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(日本ロシア協会定刊誌掲載資料)

「コルサコフ(旧大泊)」望郷の旅平成20年7月31日

前 田 博

NPO法人北海道日本ロシア協会が企画する「第42回サハリン/北海道平和の船」の旧豊原自由プラン(総勢27名)に参加した。平成20年7月28日(月 、ハートランドフェリー「アインス宗谷」に乗船、船は午前)10時過ぎ稚内港を出て、真夏の太陽が照り輝く青空の下、宗谷岬をはるか右に望みながら波静かな海原を進み、やがて、亜庭湾に入った。約5時間の快適な船旅を終え、夕方3時過ぎコルサコフ港に入港した。この港は、はるか宗谷海峡を隔てた亜庭湾の北奥に位置し、稚内港からは航路筋で90海里(120km)のところにある。日本が統治していた昭和3年8月、巨額の国費を投じて完成した船車連絡突堤(総延長1000m、最大幅員36m)は、大桟橋(橋梁部)がすでに解体されているものの、埠頭そのものは、今も当時の面影を残したまま、フェリーや大型貨物船の接岸岸壁として利用されている。

展望台から見るコルサコフ港と街並み

私は、1940年11月、旧大泊町、現在のコルサコフで生まれ、5年間過ごした地である。幼い私に当時の記憶は全くなく、63年ぶりに訪れる街並みを傍観しながら、生誕の地に足を踏み入れる期待に胸を膨らませる一方、今は異郷の地になってしまった悔しさが絡み合う複雑な思いのなか、言い知れぬ懐かしさと感動がこみ上げてくるのだった。港で、長時間におよぶ入国手続が終わり、現地時間の午後9時過ぎにユジノサハリンスクへバスで移動、ホテルユーラシアにチェックインした。そのあと、遅い夕食をとり、第一日目を終えた。

翌29日、さわやかに晴れ渡った朝、コルサコフ市内を案内していただく渡辺のり子さんが、彼女

、の知人門脇さんとオードリーさん運転のマイカーで宿泊先のホテルにやってきた。いよいよ、戦後、初めて生誕地を訪れる喜びに心をときめかせ、現地時間の午前9時10分ホテルを出発、ユジノサハリンスクから42km隔てたコルサコフに向った。

オードリー、門脇、渡辺さん

郊外に出ると、アップダウンを繰り返す、幅広い直線道路になり、沿道から望む広大な草原、ところどころにある路線バスの停留所を見ながら、森林に囲まれた大自然のなかを走行し、1時間ほどでコルサコフ市内に入った。

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ユジノサハリンスク・コルサコフ間の道路

この道路は、プーチン前大統領の極東訪問に備えて全面改修したとのことで、快適なドライブになった。最初に、コルサコフ北東側に今も残る共同墓地を訪ねた。そこには 「平和鎮魂之碑」と記された、碑があり、裏面には「旧大泊在住の有志とコルサコフ市民の協力による、1993年9月」と書かれていた。付近には日本人の名前が幽かに読める朽ちかけた墓碑が点在し、その周囲に夏草が背高く生い茂り、訪ねる人もなく、無縁仏となった故人が孤高に眠る墓前で両手を合わせて立ち去ることにした。案内人は、直ぐ近くに大泊中学校の跡地があると説明してくれた。

平和鎮魂之碑

コルサコフは、サハリン州のなかで、ユジノサハリンスクおよびホルムスクに次ぐ3番目の人口で、4万6千人がこの町に暮らしていると聞く、日本の統治時代、旧大泊で一番賑わっていた本町大通り(現サブィェーツカヤ通り)は、ロシア領になってからもその繁

、 、 、 、 、 、栄が引き継がれるているかのように 道の両側に 書店 雑貨店 家庭用品店 お土産店レストラン、化粧品店などのたくさんの商店が建ち並び、市内の主要路になっている。この通りを内陸に向かうと、町の行政庁(市役所)がある。

サブィェーツカヤ通り(旧本町大通り)

中央の広い車道の両側にはナナカマドや白樺の街路樹が覆い、両脇の歩道と安全に区分され、農家のおばさんたちが、自分の畑で獲れた新鮮な野菜や果物を持ち寄り、広い歩道のあちこちで店を広げている。

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歩道の露店(サブィェーツカヤ通り)

沿道は建物と緑の樹木が見事に調和し、落ち着いた雰囲気の街並みが印象的である。近くに市内の中心を北東から港口へ流れる旧大泊川があり、私は、この川に沿って北東に延びる本町東通りの一角で生まれた。ここは、当時の大泊高等女学校や旭ケ岡小学校に通じており、亜庭神社、役場、警察署にも近く、港から坂を登る途中の道筋にあった。渡辺さんの案内で、当時の市内地図と現在の地形を照らし合わせながら検証すると、この付近が、現在のコルサーコフスカヤ通りではないかと思われ、おそらく、私は、この通りの入り口付近にあった家で生まれたことになる。生誕の地に立ち、遠く63年前に遡り、幼いころの自分と、今は亡き父母と姉の姿を重ねながら、万感迫る想いを込めてここを離れた。

生誕の地(走行車の右側に建つ倉庫)

私が見たコルサコフの印象は、道路の法面や側溝の整備が不十分で、一歩、主要道路から外れたところでは、未舗装路面の土肌がむき出しになっいて、デコボコな道を土ほこりを巻き上げながら走る車であふれ、港湾、道路、上下水道等のインフラがはるかに立ち遅れている様子が窺える。もし今も我が国が統治していれば、美しく整えられたすばらしい街並みと機能性に富んだ港湾や生水が何不自由なく飲める町に進展していただろうと、夢のような気持ちを抑えることができなかった。最後に、待望のサハリンを訪ねる機会に恵まれたことと、現地を丸一日かけて、丁寧に案内してくださった渡辺、門脇、オードリーさんに深謝するとともに、この旅を企画された「北海道日本ロシア協会」に対して、心からお礼を申し上げたい。

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ユジノサハリンスク(旧豊原)市内

サハリン旅行者記念写真(旧旭ガ丘展望台)

旧王子ケ池公園

サハリン州立郷土史博物館(旧樺太庁博物館)


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