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第1章 トヨタで生まれた A3報告書 トヨタが魅力ある車を次々と世に出せるのはなぜか。世界中のメーカーと研究者が競うよ うにその秘密を探った。強さの源泉は「主査制度」にあると見て、今ではどの自動車メーカ ーにも「チーフ・エンジニア(主査)」というポストがある。しかし、そのほぼすべての会 社が、「わが社のチーフ・エンジニアは、『トヨタのチーフ・エンジニアのように』機能する ことはできないのです」と口を揃える。なぜならトヨタの車開発は、主査本人の卓越した能 力と、それを最大限に活かす経営トップの指揮と指導、組織としての日常的な「働き方」の すべてによって成り立っており、制度をつくれば機能するというものではないからだ。巨大 企業でありながら活気ある開発プロセスであり続けるという、そのすべてを真似ることは非 常に難しい。 トヨタの主査のあり方の原点は、初代主査・中村健也氏が体現したリーダーシップと、そ れを可能にした豊田英二氏の決断と行動にある。中村健也氏の技術への非常に深い洞察と優 れた構想力、権力によってではなく、行動と、技術に裏打ちされた言葉によって人の心を動 かし、人々が自ら行動するように仕向けるコミュニケーションの力は個人の資質と弛まぬ研 鑽の集積であったが、トヨタではその後も長谷川龍雄氏をはじめとする優れた主査たちが車 づくりを率いていった。これはトヨタが、組織として個人の資質を見抜き、挑戦を与え、能 力を最大限に引き出す方法を絶えず研究し、日々の仕事の中で「学ぶことを学び続けてき た」結果と言うことができる。 本章は、ある時期からトヨタの製品開発プロセスにおける重要なツールの 1 つとなった、 A3報告書のスナップ・ショットを描く。トヨタでは、ある1つのツールだけを取り上げ て、「これが強さの秘密」と言挙げすることをよしとしないが、トヨタの製品開発部門がい つ、なぜ、どのような形で A3 報告書を使い始め、それがトヨタの製品開発のパフォーマン スや人財育成にどのように貢献したかという歴史的事実をたどることは、活気ある製品開発 プロセスを築くための、より深い理解への助けとなるはずだ。

トヨタで生まれた A3報告書 - Nikkan...10 誰も彼もがA3で ―― 新車進行会議と50枚のA3報告書 1980~90年代においてトヨタの毎月の新車進行会議では、毎回50枚ものA3報告書が使われ

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9第1章 トヨタで生まれたA3報告書

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第1章

トヨタで生まれたA3報告書

トヨタが魅力ある車を次々と世に出せるのはなぜか。世界中のメーカーと研究者が競うようにその秘密を探った。強さの源泉は「主査制度」にあると見て、今ではどの自動車メーカーにも「チーフ・エンジニア(主査)」というポストがある。しかし、そのほぼすべての会社が、「わが社のチーフ・エンジニアは、『トヨタのチーフ・エンジニアのように』機能することはできないのです」と口を揃える。なぜならトヨタの車開発は、主査本人の卓越した能力と、それを最大限に活かす経営トップの指揮と指導、組織としての日常的な「働き方」のすべてによって成り立っており、制度をつくれば機能するというものではないからだ。巨大企業でありながら活気ある開発プロセスであり続けるという、そのすべてを真似ることは非常に難しい。

トヨタの主査のあり方の原点は、初代主査・中村健也氏が体現したリーダーシップと、それを可能にした豊田英二氏の決断と行動にある。中村健也氏の技術への非常に深い洞察と優れた構想力、権力によってではなく、行動と、技術に裏打ちされた言葉によって人の心を動かし、人々が自ら行動するように仕向けるコミュニケーションの力は個人の資質と弛まぬ研鑽の集積であったが、トヨタではその後も長谷川龍雄氏をはじめとする優れた主査たちが車づくりを率いていった。これはトヨタが、組織として個人の資質を見抜き、挑戦を与え、能力を最大限に引き出す方法を絶えず研究し、日々の仕事の中で「学ぶことを学び続けてきた」結果と言うことができる。

本章は、ある時期からトヨタの製品開発プロセスにおける重要なツールの1つとなった、A3報告書のスナップ・ショットを描く。トヨタでは、ある1つのツールだけを取り上げて、「これが強さの秘密」と言挙げすることをよしとしないが、トヨタの製品開発部門がいつ、なぜ、どのような形でA3報告書を使い始め、それがトヨタの製品開発のパフォーマンスや人財育成にどのように貢献したかという歴史的事実をたどることは、活気ある製品開発プロセスを築くための、より深い理解への助けとなるはずだ。

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誰も彼もがA3で ―― 新車進行会議と50枚のA3報告書

1980~90年代においてトヨタの毎月の新車進行会議では、毎回50枚ものA3報告書が使われていたという。

主査が指揮するクラウン、マークⅡ、ランドクルーザーといった車種ごとの開発進行状況と、ボディーやエンジンなど機能別部門ごとの課題の進行状況を、新車進行会議の幹事役(当時は生産管理部)が関係者・部門と協力しながらA3報告書の形にまとめる。新車進行会議の司会は専務または常務で、出席者は関係部門の部長級以上。聴講者席も含めると、200人を超える大きな会議だ。会議の場では重要事項が粛々と確認され、議論され、決めるべきことが決められていく。

いくつもの新車開発が同時並行で進んでいる。車種ごとの課題もあれば、車種を横断する課題もあり、マトリクス状に関係し合う。調整や決断が必要な案件は常に多数存在している。

それゆえ新車進行会議のA3報告書は50枚にもなっていたのだが、これを役員以下関係者全員が「ものすごい速度で」読み込むことができた――と聞けば、みなさんは驚くかもしれない。毎月50枚。ドサッ!という音が聞こえてきそうだ。

*        *        *

実は、やってみるとわかるが、慣れると誰でもあまり苦労せず短時間で50枚読める。A3報告書がストーリーを語る共通の枠組みを1枚の紙の上で提供してくれるからだ。読み手はダイレクトに中身に集中できる。全体を概観しつつ、ある部分にズーム・インして深く考え、再びズー

トヨタの新車開発のマトリクス構造(イメージ)

クラウン

マークⅡ

カローラ

○○○

機能別部門

主査

主査

主査

主査

大部分の技術者は機能別部門に所属、必要に応じてプロジェクトに割り当てられる

50枚の A3報告書!

デザイン ボディー シャーシー エンジン 試験

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11第1章 トヨタで生まれたA3報告書

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ム・アウトして全体のストーリーの中でその部分を見返すといったことも、1枚の紙の上だから、なめらかにできる。

どの国でも、どんな分野の仕事でも、同時並行で進む複数のプロジェクトのマネジメントにおいて、ムダを省いて質を高める上でA3報告書が大きな力になっている。製品開発のみならず事務やサービスの仕事でも、大学の先生が学生を指導するのにも、そして当然ながら製造部門でも、ミクロからマクロまで仮説-検証のサイクルを速く回し、「もっといい仕事をする」のにA3報告書が役立ってきた。

さらに、日常的にA3報告書を使って読み書きを続けていると、プロジェクト・マネジメントだけでなく、個人と組織の考える力を大きく伸ばす助けになることが、多くの人の実感として徐々にわかってきたのだ。

1つは、一人ひとりの考えを深める「個人の本質思考」である。ここでは「あなた」に加えて「メンター」が要る。A3報告書は一人でも書けるが、あなたの

思考の力は、メンターとの対話を通してこそ花開く。たとえばこんな具合だ。まず左上にタイトルを書く。内容を端的に表す、印象的でシンプルなタイトルが望ましい。ここであなたが仮に

「回路設計の改善」というタイトルを書いたとしよう(ありがちなタイトルだ)。メンターはおそらくこう言う。「そうだね。この場合の『改善』って何かな? 何に困っているのかなってちょっと思うけど、今はこれで進めてみようか。だんだん問題がはっきりしてきたら、もっといいタイトルを思いつくかもしれないしね」――要するに、「このタイトルは未熟。問題を明確にとらえていない」ということなのだが、メンターは「ダメ」とも「いい」ともはっきり言わない。言わないのはあなたのご機嫌をとるためではなく、あなた自身に考えさせるためだ。

あなたは、「自分は何がしたいのだろう?」と自問して、タイトルを「回路設計の手戻り削減」と書き変える。メンターは依然として「いい」とも「悪い」とも言わない。「そうだね。もう少し問題をよく見て、考えながら、先へ進んでみようか?」――あなたは再び考える。回路設計で、誰が、どんなことで、どれだけ困っているか――本当のところ、よく調べなければわからな

個人の本質思考を育む

Title: 回

路設計の手戻り削減

Backgro

und(背景)

Current S

ituation

(現状)

なぜあなたがそれに取り組むのか?

?? ?

本人

メンター

建設的な対話を通して力を引き出す

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いと気づく。

続く最初の箱(背景)の解説には、「なぜあなたがそれに取り組むのかを書きなさい」とある。今のままではまずいことはわかっている。あなたは、自分自身もメンターも納得させるだけのすっきりした説明をしなくてはならない。ここで、あなたが「このままではよくないから」とか

「気になって仕方がないから」としか言えないのなら、それはまだ思考が浅い証拠だ。「なぜ」「あなたが」「それ」を最初から簡潔に書ける人はまずいない。簡潔に言えるはず、言

うべきことのはずなのに、最初のうちはよく考えないと言葉にできない。こうして、1つの箱を埋めるごとにメンターに相談してはまた考えて修正し、箱を行きつ戻り

つしながらタイトルまでも書き変えて……というキャッチボールを繰り返すうち、思考が徐々に深まっていく(A3報告書の箱は、背景、現状、ゴール、分析…と続いていく)。自分が何をわかっていないのか、それぞれの箱の段階ではっきりわかるようになってくる。箱が進むたびに、先読みの力がついてくることをあなたは実感するだろう。

こうなれば、しめたものだ。

「あれには痺れた」「ぐっときたね」と言われるような本質に触れたA3報告書をつくるには熟練が要るが、「それなりにまともな」レベルにはすぐに到達できる。解決しなければならない課題や問題は次々にあなたの眼前に現れる。これらをA3報告書に描き、メンターと対話し、関係者から意見をもらってまた考えるということを日常的に繰り返すたびに、あなたの本質思考は深まっていく。

そして、ストーリーである。どんなに斬新なアイデアでも、ぴったりくる文脈の中で活かさなければ結果につながらない。実務でA3報告書を使った本質思考を続けていくと、「ストーリーがおかしいかどうかは、A3をぱっと見ればすぐわかる」という一見ミステリアスな能力の開花に至るのにも、そう長くはかからない。

不思議な能力である。経験豊かなメンターは、あなたのA3報告書をさっと見ただけで、いきなりある一点を指さす――「ここ、ちょっと気になるよね」。あなたは自分のA3報告書をじっと見る。確かにストーリーに無理がある。飛躍がある、あるいは、余分な情報が文脈をわかりにくくしていると気づく。

A3報告書は1枚の紙だから、背景、現状、ゴール…と続くそれぞれの箱の大きさは限られていて、余分なことを書くスペースはない。あなたは、調べに調べて、多くの情報を持っているはずだ。しかし、調べたことのすべてを1枚の紙の上に書くことはできないし、かえって文脈をわかりにくくしてしまう。A3報告書を書くことは、たくさんの情報の中から本当に必要な情報だけを選んで簡潔に表現し、あなたの考えていることを説得力あるストーリーとして描き出す反復訓練でもあるのだ。経験豊かなメンターが、ぱっと見ただけでストーリーのおかしい部分を指させるのは、この蓄積のなせる技である。

もう1つの「考える力を伸ばす」とは、「組織としての本質思考」である。

「A3報告書って、要するに『型にはめる』ということでしょう? コミュニケーション・ツールとしての有効性は理解できるけれど、一人ひとりに創造性を存分に発揮してもらうためには、むしろ邪魔になるのでは?」という声を私たちは長い間聞いてきた。

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13第1章 トヨタで生まれたA3報告書

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何万人に一人の天才ならそうかもしれない。しかし、普通の組織は大多数の普通の人で成り立っているのだ。創造性に秀でた人だけを集めて集団をつくることは可能でも、その集団が考える力を結集して良い結果を出せる組織になれるかどうかはまったく別の問題と誰もが知っている。少し難しい言い方をすれば、「組織能力構築のマネジメント」ということだ。

A3報告書の作成を通して一人ひとりの思考がまず深まる。その深まった思考プロセスをA3報告書の形で蓄積すれば、再現も可能だ。再現のスピードは非常に速い(慣れれば慣れるほど速くなる)。共有すれば他の人もあなたの思考プロセスを知ることができるし、あなたも他の人の思考プロセスから学べる。組織としての学びのサイクルが素速く回る。100%とは言えないが、かなり上手くやれる。DNA転写に例えられることがよくあるように、これは進化によく似たプロセスだ。そうであるなら、転写ミスも突然変異も淘汰もしかるべくして起こる。時代に合った機能と構造が発現していく一方で、あるものはそれが必要になるずっと先の時代まで、DNAコードの中で発現を待っているのかもしれない。

一人ひとりの力を最大限に引き出して組織として活かそうとするのは、第一には目の前の課題を解決して前進するためである。狙った成果が得られて、みんながハッピーになれる。次の課題に進める。発表資料を綺麗につくるためではなく、実務上の必要からやることだ。しかし、リーダーはそれ以上の意味があることを知っている必要がある。それは、組織は時にリーダー個人の能力を超える力を発揮できる可能性があると仮定することだ。つまり、「私の部下たちは私より賢い」と仮定する。可能性をつぶしてはならない。「人間性尊重」とは相手の可能性を尊重することだ。「うちは部下がダメだから」と言うのは「自分がダメ」と言っているのと同義である。

類稀なる優れたリーダーの命令一下、細部に至るまで指示通りキビキビ動く「良い組織」は常に合格点を取るが、リーダーの能力を超えて「もっと良くなる」ことは難しい。なぜなら、あなたが優れた指示を出せば出すほど、部下たちは何もかもあなたの言葉に従った方がいいと感じるからだ。部下たちの成長を待つより、進みも速いかもしれない。しかし、これでは組織としての能力があなた自身の能力を超えることは困難だ。いつか行き詰る。「私の部下は私より賢い」という仮定が実証される日は必ず来る。どんなに歩みが遅くとも、

組織の思考は進化するからだ。多くの目と頭でものを見ることで、優れたリーダーの見方とは異なる見方が養われる。当面の課題を上手くこなしながら、忍耐強く部下を育てて組織の進化を促すことは、リーダーの重要な責務である。これには時間も手間もかかる。大きな仕事になればなるほど、部下も関係者も増える。時間をかけてでも個人の成長と組織の進化の促しを上手くやら

組織として本質思考を育む

― 共有・再現・転写、そして、もっと良いアイデアへ ゴール

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なければ、生き抜いていけない。この過程で、あなたは1枚のA3報告書が当面の課題解決のツールとしても、個人の成長と組

織の進化を促すツールとしても、有効に機能することに必ず気づく。

*        *        *

このように、A3報告書には大きな可能性が秘められている。開発部門のように創造性発揮を求められる職場、非定型業務ばかりの職場でこそ、その美点は生きる。それを描きたい。これが本書の意図だ。

私たちは、単なる紙の書式に過ぎないA3報告書を魔法の杖と主張するのではない。唯一絶対のツールであるとも言わない。今日では、思考プロセスを電子空間に蓄積・共有する高度なITツールはいくつもある。1つ言えるのは、A3報告書の可能性を知ることで、あなたはおそらくそれらのツールをもっと上手く、組織的に活かせるようになるということだ。

*        *        *

トヨタの新車進行会議に話を戻そう。もちろん、その会議の場で初めて当該のA3報告書を目にするような参加者はいない。すべてのA3報告書を誰もが同じ精度で細かく読み込むのでもない。重要なこと、難しいこと、意見が分かれていることは、関係する人々にあらかじめ「根回し」した上で会議に臨む。新車進行会議は主として重要事項の確認の場であり、議論されるのは事前の根回しで課題として残ったものだけだ。真にムダの少ないスマートなやり方である。

新車進行会議では、的外れな議論で時間を浪費するようなことはなかった。あり得ないと言っていい。役員主催の会議で、出席者は全員、見識も能力もその職責にふさわしい人たちです。もしも、ある議論がおかしな方向に行ってしまったとしたら、それは、そのA3を書いた当人が仕事をしていないということ。幹事役も、「何を見ていたんだ」と責められる。そんなことはまず起きないけれど、もし会議の席で紛糾してしまったら、簡単には修復できない。だから、必要なことは前もって相談して、合意に持っていった上で会議に臨む。いいクルマをつくるために、それぞれが常に努力する、互いに協力する、助け合う。トヨタでは当たり前のことです。

A3報告書が育む本質思考

個人の本質思考

組織としての本質思考

1枚の紙の上に思考を簡潔に描く