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九州大学学術情報リポジトリ Kyushu University Institutional Repository Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy between Tanizaki and Akutagawa 高木, 雅惠 九州大学大学院比較社会文化学府 https://doi.org/10.15017/27322 出版情報:Comparatio. 16, pp.1-14, 2012-12-28. Society of Comparative Cultural Studies, Graduate School of Social and Cultural Studies, Kyushu University バージョン: 権利関係:

Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

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Page 1: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

九州大学学術情報リポジトリKyushu University Institutional Repository

Prosper Mérimée's Colomba in the LiteraryControversy between Tanizaki and Akutagawa

高木, 雅惠九州大学大学院比較社会文化学府

https://doi.org/10.15017/27322

出版情報:Comparatio. 16, pp.1-14, 2012-12-28. Society of Comparative Cultural Studies,Graduate School of Social and Cultural Studies, Kyushu Universityバージョン:権利関係:

Page 2: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

芥川とメリメ

「小説の筋」論争をめぐって

i

高木雅恵

誌じめに

芥川龍之介が谷崎潤一郎との踏で展開した論争は、ァ小説の筋」

論争〈一)とされている通り、小説の鰐が芸術的であるかどうかにつ

いて争われていたが、芥川の死によって終わりを適えている。瀕

死の状態にあった芥川は、論敵の谷騎潤一郎に宛て、英訳された

メリメ宅

882冨私立話合同∞O駒山∞吋むの『コロンパ』〈門川氏。控除F

M

∞hS〉を送っている(長。弊川においてメリメの一JJ口ンパ』は荷

を意味し、谷崎潤一部に何を伝えようとしたのか、芥川における

メヲメの問題を、谷時潤一郎との掲の「小説の務」論争を中心に

考察した。

一、芥川龍之介と谷崎潤一郎

芥川龍之介は、成瀬正一令一}と共に帝劇の演奏会の会場で、久来

正雄に教わり、谷崎潤一郎を初めて自にしたことを書いている。

成瀬と二人で帝劇のブイル・ハアモニイ舎を鰯きに行った。

(中略)久米はその人の姿を見ると、我々の耳へ口をつけるや

うにして、「谷崎濡一郎だぜ」と教へてくれた宮(中略〉谷崎溝

一郎論を少しゃウた。蛍時谷総崎氏は、在来氏が開拓して来た、

妖無難鑓たる就英主義の品に、〈中略)文字通り底鏡味の悪い

58gpH富hwM

を育て弘ゐた。〈中ー略)蝕に事織端的な繰裕があり

過ぎた。(四)

この文章は、大正人年に芥川が題、五年前を振り返って書いた

ものであるため、大正一一一、四年頃のものであると判断できる。大

正三年に大学進学している芥川が、後にフランス文学者となる成

瀬正一と共に見た谷崎を、

Eogg内田区宮包とフランス語で表現し

ていること除示唆的であるが、当時の芥川にとって、谷時はすで

に文壇で名を馳せた文人であり、享楽的で妖気漂う底気味悪い枇

英主義者であった。その谷崎潤一郎と芥川龍之介が、初めて面識

を持つのは、九一七都の一月、芥脱が谷崎のところを訪ねた時

に始まる。

「今年の正月に芥川君が二三人の友達と一緒に撲のところへ訪

ねて来て呉れた。その時・初めて会ったよ宝〉

谷縮問は明治十九年生まれであり、明治二十五年生まれの芥川か

ら見ると六歳年上にあたる。文壇においても、谷崎は和辻哲郎ら

と第二次『新思潮』を再創刊しているため、第三次・第四次『新

思潮位向を久米正雄らと再創刊している芥川に先んじている。従っ

て、谷鱒は年齢と文壌における活躍のいずれにおいても芥川に先

行する位置にあった。葬”が谷崎の作品に持っていた印象は、「底

気味の悪い」「徐に享楽的な余裕があり過ぎた」というものであっ

たが、それは芥川が谷崎について初めて書き記している「良工苦

i谷崎潤一郎氏の文撃

i」さにも見受けられる。谷崎が日本の

「クラシックいつまり古典に精通していること、また、博学ぶり

も挙げられ、谷崎の文章が「非常に豊麗」であると評されている。

「徐に享楽的な余裕があり過ぎた」また「非常に豊譲」とするこ

れらの芥川の谷崎に対する批評表現から分かるように、芥川は谷

崎の表現が過剰であると判断している。この谷崎に対する芥川の

批評は、同じく大正人年の時点で「鬼才」や「天下第一の奇文コ5

と称され、谷崎の表現世界は芥川にとって奇異であることが示さ

1

Page 3: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

れている。この谷識に対する芥川の批判的表現は年を追うごとに

辛練になってゆき、大正十五年には谷崎作品を、「世界中で一番汚

いことを書いた小説」(八)とした酷評となった。また、昭和二年一

月の「新潮合評会」では、谷崎作品を萎能的でないと批判し、論

争を展開するに至っている。

芥川は、このように文壇における谷崎とは立場を異にしてはい

るものの、お互いの家を紡ね合う間柄でありさ、谷崎の作品会も

とにして自らの作品を書いており〈辻、谷織の短歌の好みも知って

いた(十一)。論争中も、大阪で行われた講演会の日の夜に、芥川は

谷崎邸に泊まっており、翌日も一緒に人形芝居を見に行ったりし

ている(十二)。従って、芥川と谷崎との間の論争は、言わば親しい

間柄における身内の論争であったと言える。

「話の筋と一五ふものが勢術的なものかどうかと云ふ問題、純墾

術的なものかどうかとことが、非常に疑問だと思ふJ13

この芥川の谷時に対する新潮合評会での発言が論争の発端とな

った。そこでは、話の筋が問題にされており、自らの作品『薮の

中』を批判した上で、谷崎作品の話の筋が芸衛的なものかどうか

疑問を呈している。これに対し谷崎は「穣舌録」と題して、一方、

芥川は「文芸的金、余りに文芸的な」と題し、雑誌『改造』誌上

において互いに論を重ねる。芥川は最初に「話の筋」の芸術性に

疑問を同盟してはいるが、論争となる「文芸的な、余りに文接的ない

の冒頭では、「「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つで

ゐない。」として話の務を否定している訳ではない

D

芥川が作品に

求めるのは「小説の務」ではなく、「詩的誇持」にある。

「スタンダアルの諾作の中に漉り護った詩的精神はスタン、ダ

アルにして始めて得られるものである。ブロオベエル以前の唯

一のラルテイストだったメリメエさヘスタンダアルに一簿を輪

したのはこの問題に蓋きてゐるであらう。撲が谷崎潤一郎氏に

望みたいものは畢寛唯この問題だけである。」(十四)

こうして芥川が谷崎に求めているのは「詩的精神」であること

が示される。その「詩的精神」について谷崎に関われた芥川は、

「最も広い意味での行情詩」であると答えてしまった事実につい

ても明らかにしているが、非川は「詩的精神いの神火が作品の価

値を決めるとしているヰ30この芥川の「詩的精神」、また「小説

の筋」については、新潮合評会における谷崎批判の後、『改造』上

で谷崎に答える形で論争が始まるまでの関に、論争の場とは異な

った『演劇新潮』(十六)の演劇論においてすでに示されている。芥

川は「戯曲的興味の多い芝居には今はもう飽きあきしている。僕

は出来るだけ筋を省いた、空気のように自由な芝居を見たい。」と

し、筋に重きを置かない演劇を求めている。また、「僕は今は、小

説にもかういう婆求を感じている。勿論僕の一夜う所は筋のない小

説ばかり書けというのではない。問時に又、務のない小説を最高

のものと言うのでもない。」として、小説に求めるものを「筋のな

い小説」であることを示しながら、「筋のない小説」が最高のもの

と言っている訳ではないという立場にある。「ただ、筋らしい筋の

ない小説に出会いたい」としてルナアルを携に挙、げ、綿密な観察

の上に立った「詩的精神」の所有者だけが窪かに成就出来る仕事

をしているとし、「もっと沢山の広。mw

を」と一言いたい気持ちを日

本の文壊に対してい?も持っていると設うのである。芥川は筋の

ない小説を否定していた訳ではなく、新たな作品世界を求めて当

時の文壇を批判したのであり、九詩的精神」が大切であるとして、

演劇にも同じ世界観を求め、小説に同じぐ「詩的精神↑を持つも

ののみが成し得る世界があると説いている。

このように芥”が作品に求める「詩的精神」は、谷崎との論争

で芥川が提示している概念であり、芥川が谷崎に求めているのは

「詩的精神」であるとされている。論争で「詩的精神」を示す際

-2

Page 4: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

に、芥川はメリメとスタンダlルを挙げている。さらにメリメを

ブロベール以詰の唯一のアーティストであるとして高く評価した

上で、そのメヲメさえも力の及ばないスタンダ

lルにして初めて

得られる「詩的糧持」を谷崎に望んでいる。芥川は作品において

大切にすべきであるのは、この「詩的精神」であるとしている。

論争は谷崎の誤解であったと吉田精一はしているが

15、芥山川は

死ぬ間際に谷崎に『コロンパ』を送っており、いつ死んでもおか

しくはなかった芥川が、谷崎に送った最後の小説が吋3Mンパh

bなったこと辻、単なる偶然比過、ぎないとも考えられるが、芥川

は「『コロンパ』を読むべくんば、作者プロスペル・メリメエと共

に『コロンパ』を存る心を以ってせよ二(十八)と述べている。それ

では次に、芥mmとメリメについて見たい。

二、芥川龍之介とメリメ

けと共に早くから研究が行われてきた。自本比較文学会の『比較

文学』第一巻(昭和三十三年)には、大島正による「芥川龍之介

と回目。。更FFままさ芝市十九)で芥川におけるスペイン古典の影響分

析が見られ、また、開巻資料の項目では、木内やちょ・宝林和子・

太田三郎らによる「芥川龍之介と外国作家の寝係

l統計的調査

i」

において、芥”と海外の作家について、冨部、作家別の詳しい統

計報告がなされている〈二十)。作家別で頻度の高い順に挙げると、

トルストイ(一部五)、ゲーテつ

O一一一)、ボオ〔九十四)、ストリ

ンドベルグ〔七十四〕、イプセン〔六十七)、ツルゲlネブ土ハ十

七〕、に続いてアナト

iル・フランス〔六十〕となっている。盟関

となるとフランスが最も多く、フランスの作家別では最初にアナ

ト!ル・フランス〔六十二が挙げられている。この数字は作家

別での数字ど異なるため誤植と思われるが、続いて、モ

lパッサ

ン〔四十四〕、フロベエル〔三十九〕、ボ

iドレ

iル〔一ニ十七〕、メ

リメ一十六〕、ロテイ〕の艇となっている。今回取り上

げるメリメは、ボードレ

1ルとロテイの詩の頻度に位置している

ことが分かるb

芥川川において最も影響のあった国はフランスとい

うことになるが、近年では、フランス文学が専門の吉田城が、岩

波書店の芥川全集への編集協力をきっかけに(二十一)、芥川とピエー

ル・ロテイとの比較論を『仏文研究』(二士一)の場に発表しており、

また、「芥川龍之分におけるフランス文学の受容」(二士ニY

や「芥川

龍之介における異文化受容|明治開花織のイメ

iジ」〈一千四〉など、

芥川とフランスについて考察している。詩本でフランス文学を研

究する吉田城は、同じく日本においてフランス文学に目を向けて

いた芥川に何等かの共感を持ったとも考えられるが、芥川が吉田

城に論考を書かせたのは事実であり、芥山内がフランスを十分意識

していた事実は統計にある通りである。

芥川龍之介における海外文学、またメリメ受容については、芥

川の府立三中時代の英語教師、鹿瀬雄から貸し与えられた英訳書

に始まる事実を、文饗恭秋社にいた津村一一一木男が「仲介川と菊池の

友情」として岩波書店の全集月報{二十五〉に示している。作家を士山す

ようになった芥”は、西洋小説の翻訳によって筆ならしをしてい

た時代にあって、多くの海外文学がある中、アナトオル・フラン

スやゴ

iチエなど、英訳版仏文学の翻訳で文筆活動を始めていた

G

芥川が言及している海外作家は、先に見たように、ポオに始まり

ワイルド、トルストイやゲ!テなど多岐にわたるが、学生時代に

最も感動した作品は、ロマン・ロランの『ジヤン・クリストア』

であり、艇業をさぼってまで読みふけっていた事実在明らかにし

ている{二十六)。初めて親しんだフランス文学がド

iデーであり、ア

ナト

iル・フランスに対する讃辞、アポヲネlルの本の装丁と内

容の美しさに対する称賛、また、作品にはフランス語での読みの

ルピ、フランス語む原文の引用などが確認できるのであるハこす七)。

このようなフランス文学への憧僚は芥川に限ウたものではない。

芥川の一高時代からの友であった成瀬正一は、後にフランス文学

-3-

Page 5: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

研究者として九州大学法文学部の教授になっている。先に見たよ

うに、帝劇で芥川と一緒に谷崎を初めて目にしている芥川の親し

い友であった成瀬正一は、芥川の勧めもあってロマン・ロランに

傾倒し、芥川における『ジヤン・クリストア』が過去のものとな

った後も熱は冷めやらず、ロマン・ロランに会いにスイスのレマ

ン湖畔まで訪ね、紀行文「或夏の午後|ロオランとの一日」(二十八)

などにまとめている。その成瀬正一と共に、芥川は在学中に久米

正雄、松岡譲らと『新思潮』発行のための資金として、ロマン・

ロランの『トルストイ』の翻訳に取り組んだ。また、芥川のフラ

ンスに対する関心は文学のみではない。セザンヌやドラクロア、

ゴlギヤンやルノア

lル、ピカソやマテイスなどフラシス絵画芸

術に関する言及も確認できるため(二十九)、芥川はフランス文学・芸

術、いずれにも親しんでいたと結論できるのである。

芥川におけるメリメの影響については、『像盗』(大正六年)、『袈

裟と盛遠』(大正七年)、『秋』(大正九年)、『黒衣聖母』(大正九年)、

『或恋愛小説』(大正十三年)、『湖南の扇』(大正十五年)、『カル

メン』(大正十五年)(ロシアから来日したグランド・オペラ「カ

ルメン」をもとにした作品であるためメリメ作品の二次的作品)、

『歯車』(昭和二年)などにおいて、多々指摘されてきており(三十)、

芥川におけるメリメの影響は少なくないとされている(三十一)。

その芥川龍之介において最初に確認できるメリメへの言及は、

作品『開化の良人』における「口の悪いメリメ」となっている。

「あの口の悪いメリメと云ふやつは、側にゐたデユマか誰かに

『おい、誰が一体日本人をあんな途方もなく長い刀に縛りつけ

たのだらう』と云ったさうだぜ。君なんぞは気をつけないと、

すぐにメリメの毒舌でこき下される仲間らしいな。」合一干二ν

メリメの作品ではなく固有名詞と

Lてのメリメの発言が作品に

引用されており、十九世紀フランスのパリで、メリメが目にした

日本人武士の姿に関する発言が発話の形で作品内に表現されてい

る。メリメは万博で日本人を見かけているため、その時の話と思

われるが、芥川の目が向けられていたフランスにおけるフランス

人から見た日本人、メリメの視点で語られた十九世紀にパリを訪

れた帯万の日本人が芥川の作品内で再表現されている。続いて見

受けられるメリメへの言及もメリメの作品ではなくオペラ化され

た「カルメン」の音楽となっている(三十三)。「カルメン」に関して

はロシアのグランド・オペラが来日していたため、それを見に行

った事実が日記に確認できる。よって、この時代、ヨーロッパの

芸術が文学作品のみではなく、様々な形で受容できるようになっ

てきていた事実を伺わせる。芥川はメリメという存在を文学作品、

言説、舞台といった様々な形で.受容していた。こうした中、大正

八年頃には、芥川のメリメに対する明確な関心が見え始める。

ご年前から静かな力のある書物に最も心を惹かれるやうに

なってゐる。但、静かなだけで力のないものには徐り興味がな

4-

し、。

スタンダlルやメリメエや日本物で西鶴などの小説はこの

黙で今の僕には面白くもあり、

又ためにもなる本である。」(強

調は芥川による)(ゴ干四)

他の作家と共に挙げられているスタンダ

lルとメリメは、ここ

で芥川自身によって強調されていることが確認でき、同時に、そ

の理由についても明らかにされている。また、この意識を明らか

にしている大正九年に、芥川がそれまで親しんでいたゴ

iチエか

らは離れ、メリメを「不朽」の作品に位置付けていることも確認

できる(

集第三巻の序文にス夕ンダlルとメリメを比較して、スタンダl

ルはメリメよりも偉大ではあるが、メリメは芸術家であり、作品

Page 6: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

に揮成の掛胞を血〈える才能により長けているとした評額をくだして

いるさ一十六〉。『鏡花全集』に際しでも、鏡花に対する最大毅の費辞

として仏鮪関西浪濃主義の諸大家に比するとし、紫の高さにおいて

メリメの名を挙げているさ十七〉。これらのことから芥”におけるメ

リメの評錨はかなり高かったと考えられる。

芥邦がメリメを高く評価した事実は死の前に展開され始めた谷

崎講一郎との論争においても変わらない。芥川はブ口ベ

iル以前

における唯一のアーティストとしてメリメを位量付けた上で「詩

的精神」を谷崎に求めた様子については先に見た通ちである。そ

れでは芥川龍之介が死の前に谷崎に送ったメリメの『コロンパ』

を晃ていきたい。

二、芥”と『コロンパ』

『コロンパ』は、メリメが歴史記念物監督官としてフランス全

土を袈察し、各地に残る建築物を始めとした歴史的記念物を保存

する仕事に就いていた際に訪れたコルシカ車両を舞台にした作品で

あれソ、同じくコルシカ島を舞台にした『マテオ・ブアルコ

lネ』

hh弘容。、足。smwwM

∞ω枇に統く一一作闘の作品とおっている。メ

リメは逸話の作品化を得意とし、ウエアオ・ブアル

11ネb

でも射

撃の名手の家を訪れた上で作品にしていた事ザ実が確認できるが、

『コ口ンパ』も例にもれず、題名となっている実在したコロンパ

とその娘の家を訪れ、コロンパのモデルとなったコロンパの娘に

患いを寄せたりしながら作品化していたのである。物語は、イギ

リス将校とその娘リディア嬢がコルシカ島を訪れ、そこで自にす

るコルシカ特有の風習であるヴアンデッ夕、すなわち復讐の話と

なっている。ヴアンデッタを成すべき青年オルソ、オルソの妹で

生粋のコルシカ娘であるコロンパを中心に、ヴアンデッタの風習

を兄オルソに促すコロンパ、コルシカ島の外の世界にオルソの意

識を向けようとする訪問者リディア嬢、コルシカ長め内なる世界

と外の世界の両方を知り、その雨量界の間で意識が揺れ動く青年

オルソが、両方の世界の錨笹観を否定しない形でヴアンデッタを

成すまでが掛かれている。

メリメので吋口ンパ恥の彰饗が指摘されている芥川の吋湖南の

璃陥は、官口問精一によると、「小説としてよりも、旅行紀の…節と

いったやうな淡々とした味があり三一一一十ふとされている通り、旅先

での事件をもとにしており、芥”が実際に訪れた中国を舞台とし

た作品となっている。芥川が亡くなった二年後に堀辰雄が卒業論

文として書いた「芥川龍之分議」によると、芥川は『湖南の扇』

を書くために『コロンパ』を何度も読み返したことを堀辰雄に話

していたとある(三十九)。従って、『海南の一扇』の典拠が『コロンパ』

にある事実を芥川自身が照明らかにしていたことになる。芥川はメ

リメに同じく実際に自らが訪れた地にまつわる話を作品化してお

り、両作品は旅先における話という設定、また強い個性を持った

旅先で出会った女性が播かれている点で類似が認められる。芥川

が谷崎との論争において示しているのは「詩的精神」であるため、

以下ではその意識を辿りたい。

-5

仏髄西ロマン

せんか、質は撃天七賓の柱、メリメエの巧を凌駕す可く、

抜地無憂の樹、パル、ザツクの大に肩随す可し。」〈四十)

レじLEY

量は

これは吋鏡花全集』の巻末広告であるため、多少、誇張した表

現となっているが、芥川龍之分は泉鏡花を最大限に評価するにあ

たって、「仏蘭西羅漫主義の諸大家に比せんか」とした表現を用い

てメリメを挙げている。そこで、芥”が評価するメリメを仏蘭西

ロマン主義の側面から見たいと悪う。

メリメはロマン主義者として、自分たちで作り出したとする地

Page 7: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

方色、すなわち十八世紀における風習・風俗の描写を自らに課し

ており、『コロンパ』に先立つコルシカ島を舞台にした作品、『マ

チオ・ブアルコ

lネh

には、剛胞に「コルシカの感習・風俗」と

付けていた議十一〉。メリメにおける地方色については、詳しくまと

められているものがあるため面士一〉、ここで繰り返すことは避けた

いが、コルシカ特有の風習が描かれた吋コロンパ』は、コルシカ

の愚習・嵐俗が特徴的な作品となっている。この一「コ口ンパ』へ

と至るメリメの文筆活動の初期に先ず挙げられるのは、一電気の法

期を発見したアンペ

lルの息子、ジヤン日ジヤツク・アン。へ

iル

(匂

ZHMeposcz〉居間vbguH∞00・5aAF)と共に、大学の法学部に進学

してすぐに手掛けたイギリス作品の翻訳である(陸士ニ)。芥川も文壇

を士山し、最初に手慣らしとして翻訳をしているため、メリメと同

じ額序を経て文壇へと至っている。メリメは英文学への興味を持

っていたことになるが、翻訳以前に母方の祖母であるボ

iモン夫

人がイギリスに暮らしたことや、十五歳の特に父レオノ!ルが仕

事でロンドンに駐在していた事実などから、フランスの外に自を

向けざるを得ない環境に育っていた。ロマン主義が育った背景に

は、メリメに限らず、こういったヨーロッパ各国の文化的・政治

的交流、が活発となっていた状視もあると思われるが、その点では

芥川も明治の文明開化以来、日本に榔外の文学作品・海外文化の

靖報が入ってきていた時代に生きており、メリメと例似た状、戒にあ

った。明治四十一一一年四月に創刊された円白樺』は、出冒頭コそれか

ら」の著者夏目激石氏は」とする武者小路実篤の激石論に始まっ

た雑誌であるが、西洋の文学・芸術作品を紹介したことでも知ら

れていた。明治から大正にかけて日本は西洋文化を積極的に吸収

した時代背景にあった。その意味では、芥川もメヲメと桜た状況

にあったことになる。

メヲメの文学の師スタンダlル(∞宮ロ門戸

}grコ∞守冨砕い山)はイタ

リア好きで知られるが、ミユツセ(kr-中。島

Fogzcvz-2門戸。

冨gaaZL∞H0・H∞印、吋)のサロンでは、スペインとイタリアの物語が

読まれていた。ロマン主義者たちが個別の文化を求める中、メリ

メも早くから外国への関心が高かった(四十四一}。アンペ

lルと共に初

めて参加したドレクリス

iズのサロンで、メリメが発表している

のは吋デンマークのスペイン人たち

bpg同母hp

宮内

vrs

bhgmw国知見L

F

M

∞ωω〉であり、アンベ

iルが朗読を相当している。メ

リメの最も親しい友の一人であるヴイクト

iル・ジヤツクモン

32。?SAgOBOEU52ムgmw)は、植物学者であり旅行家であっ

たため外国旅行を重ねていたし、画家の友、ドラクロア

Q2丘ES仏SS2F蒜φg己主去さ

Fコ@∞ム∞∞∞)は絵画の素材

を国外に求めていた。そのような環境にあって、メリメはロマン

主義者として多文化への関心を育んだ。

芥川にはメリメの影響がある。『イ

lルのヴィーナス』(肘ぬ

忍HMg九時hhRH∞ω斗)には、ギヲシャ語でエピグラフが掲げられ、

古代遺跡が多く残るスペイン患境近くの南仏の町を舞台にした逸

話にまつわる作品となっている。『カルメン』は、モンティ!ホ伯

爵夫人のスペインのアンダルシア地方での話をもとに、アンダル

シアの風土、風習・風俗がカルメンの強烈な個性と共に描かれた

作品である。コルシカを舞台とした『コロンパ』の前に、同じく

3

ルシカを舞台として警かれたつごアオ・ブアルヲーネh

には、

コルシカ特有の鳳土であるマキ、その雑木林に住壮射撃の名手γ

…アオ・ブアルコ!ネが実在の人物をもとにコルシカ独自の道徳観

を持って描かれ、続く『コロンパ』においても、捕かれているの

はコロンパが促すヴアンデッタを始めとしたコルシカ独自の風習

であり、コロンパを通してコルシカ島の風習・風俗が表現されて

いるのである。メリメは逸話をもとに作ロ開化しているが、芥川に

おいても源となる逸話や吉典文学を背景に、芥川が生きた時代に

相応しい形での表現を行っている。芥川は固有の風習・風俗を表

現する仏蘭西ロマン主義を最大援に賛美し、とりわけメリメを評

価していたが、逸話をもとにして作口開化する姿勢においてもメリ

メに等しかった。

-6-

Page 8: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

{コ

見る

立ルシカの風潮悶・風俗が捕かれたつ一口ンパ』は、江口ンパの

る…行為による、ヴアンヂッタを始めとして、メヲメが免ることを

徹底して追求したと考えられる作品となっているB士之コロンパ

は復讐の風習であるヴアンデッタを兄オルソに促し、コロンパの

意思した通りオルソはヴアンデッタを成すととになるが、コロン

パはきら手を貸すことなく見るだけでオルソを、ヴアンデッタへと

導いている。メリメは視覚芸術である絵画に留まれて育っており、

ロマン採の画家として知られるドラクロアと共にイギヲス捺行も

する持であった。見る意識が自然と育まれる環境にいたメヲメは、

スタンダiルから見る意識を持つように教わり、初めてのスペイ

ン旅行で明確にその意識を持ち、見る義務を自らに課している。

メリメが一八三四年に就くことになった歴史記念物量督官の仕事

は摸察が任務であり、メリメはフランス全土に渡って建築物を始

めとする歴史的記念物を見て回っている。その傍らロマン主義者

として各地にある逸話を残そうとしたものが、コルシカを舞台に

したつY

テオ・ファルコ

lネh

を始めとした作品であり、吋ロロン

パいであったο

メリメは吋口口ンパ恥以前に、叫グズ一ブb

〈~いおむ陶NNNF

M

∞MW4

〉では、呪いを掛け、見た者を不幸にする践を撒いている。

超自然的モチーフはフランス口マン主義に影響を与えたパイロン

(田三。ロコ∞∞ム∞NAF

)が好んだテ

lマであった。メリメは文学作品

のみならず絵画の世界にも、この超自然的な見る力を求めており、

二八三九年のサロン」(四卜六)の絵画評では、友人ドラクロアの「死

に瀕するクレオパトラ」(四十七)を評して、作品に欠けているのはク

レオパトラが主母ヘピを見る力であり、その表現において自滅行為

であるとしている。その翌年に書かれた作品『コロンパ』は、コ

ロンパの悪魔的な目でも知られる作品であり、コロンパが見るだ

けでコルシカの風習ヴアンデッタが成される様子が掻かれている。

一方、芥川龍之介もメリメに同じく眼そのものや見る行為に対

する意識を早くから持ち、芥川が大正三年に翻訳したゴ

lチエの

『クラリモンド』では、吋クレオパトラの一夜』に含まれているこ

とからも撒することができるように、ブアムブアタルの特徴の一

つである眼のカが表現されている議十八〉。叫カルメンb

の影響があ

るとされている叫像盗』も、援差し一つで身を亡ぼした男たちが

描かれている(四十九〉。また、「援」そのものも作品化され(五十)、目

玉の大きな青蛙に自らの詩を託している。

「目玉ばかり大きい青蛙!

おれの詩はお前だ。」〈五十

芥川は見る存在としての青蛙が自らの詩であるとしている。つ

まり、芥川における詩は見る行為によって表現されたものである

と考えられる。芥川は如荷なる文章を模範とすべきかで、目に見

えるようにされている文章が好きであるとしている(五十二)。『コロ

ンパ』は、メリメが見ることを徹底して追求したと考えられる作

品となっている。芥川川が論争中に谷崎に送った『コロンパ』は、

芥川が求めた見ることが表現された作品であったことになる。

-7

芥川は二十歳になる前の明治四十四年頃から、すでに死の問癒

を意識していた(五十三)。その後も、神経衰弱、親類にある狂気に加

え、親しい友、宇野浩二の発狂などがあり、「遺書」も書いている

ことから、死を間近に控えた状況にあった。作品においても、大

正三年の『大川の水』における括弧つきの「死」(五十四)に始まり、

『羅生内』では客体としての死鞍主主主)、『ひょっとこ』ではあっ

けない死主上ハ)、『像盗』ではぞんざいな死(五十七)、また、殺人(『南

瓜』)について(五十八)、自殺(『温泉便り』)など(五十九)、様々な角度

から死が表現されている。

Page 9: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

自ら死を選ぶ昭和二年に、芥川は『河童』において積極的な死

を表現するに至っている(六十)

O

また、遺稿となる『徐儒の言葉』

ではモンテ!ニユ(冨tF包囲MdgB含冨。己包間口PEω∞山町匂N)

を引いて「自殺」を語っている{六十一)

0

同じく遺稿となった『歯車』

(六十二)は、『保儒の言葉』における死に等しい自殺に始まる作品で

ある。第二章は、『コロンパ』のテ!マと重なる「復讐」と題され

ている。第四章では、あるカフェで瑚珠と共に読まれる『メリメ

エの書簡集』が用いられ、メリメの書簡集に小説と同じ鋭いアフ

ォリズムを見て、それに影響を受ける弱い僕が示されている(六十三)。

モンテlニュを引いて死が語られている『保儒の言葉』は、アフ

ォリズムを集成した構成になっており、いくつもの題のもとに芥

川のアフォリズムが短い文章で記されている。『歯車』は、芥川が

死と直面していた時期に書かれたものであり、事実遺稿となった

作品であるが、そこでは『保儒の言葉』で示されたモンテ

iニユ

に通じる自死が示されている。その死が示された『歯車』のアフ

ォリズムの背景にはメリメの書簡集があった。

メリメはロマン主義者として『カルメン』を始めとした作品に

おいてキリスト教の世界観にはない個別の死を表現している。例

えば、『コロンパ』に先立つコルシカを舞台とした『マテオ・ブア

ルコ

lネ』は、名誉ある尊い死、モンテ!ニュが示した自由主義

的な死が表現された作品となっている(六十四)。芥川龍之介は激石門

下にあったが、激石はその『マテオ・ブアルコ

1ネ』に日本に通

じる死を見ていた(六十玉)。キリスト教の世界観とは異なる自由主義

的立場で示されたモンテ!ニュにおける死に通じる日本の死が表

現された『マテオ・フアルコ

lネ』は、『コロンパ』と同じコルシ

カ島を舞台とした作品である。可コロンパ』で描かれているのは、

コルシカ島の風習としての個別の死であり、その舞台の背景には

『マテオ・ブアルコ

lネ』において示されたモンテ

1ニュに通じ

る死があった。芥川が最期に至った死観はモンテlニュにおける

死となったが、その死に通じる『マテオ・フアルコ!ネ』を背景

にした『コロンパ』を、芥川は最期に谷崎に送っている。

「若し「コロンパ」を讃むべくんば、作者プロスペル・メリメ

エと共に「コロンパ」を作る心を以てせよ。等閑に面白がるの

みに了ること勿れ。」A

六十六)

芥川が谷崎に向けて最期に示したのは、自らの死観が示されて

いるメリメの表現したモンテ

1ニュに通じる死を背景にした作品

であった。芥川の遺稿となった『歯車』には、死ぬ間際に影響を

受けた『メリメエの書簡集』が示されていた。これは作品ではな

く、メリメがメリメの愛読者であったジエニイダカンに宛てた書

簡を集めたものである。芥川がメリメに初めて言及しているのは、

作品ではなくメリメ自身の言説であった。芥川は、仏蘭西ロマン

主義者としてのメリメを高く評価していたが、作品のみならず、

メリメの言説が最期まで芥川の胸中にあったことになり、芥川最

期のアフォリズムの死観であるモンテ!ニュに通じる死を背景に

したメリメの『コロンパ』を死ぬ前、谷崎に送ったことになる。

-8-

おわりに

芥川は精神衰弱、身内に見る狂気、友の発狂、また、昭和二年

四月には菊地寛宛の遺書を書くなど、いつ死んでもおかしくない

状態の中で谷崎潤一郎へ『コロンパ』を送っていた。『コロンパ』

重4

における谷崎の言う「小説の筋」で見ると、復讐劇が描か

れているという解釈になるが、芥川の言う「詩的精神」から見る

と、これまで見てきたように、メリメが仏蘭西ロマン主義者とし

て示したコルシカの地方色であり、見ることであり、モンテ!ニ

ユに通じる死が表現されていることになる。芥川が谷崎に送った

のは、この「詩的精神」としての『コロンパ』であり、「小説の筋」

としての復讐劇ではなかったと考えられる。芥川が谷崎に送った

Page 10: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

「詩的

メリメのでJ

口ンパ』は、単なる偶然ではなく芥川の言う

精神」を示すために不可欠な作品であったと考えられる。

芥川は谷崎との論争の聞に死を選んでいるが、その死が谷崎の

誕生日であったことを、谷崎は「芥川君と私」(六十七)として論争を

闘わせた『改造』で語っている。谷崎は、芥川亡きあと、『文肇春

秋』芥川龍之介追捧篇にて、「いたましき入」と題し、故人となっ

た芥川に対して申し訳の言葉もないと回想している。芥川が最期

に友逮への形見分けのつもりで叫即興詩人知、英訳のヴJ

口ンパh

「仏蘭商語の印度の傍像集」を送ってきたのに、谷崎は誤解し、

再び食ってかかり、故人の霊に合わす顔もないことをしたと明か

している。

芥川は、遺稿となった『保儒の言葉』の序に、「必ずしも自分の

思想を伝えるものではない」としながらも、それはご本の草で

はなく、行く簸ものつるを伸ばしているかも知れないつる草」と

している。本稿では、その芥川におけるいく筋も伸びるつる草の

一本であるメリメについて「小説の筋」論争をめぐって考察した。

「日本のメリメ」とも言われた芥川が最期に友としての谷崎に送

ったのは、芥川の言う「詩的精神」としての『コロンパ』であっ

たと考えられる。

なお、この論議は、京都大学人文科学研究所、二

O一一年度、

大浦康介艇長「E本の文学理論・芸術理論」共同研究班において

取り上げられた谷崎・芥川論争をもとに、関本比較文学会

O一

…年度秋季九州大会での口頭発表をもとにしたο

注全集は、芥川龍之介『芥川龍之介全集』岩波書店、

二年七月E

昭和五十三年七月を用いた。

昭和五十

〈一)一全文堂吋近代文学論争事典』昭和三十七年版の表現を用い

た。昭和二年二月号『新潮』における「創作合評」で、芥”

が谷崎潤一認の『日本に於けるクリップヲン事件』を評し、

小説の筋が芸詩的であるかどうか疑問を呈したことが発端と

なっている。

合二「さうかうするうち今度は又英譲のメリメの「コロムバ」

を贈って来た。」、谷崎潤一郎「いたましき人」、『文襲春秋』

〈芥川龍之介遺憾鏑〉、昭和二年九月、明谷崎潤一郎全集b

二十二巻、中央公論社、昭和五十八年六月、一一二七・二二九頁。

(三)成瀬正一(同∞也MISω∞)フランス文学者、九州大学名、誉

教授。東京者国大学文科在学中に、芥川龍之介、久米正雄、

菊池寛、松爵譲らと第三次、第四次『新思潮』を創刊してい

る。

(四)あの頃の自分の事」『中央公論』第三十四年第一競、大正

八年一月一員接行、『芥川龍之介全集』第二巻、四四九s

四五

一一良。一九九六年版吋芥川龍之介全集何第四巻、一一…二八演の

注解によると、ブイル・ハアモニイ会は、一九一五年十二月

十二日午後一時半から開催された東京フィルハーモニー会の

演奏会を踏まえているが、忠実な再現ではないとされている。

(五)谷崎潤一郎「口の辺の子供らしさ」『新潮』一九一七年十

月。一九九六年版『芥川龍之介全集』第六巻、三

O三頁。

(六)「谷崎君は文章にもあらはれるへれど、非常に日本のクラ

シックの素養が深い。今の文壇には稀らしい程。そして種々

な事に精しい。(中略〉だから文章が非常に藤一蹴であるJ

「良

工苦心

i谷崎潤一一郎氏の文章!同文章供築部』第三年第一続、

大正七年一一月一日発行、『芥川龍之介全集』第二巻、一二六s

一二七頁。

(七)谷崎潤一郎民は嘗代の鬼才、筆下に百段の錦織を展べ、踊

9-

中に高額の珠玉を蔵す。(中略)正に天下第一の奇文。」〔強譲

Page 11: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

は芥川による〕「『人魚の嘆き・魔術師』康告文」、『新小説』、

第二十四巻、第十競、大正八年十月一目、『芥川龍之介全集』

第三巻、二五八頁。

(八)「この間谷崎潤一郎の『悪魔』と云ふ小説を読んだがね。

あれは恐らく世界中で一番汚いことを書いた小説だらう。」

『彼・第二見新潮』第二十四年第一一班、大正十六年一月一日、

『芥川龍之介全集』第八巻、二コ二頁。

(九)五月二十五日晴

(略)午後、谷崎潤一郎来る。

(略)夕方谷崎潤一郎来る。皆の踊ったのは九時なり。

今日猫を貰ふ。

六月九日陰後雨

(略)午後木村幹来る。一しょに谷崎の家へ行く。

(大正八年玉、六月の日記)

(「「我鬼窟目録」より」『サンエス』第二巻第三競、大正九年

三月一日、『芥川龍之介全集』第三巻、四

O四・四

O玉、四

O七

頁。)「僕は或初夏の午後、谷崎氏と神田をひやかしに出かけた。」

(「谷崎潤一郎氏」『新潮』第四十巻第二競、大正十三年二月一

目、『芥川龍之介全集』第六巻、三三八頁。)

(十)「本篇を草するに嘗り、谷崎潤一郎作「秦准の一夜」に負

ふ所砂からず。附記して感謝の意を表す。」、芥川龍之助にて

『南京の基督』、『中央公論』第三巻第八続、大正九年七月一

日、『芥川龍之介全集』第四巻、一四九頁。

(十一)「これは山家集の好きな谷崎潤一郎氏に何時か大いに攻

撃された。」、「短歌雑感」『短歌雑話』第三巻第八競、大正

九年六月一目、『芥川龍之介全集』第四巻、二二一頁。

(十二)谷崎潤一郎「芥川君と私」、『改造』、昭和二年九月、『谷

崎潤一郎全集』第二十二巻、中央公論社、昭和五十八年六

月、二二五頁。

(十二己「新潮合評曾第四十三回(一月の創作評)」『新潮』第

二十四年第二競、昭和二年二月一日、における芥川の発言、

『芥川龍之介全集』第十二巻、六五二頁o

A

十四)「二谷崎潤一郎氏に答ふ」『文義的な、鈴りに文義的

な』第九巻第四競、昭和二年四月一日、『芥川龍之介全集』

第九巻九頁。

(十五)「十二詩的精神」『文塞的な、鈴りに文塾的な』第九

巻、第四競、昭和二年四月一日、『芥川龍之介全集』第九巻

二三頁。

(十六)「芝居漫談」『演劇新潮』第二巻第三披、昭和二年三月一

日、『芥川龍之介全集』第八巻、三七四ー三七五頁。

(十七)『即興詩人』、英訳『コロンパ』と印度の仏像集が送ら

れてきたことを谷崎潤一郎が「死ぬと覚悟をきめて見れば

さすがに友だちがなつかしく、形見分けのつもりでそれと

なく送ってくれたものを」(『文芸春秋』昭和二年九月。)と

述懐していることを吉田精一も挙げ、論争は谷崎の誤解と

している。吉田精一著作集『芥川龍之介I』桜楓社、昭和

五十四年十一月十二日、二一三頁。

(十八)未詳。〔小説作法三〕『芥川龍之介全集』第十二巻二九

七頁。

(十九)日本比較文学会編『比較文学』第一巻ス五八・六七頁、一

九五八年。

(二十)同右、二一一一五六頁。

(二十一)「テクストの舞台裏を読む」全集二十二巻、月報二十

て一九九七年十月、六

E

十頁。

(二十二)「ある文明開化のまなざし

l芥川龍之介『舞踏会』と

ピエ

lル・ロテイ」『仏文研究』(二十九)京都大学フラ

ンス語学フランス文学研究会編、一一九・二一八頁、一九

九八年。

-IO-

Page 12: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

(二十一二)京都大学人文科学研究所における口頭発表(二

OO二

年十一月九日)をもとにした論。吉田城『小説の深層を

めぐる旅ブルーストと芥川龍之介』松津和宏編、岩波

書店、二

OO七年、一七六・二

O五頁、所収。

(二十四)『人文知の新たな総合に向けて』幻世紀COEプロ

グラム「グロIa・-・パル化時代の多元的人文学の拠点形成」

京都大学文学研究科、第二回報告書、二

OO四年。

(二十五)『芥川龍之介全集』第二巻、月報二、岩波書店、

七七年九月、六頁。

(二十六)「ロマン・ロIB--ランの『ジヤン・クリストア』には

感動させられて、途中でやめるのが惜しくて、大撃の講

義を聴きに行かなかったことがよくあった。」(強調は、

芥川による)「私の文壇に出るまで」『文章倶楽部』第二

年第八競、大正六年八月一日、『芥川龍之介全集』第一巻

四六三頁。

(二十七)ドオデエの「サツフオ」(中略)兎も角それが僕にと

つては、最初に親しんだ仏蘭西小説だった。(中略)文壇

に影響を与えた傍蘭西文皐は、(中略)十九世紀以後の作

家たち」(「仏蘭西丈島ずと僕」『中央文皐』第五年第二披、

大正十年二月一日、『芥川龍之介全集』第四巻四四

05四

四三頁。)

「大いなるアナトオル・フランスよ。君の印象批評論

は虞理なり。」(「北京日記抄」『改造』第七巻第六競、大

正十四年六月一日、『芥川龍之介全集』第七巻三二二頁。)

「最近堀口大皐君からアポリネエルの本を一冊貰った。

大へん美しい本である。中味も近来での面白さだった。」

(「術掌談」の「本」、『文萎時報』第六競、大正十五年

一一月五日、『芥川龍之介全集』第八巻七

O頁。)

冷かに噺笑ひっつ云ひにしか、回。ロ∞。宵・われは昨夜

「死」を見たり。(「われは昨夜「死」を見たり」未詳。

「ロップス〈クロオド・パアル)」『芥川龍之介全集』第

九巻、四七

O頁。)など。

(二十八)「ロオランとの三週間」『時事新報』一九一九年一月、

「或日の午後」『新潮』第三十巻五号、一九一九年五月、

「瑞西への旅」『人間』一九二

O年二月など。一九九六年

版『芥川龍之介全集』第六巻、注解、三一二頁。

(二十九)「芝居漫談」『演劇新潮』第二巻第三競、昭和二年三

月一目、『芥川龍之介全集』第八巻三七五頁。「「話」らし

い話のない小説」『文塞的な、儀りに文義的な』第九巻第

四競、昭和二年四月一日、全集第九巻四頁。「野生の呼び

聾」『文塞的な、飴りに文義的な』第九巻第四競、昭和二

年四月一日、全集第九巻五四頁、など。

(三十)柏木隆夫「芥川龍之介に見るプロスペル・メリメ

l「秋」

と「二重の誤解」をめぐって」の巳ロ

mwg\=二一一子二一

六頁、一九七一年『芥川龍之介事典』明治書院、平成十

三年七月版参照。

(三十一)同右、『芥川龍之介事典』の「メリメエ」の箇所、四

九0・四九一頁。

(三十二)『開化の良人』、『中外』第三巻第二披、大正八年二月

一日、全集第三巻、二十一頁。一九九六年版『芥川龍之

介全集』、第四巻、三五二頁の注解によると、ョ司一同一回一Z合同向

者号〉ZU出口富。回、3

(の・巧・!

Egg-SON

-M

】・H斗也,H

∞0・)。

(三十一二)『路上同『大阪毎日新聞』大正八年六月三十日5

八月

八日、『芥川龍之介全集』第三巻。日本では、大正八年一

月に有楽座が松井須磨子主演で「カルメン」公演、五月

に中山歌子が「カルメンの唄」のレコードをコロンビア

の前身日本蓄音機商会から出すなど音楽も流行。(一九九

六年版『芥川龍之介全集』第七巻、「影」の注解二九六頁

より。)

-11

Page 13: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

(三十四)「愛読書の印象」『文章倶楽部』第五年第八続、大正

九年八月一日、『芥川龍之介全集』第四巻一九四頁。

(三十五)「如何なる作品が、古くならずにゐるかと云ふに、(略)

文義上の作品にては、簡潔なる文燈が長持ちのする事は

事実なり。(略)ゴオテイエは今日讃むべからず。然れど

もメリメエは日に新なり。」「不朽」『雑筆』、『人間』第二

巻第九続、大正九年十一月一日、『芥川龍之介全集』第四

巻、二二七頁b

(三十六)「スタンダアルとメリメとを比較した場合、スタンダ

アルはメリメよりも偉大であるが、メリメよりも萎術家

ではないと云ふ。云ふ心はメリメよりも、一つ一つの作

品に揮成の趣を輿へる才能に乏しかった、と云ふ事賓を

指したのであらう。この意味では菊池寛も、文壇の二三

子と比較した場合、必しも卓越した塾術家ではない。(中

略)「萎術家」たる資格は、たとへばメリメと比較した場

合、スタンダアルにも既に乏しかった。」(「序」『菊池寛

全集』第三巻、春陽堂、大正十一年四月五日、『芥川龍之

介全集』第五巻、三三

O’三二二頁。)

(三十七)「試みに先生等身の著作を以って仏蘭西羅漫主義の諸

大家に比せんか、質は撃天七賓の柱、メリメエの巧を凌

駕す可く、量は抜地無憂の樹、パルザツクの大に肩随す

可し。」(「鏡花全集目録関口」『新小説』〔臨時増刊「天才

泉鏡花」の巻末慶告頁〕、大正十四年三月、『芥川龍之介

全集』第七巻、三

O四ー三

O五頁。)

(三十八)吉田精一『芥川龍之介』三省堂、一九四二年の復刻版、

日本図書センター、一九九三年一月、二八九頁。

(三十九)『芥川龍之介論

l萎術家としての彼を論ず

l』東京大

学文学部国文科卒業論文、昭和四年三月、『堀辰雄作品集』

第五巻、筑摩書房、昭和五十七年九月、四一頁。

「鏡花全集目録開口」『新小説』〔臨時増刊「天才泉鏡花」

(四十)

の巻末贋告頁〕大正十四年三月、『芥川龍之介全集』第七

巻三

O四頁。)

(四十一)副題にhha句、毎陵町号、。と付けられていた。

B85ω

は、風習・風俗のこと。(早。唱。円包含仲BSWNFmmb号。

hr

QRぬPN口、母国ぬ也、。

nbgSF9国

55F250品。

F

】川広広島タ。丘町田mwa

・5斗∞七-Hω

に・)

(四十二)メリメにおける地方色については、匂・者同

05ロwmEMU-

』段、廿回見守mwhh

泊。srRNい。S除、き丘公恥円主体仲。ロtHhg

ZH-gZ詳H123w

-MRFSN∞・に詳しい。

(四十三)

F082冨恥民BS.匙KAHL〈口同・

(四十四)

MM882冨EBSLP.AFSロ・

(四十五)詳しくは、高木雅恵「プロスペ!ル・メリメにおける

見ることの意味あるいは歴史感覚i1840年を中心に

して」『フランス文学論集』第剖号、九州フランス文学

会、l

二OO六年十一月、二子二六頁参照。

(四十六)《hh亡。b

札。・ミ句、》・

5hmw柄、忠弘gbmwHhN

-pbhpvhww

寸M

門〈HHF

同】唱・∞ω・HA)

ω・同】喝-Nω。・N印∞・

(四十七)《

hk§と送電官舎hqgnとめ包ミ》(同∞ω匂)

(四十八)「其眼は又絶えず矢のやうに光を射てゐる。そしてわ

しは確に、その光がわしの心の臓に這入ったのを見た。」

(強調は芥川による)(『クラリモンド』新潮社「新潮文

庫」第十編、ゴ

lチ工作久米正雄誇『クレオパトラの一

夜』、大正三年十月十六日収録、『芥川龍之介全集』第一

巻七十頁。)一九九五年版『芥川龍之介全集』、注解三一

O頁、によると、

4広告EFP52の3

む足。及。

kAN問。向旬、。SH一W3

(同∞ω∞〉のラフカディオ・ハ

iンの英訳

ぺ雪旨S忌

3

からの重訳。

(四十九)「あの女の眼ざし一つで、身を亡ぼした男の敷は、こ

の炎天にひるがへる燕の敷よりも、津山ある。現にかう

12-

Page 14: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

云ふ己でさへ、唯一度、あの女を見たばかりで、とうと

う今のやうに、身を堕した。」、『億総』、『中央公議』第三

十二年第四械、大正六年四月一目、円芥川龍之介全集』第

一挙一一一七八貰。

「線をね、今日は眼を御馳走しようと思ったのです

d

の限?無論人間の眼をですよ

J、「緩」吋

vcm

ck戸市一宮(以内om』、『人間』第四巻第一一競、大正十一年一月

一日、『芥川龍之介全集』第五巻、二八二一真。

(五十二「おれの詩」大正十二年十一月、『芥川龍之介全集』

第九巻、四六九頁。

(五十二)「景色が・12mwHUO(眼に見るやうに)されて来る文

章、が好きだ。」『眼に見るやうな文章j如何なる文章を模

範とすべき乎|』『文章倶築部』第三年第五襲、大正七年

五月一日、『芥川龍之介全集』第二巻、二二五真。

(五十三)「究極する所は死乎、けれども僕にはどうもまだどう

にかなりさうな気がする、死なずともすみさうな気がす

る。卑怯だ、未練があるのだ、僕は死ねない理由もなく

死ねない、家族の係累といふ錘はさらにこの卑強をつよ

くする、何度日記に「死」といふ学をかいて見たかしれ

ないのにJ

〈明治四十四都〈年次推定〉十一日、山本事

饗一司苑書簡〉、百件川龍之介全集b

第十巻五五真。

(五十四)「戒と水との中に漂ふ「死」の呼吸を感じた時、如何

に自分は、たよりのない淋しさに迫られたことであら

うJ、椀川龍之介にて、『大川の水』、『心の花』第十八巻

第密競、大正三年四月一目、『芥川龍之介全集』第一巻二

七頁。

(五十五)「幾つかの屍骸が、無造作に棄て〉あるヘ携川龍之

分にて、『羅生門』、『帝圏文撃』第二十一巻第十一一、大

正西年十一月一日、『芥川龍之介全集』第一巻一三

O頁。

(五十六)「ひょっとこの頓死を聞いたのはそれから十分の後で

ある。」、柳川龍之介にて『ひょっとこ』、『帝園文皐』第二

十一巻第四幌、大正昭年西月一目、『芥川龍之介全集』第

一一五頁。

〉「死んだら、

死んだ持の

大正大

全集』第一巻一一一九六

〈五十八)『南瓜』、『讃賓新寵』大正七年二月二十四日、『芥川

龍之介全集』第二巻一三玉頁。

(五十九)『温泉だより』、『女性』第七巻第六競、大正十四年六

月一目、『芥川龍之介全集』第七巻三四

O頁。

(六十)「自殺を静護せるモンテエニユの如きは予が畏友の一人

なり。唯予は自殺せざちし厭世主義者」『河童』、『改造』

第九巻第三競、昭和二年三晃一日、『芥川龍之介全集』第

八巻三六三真。

(六十一)「自殺に罰するモンテェエヌの薄護は幾多の虞理を含ん

でゐる。自殺しないものはしないのではない。自殺するこ

-13-

との出来ないのであるJ」長儒の

十瞬、

」の「自殺」、

四七

モンテ!一一品一は、キリスト教では否定されている自らに

よる死を肯定的に示している。認。巳包mロタ時間向ミ2

8SMML『氏。hFgumgabszzMVmzkro--EFmg円四

2

2

宮EH江g

wsu切手Z2F25含

F

E丘怠P

O巴ロBRP

H

∞∞NW

暗唱・ωω05∞品∞・

(六十一己『文義春秩』第五年第十襲、昭和二年十月一日、全集

第九巻。

〈六十三)「或カッフエへはいって行った。それから一番奥のテ

エブルの前に瑚講の来るのを待つことにした。(略)丁度

Page 15: Prosper Mérimée's Colomba in the Literary Controversy

瑚珠の来たのを幸ひ、「メリメエの書簡集」を讃みはじめ

た。彼はこの書簡集の中にも彼の小説の中のやうに鋭いア

フォリズムを閃かせてゐた。それ等のアフォリズムは僕の

気もちをいつか織のやうに巌畳にし出した。(この影響を

受け易いことも僕の弱黙の一つだった。)」、「四まだ?」、

『歯車』、『文義春秋』第五年第十続、昭和二年六月一日、

『芥川龍之介全集』第九巻一四七ー一四八頁。

(六十四)メリメにおけるモンテlニュの影響については、度々

指摘されている。目25pmVRPNいとgbgsnrMMNS官、

担段、包訟へばミ・足句、uZNWFFFSE。

kpロOFOロロ。

開門戸。

E弓品。

vmwB同ユ。PHCNF寸ゲ同】・。0・匂唱-N∞∞-M斗

ω・件-N・

旬・ωO七・

8など。詳しくは、高木雅恵「鈴木三重吉におけ

るメリメ受容l死の問題を中心にして

l」。。足、お足むσu

g--ロ・九州大学大学院比較社会文化学府比較文化研究会

二OO七年、二

0・二七頁、参照。

(六十五)夏目激石の蔵書

U.なPNV』58&』hbh喝なさ足。

gypsω

ru刊の・戸

τgwz。者

J

円。件”の・】M・HMazgロmwB〆50ωのhhbな。

~vh削除。旬。への書き込み、『激石全集』第十七巻、岩波書店、

一九九七年七月、二三

0・二一二一頁。

(六十六)未詳、〔小説作法三〕、『芥川龍之介全集』第十二巻、

二九七頁。

(六十七)『改造』昭和二年九月続、『谷崎潤一郎全集』第二十

二巻、中央公論社、昭和五十八年六月、二二五頁。

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