28
Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ ル・シャー沒後のアフシャール朝 Author(s) 小牧, 昌平 Citation 東洋史研究 (1997), 56(2): 366-390 Issue Date 1997-09-30 URL https://doi.org/10.14989/155132 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

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Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデル・シャー沒後のアフシャール朝

Author(s) 小牧, 昌平

Citation 東洋史研究 (1997), 56(2): 366-390

Issue Date 1997-09-30

URL https://doi.org/10.14989/155132

Right

Type Journal Article

Textversion publisher

Kyoto University

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366

八世紀中期のホラ

iサ

iン

ーーードッラ

lニ

1朝とナ

lデル・シャ

l浸後のアフシャ

lル

|

|牧

EヨEヨ

はじめに

l問題黙と史料について

第一章一七四九|五

O年の政幾

第二章アフマド・シャ

lの第一回ホラlサ

lン遠征

第一節遠征の時期と回数

第二節第一回遠征の経緯

第三章アフマド・シャ!の第二回ホラ1サ

1ン遠征

第一節ホラIサ

lγにおける内部抗争

第二節第二回遠征の経緯

-176-

t土

にー問題貼と史料について

一七四七年六月のナ

1デル・シャ

l

ZMERωゲ凶ゲ〉円凹}同町

の暗殺は、

アフシャ

lル朝のみならず、周連諸勢力に多大

Page 3: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

の影響を及ぼした。

強烈な個性を持つナlデル・シャーを失ったアフシャlル朝内部は大いに動揺し、深刻な後纏者手いが起こった。各地

の諸勢力はこれに乗じて自立を園るようになり、イランは分裂の時代を迎えることになった。さらに、ナ

lデル・シ

+l

の配下にあったアフガン系の者たちの中には、郷里に蹄還して自立を園る者も出た。それが同じ一七四七年七月にカンダ

(

1

)

ハlル

OBEZHで自立を宣言したアフマド・シャ

lkrrg包

ωzrりoロ仰巳によるドッラlニl朝の成立である。

(

2

)

しばしば現代アフガニスタンの原型の成立という評債がなされている。しかし、そ

同朝の存在を無視しては、マシュハド冨

grr包

そこで、本稿においては、成立直後の時

ドヅラlニI朝の成立については、

れをもってイランとの分離が達成されたというわけではない。むしろ、

を中心とするホラ

1サ

lン

同日MO同臥白山口地方の朕況を考察することはできない。

黙におけるドヅラ

1ニ1朝とホラ

lサ

lン地方との関係に焦黙-VAロ閏て、

イラン研究における同朝の持つ一意味について具瞳

的に考えていくことにしたい。

イラン・イスラム共和園の北東部のホラ

lサ

Iン州公的仲間口'm穴ro弘明削るということ

になるが、元来はへラ

lト国民営やバルブ切とFrなども含み、現在の地域からさらに東方や北東方にも慶がるはるか

に贋い領域を指していた。そうした貼からいえば、ドy

ラIニI朝とホラ

lサ

Iンとが不可分の関係にあったということ

は、ある意味では嘗然のことである。しかし、それではその慶義のホラ

Iサ

lンがどこまで賞瞳をもって連綿と存績して

3〉

きたのかについては、慎重に検討する必要がある。ここではその貼については直接取り上げる徐裕はないが、それについ

ての一つの事例を提供できるものと考える。

現在、

「ホラlサ

lン」といえば、

367

一八世紀中期のホラlサ

1ンについての利用可能な同時代史料はきわめて少なく、事賓関係においてすら不明な貼も少

なくない。このような史料扶況は、以下のような事情によるものと思われる。

この嘗時のホラ

lサ

lンはアフシャ

lル朝の支配下にあったが、後述の、通り、

~ドγラlニI朝の強い影響下にあった。

-177ー

Page 4: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

368

一八世紀後半のアフシャ

lル朝期の史料で、刊本化されているものはほぼ皆無といってよかろう。この時代、イラン高原

で最も優勢であったザンド朝においても、ド

ッラlニ

l朝との直接針決につながりかねないホラlサ

lンへの進出には消

極的であり、そうしたことから、

料では、

ザンド朝期の史料には同地方についての記述はさほど多くない。カ

lジャ

lル朝期の史

一七九六年のホラlサ

lン征服を除けば、同朝創始者アlカl

・モハンマド炉心間宮ofgg包

ωEr

ホラ

Iサ

lンとはさほど関わりがなく、同地方に関する記述も断片的なものだけである。

の活動は

そうしたなかで、本稿で利用する主な史料とその引用上の略競は以下の通りである。

〉りい一言。

}gHHMg白仏国同mr巾gσ.

ωau『旦宮ofgH自民宮門同N仰

U吋ar2・u、司

hrbhHdon叫(

4〉

(回

zurピσEHUJ宮ω"

。円・56

ω}M.呂田ygZ曲一・国gmEM白

--zogEσ.

宮叶υ

〉ゲ同国}・出血印国ロゲ・

冨OY向日自由仏

HWぴBE自己

-Eg同

UHNN可酬とヤ町民訴さ

hHh叫句、V

側、お

(「hN可知・叫ahh与、』

hhN匂・口出」門前

uN叶・・ョ25PH句、戸)

のo-gg口三〉向。凡さとと・吋

bSユ宰

-178-

gz

(巾仏・

SHNS釦〈

-u叶

myspNロ仏色-w

民主¥巴

81∞〉

豆島、同二百円N

山宮oEBB包百邑ユ冨白HRSEEP5ミミ刊誌b,巳

EM13守州主

lbb可叫AhHユ主・内同法心同可制剤4

hb¥bHU々い百四

dbておもいて町民

aい℃内宮儀礼

SUN-町NNミ除。

(巾門日・

σu『何内tu--h〉・・叶巾}MH卸ロ-Hωい山∞¥]戸富山wlωO)

これらのうち

〉ロ・呂田吋

t土

いずれも本稿の主要な登場人物の一人であるセイエド・モハンマド

γ向回同

-N同

ωmu『U『白門同(5)

冨吋もその閥係者によって書かれたものであり、

7向。官ヨヨ包(ソレイマ

lン二世

ωoEgEHH)の近親者によって、また

その利用に闘しては、細心の注意が必要である。しかし、従来、史料が絶劃的に少ない一八世紀中期のホラlサ

Iンにつ

これらの史料に頼らざるを得ないところが多かった。

いては、

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これに封して、

ω}戸

はアフマド・シャ

lの命で執筆された同人の一代記という性格上、

ドッラ

Iニl朝の史料と理解

され、

イラン史研究の立場からは従来あまり注目されてこなかったようである。しかし、著者のマフム

lド・アル・ホセ

イニーは、元来ナ

Iデル・シャ

lに仕えており、

6〉

り、同時代の貴重な誼人でもあった。

またシャ

lロフ政権にも参重していた人物で、

その離では嘗事者であ

つまり、〉ωrをアフガン側史料とのみ捉えるのは賞は正しくなく、

そして、少なくともセイエド・モハンマドをめぐる記述に闘しては、

〉ロ・冨白叶

ホラlサlンについても、貴重な史料なのである。

よりも客観性が高いと考えられるし、

アフマド・シャ

lのホラ

Iサlン遠征についても嘗事者による記録であり、立場の異なる〉ロ・冨釦吋などの他史料と比

較検討することで十分に利用する債値がある。

そこで、

本稿では

ω}同

も基本史料として利用することにしたい。

第一章

一七四九|五

O年の政第

-179ー

第一節

ナlデル・シャ

I暗殺後のアフシャlル朝内での後緩者をめぐる抗争は、嘗-一初、その甥が貫権を掌握し、

アリ

I・シ十

を除いて根絶した。しかし、

旗を翻し、討伐に出た兄を破って捕えた。

lh〉-zωゲ凶「〈またはアlデル・シャ

I

吟《芭

ωEY〉として即位し、

何色白「卸ロに涯遣されたアリ

l・シャ

lの弟エブラ

lヒ1ム

ナlデルの直系の子孫を、

孫のシャ

Iロフ

ω}同削}HHorr

エスファハ

lン

何日

)HUEBが反

こうした中、

ホラ

1サlンの諸勢力は、

エブラlヒlム、がエラ

lク吋包心を本擦にしたことから、

擢力の中植がホラ

け ーサ

1ンを離れることを霊まず、マシュハドに残っていたシャ

lロフを擁立する動きを見せた。

一一六一年

ωゲ同44包月八日/

一七四八年一

O月一目、即位してシャ!と稽した〈〉

ω52・豆、H,

us。

シャ

lロフもそれを承

369

このと金」のシ

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370

ャlロフ擁立の中心人物は

ハプ

lシャ

Iン

阿ハ

EE凹『山口(現、クIチャl

ンO口口冨ロ)

(

7

)

に擦るクルド系のモハンマド

・ジ

ャアファル冨o官gg包

γ正門伏広口宮内民同口同己U

N同AP山口一口問oEとニ

lシャープ

lル

zzrS口同のそハンマド・ハサ

o-EBB白仏

司回目白ロヌ}】印ロ∞ミ削円であった(〉巴コ

ε。

シャ

lロフに劉抗し、

エブラ

lヒlムもシャ

ーを稽して

ホラ

lサ1ン侵攻を圃った。

(

8

)

シャ

lロフ側に走る者も少なくなかった。その中にはキズィルバ

1シュの者、が少なくなかったが、こ

しかし

彼の陣営からは次々と

武将たちが脱落し、

れはシャ

lロフがサファヴィ

l王家の血縁者でもあったこと(後述)によるといわれている(〉ω52)。このため、

シャ

ーロ

フは弱瞳化したエブラ

Iヒlム軍を破って、

エラ

lク方面に追った。

彼はさらに自らエラ

lクやアゼルバイジャン

〉削釦同ゲ削ご閉口

に出陣しようとして、

クルド系やトルコ系などのホラlサlンの諸勢力と見解の相濯が生じるこ

とにな

た。はなく、

エブラ

lヒIムについては、

大軍ではなく少数の追尾軍を出せば十分であると主張した(〉

28&。しかし、

-180ー

彼らは、ウズベク人やアフガン人と封時しているホラ

lサlンの現況を考えれば、遠征でこの地を離れることは得策で

くまでイラン中央部制匿を目指しての遠征を望むシャ

lロフとの聞は緊張したものとなった。

シャ

1ロフは自分に忠貨な

lエン

O山〕ヨロの有力者でアラブ系のミ

lル・アラ

ム宮山町長]白ヨ州会同ロ

A

〉Eσ関「白包

gmやキズィルパ

lシュ系の武

賂たちの支持を取り附けてアスタラ

lバlド

きたとの知らせに、急遁掃還した(〉

ωEZ1ES。

〉印門出品目)山門凶

まで進軍するが、

ホラ

lサlンの武将たちに不穏な動きが出て

それを利用してホラlサlンで自立しようと重策した

のがミ

1ル・アラムであった。彼はモハンマド

・ジャアファルと姻戚閥係を結んで同盟を結び、計聾を賀行に移した。そ

このようなシャ

lロフと地元勢力との微妙な緊張関係に着目し、

の際にシャ

1ロフに代わって擁立を園ったのがセイエド

・モ

ハンマドであ司た。

セイエド・モハンマドは、

母がサフプヴィ

I朝のシャ

l

・ソレイマ

Iン

ω『削Fωor-g削ロ(在位、

一六六六|一六九四〉

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の女であり、父方も辿っていけばアッパース一世メゲσ皆同(在位、

一五八七|一六二九)に至り(〔関係系圏〕参照〉、代々側

近として園王近くに仕えて重用されていた家柄であった。

サファヴィ

1朝滅亡後は、

セイエド・モハンマドはナlデル

シャ

lの庇護下にあったが、

9〉

(〉ロ叶ωゲ〉。

ナlデル・シャ!のインド遠征からの掃還後、

レザ

l廟の管理者

BOS4丘町

に任ぜられた

ナlデル・シャ

1の暗殺後はアリl・シャーやエプラ

Iヒlムに従い、その命令でコム

OOBに駐留した。

エプラ

Iヒ

(m〉

その入城を痘否して反抗の意志を明らかにした(豆、門誌1ω30

イラン各地からセイエド・モハンマドに劃する聞位要請が届くようになった。その中には、サファヴィ

l王家

(

)

の再興を訴えるホラlサlγの諸勢力からの要請もあった。それに加えて、捕えられたエプラlヒlムをマシュハドに連

行するようシャlロフから命じられたため、彼はホラlサlンに向かうことになった(〉UE白)。

ームがシャ

lロフに敗れ、

コムに逃走しようとすると、

うした中、

セイエド・モハンマドのホラlサlン入りは同地方の諸勢力に大きな波紋を投げかけた。シャlロフは表面上はこれを

歓迎したが、彼の存在に脅威を感じて秘かにその抹殺を計重し、ベフブ

lド切岳

E仏関冨ロ叶笠智という武将に殺害を

命じた。しかし、その人物は他の諸勢力とともにむしろセイエド・モハンマド支持に走り、

(ロ〉

呂田吋HSlHHS。こうして、

-181ー

恭順の意を表したハ宮叶8・

二六三年富。fR55月二

O日/一七四九年一一一月一一一

O日、

力により退位させられ(冨吋島町)、同年同山由同日月五日/一七五

O年一月一回目、セイエド・モハンマドは即位して、母方の

(

)

祖父の名を採ってソレイマ

1ン二世と稽した(宮吋品目)。即位の際には、エラlク、アゼルパイジャン、ファールス問削お

などからもアミ

lルたちが参集したという♀ロ83。これが政嬰の前半であり、ここでは「第一次政襲」とする。

シャ

lロフはこれらの者たちの匪

第二節

371

「第一女政出現」自瞳はよく知られており、ベリ

l氏などはこれを嘗時視強くあった「サファヴィ

l王家復興」運動の一

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372

部として言及している。氏によれば

一七二二年のサファヴィl朝の事貫上の滅亡後も同王朝を正統なイランの支配園家

一七七三年に至るまで、多くのサファヴィl王家の一族と稿する者が王位請求

(

H

)

者として登場した。その中の一人がセイエド・モハンマドであった。

と見なす風潮が残っており、

そのために、

しかし、第一次政獲をこのような運動の一環と断言することには注意が必要である。ペリl氏も指摘しているように、

すでにナlデル・シャーによって達成されたイランの統一は瓦解し始めていた。そうした群雄割擦の朕況の中で、この政

獲をサファヴィ

l王家復興運動という流れでのみ捉えるのはあまりに名目的に過ぎるであろう。たとえ、建前上の理由か

ら、あえてそうした運動の一部として捉えようとしても、

シャ

Iロフ自身もサファヴィl王家の血統を縫いでいる(〔関係

系圏〕参照)ことから、論理的に矛盾することになる。シャlロフはそうした出自のために、アリ

I・シャーによるナlデ

(

)

ル・シャlの直系子孫の虐殺を唯一生き延びたのである。また、シャlロフがサファヴィl朝滅亡の張本人であるナlデ

(

)

イランの君主には不適切といアた議論は説得力を歓くように思われる。

ル・シャ

1の孫であり、

-182ー

むしろ、この政獲はそうしたサファヴィl王家復興運動の一部と考えるより、ホラlサ

Iン内部での櫨力闘争の一部と

して捉えるべきであろう。この問題を考える上で興味深い記述が〉ωrにいくつか見られる。それはたとえば以下のよう

なものである。

(クルド系やトルコ系のアミ

lルたちは次のように)語った。

ホラ1サlンのクルド系・トルコ系の人々は、二本の

恐ろしい潮流の聞に、すなわち、

ウズベク系やカンダハlルのアフガン系の聞に居住している。そして、この恐怖の

二集固と常に劃立・抗争の中にあり、絶え聞ないいくさや争いのために、人としての安らぎを歓いている。

(---BZH。同g国島

roB曲三

r円削仏

A2凶〉可削

rao-ハV。円曲師削国自帥『冊目口

'O品。目。

-zrtoH》円高・削臼

}gru『印刷ロエ削可。『0・

3

。Eror〈同〉『削

mr白Ewa

u話。曲口内田曲目弘司固曲臼

FBEι凶『曲目凶〈同『削岡田島

op円ZBOY-仰向日三白山曲『

SF曲目阿国

rorroち自

SSN卸・《由民・自ぞ帥ロ

g守口町〈曲唱。『

rr山田

raO

L蜘百旨凶目。

cyraoぶ仏曲目・

02目EZaoo口白幽回凶器岬:-〉(〉

ωvきる

Page 9: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

このようなホラ

lサ

lンの諸勢力の持つ、周遁地域の勢力に劃する敵謝意識・封抗意識のようなものが何に基づくのか

については、慎重に検討せねばならない。しばしば言及される

シlア涯封ス

ンニl涯の封立といった読明だけでは不十分

なことは、

たとえば、前述の

ミlル・アラムとモハンマド・

ジャアファルとの開での策略の際に、雨者の聞で合意された

内容についての、以下の記述からも推測できよう。

ウズベ

ク系やアフガン系だけでなく、

エラ

lク、

ファールス、

アゼ

ルバイジ

+γ方面からの敵がホラ

lサ

Iン征服を

圃るのならば、

(ホラ

lサ

lンの)すべてのアミ

Iルがその排除に嘗たる。

(・・・曲四月内山grBBM曲目官ゲユsmOCNZr4曲〉『mEロu芯伊良回冊目白寸開凶円削占

4同司削円凹

4白〉混同ゲ回目』帥ロ色削5・uBgmrZ片品開

roH曲師帥ロ

ロ曲自身邑二曲目削SMO自由品目。円仲間向。A

凹ゲO仏mr四

ι見込町田司白色削NEP--)(〉ω冨∞但〉

ホラ

Iサ

1ンの諸勢力はこのような意識を共有していたようであり、第一次政饗の際にシャ

lロフを見捨てたり、従来の

(

)

劃立・緊張関係を保留して外散に共同して嘗たることすらあった。こうした同一地域に居住することから生まれる意識

は、も

っと注目されるべ‘きであろう。

-183ー

さらに、それに加えて、以下のような記事も見られる。

ベルシャ語を話すアラブ系やホラ

1サ

lンのタ

lジlグ系は、観暴者のクルド系や不純なトルコ系の行いを軽蔑する

とともに、怖れていた。

(---M-3・0〉・円山r'O同り帥円臼Hagr削ロ〈同宮田町九三ho、H,E同

rfu、中凶諸国曲目Hor白内'O同内ro『削臼削ロ

rosgzr'O〉r円削島10VZL2・EMNV削仏〈曲

〉可帥r・0rH・司位向。r削口同寸mgF4白ro『倒臼削ロ『回仏印ロ品・・・〉〈〉ωr∞HF)

つまりここで述べられているのは、ホラlサ

lンでは諸勢力が

一致して事態に封慮する用意があったその一方で、その内

部では、アラブ系、トルコ系、クルド系などの聞で、深刻な封立・緊張関係が存在したということである。このような関

係をどう解緯するかは難しいところである。もちろん、現代的な意味での民族問題などと同列に論じることはできない。

373

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374

しかし、

この時代にも集圏聞の利害の封立や緊張を生み出す要因はあったことは嘗然であり、

そうした各集圏の動きを這

跡することで、複雑な権力抗争の性格が見えてくることも考えられる。

こうした黙を踏まえながら、蛍時の政治欣況を再検討していくことにする。そのためにも、

ていくことにする。

まずこの政幾の後半を追っ

第三節

ほどなく新政権の人事が公表された。これは政饗の論功行賞

(

)

と見ることができる。そのうちの主要なものは以下の通りである(〉ロ

EF15NPZ吋怠l

令・宮口,HEEC。

第一次政襲によって即位したソレイマ

lン二世によって、

Y向。門同司同}]同

ωo-Sロロ山〈O

円山富HHN削(ソレイマl

ン二世長子)

宮可N

同冨cEBB邑〉BZσ・

HHN削

ω「曲目的色

-uzz。「白HHHB包宮口∞SH

-184ー

zgsゲ

hm叶O己目可白丹

〈白

E--mE012

〉BMHh〉

'gg阿内}困問ロ阿内}戸由民自白

。ORE-σez

rB包

何ハr山口

切曲一可削同

、同口官

Z-VBZ

〉自可欠冨ロメ

Eσ呂町「冨白色

叶O同田口

mnrH・削ρ削印同

玄白}戸仏MOoE伏広ロ

(UFO-巾(玄白H,では豆島門町間百ロ〉

ZXREm同町rEロ巾』同門

'mωEZ

回目

Z心

42倒的

M-zmE乗アスタラ

1パ

lドの

同冨ロメvH白ゲ

σ目的]回同ゲ巾

m同・回白同内凶同門

ホラ

lサ

lンの

σ巾色白Hゲ巾

mM

FE 5そ包 E関 gD" 0... 釦1

ロ.出

~ ~ rlト tll

5トロ

阿内日戸川昨ロ

。丘町

これを見ると、父の職を縫いだ長子を除くと、ここに暴げられている者たちがソレイマ

lン二世擁立の中心人物という

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ことになる。

アミ

1ル・アラムがヴァキ

lルに就任したのを筆頭に、

ー要職にはアラブ系やキズィルバ

lシーュなど、

シャ

lロフを支持していた者たちが奉がっている。

かって

ソレイマ

1ン即位の直後、、シャ

lロフはアミ

lル・アラムによって盲刑に慮せられた。

〉ωr以外の諸史料は、

一方、

その経緯については、

し、〉

ω78σ

では、

ソレイマ

lンが狩猶で留守にしている聞に行われたとする(〉

UHog-冨吋

g-呂田、口N3。

シャ

Iロフ救出の陰謀が護費したため、

ソレイマ

1ンの同意の上で行われたとする。

これに劉

この相違は、

ソレイマ

lンの関係者によって書かれた〉ロァ、宮吋などが彼のこの件に闘する責任をできるだけ回避させようとしたこ

とから生じたとも考えられ、結局は史料の立場の遠いに基づくものと思われる。今のところ、

いずれが正しいかは即断で

「:、O

A》Cチん、uv

ソレイマ

lンがシャ

lロフ盲刑に開輿しなかったとする立場の諸史料においては、事態を知ったソレイマ

lンは、怒っ

(印〉

てアミ

1ル・アラムをヴァキール職から解任する人事一新を行った。それを見る限り、クルド系が重用されていることが

ソレイマ

lンが第一衣政援後、ヴァキ

1ルとして質権を掌握して蓋頭したアミ

1ル・アラ

ムの勢力の撲張を警戒し

-185ー

剣り、

て、代わってクルド系の支持を得ょうとしたことが推測される。

こうしたソレイマ

Iン政権の混観の中で、シャlロフ側は巻き返しを園っていた。シャlロフ夫人はひそかにホラ

1サ

(

lンの武持たちにシャ

lロフ復位に壷力するよう要請する書肢を出していた。さらに、カラ

lト同巳況に擦るトルコ系

のユ

lソフ・アリ

IJE由。で〉訂関冨ロ

F-SRは嘗初からシャ

lロフに仕えており、その復位の機舎を狙っていた。彼

はアミlル・アラムに反設するアラブ系やトルコ系の者たちを糾合した。たまたまアミlル・アラムの兄弟の葬儀が行わ

れた際の混凱と警備の手薄さに乗じて、一一六一二年初出ゲペロ月一一日/

一七五

O年三月九日、ュ

lソフ

・アリーらはソ

(

レイマlンを襲撃して、捕えて幽閉し、代わってシャlロフを穆放して復位させた。第一衣政襲からわずか七

O日あまり

であった。これを「第二次政察」とする。そして、新政権ではユ

Iソフ・アリーがヴァキ

lルに任じられ、寅樺を掌握し

375

Page 12: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

376

た。

一方、この事態を知ったアミ

1ル・アラムなどはかろうじてマシュハドを脱出して、

アフマド・シャ!の許に逃走し

第二章

アフマド・シャ

lの第一回ホラ

lサ

iン遠征

第一節

遠征の時期と回数

アフマド・シャーは数回にわたってホラlサ

lン遠征を行った。この遠征の持つ意味については、これまで検討された

りホラ

1サ

1ン情勢と関連づけて論じられたことがほとんどなかった。そうしたこともあり、彼の遠征については時期や

回数といった事寅関係についても、あいまいなままに留められているのが現朕である。

回の遠征しか言及しておらず、

この遠征との同時代史料の中では、ブハlリ

Iの史料はアフマド・シャlの治世のすべてを封象年代としているが、

(

)

しかもその年代についてはあいまいな記述しか残していない。宮叶

第一回と第二回

-186ー

の匿別に今ひとつ不明確なところがある。カ

lジャ

lル靭期の史料は、

(

)

言及しておらず、この問題については不明瞭なままである。

一八世紀中期のホラ

lサ

lンについてはほとんど

従来の研究の中では、

アフマド・シャーについての現時黙での最も詳細な俸記的研究を行ったスイング氏は、

一七五

O年初の一時開還をはさんで一七五一年初の再度侵攻でマ

シュハドなどを征服した

一七四九

年春のへラ

lト遠征に始まり、

-ものと、

(

)

ている。

一七六九l一七七

O年の遠征を奉げている。しかし、

その最初の遠征についての時期の比定はやや明瞭さを飲い

これに封して、

冨叶

の校訂者であるラザヴィ

l氏は、同書の註において綿密な考詮を行い、彼の遠征を一七五

(

一七六九l一七七

O年の三回と結論づけている。

O年後半、

一七五回|一七五五年、

このように、

アフマド・シャ

lのホラ

Iサ

lン遠征について、事責関係の確認すら見解が分かれる要因は、記述量が少

Page 13: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

なく、

さらに諸史料の年代等の記述があいまいなものが多い上に、特に第一回と第二回については、遠征の過程が結果的

にかなり重複して混飽を招きやすかったことが奉げられる。結局は、信頼の置ける同時代史料が不足していることが最大

の原因であるといえよう。

はアフマド・シャ

1自身が自らの事績を記録に残すために書かせた史料であり、彼の業績については

数少ない信頼の置ける史料である。そして、〉

ωrでも基本的には冨叶と事賞関係の記述では大きな相違はなく、結局

は、ラザヴィ

l氏の示した回数と時期とが裏附けられることになる。ここでは、このニ史料を中心にしてアフマド・シャ

その貼で、

〉∞}H

ーの第一回と第二回のホラ

Iサ

lン遠征を検討し、その問題黙を指摘した

い。

第二節

第一回遠征の経緯

一七四七年の即位後、東進してガズナの

ENロmw・カ

lブル

にはラホ

lル

FFDHまで征服した。東方で一定の成果を上げたアフマドには、

アフマド・シャーは、

阿ハ与o-を支配下に入れ、

一七四八年

-187-

ヘラlトからホラlサ

lン方面が残され

ていた。

ドッラ

l=l朝から見れば、

ナlデル・シャl暗殺後の政治獲動により、

マシユハドとの関係は緊迫したものになって

いた。既にへラlトを制匿していたアフマド・シャlに劃し、ソレイマlン二世はヘラlトからカンダハ

Iルまでの領有

権を主張する書肢を迭ったため、怒ったアフマドは使者を慮刑したほどであった(豆、

E∞・富田、叶530このため、

ソレィ,マ

ーンはベフブlドやアミlル

・ハlン

〉BM同開冨ロメ

冨阿佐冨釦間同をへラ

lトに涯遣して征服し、

(

ミlル・ハlンは駐留軍としてへラlトに留まった(豆、吋怠ムタ冨巳,HNδ。駐留軍は第二次政出演を知り、動揺は隠せなか司

ベフブ

Iドとア

-E、、、晶、

辛れふ

μ

かろうじてへラlトの保持とアフガン軍への警戒の姿勢を保った。

377

一方、第二次政獲で身の危険を感じて脱出したアミ

Iル・アラムは、

カンダハ

Iルのアフマド・シャ

lの許に至り、

Page 14: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

378

シュハドの欣況を惇えるとともに、

ホラ

lサ

lン遠征を進言した(〉ω}MHOS-52)。これによって、アフマドはホラlサ

l

ン遠征を決意し、

まずへラlトへ向けて進軍した。

〉ω一戸などには出陣の具韓的な日附の記述がないので、

正確な時期は

不明であるが

二月九日の第二衣政饗後であることは明白であり

かペコ

ωrHOmνσ

に、

一七四九年二一月より始まるイ

スラム暦一一六一二年のノウルlズ以前にアフガン諸軍に召集がかかり、参集の後カンダハ

Iルを出陣したとあるので、

七五

O年三月後牢か四月頃と推測される。

アフガン軍はへラlトに入ると、これを包闇攻撃し始めた。これに劃して、

シャlロフからへラlトの将軍

E丘町

tこ

任じられていたアミlル・ハlンは防衛に努めるとともに、

マシュハドに援軍を要請した。

これを承けて、

ユlソフ・

アリlはシャl戸フを擁して出陣し、

一lシャープ

lルを鰹てトルバテ

へイダリエ

吋O円

σas叩恒巾一円同由巳ヨ巾

に至った

(〉

ωEH∞白

13。ここでユ

lソフ・アリlは本接地のカラlト方面がウズベク系に襲撃されているとの連絡を受け、

他の武賂たちもアフガン軍の強大さに恐れをなして、

念ぎ

-188ー

開還した。

さまざまな口貫主脱落してい司た(〉ωYHH∞30シャ

l

ロフはアミlル・アラ

ムに書肢を迭り、蓄罪を赦すとして関、還を促した。これを受け入れて、彼は赦しを乞うて服従した

阿住民の征服に手間取り、同地に足止めされること

(〉

ωrHHElHNO白〉。

しかし、

シャ

lロフは服従せずに抵抗するハlフ

になった。

アフマド・シャlはへラlト征服を急いだ。既

(

に包圏は四ヶ月に及び、市内は飢餓朕態で悲惨な朕況になっていた(〉ωEMMF52)。シャlロフの援軍がなかなか来ない

シャlロフ軍が接近しながらも途中で手間取っているという吠況から、

ことから、

アミ

lル・ハ

1ンは限界と考え、

アフマド・シャIに降伏した(〉ωERε。

ヘラlト陥落の知らせを受けたシャlロフ軍には動揺が廉がり、軍は四散してしまアた。

シャlロフ自身もかろうじて

マシュハドに逃げ謂ったが、身の危険を感じて、クルド系のモハンマド・ジャアファルに援軍振遣を要請した(〉ωFEY-

(

)

52〉。進軍してきたアフマド・シャーはシャlロフとの舎見を要求したが担否されたため、マシュハドを包園攻撃した。

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ド軍は大いに動揺して多くは諦還し、

アフガン側は軍の一部をクルド地匿に涯遣してモハンマド・ジャアファルらを破司たため、

マシュハドの防衛軍は縮小することにな?た(〉gEE)。

マシュハドのクル

その一方、

こうした中で包圏は四

O

日開緩いたが、戦局が不利なマシュハド側は結局降伏することとなった(〉gES130おそらく、

(

)

思われる。この後、

一七五

O年秋のことと

アフガン軍は、

ハプ

lシャlン、

シャ

ノレ、

サブゼヴァ

lル∞与

N2同町などを征服して、撤

退した(〉ω広島rlH品目

σ〉。

こうして、

ホラ

lサlンはアフマド・シャ

lの影響下に置かれてしまった。この遠征の際には、

ホラlサIンの諸勢力

は二度の政揮をめぐる劃立闘係をほぼ解消して一時は連合してアフガン軍の侵攻に備えたが、結局はその軍事力に屈して

しまったことになる。

第三一章一

アフマド・シャ

Iの第二回ホラ

lサlン遠征

-189ー

第一節

ホラ

Iサlンにおける内部抗争

アフマド・シャlのホラ

1サlンからの撤退後、

トルコ系のユ

lソフ・アリ

Iがマルヴ宮

R4近郊にまで進軍したこ

マルヴ軍がこれを追ってマシュハドにまで侵攻し、これを占領した。これにより、

マルヴ知事官

ZB

とがきっかけで

のアリ

l・ナキ

I

メ-ZZ同門口問「山口、が、

これに反裂したのが、

一時、全ホラ

lサlンの太守芯宮ゲゐrzf骨を稽するに至った。

グルド系のモハンマド・ジャアファルとアラブ系のアミ

lル・アラムである。彼らは共同でマル

ヴ軍をマシュハドから追放することに成功した。そして、南名はシャlロフの下でヴァキlルを務めることになった(〉巴

呂町白)。この事件では再びホラ

lサlン諸勢力の共通の意識が働いたともいえるが、

一面では、アミ

lル・アラムがクルド

379

系と結ぶことによって、ュ

lソフ・アリーが第二女政襲によって獲得していた貫擢を奪回したとも解揮できる(〉出8Y)。

Page 16: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

380

アミ

lル・アラムは、

マシュハドをモハンマ

・ジャアファルに託して

ハーフの卒定とへラ

lト侵攻を園ったが、

の途中で、

アフガン軍に大敗を喫して、

本接地の一つであるトゥ

iス

叶口印(現、フェルドクlス

FE05)へ落ちてい

た(〉ωE250アミ

lル・アラムはクルド軍が援軍に駆けつけることを期待していたが、

モハンマド・ジャアファルは

これを機舎にアミ

lル・アラムから距離を保とうとしたため、雨者の閥係は悪化した(〉ωE8白〉。

このため、態勢を立て直したアミ

lル・アラムは

一二ハ五/一七五二年早春には

マシュハドに騎還し(〉ωESF)

モハンマド・ジャアファルを追放して、代わってユ

lソフ・アリーを呼び寄せた(〉

ω52品。南者は姻戚関係を結び、新

たな同盟関係を構築した。これはクルド系に封抗するための同盟であり、名目的には盲目のシャ

lロフを立てながらも、

ホラlサ

lンでの覇権獲得のために、奮来の封立・抗争関係を超越して同盟が結ぼれたことになる。

つまり、

アラブ系の

アミ

lル・アラム

クルド系のモハンマド・ジャアファル、

トルコ系のユ

1ソフ・アリ

lの一一一勢力を軸にした、劃立・抗

これに封抗して、

モハンマド・ジャアファルはクルド系を糾合して

マシュハドに進軍した。

アミ

lル・アラム、もユ

l

-190ー

手の園式が明確になった。

(〉

ω523、代わって、

モハンマド・ジャアファルがマシュハドに入り

四ヶ月経って多が近づくと、南名ともマシュハドを捨てて、各々の本接地に撤退し

クルド系が貫擢を回復した(〉ωEg同)。

し台、

ソフ・アリーも寵城して抵抗したが、

一一六六/一七五二

l三年、アミ

lル・アラムは兵を集めて、

マシュハドに進軍した〈〉

ω50邑18∞白〉。戦闘の結果、

マシュ

ハドを再征服したアミ

lル・アラムは、

ユ1ソフ・アリーを呼び寄せて、

モハンマド・ジャアファル追尾に同行さ

せた。ラ

lデカ

1ン河包岳削ロでそハンマド・ジャアファルを捕えたアミ

lル・アラムは、

(鈎)

ーも捕えてマシュハドに、迭り(〉ωES品、

やがて策略でユ

lソフ・アリ

いずれも盲刑に慮した。

これによって、

アミ

lル・アラムは劃抗相手のユ

lソフ・アリ!とそハンマド・ジャアファルの双方を倒し、

ホラ

lサ

ーンでの寅樺を掌握したことになる。

Page 17: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

第二節

第二回遠征の経緯

一二ハ七年問旦与月八日/一七五四年五月一日、

にカンダハ

lルを出陣した。途中、アミ

lル・アラムの本接地であるカ

lエンやタパス吋与Bなど南部の各地を征服し、

このような朕況の中、

アフマド・シャ

lは第二回ホラlサlン遠征

マシュハドに向かった。

マシュハドで質権を掌握したアミlル・アラムは、自らホラ

Iサlンの太守と稽し、

(

置き、同地方で紹封的な擢力を掌握しつつあった。しかし、アフガン軍の侵攻を知ると、

(〉ωrNN舎〉、蔑された者たちがマシュハドの防備に嘗たることになった。結局、アフガン軍先遣陵による包園戦となり、

シャ

lロフを完全にその統制下に

彼はサプゼヴァ

iルに逃走し

謬着朕態が績いた。

アフマド・シャーも初回目

ZE月二五日/七月一六日、

マシュハドに入った。

アフマド・シャ

lの命でアミ

lル・アラムに劃して涯遣された追尾軍はサブゼヴァ

lルを包圏し、

これを捕えた(〉ωr

-191ー

NUNr)。ハブ

lシャ

lンに、途られたアミ

lル・アラムは

モハンマド・ジャアファルの慮遇などで彼に復讐心をもってい

たクルド系によって殺害された(〉ω78F-豆、『毘)。

ようになった(〉ωr浅町田官。白〉。

マシュハドでは包囲戦が績き、次第に簡城する市内の献況は悲惨なものになり、市民の中から和卒を求める撃が奉がる

結局、市民からの強い要請もあり、

ω同町民月一六日/一二月二日、

シャ

lロフはアフマ

ド・シャ

lの許へ行き、

日/一一一月五日、

謝罪した(〉ωzb曲130シャ

Iロフは三日開アフマド・シャ

lの陣替に滞在し、

アフマド・シャ

lは市内に入り、

ジャ

lメ・モスク

ω陣内白円月一九

冨白田』色'巾同副自巾,で彼の名でホトベ

770守叩が讃

まれ、貨幣が刻印された(〉

PN品仏国ぴ)。これによって、

アフマド・シャ

lの宗主権を認めたことで、

シャ

lロフはイラン

の王位に留まることが認められた(〉ωE860

381

一方、アスタラlパlド方面に逃走した者たちに劃しては

アフマド・シャ

lはシャ

l・パサンド

ω『帥r

H

M

出回同ロ仏穴ゲ削ロ

Page 18: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

382

に討伐命令を出した(〉ω一時間NS。〉ω「によれば、

シャ

l

・パサンドはニ

lシャープl

サブゼヴァlルを経てアスタ

lパlドに進軍したが、水や糧食も輩きたためにやむなく撤退した(〉巴8SIN260

しかし、

カlジャ

Iル朝期の史料によれば、このあたりの経緯はかなり異な司たものとなる。それによれば、

モハンマ

はシャl・パサンドに劃して軍を波遣し、南軍はサブゼヴァlル近郊で

(

)

1ジャ

Iル軍の勝利となり、アフガン軍はマシュハドへ逃走したという。この件について

は、比較的中立の立場と考えられる冨吋誌|誌にも同様の記事が見られることから、シャ

1・パサンドはカ

Iジャlル

ド・ハサン

冨or白55包出国印田口

同ハ「山口

OMH』同門

その結果、

軍に敗れて撤退したものとするのが安嘗だろう。

いずれにせよ、

アスタラ

Iバ

lド制匪軍のマシュハド撤退によって、

フマド・シャ

1の第二回遠征は終了した。

アフマド・シャーがなぜこの時期にホラlサlン遠征を行ったかについては、

不明確な貼もないわけではない。

し台、

-192ー

アミ

lル・アラムがモハンマド・ジャアファルやユ

1ソフ・アリーを倒し、

ホラ

1サlンで確固たる地位を築きつつ

あったため、それを打倒することが大きな目的の一つであったものと考えられる。

(

)

アフマド・シャlはしばしばインド遠征を行ったが、それに劃して、ホラlサ

Iンには三回しか行っていない。こうし

たことから、彼がホラ

lサlンをさほど重視していなかアたのではないかとも推測することはできる。

しかし、彼の三回

のホラ

1サIン遠征嘗時の賦況を検討すると、同地方の政治的な轄換貼に遠征を行っていることが剣る。第一回遠征は第

二次政饗の直後、第二回遠征はアミlル・アラムという地方勢力が事買上ホラlサ

iンの貫権を掌握した直後というふう

に、ホラlサlン内部での勢力関係に嬰化が起こったときに寅行されている。

シャ

lロフの二人の王子、

一七六九|七

O年の第三回遠征も、ここで

は詳しく検討する徐裕はないが、

)

成長と蓋頭とは無縁ではない。

こうしたことから、

ナスロ

γ

ラIZSHo--F冨MHN仰とナ!デル

Z包2冨回目仰の

アフマド・シャーは決してインドに較べてホラlサlンを軽視していたわけではないことが推測で

Page 19: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

きる。

ホラ

1サlンに強力な勢力が形成されそうになると、それを倒すために進軍しているのである。その代わり、それ

以外の場合には、基本的にはシャlロフの地位を認め、それへの影響力を保持するのに留めていたものと思われる。そう

したことからも、

アフマド・シャ

1は、

イラン西部への出口としてのホラlサlンの位置に一定の評債を輿えていたよう

に思われる。

童五ロロ

本稿では、

一八世紀中期のホラlサlン情勢を、特に同地方の地方勢力とアフマド・シャ

Iに注目しつつ、検討してい

った。その結果、二回にわたる政獲が皐に

マシュハドにおける王位をめぐる抗争というだけではなく、

ホラ1サlンの地

方勢力の周遣の諸勢力に劃する危機感の表れであるとともに、彼らの内部での封立・抗争の結果でもあったことが明らか

アフマド・シャlのホラlサ

Iン遠征も、このような同地方の動向と無関係に行われたのではなく、む

しろ、こ

の地方の情勢の襲化と密接に関連して行われたことも明白になった。すなわち、ホラ

lサlンの動向はドッラ

l

-193ー

にな

った。また、

一I朝の動きと連動していたのである。

このような朕況は、史料の面からも指摘することができる。本稿では、従来はドッラlニ

1朝の史料としてイラン史研

究ではさほど関心の掛われてこなかった〉ω「を基本史料の一つとして利用した。〉ωrは従来贋く利用されてきた

冨吋

や冨曲、吋などの

「イラ

ン側」史料には見られない記事を多く掲載しており、史料の乏しい賦況を補っていた。特に、〉巴

や冨白叶

はサファヴィ

1家縁者の執筆したものであり、

たとえば、第一衣・第二次の政慶に閲しては、嘗事者の家族によ

る史料ということで、利用の際には細心の注意が必要である。それに劃して、

害関係の少ない立場から書かれており、その記述は信用できるものと考えられる。 〉

ωrはこれらの事件については

より利

また、ホラlサlンのさまざまな扶況

383

を停える貴重な記事が含まれていることも明らかになった。

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ザ∞的

〔関係系圃〕

宮、

〔サファヴィ一朝〕

Shah・Abbas1

Zobeide Begom ~a白 Mirzã

I Shah Safi

Jah-Ba凶 Begom I I Shah・AbbasII

・EzzSharaf Begひm Shah Soleiman 〔アフシヤール朝〕

M凶 M陥。伽}:!a加a釘mma吋dD防a訂v刈o吋d干 S斗h4ムムιL」」th』1汀rB白昌nu山 E阿。剖叩m S泊ha討油h巾Sお。liι(

I I Mir Seyyed Mocammad Fateme Solt品nBegom守=R匂 aQoli Mirza ‘Ali Shah Ebrahim Shah

(Shah Solei皿 an11) I ('Adel Shah)

Shahrokh Shah

制御 DalodMI凶 Moham」adHashm s l I (ADの著者) '" ! Nasrollah Mirza Nader Mirza

Mirza Mocammad Khalil (MaTの著者)

Page 21: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

385

イラン

タJ(スTabas

トゥーンTiin

関係地図

トルクメニスタン

-195-

凡例

現在の国境線

主な道路

o 50 100 200 km

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386

もちろん、

〉ω『もその史料的な性格上、

アフマド・シャーやドッラ

lニl朝についての記述については、利用には注

意が必要となる。

たとえば、彼のホラ

iサ

1ン遠征について検討する場合がそうである。嘗事者であるがゆえに記事の量

は豊富であるが、

それをどこまで信頼できるのかについては慎重さが要求される。

ジャ

lル朝期の史料などと比較掛照することで、

しかし、

その場合でも、

宮司

やカ

l

かなりの部分で利用できることも判明した。こうしたことから、〉∞『な

どのドッラ

l

一一I朝側の史料であっても、

一八世紀中期以降のホラ

iサ

lンを検討する際に、利用するに値することは明

白であろう。

このように、従来、

ほとんど着手されていない一八世紀中期以降のド

γラlニl朝期のアフガニスタンの諸問題の中に

は、イラン史を検討していく上で、併せて考察されるべきものが少なくないように思われる。前近代末期のイラン史を考

えていく上でのアフガニスタン研究の必要性は再認識されるべきだろう。

註(

1

)

木稿におけるアフガニスタン関係のベルシャ語表記の母音

の鱒篤は、とりあえず現代イランのベルシャ語の場合に準じ

ることにする。

(2)

このような見方は、

EozZ♂〉-uh¥hFおきた晶子|図式F

gbい官。L

刊の322H(口一回国nP58)司・ミなどの概読書にはし

ばしば現れる。なお、現在のアフガニスタンでは、アフマド・

シャーを「アフガニスタンの父(切削

E1可。〉同my山口巾印円山口)」

と呼んでいる。

(3〉この問題を考察する際、一九世紀初頭においてすら、アフ

ガニスタン西部の住民は自らの居住地域を

「ホ

ラlサ

l

ン」

としていたとするエルフィンストン宮・巴

ZFESSの記述

-196ー

を紹介し、庚義のホラlサ

lンの存績の可能性を示唆するゴ

マンズ氏の見解(の0552∞-

-HL同コ

ZE足。」Jth辺、。.

K同

¥hbおWN同連

Byz-円・』ご。』可句。・戸色彩P

巴8wHYZ)や、

一九九二年夏に、バルフに、逼じる街道沿いに「ホラlサ

l

ンへょうこそ」とのベルシャ語の表示があったという詮言

(F2・同・「一吋官民hsnN.3H句史、

22お円ハ

YWW毘、gbE-人占¥目

hphHWMPHQ滋

GNP内切bHHP¥。、旬。~bbw

』む』l』百三wHL包含P

58u

同】

-Yロ-H)

などは、貴重な判断材料となるであろう。

(4〉〉ロのフォリオ数は、原文のものと大英園書館で付したも

のとの聞に、一二頁の開きがあり、前者の方が少ない。これ

は、後世の人の目次と表紙を後者が数えていることによるも

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387

のである。本稿では、後者に準接することにする。

(

5

)

〉むの著者、モハ

ンマド

・ハ

lシェムはセイエド・モハン

マドの五男、宮曲吋の著者、ミ

1ルザl

・モハンマド・ハリ

ールはセイエド・モハンマドの孫(長男ソルタlγ

・ダ

iヴ

ォド

ωoEロロ雪O

門目の子)である。また、宮、吋の著者、ゴ

レスタlネはベンガルのそルシ

ェダ!パ1ド富良町ZEr邑

に亡命中の

一一九五|六/

一七八一ーー二年に同書の執筆にと

りかかったが、その際、同地にいたソルタIン・ダlヴォド

の回想を参考にしたという。〉ωrをも含むこれらの史料に

ついては、とりあえず

FR予』-HpwN門RH

ミヨ内宮司

NS礼|入由

民rH。、見。L

『hw-ap』一ぷ一戸』1uw唱(

ur呂田問。白ロ仏円。ロιopH也、吋由一)

の史料解題(宅・

8ω1ωH3の該嘗箇所を参照されたい。

(

6

)

〉ω『執筆に至る経緯や著者のマフム

lド・アル・ホセイ

ニーについては、のど芦富山よ】曲、同oph・一切回角川、同巾民国内UM3b可知・州-

h

h

h

L

官注おや肉、bh札制・宍

-r玄

onEPE記・

2勺-NNlNω

を参照

されたい。

(7〉ホラlサ1ン・クルドについては、さしあたり問。自由rr

ω-u附ハ

ro円曲目白ロ』ロチ刊明白HqHU任。再三日可(nn

同】宮、。R3b目

。¥旬。』VEQbhR昌忠臣、

Ha.w・5・H83・司・∞印を参照された

い。なお、上記の小論は拙稿ご九世紀初頭のホラlサlン

||初期のカlジャlル朝についての一試論」(『上智アジア

翠』、一

O、一九九二)の改訂英語版である。

(8〉カlジャ

lル族のそハンマド・ハサン宮of曲目白色恒国的田口

州内}回削ロ02同門(カlジャ

1ル朝初代アlカ1・モハンマド

父)もこのときシャl

ロフ側に走った。

(

9

)

管見の限りでは、ナlデル・シャl期の史料にはこ

のこと

は現れない。

(印〉この背景にはエプラlヒlム軍内における、キズィルパ!

シュ系とアフガン系・ウズベグ系の針立閥係があったよう

で、離反してコムに逃走したキズィルバ

lシュ系をセイエ

・モハンマドは保護している。〉uaσ18釦も併せて参照

されたい。

〈江〉拙稿「ザンド朝の成立過程について||一八世紀イラ

ン政

治史上の諸問題」(『上智アジア率』、五、一九八七、以下

「ザンド朝」〉四二|四三頁。

〈ロ)〉

USF12白と冨曲、H,Hsi--Hには、こ

のときセイエド・

モハンマド擁立に走った一六名の氏名を以下の通り奉げてい

る。(〉-円は本接地名。

〉BH円

R

〉}同ヨ阿ハ

r副ロ同ハゲ白色自由(カ

l

エン)・回目rrD《同

開ハゲ削口

、H,幽門前門冨由同〈(アトク)・〉}戸自陣仏関冨ロ切白河帥ス-一

lシャ

ープlルγ

(玄o-v白BB邑)同曲が司同r削ロ問。三

(ハブ

lシャ

lン〉・去。官自白色司ORZ同冨ロ欠。丘

N民同同削己口(ハプ

Iシャ

l

ンγ】wr同笹口同回開}戸仰ロ問。同品

開内四円」『削ロZ・同国円同日同}戸伺ロ回

OHro円相宮同}戸島

00町貝ゲ帥ロ

(UY

口}5・冨同ロ咽口同州内冨ロ

ω-zrzgち♂〉自同列}戸削ロ

冨回目r

z白凹丹

、H,口喝

nz'r同研rp宮司N

帥〉

gzr・宮町N

ωげ回目印曲

-a口同ロ冨0525包穴白]帥口宮♂宮司N

ωgq

zo日円O口問聞と'宮白ロ邑巾「吋白σHRHU

(冨

orgg邑〉恒曲目白口

同ハ「仙ロ

σ・明白円グメF-H

同ゲ削ロOU』同同(アスタラlパlド)"

ωω-HBHハ冨ロ国内問一白与問問則自一克也『

2・叩同月同日削ロ印EEP

-197-

Page 24: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

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Divanbegi.ye Sarkar-e 'A手mat-e

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].; The History o

f

Persia from the M

ost Early Period to the Present T

ime

(2vols.,

London, 1815

, repr.

, Tehran,

1976),

vol. 2,

p.112

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)J't-':';!>v~l1起

点。

(弐)

Perry, 1 R.;

The Last

Safavids,

1722-1773 (“Iranヘ

9,

1971),重1:

11pp.65-66.

(同)

f‘令

λ弘容j'困111可。

(~)

f'}入弘容j'固

11一国川回。

(~コ)~J ~

11吋v遥.{2~話馬士三,

~\~v

-\J"" 1 rく110叶乞

E事例

't-'~心

~.{20Komaki, op. ci

t., pp

,95-96.

(虫)

AD102a-102b,

MaT120-121 11吋~

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Sharaf Khan b

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mlr Aslan

Khan Qarqlu

~ãle~ Khan Bayat (トトーえ

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J

VakIl.e Saltanat

QorchI-bashI

Page 25: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

389

されているが、賓際には幽閉されただけであった。〉ロHME

によれば、一一七六年四

OmE巾月六日/一七六一年六月九

日に浸した。

(幻〉

FZE・。・アE.助言.2npNukg民335町内、号室、注号宮内

町内。ユヨ切己主、HhHミlb¥hFRS町同HRH苫"凶由民bbnHEuhF叫

dp

』G04aミ丸町、ミこなれな

3帆

wzg忌ah同臣、和宮内骨同島丸民、

内、HRHFw口~日匂・

hast-内お』UMM

礼儀川町志向町、hu』UWAS-』白』句

b-U・

(〉自由件。包白

FH申叶O〉所枚のベルシヤ語テキスト、回以・由・

(お)カlジャlル朝後期の代表的な史書である氏一目、開主、

SR岡、苦・ぬミhwh

司刊wwにおいても、カlジャlル王家の租

であるそハンマド・ハザンと関係の、深い一七五四1

五年の第

二回遠征を暴げているだけである。

Hqgg邑白

--rfsu

目、SF4足SHag-内弓削町内、制(向島・

SHUS4F冨-HW-L

40-y、H,mrH同PHω815m斗¥HS品15g)"40--Nwu-HHE-

〈担

)ω山口mr"の-LFヨミ

hSQFNVミミミl

p号、。¥足。丸、

3

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¥hFおおなHb滋(図。ggu〉のと22pzo語口市]Zhw玄白骨回目w

H

由日由)・

(お

)Huss-富山

HhadbhF刊

g叫

3CR哨刷宮ミミ♀bヤヤふ(豆、H,

編者による同書の註と解説)宅・

8叶企品・なお、アフガニス

タンにおける代表的アフマド・シャ

I研究であるの

ZEF

富-CY呂・山み~:司令、句bbbNwbF制'河内与

¥hFhw同(

rofHωNN¥

58品〉ロE匂-N∞・

8・2U8・特に

]YNHHの註、もその設を

採用している。

(お)ホラ

1サ1γ軍のへラlト征服の際、アフガン側でへラl

ト防衛に嘗たっていたのはアフマド・シャ

1の長子テイム

l

ル、吋柏戸自身(後、シャ

l)であった。彼はホラーサ

Iン寧に

敗れ、ヘラlトを放棄して逃走した(宮叶Su宮白H,

HNd。

(幻)包園の期聞については諸説ある。豆、吋包は九ヶ月とし、

ゴパール氏は一四日開としている(のzr削♂口、丸HJ句-NHC。

しかし、一七五

O年早春に出陣して、後述の湿り、同年秋に

はさらにマシユハドも降伏したとするならば、〉ωrに従っ

て、四ヶ月とするのが安蛍であろう。

(却)〉ωEωωσ

によれば、これに感じて波遣されたクルド系の

武将たちは、次の遁り。

zz-仏RbFiU

同「同ロ(モハンマド・ジャアファルの兄弟)"

ogg自主岡山忠削同冨ロ問。冨ロEP宮of曲目白色出血明田口

烈}戸川同ロ切包Z・何日

)HMW}

回目白附岳帥口問冊目〈山口】P

開げ同位回目日

間}戸削ロ回同ぬげ削一可AWH

同・

(却)HMmHHUコ』門司民連肉、vbwNNSEA-u・∞・なお、たとえば、

ωZmr・

也、・円帆?"宅・∞∞

lgのように、マシユハド征服の際、アフマ

ド・シャーはアフガン側宗主権承認を篠件にシャlロフのマ

シユハドでの地位を認めたとの見解があるが、少なくとも、

〉ωr・冨吋にはそのような記述はない。その一方で、〉ωr

zguには、かつてのへラlトのサルダIルのアミ

1ル・ハ

lンがホラlサlンの軍司令官お宮

Z包骨に任じられ、ア

フガン軍と行動を共にしたとの記事がある。アミ

1ル・ハ

l

ンはアリ1・シャ

l時代からケルマ

1ンシャ

l宍民自白ロ∞EY

要塞の守護を任され(豆、吋NC、カlジャ

Iル族のモハンマ

ド・ハサンと同様にエブラ

Iヒlムから離反して、シャ

Iロ

フに従った人物であった(豆、叶ω日)。へラlト陥落時にアフマ

-199ー

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390

ド・シャ

lに服従したことから、この地位が輿えられたもの

と思われる。アフガン軍はホラlサ

lンでは激しい抵抗を受

けたために(閉山田81・。、・

2.HJ

-83、少しでもホラ

lサ

l

ンとの関わりの薄いアミiル・ハ

lンを登用し、同地方を勢

力下に置こうとしたものと考えられる。

(

ω

)

アミlル・アラムはユ

iソフ・アリlの本接地であるカラ

ートに保管してあったナlデル・シャ

lの財賓の略奪も行っ

た(〉ωYNSVNHO白〉。

(引品

)HN白包2・。、・円台・匂-

AF

OAF-

なお、彼は慶王セイエド

・モハン

マドに自らの子を王にするよう求めたが、担否されたとい

。たつ

(

M

M

)

P

向。一E55白ιm,m伊

fc-zrσ・宮o吉岡ロヨ白色吋白色∞仙門口JU

吋b'

ユ主4

ミ。官ヨヨねら

1b骨MgbNa同]白誌ユ主

(吋白EE】卸」

ζとpor・河-opwH,。73p広三¥HSN13・E・81ω寸・

(お〉スイング氏によれば、八回である。

ω吉間y。、町民同

(川品)第三回遠征については、さしあたり〉

ωESωlEFw冨吋

HHωHHUを参照されたい。ザンド朝期の史料では、

今のとこ

ろ、

krEと・出

820Z宮町同阿内問団

EZPES・内ミ口、足

(吋曲冨宮

EJ呂町凶E・。r・

pa--吋

SSF52DSC16・宅-

gωlg∞が最も記述内容が豊富である。

-200ー

Page 27: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

the situation of competing various powers, the China Maritime Customs

became apower independent from the Chinese government. The Maritime

Customs maintained a neutral position by functioning as an intermediary

in Chinese politics. In the period when. Aglen was Inspector General 0f

Customs, it began to participatein Chinese politics. The Maritime

Customs had two anchors to secure it: the security it provided for foreign

loan obligationsand the securityit provided for Chinese investments. But

as internal politicalopposition intensified,Aglen thought it wise to conso-

lidate another base of power. Aglen demanded the support of district

authoritiesfor Customs administration. In other words, he intended the

Maritime Customs to become in part a central government organ and in

part an organ of the provincial government. He aimed to realize this

intention by participatingin districttax collection. The Peking Special

Tariff Conference was to be the forum in which Aglen's intention was to

be realized. However, the Special Tariff Conference did not proceed

according to plan, and Aglen's designs were not realized.

KHORASlN IN THE MID・EIGHTEENTHCENTURY:

THE DORRANiS AND THE afshArs AFTER THE

     

ASSASSINATION OF NlDER SHAH

            

KOMAKI Shohei

  

Major politicalchanges occurred immediately following the assassina-

tion of Nader Shah Afshar in 1747. A struggle for succession took place

among the Afshars in Khorasan, and in the end, Shahrokh became ruler.

However, two coups occurred in 1749 and 1750, and once Shahrokh losthis

power.

  

Local powers in Khorasan played important roles during these

disturbances.

  

When threatened by enemies from outside Khorasan they

united, however, when not facing such a threat they repeatedly struggled

for power among themselves. Ahmad Shah Dorrani made two eχpeditions

under such circumstances, and in conquering Mashhad he forced Shahrokh

to submit to him. Following this,he acknowledged Shahrokh's right to

                   

-5-

Page 28: Title 一八世紀中期のホラーサーン : ドッラーニー朝とナーデ …...366 八世紀中期のホラ i サ i ン ーーードッラ l ニ 1 朝とナ l デル・シャ

rule in this area. Khorasan then came under the powerful influence of

the Dorranis. χVemust not ignore the role of the local powers and the

Dorranis in an attempt to reconstructthe politicalsituationin Khorasanin

the mid-eighteenth century.