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気象情報が日本に与える影響初村裕美

目次はじめに1 .天気予報と日本

1 -1  日本の気候1 -2  日本人と季節1 -3  天気予報の歴史

2 .日本の歴史を変えた天気2 -1  天気と戦 2 -2  異常気象と飢饉 2 -3  先物取引の開始

3 .気象ビジネスのはじまり3 -1  金融 3 -2  ビジネス①~気象情報を売る~3 -3  ビジネス②~天候を活用したビジネス~

4 .民間気象会社4 -1  ウェザーニューズ4 -2  IBM

5 .気象データの活用法 今後の気象と社会の関係おわりに参考文献

 はじめに 仮天気予報は我々の毎日の生活に欠かせないものである。人は天気予報を毎日テレビやネット等で確認してから出かけるだろう。その日の天候等で服装は何がいいか、食事や予定を決めたりする。 私の祖父は昔八百屋を営んでいた。現代のようにまだインターネットやテレビなどのメディアが普及していない時代であった為、祖父は自身の感覚で消費者を観察し、消費者の購買意欲や行動を研究 、無論、四季や天気に合わせて商品の仕入れの増減や消費者ニーズの変化を見て陳列を変えるなどして八百屋を営んでいたそうだ。 天気予報は法律で気象庁だけが配信を認められていたが、 1993 年に制度が改められ、テレビ局などの民間企業が天気予報を自由に使用できるようになった。(天気予報の自由化) 1990 年代からはインターネットも普及し始め、複数の様々な情報媒体で天気予報を確認できるようになった。さらに 、気象情報をビジネスとして活用する民間企業が出てきた。彼らは気象情報を武器に、個人へ天気予報を配信し、さらに多産業に気象情報にプラスアルファの付加価値をつける「ウェザーマーチャンダイジング」と呼ばれるマーケティングプランを提案し始めた。ウェザーマーチャンダイジングは現代では農業や航空、海上、流通分野では欠かせないものとなっている。加えて 2000 年代からは、第4 次産業革命に突入し、ディープラーニングができるようになった人口知能( ※以後AIと表記)が登場し、第三次人口知能ブームが到来している。AI やビッグデータというような最新の技術と気象データが交差することで新たなサービスも登場し続けている。このように時代に合わせて、情報媒体を活用して気象情報の伝達は発展している。そのため今以上

に気象情報を制する者は世界を制するようになるのではないだろうか。これから第一章では、日本で天気予報が始まったのはいつか、また民間の気象会社のはじまりと役

割等を説明する。次に第二章では、天気が日本の歴史に大いにかかわっていることについて説明する 。歴史上の人物は天気を味方に戦いに臨んだ、天気を情報として考え、戦力にした。これは現代の気象ビジネス、経営においても類似していると言えるだろう。第3 章では気象情報をビジネスの一つとして成功させたエンロン社について述べる。

1 .天気予報と日本 人々にとって毎日の天気はどのような存在なのだろうか。テレビなどで見る天気予報を参考に、日々の予定や服装などを考える人が多いと思う。天気は私たちの普段の生活以外にも、インフラなど 、

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各産業に大いに関係してくる。これから第一章では、①日本は1 年を通してどういう気候なのか、②日本の気候が与える日本人の季節への想い、③毎日の天気予報がどのように誕生して、配信され続けているのかを述べていきたい。

1 -1  日本の気候まず初めに、天気とは気象に関係する要素を総合した大気の状態の事をいう。天気は英語で

は'weather' 。weatherの定義は、特定の時間と地域での風や雨、気温などの大気の状態の事をいう 。日本語でも英語でも双方とも天気は大気の状態の事であるとわかる。weatherの語源は、古英語で'weder' 、古サクソン語や中期オランダ語、ドイツ語の空気・空・風・嵐・暴風雨を意味する。ほかにもゲルマン祖語やインドヨーロッパ祖語でも言い方は違うが、風や嵐など天気を意味する言葉としてあった。

現代の気象庁の天気予報で用いられる天気の意味は、数日のような短い期間である。予報の中でも 、天気・天候・気象・気候はよく聞く言葉である。4 つの言葉は似通っているが、それぞれ意味が異なる。

気象 大気の状態、および雨、風、雪など大気中に生じるさまざまな自然現象のこと天気 数時間から数日間の状態のこと天候 天気より時間的に長い概念として用いられ、5日~1か月程度の平均的な天気状態

のこと気候 1 か月以上、1 年や季節を周期として繰り返される天気や天候の状態をさす

天気・天候・気候の3つは、大気の状態を表す' 期間' によって意味が異なっている。

上記の世界地図から日本の気候についてみていく。世界の気候は大きく5つ、寒帯・冷帯・熱帯・温帯・乾燥帯に分けることができる。 

日本は5 つの気候帯の中で黄緑色の温帯に分類される。日本は温帯の中でも温暖湿潤に属し、比較的暖かく季節の変化があるとされている。日本の季節は4 つに分かれ、春・夏・秋・冬。この季節によってさまざまな気候変化が見られる。例えば季節風・モンスーンは、日本の夏に南東から暖かく湿った風が吹くため太平洋側で雨が多く降る。そして冬は北西から冷たく湿った風が吹くため日本海側で雪が多く降る。さらに日本の気候の特徴の一つである梅雨は、春の終わりごろから夏にかけて雨や曇りの日が多くなる時期である。また毎年被害が大きくニュースでも取り上げられる台風、発達した熱帯低気圧は、夏から秋にかけて日本に接近する。 下部の図は、日本列島を6 つの気候区に分け、おもな都市の雨温図と特色、産業・主な農水産物が描かれてある。日本列島を細かく見ていくと、北は亜寒帯、南は亜熱帯で1 年の気候が全く異なる。さらに日本列島の北から南まで大きな山脈から小さな山脈があり、冬は日本海側は曇りや雪、雨が多くなるため、降水量が多い。一方で、太平洋側では晴れの日が多くなる。

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また地域ごとに農水産物も異なる。例えば北海道では、広大な土地で育てられるジャガイモや乳牛が有名である。また日本海、太平洋、オホーツク海の3 つの海に囲まれて、水産資源にも恵まれ、ホタテや鮭などが多く獲れる。日本は小さな国だが海に囲まれていて、場所によって気温や降水量が異なることから地域ごとに産業が出来たのである。

1 -2  日本人と季節日本は気候の関係から四季がある。日本人の生活はこの四季と共にあるのではないか。他国よりも

四季折々の風情を感じ楽しみ、季節に伴って行事がある。二十四節気という言葉がある。二十四節気は、太陽暦を使用していた時代に1 年を24 等分して、

季節を表す言葉として考えられた。季節に合わせて日本にはさまざまな行事がある。季節 二十四節

気二十四節気の

日にち主な行事やイベン

ト春 立春

雨水啓蟄(けいちつ)春分清明穀雨

2/4 ごろ2/193/63/214/54/20

節分ひな祭り花見

夏 立夏小満芒種夏至小暑大暑

5/6 ごろ5/216/66/217/77/23

端午の節句八十八夜田植え七夕

秋 立秋処暑白露秋分寒露霜降(そうこう)

8/8 ごろ8/239/89/2310/810/23

花火大会お盆祭り月見

冬 立冬小雪大雪冬至

11/7 ごろ11/2212/712/22

七五三年越し大晦日正月

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小寒大寒

1//51/20

上の表の行事・イベントの中でも、日本人の季節感に最も深く関わりがあるのは「花見」ではないだろうか。日本人は花見をすることによって春の訪れを感じる。昔、桜の木には神様が宿り、満開の桜に触れれば健康になれると言われていたそうだ。また暦がない時代では、桜が咲く時期に田植えを開始するなど、桜が農耕の目安とされていた。お花見というと今は桜を指すが、奈良時代は梅を指していたようだ。万葉集にある和歌には梅を詠った歌のほうが多かった。平安時代に入ってから、お花見=桜をみることに変わった。紫式部が書いた源氏物語でも桜は登場していて、花の宴は、観桜の宴を意味していた。桜はつぼみから満開まで約1 週間という短い花である。日本人は桜の散り際の美しさや儚さに美を感じ、散り際の潔さは武士(もののふ)の心に繋がると言われている。 桜は3 月から5 月にかけて各地域で開花する。地域によって桜の開花時期が異なるため、最近では「桜前線」、つぼみ・咲き始め・五分咲き・七分咲き・満開・散り始め・葉桜と、桜の開花状況を段階に分け、開花予想日を示した天気予報が報道されている。

1 -3  天気予報の歴史この説では、前節で述べた日本の気候や天気がどのように多数のメディアで簡単に確認ができるよう

になったのか、そして私たちのもとに届くようになったのかを、天気予報の歴史をたどりながらみていきたい。

天気予報とは、予報発表時から明後日までの風、天気、気温、降水確率などを予報 1 するものである。現代の私たちは、マスメディアで簡単に天気予報を確認することが出来る。気象に関する知識や情報はいつごろから盛んになっていったのだろうか。日本と気象に関する歴史をたどりながら説明していこう。技術がまだ進歩していなかった時代、人々はどうやって天気を観測していたのだろうか。子供の頃、

「明日天気になあれ」と靴を宙に飛ばして天気を占ったり、照る照る坊主を吊るして明日晴れますようにと祈ったりした。これらの行動は、天気予報がなかった時代から子供たちの中であった天気占いであった。しかしこれは単なる遊び占いであり、観測方法の一つには入らない。主にあげられる観測方法は「観天望気」である。観天望気とは、大気、空、風や光などの自然現象や生物の行動を観察して、明日の天気を予測することである。観天望気は農家や漁師などのような第 1 次産業従事者をはじめ、天気予報の無い時代の人々は皆行っていた。この観天望気から、日本では昔の人々の感覚と予測からさまざまな天気に関する言い伝えが出来た。「山に傘雲がかかると雨」「渡り鳥は早き年は雪多し」「猫が顔を洗うと雨」「茶柱が立つと晴れ」などは現代にも残っている言い伝えである。前述で挙げた言い伝えでは、「山に傘雲がかかると雨」「渡り鳥は早き年は雪多し」は当たるとされていて 、先人の観天望気による予測は当たっているようだ。

気象の書物や情報が入ってきたのは、江戸時 代、 第 3 代将軍の徳川家光による約200 年以上も続いた鎖国が終了してからである。17 世紀から、世界では現在の温度計や気圧計が使用されはじめ、天気の変化を数値で示すことが可能となった。温度計や気圧計はオランダから伝えられた。日本に初めて伝えられた気圧計は、天気儀と呼ばれ、温度計は気候儀といわれた。日本はオランダからオランダ建築や航海術、気象観測など多くの事を取り入れた。19 世紀に入 ると、ドイツの気 象学者のハインリヒ・ブランデスが雨の研究をするために、毎日の天気を記録。そして1820 年、ブランデスは世界で初めて天気図を描いた。さ

1 気象庁

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らにアメリカでも暴風雨に関する研究をするために、船の航海日誌などをもとにいくつかの天気図が作られた。これらの天気図によって、暴風雨の来襲を予知することが可能になると考えられるようになる。正確な天気図を描くためには、多くの観測者が同時に観測しなくてはならないためかなり観測が難しかった。だが、時代が進むにつれて技術も進歩し、電信を利用して観測資料を集めることに成功した。このようにして、気象観測の資料を電信で収集することによって、正確な天気図を描くことが出来るようになったのだ。さらに暴風雨の来襲も予測、予知することが可能になった。船会社などに暴風雨の来襲の警告を仕事として始めたのは、オランダであった。オランダに続いて、フランスやイギリスなどヨーロッパ各国も海上での事故防止のために気象事業を開始した。そして、日本で初めて気象業務が開始されたのは1875 年、のち気象庁となる東京気象台が設置された。1884 年6 月1日ついに日本で初めて天気予報が発表された。当時の予報内容は1 日3回、各県ごとではなく日本全国を一文で表したもので、東京市内の交番に掲示された。「全国一般風ノ向キハ定リナシ 天気ハ変リ易シ」この一文が日本で初めての予報であった。

20 世紀になると、現代の新聞やテレビなどのメディアに天気予報が掲載され始めた。 1924 年国民新聞(現代の東京新聞)に初めて天気図が掲載される。翌年にはラジオによる気象情報の放送が始まり、国民にとって天気予報が身近な存在となりはじめた。その後、第二次世界大戦中は一時放送が中止になっていたが、終戦の2 日後から再びラジオ天気予報が復活した。 1953 年にはテレビ放送、1955 年には電話による予報案内サービスが開始された。技術進歩により、様々な方法で気象観測が可能となった。例えば、ラジオゾンデ。ラジオゾンデは 、

上空の大気の状態を自動で観測するセンサーを搭載した上層気象観測器である。その観測結果は無線により地上で受信ができる。ラジオゾンデは現在も、全世界各地で毎日決まった時間に観測が行われている。

さらにコンピューター技術の発展により数値予報が可能になり、気象衛星も打ち上げられるようになった。気象衛星の役割は気象観測を行うことが困難な海や砂漠、山を含む広い地域を観測するためである。日本は、気象衛星でアジア・オセアニア・西大西洋地域の観測を担っており、気象衛星「ひまわり」が観測を行っている。「ひまわり」は、1977 年に初めて打ち上げられ、現在はひまわり8号が運用中である。ひまわりのような気象衛星のデータを活用して出来た天気予報は私たちのもとに届いている。天気予報はその当時の情報伝達媒体によって、私たちの生活と深くかかわってきたのだ。

2. 日本の歴史を変えた天気私たちは天気予報を見て生活していて、各産業も天気によって事業内容が変化する場合がある。では、

天気予報が出来る前の人々はどのようにして生活していたのだろうか。各産業はどのように人々にサービスや商品などを提供していたのだろうか。

2 -1  天気と戦 天気は国の存亡に大きく影響を与えてきた。ここで戦国時代の戦いを4 つ挙げる。その中でも、天気を味方につけて戦に勝利した人物を紹介する。①桶狭間の戦い

1560 年 織田信長 VS  今川義元桶狭間の戦いは、織田信長が駿河の戦国大名・今川義元を打ち破った戦いである。打ち破った背景

には、織田の強力な情報網と「雨」が味方したと言われている。1560 年5 月19 日、織田軍の兵力は約4 千人に対し、今川軍は約2 万5 千人の兵力で織田軍は圧

倒的に不利な状態であった。しかし、織田信長は組織的に情報を有効的に活用し、戦略的に戦った。合戦当日の午後1 時過ぎ、織田軍は「ひそかに義元本陣の山際まで迫ったとき、にわかの大驟雨に助けられ察知されず、空が晴れるや一挙に急襲した。肉薄戦となり、義元は山あいの湿地で信長の近臣毛利秀高に討たれた。」2

桶狭間の戦いで織田と今川の勝敗を分けたのは、「雨」と言われている。合戦の日、織田軍は西に 、今川軍は東にとどまっていた。梅雨の時期ではあったが、その日の朝は晴天で日差しが強く気温もか

2 『桶狭間は晴れ、のち豪雨でしょう』松嶋憲昭 引用 p.49 2017年 9月 26日

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なり高かった。織田軍が今川陣近くに迫ったときに天気が急変した。「このとき、積乱雲クラスター3 が北西方向から南東方向に移動したため、織田勢は今川勢よりも少し早く雨に遭遇し、少し早い時間に雨が止みました。」4

ここで出てきた「積乱雲クラスター」とは、分かりやすく言えば「ゲリラ豪雨 5 を引き起こす雲」である。積乱雲が一つ発生して、その下降流で地上付近の湿潤な空気が新たな積乱雲となり、複数の積乱雲が集結しながら一団(クラスター)へと変化し、長時間雨を降らせる。様々な史料によると、「楠の木を倒した」「雹が降った」という記述があるようだが、短時間で雹を降らせ、突風を吹かせた積乱雲は異常に発達した積乱雲であったと推測できる。

まずは雹について述べる。現在の暦でいう6月下旬に雹が降るのは、当時の積乱雲が非常に強い上昇流を持っていたためである。梅雨の時期は地上付近の気温が高いため、雲の中の氷粒は落ちてくる途中で雨に変わるため、雨が降ってくる。しかし、上昇流が多い場合は、上昇流の中で氷粒が大きく成長して、氷粒が融けずに雹となって降ってくるそうだ。

次に突風について述べる。戦いの最中に吹いた強い 突風は 、 「ガス ト フロン ト ( 突風前線)」「ダウンバースト(加工噴流)」の2 つであると考えられる。ガストフロントとは、積乱雲の下降流の先端部で吹く横風の事である。そしてこの積乱雲に近づいていくと真上からの下降流を受けることになり、大きな被害を受ける。この真上からの激しい風がダウンバーストである 。ダウンバーストは、大きく発達した背の高い積乱雲が発生し、下に乾燥した空気が存在した時に発生するまれな現象である。ダウンバーストは強い雨や雹と共に起きる短時間の減少の為、普段は、竜巻のような災害が起こってもカメラに収めることは困難である。積乱雲クラスターの移動速度によって両軍の位置でわずかな時間差ができ、そのわずかな時間差が

織田にとって、今川軍に気づかれずに攻撃を開始する準備をすることが出来たのである。雨が止むわずかな時間差を有効的に活用し、今川軍に勝利した織田信長。雨が止むと同時に今川軍への攻撃を命じた織田の決断力が合戦の勝因だったといわれている。

②川中島の戦い1561 年 武田信玄 VS  上杉謙信 川中島の戦いは、甲斐(山梨)の武田信玄と越後(新潟)の上杉謙信が、信濃の北部の支配権と勢力をめぐって長年争った合戦である。いずれも引き分けに終わっているが、その中でも最大の戦いと言われているのが、第4 次川中島の戦いである。この戦いでは、霧が大きく関係した。 両者とも合戦翌日の朝が霧であるという予報を得ており、霧を戦いの戦略として利用することにしていた。 武田は霧の予報を得てから、軍を2 つに分けて上杉軍を挟み撃ちにする作戦を立てた。しかし、上杉はこの作戦を見破り、霧に紛れて武田信玄の本陣に迫った。合戦の戦場で霧が晴れ上がったのが8 時頃と言われている。この霧は放射霧という霧で、夜明け、地面が暖まり始めると消える霧であった。もし、霧が少し早くに晴れていたとすれば、武田信玄はもう少し早く上杉謙信の接近を知ることができたと考えられ、予定通りの挟み撃ちで勝つことが出来たかもしれない。逆に、霧の晴れるのが遅ければ、上杉謙信がもっと武田信玄軍に接近してからの戦闘開始となって、上杉謙信が武田信玄を討ち取って勝っていたかもしれない。

3 多くの積乱雲が集まり、4 『桶狭間は晴れ、のち豪雨でしょう』松嶋憲昭 引用 p.75 2017年 9月 27日5ゲリラ豪雨とは、正式な気象用語ではないが、おおかた「集中豪雨」と同義で、大気の不安定により突発的で天気予報による正確な予測が困難な局地的大雨を指す。(Wikipedia より)

図 1 桶狭間の戦いと積乱雲クラスターの動き

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このように、霧が晴れた時間が戦いを引き分けにしたと言われている。霧は大気中の水蒸気が小さな水滴となって大気中に浮遊した状態をいう。気象庁の定義では、大気中に浮遊した水滴によって視程が1km 未満のもの。視程が1km 以上、10km 未満のものは靄(もや)。霧は、その出来かたによって放射霧、蒸発霧、移流霧、滑昇霧、前線霧に分類され、霧の規模や晴れ上がる時間が違う。川中島の戦いの時の霧は、放射霧。放射霧は、風が弱くて晴れた夜に、地面からの熱がどんどん大気中に逃げてゆくため、地表面の温度が下がり、空気中の水蒸気が小さな水滴になってできる。このため、地表面付近の現象で、日の出後、1 ~3 時間くらいで消えて晴れる性質の霧である。上杉と武田は翌朝が霧という予報を得て、霧を合戦の戦略に取り入れた。

③長篠の戦1575 年 織田信長 VS  武田軍長篠の戦いは織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼が三河国長篠城をめぐり戦った合戦である。この戦いでは織田信長率いる連合軍が勝利し、織田の天下統一が確実ではないかと言われるようになった。この戦いで鍵となるのは、梅雨。織田は決戦で勝つために、鉄砲隊を用意していた。しかし、鉄砲は雨では全くもって役立たないため、梅雨明けの時期を待ち、決戦日を遅らせて戦いに挑んだのではないかと言われている。鉄砲が普及してからは従来よりも天候が重要な要素になっていったに違いない。梅雨という言葉は、江戸時代に入ってから使われるようになったらしい。そのため、織田は梅雨の時期を体感や感覚で理解して、梅雨明けがそろそろであると判断したのではないか。

④関ヶ原の戦い1600 年 徳川家康 VS  石田三成 2 -2  異常気象と飢饉

天気はいつの時代でも、我々の歴史とは切っても切れない関係にある。一日の中でわずかな時間でも風や雲の流れ、雨の降り方は大きく変化する。これらの自然現象は我々の生活にも大きく影響しており、先人たちにとっては現代よりもさらに大きな影響を与えていただろう。短時間に突然の豪雨、全世界的な異常気象で地球の気候全体が変化している。この変化や異常気象は、時代に沿ってもみることが出来るのではないか。天気を読み取って天気を情報として生活に、商売に応用する方法も時代ごとに変化している。まずは、時代ごとに天気が生活にどのような変化をもたらしたのか、また天気が情報としてどんな役割を果たしてきたのかを述べていきたい。天気予報の歴史の話題からは少し離れて、天気を予測して天気を生活に応用してきた私たちの先人の生活について触れていきたいと思う。

私たちの生活の中で外すことのできないことの一つに食事が挙げられると思う。私たち日本人の主食は米。ほぼ毎日白ご飯が食卓に並ぶはずである。米作りは自然と密接な関係にあり、気候に大変大きく影響される。そもそも日本の主食が米となったのには米作りに適した地域であったからである。梅雨の時期と雨が降らない暑い夏が訪れる日本は、米作りに適していたのである。そのため、古代から現在まで米作りが農業の主力となっている。 

しかし、主食の米がとれなくなり、人々が食べる食糧がほぼない状態が続き、人々が大飢饉に襲われたのが江戸時代である。江戸時代の人骨調査によると、栄養失調の状態で見つかった形跡が数多くあるそうだ。当時、人々の食事は運動量に比べて比較的に質素であった。現在のように食べ物がどこでもなんでも手に入るような時代ではない、また交通手段も電車やバスがないため、すべて歩きで生活していた。そのような生活に、たびたび天災など異常気象が重なり、多くの人が餓死したと言われている。 17 世紀から19 世紀、江戸時代に起きた四大飢饉は、寛永の大飢饉、享保の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉である。全国的に起こった飢饉であり、1 つの飢饉で餓死した者は最大で約100万人と言われている。原因は主に全国的な異常気象であった。江戸時代は全期を通じて寒冷であったようで、1か月ほぼ雨が続くという日々もあったようだ。この異常気象によって、農作物や魚類などはうまく作られなかったため人々はずっと飢餓と向き合って生活していたのではないだろうか。 古代、世界各地で太陽は神そのものであるとされていた。太陽はすべてを恵み、光を与えてくれ、闇の恐怖から救ってくれる存在であったからである。日本では昔から「天照大神」が最高神とされ、農家の者や太陽を崇め農耕の豊作などを祈る。今でも農耕の豊作を願いに、神社にお参りに行ったり、天照大神が祀られている伊勢神宮へ行ったりする。このように人は自然を相手に生きてきた。

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2 -3  先物取引の開始米の売買から発展した取引で「先物取引」という取引がある。先物取引は穀物を中心とする取引で発

展したもので、日本では1730 年江戸時代、第8 代将軍徳川吉宗によって大阪の堂島で始まったとされている。江戸時代、市民は現在の私たちと同じように日々米を食糧として購入していた。しかし幕府にとって

は、米は貨幣の代替物であり高い価値があるとされていた。米の収穫量や価格の変動によって武士たちの大名からの給与は変化する。そのため、武士たちは米の価格・収穫量の動向を気にしていた。そこで武士たちは、商人の米売買から米の取引の仕組みを学び、自分たちが金儲けをすることを考えはじめた。この考えが、1730 年に大阪の堂島で米の売買が始まるきっかけとなり、先物取引市場のはじまりであるとされている。この時代はまだ鎖国が続き、ヨーロッパからの考えや情報は日本に入っていなかったため、世界で初めて日本が江戸時代に先物取引を始めたとされている。堂島に設立された米相場会所で米の転売買が公認されていて、米商人たちの間で、米の売買価格を収

穫前にあらかじめ決める取引「帳合米取引」が行われていた。米の収穫量は天候、天災などの要因で常に変わり、価格も変動する。よって米商人たちは米の価格を安定させて、安定した生活を送りたいと望んだ。そして帳合米取引によって、あらかじめ米の売買価格を決めることになった。米の売買価格を先に決めておくことで、米商人たちの、相場が急激に下がって損をするかもしれないという不安を取り除くことができたのだ。これは米商人たちのリスクヘッジ6 である。江戸時代にすでに、現在のデリバティブの1 つである先物取引の原型ともいえる取引が18 世紀の日

本で行われていたのだ。

3.気象ビジネスのはじまり天気を予測し産業に活かすことは、古代から存在していた。しかし、天気を情報として取得・活用し、

ビジネスとすることは20 世紀まで存在しなかったのではないか。気象情報を活用し大きなビジネスとした企業があった。アメリカのヒューストンに本社を置いていた「エンロン社」である。エンロン社は2001 年末に突然経営破綻した。しかし、今でも世の中に名を残す企業であり、エンロンが開発した事業内容は生きているものがたくさんある。これから、エンロン社の生い立ち、エンロンを大きくした偉大なる経営者ケネス・レイについて、エンロン社の若者の育て方の風土について説明していこう。その後に、現在でも世界で用いられている商品「天候デリバティブ」について述べていく。

 3 -1  天候デリバティブデリバティブとは、将来の価格などの動きによって、将来の契約実行時の契約内容がいくつにも別れる取引のことである。オプションの買い手(顧客)から見て、異常気象や天候不順などを原因とする営業利益などの減少リスクをヘッジするための商品気象条件による企業の収益減少や支出増大を補償するデリバティブ取引エンロン社( 以下エンロンと表記) は「世界をリードするエネルギー会社(the world leading energy company) 」をスローガンに掲げていた。エンロンは1985 年、ヒューストン・ナチュラルガスとオマハのインターノースが合併して設立した。合併後エンロンの初の会長兼CEO に就任したのがケネス・レイである。

3 -2  民間気象会社のはじまり気象情報に基づいて、損益に関わる決断を下す企業のためにある天候はサプライチェーンや交通集客に影響を及ぼす情報を伝えることでユーザーが重要な判断を下せる

1875 年から気象庁が天気予報を配信してきた。気象観測が行われる中で、日本国内に天気予報を

6 リスクヘッジとは、相場変動などによる損失の危機を回避すること。ヘッジとは、株式・商品・外国為替などの取引で、相場の変動で生ずる決済時の損失に備え、先物で売買しておくこと

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配信してきた気象庁は、国土交通省の外局として業務を続けている。 1952 年に気象庁の業務を規定する法律、気象業務法ができた。気象業務法は、気象業務に関する基本的制度を定めることによって 、気象業務の健全な発達を図り、もつて災害の予防、交通の安全の確保、産業の興隆等公共の福祉の増進に寄与するとともに、気象業務に関する国際的協力を行うことを目的とする。 7 法律が公布されてからは、気象業務が完全に国(気象庁)の事業として進められてきた。しかし時代は、インターネットなどの通信技術が目まぐるしく変わる時代に急激に変化し、国民一人ひとりが自らの判断で情報を選択することが出来る環境に変化してきた。

気象は、農業や海洋、交通インフラ、食品、衣料などのさまざまな産業に大きな影響を与える。よって国民のニーズは多様化するとみて、気象庁は最新の情報通信技術を活用して国民の幅広いニーズに対応できる気象サービスを提供することを民間の気象事業者に許可した。さらに気象予報士制度を設け、気象庁から民間気象会社へ気象庁が保有している情報を提供することを決めた。こうして民間気象会社が誕生しはじめる。

3 -3  民間気象会社の役割民間の気象情報提供事業を行う者は、気象庁長官の許可を受けて、気象、地震などの地象、津波、

高潮、波浪又は洪水の予報の業務を行う(気象業務法第17 条第1 項)。これらの事業者のことを予報業務許可事業者と呼ぶが、ここでは民間気象会社とみなす。

民間気象会社とは何か、一言でいうと情報通信事業分野、 IT事業分野8 に属する。気象庁から予報業務を許可されたことによって、規制が緩和されて予報が自由に出来るようになった、これを予報の自由化という。予報の自由化により民間気象会社は、気象庁の膨大な気象データを確保することが出来るようになったため、付加価値の高い情報提供サービスを行い始める。さらに「気象予報士」が誕生する。 気象予報士制度は、1994 年に気象業務法の改正によって導入された制度である。この制度は、重要な気象情報の不適切な流出や世間に混乱を引き起こさないように、情報を正確に活用できる技術者を確保するために国家資格として作られた。民間気象会社は、気象などの予報をする際には、気象予報士に予測を行わせることが義務づけられているため、気象予報士をおかなくてはならない。

気象予報士になるためには、気象庁長官が指定する機関、気象業務支援センターが実施する気象予報士試験に合格し、気象庁長官の登録を受けることが必須条件となる。気象予報士の合格者は1994年から始まって2017 年8 月時点で、10,253 人9 であった。この資格の合格率は大変低く、平均で5.6% である。また気象予報士は、民間気象事業者が行う予報業務の中核となる技術者としてだけでなく、報道等を通じた解説や防災関係者 ・ 一般住民を対象とした講演会など、様々な場面で防災知識の拡大にも貢献している。近年では、テレビなどでお天気キャスターなどと呼ばれ、気象予報士の資格受験者が増加しているようだ。 民間気象会社は、1980 年頃まで新規参入件数が非常に少なく、民間の気象情報提供会社の数は1桁台で推移していた。しかし、1993 年から1995 年にかけて気象業務法が改正されて気象業務が民間事業者に開放されたことにより、民間事業者数は増加した。さらに2007 年の法改正によって地震動に関する予報業務にも認可制度が導入されたことにより、参入事業者が急増し、 2013 年3 月では114 社になった。さまざまな産業分野で気象情報が利用されている。しかし、気象情報提供事業の年間総売上額はこの約20 年の間、約300億円で横ばい傾向にあり、事業者間の競争が激化しているようにみえる。

7 気象業務法 第一章 総則(目的)第一条より8就職四季報より9 気象業務支援センターより

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民間気象事業者は様々な気象情報サービスを提供している。一般財団法人気象業務支援センターを介して、気象庁が保有する気象データを提供してもらい、得た気象データに基づいて、付加価値の高い気象情報をマーケティングアンドセールスで利用者、法人や個人に提供、販売することで収益をあげている。気象情報サービスの提供先としては、海運会社、航空会社、農業関連企業や農家、鉄道などの陸運会社、スーパーやコンビニなどの流通業、ファミリーレストランなどの外食業、インフラ会社、電機メーカー、食料企業、医療会社、保険会社、スポーツイベント関連企業など( 2015 年日経ビッグデータより)が挙げられ、多岐にわたる。これらの多岐にわたる産業は気象情報をそれぞれのビジネスに活用しているのである。気象ビッグデータをそれぞれの産業がそれぞれの方法で利用し、気温・気圧・湿度などの条件から人の消費や行動を読み取って利益を生み出している。これらの民間気象会社の代表的な事業者や個性的なビジネスは第4 章で紹介する。

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予報業務許可事業者の気象関連事業の年間売上と事業者数の推移

年度売上高事業者数

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