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東京外国語大学論集第 79 号(2009107 ツェンディーン・ダムディンスレンと「知識人の迷妄」 をめぐって 岡田 和行 はじめに 1.スターリン批判からチョイバルサン個人崇拝批判へ 2.ダムディンスレンと「知識人の迷妄」をめぐって おわりに はじめに 昨年 2008 年は、モンゴルの著名な文学者ツェンディーン・ダムディンスレン Цэндийн Дамдинсүрэн19081986)の生誕百周年に当たり、11 6 日にウランバートルで教育文化科 学省・科学アカデミー・モンゴル国立大学共催の国際シンポジウム「ツェンディーン・ダムデ ィンスレンとモンゴル言語文学研究」が開催され、いくつかの記念出版物も刊行された 1) 私はかつて、ダムディンスレンが亡くなった後、当時入手可能な資料に基づき、本論集に彼 の生涯と業績を紹介する小論を発表したことがある。そのなかで私は、「1938 年にレニングラ ードから帰国後投獄されたことがあるとするルーペンやボーデンの指摘は、その根拠が明らか にされておらず、また筆者の手元にある資料でも調べようがない。ただし、193940 年の業績 が空白になっていることを見ると、投獄の事実を完全に否定することもできない」 2) と書いた が、 1990 年の民主化以降公開された文書によって、ダムディンスレンが 1938 11 4 日から 1940 1 27 日まで 15 ヵ月間、「反革命陰謀」の容疑で投獄されていた事実が明らかにされ ている 3) 本稿で取り上げる 1956 年のスターリン批判――モンゴルではスターリンと同時代の独裁者 ホルローギーン・チョイバルサン Хорлоогийн Чойбалсан 18951952)の名を取って「チョイ バルサン個人崇拝批判」とも呼ばれている――以降の期間においても、ダムディンスレンには 当局から何度か批判の矛先が向けられている。その一つが、いわゆる「知識人の迷妄(Сэхээтний төөрөгдөл)」と呼ばれる、19561957 年にモンゴルの知識人が提起した一種の異議申し立てに 対して、当局が行った「民族主義」「反ソ主義」「修正主義」批判である。本稿では、この期間 におけるダムディンスレンの言動と当局の批判に焦点を当てながら、その軌跡を追ってみたい。

ツェンディーン・ダムディンスレンと「知識人の迷 …repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/56419/1/acs079006.pdfホルローギーン・チョイバルサンХорлоогийн

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東京外国語大学論集第 79 号(2009) 107

ツェンディーン・ダムディンスレンと「知識人の迷妄」

をめぐって

岡田 和行

はじめに

1.スターリン批判からチョイバルサン個人崇拝批判へ

2.ダムディンスレンと「知識人の迷妄」をめぐって

おわりに

はじめに

昨年 2008 年は、モンゴルの著名な文学者ツェンディーン・ダムディンスレン Цэндийн

Дамдинсүрэн(1908~1986)の生誕百周年に当たり、11 月 6 日にウランバートルで教育文化科

学省・科学アカデミー・モンゴル国立大学共催の国際シンポジウム「ツェンディーン・ダムデ

ィンスレンとモンゴル言語文学研究」が開催され、いくつかの記念出版物も刊行された 1)。

私はかつて、ダムディンスレンが亡くなった後、当時入手可能な資料に基づき、本論集に彼

の生涯と業績を紹介する小論を発表したことがある。そのなかで私は、「1938 年にレニングラ

ードから帰国後投獄されたことがあるとするルーペンやボーデンの指摘は、その根拠が明らか

にされておらず、また筆者の手元にある資料でも調べようがない。ただし、1939、40 年の業績

が空白になっていることを見ると、投獄の事実を完全に否定することもできない」2)と書いた

が、1990 年の民主化以降公開された文書によって、ダムディンスレンが 1938 年 11 月 4 日から

1940 年 1 月 27 日まで 15 ヵ月間、「反革命陰謀」の容疑で投獄されていた事実が明らかにされ

ている 3)。

本稿で取り上げる 1956 年のスターリン批判――モンゴルではスターリンと同時代の独裁者

ホルローギーン・チョイバルサン Хорлоогийн Чойбалсан(1895~1952)の名を取って「チョイ

バルサン個人崇拝批判」とも呼ばれている――以降の期間においても、ダムディンスレンには

当局から何度か批判の矛先が向けられている。その一つが、いわゆる「知識人の迷妄(Сэхээтний

төөрөгдөл)」と呼ばれる、1956~1957 年にモンゴルの知識人が提起した一種の異議申し立てに

対して、当局が行った「民族主義」「反ソ主義」「修正主義」批判である。本稿では、この期間

におけるダムディンスレンの言動と当局の批判に焦点を当てながら、その軌跡を追ってみたい。

takashi
テキストボックス
Can-Do 評価-学習タスクに基づく モジュール型シラバス構築の試み
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108 ツェンディーン・ダムディンスレンと「知識人の迷妄」をめぐって:岡田 和行

1. スターリン批判からチョイバルサン個人崇拝批判へ

1940 年 1 月、「反革命陰謀」の容疑が晴れて釈放されたダムディンスレンは、元の職場の科

学委員会(現在の科学アカデミー)に復帰し、『モンゴル秘史(元朝秘史)』の現代語訳や新文

字正書法規則の作成に着手する 4)。その後、第二次大戦中の 1942 年 5 月から 1945 年 11 月まで、

モンゴル人民革命党機関紙『ウネン』の編集長をつとめ、この間、同紙に「チョイバルサン元

帥生誕 50 周年記念に捧げる祝詞」5)を発表し、1945 年度の第 1 回チョイバルサン賞(現在の国

家賞)を受賞している。この期のダムディンスレンの評価について、かつて私は「チョイバル

サン礼賛の詩の作者を評して、コラーズは『おかかえ詩人中最もお役人風な詩人ダムヂンズー

リン〔ダムディンスレン〕』とこきおろしたが、30 年代末の粛清時代を生きのびてきた教授の

したたかさをこそ読み取るべきであろう」6)と書いたが、この見方は現在でも変わっていない。

ダムディンスレンはその後、科学委員会に再復帰し、1946 年から 1950 年までレニングラード

のソ連科学アカデミー東洋学研究所に二度目の留学を果たし、「『ゲセル物語』の歴史的根源」

によって文学博士候補の学位を取得する 7)。帰国後は、1950 年から 1953 年まで科学委員会総

裁、1953 年から 1955 年までモンゴル作家同盟議長、1955 年から 1959 年までモンゴル国立大学

でモンゴル古典文学の講師をつとめ(1957 年に教授就任)、いよいよスターリン批判の時代を

迎えることになる 8)。

周知のように、1956 年 2 月のソ連共産党第 20 回大会で、フルシチョフがスターリン個人崇

拝の害毒を告発し批判する秘密報告を行ったが、この秘密報告は後にアメリカの国務省に流出

し公表されたため、ソ連共産党も「スターリン個人崇拝とその結果について」という中央委員

会決定(6 月 30 日付)の発表を余儀なくされた 9)。いずれにせよ、同大会に出席したモンゴル

人民革命党中央委員会第一書記ダシーン・ダンバ Дашийн Дамба(1908~1989)を団長とする

モンゴル党代表団は、帰国後の同年 4 月、党中央委員会第 4 回総会を急遽開催することになる。

同総会でダンバ第一書記の「ソ連共産党第 20 回大会の結果とわが党の課題について」という報

告が討議され、次のような決議が発表された 10)。

「総会は、個人崇拝の弊害によって、革命法に対する違反や若干の国家機関の党監査から

の逸脱が惹起されたことを指摘し、この問題を精査するよう政治局に委任する。」

「総会は、党が大衆の積極性を高めるためには、批判と自己批判がきわめて有意義なので、

党の諸組織が批判と自己批判を促進する方途を可能なかぎり保障し、批判を何らかの手段

で圧迫する行為と非妥協的に闘い、党の諸会議での批判を通じて方策を講じなければなら

ない。」

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東京外国語大学論集第 79 号(2009) 109

党中央委員会第 4 回総会は、いわゆる「チョイバルサン個人崇拝」の害毒を完全に摘発し除

去することはできなかったが、社会生活に民主主義を復活させる重要な一歩となり、大衆の積

極的な活動や創造的なイニシアチブを促進するのに強力な刺激を与えた。この党総会の決議に

鼓舞された党員大衆や知識人は、党や大衆組織の様々なレベルの会議において批判と自己批判

を展開した。こうしてモンゴルの「雪どけ」(モンゴルでは「知識人の迷妄」と呼ばれている――

後述)が始まったのである。

2. ダムディンスレンと「知識人の迷妄」をめぐって

このような動きに影響を与えた外在的要因として、『モンゴル国史』第 5 巻は、ソ連共産党第

20 回大会の思想の他に次の 3 点を指摘している 11)。

1. ソビエトの創造的な知識人が 20 回党大会の思想を歓迎し、ソビエト社会の欠陥を批判

する著作を発表し、自分たちの考えを自由に表明しているのを、モンゴルの知識人が注

目し、それを一つのモデルとしたこと。

2. 1956 年にハンガリーで起こった事件を注意深く観察し、その政治闘争の紛糾と混乱の概

要を知ったモンゴルの進歩的な一部の知識人のなかに、「内的人間」と対話して自分な

りの結論を導き出した人たちがいたこと。

3. 〔1956 年に〕中国で繰り広げられた「百家争鳴」「百花斉放」という政治キャンペーン

にモンゴルの知識人が関心を寄せ、それが自分の考えを自由に表明する特殊な形式であ

ると認識していたこと。

その具体的な形式として、1956 年 11 月 10 日から 15 日にかけて、知識人が集中している機

関――党中央委員会附属党史研究所、党大学、モンゴル国立大学、師範大学、国家計画委員会、

モンゴル革命青年同盟中央委員会、科学委員会、『ウネン』新聞社など――に、党中央委員会政

治局員、党中央委員会書記、閣僚会議副議長(副首相)、その他の幹部からなる代表団を派遣し、

当該機関の職員と会見して自由な批判と意見表明を聴取する活動が組織された。ダムディンス

レンは当時、モンゴル国立大学に所属していたが、1956 年 11 月 13 日、党中央委員会政治局員

バザリーン・シレンデブ Базарын Ширэндэв(1912~2001)、党中央委員会政治局員兼農牧業大

臣デレグジョナイン・バルジンニャム Дэлэгжунайн Балжинням(1913~?)、党中央委員会書

記ドルジーン・サムダン Доржийн Самдан(1917~1996)の 3 人がモンゴル国立大学に乗り込

み、教職員と会見し事情聴取を行った記録が残されている。少し長くなるが、この時のダムデ

ィンスレンの発言を以下に引用してみよう 12)。

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110 ツェンディーン・ダムディンスレンと「知識人の迷妄」をめぐって:岡田 和行

「このような会見は喜んで受け入れます。そもそもこのように大衆に近づくのは良いこと

です。わが国には多くの成果があります。これについては常々言われていますし、出版も

されています。したがって、ここでは欠陥について話すのが道理かと思います。私たちは

民衆の置かれている状況に注意を払っていません。社会主義から共産主義へ入ろうとして

いるかのように話しています。これについては指導者、知識人、報道出版のいずれもが賞

賛しています。このことがまるで酒のように人びとを酔わせています。これは大衆からか

け離れた出来事です。事実は賞賛とは異なっています。私の兄にはゲルのフェルトの覆い

がありません。すべての民衆がそんな感じです。われわれ知識人がこんなことになったら

暴動が起きます。国家に供出するものが多すぎます。畜産物をことごとく搾り取っていま

す。畜産品の損出は以前と変わりません。国の取り分が多すぎます。それはまるでハサミ

で切り取るような感じです。そのため家畜から得られるものがほとんどなくなってしまい

ました。これについて話したり書いたりすると弾圧されます。そもそも自由な批判があり

ません。上から下への批判は百パーセント許されているのに、下から上への批判は百パー

セント閉ざされています。大臣以下の人びとは批判を百パーセント免れています。わが国

では社会主義建設が遅れています。こんな貧しい状態で社会主義建設などありえません。

お偉方や私たちは新しい時代の貴族です。私たちはこのような欠陥を知っていますが、直

接的な手段を講じることができません(圧迫があるからだと言われているようです)。内

モンゴルでは民衆を階級で区別しません。しかしわが国では荒馬のように階級闘争を先鋭

化しようとしています。これについてはデレグ 13)の記事(Г.Дэлэг, “Зарц ядуусын эрх

ашгийг хамгаалъя”, Үнэн, 1954, №.44.――原註)が証明しています。ドルノド県の牧民ドル

ゴルが弾圧されました。そして彼女は家畜を没収され処罰されました。

バルジンニャムは大衆から遊離しています。ソビエトの経験を丸写ししようと望んでい

るだけです。たとえば、ガラス窓の付いた家畜小屋をたくさん建てましたが、その横には

穴だらけのゲルに住んでいる牧民がいます。こんな大臣がいるでしょうか。牛が人間のた

めにいるのか、人間が牛のためにいるのか、いったいどちらなのかと問いたいくらいです。

わが国の歴史にとってふさわしくない事柄があります。民族主義との闘争がまちがった

形式で行われたため、愛国主義をも粉砕してしまいました。トゥムルバータル 14)

(Ж.Төмөрбаатар, “Манай эх оронч үзэл бол манай нийгмийн хөдөлгөгч хүчний нэг мөн”,

Үнэн, 1955, №.235.――原註)やジャグワラル 15)らの記事はみな、マルクスやレーニンの教

えに反した、歴史上の闘争を摘発しその発展を否定したものです。彼らは階級闘争以外の

ことを知りません。ジャグワラルは自分の専門の経済のことさえ知りません。ソビエトの

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東京外国語大学論集第 79 号(2009) 111

出版物の頭としっぽをつなげてまとめただけです。知識というのは新しい階級から闘争と

ともに生み出されるものです。〔ガイタブ 16)の『チョイバルサン』という長編詩には、家

畜を盗み、書物を燃やすなどの階級闘争が描かれています。ミシグ 17)もまた誤ったことを

書いていました。モンゴル語には語彙がないなどと。〕

十月革命の直接的な影響によってわが党・政府が生まれたと言われています。これはま

ったくの誤りです。だから歴史を正しく記述しなければなりません。何々名称の機関が多

くなり〔すぎ〕ました。学校、アイマク(県)、ソム(郡)、〔工場、〕山〔などみなチョイ

バルサン名称になったのを改め〕、これを減らさなければなりません。スフバートル名称

の機関も二つあります。」

科学アカデミー会員(生物学)で元モンゴル国立大学学長のオソリーン・シャグダルスレン

Осорын Шагдарсүрэн(1929~)も当時この会合に出席していたが、この時のダムディンスレン

の発言を次のように伝えている 18)。

「いちばん最初に発言したダムディンスレン先生は、『国民生活は貧しく苦しい状態にあ

ります。われわれ牧民のゲルでは、月の照らす夜には灯りがいらず、風の吹く日には箒が

いらず、死んだ家畜のなめし革を敷いています。私の兄はコンビナートから白いフェルト

を何枚か手に入れてくれと私にいつも頼みます。多くの牧民のなかで私の兄の家だけが立

派なのは不誠実なことなので、私はフェルトの入手を躊躇せざるをえません。モンゴル人

の暮らしがこんなに貧しく困難な状況なのに、良くなったと空疎な賞賛を贈るだけで、何

も仕事をしないのです』と語りました。」

シャグダルスレンのこの回想は、個人的なメモかもしくは記憶を頼りにして記述したものと

思われるので、上述の文書館資料からの引用と細部は異なるが、国民生活が困難な状況にある

のに、指導部は効果的な対策を講じていないという発言の大意は共通していることがわかる。

また、『モンゴル国史』第 5 巻の引用も同様である 19)。

「……田舎ではゲルを覆うフェルトがありません。夏は乳製品がなく、冬はゲルの覆いが

ありません。私たちがこんなゲルで暮らしたらどうなるでしょうか。牧民の収入は少なく、

協同組合(хоршоо)への供出の方が多いのが実情です(Ts.ダムディンスレン、モンゴル国

立大学)。」

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112 ツェンディーン・ダムディンスレンと「知識人の迷妄」をめぐって:岡田 和行

いずれにせよ、ダムディンスレンの率直な語り口には驚かされるばかりだ。特に、会見に同

席している農牧業大臣バルジンニャムの面前でその施策を痛烈に批判したり、科学委員会総裁

ジャグワラルの経済学者としての資質に疑義を呈したりしているのは、大胆不敵といっても過

言ではなかろう。このように、ソビエトの経験や学説をモンゴルへ無批判に導入しようとする

風潮を、ダムディンスレンはその後も一貫して批判している 20)。

上述の諸機関で行われた会見と事情聴取では、多くの知識人が、発展の遅れた国家の現状や

貧しい国民生活の実態を告発し、積極的に対策を講じようとしない党・政府の指導者を批判す

るとともに、国家の発展や国民生活の向上などの重要問題をめぐって様々な意見を提起した。

これらの批判や意見は詳細に記録され、党中央委員会に持ち帰って検討されたが、事態を好転

させるような結果はもたらされなかった。むしろその逆に、マルクス・レーニン主義に対する

理解が浅薄なために、モンゴルの知識人には国家の発展を過小評価する傾向があり、社会主義

諸国の友好と経済協力の意義に対する認識も希薄だという否定的な結論にいたっている。党中

央委員会は、知識人の愛国的な批判と意見を受け入れようとはせずに、むしろ既得権益を保持

する姿勢を見せるようになった。1956 年 12 月 5 日開催の党中央委員会政治局員会議で採択さ

れた第 413 号決議「わが党の政策に反対する思想、言論、記事の発表について」21)は、知識人

による「民族主義」と「反ソ主義」の表明に厳しい批判を浴びせている。

「民族主義は、わが党と人民にとって最も危険な思想であったし、現在でもそうである。

特に、平和と民主主義と社会主義陣営に敵対する帝国主義反動勢力によって、イデオロギ

ー攻勢と中傷が強力に遂行されている(ハンガリーで起こった事件など)現在、わが国に

現れている民族主義と厳しく闘うことが鋭く提起されている。」

「民族主義者は、『愛国主義』や『自由な意見表明』といった名目で、ソビエトの経験を調

査研究して創造的に活用しようとしている党の政策に反対している。」

「ソ連がわがモンゴル人民に与えている兄弟的援助の偉大な意義を軽視し、モンゴル=ソ

ビエト人民の友好を誹謗中傷しようとするどんな小さな企ても、プロレタリア国際主義の

原則とわが党の基本路線に根本的に反している。」

そして、当時のチョイバルサン県(現ドルノド県)党委員会第一書記ザンダリーン・ソドノ

ムツェレン Зандарын Содномцэрэн(1922~1997)、党中央委員会書記ナイダンギーン・ダンガ

ースレン Найдангийн Дангаасүрэн(1925~)ら何人かの人びとが名指しで批判された。また、

名指しこそされてはいないものの、ダムディンスレンらモンゴル国立大学の教員に対しても、

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東京外国語大学論集第 79 号(2009) 113

「モンゴル国立大学の教員のなかには、モンゴル人民共和国が人民革命年間、特に最近 10

年間に顕著な成果を上げることができなかったばかりでなく、革命前の時期と比較しても、

人民の物質生活の状況は『悪化した』と中傷している者がいる。」

「モンゴル国立大学の教員のなかにも、同様の民族主義に基づいている者がいる。党内に

現れたマルクス主義に反するこのような民族主義からの攻撃を、断固非難し撃退しなけれ

ばならない。」

と批判している 22)。この政治局決議はその後、党の全レベルの会議で非公開の討議に付された

が、その過程で様々な質問、意見、批判が噴出したという。そのような会議の席上、ダムディ

ンスレンは次のように発言している 23)。

「シレンデブ氏は自分の思っていることを良く話しなさいと言いました。ところが私は今

では民族主義者だと言われています。私は自分の発言を撤回しません。私は党と人民のた

めに発言したのです。シレンデブ氏は自分の発言に責任を取ろうとしていません。……こ

の決議には不満です。この決議によって知識人の口を封じることはできるかもしれません

が、牧民の穴だらけのゲルの穴をふさぐことはできません。私たちはソビエトとモンゴル

の友好を害する発言に反対します。民族主義にも反対です。しかしこのような名目で、愛

国主義や民族遺産の保存の訴えまで弾圧したのは完全なまちがいです。自国民が創造した

ものを愛護しないのは完全な誤りです。」

この政治局決議が発表された当時、このような知識人の批判的な傾向や態度を総称して「知

識人の迷妄(Сэхээтний төөрөгдөл)」と呼んだことにより、モンゴルでは、スターリン批判後

の「自由化」の状況を「雪どけ」とは呼ばず、「知識人の迷妄」と呼ぶようになった。この用語

は、翌 1957 年 3 月の党中央委員会第 5 回総会の決議のなかでは次のように要約されている 24)。

「知識人(сэхээтэн)のなかには、小ブルジョア思想にとらわれ、イデオロギー面で迷い

(төөрөгдөж)、党の政策に反した発言を行う者がいる。彼らは第一に、政治的・理論的知

識が浅薄で、現実生活からも遊離し、第二には、現実生活によって提起された理論的・実

践的意義のある重要問題にマルクス・レーニン主義の観点から解釈を与える姿勢が不十分

だったため、わが国の歴史的発展や労働者階級の果たすべき役割などを誤解していた。」

「ソ連の援助によってわが国の人民が獲得した成果を過小評価し、プロレタリア独裁の任

務を果たしている人民国家の役割、労働者階級の指導的役割を減少させ、愛国主義を盾に

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114 ツェンディーン・ダムディンスレンと「知識人の迷妄」をめぐって:岡田 和行

した様々な民族主義的傾向を表明していた。」

この党中央委員会第 5 回総会の決議のなかではまた、当時モンゴル国立大学でダムディンス

レンの同僚だった文学者シャンジミャタビーン・ガーダンバШанжмятавын Гаадамба(1924~

1993)が、「ガーダンバなど何人かの作家が、『自由な文学』という思想に拘泥し、わが国の文

学に無秩序な小ブルジョア思想を導入しようとしているが、これも不健全な現象である」25)と

名指しで批判されている 26)。このような「知識人の迷妄」批判は、翌 1958 年 3 月の人民革命

党第 13 回大会では「修正主義(ревизионист үзэл)」批判へと若干姿を変えている 27)。

「政治的に遅れた一部の知識人のなかに現れた修正主義の思想と言論を摘発し排除するた

めに、モンゴル人民革命党中央委員会の講じた措置を本大会は承認し、修正主義と民族主

義の様々な徴候と闘う面で決定的な方策を講じることを党の全組織に委任する。」

『モンゴル国史』第 5 巻は、「知識人の迷妄」の持つ新しい傾向を、理論的・方法論的な観点

から、次の 5 点に総括している 28)。

1. 世界的な規模で社会主義陣営に拡大したソ連共産党第 20 回大会の批判的・民主的な風

潮が、モンゴルの社会生活にも浸透し、大きな影響を及ぼしはじめた。

2. 〔1930 年代後半の〕政治的粛清の後で、新しい知識人の一つのまとまった世代がふたた

び形成されはじめ、自国の発展の過去、現在、未来のために苦悩していたことの表れだ

った。

3. 党と国家が設定した「社会主義を広範に建設する」課題が、モンゴル固有の歴史的条件

に適合するのか否か、モンゴル的に深思熟考しはじめたことの反映だった。

4. 自民族の歴史と文化遺産を保護し、伝統と刷新の関係のなかから新たな成果を生み出す

ために、社会全体が思考し、覚醒し、意図しはじめていたことの証しだった。

5. 権威主義的な独裁体制の時代において、党と国家の指導者の偏狭な利益に合致しない思

想を持つ個人の努力や、さらにそのような個人が団結しようとする企ては、実を結ばな

いばかりか、自分の意見を自由に表明する可能性さえきわめて限定されていることをこ

の事例が示した。

こうして、いわゆる「知識人の迷妄」騒動は、当時のモンゴル社会に芽生えはじめた多元的

思考や情報公開の流れを圧殺し、「民族主義」と「反ソ主義」を否定してプロレタリア国際主義

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東京外国語大学論集第 79 号(2009) 115

を強要し、マルクス・レーニン主義理論と社会主義イデオロギーが社会生活のあらゆる領域を

支配する硬直した体制が確立する端緒となった。

1958 年 11 月にダンバを追放して党中央委員会第一書記(書記長)に返り咲いた当時の指導

者ユムジャーギーン・ツェデンバルЮмжаагийн Цэдэнбал(1916~1991)の名を取って「ツェ

デンバル体制」とも呼ばれたこの体制は、以後 30 年あまりも続き、1989~1990 年の民主化を

迎えることとなる。「民主化」「多元論」「情報公開」「粛清犠牲者の復権」「伝統文化と歴史の見

直し」「対ソ関係中心の経済からの脱却」など、当時の民主勢力が掲げていた要求の一部は、上

で簡単に見たように、すでに 1950 年代後半の「知識人の迷妄」のなかでも多かれ少なかれ議論

された問題だった。要するに、1950 年代後半にモンゴルの知識人が提起した意見や批判は、1980

年代末にモンゴルの知識人が提起したモンゴル版ペレストロイカ=「変革と刷新(Өөрчлөлт

шинэчлэл)」の要求をある程度先取りしたものだったのである。したがって、「知識人の迷妄」

の「研究を深化することは、今日でも学術的な意義があるばかりでなく、実践的な意義も引き

続き持っている」29)と言えよう。

おわりに

「知識人の迷妄」当時、ダムディンスレンはモンゴル国立大学でモンゴル古典文学を講じて

おり、1955~1956 年に使用した自身の講義録や受講した学生のノートに基づき、1957 年に『モ

ンゴル文学概論』第 1 巻(13~14 世紀)30)を出版している。これはモンゴル人によって初めて

著わされた「モンゴル(古典)文学史」である。この事実は強調してもしすぎることはない。

モンゴル人はこの本によって初めて自前の「文学史」を手に入れたのであるから 31)。モンゴル

民族の貴重な文化遺産である古典文学の教育と研究、文学の記念碑的な文献の発見と収集、保

存と出版は、当時のダムディンスレンにとって何よりも重要な仕事だった。創作の面では、1955

年までの作品を収録した『作品集』32)が 1956 年に出版されている。

ダムディンスレンは「知識人の迷妄」批判後の 1959 年、科学委員会(1961 年から科学アカ

デミーと改称)に再々復帰し、言語文学研究所所長に就任する。その後 1962 年のチンギス・ハ

ーン生誕 800 周年記念大会後の「ブルジョア民族主義(Хөрөнгөтний үндсэрхэх үзэл)」批判に

より、1963 年に研究所長を解任され、以後 1986 年に亡くなるまで、組織の責任者に就くこと

なく研究と創作に没頭した。Kh.サンピルデンデブによれば、ダムディンスレンは生前、モンゴ

ル人民革命党から 2 回追放され、10 数回処分を受け、党中央委員会政治局員会議で 3 回批判さ

れ処罰されたという 33) 。1960 年代以降のダムディンスレンについては、いずれ機会があれば

別稿で論じたい。

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116 ツェンディーン・ダムディンスレンと「知識人の迷妄」をめぐって:岡田 和行

註 1) 国際シンポジウム「ツェンディーン・ダムディンスレンとモンゴル言語文学研究」における研究発表、その

他の関連する論説、回想などを収録した文献としては、モンゴル科学アカデミー言語文学研究所から

Пүрэвжав, Э. 20082、Хүрэлбаатар, Л. 2008 が刊行されている。生誕百周年を記念して刊行されたおもな学術

書としては、この他にМагсаржав, Б. 2008、Пүрэвжав, Э. 20081、Пүрэв-Очир, Б. 2008 などがある。またロシ

ア科学アカデミー東洋学研究所からは Цендина, А.Д. 2008 が刊行されている。 2) 岡田和行 1988、276 頁。 3) Дамдинсүрэн, Ц. 1990, 12-р тал. 本書に掲載されている「Ts.ダムディンスレンの三世代にわたる経歴

(Ц.Дамдинсүрэнгийн гурван үеийн намтар)」と題された 1974 年 3 月 1 日付の文書は、編者の R.オトゴン

バータルによれば、ダムディンスレン自身が手書きで加筆修正をほどこしたタイプ版の署名文書に基づい

ているという(Дамдинсүрэн, Ц. 1990, 126-р тал)。民主化が始まる前の 1988 年(生誕 80 周年)に出版され

た D.ダシドルジによる聞き書き『ダー〔ダムディンスレン〕先生の回顧談』(Дашдорж, Д. 1988)にはこの

事実は出てこない。なお、2007 年に名誉回復事業指導組織国家委員会に附属する政治粛清被害者調査セン

ターから出版された、Kh.サンピルデンデブ編集の『アカデミー会員・国民栄誉作家ツェンディーン・ダム

ディンスレンの粛清について』(Сампилдэндэв, Х. 2007)という文書館所蔵文書を中心とした資料集によっ

て、ダムディンスレンの 1938~1940 年の逮捕投獄に関連する「逮捕状」「取調記録」「供述調書」「勾留延

長決定書」「釈放決定書」などの内務省保管文書が初めて公開されている。 4) 『モンゴル秘史(元朝秘史)』の現代語訳は、旧文字版が 1947 年(新文字版は 1957 年)に出版され、1947

年度のチョイバルサン賞(現在の国家賞)を受賞している。また『新文字正書法規則』は 1942 年に出版さ

れたが、モンゴル語の文字体系は、数年間の試用期間をへて、1946 年度に旧文字(ウイグル式モンゴル文

字)から新文字(キリル式モンゴル文字)へ全面的に切りかえられた。 5) Ц.Дамдинсүрэн, “Маршал Чойбалсангийн тавин насны ойд зориулсан ерөөл”, Үнэн, 1945, №.32. 6) 岡田和行 1988、276 頁。アメリカの新聞記者ワルター・コラーズのこの評言は、W・コラーズ 1956、234

頁からの引用であるが、当時は諸般の事情から参照できなかった英文の原典では、この引用部分は “Damdin-Surin, the most official of all the official Mongol poets” となっている(Kolarz, Walter 1954, p.152)。

7) この学位請求論文「『ゲセル物語』の歴史的根源」はその後 1957 年にモスクワで出版された(Дамдинсүрэн, Ц. 19572)。また本書のモンゴル語訳は 1998 年(生誕 90 周年)にウランバートルで出版された(Дамдинсүрэн, Ц. 1998)。

8) ダムディンスレンは 1950 年代前半、『モンゴル秘史』の現代語訳の出版、『ゲセル物語』の研究などの活動

を通じて「民族主義を標榜した」として、新聞紙上で何度か批判されたことがあったということだが

(Дамдинсүрэн, Ц. 1990, 13-р тал)、それについてはここで触れる余裕がない。 9) 志水速雄 1977、154-156 頁。 10) МАХН-ын түүхэнд холбогдох баримт бичгүүд II 1967, 396-р тал. 11) Монгол улсын түүх V 2003, 289-р тал. 12) Дамба, Н. 2006, 103-105-р тал. この発言の記録は、モンゴル人民革命党中央文書館とウランバートル市党文

書館に保管されている 2 種類の文書が出典となっているが、引用文中の〔 〕は、党中央文書館に保管され

ている文書によって補足した部分を示しているという。 13) Гэндэнжамцын Дэлэг(1924~?)。当時、『ウネン』紙責任編集長(Намсрай, Ц. 1980, 134-р тал)。 14) Жодовын Төмөрбаатар(1911~1983)。当時、党中央委員会附属党史研究所上級研究員。1962 年のいわゆる

「トゥムルオチル反党事件」に連座したかどで処罰され、1962 年から 1972 年までフブスグル県に左遷。1972年から年金生活に入り、1990 年 5 月に名誉回復(Дамба, Н. 2006, 377-378-р тал)。

15) Нямын Жагварал(1919~1987)。当時、科学委員会総裁(経済学)。ツェデンバル時代の 1957~1987 年、閣

僚会議副議長(副首相)、農牧業大臣、党中央委員会政治局員兼書記、人民大会議幹部会副議長などの要職

を歴任。夫人はダムディンスレンと同時代の著名な文献学者ビャンビーン・リンチェン Бямбын Ринчен(1905~1977)の娘で農牧学者のリンチェニー・インドラ Ринчений Индра(1928~)(Жамбалдорж, С., Сонинтогос, Э. 2000, 135-р тал)。

16) Цэгмидийн Гайтав(1929~1979)。当時、『ザローチョーディーン・ウネン(Залуучуудын үнэн)』紙責任書

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東京外国語大学論集第 79 号(2009) 117

記。1961 年、歴史長編詩「ダムディニー・スフバートル(Дамдины Сүхбаатар)」でチョバルサン賞(1962年に国家賞と改称)受賞。ダムディンスレンの発言にある長編詩「チョイバルサン(正式な題名はホルロー

ギーン・チョイバルサン)」は 1954 年に単行本として出版されたが、その後、チョイバルサン個人崇拝が色

濃く反映し、党の指導性や人民の役割が過小評価されているとして批判された。 17) Лувсангийн Мишиг(?~1997)。当時、モンゴル国立大学講師、マンジュ(満洲)語学者(萩原 守 2009、

164-168 頁)。 18) Магсаржав, Б. 2008, 189-р тал. このシャグダルスレンの回想は最初『ウドゥリーン・ソニン』紙に掲載され

た。О.Шагдарсүрэн, “Академич Ц.Дамдинсүрэнгийн үйл амьдралаас миний мэдэх зарим зүйлс”, Өдрийн сонин, 2008, №.59, 61.

19) Монгол улсын түүх V 2003, 290-р тал. 20) これに関連して、ダムディンスレンの実話風短編小説「遅れたばあさん訪ねある記(Хоцрогдсон эмгэнийг

сурвалжилсан тэмдэглэл)」において暗示的に描かれている社会主義的近代化=ソビエト化への批判とモンゴ

ルの伝統文化=遊牧文化の見直し(再評価)については、岡田和行 2009、169-173 頁を参照のこと。なお

本報告書のなかで、この小説(1974 年脱稿)の初出を 1981 年刊行の『モンゴル短編小説傑作集(Монголын шилдэг өгүүллэг)』としているのは誤りで、正しくは 1978 年刊行のモンゴル作家同盟年刊誌『文芸の集い』

(МЗЭ-ийн хороо, Уран үгсийн чуулган, Редактор Д.Цэдэв, Б.Бааст, Улаанбаатар, Улсын хэвлэлийн газар, 1978, 148-158-р тал)である。

21) Дамба, Н. 2006, 260-274-р тал. この党中央委員会政治局員会議で採択された第 413 号決議「わが党の政策に

反対する思想、言論、記事の発表について」は、以前の党史関係資料集にはなく、この N.ダンバ編集の資

料集によって、はじめて全文が公開された。決議に署名した当時の政治局員を署名順に列挙すると、Yu.ツェデンバルЮ.Цэдэнбал、D.ダンバ Д.Дамба、J.サンボーЖ.Самбуу、B.シレンデブ Б.Ширэндэв、N.ルハムス

レン Н.Лхамсүрэн(タイプ名の横に署名なし)、B.ダムディン Б.Дамдин、D.バルジンニャム Д.Балжинням、Ts.ドゥゲルスレン Ц.Дүгэрсүрэн(政治局員候補)、B.ジャンバルドルジ Б.Жамбалдорж(同)の 9 名である。

この署名順を見ると、党内の序列第 1 位が、1954~1958 年に第一書記だったダンバではなく、ツェデンバ

ルだったことがわかる。 22) Мөн тэнд, 262, 267-р тал. 23) Баттөмөр, Б. 2008, 252-253-р тал. このダムディンスレンの発言の出典はバトトゥムル論文のなかでは明記

されていないが、この論文が引用する文書館資料はすべて「国立中央文書館・モンゴル人民革命党資料セン

ター(Үндэсний Төв Архив. МАХН-ын баримтын төв)」所蔵のものなので、おそらくこの発言も同センター

に所蔵されている資料から引用したものであろう。 24) МАХН-ын түүхэнд холбогдох баримт бичгүүд II 1967, 404-р тал. 25) Мөн тэнд, 404-р тал. 26) ガーダンバはその後、人びとの生活と精神に「蔓(つる)」のように巻きついて離れないイデオロギーの「桎

梏」を暗示的に描いた短編小説「蔓草(Чөдөр өвс)」を『文学芸術(Утга зохиол урлаг)』紙の 1972 年第 42号に発表したが、1973 年 6 月開催のモンゴル作家同盟第 5 回大会で、当時の党中央委員会書記デジディー

ン・チミドドルジ Дэжидийн Чимиддорж(1930~)に「Sh.ガーダンバの『蔓草』という短編小説は、社会

主義社会には人間の成長と進歩を阻害する要因があるかのように暗示的に中傷し攻撃した作品であるが、こ

の小説が該当する機関や担当者の審査をすり抜けて出版されたことは、それ相応の結論を下さざるをえない

重大な証拠となる。そもそも、マルクス・レーニン主義と社会主義文学の原理に反する様々な思想的影響が

文学や芸術に波及する穴をふさぎ、様々な徴候が現れるたびに情け容赦なく摘発・撃退し、不健全なブルジ

ョア思想や日和見主義的理論の害毒を暴露する面で、十分な注意が払われていないことを特に指摘しなけれ

ばならない。そうしなければ、政治的に偏向した、仕事に対する責任感の欠如に乗じて出版された著作のな

かに、党の政策やわが社会の権益に反する民族主義や虚無主義などの様々な思想がひそかに潜り込んでいな

いとも限らない。このような事例はかつて見られたし、現在でも散見される」(Бааст, Б. 1975, 89-90-р тал)と批判され、これが原因でモンゴル国立大学の教職を解任されたという(Жамбалдорж, С., Сонинтогос, Э. 2000, 67-р тал)。この小説「蔓草」はその後、社会主義時代に当局から批判された文学作品を集めたアンソ

ロジーに再録されている(Пүрэвдорж, Д. 1991, 106-114-р тал)。また大阪外国語大学間谷祭実行委員会編『世

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118 ツェンディーン・ダムディンスレンと「知識人の迷妄」をめぐって:岡田 和行

界のわかものよ』(第 23 集、1995 年)に邦訳(津下陽子訳)があるとのことだが(Пүрэвжав, Э. 2000, 19-р тал)、残念ながら未見である。

27) МАХН-ын түүхэнд холбогдох баримт бичгүүд II 1967, 433-р тал. 28) Монгол улсын түүх V 2003, 294-р тал. 29) Баттөмөр, Б. 2008, 248-р тал. 30) Дамдинсүрэн, Ц. 19571. 本書の旧文字(ウイグル式モンゴル文字)版『モンゴル文学史(MongGol-un uran

jokiyal-un teUke)』は、同じく 1957 年、内モンゴル自治区の区都・呼和浩特(フフホト)にある内モンゴル

人民出版社から刊行されている。なお、本書におけるダムディンスレンと民族文化の問題については、小貫

雅男 1968 を参照のこと。 31) これ以前には、ロシア人のポズドニェーフとユダヤ人のラウファーによる以下の 2 種の「モンゴル文学史」

があるだけだった。 А.М.Позднеев, Лекции по истории монгольской литературы, Том.1-3, Санкт-Петербург, 1896-1908, 240+221+11+221 стр. Berthold Laufer, “Skizze der mongolischen Literatur”, Keleti Szemle Review Orientale, 8, Budapest, 1907, pp.165-261.(ロシア語訳:Б.Лауфер, Очерк монгольской литературы, Перевод В.А.Казакевич, Под ред. и с предисловием Б.Я.Владимирцова, Ленинград, 1927, 95 стр.)

32) Дамдинсүрэн, Ц. 1956. 33) Сампилдэндэв, Х. 1993, 72-р тал.

参考文献 岡田和行 1988:「故ダムディンスレン教授の業績」『東京外国語大学論集』、第 38 号、275-288 頁。 岡田和行 2009:『ポスト社会主義時代のモンゴル国における文学の伝統と刷新に関する研究』(課題番号

17520224)、平成 17 年度~平成 19 年度科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書、184 頁。 小貫雅男 1968:「『モンゴル文芸概説』にみられる民族文化の問題について」『朔風』、第 4 号(棈松源一教授御退

官記念号)、大阪外国語大学モンゴル語研究室、76-96 頁。 W・コラーズ 1956:『ソヴェト極東民族誌』(谷口勝訳)、東京、国際文化研究所、285 頁。 志水速雄 1977:『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」全訳解説』、東京、講談社学術文庫、218 頁。 萩原 守 2009:『体感するモンゴル現代史』、明石、南船北馬舎、419 頁。

Kolarz, Walter 1954:The Peoples of the Soviet Far East, New York, Frederick A. Praeger, Inc., 194 pp.

Бааст, Б. 1975:Монголын Зохиолчдын V Их Хурлын материал, Эмхтгэж редакторлан хэвлэлд бэлтгэсэн Б.Бааст, Улаанбаатар, Улсын хэвлэлийн газар, 119 тал.

Баттөмөр, Б. 2008:“‘Сэхээтний төөрөгдөл’ гэгчийн тухайд”, Acta Historica (Монгол Улсын Боловсролын Их Сургуулийн Түүхийн салбарын эрдэм шинжилгээний сэтгүүл), Боть IX, Улаанбаатар, “Сорхон цагаан” хэвлэлийн газар, 248-254-р тал.

Дамба, Н. 2006:Цагаатгах Ажлыг Удирдан Зохион Байгуулах Улсын Комиссын дэргэдэх Улс төрийн талаар Хэлмэгдэгсдийн Судалгааны төв, Сэхээтний төөрөгдөл, Эмхэтгэсэн Н.Дамба, Хянан тохиолдуулсан М.Ринчин, Улаанбаатар, Хэвлэлийн “Шувуун саарал” ТӨҮГ, 399 тал.

Дамдинсүрэн, Ц. 1956.:Түүвэр зохиол, Редактор С.Дашдэндэв, Б.Бааст, Улаанбаатар, Улсын хэвлэлийн газар, 283 тал.

Дамдинсүрэн, Ц. 19571:Монголын уран зохиолын тойм, Нэгдүгээр дэвтэр, XIII-XVI зууны үе, Хэвлэлийн редактор Ж.Дансранжав, Улаанбаатар, Улсын хэвлэлийн газар, 159 тал.

Дамдинсүрэн, Ц. 19572 : Исторические корни Гэсэриады, Редактор издательства Г.Н.Румянцев, Москва, Издательство АН СССР, 240 стр.

Дамдинсүрэн, Ц. 1990:Намтрын хуудсаас (Намтар, дурсамж, тэмдэглэл, туршлага), Эмхтгэсэн Р.Отгонбаатар, Эрхэлсэн Д.Дулмаа (А.Д.Цендина), Улаанбаатар, Улсын хэвлэлийн газар, 126 тал.

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東京外国語大学論集第 79 号(2009) 119

Дамдинсүрэн, Ц. 1998:Гэсэрийн туужийн түүхэн үндэс, Орос хэлнээс орчуулсан А.Д.Цендина, Хянаж найруулсан Л.Хүрэлбаатар, Улаанбаатар, 213 тал.

Дашдорж, Д. 1988:Да багшийн дурсамж яриа, Редактор Д.Цэдэв, Улаанбаатар, Улсын хэвлэлийн газар, 143 тал. Жамбалдорж, С., Сонинтогос, Э. 2000:Нэрт монгол хүмүүсийн намтрын ойллого, Ерөнхий редактор Ц.Балдорж,

Л.Энх-Амгалан, Улаанбаатар, “Интерпресс” хэвлэлийн газар, 315 тал. Магсаржав, Б. 2008:Монгол улсын Төрийн хэлний зөвлөл, Цэндийн Дамдинсүрэнгийн аж төрөл туурвил,

“Монгол хэл бичиг” цуврал, VI боть, Эрхэлсэн Б.Магсаржав, Улаанбаатар, 220 тал. МАХН-ын түүхэнд холбогдох баримт бичгүүд II 1967:МАХН-ын Төв хорооны дэргэдэх Намын түүхийн институт,

Монгол Ардын Хувьсгалт Намын түүхэнд холбогдох баримт бичгүүд (1940-1960 он), II дэвтэр, Эмхтгэгч Г.Сүхбаатар, Редактор Л.Санжаа, Улаанбаатар, Улсын хэвлэлийн хэрэг эрхлэх хороо, 600 тал.

Монгол улсын түүх V 2003:Монгол улсын Шинжлэх ухааны Академийн Түүхийн хүрээлэн, Монгол улсын түүх, Тавдугаар боть (ХХ зуун), Редактор Ж.Болдбаатар, М.Санждорж, Б.Ширэндэв, Улаанбаатар, “ADMON” компани, 501 тал.

Намсрай, Ц. 1980 : Эрэн цагийн тэмдэглэл (Найруулал, тэмдэглэл, сурвалжлага), Редактор Ц.Намсрай, Улаанбаатар, Улсын хэвлэлийн газар, 414 тал.

Пүрэвдорж, Д. 1991:Хар дэвтэр, Эмхтгэж эрхэлсэн Д.Пүрэвдорж, Улаанбаатар, “Монгол уран зохиол” хэвлэлийн газар, 288 тал.

Пүрэвжав, Э. 2000:Монгол хэл бичгийн судлал, III, Редактор Х.Сампилдэндэв, Улаанбаатар, “ADMON” компани, 121 тал.

Пүрэвжав, Э. 20081:Их эрдэмтэн академич Цэндийн Дамдинсүрэн, Редактор Л.Хүрэлбаатар, Улаанбаатар, “ADMON” компани, 152 тал.

Пүрэвжав, Э. 20082:Номун далай Цэндийн Дамдинсүрэн, Эмхтгэн хэвлүүлсэн Э.Пүрэвжав, Ариутган шүүсэн Д.Төмөртогоо, Улаанбаатар, 172 тал.

Пүрэв-Очир, Б. 2008:Сайн үйлсийг бүтээж салаа замаар явсан эрдэмтэн - зохиолч, Өмнөтгөл үгийг бичиж, ариусган хянасан Д.Нямаа, Ч.Дагвадорж, Ш.Гүндалай, Улаанбаатар, “Мөнхийн үсэг” ХХК, 190 тал.

Сампилдэндэв, Х. 1993:Билгийн чанад хязгаарт хүрсэн эрдэмтэн зохиолч (Академич Ц.Дамдинсүрэнгийн хөрөг), Улаанбаатар, Хэвлэлийн “Эрдэм” компани, 72 тал.

Сампилдэндэв, Х. 2007:Цагаатгах Ажлыг Удирдан Зохион Байгуулах Улсын Комиссын дэргэдэх Улс төрийн талаар Хэлмэгдэгсдийн Судалгааны төв, Академич, Ардын уран зохиолч Цэндийн Дамдинсүрэнг хэлмэгдүүлсэн тухай, Эмхтгэсэн Х.Сампилдэндэв, Хянан тохиолдуулсан М.Ринчин, Д.Жигваагүнсэл, Улаанбаатар, 375 тал.

Хүрэлбаатар, Л. 2008 : Академич Цэндийн Дамдинсүрэн - Дурсгалын түүвэр, Эмхтгэж редакторласан Л.Хүрэлбаатар, Улаанбаатар, “ADMON” компани, 559 тал.

Цендина, А.Д. 2008:Цэндийн Дамдинсурэн : К 100-летию со дня рождения, Составитель А.Д.Цендина, Редактор издательства С.В.Веснина, Москва, Издательская фирма “Восточная литература” РАН, 574 стр.

(付記)本稿は、平成 21 年度科学研究費補助金(基盤研究(A))「ソ連および旧共産圏の文化におけるスターリ

ン批判と雪解けに関する超域横断的研究」(研究代表者:亀山郁夫学長)による成果の一部である。

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120 ツェンディーン・ダムディンスレンと「知識人の迷妄」をめぐって:岡田 和行

Цэндийн Дамдинсүрэн ба “Сэхээтний төөрөгдөл” гэгчийн тухайд

OKADA Kazuyuki

“Сэхээтний төөрөгдөл” гэгч 1956 оны ЗХУКН-ын ХХ их хурлаар Сталиныг шүүмжилсний дараа мөн оны IV сард хуралдсан МАХН-ын Төв Хорооны (ТХ) IV бүгд хурлын тогтоолын дагуу ХI сарын 10-15-нд нам төрийн удирдах хүмүүс оролцсон хэсгүүд сэхээтний төвлөрсөн газруудад очиж уулзалт-ярилцлага зохион байгуулах арга хэмжээ авахад сэхээтний талаас социализмын гажуудлыг засч залруулах гэж гаргасан санал шүүмжлэлийг сонссон намын удирдлагууд сэхээтний иймэрхүү шүүмжлэлт хандлага, уур амьсгалыг бүхэлд нь “Сэхээтний төөрөгдөл” хэмээн нэрлэснээс бий болсон томьёолол юм.

Ц.Дамдинсүрэн 1956 оны ХI сарын 13-нд МУИС-д болсон уулзалт-ярилцлага дээр эх орныхоо хөгжил хоцрогдсон байгаа, ард түмний аж амьдрал ядуу тарчиг байгаа, улс орноо хөгжүүлэх талаар нам засгийн удирдагчид идэвх санаачлагатай ажиллахгүй байгаа зэргийг илэн далангүй шүүмжилсэн байна. Харин сэхээтний ийм оновчтой ухаалаг, эх оронч санал шүүмжлэлийг намын удирдлагууд хүлээн зөвшөөрөхгүйгээр барахгүй, 1956 оны ХII сард хуралдсан МАХН-ын ТХ-ны Улс Төрийн Товчооны гишүүдийн хурлаас гаргасан “Манай намын бодлогод харш үзэл санаа, үг өгүүлэл гарч байгаа тухай” хэмээх 413-р тогтоолд “..... Улсын их сургуулийн зарим багш нар, БНМАУ, ардын хувьсгалын жилүүдэд ба ялангуяа сүүлийн 10 жилд олигтой амжилт олох ч байтугай хувьсгалын өмнөх үетэй зэрэгцүүлэхэд ард түмний эд материал, ахуй байдал “доройтов” гэж гүтгэж байна”, “Улсын их сургуулийн зарим багш нар ч мөн үндэсний үзэл баримталж байна. Намын дотор гарч байгаа марксизмд харш энэ мэтийн үндэсний үзлийн дайралтыг эрс буруушаан няцаах хэрэгтэй” хэмээн хурц шүүмжилсэн байна.

Үүнд Ц.Дамдинсүрэн “Ширэндэв гуай санаснаа сайн хэл гэсэн. Гэтэл одоо үндэсний үзэлтэн гэж байна. Би хэлсэн үгнээсээ үл буцна. Би нам, ард түмнийхээ төлөө хэлсэн. ..... Энэ тогтоол хангалтгүй байна. Энэ тогтоолоор сэхээтний амыг бөглөж болох боловч, ард түмний цоорхой гэрийг бөглөж болохгүй. Бид зөвлөлт-монголын найрамдалд хортой юмыг хэлснийг эсэргүүцнэ. Үндэсний үзлийг эсэргүүцнэ. Гэвч энэ нэрээр эх оронч үзэл, өвөө хадгалахыг дарчихсан нь огт буруу. Өөрийн ард түмний бүтээл, тэднийг хайрлахгүй байна. Энэ бол огт буруу” гэж эгц шударга шүүмжилсэн юм.

“Сэхээтний төөрөгдөл”-ийн үед монголын сэхээтний дэвшүүлсэн санал шүүмжлэл 1980-аад оны сүүлээр ардчилсан хөдөлгөөний явцад монголын сэхээтний дундаас өрнөсөн өөрчлөлт шинэчлэл, ил тод байдлын тухай санал шүүмжлэлтэй ойролцоо гэж хэлж болох талтай. Тийм учраас өнөө үед ч “Сэхээтний төөрөгдөл”-ийн судалгааг гүнзгийрүүлэх нь эрдэм шинжилгээний төдийгүй, практикийн ач холбогдолтой хэвээр байна.