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(5年 3月号, 白団物語 ± 43 22 44 鹿 鹿 II

英霊に敬意を。日本に誇りを。 偕行社は、わが国の誇りと伝 …Created Date 6/18/2010 2:00:35 PM

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Page 1: 英霊に敬意を。日本に誇りを。 偕行社は、わが国の誇りと伝 …Created Date 6/18/2010 2:00:35 PM

●「白団」の記録を保存する会・編述

「目団」物〓摯⑥慶鑽挿

蒋介石総統の恩義に酬いた日本将校団

曹将軍が語る白団誕生の日

(5年 3月 号,白 団 物 語

岩坪博秀 曹士激先生をご紹介しま

す。陸±43期相当、中華民国学生隊22

期をト

ップで出られ、隊附は丹波篠

山。中国き

っての日本通で、白団の生

みの親です。東京で勤務している令息

のため毎年夏、日本にいら

っしゃいま

す。われわれは、いつもお目にかか

て昔話を繰り返してるんですよ。

加登川幸太郎 ちょうどいいときに

おいでいただきまして、ありがとうご

ざいます。

曹 加登川さん、お目にかかれて本

当にうれしいです。

岩坪 ヂ」出席の糸賀公

一さんは44

期、向こうで作戦関係の教育を終始

貫してやってこられた方です.

もうひと

つ自団に選挙で幹事を設け

まして内外の折衝に当た

ったのです

が、その幹事とし

ても活躍され、自

団の諸事情に通じ

られています。

登川

 それ

ゃ、まず

「生みの親」から、

自団誕生のいきさ

をうかがいたい。

議日 密かに東京

高輸

の旅館

に集

って、富田さん

(白先生)以下十七

名が契約したんです。岡村先生も出席

され、私は中国代表団の軍事組組長と

してそこに居りました。そのときに自

団は始ま

ったんです。それで僕はいろ

いろ出発前の暗号なんかを教えるわけ

ですよ。みな追放されてるわけですか

ら、秘密でなきゃいかんでしょう。そ

のときはマッカーサー将軍は全然知ら

なか

ったんです。契約して、サインし

て、自団が正式に成立して、これから

の行動が始まる。

そして、どういうふうに行くという

のかがなかなかの問題ですよ。その当

時は直接台湾までの船がないんです。

香港までは英国の船。香港経由で台湾

へ行く。

いろいろ手段を講じて、自先生と荒

武さんと海軍の杉田敏二さんはGHQ

の情報員

の名義で、飛行機に乗

って

った。 一番楽だ

ったです。香港まで

って、台湾の船が香港

へ迎えに。

その次

の人十名ぐらいは鹿児島

って密輸の船がたくさんありますか

ら、その船を利用して台湾

へ行く

つも

りだ

った。そのときちょうど根本博さ

んの事件が。根本さんは僕ら白団の系

統じゃない。あれは中国の別の情報系

統で行

ったんですよ。警察

に捕ま

ちゃって、根本さんの写真が新聞に出

て、GHQは厳重でね、各港を検査す

るわけですよ。鹿児島

へ行

った人は

三ヵ月ぐらい待

っと

ったんですが、結

局出国できなか

ったんです。

それてまた東京

へ一戻ってきて、英国

の船で、みんな船員の名前で船に乗

たんです. 一番苦しか

ったのがこの人

たちです。

その頃船は直接香港

へ行かないで

しょう。例えば大阪

へ泊ま

って荷物を

はんで、それから呉とかね、各港につ

くと日本の警察が検査するでしょう。

日本の難察は怖くないんだけど、日本

の共産党が怖い。そして、面白いのは

本郷健さん。、警察が船に来たとき、

あの人はコックの帽子をかぶってポテ

トの皮をむいていたんですよ

(笑)。

みんな話をしちゃいけないのよ。話し

たらバレちゃうから。内藤進縛期さん

は石炭庫の中にかくれていた。真

っ黒

にな

ってるんですね

(笑)。

香港に着きましたら上陸するとき香

港のな察が検査する。みんなに聞くん

ですよ。本郷さんに聞くんですよ。

「あんた誰ですか」、広東語で。本郷

さんはそのとき中国語を

一つだけ覚え

てるわけ。「没有関係」(笑)。「没有関

係」という言葉は広東人にはわからな

いんだ

(笑)。それで

「よし、よし」

で通

ったんですよね。

香港

へ着

いて食堂で食事をする時

は、みな絶対話しちゃいけない。話し

たらバレち

ゃうんです。みんな同じ

テーブルで飯食

ってるでしょう。それ

を見た広東人は、「みな唖か」。食べる

っかりで話が全然ないの。面白かっ

たですね

(笑).

そして台湾から船が来て、みんなを

乗せて台湾

へ行

ったわけですよ.

その後は、例えば岩坪さんなんかの

頃は少し楽になりましたね。道は作

たんだからね。そのとき僕はGHQの

G2ね、ジ

ェ不ヽラル

・ウイ

ロビーとい

い友達。ある日僕はGHQで報告した

んです。兵器その他いろいろな情報、

例えば共産党の作戦行動をアメリカ人

に教えるわけですよね.岡村さんが私

たちに言

ったのは、反共というものは

JACじ

ゃなければだめです。JII

ジャパン、A=アメリカ、C=チャィ

ナ、JAC合作の政策をとらないと反

共はできない。こういうような考え方

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白 団 物 語(5年 3月 号)

ですね。それから僕はGHQでたくさ

んのスタッフに共産党の作戦行動は人

海戦術でくるからと教えたんですよ。

そのころ、僕らは大陸を撤退するん

だけど、アメリカ大使、あの人はキリ

スト教の教会の人です。彼のアメリカ

政府に対する報告書にいわく。中国に

は共産党はいな

い。中国の共産党は

「農民革命党」といってたんです。

もう

一人、アメリカ顧問団の団長。

自皮書という対華白書、ホワイト

ペーパー。彼が帰

ってアメリカの政府

に報告したんです。中国の失敗は全部

蒋介石の責任だ。この人に援助する必

要はないと。そして、中国のアメリカ

軍はみんな帰

っちゃった。アメリカ人

は蒋介石の政府は援助しないことに

った。

だから、国民政府というものは台湾

へ行

って孤立するんですね。そのとき

蒋介石さんはまだ総統じゃない。国民

党の総裁です。代理総統として李宗仁

さんが北京で和平会議をや

ってる。兵

隊もないし。そのとき僕は、湯恩伯の

方面軍の参謀長でした。上海の戦が終

わりまして、僕は東京の駐日中国代表

団に転任したんです。

そのときGHQの代表団は四ヵ国で

す。アメリカ、イギリス、チャイナ、

ソビ

エト。その中で

一番いやなのはソ

ビエトの代表です。毎月

一国会議やり

まして、日本に対しての政策なんか、

いろいろなことを討議したんです。

そのときは中国代表団に四個組があ

ります。第

一組は僕ら軍事組、みな国

防部の軍人で絶対反共です。ほかの組

は共産党が入

ってる。だから僕らはた

だ日本に対して保密じゃなくて、代表

団の中でも保密しなき

ゃいかんです。

僕は英語ができるから、いつも

マッ

カーサーの会議に行

って、いろいろ共

産党のことを教えたです。いわゆる農

民革命党、あれは共産党です。共産主

義は世界

一つしかない。そのバ

ックは

ロシアです。ソビ

エトは僕らの民主主

義国の敵だと。

僕は問題を提起した。台湾というも

のを考えてごらんなさい。もしアメリ

カに極東が必要なら僕の案を出しま

す。放棄するなら、なにもいわない。

二つの防衛線を提起した。

一は、その頃はまだ広東は落ちて

ないです。まだ蒋介石さんが守

ってい

た。南朝鮮から、日本、沖縄、広東、

ベトナム北部、これを守る。

´

第二が、南朝鮮から日本、沖縄、台

湾、フィリピンからグアム。

これをもちませんと、もう

ハワイな

んです。アメリカは本気にな

って、会

議にはマッカーサーは出なか

ったが、

参謀長は出てたんです。そのあとは

マッカーサーといろいろ話した。台湾

はいまと

っても弱い、兵隊はみな上海

で浙江省の向こうの島に集ま

ってる。

陳誠将軍の部隊はみな慶門だ。台湾に

は兵隊いない。もし、僕がアメリカ人

ったら必ず台湾は要る。台湾が中共

軍に占領され、その基地にな

ったらど

うなる。ソ連の船は容易にここを通

て越南

へ行くようになる。だから、

マッカーサー将軍は、蒋介石さんに

ってください。台湾の防衛線を守る

ために会

ってください。と提案したの

です。

それでマッカーサーは台湾に行

った

んです。蒔介石さんと会

っていろいろ

話して、蒋介石さんは共産党のことは

よくわか

ってるが、

マッカーサーは反

共ということは、は

っきりはわかりま

せん。

そこで、第七艦隊を台湾海峡に派遣

し、表面上は国民政府の軍隊の大陸攻

撃を阻止する。実際は共産軍の台湾攻

撃を防止するよう措置した。それで台

湾が安定したんです。それから断江省

の島にいた軍隊がど

っと台湾に集ま

てきた。

それから僕らはアメリカの武器がほ

しい。日本軍の教育と、アメリカの武

器があれば世界

一ですよ。蒋介石さん

の考えはそうです。

だから白団の皆さんは台湾

へ行

った

んです。そのときはまだアメリカの顧

問団は来てない。すなわち国際関係は

非常に孤独なんです。蒋介石さんは国

民党

の総裁ですが、まだ総統じ

ゃな

い。そ

して日本では、その頃はいろいろ

噂がたくさんあります。ゴ

ロツキの横

山とかいう男は台湾を援助するとかな

んとかいってお金ば

っかり集めて、自

分は酒飲んで遊んでいる。僕はそんな

のを見て、正式に軍事顧間団を作る計

画を立てた。岡村先生は肺病で病院に

ってたが、岡村先生

に相談したら

私のその考えは正しいと同意され

た。そこで僕は、すぐ手紙を台湾に出

した。

そのときは蒋介石さんは総統じゃな

いが、よし、その意見に同意というこ

とで台湾

へ皆さんを呼んだ。最初は十

七名だ

った。いろいろ条件を述べて、

優秀な人を。作戦もやりますけど、教

育が第

一だ。皆さんは日本では追放さ

れてるから軍事顧間団という名前じゃ

なくて別の名前を考えたら、富田さん

が自鴻亮という仮名だから

「白団」。

皆さんには

「外籍教官」という名前を

つけたんですね。

総統閣下に手紙を書いて、病院にい

る岡村さんと、よし、これから始めま

しょうと。そのときは小笠原清さんと

海軍

の及川

(古志郎)さんと相談し

た。さらにもう二人非常に重要な人物

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(5年 3月 号 )白 団 物 語

.がいます。西浦進さんと服部卓四郎さ

.ん。西浦

(進)さんは元岡村総司令部

にいたんですよ。そして全員が同意し

て十七名選んだわけです。

最初、団長にな

って頂く

つもりで富

田さんを僕のところに連れてきたんで

すよ。白さんはあのときはどこかの社

長だ

ったんです。髭があるんですよ。

これ見たらすぐ日本人とわかるじゃな

いですか(笑)。これは剃らないかんと

いうたら、そうですかと言

ってすぐ

ってくれたです。あのときから富田

さんの髭ないんです

(笑)。

それから名前を

つける。共産党は赤

いから、あなた

は白だ。だから

L」。加

登川 この

自というのはあ

たが決

の。爾

自 そう。名】

前を決めるのに

随分苦労した。

私は、ヨ一国志』

をよく読むんで

すよ。あれを見

て諸嘉という名

つけた。関羽

もあるし劉備も

あるし、張飛も

あるし、曹操も

あるでしょう。

加登川 『二

国志』とは、い

かにも中国らし

いね

(笑)。

奮興 ある人は台湾に長くいて自分の

本当

の名前忘れてしま

ったんですよ

(笑)。中国の名前ば

っかり覚えて。

大橋さんは喬本でし

ょう。橋は本を

って喬。本に

一本書いて喬本にな

た。合わせたら橋でしょう。

大橋 それを中国語で呼んだら橋本

と同じような発音になるんですよ。だ

から私は橋本さんて言われてたんです

よ。私はフンフンて返事してましたけ

どね。「なんだ、大橋ですか」とあと

でび

っくりしてましたo

奮『 この人は動員関係や

ったでしょ

う。だから市役所とか県の人の名前を

みな知

ってる。喬本はみなわか

ってる

わけです。大橋とは知らないですよ。

岩坪 私は揚子江の江。秀と坪と両

つけて、シュウピン。チヤン

・シュ

ウピンという名前だ

ったんです。本名

の二字が入

ってる。

議【 今井秋治郎中佐.海軍の艦砲射

撃の教官は、パオピ

ッチ

ュウ、飽必中

と書いて必ず当たると

(笑)。

加登川 そういう名前

つけたのc必

ず当たるはいいや。

書日 つけたの。

岩坪 航空の山口盛義海軍大佐は雷

振宇、雷という性でね。宇宙を振る、

雷振字という雄大な名前を

つけた。

饉囃 非常に面白い名前をみな

つけま

したよ。

加登川 それにしても八十人からの

人の名前を

つけるというのは相当な仕

事だね。二国志をそばにおいて。

書[ そう。検査したら、諸葛孔明は

まだ入

ってなか

った

(笑)。

岩坪 43期の佐藤忠彦君は諸薦忠。

高橋登志郎 内藤進さんは、曹さん

と同じですね。

奮国 内藤さんは台湾で、みんなに誤

解された。あんたは日本生まれか。な

んでですか。曹士散は日本人じ

ゃな

い。僕は日本人だと。同じ性だから

ね。昭和4年に

一緒に篠山聯隊

へ隊附

したんですよ。内藤進だから曹士進。

岩坪 内藤さんと曹さんとは篠山聯

隊の同志で、非常に親しくしておられ

たもんですから、そ

っくりの名前も

っておられました。

国闇Ⅲ剛劇

議【 それから白回の活動が始ま

った

んです。円山訓練圏という短期教育で

す。二ヵ月、三ヵ月、高級、中級、下

級。中隊長、大隊長から司令官まで入

りました。だからいま台湾の偉い軍人

はみんなあんた方の学生ですよ。教官

殿と言うよ。

精神教育第

一主表。負けた軍隊は士

気がなくなる。もう

一つ、長い戦争し

ていたのでみんなの考えが統

一されて

ない。まず、精神教育をやる。蒋介石

1991年 9月 26日 (木 )曹氏と握手する加登川氏,借行社ロピーにて(共に歩兵第25聯隊出身)

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白団 物 語(5年 3月 号 )

さんを中心として、黄靖軍官学校の精

神を出す。そして教育は大成功したん

です。

そのとき、僕は転勤

で帰

ったんで

す、その訓練団の副教育長にね。教育

長は彰さん。日本の野戦砲兵学校出身

です。

そのあとは総統閣下が模範師団を

くるんですよ、第二十二師団というの

を。三十二師には歩兵団三個がありま

す。団は聯隊です。山地、夜間戦闘等

それぞれ各国には特性があるんです。

そうしたら、たくさん教官要るで

しょう。十七名

では足らないんです

よ。十七名は何千人もの訓練部隊を教

えてる。忙しくて夜も寝られないんで

すょ。どうするか。人数を増さなくて

はならない。

岡村さんは、これは大変ですねと。

だが、総統からの命令だから、やらな

きゃいかん。この船に乗れ、この船に

乗れと。私が帰国した時には、自団は

五十四名にな

っていました。三十二師

教育の総責任者は村中徳

一る期さんで

しょう。各国にはみな日本の教官が学

生と

一緒に生活している。そして白団

の教官は想定を作り、大演習、対抗演

習をや

ったんです。非常によくできま

したよ。

同時にそのころ、

マッカーサーはア

メリカ政府に意見を出して、アメリカ

からも顧問団が来ることにな

ったんで

す。アメリカの顧問団はワシントンか

ら来るんです。

マッカーサー司令部か

ら来るんじゃない。正規の顧問団がま

た戻

ってくる。台湾を守るために、防

衛援助に来たんです。

来たら、自団の噂を聞いて、負けた

日本の将軍が団長にな

って教官をや

とる、ケシカランと総統閣下と喧嘩を

するんです。アメリカ軍は世界第

一だ

から、日本から来た者はみな帰せ。

総統閣下は、これはあんたらの問題

ゃない。あんたらは自分の仕事を

ったらいいじ

ゃないか

(笑)。腹の

中では、あんたらの戦術なんかだめな

んですよと。武器はいいですけど、金

持ちだから。アメリカ兵は演習でも、

ボンボン撃

つんだ。日本だ

ったら五発

ね。し

っかりねらい定めて撃

つですよ

(笑)。そうでしょう。

加登川 一二八式小銃は、五発きりだ

もんね。

茜興 小銃はいつもきれいに磨

いて

ね。ちょっと汚ないと

「外出止め」な

んて言われてね

(笑)。

加登川 曹さん、士官学校でやられ

たな。

議種 やられた.靴は毎日手入れす

る。長靴。営内靴。靴磨いたです。こ

う見て、底に泥が

ついてたらもうだめ

ですよ

(笑)。あんな厳しい教育はな

ったですよ。僕ら貧乏な国は貧乏な

国の教育でなければいけない。資沢な

教育はだめです。総統はそう考えてい

た。    ・

アメリカ人はひそかに情報をと

って

たんですよ。本郷健さんの戦史、アメ

リカにはそんな戦史教育なんかなか

た。ナポレオン戦争、普仏戦争なん

か、日本の陸大ではみな習

ってるじゃ

ないか。中国の将校はあんまり教育な

いから初めて聞いたんです、みんな珍

しいと思

った。総統閣下も行

って聞い

てる。総統閣下はあまり軍事教育の素

養はなか

ったです。だからアメリカ人

は、その後は黙

ってしま

ってね。

それから武器です。武器というもの

を顧問団は持

ってこれなか

ったんです

よ。あのころ金門が危ないでしょう。

中共軍が攻めて来る。アメリカの顧問

団はァメリカから武器持

ってくるとい

ぅ。アメリカから来るや

つは

一年間か

っても無理なんじゃないの。それで

僕は

マッカーサー総司令部と相談し

て、あんたらは沖縄にたくさん置いて

あるじ

ゃないか。この武器を台湾

ってきてもいいしゃないの。沖縄の

大砲をみんな持

って来

て金円で撃

た。大砲戦やったんですよ。結局は間

に合

ったんです。

自団の人がだんだん大勢にな

って、

総統閣下は、今度は大学を作るとい

う。だから石牌の自団を

「地下大学」

といった。短期じ

ゃないの。 一年十ヵ

費月

一番役立

ったのは動員教育です。動

員教育には面白い話があるんです。日

本軍の動員は動員の計画書があ

って、

いろいろなことが書いてあるんです。

しかし動員教育をやるとき、日本でい

くら探しても資料が見

つからないんで

す。と

ころが、その資料はわれわれが

ってたんです。どうしてか。漢口で

私たちと戦さしたとき、日本軍が退却

したあと、

この本が残

ってたんです

よ。それを中国の参謀本部

に持

って

いった。この本を持ち出して参考にし

たんですよ。おかしか

ったです。

あのときは山下耕“期さんが動員教

育を始めた。そのときから台湾の動員

計画が始ま

ったんです。動員計画は軍

だけじゃなくて民間のこともやるんで

すよ、県、市、政府の幹部みんなにも

教えるわけです。動員令はどういうふ

うに作るのかとか。これは人力動員、

これは工業動員、自動車動員とか。

昔は動員なんかわからない。動員と

いう語はあるけども、これは人口調査

もできてないから動員出来なか

った。

総統閣下、大喜びだ

ったですよ。本

当の国家にな

ったんです。だから、い

ま台湾は動員下令されたら二百万の軍

Page 5: 英霊に敬意を。日本に誇りを。 偕行社は、わが国の誇りと伝 …Created Date 6/18/2010 2:00:35 PM

(5年 3月 号 )白 団 物 語

隊すぐできます。それは日本の教官た

ちのお蔭です。

ただ、日本教官は死ぬまでおらんで

ょう。だから、次

の教官を作らな

きゃいけない。その教官を教育する。

将来は皆さん日本

へ帰るから、この人

たちが日本の教官の教えたものをみん

なに教えるわけです。それで、動員幹

部訓練班があ

ったんです。いまは、み

な偉くな

ってます。

加登川 そうでしょうね。

驚自 そのときは中国軍幹部の

一部は

反対してたんです。陳誠将軍もあんま

り同意してない。負けた国の将校が台

湾に来て教官になるなんて、そんなの

はだめだ

(笑)。

いや、負けたのは政府が負けたんで

す。日本

の軍人は負けてない。そう

か。不満な顔をしてるんです。

そこで総統閣下が頑張

って。行

って

「白団」の日本教官の講義を聞いてみ

ろと言われて。聞いたらわかるよと。

っぱり私が知らんことがたくさんあ

りましたよ。初めてわか

ったと。

陳誠将軍は昔の中国の保定軍官学校

畿後

の第八期。周士柔さんや陳誠さ

ん、みんな保定軍官学校の最後の期で

す。そのころ保定軍官学校の教官は、

殆どみんな日本の士官学校出です。

だから、中国軍の教え方、やり方は

みんな日本式ですよ。昔の日本陸軍は

ドイツ式。中国軍には初めはドイツの

軍事顧間が大勢来た。ドイツの顧問

は、武器を持

ってきた。新しい武器の

使

い方を教えるために来た。そのこ

ろ、僕が日本

の士宮学校から帰

った

ら、二十五連発の二十粍高射機関砲を

ドイツ人が持

ってきた。だから僕は、

ドイツ語を覚えたんです。

イタリア人も来た。昔の顧問団はみ

んな武器持

ってきて、それを売り込も

うという国家の政策で来たんです。

今度の日本の顧問団は、蒋介石総統

の恩に報いるために来たんだから目的

が違う。中国の本当の親善のため、兄

弟を助けるために来たんです。ほかの

国の顧間とは違うんだ、考え方が。

ほかの国は国家の利益のために来た

んです。こっちは利益ないんですよ。

同じ顧間だけれども性質がま

ったく違

うんです。根本の考えが違う。

日本教官は二十二師団の教育を終わ

り、石牌では全軍の将校の訓練を終わ

りました。

当時の総司令、参謀総長もみんな学

生にして、動員組織を作りました。

そしてぼつぼつ教官が帰り始める。

人数を減らす。最後は白先生を入れて

五名しかいない。その人たちが陸軍指

揮参謀大学の教育に参加しました。日

本の教官が作

った学校は陸軍大学じゃ

ない。あれは三軍大学です。海軍教官

もいるし空軍教官もいるし、陸軍教官

もいる。三軍連合の教育をや

ったんで

す。その人たちは、また陸軍総司令の

顧間となり、蒋介石さんの次男蒋緯国

さんが連絡者となりました。

いま台湾では三軍大学を作

って、ア

メリカ式です。陸軍、海軍、空軍の参

謀学校は別として、別に三軍大学を

ったんです。蒋緯国さんが三軍大学

の校長でした。

とにかく

「白団教育」で

一番成功し

たのは、

一、負けた軍隊の士気があが

た。反登陸戦も成功した。僕らも登陸

作戦できるようになり、自信を得た。

淡水河で演習や

ったんです。

第二、中国軍隊は革命からず

っと、

戦争ば

っかりで兵士を訓練したことな

いんです。二週間訓練したらもう出

ちゃうんだから。それが本当の正式な

軍事教育を受けた。

第二、団結心が強くな

った。蒋介石

の黄鏑軍官学校の精神が出て来た。こ

の二つ目が

一番大成功だ

った。中日が

兄弟の気持ちができてきた。だから、

僕は自団というのは、ただ軍事教育だ

けじゃなくてね、戦後の

一番本当の中

日親善合作ですよ。

しかし、中国戦史には書けないんだ

からね、まだ隠されてることが多いで

しょう。小笠原清さんが

『文藝春秋』

に少し警いてるけど、みんなは書けな

い。まだ秘密だから。生きてる人が大

勢おるんでしょう。昔は共産党に対し

て保密にしてたが、もう大丈夫だと思

いますがね

(笑)。

岩坪 曹さんは黄嫌軍官学校の何期

ですか。

警 僕は黄捕学校じ

ゃない。日本の

士官学校です。

大橋 黄靖ですと何期ぐらいに相当

しますか。

警繭 六期、七期ぐらいでしよう。

加登川 そうだろうね。黄靖の軍官

学校というのは民国のH年か12年で

しょう、始ま

ったのが。

歯日 H年c

加登川 大正H年に始ま

った学校だ

から。

曲国 第

一期は三ヵ月しかしない.広

で。第

二期はも

っと短

い。二ヵ月

半。あのころ、機関銃はない.小銃だ

け。北伐が民国13年からでしよう´

高橋 曹先生の場合、日本の士官学

へ来られる前は。

議姜 その前は学校を卒業して、国民

政府の入学試験を受けて。

加登川 ちょうど42期のわれわれと

同じ年格好だから、われわれと同じよ

うに十七か八で来日されたわけね「

爾鑢 士官学校はあなたと

一期連う、

年は

一つ二つ上。.

Page 6: 英霊に敬意を。日本に誇りを。 偕行社は、わが国の誇りと伝 …Created Date 6/18/2010 2:00:35 PM

白 団 物 語(5年 3月 号)

加登川 同じような年頃に中学を終

えて士官学校

へ入

ったことになるので

すね。

書舞 ええ。そのころ何応欽将軍が、

訓練総部の部長だ

ったんです。何応欽

将軍は日本の士官学校出身でしょう。

そのときはもう北伐が成功してたか

ら、総統は軍隊を再建する。僕らは日

本から帰

ったらみんな、できたばかり

の実施学校の教官にな

った。僕は歩兵

専門学校、すぐ教えるわけです。

将校学生は黄捕の第

一期もあるし、

第二期もあるし、第二期もあるし、僕

らが日本で習

ったことを教えるわけで

す。そして演習部隊を作り、想定を

って、対抗演習なんかをやるはず

った。しかし、実際には敵と本当の

鉄砲撃ち合

って戦争やる。対抗演習な

んかやらない。演習どころじゃないで

すよ。こっちは戦争ば

っかりだから。

そうでしょう。軍閥との戦争ね。

だから想定というものが、よくわか

らないんです。演習の想定なんている

もんかと思う。想定書くのに日本陸軍

はやかましいけれど。

僕は北海道で見習士官だ

ったんです

よ。札幌の二十五聯隊で三ヵ月。六ヵ

月の隊附は篠山でしたが、見習士官は

篠山でなく北海道の聯隊

へ行

ったんで

す。加

登川 北海道

へ行

ったんですか。

議自

った。

加登川 僕は二十五聯隊でね。

議爾 僕も二十五聯隊だよ

(二人は握

手)。

加登川 お話に、札幌の第二十五聯

隊が出ようとは思わなか

ったな

(笑)。

なんとも人間というのは、思わぬと

ころに緑があるんだな。

議鞭 士官学校で小隊長にな

って、想

定を書くんですね。それを出します

と、なんだ、この想定。書き直し

(笑)。想定がわからないんですよ。

大演習の想定はも

っと難しいでし

う。後方勤務なんかね。

士官学校では行軍計画を作る。この

道の距離はいくら、時間は何分くらい

だとかや

った。中国では、そんな教育

はない。戦争ば

っかりで、動員なんか

わからないですよ。空包はない。演習

のとき空包がないです。実包撃

つと人

を殺すよ。だから上

ヘボンボン撃

つん

ですよ。

岩坪 演習に実包を使うんです。

宙疇 危ないよ、あれは

(笑)。

中山幸男 曹先生が総統閣下の命令

を受けて、岡村大将にお会いにな

った

とき、日本の将校を教育のために派遣

してくれというような具体的なことま

で、総統閣下の意図は示されてお

った

んですか。

議自 詳しく示されてお

ったですよ。

総統と僕は三日間話したんです。台南

の別荘でね。総統はまだ国民党の総裁

った。最初僕はね、国際反共軍を作

ろうと。日本も入

って、

アメリカも

って、フィリピンも入

って。総統も

大賛成だ

ったんです。

まず日本の教官たちと合作が始ま

る。だから白先生が台北に着

いたと

き、すぐ総統は自先生を連れて重慶に

ったんです。白先生は第

一線を前に

出すことを指導したのです。あそこの

司令官は羅広文という士官学校留学の

第40期相当です。その日は陣地偵察と

かいろいろして重慶

へ戻

って蒋総統に

報告した。報告したころ、すでに部隊

は寝返

って、司令官は捕ま

ってたんで

す。  

 

 

 

 

 

 

 

〈つづく〉

前月号にひき続き、今月号は

「富士

倶楽部」に深くかかわった西浦進氏の

追悼録に表われた回想により、その活

動を見ることとする

〈西浦戦史室長は

昭和45年=月5日死去善手年68歳〉。

山本親雄氏

(白団の海軍側首席顧

問)の回想によれば

「自団に所要の参

考資料を提供する機関が東京に設けら

れ、西浦さんはその陸軍関係の主任と

なられました」と述べられている。

〈編集委員 細木重辰〉

西浦様

の思い出

岡村大将来亡人 岡村チヱ

岡村は昭和24年の早春、戦犯の方々

とともに最終の帰還船で横須賀に帰国

しました。

帰国の際は

(西浦様は)態々御出迎

えされ、直ちに東京牛込の国立第

一病

院に入院しました。

岡村は終戦後結核が悪化し、津田重

通軍医少佐が特別に残留されて12年末

まで南京で治療されましたが、裁判の

関係上帰国を命ぜられ、病み

つつ一人

となりました。

その後上海に移り、残留日本人医師

のお世話になり、戦犯裁判を受け無罪

となり帰国した次第です。

;西浦様は船の着く前から国立病院に

入室の準備をされ、船から直ちに入院

したのです。私は帰国の報に接し、疎

開地青森から急ぎ上京しましたが、そ

の際進駐軍とも連絡済とて特別座席を

用意されてありました。一カ般にわたり

気を配られた、行届いた心温かいお方

と今尚拝謝しております。

驚士倶楽部への協力

岡村が熱愛した中華民国は、大陸で

敗れ台湾

に後退し、大陸

の解放を期

し、有志の方々が中国に渡りこれを援

けました。岡村はこの工作の中枢で、

Page 7: 英霊に敬意を。日本に誇りを。 偕行社は、わが国の誇りと伝 …Created Date 6/18/2010 2:00:35 PM

(5年 3月 号 )白 団 物 語

しばしば中国の要人と会談しました

が、西浦様を常々引張り出して御面倒

をかけました。

その後海軍の及川大将と協力し、陸

海の俊秀を集め、富士倶楽部を創り、

戦史研究と日本の防衛等を研究してお

りました。西浦。服部・堀場の有名な三

羽烏の御協力を得たと鼻高々でした。

また碩学の高山博士の哲学の講習を

描宅で毎月

一回、5年ほど続けました

が、毎回西浦様は熱心に聴講筆記せら

れ、心の扉を博士より開かれようど喜

ばれていました。

「岡村回想録」との因縁

西浦様が戦史室長になられてから

は、岡村は年何回か戦史室に呼び出さ

れるのを楽しみにしておりました。

岡村が逝いたのは昭和4‐年9月です

が、その2年前から回想録を毎日午前

中執筆するようになり、

4‐年春ようや

く書き上げました。

筆を納めるや、直ちに市ヶ谷台上に

西浦様を訪ね

「原稿を西浦君に渡して

来た。心残りは何もない。ゆ

っくり全

国の温泉でも廻ろう」と申していまし

たが、直後に発病、

ついに不帰の客と

なりました。

奇しき因縁とでも申しましょうか。

西浦様とのお約束の回想録の納筆とと

もに蛾燭の火が燃え

つきたとも思われ

ます。

富士倶楽部

の思い出

陸士第二十七期 今岡 豊

戦後

一番印象に残

っているのは富士

倶楽部時代である。富士倶楽部は及

川、岡村両海陸軍大将を中心に海軍か

ら高田利種少将、小野田捨次郎、大前

一、長井純隆各大佐、陸軍から西浦

進、服部卓四郎、堀場

一男各大佐等を

主なメンバーとして国際情勢や国防間

題、戦争資、戦略論、戦史等広汎な研

究を目的として昭和27年秋発足した。

ここで私は二十四期の三羽烏といわれ

た三氏から指導を受けることにな

った

が、服部さんは感受性の強い性格、堀

場さんは信念に徹した意思の持主、西

浦さんは飽くまでも合理的な真理を探

究する智性の人、性格は異なるが仲は

固く結ばれていた。議論が対立すると

服部、堀場両氏は互に譲らないが大抵

西浦さんがまとめの役を買

って収めて

いた。

大東亜戦局悪化の

一途を辿り戦争指

導上最も困難な時機に軍事課長という

最も風当たりの強いポストに、どうし

てあんなに長く勤められたかという理

由が初めて判

った様な気がした。

西浦さんは戦争論や戦略論に異常な

興味を以て研究し、か

つて留学中勉強

された仏軍軍事思想について時折り造

詣深い話を聞かせて貫

ったし、仏国国

防雑誌の原子戦略論を自ら駅訳してわ

れわれに紹介する等、軍事思想を深く

研究されていたが、これがやがて

「兵

学入門」としてまとめられたものであ

ス7つ。

及川大将は兵学研究は哲学に基礎を

おかねばならぬと主唱され、戦時中軍

人は哲学的素養が低か

ったので物の考

え方が透徹していなか

った点を反省し

て、高山岩男博士を招き月

一回哲学の

講義を聞くことにな

った。講義は六十

数回約5年続いたが、西浦さんも戦史

室長をやめたら哲学的深みのある戦争

論、戦略論を書いてみようとの考えが

ったと思われる。

富士倶楽部は約10年続いたがその間

まず堀場さんが病にたおれ、次いで服

部さんも忽然としてこの世を去り、三

羽烏が

一羽取り残されて「孤影情然」と

しておられたが、やがて先にあの世に

った盟友の分までもと元気をとりも

どし、全身全霊を打ち込んで大東亜戦

史の編纂に専念されたものであろう。

海軍少将 一局田利種

昭和29年H月9日

(土)午前

一時、

西浦進さんと私とは、CATの旅客と

して羽田を離陸した。社団法人日本郷

友連盟の前身、桜星会発足の頃以来わ

れわれ二人を御愛顧、御指導下さ

った

岡村

(寧次)陸軍大将の御配慮に基づ

き、中華民国の現況を視察せんとする

目的であ

った。午前八時四十五分台北

着。中日要人の出迎えを受けて視察の

一歩を踏み出した。

台北滞在中、

14日

(日)彰参謀総長

に招かれて懇談したが、その席上、中

共飛行機の台湾空襲如何の質問を受け

た。われ等二人は口を揃えて

「考えら

れないことである」と断言し、その理

由として海路及び陸路搬入せられたと

思われる石油及び中共国内産油の合計

量と

(当時は未だ中共大油田開発の報

はなか

った)、国内需要燃料の難とを

推計し、有効なる台湾空襲は予想外で

あるとしたものである。蓋し、この質

問は当然予想せられたので、専門家を

煩わして相当の資料を準備した次第で

った。

‐5日

(月)高雄に到

ったか、たまた

まその前夜大陳島沖の海戦があり、中

華民国海軍の第

一艦隊は劉広凱司令統

率の下に勇戦して、中共艦隊に大打撃

を与えたが、味方駆遂艦

一隻も中共魚

雷艇の奇襲を受けて沈没したとのこと

であ

った。夕食の後、海軍総司令部の

副参謀長曹少将が来訪せられ、大陳島

沖海戦を研究したいとのことで、繊緞

の上に海図を拡げ、あぐらをかいてま

ず海戦の経過を聞いたが、曹副参謀長

は容を正して、中華民国としては大陳

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白 団 物 語(5年 3月 号 )

島を放棄すべきや否や、訓令に基づき

両先生の御意見を承り度いと申され

た。われら二人は

「貴国及び台湾海峡

の情勢に通ぜざるわれわれが、この重

大なる問題にお答えすることは到底不

可能である」と辞退し、ただし、われ

われは過ぐる大戦中貴重なる経験を体

得したので、その要旨を述べて御参考

に資すべしとて、ガグルカナル島攻防

に次ぐ

ソロモン海域の苦囲を語り、

って価値の乏しき離島を懸軍万里防

衛せんとするの不利を述べ、守

って有

利なる近接地を争点として敵を苦しむ

るの有利なるを説き、特に西浦さんか

ら金門島作戦に関する所見が加えられ

た。国民政府が大陳島放棄を公表した

のはわれわれの帰国後間もない頃で

ったと思う。

高雄、台南方面の見学を終わり、

18

(本)台北に帰り、蒋緯国将軍と懇

談の機を与えられ、翌19日

(金)夜台

北発帰国の途に就くべく予定していた

ところ、

19日、午前十時蒋総統に謁見

を許されることとな

った。その手続き

は、われわれ二人の履歴書を奉書紙に

墨書して謁見を願い出て、許されて侍

従武官侍立の許に、通訳を交えて語る

と云うものであ

った。

総統から見学の所見を求むとのこと

であ

ったので、高田、西浦の順にまず

良いと思う点を述べ、次に改善を要す

と思われる点を述べんとしたが、発言

数語にして総統から

「良いことはみん

ながほめるのでわか

っている。悪藝と

思うところを聞きたい」とのことであ

り、海軍関係は高田から、陸軍関係は

西浦さんから遠慮

のない所見を述

た。謁

見は三十五分間及び、総統から

「会食したいが残念ながら時間のやり

くりが

つかぬゆえあしからず」との丁

重なる挨拶があり、おみやげ品を頂戴

して退下した。侍従武官からおみやげ

品は会食に代わる特別の品物であると

附言された。

斯くて、其の夜九時半に台北を離陸

して20日

(上)朝五時半羽田に着陸、

即日岡村閣下に概要を報告した。後

日、岡村閣下から

「二人の訪間は少し

大げさに云えば国威を発揚したもの…

…」とのおほめに預か

ったが、西浦さ

んの御冥福を祈るためここにこれを記

すことは、在天の岡村閣下も快くお許

し下さることと思う。

哲学と兵学

i京都帝国大学教授 一濁山岩男

昭和30年の秋だ

ったと思うが旧知の

及川古志郎大将が拙宅を訪ねて参ら

れ、旧陸海軍の中堅だ

った十名ほどが

集ま

って岡村寧次大将宅で研究会を

やっているので、月に

一回くらいそこ

で哲学の話をしてくれぬかというお頼

みであ

った。

実は及川大将とは対米開戦間もなく、

海軍大学校長のとき講演を頼まれ、そ

の後彼が兵理学と称したものの研究に

協力して以来、大将の悲願を私は知

ていたのである。

それは明治以後発足した陸海軍人育

成の学校教育は戦闘技術の研究練癬に

金力を注ぎ、将帥に不可欠の軍事と政

治との調和統合という人事なものを疎

かにして来た。この欠陥を修正するの

でなければ日本は救われぬ↓そのため

戦争哲学というかその種の

「兵理学」

を根本から哲学的に検討し、これを建

設したいと悲願を吐露され、協力を求

められた。

私は明治維新を担当した武士たちを

叩きあげた経学

。史学

・文学の二位

体を大将は現代風に復活したいと願

ていると解し、難間中の難問で力はな

いが、協力を約し、海軍大学校で研究

を始めたcその後戦局も苛烈となり、

未完のまま敗戦を迎えて、放棄されて

いたわけである。

及川大将が陸海の中堅だ

った人々に

兵理学建設の望みをかけたであろうこ

とは、私には理解できた。それに哲学

は専門にしても、凡そ軍事の実際体験

をもたぬ私などが、兵理学を考えるの

もヽ元々無理な話なのだが、お互いに補

足し合

って研究を進めるにはこの上も

ない機会と思い、何かお役に立

つよう

な哲学的思考法の話でもすることを約

束した。

そして30年10月が第

一回だと思う

が、

36年7月の最終回まで、6年間に

渉り六十五回お話し申し上げた。私自

身もよく続けたものとは思うが、及

川、岡村両大将を入れてメンバー十二

名の方々が、よくも私などの話を聴か

れたものだと、私は尊敬の念を以てこ

の会合は忘れられないのである.