54
宗教の誕生と環境概念 環境文化論 第3Nov.11, 2011 1.宗教とは何か 2.宗教と環境問題の関係 3.多神教と一神教 福島大学共生システム理工学類 後藤

宗教の誕生と環境概念 - 福島大学a067/EnvPlan...宗教の誕生と環境概念 環境文化論第3講 Nov.11, 2011 1.宗教とは何か 2.宗教と環境問題の関係

  • Upload
    others

  • View
    3

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

宗教の誕生と環境概念

環境文化論 第3講 Nov.11, 2011

1.宗教とは何か

2.宗教と環境問題の関係

3.多神教と一神教

福島大学共生システム理工学類 後藤 忍

1.宗教とは何か

2.宗教と環境問題の関係

3.多神教と一神教

宗教とは何か

宗教(religion)について(広辞苑第六版)

神または何らかの超越的絶対者、あるいは卑俗的なものから分離され禁忌された神聖なものに関する信仰・行事。また、それらの連関的体系。

帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。

アニミズム・自然崇拝・トーテミニズムなどの原始宗教、特定の民族が信仰する民俗宗教、世界的宗教すなわち仏教・キリスト教・イスラム教など、多種多様。

多くは教祖・教典・教義・典礼などを何らかの形でもつ。

世界の宗教の分布

世界の宗教人口(1997年)順位 宗教名 人口

01 カトリック(キリスト教) 10億4000万

02 イスラム教・スンニ派 9億5200万

03 ヒンドゥー教 7億4700万

04 儒教・道教 3億6900万

05 プロテスタント(キリスト教) 3億6100万

06 東方正教(キリスト教) 2億2300万

07 大乗仏教(仏教) 1億9800万

08 イスラム教・シーア派 1億8400万

09 上座部仏教 1億3400万

10 英国教会派(キリスト教) 5500万

11 シーク教 2300万

12 チベット仏教 2100万

13 ユダヤ教 1500万

14 イスラム教・ワッハーブ派 1100万

キリスト教合計 19億6700万人イスラム教合計 11億4700万人仏教合計 3億5300万人

アニミズムの分布

(出典:オドン・ヴァレ著、佐藤正英監修(2000)『神はなぜ生まれたか』、創元社,p131)

キリスト教について

キリスト教についてイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加

えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じて従う伝統的宗教。

イエスの死後、弟子達に広まった復活信仰を支えとして、神の愛による救いと永遠の命を説く教えとして始まった。

ユダヤ教から派生した一神教である。

いわゆる正統教義では、神には、同一の本質をもちつつも互いに混同し得ない、区別された三つの位格(父なる神、子なる神(キリスト)、聖霊なる神)があるとする(三位一体)。

1997年の集計で約20億人で、世界で 大の信者を擁する。

『聖書の読み方』創元社

キリスト教の教義 教義の根幹

アダムとイヴの背信行為以降、子孫である全ての人間は生まれながらにして罪を背負っている存在であるが(原罪)、(神にして)人であるイエス・キリストの死はこれを贖い、イエスをキリストと信じるものは罪の赦しを得て永遠の生命に入る、という信仰がキリスト教の根幹をなしている。

基本教義神は三位一体である。

父は天地の創造主である。

子なる神イエス・キリストは万物に先立って生まれた父の独り子である。したがって被造物ではない。また子は父とともに天地を創造した。

キリストの聖母マリアからの処女生誕。地上におけるキリストは肉体をもった人間であり、幻ではない。これはわたしたち人類を救うためであった。

イスラム教について イスラム教について

唯一絶対の神(アラビア語でアッラーフ、又は、アッラー)を信じ、神が 後の預言者たるムハンマド・イブン・アブドゥッラーフを通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ従う一神教のこと。

7世紀の前半、アラビア半島のメッカで、クライシュ族の貿易商ムハンマド(マホメット)が、神の啓示を体験したことに始まった。

イスラムという言葉は、天地万物の創造者である唯一の神に絶対的に「服従する」ことを意味する。イスラム教徒は「服従するもの」「神に帰依する者」という意味で「ムスリム」と呼ばれる。

ユダヤ・キリスト教の影響を多大に受ける。

唯一の神は像に刻んで礼拝されるべきではないとし(偶像崇拝の排除)、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる。

イスラム教の聖地メッカhttp://en.wikipedia.org/wiki/Mecca

メッカのカーバ神殿http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/1/11/Mecca.jpg

イスラム教の教義と聖典クルアーン 主な教義

六信(アッラー、天使、啓典、使徒、来世、定命)

五行(信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼)

クルアーン(コーラン)について

イスラム教の聖典。ムハンマドの死後にまとめられた。

クルアーンとは、一般に「読む」「読誦する」という意味をもつ。これは、クルアーンの内容が、天にある神の永遠のことばの書版を、神がムハンマドに読み聞かせ、ムハンマドがそれを復唱して人々に伝えたものであるという理解がある。

ムハンマドが受けた啓示は、弟子達によって書き留められたり暗唱されたりして伝承された。

651年に編集がなされ、全体を114章のスーラと呼ばれる段落に分けるクルアーンが完成した。

宗教思想の主な内容は、神、世界と人間、終末をめぐる思想からなる。

仏教について

仏教について紀元前5世紀頃にゴータマ・シッダッタ(ガウタマ・シッダー

ルタ、釈迦)が、現在のインド北部ガンジス川中流域で提唱した教えを信仰する宗教。

ゴータマが釈迦族出身のため、中国・日本では釈迦あるいは釈尊と呼ばれる。

仏教徒は三宝すなわち仏(ブッダ)・法(真理)・僧(教団)に帰依する者といわれる。

仏陀、仏(佛陀、佛)とはサンスクリット語の目覚めた人、覚者(かくしゃ)、真理を悟った人を意味する buddha を中国語の漢字に音写した言葉であり、「神」、「預言者」、「神の僕」の意味ではない。

インドでは、ヒンドゥー教やイスラムの流入などにより、一時はほとんど消滅し、現在は人口の1%にも満たない。

仏教の伝播 東南アジア地域における

仏教の伝播上座部仏教(小乗仏教,

出家者の悟りに至る修行が中心)は,主にインドシナ半島とスリランカに伝わっている。上座部仏教の人口が多い国はタイやミャンマーである。

大乗仏教(衆生救済が中心)は,中国,朝鮮半島,日本などに伝わっている。

金剛乗(密教)は、チベットが中心となっている。

(出典:オドン・ヴァレ著、佐藤正英監修(2000)『中国と日本の神』、創元社,p132)

仏教の教義 仏教の主な教義としての三法印

諸行無常:一切のつくられたものは無常であり、互いに依存し合う縁起による存在としてのみある。

諸法無我:すべての存在には、主体とも呼べる「我」(が)がない。

涅槃寂静(ねはんじゃくじょう) :煩悩の炎の吹き消された悟りの世界(涅槃)は、静やかな安らぎの境地(寂静)である。

仏教における救い

救いは超越的存在(例えば神)の力によるものではなく、個々人の実践によるものと説く。つまり、釈尊の実体験を 大の根拠に、現実世界で達成・確認できる形で教えが示され、それにしたがうことを呼び掛ける。(あくまで呼びかけであり強制ではない)

このため、仏教での神は、六道を輪廻する一切衆生の一部をなし、輪廻という苦の中にある点では、他の衆生と同様、特別な存在ではない。このことから、釈迦も仏教の開祖ではあるが、「唯一神」のような全能な人格・超越者ではない。

仏教の変化

戒律教団の整備が進むにしたがい、規則がつくられるように

なった。

基本的な戒律として五戒がある。

「不殺生」「不偸盗(ふちゅうとう)」「不邪淫」「不妄語」「不飲酒(ふおんじゅ)」

仏像崇拝の登場釈迦は悟りの世界、真実の世界を教えようとしたのであり、

自己に対する崇拝を求めたりしなかった。

しかし、仏教は次第に釈迦崇拝の傾向が強くなり、釈迦の姿を見たいという信者の要望も高まってきた。そこに,ヘレニズム文化が影響したこともあって、ギリシャ彫刻の影響を受けた仏像が一世紀の終わり頃につくられた。

神道について 神道について

日本の民俗的な信仰体系であり、日本固有の多神教の宗教である。

いつどのような形で誕生したかは定かでない。

日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。

神道には明確な教義や教典がなく、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺(こごしゅうい)』『宣命(せんみょう)』などといった「神典」と称される古典を規範とする。

森羅万象に神が宿ると考え、天津神(あまつかみ)・国津神(くに

つかみ)や祖霊を祀り、祭祀を重視する。

明治から終戦までの間、国家の支援により宗教を超越するものとして特別に扱われてきたが(国家神道)、GHQによって解体されて以降、一宗教として定着しつつある。

しかし、教義面における体系化はそれほど進んでいない。

神道の神 神道の神

無限に多数であることから「八百万神(やおよろずのかみ)」と表現される。

類型の例万物創造に関する神

霊能上の神

人の霊を祭った神

職業に関して祭られた神

天象に関する神

地象に関する神

動植物に関する神

食物に関する神

神仏習合

仏教の伝来による影響仏教が伝来した当初は、神道と仏教の衝突があった。

(排仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の争いなど)

やがて神道と仏教は共存・習合への道を辿る。

本地垂迹説神と仏を一体とみて、神の本体は仏であり、神はその仏

の化身(権現)と考える神仏習合思想のこと。平安時代末に形成される。本地である仏菩薩が日本の衆生を救済するために、神として日本に姿を現した(垂迹した)と考える。

反本地垂迹説(神本仏迹説)神道の天照大神が仮の姿となって出現したのが大日如

来であるとする考え方。

神仏分離 神仏分離とは

神仏習合の慣習を禁止し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させること。

神仏分離の動きは早くは中世から見られるが、一般には江戸時代中期後期以後の儒教や国学や復古神道に伴うものを指し、狭義には明治新政府により出された神仏分離令(正式には神仏判然例)に基づき全国的に公的に行われたものを指す。

仏教排斥を意図したものではなかったが、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。

一方、神社の合併政策である神社合祀も行われた。神社の数を減らし残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の尊厳を保たせて、神社の継続的経営を確立させることを目的としたものである。

→神社合祀に反対運動を展開したのが南方熊楠である

(第7講)

日本人の宗教観(1) 日本人は無宗教か?

日本人の中には「無宗教」を標榜する人が少なくない。

日本人の宗教意識の調査例國學院大學が2003年に20歳以上の男女2,000人を対象に

行った「日本人の宗教意識・神観に関する世論調査」では、次のような結果が得られた。

信仰とか信心とかを持っているか。

→持っている:29.1% 持っていない:70.9%

持っている場合、それは何か。

→神道:22.0% 仏教:77.2% キリスト教7.7%

その他の宗教:3.6% わからない:2.7%

幸せな生活を送る上で、宗教は大切であると思うか。

→ そう思う:38.7% そうは思わない:44.2%

宗教団体に入っているか。

→入っている:8.8% 入っていない:91.2%

日本人の宗教観(2)

調査結果の例(つづき)次のものは家にあるか。

→神棚:44.1% 仏壇:49.8%

次のようなことを行っているか。

→初詣:72.6% お墓参り:76.0%

次にあげるものは存在すると思うか。

→神:35.6% 仏:36.3% 先祖の霊:36.3%

神と仏の関係についてどう思うか。

→(次の中から一つ選択) 「神」と「仏」は同じようなものである:22.8%

「神」と「仏」はまったく別のものである:23.9%

「神」と「仏」は別の存在であるが、同じような働きをしている:23.7%

「神」と「仏」の違いについて考えたことがない:21.0%

ここで問題①

お墓に対する習慣で、世界で日本人以外ほとんど行わないとされるものがありますが、それは何でしょうか。

日本人が「無宗教」と言う理由 阿満利麿(1999)の説明

日本人が「無宗教だ」というときには、「特定の宗派の信者ではない」という意味なのであり、キリスト教徒などがいう「無神論者」ということではない。

日本人の多くはむしろ宗教心は豊かである。ただ、その宗教心を「特定の宗派」に限定されることに抵抗があるのだ。

日本人の宗教心を分析する上では、「自然宗教」と「創唱(そうしょう)宗教」を区別することが有効だと考えている。

「創唱宗教」:特定の人物が特定の教義を唱えて、それを信じる人たちがいる宗教のこと。教祖、教典、教団によって成り立つ。

「自然宗教」:いつ、だれによって始められたかも分からない、自然発生的な宗教のこと。先祖を大切にする気持ちや村の鎮守に対する敬虔な心を意味する。教祖や教典、教団を持たない。

日本人は「創唱宗教」に属することには抵抗感があるが、「自然宗教」に対しては馴染みがある。

裁判所では、宗教であっても習俗となっている部分は宗教とは見なさないという立場をとっている(例:1965年から争われた「津地鎮祭違憲訴訟」の判決)

1.宗教とは何か

2.宗教と環境問題の関係

3.多神教と一神教

宗教と自然環境との関わり

宗教と自然環境との関わりを捉える視点① 人間の思考は風土により影響を受ける。

② アニミズムや自然崇拝など、自然環境に対する畏敬の念を抱く価値観を形成する場合がある。

③ 人間や人生に関する問いを通じて、人間と自然の関係について思考がなされる。

④ 人間以外の生物について、相対的な位置づけがなされる場合がある。

⑤ 人間にとっての苦は、欲望があることによるものであり、苦から逃れるために自己の欲望を抑制することを求める宗教は、環境に対する欲望を抑制する規範となる可能性がある。

①風土と宗教の関係(1)

風土と自然観

第1講の和辻の風土論、環境決定論と環境可能論を参照。

鈴木秀夫『超越者と風土』(1976年)

「 高神を唯一神にまで進めたのは、乾燥化であったと私は思う。」

(瞑想によって到達する思想は判断中止の思想であり、それは)「森林の世界の思想であると思う」

「超越者を語る時に、常に人間が風土的産物であることを自覚しなければ、いつのまにか自分を神としてしまう。」

「人間が風土とのかかわりを拒否した時、人間だけでやっていけるという人間中心主義を生む。」

①風土と宗教の関係(2)

安田喜憲による指摘

紀元前850年を中心とする気候の寒冷化の中で、シリア南部やエジプトで気候が乾燥化し、天候神であるバアルやヤハウェが大きな力を持つようになる。

ヤハウェ

→天にのみ唯一神を認めるユダヤ・キリスト教

に影響を与えた。

バアル

→アッラーとなってイスラム教に影響を与えた。

②自然環境に対する畏敬の念

仏教における共生概念「自然即神,神即自然」と表現されるように,すべ

てが神であり仏とするパン・セイズム(汎神論)や,万物に霊魂が宿るとするアニミズム(万物霊魂論)、山川草木悉有仏性論などが見られる。

「依生不二」:人間と自然を対立するものとは捉えず,拠りどころとしての自然と,生きている主体とは,不二なものととらえる(間瀬,1998)

仏教の世界においても共生の語が1923年まで存在しなかったのは,人間と自然を不二なものとする思想が,主体の区別を前提とする共生の語を認識させなかったためと考えられる。(cf.自然)

③人間と自然の関係に関する思考(1)

Lynn White, Jr.によるキリスト教批判

1967年に「生態学的危機の歴史的根源(The Historical Roots of our Ecological Crisis)」を発表し、自然に対する

人間のユダヤ・キリスト教的「尊大さ」が現在のエコロジカルな危機の歴史的根源をなすと指摘した。

人間と自然の二元論を維持している。

ユダヤ・キリスト教の伝統は、人間は唯一、神の姿で創造されているので、他の生物よりも優れていると教える。

聖書では次のように教えている。

『産めよ、増えよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また、海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ』

(創世記29節)

③人間と自然の関係に関する思考(2)

J.Passmoreらによる反論『神は人(アダム)をエデンの園に置き、これを耕

させ、これを守らせられた』(創世記2章15節)

聖書における「支配」とは、無謀な自然支配ではなく、自然に対して責任をもつものである。

→スチュワードシップ(stewardship)モデル

地球は神が創造したものであり、人間は他の被造物と共に生きる存在として、連帯と管理を委ねられた「信託者」=「神のスチュワード(執事、管理人、世話役)」 である。

良いスチュワードは権威主義的な搾取などせず、常に愛情を込めて管理する。

④人間以外の生物の位置づけ(1)

人間以外の生物における差別化

宗教によっては、人間以外の生物の位置づけに関わるものがある。

他の生物は平等的な存在と位置づける例

輪廻の概念

人が何度も転生し、また動物なども含めた生類に生まれ変わること、また、そう考える思想のこと。

清い生物とそうでないものを位置づける例

旧約聖書『創世記』におけるノアの方舟

神(ヤハウェ)はノアに、「清い動物を7つがいずつ、清くない動物を1つがいずつ」生き延びさせるよう命じている。

④人間以外の生物の位置づけ(2)

宗教における食のタブー

宗教によっては、特定の食品の摂取を禁じている例が少なくない。

食のタブーが設定された理由は諸説ある。

宗教上の食のタブーの例

ユダヤ教:「旧約聖書」の「レヴィ記」第11章の記述にしたがって、カシュルート(適正食品規定)と呼ばれる、食べてよいものといけないものに関する厳密な規則を定めている。

イスラム教:クルアーンの中で、豚を食べることやアルコールを摂取することが禁じられている。

キリスト教:タブーはほとんどないが、一部の分派で肉食を禁じているところがある。

仏教:自らの手で殺生をすることは禁じられているが、そうでないものを食べる分派もある。

⑤欲望のコントロールの可能性(1) 王守華による指摘

神道では、自然と自然現象も神として崇拝され、自然と人間を生んだ母体である神は、人々の崇敬により神威を発揮する。

今日の日本で生態環境が比較的よく保護されているところは、神社の社地が極めて大きな部分を占めているので、「神道は自然保護の宗教である」と言われている。

神道とキリスト教の思考方法と自然観には違いがあり、前者は調和一体化の親和関係であり、後者は主客両極が対立した、決定と非決定、創造と被創造の関係である。前者は自然生態環境を保護するのに比較的有利であり、後者は主体の欲望を満足させるために自然生態環境を破壊しやすい。

ヨーロッパ人も、日本の鎮守の森を賞賛している。

ドイツの植物学者シュミット・ヒューゼンは、日本の生態環境を視察したあとで、「日本の神社の森を見ると、彼らの祖先の賢明さに敬意を表したくなる」と述べている。

イギリスの歴史学者トインビーは、2度目の伊勢神宮参拝を終えたあと、千古の神宮林と清らかな五十鈴川を目の当たりにして、「この聖地で、私はあらゆる宗教の根底的な統一性を感得した」と書いている。

⑤欲望のコントロールの可能性(2) 加藤尚武による指摘

西洋哲学では天人分離であり、東洋哲学では天人一体であるという観念が示しているのは、東洋思想の優越性ではなくて、是が非でも西洋思想を二元論的な対立構造にはめ込んでしまおうとする意思であり、西洋に対する劣等感以外のものはない。

生き物を食べるときに感謝の念をもったとしても、それは、感謝の念がありさえすればどのような自然破壊でもよいとする限度のない破壊につながる。

人間と自然が,主観と客観の関係になる近代的二元論を守ることなしに,地球の生態系を守ることは不可能. (加藤,1991)

重要なのは一面的な自然との一体感情を口先だけで吐露することではなくて、自然保護と自然利用の限界を合理的に設置することであり、また自然保護のために何を犠牲にしてよいかを見極めて実践することである。

⑤欲望のコントロールの可能性(3)

中世浄土教の自然観仏教倫理の基本である不殺生戒(生命ある存在への攻

撃や破壊を禁止する)が普及した。

不殺生戒は、自然崇拝やアニミズムの精神を仏教思想によって普遍的な一般的倫理原則にしたものと言える。

亀山純生による指摘 21世紀の環境思想の範型として伝統的自然観や仏教的

生命思想が称揚されることがある。一面では、生命平等主義や自然と人間の循環の思想は、近代西洋の手段的自然観の行き詰まりを打開する手がかりを与えるように見える。

しかし、その伝統思想は、近代日本の激しい自然破壊に対する歯止めにはならなかったし、深刻な公害も引き起こしてしまった。

⑤欲望のコントロールの可能性(4)

殺生禁断思想の空洞化・解体生命や自然の破壊、山野河海の開発を肯定し、促進する

二つの論理があった。

「仏国土形成の論理」仏国土を実現するためなら、自然物の殺傷・破壊や山野

河海の開発は、むしろ善行に転化する。

動物の殺傷(漁猟)や山林伐採・山野の開発(荘園化)について、動物や山野河海(の神)が人間と等しく往生ないし成仏するための布施行(自己犠牲)として正当化された。

「悪人往生論」悪人こそが阿弥陀仏の救済の対象となる。

不殺生を犯しても救われる(許される)という精神的態度を宗教的に合理化した。

1.宗教とは何か

2.宗教と環境問題の関係

3.多神教と一神教

多神教と一神教(1)

多神教とは神や超越者(信仰、儀礼、畏怖等の対象)が多数存在する

宗教で、一柱の神のみを信仰する一神教との対比のために用いられる語。

かつてヨーロッパでの初期文化人類学などでは、極端なキリスト教優越主義に基づき原始宗教やシャーマニズムなどの多神教が発展した頂点に一神教が存在するという進化論的な考えが存在したが、現在では否定されており、宗教の形態に序列はない。

人間の自我とアニミズム人間は、自我を持ったがゆえに、外界に自己投影を行い、

様々なものも同様に意志をもっているかのような認識をした。

環境との関係多神教は森林の宗教、一神教は砂漠の宗教と言われること

もある。

多神教と一神教(2) 一神教とは何か

一神教は、一柱の神のみを信仰する宗教。次のように大別される。 唯一神教(monotheism):世界に神は一つであると考え、その神を礼拝

する。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など。

拝一神教(monolatry):複数の神を認めるが、一つの神のみを礼拝する。古代イスラエル民族の宗教など。一神崇拝ともいう。

単一神教(henotheism):複数の神を崇拝する。特定の一神を主神として崇拝する。古代インドのヴェーダの宗教など。

交替一神教(Kathenotheism):他の神々の存在を認める。崇拝する神が交替する。バラモン教など。

狭義には唯一神教を指すことが多い。

新興宗教を除けば、現在確認されている限りにおいて、唯一神教は古代エジプトのアメンホテプ4世によるアテン(太陽神)信仰(世界 古の唯一神教とされる)とユダヤ教だけに興り、現在はユダヤ教と、それをから派生したキリスト教、それから大きく影響を受けたイスラム教に引き継がれている。

アテンについて アテンとは

アテン (Aten) は、エジプトの太陽神。

人間的形態である他のエジプトの神々とは異なり、先端が手の形状を取る太陽光線を何本も放ち、光線の一つに生命の象徴アンクを握った太陽円盤の形で表現される。

初期には従来の太陽神ラーと同一視されるが、その後神性は薄れ、天体としての太陽を表すようになった。

ツタンカーメンの父でもある、アメンホテプ4世が特に崇拝した。

アメンについて アメンとは

アメン (Amen) は、古代エジプトの太陽神のことで、アモン(Ammon)、アムン(Amun)と表記されることもある。

元々はナイル川東岸のテーベ(現ルクソール)地方の大気の守護神、豊饒神である。

中王国時代第11王朝のメンチュヘテプ2世がテーベを首都としてエジプトを再統一して以来、末期王朝時代の第30王朝までの1,700年余りにわたり、ラー神と一体化、「アメン=ラー」としてエジプトの歴史・文明の中心に位置し、エジプトの神々の主神とされた。

エジプト 大の神殿であるカルナック神殿に祭られており、神殿の大列柱室などに見られる壁画には、2枚の羽を冠した人物像として刻み込まれている。

アメンホテプ4世とアテン信仰 アメンホテプ4世の宗教改革

アメンホテプ4世(Amenhotep IV)は古代エジプト第18王朝の王(ファラオ)で、治世第5年目頃に、遷都を宣告し、宗教改革を行った。アテン神のみを唯一神とするものであり、他の神々への信仰を禁止した。

それまでの主要な神であったアメン神を主神とする神々への祭祀は停止され、複数形の「神々」という文字が単数形の「神」に改められた。

自らの名も、「アテン神に有用なる者」の意味で、アクエンアテンと改名した。

しかし、宗教改革はうまくいかず、アクエンアテンの死後、アテン神への信仰はすぐに廃れ、伝統の多神教に戻ってしまう。

宗教改革の理由 多神教から一神教への変革は、人類史における大変革であるため、

様々な理由が考えられている。

近年では、王権にまとわりついていたアメン神殿の旧勢力を排除するための政治改革ととらえる傾向が強い。

仮説として気候変動が要因とも考えられている。紀元前1420±100年頃に起きたサントリーニ島での大噴火によって急激な気温の低下が起きたとされる時期と一致しているからである。

一神教はなぜ誕生したか ユダヤ教の起源

ユダヤ教は、旧約聖書の『出エジプト記』によると、紀元前1280年頃モーセがヘブル人(これは、民族・人種ではなく、社会的下層の人々を示す)を中心とした集団をエジプトから脱出させ、シナイ山で神ヤハウェと契約を結ぶ(十戒、律法)ことから始まる。

ユダヤ教の神ヤハウェは、ユダヤ民族の祖先ではなく、ユダヤ人は神と契約してその信者となる。この「神と契約する」という思想は中近東独特のものであって、他の地域では見られない。

このユダヤ教の起源と、アクエンアテンのアメン神信仰を結びつけて考える研究者も多い。

「フロイト=岸田」説 オーストリアの精神分析者ジークムント・フロ

イト(Sigmund Freud、1856年~1939年)が、後の著書『モーセという男と一神教』の中

で述べたことをもとに、日本の精神分析者の岸田秀が唱えている説。

フロイトは「モーセはエジプト人であって、ユダヤ人ではない」という説を唱えている。

岸田の仮説:「そもそも一神教は、差別され、迫害された人々の宗教ではないか」

「フロイト=岸田」説による解釈(1) ユダヤ教についての解釈

一神教の起点はユダヤ人とユダヤ教であり、旧約聖書の『出エジプト記』によれば、モーセに率いられてエジプトから脱出してカナンの地、今のパレスチナに行った人たちのことであるが、ユダヤ人という人たちがいて差別されていたのではなく、差別されていた人たちがモーセによって引き連れられてパレスチナにやってきて、その人たちがユダヤ人になった。かれらは奴隷の白人であった。

旧約聖書では、ユダヤ人がカナンに着いたときには、すでにバアル神がいたが、ヤハウェはこれを徹底的に殲滅するように指示する。つまり、旧約聖書は多神教の世界に一神教が無理矢理押し入る物語になっている。

被差別者の宗教だったからこそ、ユダヤ教にはもともと恨みがこもっている。

「フロイト=岸田」説による解釈(2) なぜ砂漠の地域だったか

一神教が発生した中近東は、自然条件から言っても、政治的条件から言っても、きわめて厳しい、住みにくい地域である。そこに住むことを余儀なくされたのは、迫害され差別された人々である。

異郷の地で奴隷としての境遇に遭っているのは、自分たちの民族神が守ってくれなかったからだと考える。

→追いつめられるほど、いっそう強力な神を求める

→唯一絶対で全知全能の神に頼るしかなかった

砂漠以外の地域ではどうか

多神教であっても、追いつめられると一神教的になりうる。(cf.近代日本における神道と天皇制)

「フロイト=岸田」説による解釈(3) 文字の発明と一神教

日常的に顔を合わせている人々とだけつきあっていればいい共同体では文字など不要であるが、共同体の外の人々や血がつながってない人々とかかわりをもつためには文字が必要となる。

文字は、目の前の具体的世界とは別の抽象的世界をつくるには不可欠である

→文字がなければ一神教は成立できない

→cf.「はじめにロゴス(言葉)あり」

(『ヨハネによる福音書』の冒頭文句)

新約聖書はギリシャ語訳のものが流布した。

都市と一神教唯一絶対神への信仰が成立するのは都市である。誰の民族

神にも属さない抽象的な神でないとすべての人々に受け入れられないからである。

一神教と偶像崇拝の排除

偶像崇拝の排除について

イスラム教のように偶像を排除するというのは、抽象概念としての神しか認めていないことを意味する。

イスラム教徒から見れば、キリスト教のようにイエスを神の子と扱ったり十字架を崇拝するのは、一神教の根本に反すると見なしている。

偶像崇拝を完全に排除した一神教の場合は、神と人間は隔絶した関係にある

→神との「契約」という概念につながる

一神教の攻撃性について(1) 一神教の弊害

一神教は自分の神だけが絶対的に正しく、他宗教の神様は邪神と考える。

→中世以降のヨーロッパにおける森林開発や植民地主義に通ずる

(cf.第5講「中世ヨーロッパ」、第6講「イースター島」)

「攻撃者との同一視」概念 フロイトの娘であるアンナ・フロイトは『自我と防衛機制』の中で、被害者が

加害者になるということを指摘している。

ニーチェも同様の指摘をしている「怪物と戦う者は、自分が怪物にならないように気をつけろ」

被害者意識と攻撃性 ヨーロッパ人にとって、キリスト教は押しつけられたものであるということか

ら、近代ヨーロッパの過激な行動を説明できるのではないか。

世界中にキリスト教を押しつけ、植民地化を推し進めた猛烈な行動エネルギーの源泉はここにあったとしか考えられない。

近代日本も、同じようなことをやらかしている。つまり、ペリーに砲艦外交で脅かされて開国を強いられると、同じ事を朝鮮に行ってやってしまった。

要するに、一番攻撃的になるのは被害者であり、被害者意識というのが攻撃性のもとである。

一神教の攻撃性について(2) 自我と神

人間は他の動物と違い、本能の壊れた動物であって、本能に代わる行動指針として自我をつくったのではないか。

自我とは人為的なつくり物であって、根拠のないものである。根拠のない幻想であるからこそ、自我は何らかの支えを必要とする。

神は自我の支えとして実に頼もしく、好都合である。(正義等の概念も同様)

自我そのものに強いとか弱いとかはなく、強い自我とは強い神に支えられている自我である。

→ヨーロッパの近代的個人の自我が強く見えるのは、一神教の強い神を背負っているからである

自我の喪失と宗教

他の動物には自我はないが、人間の自我というのは孤立していて独自なものであるため、自我が滅びることは絶対的な喪失である。そのため、人間だけに死の恐怖がある。

その恐怖を鎮めるために、孤立しているのではなく神につながっているという信仰を必要としたことから、それが宗教となった。

ここで問題②

人間が死を自覚したことによって、他の動物はしないことを覚えたという説がありますが、それはどんなことでしょうか。

(余裕があれば次の問題も考えてみてください)

(岸田秀は、『幻想の未来』の中で、近代以降の日本人に多い「ある症状」を、自我を無理矢理強くしようとすることでおきたものだと説明しています。それはどんな症状でしょうか。)

科学も一神教か? 神と科学

一神教的な背景があったからこそ、普遍という考え方が生まれ、科学が成立した

→自然法則の整合性の中に神のすばらしさを発見しようとするのが西洋自然科学ではないか

キリスト教にとって、科学は異端信仰であった。だから、地動説を唱えたガリレオを宗教裁判にかけて弾圧した。(無関係なら放っておくが、正当派キリスト教に脅威を与える別派とみなした)

科学万能主義 科学万能主義は一神教の変容である。

自我の起源については、宗教がこれまで扱ってきた問題であるが、答えは出ていない。ましてや自然科学的には答えを導くことはできない。なぜなら、科学は自分が存在しなくても世界は存在すると考えているからである。

反証可能な現象は反復可能な現象でしかなく、限定された自然現象にしか当てはまらないが、該当しない現象はたくさんある(歴史、人間関係、etc.)。

科学にもプラス面は多くある。しかし、科学の相対化が必要である。

まとめとして 古代世界では多神教が一般的であり、一神教は特異な宗教で

あった。

人間の存在に関する問いを通じて、人間と自然の関係について思考がなされた。

人間と自然の関係や環境の面から見て積極的な教えが古代の宗教に見出される場合がある。ただし、それらが常に実際に行われていたわけではない。

古代の国家は、宗教により広く社会を統制できることをいち早く理解し、ときには国家の政策に利用することもあった。

人や国家が自分の利益になると考えたことと、宗教の教義が対立する場合には、教義に従うよりも、むしろ行為が正当化されることもあった。

環境に負荷を与える人々の欲望を抑制しうる規範として、共有できる思想や倫理基準を見出し得るか?について考えていくことが求められる。

参考文献等

参考文献(第1講での紹介文献以外のもの) 阿満利麿(1996)『日本人はなぜ無宗教なのか』、ちくま新書

農文協編(1999)『東洋的環境思想の現代的意義』、農文協

岸田秀(2002)『一神教vs多神教』、新書館

本村凌二(2005)『多神教と一神教~古代地中海世界の宗教ドラマ』、岩波新書

オドン・ヴァレ著、佐藤正英監修(2000)『神はなぜ生まれたか』、創元社

オドン・ヴァレ著、佐藤正英監修(2000)『一神教の誕生』、創元社

オドン・ヴァレ著、佐藤正英監修(2000)『中国と日本の神』、創元社

参考ウェブサイト http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/wfsection/article.php?articlei

d=96