MINTETSU WINTER 2013 20 10 53 53 53 20 12 30 12 12 45 1 25 西17 寿大井川鐵道 OB 名古屋レールアーカイブス 白井昭電子博物館 白井 昭 Akira SHIRAI ※土川元夫 昭和 37 年より名古屋鉄道株式会社取締役社長。博物館明治村など沿線観光資源の創出と文化事業に大きな功績を残した。 SPECIAL INTERVIEW

技術 保存鉄道とは 文化 - mintetsu.or.jp › association › mintetsu › pdf › 44_p20_23.pdfしかし、その保存鉄道も蒸気機関車の寿命から、大井川鐵道から始まった。

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Page 1: 技術 保存鉄道とは 文化 - mintetsu.or.jp › association › mintetsu › pdf › 44_p20_23.pdfしかし、その保存鉄道も蒸気機関車の寿命から、大井川鐵道から始まった。

MINTETSU WINTER 2013 20

鉄道を保存するという価値

戦前の汽車の話をします。僕の蒸気機

関車保存の原点です。

戦前、昭和10年ごろの東海道線は、わ

が国で初めて3シリンダを本格採用した

蒸気機関車「C53」が花形で、当時「地

上で最も早い乗り物」と言われていまし

た。客車も、東北線なんかは真っ黒の木

造客車ばかりだったのが、東海道線には

鋼製のチョコレート色の客車が走ってい

る。僕は東海道筋に住んでいましたから、

田舎の汽車とは違うと、誇らしく自慢に

思ったものです。

もう一つ、「B6」という機関車があり

ます。昔は、入れ換えといって、到着し

た貨物列車から貨車を切り離して仕分け

する作業があった。この入れ換え作業を

ドイツ製のB6と呼ばれる2400形が

やるんです。C53に比べれば格段に小さ

いんだが、大きな機関車が引っ張ってき

た貨物列車を次々ばらしていく、その力

強さ。C53の速さとB6の力。それが、

僕の蒸気機関車保存の原点です。

昭和20年4月、蒸気機関車のボイラー

を勉強したいと名古屋高等工業学校

︵現在の名古屋工業大学︶機械科に進学。

学んだボイラーの知識と技術が、やがて

名鉄の博物館明治村や大井川鐵道での蒸

気機関車保存につながった。

保存鉄道の最初の関わりは、いまでも

明治村に動態保存されている12号機関車

です。昭和30年ごろ、名鉄の12号機関車

を廃車解体するという話が伝わり、何と

か残せないかと土※

川社長に保存の陳情書

を出しました。ありがたいことに土川社

長は「分かっている。心配しなくていい」

と言ってくれた。明治村の建設計画が正

式に決定するのと同時に、12号の明治村

での保存が決まりました。

保存の大きな原動力となったのは、戦

後まもなくから始まった海外の鉄道愛好

家との交流です。イギリスやオーストラ

リアでは昔の鉄道をそのままの状態で残

す「保存鉄道」という新しい取り組みが

生まれていた。保存するということは、

そういう古い鉄道文化財に対して価値観

を持っているということです。やっぱり日

本は遅れている。日本でもやらなくては

いけない。保存をやろうという決意が生

まれていました。

大井川鐵道での蒸気機関車動態保存

昭和45年、岐阜県の大垣で、1両の古

い蒸気機関車が廃車されようとして

いた。明治25年製造のイギリス車、あの

「B6」だ。持ち主の西濃鉄道は、引き取

り手が見つからなければ廃車解体すると

いう。大井川鐵道の役員会に諮り、B6

を買い取ることが決まった。

 整備の後、千頭

川根両国駅間で短距

離の保存運転を始めました。そうすると

面白いもので「大井川鐵道が蒸気機関車

を動態保存するらしい」という話が広

がって、小型の蒸気機関車︱︱ドイツの

コッペル社製1275号やクラウス17号な

鉄道の原風景がここにある。

蒸気機関車が客車を牽ひ

いて走る。

響き渡る汽笛の音と鋭い排気音、噴き出す白い蒸気。

環境庁「残したい日本の音100選」にも認定された

大井川鐵道の蒸気列車だ。

日本における保存鉄道の歴史はここ、

大井川鐵道から始まった。

しかし、その保存鉄道も蒸気機関車の寿命から、

その存続に赤信号が灯る。

大井川本線での動態保存を手掛けた白井昭さんに、

復活運転までのその道のりと

保存鉄道のこれからについて、お話を伺った。

保存鉄道とは

技術と文化の

継承である。

文◉香田朝子/撮影◉織本知之

大井川鐵道OB名古屋レールアーカイブス白井昭電子博物館

白井 昭Akira SHIRAI

特集:SL運行による鉄道と地域の再生

﹇大井川鐵道のSL運行と地域の活力創造﹈

※土川元夫 昭和 37 年より名古屋鉄道株式会社取締役社長。博物館明治村など沿線観光資源の創出と文化事業に大きな功績を残した。

SPECIAL INTERVIEW

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21 MINTETSU WINTER 2013

特集:SL運行による鉄道と地域の再生[大井川鐵道のSL運行と地域の活力創造]

どが自然と集まってきた。

当時の大井川鐵道には、蒸気機関車の

経験者が多く、蒸機の運転はお手のもの

でした。また、これらの機関車の復活整

備でボイラーの修繕もやらざるを得なく

なって、大井川鐵道のノウハウがだんだ

ん積み重なっていった。大井川鐵道の保

存運転の初めの初めです。

昭和46年、僕は、蒸気の保存鉄道を勉

強するため、ヨーロッパをめぐる旅に出

ました。イギリスでは保存鉄道の運営は

多くは基本的に寄付でまかなわれ、ボラ

ンティアが仕事をしている。そのころ、

ドイツでは世界的に有名な01、52型が走

り、往時のままの3軸客車等も使われて

いました。機関車だけではなく、客車も

機関車の年代に合わせてそろえてある。

古いものを大切にする。保存のための技

術だけではなく、市民が中心になって歴

史的価値のあるものを残すナショナルト

ラストを学んだことが、僕の大きな財産

になりました。

スイスにも行きました。スイスの蒸気

の観光鉄道は私鉄です。ボランティアで

はありません。蒸気を残すにもいろいろ

なレパートリーがあることを勉強して

帰ってきました。

蒸気機関車の本線運転の研究が始まっ

た。大井川鐵道には「大井川本線で

蒸気列車の運転」を望む声が殺到してい

た。しかし、B6などの小さな機関車で

は力が足りない。客車を牽ひ

いて一往復約

80㎞を走行するには、状態のいい中型機

関車、それと整備する体制が必要だ。

まず、収支の見通しです。作りました

が、全然自信がない。何年続くか、それ

も分からない。無茶は承知で、蒸気列車

の定期運転を決定し、そのための準備を

開始しました。

機関車は、国鉄から廃車したばかりの

C11型227号を調達しました。しかし、

実際に運転となると、問題は山ほどある。

一番の懸念は、蒸気機関車の心臓部、

ボイラーの保守管理です。昔はどんな小

さな町にもあったボイラー屋が姿を消し、

ボイラーに関するさまざまな技術が急速

に失われつつあった。これはなかなか大

変なことでしたが、幸い、特殊鋼ででき

たボイラーの重要な部品、「煙管」自体は

国内生産が続けられており、

優良ボイラー屋を確保して

外注すれば、何とかボイ

ラーを維持できることが分

かりました。

次に、石炭です。蒸気機

関車の燃料というマーケッ

トがなくなり、品質のいい

ものを手に入れるのが難し

くなっていました。金谷は

市街地なので、煤煙を出さ

ない、熱効率の高い石炭が

ほしい。苦心の末、オース

トラリア産とベトナム産の

石炭をブレンドした豆炭を

手配することができました。

他にも足回りの可動部に注

す油や車輪の空回り防止の

砂、釜の火つけに必要な木

材の調達、ボイラーの水の処理の仕方な

ど、準備を進めていきました。

また、保存鉄道であるからには、蒸気

機関車の技術も保存しなければなりませ

ん。機関車の定期検査はどこでやるか。

これについては、できることとできないこ

と、外注併用で鍛冶場がある自社で行い、

技術を高めながら、できる限り継承して

いくことに決めました。

そして最後に、要員です。要員につい

ては「好きな仕事ができるなら」と、国

鉄から移ってきた職員が助けてくれまし

た。機関車に慣れているとは言っても大

井川鐵道は小さなローカル鉄道ですから、

国鉄OBの存在は心強くありがたいもの

でした。

こうして1年の準備期間の後、本線で

の保存運転が始まりました。昭和51年7

月9日、C11型227号が3両の客車を

牽いて、営業運転を開始したのです。

昔のままに、いまを走る

それから37年が経過し、いまなお蒸気

機関車が存続し続けている。

毎日運転だから、毎日、同じ時刻に汽

笛が響く。昼の汽車の汽笛が聞こえたら

「昼めしに行こう」という地域の暮らし、

住民の走行する汽車に手を振る乗客への

もてなしの気持ち。非常にうれしいこと

です。

また、昭和53年にスイスのブリエンツ・

C10形は昭和 5 年製造の蒸気機関車。全国でただ 1 両だけ残る貴重な蒸気機関車だ

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ロートホルン鉄道と姉妹鉄道になったの

が縁で、島田市とスイス・ブリンツ町が

姉妹都市になっており、最近では頻繁に

行き来しています。昭和61年には台湾の

阿里山鉄道とも姉妹鉄道関係を結んでい

て、現在、台湾・嘉義市と島田市が姉妹

都市化に向けて交流を進めている。蒸気

機関車を始めた僕にとってこれもまた、

大きな喜びです。

後は、いつまで走り続けることができ

るのか、ということでしょうか。

限界のない車両はない。蒸気機関車の

保存に、大きな問題として立ちはだ

かっているのがボイラーの寿命だ。煙管

など内部の部品は交換すればそれで済む。

しかしボイラー本体はそうはいかない。

いつか限界はやってくる。

日本国内では、蒸気機関車の動態保存

にあたって、ボイラーを新造した例はほ

とんどありません。例外は、明治村の12

号機で、これは僕がアドバイスして、昭

和60年にボイラーを新造して載せ替えて

いる。JRなどで復活している蒸気機関

車も、ボイラーは修理にとどまっていま

す。各

地に静態保存中の機関車の中から、

状態のいいボイラーを探し出し、修理し

て使うのは困難になりつつある。

じゃあ、日本でボイラーを新造するの

は難しいのかというと、僕はそんなこと

はないと思う。国のボイラー規則が変

わっているので、それに合った設計図を

起こさなければならないが、ボイラーの

新造はできる。ただし、いくらかかるの

か、巨額なことは間違いないが、正確な

ところは分からない。やってみなければ

分からないということです。

もう一つ、日本の保存鉄道は、イギリ

スのようにボランティアが主体となって動

態保存しているのではなく、鉄道会社が

営利事業としてやっている。会社が成り

立つことが先決です。ボイラーの新造に

かかる費用は、一企業が投資できる金額

を超えている。だから僕に言わせると、

将来は暗い。しかし、将来は誰にも分か

らないことなので「分かりません」と答

えておく。

イギリスでは鉄道愛好家たちが17年の

歳月をかけて募金を行い、2008

年、第二次世界大戦後に活躍した蒸気機

関車「トルネード」をまるごと1両新造

した。製造費は当時の円換算で4億円。

ボイラーはドイツの専門会社でつくって

いる。09年初めから客車列車の高速機関

車として運行を開始している。

トルネードは、60年前の設計図通りの、

全くの新造です。計画に当たって、国も

お金を出すと言ったが、ボランティアは

「国に関与されるのはいやだ。自分たちで

つくる」と言って、4億円の新造費を17

年かけて集めた。最初から最後まで、資

金と技術の難問を全部自分たちで解決し

て完成させたんだね。それが筋だなって

思いますね。日本の蒸気列車の多くは保

存鉄道ではない、観光鉄道です。

イギリスには100カ所近い保存鉄道

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特集:SL運行による鉄道と地域の再生[大井川鐵道のSL運行と地域の活力創造]

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があります。しかし、それだってだんだ

ん年老いてへばっていく。新造しておけば

これから100年は持つだろう、復元し

て保存しようということです。

それに、この機関車の発車式は、皇太

子殿下が主催しました。「蒸気機関車はイ

ギリスが発祥の地である」という誇りを、

国が持っている。国を挙げての祝いです。

これがもし日本だったらどうでしょう。

4億円も集められるでしょうか。

 日本の保存鉄道は誰が守るのか

僕の見解は、目標年次を2100年に

おいて、それまでに日本の蒸気機関車を

どうするのか、考えてみてはどうかとい

うことです。

産業考古学という学問分野があります。

明治期以降の近代を形づくるのに大きな

役割を果たした建物、機械や道具産業、

鉄道車両などの歴史的な意義を明らかに

しようというもので、その現物の保存も

求められている。

産業考古学の視点で見れば、蒸気機関

車もその技術も、保存すべきものです。

それは、一企業のものではない。日本の

技術であり、日本の文化です。

日本の蒸気機関車、技術を残すのか、

残さないのか。守るのか、守らないのか。

国民の選択、国民のコンセンサスが必要

だ。その上で、どういう形で残していく

のか、どう守っていくのかを決める。

国民のコンセンサスを得た上で残すべ

きもの。それは保存鉄道だけではな

い。赤字に苦しむローカル鉄道も同じと

考える。

もう一つ、ローカル鉄道が存在する、

保存鉄道が存在する、それに加えてLR

Tが増えていく。そういう社会は、成熟

度が非常に高い社会であるという見方が

あります。

赤字を出しながらもローカル鉄道とし

て存続していること自体、社会の成熟度

の一つの度合いになる。大井川鐵道などは

その典型的な例でしょう。普通に考えれ

ば止めてしまえばいい。しかしこれを止め

てしまうのは、後進国なんです。やっぱ

り鉄道があった方が住民も便利だし、観

光客も喜ぶ。社会の役に立っている。

日本はいずれも未成熟で、中国はもっ

と遅れている。ヨーロッパの国など社会

的にレベルが高い国は、皆の役に立つもの

は残しています。何億も投資して、鉄道

もケーブルカーも水車もそろえている。

社会資本の充実です。

僕は85歳になるんですが、年とともに、

見方や考え方が変わってくるということ

を感じています。特に世界史、あるいは

考古学。元は同じなんだが、60歳の時と

80歳の時とでは受け止め方が違っている。

変わってくること自体が不思議なんです

けどね。とにかく10年経てば変わって、

また10年経てば変わる。 

2100年までの間に、社会がどうい

うふうに変化していくのか。本質を貫く

議論は起こるのか、起こらないのか。未

来は誰にも分からない。これが、僕が出

した結論です。

白井 昭(しらい あきら)昭和 23 年、名古屋鉄道株式会社に入社。鉄道技術者として、名鉄 7000 形「パノラマカー」、羽田モノレール 100 系の開発・設計に携わる。昭和 44 年、大井川鐵道に移籍。大井川鐵道で、日本の保存鉄道の先駆けとなる蒸気機関車の動態保存を開始した。現在は、アメリカの技術が移入して発展した日本の電気鉄道の技術に的を絞った「電鉄技術史」をまとめている。

<書籍紹介>

鉄道技術者 白井 昭パノラマカーから大井川鐵道SL保存へ髙瀬文人 著(平凡社)

85 歳にして現役。鉄道技術者・経営者・歴史家の三つの「顔」をもち、鉄道の楽しさをいまなお追い求める。日本に保存鉄道の文化を誕生させた白井昭の全貌をあますところなく描く。