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年輪年代法による「弥生古墳時代の 100年遡上論」は誤り
2019.5.24「考古学を科学する会」講演 鷲崎弘朋
≪講 演 要 旨≫
考古学を科学する会HPより
(https://koukogaku-kagaku.jimdo.com/)
年輪年代法で、弥生中後期および古墳開始期が通説より 100年遡上した(池上曽根遺跡等)。し
かし、肝心の標準パターンと基礎データは非公開でブラックボックス。また、飛鳥奈良時代の建造
物で AD640年以前を示す事例(法隆寺五重塔等)は、記録と全て 100年以上乖離があり 100年
修正すると整合する。
光谷実拓氏のヒノキ新旧標準パターンのうち旧パターンは飛鳥時代で接続を 100年誤り、弥生古
墳時代の 100年遡上は全てこの誤った「旧標準パターン」に起因する。なお、新標準パターンは
正しいが、古代の測定事例はまだほとんど無い。
①旧標準パターン:1990年作成(BC317~AD1984) 全国各地のパターンの寄せ集め。
②新標準パターン:2005~2007年作成(BC705~AD2000) 木曽系ヒノキだけで 2700年間をカ
バー。
なお、今回講演に先立ち、5月 11日に光谷氏が全国邪馬台国連絡協議会(全邪馬連)・東京支
部大会で講演し、鷲崎氏による光谷批判は当たらないと反論した。しかし、この光谷講演でも標
準パターンと基礎データは依然として非公開で「データを何も示さず、相変わらずブラックボック
ス」、「データも示さず自作自演で結論のみ」。本会後、6月9日の全邪馬連・年次総会において、
奈良文化財研究所に対し情報公開請求制度に基づき、新旧標準パターンのデータ開示等を請
求することが満場一致で可決され、今後この決議に基づき、情報公開請求を進めることになっ
た。
≪次頁以降―――講演本文≫
https://koukogaku-kagaku.jimdo.com/
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Ⅰ:邪馬台国論争と年輪年代法
邪馬台国の候補地は全国に多数存在するが、主に「文献からの九州説」VS「考古学からの近畿説」を軸に論争されてきた。そして、「三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡」は長らく近畿説の支柱であったが、日本国内で 500面以上も発見されながら中国では1面も出土せず、最近は「卑弥呼の鏡」は揺らぎ国産説が強まっている。
ところが、1996年に大阪府池上曽根遺跡のヒノキ柱根が年輪年代法で BC52伐採と測定され、弥生中後期と古墳開始期がそれまでの通説より 100年遡上した(下図)。これにより、古墳開始期が従来の AD300年頃から AD200年頃へ 100年遡上し近畿に集中する初期大古墳が邪馬台国時代と重なり、最近20年は邪馬台国近畿説が一気に有力となった。現状では近畿説の最大根拠は年代遡上論で、魏志倭人伝の記述はほとんど無視されている。
上表で、1970年代から 1980年代にかけては古墳時代の始まりが AD300 年頃(佐原案、都出案)であったが、2000年代になると AD200年頃(寺沢案、柳田案)まで約 100年遡上した。この 100年遡上論は、古代史全体像に大変な影響を及ぼしている。
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Ⅱ:年輪年代法の 100年遡上論は誤り~飛鳥奈良時代の記録と乖離
Ⅱ―1 新旧の標準パターン(曲線)
Ⅱ―1―1 旧標準パターン(BC317~AD1984)
ヒノキの旧標準パターン(BC317~AD1984)①旧標準パターンは、1985年にBC37年まで作成、1990年にBC317まで延長された(図は『年輪に歴史を読む-日本における古年輪学の成立』1990より)。
②パターンE(BC37~AD838)は飛鳥時代で接続に失敗し、AD640年以前は100年狂っている。これと連結したF(BC317~AD258)も同様。なお、Fは標準パターンとするのに躊躇する問題があり、2001年に先端約100層を削除し「BC206~AD257」へ変更されている(後述)。
上図の「旧標準パターン」は弥生古墳時代 100年遡上論の根拠となったもので、第1次が1985年作成、第2次が 1990 年作成である。後述する飛鳥奈良時代の 15 事例(記録と照合)および弥生古墳時代の 6事例(従来通説と比較)の合計 21 事例は、全てこの「旧標準パターン」で測定され、全て 100 年狂っている。
Ⅱ―1―2 木曽系ヒノキの新標準パターン(BC705~AD2000年)
木曽系ヒノキの新標準パターンの作成経緯
光谷拓実氏は、論文「古代史の謎を解く年輪年代法」(『歴史読本』2009年 8月号)で、 2700年間(BC705~AD2000)に及ぶ木曽系ヒノキの新標準パターンを作成したと発表した。 全て木曽ヒノキで構成され、正しい標準パターンである(次頁の説明参照)。
BC1000
定点 AD714 大地震
BC500 BC/AD AD500 AD1000 AD1500 AD2000
延長 BC2 世紀~AD714 追加 AD1009~2000
遠山川河床ヒノキ 現生木 木曽ヒノキ
BC705
定点 AD2000 現代
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Ⅱ―1―3 天竜川支流の【遠山川河床のヒノキ】と新標準パターン
<奈良時代 714 年の大地震が年輪年代の新定点を提供した!>
光谷拓実氏は、月刊誌『歴史読本』2009 年 8月号に寄稿した論文「古代史の謎を解く年輪年代法」で、BC705~AD2000 年の 2700年間に及ぶ「木曽系ヒノキの新標準パターン」を作成済みと発表した。これは、同一地域(木曽)の埋没樹幹という良好な試料から作成され、「旧標準パターン」とは全く別物。「旧標準パターン」は全国各地の年輪パターンを寄せ集めて繋いだもの。一方、「木曽系ヒノキの新標準パターン」は木曽系だけで 2700年間をカバーし、それまでの「旧標準パターン」とは全く異なる。
『扶桑略記』(平安時代の歴史書、1094年作。全 30 巻)によると奈良時代 714 年に大地震が発生し(『続日本紀』では 715年)、天竜川支流の遠山川は大地震による山崩れでせき止められ森林が埋没した。近年、流域の護岸工事などにより土砂の流入が減少し河床が
低下したため、埋没林が出現した。これが【遠山川河床のヒノキ】である。
発掘責任者の寺岡義治氏(営林署勤務)は大地震の記録を知っており、それとの関係で埋
没林の調査を長年にわたり行ってきた~寺岡義治「古代史記述と埋没木」『伊那』2000年。 こ
れは、2002年 5月 11日にテレビ放映された伊那毎日新聞のインタビューで「遠山川の埋
没林は現在までの調査で 714 年の秋までは生命活動を続けていたことが分かっています」
との発言でも明らか(伊那毎日新聞記事)。
埋没していたのはヒノキやケヤキを主とした混合林で、2000~2002 年には 51本が出現し
た。直径 50㎝以上の大木がほとんどで、中には1m以上の巨木や樹齢 700 年以上のヒノ
キもあった。樹齢 1000 年を超える巨木もある。この中から選定したヒノキ7本は外皮を
失っていたが、光谷氏に測定を依頼した。測定可能な最外年輪は AD710、687、682、657、
609、600、556 年を示した。測定値で古い年代を示すものは、山崩れで樹幹の損傷が激し
く、測定不能の年輪数があったからである。ただし、測定を依頼した時点で寺岡氏と光谷
氏は、714年または 715 年に山崩れで一斉に埋没したのを最初から分かっていた。2003年
5 月には新たに樹皮型のヒノキが 1本、それ以降にまた樹皮型 1本が出現し、2本ともに
714 年に埋没したことが判明した(2003 年 11 月発表)。これにより、大地震が『扶桑略
記』の 714年であったことが確定した。
2003年 11月以降から 2004 年にかけて、この9本の年輪パターンは束ねられ AD714年を定
点として BC2世紀まで及ぶ 800~900 年間の「新標準パターン」が作成されたと考えられ
る。この遠山川河床のヒノキ「新標準パターン」は精度が高く、「旧標準パターン」が全
国各地の寄せ集めであるのとは全く異なり、信頼性も高い。一方、「旧標準パターン」には
木曽ヒノキ現生木の約 1000 年間(AD1009~1984年。なお、山沢金治郎氏が 1930年に発表
した岐阜県側・裏木曽ヒノキの年輪測定値は AD1119~1920年の 802 年間)の正しい標準
パターンが既に存在する。2005~2007 年にかけて、木曽ヒノキ現生木と遠山川河床ヒノキ
との空白期間(AD714~1009年の 300年間)を他の木曽ヒノキで埋めると共に、先端を BC705
年まで延長したと考えられる。ここに、2700年間に及ぶ一気通慣の「新標準パターン」が
日本で初めて完成した。この「新標準パターン」での測定は正しい値を示すが、その測定
事例はまだ極めて少ない(2008 年、長野県木曽郡池口寺薬師堂の年輪年代調査。樹皮型部材は AD1289
年伐採を示した)。なお、弥生古墳時代の 100 年遡上の根拠になった事例は、全て誤った「旧
標準パターン」で測定されている。
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Ⅱ―2 飛鳥奈良時代の記録と比較
以下において、法隆寺、元興寺、紫香楽宮、法起寺、東大寺正倉院の年輪測定値を記録 (日本書紀・続日本紀・元興寺縁起・元興寺記録・東大寺記録・聖徳太子伝私記・法隆寺記録「別当記」など)と比較する。
法隆寺五重塔ヒノキ心柱(直径82cm、樹皮型)
607年創建の法隆寺は670年に全焼(日本書紀天智九年)、
7世紀末~ 8世紀初の再建とされる。1941~1952年の解体修理に際し、厚さ10cmの円盤標本が切り取られ、京都大学に保管されていた。
①測定値は594年伐採。心柱は五重塔構造上から最も重要で、100年前の古材転用は建築学では考えられない(建築学の鈴木嘉吉氏、藤井恵介氏) 。また解体修理時に、心柱に転用取扱い跡や転用加工跡はなかった。
②貯木場に100年保管していたとの説も、まず考えられない。
③2002~2004年の法隆寺西院伽藍の調査でも、樹皮型・辺材型11点の中で心柱以外は全焼記録と整合性があるのに、心柱だけが突出して古く異様な数値(後述)⇒今でも謎のまま。
謎ではなく、測定値は100年狂っており694年伐採が正しい。
この法隆寺五重塔心柱の測定は 2001年だが、肝心の標準パターンの基礎データは公開されておらずブラックボックス化しており、作成者の光谷氏以外は誰も科学的妥当性を検証していない。これにつき、多くの識者(肩書きは発言当時)が以下のように指摘した。
『日本の年輪年代法は、信頼性の検証は難しく、結論を急ぐ必要はない』(東大名誉教授の太田博
太郎氏)、『光谷氏が独自に開発したこの手法の基礎データは公開されておらず、チェックする同
業者が一人もいない。自然科学の実験データや操作は互いにチェックし合う者がいないほど危うい
ものはない』(橿考研調査研究部長の寺沢薫氏)、 『古い木材を転用しようにも法隆寺以前の時
期に大和にそんな巨大な建物は無い。悩ましい問題が起きた』(京都教育大教授の和田萃氏)、『(法
隆寺の問題は)なぜそんな柱が使われたのか不思議としか言いようがない』(成城大名誉教授の上
原和氏)、『(法隆寺の問題は)とても理解できず説明する準備もない。説得力のある見解を聞い
たこともない』(東大准教授の藤井恵介氏)、『用意周到に「標準パターン」の全貌を知られない
ようにしているとさえ疑える』(数理考古学者の新井宏氏)、との批判は当然のことである。
肝心の旧標準パターンの基礎データはブラックボックスで誰も検証しておらず、「統計的に洗練され測定結果は信頼できる」との判断は、エビデンス(具体的証拠)が無い心証・印象に過ぎない。
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<移築と寺号受け継ぎ>
710年、藤原京から平城京への遷都に伴い相当数の寺社が移転した。しかし、平城京の元興寺は飛鳥寺
からの単なる寺号(称号)受け継ぎで、飛鳥寺は遷都後も「本元興寺」として永く飛鳥の地に残ったの
は多くの記録から明白。飛鳥寺を解体して、その木材を平城京へ運び元興寺を建設したとの光谷氏「年
輪年代測定値による移築説」は全くの誤り。すなわち「移転」とは「移築」と「寺号受け継ぎ」の異な
る意味がある。日光東照宮も久能山東照宮からの称号引き継ぎで「移築」ではない。
1197年の元興寺記録(弁暁『本元興寺塔下掘出御舎利縁起』によれば、飛鳥寺(本元興寺)の塔は前
年 1196年(建久 7年)に雷で全焼し基壇上部が失われ、翌 1197年に掘り出された仏舎利と金銀容器な
どの埋納物が再び埋め戻されたと記録され、ごく近年 1956~1957年の発掘調査でこれが確認された。
このように、多くの記録や発掘調査からは、飛鳥寺は平城京遷都後も「本元興寺」として永く飛鳥に残
ったのは明白。従って、飛鳥寺を解体して部材を平城京へ運び奈良「元興寺」で再利用との光谷氏「ブ
ラックボックスの年輪年代」は誰も検証しておらず、非科学的で全く成立しない。
もう一つ「瓦」の事だが、瓦は「型」での大量生産品で「型」は 100年間も使用され同じ「型」で製
作された瓦の製作年代が 100年違うこともある。また、大阪府南部の須恵器生産の陶邑の窯も 100年使
用されたこともある。従って、元興寺屋根瓦が飛鳥寺の瓦と同じような行基葺様式で平城京時代に製作
されても不思議ではない(同じ型を使ったか行基葺様式の新型で製作)。遷都に伴い藤原京から平城京
へ移転した薬師寺も同様。今般薬師寺東塔の解体修理に伴い、東塔(三重塔)心柱の最外年輪が 719年、
また1階天井板2点は樹皮も残り 729年と 730年伐採と発表された(2016年 12月)。これは扶桑略記
(平安時代 1094年作)で三重塔の建立が天平二年(730年)とする記録と全く一致する。すなわち薬
師寺も「寺号受け継ぎ」で「移築」ではなく、藤原京の薬師寺は「本薬師寺」として平安時代まで存在
し(後に廃寺となり現在は礎石だけ残る)、薬師寺の「移築」「新築」100年論争はついに決着した(記
録 VS様式論争は記録の勝利)。
元興寺禅室の部材(巻斗・頭貫)*元興寺禅室は、僧房の一部を鎌倉時代1244年に改築したもの。巻斗(樹皮型。建物の
横材を支えるヒノキ部材。38cm四方、高さ27cm)と頭貫(樹皮型に近い辺材
型。屋根裏の横柱)が582年、 586年頃の伐採と測定された。
①596年完成(元興寺縁起、日本書紀)の飛鳥寺は平城京遷
都に伴い718年に飛鳥から平城京へ移転(続日本紀)。
②中核の金堂・塔は「本元興寺」として飛鳥に残り、
僧房も残った⇒平城京の元興寺は新築。
*本尊の飛鳥大仏は21世紀の今も飛鳥寺に鎮座する(日本最古の丈六銅仏)。
*塔は1196年(建久七)に落雷で焼失するまで飛鳥に存在(元興寺記録)。
* 1956~1957年の調査で、舎利容器、「本元興寺」「建久七年」と書かれた木箱、
蘇我馬子が創建時に埋納した玉類・金環等の宝物等が塔跡から発掘された。
③本元興寺と元興寺は併存。禅室部材が飛鳥から運ばれ平城京の元興寺で再利
用されたとの移築説は誤り ⇒年輪年代が100年狂っている。
④光谷氏は、「現在の元興寺本堂(極楽堂)の屋根の一部には、飛鳥時代の瓦が葺
かれており、奈良に運ばれ使われた」とする。しかし、屋根瓦は平城京で元興寺新
築の際、飛鳥寺と同じ行基葺様式(百済系)の瓦を新たに製造しただけのこと。
(元興寺記録)。
7
紫香楽宮跡出土の柱根9本紫香楽宮は、聖武天皇が742年に造営を開始し、745年に短期間都とした(続日本紀)。
①第1群5本 (No.1~5柱。樹皮型、辺材型)は続日本紀と一致
②第2群4本 (No.6~9柱。心材型)は続日本紀と約200年違う
紫香楽宮跡の試料 年輪年代 文献の建築年代 整合性
No.1柱 樹皮型 第1群 AD743 AD742~745 ○
No.2柱 樹皮型 同上 743 AD742~745 ○
No.3柱 樹皮型 同上 743 AD742~745 ○
No.4柱 樹皮型 同上 742 AD742~745 ○
No.5柱 辺材型 同上 741+α AD742~745 ○
No.6柱 心材型 第2群 530+α AD742~745 ×
No.7柱 心材型 同上 533+α AD742~745 ×
No.8柱 心材型 同上 561+α AD742~745 ×
No.9柱 心材型 同上 562+α AD742~745 ×
紫香楽宮跡の第2群4本(文献と200年違う)
ヒノキの場合、1年(1層)は1mm。200年は、200層×1mm=20cmに相当し、直径80cmの原木の全周を外から20cm削り直径40cmの柱に仕上げたことになる⇒断面積の75%を削り取った宮殿の柱となるが有り得ない。削り分は最大100年まで(下図)
結論:測定値が640年以前を示す第2群4本は、100年狂っているか100年前の古材使用の二者択一
辺材部は約 35~70層
8
法起寺三重塔ヒノキ心柱(直径70cm、心材型)
*法起寺は聖徳太子の岡本宮を後に寺にしたもの*三重塔の建立は706年頃(聖徳太子伝私記や法隆寺記録「別当記」が記録する露盤銘)
①年輪年代は572+α年(心材型)で文献と134年違う。ヒノキの場合、年輪1層は約1mmで、134層(年)は13.4cmに相当する。そうすると、原木の直径は70cm+26.8cm(13.4×2)=96.8cm、すなわち約97cmとなる。これを比較すると、直径70cm心柱は直径97cm原木の断面積のちょうど50%を削り取って柱に仕上げたことになる。しかし、これはまず考えられない。
②法隆寺五重塔心柱は樹皮型。これを踏まえ、法起寺三重塔心柱が134層も削られたのは光谷拓実氏も疑問とする。
③現状は古材使用と説明しているが、100年修正して新材のヒノキとするのが正しい。
東大寺正倉院
正倉院建築はAD760頃(東大寺記録)
①「×」表示7点の年輪年代と建築年(AD760)の平均乖離は173年。一方、この7点の残存年輪は平均177層(175、99、204、153、226、207、179層)。ということは、板面積の約50%【173層÷350層(173+177)=49.4%】を切断処理したことになるが有り得ない。
②測定値が640年以前を示す7点全てが100年前の古材使用となるが考えられない。
正倉院の試料 年輪年代 建築年代 整合性
No.1 心材型 AD600+α AD760頃 ×
No.2 心材型 594+α AD760頃 ×
No.3 心材型 639+α AD760頃 ×
No.4 辺材型 714+α AD760頃 ○
No.5 辺材型 741+α AD760頃 ○
No.6 辺材型 716+α AD760頃 ○
No.7 心材型 679+α AD760頃 ○
No.8 心材型 576+α AD760頃 ×
No.9 心材型 569+α AD760頃 ×
No.10 心材型 576+α AD760頃 ×
No.11 心材型 556+α AD760頃 ×
No.12 心材型 719+α AD760頃 ○
No.13 心材型 718+α AD760頃 ○
No.14 心材型 677+α AD760頃 ○
No.15 心材型 709+α AD760頃 ○
9
飛鳥奈良時代:年輪年代と文献の整合性 測定値が AD640 年以前の 15事例(表の赤字)は記録と 100~200年違う。
測定値が正しければ、この 15事例を全て古材使用にしないと説明不可能。 そして、これら 15事例以外に記録と比較可能な事例は存在しない。
建造物の試料
分類 測定実施年 ①年輪年代測定値:
AD640年以前の測定値に付
けられた「+α」は、年輪
年代の「狂い 100年分」と
外からの「削り分」の合計
文献の
建築年代
整合性 ②100年修正
後の測定値:
「+α」は外か
らの削り分
100年
修正後
整合性
法隆寺五重塔 心柱 樹皮型 2001年 AD594 AD673~711 × AD694 ○
同金堂 天井板 樹皮型 2002~2004 667、668 673~711 ○
同五重塔 部材 辺材型 2002~2004 673+α 673~711 ○
同中門 部材 辺材型 2002~2004 685+α 673~711 ○
法起寺三重塔 心柱 心材型 1990以前 572+α 706~709 × 672+α ○
元興寺禅室 巻斗 樹皮型 2000 582 710~718 × 682 ○
同 頭貫 ほぼ樹皮型 2010 586+α 710~718 × 686+α ○
紫香楽宮跡 No.1柱 樹皮型 1985 743 742~745 ○
同 No.2柱 樹皮型 1985 743 742~745 ○
同 No.3柱 樹皮型 1985 743 742~745 ○
同 No.4柱 樹皮型 1985 742 742~745 ○
同 No.5柱 ほぼ樹皮型 1985 741+α 742~745 ○
同 No.6柱 心材型 1985 530+α 742~745 × 630+α ○
同 No.7柱 心材型 1985 533+α 742~745 × 633+α ○
同 No.8柱 心材型 1985 561+α 742~745 × 661+α ○
同 No.9柱 心材型 1985 562+α 742~745 × 662+α ○
東大寺正倉院 No.1板 心材型 2002 600+α 760頃 × 700+α ○
同 No.2板 心材型 2002 594+α 760頃 × 694+α ○
同 No.3板 心材型 2002 639+α 760頃 × 739+α ○
同 No.4板 辺材型 2002 714+α 760頃 ○
同 No.5板 辺材型 2002 741+α 760頃 ○
同 No.6板 辺材型 2002 716+α 760頃 ○
同 No.7板 心材型 2005 679+α 760頃 ○
同 No.8板 心材型 2005 576+α 760頃 × 676+α ○
同 No.9板 心材型 2005 569+α 760頃 × 669+α ○
同 No.10板 心材型 2005 576+α 760頃 × 676+α ○
同 No.11板 心材型 2005 556+α 760頃 × 656+α ○
同 No.12板 心材型 2005 719+α 760頃 ○
同 No.13板 心材型 2005 718+α 760頃 ○
同 No.14板 心材型 2005 677+α 760頃 ○
同 No.15板 心材型 2005 709+α 760頃 ○
1:心材型柱(丸太)の「+α」は、削り分だけなら最大約 100 年まで(辺材部「35~70層」+α=約 100層)。例として、紫香楽宮跡 No.6~9柱(直径 40 ㎝程度)は文献(続日本紀)と約 200 年違う。樹齢 200~400年のヒノキの場合、1 層(1年)は平均 1mmで 200層×1mm=20cmに相当し、直径約 80cmの原木の周囲両サイド 20cmを削り直径約 40cmの柱(丸太)に仕上げたことになる。これは断面積の 75%を削った柱となるが有り得ない。従って測定値に削り分最大約 100年を加算しても文献となお相当乖離すれば、古材使用または測定値の誤りで「×」表示。
2:測定値が AD640 年以前を示す 15事例中で、記録と 200年ぐらい乖離するのは 12事例で全て心材型。 これらは全て「年輪年代の狂い 100 年+外から削り 100 年分=約 200年」で、記録との乖離を説明できる。 残り 3事例(樹皮型)は単純に測定値の誤り(年輪年代の狂い 100年)。紫香楽宮の事例のように丸太を外から 200層(年輪200 年分)も削り柱に仕上げることはあり得ない。逆に年輪年代が正しければ、200年乖離を削り分で説明できるのは約 100層(100年)まで。残り 100年分は古材利用となる。その場合、この 12事例を含む 15事例が全て古材利用にしないと説明不可能。しかし、いくら古代でも全てが古材利用はあり得ない。これは、後で述べる弥生古墳時代の事例も全く同様。
10
Ⅲ:弥生古墳時代の炭素14年代と年輪年代
炭素14年代と年輪年代は密接に連動している。試料(土器や木材)の炭素14年代 (理論値=BP)を測定し、年代が既知の木材年輪の炭素 14 年代と比較し実年代(暦年代)へ換算(補正)する。この換算で必要なのが較正曲線である。
較正曲線には国際較正曲線(INTCAL)と日本産樹木較正曲線(JCAL)がある。国際較正曲線は北米やヨーロッパ(ドイツ、アイルランド等)の木材の炭素14年代値を時系列で並べたものだが、日本での適用は地域性から問題有りと判明している。このため、最近は日本産樹木の炭素14年代の較正(補正)曲線が重視されている。
以下の図は、国立歴史民俗博物館が奈良県と大阪府遺跡から出土した土器の炭素14年代を測定し時系列に並べ、国際較正曲線(INTCAL)と日本産樹木較正曲線(JCAL)の線上(幅
がある)に落とし込んだものである(2011年『歴博研究発表報告』第 163 集)。
また、図中の横赤線(1800BP)は、歴博が箸墓周辺の布留0式土器付着炭化物の炭素14年代を測定したものである。これによれば、1800BP の赤横線は「古い AD240~260年」および「新しい3世紀末~4世紀前半」の2箇所で日本産樹木較正曲線と交差する。この場
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合、暦年代(実年代)の候補は2カ所になるが、歴博は古い年代を採用し「箸墓は AD240~260年築造」と発表した(2009年)。
歴博が古い年代「AD240~260年」を採用したのは、箸墓にやや先行する石塚古墳周濠のヒノキ板(年輪年代 AD177 年+α=AD190~200石塚古墳築造)および勝山古墳周濠のヒノキ板(年輪年代 AD199年+α=AD200~210勝山古墳築造)を導き出した年輪年代法との整合性を図ったからであろう。
弥生中後期・古墳時代(ヒノキ及びスギ)貨泉や土器と比較し、検証可能な6事例も100年違う。全て旧標準パターンで測定。貨泉(中国でAD14~AD40年の短期間に鋳造された銅銭で年代論の定点)問題からは、日本での貨泉出土状況から見て、池上曽根遺跡ヒノキ柱根のBC52年伐採は成立しない(寺沢薫氏などの指摘)。
表2 弥生中後期・古墳時代試料(ヒノキ及びスギ)の年輪年代と従来の遺跡年代との整合性遺跡の試料 分類 年輪年代
測定時期
年輪年代
測定値
従来の
遺跡年代
整合
性
100年
修正後
整合
性
兵庫県 柱武庫庄遺跡
辺材型 1997年 BC245+α BC1世紀 × BC145+α
○
岡山県 板南方遺跡
辺材型 1996頃 BC243+α BC1世紀 × BC143+α
○
滋賀県 板二ノ畦横枕遺跡
樹皮型 1995 BC97、BC97BC60
AD50頃 × AD3、AD40
○
大阪府 柱池上曽根遺跡
樹皮型 1996 BC52 AD50頃 × AD48 ○
纒向 板石塚古墳周濠
辺材型 1989 AD177+α AD280~310
× AD277+α
○
纒向 板勝山古墳周濠
辺材型 2001 AD199+α AD290~320
× AD299+α
○
上表で、弥生中後期と古墳時代において、年輪年代測定値は従来通説の遺跡年代より 100
年古く出ている。
注①石塚古墳周濠のヒノキは、炭素 14年代が AD320年(1994年、古城泰氏測定)。
②池上曽根遺跡ヒノキ柱根の最外輪から内側 100層分は、なぜか C14年代が測定されて
いない。柱根の近くに落ちていた木の小枝の C14年代は炭素年代 2020BPを示し、JCAL
で実年代換算は BC50~AD100と幅が広く年輪年代の BC52年と整合性がない(歴博は
整合すると言うが誤り)。そもそも、小枝の炭素年代は柱根最外輪の年輪年代 BC52年
と本来関係ない。なぜ、肝心の柱根最外輪 100層分の C14年代を測定しなかったのか?
邪馬台国九州派の中には、年輪年代法の測定結果は正しいと言いながら弥生古墳時代の 100
年遡上を認めず、全事例を風倒木・古材利用で説明しようとする研究者が存在する。しか
し、飛鳥奈良時代また弥生古墳時代が全て風倒木・古材利用というのはあり得ず説得力が
全く無い。要するに、年輪年代測定値を導き出した標準パターンが 100年狂っていると判
断するのが正しい。
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Ⅳ:纏向遺跡の桃核 2769個の炭素14年代
2018年 5月、纏向学研究センター紀要『纏向学研究』第6号で、2010年に纏向遺跡で発
掘された桃種(核)2769個の炭素 14 年代が発表された。炭素14年代測定は名古屋大学
で12個、山形大学で2個が実施された。
<以下は読売新聞より(2018 年 5 月 15 日)>
名古屋大学測定の 12個は炭素年代 1806~1865BPで平均 1824BP、これを国際較正曲線で実
年代(暦年代)に換算すると AD135~AD230年を示した。また山形大学測定の2個は 1803BP
と 1837BPを示した(山形大学の測定は徳島県教育委員会の近藤玲氏が依頼)。
同一地点からの桃種が複数機関で同時に測定され非常に価値がある。ただ、実年代で約 100
年幅もあり、邪馬台国との関係は大型建物と土坑の年代前後関係等も検証する必要がある。
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較正曲線の問題は依然残る。名古屋大学は国際較正曲線 INTCAL13のみで判定し、山形
大学は日本産樹木較正曲線 JCALも同時に図示する。桃種 1803BP、1806BP は、JCAL では
3 世紀末~4世紀前半の可能性も相当ある。ただし、山形大学は較正曲線として INTCAL13
および JCALを併記するが、実年代への換算では結局、名古屋大学と同 INTCAL13 を採用し
ているため、結論は名古屋大学とほぼ同じ。
もともと、国際較正曲線は地域差から日本での適用は問題とされ、日本産樹木較正曲線の
作成が進められてきた。しかし、実年代への換算は、最近は日本産樹木較正曲線 JCAL が
重視されつつある。JCALを採用すれば、「3世紀前半」と「3世紀末~4世紀前半」の二
つの候補の確率はそれほど差があるようには見えない。なぜこれを無視したのか、今後の
検証課題となるであろう。おそらく、桃核の年代が「3世紀末~4世紀前半」となると、
年輪年代法との整合性を重視して構築してきた土器年代体系が崩れ、ひいては「纏向遺跡
=邪馬台国の王都」説に大きなダメージを与える恐れがあるからであろう。
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Ⅴ:酸素同位体比を利用する新年輪年代法
従来の年輪年代法は樹木の年輪幅(樹齢 300~400年のヒノキでは平均幅1㎜)を計測し、
その幅の変化を時系列に並べた暦年標準曲線(パターン)をまず作成する。そして、年代
未知の木材の年輪幅を計測し標準パターンと照合して年代を特定する。
一方、酸素同位体比を利用する新年輪年代法は、年輪毎のセルロースに含まれる酸素の安
定同位体(酸素 16、酸素 17、酸素 18)の比率を測定する手法です。雨が多い年は重い酸
素 18 が多く、雨が少なく乾燥した年は軽い酸素 16が多くなる。これを過去に遡り時系列
の標準パターンを作成する。そして、年次不明の木材の年輪毎の酸素同位体比を測定して
標準パターンと照合して暦年代を確定する。これは画期的手法で樹種を問わない。
以下、この手法を開発した総合地球環境学研究所(地球研)の中塚武教授の説明です。
『私たちは、樹木の年輪に含まれるセルロースの酸素同位体比という指標が、日本各地で
夏の降水量の変動を正確に記録していることを発見し、2011年以来、科研費を用いて全国
で現生木・建築古材・遺跡出土材・自然埋没木などを系統的に収集し、酸素同位体比の測
定を行ってきました。これまでに、複数の地域にまたがって 4000年以上前(縄文時代中
期)まで年単位でつながった酸素同位体比の変動パターンが得られています。特に中部・
近畿および屋久島の過去約 2000年間のデータからは、さまざまな文献史学の知見との対
応関係が明らかになりつつあります。近世や中世では、酸素同位体比と古日記の天候記録、
洪水や干ばつに関する古文書の件数などの間に高い相関性が認められますし、領主から
村々への年貢の請求高にも、洪水や干ばつが大きく影響していたことも分かってきました。
さらに、古代以来の数多くの戦乱や紛争の背景に、水害の頻発があった可能性なども示唆
されています。
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年輪セルロース酸素同位体比が示す降水量の変動と、古文書などに記されている歴史事
象の間に、どのような具体的因果関係があったのか、今後の文献史学の研究が待たれます
が、年輪酸素同位体比は、先史時代の考古学の研究にも新たな可能性をもたらしつつあり
ます。それは、遺跡から出土する柱や杭、板などの無数の木材に含まれる年輪酸素同位体
比の変動パターンを図1のデータと比較することで、その年代を年単位で決定する酸素同
位体比年輪年代法の取り組みです。この手法の導入により、気候変動が人間社会にどのよ
うな影響を与えてきたのかについて、文字通り全ての時代を対象にして、詳細な研究が始
まろうとしています。』
<関連する文部科学省科研費>
2011-2013年度 「酸素同位体比を用いた新しい木材年輪年代法の開発とその考古学的応用」
2014-2016年度 「酸素同位体比を用いた新しい木材年輪年代法の高度化に関する研究」
2017-2021年度 「年輪酸素同位体比を用いた日本列島における先史暦年代体系の再構築と気
候変動影響評価」
中塚武教授の酸素同位体比年輪年代法は、その標準パターン作成を当初段階では光谷拓実
氏の木曽系ヒノキの「新標準パターン」の 2200年分(BC2世紀~AD2000)の提供を受け光
谷氏の年輪年代と連動させた(中塚教授談)。従って、「酸素同位体比年輪年代法」と「木
曽系ヒノキの新標準パターン」の測定値は共に正しい。その後、「酸素同位体比年輪年代
法」は完全に独立したがーー現生木の酸素同位体比を測定し、過去に遡って独自の標準パ
ターンを完成させた(中塚教授談)――その測定値は同様に正しい。
測定事例①前期難波宮(完成 AD652:日本書紀)の塀を支える直径 30 ㎝の柱
2014年2月測定値発表:コウヤマキ柱2本――AD583(心材型)、AD612(辺材型か)
ただし、この新年輪年代法での弥生中後期・古墳時代・飛鳥奈良時代の測定事例は極めて
少なく(現状では上記の前期難波宮のみ)、今後の展開が期待される。そして、今後、測
定事例が増加して行けば、年輪幅の「旧標準パターン」がもたらした弥生古墳時代の「誤
った100年遡上論」は見直しを迫られることになるであろう。
<今後の古代史解明に向けての方策=鷲﨑よりの提案>
1) 光谷氏の年輪年代法の①新旧標準パターンの開示、②および基礎データの開示。
このため、奈良文化財研究所に対し、法律に基づき①②の情報開示請求を行う。
2) 光谷氏が旧標準パターンで測定した事例の中で、①法隆寺五重塔心柱(AD594年)、
②池上曽根遺跡の柱(BC52)、③紫香楽宮跡出土ヒノキ柱で建築記録と約 200 年違う
4本の柱、等を再測定――A)酸素同位体比を用いた中塚教授の「新年輪年代法」で
の再測定および、B)光谷氏の「木曽系ヒノキの新標準パターン」での再測定。
3)「酸素同位体比を用いた新年輪年代法(中塚武教授)」および「木曽系ヒノキの新標
準パターン(光谷拓実氏)」での測定事例が極端に少ない、現状ではほとんど無い
に等しい。文化財保護法が改正され「従来の保護重視」からこの4月以降は「保護
と活用の両立」へと転換するので、木材などの試料を保管管理する博物館・研究所
等は今後、測定用サンプルとして積極的に提供していただくよう要請したい。
以上