九州大学学術情報リポジトリKyushu University Institutional Repository
Virtus and Knowledge : A Study of Plato'sProtagoras
東谷, 孝一
https://doi.org/10.15017/1430729
出版情報:哲学論文集. 30, pp.23-40, 1994-09-30. The Kyushu-daigaku Tetsugakukaiバージョン:権利関係:
一
「プ
ロタゴ
ラ
ス」篇
にみ
られ
る快楽
説
i
善
とは快
であ
り悪
と
は苦
であ
り、
それら快
苦
の測
定術
と
いう
一つの知識
によ
っ
て人
間
のよき
生
は保
た
れ
るとす
る説
1
は、
ど
のよう
に理
解
され
る
べき
か。そ
れは、
ソクラ
テ
ス・プ
ラト
ン
の真
正
の教
説
な
のであ
ろう
か。あ
る
いは、
そ
れは何
ら
か
の他
の目
的
のた
め
に、
例
えば
「徳
は知
であ
る」
ことを
示
すた
め
に言
わば
仮
の戦
略
と
し
て用
いら
れて
いる
にすぎず
、
ソ
クラ
テ
ス
・プ
ラト
ンは真
にこ
の快
楽説
を提
唱し
て
いる
わけ
では
な
いとす
べき
であ
ろう
か。
「プ
ロタゴ
ラ
ス」篇
ωおO以
下
に展開
さ
れる論
(そ
れは
「勇気
と知
を
めぐる論
」と
呼
べよう
)は、
そ
こ
に含
ま
れて
いる快
楽
説
をど
のよう
に理解
す
べき
かと
いう
問題
と
も相
ま
って、諸解
釈
者
の間
に多
く
の論
議を
呼び
起
こし
て
いる。
われ
われ
は今
一度
この論
の構造
を調
査
し、
こ
の論
から何を
学
ぶ
べき
かを探究
し
て
みた
い。
徳
と
知
の
関
わ
り
プ
ラ
ト
ン
「プ
ロタゴ
ラ
ス」篇
試論
東
谷
孝
一
二
まず、
「勇気
と知
をめ
ぐる論
」に関
す
る考察
を始
め
る前
に、
こ
の論
が全
体
とし
てど
のよう
な文
脈
のも
と
に置
かれ
て
いる
の
か
を確
認
して
おかねば
な
らな
い。
「プ
ロタゴ
ラ
ス」篇を
そ
の全
体
に渡
り或
る仕方
で支
配
し
て
いる問
題
は
「徳
は教
え
られ
る
か」と
いう
も
のであ
ると言
え
よう。
ミ
ュー
ト
スと
ロゴ
スを駆
使
したプ
ロタゴ
ラ
スの大演
説
(
)
の眼
目
は、徳
が
教
えら
れう
るも
のと
は思
って
いな
か
った
と語
るソ
クラテ
ス
に対
しそ
の教授
可能
性を
示
す
こと
にあ
った
のであ
り、
「勇気
と知
をめ
ぐる論
」はそ
のプ
ロタ
ゴラ
ス
に対
す
る
ソク
ラテ
スの吟味
の
一部を成
し
て
いる。
で
は、よ
り具体
的
には
「徳
の教授
可能性
」
に関
し
ては、
ど
のよう
な論
が展開
さ
れ
て
いた
の
であろ
う
か。
まず
、
ソ
クラ
テス
が、徳
の教授
可能
性を
疑う
のは、次
の二
つの理由
によ
る。
ユ
A
アテナ
イ人
(ソク
ラテ
スが良識
あ
る者
と認
めて
いる
アテ
ナイ
人
)
は、国事
に関
し
て
は
誰
もが意
見
を述
べること
を許
し、
教師
に
つ
いた
ことが
な
いと
いう
理由
でそ
のこと
を非難
す
る
ことは
な
い。
(
)
B
最
も知恵
があ
り、
すぐ
れた人
々
(
)
も、
そ
の徳
を他
の人
々
に授
けえ
な
い。
(
)
これ
に対し、
プ
ロタゴ
ラ
スは次
のよ
う
に応
じ
る。
P
「つ
つし
み」
と
「いまし
め」
(
)
は国家
が成立
す
るた
め
にとゼ
ウ
スから
人間
へと与
え
られ
たも
ので
あ
り、
そ
のような仕
方
で徳
は万人
に分
けも
たれ
て
いる。
(
Q
不正
をなし
た者
に対する懲
罰は、徳
が生
まれ
つき
でも
ひとり
でに備
わる
のでも
なく心が
け
(
)と学習
(
)
によ
って獲得
できる
と人
々が考
えて
いる
ことを
示
し
て
いる。
(
)
R
国家
が成立
す
るため
に、全
ての国民
は、
正義
(
)
と節制
(
)と敬虔
(
)
と
いう人間
と
し
ての
徳
(
)をもた
ねば
なら
な
いが
、
こ
の徳
に関
し
ては、
個
人的
にも
公共的
にも多
く
の配
慮
がな
され
て
いる。幼
少
の
子供
に対
し
ては、
両親、
乳
母等、
長
じ
ては、読
み書
き
や音楽
の教
師
、
さら
には国
法。
(
)
S
だ
が、
こ
のこ
とは、
すぐ
れた
人
々を父
とし
ても
つ子
供
たちが
すぐ
れた
者
にな
るこ
とを必ず
し
も意味
し
な
い。そ
れ
は、
す
ぐれ
た笛吹
き
の子
であれ
ども、
素
質
に恵
まれね
ば結
局
は下手
な笛
吹
き
にな
る
のと同様
のこ
とであ
る。
(
以上
を見
るとき
、
ソク
ラテ
ス
によ
って提示
さ
れた疑
問点
が見
事
に解決
さ
れ
(A
に対
し
てはPQ
、
B
に対
し
ては
RS
)、徳
の
教授
可能
性
が強
い説得
力を
伴
って示
さ
れて
いる
と言え
よう
。実
際、
こ
の大演
説
は
「もし徳
が教
え
るこ
と
のでき
な
いも
のだ
と
し
たら、
そ
のほう
が
よほど
不思
議だ
」
(
)
と
いう感
す
ら我
々
に与
え
る。
こ
の説
得力
は、
ミ
ュー
ト
ス
(P)と
アテ
ナイ
の人
々の徳
に関
する把
握、
関
わり
(Q
R)
が、演
説全
体
の中
で何
か不思
議
な仕方
で互
いに補強
し合
う
よう
に語
られ
て
いる点
にあ
ると思
われ
る。
さ
て、
こ
の
こと
に触
れ
る前
に次
の
ことを確
認
し
ておき
た
い。
ソ
クラ
テスが徳
の教
授可
能性
を疑
う
理由
とし
た
(A)
は、土
木建
築
や造船
な
ど
の個
別的
な事
柄
にお
いては、知
を持
つ者
と
持
たな
い者
が明確
に分
離
され
て
いるが、
国事
に関
し
ては
そう
では
な
いこと
を示
し
て
いる。
前者
の場
面
では、
知者
には透明
な
知
の自認
が
あり、
不知
者
には
不知
の自認
が
あ
る。
だ
が、後
者
の場面
では、知
と
不知
とが
いかなる仕
方
で分離
さ
れう
る
のかが
明
ら
かでな
く、従
って、
人
々は自
ら
のうち
で
「知
って
いる
と
いう
こ
と」と
「(知
らな
いの
に)知
って
いると思
う
こと」を区
別
する
ことが
でき
な
いまま
で、
それ
ぞれ
が自
分
の思
いを述
べる
と
いう事態
が生
じ
て
いると
いえ
よう。
だ
が、
こ
のよう
な事態
の
も
つ意味
を
プ
ロタゴ
ラ
スの論
は根本
的
に変
え
る役
割
を果
たし
て
いる。
プ
ロタゴ
ラ
スのミ
ュート
スに
お
いては、徳
は神
から人間
への賜物
と
いう仕
方
で万
人
に与
え
られ
て
いるも
のな
の
であ
り、
ま
た、与
えら
れ
て
いる
理由
が、徳
な
し
には国家
が成
立
せず
「人
間
と
いう
種族
は滅
び
てし
まう
(
)
」から
と
いうも
ので
ある
こと
によ
って、
「与
えら
れ
て
いる」と
いう
ことが裏
打
ちさ
れ
て
いる構
造
とな
って
いる。
だ
が、
こ
のミ
ュート
ス
の語
る所
は、
そ
のま
ま、
アテナ
イ
の人
々が抱
いて
いる徳
に
ついて
の把
握
(Q
R)と或
る仕方
で符
合す
る
とさ
れて
いる。
即
ち、「人
々は、
こ
の
徳
は万
人が
分け持
って
いる
べき
であ
り、さも
なけ
れば
国家
は成立
し
な
いと考
え
て
いる」(
)
から
であ
る。そ
して、人
々
は、
このよう
に考
え
て
いるが
故
に、徳
が子
供
に備
わ
るよ
う
にとあ
ら
ゆる手段
を
講じ
て教
え
て
いる
のであ
る。
こ
のよう
に、
ミ
ュー
ト
ス
(P)
と、
人
々
の徳
に関
す
る把
握
、関
わり
(Q
R)
は、
一方
で
はミ
ュー
ト
スが
人
々
の把
握
や教育
活
動が空
し
いも
のでは
な
いことを
理由
付
け、他
方
では人
々
の徳
の把
握
や教育
活
動
によ
って
ミ
ュート
ス
の信
懸性
が強
めら
れ
る
と
いう
仕方
で相互
に補
い合
いつ
つ、徳
の教
授可
能性
を我
々の前
に現前
さ
せる。
そ
し
て、
当然
のこと
なが
ら、
こ
の結
果
とし
て
贋そ
のす
べてが正義
と節
制を
通
し
て行
わ
れねば
なら
な
い、市
民
とし
て
の徳
に関
わ
る論議
)
に関
し
て、人
々
は
も
は
や、た
だそ
れぞれ
の思
いな
しを述
べる者
とし
てで
はなく
、程
度
の差
はあ
れど
も等
しく信
を
おく
に価
する
こと
を語
る者
と
して定位
さ
れる
こと
になり、各
々が徳
を持
ち、知あ
る者
であ
り、
讐それ
ぞれ
の能力
に応
じ
て
の徳
の教
師
であ
る
)
に
至
る。
即
ち、
ここで
は、人
々
は徳
に関
わ
る事柄
に関
し
て、
「知
って
いる者
」
な
のか、
「知ら
な
いの
に知
って
いると
思
って
いる
者
しな
のかを自
ら
に問
う必
要性
が、或
る意
味
では、
な
くな
って
いる
の
であ
る。
三
さ
て、
では以
上
のよう
な仕方
で徳
が教
えら
れう
るも
の
であ
るこ
とを示
そう
とす
るプ
ロタゴ
ラ
スの論
には次
のよ
うな事
柄
が
問
題
とな
る
のではな
いだ
ろう
か。
まず
、第
一に、
こ
の論
は
「名
」に対す
る過
信
の上
に成
り立
って
いると
思わ
れ
る。確
か
に、我
々
は
「徳」
「正
義」な
ど
の言
葉
を使
いつ
つ生活
し
て
いる。そし
てそ
の限
り、我
々は
それぞ
れ、それ
ら
の書
葉
に
ついて何
ら
か
の了解を
も
って
いると言
えよ
う。
し
かし、
そ
のこと
によ
って、す
べて
の人
が
それ
ら
の名
にお
いて同
じ
ことを
了解
しう
る
(して
いる)
と保
証
され
て
いるわ
けで
はな
い。
だが、
万人
を徳
の教師
と
して位
置付
け
るプ
ロタゴ
ラ
ス
にと
っては、
逆
に
この万人
の共
通
の了解
は
むし
ろ前提
さ
れて
し
ま
って
いる感
があ
る。
さら
に、プ
ロタゴ
ラ
スそ
の人
に
ついてみ
ても、
正義
、節
綱、敬虔
を
一括
し
て
「徳」
と
し
て語
っては
ヨ
いるも
のの、そ
の相互関
係
が如何
にある
かは明
確
に把
握
さ
れ
ては
いな
い
。否、むし
ろ、相
互関係
の把
握
の必
要性
そ
のも
のが、
プ
ロタゴ
ラ
スには意識
さ
れ
ては
いな
いのであ
る。
二番
目
は、
こ
の論
に
おける、
徳
の教師
と
し
てのプ
ロタゴ
ラ
ス
の位
置
に関
す
るも
のであ
る。
こ
こまで
の考察
か
ら明
らか
なよ
う
に、
この論
にお
いて、徳
の教
授可
能性
は、
万人
を徳
の教
師
とし
て定位
す
るこ
とを要
と
して示
さ
れて
いる。
だ
が、同
時
に、
プ
ロタゴ
ラ
スそ
の人
から学
ぶ必要性
も説
か
れねば
な
らな
い。
こ
のこと
は技術
知
の教育
が引
き合
いに出
され
る
こと
によ
って説
明さ
れ
る。
即
ち、技
術知
の場合
に教
師
の能力
差が
あ
る
のに比
し
て、
一般
人
は並
み
の徳
の教
師
とし
て、プ
ロタゴ
ラ
スは、
一般
人よ
りも優
れ
た教師
と
して位置
付
けら
れる。
(
)
つまり、
徳
を教
える
こと
に関
し
て、プ
ロタゴ
ラ
スは
一方
では
一般
人
と
の差
を消
し
つ
つ、
同時
に差
を設
け
て
いなけ
れば
なら
な
い。だ
が、仮
にそれが
「わず
か
であ
っても
」(
)必ず
な
ければ
な
らな
いこの後者
の差
が
一体何
であ
るの
か、ま
たそ
れが
如
何
な
ること
に依
るも
のであ
る
のかを
、我
々は
こ
の論
から
読
み取
るこ
とは
できな
い
。し
かしな
がら
、こ
の差
の何
であ
るかを
ら
示し
えな
ければ
プ
ロタゴ
ラ
スは自分
の立場
を失
う
こと
にな
る。ソク
ラテ
スは
こ
の点
を見
逃
し
ては
いな
い
。実
際、後
に見
る「勇
気と
知を
めぐ
る論
」に
お
いて、
とり
わけ、
以下
にお
いて、ソ
クラ
テ
スは
一般
の人
々
とプ
ロタ
ゴラ
スと
の間
の差を
、或
る
決定
的な仕
方
で設
ける方向
に論
を進
めて
いる
よう
に思
われ
る。
三番目
は、
「勇気
」
(
)
と
「知
恵」
(
)
に
ついて
であ
る。
プ
ロタ
ゴラ
スは
のち
に
(
)
こ
の二
つも
「徳
」
とし
て認
め
る。演
説
にお
いて
「人間
と
し
て持
つべき徳
」
とは
「国家
が成
立
する
ため
に万人
が持
つ
べき
も
の」
と
して規
定
され
て
いた。
だ
がそ
こ
で
「徳
」と
し
てあげ
られ
て
いた
のは
「正義
」
「節
制
」「敬虔」
であ
って、
「勇気
」と
「知恵
」は演
説
の
中
のど
こでも触
れ
られ
て
いな
い。
この
ことは
「徳」
を
(プ
ロタ
ゴラ
ス流
の仕方
で)
「国家
成
立
のた
めに万
人が
も
つべきも
の」
と
する規
定が
十分
に機能
し
え
て
いな
いことを
示し
て
いるよ
う
に思わ
れる。
演説
のうち
で語
られ
て
いな
か
った
こ
の二
つの徳
の
う
ち、
より留
意
す
べき
は
「知恵
」であ
ろう
。プ
ロタゴ
ラ
スにと
って
「知恵
は徳
の部
分
のう
ち最重
要
のも
の」(
)だ
から
であ
る。
プ
ロタゴ
ラ
スの
「知
恵
」と
は何
であ
り、
ど
のよう
な意味
で最
重要
の
「徳
」と
し
て数
え
て
いる
のかが問
わ
れよ
う。
以
上
の三
つの事柄
は、
互
い
に関
連
し
つ
つ
門勇
気
と知を
めぐ
る論
」
の展開
に影
響を
及
ぼし
て
いると思
わ
れる。
四
では、
「勇気
と知
を
めぐ
る論」
の考察
に移
ろう。ωおO以下
の論
は概
ね次
のよう
な仕方
で展開
し
て
いる。
1
勇気
と術
知
。
H
よき生
と悪
しき生
m
知
の支配
に
ついて
W
「快
に負
け
る」
とは何
か
(快楽
説
)
V
勇気
と知
(慧ー
W
の考
察
の結果
に基
づ
き、
勇気
とは何
か問
う
)
。。
W
結
語
。
並
はず
れ
て不正、放埒
、
不敬虔
、無
知
であ
りな
がら、
勇気
だ
けは秀
でて
いる者
は
おおく
いると
いう事実
(?)
を証拠
とし
て、正義
、節制
、敬虔
、
知恵
の四
つは近
し
いも
のであ
るが
、勇気
はそ
れら
と非
常
に異
な
って
いる
と主張
す
るプ
ロタゴ
ラ
ス
に
対
し
(
)、
王
にお
いて
ソク
ラテ
スは次
の様
な仕
方
で吟味
す
る。
まず、
(イ
)勇気
あ
る人
とは
も
のを怖
がら
な
い人
であ
り、
多
く
の人が
恐
れて向
かわ
な
いこ
と
に向
か
って
いく人
であ
る
こと、
(ロ)徳
とは美
し
いも
のであ
る
こと、
がプ
ロタ
ゴラ
ス
によ
って承認
さ
れ
る。(
)つぎ
に、
(ハ)専
門知
が成
り立
って
い
る個別的
な領
域
に
お
いては、知
識あ
る人
は知
識
のな
い人
より怖
が
らな
いこと、
(二)そ
のよう
な知識
が
な
いにも関
わ
らず怖
が
らな
い人は
正気を
失
った人
であ
り
(ロ)
と抵
触
する
ゆえ
に勇気
あ
る人
ではな
いこと、
が同
意
され、
以上
の四
つの事項
か
ら知
恵
こそが勇気
ではな
いかとソ
クラ
テ
スは結論
す
る。
(
)
だが
、プ
ロタ
ゴラ
スは
こ
の結
論
に同意
しな
い。そ
して、そ
の論
拠
と
して、
(ホ)勇気
あ
る人
はも
のを怖
が
らな
い人
であ
るが、
も
のを怖
が
らな
い人
がみな
勇気
あ
る人
であ
るわけ
で
はな
いこ
と、さ
ら
に
(ホ)を基礎
付
ける
こと
とし
て
(へ)
「怖
がら
な
いこ
と
(
)」は技
術
さら
に
は狂
気
や激情
によ
っても生
ず
るが、
「勇気
」は魂
の素
質
とよき養
育
によ
って生
ず
る
のであ
り、
両
者
は同
一ではな
いこと、を
主張
す
る。
(
)
さ
て、
このよ
う
に勇
気を
個
々
の技
術知
と同
一視
しな
い点
に関
し
ては、
プ
ロタゴ
ラ
ス
の主
張
は我
々
にも尤も
な
も
のと思
われ
よう。
と
いう
のも、技
術知
を
もたな
い人
によ
ってな
された
あ
る振
る舞
いを狂
気
や激情
に因
る
も
のでは
なく、
勇気
あ
る振
る舞
いと
し
て我
々が認
め
る場合
が
ある
から
であ
る
。
また、
こ
のよう
な主張
は、徳
育
とし
て
の人
間教
育
と専門
知教
育
とを峻
別
する
彼
の思
考
の素地
にも
よく合
致
す
る
。だが
、問題
は、勇
気
は個
々
の技
術知
ではな
いと言
わ
れ
て
いる
そ
のとき
にプ
ロタ
ゴラ
ス
に
よ
って
(ま
た我
々
によ
っても
)
一体
ど
のよ
うな
こと
が考
えら
れ
て
いる
の
かな
のであ
る。
そし
て、
こ
の問題
は
(へ)
におけ
る
ぱ
「魂
のよき養
育」とは
一体何
かと
いう問題
に直
結
す
る
。
なぜ
なら
、
この養育
が
勇気
あ
る行
為
をそ
れと
し
て成
立
さ
せ、
従
って
単
に
「怖が
らな
いこと」
と
「勇気」
と
が弁
別さ
れる基
準
とし
て働
いて
いるから
であ
る。
さら
に
ここ
で注意
され
る
べき
ことが
ある。
そ
れは、
こ
の養
育
に
お
いてプ
ロタゴ
ラ
ス
の果
たす役
割
と
は何
かと
いう
こと
であ
る。す
な
わち、
も
し彼
の行う養
育
が、
演
説
の中
でア
テナイ
の人
々が行
って
いるも
のとさ
れて
いる徳
の教
育
と同様
のも
のでし
かな
いなら
、そ
れ
は必ず
しも成
功
す
る
も
のでは
な
いし、プ
ロタゴ
ラ
スが、
勇気
を
教
える
こと
に関
して他
の人
々
にど
のよう
な点
です
ぐ
れて
いる
のかも
明
らか
ではな
い。
プ
ロタゴ
ラ
スの行う養
育
は
こ
の問
題を
解決
す
るも
の
でなけ
れば
なら
な
いのであ
る。
対話
はこ
こで
一度
、
「勇気
」と
いう主
題を
離
れ、
ソク
ラ
テス
の吟
味
は新
たな方
向
に向
かう。
だ
が、
11以下
にお
いて展開
さ
れ
る論
は、プ
ロタゴ
ラ
スの行う
養育
が結
局
のと
こ
ろど
のよう
なも
の
であ
る
こと
にな
る
のか、あ
る
いは寧
ろ、
ど
のよう
な
も
ので
あ
らざ
るを得
な
いの
かを
ソクラ
テ
スが
明
ら
かにし
て
いくプ
ロセスと
し
てあ
る
の
であ
る。
五
「徳
」を
「よき生
」の本質
的構
成要
素
と見倣
す
にせ
よ、あ
る
いは、
一つの手
段
と見倣
す
にせ
よ、
「徳
」
に
ついて何
ら
かの見
解
をも
つ者
は、同
時
にま
た
「よ
き生」
に関
し
て、何
ら
かの見解
を
も
つ者
でもあ
ろう
。
「徳
」
の把
握
と
「よき生
」の把握
は
ひと
り
の人
の中
で恐
らく密
接
に関連
し
て
いる。
こう
し
て、
H
に
お
いてソク
ラテ
ス
の問
は、
プ
ロタ
ゴラ
ス
の
「よ
き生
」
に関
す
る把
握
に向
かう
。
プ
ロタ
ゴ
ラスは次
の命
題を
認め
る。
(a)人
間
たち
のうち、
あ
る者
た
ち
はよく
生き
、あ
る者
た
ちは悪
しく生
き
る。
(
)
(b)悩
み
と苦し
み
のう
ち
に生
きる
ならば
、
よき生
ではな
い。
(
)
(c)快
く楽
しく生
き、
生涯
を終
え
るな
らば、
よ
く生
きた
こと
にな
る。
(
)
ソ
クラテ
スは、
まず
、
(a)
にお
いてプ
ロタゴ
ラ
スに
「よき
生」と
「悪
しき生
」とを
区別
す
る何
ら
か
の基準
を持
って
いる
こ
と
に同意
さ
せ、
そし
て、そ
の基
準が何
であ
るかを
(b
)
(c)
によ
って明示
させ
て
いる。
(a)
(b
)
(c)
から
は、
(d)快
く楽
し
く生
きる
こと
はよ
いこと、不
快な
生
を生
きる
こと
は悪
い
ことであ
る
(
)
が帰結
す
る。従
って、
この限
り
にお
いては、
プ
ロタ
ゴラ
スは
「快」を
「よ
き生」
の十
分条
件
とし
て認
め
て
いる
こと
にな
ろう。
「快
い」
こと
は、そ
のま
ま直
ち
に
「よ
い」
こ
とな
のであ
る。
とこ
ろが、プ
ロタゴ
ラ
スは
(d
)
に対し
、次
の限
定を
付与
す
る。
(e)
「美
し
いこと
」
(
)
に楽
しん
で生
きる
ならば
(
幽
)
こ
の限
定
は
「美
し
いこと」
を楽
し
むと
き
の、
そ
の快
の
みを
「よき生
」
を決定
す
る際
に考慮
に入れ
る
ことを意
味
す
る。
こう
し
てプ
ロタゴ
ラ
スは
「快
」
以外
に
「よき生
」
の基準
を設
け
る
こと
になり、
そ
の基準
に基づ
いて
「快
」も
「よき生
」
に寄
与
す
ニ
るも
のとし
な
いも
のが
弁別
さ
れねば
なら
な
いこ
と
にな
る
。
従
って、
ここ
では
「快
い」
こと
はそ
のま
ま直
ち
に
「よ
い」こ
と
に
は
なら
な
いのであ
るo
プ
ロタゴ
ラ
スが
こ
の限定
を付
す
と直
ち
に、ソク
ラ
テスは驚
き
を表
明し、次
のよう
に言
う。「何
です
って、プ
ロタ
ゴ
ラ
ス?
あ
な
たま
でがよ
もや多
く
の人
々と同
様
にあ
る種
の快
は悪
であ
り、あ
る種
の苦
は善
であ
ると呼
ぶので
はな
いで
し
ょう
ね。
-ω)す
なわ
ち、
ソク
ラテ
スは先
の限定
(e)
を、
(f)
「ある種
の快
いこと
は悪
であ
り、あ
る種
の苦
し
いこと
は善
であ
る
の意
味
に解
し
、
この
(f)
は多
く
の人
々が
(d)
に対
し
て抱
く或
る誤
解
から生
じ
たも
の
ではな
いか、
と言
う
の
である。
つま
り、
「快
いこと
(
を
「快
いし
と
いう
そ
の限
り
のみ
にお
いて
みよ、
そ
のとき、
我
々は
門快
い㍊
と
いう
ことを
「よ
い」
ことと
して既
に受
け入
れ
て
いる
の
ではな
いか。「快
いと
いう
ことそ
れ自身
」(
)
は我
々
はそ
れを「よ
いことしとし
て受
け取
って
いる
のであ
り、
「あ
る種
の快
いことは悪
い と
いう
とき、
そ
こで
は既
に行為
の何
ら
か
の帰
結
が考慮
さ
れて
いる
のでは
な
いか、
と問う
て
いる
の
である。
この
ソクラ
テ
スの問
いかけは
も
っともな
こと
であ
ろ
う。な
ぜ
なら、
(a)
(b
)
(c)を
認
める
こと
によ
ってプ
ロタゴ
ラ
スは
「快
を
「益ご
とす
る立
場を
表明
し
て
いるこ
と
にな
る
から
であ
る。プ
ロタ
ゴ
ラ
スはこ
の問
いかけ
に対
し、自
分
の立場
が
「多
く
の人
」
のそ
れと同
じ
も
のであ
るか否
かを
余
り明確
にさせな
いまま、
快
と
善が
同じ
も
のであ
るか否
か考察
し
よう
と答
え
る
(
。
さ
て、
こ
の
一連
のやり取
り
から何
が窺
え
るだ
ろう
か。
まず
、
(a)
(b)
(c)
を認
め
る
こと
によ
って、プ
ロタゴ
ラ
スは
一度
は
快
を
「善」
とす
る態
度を
見
せ、
(e)
の限定
を
付
す
こと
によ
ってそ
れを否
定
し
て
いる
の
であり、
そ
の態度
は
一貫性
を欠
き、
揺
れ
て
いること
であ
る。
では、
この
一貫
性
のな
さは、
本性
は生
粋
の快楽
論者
であ
るプ
ロタゴ
ラ
スが、
それ
を表明
す
る
こと
によ
って不評
を買
う
こと
を恐
れた
と
いう、
或
る躊躇
によ
って生
じ
て
いるのだ
ろう
か。
恐ら
くそ
う
ではあ
るま
い。
むし
ろ、プ
ロタゴ
ラ
スは「快
」と
「善」
と
の関
係
に
ついて
これま
でよ
く考察
し
た
こと
のな
い人
であ
り、
答
え
の揺
れ
は、
そ
のままプ
ロタゴ
ラ
スそ
の人
のあ
り方
をあ
ら
わし
て
いるの
ではな
いか。
人
が楽
しむ
べきは
「美し
いこと」
であ
る、
とプ
ロタ
ゴラ
スは言
う。
この限定
を
ソク
ラテ
スは
(f
)と
し
て、
ひとたび
は解
釈し
た。
しかし、
「美
し
いこと
を楽
しむ
とき
の快
はよ
い」と
いう
のは直
ち
に
「帰結
も
よ
いも
の
(快
)であ
る快
はよ
い」を意味
す
るわけ
ではな
いであろう
。
「或
ること
を楽
しむ
こと」をそ
のま
ま直
ち
によし
とせず
「楽
しま
れ
て
いること
」が美
し
いか否
か
が問
われ
る
べきだと主
張
する
こと
は、
「楽
し
まれ
て
いる
こと」が
帰結
とし
て何
を生ず
るかが
問
われ
る
べきだと
主張
す
るこ
とと
そ
のま
ま同
じだ
と
は
いえ
な
い。
「美
」は、
行為
の帰
結
を評定
す
る
ことよ
りも行
為
それ自
身
の評価
に関
わ
るも
のであ
り、
行為
者
り
にと
って
の益
に関
わる
と
いう
より
は行為
自体
のも
つ
「かがや
き」
を示
すも
のであ
ろ
う
。
とす
れば
、プ
ロタゴ
ラ
スが付
加
した
(e)
の限定
は、
ソ
クラ
テ
スが多
く
の人
々
の見
解
とし
て提
示し
た
(f)
に解消
さ
れ
て
し
まわ
な
い面
をも
つか
も知れ
な
い。
し
かし、問
題
は、
人
の
「よく生
き
る
こと」は
また
「美し
く生
き
るこ
と」であ
らねば
な
らず、
ま
たそ
れは
「快
く生
きる
こと」
と直
ちに同
じで
はな
い、と
いう
こ
の主
張を
自
ら
にお
いて証
し
て
いく言論
を
プ
ロタゴ
ラ
ス自
身
が持
って
いるか、否
かであ
ろう。
け
と
いう
のも
「美
しく生
き
る
こと」はかえ
って
「よく生
き
る
こと」を妨
げ
ると
す
る意
見
も当
然あ
りう
る
から
であ
る
。
で
は、
「多
く
の人
々」
のも
つ
(e)
の把
握
に関
し
て、
明確
にされ
ねばな
ら
な
い点
があ
る
とす
れば
、そ
れは何
か。
ま
たそ
のと
き、プ
ロタ
は
ゴラ
ス
の立
場と
「多
く
の人
々」
の立
場
の関
係
はどう
な
る
のかが問
題
とな
ろう
。
六
mに
お
いてプ
ロタゴラ
スが
「知識
」
に関
し
て、
ど
のよう
な見解
を
も
って
いる
かが問
わ
れる。
知識
をも
って
いても必ず
し
も
それ
は人間
を支
配
せず
、激
情、快楽
、苦
痛等
によ
って、
いわば
奴隷
のよう
に引
きま
わさ
れる
(
)と
する
「多
く
の人
々」
の見解
に反し、プ
ロタゴ
ラ
スは「人間
に関
わ
り
のある
す
べて
のも
ののな
か
で、知恵
と知
識
にま
さる
も
のはな
いし(ω詔一)一-ω)
と
言
う。
すな
わ
ち、
(9)もし、人が善
いこ
とと悪
いことを
知
ったな
らば
、何
か他
のも
のに屈
して知識
の命
ず
る以
外
の行
為
を
する
こと
はな
い
(
9
よ
)
●
の
である。
だが
、「多
く
の人
々」
が
この見解
を容
れ
な
いのは、
次
のよ
うな事
態
が度
々起
こる
とす
るが
ゆえ
にであ
る。
(h
)快楽
に負
け、
悪
いと知
り
つつそ
のこと
を行う
ここ
に至
って、プ
ロタゴ
ラ
スと多
く
の人
々の立場
は
は
っきり分
かれる
こと
にな
る。プ
ロタゴ
ラ
スの演説
にお
いて、徳
の教
授可能
性
は、
万人
を徳
の教師
とし
て定
位
す
るこ
とを要
とし
て成立
し
て
いる
ことを我
々は先
に見
た。
そ
の限り
に
お
いて、
プ
ロ
タゴ
ラ
スと多
く
の人
々と
は、
徳
(正義
、
節制
、敬虔
)
に関
す
る見解
をほ
ぼ
一にす
るも
の
とされ
て
いた
のであ
った。
し
かし、
「知
識」
に関
し
ては、
これ
はあ
て
はまら
な
い。
ゆえ
に、プ
ロタゴ
ラ
スは
(h
)と
いう
ア
クラ
シア
の事
態
が何
であ
る
かを説
明
し、
「知
こそ
は人間
を救
う
に十分
であ
る」
(
)こと
を説得
せ
ねば
な
らな
い。我
々はそ
の説得
が
いかな
るも
のであ
る
かを
Wの分析
を
し
つ
つ見
て
いく
こ
と
にな
る。
だ
が、
こ
の説
得
の論
を実質
的
に進
めて
いく
のはプ
ロタ
ゴ
ラ
スでは
なく
ソク
ラテ
スで
あ
る
こと
に注
意
し
ておく
べき
であ
る。
では、
Nの考察
に移
ろ
う。
まず、
(h
)の事態
が起
こる、
と主
張す
る者
にと
って
「善
」と
「快
」とは共
約不
可能
な
も
のとし
てとら
えら
れ
て
いる。
「あ
る
も
のは悪
いが快
い」
のであ
り、
そ
の
「快
さ」
に負
け
るこ
と
によ
って
「悪
と知
り
つつ行
う」
のであ
る。
これ
に関
連
し
て、
知識
は行
為
の
「善
悪」の判断
に関
わ
って
いるが
、「快
苦」には関
わ
らな
いも
のと
され
て
いる。
こ
こで
の
「快苦
」
は、む
し
ろ、下
さ
れた判
断
に対
し
、言
わば或
る種
の強
制力
と
し
てそれ
を引
きま
わし無
力化
さ
せる
も
のとし
て働
いて
いる
と言え
よう
。
ハ
これ
に対
し、
ソ
クラ
テ
スはまず
(h)
の事
態が
起
こる
のは
ど
のよ
うな場
合
かを確
認
す
ること
から説
得
をは
じ
める
。
多
く
の
人
々が
(h)
の事態
と
して認
め
る
のは、例
えば
、
(i
)
食
べた
り
、
飲
ん
だ
り
、
肉
欲
に
ふ
け
った
り
す
る
こ
と
が
快
く
て
、
そ
の力
に屈
し
、
悪
いと
知
り
つ
つ、
そ
れ
を
行
う
(。。器
O①-。。)
け
よ
うな場
合だ
と
される。
さ
て、
そ
こで、
ソク
ラ
テスが問
題
にす
る
のは、
そ
のよう
な個
々
の行
為
を
「悪
い」
とす
る判断
・評価
が
ど
のような
仕方
で成立
し
て
いる
か、
である。
判
断
・評価
基準
とし
て
(イ)
「行為
す
るそ
の時
々
の快
」
と
(ロ)
「行
為
の帰結
と
し
ての病気
・貧乏
等」
が区
別さ
れ
る。
そ
し
て、
(イ)ではなく
(ロ)のゆえ
に行為
は
「悪
い」と判断
さ
れ
て
いるこ
とが明
ら
かにさ
れ、
(ロ)す
なわ
ち、或
る行
為
が病気
・
貧
乏を
もたら
す
ことは
(ハ)
「帰結
と
して
の苦」を
も
たらす
こ
とだ
とさ
れる
のであ
る。(
)
し
かも
、或
る快
いことが
悪
いと判断
さ
れて
いると
き、
(イ)
と
(ハ)
が比
較
され
て
いる
のであ
り、
(ハ)
が
(イ)
を上
ま
わる
とさ
れ
て
いる
とき
に人
はそ
のよう
な判断
を下
す
のであ
る。
(
)
容易
に気付
く
よう
に、
ソク
ラテ
スは
ここ
で、先
に我
々が
Hにお
いてみた
と
ころ
の多
く
の人
々
の見解、
す
なわ
ち
「(f)あ
る
種
の快
いことは悪
であ
り、
あ
る種
の苦し
いこと
は善
であ
る」
を吟味
の姐
上
に
のせて
いる
の
である。
なぜ
な
ら、多
く
の人
々が
アラ
ク
シアを認
め
ること
の根底
には
(f
)
と
いう把
握
があ
る
から
であ
る。
そし
て、
ソク
ラ
テ
スの吟味
の結
果、
明ら
か
にな
っ
た
ことは、
まず
、多
く
の人は
「快
を善
と
みなし
て追
い求
め、
苦
を悪
とみな
し
て避
けて
いる
こと」
(
)。
次
に、個
々
の
行
為
の善悪
の評
価
・判
断
は、行
為
が直接
持
つ快苦
と行
為
の帰結
とし
ての快苦
を比
較
す
るこ
と
によ
って下
され
て
いるこ
と。
し
かし、
このよう
な快楽
主義
的
な判断
は、
通常
は
人
々は善
悪快
苦
の四語文
法
を用
いて
いるた
め
に人
々自
身
に顕
わ
にな
っては
い
な
いこと、
であ
る。
さ
て、
こ
こで
「快」
と
呼ば
れ
て
いるも
のは、飲
食
の快
な
ど
のいわ
ゆる身体
的
な快
の
みな
らず、
健康
、肉
体的
好条
件、
国
の
安全
、富
などが
含
まれ
て
いること
に注意
す
べき
であ
る。
これら
は、通常
、
幸福
の実
質を
構成
す
ると
目さ
れ
て
いる
「よき
も
の」
お
に他
なら
な
い
。従
って、
ここ
で問題
とな
って
いる
の
は、も
し、我
々
にと
って
「よ
き生」
の内実
が
そ
のよう
な
「よき
も
の」
の
総体
と
してあ
るな
らば、
「よ
く生
きる」と
いうそ
の
ことは
「快
く
生
きる」こと
とし
て形を
取
り、
万人
に把捉
可能
な
も
のとな
る
が、
それ
でよ
いの
か、
と
いう
ことな
のであ
る。
そし
て、
こ
の問
いはプ
ロタゴ
ラ
ス自身
にもま
っす
ぐ
に向
け
られ
て
いる
のであ
る。
と
いう
のも、
先
に見
たご
とく
H
にお
いて
「快
く生
き
る
こと11
よく生
き
る
こと」
とす
る
こと
に対
し
た
めら
い、
(e)
「美
し
いこ
と
に楽
しん
で生
きるな
らば
」と
いう限
定
を付
した
が、
こ
こで再度
こ
の限
定
の意味
が問
わ
れて
いる
こと
にな
るか
らであ
る。
つま
り、も
し、
こ
の限
定
のも
つ意味
が多
く
の人が
も
つ見解
、
(f)
「あ
る種
の快
いこと
は悪
であり
、あ
る種
の苦
し
いこと
は善
であ
る」
と同じ
こと
であ
るな
らば、
ソ
クラ
テ
スの吟味
によ
って今
や、
そ
の限
定
(e)
は何
の意味
もも
たな
いことが
明ら
か
に
な
ったから
であ
る。
なぜ
なら、
多く
の人
々は、快
を善
と
みな
し、苦
を悪
と
みな
し
て
いる
のであ
り、快
そ
れ自
身
を悪
とし
、苦
それ自身
を善
と
する
こと
はな
い、
とさ
れ
て
いるから
であ
る。
さ
て、
善
とは快
であ
り苦
と
は悪
であ
って、
よ
く生
きる
こと
は快く
生
きる
こと
に他
なら
な
いと
すれば
、
アク
ラシ
アを主
張す
ヘバ
るこ
とは
おかしな
こ
とであ
る、
と
ソク
ラテ
スは言
う
(
)。
すな
わ
ち、ア
クラ
シ
アを主
張す
る人
をX
とす
ると、
X
は
善
ー快、
悪ー
苦を
認
めて
いる以
上、
「快
に負
け
て悪を行
う
者」
(これを
Yと
する
)と
は、
そ
の行為
をな
す
こと
にお
いて
「より
少
な
い快
を得
る代
償
とし
て、
より多
く
の苦
を得
て
いる者
」に他
な
らな
いと主
張す
る
こと
にな
る。
し
かる
に、
X
は、
「人は快
11
善
を追
い求
め、苦
11悪
を避
け
るも
のであ
る」
ことを認
め
て
いる故
に、
Yが自
分
の行為
を
「よ
り少
な
い快を得
る代
償
とし
て、
より多
く
の苦
を得
る」
ことであ
る
ことを
認
め
つ
つ行
うと
Xは
主張
す
ること
は
できな
い。
X
は、
Yを行
為
に
ついて
の判
断
を誤
った人
とせ
ねばな
ら
な
い。
で
はなぜ、
誤
つのか。
二
つの物
の大小
を判
断す
る際
に
「現わ
れ」のみ
に頼
り
、
「計
算
の術」を持
たな
いな
らば、
我
々は
しば
ロ
しば誤
ま
つが、そ
のよう
な事
態
が快苦
の計
量
の場合
にも起
こり
う
る
。例
えば、我
々は通常
は痛
飲
す
べき
でな
い
(痛飲
す
れば、
明
く
る日、頭
痛を
起
こし結
局大
きな
苦
を得
る)
と
いう
判断
を
も
って
いる。
しか
る
に、
時間
的
によ
り近
い
(近
未来
の)
快苦
は
我
々
に大
き
なも
のと
し
て現
わ
れるが
ゆ
え
に、
いざ
宴会
に臨
む
と、痛
飲
し
てしまう
。我
々は
「快
苦
の計量
術」を持
た
な
いた
め、
判
断
はそ
の時
々の快苦
の現
わ
れ
に左
右
され
る。誤
ま
つのは
この知識
を我
々が持
たな
いから
に他
な
らな
い。
こ
のよう
にし
て、アク
ラ
シア
の何
であ
るかを
示す論
を通
し
て、行
為
の善悪
の判
断
は、誰
にでもな
しう
る
こと
ではな
く、「快
苦
の計
量術
」と
いう
一つの知識
を
も
つ者
のみが
なしう
る
こと
が示
され
た。プ
ロタゴ
ラ
スは
この知識
の教
師
とし
て、
また彼
が
人
間
にと
って最
も大切
な
も
のとし
た
「知恵
」
は
「快苦
の計
量術
輪と
して、
規定
さ
れる
こと
にな
る。(
)
だが、
これはプ
ロ
タゴ
ラ
スにと
っては
不本意
な
こと
であ
ろう。
と
いう
のも、
これを認
め
る
ことは
「善」
と
は
「快
」
であ
り、人
の
「善
く生
きる
こと」
は
「快
く生
き
る
こと」
であ
る
ことを認
め
る
こと
であ
る。
プ
ロタ
ゴラ
スは
(e)
の限
定
を自
ら
にお
いて保持
す
る
ことが
できな
か
った
のであ
る。
七
ア
クラ
シア
の何
であ
る
かを示
し
た後、
ソ
クラ
テ
スは、
「勇気
」が
「恐
ろし
いも
のと恐
ろ
しく
な
いも
のに関
する知
恵
尋8
黛袋
)
である
こと
を論証
す
る。
こ
の論
証
は以下
の前
提
に基
づく。
(k)苦
し
みなく
快く
生
きる
こと
へ導く
す
べての行為
は美
し
く、
それ
ゆえ善
く有
益
な行為
であ
る。
(
)
(ー)悪
、
な
いし悪
と思う
事柄
のほう
へ自
らす
すん
で赴く
者
は誰
も
いな
い。
(
)
(m>恐
れ
とは悪
に対
す
る予期
であ
る。
(
)
さ
て、
勇気
あ
る人
はすす
ん
で戦
争
に行
こう
と
し、臆
病
な人
はそ
うし
な
いと
いう
場合
にお
いて、プ
ロタゴ
ラ
スは
「戦
争
に行
く
こ
と」
(Mとす
る)を
「美し
く、善
い行
為
」であ
る
と主張
す
る。
さら
に美
しく善
い以上、
ま
た快
いこと
ではな
いか、
と問
わ
れ承認
する。
次
に、臆
病な
人
はMを
「戦
争
に行
かな
い
ことしよ
り
も、
より美
しく善
く快
いと知
り
つつ、
行
こう
としな
いのか、
と問わ
れ、プ
ロタゴ
ラ
スはそう
で
はな
いと答
え
る
(でなけ
れば
(ー)に反す
る
こと
になる
)。逆
に、
勇気
あ
る人
がMを
行う
の
は、M
が
「美
しく
善く快
い行為
」
であ
る
ことを知
って
いるが
ゆえ
にだ
とさ
れる。
こ
のよう
な仕方
で勇気
あ
る人
とそ
の行
為
の関
わりを捉
える
こと
は、
「勇気
のあ
る人
は恐
ろし
いも
の
へ向
かうし(
)と
いう言
わば通
俗的
な把握
よ
りも、或
る意味
では、はる
か
に事
の真
相を
射当
てたも
のと
思わ
れる。と
いう
のも、
この捉
え方
は、
勇気
あ
る人
にと
ってM
がど
のよう
な行
為
とし
て判断
・評
価
され
て
いる
かを示
す
こと
によ
って、何
故
に勇気
あ
る人
が
Mをな
す
のかを説
明し
、し
かも
そ
の判
断
・評価
が
一つの知
にも
とつ
くも
の
であ
る
こと
を示
す
こと
によ
って、
勇気
あ
る人
の振
るま
いが
確固
た
るも
のであ
る
ことを明
ら
か
にして
いる
から
であ
る。実
際、
そ
れは確
固
とし
たも
の
であ
ろう。
なぜ
なら
、
こ
の
「恐
ろし
いも
のと恐
ろしく
な
いも
のに関
する知
恵」が
「快
苦
の計
量術
」であ
るとす
る
と、勇気
あ
る人
は、
自分
の行
為
が求
めて
いる
「よ
き生
」
すなわ
ち
「快
き生
」
に導
く
も
のであ
る
と
いう意
味
で
(
)、
正
にそ
れが
「自分
のため
にな
る」
と知
って
いる
こと
にな
る
から
である。
そ
し
て、
このと
き、プ
ロタゴ
ラ
スもア
テナ
イ
の人
々も等
しく徳
を教
え
る者
だ
とし
ても、
両者
の間
の差
は
歴然
とし
てあ
る
こと
になり、
彼
はそ
の術を
教
える
こと
によ
って、
人
を勇気
あ
る者
とす
る
ことが
でき
る
のであ
る。
なぜ
なら
、
多く
の人
々も
子供
に勇気
あ
る行為
が美
しく
、
よ
い行
為
であ
る
ことを様
々な方途
を
尽く
し
て語
り
、示
す
であ
ろうが
、
そこ
で
の
「美
しく
よ
い行
為」
と
いう言
葉
は依然
と
し
てあ
いま
いさと多
義性
を
ま
ぬがれ
えな
いであ
ろう。
し
かし、今
や
こ
のよう
なプ
ロ
タゴ
ラ
スは、
それら
の行為
が
快く
生
きる
こと
とし
て
の
「よ
く生
きる
こと
」
に導
く
と
いう意味
で
「美
しく
よ
い行
為
」
であ
ると
語り
う
るから
であ
る。
し
かし、
は
たし
て勇気
あ
る人
の持
つ知
とは
「快苦
の計
量術
」
な
のであ
ろう
か。
勇気
あ
る人は
、行為
におけ
るそ
の時
々
の快
苦と帰
結
とし
て
の快
苦を計
量
し、
そ
のこ
と
によ
って自
ら
の行
為
を
「よ
い」
と知
る
の
か。
そ
う
ではな
いであ
ろう。我
々は、帰
結
を問
題
とす
る
ことなく
、
「勇気
あ
る行
為
」をそ
れ自
体
とし
て
「美
しく
よ
い行
為」と認
めう
る。
だが、
この
ことを
認
めると
き
に我
々が
いわば直
覚
と
して捉
え
て
いるも
のを根
本的
に改
変
する
こと
にお
いて、
ここ
での
「徳
の教
授可
能性
」
は成立
し
て
いる
の
である。
Wに
お
いて
「快楽
主義
」が
提示
さ
れる際
、
ソク
ラテ
スが論
の展
開を
主導
し
て
いる
のは明
ら
かであ
る。
し
かし、
こ
の
「快楽
主義
」
に拠
ら
な
いかぎ
り、プ
ロタゴ
ラ
スは自
ら
の
「徳
の教師
」
とし
て
の立
場を
保持
し
えな
いことを対
話篇
は
示し
て
いる。
し
たが
って、
「快楽
主義
」は彼自身
が
産
み落
とした
も
のであ
った。
この経緯
の大略
を我
々は次
のよう
にふり
かえ
る
ことが
でき
る
であ
ろう。
「勇
気
」は
「魂
のよ
き養育
」
によ
って生
ず
るも
の
であ
り、
技術
知
や狂気
や激
情
によ
っても生ず
る
「怖
がら
な
いこと
」と
は
異な
る
ー
これ
がプ
ロタ
ゴラ
ス
の当初
の立
場
であ
った
。そ
して、恐
ら
く
一方
では、勇気
は狂気
や激
情
とは異
な
ると
され
て
い
た限
り
にお
い
て、
勇気
に何
ら
かの知
の
モメ
ントが含
ま
れる
こ
とがプ
ロタゴ
ラ
スによ
って前
提
され
て
いた
のであ
り、他
方、
勇
気
は個
々
の技
術知
で
はな
いとさ
れ
て
いた
限り
にお
いて、
モメ
ント
とし
て
の知
は個
々
の技術
知
に還元
さ
れな
いも
のと思
わ
れ
て
いた
と
いえ
よう。
さ
てそ
こで、対
話
篇
のn以
下
の展開
は、
プ
ロタゴ
ラ
ス
の知
識観
を吟
味
する
こと
にお
いて、
勇気
が関
わ
って
いる
(とさ
れ
て
いる)
こ
の知
の内
実
を問
う過
程
であ
った
と解
する
こと
が
できよ
う。
と
いう
のも、
そ
こで問題
と
さ
れて
いた
の
は、(x)人間
におけ
る知
の支配
と
いう
こと
が成
立
す
ると
すれば
そ
れは如
何
な
る仕
方
で成立
す
る
のか、さら
に
(x)
と連
関
し
て
(y)個
々
の行為
に関
し
て善
悪
と
いう
ことが成
立
す
るとす
れば
そ
れは如
何
な
る仕
方
で成立
す
る
のか、
(z)
そ
のよ
うな行
為
の
善
悪
の判断
、評価
に関
し
て、知
と不知
と
いう
こと
が成立
す
ると
すれば
そ
れは如
何
な
る仕
方
で成立
す
る
のか、だ
った
のであ
り、
また先
に見
た如
く、
プ
ロタゴ
ラ
スは勇気
あ
る人
の行
為を
よ
い行為
と認
め
る限
り
にお
いて、行
為
の善悪
の判
断、
評価
に関
す
る
知を
勇気
ある人
に帰
属
させ、
勇気
あ
る人
に
おける知
の支
配
を認
め
ること
にな
った
から
であ
る。
し
かも、
(x)(y)(z,)を
「多
く
の人
々」が
そ
のまま直
ち
に同意
し承
認
する
よう
な仕方
で語
るよう
プ
ロタゴ
ラ
スは要
求
され
て
いた
のであ
り、
そ
の要
求を
満
た
す
ことは
「多く
の人
々」
の立
場、
即
ち快
を善
とし苦
を悪
とす
る立
場を
受
け入
れる
こと
を彼
に要求
し
た
のであ
った。
(「多
く
の人
々」は快
を善
、苦
を悪
と
みなし
て
いる
と
いう
ことが前提
にさ
れて
いる限
り、
そ
のよ
うな人
々に
「人
間
に
おける知
の支
配」
を説
得
す
ると
いう仕方
で語
ろう
と
する者
は
「多
く
の人
々」と同
様
に快11
善、
苦ー
悪
と
いう立
場を
とら
ねば
な
らな
いだ
ろう。)
こうし
て、プ
ロタゴ
ラ
スの当初
の思
いに反
し
て、勇気
は
「快苦
の計
算術
」と
いう
一つの技
術知
と
し
て規
定
さ
れる
こと
になり
、
プ
ロタゴ
ラ
スはそ
れを受
け入
れ
るこ
ととな
った
。
こ
のこと
は、プ
ロタゴ
ラ
スが自
らを徳
に関
す
る知者
と任
じ
て
いなが
ら
「勇
気
とは何
であ
るかL
に関
し
て全
くと
い
ってよ
いほ
ど吟味
を欠
いて
いた
ことを
示し
て
いる。
「勇
気
とは何
か」が我
々
に知
られ
ると
き、
そ
のとき我
々
は
(X)(y)(Z)
に対
して或
る回
答を持
って
いる
こと
であ
ろう。
そ
の回答
を持
つため
に快ー
善、苦11
悪
と
いう前提
が
不可欠
である
か否
か
こ
のこと
に関
して対
話篇
は何
も言
って
いな
い。「徳
と
は何
であ
るか」を改
め
て問
い、
そ
のう
えで
「教
えら
れう
る
か否
か」を考
え直
そう
と
いう
ソク
ラテ
ス
の言
葉
(ω90)は、
こ
の
前提
も含
め
て
(X)(y)(Z)
を問
いな
おすよ
う
に我
々
に促
し
て
いるよう
に思
われ
る。
(註
)
(1)ソクラテスが徳を教
えられると思
っていな
い理由は、アテナイ人
の良識に訴
えると
いう仕方で提示されて
いる。すなわち、そ
こに
は或る間接性があるのであり、直接的
にソクラテスが自
らの見解を述
べているのではな
い。
(2)プ
ロタゴラスによれば、彼
の教えるアレテーは国家公共のこと
にかかわる。
(
)
(3)このことは、
ソクラテスによる吟味をうけてプ
ロタゴラスの立場が転
々とすること
にに容易
にみてとれる。
(4)もし
かしたら、プ
ロタゴラ
スのうちでは、この差は詩
の言葉
に
ついての有能さ
に求
められて
いたのかもしれな
いが(
〉刈)、この能力を示そうとするプ
ロタゴラスの企ては十分な成功を収めて
いるようには思われな
い。
(5)
に注目された
い。
(6)例
えば、溺れて
いる子供を救
うた
めに潜水術をもたな
い人が井戸
に飛び込んで行くような場合。この様な、技術知
と勇気
の関係
に
関しては、
を参照。
(7)
を参照。
(8)
「魂
の素質」の方
に関してはプ
ロタゴラスはその教育
にお
いて実質的な寄与が
できな
いため、対話篇
の焦点
は差し当
た
っては
「養
育」の方
に向
けられて
いると見倣してよ
いであろう。
(11)
「ゴ
ルギ
ア
ス」
のポ
ロス
の立
場
(
)は参
考
と
な
る。
(12
)
こ
の問
題
は
ステ
ージ
W
の主
要
な
テ
ー
マの
一つであ
る
。
(13
)
(h
)
と対
を
な
す事
態
と
し
て
「苦
に負
け
そ
の
た
め
に善
いと知
り
つ
つそ
の
こと
を
なさ
な
い」
があ
り
、
そ
のよ
う
な
ケ
ー
ス
に当
た
る場
合
の分析
も行
わ
れ
て
いる
が、
こ
こで
は省
略
す
る。
(14)ここで
「判断」とす
ることに対し
ては森俊洋教授、「知識と行為、ソクラテスの場合
1
『プ
ロタゴラ
ス』ω留び以下
1
」福岡大
学
研
究所
報
、
17号
、
一零
ω.
を参
照
。
(15)
「エウチ
ュデ
モ
ス」
「メ
ノ
ン」
(16
)
に
つ
いて
は、そ
の論
の構
成
・妥
当
性
等
、よ
り精
確
に論
ず
べき
必要
性
を
感
じ
て
い
る。以
下
は、私
な
り
の
一応
の理解
であ
る。
(17)
(平
成
四
年本
学
大
学
院博
士
課
程
修
了
・熊
本
大
学非
常
勤
講師
)