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『大乗起信 『大乗起信論』ー|以下原則として『起信論』と略記す の中頃、梁の武帝の代に南海を通つて渡来した倶諦三蔵(四九 (1) 五六九)による漢諄テクストの形で中國佛敦界に登場して以来、原 作者は西暦一世紀から二世紀にかけて活動したといはれるインドの 詩人アシュヴァゴーシャ(馬鳴)と告げられてをり、この傭承ほ唐 代に出た寅叉難陀(六五一ー七一 0) 1 1 よる新繹においても易らずに 保たれてゐる。降つて華厳宗の第三祖となった賢首大師法蔵(六四 (2) 三ー七―二)によって著された『大乗起信論義記』ー以下原則として 更にこの偲承に史賓的な信憑性 が補強されただけでなく、馬嗚といふ名前の由来に燭れて「此の菩 薩初生の時、諸馬感動して息まざる故」とか、「此の菩薩善く能く 9^9 琴を撫で、以て法―=目を宣ぶるに、諸馬聞き已りて、咸悉く悲嗚す」 といった紳話的な奇蹟性が増廣されてゐる。もっとも馬嗚作者説に 論』 一七 封しては早くから疑惑が表明されてをり、唯識學振 これに擬する動きもあったらしい。しかるに華厳敦學の る法蔵の解繹は大きな椛威を確立してゐたため、如来蔵思想 本覺説に結びつけられた形で H 本に『起信論』が請来され、更に浄 土敦や祁宗の側でも深くその恩恵に浴してきたことから、『起信 論』の馬鳴作者説や印度撰述説は根張く、文獣學的方法に基づくイ ンド佛敦の近代的研究の確立者の一人である宇井伯壽でさへも、馬 鳴説に到するいくつかの否定論を検討した上で、「最初からいはれ て居ると考へらるる馬鳴菩薩造員諦三蔵繹の説が最も信用に債する (3) 如くである」と述べてゐる程である。 漠諜佛典を梵文テクストと封照させながら批判的に検討してゆく 基礎的な研究が次第に進展してきた現代においては、馬鳴作の偉承 が候託に過ぎないといふ見方が大勢を占めつつあることはもはや動 かし難いだけでなく、 『起信論』の印度撰述説そのものも素朴に支 持されることはもはや不可能となってきてゐる。しかしそれにも拘 |ー造論の因縁 JI I

『大乗起信 - Kansai U...『大乗起信 『大乗起信論』ー|以下原則として『起信論』と略記するーは六世紀 の中頃、梁の武帝の代に南海を通つて渡来した倶諦三蔵(四九九ー・

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  • 『大乗起信論』ー|以下原則として『起信論』と略記するーは六世紀

    の中頃、梁の武帝の代に南海を通つて渡来した倶諦三蔵(四九九ー・

    (1)

    五六九)による漢諄テクストの形で中國佛敦界に登場して以来、原

    作者は西暦一世紀から二世紀にかけて活動したといはれるインドの

    詩人アシュヴァゴーシャ(馬鳴)と告げられてをり、この傭承ほ唐

    代に出た寅叉難陀(六五一ー七一

    0)11よる新繹においても易らずに

    保たれてゐる。降つて華厳宗の第三祖となった賢首大師法蔵(六四

    (2)

    三ー七―二)によって著された『大乗起信論義記』ー以下原則として

    『義記』と略記するー~においては、更にこの偲承に史賓的な信憑性

    が補強されただけでなく、馬嗚といふ名前の由来に燭れて「此の菩

    薩初生の時、諸馬感動して息まざる故」とか、「此の菩薩善く能く

    9

    ^

    9

    琴を撫で、以て法―=目を宣ぶるに、諸馬聞き已りて、咸悉く悲嗚す」

    といった紳話的な奇蹟性が増廣されてゐる。もっとも馬嗚作者説に

    『大乗起信論』ー~造論の因縁

    論』

    一七

    封しては早くから疑惑が表明されてをり、唯識學振の無著や世親を

    これに擬する動きもあったらしい。しかるに華厳敦學の大成者であ

    る法蔵の解繹は大きな椛威を確立してゐたため、如来蔵思想や天豪

    本覺説に結びつけられた形で

    H本に『起信論』が請来され、更に浄

    土敦や祁宗の側でも深くその恩恵に浴してきたことから、『起信

    論』の馬鳴作者説や印度撰述説は根張く、文獣學的方法に基づくイ

    ンド佛敦の近代的研究の確立者の一人である宇井伯壽でさへも、馬

    鳴説に到するいくつかの否定論を検討した上で、「最初からいはれ

    て居ると考へらるる馬鳴菩薩造員諦三蔵繹の説が最も信用に債する

    (3)

    如くである」と述べてゐる程である。

    漠諜佛典を梵文テクストと封照させながら批判的に検討してゆく

    基礎的な研究が次第に進展してきた現代においては、馬鳴作の偉承

    が候託に過ぎないといふ見方が大勢を占めつつあることはもはや動

    かし難いだけでなく、

    『起信論』の印度撰述説そのものも素朴に支

    持されることはもはや不可能となってきてゐる。しかしそれにも拘

    |

    JI I

  • 之妙旨を啓き、再び昏衝を曜し、邪見之顛眸を斥け、正趣に蹄せし

    めんと欲す」るところに造論の根本動機を見ようとする貼において、

    「継持少文」を旨とした『起信論』とは反針にむしろ「廣論の文多

    ぎを以て」己が途とした法蔵が自らを馬嗚に重ね合はせた所以が顕

    れてゐるのを看取しうるであらう。

    (

    1

    )

    宇井伯壽はこの年代について西暦五五

    0年説を採つてをり(岩波文

    庫版一三三頁)、最近のすぐれた研究である竹村牧男『大乗起信論読

    釈』もこれを踏襲してゐる(同書五頁)。

    (

    2

    )

    賀叉難陀と同時代人でありながら法蔵が『義記』を著すに営つて採

    揮したテクストが侃諦諄であったために、『起信論』の研究は現代に

    おいても一般に徳繹に依つて行はれ、新繹はほとんど顧られてゐな

    い。宇井伯壽校訂の岩波文庫版のほか、村上専精、島地大等、望月信

    享の版も菊繹に依つてをり、最近の研究も多くは宇井版に基づいて論

    述されてゐる現吠に鑑み、木論文においても一般的な趨勢に従ふこと

    とし、テクストの章分けとその稲呼も宇井版に合せた。但し送り仮名

    ある法蔵に末法観の必然性を見出すことは困難であらうが、

    「深鰹

    らず、『義記』の冒頭において、如来滅後の危機的情況を「異執紛

    綸し、或いは邪途に趣き、或いは小径に奔り」、「宅中の賓蔵」と

    「衣内の明珠」が凡作に蔽はれて「大乗の深旨、貝葉に沈みて尋ね

    ず」と歎いた後に、窮朕を打開せんとして登場した「大士」と映じ

    た馬嗚の姿に法蔵ほどの卓越した理論家が熱い想ひを高らかに謳ひ

    上げてゐるのを見ると、作者に開する言説は兎も角として、馬嗚に

    法蔵を結びつけた深い感動はおそらく現代にもその意義が失はれて

    ゐないのではなからうか。固より中國佛敦の最盛期を荷つた一人で

    と掲げられ、衆生利盆と佛法の無窮なる相承他来に置かれてゐるこ

    とが示されてゐる。大乗への正信を起し、一二賓への蹄命を痰願した

    種不断ならしめむと欲するが為の故なり。」

    等については必ずしも宇井版に依存せず、元緑版の『義記』を参照し

    ながら、筆者自身の見解で裁蓋した。

    しかし新藉雨繹を到照させたテクストを刊行した明石恵逹がその

    「序言」で述べてゐるやうに、新諄も劣らず「研究上重要親せらるべ

    きもの」であって、決して「軽視せられることがあってはならない」。

    長年輝宗テクストの漢文に親しんできた筆者にはいくらか持つて廻つ

    た表現の多い蕉繹よりは直戟にして且つ論理的な新諄の方が思想の表

    現としてはすぐれてゐるやうに思はれる。『大乗起信論裂網疏』六倦

    ーー以下『裂網疏』と略記するーを著した明代の智旭(一五九九ー

    一六五五)も「二繹を封閲するに唐本更に文顕義順となす」(延賓版

    上巻三頁)と断定して、賓叉難陀諄に依つて註繹をなしとげ、行文に

    透徹した思索力を近らせてゐる。また一九00年に刊行された鈴木大

    拙諜の英文テクスト

    (A,;:vaghosha'sDiscourse on the Awakening

    of Faith in the Mahayana, Translated for the first time from the

    Chinese version by Teitaro Suzuki, Chicago 1900)

    も宵否入眸H

    砂宰諸

    を底本としてゐる。これらの先學に力を得て、筆者は積極的に新繹を

    採上げてゆく方針を堅持することにした。

    (

    3

    )

    岩波文庫版一三五頁。

    序分」の最後の

    「衆生をして、疑を除き、邪執を捨て、大乗の正信を起して、佛

    四句から成る第三侶において

    『起信論』造論の趣旨については、まづ「第 一

  • それを「除」<ことは「第二段

    衆生心こそ佛法を継いでゆく種となるところから、この第三侮は

    「佛種不断の願」とも「令法久住の願」とも名づけられる。

    賓叉難陀繹においては最後の二句は

    「信を起し、佛種を紹がしめんと欲するが為の故に、我此の論を

    造る。」

    と改められ、造論の目的がどこに置かれてゐるかは更に判然となっ

    てゐる。この第三偽からみても、智慧偏く、無擬自在なる佛身の憫

    (法身員如海)と、浦浄なる故に盛きることなき用らきを現ずる佛

    身の相(無量功徳蔵)に一心を翠して還源するに到つてをらず、煩

    悩に纏はれて「疑」と「邪執」を脱し得てゐない衆生を主な到象と

    して『起信論』が造られたことは開違ひないところであらう。勿論

    法蔵は佛果を約束された正定豪の菩薩と佛道未信の邪定緊も利盆の

    到象として含まれることを認めないわけではないが、しかしこの四

    句において離苦得架に向けて導かうと欲してゐるのが第一義的には

    「未だ正定に入らざる」ところの「不定豪衆生」に相営すると考へ

    法蔵は更に第一二侮を一句徳に検討して、第一句の「衆生をして…

    ・・・ならしめんと欲するが鍋の」は本論の「第一段因縁分」に相嘗

    し、第二句の「疑」とは「員に迷ひ、架を失ふ」ことであるから、

    「第一章

    立義分」と「第三段

    『大乗起信論』ー—造論の因縁

    解繹分」の

    顕示正義」において行はれると述べ、「疑惑を除くを以て、

    倶架を悟らしむる」ことが岡られると見倣してゐる。次の「邪執」

    一九

    「如来の廣大なる深法の無邊義を結振せんと欲する」

    (第一段因縁

    とは「妄を起し、苦を種うる」ことを惹き起すが、かかる「邪執を

    捨てる」ためには「解繹分、第二章針治邪執」が常てられてをり、

    そこにおいて「痰慢を遠離し、邪網等を出づる」ことが行はれると

    説いてゐる。

    の域にまで進み得た衆生ではあるけれども、

    行を起すかを知」つてゐないので、まず「究党根本の法」とすべき

    ものとは「大乗」の教へに他ならないことを覺らせなければならな

    い。それとともに「未だ此の大乗に於て何等の行を起すかを知」る

    には到つてゐないので、「信」こそ「衆くの行の本」となるもので

    「除疑」、

    かくして「既に員に於て疑はず」、「邪に於て執せず」

    「捨邪執」、

    「未だ何れの乗に於て

    「起大乗正信」の三つの用らきを締括りする

    役を果してゐると見倣すとともに、中國佛敦の個統の中ではこの句

    が華厳における「佛種子を衆生田に下し、正覺の芽を生ず」といふ

    思想に聯なってゐると法蔵は考へてをり、

    ここに相営するのは「第五段

    言十一一句よりなる「蹄敬偽」の第一云悩を以上のやうに見渡してみた

    ところ、僅か二十字より成る四旬の各々が五段に分たれた本論の各

    段各章と照應し合ってをり、その聰闘が明らかとなることによって、

    『義記』の説明と照合させながら『起信論』の冠序に位置する五

    勤修利盆分」であると言ってゐる。

    てゐる。

    『起信論』本論において

    「第四段修行信心分」である。最後の「佛種不断」については、

    することを説いてゐるのが「解秤分、第一二章

    分別被趣追相」と

    あるから、

    「信心の行を起す」ことによって大乗の数へる倶如を覺

    一方、

  • 分)といふことを主題とした『起信論』における論議の構造全髄が

    自から浮び上つてくるやうになってゐる。侮といふ形式の下で簡約

    された表現ではあっても、「序文」の詩的な表現形式と本論におけ

    る理論的盟系的な思惟の展開との間に張渡された息づまる呼應闘係

    を感得させながら、造論の因縁が漏らすところなく明かにされてゐ

    るのである。

    ところで『起信論』の各段を形造つてゐるこれらの因縁を順次辿

    つてきて結末に到つたところから因縁全盟を振返つてみるならば、

    「衆生」乃至「衆生心」がいかに『起信論』全盟の要となってゐる

    「大乗の正信」の到象とな

    る如来の境涯は言ふまでもなく妄念にとらほれた衆生を超えた仕方

    で開かれたに相違ないが、

    かかる言語と思惟を絶した員如の現前を、

    衆生の場となってゐる染法に相應させて言語的に表現されたのが

    「如来の根本之義」或いは「如束の廣大なる深法の無邊義」である。

    このやうに一切の言語的表現によっては適合しえない如来の敦説を、

    「穂撮」といふ高度に思解的な操作によって精選された基本命題の

    組合せに婁換させた『起伯論』の全髄が「衆生」乃至「衆生心」と

    いふ観貼によって深く貫かれてゐるといふことに驚かされる。

    末だ「大乗の正信を起」すに到らざる凡夫は自己を一切の他から

    賑別して、それらと針立し合ふ我として自らを定立し、

    かといふことが鮮明に目に映じてくる。

    かかる我を

    存在の根本原理として確立させることに固執してやまないために、

    涯しなく進行する分別知の渦巻である無明に包まれる。したがつて

    員賓在とは一切の限定を脱し、すべての射立の本に撒がる空なるこ

    とを認識し得ずに、虚空より痰せられる明るさに透化される見通し

    が立たない。そのために一切の到立が終燻した「究党涅槃」といは

    れるやうな境涯に入る門が閉ざされた有限な人聞にとつて、衆生心

    とは最も身近かな存在了解の形態ではあるが、そこから外に出るこ

    とが全く不可能となることのゆゑに、人開は不断に妄念を相績して

    ゆくことになり、大乗の常謄はますます不可得となる。このやうに

    差別を存在の原理とすることによって際限なく分裂を繰返へしてゐ

    る情態を人間が苦として見出す時、人間は自らを凡夫または衆生と

    そのことから「一切の苦を離れて、究覚の

    して認識するのであり、

    因縁分)んと願ふのである。

    「序文」最後の四句

    はこのやうな宗教的要求を懐いた衆生のために焚願されてゐる。そ

    れ故にそれは「蹄敬傷」の最初の二つの偽で稲へられたやうに、

    「色無擬自在」の用らきをする佛

    「最勝業なる偏知」に充たされ、

    身の證(法身)から「如質修を行」ずる十地の菩薩までを蹄命の到

    象として讃へることによって、

    「無量の功徳を蔵」する佛身の大悲の活動が佛法僧の一元賀から遥に

    離れた衆生心を軸として展開さるべぎものであることを顕示しよう

    なす「論じて曰く」とそれにつづくべき「法有り」との間に「蹄敬

    偶」の第三偶の内容をもう一度説明し直す言句を挿入して、

    と欲してゐるのである。更に新諄においては、

    「大乗

    「正宗分」の痰語を

    既に修行の課程に進んだ菩薩のためだけのものとはせず、むしろ

    一心に佛地に蹄趣せんとする願心を

    柴を得」

    (第一段

    二0

  • の浄信を猥起し、諸の衆生の疑暗と邪執とを断じ、佛の種性をして

    ([)

    相績して断ぜざらしめんと欲するが為の故に、此の論を造る」とわ

    ざわざ念押ししてゐる程である。

    分別知を手放すことを怖れ、謬見にしがみつくが故に慎如と自己

    を分断させ、

    かく正覺から遠去からしめることが更に自己自身をど

    うごめ

    こまでも分断に追込んでゆく疑惑の暗闇に露<衆生心を射治邪執し

    て、無差別平等の一心に連戻す道として宣揚されたのが「大乗の正

    信を起さしめる」ことであり、純一無雑なる澄浄心に入らせること

    を可能にするための前提條件をなすのが「除疑」と「拾邪執」であ

    (2)

    つぢ大悲の到象に常る「衆生」といふ語が「佛種不断の願の始に

    置かれてゐるのは、おそらく本論に入って『起信論』の大網を提示

    してゐる「第二段

    立義分」において「摩阿術の法」をただ「衆生

    心」にのみ蹄一させ、その内にすべての法門が包撮されてゐると捉

    へてゐる見地に直接通じてゐると思はれる。かくして「佛種不断の

    願」の第一句と『起信論』の本論において相應すべき箇所とされた

    「因縁分」に眼を轄ずることにしたい。

    (

    1

    )

    鈴木大拙は『起信論』の英繹につけた註において、このやうな繰返

    へしは「新諄の側で犯した謬りであるかも知れない」

    (p.47)

    と述べ

    てゐるが、これはむしろ皮相の見解といふべきであらう。次註参照。

    (

    2

    )

    「欝敬偏」においては、蕉繹、新諜ともに「除疑捨邪執」の方が先

    に語られ、「起(大乗正)信」の方が後に置かれてをり、衆生心を汚

    濁させる迷妄を取彿ひ、心の雑染を除去して、心を澄浄にすることが

    「起信」の前提とされてゐるやうに受取れる。しかし新繹の「焚起

    『大乗起信論』ー造論の因縁

    序」のやうに、逆に「登起大乗浮信」の方が先に置かれると、「摩詞

    術の法」への信を起すことが先に要求され、慎如と自己との無差別を

    確證することによつて、自らの内に目覺めた如来の智懇の御蔭で「疑

    暗と邪執」を断つことが可能になる、もしくは徹底されると考へられ

    てゐることになる。智旭はこの貼に注意して、次のやうに注繹してゐ

    る。「伽の中にて、先に除疑去執を言ひ、後に起信を言ふ。今の文、

    先に登起淫信を言ひ、後に断諸疑執を言ふは何ぞ耶。」といふ問に劉

    して、答はかうである。「若し自行に約するならば、則ち疑を除き、

    執を去りてより信を起す。秤の雨頭の低昂の時、等しく先後有ること

    無きが如し。若し化他に約するならば、則ち自から先に大乗淫信を登

    起す。乃ち能く諸の衆生の疑暗邪執を断じ、佛種性を相紺して断たざ

    らしむ。故に重ねて述ぶと雖も、璽繁の過無し」と。つまり「節敬

    偶」の順序に立てられるのは、自力によって修行して覺の自證に向ほ

    うとする者に重貼を置いた場合である。しかしその場合でも、秤の雨

    端が上ったり下ったりしてから安定するやうに、どちらが先でどちら

    が後といふことはない。これに劉して、自力によつて修行する力を持

    たない衆生を敦化する利他行に璽貼を置く場合には、はつきりと起信

    が先とされ、洋信が得られた後に、除疑去執が成立つc

    したがつて繰

    返へし述べられてゐるのは決して無駄なことではない、といふ。

    このやうに「除疑捨邪執」と「起信」との開に先後の順序が逆にな

    りうることに注意するならば、佛数とキリスト教との違ひはあって

    も、相似した事柄を問題にしたアウグスティヌスの場合が想ひ起され

    る。アウグスティヌスにおいては、「信ぜんがためには、先づ知解せ

    ょ」といふ命法と、「知解せんがためには、先づ信ぜよ」といふ命法

    とのいづれが第一義的であるかを決定することが生涯を通しての課題

    となってゐた。しかし知解に優位を認める主張と信仰に優位を置く主

    張とは彼の場合に共に相譲ることがなく、一種の循環論を形成して理

    南的には結着がつかないままに相互に補合って神と魂との充足的な闊

  • 「論日有法能起摩詞術信根是故應説」

    ま‘‘つ 一段「第

    係を成立たせてゐる。

    『起信論』の「除疑」とは衆生がとらはれてゐる妄念すなわち誤謬

    判断を破棄して、倶如に正しく相應した「正解」(因縁分)を生ぜし

    めることであるから、それはアウグスティヌスにおける「知解」と平

    行してゐると見倣してよいであらう。他方において、『起信論』の側

    でも「第五段勧修利盆分」において、「如来の甚深の境界に於て正

    クダ

    信を生ずることを得」るために「衆生は但應に仰いで信ずべし」とい

    ほれてをり、「仰信」が「浄信」に結びつけられてゐる。しかしかか

    る「仰信」も鼠に劣機の衆生だけに要求されてゐるのではなく、「過

    去の菩薩も已に此の法に依りて浮信を成ずることを得たり」といはれ

    るものであるから、キリスト教における超越誹より恩寵を通して輿ヘ

    られた信仰との間には大きな遥庭があることは明白である。『起信

    首』においては「除疑捨邪執」と「起信」とは相互に因となり果とな

    る開係にあり、アウグスティヌスの場合よりも更に根源的な仕方で相

    補的であると言へやう。これまでの『起信論』研究においてこの問題

    を深く掘下げたのほ久松債一だけであり、理論と賓践、解繹と修行信

    心との呼應闊係を論じて、「先解後行は、先行後解と一臆一如のもの

    でなければならぬ」(久松慎一『起信の課題』、理想社昭和五十八年

    刊二八頁ーー以後久松員一の引用はすべてこの版による)と説いて

    ゐるのは極めて卓抜な見解である。

    序分」の検討を了へて「第二

    正宗分」に入ると、

    因緑分」が始まる前に「骰起序」といはれる一節が置かれ、 「

    とある。冒頭の「論曰」については、元緑版の『義品』、

    『裂網疏』および宇井伯壽は「論に曰く」と訓讀してゐる。これに

    封して、

    島地大等、望月信享、

    (1)

    2)

    く」と讀んでゐる。柏木弘雄と竹村牧男が説いてゐるところによれ

    村上専精、

    を捩所として論を進める場合に用ゐられる行き方であって、ここで

    はあくまで『起信論』自身の本論がここから始まるのだといふこと

    とであり、納得できる説明と思はれるのでそれに従ふことにする。

    しかし訓讀の問題とは別に、この場合に閑却されてはならないのは、

    『起信論』において「論ずる」といふことはいかなる事態を指して

    『義記』は解題の箇所において、

    ジャク

    謂く、恨に賓主を立てて往復析徽し、正理を論量するが故に、名、、つ

    けて論と為す」と述べてゐる。

    「議論を集むる」といふことは論書

    としては至極一般的に見られる某本性格をなすことであるが、理性

    的方法にしたがつて或る主題を論究する場合には、まづ學的認識の

    封象とそれを認識する主謄の冨別を立てることが探究の始めとなる。

    ついで主麓の側から到象について十分な詔識をもたないままに不分

    明な像を表象すると、賓在する封象との不相應のゆゑに、慎賓性に

    乏しい表象しか産出し得なかった主盟の虚妄性を打破るやうにして

    劉象の側から蔽ひが一枚はづされ、それ以前に見えてゐた姿よりは

    ゐるのかといふ問題である。

    「論とは是れ議論を集むる也。

    の宜明であるから、

    「論じて曰く」と讀むのが妥常であるといふこ

    ギ、i

    「論に曰く」といふ讀み方を採るのは一般に先行する他の論壽

    明石恵逹は「論じて曰

    延賓版の

  • 箕如とは本質的に不相應であるから、それはあくまでも

    「仮に立

    る。他方において、それを認識する主盟となるのも未だ無明に沈む

    一層高い普遍性において封象が示現されてくる。このやうにして主

    膿と客髄とが相互限定の繰返しを重ねることによって、封象の分析

    は自己自身の分析に轄じ、自己の超出はまた以前に現れてゐた到象

    を一層高次の員理において現前した劉象に轄じさせる。このやうな

    量するのが「議論を集める」といふことであらう。しかしここで注

    意さるべきは「賓主を立て」るといふことが「候に」といふ形で見

    出されてゐるといふことである。

    象とされるのほ一切の言詮を超えた「大乗の教へ」たる「摩詞術の

    法」であり、

    『起信論』の場合には、議論の射

    しかもその法は如束蔵としての衆生心に集められてゐ

    衆生心である。

    したがつて賓主とはいつても、本来の姿に戻れば主

    客の劉立はなく、了了自知されて議論を全く必要としないもの同志

    が、未だ本来的な在り方が成就されてゐないために、箕如自謄とは

    不相應な言説を介して、手探りの情態で謬見を次第に除去してゆき

    ながら、〗県如の正慢に接近してゆくための方法として採揮されたの

    が「論」である。論とはそれ自身に沿いては決して員なるものでは

    なく、賓主が分立したままで純一無雑な在り方から隔たり、正理に

    適合してゐない限り必要とされるのである。したがつて『起信論』

    においては、主客封立を根本形式とする議論は考察の到象にされた

    て」られたものであるに過ぎない。賓主の開で往復析徽することは、

    『大乗起信論』ー造論の因縁

    往復連動を通して封象と自己とを互いに正しく相應させる理法を思

    ゐる。第一には『義記』、

    目指してをり、議論の完成は議論が自己否定に陥ることであり、自

    がみられる。

    『裂網疏』においても「論を繹」して次のやうに同エ異曲の表現

    「問辮徽析剖断開示す。決定を得しむるの謂なり。若

    しくは、語言文字に藉りて、賓義を顕示し、邪執を到治し、正道を

    修行するの相を分別し、勒めて修習せしむ。是れ敦の決定なり。云

    云」と。これについて論ずることは既に述べたことを繰返すことに

    なるので避けることにしたい。ところで「論」が展開される具髄的

    な形としては「如束の根本之義を穂掘する」といふ立場を取ってゐ

    る『起信論』がよくいはれるやうに佛敦概論的な性格を具へた著述

    であることは間違ひない。しかしそれは多様な根機を内蔵した衆生

    に〗県如の嘗腔を覺させるための方便となるやうに仮に法として立て

    られたものである。員質相においては法も亦空であり、

    束無きものであるといはねばならない。この意味において、久松員

    (3)

    一のいふ如く、造論の目的は「論によって論を遣ること」にあるの

    さて話を元に戻して「痰起序」の文句を採上げると、

    「有法能起

    摩阿術信根是故應説」についてはこれまで二通りの訓讀が行はれて

    石の版であり、

    『裂網疏』および村上、島地、

    「法有り、能<摩詞術の信根を起す、是の故に應に

    説くべし」と讀み、第二は宇井、柏木、竹村のほか武邑尚邦の訓讀

    である。

    己突破によってのみ自己寅現が圏られてゐる。

    それをとほして賓主がともに破れて亡じ、

    羞月、

    「論」は本

    一心に集中されることを

  • 「法」ではない、といふこと

    てゐるやうに「人々に信を起こさしめる」如き「敦説を説こう」と

    言ってゐるのである、といふことにならう。かくして竹村は「少な

    くとも語法上、説くべきは『法』であって、

    明言してゐる。しかしながら同じ訓讀を採揮しても武邑の場合はま

    るが、この貼については少し後で獨れることにする。ところで第二

    の讀み方とは異なって、『義記』などのやうに「法有り、能く……

    を起す」と訓讀した場合には大菱歯切れがよく、漢文らしい高らか

    な響きが感じられる。さうして「……を起す」に「是の故に」が直

    ちに繋つてゐるために、「應に説くべし」が承けるのは、上方に置

    かれて、下で一且文に切れが入った「法」ではなく、「能く摩阿術

    の信根を起す」であり、竹村の表現を員似ると、第一の讀み方を採

    れば、説くべきは「起信」であって、

    になる筈である。村上、島地らの版ではこの貼について何の説明も

    なされてゐないが、『義記』の説明を見ると論議の錯綜を招くこと

    ったく反到の解繹に立つてをり、問題のむつかしさを感じさせられ

    『起信』ではない」と

    「登起序」は竹村の考へ

    「法の能<摩詞術の信根を起す有り、是の故に應に説くべ

    し」と讀ませてゐる。後者のやうに讀んだ場合には日本語の響とし

    てどうしても説明的な文麓となるやうに感ぜられ、柏木と竹村が流

    べてゐるやうに「大乗の信根を起こすような『法』が有ることを提

    示する」といふ解繹へ自然に導かれるやうに思はれる。したがつて

    このやうな讀み方をすれば「應説」が直接に受止めてゐるのほかか

    る用らきをする「法」といふことになり、

    であり、

    アヲ^

    法蔵は最初に「有法能起等とは盆を標すなり。郎ち所説之義、其

    の勝用有るを顕す」と説明してゐる。これは「法有り、能く……を

    起す」といふ一句の主眼とするところが、「盆を標す」郎ち言葉に

    よって表現さるべき大乗の法には衆生心に到して「摩詞術の信根を

    起す」といふすぐれた「妓能」または「勝用」があるといふことを

    判然と目に映じさせるところにある、といふことを意味してゐる。

    したがつてここまでは柏木・竹村とほ訓讀の相違が解繹の相違と相

    伴つてゐると考へられる。しかしながら上の説明につづいて「是故

    應説とは説を起すなり。能詮之教義要す、須く起すべきを顕すな

    り」とあって、この後に「法有りとは縮じて法の義を學ぐ、一心二

    門=―-大之法、郎ち所説の法髄なり」と績けて「立義分」で提示され

    ることになる大綱が示され、更に「解繹分」の「顕示正義」にある

    「心員如門」と「心生減門」にいたるまで敦説を披げてゐるが、こ

    のことが訓讀と解繹との閲の到應関係に混風をもたらすことになっ

    てゐる。この條においては「是故應説」は「起信」の用らきを提示

    するとは語らうとせず、「應説とは説を起すなり」と主張して、そ

    の「説」が「能詮之敦義」と、郎ち言葉で表現された紐典(敦)と、

    その意味内容を解説した文言(義)と解説し直されることによって、

    「應説」の目的が「一心一一門三大」ー衆生心・心員如門と心生減

    門・饒大相大用大!~といふ形で示された法を顕かにすることであ

    ると述べられてゐる。かくして法蔵は途中から、『義記』とは異な

    になる。

    ニ四

  • ろがあると見なすことにもよるが、

    『義記』の解説が決定的となったやうに思はれる。

    解繹を貫くために、

    『大乗起信論』ーー造論の因縁

    に見るべきであらうか。」と疑問を投げかけてゐる。

    る訓讀を採ることによって『起信論』の課題を「起信」ではなく

    「法」を説くことに見出さうとした柏木・竹村説と却つて軌を一に

    する結果に陥つてゐる。

    ことになると理解した上で、

    これに到して武邑尚邦は、『義記』のやうに「法有り、能<·…••

    を起す」と讀むならば、「應説」が「法を解繹すること」、「いひ

    かへれば、大乗の正信を起す法を説くことが目的であるといふ意味

    (5)

    に解され、……従って本論の中心は法の解説にあ」ると見てしまふ

    「しかし果して『起信論』はこのやう

    『義記』にお

    ける讀み方に封して提起された武邑の反論は、そもそも賢首大師の

    解繹が「理より信への立場を示してゐ」て、法の重視に片寄るとこ

    「是故應説」の箇所に封する

    かくして武邑は

    「本論の主題は起信にあり、大乗にあるのではない」といふ自らの

    『義記』に反劉して「法の能く……を起す有

    り」といふ讀み方をして、宇井伯壽と讀みを同じくしてゐる。宇井

    説にしたがったと見られる柏木・竹村の讀み方は武邑尚邦のこのや

    うな解繹を知りながら、武邑と讀みは同じで、解繹は反到といふ行

    ぎ方を提起したことになる。筆者にも第二の讀み方をすれば「應

    説」の射象は「起信」ではなく「法」であるとする考へ方の方が自

    然なやうに思はれる。しかし筆者が参照した武邑の『起信論入門』

    は小著なりともすぐれた思索力を示してをり、これに異を立てるの

    (

    1

    )

    (

    2

    )

    にする。

    二五

    は尚ほ憤重を期したい。

    しかし先述したやうに、「痰起序」に閥す

    る『義記』の説明には若干の揺れが見受けられ、信よりも理を重ん

    ずるといふ法蔵の基本的な姿勢は否定できないとしても、最初の開

    「焚起序」の訓讀と解繹との間にさまざまな組合せが行はれてき

    たことを承けて、ここでは窮餘の一策として、

    序」に閥する説明を終へようとするに常つて、「論は主として此の

    盆を見るに因る。是の故に要す、須く説を起すべし。此の論、上来

    の大乗起信、是の故に應に是の論を説くべきなり。題目此れに依り

    て立つ」といつて打切つてゐる箇所に着目することにし、『義記』

    の如くに「法有り、能く……を起す、是の故に應に説くべし」と訓

    讀することに決めたい。そのことによって、

    かかる讀み方は却つて

    本論の主題が起信にあるといふことを顕示することになり、「法の

    能く……を起す有り」と訓讀すれば、起信よりは法を説かうとした

    ものであると見倣すことにする。以上のやうに諸家の訓讀を勘案し

    てみた結論として、ここでは「焚起序」を次のごとく讀み下すこと

    「論じて日く、法有り、能く摩詞術の信根を起す。是の故に應に

    説くべし。」

    てゐる。

    柏木弘雄、大乗とは何かー『大乗起信論』を読む、二四頁。

    竹村牧男、大乗起信論読釈、六三ー六四頁。

    はむしろ武邑の解繹に一致してをり、

    『義記』が「装起

    「法」よりも「起信」に傾い

  • する」、

    「第

    「疲起序」の形式的側面についての検討が終了したところで、思

    想内容の考察を進めることにしたい。今述べたやうに「有法能起摩

    詞術信根」については二通りの訓讀が行はれてをり、いづれの讀み

    方を採るにしても、「法」といふ文字が印度佛典における基本用語

    である

    dharma

    に劉する繹語として使はれてゐるといふことと、

    その法をこの文脈において特色づけてゐるのは「能<摩詞術の信根

    を起す」といふ用らきにあるといふ貼ではまったく異なるところが

    なし、

    ゜漢繹佛典に頻出する「法」といふ語はそれに常てられる

    dharma

    といふ語の多義性に應じて多様な意味で語られてゐるのは周知のこ

    とであり、アリストテレスがその『形而上學』において何度も「存

    在」8P

    といふ語はさまざまな意味で語られると述べたのを遥に凌

    駕する仕方で語られてゐると言はねばならない。

    V.S. Apte, The

    Practical Sanskrit , English Dictionary, Revised & Enlarged Edi ,

    tion

    に依れば、サンスクリット語の

    dharmaといふ名詞は「在る、

    現賓に存在する、生を持績する」、

    「維持する、

    る」、「所有物や行為を保つ」、「或る物を特定の人のものとして指定

    「心の中で思ふ」といった、極めて多様な意味をもっ{dhr

    的敦説など、以上のやうな極めて多様な意味をもつてゐるとされ、

    したがつて『起信論』の中でも「法」といふ文字は文脈に應じてさ

    (1)

    まざまな意味で用ゐられてゐる。しかしながら先程も述べたやうに、

    この「装起序」において「法有り」と語られた「法」が不定豪に位

    くは「勝用」を稜現するごとき特性をもつものとして提示されてゐ

    るのは明らかであり、今列學した敷多くの意味のなかでは最後の

    それでは『起信論』において、「敦説」といふ意味における「法」

    (

    3

    )

    (

    4

    )

    (

    5

    )

    久松員一、起信の課題、四0頁。

    竹村牧男、前掲書、六三頁。

    武邑尚邦、起信論入門、二三頁。

    保存する、

    持績す

    臼本質的な性質、特性、固有性、隔性⑳様態、

    仰紐験的事物、個別的具腔的存在者田意識の到象、思考

    倶理、理法四箕理認識の法則、規準凶宗敦心因宗敦

    が具腔的にはどのやうな内容と順序で展開されてゐるのかといふこ

    とについては、

    が五分と為す。

    は修行信心分、

    「應説」に引積いて直ちに「説くに五分有り、云何

    一には因縁分、二には立義分、三には解繹分、四に

    五には勘修利盆分なり」といふ風に『起信論』の目

    次が示されることによって明かにされてゐる。今その内容に獨れる

    のは避けるが、要するに「焚起序」以降に繰擦げられる本論である

    正宗分」の全監が、衆生心に到して「摩詞術の信根を起

    「宗教的敦説」が相應してゐると見られるであらう。

    する衆生心の内に「能<摩詞術の信根を起す」といふ「放能」もし

    性格、性清、本性

    類似性

    内容

    習慣、恨例、行為の規範

    善、徳性、徳が具つてゐること

    といふ動詞の語根から派生した名詞である。したがつてそれは、日

    ⇔果すべき務め、義務

    四法律、正義

    国道徳上の善果、

    回道徳、倫理

    二六

  • す」ことを目的として、

    の敦説」といふことになる。このやうにして示された「摩詞術」な

    コ一種」に分たれると説かれ、その内で「法」は「衆生心」といふ

    種」に分けられてゐる。ところで更に「解繹分」においては、この

    「一心」である「衆生心」にはそこに参入するための「心員如門」

    と「心生減門」といふ「

    1

    一種の門」が備つてゐることが説かれ、

    『義記』は以上の摩詞術の法と義とが入組んだ枠組全麗を定式化し

    て「一心二門一二大」と言表はして、「法有り」とは「縮ての法の義

    を學ぐ。一心二門=―-大之法、郎ち所説の法監なり」と説明してゐる。

    このことは武邑が論難したやうに、

    「法を解繹すること」にあると見倣してゐたことの現れであると言

    つても差し支へないであらう。これに針して、武邑の主張するやう

    に「起信」が主題なのであるといふ観黙に立つならば、その「法有

    り」とは「一心一一門三大」を中心として、五分の形をなすやうに配

    列された言語的謄系として、衆生心の向ふ側に客観的に存在してゐ

    るといふことを指すのでは勿論なく、それ自身は言葉を超えてをり

    ながら、衆生のために自らを「敦説」として語り出す霜憫が「摩詞

    術の信根を起す」といふ用らきを襲現させてゐることに氣づかせよ

    うとしてゐるのである。

    言語といふ方便に依つて表現された「大乗

    『大乗起信論』ー造論の因縁

    他方この貼に闊して、法蔵の讀み方をそのまま承歳いでゐる智旭

    『義記』が『起信論』の主題を

    「義」は「儒大」、

    るものは「立義分」においては、

    二七

    はどのやうな説明を行ってゐるであらうか。

    「法有りとは、卯ち下の文の所詮、

    その全文を示すと、

    一切の衆生心を指すなり。此の

    心慎如の相を説いて、郎ち大乗の證を示し、此の心生滅の因縁の相

    -=慧を生ぜしめ、乃至究覚して成佛せしむるを、名づけて大乗の侶

    「網説」すれば「法」と「義」の

    根と為す。此の勝盆有るが故に、應に説くべきなり」と誌されてゐ

    る。まづ「下の文の所詮」とは「本論」において言説で表現された

    内容、郎ち法蔵が「一心一一門=―-大」と定式化した敦説のごとき大乗

    の法を指し、このやうな敦説が有るといふことであるから、その限

    「下の文の所詮」につ

    づけて直ちにそれを「一切の衆生心を指すなり」と言切つてゐるの

    『義記』に偏満する理論的態度に較べて、衆生に直接働きかけ

    ようとする賓賤的開心の端的な現れを感じさせる。更にこれに引績

    いて衆生心の説明がなされてをり、「一心二門三大」といふ抽象化

    された表現によってではなく、具憫的な内容に即しながら氣迫に溢

    れてをり、法の儒系を構造化することよりは衆生に到して積極的に

    働きかけようと欲する態度が前面に出てゐる。さうして最後にいた

    つて『起信論』の課題が何よりも「起倍」にあるといふことが寵裁

    に語られてをり、法蔵とは異なって極めて主憫的な精誹がその鋭鋒

    を見せてゐる。

    ところで智旭が第一の訓讀に譴ひながら、法蔵とは到極的な解繹

    を打出したのは、彼が薔繹によってではなく、新諄に基づいて註解

    ま、,9'

    りでは『義記』と一致するやうではあるが、

    を説いて、能く大乗の燈相用を顕示す。諸の衆生をして、聞思修の

  • いふまでもなく「起信」といふテーマである。

    を行ったといふことが大きな要因となってゐるやうに思はれる。既

    述のごとく、寅叉難陀繹では「論日」と「有法」との聞に、「序

    分」第一=傷よりも更に八字多い「大乗の浄信を稜起し、諸の衆生の

    疑賠と邪執とを断じ、佛の種性をして相績して断ぜざらしめんと欲

    するが為の故に、此の論を造る」といふ文言を挿入してをり、した

    がつて造論の目的が「大乗起信」にあることを片時も見失ふまいと

    する文脈の中で智旭が思量を行ひえたといふ事情が伴つてゐたやう

    に思はれる。

    論議を進めてきたので、

    以上のやうに、長らく「猥起序」の雨端に置かれた「論日、有

    法」と「是故應説」をめぐつて、いはば形式的な問題を中心にして

    この邊で雨端に挟まれた「能起摩詞術信

    根」に含まれてゐる思想的な問題を検討することにしたい。それは

    (

    1

    )

    鈴木大拙は『起信論』の英繹において、

    dharmaなる語の多義性の

    ゆゑに、文脈に應じて次のやうに諜し分けたと語ってゐる。

    | "thing", "law

    `9

    疇••truth" or "doctrine" 1

    さらにそれが「慎如」ーsuchness(bhiitatathata)

    と同義である場

    合には原語を頭文字にして••Dharma"と諜した、と語ってゐる。

    (ibid., p, 47)

    (

    2

    )

    大拙はやはりその英諜に附した註において、

    "Mahayana`"といふ

    術語は通常は「小乗」

    Hinayanaといふ語と到比させて使はれるが、

    ここではさういふ仕方では語られてゐないやうに思はれ、ただ輩純に

    「慎如の偉大さ」を指摘するためにこの語が採用されたのであると述

    べてゐる。したがつてそれは「第一原理そのもの」

    thefirst principle

    itselfにgiへられた名稲であって、哲學上の輯系や数圃の数義を特徴

    づけるためのものではないとされる。更に大拙は占'Mahayana"とい

    ふ語のこのやうな用法は馬嗚が活動してゐたカニシカ王國を包んでゐ

    た寛容の精紳に通じてゐるのであらうと推測してゐる。

    (ibid.,p. 48)

    (つづく)

    ニ八