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NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITEnaosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/36795/1/No.180.… · らも高校生平和大使を出した。ブブラジルへ来てくれ、ブラジルか演に行っている。長崎の高校生もる。中学や高校へも被爆体験の講

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Title ヒロシマ・ナガサキ通信 No.180

Author(s)

Citation ヒロシマ・ナガサキ通信 No.180; 2008

Issue Date 2008-09-25

URL http://hdl.handle.net/10069/36795

Right © 長崎の証言の会

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

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■・ユー--一一・・一一・'-1pp--一一.‐・um-XrJⅡ型■ー‐--|■ ■ ■ 一

‐(1) ヒロシマ.ナガサキ通信Nol80 (16)

|新刊紹介一

「いっしょうけんめいきようま

で生きてきたと!』鶴文乃編

(発行。ファミネット八四○円)

副題「長崎県立養護施設『向

陽寮」の元寮生たちの手記」

向陽寮とは、一九四七年(昭犯)

長崎市岩屋町に孤児収容所として

開設され、四月に養護施設と改称

された。鶴さんは「この本は、戦

争という劣悪な環境の中を子ども

の頃に過ごし、戦後の混乱期に家

族から離れ『向陽寮』で思春期ま

で成長し、社会に出て社会の偏見

と闘いながら立派に自分の道を切

り開いてきた人たちの記録であ

る。」と書いている。今の子ども

には想像できない苦しい時代の

〃真実の物語〃である。親も子も

ぜひ読んでほしい。(濱崎均)

(購入先)「ファミネット」

東京都千代田区平河町一’八-八’二○一

FAXO31326112263

「ナガサキピースミュージアム」

長崎市松ヶ枝町七’一五

FAXO95I827I7878

いつQざ弓噛久必、、

甦惹で吃考鐵喝とノ具ロー寺■■■浦『輌巨j虚辞E璽千律

■劫■

紹介

戦後の混乱期を生きぬいて「二度と騒争を起こしてはならない!」

畢瀞用まで舎.ひ堂わりの劇醗扇幽で過ごした子どもた低社会の盈厨や■児産■い“『ら・向らの逼些切り■10ていった彼らが0いまあちためて呼樋のeさ」を僻える。アァ“”

八月三十一日、在ブラジル被爆

者協会会長森田隆さんの在ブラジ

ル被爆者についての報告会があっ

た。森田さんは当時、憲兵として

服務中、東京大空襲、広島原爆と

悲惨な状況を体験している。生活

のため、終戦十一年目にブラジル

へ移民したが、被爆者ということ

を隠して暮らした。

一九八四年、二十七人で被爆者

協会を作った。日本の厚生省に陳

情書を持っていったが森課長は、

「日本を捨てて外国に行ったのに

今さら:.」と言って受け取らな

かった。外務省は受けた。広島市

は「ブラジルに被爆者がいるはず

はない」と受け取らなかった。長

崎市は親切に応対した。

同行の渡辺さんは、日本で暮ら

していけないからブラジルへ行き、

帰りたくても帰れなくなったのだ。

何事も裁判しなければならないの

はおかしいと憤る。

今、ブラジルで原爆展をしてい

る。中学や高校へも被爆体験の講

演に行っている。長崎の高校生も

ブラジルへ来てくれ、ブラジルか

らも高校生平和大使を出した。ブ

● ブラジル被爆者

平和協会

可一

森田隆会長報告交流集会

望の翼鐸聖

鯉g念畿埼鴻永涛料好訪中団

HF"!Lムリも

Iー ロ

第6次「希望の翼」訪中団一行(記事は次号に)(写真提供・崎山昇氏)

一-

ローマ

在ブラジル被爆者協ヨ ラジルの先生方も協会に入ってく

れるので、名称を〃ブラジル被爆

者平和協会〃と変更した。世界平

和を求める協会で、これがこれか

らの被爆者の仕事だと、八十四歳

とは思えない元気である。「目的

があれば成就します」ということ

ばも力強かった。

この日はいわゆる〃被爆体験

者〃の方たちも参加し、盛会であっ

た。

(濱崎均)

●。●●■●●岳■●●●●■■●■●●●●●DC●■●●●●●●q●●e◆●■●●●

6.8証言肥座談会

(カトリックセンター)

6。”「長崎の証言の会展」打

ち合わせ

7.7「浦上刑務支所中国人原

爆犠牲者追悼碑」除幕式

に参加

8.5「長崎の証言の会展」開

催(ナガサキピース

ミュージアム)誕日まで

8。応ナガサキ不戦の集い

8・加「日本政府が『アメリカ・

インド原子力協定』の締

結に反対することを求め

る声明」発表記者会見

8.弱『証言』第躯集事務局

での最終校正(これまで

にも数回校正)

●活動報告

(昭年。

会田パプチヨン

ストーンウオークで引いた碑石が、朝国峡川市原爆福祉会館前庭に建立された。碑面の文字は「UnknownCivilianskilledinWar」その下に日本語とハングルで「平和の友好。謝罪のために」とある。(2008.8.23)

(写真提供・廣瀬方人氏)

6月~鵬年。8月)

911

一一一W_.__l

(P16参照)

p 午

ブラジル被爆者平和協会森田会長(写真提供・濱崎均氏)

一’

日本政府は

NPT体制を堅持せよ

八月九日、平和祈念式典で福田

前首相は、「非核三原則を堅持し、

核兵器の廃絶と恒久平和の実現に

向け、国際社会の先頭に立ってい

くこと」を誓った。

しかし、八月二十七日、町村官

房長官は、NPT(核不拡散条約)

未加盟のインドに核関連技術を提

供する米印原子力協力協定を容認

することを記者会見で表明した。

これは首相の意向と見るべきで、

またもや首相や政府に裏切られた

ことになる。

容認の理由は、インドの原発推

進策が「地球温暖化対策に貢献す

る」からだという。政府はさらに、

「軍事転用されないよう、一定の

条件を求める」らしい。しかし、

日本の外交の基本方針はNPT体

制の堅持である。したがって、事

実上インドの核保有を認めるこの

協定はNPT違反であり、NPT

未加盟国に核技術を提供すること

もNPT違反である。

明らかなNPT違反にもかかわ

らずこの協定を容認するのは、何

よりも対米追従外交と言われても

しかたあるまい。首相・政府は八

月九日、長崎で誓ったことを実行

すべきである。NPTは不平等条

約ではあるが、現在これしかない

ので、最小限NPTを堅持すべき

である。

(濱崎均)

た。同校の同窓生が異議を唱えた

結果、この一文が消えた。が、あっ

た。原爆資料館から下ったすぐ〃み

どりぱし〃の狭、「下の川(爆心地

付近)の惨状」の銘板の下方に「下

の川上流の家屋解体作業に派遣さ

れていた県立長崎工業学校の先生

及び生徒も、ほとんど爆死した。」

と書いてある。(写真の白い部分)

気づいた人は何人?(濱崎均)

●。●●●◆●●●GeQ●の吾■●●●●●①●●●申ウ●●●●●●■●■■●■●申■

〔あとがき〕

長崎の証言の会は八月二十日、

「日本政府が『アメリカ・インド

原子力協定』の締結に反対するこ

とを求める声明」を出した。本文

は『証言』第躯集に載っている。

この協定は承認されてしまった。

被爆者は高齢化しても安閑とし

てはおられない世相だ。いっそう

のご自愛を(濱崎均)

一歩r

一一m一『

~ 毎口■ ト

ピックス

引っ越蜘鮭澤嘩、一一

種下の川横に

れ「爆心地直下

池の惨状」とい

加う銘板がある。

きこの中に、県

祷立長崎工業学

吟校生徒が遊ん

晴でいて爆死し

白たと受け取れ

る一文があつ一一’

’--一

-一--

- ー = . 一 ー -ー宝二一一一一一.~ー一一一一=-■

Aハ他I/応/erZer力℃ノ77/釈OS卜川肌4-ハ偶G4馴灯

…2008.9.25

定価年1500円(送料含む)

発行長崎の証言の

事務局

〒852-8105長崎市目覚町25-5(壷・FAXO95-848-6879)

〔主な内容〕不戦の集い(松崎龍一)2、長崎の証言展(讃崎均)3、核実験抗議団体交流会(演崎均)4,中国人慰霊碑除幕式(松崎涼子)6,高校生平和大使(山田洋子)8、反原爆への熱き思い(夏目侑子)9,原爆が落とされたら(木村宥子)10、地方委員通信(篠姪潔・夏目侑子)12、ヒロシマ通信13、ナガサ

キ通信14、活動報告16

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’(2)ヒロシマ.ナガサキ通信NQ180(3)

六十三回目にあたる終戦記念日

の八月十五日、午前十時半から松

山町の爆心地公園にある「核廃絶

人類不戦の碑」の前で、四十三人

が集まり「ナガサキ不戦の集い」

が、森口貢さんの司会で開かれた。

不戦の思いを込めて全員で黙祷

をした後、「長崎の証言の会」の

代表委員の一人である濱崎均さん

から、六十三年前、二度と戦浄は

するまいと、一人一人が心に誓っ

たにもかかわらず、軍備は拡大し

世界では紛争が絶えない。私たち

はこういう事態にしっかりと目を

向け、被爆体験だけではなく、戦

争そのものを若い世代に語り継い

一一』

}ア

一一誉

¥亀》 ナ

ガサキ不戦の集い

二○○八年八月五日から二十四

日まで、「長崎の証言の会・四十

年のあゆみ展」が行われた。

この展示会の目的は、弓長崎の

証言の会』の四十年に及ぶ活動の

歩みを通して、核廃絶と平和の大

切さを考えます。」ということで

ある。会が発行してきた約七十冊

ナガサキ・ピースミュージアム

‐a

瀞塞齢

や塁

野駐一一 ヨ

↓延

延1

1

でいくべきだと、開会の挨拶が

あった。

次に、犠牲になった方々の冥福

を祈って献花をした後、参加者か

らの意見発表に移った。

草の根市民運動の柴野さん憲

法九条を守る草の根運動を広げる

ため、全国講演縦断キャラバン隊

を組み、各地を回っている。

イラクからの帰還兵で、全国で

講演しているアッシュ・ウールソ

ンさん憲法九条を世界に広める

ために日本に来た。イラクに行く

までは、正当化される戦争もある

と信じていたが、現実を見て戦争

は喪失しか生まず、得るものは何

の本、表紙の原画、直筆原稿、四

十年の略年表、「証言」誌に掲載

された被爆体験記の執筆者のべ約

千人の名簿、写真、証言コーナー

など、会場いつぱいに展示された。

来場者の中には、名簿の中に知

人を見つけた人、展示された本を

読む人、本のコピーを頼む人など

もおり、長崎県外の来場者

も多かった。

会場に、来場者に記名や

ム感想を書いてもらうノート

ァを置いていた。その中から

》一何編か紹介する。

ユヘヘヘ、0Jノ

ュ蛎一来場者の感想一

詑緬●細い朏能峨峨紺眠密産て

諦趣います。大分県は、毎年八

ナ真月六日に登校日を設け、原

展惇爆の恐ろしさを小・中学生

黍は学習しています。この取

のり組みは、四十年程前から

謡行われているのに、(中略)

被爆者の願い、私達の平和

への願いが届きません。大

qD アッシュ・ウールソンさん(写真提供・濱崎均)

松崎

生まず、得るものは何

もないと分かった。帰

還兵の多くがPTSD

に苦しみ、十七人が自

殺した。暴力で平和を

築くことは出来ない。

今田斐男さん両親

の反対を押し切り、爆

弾を落とす爆撃機の搭

乗員となった。最後の

訓練を受けているとき

龍年企画I均

に原爆が投下されたのを知った。

敗戦で古里へ帰ることが出来たが、

一面焼け野が原だった。戦争とい

うものがいかに人間性を抹殺し、

生きるすべを失わせるのかという

ことをしっかり考えねばならない。

広瀬方人さん軍人から、お前

せきし

たちは天皇陛下の赤子であり、両

親はお前たちを陛下から預かって

育てている。日本帝国が危急存亡

の時にある今、両親はお前たちを

陛下にお返しし、国のために命を

として働かねばならない。と訓示

されたが、本当にそうだと心底

思った。その後、海軍航空隊に入隊

したが、片道の燃料しか載せない

のだから、飛行機の訓練に着陸の

訓練はいらないと言われ、人生が

十八歳で終わることを覚悟しなけ

ればならなかった。このように間

違った教育の恐ろしさと、戦争を

させない教育の大切さを痛感した。

石田謙二さん米と印の原子力

協定が進められ、IAEAの理事

会でも承認された。協定が実現す

ると、インドは外国から送られて

きた核燃料を原子力発電などに回

し、今まで発電に使っていた燃料

で核兵器を造れることになる。N

|溌鯵烈既肺聯解緋

変残念です。

ただ私達は目の前にいる子ども

達にはしっかり伝えていきたい。

その為にも私自身、もっと知りた

い、そう思って訪れました。私も

私のできる限りのことをしていき

たいです。

●Tさん(女性・長崎)

この展示を見ると〃証言の会〃

の歴史がわかります。地道な活動

に頭が下がります。被爆者の方々

の思いを伝え、二度と核兵器が使

われないよう、私たちの平和へ向

けての、私たちの日々の行動が問

われます。語り伝えるためにも、

しっかり資料に目を通していきた

いものです。

●Oさん(男性)

『証言い」にある鎌田定夫さん

が司会をして、山田かん、中村新

七、田川実さんらの「対談」を読

みました。また、二十五年目の発

掘である「長崎大学の原爆救護記

録」についての鎌田定夫さんの新

聞紙上での発言も読みかえしてき

ました。

あれから四十年の歳月の「証言

運動」のねばり強い、貴重な歩み

に脱帽あるのみです。財政活動の

苦労も含めて、自力で運動のご苦

労も数々あったと思います。私も

-‐

と、NPTの体制は崩壊してしま一

う。これに賛成している日本政府一

に対し、被爆地長崎からも、ぜひ

反対の行動を起こしてほしい。

山田拓民さん国民は、戦争で

受けた被害は我慢すべきだという

政府の考え方が全く変わらず、強

い怒りを感じる。原爆症認定の問

題も同じで、国は、原爆の放射線

で受けた被害者に限定して救済し

ようとしている。原爆認定制度そ

のものを実行させると同時に、戦

争で受けた被害は、全て国が補償

するのが当然だという常識を作り

上げていくことが必要だと思う。

続いて、活水高校平和学習部の

方から、力強く「不戦の誓い」が

読み上げられた。

最後に谷口稜嘩さんから、終戦

の日、私は諫早小学校の校舎の床

に寝かされ、生死をさ迷う状態

だったが、何とか生かされてきた。

体調は悪いが、六十三年前のこと

をもう一度真剣に考え合うべきだ

と考え、運動を続けている。来年

はもっと多くの人が集い、平和へ

の誓いが、更に強められることを

期待している。という閉会の挨拶

で会を閉じた。

もっと早く長崎に帰っておれたら、

鎌田さんにもお会いできたのにと

思い、残念でなりません。

いよいよ核廃絶を迫る運動は正

念場を迎えました。「証言の会」

のいっそうの発展と、みなさまの

ご健勝を祈ってやみません。

●Nさん(女性・佐賀)

以前より生徒の平和学習、私達

職員の学習で大変お世話になりま

した。同僚の一人が「以前、いろ-

いろなことで悩んで教師をやめよ

うかと思っていた時に、証言の会

の方の話を聞いてその気持ちが吹

きとんだ」と言っていました。(中一

略)長崎に来て証言の会の皆様方一

の活動に触れるにつれ、〃生徒た一

ちに何を学ばせていくのか〃を〃平

和・人権を守れる人として育んで

いってるのか″と自分に問い、原

点に立ち止まり、これからの活動

の指針を見定める機会となります。

(下略)

●Nさん(男性・東京)

戦争を起こさないように逃げ腰

になるのではなく、戦争を止める

ために前に出る姿勢が必要だ。

●Kさん(男児)

せんそうをやめてへいわにして

じんこうを多くしてほしい。

LqD

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(4)シマ.ナガサキ通信NQ180(5) ヒロ

十一時から四十分間、平和公園

癖長崎県内に核実験に抗議する長

崎県内市民団体は十四団体あり、

毎年各団体回り持ちで交流集会を

持っている。

今年は長崎市担当で、七月二十

七日⑧、七団体が出席して行われた。

いO

上五島Ⅱ参加予定だったが船の

欠航で不参加だった。しかし、行

動記録がFAXで届いた。一九八

六年一月から行っており、一時、

各地で行われたが今は青方のみで

青方中央公園で行っている。小学

生が興味を持って参加したり、近

所の方が話しかけてきたりするこ

ともあった。

事務局(山川)提案Ⅱ④今後、

この交流を続けるか、どのように

するか。この交流会の目的は「核

兵器の実験に対する抗議の輪を広

げ、各団体間の交流を円滑に進め

ていくための世話をする。」となっ

ている。

⑧事務局長を二十年続けている。

遅過ぎたが交替したい。

■交流会について

l必要性とこれから

○核実験が少なくなったから座

り込みはないが高校生の活動の

場を広げたい。九の日の座り込

みも土・日曜なら参加している。

○一人で座り込みをしたことも

何回もある。がんばろう。

炎暑の中の座り込み

で座り込み。今年も、高校生一万

人署名活動のメンバーが、今年の

高校生平和大使も含めて座り込み

に参加した。例年にない炎暑で、

老齢者にはいささか酷であったが

核兵器廃絶への熱意が上回り、一

九八八年から続いた第二十一回目

の交流会が始まった。

午後一時から平和公園内の長崎

原爆被災者協議会の講堂で交流会

が開かれた。

司会は長崎の松崎龍一さん。

今田さん(開会あいさつ)一

九七五年八月十七日、第一回の座

り込みを原爆落下中心碑の前で五

人の教師で始めた。今、核実験は

されていないが、先進国と途上国

間の争いがある。今、三万発近い

核兵器があり、その一発は長崎型

の一五○万発分もあるという。長

崎原爆は六十三年前のことだが、

今、使用される危険度は高い。

今、傭I

○地区ごとの交流会は続ける。

○平戸は交流会があったから復

活した。持ち回り賛成。

○七月末は暑過ぎてこたえる。

※討議の末、交流会は持ち回

りで続け、九月末の日曜日と

する。

●二○○九年は九月二十七日⑧

平戸市となりました。

■事務局について

○申しわけないが山川さんしか

いない。後継者を育てよう。

○私もがんばっている。山川さ

んあっての交流会だ。

山川来年まではする。その先は

考えることを条件とする。

■その他

○座り込みだけでなく、各地で

平和宣言都市の条令化を求める

など、運動の輪を広げる。

○アンケートも核実験だけでな

く検討する。(山川さん、長崎

で検討する、と発言)

声明文採択のあと、山田拓民さ

んが「高齢化で運動を進めるのは

困難だが、この声明に則って運動

を進める責任が課せられた」とあ

いさつして閉会した。

■●

「濱

一父轌小《室11

崎均

山川事務局長(経過・情勢報告)

現在、核実験の報道はないので、

今年は核実験に関するアンケート

はしていない。今年三月二十七日

「時津町核兵器廃絶平和推進の基

本に関する条令」が制定された。

長崎県では初めてである。(この

あと、〃ピースデポ〃の資料を元

に核兵器等の現状について報告)

市民団体の現状は、活動を停止し

た団体四、新規・復活した団体三、

活動中の団体十三である。これか

らの問題点として、〃交流会〃の

必要性、事務局長の交替を提案す

る。

長崎Ⅱ二○○六年十月九日北朝

鮮の核実験成功の報道以来座り込

みはなく、これまで三百八十六回

座り込みをしている。長崎県平和

運動センターの〃九の日〃座り込

みに自主的に参加している。

長崎。長崎県平和運動センター

被爆者連絡協議会Ⅱ細かな活動日

誌を添えての報告で、活動の要点

は次のとおり。①毎月九の日の座

り込み②久間元防衛大臣の「しょ

うがない」発言への抗議③原爆症

認定集団訴訟の支援④他、被爆者

団体との共同で被爆者支援、政

府・県・市への要望など。

島原Ⅱ毎月九の日の座り込みを

している。少ない時は一名、多い

‐核兵器廃絶と

世界平和を

一求める声明

被爆六十三年目の暑い夏をむか

えた。報道によれば、米原子力空

母「ロナルド・レーガン」が、あ

す二十八日佐世保に入港するとい

う。佐世保が空母寄港基地として

いっそう強化され、核艦船慣らし

がはかられる。アメリカに従属し

た日本のミサイル防衛を背景に、

国会は軍事利用禁止の封印をはず

す「宇宙基本法」を成立させた。

日本は宇宙の平和利用原則を放棄

したのである。国内外の核情勢は、

「核も戦争もない二十一世紀を」

という私たちの願いとは裏腹に、

悪化の一途をたどっている。

二○○○年の「核不拡散条約再

検討会議」で合意した「核兵器の

完全廃棄の明確な約束」は、核不

拡散のみを強調して核軍縮を実行

しない核大国のエゴで、今日にい

たっても具体的な進展はみられず、

核軍縮と核不拡散そう方の危機的

状況が、いまなおつづいている。

ブッシュ米政権は、「包括的核

実験禁止条例」に抵触しないとし

て、一九九七年から臨界前核実験

を強行してきた。二十三回目の臨

界前核実験(○六年)以降実施し

ていないが、これは核実験を放棄

● 今

-一

時は二十名。四月九日だけは大雨

で中止した。

大村Ⅱ毎月九日大村駅前で座り

込み、昨年八月から今年七月まで

述べ百八十九名参加。昨年八月九

日は「第六回核兵器廃絶・原爆犠

牲者を追悼する大村市民集会」に

参加した。今年の八月九日は大村

駅前で座り込みと街頭パネル展を

行う予定。

佐世保Ⅱ七月二十八日、原子力

空母「レーガン」が入港するので

抗議の準備をしている。毎月九の

日の座り込みを島瀬児童公園で

行っており、今年七月で二二九回

目。市民の会と地区労、社民党関

係者と共同で行っている。節目に

は決議案を出すなどしている。

平戸Ⅱ毎月九の日の座り込みを

市役所横の幸橋で行っており、今

年七月で八十回。延べ参加人数七

百六十五名。昨年「八・九平和の

集い、平戸二○○七」のつどいで、

高校に「皆さんの未来が危い」と

いうビラ入れをし、第六回ピース

ウォークも行った。高校生平和大

使も平戸から二人目が出た。今年

の八月六日はピースウォーク・コ

ンサートを予定。高校生一万人署

名活動支援も続けている。

長与Ⅱ核実験があった時座り込

みをしているので今年はしていな

したのではない。核兵器を保有し

核兵器で威嚇する政策に固執する

限り、核実験は必要不可欠だから

である。

世界の軍事費支出は、二○○○

年から増加しつづけており、軍事

活動による環境破壊は、とどまる

ところをしらない。二○○七年の

軍事費は百四十兆円である。

私たちは核廃絶と世界平和実現

への道のひとつとして、「核実験

即時中止」を求め多年にわたり県

内各地で抗議行動をつづけてきた。

核実験のたびに中止を要求し、抗

議してきた。苫小牧市の非核条例

は知られているが、長崎市に隣接

する時津町も、県内自治体初の核

実験抗議を含む「非核条例」を二

○○八年三月に制定した。非核宣

言に続く非核条例化運動のさきが

けとなった。

日本政府には「核の傘」からの

速やかな脱却を、県内すべての自

治体には「非核・平和宣言」を堅

持し、宣言の精神を政策に具体化

することを強く求める。私たちは、

居住する各地域において「核廃絶

と世界平和を求める」市民運動を

粘り強くつづけることをここに表

明する。

二○○八年七月二十七日

■■■-

二 . 一 一 一=====一・=一‐・‐閏÷'--~--~.‐・-,--=‐ゴーーーーーー一一一 一

事務局からの提案を巡って

課題を含んだ活発な交流会

Page 5: NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITEnaosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/36795/1/No.180.… · らも高校生平和大使を出した。ブブラジルへ来てくれ、ブラジルか演に行っている。長崎の高校生もる。中学や高校へも被爆体験の講

価長崎。平和公園「浦上刑務支所。

中国人原爆犠牲者追悼碑」建立除幕式報一豆

ナガサキ通信N0.180(7) ヒロシマ

負けたが、加害行為の事実はかた一

ちとして残すべきだということに

なり、四事業所跡地と平和公園

(元・浦上刑務支所)にぜひとも

追悼碑を建立しようということに

なった。○七年四月には当時の安

倍総理にも反省と謝罪および追悼

碑建立の申入れをし、同年九月に

は本島等元長崎市長を代表に追悼

碑建立委員会を設立。本島さんの

多大な尽力もあって、市からは平

和公園内の敷地を提供させ、募金

もなんとか集め、明日の除幕式ま

でこぎつけることができた。

中国人原爆犠牲者追悼碑建立

七月七日、長崎市にある平和公

園の泉の脇に、「浦上刑務支所・

中国人原爆犠牲者追悼碑」が建立

され、その除幕式が開催された。

この碑は、前年三月に出された

中国人強制連行裁判長崎地裁判決

における強制連行・強制労働の事

実認定を受け、市民の手により建

立された。大きさはタテ一・九m、

ヨコ一・二mの黒御影石製。表面

には、本島等・追悼碑建立委員会

以上概要報告のあと、同会の高

寅康稔さんが、いわゆる「三十三

人問題」等につき解説。「三十三

人問題」とは、連行先企業が一九

四六年に外務省に提出した「事業

場報告書」にある名前(三十三名)

と、鎌田さんら入手の警察文書「屍

体検死名簿」(三十二名十不明一

名)との食い違いが生じており、

その「不明一名」を「劉鳳学」さ

んとするべきか確証が得られず、

追悼碑の裏面にある刻銘がまだ三

十二名分だということだ。一九五

八年の遺骨返還のときに確定して

いると思われるが、調査中である。

また、追悼碑の碑文についても、

強制連行の事実を知らせるに不十

分ではあるが、過去の「乙女の像」

赤ペンキ事件や本島市長銃撃事件

等が発生していることもあり、市

、L---言一一

集会で挨拶される遺族の方々 (写真提供・松崎涼子氏)’

州賑い澪鮮肺慨靹鮒牡剛珊倣蜥享一

が彫られ、そして裏面には碑文

(「この地で原子爆弾により非業

の死を遂げた中国の方々を追悼す

るとともに、非戦と核廃絶を誓っ

てこの碑を建立する」)と、犠牲

者それぞれの名前が刻まれている。

碑建立事前集会

I犠牲者追悼の思い

今回の除幕式にあたっては、中

の 長崎県においては、一九四四年

六~七月、県内四炭鉱(三菱鉱業

の高島・端島・崎戸事業所そして

日鉄鉱業鹿町事業所)に、あわせ

て一○四二名の中国人が強制連行

され、悲惨な待遇のもと過酷な労

働に従事させられた。そのうちの

三十三名(崎戸二十七名、鹿町六

名)全員が、抵抗にたちあがった

ことにより、「治安維持法」や「国

防保安法」違反とされ、最終的に

は、爆心地から数百メートルの至

近距離にあった「長崎刑務所・浦

上刑務支所」(現・平和公園)に

収監され被爆死させられた。

11

との関係のなかで、まず

できることⅡ建てること

から実現するということ

になった。この碑は、再

び侵略戦争をしないとい

う誓いの碑でもあり、今

後の日中友好進展のため

の一つの基盤になれば、

としめくくった。

中国側から、まずは、

日鉄鉱業鹿町の趙五十さんの遺族

で、現在は日鉄鉱業聯誼会秘書長

である趙巧茄さんが挨拶された。

五十さんは○六年に亡くなり、「日

本政府と日鉄に『血の債務』を支

払わせ、謝罪させなければダメ

だ」と遺言。九三年以来十五年ぶ

りの来崎で、懐かしい顔に再会で

きて嬉しい。○二年からの本格的

調査により約一二○名の幸存者本

人や遺族を探し出し、○六年には

聯誼会が発足した。そして今回来

崎前に、花岡事件関係者の代表や

各聯誼会代表とともに、日本大使

館に賠償や記念館建設の要求をし、

日本の国会へは要請書提出、さら

に日鉄との交渉を行ってきた、と

報告があった。

中国側参加者の紹介に続いて、

花岡平和友好基金事務局の王紅さ

んからも、被害者を探し出す活動

の紹介と、関係者の団結の必要性

がいわれた。

p

京f

、池〃召0

’国から崎戸と鹿町へ強制連行され

爆死した方々の遺族と、さらに花

岡事件遺族や中国側研究者、メ

ディア関係者も加わり、また国内

各地からも、龍谷大教授の田中宏

さんや大阪大学の杉原達さん、西一

松建設裁判を支援する会事務局の

川原洋子さん等をはじめとして、

関係者・研究者が続々と七月五日

から長崎入りし、碑建立への期待

の大きさが感じられた。

翌六日午後二時より開催された

事前集会では、まず本島等「浦上

刑務支所・中国人原爆犠牲者追悼

碑建立委員会」代表が「追悼碑の

建立は、日本が無条件降伏をした

一九四五年八月十五日直後にすべ

きことであった。それを放置した

ままだったのは日本人の大きな責

任であり、明日の除幕式が、犠牲

となった中国やアジアの人々に謝

罪を言い続ける出発点でなければ

ならない」と述べた。

つぎに約十六年前のNBC長崎

放送製作番組「地底からの告発」

が上映され、続いて中国人犠牲者

の遺族が挨拶。

崎戸の強制連行犠牲者・買貴生

さんの遺族の實同申さんは、「自

恥酔匙癖榊唾雷雪罪鍛悸《》州訴、|

愛民さんは、「父が日本連行され

て原爆で死んだのは、日本軍に強

一制的に連れてこられたせいだ。日

0》0

最後に中国人強制連行を考える

会代表の田中宏さんからの挨拶。

立法・司法・行政のうち、司法

はある結論のところまで行き着い

たようだが、行政については要望

書や署名を提出している。そして

新しい試みとして、立法府にアク

セスすることになり、参議院へ要

請する。また、日中関係七団体が

集まり、中国人強制連行問題の解

決のため力を出し合うこととなっ

た。花岡の人たちが長崎に来たの

は初めてで、横のつながりを含め、

目的達成までがんばろう、という

ことで、この集会は締めとなった。

追悼碑除幕式開催

翌七日十時半より、平和公園で

の追悼碑除幕式開催。梅雨明けの

強烈な日差しのもとで、国内外の

参列者約一○○名が、追悼碑除幕

の歴史的瞬間に立ち会った。

まずは本島代表が挨拶をし、い

父親の名前に、涙が尽きない(写真提供・松崎涼子氏)

薙恢醗鮭、鑪際淫溌、|

歴史的事実が伝えられ、犠牲者の一

魂の拠り所ができた」と、建設に

奔走した日本の支援者に感謝の意

を表された。

また、鹿町犠牲者・呉福有さん

の遺族の呉小国さんは、母・牛秀

連さんについて触れながら「私た

ち中国人犠牲者も、日本の原爆被

害者と同じような補償を受けるべ

きだ」と、父親なき後の遺族の悲

しみと現在の思いを述べられた。

調査と裁判、そして碑をめぐって

この後、「長崎の中国人強制連

行裁判を支援する会」事務局長の

新海智広さんがこれまでの調査や

裁判について報告。

一九九二年の故・鎌田定夫さん

らによる調査があり、九八年から

の「中国人強制連行の真相を調査

する会」の数次に渉る訪中や調査

活動を経て、○三年に三菱三事業

所の幸存者及び遺族十名が原告と

なり、国・長崎県・三菱重工・三

菱マテリアルの四者を相手取り長

崎地裁に提訴。昨年三月の判決で

「強制連行・強制労働は国が政策

決定し、県は施策の実現に関与。

企業も原告の身体・自由を違法に

侵害した」と事実認定がなされた。

賠償請求については時効や除斥の

適用により退けられ結論としては

十一時二分の黙祷に続いて、滕

安軍総領事から「世界平和を発信

する場である長崎の平和公園にこ

の碑を建立することは、後世に戦

争の残酷さや原爆の恐ろしさ・平

和の大切さを伝えるためにも大き

な意義がある」という挨拶をいた

だき、つづいて遺族三名の涙なが

らの言葉を受けた。そして参列者

による献花と、主催者挨拶で閉会。

よいよ除幕。中国側は滕安軍中国

総領事ほか遺族三名と、日本側は

本島等会長をはじめとして関係者

が幕のひもを引いた。遺族の方々

は、追悼碑の裏面に刻まれた父親

の名前を指でたどりながら、とめ

どなく涙を流されていた。その姿

は、父親への思慕と無念さと、残さ

れた家族の地を這うような日々の

苦痛や口惜しさ、そうしたものが

一挙に噴出しているようにみえた。

多くの方々の支援により、なん

とか碑は建立された。だがまだ今

後の課題として、「三十三人問題」

について調査をすすめ真相を明ら

かにすることと、追悼碑説明板の

設置、さらに四事業所への追悼碑

建立が残されており、引き続きこ

の問題の抜本的解決のためにも、

なお一層の努力を続けていきたい

と思う。

(長崎の中国人強制連行裁判を支

援する会会員)

---一

--._--竺一一

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川(8)ヒロシマ.ナガサキ通信NO180(9)

高校生平和大使は、十一年目の

スタート、これからの平和大使の

活動をどうしていくのか、どんな

活動ができるのかを見つける新し

いスタートラインに立った旅でも

あった。

長崎、神奈川、鹿児島、福岡か

ら六名の平和大使、一般応募七名

の高校生、それに随行の大人、現

地の伊藤さんを含め総勢二十四名

の平和大使の旅となった。

心を一つに

スイスに着いたときには全体的

にまだ、ぎこちなく、よそよそし

私のペンケースに黒軸の万年筆

がある。昨年の誕生祝に、ある男

性から戴いたものだ。氏は、原爆

投下後の広島市内に、母親と共に

入市し被爆しているが、当時零歳

の赤子で、惨状の記憶は全くない。

だが、本人の話では幼少期から鼻

血が頻繁に出、三十七歳で不整脈

を発症し、その九年後心臓発作に

倒れ、安静専一の生活を余儀なく

された。母親やホームペルパーの

介護を受けながら年三回の入院と、

在宅療養で過ごしてきたが、二○

○一年四月から、原爆特別養護

ホーム・神田山やすらぎ園で余生

を送っている。

氏とのご縁は、一九九六年五月。

前年、母親を失なった悲しみを小

説にまとめ、文芸誌に発表したこ

とを伝える内容が、『ヒロシマ

ナガサキ通信』(長崎市・長崎の

証言の会機関紙)紙上に、本人の

写真付で紹介されていたが、記憶

の無い者が、何故、被爆者と公言

出来るのかと一時は疑念も抱いた

露①⑳8年

高校

慢冒

一』一

一一

R二二

E員

第十一代

生平和大使の旅

コーリー大使に署名を届ける高校生平和大使たち

(写真提供・柿本氏)’

勺 'ざ』

山田洋子

い雰囲気の一行だったが、初日、

ホテルでの学習会、下平作江さん

の被爆体験を聞いた後からは変

わっていった。

下平さんの話に目をうるみ、し

ばらくは声も出ない様子であった。

この学習会でここスイスに何のた

めにきたのか、『核兵器廃絶と、

平和な世界の実現』のために集め

た署名を国連に届ける目的を確認、

高校生の心は一つになった。それ

からの行動、目の輝きは違ってき

た。八五、三○六人分の署名、こ

れは単に数と言うだけでなく、一

人一人のそれぞれの思いが詰まっ

た書名であることを再認識し、心

を込めてリボンで署名を束ねてい

た。

伊藤さんの指導でスピーチも完

成。心を伝えるために寝るのも惜

しんでの練習。

コーリー大使に勇気をもらう

軍縮部長のコーリー大使は、平

和大使や高校生のスピーチ、下平

さんの話を一つ一つ頷きながら聴

いてくださった。被爆体験には胸

を詰まらせ、しばらくは何をこと

ばにしていいのかわからないと感

情を押さえておられたのが強く印

Iが、本人の鋭い眼差しは嘘を語っ

てはいなかった。原爆投下時、広

島にも長崎にも、乳児は多数居た

に違いないが、生存率は低かった

だろう。その点で氏の存在は貴重

である。

「氏に手紙を」。寝たきりに近

い状態で、返事は期待しなかった。

一週間後、便菱五枚に及ぶ返事に

驚く。病床の氏に残されたいとな

みは、迫り来る死に対峠し、ペン

を執ることだが、使用可能な筆記

具は万年筆のみ。書簡を交わすう

ちに共通の話題も増え、親交が深

まった。

半年度、肺がんの告知。のみな

らず、冑と大腸にも疑いがあると

いう。がんの多発は、被爆者が背

負わされた運命に等しい。氏に、

手術を耐えるだけの体力はなく、

一日何十種類もの服薬(対症療

法)で進行を抑制している。亡き

後を思うと、急に寂蓼感が募り「亡

き後の形見に、今常用している万

年筆をお譲り下さい」と願い出た

、 q一堂

一画

、目

侑子

昨年十一月半ば、氏から二通の

封書が届いた。二通目は、かなり

手ごたえがある。開封すると、本

人専用の原稿用紙に綴られた便り

と祝儀袋。表書きに、〃祝誕生日

篠姪潔〃とあり、一本の万年筆

が出てきた。

「誕生日おめでとうございます。

以前、私の使っていた万年筆が欲

しいと言っておられましたね。現

在執筆中の作品の清書に使用した

のみで、ネームが刻まれてはいま

すが、この便りを最後に、貴女に

差し上げます。私が使っていたも

のとして大切に保管されても、使

用されても構いません。長く付き

合ってやって下さい。(以下、略)」

複数の薬を常用するせいか、年

を追う毎に物忘れが目立ち始め、

在宅療養が限界に近づいた二○○

○年頃には、話の内容が矛盾した

り、見当識障害(日時場所・人物

二人の息子が決めることであり、

他人の私が口出しするのは筋違い

だ。以後、口にはせず、自らの胸

の内に収めた。

行なうか否かの判断は、残された

もりだ」とも語った。形見分けは一

pl

が、断られた。更に「死後は献体

を登録してあり、葬儀はしないっ

象に残った。

コーリー大使は、「皆さんのス

ピーチ、思いはこれからもずっと

国連の人たちに伝えていきたい。

私たちには皆さんの手助けが必要

です。」とおっしゃってくださっ

た。ヨナガサキ、ピースメッセン

ジャー』が毎年国連を訪れること

は恒例になっていて、国連のカレ

ンダーにしっかり刻まれている。

長崎を中心に日本国内外に、この

若者の活動が広がっていることを

重く受けとめ、皆さんの活動が

もっともっと広がっていくことを

期待している」と。この言葉は平

和大使だけでなく同行した高校生

にとっても大変励みになり、自分

たちの活動を認めてもらっただけ

でなく、手助けが必要だと言って

くださったことに勇気づけられ、

継続は力、大きな勇気をもらった。

ベルギーのイーペル市

第一次大戦でドイツの毒ガス攻

撃を受け街は壊滅状態、多くの戦

死者を出したというベルギーの

イーペル市。訪れるまではどんな

所か、どんな交流になるのかもわ

からない訪問だったが、私たちの

訪問を聞きつけ、NPOの人や国

会議員も訪れてくださった。

二○二○キャンペーンの事務所

でのお話や積極的に私たちとの交

流のために時間を割いてくださり、

ここでは一時間余り署名活動を

0q

行った。言葉も通じない市民に高

校生は必死に英語で説明し、署名

を集めていた。この時の生き生き

した動き、目の輝き、いつも長崎

でみている高校生以上に輝いて見

えた。市民もとても協力的でわず

か一時間足らずで、二三○余の署

名を集めた。この若者のエネル

ギー!明るい未来が見える気が

した。

市民の平和への思い

夜八時、『追悼の鐘セレモニー」

に参加。下平さんが千羽鶴を献納。

亡くなった兵士達を追悼するため

毎日行われているそうだが、時間

になると二○○名以上の市民の参

加。この数の多さに驚くと共に、

イーペル市民の平和への思い、亡

くなった人への追悼の強さに敬服

させられた一日だった。

これからの道

平和大使の新しいスタートの旅、一

一万人署名活動のこれからの進む一

道、日本国内、長崎地元の地固め一

をしっかりしていくことの大切さ

を実感した旅でもあった。多くの

市民の協力なしでは成り立たない

この活動、自費で同行する大人に

は少々無理が出始めている旅でも

ある。私自身もこれからの自分に

何ができるのかを考えたいし、微

力ながら高校生のサポートができ

舜轆鰐縣鶏城友好的な

等の認識障害)、認知症に似た症

状を見せるようになった。薬の副

作用か。否、れっきとした病気でア

ルッハイマー症だった。私の存在

も、いずれ氏の記憶から遠ざかる。

出会って間もなく、氏に文才を

見込まれた。「ご健筆を祈念しま

す」。戴く便りの末尾を、必ずこ一

の言葉で結ぶ。何を物語っている

のか。氏は「僕は貴女を原爆文学

の第一人者に育て上げたいんじゃ

よ」、と語った。惨状そのものの

表現は不可能でも、追体験で発信

は可能になる。氏は、己の万年筆

を贈呈することで、後世まで語り一

継ぎ?書いてくれと願ったのだる一

う。今は原爆症と必死に闘う氏も、

いつかは力尽きる日が来よう。そ

の時、私が取り乱して、書く気を

喪失することを氏は何よりも恐れ

たに違いない。「原爆は、当時赤

子だった私に深い爪跡を残した」

と訴え、原爆に抗い、ペンを執る

氏が、一本の万年筆に込めた反原

爆の熱い思い。私は、しっかりと

受けとめた。

(注・本文中の〃氏〃とは本会広島県

地方委員篠姪潔氏のことです。な

お、本稿執筆二年後の現在、かつて

の氏の面影は全くなく、私の存在も

記憶として残っていませんでした。)

-.--一一一一・=-‐_-ロ■■■■■■■■■■- 圭一

=-弓 一 一 =一一一一一一= 一

Page 7: NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITEnaosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/36795/1/No.180.… · らも高校生平和大使を出した。ブブラジルへ来てくれ、ブラジルか演に行っている。長崎の高校生もる。中学や高校へも被爆体験の講

(10)ヒロシマ.ナガサキ通信Nnl80(11)

「原爆が落ちたら手袋や帽子、

雨合羽かなんかを着て、風上に避

難すればいいらしいよ…」

「えI?!?そんなんで放射能

が防げるのI?」「国が防げるっ

て言ってるよ」「じゃあ、広島や

長崎に落ちたときは誰も雨合羽着

てなかったからあんな被害にあっ

たのI??」「信じられな’い」‐

核兵器攻撃の発生を防止する以外

に方策はない。lそれには、

唯一核兵器の廃絶しかない。」と

結論付けています。

では核兵器はなくせるか。この

報告書は核兵器廃絶へ向けての最

近のいくつかの動きを指摘してい

ます。ブリックス委員会がアナン

国連事務総長に出した広島の報告

書と同内容の報告書。アナン事務

総長がこの問題に強く触れた退任

の演説。キッシンジャーら元アメ

リカ政府の核兵器関係の高官四人

が出した「核兵器のない世界を」

の呼びかけ。英ブラウン首相が今

年一月に「核兵器の終焉」を呼び

かけるなど、世界のトップが核廃

絶に向けての呼びかけをはじめて

います。同時に広島、長崎市長が

呼びかけた「平和市長会議」は百

二十七国地域の二千百七十都市が

参加していますし、又自治体が非

核平和宣言を出しさらに非核自治

体協議会への参加する動き等があ

ること等を指摘しています。更に

五月四日から幕張メッセと全国四

都市で開かれた九条世界会議(こ

こでは核問題と九条もメインテー

マのひとつでした)の大成功など

もあります。勿論これには後ろに

政府・自治体の考える核兵器

攻撃から市民を守る方法

「…核兵器攻撃を受けたら手袋

や帽子、雨合羽などを着て、汚染

されていないタオルで口や鼻を覆

う。風上に避難誘導し…」これは

国民保護法に基づいて○五年に閣

議決定された「国民の保護に関す

る基本的指針」の中で、核兵器攻

撃から市民を守るために政府が出

した指針の一部です。国はこの基

本指針を示した上で各自治体に

風上に麓寵せよ、、…。鯉??

’「国民の保護に関する基本的指針」を検証するI

原爆がおときれたら長

い間の「ノーモアヒロシマ、

ノーモアナガサキ、ノーモ

アウォー」の市民運動があった

ことを忘れることは出来ません。

私たちが自治体の「市民保護

計画」を利用したら?

被爆から六十三年たった今、こ

のような積極的な動きが起きてき

たことは大変力づけられるものだ

と思い、長い間の本当にたくさん

のさまざまな努力があったゆえだ

と思うのですが、翻ってそれでも

政府と行政が考える核兵器攻撃と

それへの対処法が、あまりにも現

実味のない無責任極まりないもの

なのはどうしてなのか。これは

いったい何を意味するのか、私は、

考えずには居られません。

たとえば長年の反核運動は無

駄だったのでしょうか。

いえいえ、私はそうは考えませ

ん。ただ、施政者に対する具体的

に必要な働きかけがあまり効果的

ではなかったことと、特に市民の

心を揺さぶり巻き込むアプローチ

の仕方にアイディアがなさ過ぎた

ということは出来るのではないで

しょうか。

では、今すぐに出来る具体的で

広島、長崎では

その中で長崎は、国の基本指針

に対して①核攻撃に対する具体的

な被害想定とその対応策が不明確。

②これでは核兵器の攻撃とはこの

程度で防げるものだという大きな

誤解を定着させてしまう恐れがあ

る。という二つの問題点について

明らかにするよう求めましたが返

事はありませんでした。そのため、

木村宥子

「市民保護計画」を作るよう求め

ました。

これに対して各自治体はそれぞ

れの保護計画を作定しました。私

もいくつかの「核兵器攻撃」の部

分を読んでみました。読んでみて

広島、長崎以外のどの自治体も「核

兵器攻撃」からどう市民を守るか

については、政府の出した指針以

上の考えは示せていないというこ

とを知りました。

効果的な方法として考えられるこ

とは…。まず、・自分が住んでい

る市や県が作った「市民保護計

画」の中の「核兵器攻撃に対する

対処」を確認してみてはどうで

しょうか。これは自治体に問い合

わせればすぐ分かります。そのう

えで、これで具体的に住民が守れ

るかを聞いてみるなどはどうで

しょうか。選挙があれば候補者に

聞いてみるというのもいいと思い

ます。沢山の人がこれをやったら、

自治体も候補者も嫌でも考え始め

ねばならなくなるでしょう。

.そして周りの人々にこのびっく

りするような保護計画の内容の

話をする。

.そして日本中の被爆者の会や反

核運動の会にも、一緒にやりま

しょうと呼びかけましょう。

長崎市は核兵器攻撃に対する記述

を削除した「市民保護計画」を県

に提出、しかし県は国県との整合

性が取れないとの理由で受理して

いません。

広島は①果たしてわが国は核兵

器攻撃に対処しうるか。②もし、

し得るとすればどのような方策を

とるべきか。という二つの問題設

定をし、「核兵器攻撃被害想定専

門部会(各方面の専門家八名によ

る)」を設置検討しました。そし

て被害体験や科学的見地に基づく

被害想定を独自に行い、被害の甚

大さを改めて明らかにし、一五○

ページに及ぶ報告書を提出しまし

た。この報告書は、改めて人知で

は測ることの出来ない核兵器の凄

まじさを知らせてくれています。

この報告書には概要(八ページ)

があり、ホームページで見ること

が出来ますので是非開いてみてく

ださい。g慢倶信眉憧恒嘱巨消防.

防災↓国民保護への取り組み↓広島市

の国民保護への取り組み↓核兵器攻撃

被害想定専門部会報告書の概要)

ここでは六十三年前の実際の被

害とその後の研究を踏まえて、四

つのケースについて被害想定を出

しています。ただし報告書は「控

結論として

多くの都市では非核宣言を出し

ています。これら宣言はすべて「核

兵器の悲惨さと核兵器の廃絶」を

訴えています。

各自治体が高らかに宣言してい

る非核宣言と、実際に核兵器攻撃

から市民をどう守るかという保護

計画には大きな矛盾があります。

えめに見積もったとしても、この

ぐらいの被害は出るだろうという

ものである。条件によりその被害

は小さくなる場合もあるが、さら

に数倍以上の被害になるかもしれ

ないことは覚悟せざるを得など

と断っています。

核兵器攻撃から市民を守るには

報告書では「核兵器攻撃から市

民を守ることはどんな手段をとっ

ても不可能。l↓市民を守るには

これは広島型(一六Kt)での

話ですが、今現在地球上には二五、

七一○発を超える核弾頭がありま

すが、一六Ktのような小さなも

のは存在せず、それどころか一、

○○○Kt以上のものが約二五○

発あると推定されています。

この矛盾を見過ごすとすれば、非

核の運動をする私たちは、自分自

身の中に自己矛盾を来たすのでは

ないでしょうか。

〔例〕もし、広島型の原爆(十六キロトン)

が今広島に落ときれたとしたらその瞬間の

被害だけでも》死者六万六千人、負傷者二

十万五千人と見積もられる。勿麓この後、

世代を超えて後障害の被害もある。六十三

年前に比べて人口が増えているのに死者の

数が期えないのは、コンクリートの建物が

林立し放射線の遮蔽に大きな効果があると

思われるからだが、反対に当時はほとんど

なかった車、ガソリンスタンドなどが爆発

するなど、想像を越える甚大な被害が発生

すると思われる。

木村さんは、日・英・仏・中・

韓・スペイン語で九条を書いた

ファイルを作成し、販売している。

背景は被爆したヒロシマエバャマ

ザクラの花で、背面にあり、表は

透明で、手づくりのネームカード

が入っている。また、非戦・非核

のカレンダーも制作し、販売して

いう勺。

(濱崎)

「ファイル九条」

購入のすすめ

ファイル9条

4枚セット(メッセージ、手作りネームカード入り)

実費500円(送料別)

500枚セット実費55,卯0円(送料別)(セット作りはそちらでお願いしています。メッセージ、手作りネームカード各5“枚、クリスタルバツク125枚付き)

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E-mail:[email protected]

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(15) ヒロシマ.ナガサキ通信NQ180 (14)

な提言をした。参加者約四二○人。

中国新聞社と広島市立大学広島平

和研究所の共催。

中南米で初めての「ヒロシマ・

ナガサキ原爆展」(広島・長崎両

市と在ブラジル原爆被害者協会主

催)がサンパウロ市の州立移民博

物館で始まった(九月七日まで)。

8.4今の平和記念公園の位

置にあった旧中島地区四町の戦前

のにぎわいや被爆状況を伝える説

明板の設置が始まった。

8.5フランス植民地時代の

核実験被害を調査する政府機関の

核実験影響調査班のメンバーで、

アルジェリア核科学技術学会のア

ンマール・マンスーリ会長が初め

て広島市を訪れ、原水爆禁止世界

大会(原水禁系)の関連集会に参

加し、その実態を報告した。

8.6平和記念公園で原爆死

没者慰霊式・平和記念式典があり、

約四万五千人が参列した。この他

県内各地で慰霊式や平和を訴える

様々な取り組みが行われた。

8.9長崎の原爆犠牲者を慰

霊する会が原爆資料館東館ロビー

で開かれ、被爆者ら約百人が参加

した。広島平和文化センターと市

の主催。

8.幅終戦記念日のこの日、

広島市内では集いや原爆詩の朗読

など平和を願う行動が相次いだ。

広島への原爆投下で、五千人近

6.幻歌や劇で平和を学ぶ

「子ども平和のつどい」二十四回

目を開催。

6.羽原爆症認定申請却下処

分取り消し集団訴訟で長崎地裁、

肝機能障害も救済の認定判決。

6.型長崎地裁判決での認定

七人棄却で全員認定へ向け街頭活

動及び抗議の座り込み行動。

6.幻諫早干拓事業での堤防

撤去や排水門開放要求訴訟で佐賀

地裁、漁業被害を認定し南北排水

門の五年間常時開放の判決。

6.”核兵器の廃絶へ向け、

NGOの道を問う国際平和シンポ

「核兵器廃絶への道・NGOとミ

ドルパワーの可能性」開催。県内

の反核平和八団体、核廃絶へ向け

座り込みと運動促進の交流会開催。

6.羽原爆症認定集団訴訟で

の国の控訴に怒り、長崎から広島

へ国民平和大行進出発集会。

6.羽佐世保への米原子力空

母寄港で長崎県民へのアンケート

で佐世保市民は歓迎、市外不明と

関心の差浮き彫り。

6.釦旧ソ連チェルノブイリ

原発事故で被爆した医学生、長大

などNASHIMの招きで研修。

市内在住の被爆者の平均年齢七

四・六歳と市発表。

7.2被爆詩人・福田須磨子

さんの草稿、遺品など七十点「長

1崎ゆかりの文学展福田須磨子~被

爆の証言者」展、県立図書館開催。

7.4諌干開門判決に有明海

沿岸の漁協、農水相に開門調査及

び控訴断念を要請。

7.7強制連行により長崎原

爆で被爆死した中国人犠牲者追悼

碑、平和公園(旧刑務所内)に建

立され除幕式開催。

7.9反核九の日、通算三二

五回目の、米原子力空母配備反対、

原爆症認定訴訟支援で座り込み。

7・帽長崎、広島でつくる八

者協、厚労省に原爆症認定基準の

弾力的な運用及び迅速化など要望。

7・帽原爆被災状況を米海兵

隊従軍カメラマンとして来日記録

した故ジョー・オダネルさんの遺

族、作品妬点を長崎市に寄贈し、

写真展を原爆資料館で開催。

7.打長大、被爆錦年記念事

業として被爆体験講演のインター

ネット公開を開始。

7.旧長崎市立横尾中、反核

のメッセージを込めて「平和の実

る樹」と題する巨大壁画を完成。

7・劃原爆投下訓練用の模擬

爆弾第一標的の福島市で市民手作

りの「人類の破片」を上演。

7.鱈核も戦争もない世界平

和実現を願って県内継続の「反核

平和の火リレー」スタート。

7.型核兵器廃絶を訴える

い出身者が被爆したといわれる韓

国映川郡での平和公園建設計画を

支援しようと、被爆者や市民有志

が「ハプチョン世界平和公園建設

に協力する会」(仮称)発足のた

めの準備委員会を設立した。

8・旭日本政府が米印原子力

協力協定を容認する方針を固めた

ことに対し、広島市で抗議行動が

相次いだ。広島県平和運動セン

ターと県原水禁のメンバーたち約

五○人は、平和記念公園の原爆慰

霊碑前に座り込み、同協定に明確

な反対を求める要請害を国などに

送った。広島県被団協(金子一士

理事長)と広島県原水協は、首相

官邸に要請文をFAXで送った。

8.劃米印原子力協力協定の

発効をめぐり、二つの県被団協な

ど県内の七団体は市役所で記者会一

見し、オーストリアで開催中の原

眠紬稚剛銅抑誹卿流加州銅蝿峠謙一

明を発表した。

8・訓「平和と軍縮シンポジ

ウム」が中区のホテルであった。

国際軍縮促進議員連盟と同シンポ|

実行委が主催し、約二五○人が参

加した。

米印原子力協力協定の発効に反

対し、二つの県被団協など七団体

は市内で街頭活動などを繰り広げ

た。(中国新聞より抜粋)

(まとめ一瀬智子)

、 ■1J

「高校生一万人署名活動」の高校

生ら、被爆者証言記録のDVD「今、

伝えたい、あの日からのメッセー

ジ」の完成を報告。

8.1核兵器廃絶と戦争のな

い平和な世界を願い「平和のため

の戦争展」や「憲法パネル講座」

など長崎、福岡九州各地で開催。

シーファー駐日米大使、日本の次

世代リーダー養成塾での講演で

「戦争終結のため原爆は必要だっ

た」旨を強調。

8.2ブラジル移民百年の今

年、南米初の「ヒロシマ・ナガサ

キ原爆展」サンパウロ市で開催。

8.4三月佐世保寄港の米原

潜、数か月に亘り放射能漏れの可

能性がある旨を日本政府に通報、

各自治体に連絡遅れ。市民が怒り

と抗議の声。

8.5市内山王神社に残る被

爆クスノキ、被爆二ヶ月後の未公

開写真を神社境内の資料展で展示。

県原水協、昨年8月の集会を契機

に被爆体験者証言集「継承から発

信へI希望ある未来」を発刊。

8.7ナガサキ原爆の日に向

け、放影研施設公開、平和公園で

の「ながさき原爆の写真展」開催。

原水協、原水禁世界大会など開始。

8.9六十三回目、長崎原爆

犠牲者慰霊平和祈念式典。「核兵

器廃絶なくして人類の未来はな

5.1在韓被爆者への健康管

理手当打ち切り訴訟の敗訴を受け、

チェゲや卸挫

訴訟原告崔季撤さん遺族に田上長

崎市長、訪韓し直接謝罪。

5.3憲法記念日、被災協な

ど釦団体でつくる実行委、六回目

の〃長崎九条フェスタ“開催。

5.5NGOピースボートな

ど主催の9条世界会議、千葉で開

催、約一万二千人参加。

5.9反核九の日座り込み、

憲法九条の堅持を確認し、通算三

二三回目を実施。

5・旭アフガン、イラクで懸

命に生きる人々の姿をテーマに市

出身の山頭さん、「アフガン・イ

ラク・ダイアリーズ」写真展開催。

5・旧県委託の被災協巡回被

爆者相談会、相当急増の相談に拘

わらず、県相談会との重複を理由

に今年度からの中止に再考を要求。

5.M被爆体験者医療給付制

度見直しで給付対象者大幅外しに

知事、市長ら厚労省副大臣に改善

を要望。

5.打原爆症認定集団訴訟を

支援する会、全員勝訴を目指して

総会を開催。

5.浬在外被爆者に対する援

ナガサキ通信

(鮨。5月~肥。8月)

、 ●

い」と世界へ呼びかけ。朝鮮人・

中国人犠牲者追悼集会、平和団体

主催の市民の集いl人間の鎖など

各所で追悼慰霊集会。被爆者団体、

福田首相との面会での国応対に失

望の一戸◎

8.W米原潜佐世保出港で市

民ら異例の追い出し集会。沖縄う

るま市議会、原子力艦船寄港阻止

の意見書、全会一致で可決。

8.旧高校生一万人署名活動、

海外からの寄託を含め八一、八八

八署名の集約報告。東条元首相、

ポツダム宣言受諾批判の終戦直前

の手記判明。

8.幅長崎の証言の会、被災

協など主催による「不戦の集い」、

核廃絶、非戦の宣言発信。

8.肥長崎市、w年8月に平

和市長会議総会の市単独の開催を

表明。8

.渦米印原子力協定に対し

長崎の証言の会、被爆者五団体、

日本政府に対し反対対応を要求す

る声明を要請、NPT体制の形骸

化と核拡散への危険性を指摘。高

校生平和大使、第n回目の国連欧

州本部へ署名、被爆者証言DVD

など届出に出発。

8.幻核テーマに恒久平和実

現へ結束の国連軍縮会議、さいた

ま市で開催。

(まとめ森口正彦)

護法適用外し「四○二通達」の違一

法性を訴え、米国・ブラジルなど

在外被爆者ら集団訴訟提訴を決定。

5・記高校生一万人署名活動

実行委メンバー、米軍基地の課題

を抱え長崎市との対応温度差の中、

佐世保で該当署名活動。

5.羽原爆症認定集団訴訟の

控訴審で大阪高裁、全員認定勝訴

の判決。

5・訓8月予定の米海軍横須

賀基地への原子力空母の配備に対

し、横須賀との連帯を訴え、配備

に反対する集会を開催。

6.3原爆症認定集団訴訟で

仙台、大阪高裁の原告勝訴を受け

被団協と原告弁護団、全面解決を

求め厚労省前で座り込み。

6.8爆心地一・五キロ内の

近距離被爆者、被爆帥年後での白

血病発病のリスクを長大・朝長教

授など原爆後障害研究会で発表。

6.9反核九の日、通産三二

四回目、原子力空母配備などに抗

議の座り込み。労組など実施。

6.幅太平洋戦争末期の佐世

保大空襲を語り継ぐ市民の集い。

6.灼県原水禁、被爆者聞き

取り調査など在朝被爆者調査へ訪

朝団派遣を発表。厚労省、長崎・

広島両市開設の国立平和祈念館で

被爆者データなど情報共有促進化

などを企図。

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