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満鉄特急あじあ号
筆者は 2011(平成 23)年 4 月 22 日から 25 日まで中国の大連へ旅行に行く機会があった。以前イン
ターネットで調べたところ、大連のどこかで満鉄特急あじあ号を見ることができるとのことだったので、筆
者は 4 月 24 日大連駅前の国際ビル 8 階にあ
る東北国際旅行社を訪問した。当日は日曜日
なので、社員が 1 名しか出勤していなかった。
カタコトの中国語と筆談であじあ号を見たいこと
を告げると、電話で日本語の分かる社員を呼
び出してくれた。その社員(呉寛さん)がさらに
中国国鉄の係員に電話し鍵を開けてくれるよう
頼んでくれた。呉さんとともに路面電車に乗っ
て大連駅北側の国鉄の工場へ行った。工場の
鍵を開けてくれたのは、若い女性で、日本人が
あじあ号を見たがっているというので、日曜日
にもかかわらずわざわざ自宅から来てくれたと
のことだった。
門からわりあい近いところに大きな建物があって、これが梅小路蒸気機関車館のような扇形車庫にな
っているらしかった。写真にあるように筆者が立っているのは、扇形車庫の外周側で、あじあ号の保管さ
れている区画の扉の鍵を開けてもらい、待望のあじあ
号をやっと見ることができた。
左の写真から分かるように先頭のナンバープレー
トには「アジア亜細亜 757」と記されている。あじあ号が
実際に運行されていたころの写真を見るとナンバープ
レートには数字しか記されていないので、この表記は
日本の観光客用に作ったものと思われる。ただ車両
自体はかなりほこりをかぶっていて、あまり手入れをし
ていないようであった。ここは鉄道博物館ではないし、
料金を取るわけでもないので当然かもしれない。
誠文堂新光社「写真集 南満洲鉄道」(1998)の末
尾の「2C1 流線形テンダ機関車 パシナ」の表によれ
ば形式記号 970~980 の 11 両が 1934 年に満鉄沙河
口工場及び川崎車両で、形式記号981の1両が1936
年に川崎車両で製造された。左の写真の形式記号
757 はこの書籍には記載がない。現在瀋陽の瀋陽鉄
路陳列館でアジア 757 が勝利 7 型として展示されて
いる(うしろのページの新聞記事参照)のは、筆者が大連で見た 757 を瀋陽に移設したものであり、形式
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記号は終戦後中国国鉄が付けた記号と考えられる。
パシナというのは車軸配置
2C1(先輪 2 軸、動輪 3 軸、従輪
1 軸)の米国式呼称「パシフィック」
の 7番目の機関車という意味であ
る。
1932(昭和 7)年の満洲国建
国当時、港湾都市大連と首都新
京との間は南満洲鉄道連京線で
結ばれていた。「あじあ号」は、こ
の区間の速度向上のために計画
された列車である。1933(昭和 8)
年から 1934(昭和 9)年にかけて比較的短
期間で開発が進められた。1934(昭和 9)
年 11 月 11 日から運転が開始され、時刻
表 1)にあるように大連発 9:00、新京着
17:30 で、走行距離 701.4 km、所要時間 8
時間 30 分、表定速度 82.5 km であった。
同時代の国内の特急「燕」が東京発 9:00、
神戸着午後 5:37 で、走行距離 589.5 km、
所要時間 8 時間 37 分、表定速度 68.41
km であった。
南満洲鉄道特急「あじあ」の設計は、
満鉄鉄道部工作課が行ったが、それが具体化し始めたのは 1933(昭和 8)年末であった。機関車主任
は吉野信太郎技師で、1918(大正 7)年に旅順工科大学堂を卒業し、満鉄入社 18 年目であった。満鉄
は 1911(明治 44)年に大連港の北方に沙河口工場を完成させた。ここで機関車の製造を始めたのは
1914(大正 3)年であった。吉野信太郎は、1923(大正 12)年末から 2 年間足らず米国に出張し、アメリ
カン・ロコモティブ社で機関車の設計製造について学んだ。1927(昭和 2)年にそれまでの満鉄製機関
車の牽引力、速力を遙かに上回るパシコを完成させた。したがって、工場幹部は、特急「あじあ」の機関
車の設計を委せられるのは彼しかないと判断した。
機関車の型式として当初軸配置 2C1 のパシ型と 2C2 のハドソン型が候補として挙がっていた。米国
3
に登場したハドソン型の牽引力はパシ型の 4 割増と
言われる強力なものであったが、満鉄ではこの型の
設計製造の実績がなく、また型式の最終決定から
13ヶ月後に運転開始すると決められていたので、パ
シ型を採用するしかなく、機関車パシナの設計が開
始された。機関車の型式決定から設計図完成まで
の機関は 3 ヶ月余りと言われているが、現役時代ず
っと産業機械の設計に携わってきた筆者には、たと
えパシコを参考にしながら図面を作成し、一部はパ
シコの図面をそのまま流用できたとしても、到底信じ
られない早さであると思われる 2)。
パシナは合計 12 両の中、沙河口工場で 3 両、
川崎車輌兵庫工場(神戸市)で 9 両製造された。
なお、パシナの特徴の一つは、動輪の直径とし
て 2000 mm を採用したことで、「燕」を牽引した C51
の 1750 mm と比較すると、直径の差が単に 250 mm
ということだけではなく、狭軌と標準軌という違いが
あったにせよ、その規模の大きさや機関車全体の
迫力に圧倒される。「あじあ」と「燕」の蒸気機関車の諸元を比較すると下の表のようになる。また、末尾
にパシナの側面図 2)を添付する。
要目 あじあ 燕
形式 2C1 式パシナ 2C1 式 C53
運用者 南満洲鉄道 鉄道省
製造所 満鉄沙河口工場及び川崎車輌 川崎車輌
製造年 1934(11 両)、1936(1 両) 1928~1929
製造数 12 97
投入先 南満洲鉄道連京線 東海道本線、山陽本線
軌間 mm 1,435 1,067
全長 mm 25,675 20,625
全高 mm 4,800 4,000
総重量 t 203.31 127.25
動輪径 mm 2,000 1,750
気筒数 2 3
気筒直径×行程 mm 610 × 710 450 × 660
出力 2,400 馬力 1,040 PS
最高速度 km/h 130 95
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<余談>
筆者が中学生のとき鉄道模型部というクラブに入っていて、たしか 2 年生の時(1957)、先輩や同輩と
神戸市の川崎車輌兵庫工場を見学したことがあった。そこで巨大な蒸気機関車が倉庫に眠っているの
を見た。案内してくれた人の話によると満鉄の機関車だということであった。そのときの写真が残ってい
ないのでよく分からないが、これはパシ型かミカ型(1D1)で、完成して満鉄に納入する前に終戦になっ
て工場に残っていたのかもしれない。その機関車がその後どうなったのか、現在の川崎重工に問い合
わせてもなにしろ 60 年以上前のことなので分かるはずがない。まさに「幻の満鉄蒸機」である。
1)日本交通公社「時刻表復刻版<戦前・戦中編> 鐵道省編纂汽車時間表昭和 9 年 12 月号」(1978)
2)天野博之「満鉄特急「あじあ」の誕生」原書房(2012)
2019.12.26.