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2007 年度 山口大学教育学部総合文化教育課程国際文化コース 卒業論文 宗教と呪術との間 「ヌーメン的なもの」と「超自然的なもの」との間における「マナの観念」 学籍番号 03-0741-020-5 指導教員 2008 年 1 月

宗教と呪術との間 - 山根洋平の研究ノートはじめに 拙論は、「宗教」と「呪術」との間を「マナの観念」によって明らかにし、そこから「宗教と

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2007 年度

山口大学教育学部総合文化教育課程国際文化コース

卒業論文

宗教と呪術との間

「ヌーメン的なもの」と「超自然的なもの」との間における「マナの観念」

氏 名 山 根 洋 平 学籍番号 03-0741-020-5 指導教員 岡 村 康 夫

2008 年 1 月

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目次

はじめに ........................................................................................ 1

第一章 ヌーメン的なもの ............................................................. 3

第一節 非合理的なもの ............................................................... 4

第二節 ヌーメン的なものとその具体例 ....................................... 5

第三節 被造物感情 ...................................................................... 8

第四節 全く他のもの ................................................................ 10

第二章 超自然的なもの .............................................................. 12

第一節 プレアニミズム(アニマティズム) .............................. 13

第二節 呪術とその具体例 ......................................................... 14

第三節 マナの観念 .................................................................... 16

第四節 タブー-マナ公式 ............................................................ 18

第三章 「宗教」と「呪術」との間における「マナの観念」 ....... 20

第一節 「宗教」と「呪術」 ...................................................... 20

第二節 「マナの観念」の二面性 ............................................... 21

第三節 「宗教」と「呪術」との間における「マナの観念」 ..... 22

おわりに ...................................................................................... 24

参考文献一覧 ................................................................................ 26

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はじめに 拙論は、「宗教」と「呪術」との間を「マナの観念」によって明らかにし、そこから「宗教と

は何か」を考えるための一つの手がかりを示すものである。ここでいう「宗教」と「呪術」は、

前者をR.オットーの研究から、後者をR.R.マレットの研究からそれぞれ取り出した。宗

教というと我々は「直接経験」としての宗教から、占いやまじないなどの広い意味での「呪術」

といったものまでを一つにして捉えがちである。しかしオットーのいう「宗教」はそうではな

くて、「直接経験」の際に生じる「感情」を重要視した宗教の純粋なあり方を指している。また

マレットの「呪術」は、未開の人による誤った知識に基づいた疑似科学的行為ではなく、「超自

然的なもの」に遭遇した人が示す態度が、後に展開して生じた儀礼や習慣というものを指して

いる。 さて、宗教学に携わる者として常に問題となることは、「宗教とは何か」という問いであると

言えよう。この問いを問う方法として、洋の東西と時代の新旧を問わず、多種多様なものが出

てきた。オットーやマレットの考察も、この流れの中にあると言っても過言ではなかろう。し

かし、両者は全く異なった手法で考察しているという点には触れておかねばなるまい。オット

ーは、宗教を内から理解しようとした。オットーの記述から推し量ると、自らの体験も踏まえ

た上で、宗教へと接近していったと考えられる。一方マレットは人類学的手法で、最も自然に

近いと想定される未開の人々の社会や習慣、そこでみられる「呪術」といったものを調査した。

更にそうすることで見えてくる、人間の本性からの宗教理解を試みていた。 ところが、上述のように両者は全く異なる研究手法を採りいれているにもかかわらず、類似

するような特徴が浮かび上がってきた。それは、「ヌーメン的なもの」と「超自然的なもの」と

が顕れる場合において、そこでは合理的・論理的な説明が及ばないので、「感情」に着目してい

る、という点が類似しているというものである。こうした試みについては、T.A.グーチが、

オットーと宗教起源の調査という文脈の中で両者の関連を認めていることからも 1、オットー

とマレットとを取り挙げて、「宗教とは何か」を問うことに意味が無いとは言えないだろう。

それでは、拙論の構成とその内容を以下に簡単に整理して述べる。まず第一章ではオットー

の研究の「ヌーメン的なもの」を手かがりに「聖なるもの」を核とした「宗教」を取り出す。

この「ヌーメン的なもの」は、我々の言語のような合理的な尺度では表し尽くせるものではな

く、むしろそれでは表現しきれない「非合理的なもの」である。この非合理的な「ヌーメン的

なもの」に直面した者には、「被造物感情」が生じる。そこでは合理的要素が完全に差し引かれ、

概念把握が不可能となる。ここに「全く他のもの」という契機が出てくる。こうしてオットー

の「宗教」を考察する。 第二章では、マレットの「超自然的なもの」に着目して「呪術」を取り出す。最初にタイラ

ーが主張する「アニミズム」を挙げながら、「プレアニミズム」の中身を吟味する。これを踏ま

えた上で「呪術」の具体例を参照し、その特色を探る。そうした「呪術」においてみられる「マ

ナ」に着目し、「マナの観念」の中身を把握する。最後に「タブー-マナ公式」において述べら

1 Todd A. Gooch, The Numinous and Modernity, Walter de Gruyter, 2000, pp.98-9

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れている点をまとめ、マレットの「呪術」を考察する。 第三章では、第一章と第二章における「宗教」と「呪術」との分析を受けて、それぞれの特

徴を整理する。そして「マナの観念」の二面性を明らかにする。最後に「マナの観念」を手が

かりとして「宗教」と「呪術」とをそれぞれ考察する。 以上のように「宗教と呪術との間」を考察することで、我々が論じている宗教の一側面が明

らかになると考える。さらに、ここで挙げている「宗教」と「呪術」、さらには「マナの観念」

を呼び起こすことで、生活の場において「宗教性」を感じる手がかりを得られれば、拙論の意

図が達せられたと言ってよいだろう。

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第一章 ヌーメン的なもの

本章での課題は、「宗教と呪術との間」を考察するにあたり、まず「宗教」の特徴を明らかに

することである。そのために、オットーの Das Heilige(邦訳『聖なるもの』)からそれを取り

出すことを試みたい。 ここでオットーを選ぶ理由ついて触れておく。オットーは、宗教を宗教そのものから理解し

ようと努めていた。つまりエリアーデの言い方を借りれば、オットーは宗教を道徳や他の神観

念と置き換えて類似化し、その類似化したものを通して人々にわかりやすくするようには努め

なかった 2、ということである。なぜなら、他の概念や観念を利用して宗教を説明した場合、

その説明は宗教と直接のつながりがない、むしろ概念や観念の説明になってしまうおそれがあ

る。さらに、その説明が一人歩きして、宗教から離れてまったく別の意味合いでその説明が用

いられるおそれもある。オットーはおそらくこれを嫌ったのであると考えられる

さてここでは、オットーが聖なるものにおいて考察した重要な概念を取り出すことを試みる。

その概念とは、「非合理的なもの(das Irrationale)」、「ヌーメン的なもの(das Numinöse)」、「被造物感情(das Kreaturgefühl)」、そして「全く他のもの(das ganz Andere)」である。

本章では、これらの概念の中身を丁寧に把握し、先に述べたようなオットーが持ち出してきた

意味を分析する。簡単に説明すると、以下のようになる。オットーは、宗教を宗教そのものか

ら理解しようと努めていた、ということは先に述べた。そのために、「ヌーメン的なもの」、「被

造物感情」、そして「全く他のもの」というこれらの概念を、宗教そのものの特徴としてオット

ーが取り出してきたものである。オットーは宗教の様々な現象の中でも、とりわけ言語化でき

ない、合理的な説明ができない部分に力点を置いた。そうした容易に理解し得ないもの、換言

すれば、経験してみないとわからない「感情」を研究の対象とし、その中身を分析し明らかに

したことが、オットーの業績であるといえよう。 一方で、オットーの考察の中には、キリスト教的発想に基づく表現がしばしば見受けられる。

確かにオットーは宗教学者であり神学者でもあった。そのためかここで採りあげた著書におい

ても、旧約聖書、新約聖書、それからルターの言説に触れながら、考察を進めているし、先に

挙げた「被造物感情」という語もキリスト教の考えが入ってきているということは否定できな

い。このような特殊な一個の立場から述べられた論が、果たして制度宗教の垣根を越えて自然

崇拝といったような多神教的宗教に至るまで、普遍的に適用できるのかという指摘は、当然考

えられるところである。しかしオットーは、多くの言語を自在に操り、様々な言語による資料

を目にしていただろうし、西洋に限らず東洋の思想にも積極的に言及し、また実際にインドや

日本へ研究旅行にも出かけていることから考えれば、そうした分野にまで考慮に入れていたの

ではないだろうか。それに、オットーが目指したのはそうした個々の宗教事情の分析によって

導き出されるものではなくて、それを足がかりとして、つまり一手段として「ヌーメン的なも

の」、または「全く他のもの」を我々に実感させることにあるので、この点に気をつけておけば、

考察を進めていく上では大きな問題は生じないと考える。

2 Mircea Eliade, Das Heilige und das Profane, Insel Verlag,1998, S.13

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い。

いる 9。

さて本稿でオットーのいう「感情」の分析をすることは、価値あるものと言えるだろう。オ

ットーはこの分析の具体例として、宗教における「直接経験」における感情を挙げている。こ

れはまさに「容易に言い表せない」類のものであるだろうし、またオットーはこれを、合理的

に考え抜かれた「哲学者の神」や「抽象的概念」 3といったものよりも重要視していた。なぜ

なら後者の類の概念は、人間が「直接経験」に直面した際に感じたことを、極力近い形で言い

表したものというよりは、そのようにして言い表された物事から派生して生じているいわば副

産物のようなものであるからだ。そして、先に挙げた四項目はオットー独自のやり方 4で導き

出されたものである。これらを考察することで、宗教にまつわる様々な現象や出来事において

見受けられる、言葉で表しにくいものの表し方の一面をうかがい知ることができるだろう。ま

ずは、「非合理的なもの」についてオットーの記述を追い、その手始めとした

第一節 非合理的なもの オットーは、非合理的という語の意味を明らかにする前に、対立関係にある合理的(rational)

という語について述べている。オットーによれば合理的という語は、「思考することもできれば、

思考による分析も可能」で、「定義さえできる」という特徴をもつ「明瞭に思考することのでき

るような対象」を指すものである 5。しかし同時に、この合理的なものないし合理的述語では

「神性の観念をごくわずかにしか汲み尽くせない」とし、これを汲み尽くすには「非合理的な

もの(das Irrationale)が意味を持つ」としている 6。そしてこの非合理的なものは、「把握で

きる明白さの領域の周囲に、神秘に満ちた暗い深淵が横たわっており、その深淵は我々の感情

を遠ざけはしないが、我々の概念的思惟を遠ざける」特徴がある 7。また、我々は合理的なも

のを思考や思考の分析といった方法で理解するが、非合理的なものはこれとは違った「独自の

別な仕方」で理解されなければならない。オットーは、このことを認識してはじめて、合理的

述語を正しく理解できると言う 8。さらに、その「独自の別な仕方」で理解されなければなら

ない対象について、オットーは神秘主義者が名づけた「言い難きもの(arrēton)」というもの

を持ち出して、この特色について述べている。この「言い難きもの」とは、ある対象について

発言することができないという意味ではなく、むしろ神秘主義者たちはそうした対象について

「極めて多弁であった」というふうに「言い難きもの」とは逆の意味を示し、神秘主義者を評

価して

これらのことから次の二点に注目したい。オットーはまず、(1)非合理的なものは、合理的

なものよりもっと広い領域を持つと考えており 10、(2)その非合理的なものを取り扱うにあた

り、オットーは神秘主義にその可能性を見出しているという点である。

3 Ibid., S.13 4 このオットーの手法についてエリアーデは、彼が宗教を宗教史学の立場から分析する宗教学者であると同

時に、神学者つまりキリスト教徒として宗教に直接関わっているというこれら二重の素養が、オットー独自の主

張につながっている、と指摘している。 Ibid., S.13 5 R. Otto, Das Heilige, C.H. Beck, 2004, S.1 6 Ibid., S.2 7 Ibid., S.76 8 Ibid., S.2 9 Ibid., S.2 10 R. Otto, West-östliche Mystik, Dritte Auflage, Verlag C.H.Beck, 1971, S.28

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(1)について、オットーの言葉を用い「合理的なもの」と「非合理的なもの」の具体例を

挙げると、前者は「信仰(Glaube)」であり、後者は「感情(Gefühl)」である。前者の信仰に

ついてオットーは、「明白な概念における確信としての信仰は、まさに合理的述語を通してこそ

可能」と述べている 11。また後者の感情については、特に宗教的感情に着目し、「言い得ないも

の、言い表し得ないものそのもの、他のもの、秘密に満ちたもの」という特色を挙げている 12。

またオットーはこれより後に、宗教における非合理的側面を掘り下げて考察している。 (2)について、ここで「神秘主義」についての言及が見られるが、次に挙げる点からも、

オットーの「神秘主義」への期待というものが見て取れる。それは、オットーの「合理主義と

より深い宗教との対立に突きあたる」という記述 13である。この「より深い宗教」とはすなわ

ち「神秘主義」であると考えられる。ここでオットーが述べている「対立」とは、「合理主義者」

と「神秘主義者」との対立のことをほのめかしている。この対立についてもう少し詳しく触れ

ておくと、ここで問題となるのは「敬虔であること(Fromm-sein)そのものの気持ちと、敬

虔であることそのものの感情内容における固有の質的相違」である 14。 この「質的相違」とは、一方で合理主義者は神観念において「合理的なものが非合理的なも

のに勝り、これを除外している」とし、他方で神秘主義者は神観念において「非合理的なもの

が合理的なものに勝り、これを除外している」ということを意味している 15。この中でオット

ーは、「非合理的なものを敬虔な体験の中で生き生きと保つ」ことに注目している 16。 以上二点を挙げて、オットーの「非合理的なもの」に対する評価をみてきた。オットーはこ

の評価の後に、次のような課題を掲げている。それは、「宗教は合理的な言語には収まりきらな

いのだということに気付き、宗教がおのずから明らかになるように、その諸要素の実態をきち

んと整理すること」 17というものである。この課題の中身について、次節で詳しくオットーの

考えを取り出してみたい。 第二節 ヌーメン的なものとその具体例 前節で掲げた課題の解決のために、オットーはまず「聖なるもの(das Heilige)」というカ

テゴリーを取り出している。オットーによるとこの「聖なるもの」は、「宗教の領域のみに生じ

る特異な評価」という特色を持つ 18。しかし、我々が一般的に「聖なるもの」という言葉を用

いる場合、その意図するところは道徳的(例えば「善い」というような)述語にとどまってお

り、これは完全に根源的な意味ではないとオットーは指摘している 19。そのため、道徳的な意

味が読み込まれた「聖なる(heilig)」という語の代わりに、我々が日常用いる「聖なる」から

道徳的要素や合理的要素を差し引いた.....

「聖なるもの」を指示する語として、オットーは以後の

11 R.Otto, op. cit., S.1 12 Ibid., S.83 13 Ibid., S.2 14 Ibid., S.3 15 Ibid., S.3 16 Ibid., S.3 17 Ibid., S.4 18 Ibid., S.5 19 Ibid., S.5

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る。

考察に先立って、「ヌーメン的なもの(das Numinöse)」という語を作り出した 20。 この「ヌーメン的なもの」の特徴を詳しく述べる。オットーによると、「聖なる」という語に

はなるほど道徳的なもの全てを含みはするが、我々の感情にとってはなお明らかな余剰

(Überschuß)があり、ドイツ語で言うheilig(聖なる)という語または、セム語、ラテン語、

ギリシャ語、並びにその他古代言語における同等の語は、まさにこの余剰を示していたという

21。この余剰を的確に示すために生成されたのが、「ヌーメン的なもの」という語である。それ

ゆえ、今日の語感による「聖なるもの」と、ここで述べられている「ヌーメン的なもの」とを

比べると、これらは全く同一のものというよりは、後者の方が前者よりも、その語の指示する

射程範囲が広いといえ

この語の生成を前段階として、上述の課題の解決のために次の二つの具体的な方法を挙げて

いる。それは「ヌーメン的なもの」の、解釈と評価のカテゴリーと、ヌーメン的な心情規定性

(eine numinosen Gemüts-bestimmtheit)について述べるという方法である 22。前者のカテ

ゴリーを整理すると、以下のようになる。

第1.被造物感情 (Das Kreaturgefühl) 第2.畏るべき神秘 (Mysterium tremendum)

a.畏るべきものの要素 (Das Moment des ‘tremendum’) b.優勢なものの要素 (Das Moment des Übermächtigen) c.力強いものの要素 (Das Moment des ‘Energischen’) d.神秘の要素 (Das Moment des Mysteriums)

第3.ヌーメン的賛歌 (Numinose Hymnen) 第4.魅するもの (Das Fascinans) 第5.途方も無いもの (Ungeheuer) 第6.ヌーメン的価値としての神聖。崇高なもの (Das Sancrum als numinoser Wert.

Das Augustum) ここでオットーが次のように注意を喚起している。これらの方法で導き出される要素という

ものは、厳密な意味によって定義できるものではなく、ただ解明できる(erörterbar)ものに

過ぎないということだ 23。つまり、オットーの意図は「聖なるもの」の定義ではなく、「聖なる

もの」の解明を通し、その解明を聞く者自身に対して、上で挙げたヌーメン的なもののカテゴ

リーを活性化させ意識させることによって、聞き手独自の「心情」へと導くことである 24。そ

してこの「心情」へと導かれた者は、そのときに独特の「宗教的感情」、つまり「ヌーメン的な

感情」を実感するのである。 それでは「ヌーメン的な感情」というものが、具体的にどういうものを示しているのかを、

ここでオットーが示している具体例を用いることで、明らかにしてみたい。まず『創世記』の

20 ラテン語の numen(神性、神霊)を形容詞化して numinös を作り、これを名詞化している。 21 Ibid., S.4 22 Ibid., S.7 23 Ibid., S.7 24 Ibid., S.7

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28 章 17 節の部分を取り出しているので、それを引用してみよう。

Wie schauerlich ist diese Stätte! Ja, das ist der Wohnsitz Elohim’s. 25 ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。 26

オットーが着目しているのは、この句の前半部分の「なんと畏れ多い場所だろう」という言

葉である。これには、「畏れ多い(schauerlich)」という心に浮かんだ印象がそのまま出てきて

いる、と指摘し、「ヌーメン的な原初の畏怖(Urschauer)そのもの」である、とオットーは述

べている 27。このことが恐ろしい、容易に近づいてはならない、という印象を与える「畏るべ

きものの要素」であると言える。 またこの「畏怖」は同時に、「聖なる場所」をほのめかしているとも述べている。つまり、先

の言葉、「なんと畏れ多い場所だろう」とは、そこを「恐る恐る崇める場所」として目立たせる

のには十分であり、その場所に名前や具体的な顕れがなかったとしても、その場所から「おの

ずから」発展する崇拝(Kult)を生み出すのには十分だった、とオットーは指摘している。 28 さらにオットーは次のような例を挙げている。それは、“Es spukt hier“ というドイツ語で

ある。日本語で言うと、「ここには何か出る」という訳になる。こういう表現をすると、お化け

や妖怪のようなものが出てくるような印象を抱くかもしれないが、オットーは「この表現は何

が出るかは明確に述べておらず、ただ気味悪いものの感情そのものの表現に過ぎない」と指摘

している 29。 これにもう少し解釈を加えるならば、そこにお化けや幽霊や精霊があるから怖い・恐ろしい・

気味が悪いということよりはむしろ、そこにいると、そこに身をおくと気味が悪い、という感

情が自ずとわき起こってくる、ということの方が重要になる。何か明らかな合理的な説明でき

る原因があって、そのために感情がわき起こってくるのではない。原因が何だか分からない、

不明瞭であいまいであり、非合理的な説明に求めざるを得ないという点が問題なのである。 しかし言葉の表現として「出る」とかいうと、いささか品が無いように思えるかもしれない

が、「何かが出る」や「ここはどうも怪しい」という感じは、ヌーメン的な原初的体験と関連付

けてよいとオットーは述べている 30。そしてさらに、もう少し上品で高尚な妖怪が問題だとし

て、F.シラーの詩「イビュクスの鶴(Die Kraniche des Ibycus)」の中で、シラーが詠んだ

ものを取り挙げている。

Und in Poseidon’s Fichtenhein Tritt er mit frommem Schauder ein, 31

25 Ibid., S.153 Deutsche Bibelgesellschaft, Die Bibel nach der Übersetzung Martin Luthers, 2004, S.30-1 によると ,,Wie heilig ist diese Stätte! Hier ist nichts anderes als Gottes Haus,”とあ

る。 26 R.オットー 華園聰麿訳『聖なるもの』、2005 年、243-4 頁 27 R.Otto, op. cit., S.153 28 Ibid., S.153 29 Ibid., S.154 30 Ibid., S.154 31 Ibid., S.155

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そしてポセイドンの松林の中に、 彼は敬虔なる恐れを抱いて足を踏み入れる 32

こうした聖なる場所での静寂や薄暗がりの中で襲われるかすかな戦慄や身震いが、全く純粋

な「妖怪の感じ」や「身の毛もよだつ怖さ」とも関連している、とオットーは述べている 33。 要するに、ここでは単なる「怖いもの見たさ」というような俗的な感覚が問題なのでなく、

「ヌーメン的な感情」の顕れる場所を、恐ろしい・近づいてはならないと感じると同時に、そ

の場所に心囚われて惹きつけられてしまっているといった、相反する要素を読み取ることがで

きる。それらの相反する「感情」の「二面性」を見出すことができるが、これについては後の

章で詳しく考察する。 こうしたオットーの主張から、彼が「感情」というものを重要視していることが見て取れる。

前節で少し触れたが、この「感情」とは合理的には説明しにくく、どちらかといえば「非合理

的なもの」に属すると言えよう。またここでは、合理的に説明しにくい、つまり言語や思惟で

は到達できない「非合理的なもの」への接近を助ける役割を、オットーは「感情」に見出して

いることがわかる。そしてこの「感情」の中身を詳しく分析することが、次節での課題となっ

てくる。この「感情」の中身とは、先に、「ヌーメン的なもののカテゴリー」を列挙したが、こ

のうち第 1 に挙げられている「被造物感情」がそれである。これ以下の要素は、この被造物感

情の特色を挙げているものので、次節では「被造物感情」について考察する。 第三節 被造物感情 前節までの内容を踏まえて、ここではオットーの言う「被造物感情(das Kreaturgefühl)」

について述べていきたい。オットーの着眼点はこうである。それは、特殊な美的体験、祝祭の

敬虔な気分や、心のとらわれ( Ergriffenheit)の吟味の際に、道徳的な気分の高まり

(Erhobenheit)の諸状態とそれらが関係するところのものに注目するのではなく、感情の内

容において、それらに先立つところのもの、更にそれら自らがとりわけ持っているところのも

のに注目することだ 34。これは先に「ヌーメン的なもの」において、道徳的要素や合理的要素

を差し引くと述べたが、これに相当する。 まず、オットーはこれを導き出す前に、シュライエルマッハーの「依存の感情(das Gefühl der

Abhängigkeit)」を取り上げて次のような批判を加え、被造物感情を取り出している。それは、

シュライエルマッハーが本来考えた...

感情は、言葉の自然の意味で依存の感情ではないという点

である。オットーによると、この依存の感情は、事柄そのものに対する一つの類比を見ている

に過ぎないとしている。つまり、事柄そのものを感じる際に、シュライエルマッハーは、相対

的で程度で測れる一切の感情から、絶対的で完全な感情を区別しているに過ぎず、特別な性質

によって区別はしていないということを指摘している。 35 つまりここでオットーは、次の点を問題としている。それは、相対的なところから区別する

32 華園訳『聖なるもの』、246 頁 33 R.Otto, op. cit., S.155 34 Ibid., S.8 35 Ibid., S.9

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ことで考えられる「絶対的」な感情は、相対的な感情無しにそれ自身のみでは考えられないも

のとなる。オットーは、そうした類比や類似を通して考えられる感情ではなくて、事柄そのも

のに直面した際に、直接に感ぜられる感情に注目しているのであり、そうした感情を示す別な

表現を必要としたのである。 そこでオットーは、旧約聖書の『創世記』18 章 27 節の、

Ich habe mich unterwunden mit dir zu reden, ich der ich Erde und Asche bin. 36 塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。 37

という句を引用しながら、被造物感情について次のように説明している。それは「一切の被造

物に優越するものに直面して、自らの無へと沈み込み消えていく被造物の感情」である 38。こ

こではまず、「一切の被造物に優越するもの」とは、「まずもって直接に、私の外のある(言い

表せない、把握できない)客体と関わるヌーメン的な客体」を意味している 39。このヌーメン

的な客体はまさに非合理的であり、概念では理解できないものなので、それに直面した際に体

感される心情のうちに生じる感情反応(Gefühls-reaktion)を通してしか解明できないもので

ある 40。そしてこのようなヌーメン的なものを眼前に感じたときに、反射として、主体として

の被造物が消え失せる感情が心情の中に生じるという。これが「被造物感情」であり、それに

よ っ て 引 き 起 こ さ れ る 「 端 的 な 依 存 の 感 情 ( das Gefühl einer schlechthinnigen Abhängigkeit )」 は 、「 端 的 な 優 越 性 の 感 情 ( das Gefühl einer schlechthinnigen Überlegenheit)」を前提として持っている 41。 この前提となる後者の感情の特徴的なものを二つ挙げると、「畏るべき神秘(mysterium

tremendum)」と「魅するもの(das Fascinans)」である。前者でとりわけ「畏るべき」とは、

恐怖のあまり近づきがたく、不気味で、一切を拒否するような特徴を持っている。そして「神

秘」とは我々の語感では、この「畏るべき」と緊密に結びついている 42。これについては、次

項において詳しく述べる。後者は逆に、明らかに惹きつけ、心を奪い、魅了するものである。

オットーはこの二つの要素は、「ある奇妙な対立調和(eine seltsame Kontrast-harmonie)」に

現れるという 43。 さて、これまでのところから考えると、主体を消し去らせるような客体の存在を仄めかして

いることが窺える。その客体は「ヌーメン的なもの」であり、道徳的または合理的要素を差し

引いてなお残るものであることはこれまでに述べてきた。その差し引く作業を究極まで行なっ

て出てくるものは一体何であろうか。

36 Ibid., S.10 Deutsche Bibelgesellschaft, op.cit., S.18 によると ,,ich habe mich unterwunden, zu reden mit dem Herrn, wiewohl ich Erde und Asche bin.”とある。 37 華園訳『聖なるもの』、23 頁 38 R.Otto, op. cit., S.10 39 Ibid., S.11 40 Ibid., S.13 41 Ibid., S.12 42 Ibid., S.29 43 Ibid., S.43

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第四節 全く他のもの そこでオットーが取り出したのは、「全く他のもの(das ganz Andere)」である。前項まで

において、感情に着目して、「非合理的なもの」、「ヌーメン的なもの」、そして「被造物感情」

を述べてきたが、この考察の過程を経て道徳的で合理的な要素をそぎ落としてきた。それでも

なお残るのがこの「全く他のもの」である。ここでは、彼が「全く他のもの」を取り出す過程

をみていきたい。 彼はまずその作業のはじめに、「畏るべき神秘」という語を取り上げている。先に少し触れた

が、オットーの解釈によると、「畏るべき神秘」と言った場合、「畏るべき」と言うと「神秘」

を思い起こし、またその逆も思い起こさずにはいられないほど、我々に語感では緊密に結びつ

いている。そして「秘密に満ちたもの」は自ずと「畏るべき神秘」になりやすいが、いつもそ

うとは限らず、「畏るべき」要素と「神秘」の要素とは決定的に異なっている。そこで、ヌーメ

ン的なものにおける神秘的なもの要素が、感情体験において畏るべき要素より優れることもあ

るとし、さらに「畏るべき」という要素を「神秘」から差し引こうとした。 44 オットーは、ここで残った「神秘」をより正確には「驚き(das Mirum)」ないし「不思議な

もの(das Mirabile)」と表せるとしている。この「驚き」は、驚嘆や感嘆ではなく、「奇妙に

思う(Sich Wundern)」ということであり、これは「奇跡(Wunder)」から来ているものであ

る。そしてこの「奇妙に思う」ということは、心情において、奇跡、奇妙なもの、驚きといっ

たものに捕らわれている(betroffen sein)状態を指す 45。この状態を指し示すために「神秘」

という語を用いることは、それが一般的な理解では自然的なものの領域からの類似概念にすぎ

ず、事柄を真に汲み尽くせないので、より適切な表現が必要となる。この適切な表現が「全く

他のもの」なのである。これならば、先に述べた事柄、つまり宗教的な神秘的なものや本当の

「驚き」を示すことができるとしている 46。 さらに、「驚き」の性格について三つの段階を示して次のような説明をしている。(1)「全く

他のもの」としてこの「驚き」は、把握できず理解できないもので、我々の範疇を超越してい

る。そして(2)範疇を超えるだけでなく、時折自らをその範疇と対立させ、廃棄し、混乱さ

せるため、まさにパラドックスとなる。そうすると、理性を超えるのみならず、「理性に反する」

ようにも思われる。(3)最も鋭い形は、「二律背反」と称するもので、単なるパラドックス以

上のものである。これはそれ自身に矛盾を抱え、もはや解決できない対立を表す。ここでは「驚

き」は、合理的に理解しようとすることに対して、非合理的なもののもっとも険しい形で生じ

るが、これを最も雄弁に語ることができるのが、「神秘主義」であるとオットーは述べている。

彼は神秘主義を「全く他のものの神学」と形容し、その価値を認めている 47。 このような仕方で、オットーは「全く他のもの」と「驚き」という言葉を出しているが、こ

こで注意しなければならないのは、彼が示そうとしているのはこの言葉ではなく、この言葉が

指すもののほうである。つまり、こうしたオットーの考察を手がかりにして、自らの想像力と

感性を発揮してこの言葉の先にあるものを実感することが重要なのである。それは万人に一様

44 Ibid., S.29 45 Ibid., S.29 46 Ibid., S.31 47 Ibid., S.36

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の仕方で体感できるものではないが、指し示す中身には普遍性を認めることができるというの

がオットーの主張である。 以上のように「ヌーメン的なもの」を手がかりにして、オットーが主張する宗教についての

思索をこれまで追ってきた。オットーの考察を以下のように要約できるだろう。オットーは宗

教における「非合理的なもの」を重要視し、そこから「ヌーメン的なもの」を取り出した。そ

の「ヌーメン的なもの」には「畏怖すべき要素」と「魅する要素」の相反する二面性が同時に

存在し、それは「対立調和」と呼ぶことができる。そうした局面で、主体に自ずと沸き起こる

「被造物感情」が問題となる場合、「畏怖」よりすぐれた神秘的なものを「驚き」という言葉で

取り出した。しかしこの「驚き」というものは我々の感情反応における用語で示したもので、

その感情反応すら差し引いた際に残るものが「全く他のもの」である。これにはいかなる手段

によっても到達できない。こうした「全く他のもの」に直面した際に感じられる主体の消失が、

宗教性の骨頂ともいえよう。 こうしたオットーの考察から「宗教」の側面を概観した。次章においてはマレットの「超自

然的なもの」を手がかりとして、「呪術」の側面について述べていきたい。

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第二章 超自然的なもの 本章での課題は、「宗教と呪術との間」を考察するにあたり、「呪術」の特徴を明らかにする

ことである。そのためにマレットの The Threshold of Religion(邦訳『宗教の発端』)を中心

にして、「呪術」の特徴を取り出してみる。 まずマレットを簡単に紹介しよう。彼は、「アニミズム」(animism)を提唱したタイラー

(Edward Burnet Tylor)の門弟にあたる人物で人類学者である。人類学の手法ともいえるフ

ィールドワークによって収集された膨大な事例の中から、彼はメラネシア地域固有にみられる

「マナ(mana)の観念」に注目し、フレイザーの『金枝篇』を引き合いに出しながら「アニ

ミズム」の説を修正し、「プレアニミズム(preanimism)」の説を提唱した。これを簡単に表

すと、「アニミズム」で主張されている霊魂概念を伴わない、非人格的、超自然的な神秘力や生

命力を認める学説であるといえる。この神秘力や生命力といったものが呪術と結びついて顕れ

るところで、マナを認めることができる。そこではタブーとマナとの関係がとりわけ注目され、

マレットはこれを「タブー-マナ公式(tabu-mana formula)」と呼んでいる。 ここでマレットの言う「タブー-マナ公式」をより詳しく示してみる。タブーは「してはなら

ない」という禁止や、「それを冒すと…」というような不気味で不吉な暗示を与え、人々を遠ざ

けようとする否定的(negative)な特徴を持っている。そうした一方で「マナ」は、豊穣や狩

りの成功、天災を避け病気を癒すというような、人々にとって利益のある作用を更に含んでお

り、こうした利益を求めて人々はその威力に惹きつけられるという肯定的(positive)な特徴

も持っているということが言える。 しかし、こうしたマレットの主張も若干の批判は免れない。「マナ」というメラネシア固有の

概念が、学問として普遍化し得る価値付けが可能であるかという疑問は当然である。更に「ア

ニミズム」を巡る一連の主張が、生物学的進化論の発想の延長線上で、キリスト教を最も発達

した高次の宗教とし、先住民や未開民族の信仰を低次の宗教と考えていた当時の分析は時代遅

れであるという指摘 48もある。こうしたことは「宗教は無差別から差別へ、未分化から分化へ、

無統一から統一へと発展するものである」とし、「この発展の背後に、進化論の粋を集めた一仮

説の存在を必要とする」という言及 49からも裏付けできる。 だが、マレットは「マナの観念」が特殊具体的事例として埋もれることを避けるために、オ

ーストラリアや北アメリカ、アフリカなど世界各地の事例を挙げながら、「マナ」や「プレアニ

ミズム」といった観念で「人間性の内奥を深く掘り下げる」 50という言及もあることから、普

遍性の担保に努力しているとも言える。また、生物学的進化論の発想の延長線上にあると先に

述べたが、これは裏を返せば、「より自然に近い」ところで、宗教を考えようとしたマレットの

姿勢が見てとれるということではなかろうか。「より自然に近い」とはつまり、ある出来事に直

面した際に沸き起こる純粋で素朴な「感情」を求めて、世界各地でみられる「超自然的なもの」

の中身を深く掘り下げようとしたと言えよう。

48 田丸徳善『宗教学の歴史と課題』山本書店、1987 年、132-3 頁 49 R. R. Marett, The Threshold of Religion, 2nd. ed. Methuen & Co. Ltd., 1914, p.xi 50 Ibid., p.xxii

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こうしたことを念頭に置きながら、これよりマレットの考える「超自然的なもの」を、「プレ

アニミズム」、「呪術とタブー」、「マナの観念」と照らし合わせながら明らかにしたい。 第一節 プレアニミズム(アニマティズム) 「プレアニミズム(preanimism)」とは、「アニマティズム(animatism)」とも呼ばれるが、

本稿では前者を用いて論じていくこととする。「プレアニミズム」は、その語義からすると「ア

ニミズムに先立つ」という意味合いになるが、そこで最初に「アニミズム」を簡単に紹介し、

それから「プレアニミズム」を示したい。 「アニミズム」とは、イギリスの人類学者であるタイラー(Edward Burnet Tylor)が提唱

した観念で、宗教の最小限の定義として、霊的存在への信仰を根底とするものである。そして

ここでいう霊的存在とは、霊魂(soul)、幽霊(ghost)、精霊(spirit)、悪鬼(demon)、神性

(deity)、神(god)を含む。これらは、夢、幻覚、忘我や死の現象の観察の際に生ずる説明に

基づくとしている。この「アニミズム」によって、自然現象に人格的な生命が与えられる、と

タイラーはその主著である『原始文化(Primitive Culture)』の中で述べている 51。 これを受けてマレットは、タイラーが述べる「アニミズム」はあまりに主知的であり、原初

的宗教(rudimentary religion)についての定義としては狭いと指摘し 52、「宗教」という語の

定義が厄介な作業であることを認めながら、感情面に着目して自説を展開している。それによ

ると、「宗教は、様々な感情や観念が、共に直接に動作を引き起こすような、合成的で具体的な

ある心的状態を表すことを前提とすれば十分である」 53といい、これを受けて「宗教の感情面

が、宗教のより現実的で、より特徴的な特性を構成している」 54と述べ、そうした「宗教的感

覚」は「それ自体ほとんどまったく概念化されない感情の中にあらわれる」 55としている。ま

た、こうした感覚を呼び起こすものは、「恐怖(Fear)」、「讃嘆(Admiration)」、「驚異(Wonder)」であると述べ、これらの対象を広い意味で「超自然的なもの(the Supernatural)」と言って

いる 56。 そして宗教においては、そうした心情が「自然的」説明、つまり合理的説明の能力を奪い去

る、つまり「超自然的なものを感じることができる場所においては、思索が崩れ落ちる」 57と

考えられる。人間の思考の領域では、神秘的な・「超自然的な」何かを対象化し、人格化さえし

ようとする強力な衝動が生じる一方で、人間の意志の領域では、「超自然的なもの」を、強制的・

共有的・宥和的威力によって無害に、あるいはより穏やかに、好意あるものにしようとする衝

動が生ずる。こうした普遍的な「感情」が、最も広く最も素朴に顕れる場合、それは「超自然

観(Supernaturalism)」と呼ばれ、「アニミズム」に論理的にだけではなく、ある意味では年

代譜的にも先行するかもしれないと、マレットは述べている 58。 またマレットは、我々が「物理的自然」と呼ぶものは、正常な状態では未開人にとっても「自

51 E.B.Tylor, The Primitive Culture, V I 4th. ed., John Murray, 1903, p.417 52 R.R.Marett, op. cit., p.1 53 Ibid., p.5 (1sted p.3) 54 Ibid., p.5 (1sted p.5) 55 Ibid., p.6 (1sted p.5) 56 Ibid., p.10 (1sted p.10) 57 Ibid., p.28 58 Ibid., p.11 (1sted p.11)

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然」であるが、雷雨、日食、月食というようなおそるべき様相を呈する場合に、自然が未開人

に畏敬を感じさせると述べている。この場合に、「アニミズム」がその独自の色彩で自然現象を

彩るにせよしないにせよ、この「畏敬感」がまさに宗教的であると主張している。例えば、南

アフリカのカフィル人の集落では、雷雨が近づくと、村人が大挙して呪医(medicine man)に

導かれて近くの丘に突進し、雷雨に対して、進路を変えて村に来ないように叫ぶという事例が

ある。この事実の表面に出てきている「畏敬感」は、まさに自然現象を人格化しようとする表

出行為であるとし、これを「アニマティズム」と呼びたいと述べている。 59 つまり、「プレアニミズム」とは、「超自然的なもの」によってもたらされる「畏敬感」が顕

わになる観念である。その「超自然的なもの」とは、合理的説明を超えた尋常でないもの、「自

然的な正常なものとは異なった、超自然的な異常なもの」 60であり、タイラーが挙げているよ

うな霊的存在を含みうる。この霊的存在に注目する「アニミズム」が、夢、幻覚、忘我や死と

いった個における現象を観察し、これらを宗教の静的な部分を重視するのに対し、「プレアニミ

ズム」では個的な現象にとどまらず、「超自然的なもの」を、さらにはそれに対する「畏敬感」

を背景にした社会における習慣・儀礼・様式を観察し、宗教の動的な部分を重視していること

もみえてくる。 それではマレットが実際にどのような具体例を目にして、このように考えるようになったか

を、次節で具体例を引用しながらマレットの考察を追ってみたい。 第二節 呪術とその具体例 「超自然的なもの」と「畏敬感」について前節で取り挙げたが、こうしたものはどういう場

合に見出されるのだろうか。これらを探るために、マレットが挙げている呪術の事例を紹介し

ながら、より具体的な把握に努めてみたい。 例えば、未開の人たちが敵に向かって槍を投げ、それが当たって敵が倒れる。この場合、敵

を倒したのは未開の人たちといえども、道具(器械)としての「槍」であることはわかる。と

ころが、妖術師(wizard)が遠く離れたところから、直接姿が見えない敵に向かって、呪力の

こもった槍を投げるふりをする。そして敵が死んだ。この場合、妖術師は自分が投げた槍が実

際に当たったというわけではないので、槍がその敵を倒したとは思わない。敵は槍という道具

(器械)そのものの力のせいで倒れたのではなく、槍という象徴的な武器の中、あるいは背後

にある「神秘の力」のせいだと考えるだろう。 61 この「神秘の力」を認める場合、「槍が当たって死んだ」というような合理的な説明よりは、

何だかよく分からない、つかみどころのない、曖昧で非合理的な説明のほうがより価値を持つ

ように考えられる。槍という道具の能力だけでは説明できない現象を、ここでは「神秘の力」

を想定することで説明している。つまり、槍そのものの能力を超えた威力を発揮したのは、「超

自然的なもの」の働きによるものと言ってよいだろう。 さて槍の例え話をしたが、その槍についてのより詳しい事例を、マレットがオーストラリア

のアルンタ族の呪術から取り挙げているので、これを参照してみよう。

59 Ibid., pp.13-4 (1sted p.14) 60 Ibid., p.12 (1sted p.13) 61 Ibid., pp.50-1

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まず、アルンタ族の人が敵を倒すために、呪力を込めた槍を準備する。それは「アルングキ

ルトハ(arungquiltha)」と呼ばれる。そしてアルンタ族の人は、その槍に対して「真っ直ぐ

に、真っ直ぐに行って彼を殺せ」と唱える。そして「アルングキルトハ」が『彼はどこだ?』

と答えるまで待つ。そしてアルンタ族の人はこの返答をもって、槍という呪術的道具の中に悪

しき魂が存在するのを認める。こうしたことから発展して、この「アルングキルトハ」という

名前は、誰かあるいは何かにとり憑く超自然的な悪しき力や、常にあるいは一時的に存在する

超自然的な力に対しても適用されている。 62 ここでは「超自然的なもの」とそれに対する「畏敬感」を感じている一例がみられる。「アル

ングキルトハ」というのはそもそも呪力が込められた槍を指していたが、その背後にある悪し

き魂の活動に人々の関心が移り、そちらを示す言葉になっていることがわかる。エリアーデの

言い方を借りれば、超自然的な悪しき力を示す「シンボル(象徴)」として 63、「アルングキル

トハ」という名前が象徴化されているということである。また、「超自然的なもの」とそれに対

する「畏敬感」が、あいまいでつかみどころが無いという特徴を持っている故、後々にその感

覚を具体的に指し示す必要が出てきた場合に、象徴化が生じているとも考えられよう。 それでは「超自然的なもの」が見出せる他の事例を挙げてみる。例えば、指を火にさしこめ

ば、すべての指は一様に焦げることを、しごく当たり前のこととして、我々だけではなく未開

の人たちも常識的に認めている。しかし、その火が「偶然的に」、だれかの指だけを焼いた場合、

未開の人たちはそこに神秘の匂い嗅ぎ出す 64。通常の状態であれば問題にされなくても、人間

に害を及ぼし異常な状態を認める場合に「超自然的なもの」を感じる例をもうひとつ取り挙げ

たい。 ピグミーが小刀を矢の柄を仕上げる場合に用いる限りでは、それはしごく正常なものである。

ところがそれがあやまって指を傷つけると、その小刀の中、あるいはその背後に「意地悪い」

もの、すなわち「オウダハ(oudah)」が存在することになる。さらに、規則的に「意地悪い」

振る舞いをする何かが仮定されると、その結果は常に異常である。ここで「タブー」ないし慣

習的回避が設けられる。そして、こうした規則を破ることで生じる恐ろしい結果の性質に注意

を払うことが、その社会の成員に対する義務となる。 65 まずここでは、指を傷つけるという害が、道具を用いている自己に向かってきており、その

原因を自己の不注意に求めているのではなくて、他のものに求めていることがわかる。その他

のものが「オウダハ」であり、これが悪さをしたので、指を傷つけたと考えている。ここにも

「超自然的なもの」の類を認めることができよう。 そうすると、指を傷つけるということは、できるなら避けて通りたいと考えるようになる。

指を傷つけた原因が「オウダハ」がいたからだとすると、次第に「オウダハ」があるところで

は常に、異常な結果が生じるので、「オウダハ」を回避または「オウダハ」の影響から身を守る

ような工夫を見つけようとする。その工夫が慣習化すると、「タブー」となり、「タブー」を破

って生じる結果は常に異常であるとして、注意を喚起するようになる。こうして「超自然的な

62 Ibid., pp.64-5 Spencer and Gillen, The Native Tribes of Central Australia 63 M.Eliade, op. cit., SS.36-9 64 R.R.Marett, op. cit., p.91 65 Ibid., pp.91-2

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もの」とそれに対する「畏敬感」から、「タブー」が出てくると言えるだろう。 これまでは「超自然的なもの」を、アルンタ族における槍の「アルングキルトハ」と、ピグミ

ーにおける小刀の「オウダハ」の中で明らかにしてきた。これらのことから考えられることは、

(1)「超自然的なもの」が顕わになった場合、そこに人々は「畏敬感」や神秘的なものを感じ

る。(2)「超自然的なもの」やそれに対する「畏敬感」が顕れる場合には、それらが「象徴化」

され、その「象徴」を通して、「超自然的なもの」やその「畏敬感」が示され、神秘の感覚を思

い出すことができる。(3)「超自然的なもの」や「畏敬感」が象徴化される中で「タブー」が

定められることがある。ここでいうマレットの意味での「タブー」は、我々が一般的に抱くよ

うな「禁止」や「禁忌」といった意味あいとは若干異なっている。これについては次節で詳し

く述べる。 さて、これまで論じてきた「超自然的なもの」は、やはりそれ自体はあいまいでつかみどこ

ろを欠く節がある。ここでは、学問上有益な表現を求めなければならない。そこで、次節では

それらを汲み尽くす観念として「マナの観念」を取り出してみたい。 第三節 マナの観念 マレットが取り挙げている「マナ」という語が議論の的となるきっかけは、R.H.コドリント

ンの『メラネシア人(The Melanesians)』に記された報告である。古野清人の要約によると、

「マナがそれ自体は非人格的ではあるが、それを支配する人格(person)と常に結合している」

というものである。この報告を目にした多くの学者たちは、「マナ」の人格との関わりよりも、

「マナ」の非人格的要素に注目したか、あるいは「マナ」と人格的存在との密接な関わりを認

めながらも、「マナ」がこの関わりから抜け出て、それ自体で作用する力であると考えた。そし

てこの「マナ」に類似した概念を他の原始民族の中に見出し 66、「マナの観念」の普遍性を認め

て理論化した。 67 こうしたものを背景に、コドリントンのメラネシアにおける「マナ」の定義について、マレ

ットは次のようにまとめている。それによると(1)「マナ」は物理的な力から完全に区別され

る。そしてあらゆる仕方で善や悪に作用し、「マナ」を所有あるいは支配するということが最大

の利益となる。しかし、「マナ」が顕れる際には物理的な力、あるいは人間が持っている何らか

の種類の力として顕れる 68。さらに(2)「マナ」が見出されるところではどこでも(つまり「超

自然的なもの」が顕わになるところではどこでも)、「マナ」は、生きている人間、死んだ人間

の死霊(ghost)、あるいは「霊(spirit)」 69のいずれかと関係している 70。それではこれらの

定義からマレットの考察を追ってみよう。 まず(1)のように理解した上でマレットは、「マナは、人間の通常の力を越え、自然の通常

66 具体的に列挙すると、ダコタ族(北米インディアン)のワカン、アルゴンキン族のマニトー、イ

ロコイ族のオレンダなどがある。 67 古野清人『原始宗教の構造と機能』有隣堂出版、1971 年、134 頁 68 R.R.Marett, op. cit., pp.104-5 69 マレットはここでいう「魂」とは、ぼんやりとした何か・はっきりとした輪郭を持たない・ほこ

りのように灰色・目をやると直ちに消えてしまうといった具合で、幽霊のような顕れ方をするもの

と、人間のありふれた肉体的形態のような顕れ方との二通りあるという。 70 Ibid., p.115

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の過程の外にあるあらゆるものをもたらすために作用する、という点で超自然的である」と「マ

ナ」の超自然的な性質を述べている。そしてこれと似たような、ポリネシア、ハワイ、サモア、

トンガ等の諸事例を列挙し、「マナ」の言葉の範囲は、神性や妖術が影響を及ぼす範囲と同じで

あるということを導いている 71。こうして「マナ」と類似した言葉が様々な場所で用いられて

いることを受け、マレットは比較宗教学の一カテゴリーとしての「マナ」の重要性を明らかに

しようとした。具体的には、ピグミー族のオウダハ(oudah)やスー語族(Siouan)のワカン・

ワカンダ(wakan, wakanda)を取り挙げ、これらの語が「マナ」と似ていると指摘し、普遍

性を保とうとしている。 また(2)についてマレットは、「マナ」と「アニミズム」とを、それぞれの異なる点を明ら

かにしながら、両者がどのように関わりあえるかという可能性を検討している。上述の(2)

の定義のうち、特に後者の「死んだ人間の死霊」と「霊」については、あきらかにアニミズム

的であるという 72。そして「アニミズム」は、生きている人間を「マナ」で覆うことができる。

つまり、「マナが人間の中に入っていく」とか「マナが人間を元気にする」という仕方で覆うこ

とができるという。この場合、「彼はマナを持っている」とは言えるが、「彼はマナである」と

は言えない。そしてコドリントンの「すべての人や死霊が、マナを持っているのではない。し

かし生前に力を持っていた人の魂は、死後もそのまま力をもつ死霊となり、その力は生前より

も強力になる」という「マナ」を所有できるものは限られているという主張 73に反対してマレ

ットは、生前に「マナ」を持っていることを主張しなかった人こそを「マナ」の所有者として、

「死霊」や「霊」と同列に位置づけている。こうして、「マナ」と「アニミズム」が連結して生

じるとしている 74。 またマレットは、「アニミズム」に関連する論説を修正している。「アニミズム」はその属性

を「霊(spirit)」、「死霊(ghost)」、「魂(soul)」というように厳密に分けたがるが、マレット

は「そのような区別は原始宗教の範囲を逸脱し」ており、そのように区別するべきではないと

主張している 75。そして「アニミズム」では、その階層の高次のもののみが「超自然的なもの」

として扱われているが、それは「魂」のような性質をもつからではなく、「マナ」を持つが故に

「超自然的なもの」と扱われていると主張し、「アニミズム」の考え方を修正している 76。 つまり、アニミズムでは「霊」「死霊」「魂」を明白に分けて考える傾向にあるが、「マナの観

念」ではそれらを自由に結合させて考え、むしろ区別をあいまいにしている。逆に言うと、「マ

ナの観念」においてあいまいにされている「超自然的なもの」の属性を、「霊」「死霊」「魂」と

いう具合に特徴付けたものが「アニミズム」であると、マレットは考えている。

71 Ibid., p.105 72 Ibid., p.115 73 Ibid., p.116 74 Ibid., pp.116-7 75 Ibid., p.117 76 Ibid., pp.117-8

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第四節 タブー-マナ公式 ところでマレットは、そうした「超自然的なもの」を詳しく表現する上で、「超自然的なもの」

(または「マナ」)の否定的(negative)性質を「タブー」とし、その一方で「超自然的なもの」

の肯定的(positive)性質を「マナ」として、「超自然的なもの」の普遍的形態を特徴づけてい

る 77。マレットはこうした一連の特徴づけを、「タブー-マナ公式」と名づけている 78。これに

ついてマレットの言説を詳しく追ってみたい。

「タブー」は「超自然的なもの」の否定的な型であるとしているが、これはともすると、人々

が用心深い態度をとり、軽率に近づいてはならないという禁止的・威嚇的な「超自然的なもの」

と受け取られかねない。確かに特定の事例を背景にした場合は、絶対的禁止のようなものを含

むかもしれないが、「タブー」を普遍的に取り扱う上で、その意味では強すぎる。むしろ重要な

のは、「超自然的なもの」に対して、自らを守らなければならないという意味である。要するに、

「タブー」の普遍的な適用の際には、防御の側から言った「超自然的なもの」の否定性を表す

ことが重要であるという。 79 これに対し「マナ」は、通常の出来事の法則から外れ、しばしば能動的・奇跡的であるが、

「常にそうであるとは限らない」と述べている。具体的には「エネルギーのように静的であり

動的でもある」ように、我々の目に見える形や感じられる仕方で顕れることがあれば、顕れず

に潜在していることもある。つまり「マナ」が「超自然的なもの」を、その肯定的能力の中で

保持しているという。 80 またこれら「タブー」と「マナ」は一次的・実在的次元で用いられるべきであり、二次的・

道徳的次元では、効力を持たないとマレットは強調している。さらに、「タブー」と「マナ」は

価値判断をする規範概念ではなく、事実の判定をする本質的カテゴリーあるとする。したがっ

て未開の人々にとっては、「超自然的なもの」は清浄であると同時に不浄である、神から遠く離

れる、悪魔に近づく、聖化される、罪深い、隠される、隔離されるという様相を見出さなけれ

ばならないという 81。マレットはメラネシアにおける「超自然的なもの」を表現する用語の具

体例を挙げつつ、その語彙の変化に「強度の差から価値の差」への変化を見出している。こう

したことから「超自然的なもの」を表現する語において、一次的には価値の差は見出されない

ことを示している。これを「マナの観念」において適用し、「マナ」には道徳的な意味が欠けて

おり、「マナ」の神秘的な潜在力は善でもあり悪でもあると述べている 82。 マレットはこのようにして、「マナ」を「超自然的なもの」とのつながりの中で考察してきた

が、これをまとめる形で次のように言っている。それは、「タブー」と「マナ」との二重の性質

の中で顕された「超自然的なもの」は、道徳的でも不道徳的(immoral)でもなく、ただ非道

徳的( unmoral)なものにすぎない。そして、「超自然的なもの」は「呪術 -宗教( the magico-religious)の領域」として表すことがふさわしいが、厳密に言えば、呪術的でも宗教

77 Ibid., p.99, p.111 78 Ibid., p.119 79 Ibid., p.112 80 Ibid., p.112 81 これに白黒や善悪とかいう意味の区別を差し挟むことは、文化的な辞書編集者の間でとやかく言

われていることであるとして、退けている。 Ibid., p.106 82 Ibid., pp.112-3

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的でもないと述べている。 83 以上のように考察し、マレットは「マナ」や「タブー・マナ公式」の考えの方が、タイラー

の言う「宗教の最小限の定義」を目指す上で、「アニミズム」より確実に有利であると主張して

いる。「マナ」は常に「マナ」であり、その範囲は「超自然的なもの」と等しく、その顕れ方に

強度の差はあれども、本質的な差は無い「超自然的な力」という。そして「アニミズム」が人

格的な「超自然的なもの」に近づくのに対し、「マナ」はそういった人格的・非人格的という区

別を持たず、高度な個の観念を凝固させることを特に許さないということをマレットは述べて

いる。 84 ここまで、「マナの観念」の性質を述べてきた。この「マナの観念」は「プレアニミズム」や

「超自然的なもの」において顕れるものとその領域を同じくするものである。そして「タブー・

マナ公式」という表現にあるように、「マナの観念」では否定的な局面と肯定的な局面との両者

が同時に生じる「二面性」がみられる。そこでは、道徳的な価値判断は無く、ただ非道徳的で

ある。こうした点は以後の議論で重要な地位を占めるものとなる。この「マナの観念」を基に

して、第一章で述べてきたオットーに見られる宗教性と、本章で述べてきたマレットに見られ

る呪術性とを橋渡しすることを試みてみたい。

83 Ibid., p.114 84 Ibid., p.119

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第三章 「宗教」と「呪術」との間における「マナの観念」

本章での課題は、これまでに挙げてきたオットーの考察から導いた「宗教」と、マレットの

考察から導いた「呪術」とを結びつける媒介として、「マナの観念」を考察することである。「宗

教」と「呪術」と並べた場合、どちらも宗教的と言うことはできるが、言葉が違うように全く

同じものではない。前者は絶対的なものに対する「祈祷(prayer)」の要素がみられ、後者は

尋常でない常軌を逸した力を操ろうとする「呪祷(spell)」の要素がみられ、およそ別物であ

る。 しかし、それぞれ全く異なった方向性や特色を醸し出しているにもかかわらず、「宗教」と「呪

術」は宗教的というカテゴリーで論じられる対象となっている。例えばフレイザーは、呪術を

軽信性(credulity)からくる野蛮人による観念連合の法則の誤適用の結果として、宗教から完

全に切り離している節があるが、マレットはむしろ切り離さずに考えている。こうした議論の

土壌ともいうべき部分、つまり「宗教的.」というものが具体的にはどういうものであるのかと

いう問いが出てくる。 それに対する一つの答えを、「マナの観念」を通して導き出すことが本章の目標であり、拙論

の結論ともなるべきものである。この考察を進めるにあたってはまず、前章までで取り挙げた

オットーとマレットの考察の要点を取り出すことから始める。それから、先に述べた「マナの

観念」の要点を取り出し、その意味を明らかにしていく。最後に、「宗教」と「呪術」とをつな

ぐ「マナの観念」について述べていくこととする。 第一節 「宗教」と「呪術」 これまでのところで、オットーから考える「宗教」と、マレットから考える「呪術」とをそ

れぞれ述べてきた。ここではそれぞれ両者の特徴について整理してみたい。 まず「宗教」では、オットーが述べている「全く他のもの」のように、絶対的に到達不可能

な局面が出てきている点が挙げられる。そうした局面を背景に、「畏るべき神秘」や「魅するも

の」が顕わになるが、我々の目には「畏るべき神秘」の拒絶・拒否・近寄り難さという特徴が

目立っている。しかし預言者や神秘主義者のようなごく限られた人には、神秘的な直接経験に

よってそうした拒絶が突破され、「近寄り難いものに近寄る」あるいは「神的なものとの合一」

という境地が啓かれる。そうした境地を我々の言語で表そうとすると、「ああでもないこうでも

ない」というような説明になる。しかしこれは否定的な表現ではなく、「だから、ああでもあり

こうでもある」というような潜在力をはらんだ肯定的な否定の言語表現である。 ここでいうオットーの「宗教」の考察では、宗教以外の不純物を取り除き、まさに純粋な「宗

教」と取り出そうとしている姿勢がうかがえる。そしてその純粋な「宗教そのもの」の局面で

の「直接経験」に「宗教」の本質を見抜いているように思われる。ここでは、あらゆる個々人

の人間味と言ったものや、社会や儀礼などの関与は許されない。それゆえ、一度その境地を経

験した者は、時代や歴史が異なっても似たような言動に至るのである 85。オットーは個の分析

85 R.Otto, West-östliche Mystik, SS.1-4

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から宗教一般の理解を努めていたと言えよう。 そして「呪術」では、「超自然的なもの」に対して働きかけ、その威力を操作することを通し

て、呪術を用いようとする者の願望を叶えようとする。そしてその威力を目の当たりにした者

は、それに対し「畏敬感」を感じる。「プレアニミズム」では、こうした非人格的な力の顕れが

重要視される。ここに我々は、「超自然的なもの」の威力に惹かれて近づいた者が、その威力に

圧倒され畏敬の念を覚えるという構造を見出すことができる。場合によってはその威力が強大

となりすぎるために、これを避けるか抑えようとする意味での習慣が生じる。これが「タブー」

へと展開する。 ここでマレットは「呪術」を中心に据えて、そこから宗教を理解しようとしていた。「超自然

的なもの」に対する人々の態度を分析することで、それぞれの社会における文化や習慣が見え

てくると考えていた。つまりそこで行なわれる「呪術」は、その社会全体の「超自然的なもの」

に対する姿勢の現れであり、その姿勢は個々人の行動にも見ることができるのである。マレッ

トはむしろ、社会や集団というような大規模な動きから宗教一般の理解を図ったものだと言え

る。 我々は一般的には、「宗教」は「祈祷」のように、絶対的存在に対し希うという特徴を、また

「呪術」においては「呪祷」のように、超自然的威力を操ろうとする特徴をそれぞれ見出して

いる 86。上述のように両者を並べると、畏れや断絶といった否定的な局面と、惹きつける・魅

了するといった肯定的な局面とが見えてくる。 こうした両者の姿勢の違いあるにもかかわらず、これまでの考察によってそこから更に一歩

踏み出し、逆の方向性が同時に生じているという点が明らかになっていることがわかる。つま

り、「宗教」においては、はじめに否定的な局面が強調され、そこから肯定的な局面が出てくる。

また「呪術」においては逆に、肯定的な面が強調され、そこから否定的な局面が出てきている。

「宗教」と「呪術」には、こうした「二面性」があるということに我々は気づくべきであろう。

この点に注目して、次節では「マナの観念」を整理してみたい。 第二節 「マナの観念」の二面性 さて、前章で述べたように「マナの観念」においては、肯定性と否定性の「二面性」を持っ

ているという特徴について述べた。つまり、「超自然的なもの」が否定的に顕わになる場合と、

肯定的に顕わになる場合とがある。否定性が展開されるとそれは「タブー」と呼ばれ、肯定性

が展開されると「マナ」と呼ばれる。 ちなみにここで挙げている「タブー」と「マナ」は、「超自然的なもの」の顕れによって生じ

た変化の特徴を示しているに過ぎないことに注目しておきたい。そもそも「マナの観念」は「超

自然的なもの」とその領域を等しくするということと、善悪の判断や道徳的かどうかという価

値判断はできないということも述べた。つまり、善・悪、肯定的・否定的というこの両面を同

時に含んでいるのである。しかし、「超自然的なもの」の顕れを具体的に指示し論じる上では、

肯定性の強いものと否定性の強いものとを指し示す用語が必要となるので、便宜上「タブー」

と「マナ」とが割り当てられているにすぎない。「マナ」と言った場合には、我々はその肯定性

86 『宗教学辞典』東京大学出版会、1973 年、「宗教」と「呪術」の項を参照

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を感じるのであるが、同時に否定性も潜んでいる。また逆に「タブー」と言った場合には、そ

の否定性を感じがちだが、同時に肯定性が潜んでいるということに留意したい。 これまで肯定性と否定性が「同時に」潜んでいると強調して述べてきたが、つまりこれは「切

り離せない」ということを表しているのである。これまでのところ「マナの観念」の二面性に

ついて述べているが、この二面性は二元論的に完全に切り離されるものではない。それぞれが

有機的に結合しており、肯定性と否定性は同時に出てきている。しかし我々は、その「超自然

的なもの」の威力のうち、全体として優勢に出てきている方を、肯定的とか否定的という具合

で感じているのである。しかしその裏で、肯定性の顕れには否定性が、また逆に否定性の顕れ

には肯定性が潜在している。我々には相反する、全く逆方向の威力のように見えるものが、常

に同時に含まれているのである。 さて、「マナの観念」における二面性について、その肯定性と否定性が切り離されずに発揮さ

れるということについて述べてきた。この特質を踏まえた上で、「宗教」と「呪術」との間にこ

の「マナの観念」を差し挟むとどのような展開が拓けるのかを示したい。 第三節 「宗教」と「呪術」との間における「マナの観念」 それでは、以上で述べてきたことから「マナの観念」を用いて、「宗教」と「呪術」とがそれ

ぞれどのような見え方になるのかを試みてみたい。 まず、「宗教」においては「全く他のもの」のように一切を拒絶するという局面が顕れると述

べた。これは「マナの観念」における否定的な部分を強調した場合に顕れてくる局面とつなが

ってくる。ここでは様々な願望や祈りのような人間味が一切否定され、「呪術」的な要素の関与

が完全に消えてしまう。そうした否定性が究極まで発揮されると「全く他のもの」がすぐそこ

のところに顕れる。そうなるや否や「マナの観念」でつながっている肯定性が同時に発揮され、

否定性の極みであったはずの境地にもかかわらず、無尽蔵の肯定性があふれ出し、言葉では言

い表せないような経験を味わう。 同様に「呪術」においては、「超自然的なもの」の力に引き寄せられるような局面が顕れると

述べたが、これは「マナの観念」における肯定的な部分を強調した場合に顕れる局面とつなが

る。そして、その肯定性が究極まで発揮され、「超自然的なもの」の威力に直面するや否や、あ

まりの威力に驚きのあまり「畏怖感」があふれ出てくる。肯定性の威力がその枠を踏み越える

と、「マナの観念」でつながっている否定性もまたその同程度の威力を発揮する。したがって、

そこから畏れの念を抱くのである。 こうして、「マナの観念」では、肯定性と否定性とが緊密に結びついているということがわか

る。通常の力の発揮の場合は、「マナ」や「タブー」といったように、肯定性あるいは否定性の

どちらかしか我々は感じることができない。しかし、通常を超えた「マナ」や「タブー」の威

力の発揮が生じ、それぞれの肯定性や否定性といった局面を突破すると、同時にその裏に潜ん

でいた否定性や肯定性が突如としてその威力が顕わになる。この潜在していた威力の顕れは、

「マナの観念」の側から出てくる。 この「マナの観念」の肯定性と否定性を併せ持っている特徴から、「宗教」と「呪術」との間

に接する部分が見出される。「宗教」における否定性の顕れには、「マナの観念」による肯定性

が潜在しており、その否定性の枠が突破されると、同程度の高度に緊張した肯定性が放出され

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る。この否定性と肯定性の拮抗は、言葉では言い表せない威力を呈し、これを感じる者はその

威力に囚われ脱我(Ekstase)のような反応を示す。また「呪術」における肯定性の顕れには、

「マナの観念」による否定性が潜在しており、「呪術」を通した「超自然的なもの」の威力に直

面すると、突如としてその否定性が顕わになる。肯定性を感じつつ、同時にその威力に対して

「畏怖感」を抱いてしまうという否定性がここに顕れるのである。 このように「マナの観念」を意識することで、「宗教」と「呪術」において特徴的にみられる

否定性と肯定性だけではなく、潜在する肯定性と否定性とを感じることができる。これら肯定

性と否定性は互いに切り離すことはできず、常に結合しているということがこの「マナの観念」

で表すことができよう。「宗教」と「呪術」との間に「マナの観念」を差し挟むことによって、

両者が活性化される。それぞれの特質と威力の発揮を容易にするのが、切り離すことのできな

い二面性を含んだ「マナの観念」であると考えられる。

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おわりに 拙論では、「宗教と呪術との間」を「マナの観念」のもつ二面性を考察し、「宗教とは何か」

を考える一つの見方を提示した。ここで挙げた二面性は、オットーとマレットの考察という古

典的な文献を用いることによって導かれたものである。両者は、事例こそ古いものや未開民族

に属するものを取り出しているが、そこから得られる視点は、普遍的で新しい事象においても

適用できるものを目指していたように思われる。そうするとここで示した観点は、現代の宗教

を論じる上でも有効なものと言えるのではないか。それでは最後に、オットーとマレットの考

察を、これまでの記述を基に振り返ってみたい。 まず、オットーにとって「対立調和」という語で表される「ヌーメン的なもの」の二面性は、

宗教経験の際に「全く他のもの」を眼前にすることで生じてくる。それに直面した者には、「畏

怖」や「魅了」という逆の感情が同時に生じ、我々はその状態を理解することはできず、ただ

感じることだけができる。その感覚を言い表し説明したりする際には、説明する者それぞれの

解釈が入り込むため、純粋な経験の感情から遠ざかっていく。オットーはそれを避け、「直接経

験」の現場を論じようとしていた。つまりオットーは、「全く他のもの」に直面した「直接経験」

の場で感じとられる「ヌーメン的なもの」の二面性から、宗教の本質を語ろうとしていた。 またマレットの場合では、この二面性を「タブー-マナ公式」という語によって表すことがで

きる。そして「超自然的なもの」に直面した人々は、それに対して肯定的・否定的(positive; negative)態度を示す。これは「タブー-マナ公式」によって測ることができる。さらにそうし

た態度は、「呪術」が執り行われる場において最も明らかになる。人々は「呪術」によって、「超

自然的なもの」の肯定的能力にあやかろうとするが、その威力に直面するや否や、その威力の

偉大さに「畏怖感」を見出す。この「畏怖感」は否定的なものである。 オットーとマレットにおいて、「マナの観念」で生じる二面性を引き出すことで、肯定性と否

定性とが同時に生じるという境地を見出すことができる。その境地は言葉で言い表すことがで

きない非合理性で満ちており、そこで手がかりとなるのは「感情」である。オットーとマレッ

トはそれぞれの考察の中で、「ヌーメン的なもの」や「超自然的なもの」といった形で非合理性

を持ち出しているが、これらの要素を同時に含みうる「マナの観念」で整理すれば、「宗教」と

「呪術」という一見水と油のように混ざらない両者を、二面性の中でつなぐ役割を果たすこと

ができよう。 こうした二面性を取り挙げ意識することは、古典的なものにとどまらず現代における宗教を

論じる際に、宗教的なものを見分ける一つの尺度として「マナの観念」を持ち出すことを可能

にする、ということは考えられないだろうか。つまり、多様な価値が生み出される現代、特に

宗教に対して半ば拒否反応を示す人の多い現代の日本において、どのように宗教と関わればよ

いかを示してくれるのではないか、という期待も生じてくる。オットーやマレットの古典的な

考察を助けとして、こうした現代的な問題にも接近していけるのではなかろうか。しかし、こ

の二面性を用いた宗教的なものを見分けるという作業の詳細な吟味や評価については、更なる

研究が待たれるところである。 最後に、今後の研究について期待される点をさらに付け加えて、拙論の締めとしたい。今回

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はオットーとマレットの考察の中でも『聖なるもの』と『宗教の発端』に焦点をあてた。今後

はさらに両者の文献を多く採り入れ、それぞれの宗教についての考察をさらに深めることが望

まれる。それによってより一層、両者の二面性の表現が明らかになるだろう。またオットーの

考察に関連して、エリアーデ、ゼーデルブローム、デュルケームらの文献を、マレットの考察

に関連してタイラー、フレイザー、コドリントン、アンドリュー・ラングらの文献も参照する

ことで、両者の考察の位置づけができるだろう。その関係の中でのオットーとマレットの考察

の価値が、どのようなものであるかを見出すことも望まれる。こうした作業によって、拙論に

おいて試みられた研究の一層の深化が図られるものと信じる。

なお拙論の執筆にあたり、岡村康夫先生には文献講読から論文の中身に至るまで多くのご指

導を賜ることができた。わずかな時間を割きながらのご指導には頭が上がらない思いである。

また、ジュマリ・アラム先生にも核心を突いたご指摘を頂き、来栖哲明氏には勉強会を通じて

多くの助言を頂いた。これらの方々のお力添えにも感謝を申し上げたい。

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参考文献一覧 独文及び英文文献のうち重版には初版発刊年を、翻訳には原著初版発刊年を付した。

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理的なものとそれとの関係について』創元社、2005 年(原著:1917 年) ─────. 山谷省吾訳『聖なるもの』岩波書店、1968 年(原著:1917 年) マレット, R.R. 竹中信常訳『宗教と呪術』誠信書房、1964 年(原著:1909 年) 岸本英夫『宗教学』大明堂、1961 年 タイラー, E.B. 比屋根安定訳『原始文化』誠信書房、1962 年(原著:1871 年) 田丸徳善『宗教学の歴史と課題』山本書店、1987 年 西谷啓治『宗教とは何か』創文社、1961 年 ─────. 上田閑照編『宗教と非宗教の間』岩波書店、2001 年 藤原聖子『「聖」概念と近代―批判的比較宗教学に向けて』大正大学出版会、2005 年 古野清人『原始宗教の構造と機能』有隣堂出版、1971 年 フレイザー, J.G. 吉川信訳『初版金枝篇 上・下』筑摩書房、2003 年(原著:1890 年) 脇本平也『宗教学入門』講談社、1997 年