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This document is downloaded at: 2020-07-30T03:18:20Z Title KANT の批判期前における道徳原理の探求と確立 ―その12― Author(s) 木場, 猛夫 Citation 長崎大学教育学部人文科学研究報告, 37, pp.1-16; 1988 Issue Date 1988-03 URL http://hdl.handle.net/10069/32984 Right NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

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Title KANT の批判期前における道徳原理の探求と確立 ―その12―

Author(s) 木場, 猛夫

Citation 長崎大学教育学部人文科学研究報告, 37, pp.1-16; 1988

Issue Date 1988-03

URL http://hdl.handle.net/10069/32984

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

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KANT の批判期前における道徳原理の探求と確立 

―その12―

木  場 猛 夫

IV 批判的倫理学への道一1770年代一

(1)『感性界及び叡知界の形式と原理』

(2)書簡集  批判的問いの提起

(3)『講義』と手記遺稿集

 A.実践哲学の体系

 B.道徳の原理とその根拠

 C.自由の諸相  1.実践的自由,2.理性の自己規定(道徳的自由),3.超越論

         的自由,4.自由の説明不可能性,5.二つの世界と自由(前号及

         び本号)

 D.人間と人間性(人格と人格性)   (本号及び次号)

 E.最高善  人類の最後の使命

結 論

(3)『講義』と手記遺稿集

C.自由の諸相

 5.二つの世界と自由

 われわれは手記遺稿集の取り扱いについて最初にその方針を述べた際,『講義』の取り扱

いについても言及し,とりわけ『形而上学講義』については,それが批判期以前で完結し

ておらず批判期以後も続行されているので,批判期以前のKantの道徳思想形成を跡づけ

ようとするわれわれの研究にとっては参考に止めざるを得ないことを述べておいた。しか

し形而上学講義が批判期以前から開始されていたことは事実であり,それ故にわれわれは

これを無視し省くことは出来ない。但し他の手記遺稿集と同様には取り扱えないので,こ

れだけ独立したものとして考察の対象とし,この講義で展開されている自由論の特徴を明

らかにして置きたい。

 『形而上学講義』における自由

 『形而上学講義』は,一.存在論,二.宇宙論,三.心理学,四.合理的心理学から成り

立っているが,自由について論じられているのは,三.心理学の中の「経験的心理学」及

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長崎大学教育学部人文科学研究報告 第37号

び「合理的心理学」においてである。従って夫々について考察を進めることにしよう。

 一.経験的心理学phychologia empiricaは「経験から得られる限りでの内官の対象につ                                                                                              

いての認識」(S.128)である。ここで「自由な随意志arbitium liberum」は「活動的な欲                                                                                        

求,すなわち対象に対する満足或は不満足が活動的な力の原因である限り,その満足,不

満足によって或る行いを為したり中止したりする能力」(S.181)であると定義されている。

そしてすべての意志決定は衝動的原因であり,それは感覚的か叡知的かである。感覚的原

因は刺激,すなわち必然的な力をもつ衝動か,誘導力をもつ誘因かである。これに対し叡

知的原因は動機すなわち動因である。前者が感官に対し後者は悟性に対している。ところ

ですべての非理性的動物の場合,刺激は必然的な力をもつが,人間の場合には刺激はただ

誘導力となるに止まる。従って人間の随意志の決定は動物的,必然的ではなく自由である。

この人間の意志決定が刺激の必然的な力から自由である意志を,ここではKantは「心理学

或は実践的にphychologisch oder praktischに定義される限りの自由意志」(S.182)と呼

んでいる。これに対し「全くいかなる刺激によっても強制されたりまた誘導されず,動機

すなわち悟性の動因によって決定される意志は叡知的或いは超越論的自由意志das liber・

um arbitrium intellectuale oder transcendentale」(ibid)とされている。そしてこの心

理学的或は実践的自由意志と叡知的或いは超越論的自由意志について次の様に述べられて

いる。「動因による強制は自由と対立する」(S.183)。動因による強制とは,ここでは外的刺

激や強制から独立に悟性の動因に従って自らの行為を始める自由と解される。従って外的

刺激による強制が自由と完全に対立するのは自明の理である。さらに「自由な随意志は悟

性の動因によって行動する限り,あらゆる観点からみて善gutであるところの自由である。

これは絶対的自由die libertas absolutaであり,この自由が道徳的自由moralische Frei-

heitである」(ibid)とされている。悟性の動因に従う行動を善として道徳的価値の下に観

る場合,その行為を可能にしその根拠となっている自由が道徳的自由である。この自由は

あれかこれかを選択する相対的自由ではなく,唯一の規定根拠としての悟性の動因に従う

随意志の自由であり,その意味で相対的自由と呼ばれるものであろう。

 「最大の自由は人間の場合,障害の克服の度合によってnach dem Grad計られる。それ

故に自由の大きさを規定するためのわれわれの尺度は,感性的衝動の克服の度合による」

(S.184)。ここでは自由の一般的特徴として,障害の克服,言い換えれば感性的衝動の克服

の相対的関係で「自由の度合」或は「自由の程度」が考えられている。この際の随意志に

よる感性的衝動の克服は,随意志それ自体における「上位の随意志obere WillkUr」による

「下位の随意志untere WillkUr」の抑制,すなわち「内的強制coactio interna」に他なら

ない。そこで人間は上位の随意志によって下位の随意志を抑制する力をもてばもつ程,そ

れだけ自由であり,叡知性によって感覚性を強制することが少なければ少ない程それだけ

人間は自由ではないのである。「内的強制」は「叡知的自由意志の強制coactio arbitrii liberi

intellectualis」とされているから(S.185),ここに叡知的意志の自己強制の自由が前提され

ていると解される。これを基礎として「実践的自由die praktische Freiheit」カ§成り立つ。

というのは人間が自らを道徳性の規則に従って強制し,上位の随意志によって下位の随意

志を抑制する時,徳Tugendがあらわれるからである。徳を可能にする自由,その内的自

己強制の自由が「実践的自由」であり,「人格の自由die Freiheit der Person」である。

この実践的自由すなわち人格の自由は,状態の自由としての「自然的自由die physische

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KANTの批判期前における道徳原理の探求と確立(木場)3

Freiheit」から区別され,たとえ自然的自由は失っても人格の自由は堅持し得るとされてい

る。この人格の自由,すなわち実践的自由は根源的には,「刺激による強制からの随意志の

独立性」,言い換えれば「すべての刺激から完全に独立している自由」,つまり「超越論的

自由die transzendentale Freiheit」に基礎づけられているのである。この自由については

合理的心理学で取り扱われる。

 二.合理的心理学rationale Psychologieは「純粋理性から得られる限りでの内官の対象                                                                                              

についての認識」について考察する(S.128)。この認識は「心の形而上学的認識」(S.197)                         

である。この考察の中で自由概念がどのように取り扱われているかがわれわれの課題であ

る。さて自由に関して言えば,心は「自発的実体substantia spontanca」であるか,それ

とも外部からの強制を受けるか,という問題となる。言い換えれば,心の形而上学的認識

においては,超越論的自由が取り扱われるが,その場合問題は,心が独立して何ものによっ

ても強制されない存在であるかどうか,となる。「心は端的に自発的に行為する存在であ

る。すなわち人間の心は超越論的な意味で自由である。…自由の超越論的な概念は絶対的

自発性を意味し,自由な随意志に従う内的原理に基づく自己活動性である」(S.204)。自発                              性には絶対的,端的な自発性と,何ものかによる自発性とがある。後者は例えば射放たれ

た物体のように「自動機械的自発性」であり,外的原理によって動く「従属的存在」おけ

る自発性である。これに対し前者は,心の活動にみられるように内的原理による純粋に絶

対的な自発性で,「独立的存在ens independens」における「超越論的自発性die

spontaneitas absoluta」である。これが超越論的自由の内容である。

 さてわれわれはこの絶対的自発性がいかにして可能であるかはこれ以上把握し得ない。

つまり「絶対的自発性は把握されないとしても,それはまた否定され得ない」(S.206)。こ                                                                                                                          

こで問題の焦点は,「私は考える」,「私は行為する」という時の私が自己活動として自から

行なうか,或は私の外又は内にある他者が行なうかである。私自身の内的原理から行為が

かされる場合にのみ,私の超越論的な意味における絶対的自発性が存在する。その際「私

は一つの原理Principであり,派生的なものPrincipiatumではない。私は諸規定と諸行動

とを自ら意識している。自らの諸規定と諸行動とを意識しているそのような主体は絶対的

自由libertatem absolutamをもっている」(ibid)。それはこの主体が「受動的主体sub-

jectum patiens」ではなく能動的主体subjectum agens」であることの証拠を意味する。

この能動的主体のもつ絶対的自由をすべての実践的命題は蓋然的にも実用的にも道徳的に

も前提しなければならないのである。この意味で「私はすべての行為の第一原因die erste                                             Ursacheでなければならない」(S.207)。この第一原因のもつ意義は,先に経験的心理学に

おいて確認された自由,すなわちわれわれが刺激による強制からの独立という実践的自由

の証明により確実にされた道徳の基礎をなしている点にある。経験的心理学が経験界にお

いて動物的でなく心理学的又は実践的に規定される限りの自由意志を問題とした(Vg1. S.

182)のに対し,合理的心理学は意志を直接的に問題にするのではなく,いかなる外的原因

によっても決定されず内的原理のみから行為するという実践的自由がいかにして可能であ

るか,実践的自由の可能根拠を問題にするのである。従って「経験を引き合いに出しては

ならず」,「実践的なものを超え出て進み」「私」又は「純粋理性の原理」から「絶対的自発

性」が説明されなければならない。そのために,「私」又は「基体Substratum」をすべて

の経験の根底に置き,この超越論的主語としての「私」又は「基体」の純粋自己活動を超

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4長崎大学教育学部人文科学研究報告 第37号

越論的述語として述べることが要求される。この学的要求に答えるのが合理的心理学であ

る。要するに合理的心理学は純粋な超越論的概念において「私」,すなわち心は行為の絶対

的自発性をもっている」と答える。

 ところで神が根源的存在であるのに対し人間は「派生的存在ens derivativum」であるか

ら,いかにして「根源的行為actus originalius」が行われ得るか,又根源的自由はいかな

るものであるか,を思弁的悟性によって把握することは不可能である。われわれ有限的存

在者の悟性は,原因と結果の系列の中に生起するものだけを把握出来るのでありその系列

の限界である始源を把握することは出来ない。しかし自由の始源又は自由の可能性をわれ

われが洞察出来ないからと言ってそのために自由は存在し得ないと断言し帰結することは,

これまた不可能である。つまり「自由はわれわれのすべての実践的行為の必然的制約であ                                                                                                                

る」(S.208)。この意味で「われわれもまた超越論的自由の概念によって独立independent

している」(S.209)のである。すなわちわれわれは超越論的に自由である。但し「われわれ

の自由な行為は何ら規定根拠をもたない。それ故にわれわれもまたそれを洞察し得ない」

(S.210)のである。

 以上われわれは1770年代にKantが形成し展開した自由概念について,『倫理学講i義』を

はじめ『道徳哲学反省集』,『人間学反省集』,『形而上学反省集』さらには『形而上学講義

を資料として考察検討し,それぞれの特徴を明らかにしてきた。われわれはそれらを1770

年代のKantの自由概念として総括し次の様に要約する。

 まず自由論の基本構造としてそれは三つの相から成り立っているとみることが出来る。

 第一の相は感覚的衝動や刺激によって強制され得ない自由,言い換えれば,外的原因か

らの独立性としての自由である。この自由は『倫理学講義』では「人間的随意志」の本質

とされ,感覚的衝動や刺激によって強制される「動物的随意志」に相対立するものであっ

た。人間は感覚的には強制されるが,その意志は外的に何ものによっても強制されず独立

性を堅持し得る。これが衝動や刺激などの外的強制や原因からの独立性の自由である。こ

の自由を『道徳哲学反省集』では「理性が激情から独立に意志を規定する自由」,すなわち

「道徳的自由」と結びつけ,具体的には,1.外的原因性からの独立性,2.傾向性から

の独立性と規定している。ところが『人間学反省集』においては,この「強制的外的原因

からの独立性」が「超越論的自由」,また同じ「消極的に,外的刺激による強制からの独立

性の自由」が「叡知的自由」と呼ばれている。この規定は1770年当初と推定される断片(XV.

S.4,Nr.10, S451, Nr.1012)によるものであるが,1770年半ばより後半にかけ,『形而上学

反省集』において定義し直され,後に詳述する様に,「一つの状態を最初に開始する能力」

(XVII, S.511, Nr.4338),又は「絶対的自発性すなわち超越論的自由」(XVII, S.703, Nr.

4757)とされている。ここにわれわれは70年前半における自由概念の規定の不確実性と変

遷をみると言ってもよいであろう。さて当面の外的原因からの独立性の自由について『形

而上学反省集』は,この自由を,随意志の自由,内的自由,及び「実践領自由」と呼び特

徴づけている。それはこの独立性なしにはわれわれ人間独自の実践は可能でない,換言す

れば人間が感覚的外的原因によって規定されない点に実践が成り立つという意味で「実践

的自由」と呼ばれ,又「実践的要請」とされるのである。

 第二の相は,第一の相が自己以外の規定原因からの独立性という消極的自由であるのに

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KANTの批判期前における道徳原理の探求と確立(木場)5

対し,自己自身の動因による自己強制という積極的自由である。この自己強制の自由をわ

れわれはさらに三種に分類して特徴づける。

 第一,自己自身の動因による自己強制の自由とは,「内的動因」又は「法則による自己規

定」の自由である。『倫理学講義』における「理性の動因による自己強制」がこれに相当す

る。「理性の動因」は「道徳的動因」とも呼ばれ,この動因による自己強制をKantは「普

遍的随意志の自由」としている。『道徳哲学反省集』においては,この自己強制は「法則の

下における自由」と解してよいであろう。というのは法則は理性による自己規定であり自

己強制に他ならないからである。法則の下における自由は「無法則性の自由」,すなわち自

己を強制しない「放縦の自由」に相対立する。従って「法則性の自由」とか,「内的法則の

下における内的自由」として特徴づけられている。『人間学反省集』では「動因に従って行

為する能力」は,外的刺激による強制力からの独立性という自由の消極的規定に相対する

積極的規定であり,両者相挨って「叡知的自由」を構成している。『形而上学反省集』にお

いては,この自己自身の動因による自己強制は「理性の自己規定」と表現されている。こ

の際「自己」とは理性自身であり,規定される対象は理性以外の人間のすべての能力,意

志をはじめとし傾向性をも含んでいる。従って理性の自己規定とは,理性によって意志を

規定し,その他の能力及び傾向性を支配することを意味している。

 第二,自己自身の動因による自己強制の自由は,「自己自身すなわち人間性の本質的目的

と一致する自由」ともみられる。これは強制する主体としての自己,人間を人間たらしめ

る人間性の本質的目的と強制される自己が一致する自由を意味するであろう。それは「法

則の下における自由」が法則を与える理性と法則を課せられる意志,言い換えれば普遍的

自己と個別的自己との一致であるのと軌を一にする。『倫理学講義』ではこのことは,自由

の最大の使用が可能となる制約は自由が自己自身と一致し得る制約であり,それは人間性

の本質的目的との一致であるとされている。同様に『道徳的反省集』でも「自分自身と一

致し調和する自由,または自分自身との一致という普遍的制約の下における自由」と規定

されている。この場合自分自身とは純粋意志,善意志,人格性とされている。従って自分

自身と一致し調和する自由が「善意志の自由」とも呼ばれている。自分の意志が自分自身

と調和し一致し得るのは,自らの自由を普遍的制約の下に置く場合,言い換えれば自らの

自由を普遍的法則に基礎づける場合である。従ってこの自分自身と一致し調和する自由は

自己自身の動因による自己強制の自由と積極的に表現した同一の自由を意味していると解

釈される。ところで謂わばこの「調和の自由」については『倫理学講義』と『道徳哲学反

省集』においてだけ述べられていて『人間学反省集』,『形而上学反省集』では言及されな

い。つまり1770年も末になるとこの「調和の自由」は語られなくなるが,その理由をわれ

われは謂わばKant倫理学の形成発展が寛大な道徳観から厳粛なそれへの方向を取る点に

みられるものである。何故ならばこの時点にこの「調和の自由」は,「汝の行為における汝

の自由と汝の傾向性の調和」,さらには「他人の自由及び他人の傾向性との調和」に迄拡大宥

和されており,そのために道徳的必然的行為もそれが好んでgernなされるとき道徳的自

由が成立するとして道徳的必然性と人間の好みとの調和が前提されているが,この傾向性

との調和や道徳的行為におけるgernの感情は特に批判的倫理学において厳しく否定され

る要素であり,この学的発展の方向と自覚が自つと「調和の自由」を否定したものと考え

られるからである。

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長崎大学教育学部人文科学研究報告 第37号

 第三に,自己自身の動因による自己強制の自由を最も積極的に表現したものとして,わ

れわれは「純粋理性の普遍的立法の自由」,「純粋理性の立法する力としての自由」をあげ

る。この立法の自由は,『道徳哲学反省集』における,自由一般に関する純粋理性の普遍的

実践的立法」の自由を指す。或はまた「純粋理性の立法の下に自由を従属させること」と

も言われるから,ここには純粋理性による普遍的実践的自己立法と,それに対して自分の

自由を従属させる自己服従,換言すれば自律の関係が考えられているとみられる。敦れに

せよ,感性的動機から分離された純粋理性は自由一般に関して立法力をもつことが理性的

存在者に対し必然的に前提されている。この前提の下に自分自身と他人に関して,自分自

身との普遍的一致という制約をはじめて与え得るのである。この様な最も積極的な自由と

しての純粋理性の普遍的立法の自由については,端的には専ら『道徳哲学反省集』だけに

述べられていて,他の講義及び反省集ではみられない。年代としては確定的とは言えない

が1776-1778年,又は1778-1779年の断片であり,総じて70年末であることは間違いない。

われわれはこの普遍的立法力をもつ「純粋理性」が,批判的倫理学においては「純粋実践

理性」として規定され,自らの有する立法の力によって「自律」の概念を形成し,それを

本質とするに至るものと推測する。すなわち自己自身の動因による自己強制の自由の中で

法則による理性の自己規定及び純粋理性の普遍的立法の自由を自律の自由の原型とみるも

のである。

 さてわれわれは1770年代の自由論が三つの相から構成され,第一の相が感覚的刺激等の

外的原因の規定の独立性であり,第二の相が理性の自己動因による自己強制であるとした

が,第三の相はさらにこの両自由概念の基礎となっている自由,すなわち「超越論的自由」

     サである。この自由が本来的意味で言及されているのは『形而上学的反省集』においてだけ

である。ここではじめて「一つの状態を最初に開始する能力」として規定されている。人

間はその受動的状態においては先行する状態の必然的結果に過ぎない。しかし人問は,私

の行為の現時点,つまり行為を開始せんとする瞬間において,私の前にあるこれ迄の全系

列を無に等しいとして一つの状態を開始する自由,行為と出来事を自ら開始する始源とし

ての自由をもち得るとされている。この超越論的自由のこの時点における特徴としてわれ

われは次の三点をあげる。第一点は自然必然性に対する偶然性としての規定である。ここ

では「偶然的なもの(物理的でなく実践的)」,「偶然的なるものの第一原因」,「行為の完全

なる偶然性」等の表現がみられる。第二点は「絶対的自発性」であり,第三点はこの絶対

的自発性の主体としての「私」の「必然的仮説」である。それは「単純」で,「実体」とさ

れ,また「悟性そのもの」とも言われる「超越論的私」を指している。この超越論的野の

もつ絶対的自発性が超越論的自由に他ならない。これを必然的に前提することにより実践

的自由が可能となり,あらゆる規則も可能となり道徳的自由も可能となり得る。従って実

践的自由及び道徳的自由,総じて意志の自由の大前提となる超越論的自由は,前者が経験

界或は経験的意志としての随意志にかかわるのに対し,経験を超えた純粋に叡知的自発性

として「叡知的自由」である。

 さて一般に自由は自然必然性といかにして矛盾なく両立し得るのであろうか。この二律

背反に対するKantの思索の跡を特徴づけると,まず1775-1777年目推定される『人間学反

省集』の断片(Vgl, XV, S.661, Nr.1482)で,身体をもった動物としての私と,身体を支

配する心としての私,動物性に従う人間と,その動物性を支配する力をもつ限りの叡知と

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KANTの批判期前における道徳原理の探求と確立(木場)

しての人間を区別し,二律背反を解決する鍵となる「二つの世界」を予想せしめている。

続いて殆ど同年以後,つまり70年後半『形而上学反省集』ではKantが二律背反の問題に取

り組んでいることを示す手記が多くみられる。Kantは自然と自由の対立を,現象としての

経験の領域と現象以前の理性の領域との区別で矛盾なく両立し得ると考えたり(XVII, S.

510,Nr.4336),また感覚的な物理的世界と叡知的な道徳世界という二つの世界を背景に自

由の先天性と自由の法則の実践的実在性を主張したり(XVII, S.516, Nr.4349),また自然

と自由とを対立的にとらえるのでなく,自然と偶然を対立させ,自由をその対立間の「第

三者」として位置づけ,自然と自由の対立から免れると同時に現象の中に含まれない現象

の原因としての自由を確保しようともしている(XVIII, S.163, Nr.5369)。1770年末の一断

片では,自然は自由と対立しているのではなく,それから区別されるとし,両者を対立的

に「同一の意味において」ではなく,異った秩序と関係に区別して把握している。つまり

自然を時間,空間の制約の下に,自由をその制約からの原因性の独立,すなわち物自体と

しての原因性とみて現象界と叡知界に夫々位置づけ,自然と自由は相互に矛盾しないこと

を主張している(XVIII, S.250f, N8.5608)。ここに既に二律背及の解決の方向は示されて

いるとみてよいであろう。Kantが晩年Garveに宛てた書簡の中で明記している様に,自分

の哲学の出発点は,神の存在や不死等に関する研究ではなく,純粋理性の二律背反であり,

それが自分を始めて独断的仮睡から目覚まし,理性そのものの批判に向わしめたものであ

る限り,1772年,Marcus Herzに宛てた書簡の中で提起された批判哲学の根本問題はこの

時点ではKantによって本格的に取り組まれ,二つの世界を背景に独自の思索が進められ

ていたとみることが出来よう。

 以上われわれは1770年代のKantの自由概念についてまず三つの相の下にその基本構造

と特徴とを述べてきたが,次に,ここに由来すると解釈される特徴を以下述べることにす

る。

 1.Kantの自由概念は基本的には超越論的自由(叡知的自由)と実践的自由から構成さ

れ,実践的自由は随意志の自由と善い意志(普遍的随意志)から成り立っている。実践的

自由については,われわれが自由の第一の相とした外的原因性からの独立性を随意志の自

由,第二の相とした自己自身の動因による自己強制の自由を普遍的随意志の自由と解釈出

来るからである。随意志の自由は外的に感覚や刺激によって触発はされるが,しかし決し

て規定されることはないというKantの人間観の基礎となっている。この場合の随意志は

各個人の現実的個別意志を指している。ただし個々人の意志であってもそれが人間の意志

である限り感性的衝動によって触発されても決して規定されることはない,というのが

Kantの自由の第一前提であり,いわぼ道徳的信念である。従ってKantの自由は本来善へ

の自由であって厳密には悪への自由は制限されている。ここにKantの理念的・理性的自由

概念の特徴がある。ところで理性の動因による自己強制の主体は,経験的現実的な個別意

志すなわち随意志ではなく,超経験的・理念的な「普遍的随意志」と呼ばれるものである。

Kantはこの普遍的随意志を随意志に対して単に「意志」と呼んで対応させてもいるが,本

来的には「善い意志」であり「純粋理性」としている。従って二つの意志,随意志と善い

意志とは,その背景としての二つの世界からみると,一応随意志は現象界に,普遍的随意

志は叡知界に対応せしめられるが,厳密には現象界と叡知界に同時に属する随意志の上に,

純粋に叡知界に属する理念としての善い意志が位置づけられている。というのは随意志は

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8長崎大学教育学部人文科学研究報告 第37号

現実的経験界における行為の主体であるから,その限りにおいて経験的であるが,しかし

本来は経験的制約からの独立性をその本質とするから,その限りにおいて叡知的とみられ

るからである。これに対し普遍的意志は経験的感覚的な外的制約に全く影響されることな

く,絶対的純粋自発性として随意志に対して立法し,随意志の自由を自らの法則の下に服

従させるのである。かくてわれわれは感性的原因からの独立性を随意志の自由そして理性

の動因による自己強制,或は法則の下における自由,さらに普遍的立法を善い意志の自由

とみ,実践的自由を構成する消極的・積極的二要素と解釈する。そしてこの関係は批判的

倫理学においても一貫しているとみるものである。

 2.随意志は選択の自由を有し善悪の根源である。同時に随意志の自由は帰責の根拠で

ある。

 この随意志の自由の特徴についての纒まった叙述は『倫理学講義』にみられるだけであ

る。人間が感覚的な外的原因によって規定されずそれから独立であり,なお理性の動因に

よる自己強制が可能であるとすれば,自由の行使に対する責任は全て人間自体に帰せしめ

られなければならない。その意味で結果としての行為は,その主体の自由すなわち「人格

の自由」を前提する。そして道徳的善悪はこの自由から生じる。人格の自由の主体は,実

質的に善か悪かを選択する能力を有する随意志である。従って善悪は随意志の自由に由来

する。何故ならば悪の根源をそれ自体絶対的に善である善い意志,普遍的意志,純粋理性

等一連の理念的意志には帰せしめられないからである。ここで注目されるのはKantが随

意志の自由をそれがもっている選択の能力によってrealにではなく,外的原因や影響から

の独立性によってidealに定義づけ,その自由を善い意志の自己立法の基礎に置いている     りことである。このいわぼ理念との関連における自由の定義づけがKantの自由概念の規定

における特徴の一つをなしている,とわれわれは解する。

 3.随意志に対する道徳的強制とそれに対立する感覚的強制との関係は,自由について

言えば反比例的関係にあり,そこに「自由の度合」が考えられている。すなわち人は道徳

的に強制され得ることが多ければ多い程,ますます自由であり,逆に感覚的に強制される

ことが多ければ多い程,ますます不自由であるという関係にある。この様に道徳的強制と

感覚的強制は反比例的関係にあり,この関係においては自由は段階的にとらえられている。

因に『実践理性批判』においては,「ここで最初の問題は,純粋理性はそれだけで意志を規

定するに足るかどうか,或は経験的に制約されたものとしてのみ意志の規定根拠たり得る

かどうかということである」(V.S.15)。すなわち批判の問題は純粋理性の意志規定,言い

換えれば善い意志による随意志の規定にある。それは個別的随意志の自由ではなく,寧ろ

この自由を規定する普遍的随意志の自由にかかわる。窮極的には「純粋な実践理性の自

己立法eigene Gesetzgebung」(ibid, S.33),「純粋実践理性の自律die Autonomie der                                                                                                        

reinen praktischen Vernunft」(ibid.)としての自由が問題である。従って『実践理性批

判』では自律か他律か,という二者択一的把握がなされ「自由の度合」による段階的把握

はなされない。これに対し『道徳形而学』における義務論では随意志の自由が主題となる

ので自由はその度合により段階的に把握されている(Vgl. VI. S.382 Anm)。要するに自

由の度合による段階的把握は普遍的意志,善い意志の自由の問題というより,個別的随意

志の普遍的随意志への高まりの把握であり,この考え方は資料の中では『倫理学講義』と

『道徳哲学反省集』においてだけみられるものである。

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KANTの批判期前における道徳原理の探求と確立(木場)9

 以上でわれわれは1770年代の「自由の諸相」の総括とその要約を終えることになるが,

最後に,70年代の自由論の中で従来最も論議を呼んだ『倫理学講義』における「叡知的自

由」の役割をめぐる編者Menzerの見解と,それに対するSchilppやSchmuckerの批評を

取り上げ,それらに対するわれわれの見解を述べ当代自由概念の考察の締め括りとしたい。

 『倫理学講義』の編者Menzerはこの講義に関連して,「叡知的自由」と,それを通して

Kant倫理学の特に「指導理念」について次のように述べている。「このテキストで何より

もまず注目しなければならないのは,叡知的自由に関する教説が全くいかなる役割をも演

じていないということである。Kantはこの講義の時期には叡知的自由を明確にしていた

ように十分察知されそうである。しかし何故Kantが叡知的自由を講義において展開しな

かったか,私は説明出来ない。しかし私にはこの沈黙はそれでも十分理由があったように

思われる。それに関して講義は,Kant倫理学が『純粋理性批判』が現われる時期迄は未だ

完成されていなかったという新しい証拠をもたらしている,と私は考える。私はここでは

この見解のより詳細な根拠づけへと深入り出来ないが,しかし講義は,倫理学の後期の体

系への基礎が既に存在していたこと,しかしその基礎を体系的全体へと統一する指導理念

が未だ欠けていたことをわれわれに示している。『道徳形而上学の基礎づけ』において初め

て解決がもたらされた」。これに対してSchilppは次の様に反論している。 Menzerの叡知

的自由についての解釈は不思議であり不当である。なる程「叡知的自由」という言葉が実

際に用いられていないのは事実であるが,実質的には理性的自己規定のまさにあの叡知的

自由が語られている。緒言の中でこの自由の教説は道徳問題の理論的処理にとって十分な

基礎になっているし,また応用倫理学の最後の部分でも,また責務を取り扱う中でもそれ

は看取できるというのである。

 またSchmuckerもMenzerの解釈に対して,1926年,ないし1928年の『形而上学反省

集』,及び1934年の『道徳哲学反省集』の出版以前ではともかく,今日では新たに入手でき

るようになった典拠資料に基づくと,それは最早根拠あるものではない。講義において推

論される体系の欠如の印象は,明らかにKantが当時Baumgartenのテキストに依ってい

たということに制約されている。叡知的自由の説についてみても,とりわけ『形而上学反

省論』から60年以前,いかなる範囲において自由概念の理論的問題性をKantが分析した

か,そして70年後期の段階において,いかに広くその問題の解決が彼にとって成功してい

たか,が明白となる。それ故に,この二つの理由で『純粋理性批判』が現われる時点では

Kant倫理学は未完成であったということ, Kantがなお定言命法の基礎づけにおける困難

点と苦闘していたであろうことは決して証拠だてることはできないとみている。

 さてMenzerの解釈における第一の問題点は,叡知的自由に関して果して彼の主張通り,

それは『倫理学講義』の行われた時期,すなわち1775年から80年にかけて明確になってお

らず,そのため『倫理学講義』においても全くその彼割を果していないかどうか,という

にある。Schilppが指摘した様に,なる程『講義』においては「叡知的自由」という言葉は

使用されていないが,実質的にはまさしく「理性の自己規定」としての自由が十分論じら

れていた。さらには理性の動因による自己強制としての普遍的随意志の自由,及び責務の

可能根拠としての人間性の本質的目的と一致する自由,平野の前提としての自由も論じら

れていた。これらの自由を「叡知的自由」と解釈できるとすれば,Schilppの批判は正当で

あると言えよう。しかしわれわれはこの『講義』の編者自身が理性の自己規定の自由に気

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10長崎大学教育学部人文科学研究報告 第37号

付かず看過するはずはないと考える。Menzerめ言う叡知的自由は, Schilppが解する理性

による自己強制としての実践的自由を意味しているのではなく,その基礎をなす「超越論

的自由」を指すものと推測する。この自由は自然法則に従って進行する現象の系列を自ら

開始する原因の絶対的自発性であり,出来事の「第一始源」である。この意味の叡知的自

由は『形而上学反省集』において,1775年から1777年と推定される断片で数多く言及され

ていることは,われわれが既に「自由の諸相」の考察において明らかにしたところである。

参考迄にそれらを挙げると次の通りである。XVII. S.511, Nr.4338, S.606, Nr.4600, S.608,

Nr.4609, S.703, Nr.4757, S.707, Nr.4758, XVII. S.24, Nr.4904, S.183, Nr.5442, S.211, Nr.

5535,S.182, Nr.5438.

 これらの断片にみられる超越論的自由の背後には叡知界と経験界,或は悟性界と現象界

という二つの世界,二つの立場が設定され,自由と必然の二律背反解決の批判的方法が確

立されつつあった。従ってSchmuckerの言う様に反省集を典拠資料とすれば, Menzerの

解釈は当然訂正を受けなければならない。要するにわれわれは上述の根拠に基づき『倫理

学講義』がなされた同時期に,叡知的自由は超越論的自由として,しかも実践的自由や道

徳的自由を可能にする基礎として,Kantにより十分意識され, Kant自身の自由概念の中

で最も基礎的意義壷もつものであった,と結論する。そこで『倫理学講義』における叡知

的自由についても,Menzerの言うように全くその役割を果していないというより,なる程

表面的,直接的には一語も語られず一見全く意義をもっていない様に見えるが,しかし内

実的,間接的には,或はKantの意識の中では,この叡知的自由は実践的自由を可能ならし

める基礎としての役割を果しているとみるのが妥当ではなかろうか。この場合何故『倫理

学講義』において叡知的自由が一語も語られていないのか,ということが当然問題となろ

う。この問いに対してわれわれは「超越論的自由」がこの『倫理学講義』同様『道徳哲学

反省集』においても一語も語られず,専ら『形而上学的反省集』のみに集中して論じられ

ているという事実,言い換えれば超越論的自由は道徳的領域では論じられず,専ら形而上

学的領域でのみ論じられているという事実,従って因に『形而上学講義』ではその合理的

心理学の主題が,私のあらゆる行為の第一原因としての超越論的自由であり,それは「実

践的自由を越えて先へ進み」そして「いかにして実践的自由は可能であるか」を問題とし

ている.という事実から次の様に推察する。Kantは実践的自由についてはそれを『倫理学講

義』において論じ,他方その基礎としての超越論的自由についてはそれを形而上学に関す

る講義において論ずるという主題の領域上の区分をしていたのではないか。そしてその区

分に従って自らの所説を展開したために,『倫理学講義』では叡知的自由については触れら

れなかったと。

 さてMenzerの解釈における第二の問題点は, Kant倫理学に関して果してMenzerの

言う様に,倫理学体系への基礎は既に存在していたがそれを体系的全体への統一する指導

理念が欠けており,その解釈は『道徳形而上学の基礎づけ』を待たなければならなかった

のかどうか,そしてKant倫理学は『純粋理性批判』の現われる迄は完成されていなかった

のか,ということにある。まず倫理学体系全体へと統一する指導理念について,それが欠

けているとみるMenzerの論拠は,叡知的自由がこの時点で役割を全く果していないこと

と深い係わりをもつも・のと推察される。しかし叡知的自由はKantによって明確に自覚さ

れていた。いな寧ろわれわれはKantの道徳思想の形成過程からみて夙に指導理念は確立

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KANTの批判期前における道徳原理の探求と確立(木場)11

されていたと考える。具体的に言えば,1763-1764年頃KantはRousseauとの出会いによ

り自らの知的優越を眩惑として否定し,人間を尊敬することを学んだ。この人間尊重の精

神は幼年時代に育まれたPietismusの心情とも結びついて,人間の尊厳そのものを道徳原

理の根拠とするに至った。ここにKant倫理学の指導理念の萌芽をわれわれはみるのであ

る。それ以来1770年にかけてKantは一貫して人間性の尊厳とその根拠を追求し続けてい

る。それはまさしく自由の追求であり,その追求の過程そのものがKantの道徳思想の形成

史である。われわれはこの人間の尊厳の根拠としての自由及びその基礎づけがKant倫理

学の窮極目的であり,指導理念に他ならないと解釈する。従って当面の『倫理学講義』に

おいても,この指導理念は自分及び他人に対する義務の根拠として,同時に人格における

人間性の尊敬の根拠として,さらには世界の内的原理として,総じて自由の理念としてそ

の役割を十分果たしているとわれわれは考える。Menzerが体系へ統一する指導理念が欠

けていると言う場合のその理念が,単なる実践的自由ではなく,批判体系としての指導理

念,すなわち叡知的自由という理念を指していると解釈するにしても,その出発点は二律

背反の解決であり,しかもそれは実践的自由,道徳的自由の根拠づけであるとすれば,両

者は同一の自由の理念にほかならないであろう。要するに倫理学の指導理念は,Menzerの

言う様に,『倫理学講義』の時期には欠けていて,『道徳形而上学の基礎づけ』において初

めて解決したのでなく,それは既に1760年半ばに既にKantによって主体的に意識され,70

年より80年へ一貫し,85年『基礎づけ』において「自律」の概念として結実し,人間の尊

厳を基礎づけ,同時に批判的倫理学を成立させた,とわれわれは解釈するものである。

 最後に,Kant倫理学が『純粋理性批判』の出現迄は体系的に完成していなかったと言う

Menzerの見解については,われわれは次の様に考える。まずKant倫理学はその学的規定

として二つの領域から成り立っていることが注意されなければならない。すなわち「道徳

形而上学」と「純粋道徳哲学」とである。「道徳形而上学」の課題は,普遍的・必然的に妥

当する道徳の最上原理を,経験からではなく純粋理性から導出し,それを先天的に確立す

ること,言い換えれば自由な随意志の必然的法則を仮言的命法としてではなく定言的命法

として確立することと,その道徳の最上原理,すなわち定言的命法を自分及び他人へ適用

して義務論を展開することであった。われわれはこの「道徳形而上学」の課題は,『倫理学

講義』において十分果たされているとみる。何故ならばこの講義のテキストとしてBaum-

gartenの著書が台本になっているとは言え,寧ろそれを批判しつつ「普遍的実践的哲学」

において最上原理が確立され,「倫理学」において自己自身に対する義務と他人に対する義

務が事実独自に展開され,全体としての倫理学の体系が形成されているからである。この

「道徳形而上学」に対する「純粋道徳哲学」の課題は,道徳の最上原理(定言的命法)の

基礎づけにある。この課題は正しく「批判的倫理学」の確立であり,当時のKantの当面の

批判的課題にほかならない。この解決のためにKantは,『実践理性批判』へ通じる荊棘に

富める批判の小径を進まなければならなかったのである。そして道徳の最上原理を自由に

よって基礎づけるために,自由の理論的使用と実践的使用とを批判体系の中で齊合的に確

保し,更に「道徳法則」による自由の実在性を証明しなければならない。そのためには理

性的存在者の意志が自分を規定する外的諸原因から独立に作用し得る自由を有し得ること,

さらには自分が自分自身にとって法則であるという意志の固有性,すなわち自己立法,或

は「自律」が必然的に前提されなければならない。この「自律」の概念の確立と形成によづ

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12長崎大学教育学部人文科学研究報告 第37号

て道徳の最上原理(定言命法)の基礎づけが可能となると同時に人間の尊厳そのものも

基礎づけられ得るのである。

 かくてわれわれはKantの倫理学の成立に関して次の様に結論する。 Kantの倫理学(道

徳哲学)は,それを構成する二分野のうち「道徳形而上学」は1781年の『純粋理性批判』

の出現以前の70年代後半に既に体系的に完成されていた。しかしそれを基礎づける「純粋

道徳哲学」としての批判的倫理学は『純粋理性批判』からさらに4年を経て,1785年『道

徳形而上学の基礎づけ』において初めて確立されたと。

 以上でわれわれは1770年代の「自由の諸相」の全体的考察を終え,続いて自由の主体に

係わる「人間と人間性」の考察へ進むことにしよう。

D.人間と人間性(人格と人格性)

 われわれはまず『倫理学講義』において「人間と人間性」がどの様に把握され,とくに

人間性はどの様な意義をもっているか,そして人間と人間性は相互にどの様な内的関連を

もっているかを考察する。続いてそれぞれの『手記遺稿集』についても同一の観点から分

析検討し,それぞれの資料のもつ特徴を抽出しながら,70年代のKantの人間観を明らかに

してゆく。

 さて『倫理学講義』において「人間性」はどの様に把握されているのであろうか。

 Kantによると世界の内的価値は自由である(S.151)。自由とは他に依存せず自己の自身

と一致することであり,そのために人間は人間として生きることのためにのみ自己の自由

を使用すべきである(S.149)。この意味で人間は自己の人格に所属する一切のもの,或は自

己の状態を処置し得るが,自己自身の人格を自由に処置することはできないとされる。人

間は自由を自己自身と一致させて使用すべきであり,自己自身に反して使用してはならな

いのである。それは何故であろうか。それは基本的にはKantの人間観に由来する。「人間

はそれ自体目的であり決して手段ではない。世界における他の一切のものは,ただ手段の

価値をもつに過ぎない。しかし人間は人格であって物件ではなく,従って何らの手段でも

ない」(S.150)。物件の手段性に対する,人間の人格としての自己目的性,これが「人間性」

にほかならない。従って人間として生きることのためにのみ使用さるべき自由は,人間の

自己目的性と一致しなければならない。「自由の最大の使用を可能にし,自由を自己自身と

一致させ得る諸制約は,人間性という本質的目的die wesentlichen Zweche der Mensch・

heitと一致しなければならない」(S.154)。この様にみてくると,自由とは他に依存せず自

己自身と一致することとされる場合の「自己自身」,また人間は自由を自己自身と一致させ

て使用すべきであり,自己自身に反して使用してはならないとされる場合の「自己自身」

は,人間性であり,本質的目的であるということになる。従って人間性とは人間における

本質としての自己自身,人間における人格としての自己目的性,端的に言えば人間にお

ける本来的自己である。そしてこの人間性の有する実践的意義は自由を使用する場合の制

約となることである。かくて人間性は自分に対する義務の原理の根拠となる。

 以上のように人間性とその意義が捉えられ,それに基づいて人格価値論が展開される。

人間性は自己目的性のゆえに,物件のもつ手段的・相対的・外的価値とは対照的に,絶対

的・内的価値の根拠となり得る。この根拠が価値の観点から「尊厳WUrde」と呼ばれる。

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KANTの批判期前における道徳原理の探求と確立(木場)13

ところで人間の尊厳に関しては『倫理学講義』の「普遍的実践哲学」では全く論ぜられず,

「倫理学」において,それも「自己自身に対する義務」においてだけ論じられ,「他人に対

する義務」においてはまた全く論じられていない。この点が『倫理学講義』における「人

間性の尊厳」の論及に関する特徴をなしているが,その理由についてはこの尊厳の考察の

後に結論として述べることにしよう。ではKantはこの「人間性の尊厳」にどのような意義

を与えているのであろうか。

人間性の「尊厳」について最初に言及されるのは自己自身に対する義務及びその他の一切

の義務との関係においてである。具体的に言えば「自己自身に対する義務について」の項

の中で,「人間性の尊厳」に言及される箇所は四ヶ所ある。一,まず「淫行Crimina carnis」

について論じられる際,それは人間自身の人格における人間性の尊厳の殿損である(S.149)

とされている。尊厳の概念の最初の提起として唐突であり,またこれに説明もない。しか

し尊厳は自己目的性の概念として,しかも自明の概念として取り扱われているのであろう。

二,次に「自己自身に対する義務は,『すべての利得から独立に,ただ人間性の尊厳にのみ

係わる」(S.150)とされている。三,さらには人間性の尊厳はすべての義務の基底とみられ

ている。「Sokratesは全く何ら価値をもたない惨めな状態にあったが,彼の人格はこの状態

において最大の価値をもっていた。たとえ生活を快適にするすべてのものが犠牲にされても

人間性の尊厳の保持はこのすべての快適の損失を補充しそして賛同を確保する。何となれ

ば,すべてのものを失ってしまっても,それでもわれわれは内的価値はもっている。われ

われはこの人間性の尊厳の下でだけ他の諸義務を遂行することができる。このことがその

他のすべての義務の基底die Basisである。内的価値をもっていない人は自分の人格を放

棄した人であり,最早何らの義務も遂行し得ない」(S.151)。四,最後に「自分自身に対す

る義務の原理の本質は自己寵愛ではなく自己尊重die Selbstschatzungである。すなわち

われわれの行為は人間性の尊厳と一致しなくてはならない」(S.155)と述べられている。

 以上の四ヶ所からみると,人間性の尊厳の第一の特性は直接的には自己自身に対する義

務の基本であると同時に,間接的にすべての義務を可能にする基底であり,そめ本質は自

己尊重という点に存する。人間性の尊厳の第二の特性は利得や快適から独立した人格的内

的価値である点にある。この自己尊重と自己の外的条件からの独立性という二つの点が人

間性の尊厳の本質をなしている。第二の特性に関しては,利得や快適,情欲からの独立性

に止まらず,他人(との区別)からの独立性,物件からの独立性,さらには自然的禍,す

なわち偶然的状態からの独立性へと敷衛されている。この観点からすると,『倫理学講義』

において初めて「人間性の尊厳」という用語が使用された箇所,すなわち先に触れた様に

「淫行」に関しては,この行為が情欲かちの独立性ではなく情欲への依存を意味している

点,人間性を自己目的性としてでなく情欲への手段性として取扱った点に人間性の尊厳の

殿損の意味があったと解される。従ってわれわれ自身に対する義務を遂行し,人間性の尊

厳を確保するためには,人間は興奮と激情とをもたないことが要求される。人間が実際に

その平な状態に迄達し得るかどうかは別問題として,このことが一つの規則であると言わ

れている(S.183.f.)。「蓋し激情の中にある人間の状態は常に妄想的である。その時彼の傾

向性は盲目である。これは人間性の尊厳と一致しない」(S.184.)。「他人(との区別)から

の独立性」に関しては,「人間性の尊厳に基づく道徳的自己尊重は,他人との比較にではな

く,道徳法則そのものとの比較に基づいていなければならない」(S.158.)。幸・不幸,健康・

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14長崎大学教育学部人文科学研究報告 第37号・

不健康,満足・不満足の最大の原因は他人との関係にある(S.182)。すなわち他人との比較

からの独立性,道徳法則に依拠すること,この点に道徳的自己尊重,自分の人間性の尊厳

を堅持し得るのである。さらに「物件からの独立性」を呈しているのは「克己」である。

「克己Selbstbeherrschungのうちに直接的尊厳eine unmittelbare W廿rdeが存在する。と

いうのは,自分自身の主人であるということは,一切の物件からの独立性eine Unabhan-

gigkeit von aUen Sachenを告示しているからである」(S.175.)。ここからすれば人間性の

尊厳は自主・独立ということになる。それは「自然的禍」や「偶然的状態」からの独立性

をも意味する。「自然的禍の力に打ち負かされ,偶然的状態の戯れに依存することは人間の

尊厳に反する。人間は禍に依存する必要はない。人間は一つの源泉を,すなわちすべての

禍に抵抗する心性の能力を自らのうちにもつている」(S.181.)。

 人間性の尊厳の第三の特性としてそれが価値論的観点の下に把握され,それ自体,自己

目的的・独立的・内的価値として規定される点があげられる。ところで人間性の尊厳は自

己尊厳の本質であるが,これと全面的に対立する行為は自殺である。Kantは自殺を自己自

身に対する最上の義務違反として厳しく否定する。「……自殺はいかなる条件のもとでも許

されない。人間性は自己の人格の中にある不可侵性eine Unverletzlichkeitをもっている。

それはわれわれに委託された神聖なものである。すべてのものは人間に従属しているが,

人間は自己自身だけは手をつけてはならない」(S.189)。自己の人格のうちなる不可侵なも

の,そして神聖なもの,それが人間における人間性の尊厳に他ならない。すなわち人間性

の尊蕨は人格の絶対的価値の表明であると言えよう。この絶対的価値を基本として,人格

は「尊厳に値する」存在として規定され,「尊敬の対象」となる。と同時に人間に対し「尊      厳に値するように生きること」が必須として要求される。「人間性は尊敬に値しach-

tungswert,たとえその人間が悪人であろうとも,それでも彼の人格における人間性は尊厳

に値するものである」(S.190)。「われわれの人格のうちなる人間性は最高の尊厳の対象ein

Gegenstand der h6chsten Achtungであり,不可侵のものである」(S.195)。人間ば物件

でなく人格である限り,その根拠とする人間性の故に尊敬に値し,尊敬の対象であり,尊

敬に値するように生きなければならない。この生き方は人格価値を生命価値に優越させる

こと,「道徳的生命ein moralisches Leben」(S.196)を「動物的生命ein tierisches Leben」

(S.195)に優先させることを要求する。尊敬に値するように生きるとは,生命の維持では

なく道徳性の遵守に徹することである。

 「世界には生命よりも遙かに高貴なものが多くある。道徳性の遵守は遙かに高貴である。

道徳性を失うよりは生命を犠牲にする方がましである。生きることは必須ではないが,生

きる限り尊敬に値するように生きることが必須である。しかし最早尊敬に値するように生

きることができなくなった人は,最早生きるに全く値しない人である」(S.190)。若きKant

はこの様に「生命」に対し「道徳性の遵守」の高貴さを,生命価値に対し人格価値の優越

を,ただ生きることに対して善く生きることを,動物的に生きることに対して人間性の尊

厳に適して生きることを,つまり尊敬に値するように生きることを厳しく要求している。

人間は官分の生命か,或は自分の人格の尊厳か,という二者択一にあっては,生命を放棄

し人格の尊厳を選ぶべく義務づけられていると言う。「人間は自分の人間性の品位を下げず

には自分の生命を保持できないときは,寧ろ生命を犠牲にすべきである」(S.195),「……生

命の保存が最高の義務ではなく,専ら尊敬に値するように生き抜くためには生命が放棄さ

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KANTの批判期前における道徳原理の探求と確立(木場)15

れねばならないことがしぼしばある」(S.196)。若きKantの自己尊重,広く人間尊重は,

普通一般的に考えられている様な単なる生命尊重ではない。徹底した道徳的生命の尊重,

人間性の尊厳の尊重であり,このためには生命を犠牲にすることすら認める道徳至上主義,

所謂厳粛主義によって貫かれている。要するに,人間性の尊厳は,人間が尊敬に値するよ

うに生きる根拠であり,生命価値に優越する人格価値の根拠である。

 われわれは『倫理学講義』における「人間と人間性」の考察を終るに当り,特に「人間

性の尊厳」をめぐる注目さるべき二つの点についてわれわれの解釈を述べておきたい。

 第一点は,人間性の尊厳は自分自身に対する義務,すなわち自己尊重の根拠としてのみ

論じられ,「他人の人間性の尊厳」については論じられていないこと,「他人の人間性」に

ついて論じられているが,それは尊厳としてでなく「他人の権利das Recht anderer Mens・

chen」として規定されていることである。そしてこの「他人の権利」は自己の人格におけ

る人問性の尊厳と全く同等の倫理学的取り扱いがなされている。人間性の尊厳が自己自身

の義務の根源であり,尊敬の対象となる様に,他人の権利に他人に対する義務の根源であ

り,尊敬の対象となる(S.245)。他人に対する義務の中で最高のものは「他人の権利に対す

る尊崇Hochachtung」である(ibid.)。自己の人格における人間性の尊厳が神聖不可侵のも

のであったと同様に,他人の権利も神聖不可侵である。「他人の権利を尊重すること,そし

てまたそれを神聖なものとして尊重することはわれわれにとって義務である。世界全体の

中で他人の権利程神聖なものは何もない。これは不可侵なものであり犯し難いものである。

他人の権利を侵害し躁躍する者に災あれ」(ibid)。この様に自分自身の人格における人間性

の尊厳に対しては,他人の人格における人間性の尊厳ではなく,他人の権利が対応してい

る。このことが批判期以前の人間性の尊厳の特徴をなしている。かくて自分自身の人格に

おける人間性の尊厳が他人の人格における人間性の尊厳まで普遍化し,権利という法律学

的概念が尊厳という倫理学的概念に迄深められる過程が批判的倫理学への道である。つま

り,人間性の尊厳の概念は『倫理学講義』においては,自分自身に対する義務の根拠に止

まり,他人に対する義務においては「他人の権利」がこれに代り,自他に普遍化するに至っ

ていない。従って人間性の尊厳の概念は他人に対する義務においても,普遍的実践哲学に

おいても論じられていないと解される。

 第二点は,Kantにとって「人間と人間性」はそれ自体人間把握の基本的な立場であり,

言わばこの二つの立場に基づいて人間信頼の人間観が形成されていることである。ただし

このことはKantが二つの立場として直接的に論じているのではなく,自己自身に対する

義務及び他人に対する義務の展開の背後に想定していたとみられる立場である。この立場

を端的に表明しているものとして,他人に対する愛の義務のうち,具体的に言えば,「汝の

隣人を愛せよ』という実践的命題の基礎づけをあげることができる。ここでは必須の前提

として次のことが要求されている。「人間において,人間そのものとその人間性とを区別す

べきである……an dem Menschen ist ein Unterschied zu machen zwischen dem Mens-

chen selbst und seiner Menschheit」(S.249)。この人間と人間性の区別,人間と人間性と

いう二.つの立場,或は二つの観点からすると,われわれは人間そのものには適意Wohl-

gefallenを感じ得ないにしても,その人間の人間性には適意をもち得る,とKantは言うの

である。同様にわれわれは現実的なその人間そのものを愛し得ないにしても,その人間の

人間性は愛し得ると言えよう。かくて愛からの適意は命令され得ないが責務からの適意は

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16長崎大学教育学部人文科学研究報告 第37号

命令され得るのである(S.247)。ここに隣人愛が成立する根拠がある。Kantは悪人につい

ても,悪人そのものとその悪人の人間性とを区別する(S.249)。そしていかなる極悪人でも

「善意志の核心ein Kern des guten Willens」を有し,そのために有徳でありたいと望ま

ない者はいないと断言する。すなわち人は誰でも善意志と道徳的感情はもっている。ただ

その力die Kraftと動機die Triebfederが欠けているに過ぎないとみる。従って「たとえ

どんな悪人であっても,彼の人格のうちなる人間性は尊敬に値する」(S.90)のである。こ

のKantの人間把握が現実的に妥当するかどうか,理念的把握に過ぎそのためにかえって

楽天的人間観とみられるかどうかはともかく,ここにKantの人間に寄せる徹底した信頼

感と,その倫理学的概念化としての人間性の尊厳,及び他人への権利の基づく根源とをわ

れわれは看取することができる。Kantはさらにこの人間信頼と尊厳と権利に基づいて人

間の平等を説いている。基本的には人間は道徳的に善であることによって,他の一切のも

のに対して「内的に優i越した価値ein innerer, vorzUglicher Wert」(S.307)をもち得るの

である。それ故に「すべての人間は相互に平等gleichである」。つまりすべての人間は自己

の人格における人間性の尊厳と権利とにおいて平等なのである。因に『倫理学講義』にお

いて「尊厳」が論ぜられる場合は,すべて「人間性の尊厳」という表現がとられ「人格性」

その他の用語は使用されていない。かくて『倫理学講義』は人間性の倫理学であり,自己

の人間性(尊厳)と他人の人間性(権利)尊重の道徳思想によって一貫している。そして

この思想は批判的倫理学によって基礎づけられ,1797年の『道徳形而上学』において体系

的に完成することになるのである。

註.Kantよりの引用は, Kant’s gesammelte Schriften(Akadmische Ausgabe)によった。『倫理

 学講i義』はEine Vorlesung Kants Uber Ethik, herg. v. P, Menzer,『形而上学講義』はKants

 Vorlesungen Uber die Metaphysik, hersg. v. Pδ1iz.1821,2AufL 1924(Neu herg. v. K. H㌧

 Schmidt.)を使用した。

                            (昭和62年10月31日受理)