄王は手紙を受け取ると、範雎に相談した。 「趙国に勝ちたければ、何とかして廉頗を趙国に呼び戻させればいいでしょう」 秦昭襄王は 「そんなこと、どうやったらできるのだ?」と聞く。 「私が、やってみましょう」と範雎は答えた。 それから数日のち、趙国の朝廷では意見が飛びかっていた。 「廉頗は老人だ。どうして秦国軍に勝てるのだ。もし若くて力のある趙括

ちょうかつ

が行けば、秦

国軍など、すぐに蹴散らしてくれるわ」 そこで趙孝成王は人を派遣して、早く秦軍と交戦するよう廉頗に命令した。しかし前衛

部隊が敗れている廉頗は、やはりひたすら陣地を守っている。これには趙孝成王も、腹を

立てた。そこで、すぐに趙括を呼び出した。 趙孝成王は言った。 「朝廷では、趙括なら秦軍を蹴散らしてくれると噂されているが、撃退できるのか? 「秦国が白起を大将にして攻撃しているのならば、ちょっと考えなくてはなりません。

だけど来ているのは王齕です。彼は廉頗の相手でしか過ぎません。もし私が戦っていれば、

落ち葉が大風に吹き飛ばされるが如く、すべて吹き飛ばしてくれましょうぞ」と趙括は答

えた。 趙孝成王は喜んで、すぐに趙括を大将にして、廉頗を呼び戻すことにした。 趙括の派遣が決まると、趙括の母親が投書した。それには趙孝成王に、趙括を戦争に行

かせないでくれと懇願した手紙だった。 趙孝成王が母親を召し出すと、母親は言った。 「戦争は危険なことだ。いつも心配して、びくびくしていなければならない。どんな些

細なことにでも心配していなければならず、何か手抜かりがないかと夜も眠れない。なの

に趙括は、戦争を遊びのように考えている。だから趙括は、兵法のことを語ると恐いもの

知らず、とても傲慢です。もし将来、大王が趙括を大将になさるようなことがあれば、我々

一家に災難が降りかかることはともかく、国の命運まで尽きてしまう。そう父親の趙奢ちょうしゃ

は、

臨終のときに何度も言っていました。大王が趙括を大将になさるなら、夫の心配が当たっ

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てしまいます。どうか止めてください」 趙孝成王は 「そんなこと言ったって、そんなこと言ったって、もう決めてしまったんだもん!」と

答えた。 そして趙括は、二十万の兵を従えて、まっすぐ長平関へ向かった。 紀元前 260 年、趙括は長平関へ到着すると、廉頗に兵符を見せた。兵符というのは虎符

とも呼び、虎の形をした割り符のことである。その虎は中央から左右対称に切れており、

頭としっぽがピタリと一致するようになっている。現在の割印のようなものだ。 兵を派遣するとき、左を将軍が、右を王が持つことになっている。そして王が将軍を交

替させようと思ったとき、新任の将軍には、右の割り符を持たせる。前の将軍は、新任の

将軍の持ってきた割り符を、自分の割り符と合わせてみて、ピッタリ合えば本物なので兵

を引き渡す。合わなければニセモノ将軍ということだ。敵のニセモノ将軍が、新任の将軍

として偽って来たとき、もし見破れずに兵を引き渡せば、軍隊は敵の将軍に動かされてし

まう。つまり兵符は、王が軍隊を動かすための操縦捍なのである。現在なら王からの電話

一本で済むことである。 廉頗は、趙括が持ってきた兵符を、自分のシッポの兵符と合わせてみたところ、ピッタ

リ一致したので、兵を譲って邯鄲かんたん

へ帰ることになった。趙括は、併せて四十万余りの大軍

を率いて戦闘することになったので意気揚々だ。 「秦国が挑戦してきたから迎え撃って送り返そう。敵が敗走したら、すぐに追う。奴ら

の鎧 兜よろいかぶと

すら残らないよう、木っ端こ っ ぱ

微塵み じ ん

にしてやろう」 趙括は、もう勝った気でいる。 すると馮亭が止めた。 「ちょっと、兄ちゃん。廉頗の爺ちゃんが兵糧攻めにしたので、もうちょっとで秦国の

連中は食べ物がなくなるんでっせ!そうしたら黙っとっても秦国へ帰らにゃならんのです

わ。べつにいま戦わなくとも、自滅するのを待てば、いいんじゃあないの?」 「黙れ、下郎! 年寄りに何が判るか!」 趙括は答えた。 そのころ範雎は、スパイとして送り込んだ趙国の大臣からの手紙を読んで、将軍が廉頗

から趙括へと交替したことを知った。そこで武安君の白起を派遣して、王齕の上司にした。

白起は兵を林の中に潜ませた。趙軍に戦いを挑んだ先発隊は、わざと戦いに負けたような

ふりをして逃げ出し、趙軍に追撃させる。そして趙軍に兵が潜んでいる場所まで追ってこ

させ、潜ませた兵で退路を断った。こうして趙括の大軍は、周りを取り囲まれて孤立した。

趙括の大軍は、周りを囲まれたまま一ケ月以上も頑張ったが、食糧も尽きて援軍もなくな

った。 趙括は、敵を蹴散らして退路を開こうとした。しかし軍の外側に行くと、周囲から弓矢

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を射かけられるし、馮亭も悲観して自殺するしで、趙軍は戦意をなくしてしまった。そし

て白起の兵が、趙括の首を槍に挿して高く掲げると、趙軍は降参した。 趙軍は空腹のため気力もなくなっていたので、大将が殺されたことを知ると、全員が武

器を捨てて降参した。 白起が降参した趙軍を調べたところ、全部で四十数万人いた。白起は捕虜を十数のテン

トに住まわせ、各テントには秦国の兵をつけ、秦国の将軍が管理した。 その夜、秦国の兵は、趙国のテントに牛肉と酒を運んだ。そして趙国の兵に、たらふく

食べさせ、明日は軍隊を改編すると説明し、高齢だったり、身体が弱かったり、秦国へ行

けないものは家に帰らせると伝えた。四十万余りの趙軍は、酒を呑んで満腹になり、その

説明を聞いて喜んだ。 王齕は、 「将軍、どうして捕虜を歓待するのですか?」と聞いた。 「前回で野王城を手に入れた。そして今度は上党を手に入れた。だが上党の連中は、趙

国に降参した。してみると捕虜たちは、どうあっても秦国に降参したくないようだ。いま

は四十数万の兵が降参しているが、それが反乱を起こしたら誰も止めようがない。すぐに

十人の将軍に、今晩のうちに趙国兵をすべて始末しろと伝えてこい」と白起が答えた。 秦国の兵は、この命令を聞くと、一斉に行動した。降参した趙国軍は、心の準備ができ

てないのと、武器がなかったため、全員が秦国軍に縛られ、大きな穴の中に生きたまま埋

められた。そして二百四十人だけが残され、かれらは生かして邯鄲へ帰し、秦国軍の恐ろ

しさを宣伝させた。 二百四十人の兵が趙国へ帰ると、趙国中が悲しみにくれた。それだけでなく秦国は、上

党一帯の城を十七ほど奪い取った。ついでに武安君の白起は、大軍を率いて趙の首都であ

る邯鄲を囲んだ。そうなると趙孝成王と平原君、大臣たちは恐がってオロオロし、どうし

てよいか判らなかった。ちょうどうまい具合に、燕国の高官である蘇代そ だ い

が平原君の家に来

ていた。蘇代は燕国の総理大臣だった蘇秦の兄弟である。彼は趙国を助けようと、範雎に

会いに行った。そして秦王の前で、趙国と韓国の窮状を訴えたのである。 範雎も白起の勢力が強くなり過ぎて制御できなくなることを恐れ、また2度の戦争によ

って秦国の兵士も相当に傷付いていたため、韓国と趙国に何城かを割譲してくれれば講和

すると答えた。 秦昭襄王も同意して、白起に兵を退かせたが、白起としては不本意だった。のちに兵を

退かせたのが範雎の意図だったことを白起は知り、大いに不満を漏らした。それから二年

が過ぎたが、まだ白起は居候たちにクドクドと不満を漏らしていた。 「あのときに兵を退くべきではなかった。もし攻撃を続けていれば、1月のうちには邯

鄲が落ちていただろう」 白起の言葉は秦昭襄王の耳にも入った。それを聞くと秦昭襄王は、しまったと思って、

すぐに白起を呼んで趙国を攻めさせようとしたが、白起は仮病を使って応じなかった。

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そこで秦昭襄王は、王陵を大将にして十万の兵で邯鄲を攻撃した。だが趙国の大将は、

もはや趙括ではなく、百戦錬磨の廉頗だった。王陵は何度も負け戦となり、本国へ救援を

要請した。 十、白起の死 秦昭襄王は、またもや白起を派遣しようとした。しかし白起は秦昭襄王に言った。 「前回の趙国は、四十数万の戦死者を出し、国も荒廃していました。あのときに速攻し

ていれば、恐らく占領できたでしょう。しかし二年も過ぎています。趙国は一息ついて防

備を固めていますから、そう簡単には攻略できません。それに趙国が領土を割譲し、秦国

も講和に応じたことを他の国々が知っています。いま急襲すれば、必ず我々は油断のなら

ない相手だと警戒され、他国が趙国を助けるかもしれません。ですから今回の戦争は、勝

てるとは限りません」 こうして白起は出馬を拒否した。 秦昭襄王は腹を立て 「秦国には白起以外に、大将がいないわけでもあるまい」 そう言うと大将を王齕に替え、さらに十万の兵を与えて攻撃させた。 王齕は二十万の大群で邯鄲を囲んだ。だが半年過ぎても邯鄲は落ちなかった。 それを聞くと白起は、居候たちに 「私は、とうに邯鄲が落ちないことを予測していた。だが大王は、私の言うことなど聞

かなかった。その結果はどうだ?」と言った。 その話を秦昭襄王は聞いて、白起を罷免した。それでも白起は、そのことをいつまでも

言っていたので、ついに秦昭襄王は白起に剣を送った。それで自殺せよとの意味だ。こう

して白起は死んでしまった。 このときから著名な秦の将軍は、王に殺されるんじゃないかと心配するようになった。

実際、昔の間違いをクドクドと言っても未来がない。屈原にしてもしかり、白起にしても

しかり。過去の誤りを責める白起より、明るい未来を述べる範雎が好かれるに決まってい

る。 秦昭襄王は、こんどは鄭安平に五万の精鋭部隊をつけ、王齕の応援に行かせた。 趙孝成王は、秦国が兵を増強したことを知ると、どうしても邯鄲を落とそうという勢い

だということが判り、慌てて平原君に各国へ救援を求める方法を考えるよう頼んだ。平原

君は 「魏の王族である無忌

む き

(信陵君)は私の親戚だし、また親しい友人なので、彼なら魏王に頼

んで援軍を送ってくれるだろう。楚国も大国だが、ここから少し遠い。私が行けば、楚王

は助けてくれるかもしれない」と言った。

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それを聞くと趙孝成王は、 「では、御苦労だが行ってくれるか?」と頼んだ。 平原君は、三千人の居候のなかから二十人を選んで一緒に楚国へ出かけることにした。

しかし十九人しか選び出せなかった。平原君は、 「何十年もかけて居候を三千人も集めたのに二十人すら選び出せない。ボンクラばかり

だ。ガックリだ」と嘆いた。 すると末席の一人が立ち上がり 「私を忘れているのだろう」と言った。 何人かが彼をにらみつけた。平原君は笑いながら 「あなたは誰ですか?」と聞いた。 「私は毛遂

もうすい

。大梁人。つまり魏の首都が出身だ。ここへ来て三年になる」という。 平原君は笑いながら言った。 「才覚があれば、鋭い錐を布袋へ入れたように、すぐに鋭い尖端が布を破って出る。し

かし先生は、ここへきて三年にもなる。しかし、あなたの鋭さを見たことは一回もない」 毛遂も笑いながら答えた。 「重要な問題もないのに、鋭さを見せる必要はないでしょう。今回は、私が鋭さを見せ

ましょう。あなたが、もし早くに錐を布袋に入れておけば、すぐに鋭い先端が現れました

ものを。それとも先端だけ見えればいいのですか?」 そこで平原君は、毛遂を楚国への供に加え、その日のうちに趙王に別れを告げて、楚の

陳都へ向かった。 平原君は、宮廷で楚考烈王と論議していた。 「現在は、趙が秦に攻められています。しかし趙、魏、韓がなくなれば、次は楚が攻め

られる番です。そうなる前に、秦が中原へ出てこれないように協力して食い止めるべきで

す」 「しかし楚と秦は親戚だし、平和条約も結んでいる。それより楚は何度も秦と戦って、

そのたびに敗れて領地を取られている。国力も衰えたので、いまさら秦とは敵対できんし

な」と楚考烈王。 「楚の一国では勝てないから協力するのです。それに父上の楚懐王だって秦に殺されて

しまったでしょ! 仇をとりたくないのですか?」と平原君。 「共同で秦を防ごうというのは、もともと貴方の国が提案したものだった。しかしメリ

ットがない。蘇秦が責任者になっていた同盟も、張儀に粉砕された。われわれの懐王も責

任者になったが、最後は秦国で殺されてしまった。斉湣王も責任者になろうとしたが、各

国に攻められて殺されてしまった。各国は自分のことで精一杯で、同盟して秦に対抗しよ

うと考えた者から先にやられてしまう。まだ何か言うことある?」と楚考烈王。 「同盟は、確かに効果があった。蘇秦が責任者だった時代は、六ケ国は兄弟となった。

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その会議の後から、秦国の軍隊は函谷関から出なくなった。のちに楚懐王が張儀にだまさ

れ、斉を攻めようとしたから秦につけ込まれた。だが、それは同盟が悪いのではない。自

分が信頼関係を壊そうとしたから、秦と斉に攻撃された。斉湣王だって同盟の責任者にな

ったが、それを利用して各国を併合しようとしたので、逆に各国から攻められた。それも

信頼関係を利用しようとしたからで、同盟することに問題があったわけではない」と平原

君。 しかし楚考烈王は、秦が恐かった。 「そういう話なら、はっきり判っている。秦国が出兵すれば、上党一帯の十七の城が占

領され、四十数万の趙軍が穴に埋められる。いまは秦国の大軍が邯鄲を囲んでいる。こん

なに遠くの楚国は手も足も出ないし、秦国は強すぎる」 「長平関の戦争について言えば、派遣した人間が悪かったのです。もし趙王が一途に廉

頗を信頼していれば、白起は勝てなかった。いま王齕と王陵は、二十万の大軍で邯鄲を囲

み、もう一年になるけれど趙国は落ちてない。もし各国が協力して助ければ、絶対に秦国

を打ち破り、何年かは平和になる」と平原君。 「秦国は、最近わが国と、とても仲がよい。わが国が、もし同盟したりすれば、秦国は

楚国だけを恨むに違いない。これでは楚国にとって何の利益にもならない」と楚考烈王。 「秦国が、どうして楚国と仲良くしているか判りますか? 三晋を無くすためですよ。

三晋が無くなれば、秦は楚を直接攻めることができ、楚国は滅びますよ」と平原君。 しかし楚考烈王は、秦国が恐かった。どうしても一緒に戦おうと言わない。 すると突然、一人の男が剣を持って座敷に上がってきた。 「同盟するのか、それともしないのか!ただ一言だけで済む。どうして朝から今までか

かるのだ。昼飯になってしまう。まだ終わらないのか」 楚考烈王は、平原君に 「あれは誰だ?」と聞いた。 「私のところの居候で、毛遂と申します」 楚考烈王は怒って 「出てゆけ。ここは、お前らが上がるところではない。お前らの主人と国家の大事を相

談しているのだ!よけいな口出しするな!さっさと失せろ」と罵った。 毛遂は、つかつかと近寄りながら 「同盟して秦国を攻撃することは天下の大事だ。天下の大事は、世の人すべてに喋る権

利がある。それが何で余計な口出しなんだ!」と叫ぶ。 恐ろしい剣幕だったので、楚考烈王がひるんで言った。 「先生の意見を述べてみてください」 「楚国は、五千里あまりの領土を持ち、百万の兵がいて、もともとは大国だった。楚庄

王の時から覇王であり続けた。昔の楚国は栄光があった。だが秦国が強くなると、楚国は

連戦連敗。揚げ句の果ては、国王まで秦国の捕虜となり、敵国で死んだ。これは楚国にと

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って最大の恥辱だ。続いて白起が攻め込み、楚国の首都まで奪われて、秦国の南郡になっ

てしまった。それで楚は首都を、ここに移さねばならなくなった。この恨みは十年、二十

年、いや百年過ぎても忘れられないだろう。このような屈辱は、子供が聞いても悔しがる。

まさか大王は仇を討ちたくないのではあるまいな? 今日、平原君が大王と秦軍のことを

相談しにきたのは、楚国のためであって、趙国だけのためではない!」と毛遂。 この話は、錐のように楚考烈王の胸に突き刺さった。 楚考烈王は、怒りで顔が真っ赤になり、 「そうだ!そうだ!その通り!」と答える。 「では大王、決心はつきましたか?」と毛遂。 「決心がついた」と楚考烈王。 毛遂は、すぐにニワトリの血、犬の血、馬の血を持ってこさせた。 血の入った銅盤を支えながら、毛遂は楚考烈王の前にひざまずくと、 「大王は同盟の責任者です。先に血を取ってください」と毛遂。 これは日本で言う血判状で、当時は口唇に血を塗って、誓いの儀式とした。 平原君は確かに理を説いた。しかし目先の恐怖に捕らわれていた楚考烈王には、頭で考

えるよりも恐怖のほうが先に立っていた。一般人は、合理的な損得よりも、非合理的な感

情で動く。だから恐怖の感情に捕らわれていた楚考烈王は、平原君の話より恐怖から逃げ

出すことが先決だったのだ。 そこで毛遂は、中国医学理論の感情を利用した。 中国では、怯えるものを肝が小さいという。恐れないものを大胆という。肝と胆は、同

じ木に属し、表裏なのだ。最初に昔の楚を誉め上げる。すると楚考烈王は、誉められるこ

とは耳触りがよく、聞いてみようと思う。そこで徐々に腹を立てるよう誘導する。怒りは

肝が激しくなったときの感情だ。怒りで肝が大きくなると、恐怖など感じなくなる。 ベトナム戦争では、新米のアメリカ兵は殺されるのが恐い。だから敵を撃てずに逃げ回

る。ところが自分の戦友が殺されると、怒りで恐怖が吹き飛んでしまい、優秀な兵隊にな

るという。それと同じ理屈だ。人は怒ると、理性など吹き飛んでしまう。 そうした心理を毛遂は、よく知っていたのだった。 十一、秦の敗北 紀元前 258 年、楚考烈王は春申君である黄歇を大将とし、八万の軍勢を率いて趙へ向か

った。そして魏安僖王も晋鄙し ん ひ

を大将にし、十万の兵を率いて趙へ向かった。平原君と二十

人の居候たちは、趙国へ帰って毎日援軍を待ち続けた。だが、待てど暮らせど、援軍は一

人も来なかった。平原君が密偵を放つと、楚軍は武関で、魏軍は鄴下ぎょうか

で駐屯していた。二

つの救援軍は途中まで来たものの、秦軍を前にして止まってしまった。なぜか?

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秦昭襄王は、魏国と楚国が救援軍を送るというニュースを聞くと、自分が邯鄲へ出向い

て激励した。そして使者を遣わして、魏安僖王に、こう伝えた。 「邯鄲は、どのみち秦国に負ける。だから救いに来た国から先に攻撃する」 びっくりした魏安僖王は、すぐに晋鄙に使者を派遣し、そこに留まって先へ進むなと伝

えた。楚の春申君も、魏軍が止まったことを知り、やはり武関で駐留した。秦王は二つの

援軍を脅かすと、大将の王齕に厳しく邯鄲を攻めさせた。 趙孝成王は、それを知って焦ったがどうしようもない。魏安僖王に使者を送って、早く

攻めるように催促するしかなかった。 趙国の使者は魏安僖王に会うと、晋鄙に兵を進めるよう命令してくれと催促した。魏安

僖王も、兵を進めれば秦国が恐ろしく、兵を進めなければ趙国に責められる。魏安僖王は

板挟みになって、進むことも退くこともできなかった。平原君も鄴下に人を遣わして、晋

鄙に兵を進めるように要請した。すると晋鄙は 「魏王の命令がなければ、勝手に兵を進められない」と答える。 平原君は、再び魏の信陵君へ手紙を書いた。 「私は貴方を尊敬しており、親戚になれたことを非常に光栄だと思っています。いま邯

鄲は非常に危険で、滅亡しそうな状況です。城の民衆は、首を長くして救援を待っていま

す。しかし貴国の大軍は鄴下に留まったままで、どうしても前進しようとしません。我々

は火で焙られているような感じですが、救援軍は平然としています。貴方の姐さんも毎日

泣き続け、もう慰める言葉もありません。貴方も姐さんのことを考えてください」 平原君の妻は、信陵君の姉だった。その手紙を受け取って、信陵君は居ても立ってもい

られない。すぐに何度も魏安僖王に兵を進めさせるように頼んだ。しかし、どうしても魏

安僖王は同意しない。ついに信陵君は、自分の居候たちに言った。 「大王に進言しても、どうしても兵を進めない。こうなったらしょうがない。私自身が

趙国へ行き、秦軍と死ぬまで戦おう」 彼は馬車を用意し、趙国で秦軍と戦うことを決意した。一千人余りの居候

いそうろう

たちも、信陵

君とともに戦いたいと言って、ついていった。 一行は東門を出ると、信陵君は最も信頼する友人、侯生

こうせい

に別れの挨拶をした。すると侯

生は、何の感情もなく、 「無忌よ、お大事に。私は歳老いたので一緒に行けないが、どうか責めないでくれ」と

言った。 信陵君は彼に御辞儀をし、彼が、まだ何か言うのではないかと待った。しかし、それが

最後の別れで、侯生は何も喋らなかった。信陵君は出発したが、それでも何度も侯生を振

り返った。侯生は、ただ黙ったまま立ちつくしていた。 離れてゆくうちに信陵君は辛くなってきた。 「私は彼を親友だと思っていた。しかし彼は、みすみす私が無駄死にするのが判ってい

て、気に掛ける言葉すらない」と、溜め息混じりの独り言を漏らした。

52

信陵君は、だんだんと悲しくなり、それから何キロも行かぬうちに、我慢できなくなっ

て居候たちに立ち止まらせ、自分は侯生と、もう一度話をしに戻った。 侯生は、やはり門の外で待っていた。彼は信陵君を見ると 「やっぱり帰ってくると思っていました」と言う。 「そうです。恐らく私に至らぬところがあるのだと思い、教えていただくため戻って参

りました」と信陵君。 これが信陵君の偉いところだ。普通ならば、なんと友達がいのない奴だと、怒って行っ

てしまう。 侯生は言う。 「貴方は、何十年も居候を養い、三千人もの面倒を見ている。どうして誰も貴方のため

に何も考えず、ただ秦軍と死ぬまで戦わせようとするのだ! 君達が、こんな小人数で秦

国の駐屯地に向かったって、羊が狼の群れを攻めるようなもので、無駄死にするのが判っ

ておろう」 「私にも焼け石に水だってことぐらい判っています。しかし何もしないよりも、死ぬま

で戦ったほうがましです」と信陵君。 侯生は 「まあ、ここへ座りなさい。ちょっと相談しよう」 そういうと人払いをした。 侯生にも考えがあったのだ。だが大勢の居候の前で喋ると秘密が漏れる。だから信陵君

が一人で戻ってくるのを待っていたのだ。 「噂では、大王が宮殿で最も好きなのは如姫

に ょ き

だという。そうなのか?」と侯生。 「そうです。そうです」と信陵君は、うなずいた。 「如姫の父親は殺害された。如姫は大王に仇を討たせてくれと頼んだ。そして大王は、

三年も犯人を捜させたが、見つからなかった。のちに、あんたが如姫の仇を討ち、犯人の

頭を如姫に送った。そんなことがあったのか?」と侯生。 「ありました。ありました」と信陵君、うなずいた。 「そのことを如姫は非常に感謝していて、信陵君のためなら死んでもいいそうだ。だか

ら貴方が頼めば、如姫は大王から兵符を盗み出してくれる。兵符さえあれば、晋鄙から軍

隊を奪って秦国を討てる。これなら無抵抗で死ぬより、はるかに名案だろう?」と侯生。 それを聞いて信陵君は、目が覚めたような気がした。侯生に礼を言うと、居候たちには

城外で待つように告げ、自分は家に帰ると、仲のいい宦官かんがん

の顔恩がんおん

に頼んで如姫に伝えた。 如姫は、信陵君の言葉を聞くと 「信陵君の命令に、何で私が逆らえましょう。火の中へでも、水の中へでも、飛び込ん

で見せます」と答える。 その夜、如姫は魏安僖王と一緒に寝て、こっそりと夜中に兵符を盗み出し、顔恩に渡し

た。顔恩は兵符をただちに信陵君へ渡し、信陵君は兵符を手にすると、再び東門へ行って

53

侯生に別れを告げた。 侯生は言った。 「もし晋鄙が兵符を調べ、万一にも指揮権を渡さなかったとしたら、どうする」 「ど、どうしましょう」と信陵君。 「私の友人に、朱亥

しゅがい

という者がいる。天下に、またとない勇士だ。彼の力を借りよう。

もし晋鄙が 快こころよ

く指揮権を渡せばよいが、渡さなければ朱亥に切らせてしまえ」と侯生。 信陵君は、涙を浮かべてうなだれると 「晋鄙は忠義心の強い男で、間違いを犯したことはなかった。彼が納得しなくて当然だ。

もし彼を斬るようなことになれば心が痛む」と答えた。 「一人が死んでも、一国が助かるんだ。十分に採算が合うだろう。われわれは大きな目

的のために行動しているんだ。そんなみみっちいことでどうする?」と侯生。 侯生と信陵君は、朱亥の家へ行き、侯生が訪れた理由を説明した。見込まれた朱亥は、

すぐにOKした。 侯生は 「理屈からいうと私が行かねばならぬのだが、見てのとおり私は老人。一緒に行っても

足手まといだ。成功を祈るよ!」と言う。 もう信陵君は立ち止まらなかった。すぐに朱亥と馬車に乗って出発した。 信陵君は、朱亥と一千人の居候たちを連れて鄴下に到着した。そして晋鄙に会うと、 「大王は、将軍に外で何ケ月も御苦労さんだったと。そこで無忌を派遣して交替させる

と言われる」と告げた。 続いて朱亥に持たせた兵符を見せると、調べてくれという。晋鄙が合わせてみると、ピ

ッタリ合った。完全に虎の形になったから本物だ。しかし晋鄙は考えながら 「何日か待ってくれ。私は軍曹たちと名簿を整理し、軍隊の引き継ぎが終わったら指揮

権を渡す」という。 「邯鄲は緊迫しているのだ。私は夜でさえ兵を進ませようと思っている。どうして時間

を無駄にできよう?」と信陵君。 「はっきり申し上げると、将軍が変わるということは軍の一大事。私は自分で大王の命

令を伺わないと手続きできません。それに……」 そこまでいうと晋鄙の言葉は途切れた。 朱亥が 「晋鄙!王の命令に背いて、謀反を起こす気か!」 そういうと、一刀両段に斬ってしまった。 信陵君は、兵符を掲げると軍曹たちに 「大王の命令だ。私が晋鄙に代わって邯鄲を救えとおっしゃる。命令に背いた晋鄙は、

すでに死を賜った。みんな恐れることはない。命令にしたがって一生懸命に敵を殺せば、

かならず高い地位が待っている!」と言った。

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目の前で、大将が殺されたのを見た軍曹たちは、全く異議を唱えず、ただ進軍の命令に

したがった。 信陵君は、 「親子で軍にいるものは、父が帰ってよい。兄弟で軍にいるものは、弟が帰ってよい。

ひとり息子は帰って老人の世話をしろ。病人や体が弱ければ帰ってよい」と命令した。 これで十万の兵は八万になった。すると信陵君は、軍隊を編成しなおし、自らが馬に乗

って最前線に出ると、軍曹たちを指揮して秦国の駐屯地に襲いかかった。秦国の王齕は、

今まで立ち止まっていた魏軍が、突然攻撃してくるとは思わなかったので、慌てふためい

て応戦した。平原君も城門を開き、趙軍を率いて攻撃した。両側から挾み撃ちにあって、

秦国の軍隊は総崩れになった。秦軍は、もう何年も、こんなひどい敗北をしたことがなか

った。秦昭襄王は、すぐに後退の命令を出したが、すでに兵は半分に減っていた。鄭安平

の二万人は、魏軍に退路を断たれて孤立してしまった。鄭安平は 「私は、もともと魏国人だ。やはり本国に帰るのが一番」 そういうと二万の兵を連れて信陵君に降伏した。 趙孝成王は、自ら魏軍の駐屯地へ来ると、 「趙国が滅亡しなかったのは、すべて信陵君のおかげだ!」と感謝した。 平原君は、それ以上に感激し、信陵君の前に立って、城内への道案内をした。 信陵君が邯鄲に入ると、趙王は、うやうやしく彼を招待して五城を譲ると伝えた。信陵

君は、兵符を盗み出して趙を救った経過を話し、 「私は、貴国に大きな貢献はしてないし、本国に対しては大罪を犯しました。この罪人

は、大王に招待されるだけで十分です。どうして領地など受け取れましょう?」 と拒絶したが、趙王も平原君も勧めるので、ついには断り切れなくなった。 信陵君は、大王に顔向けできないからと趙国に留まり、兵符と軍隊を魏国の将軍に渡し

て帰らせた。 楚の春申君は武関にいて秦国が敗走したのを聞き、八万の軍を連れて、そのまま楚国へ

帰った。春申君が、楚考烈王に秦国が敗走した状況を伝えると、楚王は溜め息をついて 「趙の平原君が言っていた同盟計画は、ほんとうに大したものだ。だが残念ながら我国

には信陵君のような大将はおらず、毛遂のような策士もいない」と嘆いた。 春申君は少しムッとして、こう切り返した。 「以前に平原君が、大王を同盟責任者にすると推薦しました。今や秦国は残敗し、勢い

もありません。この機会に同盟責任者の権利を行使し、すぐ各国へ使者を送り、周天皇の

同意を取りつけて、錦の御旗を立てて各国に号令を下し、共同で秦国を成敗しましょう。

そうなれば大王の功績は、斉桓公、晋文公、楚庄王の功績より大きいでしょう」 楚考烈王は春申君に煽られ、再び盟主になろうと考えた。すぐに外務大臣を派遣して周

へ行かせ、周の天皇に秦国を成敗するよう要求した。 周赧

だん

王は天皇という地位にはあるものの、実際に支配している土地は列国の最小国より

55

小さかった。そんな小さな天下でも二つに分かれていた。それが河南鞏 城きょうじょう

一帯の東周と、

河南王城一帯の西周であった。周赧王は西周にいた。周赧王は楚国の大臣に会うと、天皇

の名目で列国を集めることに同意した。 紀元前 256 年、天皇は六千人の軍隊を伊闕

い け つ

へ派遣した。そこで各国の軍隊を待つのだ。

しかし韓、趙、魏の三晋は、秦国と戦ったばかりで戦力を消耗しており、出兵する力など

なかった。斉国は秦国と「遠交近攻」の友好関係があったため派兵しなかった。結局は燕

国と楚国の軍隊しか来なかった。そこで伊闕に3ケ月ほど駐屯したが、他の国の軍隊は来

なかった。 そりゃあ楚国の春申君が趙国を助けていれば、趙国を始めとする三晋も軍隊を派遣した

かもしれないが、何の恩義もない楚国が同盟軍を招集したところで、誰も集まるはずもな

い。結局は楚国と燕国の軍隊も帰って行った。すると秦国は軍隊を繰り出して、残ってい

る周軍に襲いかかった。周国は中国を支配していた皇族で、日本で言えば大和朝廷の後裔こうえい

ようなものである。天皇が将軍と戦っても勝てるわけもない。列国の王は、周の天皇を重

んじて戦争を仕掛けなかっただけだ。秦国に攻められた周軍は戦争をしたこともなく、六

千人の軍隊しか持たなかったため支え切れずに降伏し、周赧王も秦国の捕虜となり、ほど

なく死んでしまった。こうして西周は滅んだ。 秦昭襄王は、西周を滅ぼしたことを各国に通知した。だが各国は、秦国が恐かったので

天皇を殺したことを責めず、外務大臣を咸陽に派遣して祝賀した。秦昭襄王は得意の絶頂

だったが、もう七十歳になっていた。総理大臣の範雎も退職を願い出たので、秦昭襄王は

受理した。紀元前 251 年の秋、秦昭襄王は病気で死に、王子の安国君が即位した。それが

秦孝文王である。即位した秦孝文王は、すでに 53 歳だった。そして即位して3日後に死ん

でしまった。中毒死だと言われている。そして王子が即位したが、それが秦始皇帝の父で

ある秦庄襄王である。秦庄襄王は、子楚し そ

という名前だった。もともと王になれる人ではな

い。それを王にしたのが呂不韋り ょ ふ い

である。 十二、呂不韋

り ょ ふ い

の画策かくさく

秦孝文王

こうぶんおう

となった安国君は、子供が二十人以上あった。当然にして何人もの奥さんがい

たのである。子楚し そ

も、その一人であった。子楚の母は夏姫か き

というが、老いさらばえて醜く

なり、王の愛情を受けられなくなった。そして子楚は、王族として趙ちょう

へ人質に出されたの

である。しかし秦国は何度も趙を攻めたので、趙では子楚を用無しと考えていた。人質と

しての意味がないのである。だが強国秦の王子、用無しといっても殺すわけにゆかぬ。殺

せば秦に攻める口実を与えてしまう。だが、ただ置いておいても無駄飯を食らうばかりな

ので、羊の世話をさせていた。子楚は王族といっても妾の子、だから王族らしい暮らしを

したことはない。本妻は子楚を追い出したくてウズウズしている。そのため趙国へ人質と

して追い出されたのだ。人質として価値のないのは当り前だ。だから外出するにも馬車は

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なく、自分の二本の足で歩いて行くよりなかった。それに普通の人質ならば宮殿に住まさ

れるだろうが、殺す価値もない人質、宮殿に住んで世話をしてもらえるはずもなく、羊を

放牧している野原に、自分で掘っ立て小屋を建て、そこに一人で住むよりなかった。子楚

は、人質としてというより羊飼いとして一生を終えるよりなかった。 実は、このとき子楚には名前がなく、異邦人という意味で異人と呼ばれていた。名前が

ないぐらいの王子だから、秦が金を出して世話をしてくれるわけもない。趙でも人質とし

て価値のない異人に金を出すはずがなく、異人は自分で生きてゆくよりなかった。現代で

いえば口減らしである。 すると商売人の呂不韋が、趙の都である邯鄲

かんたん

を通りかかった。中国は広く、国境があっ

ても自由に往来できたので、あっちの産物とこっちの産物を交易する商人が多くいた。例

えばミカンは南で取れると甘くなり、北で取れるとすっぱくなる。同じ植物でも、まった

く別の味に変わってしまうのだ。貝も海で採れるサクラ貝は美しいが、陸で採れるカラス

貝は黒っぽい。だからサクラ貝は、西の奥地へ持ってゆけば価値があるし、また西の玉を

東の海岸へ持ってゆけば価値がある。貝が化けるから貨というし、品物のことを中国では

東西という。東の産物を西へ持ってゆき、西の産物を東へ持ってゆくから東西と呼ぶ。そ

の後に貨幣は、和同開宝のような青銅に変わったが、それは熱に熔けやすく、丈夫で硬く

て加工しやすいため、いつでも矢尻のような武器を製造できるので永久の価値となった。 まあとにかく昔の商人は、こうして各国を旅をして商売していたのである。趙国で出物

を捜していた呂不韋は、首都の邯鄲で、ボロボロの服を着た異人を見かけた。どうも趙の

人間とは顔立ちが違う。あの男は、どうした男かと街の人に尋ねると、秦から人質に来た

王子だが、何の価値もないという。それはどういうことかと、呂不韋は街の人に、いろい

ろな状況を教えてもらった。そのあと呂不韋は、商売になるような品物がないか、邯鄲の

都で出物を捜した。ところが異人のことが気にかかる。そのうちピーンとインスピレーシ

ョンが閃いた。 さっそく呂不韋は、邯鄲で惨めな生活をしている異人と会ってみて、いろいろと話を聞

いてみた。すると異人は、やはり強国秦の王子だという。びっくりした。 「こんなすごい商品は、見たことがない。絶対に買い得だ!」と呂不韋は叫んだ。 「私は、一国を手に入れた。しかも天下一の強国だ」と呂不韋は喜ぶ。 すると異人は笑いながら 「確かに父は王族かもしれませんが、私は妾の子なので、他国へ人質に出され、ここで

羊飼いとして一生を終えるでしょう」と答えた。 呂不韋は 「あなたには判らないかもしれないが、我々には大きな前途が開けている」という。 そこで異人が「それはどういうことですか?」と尋ねると、 「秦王は老人となり、長男だった王子は死んで、今は、あなたの父上が王の後継者だ。

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噂によると父上の安国あんこく

君くん

は妻が大勢いるものの、今は華陽か よ う

夫人が一番のお気に入り、しか

し安国君は老人なので、華陽夫人には子がない。つまり華陽夫人だけが、王の後継者を選

ぶことができる。いまあなたの兄弟は二十人以上いる。だが父親が長男でなかったため、

全員が人質に出されている。つまり秦昭 襄 王しょうじょうおう

が死ねば、安国君が王になる。そうなればあ

なたも、長男や他の兄弟達と王子の地位を争えますよ」と、呂不韋が微笑む。 「しかし、どうやって?」と異人。 「あなたは貧しい。だから、ここにしばらくいなさい。その間に私が、あなたを王子に

する手配をしましょう。そりゃあ私だって金がないが、千金を持って秦国へ行き、安国君

と華陽夫人に、あなたを王子とするよう工作しましょう」と、呂不韋。 「もし、そうなれば、私はあなたと秦国を分けましょう」と異人が答える。 こうして異人は呂不韋の客となった。 その間に呂不韋は、趙の宮殿に話をつけに行った。大臣に賄賂

わ い ろ

を送って、王に会わせて

もらうことになったのだ。 趙王に会うと、呂不韋が言った。 「異人を秦の人質として取っていますが、それにもかかわらず、秦は何度も邯鄲を攻め

ています。こんな人質ってあるのでしょうか?」 すると趙孝成王

こうせいおう

は、 「秦の人質を取っても、秦王には子供が何人もいて、ちっとも人質の役目をしない。ど

うしたものかと趙でも持て余しているのだ」と答える。 呂不韋は、すかさず 「秦昭襄王は、高齢で病気ときている。そのうえ王の長男は死んでしまい、安国君が後

継ぎとなります。安国君は、異人の父親です。安国君も高齢なので、王位に着いても、す

ぐに死んでしまうでしょう。そのとき、もし異人が秦王になれば、もう趙国は秦国から攻

められる心配はないでしょう。つまり異人が秦王になれるように手伝えば、異人は趙王に

感謝するので、秦が趙国を攻撃することもなくなり、趙国は安全なのです。そのためには

異人を秦国へ連れてゆき、安国君の後継ぎにせねばなりません。大王は、価値のない人質

を取るか、あるいは趙国を攻めることのない秦王を取るか、どちらになさいます?」と聞

いた。 秦国に何度も戦争をしかけられ、そのたびに領土を取られて困っていた趙孝成王は、呂

不韋の提案を受け入れた。 「でも大王、異人を安国君の後継ぎにするには、それなりの工作資金が必要です。人の

命は値千金と申しますので、千金ぐらいは工作資金が必要です。私も転々と商売している

身、用立てていただけますか? そうすればキチンと工作してきて将来の憂いをなくし、

その結果を帰ってきて報告します」と呂不韋。 「千金とは結構な大金だなぁ。でも、それで秦国が戦争をしかけてこないとなると安い

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もんだ。では異人は、そちにやる。うまいこと工作してきてくれ」と趙王。 「いってきまぁ~す」 こうして呂不韋は、秦国を目指す。千金のうち五百金で珍しいものを仕入、一路秦国へ

向かう。そして華陽夫人の姉に会うと、贈り物をすべて渡した。男が、ましてや外国人の

男が、秦国の大奥へ入ることなど許されない。そこで姉に口添えを頼もうとした。 秦国は山国だ。中原から離れていて、人は素朴、文化も遅れている。富国強兵政策だけ

がある。欲しがりません勝つまでは。パーマネントは贅沢です。止めましょう。銃後の守

り。青銅類は兵器にするため供出させられる。まるで戦前の日本のようなところであった。 姉に紹介してもらうと、さっそく呂不韋は贈り物を差し出した。姉は、次々と取り出さ

れる趙の都の贅沢品を見ると、どうしても欲しくなり出した。山国の秦では、服や農作物

のほかは、これといった工芸品がない。初めて見る品々だった。服もシルク、下着もシル

ク、金やプラチナのネックレスなど、秦国では見かけたことがない。金属製品といえば、

クワやスコップ、それと刀や槍ぐらいのものだった。 「これは美しいお姉さまへのプレゼントです」と呂不韋。 「でも、こんな高価なもの、ただでくれるはずないでしょ?」 「はい、実はお願いがあって参ったのです。実は妹さんのことですけど」と呂不韋。 「やっぱりそうなのね!誰も彼も、妹を紹介してくればっかり。でも、あなたが一番、

贈り物を多く持ってきたけどね。でも妹は、もう王子のところへ嫁いだから、いくら頼ん

でもダメよ」 「いえ、そういうことではないのです。実は、お姉様にも関係することなのですよ。私

は遣いで参ったのです。今の妹さんは、王子に寵愛ちょうあい

されています。でも、そんな状態がい

つまで続くでしょう。王子も 50 過ぎです。王子が死ねば、長男が後継ぎになります。そう

なったら継母の妹さんは、追い出されるでしょう。そうなればお姉さん、あなたにもかな

り影響があるんじゃないですか?」と呂不韋。 「そうねえ。それは困るわ。憎ったらしい妹だけど、あれがうちに居候するようになっ

たらマズイわねぇ」 そこで呂不韋は、話を切り出した。 姉は、妹を訪ねると、話があると言った。 「異人は頭がよいことで天下に知られているけど、いつもあなたを母のように慕い、父

上とあなたのことを思って泣いているそうよ」 すると子供のいない華陽夫人は、大喜びした。続けて姉は言う。 「聞くところによると、王子のように大勢の妻を持つ人は、妻が歳老いて容貌が衰える

と、あっさりと捨てるそうよ。今は、あなたが王子に愛されているけれど、いつまで続く

か判らないわ。あなたも知ってのとおり、飽きられた妻の中には、宮殿を追い出されて惨

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めな生活を送っている人もあるでしょう? 今のあなたに問題なのは、王子に愛されてい

るのに子供がないこと。たとえ王子に愛されていたとしても、王子も老人だから、いずれ

死ぬことになるわ! そして見も知らぬ人が大王になれば、赤の他人のあなたは追い出さ

れるでしょう。だから今のうちに子供たちの中から後継者を見つけておくの! 彼が王に

なれば、足元も固まって、自分が醜くなっても権力がある。異人は頭がよいけれど、母親

の夏姫か き

は妾なので、順序からしても後継ぎになれない。だけど、あなたが口添えして後継

ぎにしてやれば、あなたは死ぬまで大王の母親になれるのよ!」 姉のいうことも、もっともだと華陽夫人は思った。後継ぎにするにしても、人質の異人

は利口だと誉めたたえている。失脚しっきゃく

することもないだろう。 華陽夫人は、姉に尋ねた。 「ところで姐さん。異人は毎日、父上と私のことを思って泣いているといっていたけれ

ど、いったい何を泣いているの?」 「それはね、あなたは大王と一緒になったけれど子供がないことなの。それで異人は、

あなたの子供になりたいのだけれど、いかんせん妾の子でしょ? だから泣いているの」 それを聞くと華陽夫人は、異人が不憫

ふ び ん

になった。そして長男が王になれば、自分が追い

出されるかも知れないという不安が、妾腹のために追い出された異人の境遇と重なった。

そこで安国君に、異人を後継ぎとするようにねだることにした。 安国君が華陽夫人に会いにゆくと、華陽夫人がシクシク泣いていた。 「どうした。何を泣いているんだい?」 華陽夫人は、安国君が本気で心配しているのを見ると 「なんでもない、なんでもないの。私のことで、王子を悲しませたくない」という。 「だめだ、だめだ。こんなに泣いている君を、いままで見たことがない。何かあるんだ

ろう。言ってごらん!」と安国君。 華陽夫人は、作戦が図

に当たったと喜んだ。 「何でもないわ。貴方の息子、異人のことが、私の将来に重なるの。私は運良く選ばれ

て後宮へ入ることになり、貴方に愛されることになった。今生でも来世でも、この恩に報

いたい。だけど一つだけ、貴方に済まないことがある。それは貴方のために異人のような

子供が生めなかったことよ! もし私が貴方より先に死んだら問題ないけれど、万一私が

残されたらどうなるの? 誰も頼る人がない」 安国君は、華陽夫人が何を心配しているのか判った。 「もし君が、そんなに異人を心配しているのなら、彼を引き取って、自分の子にすれば

いい。そして私の後継ぎにすればいい。そうすれば何の心配もないだろう?」 「その話、ほんとう? 信じていいのね」と華陽夫人。 「もちろん本当さ」 そういうと安国君は、華陽夫人を宮殿につれて行き、すぐに夫人の顔に「刻玉符」を付

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けて、異人を後継ぎにした。 安国君と華陽夫人が、異人を後継ぎにしたというニュースは、咸陽

かんよう

じゅうに広まった。 恋に溺れ、目がハートマークになるということは恐ろしいことで、愛する華陽夫人のた

めに、長男を後継ぎにするという封建時代の原則まで曲げてしまった。 私の留学時代の同室者も、美人家庭教師に目がくらみ、家庭教師のところへ行ったっき

り帰らなくなった。 目的を果たした呂不韋は、華陽夫人に礼を述べて邯鄲へと帰り、趙王に報告した。 邯鄲は、中原で昔から文化の中心地で、淫らな土地柄のうえ淫猥

いんわい

な音楽に溢れていた。

そうした街を行き来していた呂不韋は、当然の如く「性の達人」となってゆき、性の達人

どうしの知り合いも増えた。そうした折りに、邯鄲で趙姫ちょうき

という絶世の美女が歌姫になっ

ていることを聞いた。一度見たいと思い、機会があって見てみると、噂どおりの美人だっ

た。そこで工作資金の半金を使い、趙姫を身請み う け

した。そして一緒に住んでいるうちに、春

の三月に趙姫の生理が止まった。昔の三月は旧暦なので、いまでは四月に当たる。趙姫の

妊娠を知り、最初は喜んでいた呂不韋だったが、そのうち、ある考えが閃いて、趙姫と相

談した。 「おまえ、異人を誘惑して、結婚してしまえ」と呂不韋。 「いやです。あんな貧乏な男。それに彼は、まだ十七、八の子供ですよ。あなたと別か

れるのは嫌です」と、かたくなに趙姫が拒否する。 「何を言うか!異人は将来の王だぞ。異人と結婚すれば、王妃となって将来が保証され

ている。それに私のことなら心配ない。異人と結婚しても、趙姫が私の女であることに変

わりはないさ。私も一緒に秦へ行く。そうすれば今の関係は続けられる。それに異人は、

用済みになったら殺してしまえばいい」と呂不韋。 そういわれると、身請された立場の趙姫としては断れない。呂不韋が閃いた計画を実行

に移すことにした。 あるいは邯鄲で異人を見かけたとき、呂不韋の頭には、すでに将来が計画されていたの

かもしれない。 さっそく異人が、秦の後継ぎになったことへの祝宴が開かれた。邯鄲にいた異人は、呂

不韋に賓客として迎えられた。客は、ほとんどが嫪ろうあい

のようなエロエロ愛好家たちである。

そして来客たちは、山海の珍味を食べながら酒を呑む。といっても当時の酒は、蒸留酒で

はないので濃度もいたって軽く、かなり呑まないと酔えないような代物だった。今のよう

に酒税もないので、いろいろな果物を発酵させて、さまざまな酒を作っていた。現在のよ

うに中国酒のアルコール度が高くなったのは、蒸留装置が発明されてからで、それまでの

酒は黄酒、つまり米を発酵させた茶色っぽい酒が普通だった。そして余興として「お立ち

台」が作られ、淫猥な音楽を女たちが演奏し始める。そして、お立ち台では歌姫たちの裸

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踊りが始まった。歌姫は、各人の奴婢である。 歌姫とは女奴隷のことで、幼いうちに買ってきて、歌や踊りを習わせたり、楽器を演奏

することを教え、客をもてなすための芸をしこむのだ。現在の芸者や芸能人である。 異人は羊の群れしか見たことがなく、食べる物ときたら雑穀ばかりで、白米など食べた

ことがない。それだけでも幸せだったが、着飾った若い娘たちが、お立ち台に上り、卑猥

な音楽に合わせて身をくねらせ、一枚ずつ服を脱いでゆく。最後に白くてスレンダーな裸

身が現れると、音楽が終わって、娘たちは服を胸に抱えて降りてくる。そして主人の傍ら

へ行き、酌をするのだった。異人は、自分の周りの客たちに、次々と裸の娘が降りてきて

酌するのを見ると、非常に羨ましかった。だけど自分には奴婢がいない。奴婢を買う金も

なかった。彼らにひきかえ、わが身の不甲斐無さが情けなかった。 周りの客に、ほとんど娘が着いた頃、お立ち台に絶世の美女が現れた。かの女が趙姫だ

った。趙姫を見ると、異人の目が釘付けになった。周りのことなど目に入らない。ただ、

ただ、趙姫だけを見つめていた。趙姫は妊娠一ケ月といっても、腹がほとんど目立たない。

スレンダー美女だった。この娘が服を脱ぎ終わり、どこへ行くかと見ていると、なんと自

分に向かって降りてくる。そして自分の傍らに座ると、酌をしてくれる。異人は、すっか

り有頂天になってしまった。 異人が歌姫を持っているはずないので、この歌姫は呂不韋が手配してくれたものに決ま

っている。 そのうち周囲の客たちは、薄暗い蝋燭のなかで、何やらゴソゴソやり始め、そのうちア

エギ声まで漏れてくるようになった。異人は、何が起きているのだろうと興奮した。する

と趙姫が異人にしなだれかかってきた。 宴会が終わると、異人は趙姫をくれと呂不韋に頼んだ。 それを聞いて呂不韋は喜んだ。しかし腹を立てたフリをして、不機嫌そうに 「でも趙姫は、私が今度身請した、一番のお気に入りなんですよ。いくらなんでも、そ

れはちょっとできませんよ」という。 「けれど、あなたには本妻がいるし、趙姫は、ただの妾じゃないですか」と異人。 「そう言われてもねぇ。あれは、宴会であなたが寂しいんじゃないかと、お貸ししただ

けですから。私も趙姫とは仲がいいし。話が合うから、茶飲み友達のようで、別れるわけ

にはゆきません」 「そうですか。趙姫をもらうわけにゆきませんか。それでは仕方ありません」と、うな

だれる異人。ここで諦められては、せっかくの計画が台無しになる。 「わかりました。ここであなたに計画から降りられては、私はどうしようもない。なに

しろ私は、あなたを王にする工作のために、もう全財産を使い果たしてしまったんですか

らね。今更やめるわけにはゆきません。我々は、一蓮托生なのですから。判りました。趙

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姫を差し上げましょう」 「本当ですか!」と、パッと笑顔になる異人。 「ただし条件があります。私も手放したくない趙姫を手放すんだから。確かに私には本

妻がおります。だから趙姫を私の本妻にはできません。側女そ ば め

では、趙姫が可愛そうです。

あなたが趙姫を側女にするのでは、私は譲ることができません。でも、あなたが趙姫を本

妻にしてくれるのであれば、私は趙姫を譲りましょう」 「それは当然です。本妻にしましょう」。 こうして呂不韋は、二つの恩を将来の秦王に売った。一つは秦王になる約束を取りつけ

たこと。そして愛妾あいしょう

の趙姫を与えたことだった。 こうして異人は呂不韋の家で、趙姫と一緒に住むことになった。その十ケ月後には、邯

鄲で始皇帝となる政が誕生した。しかし、その幸せは、長くは続かなかった。 秦の始皇帝は、秦国で生まれたと思っている人が多いが、趙国の首都である邯鄲で生ま

れ、そこで幼少時代を過ごし、秦国に帰国したのである。 もし呂不韋が父親であったとすれば、始皇帝は趙国人の両親から生まれ、秦国へ旅だっ

たというのが正しいだろう。そして、かつては趙国の領土であった場所で、始皇帝は死ん

でしまう。数奇な運命で、始皇帝と趙国は切り離せない。趙国で生まれ、趙国で死んだ始

皇帝は、趙国人を母とし、趙国の官僚に裏切られている。重大な局面では、必ず趙国が関

係している。父親が子楚という秦国人、あるいは趙国人の呂不韋、この二つ説があるが、

趙国で生まれ、趙国で死んだ始皇帝は、母親だけでなく、父親も趙国人だったのではない

か。趙姫の生理が止まったけども妊娠しておらず、そのあと異人に嫁いでから政が誕生し

たと言われている。でも呂不韋の行動を見ると、少なくとも呂不韋は、政が自分の息子だ

と信じていた。 十二、始皇帝政の誕生 紀元前 258 年、秦昭襄王は邯鄲を囲んだ。怒った趙孝成王は、人質の異人を殺そうとし

た。そのときの異人は、もはや価値のない人質ではなく、王子の後継者だったからだ。し

かし危険を察知した呂不韋は、異人と相談すると、六百斤の金で城門の兵士たちを買収し

て、異人を邯鄲から脱出させた。異人を秦の陣地へ連れてゆくと、秦軍は王子の後取りと

いうことで、今度は丁重に扱って帰国させた。 そこで趙孝成王は、異人の妻子を殺そうとした。しかし異人の妻である趙姫は、呂不韋

の妾である。他人の妾を、王子が妻にするはずがない。政は、呂不韋の子とされた。 そもそも貧乏な異人に、妻のいるはずがなかった。普通の女なら、子持ちで旦那が逃げ

たというと、当時のような生活保護のない社会では生きてゆけない。ところが趙姫は、趙

という姓なので、王族に繋がる貴族の一門だった。それが何ゆえに売春婦などになったか?

63

それは生活に困って売春婦になったのではなく、ええとこのお嬢様が趣味と実益を兼ねて

歌姫をしていたのだ。歌や踊りは、当時の貴族社会では、やはり花嫁修業でもあったのだ。

そもそも、ええとこのお嬢様は、自分で買い物したり料理を作ったりしない。いまの中国

でも、中国に住む駐在員の奥様は、阿姨あ い

と呼ばれる娘やオバサンを雇い、買物や料理をさ

せている。だからロクに中国語も喋れない。そこで日本人どうしが集まって日本人会を作

り、旅行したり、カルチャースクールなどを開いたりしている。 こうして趙姫は、趙の名門の出だったので、かくまわれて母子とも無事だった。 異人と呂不韋が秦国へ到着すると、呂不韋は異人に、用意してきた服装に着替えるよう

言った。その服を着てみると、楚の服装だった。呂不韋は商人だったので、さまざまな国

へ行った。だから各国の言葉が話せ、各国の衣装も持っていたのだ。 異人が着替えると、今度は両親に挨拶してこいという。そこで異人は、安国君と華陽夫

人に会いに行った。 華陽夫人が楚の出身だから、呂不韋は異人に楚の服装をさせたのだ。 華陽夫人は、異人が到着したと聞くと、急いで会ってみたくなった。なにしろ将来を託

す義理の息子だ。 安国君と華陽夫人は、楚の冠を被

かぶ

った背の高い青年が、自分たちの前で御辞儀するのを

見て驚いてしまった。そして近くに呼び、詳しく見てみると、楚の服装をしている。華陽

夫人は、自分の故郷を思い出すと、胸が熱くなった。そして異人を自分の息子にして良か

ったと、心から思った。よろこんで 「私も楚人なのよ!こんなに気を遣ってくれるなんて!本当に私の息子だわ。これから

は、名前を子楚と改めなさい」と言いつけた。 安国君は、子楚が才能のある子だと聞いていたので、さっそく暗記している詩を歌って

くれと頼んだ。子楚は、趙へ人質に出されて十年近くが経っていた。その生活は貧窮のど

ん底である。あとで呂不韋と一緒になったが、彼だって商人、商売や性技には詳しかった

が、学問など知らなかった。 「私は、幼い頃から国外へ人質として出されておりましたので、先生に教わる機会もな

く、覚えておりません」と答えた。安国君は、ガッカリした。 生活が安定したものの、呂不韋は落ち着けなかった。安国君が、子楚を正式な後継ぎと

して認めなかったからだ。彼が王になってくれないと、今までの苦労が水の泡だ。 秦昭襄王が紀元前 251 年に死んで、王子の安国君が秦孝文王となり、華陽夫人は皇后と

なった。これで子楚も、孫から王子になったので、王位継承権を得なければならない。こ

の機を逃せないと、呂不韋が計画した。そして安国君が秦孝文王として即位するパーティ

が開かれた。

64

子楚は、王の前に進み出ると、 「父上は、以前には何度も趙国へ行って戦われたので、趙国の豪傑とも面識が深いと思

います。いま父上が帰国して王となられたことを知り、こちらのことに関心を持っている

ことだと思います。そして彼らの消息に、父上が関心を持たれることを期待しています。

ここで父上が、大臣を派遣して彼らを慰めれば、彼らの恨みも収まって国境も静まり、閉

ざした邯鄲の城門も開くのが早まりましょう」と述べた。 それを聞いた秦孝文王は、幼い頃に人質に出して苦労させたことで、それほど子楚が用

意周到に考える人間になったとは、感心した。 「確かに、その通りだ。すぐに趙国へ使節を送ろう」 そばで華陽夫人も 「ほらね。こんなに用意周到な人を敵に回したら恐いわよ。詩なんか言えなくても、こ

れだけ人を操る才能があれば十分だわ」と応援する。 そこで秦孝文王は丞相を呼び 「私の子供に、子楚ほどの気配りをする才能はない。私は子楚を後継者にすることを決

めた」と宣言した。 こうして呂不韋の計画は、十年の歳月を経て、やっと成功した。こんどは趙国に残して

きた趙姫母子が心配である。呂不韋の最終目的は、趙姫の生んだ長男が秦国に君臨するこ

とだったからだ。 二人の男が出て行き、秦の軍隊が邯鄲を取り囲むと、趙姫母子は苦しい立場になった。

夫は敵国の人質、そして呂不韋は人質の友人と見られていた。警察もやってきた。そして

異人が逃げたことを知ると、毒づきながら帰っていった。警察が来たために、近所では噂

になった。そして趙姫が異人と一緒に、呂不韋の家で暮らしていたことが知られると、近

所の人達や友人は、挨拶もしてくれなくなった。家族にも邪険にされる。こうなったら趙

姫は、二人が迎えに来てくれるのを待つしかない。特に呂不韋は、異人を送ってゆくとき

に、必ず迎えにくると言っていた。 趙国でも、この母子をどう扱ったらよいか判らなかった。人質の価値もない男と一緒に

暮らしている女。子供は、どうやら商人の息子らしい。すると、この女は世話役なのか? 一時は、激情に駆られて人質を殺そうとしたものの、殺したところで意味がない。世話

役の女、そして子供、別に捕らえるほどのことはない。だから趙王は放っておいたが、警

察に踏み込まれたほうは、いい迷惑だ。 そして紀元前 251 年の秋になると、秦孝文王が即位した。そして秦国から使節がやって

きた。さらに異人が、王位継承者になったという。趙王には、これだけでも驚きだった。

65

どうして 20 人も王子がいるのに、無関係の異人が王位継承者になれたか、不思議だった。

そのうえ趙姫は異人の正妻、風采の上がらぬ子供は、王子の息子だという。 ここは秦国に恩を売っといたほうがよいと考えた趙王は、新王の就任祝いとして、子楚

の妻と子供の政を秦国へ帰した。 十三、政の帰国 七歳になった政は、帰国できて嬉しかった。生まれて物心が着いた頃には、敵国の邯鄲

で、人質のような生活を送っていた。しかも秦国が邯鄲を囲んでいたため、邯鄲には物資

がなくなり、すべて自給自足しなければならなかった。近所にいる同歳の少年たちは、秦

国に関係のある政とは遊んでくれなかった。それは近所に住む子供の親たちが、あそこの

家には警察が来たらしいと噂になったからだ。そのうち異人が秦国の人質だったことが判

り、異人を隠かく

まっている呂不韋を襲撃した。しかし呂不韋も異人も逃げた後だった。 そして政は、異人を隠まった呂不韋の息子とされてしまった。秦軍が囲んでいる邯鄲の

なかでは、こうした状況は不利である。だれもが政の敵だった。母親だけしか政を庇かば

って

くれる人がいなかった。 邯鄲では、水を売りにくる行商人も、薪を売りにくる行商人も来なくなってしまった。

各家で雨水を貯め、庭を耕して野菜を作るしかない。こうした状況に自分たちを追い込ん

だのは、政の一族だったのだ。 政は、外へ遊びに出ると、子供たちから石を投げられたり、棒で殴られたりし、傷して

帰ってきた。薬も不足している邯鄲では、母親が傷口を舐めてやるしかなかった。そのう

ち政は外へ出なくなり、家の中でばかり遊ぶようになった。かといって祖父母や趙家の親

戚も、やはり親切にしてくれるわけでない。いつも母親に文句を言い、そのたびに母親が

頭を下げて謝っている。こんな生活が、いつまで続くのかと暗い気持ちでいた。すると秦

国から父親が迎えにくるという。秦に着くと、政は嬉しくてしょうがなかった。まず、ど

こからも石つぶてが飛んでこない。子供が、棒を手にして追いかけてくることもない。近

所の子に、持っているものを奪われることもない。 邯鄲にいたころは、両親と落ちぶれた生活をし、呂不韋に保護されて、楽しいことも少

なかった。父の異人と街を歩くと、通る人達がこちらを指差し、なにやらヒソヒソ話を始

めるので、なんとなく嫌だった。両親と賑やかな商店街を歩くことも、あまりなかった。

そもそも両親と外出することが、あまりなかったのである。 政が四歳になったとき、父と呂不韋がいなくなり、それからは母と二人っきりの生活だ

った。祖父母の家に引き取られたが、親戚は冷たく、母子は全く外へ出なくなった。 幼い頃から近所の子供に殴られ、石をぶつけられ、持ち物を奪われてきた政には、自分

の母親以外、誰も信じることができなかった。父や呂不韋でさえ、幼い自分を残して逃げ

66

てしまった。そんな生活も、ついに終わったのだ。 だが秦についても、やはり政には遊び相手はいなかった。王の後継ぎとなった政は、七

歳から家庭教師がついて勉強を教え始めたからだ。 呂不韋は、秦孝文王が即位したとき、異人を王位継承者にしただけだった。これでは実

権が握れない。そこで華陽夫人と接近した。孝文王も結構な歳だ。それに、あれだけ好き

だった華陽夫人のところにも、七年もしたら孝文王が来なくなった。どうやら新しい愛人

ができたらしい。 呂不韋が姉と会って話した。呂不韋は、後宮にこそ入れないが、華陽夫人の身内とは親

しい仲になっていた。 「どうやら孝文王は、若い女を見つけたらしい」と呂不韋。 「そうねえ。そのことで妹もイライラしているの。最近は、若い女ができたらしく、孝

文王も、そっけないそうよ」と姉。 「私が心配しているのは、そこだよ。いくら正妻だって、いつまでも可愛がってもらえ

るとは限らない。今が、その例だ。こんど、その女に養子ができて、王が後継ぎを変更し

てしまわないとも限らない。そうなってから対策を練ろうと思っても、もう遅い。知らな

い人が王になってしまえば、いくら子楚が頑張っても、ただの平民。華陽夫人が追い出さ

れるのは、目に見えている」と、呂不韋。 「そんな可愛そうなこと。それでは妹が、可愛そすぎるわ」 「妹が可愛そうならば、ここで孝文王が死ねば、万事うまく行くのでは」と、呂不韋。 「そんな恐ろしい話」 次の日、姉は華陽夫人に会いに行った。でも華陽夫人は、姉の話しなど聞いていなかっ

た。華陽夫人は、歳老いた夫より、若い養子の子楚のことが気になった。子楚には正妻が

いたが、自分と歳があまり違わない。自分のほうが子楚の正妻より二つ三つ歳上だった。

どうも最近、孝文王は何かと理由をつけて、私と一緒にいようとしない。それは気になっ

ていたが、華陽夫人には、弟のような子楚が気になって、歳老いた孝文王など、どうでも

よかった。孝文王より、自分の将来のほうが大切だ。 どうも孝文王の毒殺がうまく行かない。下手に動けば謀反人として疑われるとガッカリ

した呂不韋は、以前のように趙姫のところへやってきた。昼間、子楚は、家庭教師に勉強

させられているのでいないのだ。そばにいるのは、息子の政だけ。 呂不韋は言った。 「なかなか迎えに来

れなくて済まなかった。ただ困ったことが起きた。孝文王に、若い

愛人ができたらしく、なかなか華陽夫人のところへ孝文王が戻らないらしい。私は、政を

王位にサッサとつけたいのだが、子楚の王位継承まで危なくなってきた。新しい愛人が子

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楚の王位継承権を剥奪してからでは遅い。孝文王を始末せねばならん」 「その新しい愛人って、もしかして私のことぉ~?」と趙姫。 「どういう意味~?」と呂不韋。 趙姫の話では、趙姫が秦国へやって来た日から、孝文王は趙姫に一見鐘情

いーじぇんぞんちん

、つまり見た

途端に心でカラン、カランと鐘が鳴ったのですなぁ。福引で一等が当たったような気分。 それから孝文王が趙姫に言い寄って来たらしいのです。 趙姫としては、義父だし邪険にはできない。邪険にすれば、呂不韋の計画がダメになる

と思って、痛い男だけどガマンして感じたフリをし、声を上げて騒いだといいます。 「そうか!孝文王の新しい相手とは、趙姫だったんだな」と喜ぶ呂不韋。 「それからは毎日のように孝文王が来るようになった。あなたと会えなくて困るわ」 「それなら話が早い。ここに毒薬がある。もう孝文王も歳だ。十分に生きたし、何人も

側女を持ち、子供も二十人以上いる。あれだけ好きだった華陽夫人を裏切るんだから、こ

の毒薬を酒に混ぜて呑ませるといい。成人なら一回3錠、三回に分けて呑ませれば死んで

しまう」と、呂不韋。 「そんな恐ろしいこと」 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。分かりゃしないよ。毒は速効性じゃない。これにはヒ

素が入っているけど、少量ずつ入っているから、黄酒に入れて呑ませれば絶対に気付かれ

ない。だけど王の後継ぎが決まった今、ほかの王子に王位継承権がゆくと、やっかいなこ

とになるよ。やっぱり私達の息子が王位を継承しなきゃ。それには今、決めに行ったほう

が確実だなぁ」 そう言いながら薬を渡し、趙姫と愛人関係を続ける呂不韋だった。 前にも述べたが、秦孝文王は即位すると3日で死んでしまった。そこで趙の人質であっ

た子楚が即位し、秦庄 襄 王しょうじょうおう

となった。秦孝文王は 53 歳とはいえ、即位して3日で死んで

しまうとは、あまりにもあっけない。秦孝文王の死因は、中毒死だといわれている。 十四、異人の即位 秦庄襄王は、人質の自分が王になれたのは呂不韋のおかげだと信じ、呂不韋を自分の父

親だとして「仲父ちゅうふ

」と呼び、最高の権力を与えた。そして母と呼んでいる華陽夫人を華陽

太后、実の母親である夏姫か き

を夏姫太后とした。これで趙姫も皇后となった。秦庄襄王が即

位すると、呂不韋は総理大臣にされ、文信侯という貴族なって、十万戸の住民を持つ封建

領主となった。 呂不韋は総理大臣になると、秦庄襄王に、 「噂によると東周は、秦国の王が相次いで亡くなったため、我が国の政権が安定しない

と考え、各国へ使者を送って一緒に秦を攻撃しようと扇動しています。西周を滅ぼしたか

らには、東周も残しておいてはなりません。各国は、天皇という錦の御旗に集まって、再

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び秦国を攻撃してくるかもしれません」と言った。 そこで秦庄襄王は、呂不韋を大将とし、十万の軍勢で東周を討った。 紀元前 249 年、名目上の支配者であり、実質的な軍隊を持たなかった東周は、十倍もの

軍勢を持った秦軍に敗れ、長く続いた周朝は滅亡した。 秦庄襄王は東周を滅亡させたのち、韓国を攻めた。そこで韓国は成皋

せいこう

と鞏きょう

を秦国に献上

して講和を求めたので、秦の国境は首都の大梁だいりょう

までとなり、三川郡を設置した。翌年には

蒙驁もうごう

を大将にして趙を攻め、太原を平定した。秦庄襄王が即位して三年目には、蒙驁が魏

の高都と汲を攻めて占領し、趙の楡と新城、狼孟を攻めて 37 城を取った。つまり 37 都市

を占領したのだ。そして王齕おうこつ

に上党を攻めさせて、太原たいげん

郡を置いた。こうして商人の呂不

韋が総理大臣となってからは、秦国の動きは、ますます激しさを増した。だが魏の信陵君しんりょうくん

大将となり、斉さい

を除く五ケ国軍を率いて秦軍を攻めたので、秦軍は黄河周辺から追い出さ

れ、敗れた蒙驁は解任された。その年の五月、秦庄襄王は王位についてから、わずか三年

で病死してしまった。十月に即位して五月に死んだのだから、実質は二年半しか王位につ

いてはいない。 秦昭襄王が死んだのち、秦孝文王が三日、若い秦庄襄王すら三年しか王位になかった。

秦昭襄王が長寿だったにせよ、後の二人は、あまりに短命だった。特に、秦庄襄王が二十

代で死んだことは、あまりにも不自然である。いくら人質に出されて、劣悪な環境で成長

して身体が弱いと言っても、ちょっと若すぎる。 呂不韋は、異人の子楚が秦庄襄王になっても、まだ趙姫との密会を続けていた。父の子

楚が王位に着いたときは、政は十歳だった。母親のところへ、毎日のように呂不韋が通っ

てくる。すると呂不韋が言った。 「なぁ、趙姫。庄襄王がいると、政がなかなか王位に着けないなぁ。それに我々が密会

していることがバレて、庄襄王に知られると、ちょっとマズイことになるなぁ。壁に耳あ

り、障子に目ありというからなぁ。また例の毒を使って、殺してしまおうか」と呂不韋。 「そんなこと、できません」 政はホッとした。馴染みの薄い祖父の毒殺なら、何の感情も起きなかった。でも実の父

に対する毒殺だと事情が違う。父と呂不韋は、生まれたときから邯鄲で四年間も一緒に生

活していた。それから三年ほどして迎えにきてくれて、また三年間ほど一緒に過ごした。

だからお父と呂不韋、そして母の三人だけが、唯一の身内のようなものだった。秦へ来て

から弟も生まれたが、秦では兄弟が顔を会わすことはない。乳母に育てられ、教育係が父

親となるのだ。みんな独っ子のように育てられる。 だから父を毒殺しようという提案を、お母さんが断ってくれてホッとした。 「だけど、このままでは庄襄王に見つかってしまうし、それでは私もここへ来

れなくな

る」と呂不韋。 しかし、趙姫も子楚と結婚してしまうと、子楚に情が湧いてきた。趙姫は泣き出して、

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「そんなこと言われても、二人は私にとって大事な人です。殺すことなどできません」 「秦の法律では、不義密通は、車裂きの刑だよ。おまえが死んだら、残された政が可愛

か わ い

うだろう」と呂不韋。 趙姫は、泣く泣く毒薬を受け取った。このままでは母が父を殺してしまうと、十歳の政

は焦ったが、どうすることもできなかった。 実は、庄襄王は、妻の趙姫が呂不韋と密会していることを、とうの昔に気付いていた。

もともと趙姫は呂不韋の女だったこと。そして無理を言って趙姫を譲ってもらったこと。

呂不韋が自分を秦王にしてくれたこと。どうせ邯鄲で人質のままでいたところで、あんな

貧乏な環境では、妻を持つことすらできなかったこと。もし呂不韋が逃がしてくれなかっ

たら、秦軍が邯鄲を囲んだときに殺されてしまっただろうなどの恩を考えると、目をつむ

るよりなかった。そして、これまでと同じように、呂不韋を父として扱った。 こちらは四十にもなった呂不韋である。毒薬を呑ませているはずなのに、いっこうに庄

襄王が弱る様子がない。さては趙姫は、庄襄王に毒を盛っていないなと気が付いた。考え

てみれば、庄襄王に毒を盛れるほど信頼されている人物は、自分と趙姫しかいない。こう

なったら自分で少しずつ毒を呑ませてゆくしかない。呂不韋は、そう決心した。しかし趙

姫ほど頻繁に庄襄王と会えるわけでなく、一度に多量のヒ素を呑ませれば食べ物の味が変

わってしまうし、家臣たちにも疑われてしまう。こうして少しずつ毒を盛っていったため

に、庄襄王は即位したのちも三年ほど生きられた。 これも呂不韋が、自分の息子を秦王にするため毒殺したと思われる。 十五、政の即位 紀元前 246 年、呂不韋は 13 歳の少年であった政を即位させた。趙の邯鄲で生まれて幼少

時代を過ごした政が王位についた。政は名であるが、秦王の姓は不思議なことに嬴えい

である。 始皇帝が、秦国の正当な王でない疑いは、呂不韋が異常に政の即位を助けている理由だ

けではない。もう一つある。それまでの王は、すべて秦××王と、夏や殷、周王朝の王名

が繰り返されているのに、ここでは秦政王ではなく秦王政となっている。同じ系統なら、

なぜ名前が違うのか? やはり評価されるのを嫌って、秦××王としなかったのか? 政が王位に着くと、呂不韋は配下の将軍たちに、遠交近攻の政策に基づいて、次々と三

晋の領土を攻め取った。十三歳の王には実質的な実権がなく、文信侯という貴族になった

呂不韋が実権を握っていた。自分の食客だった李斯を家来とし、蒙驁もうごう

、王齮お う ぎ

、麃公ほうこう

などの

将軍を配下にした呂不韋は、ついに秦国を手に入れた。そして商人だった呂不韋は、次々

と領土を拡大してゆくのである。

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政が 13 歳で王位に着いた年、晋陽しんよう

が反乱を起こし、蒙驁が平定した。 翌年、秦王が 15 歳のとき、麃公が巻を攻め、三万人を斬首した。 三年目、秦王が 16 歳のとき、蒙驁が韓国を攻めて、13 都市を占領した。その年に王齮は

死んだ。そして再び蒙驁が、魏のちょう

を攻めた。 四年目、秦王が 17 歳のとき、は落ちた。そして秦へ来ていた人質が趙

ちょう

へ帰り、趙の

皇太子となった。 五年目、秦王が 18 歳のときには蒙驁が魏を攻撃し、酸棗

さんそう

、燕えん

、虚、長平ちょうへい

、雍丘ようきゅう

、山陽

城を占領し、20 都市を奪って、秦は東郡を置いた。 このように遠交近攻政策に基づいて三晋を占領したため、六年目の紀元前 241 年、秦王

が 19 歳のとき、各国は斉国を除く趙、韓かん

、魏ぎ

、燕えん

、楚そ

が同盟を組織し、楚の春申君しゅんしんくん

を将軍

にして函谷関かんこくかん

へ攻めてきた。それに対して秦国は、蒙驁、王翦おうせん

、桓齮か ん ぎ

、李信、内史騰な い し と う

の五

将軍を派遣し、それぞれに五万の軍勢をつけて、それぞれ五ケ国の軍隊に当たらせた。王

翦は兵力を楚軍に集中させることにした。そこで、こっそりと兵を動かして、夜襲をかけ

ることにした。だが、忍び込ませた手下によって、夜襲は春申君に知らされた。びっくり

したのは春申君だった。他の四ケ国軍に知らせることもなく、すぐに十キロほど後退した。

秦軍は、楚軍の駐留していた場所に着くと、楚軍が逃げてしまっていたので、秦の五軍は、

残りの四ケ国軍を攻撃することにした。四ケ国の軍曹たちは、リーダーの楚軍が逃げてし

まったことを聞くと、戦う気力がなくなり、秦軍が攻めてくるのを見ると、クモの子を散

らすように逃げだした。こうして同盟して秦国を攻撃しようという計画は、これを境にし

て消えた。 この同盟軍の失敗に加え、楚国が衰退したことから、秦国の六ケ国併合は、やりやすく

なった。 まず遠交近攻政策に基づいて、秦国が趙国を攻めるために、燕国と趙国の関係を壊そう

と使者を送った。燕王は、趙国攻めに一緒に協力してくれたら、趙国が分取った領地を分

けようという秦の誘いに乗った。そこで密約どおり、燕国の王子である丹たん

を秦国へ人質と

して送り、秦王政から派遣された秦の大臣を、燕国の総理大臣にすることにした。それに

よって燕国は、秦国の友好国として扱われ、隣国の趙を気にしなくてよくなると考えた。

使者と丹が一緒に咸陽へ入り、秦王政の派遣する大臣と交換されることになった。そして

燕国へ出した使者と丹が咸陽へやってきた。そこで呂不韋が張唐ちょうとう

を派遣しようとすると、 「私は何度も趙国と戦争しましたので、趙国は私を憎んでいると思います。首相は私を

燕国へ派遣されますが、燕国へ行くには、どうしても趙国を通らねばなりません。私に死

ねとおっしゃるのですか?」と、張唐が同意しない。 張唐の拒否にあって呂不韋は面白くない。家に帰ってもブツブツ言っていた。すると居候

いそうろう

の甘羅か ん ら

が来た。彼は若いが口が立つ。甘羅は、呂不韋の代理で張唐を説得しに行った。 「もし総理大臣のいうことを聞かなければ、大臣を許さないだろう。趙国を通るときに

71

襲われるとは限らないが、命令を拒否し続ければ、大臣だけではなく、一族郎党まで殺さ

れてしまいますよ」 それを聞くと張唐は恐れ、命令にしたがうと返事した。張唐と甘羅は、一緒に呂不韋を

訪れて、燕国へ行かせてくれと頼んだ。喜んだ呂不韋は、張唐に出発の準備をさせると、

甘羅に礼を述べた。すると甘羅は 「張唐殿は、燕国へ行きたがっておられるが、途中で通る趙国が恐いらしい。そこで私

を趙国へ工作しに行かせてください。張唐殿が通とお

っても安全にしてきます」と言う。 呂不韋から話を聞いた秦王政は、わずか十数歳の甘羅を官僚にし、十台の馬車を与え、

百人を付けて趙国へ行かせた。 趙国では趙孝成王

こうせいおう

が死に、息子の趙悼襄王とうじょうおう

の時代になっていた。趙悼襄王は、燕国と秦

国が友好条約を結んだことを聞いて心配していた。そこへ秦国から使節がやってきたと聞

いて、すぐに人をやって出迎えて見ると、まだ子供のようである。不思議に思いながらも 「ようこそ趙国へ、どうした御用件で?」と尋ねた。 すると甘羅は 「王子の丹が、人質として秦国へ来ましたが、大王は御存じですか?」と聞く。 「知っています」と趙王。 「では、張唐が大臣となって燕国へ行く予定になっていることは?」と甘羅。 「やはり知っています」と趙王。 「すべて御存じなら、貴国の立場も判っておられるでしょう。燕の王子丹が秦国へ来た

のは、燕国が秦国を信頼しているからです。秦国の大臣が燕国へ行くのも、秦国が燕国を

信頼しているからです。燕国と秦国が信頼しあっていれば、趙国は危険な立場になります」

と甘羅。 「どうして?」と趙王。 「秦国と燕国が連合し、もし一緒に貴国を攻撃して河間

か か ん

一帯の土地を奪ったらどうしま

す。それを阻止するには、私が思うに、大王は河間の五城を秦国へ献上すればよいと思い

ます。そうすれば秦王が喜ぶでしょう。それなら私が秦王を説得して、張唐を燕国へ行か

せないようにします。そうすれば貴国が燕国を攻撃したとしても、秦王は自国の大臣がい

ないので助けないでしょう。そうなると強大な趙国は、弱い燕国から幾つでも城を奪えま

す。これなら秦王に五城を送っても、十分に採算が合いますよ」と甘羅。 趙悼襄王は、五城を元手にして燕国を侵略し、多くの土地を手に入れることは良い考え

だと思い、すぐに甘羅へ百斤の金子き ん す

を与え、河間にある五城の地図と戸籍簿を渡した。こ

うして甘羅は、成果を得て秦国へ帰っていった。 秦王政は、領土続きの五都市を受け取ると、甘羅の言葉にしたがって張唐の燕国派遣を

取り消した。趙悼襄王は張唐が燕国へ行かぬことを聞き、燕国が孤立したことを知ると、

すぐに李牧り ぼ く

を大将にし、燕国を侵略して数都市を奪った。こうして秦国と趙国は領土を拡

72

大したが、燕国には大損害だった。燕の王子である丹は、秦国の都である咸陽で、そのニ

ュースを知った。そして幼馴染みである秦王政に対する信頼がなくなった。趙国が燕国を

侵略していることを知り、何とか阻止しようと焦って、甘羅と交渉しようと思ったが、切

れ者の甘羅を恐れた呂不韋が、彼を毒殺してしまった。 大臣と人質交換する約束だったのに、自分だけ来てしまった丹は、呂不韋と交渉しよう

と思った。だが呂不韋も秦王に嫌われて、丹と同じようにイライラしていたのである。 秦王は自分なのに、呂不韋が口出しして政治を動かしている現状を、非常に苦々しく思

っていたのだ。呂不韋は、王位を狙っているに違いないと心配した。 紀元前 240 年、秦王が 20 歳のとき、秦将軍の蒙驁が死んだ。だが秦は、龍

りゅう

、孤こ

、慶都け い と

そして汲きゅう

を攻めた。この年に、政の祖母である夏太后が死去した。 紀元前 239 年、秦王が 21 歳のとき、秦王の弟である長安君が蟜

きょう

を将軍として趙を攻め

た。だが、その軍を使って秦王政に反乱したため、長安君は屯留とんりゅう

で殺され、軍人たちは斬

り殺されて、その一族は臨洮りんとう

へと移住させられた。このとき多くの将軍が殺されて、死体

は槍で突かれ、川魚の餌となった。その年に嫪ろうあい

が貴族になって長信君と名乗った。 十六、政の危機 長信君について解説する。長信君が登場するまで、秦庄襄王の王妃であった趙姫は、呂

不韋と密通していた。そして政が成長したのちも、母の密通は止まなかった。 趙姫と密通していることが 公

おおやけ

になることは、呂不韋にとってもまずかった。そこで呂不

韋は、嫪を皇后の密通相手にしようと決めた。趙姫も三十を過ぎると、男なしでいられ

なかったが、呂不韋は趙姫の相手をするのに、体力の限界を感じていた。そこで昔の性技

仲間を集めて、そのなかの嫪という男に白羽の矢を立てた。やはり趙から連れてきた男

だった。呂不韋の部下には、趙から連れてきた男が多い。 趙姫に密通相手として嫪を紹介しようと考えた呂不韋は、邯鄲から嫪を連れてきた。

この男、有名な絶倫男であった。 秦国へ嫪を連れてきた呂不韋は、宴会を開くと嫪に余興をさせた。その余興とは、

芸妓を相手に、みんなの前で本番をさせるというものだった。また宴会を開いて嫪を裸

にし、その一物を大きくさせて観衆に見せたこともあったという。 この嫪という男、恥ずかしさなどという感情を持ち合わせておらず、裸になることを

好む男だったようで、自分の一物を褒められると喜んだという。 あるとき呂不韋は、やはり宴会を開いた席で、桐の木で作ったかなり重たい車輪を、勃

起した嫪の一物に引っ掛けさせた。嫪は、車輪をブラ下げたまま、軽々と庭を三周し

たという。そして陽物は、車輪を降ろしても勃起したままだったという。それを見た観衆

は、驚いて拍手喝采した。そうした噂は宮中にいる趙姫太后の耳にまで届き、秦王政にも

73

聞こえてきた。趙姫は、何とかして嫪を手に入れようと思った。政は、また呂不韋が、

よからぬことをたくらんでいると、苦々しく思っていた。 呂不韋が、いつものように趙姫と会いにゆくと、趙姫が呂不韋に頼んだ 「あなたの食客となっている嫪と申す男、私に下さらないかしら?」 呂不韋は、作戦が図

に当たったと喜んだ。 そこで呂不韋は、人を使って嫪を告訴させた。そして裁判官は、すぐに宮刑

きゅうけい

を宣告し

た。宮刑とは、睾丸を除去してしまう刑罰である。この『史記』を書いた司馬遷し ば せ ん

も宮刑に

された。この刑罰を受けると、男でも宦官かんがん

として後宮に入れる。嫪は宮刑となったが、

処刑官は買収してある。 処刑官は、処刑室へ連れてゆくと、嫪のヒゲと眉毛をすべて抜き去った。なんでも宮

刑をすると、男性ホルモンがなくなり、ヒゲや眉毛が生は

えなくなるという。ヒゲが抜ける

のは判るが、眉毛まで抜けるというのは解せない。しかし、このとき眉毛まで抜いたとあ

るので、そうなのであろう。そして嫪は一物を付けたまま、宮刑にされた宦官という触

れ込みで後宮に入った。 こうして趙姫のお相手は、呂不韋から嫪へと代わった。ほかに仕事のない嫪は、趙

姫の欲望のため、精力の限界まで付き合わされた。 こうして趙姫太后に気に入られた嫪は、太原

たいげん

郡を領地としてもらい、長信君ちょうしんくん

という貴

族になって、強大な勢力になった。このとき秦は趙を侵略していた。 紀元前 238 年、秦王が 22 歳のとき、秦は魏の垣

えん

と蒲陽ぶ よ う

を侵略した。こうして次々と領土

を広げてゆく、それが呂不韋の政策だった。秦の始皇帝が即位してからは、毎年のように

呂不韋は三晋を攻め続けて領土を拡張していった。外に対しては、快進撃を続けていた秦

だったが、国内では大変だった。 九月になると、嫪が官宦でないと、政に密告するものがあった。そこで事実を調べる

と、母には子が二人生まれており、子供はかくまわれていた。それを知った政は、 「父が死んでいるのに、なぜ子ができるのか?」と怒鳴って、二人の子供を殺した。 自分の子供たちを殺されて怒ったのは、長信君の嫪と母親の趙姫である。二人は、矯王

きょうおう

の印章と太后の印章を使って、県の軍隊と衛兵、騎兵隊、戎翟君公じゅうてきくんこう

、側近の者などを動か

し、秦王政に反乱した。政は長信君の反乱を知ると、総理大臣、昌平君、昌文君に命じて

長信君に当たらせた。咸陽での戦いでは、数百もの首が切られ、兵士は誰もが昇格し、宦

官までもが内戦に加わった。そして嫪は戦いに敗れて逃げた。そこで国中に、嫪を生

きて捕まえたものには金百万、死んでいれば五十万との懸賞金が懸けられた。衛尉竭え い い け つ

内史肆な い し し

、佐弋竭さ よ く け つ

、中大夫令斉ちゅうだいふれいさい

ら二十八名が晒し首さ ら し く び

となり、他の者は車裂きの刑になった。

手足をロープで結ばれて引っ張られ、バラバラにされ、その一族が殺された。そして側近

や罪の軽微な者たちは無給となった。こうして四千家以上が貴族の地位を奪われ、嫪の

74

家にいた数千人の使用人は、すべて蜀しょく

の僻地へと流された。その年は寒く、家を奪われた

者たちのなかには、死者まで出たという。それでも怒りの治まらなかった政は、母の趙姫

まで殺そうとしたが、それは臣下に止められた。そこで母を咸陽から雍よう

へ移して軟禁した。

雍は、秦の以前の都である。 十七、呂不韋の死 その後、この事件を詳しく調べてみると、どうやら呂不韋が係わっているらしい。そこ

で呂不韋も殺そうとしたが、先王に対する功績が大きいので殺すべきでないとする意見が

多く、また呂不韋の家には何人もの遊説の弁士がいたため、政は殺さなかった。 しかし、それでは政の気が済まぬ。紀元前 236 年、呂不韋が嫪を後宮へ入れたことが

発覚した十月、呂不韋は総理大臣を辞めさせられた。 そのころ斉

さい

と趙が、秦王に酒を届に来た。そのときやってきた斉人さいじん

である茅焦ぼうしょう

が 「秦は天下のことが重要です。それなのに母の太后と仲違いしていることが判れば、諸

侯が秦の言うことを聞かなくなるでしょう」と言う。 そこで茅焦の勧めにしたがって、政は母を雍へ迎えに行って咸陽へ連れて帰り、再び甘

かん

泉宮せんきゅう

へ住まわせた。 秦王は、呂不韋が外国人だったため外国人を追い出すことにした。だが李斯

り し

が諌いさ

め、そ

れを止めさせた。李斯は総理大臣だが、やはり最初は呂不韋の食客だった。だから恩人を

なんとかして助けたかったのだ。また李斯自身も異邦人の楚人だった。 「秦が発展したのは、才能のある外国人を受け入れたからです。衛国から来た商鞅

しょうおう

は、

衛王に受け入れられず、秦国へ来ました。彼の改革のおかげで、秦は強国になり、魏から

領土を取り戻せたのです。蘇秦そ し ん

が来たとき、秦国は彼を冷たく追い返したので、蘇秦は各

国を連合させ、秦は発展しなくなりました。そして外国人の張儀ちょうぎ

を登用したため、再び秦

は発展しました。秦を強国にするためには、外国人を追い出してはなりません」 本当は、もっと長い文なのだが、ページの都合で端折

は し ょ

った。まぁ、こんな文だった。 そして李斯は秦王に、今は外国人を追い出している場合ではなく、まず韓国を併合して

他国を恐がらせたほうがよいと勧めたのだ。 秦王は、李斯の言うことはもっともだと思い、彼を韓国へ行かせた。すると韓王は、自

国が秦に併合されることを恐れ、何とかして秦の勢力を弱めようとした。そこで大梁人だいりょうじん

尉繚うつりょう

を呼んで、秦王のもとに行かせ、こう言わせた。 「今や秦が強大となり、各国の王は地方の県知事のような存在になってしまいました。

しかし私の心配は、各国が同盟して秦国と対抗することです。各国に同盟されたら、思わ

ぬ事態になりかねません。そうした同盟軍によって、智ち

伯はく

、夫差ふ さ

、湣王びんおう

は滅ぼされたので

す。だから大王は、物欲を捨て、勢力のある臣下を抑え、謀略による反乱を起こさせない

ようにせねばなりません。そのような政治をすれば、三十万の金を損失したとしても諸侯

75

は滅びるでしょう」 勢力のある臣下とは、恐らく呂不韋のことだろう。 ここで少し解説しよう。斉王

さいおう

であった湣王は、前にも書いたので周知のとおりである。

智伯というのは晋が三つに分かれる前、晋国で勢力のあった貴族だった。昔の晋国は強国

だったが、末期には王の権力がなくなり、臣下に乗っ取られた形で、王が罷免ひ め ん

されてしま

った。そして晋国は、封建ほうけん

領主りょうしゅ

であった四家に分割されてしまった。そのうち最も勢力が

あったのが智伯である。智伯は魏家と韓家、そして趙家に、領土と領民を智家へ譲れと命

じた。魏家と韓家は戦いを避けて百里ずつの土地と領民を献上した。しかし趙家は断った。

すると智伯は紀元前 455 年、魏家や韓家と一緒に趙の領土を囲んだ。なかなか城壁都市が

落ちなかったので、最後は水攻めにして都市内を水浸しにした。もう一息で趙家が落ちる

ところで、趙の襄子は「趙が滅んだあと、こんどは魏家と韓家の番だ」と説得した。それ

で趙、魏、韓が連合軍となって智軍に襲いかかり、智伯は殺されて、その領土を三家で分

け、三晋と呼ばれる趙、魏、韓が誕生したのであった。 夫差というのは呉王

ご お う

の夫差である。呉越同船ごえつどうせん

という言葉があるが、呉越ご え つ

は代々に渡って

戦っていた敵同士だったのである。紀元前 496 年、呉国は越国に戦を仕掛け、呉国王の闔廬が い ろ

は、みずから大軍を率いて浙江省せっこうしょう

の嘉興かきょう

一帯で戦争した。越軍は背水の陣で、河を背にし

て戦った。一般に中国南部の河にはワニがいるので、人々は泳がなかった。そうした泳げ

ない人々にとっては、背水の陣は逃げることができないのである。そこで越軍は決死隊を

組織し、三列になって呉軍の前へ行き、自分で刀を取り出すと、自分の首を切り落とした。

呉軍は、こんな自殺隊を見たことがなかったので、あっけにとられて茫然とする。すると

越軍が襲いかかったのだ。混乱した呉軍は、さんざんに討ち敗られた。呉王の闔廬は逃げ

る途中、倉皇そうこう

にて毒矢が足に当って死んでしまった。闔廬は死ぬ間際、息子夫差の手を取

って「この恨みを忘れるな!必ず仇を取ってくれ」と死んでいった。 夫差は国の政治を伍子胥

ご し し ょ

に任せ、いつも官邸へ行くときは「夫差よ、父の恨みを忘れる

な」と叫んで、自分に言い聞かせるのだった。そうして国力を強めることに力を注いだか

いがあって、3年後には呉国の国力が充実した。伍子胥は機会が熟したと見るや、今こそ

越を討つべきだと進言した。そこで夫差は精鋭軍を選んで越へ行き、夫椒ふしょう

にて越軍を大敗

させた。越王の勾践ごうせん

は、残った五千の兵とともに会稽かいけい

山頂へと逃れた。それを知ると夫差

は、大軍を率いて会稽山を取り囲んだ。そのとき勾践は、家臣の範蠡はんれい

と文種ぶんしゅ

に相談した。「あ

のとき範蠡の言うことを聞いて、呉を滅ぼしてしまえばよかった。軽率だったから危機に

陥ってしまった」と勾践は後悔する。範蠡は「こと、ここに至っては、越国は救いようが

ありません。贈り物を持って呉へ行き、罪を認めて謝り、和睦わ ぼ く

しなさい。それでも許さな

ければ、彼らの奴隷となって許しを乞こ

いなさい。そうすれば助かるかもしれません」と答

える。勾践は、そこまで至ってしまったことを知ると、文種に贈り物を持たせて謝りに行

76

かせた。文種は夫差の前に来ると土下座をし、額を地面に何度も叩きつけた。額から血を

流しながら文種は「私は、亡国の王の命令でやって来ました。私は大王に、勾践の最後の

願いを伝えにきました。勾践は大王の家臣となり、勾践の妻をメイドにしてやってくださ

い。そうなって日夜、大王に仕えたいと申しております」と伝えた。 それを聞くと夫差は喜んだ。夫差が何も言わないのを見ると、伍子胥は 「強盗は養えず、敵は従いません。呉国の国力は、現在でも強いとは言えず、この機会

を逃せば、必ず勾践に仕返しされます。ましてや勾践は、自国の兵を決死隊に仕立てるほ

ど陰険な男です。殺しておかねば禍根か こ ん

を残します」と言う。文種が帰ってくると、勾践は

焦り、五千の兵を集めて敵陣突破を図はか

るという。しかし範蠡と文種が反対し、好色な夫差

に美女を送るように勧める。そして呉国の宰相へ贈り物をして取りなしてもらうことにし

た。こうした周囲から固める方法は、戦国の世では頻繁にやられていた。 宰相

さいしょう

が美女と文種を連れて夫差のテントまでやってきたときは、止める伍子胥が不在だ

った。文種は夫差の前で正座し「勾践は私の報告を聞いて、なぜ自分の気持ちを大王に正

確に伝えなかったのだと怒鳴りました。勾践は、誠心誠意で臣下になろうとしているので

す。もし大王に許されるならば、これから越国の財宝は大王のものです。もし大王に聞き

入れられなければ、勾践は国民全てに妻子を殺させ、五千の兵士とともに大王と最後の決

戦をすると申しております」という。宰相も「誰もいない越国を占領しても、何の利益に

もなりません。それより勾践を家臣にしたほうが全国制覇のためにもプラスになります」

と口添えした。当時の中国は七雄にまとまっておらず、小国が散在していたのである。自

分の宰相まで口添えするものだから、夫差は父の恨みを水に流し、勾践と講和して兵を退

いてしまった。そのことを伍子胥は知って、引き揚げる兵を見ながら涙を流したが、もう

手遅れだった。勾践は会稽から帰国すると、一生懸命に国力の充実に勤めた。勾践は会稽

山での屈辱を忘れないために、大きな熊の胆嚢たんのう

を傍らに置き、毎日それを嘗めることを日

課とした。胆嚢は非常に苦いもので、一般には熊胆くまのい

と呼ばれて漢方薬にされている。苦い

胆を嘗め、焚き木をベッドにして眠り、殺されかけた会稽山での苦い日々を思い起こす。

そして自分は呉王の奴隷になったつもりで、自分で布を織って衣服を作り、自分で畑を耕

して作物を作り、肉食を止めて菜食にし、華美な服をやめて粗末な衣服を身につけ、人々

と一緒に労働した。そして王の乗る篭まで廃止して、自分で歩くことにした。こうしたこ

とにより宮殿では、かなりの人員が削減されて農業に従事できるようになり、人々も税金

が安くなったため生活も豊になって、子供を育てる余裕もできた。こうした越王を見て、

越王のもとで働きたいという人材が国の内外から集まってきた。越王は政治を範蠡に任そ

うとしたが、範蠡は「私は適任ではありません。確かに軍事にかけては私が文種より上で

すが、政治に関しては文種が私より優れています。私は文種が適任と思います」と述べた。

そこで文種を総理大臣にし、範蠡を別の任務に当たらせ、官僚の一人を呉国へ人質として

送った。こうして七年が過ぎ、越国の国力が充実したので、勾践は呉国へ攻め込もうとし

た。すると官僚の逢同ほうどう

が「まだ時期ではありません。現在の呉国は、諸侯のうちでも強国

77

の一つで、うかつに戦ってはなりません。戦うときは勝たねばならず、負けるわけにはゆ

きません。今は多くの国が呉国に不満を抱いています。だから楚、晋、斉の三国と連合し

ましょう。呉を取り巻く三国と、呉国は必ず戦争になります。そうして呉が戦争で疲憊ひ へ い

たところを攻めれば、絶対に負けません」と進言した。勾践は、その言葉に従った。そし

て二年が過ぎたとき、呉王は斉さい

に戦争を仕掛けようとした。伍子胥は「勾践は国民と苦楽

を共にしていると聞きます。こうした人間を生かしておいては、呉国のためになりません。

大王は相手を間違えています。まず越国を攻めるべきです」と進言した。しかし夫差は進

言を聞かずに勝利して帰国し、伍子胥に「御前の言うことに従っていれば、今日の勝利は

なかった」と皮肉った。だが伍子胥は「喜ぶのは早すぎます」と諌めた。しかし夫差は怒

り狂い、伍子胥が老いぼれて役に立たなくなったと罵った。この様子を見た伍子胥は剣を

抜いて自殺しようとしたが、大臣たちが助けたので無事だった。 こうした事情を知った文種は「どれだけ夫差が傲慢か試してみましょう」と言って、呉

国へ食糧を貸してくれるよう頼みにいった。夫差は、何の疑いもなく貸してくれた。伍子

胥は反対したが、もはや伍子胥の意見など聞き入れられなかった。また宰相が伍子胥を避

難する文章を献上したこともあり、夫差は伍子胥に剣を送った。剣を送られた伍子胥は、

夫差の前まで来ると、いきなり笑い出した。夫差は驚いて「死ぬというのに何がおかしい

のだ」と尋ねた。伍子胥は「私がおかしいのはバカ殿を見ているからだ。私は、おまえの

父親を助けて国力を充実させた。また、おまえを王にしてやった。おまえは私に国の半分

をやると言ったが、私は断った。しかしデマにのって私を殺そうとする。私も老いたので

死んでも惜しくない。だが呉国の未来が心配なのだ。こんなバカ殿では、呉国が滅びるの

も時間の問題だ」、そう言うと伍子胥は、送られた剣で自殺した。伍子胥の死が越国に伝わ

ると、範蠡は時期到来とばかりに軍を集めた。邪魔者のいなくなった勾践は、数十万の兵

を率いて呉国へ向かった。だが夫差が国費を無駄遣いしている呉国では、軍隊の戦闘力が

なくなっており、越軍の攻撃にひとたまりもなく敗れ、夫差は姑蘇こ そ

山頂へ逃げた。今度は

呉が講和を求める番で、夫差は官僚の公孫雄こうそんゆう

を下山させて講和を求めた。公孫雄は裸にな

り、背中にイバラを背負って正座したまま勾践の前に出た。「夫差の遣いで来ました。彼は

昔、大王の罪を許しました。ここで大王に許してもらえるのなら、夫差は大王の臣下にな

ります。昔、会稽山で、夫差は大王を助けました。今度は大王が助ける番です」という。

勾践が心を動かされたと感じると、範蠡は「まさか大王は、熊の胆を嘗め、焚き木の上に

寝て暮らした、この十数年を忘れたわけではないでしょうね。彼が殺した我々の国民の恨

みを忘れたわけではないでしょうね。大王が彼を許せば、あなたはもう一人の夫差になっ

てしまいます」と言う。それを聞くと勾践は、一言もなかった。範蠡は太鼓を叩くと裸の

使者に言った。「さあ、早く逃げなさい。ぐすぐすしていると、あなたも殺されてしまいま

すよ」。そして夫差は殺されてしまったのだ。 こうした尉繚の話は、秦王の心に響いた。秦王は即位したものの呂不韋が実権を握り、

78

長信侯や母に殺されかけたのだ。母は父王を裏切って、子まで生んでいた。そこで秦王は

尉繚を自分と対等な扱いにし、衣服や食事も尉繚と共にした。しかし繚は秦王を「蜂の巣

のような鼻、切れ長の目、鳥のような胸、山犬のような声であり、恩を感じず、残虐で欲

深い心を持ち、人の下にいて、心意気が合えば一緒に食事する。私は平民なのに、常に私

を下から見上げている。秦王が本当に天下を統一する気があれば、天下は全て虜とりこ

になるで

あろう。長くいるべきではない」と語っている。秦王が引き留めたが尉繚は去り、それか

ら秦国は、軍事には尉繚の策を取り入れ、実行するときは李斯を使うようになった。 尉繚の文によると、秦王は、団子鼻、細目、胸が大きく、甲高い声で、背が低い、ただ

のワケありの不男である。美人の母から生まれ、王族の血を引くものが、このようにパッ

としない男だとは意外であるが、23 歳の秦王は、反乱された背の低い男だった。 紀元前 235 年、秦王が 25 歳のとき、王翦、桓齮、楊端

ようたん

に鄴ぎょう

を攻めさせ、九都市を占領

した。さらに王翦は、閼与え ん よ

と橑楊ろうよう

を攻めて全軍に併合した。 紀元前 234 年、秦王が 26 歳のとき、首都の咸陽から河南へと移住させた呂不韋に、政権

復帰を望む声が多くなった。呂不韋が首都を追い出されたときには、誰も何も言えなかっ

たが、1年もすると「政が横暴だから呂不韋が復帰してくれ」と望む声が多くなった。 秦王政は、このままではクーデターが起き、自分の立場が危うくなることを心配した。

そこで呂不韋に手紙を書いた。 「文信侯よ。あなたは秦に何の功績がある? 秦は、あなたを河南の領主とし、十万戸

の領民を与えた。あなたは秦と何の血縁がある? 仲父と呼ばれているが、あなたの仲間

は蜀に移された」と手紙を書いた。 その手紙を受け取った呂不韋は、毒を飲んで自殺した。 この自殺は非常に不思議なことである。人望のなかった長信侯でさえ、反乱を起こして

軍を動かし、秦王は危険な状態となった。仲父と呼ばれて 13 年も政治を握ってきた呂不韋

には政権復帰を望む声が多く、反乱を起こせば響応きょうおう

するものも大勢あるだろうし、自殺し

なくとも秦王になれたはずである。長信侯だって、呂不韋が反乱に加わると思っているか

ら反乱を起こしたのだ。こうした経過が、政は呂不韋の息子であるとされる所以である。 毒を飲んで自殺した呂不韋は、密葬にされた。そして呂不韋の家来や近いものは、晋人

だからと追い出された(呂不韋は、三晋の商人だから、趙から連れてきた人々も大勢いた)。そして秦人で六百石以上の収入があるものは、爵位を奪われて役職を下げられ、五百石以

下の収入で呂不韋に近くないものは、爵位を奪われないものの役職を下げられた。それか

らは国政に参加するもので、嫪や呂不韋の息がかかった者がいなくなった。そして秋に

は、再び嫪の家来だったものを蜀へ移住させた。 こうして政は、名実ともに秦王となった。 紀元前 233 年、秦王が 27 歳のとき、桓齮は趙の平陽

へいよう

を攻め、趙の将軍を殺し、十万の兵

を斬首ざんしゅ

した。 紀元前 232 年、秦王が 28 歳のとき、趙の平陽を攻めた桓齮は、宜安

ぎ あ ん

を奪い、守っていた

79

将軍を殺した。桓齮は、平陽と武城を平定した。 紀元前 231 年、秦王が 29 歳のとき、秦の大軍は、一軍が鄴、もう一軍は太原へ行き、狼孟

ろうもう

を占領した。 紀元前 230 年、秦王が 30 歳のとき、秦国は挙兵して、韓国から南陽の地を受け取り、一

時的に騰とう

に守らせた。そして魏が秦へ領地を献上し、そこへ秦は麗邑れいゆう

を置いた。 紀元前 229 年、秦王が 31 歳のとき、内史の騰が韓国を攻め、韓王の安を捉えて、韓国は

秦に吸収されて郡となった。それが穎川えいせん

である。この年に華陽太后が死去した。 紀元前 228 年、秦王が 32 歳のとき、大軍を起こして趙を攻めた。王翦は上地から井陘

い け い

下り、端和た ん わ

は河南省(河内)、羌瘣きょうかい

は趙を攻め、端和が邯鄲市を囲んだ。 紀元前 227 年、秦王が 33 歳のとき、王翦と端和は、趙の東陽を占領して趙王を捉えた。

ついでに燕国も攻めようと軍が中山ちゅうざん

に駐屯した。こうして遠交近攻政策を基に、三晋のほ

とんどは秦国の手に帰し、残るは大国の楚と斉、小国の燕だけとなった。秦王は邯鄲を攻

め落とし、隠れ住んだ昔の恨みを晴らそうと、邯鄲の住民を全員、穴のなかに生き埋めに

した。邯鄲の住民が生き埋めになったのを見届けると、秦王政は帰国した。この年に、政

の母親である趙姫太后が死去した。趙王が殺されると、趙の王子である嘉か

は、一族の数百

人を率いて自らを代王だいおう

と称し、燕国とともに上谷じょうこく

にて挙兵した。秦の他国への通り道であ

る三晋が滅んでは、次に侵略されるのは自国だと焦ったのが燕国である。 十八、秦王の暗殺計画 紀元前 226 年、秦王が 34 歳のとき、燕

えん

国の刺客しきゃく

である荊軻け い か

が、秦王暗殺にやってくる。

これは、もうちょっとで暗殺が成功するところであり、もし暗殺が成功していれば秦の中

国統一はなかった。そのため詳しく解説する。 燕国の王子である丹

たん

と秦王政は、どちらも趙国にいた人質であり、幼馴染みだった。そ

れが終わると弱国である燕の王子丹は、秦国と同盟を結ぶために人質となった。だけど秦

の大臣である張唐ちょうとう

は、燕国へ行かない。そのうちに趙が燕国を侵略したが、秦国は助けな

い。甘羅か ん ら

に詰問しようとしたが死んでいる。幼馴染みである政には会ってもらえない。 そこで紀元前 232 年、丹はボロボロに破れた服に着替え、顔に泥を塗って汚い格好をし、

下男のフリをして函谷関かんこくかん

の関所を抜けると、一目散に燕国へと逃げ帰った。そして何とか

して恨みを晴らしたいと思っていた。暗殺計画の6年前である。 三晋を併合した秦には、楚、斉、燕へ派兵するときの障害物国家がなくなった。そして

楚や斉と戦い、少しずつ領地を増やしていった。楚や斉などの強国ですら秦に勝てないの

だから、燕国などはひとたまりもない。丹は、政と小さい頃から一緒に遊んだ仲なので、

彼の性格をよく知っていた。趙は、なんども秦に攻撃されており、政は敵国の人質の子供

だったのだ。生まれながらにして周囲は敵だらけ。毒にも薬にもならない燕国の丹とは、

80

同じ人質といえども立場が違う。政は、見つかれば殺されかねない。父親も政を捨てて逃

げ帰ってしまっている。そんな人間関係の中で幼少期を過ごした政は、周りの人間を敵と

してしか見られないのだ。幼馴染みのいる燕国だって、併合するに決まっている。 丹は、自分の先生である鞠武

き く ぶ

に、どうしたらよいか尋ねてみた。先生は 「弱小国の燕が、強大な秦国と敵対できるはずがない。今や秦国は、諸侯の領土を虎視

こ し

眈々たんたん

と狙っており、国家存亡の危機である。強国の斉や楚ですら敵対できない」という。 「じゃあ、邪悪な秦国の野望を防ぐ手立てはないと言われるのですか?」と丹。 「まあ、ゆっくりやるしかないだろう」と鞠武。 丹は、自国が侵略される前に、政を殺してしまわなければならないと考えた。ちょうど

そのころ燕で、秦舞陽し ん ぶ よ う

という殺人犯が処刑されようとしていた。十三歳で殺人を犯してい

る。その殺人犯に度胸があると思った丹王子は、どうにか彼を救い、自分の食客しょっかく

にした。

食客というのは居候である。その一件から、燕王子の丹が勇者を捜しているという噂が、

燕国中に広まった。その噂は、燕国の山中に隠れ住んでいた樊於期は ん お き

の耳にも届いた。 樊於期は、もともと秦国の大将だったが、政の弟である長安君

ちょうあんくん

が反乱したとき、反乱軍

に加わっていた。そして長安君が殺され、樊於期は燕国に逃げて隠れていたのだ。 丹が勇者を捜していると聞くと、樊於期は丹のもとへ行き、名乗りを上げた。丹は樊於

期を賓客として迎えると、易水い す い

の東に大きな家を建ててやって住まわせた。 そのうわさを聞いた鞠武は 「そんなことをしてはいけません。秦国の犯罪者をかくまえば、秦国に攻める口実を与

えてしまいます。そうでなくとも秦国は、他国を占領しようと狙っているのですよ。燕国

の軍事力では、猫と虎が戦うようなものですよ」と止めた。だが丹は、 「私を信頼して出てきたのです。秦が恐いからといって殺すことなどできません。それ

に樊於期の敵は秦、燕国の敵も秦です。共通のものを敵とする戦友なんですよ」という。 「では匈奴

きょうど

に送って、燕国から逃げましたと言えばいいのです」と鞠武 「名乗り出たものを裏切ることはできません」と丹 「では仕方がない。燕国は、今や国家存亡の危機に立たされている。私には、どうしよ

うもない。田光でんこう

先生を紹介します。彼なら救ってくれるかもしれない」 丹が田光先生を紹介してくださいと頼むと、鞠武先生は快く承諾した。 鞠武先生が、友人の田光に丹を助けてくれるように頼むと、田光も快く承諾した。すぐ

に丹の屋敷にやってきたので、丹は慌てて出迎え、自分の部屋に通すと人払いをした。 「燕国と秦国は、並び立ちません。いま秦国は、国境に迫って軍事力を見せつけていま

す。どうしたらよいか教えてください」と丹。 すると田光先生は 「私は、老いぼれて能力もなく、貴方の望みを成し遂げられません。ですが友人が一人

おります。彼なら成し遂げるでしょう」と答えた。

81

それを聞くと丹は喜んで、 「私を、その方のところへ連れて行ってはもらえないでしょうか?」と頼んだ。 「いや、私が彼を連れてきましょう」と田光が言う。 丹はハッとして 「このことは私と先生だけの秘密です。決して人には話さないように」と頼んだ。田光

は、うなずくだけだった。 田光は高齢で、腰が曲がっていた。その田光がワザワザ遠くから荊軻を尋ねてきてくれ

た。荊軻が招き入れると、自分の代わりに丹を助けてやってくれという。田光は、荊軻の

古い親友である。田光の頼みとあれば断れない。荊軻も、快く田光の頼みを聞き入れた。 では、丹のところへ出かけようというときになって、田光が、 「この件は、尋常な事ではない。私が王子と別かれるとき、王子は『くれぐれも秘密を

守ってくれ』と言われた。いい歳をしたものが事を成すのに、人に疑われるようなことで

はいけないと聞く。王子が私に、そんなことを言うのは、私に疑われるような行動がある

からだ。人が行動に疑いを持たれるのは、人格に問題があるからだ」と言うと、剣を抜い

て自殺しようとしたので、荊軻が慌てて止めた。田光は 「早く王子に会ってくれ。そして田光が死んだから、秘密は漏れないと伝えてくれ」と

いうと心臓を突き刺した。 ここで荊軻について解説しておく。 荊軻は、衛

えい

の人である。もとは斉人さいじん

で衛に行き、衛から燕えん

に来た。荊軻は剣の達人だっ

たので、衛王に剣術を教えようとしたが、衛王は相手にしなかった。のちに秦が魏を滅ぼ

したため、衛王は一般人になった。荊軻が楡次ゆ じ

に行ったとき、盖聶がいじょう

と剣術のことで議論に

なり、盖聶が目を怒らせたので、荊軻は出て行った。人が荊軻を呼び戻すようにいう。盖

聶は 「さっきの者は、私と剣を論じたが、気にいらないので睨みつけた。行きたければ去れ

ばよい。引き留めない」と言った。使いが走ったが、荊軻が楡次を去った後だった。使者

が報告すると「去ったか。私は、眼力であやつった」と言った。 荊軻が邯鄲へ行ったとき、魯句践

ろ く せ ん

と博打ば く ち

で言い争いになり、魯句践は怒って罵ったが、

荊軻は逃げて戻らなかった。 荊軻が燕に行くと、燕では犬を殺して肉を売り、筑

ちく

を打ち鳴らす高漸離こ う ぜ ん り

といつも一緒に

いた。荊軻は酒が好きで、毎日犬を殺して肉を売り、高漸離と燕市で飲んだ。酒に酔うと、

高漸離が筑を打ち鳴らし、荊軻は市中で歌った。その様子は、互いに泣きだし、誰も目に

入らないようだった。荊軻は酒と本が好きで、各地を回って、優れた人物と語り合った。

燕では田光先生と親しく交わった。 荊軻は王子の屋敷へゆくと、田光が死んだことを伝えた。丹は跪いて泣いていたが、荊

82

軻の傍らへにじり寄り、 「先生の死は、とてもショックでした。先生に秘密にしてくれと言ったのは、先生を疑

ったからではなく、事が重要だと言いたかっただけです。だけど先生は潔白な人だったの

で、死んで漏らさないことを示されました。本当に申し訳ない」 王子は、荊軻の前に土下座した。荊軻が王子を助け起こすと、王子が言った。 「いまの世は天下が乱れ、秦には残虐な心があるので、天下が落ち着きません。秦王が

除かれねば、天下は治まりません。私は、天に代わって悪魔を退治してくれる人を待ち望

んでいました。王がいなくなれば、秦は烏合う ご う

の衆です。その機会を捉えて各国が力を合わ

せれば、たぶんやつらは消滅するでしょう」。 荊軻は、それを聞くと 「王子のおっしゃることは分かります。しかし私には能力も勇気もなく、そうした仕事

は無理です」と答える。 「これは先生でなくては成し遂げられません」と丹が頼む。どうしても断れないことを

知ると、荊軻は承諾した。 そこで丹は、荊軻に最高の部屋を作らせ、最上の贈り物をし、美人を与えて一緒に暮ら

した。丹は長かった人質生活、それに秦国での待遇、秦を逃げ出すとき下男に身を替えた

ことなどから、人の面倒を看ることには慣れている。自分のために死んでくれる人なら、

自分で世話をしようと、丹は細かいところまで気を配り、荊軻は何も言わず、黙って一切

を受け取った。その頃、秦国は益々勢力を拡大し、紀元前 230 年に韓国が併合され、紀元

前 228 年に趙王が代郡だいぐん

へ逃亡し、紀元前 237 年に魏国と斉国が秦に帰順した。残った国は、

遠くはなれた楚と燕だけである。ついに秦と燕は、国境を接してしまった。丹は慌てて、

荊軻に会いに行った。二人は計画を練った。 「ことが重大なので、仕損じは許されない。そこで私には四つの品物が必要だ」と荊軻。 「なんでも言ってください。すぐに用意します」と丹。 「まず鋭いナイフ。非常に鋭利なナイフが必要で、それにトリカブトの汁を塗る。ちょ

っとでも傷付けば、全身に毒が回って死ぬ」 「そんなもの、すぐにでも準備します」と丹。 「ナイフで王を刺そうとすれば、王は逃げ回るだろう。それでは刺すことができない。

王を捕まえてくれる助手が必要だ。私には盖聶という知り合いがいる。彼に手伝わせよう」 「もう一つは、何ですか?」と丹。 「秦王に面会する理由が必要だ。また王の宮殿に、武器を身につけて入れない。王に近

づくための道具も必要だ。秦国は、以前から燕国で最も豊かな土地である督亢とくこう

を欲しがっ

ていた。だから督亢の地図を王に献上すれば、王は喜んで会ってくれるかも知れない」 「いいでしょう。どうせ黙っていても、そのうち奪われるものだから。それで秦王を殺

すことができれば返ってくる土地だし」と丹。 「四つめの品物は、ちょっと難しいですよ。これを持っていけば、秦国は喜ぶので、会

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える確率が高まります」 「もしかすると私の首ですか? あの恨み重なる男を殺すためなら、私の首を持って行

ってください」と丹。 「いや、ただの小国の王子である貴方の首を持って行っても、王は何とも思わないでし

ょう。そうじゃなくて、秦王政に謀反して殺そうとした男の首です!」 それを聞いて、王子は目を丸くした。 「そんなこと、できるわけないじゃないですか!」と丹。 「私が秦王に会うためには、秦王に信用されなくてはなりません。もともと樊於期は秦

国の大将で、秦王を殺そうとして失敗したから燕国へ逃げてきたのです。そして秦王は、

彼の首に黄金千斤を懸けているのです。どう考えても、私が秦王の信用を得るには、彼を

殺そうとした男の首を持って行くしか方法がないのです」と荊軻。 「樊将軍は忠義の人です。それに彼は私を信用し、敢えて名乗り出たのです。いまさら

裏切ることはできません。しかも私のことで、彼に迷惑をかけるなんて、それだけは駄目

です!」と丹。 どう説得しても、丹が納得しないことを荊軻は分かっていた。それで相談は終わりにし、

荊軻はコッソリと樊於期に会いに行った。荊軻は樊於期に 「あなたは燕国に隠まわれているが、秦王は、貴方の一族を絶やした。彼は貴方の親類

縁者すべてを殺したうえ、貴方の首にも高額の懸賞金を懸けている。そのうえ貴方を隠ま

っている燕国にも侵略を繰り返している。このことをどう思われるか?」と言った。 「そのことを常に考えている。本当に恨みは骨身に染み渡っている。けれど私には、ど

うすることもできない」と樊於期は、涙を流して答えた。 「実は、この燕国の国難を救い、また貴方の恨みを晴らす方法があるのだが」と荊軻。 「それは、いったいどんな方法か?」 「私は、これから秦王を殺しに行く。しかし、そのためには彼の信用を得て、彼に近づ

かなければいけない。近付ち か づ

くことが出来さえすれば、毒を塗ったナイフで刺すことができ

る。そうすれば燕国は救われ、貴方の恨みも晴らせるんだが! 私が秦王の信頼を得るた

めには、どうしても貴方の首が必要なのだ。率直すぎて済まない」と荊軻。 それを聞くと樊於期は、荊軻の前に跪いて 「それは私も毎日考えていたことです。いま壮士

そ う し

の言われたことは、まさに私の思いで

す。私の命で、秦王が殺せるならば、何度死んでも構いません」 そう言い終わると、樊於期は短刀を出して、自分の胸に突き刺した。荊軻は、死んだ樊

於期を助け起こすと、刀を出して首を切り落としながら 「将軍、ありがとう。先に行っていてくれ。私もすぐに行くから」と泣いた。 王子は、樊於期が死んだことを知ると、死体に伏せて泣いた。だが樊於期が死んでしま

った以上、その死を無駄にはできない。彼は、すぐに箱を持ってこさせ、首を塩漬けにし

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た。首を持って行くのは、本人だと確認できるためである。塩漬にするのは、首が腐って

判別できなくなるのを防ぐためだ。 首と地図、ナイフが準備できても荊軻は動かなかった。荊軻は盖聶を待っていた。しか

し、なにぶんにも遠くの国、使いは、なかなか戻らなかった。 王子の丹は焦り始めた。 「荊軻先生、もう出かけてください。そうしないと樊将軍の首が腐ってしまいます」。 「手伝いの盖聶を待っています。彼が到着しだい出かけます」と荊軻。 「死ぬのが判っていて、誰も来ませんよ。それに燕にだって勇者はいます。彼に先生を

手伝わせます」と丹。 「それは誰ですか?」と荊軻。 「秦舞陽です。燕で一番の勇者です。彼に手伝わせます。十三歳の時から殺人を犯して

いますから、刺客にはうってつけです」と丹。 「ただの人殺しじゃないですか。武器も持たない人間を殺すのとは訳が違います。ナイ

フで、刀を持った人間を殺すのですよ。ただの人殺しには無理ですよ」と荊軻。 「だけど、そんなに待っていれば、樊将軍の人相が変わってしまいます。判りました。

それでは秦舞陽だけで行かせます」と丹。 「何を言うのです。行けば帰れないのですよ。そのうえナイフを刺すのは、測り知れぬ

ぐらい強い秦なのです。だから子供の秦舞陽を残し、人を待っているのです。それでは遅

すぎると王子は言われる。それでは、すぐに出かけましょう」と荊軻。 王子と燕国の人たちは、それを聞くと白装束に着替えて見送った。荊軻の友人である高

漸離もやって来て、筑を叩きながら荊軻を送り、荊軻は歌いながら去って行った。 「風がヒューヒューと吹き、易水

し す い

は寒し。壮士は行きて、二度と帰らず」 そう歌いながら、荊軻と秦舞陽は、馬車に乗って見えなくなった。 荊軻達は秦に着くと、政お気に入りの大臣である蒙嘉

も う か

に賄賂を送り、秦王政に渡りをつ

けてもらった。 蒙嘉は、政に 「燕王は、大王を恐れ、挙兵して逆らうどころか、国を挙げて家来になり、貴族にして

もらおうと思っています。それで燕国の地図を持って参り、先王の墓に供えたいと申して

おります。そのうえ樊於期の首を持ってきて、燕の督亢の地図を献上し、燕王を庭に連れ

てきて、大王に仕えたいと申しております。いかが致しましょう?」と言った。 それを聞くと政は喜び、さっそく咸陽宮に燕国の使者を連れてくるようにと言う。 荊軻は樊於期の首が入った箱を持ち、秦舞陽は地図の入ったカバンを持って入ってきた。

しかし秦舞陽は、玉座下の階段まで来ると顔面蒼白となり、ガタガタと震えて一歩も進め

なくなった。

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その様子を見た重臣たちは、玉座の下でガヤガヤと騒ぎ出した。 政は、先頭に立って入ってくる荊軻ばかりに注意を奪われていた。箱が玉座前のテーブ

ルに置かれ、箱から樊於期の首が現れると、まじまじと凝視した。やっと弟と一緒に反乱

した樊於期が捕まった。そして荊軻の後ろを見た。すると 20m も離れたところに、カバン

を持った秦舞陽が顔面蒼白となり、足をブルブル震わせて立ち止まっている。ようすがお

かしい。 「あの者は、なぜ地図を持ってこないのだ?」と政。 後ろを振り返った荊軻は、タラタラとアブラ汗を流している秦舞陽を見るとシマッタと

思った。だから人殺しでは使い物にならないと言ったんだ。盖聶だったら地図を持って上

がってきて、王を捕まえてくれたのに。こうなったら自分一人でやるしかない。 「あれは田舎者でして、こうした場に出たことがないのです。初めて大国の大王を見た

ので、恐ろしくて近づけないのです。私が地図を持ってきましょうか?」と、笑いながら

荊軻。 そうか。今まで燕国から秦国へ来た使者と言えば、王子の丹ぐらいのものだったから判

らなかったなぁ。小国燕の使者ならば、そういうこともあるだろうなぁ。燕には、よっぽ

ど人材がいないのだろう。 そう思い当たると、やはり笑いながら 「確かに、あの男は小心者らしいな。ならば、あの者が持っている地図を、ここに持っ

てこい。そして、あの者には下がらせろ」と言った。 荊軻は玉座の階段を下りると、秦舞陽のところへ行き、捧げ持ったカバンを取ると、 「おまえは、もういいから帰っていろ」と言う。 それを聞いて秦舞陽は、後ろも見ずに逃げ帰った。 荊軻はカバンを捧げ持って階段を上がると、 「よほど恐ろしかったと見えて、挨拶もせずに逃げ出しました」と荊軻。 「無理もない。抵抗した韓趙は滅びてしまったんだからな。恐れるのも無理もない。で

は献上する土地の地図を見せろ」と、政は満足そうだった。 そこで荊軻はカバンから巻物を出し、王座前のテーブルに置いた。 「早く、広げて見せろ」と、せがむ政。 荊軻は、ゆっくりとテーブルに地図を広げてゆく。 当時は、まだ紙が発明されておらず、王への文書は絹に書かれ、一般では竹や木の板に

書かれていて、反物のように巻いてあった。漢の古墳から発見された帛書も、やはり白絹

に書かれている。 テーブルの上に広げられてゆく地図を見ながら、政は思わず身を乗り出した。すると巻

物の芯の縁に、鋭いナイフが見えた。政は驚いて立ち上がった。すかさず荊軻はナイフを

掴むと、王の着物の袖口を掴み、政の胸元に向けて突き出した。王が慌てて身を引くと、

服の袖が引きちぎれた。王は玉座から下に飛び降りた。

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玉座は、階段を登った高い位置にあるとはいえ、人間の身長ほどの高さしかない。故宮

などに行ってみると判るのだが、そこだけが高い台になっていて、頂上に玉座がある。刺

客からの攻撃を防ぐために高くなっているのか、偉いことを示すために高くなっているの

か判らないが、とにかく人の背丈ほど高くなっている。そこから飛び降りたからといって、

33 歳の秦王には造作もないことだ。秦舞陽が捕まえていれば、確実に政は死んでいた。 政に続いて、荊軻が飛び降りた。王の宮殿では、武器を身に付けることが許されないの

で、兵士もいなければ刀を持った大臣もいない。だから長いナイフを持った荊軻に近づく

こともできない。みんな、ただ見ているしかなかった。逃げ場のない政は、宮殿の大きな

円柱を回りながら必死に刀を抜こうとしていた。しかし秦王に伝わる宝刀は、商人の血を

引く身体の小さな政には長すぎた。抜刀しようにも途中までしか抜けない。政は刀に手を

かけて、半分抜き身になりながら円柱の周りを回り、荊軻はナイフを振りかぶって円柱の

周りを回っている。もうちょっとで荊軻が政に追い着きそうになったとき、従医の夏無且か む し ゃ

荊軻めがけて、持っていた薬箱を投げつけた。政を刺すことだけに注意を奪われていた荊

軻は、その攻撃を避よ

けられず、額に薬箱がぶつかった。この薬箱が鉄でできていたため、

額が切れて血が流れ、荊軻は脳振蘯を起こして立ち止まった。そのとき皆が我に返った。 「刀を背中にしょって抜けばいい」と誰かが叫んだ。 「そうだ!しょえばいい」と、群臣が口々に叫び出した。 すぐに政はベルトを外し、忍者のように刀を背中に回すと、左手を背中に回して鞘を掴

み、右手を首の後ろに回して抜刀する。振り向きざまに荊軻へ斬りつけた。刀は荊軻の左

腿に当たって骨を切断した。うずくまった荊軻は、ナイフを政に投げつけた。政が身をか

わすと、ナイフは耳をかすめ、後ろにあった銅の柱に当たって火花を散らした。政は、さ

らに荊軻へ斬りつけた。荊軻は血だらけになりながら、柱にもたれて立ち上がると 「事が成し遂げられなかった。丹との約束が果たせない以上、生きていたいと思わない。

早く殺してくれ」と、荊軻は雇い主をバラしてしまった。宮中の者は、荊軻に駆け寄ると、

寄ってたかって殺した。 ほんの一瞬の出来事だった。だが政にとって、もっとも恐怖を覚えた数秒だった。 荊軻が死んでも、政はスッキリしなかった。 「無且

む し ゃ

だけが私を好いていてくれる。他の者は見ているだけだったが、無且だけが助け

てくれた」と言って、彼に黄金四千八百両を与えた。 幼い頃から敵国で過ごし、誰も信用せず、誰も愛さない政には、周囲に愛してくれるも

のがいなかった。恐いから従っているだけで、自分の身を挺してまで王を助けようとする

者など、いるはずがない。御殿医ご て ん い

である夏無且だって、自分が犠牲になってまで王を救う

気はなかった。ただ鉄の薬箱を持っていたから、反射的に投げつけたに過ぎない。 荊軻が殺されたことを聞いた高漸離は、名前を変えて秦国へと移り住んだ。

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十九、丹の死 政は、丹のためなら自分の身を犠牲にできる人間がいることを考えた。しかし自分が刃

物を持った刺客に襲われたときは、誰も身を投げ出して庇かば

ってくれる者はいない。薬箱を

投げてくれた医者がいただけで、大臣たちは何もしなかった。それを考えると、人望のあ

る丹を早目に始末しておかないと、あとあと大変なことになると思った。 そこで政は、すぐに王翦、そして辛勝

しんしょう

を派遣して、燕の攻撃に移った。燕と代は連合し

て秦を攻撃したが、易水の西にて秦軍に敗れた。小国の燕、そして趙で唯一残された地方

都市の代城軍が連合したところで、所詮しょせん

は勝負にならなかった。 紀元前 225 年、秦王が 35 歳のとき、王翦の子である王賁

おうふん

に荊けい

を攻めさせ、さらに王翦も

軍を率いて出陣した。燕王子の丹も、みずから兵を率いて交戦したが、人質経験しかない

丹では勝負にならず、十月に薊城けいじょう

を占領された。そこで燕王喜き

と丹は、残った兵と民衆を

連れて、遼りょう

東半島とうはんとう

まで退却した。 秦の将軍である李信

り し ん

が、すぐに燕王を追撃した。そこで趙の代王である嘉か

は、燕王喜に

使者を送り、 「秦が燕を攻めるのは、丹王子が刺客を派遣したからだ。だから丹を殺して誤解が消え

れば、先祖の墓は守られる」と伝えた。そして丹にも手紙を出した。丹は逃げ回っていた

が、燕王は使者を遣わせて丹王子を斬り、首を秦王政に差し出して、講和を求めてきた。 二十、楚の滅亡 丹の首を見ると、政はホッとした。そして政は、相談役の尉繚

うつりょう

に相談した。 「韓国は、すでに併合しました。燕国は遼東に移動しました。趙国は代城

だいじょう

の一都市を残

すのみですから、何もできないでしょう。それに冬ですよ。やはり北の趙や燕を攻めるよ

り、いまは南にある魏や楚を攻めるべきでしょう。この両国がなくなれば、代城や遼東は

頼るところもなくなるので、自然に秦国の領土になります」と尉繚が答える。 その冬は大雪で、70cm もの雪が積もったらしい。 なるほどと思った政は、すぐに燕王と講和し、燕国を攻めていた軍隊を呼び戻した。そ

して王賁に十万の兵をつけて、魏国を攻めさせた。魏の仮王か お う

(魏安僖王あ ん き お う

の孫)は、すぐに斉王

の建けん

(斉襄王さいじょうおう

の息子)に救援を要請したが、斉国の首相である後勝こうかつ

は 「秦国は、斉国に何も悪いことをしていない。どうして理由もないのに攻めることがで

きようか?」と返答した。 斉王は、よその戦争なので、係わり合いにならないほうがよいと考えたのだ。斉王が派

兵を断ったので、魏国は単独で秦国と戦争しなければならなかった。 王賁は孤立した魏の都に、クリークを作って水を引き、大梁城を水没させた。そのため

大梁城が水浸しとなり、王は降伏して、その領土が秦のものとなった。王と大臣は捕まっ

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て囚人車に乗せられ、咸陽に送られた。 次に政は、楚国を攻めることにした。政は李信に 「楚を滅ぼすには、何人の兵が必要かな?」と聞いた。 「やはり二十万でしょう」と李信が答えると、政は「なるほど」と、うなずいた。 次は秦の老将である王翦に、同じ質問をした。 「楚は、魏と違って大国です。二十万の兵では、楚を討てません。少なくとも六十万は

必要でしょう」と答える。 「人間は、老いぼれるとキモが小さくなるもんだな。李信は二十万の兵で、楚を攻め落

とすと豪語していたぞ」と政。 「そうですか。私には、とてもできません」と王翦。 そこで李信を大将にし、蒙武を副将として、二十万の兵を南に向けた。それを聞いた王

翦は、病気であるとの理由で、郷里へ帰ってしまった。 李信と蒙武は、勢いよく秦国を出発したが、待ち受けていた楚国の大将である項燕

こうえん

の攻

撃を受け、七人の将軍を死なせ、無数の兵士が死に、相次ぐ撤退のすえ、やっと咸陽へ逃

げ帰った。政は怒って李信を馘くび

にすると、王翦の家へ出向いて頼んだ。だが王翦は、 「私は老いぼれました。もう戦うことはできません。別の人に頼んでください」と言う。 「前のことは、私の間違いだった。今回は、どうあっても将軍に出馬してもらわねばな

らない。もう、あなたしか頼る人がないのだ」と政。 「では、やはり六十万の兵を出してもらわねばなりません。楚は大国で、土地は広く、

人口も多いので、楚王が命令を出せば百万の兵を動かすことも出来ます。百対六十! こ

の六十万の兵でも少ないかもしれない。これより少なければ、とうてい無理でしょう」 「判りました。将軍の言われるとおりにしましょう」と政。 そこで政は、自分の馬車に王翦を乗せると、すぐに大将にして六十万の兵を与え、やは

り蒙武を副将として派遣した。 紀元前 224 年、秦王が 36 歳のとき、王翦が楚へ出兵した。その日は、政が灞上

はじょう

へ出向き、

酒席を設けて壮行式をした。王翦は政に酒をつぎながら、 「大王、この盃を飲み干したら、一つ頼みを聞いていただけませんか?」と言った。 政は、盃を飲み干すと 「なんだ将軍。なんでも言ってみろ」と答える。 王翦が袖から帳面を取り出した。それを広げると、咸陽の上等な田んぼが何アール、上

等の家が何軒と書いてある。成功したら、これだけの物を褒美として与えろという。政は、

それを見て 「将軍が勝利して帰ったとき、まさか生活苦になると思っておられるのでは」と笑う。 壮行式が終わると、王翦は六十万の大群を率

ひき

いて動き出した。ところが路上で使いを呼

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ぶと、政に庭も造ってくれるように伝えてくれと頼んだ。そして何日か経つと、また使者

を派遣して、庭には池を造って、鯉も飼ってくれるように伝えろと頼んだ。副将軍の蒙武

が笑いながら 「家と田んぼだけで十分じゃあないですか。どうして花壇や池のことまで言うのですか。

勝って帰っても、貴族になれないと心配しておられるのですか」と言う。すると王翦が近

づいて、蒙武の耳に口を寄せると 「大王の弟も反乱を起こし、皇后も反乱を起こして軍隊に攻めさせた。今は我々が、王

の半分以上の兵を握っている。それが反逆して襲ってくることを、大王は一番恐れておら

れる。また勝って帰れば、我々は英雄となる。だが人望のあった呂不韋は、王に不安を抱

かせて死を賜った。ここで花壇や池まで要求しておけば、そんなミミッチイ男が政治に口

出しして、一国を欲しがるとは思わんだろう。これは大王を安心させるために言っている

のだよ」と囁いた。 「なるほど、老将軍の配慮には、私は考えも及びませんでした」と蒙武。 王翦の大軍は、天中山まで来ると駐留した。楚国の大将である項燕

こうえん

は二十万の兵、副将

の景騏け い き

も二十万の兵を連れて、二手に分かれて攻撃したり、突っ込んできたりした。しか

し王翦は挑発に乗らず、飛び出してくるわけでもなく、ただ駐留するだけで動かなかった。

そうして一年が過ぎようとすると、項燕は、王翦が来たのは防衛のためで、攻撃するため

じゃないのだと考えた。こうして秦軍が駐留していることに注意を払うものはいなくなっ

た。 ある夜、急に秦軍が国境を越えて攻めてきた。礎国の兵士は、よもや秦軍が攻めてくる

とは想像していなかったので、慌てて抵抗した。しかし、そこらじゅう敵だらけで総崩れ

となり、作戦も立てられずに敗走した。だんだんと兵馬も減ってゆき、楚の土地も奪われ

ていった。項燕は淮上わいじょう

へ行って、再び兵を募集するしかなかった。王翦は、淮南わいなん

、淮北わいほく

進んで、寿春じゅしゅん

までやってきた。楚国の副将である景騏は自殺し、楚王の負芻ふ す う

(楚の考烈王こうれつおう

息子)が秦軍に捉えられた。 項燕は二万五千の兵を募り、徐城

じょじょう

(安徽あ ん き

省泗し

県の北)に到着したとき、楚王の兄弟である

昌平しょうへい

君くん

が寿春から逃げてきたのに出っくわした。楚王の消息を尋ねると、捕虜になったと

いう。項燕は 「呉越

ご え つ

には長江(揚子江)があるので敵を防御でき、土地も一千里あまりあるので、まだ建

国できる」と答え、すぐに昌平君を楚王にすると、軍を率いて河を渡り、江南こうなん

を防衛する

準備をした。 昌平君と項燕が江南へ逃げたことを知った王翦は、すぐに副将の蒙武に船を作らせた。 紀元前 223 年、秦王が 37 歳のとき、王翦は、準備した軍艦と訓練した水兵を使って河を

渡り、呉越へと攻め込んだ。二万五千の兵は 60 万の秦軍に圧倒され、昌平君は矢に中あた

って

死んだ。項燕は王が死んだのを知って自殺した。こうして楚は滅亡し、残るは燕と趙、斉

90

の三つになった。そこで政は、王翦の息子である王賁を大将にし、今度は燕と趙を取りに

行かせた。 二十一、燕と趙の滅亡 紀元前 222 年、秦王が 38 歳のとき、王賁は遼東を攻め、燕王の喜を捉えて咸陽へ送った。

続いて代城を攻撃し、兵は敗れて代王の嘉も捉えられ、趙で一つだけ残っていた地方都市

が消えた。王翦は、ついに楚の南を平定し、越王を降伏させると会稽かいけい

郡とした。五月には、

みんなを集めて慰労会が開かれた。楚が滅亡した機会に、王翦は退職を願い出た。残るは

斉の一国だけとなった。 二十二、秦の統一 斉王の建は、秦国に頼ってさえいれば、何も恐がる必要がないと考えていた。それで各

国が助けを求めても、すべて断っていた。しかし韓、魏、楚、燕、趙が秦国に併合された

今となって、やっと斉も秦の危険性に気が付いた。そこで西の国境沿いを守らせた。 紀元前 221 年、秦王が 39 歳のとき、政は王翦の息子である王賁に、斉を平定することを

命じた。燕に駐留していた秦軍は、遼東半島から南下した。状況は昔と一変し、東にある

斉は、今や北からでも西からでも、南からでも攻められるようになってしまったのだ。防

備を固めていない上に、救援を拒否したため戦争経験のない兵しかおらず、数十万の兵で

押し寄せてくる秦軍から逃げ回るのみで、当たるところ敵無しの秦軍は、何の障害物もな

いかのように進軍し、見る間に臨淄へ迫って、斉王建は降伏した。 こうして東周と列国の時代から、春秋、戦国と五百年を経て、一つの大国となった。そ

れまでは重税をかけられ、何度も戦争に狩り出され、殺されたり土地や住家を奪われる暮

らしをしていた住民にとって、一国にまとまることは願ってもないことだった。また国々

を行き来する商人にとっても喜ばしいことだった。 法律もなく、王の親類縁者や官僚が土地を持ち、そうした有力者が協力して王を支えて

いた地方分権時代から、きちんとした法律があり、王が土地を分けたり返納させ、人々を

直接管理する中央集権国家の秦時代に変わった。秦が近代国家に変わったのは、外国人を

招いて、近代的な発想を取り入れたからだった。最後に商人の呂不偉と、異常に人間不信

な政によって七国が一国となった。戦国が秦によって統一されると 「私は小さな身体でありながら、兵を興して乱を鎮め、先祖の霊の助けで、六王が降伏

し、天下が定まった。この功績が後世に残るように、王の称号を改めねばならない。どう

いった呼び名がふさわしいかな?」と、政は官僚たちに諮はか

った。 「昔の五帝

ご て い

は千里の土地を治めていましたが、諸侯や蛮族は、朝貢ちょうこう

するものもあれば、

しないものもありで、天子も制御ができませんでした。陛下は兵を興し、逆賊ぎゃくぞく

を誅殺ちゅさつ

して

91

天下が定まり、郡県が設置され、法律が行き渡っています。今までの歴史で、このような

ことはありませんでした。五帝でもやれなかったことです。古くは天皇があり、地皇があ

り、泰皇たいのう

がありました。なかでも泰皇がもっとも尊いのです。だから大王は泰皇、命を制、

令を 詔みことのり

とし、自分のことを朕ちん

と呼べばよろしいと思います」という意見。 「泰皇から泰を除き、五帝の帝をつけて皇帝と呼ぶ。朕が最初の皇帝だから始皇帝だ」

と始皇帝が言った。そして先の庄襄王を太上皇という呼び名に改めた。そして 「昔は、戒名というものがあった。自分の名前があっても、死ぬと戒名をつけられる。

戒名というのは、死んでから後に、子が親に付け、臣下が君主に与えるものだ。死んでか

ら子や臣下が、親や君主を評価するのはおかしい。これからは戒名を廃止する。朕が始皇

帝、それからあとは二世皇帝、三世皇帝とすればよい」と言って、戒名を廃止した。 二十三、法治国家 政は、さっそく全国の文字を統一したり、度量衡を統一したり、道路を整備したりし始

めた。それまでの中国は、民族によって言葉も違い、文字も違って、度量衡も国内でバラ

バラだった。文字は言葉とともに、各国で違っていた。現在の日本と中国より差があった。

度量衡も国内でバラバラだった。例えば同じ国でも、地主が春には農民に小さな升で量っ

て豆を貸し、秋には大きな升で量って返させるというように、同じ国でも春と秋では容量

が違っていた。道幅も他国の戦車を通さないために狭かった。中国の戦車は、西洋の戦車

のように兵士が乗って戦うものもあるが、それより食料を運ぶためのものだった。だから

秦が戦争するには、まず食糧供給のため、道路から整備しなければならなかった。 現在の中国でも同じだが、古代中国も地域によって言葉がバラバラだった。言葉が通じ

なくては、中央からの命令も伝わらない。そこで文字を統一した。現在の中国でも、北京

語、上海語、広東語と言葉は通じなくとも、文章にすれば意思が伝わるので、中央からの

命令が遂行される。ウイグルなどの文字が違う地域は、うまく統治できない。度量衡がバ

ラバラでは、税金として食糧を納めさせようにも、同じ一斤を納めても多いところと少な

いところができる。農民に与える農地面積もバラバラでは、税金も不公平になってくる。

だから文字の統一と度量衡の統一は重要だった。この度量衡の統一は、遙か昔に秦国で行

われていた。その方法を六国へ広めただけだった。 さて、この広大な国を、どうやって治めるかという問題になってくる。丞 相 綰

じょうしょうわん

たちは 「諸侯を征伐しましたが、燕、斉、楚は遠いので、やはり王を置いて管理しなければ、

目が行き届きません。王子たちを王にして、治めさせたらいいと思います」と言う。 「周の文王や武王は、自分の血族を王にしました。時代が経るにつれ、親戚が疎遠にな

り、互いに仇き同士になりました。だから諸侯が争っても、周の天子は止められませんで

した。これからの天下は、陛下の意思で統一し、国を郡県など小さな地域に分け、大きな

力を持てないようにしたらよいでしょう。そうすれば王に反抗する者もないでしょう。そ

92

れに秦の法律では、王の血族である貴族も、実績によって地位が決まります。さらに政策

を考えた学者や、功績のあった官僚も、認めてやらねばなりません。それが皇帝の命令が

守られる基本になります。天下に異論のないことが、泰平の方法です。諸侯に治めさせて

は、兄弟喧嘩が始まりますよ」と、廷尉て い い

の李斯が異議を唱えた。 「天下は戦乱が続いた。諸侯がいれば、天下が平定されても、再び国ができて兵が養成

されるだろう。太平を求めているのに、それでは前と同じように諸侯どうしの戦いが始ま

ることになる。李斯の意見が正しい」と始皇帝。 そこで天下を三十六の郡に分けた。六の倍数である。功績のあるものを一時的な領主に

する方法は、それまで秦国内の法律だったが、こんどは地方長官を任命して管理させる方

法へと改まった。こうした県知事制度は、漢になると廃止され、封建諸侯が復活する。 そして戦車の幅を六尺と決め、それに合うように道幅も変えた。そして秦の色は黒。別

に腹黒いから黒ではない。これには、それなりの理由がある。 中国の古代では、五行説が法則としてあった。五行なのに六とは、これ如何

い か

に?という

感じだが、その五行説に基づいて、秦は六を基準とした。 五行説とは木火土金水である。日本では、曜日として使われている。これに陰陽を表す

日月が加わって七曜となっている。日は太陽で昼だから陽、月は夜で陰を表している。 『鍼灸聚英』の生成数に「天は一で水を生み、地の六で成る。地は二で火を生み、天の

七で成る。天は三で木を生み、地の八で成る。地は四で金を生み、天の九で成る。天は五

で土を生み、地の十で成る」とある。 つまり最初に天地が生まれ、天は陽で一、地は二で陰となる。理由は、山一つなら乾燥

しているが、山が二つあると谷ができて水が流れるから。水は陰となる。だから奇数が陽

で、偶数が陰となる。この奇数と偶数の陰陽を頭に留めて欲しい。 次に歴史だが、古代中国では黄帝

こうてい

が支配者となったと言われている。だから中国人は、

自分を龍の子孫という。つまり黄帝の子孫を意味している。これは黄帝が岐伯き は く

について医

学をマスターし、不老不死の仙人となったため、龍に乗って天へ上ったという故事に基づ

いている。だから中国人は龍という。そして皇帝の象徴は、五本指の龍である。 黄帝は黄土を象徴している。黄帝の前には、炎帝

えんてい

というのがいた。炎帝は火の象徴であ

る。炎帝と黄帝が争って、黄帝が勝ってから中国の歴史が始まる。炎帝の風貌は、髪が真

っ赤で、何となく白人っぽい。 五行説で言えば、火が燃えたら灰になるが、この灰を土に喩えている。だから火が土を

生み出し、土から金が生まれ、金は結露して水が生まれ、水をかけると木が生える。そし

て木が風で擦れると火が起こる。これを相生と呼んで、循環している。最初は、こうした

相生関係で政権が移ってゆくが、一巡すると相尅関係となる。つまり火は水で消され、水

は土で止められ、土は木に栄養を吸収され、木は金の斧に切り倒され、金は火に熔かされ

る。これが相尅関係であり、天下を統一した王は、だれもが五行の徳を持って統一したと

なっている。こうして数えてみると、秦の前の周王朝は、火徳になるらしい。古代ならば

93

最初なので、相生関係により火徳のあとは土徳なのだが、それが一巡しているので火徳を

尅したのは水徳となる。これを『聚英』の生成数に当てはめると、水は一で生まれだから、

最初に生まれた水が一になる。そして六で成るだから、後で登場した水は六となる。そし

て五行の色は、金が白、水が黒、木が緑、火が赤、土が黄色と決まっている。金だと黄色

じゃないかと思われるだろうが、中国の金とは青銅のことで、色が白かった。黄金を武器

にしていたら重くて戦えない。水だから六で黒となる。水は冷たい、冷たいのは北、北の

大地は黒土ということで、水は黒となった。水は色がないので、こうした連想ゲームで決

めるしかない。ちょっと理解不能かな? つまり 6×6 で 36 郡にしたというわけ。そして各郡には守

しゅ

、尉い

、監かん

を任命し、一般人を

「黔首けんしゅ

」と呼んだ。黔は黒の意味、首は顔の意味だ。当時の一般人は、ほとんど農民だが、

農民は日に焼けて顔が黒い。だから黔首なのだろう。中国では百姓というと一般民衆のこ

とだが、日本では農民のことを表す。 こうして郡県政治にして地方長官を任命したため、諸侯制度のように官職が世襲制で

大々引き継がれて力を持つこともなくなった。そして全国の兵を咸陽に集め、武器を提出

させた。その武器を熔かして大鐘と十二体の銅人を作って宮殿に飾ったが、銅人の重さは

一体が千石ごく

もあったという。これもまた 6×2=12 で、やはり六の倍数である。周では地域

が九州あり、九つの鼎かなえ

があったが、それは八卦は っ け

である。つまり東西南北と、その中心、中

央を併せて 8+1 になる。ただ銅人や銅鐘と言っても、実際は青銅、つまり銅と錫の合金だ

ろう。当時の武器は鉄器ではなく、ほとんど青銅で作られていた。青銅は低温で熔けるの

で加工しやすく、すぐに丈夫な武器へと変わるからだ。だから銅が貨幣として珍重されて

いた。いざとなれば武器に変わるのだから。こうして始皇帝は、征服した全国の富を集め

ると、今度は美女を集め始めた。ちょうど日本が全国から美人を京都に集めたようなもの

だ。さらに全国の富豪も咸陽に移住させたというが、その数は十二万戸という。 始皇帝は、宮殿に降伏した諸侯から集めた美女をはべらせ、全国から集めた楽器を持た

せて演奏させて、御馳走を食べていた。もともと秦は質素な貧乏国だったため、贅沢な習

慣がなかったのだが、趙の邯鄲で幼少時代を過ごした記憶や、母親の影響かもしれない。

咸陽は、邯鄲が巨大化して引っ越してきたような都市になった。 紀元前 220 年、秦王が 40 歳のとき、始皇帝は隴西

ろうせい

、北地ほ く ち

を回り、鶏頭山けいとうざん

へ出て、回中かいちゅう

巡回した。こうして行った先々に宮殿を建てた。ついてまわる家来は大変だった。皇帝は

六尺幅で、六頭だての馬車に乗り、三丈ごとに松を植えた。こうしたドカタ工事は、元兵

士が行った。こうした道造りは、皇帝が出かけるたびに作らされることになる。 紀元前 219 年、秦王が 41 歳のとき、春になって始皇帝は東を巡回し、岩に秦の徳を刻ん

だ。そして泰山に登り、岩を立てて祭った。下山すると暴風雨になり、松の木の下へ避難

したので、その松を五大夫とした。そして岩に「皇帝が誕生し、制度を作って立法し、臣

下を正した。王となって二十六年目、初めて天下を併合し、うんたらかんたら」と、説教

がましいことを刻んでいる。そして別のところを旅行したときも、岩に「二十八年、皇帝

94

が始まり、万物の基準を作った。度量衡を統一して、文字を定め、うんぬん」と彫った。 そして渤海

ぼっかい

に沿って進み、南の琅邪山ろ う や さ ん

に着くと、そこに琅邪台ろ う や だ い

を建設して三ケ月か住ん

だ。山の中の秦国で育った始皇帝は、海を見たことがなかった。珍しくてしかたがない。

ついでに琅邪台の下には、一般民衆三万戸を移住させた。 私も京都の人間に海を見せたことがあるが、琵琶湖のような中海

なかうみ

を見ただけで「あっ、

海や!」と大騒ぎをしていた。日本海に着くと、ムラムラっとして、パンツ一丁で泳ぎ始

めたのは、いうまでもない。 二十四、不老不死 琅邪台にて始皇帝は、海を眺めていた。すると突然、海の上に楼閣

ろうかく

が現れ、人や馬まで

が動いている。楼閣というのは、平屋でない家のことで、二階以上の建物をいう。 「あれは何だ?」と始皇帝。 「東の海には、蓬莱

ほうらい

、方丈ほうじょう

、瀛洲えいしゅう

という三神山があり、そこには仙人がいます。いま現

れているのは、それでしょう」と、大臣たちが答える。 現在の小学生なら「冷たい空気と暖かい空気では、光の屈折率が違うので、境目が水面

のような鏡となり、景色を反射しているのです」と答える。小学生の説明によれば、何の

ことはない自分の姿が鏡に反射して映っているだけなのだが、当時の大臣はアホだった。 「朕も聞いたことがあるぞ。海上には神山があって、山には仙人が住んでいる。仙人は

不老不死の薬を飲んでおり、永遠に生きるという。ああっ、残念なことに仙人と会う機会

がなかった」と、真に受けて嘆いた。 このころ斉人の徐市

じょいち

などが、始皇帝に面会を求め 「始皇帝が、どんなに偉くとも、いずれは他の王と同じように死んでしまいます。死ん

でしまっては、せっかく全国から美女を集め、おいしいものを集め、楽器を集め、富や珍

品を集めても、なんにもなりません」という。 「そんなこと言ったって、朕だって、どうあがいたって死ぬんだから」と始皇帝。 「大丈夫、大丈夫。皇帝は仙人の話を聞いたことありませんか? 彼らは不老不死で、

歳をとることも死ぬこともありません。皇帝が仙人になれば、美女もそのまま、御馳走も

食べ放題、いつまでも快楽をむさぼり続けられます」と徐市。 「そんな、おいしい話、あんのぉ~?」と始皇帝。 「大丈夫だぁ~」と徐市。 「東の海には、蓬莱、方丈、瀛洲の三神山があり、そこには仙人がいます。身を清め、

汚れを知らない男女を連れて船で捜せば、仙人に会うことができます」と徐市。 「なかなか大変だなぁ。でも死なないためなら朕も出かけようかな?」と始皇帝。 すると徐市は毅然

き ぜ ん

として

95

「それはダメです。皇帝は汚れきっていますから。皇帝が捜したって、仙人が出てくる

わけありません」と答える。 「ダメなことを知ってて勧めているのか!」と怒った始皇帝。 「でも、ご安心。汚れを知らない私が、皇帝の代わりに船出して、仙薬をもらって参り

ましょう。だから始皇帝には、これまで通り、ただれ切った生活をしてもらって構わない

のですよ」と徐市。 それを聞いて始皇帝は喜んだ。すぐに徐市に大型船を作ってやり、汚れのない少年少女

を集めると、食糧と水を積み込んで、東の海へ出航させた。しかし徐市は嵐に遭い、数日

のちには帰ってきた。もちろん仙薬はない。始皇帝はガッカリした。 始皇帝は戻り、彭城

ほうじょう

を通ったとき、祈願して、周の鼎を泗水し す い

から持って帰ろうとした。

だが千人を川に潜らせて捜させても見つからなかった。そして西南へ淮水わいすい

を渡り、衡山こうざん

南郡なんぐん

へ行こうとした。浮江ふ こ う

で、湘山しょうざん

の祠ほこら

に着いたとき、何度も大風が吹いたため、船で渡

ることができなかった。そこで博士に 「湘山に祭られている神は、何という神か?」と尋ねた。 「尭

ぎょう

の娘で、舜しゅん

の妻が葬られていると聞いております」と博士が答えた。 怒った始皇帝は、三千人の刑務官を使って、湘山の樹木を全て切り倒させ、ハゲ山にし

た。そして南郡から武関ぶ か ん

を通って帰国した。 紀元前 218 年、秦王が 42 歳のとき、また東に旅行した。そして陽武

よ う ぶ

の搏狼沙ば く ろ う さ

にて盗賊に

であって驚かされた。盗賊を捜したが見つからなかったので、天下に命令して十日間も捜

した。そして岩に、聖人が治めて、法度は っ と

を制定したうんぬんと彫った。さらに再び渤海の

見える山に登り、琅邪台に行って東の海を眺め、上党じょうとう

に入った。 紀元前 217 年、秦王が 43 歳のときは何もなかった。この年は、初めて何もない一年だっ

た。何もないと寂しいので、何かしないといけない。そこで、また徐市に大型船を作って

やり、汚れのない少年少女を集めると、食糧と水を積み込んで、東の海へ出航させた。だ

が、それは徐市にとって三度目の航海であり、帰ってくることはなかった。 一説によると、徐市が到着したのは海中の三神山でなく、九州だったという。そして現

代日本の秦姓の人は、秦国から連れてこられた少年少女たちの子孫だという。汚れを知ら

ないはずの少年少女だったが、どうしてそんなに子孫が増えてしまったのか判らない。こ

れは徐市が子供たちに、船の中で子孫を増やす方法を伝授していたとしか考えられない。

現在の中国人のなかにも、日本人は徐市の子孫だと信じる人が大勢いる。『中国秘史』には

徐福じょふく

が 3000 人の少年少女、そして技術者を連れて日本へ渡ったと書かれている。徐福は、

『史記』で徐市と書かれている。そして日本を作って、神武じ ん む

天皇てんのう

になったとある。そして

徐福こそが神武天皇であると書かれている。 紀元前 216 年、秦王が 44 歳のときの十二月、一般民衆に米六石と羊二頭を与えた。また

始皇帝は、四人の武士を供にして、お忍びで咸陽の町を夜歩きした。すると蘭池らんいけ

にて盗人

に出会った。逃げられなくなった盗人を武士たちが殺し、あとで関中かんちゅう

を捜索したところ、

96

千六百石の米が出てきた。 二十五、だまされる始皇帝 紀元前 215 年、秦王が 45 歳のとき、また東へ旅行したくなった。始皇帝が、何度も旅行

して山へ登り、祈願するのも、岩に業績を彫りつけるだけでなく、山に住むという仙人を

捜すためではなかったか? 始皇帝が碣石けいせき

(河北か ほ く

省昌黎しょうれい

の北部)へ着いたとき、方士ほ う し

がやっ

てきた。彼の名は盧生ろ せ い

である。 方士とは祈祷師のようなもので、仙人の修行をしている人である。キョンシーなどの幽

霊映画に出てきて、キョンシーを退治するのが方士だ。現在の道士である。彼らは様々な

薬を作り、葛洪かっこう

などのような有名な医者もいる。だから医学書のことを方書と呼んだりす

る。いわば東洋の錬金術師である。彼らは不老不死の仙薬を作ることが目的で、そのため

に色々な薬を飲む。まず動物の中でも長寿の亀を崇め、動物より植物は長生きだから植物

から不老長寿の薬を作り、それより岩は長寿だからというので鉱物から不老不死の薬を作

る。最終的には鉱物で薬を作るのだが、黄金がもっとも変化しない。だから鉱物を合成し

て金を作り、それを不老不死の薬にするという。一種のシャーマンだ。 現在のようにテロメアを伸ばそうとか、遺伝子を修復する RNA を増やして不老不死にな

ろうという発想ではないが、そうした植物を使った薬を使っているうちに、病気を治す薬

ができたりするので、方士は薬剤師とも考えられている。 盧生は、始皇帝から金品をだまし取ろうと考えていた。そこで 「私は昔、仙人に会って、不老不死の薬をもらいました。しかし仙人を捜すには、莫大

な費用がかかります。その費用さえあれば、仙人に会って不老不死の薬が手に入ります」

と言った。 そこで始皇帝は盧生に金品を与え、船出して仙人に会ってくるように言った。盧生は何

度も出かけたが、いつも仙人を見つけられずに「成功の目度がたったので、次こそは捜し

当てて見せる」と言っては、始皇帝に費用をせびった。 仙薬を捜せば、始皇帝から金品が取れると判ってからは、大勢の方士たちが始皇帝の宮

殿にやってくるようになり、自分ならば仙人を捜し出せるとか、自分は不老不死の仙薬が

作り出せるとか、様々なことを言うものが現れ始めた。始皇帝は、盧生だけではなく、侯生こうしょう

韓衆かんしゅう

といった方士も咸陽に住まわせて厚遇し、彼らに不老不死の仙薬を捜させた。当然に

して見つかるはずもなく、帰ってきた。 こうして始皇帝が、統一国家を造り始めたとき、北方から匈奴が侵入して来ていた。匈

奴は燕や趙の没落につけ込んで、少しずつ南へ侵攻していったのだ。そして河南か な ん

の広い土

地まで奪い去った。そこで始皇帝は、蒙恬もうてん

を将軍とし、三十万の兵をつけて北伐させ、河

南を取り戻した。蒙恬は、蒙武の息子である。 紀元前 214 年、秦王が 46 歳のとき、五十万の大軍を興して嶺南

れいなん

地方を攻撃し、桂林など

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南方の土地を征服し、匈奴から奪った土地と併せて四十四の県となった。これほど増えて

は、六の倍数などにこだわってはいられない。そして南方で利水工事を行い、湘江しょうこう

の上流

を開削かいさく

して運河を作り、それを「霊渠れいきょ

」と呼んで、船も通れるし、潅漑にも使えるように

した。 紀元前 213 年、秦王が 47 歳のとき、またまた蒙恬が匈奴から土地を奪い返し、四十郡と

なった。そして匈奴への防御として、燕や趙が作った長城と、秦の長城を連結することに

し、臨洮りんとう

から遼東まで続く、万里の長城を建設した。その過酷な労働のため、姜孟女きょうもうじょ

など

の伝説が誕生した。また法律で、何日までに人夫を届けないといけないなどと決まってい

たため、それに間に合わない人夫たちが、坐して死ぬよりも反乱して死ぬことを選び取り、

六ケ国の生き残りが、あちこちで反乱を企てた。 二十六、焚書

ふんしょ

坑儒こうじゅ

始皇帝は、国土が広がったことを祝って、咸陽にて祝賀会を開いた。咸陽宮では、七十

人の博士がお祝いを述べた。 「昔の秦は千里ばかりの土地しかありませんでしたが、陛下の才能により、国内を平定

し、蛮夷ば ん い

を追い散らして、太陽の照らすところ全てが陛下に従っております。諸侯の領地

は郡や県となり、人々が安泰で、戦争の不安もない世界が、万世に続くことをお祝いしま

す。昔の聖人君子は、陛下に及びもつきません」と、大臣の周青臣しゅうせいしん

が述べた。それを聞い

て始皇帝は喜ぶ。こんどは斉人の淳于越じゅんうえつ

が 「殷

いん

や周の王は、千歳以上も生き、子弟や功臣を各地の諸侯にして、自分は支えになっ

たと言います。今の陛下には全領土がありながら、血縁者を平民に落とし、兵士には田常でんじょう

六ろく

卿きょう

の大臣がいますが、陛下に助けはありません。どうやって助けてもらいます? 過去

を参考にせずとも長く続くなんて、聞いたことがありません。さっき青臣は陛下の誤りに

おべっかを遣いました。彼は、忠義な大臣ではありません」と述べた。始皇帝は、その意

見をどうだかと相談した。 「五帝は続いてないし、三代も継続していませんが、それぞれに治めています。それは

相反するものではありません。ただ時代が変わったのです。陛下は、大業を成し遂げ、永

遠に続く世を作り上げられました。それは愚かな儒学者には判らないことです。夏殷周の

三代を言ったところで、何の参考になるでしょうか? 諸侯が争っていた時代は、学者が

各地に招かれました。現在は天下が定まり、法令が一つになり、一般民衆は農業や工業を

し、公務員は法律を勉強します。現在に生きるものが、現代を学ばずに古いことばかり学

び、現在が間違いだと言えば、一般民衆は迷ってしまいます」と、丞 相じょうしょう

の李斯が述べた。 さらに「それに古いものは天下に散逸

さんいつ

し、述べている内容もバラバラです。それは諸侯

が編集したものであり、内容も古いしきたりで現在には害となり、虚言で飾り立てていて

も、実質がありません。私的に学んではいますが、政府が作ったものではありません。現

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在は皇帝が天下を一つにされ、善悪の基準を規定されました。勝手に学ぶ内容は、法律と

食い違います。民衆が法律に従わなくなれば、誰も政府の命令を聞くものはいなくなり、

各人が学んだ内容に基づいて論議します。そうなれば民衆は家に入れば本ばかり読んで心

が休まらず、外出すれば議論します。そして名が知れ渡ることが自慢になり、人と変わっ

た考えをすれば優れているとされ、門閥を率いて悪口を言います。そうなれば法律が守ら

れず、その勢いが政府にも影響し、民衆は徒党を組みます。そうなる前に禁じたほうがよ

いと思います。秦が出版したもの以外は、焼き捨てるに越したことはありません。天下に

は博士官が作ったもの以外に、『詩』や『書』、諸子百家の書物があります。不要な書物は

焼き捨てるべきです。『詩』や『書』は、市で捨てさせます。古いものを良しとし、現在を

非とするものも同族です。一ケ月のうちに焼き捨てなければ刺青いれずみ

をして宮刑きゅうけい

にします。必

要なのは医薬、占い、農業の本だけです。もし勉強したければ法令を学び、官僚を先生に

すればよいのです」と続けた。宮刑とは、睾丸を取り去る刑だ。 始皇帝に信頼されている李斯に反論されては、どうやっても勝ち目がない。 昔からの制度を変えてはならないとか、地方長官を任命するのではなく諸侯の貴族に治

めさせたほうがよいとか、そうした制度の良さは書物によって立証されているので、誰も

改革すべきでないとかは、李斯の改革へ対する反発だった。だが法律を重んじる法家と、

道徳や礼儀を重視した儒家の対立は、始皇帝の信頼を得ている法家の勝利で終わった。 こうして世界初の焚書がおこなわれた。独裁政治になると、秦に限らず焚書がされる。

書物は、思想を広める媒体だからだ。印刷術のない時代は、本を書き写すことで思想を広

めた。だから一般民衆が情報を得るには、書籍を使うのが最も効率のよう方法だった。当

時は紙が発明されていなかったので、竹や木を裂いて短冊にしたものに書き写したため、

印刷などはできなかった。だから南方ならば竹を裂き、北方のように竹がなければ木を裂

いて、それに文字を書き写した。そのためには筆が便利だったのである。ボールペンなど

では竹の繊維に引っ掛かって、書けたものではない。だから筆が発明されたのだろう。 焚書は独裁政治になると必ずおこなわれるが、始皇帝が初めてだろう。あとはヒットラ

ーや毛沢東の焚書が有名だ。日本でも戦争中は、焚書とまではゆかないが言論統制がおこ

なわれ、許可されていない書籍を持っていると、特高警察に捕まって殺されたりした。危

険思想の持ち主と見なされるからだ。私が住んでいた中国でも印刷機の持ち込みは禁止さ

れ、許可された印刷物しか出版できなかった。1990 年代になると名刺印刷が盛んになった

が、それでもテレビのリポーターが「あなたの店では、名刺を勝手に印刷しているが、そ

れは法律に違反していることを知っているか?」などとインタビューして歩いていた。 現在はインターネットなどの媒体があるので、出版社を管理しても完全な言論統制がで

きないが、本に比べるとパソコンは高いし、インターネットに繋ぐにもプロバイダー契約

が必要だし、操作が難しいので老人では見れないので、やはり書籍が主な情報源となるこ

とには違いない。

99

こうして紀元前 213 年に、世界で始めての焚書がおこなわれた。ヨーロッパでは、アレ

クサンダー大王の頃は、粘土で作った本を焼き固めたものだから燃えそうにない。また書

籍と呼べるものは羊皮紙だったので、本と呼べるほどの量は作れない。中国の帛書ほどの

貴重さだから、本は貴重品だったと思われる。パピルスも麻布のようなものだから、作る

のに手間がかかる。中国人は筆を発明したために、竹や木に書けるようになり、それが情

報の伝達を早めて文化が進歩したと考えられる。そうした文化の伝達が、紙を発明する下

地になった。 紀元前 212 年、秦王が 48 歳のとき、山を切り崩して谷を埋め、咸陽へと続く道路を作っ

た。咸陽も人口が増えたので、始皇帝は人間が多過ぎるのに宮殿が狭すぎると感じるよう

になった。そこで 「周の文王は豊

を首都にし、その息子の武王は鎬こう

を首都にした。朕も宮殿を作りたい。

今度の宮殿は、渭南い な ん

の上林苑じょうりんえん

に作るぞ」と命令した。 まず玄関口の阿房

あ ぼ う

を作る。それは東西が五百歩、南北は五十丈という大きさである。と

いっても何のことか判らないので解説すると、歩ほ

というのは六尺を一歩とするので、一歩

は約 1m80cm、それが五百だから 900m。ゲッ、そんなにデカイものだったの? そして一

丈は 10 寸だから、奥行きが 150m。一万人が座れるという。南山なんざん

の頂上に宮殿があり、渭水い す い

を渡れば咸陽だという。この宮殿は、結局は完成しなかったので玄関口だけの名前を取っ

て阿房宮と呼ばれている。阿房の阿とは公園などにある壁のない東屋のことだから、恐ら

く壁がなく、柱ばかりで屋根を支えている建物だったと思われる。房は部屋の意味だ。だ

から玄関口だけを作り、このあとで本格的な後宮を作ろうとしたのだろう。まだ住める状

態ではない。その玄関口を作る工事だけで、70 万人以上の受刑者が使われたというが、そ

れらの受刑者は全員が宮刑、つまり睾丸を切り取られて去勢されていたという話だから、

恐らく焚書のときに書籍を隠し持っていたものが人夫にされていたのだろう。 受刑者が労働することは現代でもよくある話で、第二次対戦で満州に残っていた日本軍

は、「ラストエンペーラー」の映画にもあるとおり、シベリアに連れて行かれて鉄道敷きを

させられたという。そして飢えと寒さ、過酷な鉄道建設のために受刑者が死んでゆき、生

きて日本に帰れたものは 10 人に一人だったという。そのあともソ連では受刑者がシベリア

鉄道の建設に携わったという。 王翦が楚を討つとき 60 万の軍を使ったのだから、70 万人以上の受刑者を使って建設した

というのは、ちょっと信じられない。しかも全員に宮刑を施している。これだけ大勢に宮

刑したということは、宮刑用のギロチンでも発明しなければ不可能なことだ。つまり秦の

時代には、すでに小型のギロチンがあったのではなかろうか? こうして法律を厳しくし、犯罪者を捕まえて服役させ、長城や宮殿、道路の建設に当た

らせるのが秦のやり方だった。現在で言えば、国が公共工事の箱もの建設に金をつぎ込む

といったところか。こうした秦のやり方に、一般民衆はやってられないと思い始めた。始

100

皇帝はというと 「早く完成しないかな。待ち遠しいなぁ。完成したら何しようかなぁ。そうだ。みんな

男を宮刑にすれば、男はボクチャン一人だけ。そうなったらモテるだろうなぁ。よし法律

を厳しくしよう」などと考えていた。すると盧生がやってきた。 「またおまえか。不老不死の仙薬が見つかったのか?」と始皇帝。 「またおまえかは無いでしょう。仙人に会うために、私は何度も航海しましたが、結局

は得られませんでした。その原因を考えてみたのですが、悪鬼が邪魔しているためだと思

い当たりました。もしかして皇帝は、私が仙人を捜していることを誰かに漏らしているの

では?」と盧生。 「そ、そりゃあ言うわなぁ。だって嬉しいんだもん」と始皇帝。 「だから見つからないのです。行動するには悪鬼に邪魔されないようにしなければなり

ません。そうか、見つからなかったのは皇帝のせいか。人に知られれば、悪鬼にも知られ

てしまいますから妨害されます。仙人とは真人のことで、水に入っても濡れず、火に入っ

ても焼かれず、雲に乗って移動し、天地と同じほどの寿命があります。私は皇帝が真人に

なれるように苦労しているのに、喋られては私の苦労も水の泡だ」と盧生。 「判った」と始皇帝。こうして盧生は予算をつけてもらって帰宅した。 重臣たちが寄ってきて言った。 「皇帝、さっき盧生が来ていましたが、また不老不死の仙薬を見つけるため費用が要

とか言って、金をふんだくって行きませんでしたか?」 「そんなことないもん」と、尻上がりに始皇帝。 「ダメですよっ、もうあいつにだまされちゃあ」と家臣。 「何でもないもん」と、また尻上がりに始皇帝。 「そうですか。では、あいつと何を話していたんですか?」と家臣。 「言わないもん!だって言っちゃダメっていうんだもん。それより私は、ただいまから

朕ではない」と、始皇帝。 「えっ、あんなに考えて、人には自分のことを朕って呼ぶのを禁止したくせに。いま朕

と呼ばれるのは、皇帝とシロクロのお座敷犬だけですよ。どう呼べばいいんですかっ」と

家臣。 「これからは真人と呼びなさい。朕はヤメ~っ!あれは犬の呼び名だ!」と、始皇帝。 そして咸陽から二百里以内にある二百七十の離宮への通路には、幕を張って鐘や太鼓を

置き、美人を入れて打ち鳴らさせた。そして始皇帝との場に不在だったものは良いが、居

合わせたものは話を聞いたということで死刑にした。そのとき始皇帝は、幸梁山こうりょうざん

宮にいた。

すると山頂から馬車に乗ってやってくる丞相が見えた。こんなところに丞相が来るとマズ

イと思った大臣が、人を遣わせて注意すると、丞相は馬車を止めた。それを見ると始皇帝

は「このなかに真人の言葉を漏らしたものがいる」と怒った。だが誰も答えない。そこで

すぐに周囲のものを捕らえて皆殺しにした。

101

それを知った盧生は驚いた。秦の法律では、詐欺は死刑である。 昔の中国では、米や豆の貸し借りが、しょっちゅう行われていた。五穀とは、米、麦、黍

きび

粟と豆である。それが農家の主食だったが、それを春に借りて、秋に収穫したときに利子

をつけて返す方法が、当時はよくおこなわれていた。その方法とは、貸すときには小さい

升で量り、返すときには大きな升で量るやり方だったが、利子を取ってはならないという

ことで、大勢の農民が受刑者にされていた。そもそも升の大きさは、度量衡が統一された

以上、大きさを変えてはならなかった。書籍も普及しておらず、字も読めない農民が多か

った当時では、法律を知らないため法を犯した受刑者は、幾らでも捕まえることができ、

公共事業の労働者は幾らでも連れてこられた。そこで穀物の貸し主も、升の底に豆を御飯

粒で貼り付けるとか、こそくな手段で利を取るようになっていった。その程度の犯罪で、

死者も多く出る公共工事をさせられるのだから、皇帝をだまし、金品をだまし取ったとな

れば大変な犯罪である。 盧生は、同じ方士仲間である侯生と相談した。 「始皇帝は、傲慢横暴な性質で、独りよがりである。諸侯をだまして天下を併合したも

のの、その目的は自分の欲望のため。それなのに過去の聖人で、自分に勝るものはないと

思い込んでいる。秦の職業では警察官が最高で、警察官であれば幸せな人生だ。博士が七

十人もいるが、みな役立たず。丞相や大臣も命令通りにしてるだけ。刑罰で殺すことによ

り庶民を恐れさせ、天下は罪を着せられることを恐れて税を払い、愛国心など育たない。

皇帝は間違いを指摘されても聞こうとせず、自惚う ぬ ぼ

れるばかり。民衆は恐れて服従し、だま

すことで機嫌を取る。秦の法律は、間違っている。調べもせずに、すぐに死刑だ。宮殿に

は三百人も人材がいて、誰もが賢者だが、恐れ慄おのの

いてこびへつらい、誰も間違いを指摘し

ない。天下のことは大小に関かか

わらず政府が決め、政府は硬直化している。昼夜を問わず文

書を作り、それを書き上げねば休めない。権勢をむさぼれば、何も判らなくなってしまう。

仙薬を手に入れるなどということを、本気で信じているのか。ここは逃げてしまったほう

がよい。バレて捕まったら大変だ」と語らって一緒に逃げてしまった。 始皇帝は、盧生や侯生などが咸陽から逃げてしまったこと、また彼らの捨てゼリフなど

を聞くと、 「朕は以前に、世の中の書物で、役に立たないものは捨ててしまえと言った。朕が皇帝

となってから、多くの儒学者や方術士がやって来た。それを朕は、法学者と同じように優

遇した。それは儒学者が平和な世を作るための助けとなると思ったからだし、方術士には

仙丹を持って来させるためだった。しかし話によると、盧生、侯生、韓衆らの方士トリオ

は逃げてしまって戻らないと聞く。徐市らは巨万の費用を使って、薬が手に入らないと言

う。デタラメを聞かせ、だましていただけだった。盧生らは、朕に厚遇されていたのにも

関わらず、朕を誹謗して罵ののし

った。こうなったら咸陽中に住んでいる方士を捕らえて、民衆

を惑わすような事を言う奴を、厳しく尋問しようぞ」と、カンカンになって命じた。

102

そこで警官たちは咸陽の街へ行き、方士らを捕まえようとしたが、詐欺は重罪であるこ

とを知っている方士たちは、とうに逃げてしまっている。警官としては「方士がいません

でしたぁ」と言って帰ってきては、皇帝に死刑にされるかもしれない。だから儒者を捕ら

えることにした。儒者は何も知らないので、警官が一人の儒者のところへ行き 「今晩わぁ。方士たちが逃げましたので、儒者さんに、お友達を紹介してもらおうと思

ってきました。あなたと仲のよい儒者って誰ですか?」と尋ねる。すると儒者は 「Aさんなんか仲がいいかな。Bさんも。Cさんはちょっと」というわけで、ずるずる

と芋蔓式に捕まえられた。 さて儒者を捕まえると警官は 「おまえは皇帝の悪口を言ったろうが!」と厳しく棒で叩く。否定していると 「嘘をつくのは重罪だからな!」と言って、捕まえた儒者を全員とも縛ってしまった。

そして谷へ連れてゆき、全員を谷底に落とした後、土をかけて生き埋めにしてしまった。

その数ぜんぶで 460 人あまりという。これが有名な焚書坑儒である。焚書と坑儒は、こう

して一年違うし、それぞれ違う理由から行われたのであるが、二つを一緒にして焚書坑儒

と呼んでいる。やはり毛沢東も、同じように焚書坑儒めいたことをやっているが、理由は

百家争鳴で、毛沢東を批判するような意見が飛び出してきたからであり、本を燃やし、批

判する人を労改という刑務所に入れた。ああ歴史は繰り返す。そのときは「焚書坑儒」と

は呼ばずに「文化大革命」と呼んだが、古い書物は捨てて、これからは毛沢東語録を読み

なさいということだから似たようなものである。焚書は文化大革命、坑儒は右派闘争と呼

ばれた。ちなみに焚書坑儒を、焚書抗儒と思っている人もある。坑は穴の意味である。儒

者を穴に生き埋めにしたから坑儒である。儒者に対抗しようなどというなまやさしいもの

ではない。 坑儒に反対したのが始皇帝の長男である扶蘇

ふ そ

。 「天下が初めて統一され、まだ遠方の民衆も咸陽へ集まっていません。それに民衆は孔子

こ う し

を尊敬しています。ここで孔子の崇拝者を犯罪としてしまっては、人々は恐れて天下が落

ち着きません。その辺を考えてください」と諌いさ

めた。 それを聞いた始皇帝は、当然にして怒った。 「息子が、しかも長男が父親に意見するとは何事だ!反抗するものは死刑だ!」 そうは言っても大切な後取り息子、始皇帝の父親は変則的だったが、長男が後継ぎでな

ければ、お家騒動が起こってしまう。長男を殺すわけにゆかない。こうした時、代わりに

罰せられるのは、王子の教育係と決まっている。 「おまえが変な考えを王子に吹き込んだな? はい、あんたは死刑」てなわけで、王子

の教育係は殺され、それでも気の済まなかった始皇帝は、扶蘇を蒙恬のところへやってし

まった。蒙恬といえば記憶が飛んでいる人も多いだろうが、万里の長城にて匈奴から秦国

を守っている将軍である。長男を厳しい環境の長城へ送り、次の人材である蒙恬の監督さ

せ、将来は皇帝として呼び戻そうという腹だった。始皇帝も昔は苦労した。息子も苦労さ

103

せないと、一丁前の皇帝にはなれないだろうと思ったのだ。 二十七、始皇帝の死 紀元前 211 年、秦王が 49 歳のとき、星が東郡に落ちてきて石となった。その石に人々が

「始皇帝が死んで地に帰った」と彫った。それを聞いた皇帝は、官僚を派遣して、誰が文

を彫ったかと尋問した。しかし誰も知らないと言うので、隕石の近所の住民をことごとく

殺し、隕石を焼いた。それでも始皇帝は気分が悪かった。そういえば最近は体調がよくな

い。星が落ちてきたということは、自分が死ぬことを暗示しているのだろうか? 49 歳で体調が悪いというのは、おかしな話である。まだまだ盛んで、普通なら七十ぐら

いまで体調が悪くならない。七十を過ぎるとガクッとくる。山地の秦では、水も山水で寄

生虫もおらず、平原と違って安全なはずだ。おいしいものを食べ過ぎて糖尿病になったに

しろ、そんなに太っていれば暗殺者の荊軻が簡単に刺し殺したであろう。酒の呑み過ぎで

肝硬変が起こっても腹水が溜っていたはずだ。だが外見的な異常を記載する記録はない。

身体が急に悪くなった原因は、皮肉なことに不老不死の薬のせいであった。時を経ても変

化しないのは岩だから、鉱物を食べれば長寿を得られると方士たちは考えていた。だが植

物や動物性の毒物であれば分解もされるが、鉱物性の毒物は分解されないで蓄積する。日

本でもカドミウムのイタイイタイ病、有機水銀による水俣病、森永ヒ素ミルク中毒事件、

鉛中毒などが起きている。そして不老不死の薬は、鉱物でできている。中国で有名な鉱物

とは、まず磁石、陽起石、雄黄、朱砂などが使われる。磁石と陽起石は、鉄やカルシウム

だから無害だが、雄黄と朱砂はヒ素と水銀である。ヒ素や水銀を健康によいと思って飲み

続けていれば、和歌山ヒ素入りカレー事件のように体調が悪くなってしまう。 だから漢方薬は安全だというのは嘘である。それで多くの人が中毒を起こして死んでい

る。その代表的な薬は中国の「牙痛一発丸」である。その主成分はヒ素で、それを口に含

んで神経を麻痺させ、痛みを止めようという薬だ。だから説明書には「痛む部分に含むと

唾が出ますが、絶対に唾を飲んではいけません」と書いてある。だが虫歯に薬を詰めても、

唾が出れば、どうしても飲んでしまいますわなぁ。そうした毒物は、オデキの薬に多く含

まれています。まぁ、それはそれとして、方士たちは、こうやって秦の始皇帝から礼金を

せしめたうえ、毒薬を飲ませて殺してしまったのだ。 秦を滅ぼしたのは劉邦

りゅうほう

というのが定説だが、劉邦がいなくても項羽こ う う

が滅ぼしているはず

だ。だが始皇帝が生きていれば、秦は滅亡しなかった。だから秦を滅亡させた立役者は、

項羽でも劉邦でもなく、始皇帝をだまして毒殺した盧生、侯生、韓衆トリオだったのだ。 ヒ素や水銀が身体に溜り、急激に体調を崩した始皇帝は、どうやら呑まされていた仙薬

は毒物だったと気が付いた。そのうえ星まで落ちてきたという。すっかり気が滅入ってし

まった。そこで博士に『仙真人の詩』を作らせ、音楽家に歌や楽器を演奏させるように命

104

令した。こうして歌を聞けば、滅入った気分も晴れるだろう。歌や踊りが盛んな趙の都、

邯鄲で育った始皇帝は、歳を食っても歌や踊りが好きだった。 ところで昔、荊軻という暗殺者がいた。彼を雇った燕は滅びたが、荊軻の親友に筑

ちく

を演

奏する名人がいた。彼は非常に寂しい音楽を奏でるという。彼の名前は、高漸離こ う ぜ ん り

だった。

荊軻が暗殺に失敗したという噂を聞いた高漸離は、名前を宋子そ う し

と変えて、雇われ人となっ

て働いていた。荊軻が死んでからというもの、筑を奏でることはなかった。筑というのは

琴のような形をしていて、竹のバチで叩いて音を出すものらしい。おそらくピアノの原型

だろう。荊軻が死ぬと、高漸離は宋子となって秦国に来ていた。荊軻が死んでからは、高

漸離が筑を演奏することはなかった。聞き手を失ったからだ。人は彼に、神社で筑を演奏

させようと思ったが、彼が出向いたことはなかった。神社というのは、中国では墓のこと

である。祖先を祭る神社が建っている。 それで宋子の雇い主が「彼は、果たして筑が弾けるのか弾けないのか?」と家来に尋ね

た。従者が「あの者が、どうして筑が弾けましょう。私の考えでは、ぜったいに弾けませ

ん」という。そこで主人は、果たして宋子が筑を弾けるかどうか、試してみたくなった。

そこで主人は、一同を集めて筑を弾かせ、それを褒めて酒を呑ませた。高漸離は筑の音を

聞くと、だんだんと荊軻を思い出し、悲しくてしょうがなくなった。そこで部屋に帰り、

カバンの中から筑と服を出し、着替えたあと筑を持って主人の元へ戻った。驚いたのは客

たちだった。使用人だと思っていた宋子が、貴族のように変わっている。使用人とはでき

ず、上客として迎えられた。いったん宋子が筑を叩いて歌い出すと、客は誰もが涙を流し

て感動し、誰も席を立つものがいなかった。宋子のことは、客から秦の始皇帝に伝わった。

そこで皇帝が宋子を召しだして筑を奏でさせると、その悲しげな旋律に心が洗われて、滅

入った気分が和らいだ。皇帝は、すぐに宋子を雇うことにした。しかし宮中のものが、 「あれは宋子と名乗っていますが、荊軻の親友の高漸離に違いありません。きっと皇帝

を暗殺するためにやってきたのでしょう」と言った。 皇帝は 「そんなこと言ったって、そんなこと言ったって。演奏は聞きたいし、命は惜しいし」

とイヤイヤします。しかし荊軻に殺されかけた恐怖を思いだすと、身体が弱った今では逃

げることもできません。なんとかならんかと相談した。 「それでは宋子の目を潰しましょう。目が見えなくとも筑は弾けますし、歌えます。音

楽は離れていても聞こえますし、目が見えなければナイフを投げることもできません」と

家来。 それは良い考えだと、皇帝は高漸離の両目に針を刺し、視力を奪った。それから部屋に

おくことにした。始皇帝は、いつも高漸離の筑を聞くと心が慰められた。話をしてみると

結構気が合う。それで始皇帝は高漸離が親友のような気になり、段々と距離を置かなくな

った。しかし高漸離は、視力を失っても荊軻の仇を討つことを諦めていていなかった。筑

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の中に鉛を入れて重くし、皇帝が近づいてきたときに殴りかかった。だが目が見えなかっ

たので当たらない。驚いた皇帝は、すぐに高漸離を殺した。それからの始皇帝は、どんな

に親しい相手でも、誰も近づけなくなったという。 その年の秋、関東

かんとう

からの使者が、夜間に華陰か い ん

の平坦な道路を通り過ぎると、璧へき

を持った

男が使者を通せんぼした。璧とは玉のことだが、タマを持った男と読まれると「なんだ、

普通じゃん」と思われる。そこで璧と史記に書いてある。璧はギョクのことで、白く透き

通った石のことである。長石が多いが、石英なども玉ぎょく

とされる。その男は 「これを滈池

こういけ

君に渡してくれ」という。 滈池君とは、暴君の紂

ちゅう

を殺して天下を取った周の武王ぶ お う

と言われている。 使者は不審に思い、意味を尋ねると 「今年は、祖竜が死ぬ」と言った。使者が意味を尋ねようとすると、急に男が見えなく

なり、璧だけ残っていた。使者は、璧を拾うと、皇帝に献上した。 龍とは、皇帝を意味している。祖は祖先、つまり始祖という意味だ。つまり今年は始皇

帝が死ぬという予言になる。そうした話を聞くと、臣下は不吉だと騒ぎ始めたが、皇帝は 「山の妖怪は、一年以内のことしか判らない」と平然としていた。そして退出するとき 「祖竜とは、人の先祖のことで、朕のことではない」と言った。 その玉を、宝物倉の職員に調べさせると、それは始皇帝が 41 歳のとき、河を渡ったとき

に沈んでしまった玉だった。不吉に思った皇帝は、占い師に易をさせた。すると旅行すれ

ば吉と出た。 二十三、始皇帝の死 紀元前 210 年、秦王が 50 歳の十月、皇帝は旅行に出かけた。左丞相の李斯は着いて行っ

たが、右丞相の去疾きょしつ

は咸陽を守った。そして末っ子の胡亥こ が い

も、連れて行けとせがんだので

同行させた。十一月、雲夢う ん む

を通って九疑山きゅうぎざん

にて舜しゅん

の祭りを見た。江下こ う か

を船で通り、籍柯せ き か

見て、海渚かいしょ

を渡り、丹陽たんよう

を過ぎて銭唐せんとう

へ至る。浙江せっこう

に臨んで、波悪は お

を船で行き、西へ百二

十里ほど狭 中きょうちゅう

から行く。会稽かいけい

へ行き、禹う

を祭ると、南海なんかい

を見て、例の如く、岩に秦の徳を

彫る。 まぁ彫った内容も、例によって天下を統一し、卑わいな風俗を改めさせたというような

内容だ。そして再び琅邪台にやって来た。海を見ていると、船出した方士の徐市が思い出

される。多額の予算を使った徐市は、叱られるのを恐れ、 「蓬莱の薬は、手に入ります。しかし、いつも大鮫に邪魔されて、手に入りません。だ

から大鮫を仕留める弩ど

の名人を加えてください。そうすれば弩で大鮫を射殺せます」と言

った。 弩というのは、機械仕掛けの弓矢である。巻き上げ機を使って弦を巻き上げ、引き金で

矢を固定する。引き金を引くと矢が飛ぶ。弓より数倍の破壊力があり、遠くまで飛ぶ。

106

しかし徐市は、日本に到着して少年少女の王となり、それらを愛人にして楽しく暮らし

ていたから帰ってくるわけがない。だが皇帝は帰ってくると思った。というより仙薬を持

って帰ってくれないと、自分は死んでしまう。だから海の見える琅邪台まで出向いたのだ。 始皇帝は、自分が海 神

ネプチューン

と戦っている夢を見た。海神は人のようだった。夢占いの博士に

尋ねたら 「水神は見ることができません。大魚や蛟

みずち

、龍などが手先となります。皇帝が祭りをし

ているのですから、こうした悪い神がいれば取り除かねばなりません。そうすれば善い神

が来てくれます」と答える。そこで漁師に命じて、巨大魚を捕まえる道具を出させ、やは

り弩を使って大魚を射殺す作戦に出た。そして琅邪から海岸を北上して栄城山えいじょうざん

へやってき

たが巨大魚は見つからない。罘ふ

まで来ると、怪魚が見つかったので射殺した。そして海西かいせい

で来て、平原津へいげんしん

へ行くと、始皇帝は病気になった。海岸に沿って歩いたが徐市は帰らない。 皇帝は死という言葉を嫌った。そこで家臣たちは、誰も死ぬなどと言わなかった。しか

し病気は、ますます重くなった。動けなくなった始皇帝は、病床で家臣たちに、始皇帝の

実印である玉璽ぎょくじ

、そして遺書を長男の扶蘇に送るように言った。 「朕は死ぬ。咸陽で葬式をせよ」との遺書だった。 遺書は封印され、実印事務所の趙高へ渡されたが、扶蘇への使者は出なかった。早くし

ないと万里の長城にいる扶蘇は、葬式に間に合わなくなる。 七月、始皇帝は沙丘平台

さきゅうへいだい

にて死んだ。沙丘平台は、以前は趙国の領土だった。皇帝に着

いてきた丞相の李斯は、 「旅先で皇帝が死んだことが判ったら、咸陽で別の皇帝が即位して、我々は帰れなくな

る。それに、お家騒動が起こって天下が乱れる」と言い出した。 そこで皇帝が死んだことを秘密にし、死体を御所車に入れ、いつも通りに宦官が同乗し

て、始皇帝の代わりに宦官が御馳走を食べていた。すべては皇帝が生きているかのように

進行し、皇帝の車のとなりに趙高ちょうこう

が車を付け、皇帝の代わりに命令した。だから皇帝の死

を知るものは、末っ子の胡亥こ が い

、丞相の李斯り し

、そして遺書と実印を持っている趙高、あとは

皇帝の身の回りを世話をする宦官だけ、だいたい五~六人だけが知っていた。 ふつうは皇帝が姿を見せなければ、おかしいなと思うのだが、方士から行動を知られる

と悪神に邪魔されると言われたり、高漸離に撲殺されそうになった皇帝は、人を近づけな

いようにしていたので、臣下は誰も皇帝が死んでいるとは思わなかった。 趙高は初めて登場する人物だが、趙という姓だから、もとは秦国が滅ぼした趙国の人間

だ。それを趙にいた呂不韋が連れてきて自分の食客にし、法律がよくできるものとして始

皇帝が重用した人物だった。だから呂不韋が来てからは、趙の人間が政府高官として、ず

いぶんと秦の要職に就いている。その政府機構を、そっくり受け継いだのが始皇帝だから、

趙国の人間が随分と秦国に入り込んでいる。もともと中国では一族が王国を作っていたの

107

で、趙姓ならば趙国、宋姓ならば宋国、嬴えい

姓ならば秦国の血筋である。中国での姓は、か

つての王国を表している。そして趙高は、胡亥に法律を教える教育係だった。 皇帝が死ぬと、趙高は胡亥と相談した。 「始皇帝は死んだけど、遺書は長男の扶蘇にしか残さなかった。ほかの兄弟には、何も

遺言がない。一般的には長男が王位を継いで、王の兄弟は領地をもらって貴族になる。だ

が秦の法律では、長男が王位を継ぐが、王の兄弟は功績を上げない限り一般人になる。領

地もないから、食ってゆくにも困りますよ」と、趙高。 「父が李斯に遺言を書かせてしまったんだから、我々は実施するしかないでしょう。何

か方法がありますか?」と、胡亥。 「大丈夫。方法があります。幸いにして、皇帝が死んだことを知っているのは、李斯と

私、そしてあなたしかいません。この三人が口をつぐんでしまえば、誰にも判りません。

私が丞相を説得してきましょう」と趙高。 胡亥は、趙高が自分のために工作してくれると思うと、喜んでOKした。 趙高が李斯を尋ねると、李斯は 「皇帝が扶蘇に託した遺書を送ったのか?」と聞いた。 「遺書は胡亥が持っている。その件について相談にきた。皇帝が死んだことを、誰も知

らない。皇帝が遺書を残したとも、我々二人だけが知っている。つまり誰を皇帝にするか

は、すべて我々の心一つにかかっている。あんたはどう思う?」 と趙高は、小淵首相が脳卒中で倒れて、森首相が決まったときのようなことを言い始め

た。李斯はビックリした 「皇帝の遺書の中にハッキリ書いてあるじゃないか! 我々二人が決められることじゃ

ない。それは犯罪ではないか!」 すると趙高は笑いながら 「まあ、そんなに堅いことは言わずに、ちょっと話をしてみないか。今は蒙恬が長城に

いるが、扶蘇が皇帝になって咸陽へ帰ってくれば、蒙恬も帰ってくる。蒙恬は、北方から

匈奴を追い出して領地を広げたり、数々の功績がある。君の能力は、蒙恬に勝るのかな?

君の功績は蒙恬より大きいかな? 君の頭脳は蒙恬より上かな? 君の人脈は蒙恬より多

いかな? 君と扶蘇の関係は、蒙恬より深いかな?」と聞いた。しばらく李斯は黙ってい

たが、やっと口を開いて「勝てない」と言った。 「じゃあハッキリした。扶蘇が皇帝になってみろ、当然にして蒙恬の比重が高くなる。

そうなったら君の地位は、いつまで保てるかな?」と趙高。 「どうしたものかな?」と李斯。 「王子の胡亥は、私が教育したんだ。胡亥は思いやりがあって誠実で、頭もよくて能力

もある。しかし扶蘇が皇帝になれば、胡亥は平民だ。もし我々が胡亥を皇帝にすれば、彼

は感謝して、我々は呂不韋ほどの力が持てるだろう」と趙高。

108

「そんなことをしては、やはりよくない。やはり遺書の通りに処理しよう」と李斯。 それを聞くと趙高は暗い顔をして 「私が最後に忠告しにきたのは、我々は何年も一緒に仕事をしてきた仲だし、厚い友情

もあるから内輪の秘密を漏らした。もう王子の胡亥は主導権を握っている。君が同意して

くれればトントン拍子に進むのだが、反抗すれば胡亥の怒りを買う。そうなったら私がい

くら親しくとも、どうすることもできない。自分で身の振り方を考えるしかないな!」と

言い捨て、立ち上がって出てゆこうとした。 それを聞くと李斯は暗い気持ちになり 「待ってくれ、やはり君のいう通りにするよ」と同意した。 同意はしたものの李斯の気持ちは重かった 「皇帝、あなたは私を信用し、重要な仕事につけてくれました。だけど私は、あなたを

裏切ります」 李斯は鼻がツンとして、涙が出てきた。しかし事は動き出してしまった。 李斯は趙高に言われるがまま、偽の遺書を作った。あとは趙高が持っている実印を押せ

ば完成だ。皇帝の言葉を、李斯が書き、趙高が皇帝の実印を押せば、命令書が出来上がる。

誠に簡単だ。 趙高は李斯が作った偽遺書を持つと、帰って胡亥に報告した。もともと趙高は趙国の人

間だ。秦国の皇帝が正統であろうとなかろうと、自分の地位が守れれば、それでよい。 最初は一つだった遺書は、破り捨てられて二つに増えた。一つは扶蘇と蒙恬に送る遺書、

一つは末っ子の胡亥を皇帝にするという遺書だ。すべては趙高の計画通りに進んだ。この

ときに秦国の滅亡が決定した。 偽の遺書を送り出すと、皇帝の車は咸陽へ引き返した。 一行は、沙丘

さきゅう

から咸陽へ帰り始めたが、おりしも七月、暑さのせいで始皇帝の死体が腐

りだした。ひどい悪臭だ。これでは車に死体を積んでいることがバレてしまう。 「咸陽は山国だ。海がない。皇帝が、いつでも好物のアワビが食べられるように、アワ

ビをたくさん積んで帰るぞ」と、丞相は命令を出した。 「それは良い考えです。さっそく干しアワビをたくさん買い集めて参ります」と部下。 「馬鹿者! 干しアワビのような干乾びたもの、皇帝が食べられるわけないだろう」 「では塩漬けアワビですか?」と部下。 「新鮮な生アワビに決まっておろう」と李斯。 ということで始皇帝の車の前後は、何台もの生アワビを積んだ車に挟まれた。暑いうえ

に水もないので、アワビはすぐに腐り始め、悪臭をプンプン振りまき始めた。諌早湾いさはやわん

の干

拓で牡蛎が死に、周囲にひどい悪臭が漂ったというが、ちょうどそうしたものだった。民

衆は食事中に皇帝の車がやってくると、 「何だ? あの悪臭は?」というわけで、食事も喉を通らなくなった。あまりの臭さに

109

逃げ出したり、失神したものもいたという。 こうして始皇帝一行が村に入る前に、あまりの臭さに一般民衆は、家財道具を持って避

難してしまったので、誰にも皇帝の死が知られることなく、無事に咸陽へ到着した。 万里の長城では、扶蘇が父のニセ遺書を受け取った 「扶蘇ちゃん。あんたらの悪事はバレたのよ! 蒙恬と一緒に死になさいねっ!」と書

いてあった。文字を見ると、まさしく李斯の文字であり、きちんと趙高が持っている実印

も押してある。 「これは、まさしく父上の文章」と、扶蘇は自殺しようとする。 「この文は変です。秦は長男が王位を継承してきました。だから何があっても王子が殺

された試しはないのです。王子を殺さなければならないときは、教育係や世話係が殺され

ます。長男が殺されることなどありえません。それに前のことで、いまさらになって責め

る遺書がくるのはおかしい。本当かどうか咸陽へ戻り、父上に会って本人の口から確かめ

られてはいかがでしょうか」と蒙恬が止めた。 だが扶蘇は、これまでの伝統を否定する父のやり方、自分の母親まで殺そうとした父を

思い返すにつけ、この遺書は本物のような気がしてきた。そこで自殺してしまった。蒙恬

は自殺しなかったが、反逆罪で捉えられてしまった。蒙恬は、楚を滅ぼした蒙武の息子で、

代々からの秦の将軍だった。子供の頃から帝王となるべく、厳しく教育された扶蘇、そし

て秦の経験豊かな将軍である蒙恬、この二人がいなくなっては、もう広大な秦の領土を保

つことはできない。扶蘇が皇帝になっていれば、ムチャな法律を改めて反乱が起きなかっ

ただろう。また蒙恬が将軍だったならば、反乱軍など直ちに鎮圧されていただろう。 しかし趙高には、蒙恬に対する恨みがあった。始皇帝が存命中、趙高が犯罪を犯した。

そこで蒙毅が趙高の犯罪を調べていたのだ。趙高の罪は断頭に値する。すぐに始皇帝に報

告し、断頭すべきと訴えた。しかし趙高は、末すえ

っ子こ

胡亥の教師であり、秦の法律にも精通

していたため、殺してはもったいないと考えて、政は訓告処分にした。そして元のように

身の周りの世話をさせた。だから趙高は、蒙兄弟に憎しみがあった。 二十九、二世誕生 皇帝の死体一行が咸陽へ到着すると、使者が 「王子の扶蘇は自殺しました。蒙恬も監獄に捕らえてあります」と報告した。 三人はホッとした。もし扶蘇が帰ってきていたら大変なことになる。正当な皇帝となる

のは扶蘇だからだ。ここで扶蘇が待っていたら、始皇帝が生きていない限り、彼が皇帝と

なってしまう。偽の遺書を作った三人は死刑だ。それに蒙恬が北方にいる三十万の兵を動

かせば、秦には防げる将軍はいない。これで安心して即位できる。そして偽遺書を披露し 「始皇帝は死んだ。胡亥が葬式をして、二世皇帝となる」と宣言した。

110

九月に始皇帝の葬儀を驪山れいざん

でおこなった。驪山は、もともと周王朝の狼煙台の ろ し だ い

があり、周

の幽王ゆうおう

が、遊びで狼煙の ろ し

を上げて旗本(諸侯)を集めたという。そうやって幽王が遊んでいるう

ちに、狼煙を上げても本気にするものがなくなり、本当に匈奴が攻めてきたとき狼煙を上

げたが、誰も助けがこないので殺されてしまったという伝説がある。嘘つながりである。 始皇帝は即位すると、すぐに自分の墓を建設し始めた。七十万以上の人夫を集め、三つ

の泉を堀り、銅板を敷いて椁かく

(ヒツギ)を安置した。墓の内部は道教の寺になっており、職員

の人形、さまざまな陶器、珍奇な宝物などを入れた。そしてカラクリ師には、人が通ると

自動的に矢を発射するトラップを作らせ、侵入してきた盗賊を射殺する工夫をした。墓の

壁から侵入すると、人の重みで引き金が外れ、弓矢が発射されるのだ。そして水銀を使っ

て秦国を模した海や川を作り、ポンプで循環させるようにした。天井には星が散りばめら

れ、床には秦国の地形があった。そしてジュゴンの脂で作った蝋燭を灯とも

したというが、恐

らく鯨の脂で作った蝋燭のことだろう。 始皇帝の葬式が終わると、二世は 「王の後宮にいる女で、まだ子供を生んでいないものは、前に出ろ」という。 女たちは、次々と前に出た。 「よし、子供を生んでいない女は、始皇帝の妻として務めを果たしていない。みんな墓

へ入って、始皇帝の世話をしろ」と命令した。そして女どもは墓に閉じ込められた。 いやはや、ひどい皇帝である。こんな調子だったので、非常に多くの人が殉職した。宮

女どもを墓に入れると、 「カラクリ師たちは、トラップを作った。宝物蔵を作ったものは、この墓の秘密を知っ

ている。蔵の重要性が漏れてしまう。葬式が終わって蓋を閉めたら、墓の中門を閉じて、

外門も閉じ、罠を作ったものや蔵を作ったものを、全員閉じ込めて出られないようにして

しまえ」と、墓の内装を作った設計士を、中門と外門の間に閉じ込めることにした。 明の十三陵へ行った人は知っているだろうが、始皇帝の墓は、一度ドアを閉じると、ド

アのつっかえ棒が倒れて二度と開かなくなる。つっかえ棒は巨石でできているから、簡単

には持ち上がらない。 技術者を中門の前に集めると、 「それでは墓を作った人は、中門を閉めて下さい」と言った。中門が閉まって、みんな

が万歳をしていると、外門が閉じられて、みんな閉じ込められてしまった。 中国の墓を見た人はないと思うが、トンネルのように穴が掘られ、一番奥に始皇帝の部

屋があって、次の間、次の間と部屋がある。 こうした記載からすると、奥に巨大な始皇帝の寺があり、そこに通じるトンネルが掘ら

れていて、そこに最初の扉があり、トンネルの中間部分に中扉があり、入口に外扉があっ

た。そして内扉と中扉が内開きで、墓入口の扉だけが外開きだった。こうして設計者たち

を閉じ込めた二世は、大急ぎで扉の前に土を盛ると、木を植えて山のようにした。

111

二世皇帝は、二十一歳で即位した。趙高は郎中令ろうちゅうれい

に昇格し、政治を任された。末っ子の

二世は、政治する教育など受けていなかった。多くの文書に目を通して、それを判断して

ゆくのは面倒臭くてしょうがない。自分を二世にしてくれた趙高ならば、二世の代理を任

せていても心配ないだろうと思った。そこで趙高を郎中令に昇格させたのだった。 二世は 「朕は年少で即位したので、民衆が支持していない。先帝は国内を視察して、その強さ

を示し、国内を平服させた。私が視察しなければ弱いと見られ、天下の臣畜になめられる

であろう」と、心配して趙高に相談した。いやはや民は畜生扱いだ。そして春になったら、

李斯を従えて始皇帝の旅行先を尋ねて回った。紀元前 209 年のことだった。今でも中国で

は、春の遠足のことを春游と呼ぶ。やはり始皇帝と同じように岩に言葉を刻んだ。 二世は旅行していても、やはり趙高が咸陽で政治をしていた。 二世は趙高に 「朕に大臣は従わないし、官僚は自由にならない。また兄どもも朕に反抗する。どうし

たら良いものか?」と相談していた。そりゃあ始皇帝あっての末っ子だから、始皇帝が亡

くなれば、末っ子の言うことなんか聞く兄はない。 「いままで言いにくかったことですが、先帝からの大臣は、誰もが天下の名門の人達で

す。ですから功績や功労が受け継がれています。それにひきかえ趙高は卑しい出です。そ

れが陛下に可愛がられて高い地位に着き、政治を仕切っています。大臣たちは、面白くな

い。だから表面は臣下を装っていますが、裏では反抗しているのです。だから各地を視察

し、郡県の長官を調べて、罪があれば殺しなさい。そうすれば二世の威光が天下に知れ渡

り、しもじもの者は二世に従わなければ生きられないと思うでしょう。今は、文を師とす

るのではなく、武力が決定する時代です。陛下が時代の流れに乗れば、臣下達も謀略をし

ないでしょう。先帝は、すぐ死刑にしたから、誰も恐れて反抗しなかったのです。そして

明君は部外者を登用し、卑しい者の地位を上げ、貧しいものを富ませ、縁遠いものを近づ

けます。つまり昔からの家臣を一掃して、新たな人材を登用することが、上下が一体とな

って国を安定させる方法です」と、趙高は勧める。 「それは良い方法だ」と二世。 そこで大臣や兄たちに言い掛かりをつけて死刑にし、近従の者まで罪に落としたので、

功績のあった家臣はいなくなった。そして六人の兄たちも杜と

で殺した。兄弟の将閭しょうろ

は、三

人の兄弟とともに宮殿で捕らえられた。そして罪を詮議せ ん ぎ

していると、二世の使者が来て 「兄弟は臣下として振る舞わなかった。その罪は死に値する。役人が法によって処刑す

る」と述べた。 「宮廷の礼では、私は客としての礼を尽くした。朝廷の位でも、節度を守ってきた。命

令を受けたときも、拒否したことはない。どこが臣下でないのだ? 何が死に値する罪な

のか教えてくれ」と、将閭が聞く。 「私は陰謀に加わったわけではありません。命令書通りに処理するだけです」と役人。

112

「ああ天よ!天よ!天よ!我らは無罪だ!」と叫ぶと、三人の兄弟は、鼻水を流しなが

ら剣を抜いて自殺した。 このニュースが伝わると、二世の兄弟たちは震え上がった。「あんまりだ」と言った大臣

は、二世を誹謗した罪で死刑となった。高級官僚は左遷されないよう、二世の御機嫌とり

に必死となった。一般の民衆も震え上がった。獄中の蒙恬は反逆罪で死刑となり、弟の蒙毅も う き

も死刑にした。秦国にとって蒙一族の功績は、あまりにも大きすぎたのである。こうして

胡亥は、長男のほか、十二人の兄、十人の姉、そして代々からの大臣を処刑したが、そう

した仕事は、実は趙高がやったことだった。こうして二世胡亥に逆らうものはいなくなり、

結果に満足した。その後も趙高は、仇となる大臣や、気にいらない官僚を、次々と反逆罪

として死刑にしていった。 四月、二世は旅行先から咸陽へ戻った。そして「先帝は、咸陽の朝廷が小さすぎると感

じ、阿房宮を作った。しかし完成を待たずに死んでしまった。そこで作るのを止めて、今

度は驪山に墓を作った。驪山の墓は、あらかた片付いた。こんどは阿房宮を完成させない

と、先帝の事業が台無しになる」と、ふたたび阿房宮に着工した。 秦国の政策は、夷狄

い て き

(匈奴)を叩くことも、始皇帝の方法を継続した。そして全国から五万

の人材を咸陽に集めて、射撃訓練をした。犬、馬、鳥獣など、食べるものが多くなり、不

足分を郡県から調達するため、豆や粟、馬草を運ばせたが、運ぶ農民の食糧は自前で調達

せねばならず、咸陽の三百里以内で栽培された穀物は、自分で食べてはならなかった。こ

うして法律が苛酷になっていった。 七月、楚にいる辺境警備兵だった陳勝

ちんしょう

は、反旗を翻して「張楚ちょうそ

」と名乗った。陳勝が楚

王となり、陳を都として、将を派遣して各地を従わせた。山東さんとう

の郡県では、少年たちが秦

の役人を苦しめ、郡県の守しゅ

、尉い

、令れい

、丞しょう

などの偉いさんを殺し、陳勝に呼応して、それぞ

れ王を名乗った。そして秦の討伐を旗印に、連合して秦のある西へ向かって進んだ。おび

ただしい数だった。東方からやってきた謁者えつしゃ

が、そのことを報告すると、二世は怒って謁

者を捕らえ、刑務官に引き渡した。謁者とは、客の礼儀を指図したり、報告されたことを

文章にする隠密である。そのあと正式な使者がきて 「盗賊が出ましたが、郡守や尉が次々と捕まえ、今はいなくなりました。心配するに及

びません」と報告したので、二世は喜んだ。しかし武臣ぶ し ん

が趙王となって蜂起ほ う き

し、魏咎ぎきゅう

が魏

王となって蜂起し、田儋てんたん

が斉王となった。また沛では沛公はいこう

、つまり劉邦りゅうほう

が蜂起し、会稽かいけい

では項梁こうりょう

が挙兵した。 紀元前 208 年冬。陳勝が派遣した周 章

しゅうしょう

らの将は、西の戯ぎ

まで至った。その数十万。趙

高が二世の傍らにいない隙に、別の大臣が報告した。二世は驚いて、臣下たちと協議した。 「どうしたらよいかなぁ?」 すると少府の章邯

しょうかん

が 「盗賊は、すでにやってきています。数が多くて強いので、いまから近県に助けを求め

ても間に合わないでしょう。驪山には、墓作りの囚人が大勢います。彼らを釈放し、兵と

113

して私に預けて攻撃させてください」という。 そこで二世は、囚人を許して労役を免除し、武器を持たせて章邯に渡した。章邯は将と

なって周章軍を撃破し、曹陽そうよう

まで追いかけて周章を討ち取った。さらに二世は、長史司馬欣ち ょ う し し ば き ん

董翳とうえい

を補佐とし、章邯に盗賊を殺すように命じたので、陳勝は城父じょうふ

で殺され、項梁は定陶ていとう

破られ、魏咎は臨済りんざい

で死んだ。楚の盗賊の名将を殺したのち、章邯は北へ向かって河を渡

り、趙王の歇けつ

らが占拠する巨鹿きょろく

を攻撃した。 三十、趙高の政治 力のある大臣をすべて処刑した趙高だったが、それでも不安だった。こんどのように、

自分の知らないうちに大臣が二世へ知らせると、困ったことになると思ったからだ。もし

かすると自分が勝手に罪を着せ、大臣を処刑していることが発覚するかもしれない。そこ

で趙高は二世に 「始皇帝は、どうやって臣下を従わせたか知ってますか?」と尋ねた。 「知らない。どうやったんだ」と二世。 「先帝は、数十年かけて威信を作り上げたので、人々は皇帝を恐れました。そうなって

から大臣と天下のことを論じたので、大臣たちはデタラメができませんでした。あなたは

皇帝一年生です。毎日大臣と一緒にいて、もし処理が不適切だったり、話にミスがあれば、

大臣たちは二世を軽く見ますよ。そうなったら大臣は二世に従いません。大臣には、とき

どき声を聞かせるだけでいいのです。毎日会う必要はありません。何人かの官僚を選んで、

国事を処理させればよいのです。二世は宮殿にいれば良いのです。大臣たちが作った案件

は、まず官僚の手を経てから、二世が見ればよいのです。そうすればゆっくり仕事ができ

るし、官僚が作り上げた文ですから、他の人が見たら二世の処理は落ち度がないと思うで

しょう。そうすれば二世に尊敬が集まります」と趙高。 二世は、あまり政治に関心がなかったので、すべてを趙高に任せ、自分は後宮にこもっ

て、酒を呑み、美女たちと歌って踊る生活をすることにした。 そうなると大臣は、ほとんど二世と会えなくなった。税金や賦役

ふ え き

は、ますます負担が重

くなった。阿房宮や長城などの建設のため人夫が必要となり、些細なことが犯罪にされ、

人夫として狩り出される。期日までに人夫が到着しなければ死刑になる。しかし雨が降っ

て河川が増水すると、期日までに行けなくなる。どうせ死刑になるなら逃げようというこ

とで、徒党を組んで反抗した。阿房宮へ行けば宮刑、長城へ行けば飢えと寒さが待ってい

る。どのみち殺されるということで、反乱軍に加わるのだ。こうして盗賊がますます増え、

それを討つため関中かんちゅう

から兵が集められ、東に進めるといったことが繰り返された。 趙高は皇帝になりたいが、皇帝になれない。だから自分を引き揚げてくれた呂不韋に憧

れていた。そのためには宮中で、最高権力者にならなければいけなかった。しかし二世の

左右の地位には、右大臣、左大臣ともいえる左右の丞相が控えている。その丞相が、なん

114

としても邪魔だった。郎中令といえども丞相には勝てない。 ある日、趙高は李斯を尋ねると言った。 「二世は、宮殿にこもって遊んでばかりおられる。ぜんぜん国家のことを考えようとな

さらない。なんとか注意しようと思うのだが、しょせん私は身分の卑しい宦官、罪を犯し

て宮刑にも処せられた。私のような金玉のない者が注意しても、はなっから相手にしても

らえない。だから君に注意してもらおうと思うのだが……。君は国家の重臣だ。私のよう

に罪を犯していない。君が注意すべきだ。だからこそ忠臣だろう?」 李斯は自分がハメられるとは知らないものだから、趙高が本気で国家を心配しているの

だと思った。 「私も常々こんなことではいけないと思っていた。だけど二世が会ってくださらない。

私が注意しようにも、注意できないじゃないか」と李斯が答える。 「じゃあ、こうしよう。あんたは家で待機してくれ。二世に暇な時間ができたら、あん

たに知らせるから」と趙高が返事した。 二日ほどすると、趙高から使いがきた。 「二世は、いま暇だ。早く来てくれ」 そこで慌てて着替えると、急いで宮廷に行って面会を求めた。 しかし二世の胡亥は、お楽しみの最中で、余興を見ながら美人をはべらせ、酒を呑んで

大笑いしていた。すると李斯が会いにきたと伝えられる。興醒めした。 「いま忙しいから明日こい!」と二世。 「仕事が終わって、休んでいるところに会いにくるとは。まったく遠慮のない奴だ」と

ブツブツ言う。 翌日、李斯が謁見しようとすると、宮廷の門で止められて入れない。だから李斯は入ら

なかった。すると趙高から使いが来て、二世が暇だから、早く来てくれという。そこで李

斯が行くと、やはり止められた。こうしたことが三回続くと、さすがに李斯も、だまされ

ているんじゃないかと疑問を持ち始めた。 二世が不機嫌になったところで、頃合いよしとみた趙高は 「李斯が、こんなに何度もやってくるのは、何か企んでいるからです。注意しなさい。

彼は『胡亥が二世になれたのは、自分が偽の遺言書を作ったからだ。本来は貴族にされて

も良いはずだ』と言っています。しかし貴族にしてもらえなかったので、とても恨んでい

ます。そこで長男の李由り ゆ う

とともに謀反を企てています。どうか気を付けてください」と趙

高。 「李斯が謀反? ありえないでしょう」と二世。 「何がありえないことありますかいな! 陳勝と呉広

ご こ う

は謀反を起こしましたが、李斯は

隣の県の出身です。李斯の長男の李由は、その県の長官ですよ。謀反が起ころうとしたと

き、どうしてすぐに兵を率いて鎮圧しなかったんでしょうか? これは李斯が、裏で陳勝

115

や呉広と繋がっているからに違いありません」と趙高。 二世は、そんなことがあったのかと思い、調査官を派遣して、李由を調べさせることに

した。 李斯は、いくら宮殿に行っても二世に会えないので、これは変だと感じた。そして二世

が調査官を派遣して、李由を調べさせているという話も聞いた。そこで趙高にだまされて

いると知った李斯は、二世に文書を上奏じょうそう

した。上奏というのは、文書を皇帝に読んでもら

うことである。 政務は、二世の代わりに趙高が仕切っているのだから、その上奏文を読んだのは趙高。

当然、二世に渡ることはなく、つき返されますわな。 奏書がつき返されたことを知ると、李斯は焦った。このままでは趙高に乗っ取られてし

まうと危機感を抱いた李斯は、右丞相の馮去疾ふうきょしつ

、将軍の馮劫ふうこう

に相談した。 「今のように阿房宮や長城の建設のため、人を徴収していると、男がいなくなって田畑

を耕すものがいなくなる。女子供や年寄りが農作業をしている状況だ。こうして食糧生産

がままならないのに、公共工事の人夫に食わせるため、多くの食糧を税として徴収してい

る。先帝の阿房宮建設でも大変だったのに、今の人夫は、そんな数じゃない。こんなこと

では農民が食えなくて、反乱が起きるのを止められない。ここは一つ二世にお願いして、

人夫の刑を許してもらい、阿房宮建設をやめてもらおうじゃないか。長城建設は仕方ない

としても、急ぐ必要性のない阿房宮は、規模を拡大してまで建設を急がなくてよい。そし

て悪い趙高を罷免ひ め ん

にしてもらおう」 こうして三人は、連判状を書いて上奏した。 上奏書を見た趙高は、 「あいつらが結託して、二世の悪口を書いております。そして私を馘

くび

にしろと!」と伝

えた。二世は、どれ見せてみろという。趙高は渡しながら 「私を罷免することはともかく、二世がされている先帝の工事の続きまで批判していま

す。これは父上に対する冒涜ですよ。すぐに捕まえてしまいなさい。先帝は、自分に対す

る評価を許しませんでした。だから皇帝だったのです。これを許してはなりません。きび

しい処罰を言い渡さねばなりません」という。 なるほどと思った二世は、すぐ三人を捕まえるように命じた。 「でも三人に、どう言えばよいかなぁ」と二世。 そこで趙高は、私が文書を作りましょうと申し出た。

近衛兵が文書を持って逮捕に向かった。その文書には 「尭や舜は、丸太小屋に住んで、屋根の茅

ちがや

も切らず、素焼きの碗で食事し、土器で水を

飲んだ。門番のような暮らしでも、平気だっただろう。禹は、黄河上流に龍門りゅうもん

を掘り、大夏た い か

にクリークを通らせて、河が決壊して溢れた水を海に流した。自分でスコップを持って穴

を掘ったので、脛毛が擦り切れてなくなったという。囚人でも、これほどの苛酷な労働は

116

しないだろう。そう韓子か ん し

は述べている。しかし、天下で貴い者は、欲望を満たすことがで

きる。君主が法を明示すれば、下は逆らおうとせず、領土がコントロールできる。虞ぐ

や夏か

君主は、貴い天子でありながら、自分が貧しい生産者となり、人々の手本となろうとした

が、そんな方法が参考になるものか。朕は一万の車を連ねるほど尊いが、生産手段を持た

ない。私は千輛の車を作って引かせたいが、万輛の車を連ねるほど尊い一族であり、それ

が朕の名にふさわしい。また先帝は諸侯から身を起こし、天下を統一し、天下が安定した。

外は匈奴を追い出して辺境を安定させ、宮殿を作って力を示そうとした。しかし、君達か

ら見ても先帝の業績は未完成である。朕が即位して二年の間、次々と盗賊が横行している

のに、君達は阻止できない。そのうえ先帝の事業を止めろという。阿房宮を中止しては、

先帝に対する恩義に報いられない。また盗賊を横行させるようでは朕に忠実とは言えない。

どうして取り締まる職にいるのか?」と書いてあった。 近衛兵が逮捕に行くと、馮去疾と馮劫は、恥辱に耐えられないとして自殺した。李斯だ

けは捕まった。李斯は、二世に申し開きができることを期待したのだった。そして李斯に

は五刑が科せられることになった。五刑とは、顔に刺青すること、鼻を削ぐこと、両足を

切ること、そして断頭、最後が挽き肉の刑である。 趙高は供述書を作ると、二世に見せた。二世は、やはり趙高のいった通りだった。未然

に反乱を防げてよかったと喜んだ。 そして 「李斯に会って、文句を言ってやろう」と二世が言うと、趙高は 「李斯は、挽き肉になってますよ。それでも会いますか?」と言ったので、やめた。 すぐに息子の李由を逮捕しに衛兵を向かわせた。だが調査官は戻ってくると 「李由は盗賊と戦って、戦死していました」と趙高に報告した。 趙高は、死人に口無しとばかり、 「李由は反乱したので殺しました」と二世に報告した。 やはり、そうだったかと怒った二世は、李斯一族を死刑にした。 秋になると巨鹿を包囲していた章邯の元に、楚上

そじょう

の将軍である項羽こ う う

が楚軍を率いて、巨

鹿を救いに向かった。 冬には、趙高が郎中令から昇格して丞相になった。 紀元前 207 年夏、章邯らは項羽と戦って、退却するしかなかった。それを聞いた二世は、

他の将軍と交替させようとした。交替させられるということは、役目を果たしていないこ

とになる。始皇帝のときならば交替させられてしまいだろうが、二世になったら刑罰がき

つくなったので死刑を意味している。章邯は恐くなった。そこで長史司馬欣を派遣して、

二世に状況を説明してもらうことにした。すると趙高が丞相になっていた。趙高は、長史

司馬欣に会ってもくれず、手紙を見ようともしない。これは変だと思った長史司馬欣は、

すぐに章邯のところへ逃げ帰った。趙高は、長史司馬欣の逮捕に向かわせたが、すでに逃

げた後だった。

117

長史司馬欣は、章邯のところへ戻ると 「大変です。咸陽では大変なことになっています。古くからの大臣が全員いなくなり、

趙高が丞相になって政治を動かしています。将軍は項羽を撃破しても殺され、また撃破し

なくても殺されます。進むも地獄、退いても地獄ですよ」と報告した。 そんな状況では戦う気も失せる。そこを項羽に急襲されて、ついには秦軍の王離

お う り

が捕虜

となった。それを機会に章邯は、事情を話して項羽に降参することにした。 三十一、馬鹿の起源 八月、李斯たちが死んだ今、趙高は最高権力者だった。しかし上には二世がいる。もう

そろそろ反乱を起こしても良い頃だと思っていた。しかし大臣たちが二世に着くかもしれ

ない。負ければ処刑されてしまう。果たして二世の支持者が、どれだけいるものか試して

みよう。 そこで趙高は、二世の前に鹿を連れてきた。そして 「珍しい馬を連れてきました。角が生

えています」という。 二世は、それを見て笑いながら 「なんだ。鹿じゃあないか。こりゃあ馬じゃないよ」と返事した。 「いえ、これは馬です。疑われるならば、みんなに一人ずつ聞いてみてください」と趙

高。 大臣や官僚たちは、あるものは黙って考え込み、あるものは角のある馬だといい、ある

ものは鹿だと言った。趙高は、しきりと何かをノートに書いていた。そして鹿だと言った

ものを処刑した。これで二世に着くものは、いなくなったわけだ。 三十二、二世の死 趙高は「関東

かんとう

の盗賊は、何もできない」と言っていたが、項羽が秦の将軍である王離を

巨鹿にて捕獲し、章邯らは敗退を続け、秦軍は援軍を要請し、燕、趙、斉、楚、韓、魏な

どは王を擁立し、関中から東の軍県では、ほとんどの地域が秦の役人に反旗を翻し、諸侯

の呼びかけに応こた

えていた。諸侯は民衆を率いて西へ向かった。秦の後に政権を握った沛公

も、数万人の軍勢で武関ぶ か ん

を占領し、趙高に使者を送ってきた。使者に会った使者は、二世

の怒りをかって殺されることを恐れ、病気と偽って宮廷に来なくなった。恐らく二世の首

を差し出せば助けてやるとの密約であろう。 二世は夢を見た。それは三頭の馬が曳く馬車に乗っていると、白虎が出て来て、左側の

馬を咬み殺した夢だった。不安になった二世は、夢占いの博士に尋ねた。 「涇水

けいすい

のタタリです」と博士が言う。涇水とは、十二河川の一つである。

118

そこで二世は望夷宮ぼういきゅう

に行くと、お祈りを始めた。そしてお祭りをして、四頭の白馬を涇

水に沈めた。そして使者を送り、盗賊を放置した件で趙高を辞職させようとした。 それを聞いて不安になった趙高は、娘婿である咸陽令

かんようれい

の閻楽えんらく

、そして弟の趙成ちょうせい

と相談す

る。権力を昇り詰めると、一族郎党で権力を独占し、身の安定を計る。 「二世は、忠告しても聞き入れなかったくせに、事態が悪化すると我一族に災いを被せ

ようとする。私は二世をすげ替えて、代わりに王子の嬰えい

を皇帝にしようと思う。子嬰し え い

なら

人情味があって倹約家だから、民衆も言うことを聞くだろう」。 まず郎中令を内通者にし、盗賊がいると騒ぎ立てる。そして県令の閻楽が、役人と兵を

集めて追いかけるという段取りだ。娘婿の裏切りを恐れた趙高は、閻楽の母親を誘拐して

人質に取り、自分の家に閉じ込めた。 閻楽は、役人と兵士を千人余り連れて、望夷宮の外門に入った。そして衛兵指令官と大

臣を縛り上げると、 「ここへ賊が入ったのに、なぜ止めなかった?」と聞く。 「建物の周りは、兵が慎重に見張っているのに、賊が入り込めるわけないでしょう」 それを聞いた閻楽は、衛兵指令官を斬り捨て、役人を連れてズカズカと押し入り、矢を

射かけながら進んだ。郎や宦官は大騒ぎとなり、逃げまどったり抵抗したりした。抵抗す

るものは殺され、死者は数十人となった。郎中令に案内された閻楽は、二世の入っている

垂れ幕に向かって矢を射かけた。二世は怒って家臣たちを呼んだが、みんな恐がるばかり

で戦おうとしない。二世の傍らには、宦官が一人だけ残って逃げようとしなかった。二世

は奥に逃げると、宦官に 「どうして、もっと早く私に言わないのだ。こうなる前に」と二世。 「臣

しん

は言えませんでした。だから生きていられました。言った家臣は、みな殺されてし

まいました。今まで生きているはずがございません」と宦官。 閻楽が二世を追い詰めて言った 「あなたは、やりたいほうだいの限りを尽くし、理由もなく大勢を処刑した。だから天

下は全員、あなたに反抗した。あなたは責任を取らなければ」 「丞相に会わせてもらえないだろうか?」と二世。 「だめだ!」と閻楽。 「私を一郡の王にしてくれ」と二世。 「だめだ!」と閻楽。 「私を一万戸の諸侯にしてくれ」と二世。 「だめだ!」と閻楽。 「私を妻子とともに一般庶民にしてくれ。他の王族と同じように」と二世。 「天下のために、あなたを処刑せよと、私は丞相に命令されている。あなたが何を言わ

れようとも、私は応じられない」 閻楽は、そう告げると斬り捨てた。

119

三十三、趙高と秦の滅亡 閻楽は、趙高に首尾を報告した。趙高は、大臣や王族を全員集めると、二世を処刑した

ことを告げた。そして 「秦は古い王国だ。始皇帝が天下を統一されたから帝と呼ばれたのだ。今は六国が復活

し、秦の領土が小さくなった。これでは帝と呼んでも中身がない。もとのように王と呼ぶ

のがふさわしい」という。そこで二世の兄の息子、子嬰を秦王にした。そして二世は庶民

として、杜南と な ん

にある宜春の庭に埋めた。そして子嬰には身を清めさせ、先祖の寺で、王の

印鑑を受け取るよう命令した。 儀式に入って五日目、子嬰は二人の息子を呼んで相談した 「丞相の趙高は、望夷宮で二世を殺害した。だから家臣たちに処刑されるのを恐れて、

なにくわぬ顔で私を王にした。趙高は、秦の一族を滅亡させて、自分が関中の王となれる

よう、楚と密約したらしい。寺で私に儀式をさせているのは、二世のときと同じように、

防備が手薄な寺に呼び込んで、私を殺そうというつもりなのだ。私は病気になったと言っ

て、寺には行かない。そうすれば丞相が必ず自分で出てくるだろう。来たら殺せ」 趙高は、何人も使者を寄越して、寺にくるように要請したが、そのたびに病気だと言っ

て断られる。ついには趙高が自分で来た。 「王の寺は重大な儀式なのに、どうして王が来ない?」と趙高。 そこで子嬰は、趙高を刺し殺してしまった。そして趙高の父母一族、そして妻一族を、

咸陽で晒しものにしてから処刑した。子嬰の秦王は、四十六日間の王だった。楚の将軍で

ある沛公が、秦軍を撃破して武関へ入り、覇上はじょう

に来た。そして使者を出して、子嬰に降参

するように伝えた。 子嬰は首に縄を巻きつけ、白馬に曳

かせた白い車に乗ってやってくると、王の印鑑を差

し出して、車の横に降り立った。 捕虜の格好して投降した子嬰を見て、沛公は許した。そして咸陽へ入り、宮殿の中へ入

ってみた。すると美女や宝物が山のようにある。手を出そうとすると、 「いけません。もうすぐ項羽がやってきます。手を着けずに項羽に引き渡さないと、項

羽と戦争になりますよ。今の兵力では、項羽とは戦えません」と、家臣が止めた。そこで

宮殿や宝物殿を封鎖し、軍は覇上に引き返した。このときの反乱軍には、一番先に咸陽へ

入った反乱軍がリーダーになるとの取り決めがあった。 一ケ月あまりすると、項羽を隊長とする諸侯の兵がやってきた。そして子嬰を始めとし

て秦王の血縁者を殺したあと、咸陽へ入って人々を殺し回り、宮殿を焼いて、宮女たちを

捕虜にし、宝物殿の金銀財宝を諸侯たちと分けあった。秦が滅亡すると、その地である関

中は三分割され、項羽の功績のあった家来に分け与えられ、それぞれ雍王ようおう

、塞王さいおう

、翟王てきおう

なった。項羽は西楚覇王せ い そ は お う

と名乗り、天下の領地を分けて、諸侯に与えた。こうして秦は滅

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んだ。 その五年のち項羽も沛公に敗れ、天下は沛公のものとなって漢王朝が始まるが、それは

『項羽と劉邦』という本に詳しい。 あとがき これは NHK で「秦の始皇帝」という番組を放送していたとき、うちの母親が、よく理解

していないようなので、秦の始皇帝が、なぜ六国を統一できたかを中心に書きました。あ

まり「あとがき」を書くのは好きではありませんが、こんどばっかりは、いい知れぬ寂し

さが伴います。恐らく始皇帝は、敵国の邯鄲で、命の危機にさらされながら生きてきたと

思います。だから統一して戦争のない世を作りたかったのだと思います。そして自分の血

縁者や功労者に各領地を分け与えるのではなく、地方長官を任命して、かれらを交替交替

にさせるという、非常に近代的な制度に変えています。もし始皇帝の遺言通りに扶蘇が二

世となり、蒙恬が補佐するようになったら、どんな世界となったか興味があります。しか

し劉邦が漢を建国すると、周のような封建制度に戻り、三国志の時代になって戦争が繰り

返します。何百年もかかって出来た秦の統一国家を、たった三年で滅亡させてしまった趙

高には残念でなりません。趙の人質の子であった始皇帝は、趙の首都である邯鄲に生まれ

育ち、そして秦を滅亡させた趙高は、趙という姓であり、その知識の深さからも、文化が

高かった趙の王族と思われます。趙で生まれた始皇帝により秦は統一国家となり、また趙

によって滅ぼされるとは、何とも皮肉な運命です。そして昔の趙で死にました。 これを書くのに使用した文献は、中州古籍出版社、漢の司馬遷著『史記』。そして昔に読

んだことのある中国少年児童出版社、林漢達著『戦国故事』。沈陽出版社、朱良志・姜波著

『中華上下五千年』(第一巻)。光明日報出版社、翟文明著『中国秘史』。光明日報出版社・

中国文史出版社、翟文明著『秦始皇伝』。 始皇帝からは、ほとんどが『史記』本紀第六を中心にしました。 題名の『秦国物語』は、税金で悩む人が『申告物語』と間違えて買うんじゃないかと期

待しました。 これに書けなかったこともいろいろあります。例えば、それまでの各国のお金は、鉈の

ような形だったり、お守りのような形でしたが、秦が初めて丸い穴あき銭にしたとか、戈

は槍のようなものではなく、鍬を鎌に変えたようなもので、上から振り下ろす武器だった

とか、秦に関係する人も、いろいろありました。しかし、実際に秦の歴史に直接関係して

いなければ、細かい人物は省いていきました。例えば韓非子は、性悪説で、法律を重んじ、

李斯と同じく荀子に習っていたが、始皇帝があまりに重視するので、嫉妬して追い出した

とか。結構面白いので、人物伝として書くといいかも知れません。 [翻訳:淺野 周 最終更新 2004 年 11 月 13 日] ©Shu Asano