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インド論理学研究第V 平成 24 11 30 日発行抜刷 アポーハとは何か? 片岡啓

アポーハとは何か? - 九州大学(KYUSHU UNIVERSITY)kkataoka/Kataoka/Kataoka2012h.pdf · 2013-04-19 · 1979 赤松明彦:i Dharmakirti 以後のApoha論の展開一一Dharmottaraの場合一一JW印度学

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インド論理学研究第V号

平成24年 11月30日発行抜刷

アポーハとは何か?

片岡啓

1.アポーハ論の展開

1.1.ムカジ}史観

アポーハとは何か?

片岡啓

アポーハ論の史的展開をどう捉えるべきか.これまで二つの主要な説があった.第一は

ムカジーの三段階説である (Mookerjee1935(1997):132).

1.ディグナーガ:純粋否定 (purenegation)がアポーハ.

2.シャーンタラクシタ:肯定的概念構想物 (apositive concep知alconstruction)がアポー

ハ,否定は含意される (anegative import by logical implication) .ただし,これとは

逆に,否定が主で,肯定は合意されるとする仏教徒もいた.

3.ラトナキールティ:他者の否定に限定された概念形象という複合物 (acomplex,

being a conceptual image as qualified by a negation of the opposite entities)がアポーハ.

すなわち「否定→肯定→総合(折衷)Jという三段階の発展を認める見方である.すぐ

に明らかなように,このムカジーのアポーハ論史観は大きな問題を抱えている.ダルマ

キールティが何処に入るのか,という点が明らかにされていないのである.ムカジーは,

年代的にディグナーガとシャーンタラクシタに挟まれるダルマキールティが,第一と第二

のいずれに入るのかを明言していない.この当時,ダルマキールティの『プラマーナ・

ヴアールティカ』はチベット訳しか残っていなかった.フラウワルナーによるダルマキー

ルティの(チベット訳に基づく)アポーハ論研究がまさに同時並行で出ていた時代である.

「ダルマキールティのアポーハ論」を論じられる状況にはなかった.

その後,ムカジーの下に留学経験 (1953-56年)のある梶山雄ーは,フラウワルナーの

研究を踏まえてであろう,ダルマキールティを第一の否定論者に含める (Kajiyama

1966: 125, n.338) .これにより,三段階中の第一段階が,ディグナーガおよびダルマキール

ティの説として理解されることになった.この理解は,例えば長崎 1984に踏襲されてい

る.

1.2.赤松史観

109

梶山雄一 (1925生, 1961-88在職)と服部正明 (1924生, 1961-88在職)の指導の下,

京都大学を中心に仏教論理学研究が大きく進展したのは 1970-80年にかけてで、あった.ア

ポーハ論研究は,梶山,服部,そしてトロント大留学の桂紹隆 (1944生, 1968-1974トロ

ント留学, 1976広島大学着任),そして,パリ第三大学に留学し博士号を取得(1983) し

た若き俊英,赤松明彦 (1953生)によって強力に推し進められた.さらに,桂が赴任し

た広島大学からは小川英世 (1954生)が,ジュニャーナシュリー研究をもって登場する.

主な研究を以下に年代順に挙げておく.

1932 Frauwallner, Erich:“Beitrage zur Apohalehre. 1. Dharmakirti. Ubersetzung." Wiener

Zeitschriftfor die Kunde des Sudasiens, 39,247-285.

1933 Frauwallner, Erich:“Beitrage zur Apohalehre. 1. Dharmakirti. Ubersetzung. (Fortsetzung)."

Wiener Zeitschr~βfor die Kunde des Sudasiens, 40, 51-94.

1935 Frauwallner, Erich:“Beitrage zur Apohalehre. 1. Dharmakirti. Zusammenfassung." Wiener

Zeitschrift j詰rdie Kunde des Sudasiens, 42, 93-102.

1935 Mookerjee, Satkari: The Buddhist Philosophy 01 Universal Flux. Reprint. Delhi: Motilal

Banarsidass, 1997.

1937 Frauwallner, Erich:“Beitrage zur Apohalehre. 11. Dharmottara." Wiener Zeitschrift j訟rdie

Kunde des Sudasiens, 44, 233-287.

1960梶山雄一:iラトナキールチのアポーハ論JW印度学仏教学研究~ 8-1, 76-83.

1973服部正明:iMimarps誕lokavarttika,Apohavada章の研究(上)J W京都大撃文撃部研究

紀要~ 14, 1-44.

1975服部正明:iMimarps誕lokavarttika,Apohavada章の研究(下)JW京都大皐文撃部研究

紀要~ 15, 1-63.

1979服部正明:iUddyotakaraに批判されるアポーハ論JW伊藤真城・田中順照両教授頒徳

記念:仏教学論文集~ 117-131.

1979 Katsura, Shoη引:“TheApoha Theory of Dignaga." Journal ollndian and Buddhist Studies,

28-1, 16-20.

1979赤松明彦:i Dharmakirti以後の Apoha論の展開一一Dharmottaraの場合一一JW印度学

仏教学研究~ 28-1,43-45.

1980赤松明彦:iダルマキールティのアポーハ論JW哲学研究~ 540,87-115.

1980服部正明:iNyayavarttikaユ2.66におけるアポーハ論批判JW密教学~ (松尾義海博士

ハV-1 --

アポーハとは何か?

古稀記念号) 16四 17,15-30.

1981小川英世:IJnanasrimitraのApoha論JW印度学仏教学研究~ 29-2, 160-161.

1981小川英世:Iジュニャーナシュリーミトラの概念論JW哲学~ (広島大学)33,67-80.

1982 Hattori, Masaaki: “The PramaQ.asamuccayavrtti of Dignaga with Jinendrabuddhi 's

Commentary, Chapter Five: Anyãpoha田parïk~ã: Tibetan Text with Sanskrit Fragments." W京

都大皐文撃部研究紀要~ 21, 101-224.

1982赤松明彦:INyaya学派の Apoha論批判JW印度学仏教学研究~ 30-2,106-111.

1984赤松明彦:IDharmottaraのApoha論再考-Jnana釘mitraの批判からJW印度学仏教学研

究~ 33四 1,76-82.

1984桂紹隆:Iディグナーガの認識論と論理学JW講座・大乗仏教 9一一認識論と論理学』

103-152.

1984長崎法潤:I概念と命題JW講座・大乗仏教 9一一認識論と論理学~ 341-368.

1986 Akamatsu, Akihiko:“Vidhivadin et Prati~edhavãdin: Double aspect presente par la theorie

semantique du bouddhisme indien." Zinbun, 21, 67-89.

1986 Katsura, Shoη引:“Jnana釘'mitraon Apoha." Buddhist Logic and Epistemology, ed. by B.K.

Matilal & R.D. Evans, 171-183.

1988桂紹隆:Iジュニャーナシュリーミトラのアポーハ論JWイ弗教学セミナー~ 48,69-81.

小川は,ダルマキールティが第一の「純粋否定論」に入らないことを指摘する(小川

1981a:160) .すなわち,ジュニャーナシュリーミトラとラトナキールティの折衷論の基本

的な発想、は,既に,ダルマキールティの中に認められるという指摘である.これにより,

ムカジー・梶山の三段階説は,根本から崩壊することになる.最後に展開するはずの総合

的な折衷説が,第一段階のダルマキールティの中に既に用意されていた,ということにな

るからである.ここに,新たなアポーハ論史観が求められることになる.

.ムカジーの三段階説に替わるべき史観は,以上の指摘の中に既に明らかである.すなわ

ち,ダルマキールティの本来の説へと回帰したのがジュニャナーシュリーミトラとラトナ

キールティの折衷説である,というものである.ここに,ムカジーが指摘していたシャー

ンタラクシタ当時の別説を加えればよい.すなわち,シャーンタラクシタが「肯定→否定」

という順序を唱え,あくまでも肯定が主要素であるとしたのに対して, I否定→肯定」と

いう順序を唱え,あくまでも否定が主要素であるとした仏教徒である.ムカジーは,ラト

ナキールティによる言及個所を指摘し,“someother Buddhist thinkers"と表現する

(Mookerjee 1935(1997):132, n.1).赤松はこの論者をダルモッタラに同定することに成功

111

する(赤松 1984).これにより, Akamatsu 1986が見事に整理した次のアポーハ論展開史

が見えてくることになる (Akamatsu1986:79).

、‘,/00

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I,、J今,,“

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加の

FQリ

Dignaga (480・540)

Dharmakirti (600-660)

〆、Dharmottara (750-810)

(Prati写edhavadin)

、〆Jnan必ずimitra(980田 1030)

Ratnakirti (1000-1050)

ダルマキールティの総合説が,シャーンタラクシタの肯定論と,ダルモッタラの否定論

とに分かれ,再び,ジュニャーナシュリーミトラにおいて原点回帰が図られるという史観

である.赤松を代表とするこのアポーハ論史観が,現在の(少なくとも本邦の)研究者の

多くが前提として認める史観といってよいであろう.そして,これは,ジュニャーナシュ

リーミトラやラトナキールティ自身の歴史観でもある.

問題は,これが客観的に正しい(あるいは妥当な)歴史観と呼べるのかどうかである.

すぐに予想されるように,ラトナキールティの見方は,当然,ラトナキールティに都合の

よい見方でしかない.自身の説が,他説(すなわち先行するシャーンタラクシタ説やダル

モッタラ説)に比して,し、かに師説(ダルマキールティ説)に基づくかを示すのが彼の意

図であることは容易に想像できる.また, トリローチャナ,スチャリタミシュラ,ヴアー

チャスパティミシュラといった他学派の論師からの批判をかわすためという事情も考慮

しなければならないだろう.だとすれば,このようなラトナキールティのアポーハ論史観

も,後代の一学派の一つの見方に過ぎないのではなし、か.別の見方も可能ではないのか.

1ふジャヤンタ史観

筆者は,ジャヤンタのアポーハ論に関して一連の研究を発表してきた.第一にそれは『ニ

ヤーヤ・マンジャリー~ rアポーハ章Jの批判校訂である.Kataoka 2008,2009, 2010b, 2011

112

アポーハとは何か?

で校訂作業はひとまず完結した.四部作の内容は以下の通りである.

Mysore edition Kataoka's edition

Introduction NM II 3.7-5.14 Kataoka 2011

Buddhists on jati NM II 6.2-14.l3 Kataoka 2011

Kumarila onαrpoha NM II 14.15-2l.15 Kataoka 2008

Buddhists on apoha NM II 21.18-29.4 Kataoka 2009

Jayanta onjati and apoha NM 11 29.7-47.4 Kataoka 201 Ob

H

H

W

さらに,それに関連する研究を順次発表してきた 1 また,翻訳を作成し,発表もして

いる(片岡 2012b) 2.

研究を進める中で筆者に明らかになってきたことは,ジャヤンタの史観が,従来のア

ポーノ¥論史観と極めて異なったものである,ということである 3 ラトナキールティのア

ポーハ論史観と相容れないと言ってよい.まず,視点が異なる.ラトナキールティの視点

は,肯定・否定を軸に据えたものである.すなわち,肯定・否定・否定肯定という三つを

区別し,否定肯定折衷説を定説とする.

いっぽうジャヤンタは,外・内という視点を持ち込み,これにより三つの説を区別する.

すなわち,外なるアポーハ,内なるアポーハ,内でも外でもないアポーハという「外→内

→非内非外」としづ三段階を区別するのである.ジャヤンタが,それぞれの学説主張者の

名前を明記することはない.しかし,配置の仕方から,第一の「外なるアポーノリがディ

グナーガ,そして,第三の「非内非外なるアポーハJがダルモッタラであることは明白で

1口頭発表として「ジャヤンタから見たアポーハ論J(西日本インド学仏教学会 :2009年 8月 1日),

“Dharmottara's Theory of Apoha" (インド思想史学会:2010年 12月 25日) ,既刊論文として片岡

2010a, 2012aがある.

2 Kataoka 2008, 2009については,ウィーンのオーストリア科学アカデミーで行われたアポーハ・ワー

クショップ (ApohaWorkshop, 2012/4/16-20, Center for Studies in Asian Cu1tures and Socia1

Anthropo1ogy, IKGA, OA W, Vienna)のために, A1ex Watsonと共同で英訳を準備した.ワークショッ

プの成果をまとめた論集の中に,テクストの改訂版と共に英訳を出版予定である.

3 もちろん,ジャヤンタ (840-900頃)と,ジュニャーナシュリーミトラ (980-1030頃)およびラ

トナキールティ (1000-1050頃)では,年代が異なるので,視野に収める発展段階も異なる.ジャ

ヤンタがダルモッタラ (740-800頃)を直近の最終段階と恐らく見ているのに対して,後二者は,

それ以降の発展をも視野に収める.

113

ある.問題となるのは,第二の「内なるアポーノリを誰に帰属すると彼が考えていたかで

ある.しかし,消去法的にも,ダルマキールティであることは間違いなさそうである.と

いうのも,ジャヤンタが想定するアポーハ論者が,ディグナーガ,ダルマキールティ,ダ

ルモッタラであることは,ジャヤンタの引用文献から明らかだからである.

まず, r外なるアポーノ"J をディグナーガに帰属させることは,クマーリラによるディ

グナーガ批判から十分に明らかである.ディグナーガ自身にとって,アポーハという非存

在は,単なる非存在であり,それはそもそも実在するもので、はなかった.しかし,クマ一

リラは,まず,アポーハを非存在に同定する.これ自体は,ディグナーガの意図から外れ

たものではない.そしてさらに,その非存在を「別個の存在J(SV apoha 1: bhavantara)と,

クマ一リラ自身の存在論(および非存在論)にしたがって規定する.クマーリラにとって,

ヨーグルトの非存在とは,ミルクの存在に他ならないものである.すなわち, ミルクは,

ミルクの存在と同時に,ヨーグルトの非存在(前無)を本質的に内蔵するものである 4

ここに,アポーハは,外なる実在としての非存在として捉え直されることになった.この

点を捉えてジャヤンタは,ディグナーガを「外なるアポーノ"Jを主張する論者とみなすの

である.

いっぽう,非内非外なるアポーハがダルモッタラに帰属可能であることは明白である.

すなわち,ダルモッタラ自身が『アポーハ・プラカラナ』冒頭において「認識でもなく外

でもなしリ (buddhirno na bahir)と明言している.ジャヤンタの記述もダルモッタラの『ア

ポーハ・プラカラナ』に多く依拠しているのが見て取れる.

内なるアポーハを主張する論者としてジャヤンタが想定する論者が消去法によりダル

マキールティしか考えられないことは既に述べた.しかし,ダルマキールティ自身が,内

なるアポーハ,すなわち,シャーンタラクシタが認めるような内的形象を「アポーハj と

みなしていたかどうかは問題のあるところである.実際,ダルマキールティは,内的形象

の役割を認めつつも, rアポーハjと呼ばれるものが何であるのかに関しては,ディグナー

ガ説から遠ざかることはない.すなわち,ディグナーガにとって「アポーハ」が「排除行

為」で、あったように,ダルマキールティにとってもアポーハはあくまでも「排除行為Jで

4以上は, ミルクの存在とヨーグルトの非存在とを非別の視点から捉えた場合の説明方法である.

別という視点を強調するならば,ヨーグルトの非存在は, ミルクに依拠しであることになる.す

なわち,ジャヤンタ (Kataoka2008: 194(19).4-5)が説明するように,非存在はそれ自体単独で理解

されるわけではなく,何らかの他のものに依拠した形で把握されるのである.ヨーグルトの前無

を捉える時, 目の前にミルクが拠り所 (asraya) としてあるのである.

114

アポーハとは何か?

あって,行為以外の何らかのカーラカ(行為参与者)を表すもので、はなかった.

しかし,ダルマキールティの初期の註釈者シャーキャブッディ (660-720) に目を移す

と事情は一変する.シャーキャブッディは次のようにダルマキールティの意図を宣説する.

PVT ad 1 :40 (Ishida 2011: 198): vikalpabuddhipratibhasas tu trtlyal)., anyo 'pohyate 'neneti

krtva, yo 'yarp.鈎strakarasyasabadavacyatayabhimatal)..

いっぽう分別知における現れが第三の[アポーノ"Jである. rそれによって他者が排

除されるJというように[行為手段の意味で解釈]することによってである.これ

(第三のアポーハ)が,論師が,言葉の直接表示対象として認めたところのもので

ある.

シャーキャブッディは「アポーノ"J に関する三つの語源解釈を挙げる(原文は石田

2005:87, Ishida 2011: 198参照).第ーが「排除されたもの」としづ行為対象である.具体

的には,諸々の自相であり,個々の牛のことである.第二が排除行為である.これはディ

グナーガの言うところの「アポーノリである.そして,第三が,排除する手段である.す

なわち,分別知の中にある内的な形象によって,非牛が排除される.内的な形象が排除手

段となるのである.ここでは,他者である非牛を排除する手段が「アポーノリすなわち「排

除手段」だと語源解釈された上で,ダルマキールティが「牛Jの表示対象として認めたの

が,この内的形象だとシャーキャブッデ、イは断言する. r論師が認めたものである」とし

て,これがダルマキールティの真意だとわざわざ記すことから逆に,ダルマキールティ自

身が,そのようなことを明言していなかったことが推測できる.もし明言していれば,そ

の言を引用すれば事足りるはずだからである.すなわち,ダルマキールティ自身は,内的

形象を,言葉の表示対象であるアポーハとは明言していなかったと考えられるのである 5

「牛」としづ単語と直接に接する対象こそが言葉の直接の意味である,としづ意味論の

原則を念頭に置いてであろう,シャーキャブッディは,三通りに語源解釈されたアポーハ

の内から,この第三のアポーハ(排除手段)こそが, r牛」の意味であるアポーハだ、と考

えたのである.これは,ダルマキールティ説の体系を整合性をもって捉えた結果である.

実際,ダルマキールティが内的形象に重要な役割を認めていたことは, PVin 2官頭の

5これは福田 20日の結論である ianyãpoha~ま,第一義的には誤った増益ないしは疑惑を排除するこ

とによって当該対象を理解させるという働きを意味するJに合致する.すなわち,ダルマキール

ティにとって「アポーノリの語義は,ディグナーガと閉じく,排除行為であった.

115

i[認識]自らの現れという非[外界]対象を, [外界]対象と思い込んで、J(PVin 46.7:

svapratibhase 'narthe 'rthadhyavasayena) とし、う文句からも明らかである.分別知は,認識

内の現れを対象として,それを外界対象と同一視するのである.分別知が直接に対象とす

るのは内的形象である.また,次のダルマキールティの発言は,アポーハがディグナーガ

の言う意味での「排除(行為)Jであることを認めながらも,言葉が直に接する指向対象

が分別知内の内的形象であることを明言したものである.

PV 3:164-165:

vikalpapratibimbe~u tanni斜批判 nibadhyate/

tato 'nyãpohani~thatvãd uktanyapohalqc c祉utiQJ/

vyatirekIva yaj jnane bhaty arthapratibimbakaml

sabdat, tad api narthatma, bhrantil) sa vasanodbhava/ /

[言葉は]それ(外界実在の能力が,同じ結果を持たないものから排除されること)

を指向する(=対象とする) <分別知における反射像〉に結びつけられている.それ

ゆえ,他者の排除を指向する(=対象とする)ので, i言葉は他者の排除を為す」と

[ディグナーガは]述べたのである.

言葉から,認識の上に, [外界]対象の反射像が, [認識とは]別個のものである

かのように現れるが,それも, [外界]対象それ自体ではない.以上の錯誤は,潜在

印象より生じるものである 6

外界の自相が個々に持つ能力は,或る共通の(厳密には「異ならないJ)結果をもたら

す.すなわち能力を異にするはずの個々の牛は, i牛」という同ーの判断知

( ekapratyavama1吻)を認識者にもたらす7 これにより,牛は非牛から排除されることに

なる.これが「外界実在の能力が[同じ結果を持たないものから]排除されることJ(PV

3:163c: bahya鈎ktivyavaccheda) である.ディグナーガの言う「非牛の排除j あるいは,ダ

ルマキールティにとっての「非牛からの排除Jは,ここに,個々の牛が持つ能力に根付か

せられる.或る共通した排除(普遍という実在する共通性に替わるべき共通性)を可能に

するのは,個々の自相が本来的に備えている能力である.排除を捉えてデ、イグナーガは「言

6 戸崎 1979:264-265参照.

7 Cf.片岡 201Oa:263: iクマ一リラが「一つの認識を作り出すことJという共通要素を持ち出して,

諸共通性にたいする「共通性Jという言葉の適用を正当化しようとしたのにたいして,ダルマキ

ールティはそれを逆手にとって彼のアポーハ論を裏付けたと考えられる. J

116

アポーハとは何か?

葉は他者を排除するJと言う.ダルマキールティにおいては,この排除を対象とする内的

形象が存在する.そして,言葉(および分別知)が直接に指向するのは,排除ではなく,

この内的形象である 8

ダルマキールティは,先行する PV3:163において,言葉が直接には排除を対象としな

いことを認めている.すなわち f[言葉は]外界実在の能力が[同じ結果を持たないもの

から]排除されることを[直接には]指向しないにもかかわらずJ (PV 3:163cd:

bãhya鈎ktivyavacchedani~thãbhãve 'pi)と述べている.ディグナーガは言葉が直接に排除(ア

ポーノ,)を対象とすることを認めていた.いっぽうダルマキールティは, (表面的にはも

8次の福田の理解は, wプラマーナ・ヴアールティカJ第一章のみを考察対象としているとはいえ,

後に第三章で明示されることになる内的形象と排除との関係(つまり内的形象が排除を対象とす

るという関係)を無視するものである. 福田 2011:64:rそれら表現形式が可能になるのは,語が

分別知に現れる形象に結び付けられ,それら実在対象に対応しない形象の聞の関係としてである。

しかしそこで言及されるapohaは,必ずしもこの二つの表現形式を前提とするものではないし,直

接その形象にも関係しない。 J 福田 2011:66: rこのようなanyapohaの理解は,これまで確認して

きたことと同じであり,特に修正の必要はない。と同時にそれが知における普遍的な形象の現れ

とは別のものであり せいぜい間接的な関係があるにすぎないのも前と同じである。」もちろん,

福田は冒頭において第三章を考察範囲に含めないことを断っている.福田 2011:57:r本稿が対象

としているテキストは,ダ、ルマキールティの『プラマーナ・ヴアールティカ』第一章の備とその

自注である。第三章にもアポーハ論は言及されるが,そもそも第一章と第三章の所説内容が同じ

であるとしづ保証はない。厳密に考えるならば,第一章と他の章とは切り離して考える方がよい。 J

ひとまず切り離して考えるべきであるとしづ態度には賛成する. しかし,第三章の記述をどのよ

うに解釈すべきなのか,それを全く無視してよいということにはならない.むしろ,第三章で明

示される考えが,第一章に脹胎していたと考える方が自然である.その意味で,内的形象と排除

の関係については,第一章においても「関係しなしリや「せいぜい間接的な関係があるにすぎな

しリと軽視するよりも,密接な関係があると見なす方が適切であると筆者は考える.すなわち福

田 2011:66の引用するPVSV39.l-4も PV 3:164-165で整理された視点(分別知→内的形象→排

除)から捉え直すべきであると考える.したがって, PVSV 39.2: tam [buddhipratibhasam] eva gr同州

[buddhi1).]は, r分別知は,分別知内の現れのみを直接に把握しているのだがJとしづ意味で解釈

するべきであろう.福田 2011:67も「普遍的な現れを把握している分別知が外界の実在を把握し

ているかのように現れるのだがJと敷街しているが, r区別を対象領域としているJという側面

に注意を向ける余り この前者の記述については軽視する結果となっている.

117

ちろんディグナーガの発言に矛盾がないことを強弁するが,本音においては)ディグナー

ガの発言が(第一義的には)適切ではないことを認めているのである.ダルマキールティ

の立ち位置が,ディグナーガとシャーキャブッディの間にあることが見て取れる.すなわ

ち,ディグナーガの「アポーノリの語義 (i排除行為J) を守りながらもへその実質的な

役割(言葉・分別知の対象)を,既にダルマキールティは,排除行為ではなく内的形象の

方に認めているのである 10

-ィ

イ一さ

ガテ一乃

一ルハ

J

ア一ル一

「アポーノ¥」の語義解釈

排除行為

排除行為

排除手段

言葉の直接の意味

排除行為

内的形象

内的形象

ジャヤンタ以前において,ダルマキールティの『プラマーナ・ヴアールティカ』は,シャー

キャブッディの注釈と共に読まれていたと考えられる.すなわち,シャーキャブッディの

理解したダルマキールティ説が,当時,ダルマキールティ説として理解されていたと推測

できる 11 だとすれば,ジャヤンタが「内なるアポーノリとしてダルマキールティを想

9この意味においてダ、ルマキールティの『プラマーナ・ヴアールティカ』第一章に関する福田 2011:58

の次の結論は全く正当なものである. r an)匂ohaは分別知における現れないしは形象ではない。

あるいは分別知に現れる形象がanyapohaで、あるわけではない。 J

1 0次の福田 2011の評価は,その意味では一面的に過ぎる.福田 2011:70:rこのような用例からす

れば,ダルマキールティの主張するapohaが,分別知における現れで、あったり,あるいは実在にお

けるsvalak明。aで、あるとする解釈も含めて,本稿の最初に言及したシャーキャブッディの三分類が

ダルマキールティの見解から離れたものであると言わなければならないだろう。そもそも,否定

的な働きを意味するapohaがどうしてsvalak~a1).aで、あったり, pratibhasaで、あったりすることができ

るであろうか。J福田は,ここで, apohaとしづ語が, apohakriyaのみならず, apohakarmanやapohakaraI)a

としても文法的に解釈可能であるという点を看過している.ディグナーガとダルマキールティの

連続性,および,ダルマキールティとシャーキャブッディの君離を強調するあまり,後二者の連

続性に全く注意を払おうとしない.福田の論述からは,なぜシャーキャブッディがそのような注

釈を行わねばならなかったのか,ということが全く浮かび上がってこないのである.その萌芽は

既にダルマキールティの中にあるというのが筆者の見方である.

1 1 Steinkellner 1981 :284:“the tradition of the school has indeed valued the commentary of Sakyamati as the

118

アポーハとは何か?

定していたとすることも,十分に首肯できることである.すなわち,シャーキャブッディ

の理解したダルマキールティ説を,ジャヤンタは内なるアポーハ説として提示していると

考えられるのである 12

1.4.ジャヤンタ史観の示唆するもの

以上からジャヤンタの想定する三段階が次のように整理されることになる.

1.ディグナーガ(クマーリラの解釈):外なるアポーハ(外界にある実在としての非

authoritative philological explanation of the Pr創n初av訂仕ikam."Steinkellner 1988:105:“it seems evident

that Sakyamati' s commentary on Dharmakirti' s PramalJ.avartika was considered an authoritative

explanation and served as a kind of standard work of reference in dealing with this text, one of the

traditions fundaments." Steinkellner 1988: 109:“It has already been known for some time that this

commentary was used by Buddhist and non-Buddhist authors alike when studying Dharmaklrti's texts." (参

照論文について岡田憲尚氏の教示を受けた.記して感謝する. )

1 2これにより,福田 2011の次の批判に答えたことになると思う.福田 20日:58,nふ「片岡氏の理解

では,ダルマキールティのアポーハとは,分別知に現れる内的な形象だということになる。」す

なわち,ダルマキールティのアポーハは内的形象で、はないのに,誤って(シャーキャブッディ,

赤松,片岡により)内的形象だとされている,ということである.筆者の目的はジャヤンタの提

示する三段階説を歴史に即して理解することにある.ジャヤンタは「内Jなる説を提示している.

そして,その候補者として考えられるのは,ジャヤンタの記述に即して推定するならば,ダルマ

キールティが最も自然であるというのが筆者の観察である. しかし,福田の指摘する通り,ダル

マキールティ自身にとって, rアポーノリの語義は内的形象ではなく排除行為である.では,ジ

ャヤンタの記述は間違いだったのであろうか.あるいは, r内」なる説をダルマキールティに帰

属させずにシャーキャブッディやシャーンタラクシタに帰属させるのが適当なのだろうか. しか

し,ジャヤンタの頭の中で,ディグナーガと同じグループにダルマキールティが入っていたとは

到底考えられない.第二説の「内」説の紹介の中で,第二説は,ダルマキールティの原文に即し

て説明されるからである(例えばKataoka2009:464(35), 93.2の記述) .ジャヤンタにとって,直接

の名指しが無いとはいえ,第二説はダルマキールティ説でしかありえない.そして,語義解釈は

ともあれ,モデルの内実において,ダ、ルマキールティは内的形象を言葉の直接の対象だと認めて

いる(片岡 2010a) .とすれば,筆者のここでの結論のように,シャーキャブッディに即して理

解されたダルマキールティ説というのが,ジャヤンタにとって「ダルマキールティ説Jとして理

解されていたと考えるのが最も適当ということになる.そして,ジャヤンタのそのような見方は,

ダルモッタラの『アポーハ・プラカラナ』に即した見方であると思われる.すなわち,ダルモッ

タラは,ダルマキールティの言う内的形象説を実質的に批判している.もちろん表面的には他の

注釈者の見解を批判する形を取ってはいるが,実質的に批判されているモデ、ルはダルマキールテ

イのものである rアポーノ"J の語義という表面的な問題ではなく,モデルの中身という点から

見た時,やはり内的形象説はダルマキールティに帰属させるのが適当である.その実質に即して

語義のずれ(ディグナーガ以来の用語法とのずれ)を解決したのがシャーキャブッディというこ

とになる.

119

存在がアポーハ)

2.ダルマキールティ(シャーキャブッディの解釈):内なるアポーハ(内的形象が排

除手段たるアポーハとして言葉の意味)

3.ダルモッタラ(ジャヤンタの解釈):非内非外なるアポーハ(内的形象でもなく外

界にある実在としての非存在でもない虚偽物)

赤松・ラトナキールティの見方においては,否定論のダルモッタラがダルマキールティ

から逸脱するのと同程度に,肯定論のシャーンタラクシタは,ダルマキールティから逸脱

したものと見なされる.しかし,ジャヤンタの視点からすれば,内的形象を認める論者は

自動的に全て第二説に入ることになる.すなわち,肯定論のシャーンタラクシタは,ダル

マキールティから逸脱するのではなく,むしろ,その系譜に自然と入ることになる 13

このように,シャーンタラクシタをダルマキールティの系譜に入れるか否かという点で,

赤松・ラトナキールティ史観と,ジャヤンタ史観とは相容れない.

最近の研究(棲井 2000,石田 2005) により,シャーキャブッディからシャーンタラク

シタへの連続性が指摘されるようになった.既に述べたように,ダルマキールティと

シャーキャブッディには連続性が見られる.だとすれば,ダルマキールテイ→シャーキャ

ブッディ→シャーンタラクシタは,肯定論への傾斜は確かで、あるとしても,あくまでも,

内的形象を認める第二説の枠中での展開と捉えるべきではないのか.肯定論に傾きすぎた

内的形象説を,否定肯定折衷へと逆の方向に修正したのがジュニャーナシュリーミトラと

ラトナキールティだと捉えるべきではないのか.

ジュニャーナシュリーミトラとラトナキールティにおいても,内的形象が果たす重要な

役割は変わらない 14 シャーンタラクシタは,内的形象が第一義的に理解され,否定が

含意されるという前後関係を唱えた.これに対して,ジュニャーナシュリーミトラとラト

ナキールティは,否定(他者の排除)に限定された肯定(内的形象)という同時性を主張

したまでである.内的形象を否定しているわけで、は全くない.その意味で,彼らの立ち位

置は,ダルモッタラよりもシャーンタラクシタに遥かに近いものであり,決して,同程度

1 3ジャヤンタが直接にシャーンタラクシタを知っていたと考える証左は『ニヤーヤ・マンジャリー』

には見られない.おそらく直接には知らなかったであろう.いっぽう,ジャヤンタが直接に知っ

ているダルモッタラは,シャーンタラクシタを意識していると思われる.

1 4彼等のアポーハ論のみならず,多様不二照明論においても,そのことは十分に確認される.ラト

ナキールティの「多様不二照明論j については護山 2011,2012の和訳を参照.

120

アポーハとは何か?

に離れているわけではない.同程度に離れているかに見えるのは, r否定・肯定・折衷J

という彼らの見方を取るからである.しかし「外・内・非内非外Jというジャヤンタの視

点を取れば,実際の距離の違いが正確に見えてくるのである.

この内的形象説の枠内にダルモッタラは収まることはできない.彼自ら,アポーハ論に

おける内的形象の働きを断固否定しているからである.もちろん彼は,ダルマキールティ

の注釈者として,ダルマキールティに公然と反することはしない.表向きは,ダルマキー

ルティに関する誰かの解釈(それはシャーキャブッディやシャーンタラクシタであろう)

を批判するだけである.しかし,既に述べたように,ダルマキールティは,内的形象に重

要な役割を認めている.ダルモッタラの批判は,実質的には,ダルマキールティまでも射

程に収めるものである 15

500 I 1.ディグナーガ

600 I 2.ダルマキーノレティ

700 シャーキャブッディ

シャーンタラクシタ

カマラシーラ

800 I プラジユニャーカラ

900

1000 ジュニャーナシュリー

ラトナキールティ

1ふダルモッタラの位置付け

アルチャタ

3.ダルモッタラ

ラトナーカラシャーンティ

内的形象を認めるか否かという分かれ目の背景のーっとして,形象真実論

(satyakaravada) と形象虚偽論 (al政akaravada)の対立があると考えられる.この対立そ

れ自体は主に無分別知覚(例えば青の知覚)に関するものであり,分別知に直接に関わる

ものではない.しかし,それと平行する形で対立がある.すなわち,分別知の対象である

形象に,実在性を認めるか否かという問題である.ジャヤンタは,これを, atmakhyatiと

1 5ダルモッタラのアポーハ論については 2010年にインド思想史学会で発表した論考で論じた.い

ずれ出版される予定 (Kataoka201?)である.

121

asatkhyatiの対立として明確化した.すなわち,認識それ自身の内部の現れとして或る程

度の実在性を保証される(ことになる)のが内的形象であるのにたいして,ダルモッタラ

にとって,分別知の対象は虚偽 (alIka) であり虚構 (aropita) に過ぎないものであり,単

純に「非有J(asat)で、あった.唯識流に言うならば,分別知の対象である内的形象を「他

に依存するものJ(paratantra) とするのか, r虚構されたものJ(parikalpita) とするのか,

としづ見方の違いとなろう.有相唯識と無相唯識の対立に平行する対立が見られるのであ

る16 この対立は,外界対象の上に内的形象を付託する(載せる),あるいは逆に言えば,

内的形象の上に外界対象性を付託するという意味での付託 (samaropa,adhyaropa)説と,

非実が虚妄分別され,無いものが誤って有るものとされるという abhutaparikalpaの意味で

の増益 (samaropa)説との対立とも捉える事ができる 17 あるいは, samaropaの内実をよ

り厳密に区別するならば,二者の対立は,唯識研究において言うところの二重構造(依他

起の上に遍計所執が付託される)と単純構造(遍計所執が増益される)の対立とも表現で

きる 18

内なるアポーハ 非内非外なるアポーハ

形象真実論 形象虚偽論

atmakhyati asatkhyati

依他起性 遍計所執性

付託 増益

二重構造 単純構造

この対立点は,ダルモッタラに十分意識されていたものである.すなわち,ダルモッタ

ラは,ダルマキールティが『プラマーナ・ヴイニシュチャヤ』で言う adhyavasayaに,い

1 6 有相唯識的な見方と無相唯識的な見方の対立構造があることについては片岡 2010a:272,n.59で、

指摘した.

1 7このような対立軸の意識は,形象虚偽論に立つラトナーカラシャーンティを批判する,形象真実

論のラトナキールティに明白に見られるものである.RNλ(Citradvaitaprakasavada) 136.21-22:凶 ha

hikapun訂 iyaITlbhranti.l)-asatkhyatir atasmiITls tadgraho va-yadabhavad idanIm eva muktir asajyate.護

山2012:135による和訳: rすなわち、この錯誤知一一それがなくなることで、まさに今、解脱が

起きるようなものーーとはそもそも、非存在の顕現 (asatkhyati)なのだろうか、それとも、 Xな

らざるものをXとして把握すること (atasmiITlstadgrahal))なのだろうか。 j

1 8単純構造・二重構造については北野 2010参照.

122

アポーハとは何か?

かなる肯定的な意味も認めない 19 分別知が内的形象を外界対象として把握すること

(grahaI)a)も(AP238.10-12),内的形象を外界対象とすること (karaI)a)も(AP238.12-13),

外界対象である自相に内的形象を結びつけること (yojana) も (AP238.13-14),内的形象

を外界対象に付託すること (samaropa) も不可能だというのがダルモッタラの理解である

20 ダルモッタラは,以上の四つの可能性 (grahaI)a,karaI)a, yojana, samaropa)をadhyavasaya

の可能な解釈として列挙した上で,一つ一つ否定している.特に最後の samaropaについ

ては,異時・同時というこつの下位分類の可能性を考慮、した上でそれぞれ否定する (AP

238.14-19, 19-21). 批判の最後に位置すること,及び,念入りに否定することから,特に

批判すべき最新の有力な説としてダルモッタラが意識していたことが窺える.

ここで注意すべきは,ダルモッタラ自身にとっての aropitaとは, r付託されたもの」

(superimposed)ではなく「虚構されたものJ(fabricated)であるということである.samaropa

は,無いものを有るとする増益仁真珠母員の上に銀を載せる付託という,二つの意味で

の解釈が可能で、ある.しかし,ダルモッタラ自身が用いる場合の aropaは,後者の付託で

はなく前者の増益の意味である.すなわち,無いものを有るとする虚構のことである.

では,ダルモッタラが特に念入りに批判するこの第四説の保持者一-adhyavasayaを付

託 (samaropa) と解釈する先行註釈家ーーとして,誰が考えられるのだろうか.筆者は,

その一つの可能性としてシャーキャブッディを挙げたい.シャーキャブッディは「それら

(個々の物)を存在として断定するから J (PVSV 76.24: te刊 [bhinnapadart批判]

bhavadhyavasayat) への注釈において次のように述べる 21

1 9 ダルモッタラが分別における内的形象の役割を否定することについては,片岡 2010a:271およ

びn.55参照.

20 AP 238.7-21, Frauwallner 1937:258-259,ロNVTf441.8-22. この箇所の研究に赤松 1984があるが,

彼はダルモッタラの真意を完全に取り違えており,ダルモッタラを付託論者と結論付けている.

ダルモッタラにとっての aropitaが付託対象で、はなく虚構対象であることは,次のジュニャーナ

シュリーミトラの言い換えからも明らかである.JNλ230.4: aropitam ity api kalpitam evocyate.すな

わち,ダルモッタラの aropitaは, kalpita( =kalpanakarman)と置換可能なものである.それは rxの

上に載せられたYJ としづ意味での付託の対象Yではない. aropita=kalpitaは,単に分別知の対象

というだけでなく, abhutaparikalpaの意味で、の虚妄分別・概念的構想作用の対象としづ意味合いが

強い.だからこそ aropita(=abhuta)は, nistattva, alIka, avas旬, na kIIllcitという形容句と自然に結び、つ

く.ここにジャヤンタはasatkhyatiのasatとの類似を見出すのである.

2 1ダルマキールティ自身の意図するところは「共通性を捉える分別知は外界実在が在ると思い込む

から」くらいの意味だ、ったと思われる.PVSVTの対応箇所は以下.PVSVT 300.21-24: te~u bhinne~u

123

PVT ad PVSV 76.24, Inami et al. 1992:7, Ca 7: te~u bhinne~u vastu~u *svapratibhasasya

bhavatvenadhyaropat. dがyavikalpyavarthav ekilqtya pravrtter ity arthal).. etad uktarp

bhavati-yasmad bhinnavastudarsanabalenotpadyate, *utpanna ca svapratibhasarp

bhinne~u vastu~v aropya vartate ...

*svapratibhasasya] corr.; svapratibhasyasya ed. *utpanna ca] corr.; utpannat ed. 2 2

それら個々別々の実在の上に, [認識]自らの現れを存在として付託する(載せる)

からである.知覚対象と分別対象とを一つにしてから働くから,という意味である.

次のことが言われたことになる. [共通性の認識は]個々別々の実在を知覚するこ

とで生じてくる,そして[そのようにして]生じてきた[共通性の認識は]自らの

現れを,個々別々の実在の上に付託してから働く,それゆえに・

興味深いことに,ここでシャーキャブッディは,ダルマキールティの adhyavasayaを

adhyaropaと置き換える.シャーキャブッディにとっては,ダルマキールティが言うとこ

ろの「断定J(adhyavasaya)や「知覚対象と分別対象とを一つにすることJ(ekikarat;la)は,

知覚対象の上に分別対象である内的形象を付託すること(載せること)と置き換えられる

もので、あったのである 23 この断片から,ダルモッタラの批判する付託論者の一人とし

svalak~aI)e~u bhavadhyavasayat svakarabhedena svafUpadhyavasayat. dr勾ravikalp[y]ayoreldlqtya pra可抗er

ity arthal).. yasmad bhinnavastudarsanabalenotpadyate buddhil)., utpanna ca t面lyeva bhinnavasruni

svakarabhedena pratipadyate, tasmad bhedavi号ayatvambhinnavi~ayatvam ity arthal)..

22写本を再度確認して戴いた校訂者の稲見正浩氏によれば,写本の読みはゆtpadyate'tpannぬvaーのよ

うに見えるとのこと.なお,チベット語訳では,この個所はskyesnas ( r生じてからJ)となって

いる.Tibの前後は以下の通り. de skad du g泊 giphyir dngos po thadad pa mthoti ba'i stobs kyis bskyed

pa nid skyes nas r姐 gisn泊 bala dngos po tha dad pa dag印 sgrobtags nas 'jug pa de'i phyir/ tha dad pa'i

yulla yati 'di bsad pa yin no zes bstan par 'g)唱rro//

utpanna ( r生じた[認識]はJ)を「生じてから[認識は]Jと訳したともみなせる.ただし aropya

の個所もsgrobtags nasと訳されているので、absoluteの可能性も否定で、きない. utpadyateの箇所も

bskyed pa nidとあり,このnid(eva?)も少し気になるところである. (以上の注記内容に関して教

示を戴いた稲見氏に感謝する. )

23この付託解釈は,ラトナキールティにまで継承されることになる.ただし,ラトナキールティに

至っては,恐らくダルモッタラの細かい批判を念頭に置いてであろう,付託の実質的な意味は失

124

アポーハとは何か?

て,シャーキャブッデイの可能性が浮上してくる.なお, Xの上にYを載せるという意味

で, samaropaもadhyaropaも同様に用いられるので,ここで, adhyaropa=samaropaとする

ことに問題はない 24. samであれば i(載せて)一緒にする」としづ側面が強調され, adhi

であれば iXの上に(載せる)Jとしづ側面が強調されることになる 25

われ,名称だけが護持されている. RNλ137.3-5:鈎strecatasmirps tadgrahat

svapratibhase 'narthe 'rthadhyavasayad dがyavikalpyayore恒kara1}.adbhrantir uk信.tam ayarp

sam訂 thayitumasamartha1;l svatantrye1}.a1ikasphura早arpbhrantir iti kavyarp viracayya vistarayati.護山

2012:136による和訳:rまた、 (ダルマキールティの)論書(鈎stra) の中では、 (ある認識が、)

XならざるものをXとして把握し、目的対象ならざる自らの顕現を「目的対象Jと実体視し、知

覚対象 (drsya) と概念 (vikalpya) とを一つにしているから、 (それが) r錯誤知」として述べら

れている。そのような(錯誤知)を証明することはできない者が、勝手に (svatantry切 a) r虚偽

の顕現が錯誤知である」という物語 (kavya)を作り、広めている。 JRNλ138.14: na vayam arope1}.a

pravrttirp briima1;l, kirp tarhi svavasanaparipakava錫dupajayamanaiva sa buddhir apasyanty api bahyarp

bahye pravrttim atanoti.護山 2012:142:r我々は「付託により行為を起こす」と述べているわけでは

ない。そうではなく、その認識(=概念知)は、自らの潜在印象が成熟することに基づいて生じ

ており、外界を(直接的に)知覚しているわけではないが、外界に向かう行為を生み出す(と述

べているのである) 0 J RNA 138.26: tasmad avicararama早Iyo'tasmirps tadgraha eva bhrantir

aropap訂 加盈na,tat~ayas ca mok卵 iti卯 ktam.護山 2012:144:rしたがって、錯誤知とは、 Xならざ

るものをXと把握することに他ならず、それはまた、 「付託Jという別名をもっ。それは、考察

されない限り喜ばしいもの (avicararamaポya,=世俗的なもの)であり、解脱とは、それが滅する

ことである。 J

24 Cf.針貝 2011:251, n.16: r samaropita-とadhyaropita-と接頭辞の相違はあるが,両語は同一事を

表しており,主張する敵者は同ーと考えられよう。 J針員2011は,クマーリラの隠喰論に登場す

る付託説(針貝は負わせるとしづ意味を取って「負託」と訳す)について詳しく論じている.決

定的ではないにせよ,クマ一リラの言及する付託説は仏教徒に帰せられる可能性が高いとのこと

である(針貝 2011:250).

2 5 ダルマキールティは,付託を意味する語としてはadhyaropaで、はなく samaropaを多く用いる.例

えばPV1:44は真珠母員の上に銀の形象を結び付けること(sarpyojyeta…suktau va r司atakaral))に言及するが,その自注においてダルマキールティは,この真珠母貝への銀の形象の結び付けを「銀

の付託J (PVSV 26.20:吋atasamaropal))と言い換える.またこの用例は, yojanaがsamaropaと密接

な関係にあることも示唆しており,ダルマキールティの見解に基づきながら付託説を導く一つの

背景になりうるものと考えられる.いっぽう用例の少なし冶dhyaropaで、あるが,例としては「一つ

の自性を欠いた諸対象の上に,それ(一つの自性)を載せてから生じてくる……と思い込みつつ

ある……錯誤知を……J (PVSV 58.6-9: ekasvabhãvarahite~v arthe~u tam adhyaropyotpadyamanarp ...

125

また共通性の認識が本質的に錯誤であることを説明する個所においてシャーキャブッ

ディは, I個々別々のものに非別性を付託することで働くからJ(bhinne~v abhedadhyaropeI)a

vrtteh) と述べている 26 個々ぱらぱらの自相群をまとめる分別知の働きが非別性を載せ

るという付託にあることを,ここでも彼は明らかにしている.

なお,以上でシャーキャブッディは,外界対象の上に内的形象を載せるという上下構造

を考えている. しかし, PVin 2冒頭 (svapratibhase'narthe 'rthadhyavasayena) を付託説に

従って解釈した場合,あるべきは,内的形象の上に外界対象を載せるという逆の上下構造

である.しかし,両者はシャーキャブッディにとっては交替可能な説明方法であったと思

われる.というのも,次のような表現がシャーキャブッディに見られるからである.

PVT ad PVSV 76.24-25, lnami et al. 1992:8, Cb 2: yathaiva

bhinnavastusvabhava * grahyanubhavabalenotpa[ nna ani]tyadibuddhayal). svapratibhase

bhinnabhavadhyaropeI)a pravartante, ••• 2 7

adhyavasyantIrp…mithyabuddhirp)がある.ここでもXの上にYを載せるという付託の構造は一貫

している.すなわち,多くの対象の上に,本来そこには存在しない一つの自性を載せるという構

造である.興味深いことに,同じ一文で、ダルマキールティはadhyavasayaにも言及している.ダル

マキールティにとって, adhyaropaとadhyavasayaが同じ現象を異なる視点から分析したものである

こと,両者が密接な関係にあることが,ここからも分かる.

2 6 Inami et al. 1992:6, Bb 3. =PVSVT 297.26: bhinne~v abhedadhyarope加可 抗el)..

27写本欠落部分の括弧[•.• ]の原文は,対応する PVSVTにより補完した.PVSVT 300.27-28: yathaiva

bhinnavastusvabhava *grahyanubhavabalenotpanna 組 ityadibuddhayal). svapratibhase

bhinnabhavadhyavasayena pravartamana bhedavi~ayãl).,…

*grahyanu-] emend.; grahy面lU-ed.

興味深いことに,カルナカゴーミンは,シャーキャブッディの adhyaropeQ.aをadhyavasayenaに変

更している(太字部分).彼が付託説を意図的に回避していたことが窺われる.背景として,ダル

モッタラの付託説批判があり,それを考慮して意図的にシャーキャブッディの付託説を引っ込め

たのではないかと推測できる.実際,彼は, PVSVTにおいて付託説を明確に否定している(次の

リファレンスについては岡田憲尚氏の教示に感謝する). PVSVT 170.27-30: drsyavikalpyav ek政rtya

pravrtter iti vadata na svakare bahyaropa ity uktam bhavati, anyatha svakara eva pravrttiprasatigat.

marIcikayarp jalaropad iva. napi bahye svakararopal)., aropyamaQ.aphalarthitvenaiva pravrttiprasatigat.

jalarthina iva jalabhrantau. rw知覚対象と分別対象とを一つにしてから[人々は]発動するので』と

[ダルマキールティが]言う時,彼によって, [認識]自らの形象の上に外界対象が付託されると

述べられた訳ではない.さもないと(=もし付託されているならば), [認識]自らの形象のみに

126

アポーハとは何か?

*grahyanu四]emend.; grahyanu-ed.

ちょうど,個々別々の実在それ自体を把握する新得経験のおかげで生じてきた「無

常」等の認、識が, [認識]自らの現れの上に,別異性を付託する(載せる)ことで

働くのと同じように-

yathaiva以下でシャーキャブッディが記述するのは,上の引用 (PVTCa 7) の内容の要

約である.上の引用では,外界対象の上に内的形象が付託されるという上下構造が描かれ

ていた.いっぽう,同じ内容が,ここでは上下が逆になって描かれている.内的形象の上

に別異性 (bhinnabhava=bhinnatva) を付託する(載せる)としづ構造である.すなわち,

内的形象の上に外界対象性(個々別々である外界のものであること 28) が付託されると

いう構造になっている.

以上から,シャーキャブッディにとって,外界対象の上に内的形象を載せるという上下

構造と,内的形象の上に外界対象性(彼の言葉では別異性 bhinnabhava) を載せるという

逆の上下構造とは,同じ事象を説明する交替可能な二通りの見方と理解されていたと推測

向かつて発動があることになってしまうからである.ちょうど陽炎の上に水を付託することで[陽

炎に向かつて人が発動することがないの]と同じである.また外界対象の上に自らの形象を付託

するわけで、もない.付託対象のもたらす効果を求めてのみ発動があることになってしまうからで

ある.例えば水の錯誤の場合に,水[のもたらす潤し]を求める人が[陽炎のもたらす効果を求

めて発動することがないの]と同じである.(内的形象の効果を求めて人が発動することはない.) J

なお,ダルマキールティの記述 (PVSVad 1 :98-99ab, 50.8: abhutakarasamaropad bhrantir iti cet) を

説明する際に,カルナカゴーミンは,陽炎の比喰に言及する (PVSVT208.10-15) .そこで彼は,

陽炎の上に(目の前になく別の場所にある)水の形象(水性)を付託することで錯誤があるとす

るミーマーンサ一説を否定する. ミーマーンサ一説の問題は,水の錯誤が,他の場所にある水の

形象(水性)を把握しているとする点にある.すなわち,場所が問題なだけで,水性を捉えてい

ることに変わりはないとする点に問題がある.付託説においては,付託対象である水の実在性が

或る程度保証されることになってしまうのである.カルナカゴーミンが付託説を嫌う理由のーっ

として,付託説のこのような構造的問題が考えられる.内的形象を付託するとしづ仏教内の説に

関して,それでは内的形象の実在性が保証されることになってしまうというのは,ダルモッタラ

が問題視したことでもある.

28カルナカゴーミンは, bhinnabahyabhavaとも表現する (pVSVT300.29) .

127

できる 29

いっぽう,ダルモッタラにとり,ダルマキールティの言う「自らの現れという非外界対

象を外界対象と思い込むJとは,両者を区別できていないこと,すなわち,区別判断の欠

如 (bhedanadhyavasaya) とし、う否定的なもので、あった 30 それは,上の第四の可能性に

言うように,内的形象を外界対象に付託すること(あるいは外界対象性を内的形象に付託

すること)ではありえない.分別知が内的形象を知覚した後に外界対象の上に付託するこ

とは,分別知という認識が二瞬間持続しないので不可能である.また内的形象を知覚する

と同時に外界対象の上に付託するという場合,内的形象の知覚と同時であるので,付託は

内的形象を欠いたまま行われることになってしまう.以上から,異時でも同時でも付託は

不可能ということになる.

結局のところ,分別知の対象としては,付託の対象となる内的形象のような実在ではな

く,虚偽・非実在である虚構されたもののみが残ることになる (JNA230.1: avastu

vikalpavi~aya iti) .それは付託の対象となるような積極的な存在ではなく,単なる虚構物に

過ぎないのである.それは, i非実の虚妄分別J(abhutaparikalpa) の対象であるところの

、非実在であり,非有である.

単純なる非有 (asat) という非存在を分別知の対象として据え直したという点では,ダ

ルモッタラの着想、は,ディグナーガへの原点回帰を図るものである.すなわち,ディグナー

ガにとって,アポーハという他者の排除は,その実質において,単なる非存在でしかなかっ

た.それはクマ一リラが歪めたような外界に実在する非存在ではなく,無色透明な単なる

非存在であり無である.ディグナーガにとり,普遍に限定された個物 (tadvat) は,普遍

を介在させる以上,他に依存した非独立のものであり (PS5:4a: asvatantratvat) ,直接的な

意味ではなく第二義的であると批判可能で、あった (PS5 :4b: upacarat)

29両者が交替可能なものとして捉えられていたことは,次のラトナキールティの記述(反論者)か

らも裏付けられる. RNλ138.12-14: nanu ca sadrsyaropel).a, kiQ1 svakarasya bahye svakare va

bahyasyaropal). ubhayathapy asaQ1gati]J, ãropyãropavi~ayayol) svakarabahyayor dvayor grahal).asaQ1bhavad

iti cet.護山 2012:142:I【問】だが、 (外界との)類似性に基づく付託(sadrsyaropa)によって(行

為が引き起こされるの)であれば、外界に対して(認識)自身の形象を付託するのか、それとも、

自身の形象に対して外界を付託するのか(という疑問が起きる) 0 (そのいずれかの付託しかな

いわけだが、)いずれもが正しくない。(認識)自身の形象と外界という,付託されるもの (aropya)

と付託の対象(ãropavi~aya) とを二っともに把握することはできなし、からである。」

30めlayama考;arえKataoka2009:463(36)-461(38),94.2参照.

128

アポーハとは何か?

これに対して,アポーハとしづ非存在に限定された存在は,他依存的・第二義的とはさ

れない.すなわち,言葉の指示機能は,普遍を透過できないのにたいして,非存在を難な

く透過する.非存在による介在はないとディグナーガは考えていたのである.

ダルモッタラが「非外j と言う時,第一に念頭にあったのは,実在論者のいう外界実在

としての普遍とは異なるという意味であったと思われるが 31,それは同時に,クマ一リ

ラによって歪められたアポーハ一一外界実在としての非存在ーーをも含意しうるもので

ある.少なくともジャヤンタは「非外」を,クマ一リラの見方に沿って外なる非存在と解

釈している.その意味では,ダルモッタラの「非内非外j なる規定は,一方においてダル

マキールティの内的形象説を排し,他方においてクマーリラ的な歪曲を修正しながら,

ディグナーガ説への原点回帰を図るもので、あったと見なすことができょう.

ジャヤンタの頂からアポーハ論史を術撤すると,これまでとは違った風景が見えてくる.

ラトナキールティの他にジャヤンタという(仏教伝統外の)測量点を追加することで,測

量精度は従来より向上するはずで、ある.ジャヤンタの見方がどの程度客観的であるのかを

判定するには,さらに,ダルモッタラの『アポーハ・プラカラナ』に基づいて,詳細な裏

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134