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Title 春秋經傳集解譯稿續篇(七) : 襄公二十五年
Author(s) 岩本, 憲司
Citation 中国研究集刊. 35 P.56-P.83
Issue Date 2004-06-01
Text Version publisher
URL https://doi.org/10.18910/60891
DOI 10.18910/60891
rights
Note
Osaka University Knowledge Archive : OUKAOsaka University Knowledge Archive : OUKA
https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/
Osaka University
中国研究集刊雲号(総お号)平成十六年六月五六八三頁
春秋経惇集解誇稿績篇
ー上畏公二十五年
(七)
〔裏公二十五年〕
圏二十有五年春膏崖粁帥師伐我北部
圏夏五月乙一亥費窪行拭其君光
@耐用侯は、盟主に背いたけれども、民に酎して無道だった
わけではないから、臣(の名)を書いて、窪行を罪責し
たのである。
附宣公十年「突巳陳夏徴許試其君卒園」の注に「霊公悪不
加民故橋臣以拭」とある。なお、同四年の惇文に「九
拭君稿君君無道也稽臣臣之罪也」とあり、注に
「稿君謂唯書君名而稿園以拭言衆所共紹也稿臣者
謂書拭者之名以示来世終馬不義」とあるのを参照。
山石
本
憲
司
圏公舎晋侯宋公衛侯鄭伯曹伯菖子都子牒子辞伯杷伯小都子
子夷儀
圏六月壬子鄭公孫合之帥師入陳
@子産の(順首な)言い分によれば、陳は不義であったた
めに攻め込まれたから、合之に釘して識りがない〔「人」
と稿していない〕のである。(なお、このことについて
は)『樟例』に詳しい。
附疏に引く『稗例』に「陳禁楚之輿圃鄭欲求親於音
故伐而入之晋士荘伯詰其侵小
E問陳之罪子産苔以
東門之役故見於識及其侵禁既無音命叉無直辞
君死主少興師以求娼於音義取蹴略不能以徳懐親
叉不能以直報忽故二大夫異於子産也陳之見伐本以
助晋晋不逆労而以法詰之得盟主逼理故仲尼日
( 56 )
晋馬伯鄭入陳非文酔不昂功善之也」とある。なお、
下の侍文に「鄭子産献捷子音戎服牌事晋人間陳之罪
封日(中略)今陳忘周之大徳蔑我大恵棄我姻親
介侍楚衆以愚陵我倣邑不可億逗我是以有往年之告
未獲成命則有我東門之役嘗陳障者井埋木刊(中
略)晋人日何故侵小針目先王之命唯罪所在各
致其辞(中略)土荘伯不能詰復於超文子文子日其
酔順犯順不鮮乃受之」とある。また、八年「鄭人
侵禁獲禁公子製」の注に「鄭子園稿人刺其無故侵禁
以生園患」とある。
圏秋八月己巳諸侯同盟子重丘
@(上の)夷儀の諸侯である。「重丘」は、費地である。
「己巳」は、七月十二日であり、経がまちがっている。
附下の停文に「秋七月己巳同盟子重丘膏成故也」とある。
圏公至自舎
@俸はない。
圏衛侯入子夷儀
@「夷儀」は、もと那の地であったが、衛が邪を滅して、
衛の邑となっていた。晋は、衡の街が園を失ったことを
あわれみ、衛に命じて、街に一口巴を分け輿えさせたので
ある。「入」と書いているのは、(間早に)外から入ったと
いう表現であって、園が迎えた場合の例ではない。
附註の前半については、信公元年に「夏六月邪遷子夷儀」
とあり、注に「夷儀那地」とある。また、同二十五年
に「春王正月丙午衛侯煉減刑」とある。また、十四年に
「己未衛候出奔膏」とある。
注の後半については、疏に引く『蒋例』に「春秋稿入
其例有二施於師肱則日不地在於蹄復則日圃逆
園逆叉以立馬例逆市不立則皆非例所及諸在例外稿
入直是自外入内記事者常酔義無所取而買氏雄夫
人萎氏之入皆以屑例如此甚多」とある。なお、成公
十八年の停文に「九去其園園逆而立之日入」とある。
( 57 )
園楚屈建帥師減野鳩
@俸は、衛侯が夷儀に入ったことの上にあるのに、経が下
にあるのは、赴告に従ったのである。
附下の停文に「八月楚減辞鳩」とあり、
入子夷儀」とある。
ついで、「衛献公
圏各鄭公孫夏帥師伐陳
@陳が依然として服従しなかった(からである)。
附上に「六月壬子鄭公孫含之帥師入陳」とある。
圏十有二月呉子逼伐楚門子集卒
@「逼」は、諸奨である。集の牛臣に殺されたのである。
「減」と書いていないのは楚人がその戸を獲得できず、
呉が「卒」として赴告してきたからである。(名を書い
ているのは)同盟はしていなかったけれども、名をもっ
て赴告してきた(からである)。
附注の「遇諸奨也魚川果牛臣所殺」については、下の停
文に「十二月呉子諸奨伐楚(中略)呉子門罵牛臣隠於
短措以射之卒」とある。
佳の「不書減者楚人不獲其戸呉以卒告」については、
昭公二十三年の停文に「書日胡子党沈子逗減獲陳夏醤
君臣之辞也」とあり、注に「園君枇理之主輿宗廟
共其存亡者故橋減大夫軽故日獲獲得也」とあ
り、その疏に引く『稗例』に「園君者吐理之主百姓
之望嘗輿杜榎宗廟共其存亡者也而見獲於敵困難存
若亡死之輿生皆輿滅同故田胡子即死沈子逗減諸以
戦傷死雄敗績而不見檎故経皆不日減」とある。なお、
公羊惇文に「傷而反未至平合而卒由」とあり、穀梁侍
文に「有矢創反舎而卒」とあるのを参照。
注の「未同盟而赴以名」については、信公二十三年の惇
文に「赴以名則亦書之」とあり、注に尋問未同盟」とあ
る圃二十五年春野崖粁帥師伐我北部以報孝伯之師也
@前年に、魯が、孟孝伯に命じて、音のために習を伐たせ
た。附二十四年の停文に「孟孝伯侵膏晋故也」とある。
圃公患之使告子音孟公紳日崖子将有大志
@君を試することに闘心が向いている、ということである。
「孟公紳」は、魯の大夫である。
附二十三年の惇文に「陳文子見崖武子日時如君何武
子日吾言於君君弗聴世以属盟主市利其難重臣
若急君於何有」とあり、注に「言有急不能顧君欲拭
之以説晋」とある。なお、『論語』憲問「子日孟公紳
馬超親老則優不可以馬牒醇大夫」の〈集解〉に「孔日
公紳魯大夫」とあるのを参照。
圏不在病我必速蹄何患罵其来由不冠
@冠害を輿えていない、ということである。
附『目氏春秋』孟春紀〈貴公〉「大兵不冠」の高誼に「冠
害也」とあるのを参照。
圃使民不巌
@民の散心を買おうとしている、ということである。
圃異於他日膏師徒蹄
( 58 )
@「徒」は、空である。
附『園五巴晋一訪問六「諸臣之委室市徒退者
注に「徒空也」とあるのを参照。
牌血(幾人」の章
圃献立呆公之妻東郭健之姉也
@「業公」は、賓の裳邑の大夫である。
附『史記』膏世家「葉公妻好」の〈集解〉に「買達日
公膏業邑大夫」とあるのを参照。
圃東郭僅臣崖武子葉公死僅御武子以弔鷲見業萎而美
之@その美貌に魅せられたのである。
圃使値取之
@自分のために要ろうとしたのである。
圃値目男女排姓
@「緋」は、別である。
附二十八年及び昭公元年の惇文「男女緋姓」の誼に、同文
がみえる。なお、『周檀』天官の結官「排方正位」の注
に「排別也」とあるのを参照。
圃今君出自丁
@賓の了公が、崖粁の組である。
附『史記』膏世家に「蓋太公之卒百有絵年
とあるのを参照。
子丁公呂佐立」 ~
米
圃臣出自桓不可
@膏の桓公小白が、東郭値の組である。同じく萎姓だから、
結婚できない、ということである。
圃武子箆之遇国==一
@下が攻〔一きで上が党〔=一〕のが、「困」(三きである。
圃之大通==一
@下が巽〔=一〕で上が免〔三〕のが、「大過」〔E
きである。
「困」の六一二〔下から三番目のニが(一に)轡じて「大
過」となる、ということである。
圃史皆日吉
@佳子におもねったのである。
附疏に「服慶云皆二卦」とある。
圃示陳文子文子日夫従風
@吹は中男であるから、「夫」と言っているのである。境
じて巽となるから、「風に従う」と言っているのである。
附『易』説卦に「攻再索而得男故謂之中男」とあり、ま
た、「巽(中略)矯風」とあるのを参照。
園風聞妻不可要也
@風は、よく物を聞落させる者である。塑じて聞落させる
から、「妻は要ってはならない」と言っているのである。
附異説として、陸禁『左惇附誼』に「此嘗以風間妻矯句
言夫則従風風能関妻也」とある。
( 59 )
圃且其説日因子石操子漠禁
@〈困〉の六三の支鮮である。
圃困子石佐不潜也
@攻は、険であり、水である。水(中)の険なる者は、石
であり、動かすことが出来ない。
附『易』〈吹〉の象に「習攻重険也」とあるのを参照。
また、説卦に「故属水」とあるのを参照。
圃操子漠禁所持傷也
@吹は、険であり、免は、津である。津が生み出す物のう
ちで、険なる者は、震禁であり、これを侍みにすれば、
傷つけられる。
附『易』説卦に「免魚津」とあるのを参照。また、『爾雅』
碍草に「茨漠梨」とあり、郭注に「布地蔓生細葉
子有三角刺人」とあるのを参照。
圃入子其宮不見其妻凶無所蹄也
@『易』に「困しむべきでないのに困しめば、名が必ず
辱しめられ、撮るべきでないのに操れば、身が必ず危く
なる。辱しめられるうえに危くなれば、死期は近い。妻
に舎うことなど出来ようか」〔繋軒下〕とある。今ここ
で、昏を卜してこの卦に遇い、(その)六三が位を失し、
臆ずる相手がない、とすれば、その妻をなくし、身のお
ちつけ所を失うことになる。
入子其宮
不見其妻
附注の「失位」については、疏に「六三以陰居陽位是失
位也」とある。なお、王弼注に「三以陰居陽」とあるの
を参照。また、朱票『周易本義』に「陰柔而不中正」と
あるのを参照。
注の「無庭」については、疏に「三臆在上上亦陰支
是無臆也」とある。なお、王弼注に「走麿而入」とある
のを参照。また、朱喜…『周易本義』に「宮謂三一而妻則
六也」とあるのを参照。
注の「喪其妻」については、二十七年の停文に「其妻結」
とある。
圃崖子日欝也何害先夫首之失
@寡婦を「欝」という。業公がもうすでにこの凶に嘗たつ
ている、ということである。
附昭公十九年の偉文「己馬欝婦」の注に「寡婦馬欝」とあ
り、同二十四年の停文「欝不憧其緯」の注に「欝寡婦
也」とある。なお、『孔子家語』好生「鄭之麓婦」の王
帝誼に「麓寡婦也」とあるのを参照。
園遊取之荘公通罵蝶如崖氏以崖子之冠賜人侍者日
不可公日不居間崖子其無冠乎
@山佳子でなくても、冠は富然必要である、ということであ
守令。
附異説として、食楢『霊経卒議』に「杜説不了
凶
( 60 )
由未得其
句讃故也此富以公日不紹句公日不猶孟子日否乃
甚不然之鮮不興否古字通也馬崖子(句)其無冠乎
言既震崖子宣患無冠吾以其冠賜人於崖子無損
也」とある。
圃佳子園是
@これによって公を恨んだ。
圃叉以其間伐晋也
@(公が)晋の内紛につけこんで、これを伐った。
附二十三年の停文に「自衛時進伐晋(中略)崖秤諌日不
可臣聞之小園聞大園之敗市段駕必受其答君其圃
之弗聴(中略)膏侯途伐晋」とある。
圃日晋必将報欲拭公以説子音而不獲間公鞭侍人買
翠市叉近之乃矯崖子間公
@公のすきをうかがった。
附『史記』古川両世家「馬崖梓聞公」の〈集解〉に「服度日
伺公開隙」とあるのを参照。
圃夏五月菖僑且子之役故菖子朝子野
@「E子の役」は、二十三年にある。
附二十三年の偉文に「費侯還自晋不入
子」とある。
圃甲成饗諸北郭崖子稿疾不硯事
@公を来させようとしたのである。
進襲菖
門子且
圃乙一亥公問屋子
@病気を見舞ったのである。
附『史記』費世家に「公開崖梓病」とあるのを参照。
圃途従萎氏萎入子室輿佳子自側戸出公的極而歌
@歌をうたって、萎に合圃したのである。
附『史記』費世家「公擁柱而歌」の〈集解〉に「服度日
公以馬萎氏不知己在外故歌以命之由一日公自知見
欺恐不得出故歌以自悔」とあるのを参照。
圃侍人買翠止衆従者而入閉門
@崖子のために公を閉じ込めたのである。かさねて「侍人」
と言っているのは、下の「買翠」と匝別するためである。
附上の停文に「公鞭侍人買翠」とあり、下の侍文に「買邸中
州紳師師公孫殻封具鐸父一袈伊慢埋皆死」とある。
圃甲興公登蓋而請弗許
@逃してくれるよう請うたのである。
附『史記』膏世家に「公登蓋市請解不許」とあるのを参
昭、
圃請盟弗許請自刀於廟弗許
@廟にもどって自殺することを願ったのである。
附停文の「勿許」の「勿」は、諸本に従って、「弗」に改
める。
圃皆目
君之臣杯疾病
( 61 )
不能聴命
@自身でじかに公の命を受けることが出来ない、というこ
とである。
附『史記』膏世家「不能聴命」の〈集解〉に「服度目言
不能親聴公命」とあるのを参照。
圃近於公宮
@崖子の宮は公の宮に近いから、くせ者が公の名をかたる
かも知れない、ということである。
附『史記』費世家「近於公宮」の〈集解〉に「服度目崖
梓之宮、近公宮淫者或詐稿公」とあるのを参照。
圃陪臣干開有淫者不知二命
@「干揮」は、夜まわりである。夜まわりして、くせ者を
みつければ、崖子の命によってこれを討つだけで、他の
命は受けていない、ということである。
附昭公二十年の停文「賓将諏」の佳に「師行夜」とある。
なお、『説文』に「諏夜戒守有所撃(中略)春秋停日
賓将諏」とあるのを参照。
なお、異説として、〈理作文〉に「服本作諏」とあり、疏
に「服度云一日干汗也諏謀也言受佳子命汗
禦謀淫之人」とある。ちなみに、『爾雅』樟詰に「諏
謀也」とある。
圃公蹄脂叉射之中股反隊
孫故封具鐸父裏伊慢埋皆死
選試之
買胸中州悼師師公
@八子は、いづれもみな、膏の勇力の臣で、公に寵愛され
ていた者であり、公といっしょに崖子の宮で死んだので
ある。
附二十一年の偉文に「童反州紳那醐勇士由」とある。
圃祝佐父祭於高唐
@高唐に賓の別廟があった。
圃至復命不説弁而死於崖氏
@(「弁」は)爵弁で、祭服である。
圃申醐侍漁者
@「侍漁」は、魚を取ることを監督する官である。
圃退謂其宰日爾以常克
@「奴巾」は、宰の妻子である。
附文公六年の侍文「宣子使興開迭其稽」の注に「招巾妻子
也」とある。なお、その附を参照。
なお、異説として、安井衡『左惇輯樟』に「奴巾蓋制之妻
子」とある。
圃我牌死其宰日克是反子之義也輿之皆死
@君に殉ずるという義にそむく、ということである。
圃崖氏殺融蔑子平陰
@「融蔑」は、平陰の大夫で、公のお気に入りである。停
は、荘公が(日頃)養っていたのは園士(逸材〕ではな
かったから、難に殉じたのは、いづれもみな、公のお気
( 62 )
に入りであった、ということを言っているのである。
附成公十七年の偉文に「晋属公修多外壁」とあり、注に
「外壁愛幸大夫」とある。また、同十六年の惇文に「園
士在且厚不可富也」とある。また、昭公三年の惇文
に「燕簡公多壁寵」とある。
圃曇子立於崖氏之門外
@難を聞いてやって来たのである。
附『史記』膏世家「目安嬰立崖粁門外」の〈集解〉に「買達
日間難而来」とあるのを参照。
圃其人日死平日濁吾君也平哉吾死也
@自分は衆臣と違いがない、ということである。
圃日行乎日吾罪也平哉吾亡也
@自ら罪がないと言ったのである。
圃
日
婦
平
日
君
死
安
閑
@どうして蹄ることが出来ようか、ということである。
圏君民者宣以陵民枇稜是主臣君者宣活其口賓枇
種是養
@君はいたつらに民の上に居らず、臣はいたづらに椋を求
めず、いづれもみな、一位榎のためにする、ということで
ある。
附上の惇文「膏師徒輯」の注に「徒
圃故君馬杜穣死則死之馬枇稜亡
@公義をもって死んだり亡命したりすることをいう。
附『史記』旗門世家「君馬杜程死則死之馬吐程亡則亡
之」の〈集解〉に「服度目謂以公義屑吐裡死亡也如
是者臣亦随之死亡」とあるのを参照。
圃若馬己死而馬己亡非其私暗誰敢任之
@「私瞳」は、親愛されている者(君のお気に入り〕であ
る。親愛されている者でなければ、君のためにその耐に
嘗たる必要はない、ということである。
附信公二十四年の惇文「曜近尊賢」の注に「暗親也」と
ある。なお、『史記』膏世家「若馬己死己亡非其私瞳
誰敢任之」の〈集解〉に「服度目言君自以己之私欲
取死亡之嗣則私近之臣所嘗任也」とあるのを参照。ま
た、『国語』晋語六「大其私暗而盆婦人田」の章注に「曜
近也私近謂壁臣」とあるのを参照。
圃E人有君而試之吾罵得死之而鷲得亡之
@自分は正卿ではなく、待遇が衆臣と這わないから、君の
難に殉ずることは出来ない、ということである。
附上の停文「濁吾君也平哉吾死也」の注に「言己輿衆臣
無異」とある。
圃将庸何輯
⑪死亡の義を用いようとしても(死んだり亡命したりしょ
うとしても〕、その趣意がどこにも見つからない、とい
( 63 )
空也」とある
則亡之
うことである。
附荘公十四年の傍文「市謀召君者庸非二平」の誼に「庸
用也」とある。なお、その附を参照。また、王引之『経
義述聞』に「社説非也吾罵得死之而鷲得亡之承上吾
死也吾亡也市言将庸何時則承上君死安闘市言杜#
両一意昂一意而以庸魚用開負師趣失其旨矢時庸何
蹄者時何蹄也庸亦何也何輝之局庸何蹄猫何傷之
震庸何傷安知之昂庸安知誼知之馬庸誼知執能之馬
庸軌能也解者多訓庸魚用故義不可通」とあるのを参
河口内。
圃門啓而入枕「股而突
@公の戸(しかはね〕を自分の股〔ひざ〕に枕させた。
附信公二十八年の停文「枕之股而突」の注に「公以叔武戸
枕其股」とある。なお、『史記』古川用世家に「枕公戸而突」
とあるのを参照。また、『目安子春秋』内篇雑上に「枕君
戸而突」とあるのを参照。
圃興三踊而出人謂山佳子必殺之佳子日民之望也
合之得民
@「含」は、置〔放っておく〕である。
附『史記』古川円世家「舎之得民」の〈集解〉に「服度目
置之所以得人心」とあるのを参照。
圏直涌突奔晋王何奔菖
@二子は、荘公の箪…向円である。二十八年の、慶舎〔子之〕
を殺したこと、のために本を張ったのである。
附二十八年の傍文に「直蒲突白後刺子之王何以支撃之
解其左肩猶援廟楠動於聾以姐査投殺人而後死」
とある。なお、注の「三十八年」の「一三は、諸本に従
って、「一こに改める。
圃叔孫宣伯之在費也
@「宣伯」は、魯の叔孫僑如で、成公十六年に膏に奔った。
附成公十六年に「多十月乙一亥叔孫僑如出奔膏」とある。
圃叔孫還納其女於霊公壁生且黒公
@「還」は、古川円の葦公子で、宣伯のむすめを霊公にいれた。
圃丁丑崖押立市相之慶封負左相盟園人於大宮
@「大宮」は、大公〔賓の組〕の廟である。
附宣公三年の惇文「盟子大宮而立之」等の注に「大宮鄭
組廟」とある。
圃日所不興崖慶者曇子仰天歎日嬰所不唯忠於君利杜
寝者是輿有如上一帝一乃猷
@盟書には(本来)「所不興崖慶者有如上一帝一」とあった
のだが、この書を謂み終わらないうちに、目安子は、横か
ら口を出してその言葉をかえ、その上で自ら血をすすっ
たのである。
圃辛巴公輿大夫及菖子盟
( 64 )
@菖子は、費に朝して、山雀梓が乱をおこすのに遭遇し、ま
だ立ち去っていなかったから、あらためて景公と盟った
のである。
附上の停文に「夏五月菖第
E子之役故菖子朝子膏」とあ
る。
圏大史書日崖仔拭其君山佳子殺之其弟嗣書市死者二
人@「嗣」は、績である。前とあわせて、三人の死者が出た。
附桂の「嗣績也」については、十九年の停文「所不嗣事
子費者有如河」等の注に、同文がみえる。なお、その
附を参照。
圃其弟叉書乃含之南史氏聞大史蓋死執簡以佐聞既
書A
矢乃還
@停は、耐用に直史がいたおかげで、崖朽の罪が知れわたっ
た、ということを言っているのである。
附『儀躍』抽明暗「百名以上書於策」の疏に「服度誼左氏云
古文家書一簡八分字」とある。
圃闇丘嬰以雌縛其妻而載之輿申鮮虞乗而出
@二子は、荘公の近臣である。
圃鮮虞推而下之
@嬰の妻をおろしたのである。
圃日君昏不能匡危不能救
死不能死
市知匿其瞳
@「匿」は、蔵〔かくす〕である。「幅一」は、親である。
附注の「匿臓也」については、宣公十五年の侍文に「山
薮臓疾理論匿暇」とあり、注に「匿亦蔵也」とある。
注の「瞳親也」については、信公二十四年の偉文「暗
近尊賢」等の控に、同文がみえる。なお、その附を参照。
圃其誰納之行及会中将合
@「会中」は、せまい道である。
附哀公十四年の停文「失道於会中」の注に「会中狭路」
とある。
圃嬰日雀慶其遁我鮮虞日一興一誰能憧我
@遁がせまいため、(敵は)多勢でも役に立たない、とい
うことである。
圃逸合枕轡而寝
@馬をなくすことを恐れたのである。
圃食馬而食駕市行出会中謂嬰日連堀之崖慶之衆
不可首也透来奔
@道が贋いため、(敵は)多勢を使えるから、たちうち出
来ない、ということである。
圃崖氏側妊公子北郭
@「側」とは、(かりに)う、つめたのである。(つまり)廟
で殖しなかったのである。
附異説として、食槌『茶香室鰹説』に「按下云
( 65 )
丁一亥葬諸
士孫之里則此未及葬也
E側亦無葬埋之義側嘗作盟
側従則聾聖従即聾躍記王制篇必即天倫鄭註田
町或作則則輿即通故側輿盟通檀弓篇夏后氏聖
周樟文作即云本叉作聖然則古本左停或是即字未可
知也監荘公子北郭乃用夏后氏聖周之法檀弓日有
虞氏瓦棺夏后氏聖周殿人棺榔蓋殿以前有棺無榔
有虞氏瓦棺而己夏后氏則以車圏緯於棺之外鄭注目
火熟日聖焼土冶以周於棺也稗文引何云冶土震瓢
四周於棺檀弓叉日周人以殿人之棺榔葬長甥以
夏后氏之聖周葬中高周下宿所崖氏不以曜葬妊公選其棺
於北郭用聖周之法以甑周棺透佐葬於士孫之里故
云聖荘公子北郭聖字隈側居間之因失其義失」とあり、
また、沈欽韓『春秋左氏停補注』に「士冠躍注側猶特
也無偶日側呉語側席而坐章昭注同特牲韻食檀
注側殺殺一牲也昏檀注側等亦言無元酒此妊公
之靖則謂有棺無郁也杜預金不知訓故」とあり、また、
洪亮吉『春秋左停詰』に「按杜注側窪埋之今致
側字無此義訓鄭司農考工記注側首筋灰此惇義亦首
同蓋謂不以正葬荘公也後漢書佳亦云側謂凡僑不正
也」とある。
圃丁一亥葬諸士孫之里
@「士孫」は、人の姓で、
それをそのまま里の名にしたの
である。死後十三日ではやくも葬り、(規定の)五箇月
を待たなかったのである。
附上の偉文に「乙一亥公開崖子(中略)透拭之」とある。ま
た、隠公元年の停文に「諸侯五月」とある。
圃四妻
@(「妻」は)喪車の飾りで、諸侯は六妻(がきまり)で
ある。
附『躍記』躍器に「諸侯五月而葬三重六翠」とあるのを
参照。また、『説文』に「嬰棺羽飾也天子八諸侯
六大夫四土二下垂」とあるのを参照。
圃不陣
@「陣」は、通行人を止める〔先梯いをする〕ことである。
附『周種』隷僕「掌陣宮中之事」の注に「郵司農云陣謂
止行者清道若今時倣陣」とあるのを参照。
圃下車七柔不以兵甲
@「下車」は、迭葬の車である。膏は、茜来、上公の躍に
依って(車は)九乗であり、しかも、甲兵がついていた
のだが、今ここで、いづれもみな、格を下げたのである。
附成公十八年の侍文「葬之子翼東門之外以車一乗」の注
に「諸侯葬車七乗」とある。なお、その附を参照。
なお、異説として、疏に「服度云下車遣車也」とあ
り、また、『躍記』檀弓下「君之逼長時期車三乗」の疏
( 66 )
に「服注云上公饗簡九牢遣車九乗」とある。ちなみ
に、『暗記』雑記上「遣車覗牢具」の注に「遣車載所
包遣実而臓之者輿」とある。
圃音俣湾自沖
@「沖」は、闘〔不明〕である。
圃舎子夷儀伐肺門以報朝歌之役
@「朝歌の役」は、二十三年にある。(鰹に)「伐膏」と書
いていないのは、賢人が出迎えて降服したため、攻撃は
しなかったからである。
附二十三年の停文に「膏侯透伐晋取朝歌」とある。
圃膏人以旺公説
@旺公を試したことで晋に申し聞きしたのである。
胴上の停文に「欲試公以説子音」とある。
圃使隈姐請成慶封如師
@慶封が音にだけ使いし、諸侯には通達しなかったから、
(鰹に)書いていないのである。「姐」は、隈朋の曾孫
である。
附信公九年の惇文に宗門隈朋帥師舎秦師納晋恵公」とある。
圃男女以班賂音侯以宗器祭器
@「宗器」は、祭杷の器である。「楽器」は、鍾磐の類で
ある。
附二十二年の惇文「重之以宗器」の注に「宗廟躍繁之器
鍾磐之層」とある。なお、その附を参照。
圃自六正
@三軍の六卿〔牌・佐〕である。
附成公十八年の惇文「師不陵正肱不偏師」の注に「正
軍将命卿也」とある。
圃五吏三十帥
@「五吏」は、文職であり、「三十帥」は、武職であり、
いづれもみな、軍卿の層官である。
圏三軍之大夫百官之正長師旗
@「百官の正長」は、葦有司である。「師肱」は、小将帥
である。
附成公十八年の偉文「師不陵正肱不信師」の注に「師
二千五百人之帥也肱五百人之帥也」とある。なお、
その附を参照。
圃及慮守者皆有賂
@いつれもみな、男女を贈りものにしたのである。「慮守」
は、園を守る者〔留守居役〕である。
附異説として、疏に「劉舷以馬男女以班示降服於晋有
賂者皆有貨財賂之非以男女馬賂」とある。
圃晋侯許之
@晋侯は贈りものを受け取ってかえったのに、謙っていな
( 67 )
いのは、斉に喪があったため、師はひきあげて首然だか
らである。
附十九年の偉文に「晋士匂慢膏及穀聞喪市還
とある。
圃使叔向告於諸侯
@膏が降服したことを告げたのである。
圃公使子服恵伯封日君含有罪以靖小園
君聞命失
君之恵也
圃晋侯使親許宛浸逆衛侯
@衛の献公は、十四年に、膏に奔っていた。
附十四年に「己未衛侯出奔野」とある。
圃将使衛輿之夷儀崖子止其帯以求五鹿
@雀秤は、衛の五鹿を手に入れようとしたから、衛侯の妻
子を費に留めて、質〔かた〕にしたのである。
附文公六年の停文「宣子使央制迭其帯」の佳に「奴巾
也」とある。
圃初陳侯曾楚子伐鄭
@前年にある。
附二十四年に「多楚子禁侯陳侯許男伐餌」とある。
圃首陳障者井埋木刊
檀-也-妻
子 寡
@「陸」は、径〔みち〕であり、「埋」は、塞〔ふさぐ〕
であり、「刊」は、除である。
附注の「陸径也」については、哀公十三年の停文「六月
丙子越子伐呉信二隠」の注に「陸道也」とある。
註の「埋塞也」については、『詩』魯煩〈沖水〉「式固
爾猶准夷卒獲」の疏に「服慶云埋塞」とあるのを
参照。また、『圏諸問』音語六「夷竃埋井」の章佳に「埋
塞也」とあるのを参照。なお、十四年の惇文に「塞井
夷竃」とある。
注の「刊除也」については、すぐ上にあげた詩疏「服
度云埋塞」のつづきに「刊削也」とあるのを参照。
圃鄭人怨之六月鄭子展子産帥車七百莱伐陳育突陳城
@「突」は、穿(うがつ〕である。
附陸禁『左停附注』に「突鯛也衝也或云此突字
本作穴若漢攻大宛穴其城者故杜訓馬穿也」とあるの
を参照。また、焦循『春秋左惇補疏』に「突宜第衝突
杜以穿解之者虞雅竃窓謂之突竃有窓以通畑気則
穿之象歎」とあるのを参照。
圃透入之陳侯扶其大子僅師奔墓
@家間(墓地〕に逃げようとしたのである。
附注の「家」は、諸本に従って、「家」に改める。
圃遇司馬桓子日載余
( 68 )
@陳の司馬である。
圃日将巡城
@公を載せたくなかったから、城の巡回を理由に、ことわ
ったのである。
圃遇買獲
@「買獲」は、陳の大夫である。
圃
載
其
母
妻
下
之
而
授
公
車
公
日
合
市
母
鮮
日
不
鮮
@緊急時でも、男女の匡別をなくすまいとしたのである。
圃輿其妻扶其母以奔墓亦克子展命師無入公宮輿子産
親御諸門
@服従させようとしただけであるから、略奪を禁じたので
ある。
圃陳侯使司馬桓子賂以宗器陳侯克擁枇
@「克」とは、喪服を着たのであり、「擁世」とは、吐の
主〔位牌〕をかかえたのである。(つまり)服従を示し
たのである。
附信公十五年の停文「使以克服衰経逆且告」の注に「克
衰経遭喪之服」とある。
圃使其衆男女別而緊以待於朝
@「紫」とは、自分からとらわれの身となって〔わが身を
しばって〕、命を待ったのである。
附信公三十三年の偉文「不以緊臣劇界鼓」の佳に「緊
囚繋
也」とある。なお、その附を参照。
圃子展執繁而見
@陳侯にまみえたのである。
附成公二年の偉文「韓厭執繁馬前」の注に「繁
執之示筒臣僕之職」とある。
圃再拝稽首承飲而進廠
@「承飲」とは、鱒〔さかづき〕をささげたのである。(つ
まり)臣としての敬を失わないことを示したのである。
附成公二年の偉文に「再拝稽首奉鱒加壁以進」とあり、
証に「進鱒壁亦以示敬」とある。また、同十六年の惇
文「使行人執櫨承飲造子子重」の注に「承奉也」と
ある。
圃子美入敷停而出
@「子美」は、子産である。獲得した人数をかぞえただけ
で、つれかえることはしなかったのである。
圃祝破吐司徒致民司馬致節司空致地乃還
@「蔽」は、除である。「節」は、兵符〔軍のわりふ〕で
ある。陳が蹴れたから、その衆官を正し、それぞれの職
務をおさめさせて、陳を安定させ、その上でひきあげた
のである。
附注の「蹴除也」については、信公六年の惇文「武王親
稗其縛受其壁而誠之」の誼に「紋除凶之曜」とある。
馬耕由
( 69 )
なお、その附を参照。
佳の「節兵符」については、文公八年の侍文「司馬握
節以死」の注に「節園之符信也」とある。なお、『史
記』規公子惇に「如姫果盗晋都兵符興公子」とあるのを
参照。
注の「陳蹴云云」については、疏に「陳園既蹴致使官
司藤闘民人分散符節失亡故令陳之司徒招致民人
司馬集致符節司空検致土地使各依其菖師乃週還
也」とある。なお、異説として、疏に「服度以居眠輿司
徒等皆是陳人各致其所主於子産」とあり、また、「劉
舷云陳園既斑民節奥地非復陳有子展子産心不滅陳
各使己之官層各依其職事致之於陳(中略)諸官皆鄭人
在軍有此官者蓋擢使描馬之未必是正官」とある。
圃秋七月己巴同盟子重丘膏成故也
@膏を伐って、「同盟」と稿しているのは、それによって、
膏もまた同盟したことを明らかにしたのである。
附九年「多公舎晋侯宋公衛侯曹伯菖子邪子勝子醇伯杷伯小
郁子商用世子光伐鄭十有二月己一亥同盟子戯」の注に「伐
鄭市書同盟則鄭受盟可知」とある。ここの場合は、経
にはないが、上の停に「晋侯漕自沖曾子夷儀伐膏
以報朝歌之役」とある。
圃超文子第政
@越武が箔匂に代わったのである。
附二十四年の惇文にコ氾宣子属政諸侯之幣重」とある。
なお、『圏諸巴晋語七「公以超文子属文也」の章注に「文
子超武」とあるのを参照。
圃令簿諸侯之幣町重其嘩
@丁重な糟によって諸侯を待遇したのである。
圃穆叔見之謂穆叔日自今以牲兵其少明失
@「明」は、止である。
附成公十六年の停文「憂猫未明」の注に「明息也」とあ
る。なお、『詩』小雅〈河水〉「心之憂矢不可明忘」の
毛停に「明止也」とあるのを参照。また、『闘記巴周
語上「吾能明一誘尖乃不敢言」の章注に「明止也」と
あるのを参照。
圏一肺門崖慶新得政時求善於諸侯武也知楚令晋ノ
@「令晋ノ」は、屈建である。
附下の停文に「屈建震令戸」とある。なお、疏に「服杜皆
以令戸馬屈建也」とあるのを参照。
圃若敬行其躍道之以文節以靖諸侯兵可以明
@二十七年の、晋と楚が宋で盟ったこと、のために侍した
のである。
( 70 )
附二十七年に「夏叔孫豹舎晋超武楚屈建禁公孫婦生衛石悪
陳孔集鄭良書許人曹人子宋」とあり、また、「秋七月辛
巳豹及諸侯之大夫盟子宋」とある。
圃楚蓮子鴻卒屈建屑令戸
@「屈建」は、子木である。
附下の停文に「楚令弄子木伐之」とある。
圃屈蕩馬莫数
@屈建に代わったのである。宣公十二年の邸の戦役のとき、
楚に屈蕩がいて、左贋の車右をつとめており、『世本』
に「屈蕩は屈建の祖父である」とある。いまここの屈蕩
は、これと同姓同名(の別人)である。
附二十二年の偉文に「屈建儒莫殻」とある。また、宣公十
二年の惇文に「彰名御左虞屈蕩昂右」とある。
圃計鳩人卒叛
@前年に、離叛していないと器解した。
附二十四年の停文に「呉人魚楚舟師之役故百釘鳩人釘
鳩人叛楚楚子師子荒浦使枕晋ノ害輿師祁整譲之釘鳩
子敬逆二子而告無之
E請受盟」とある。
なお、洪亮吉『春秋左侍詰』に「諸本楚字皆割層下句
非是」とある。
圃楚令芳子木伐之
及離城
@「離城」は、辞鳩の城である。
圃呉人救之子木遁以右師先
@先に釘鳩に達したのである。
園子彊息桓子捷子朝子孟帥左師以退
@五人は、子木に追いつかないうちに、呉と遭遇して、退
いたのである。
圃呉入居其間七日
@楚の南軍の聞に居すわったのである。
圃子彊日久将塾随随乃禽也不如連載
@「塾随」とは、水雨になやまされることである。
附成公六年の惇文「民愁則塾随」の注に「塾随覇困也」
とある。なお、その附を参照。
圃請以其私卒誘之簡師陳以待我
@精兵をえりすぐり、後にとどまって障をたてよ、という
ことである。
圃我克則進奔則亦覗之
@形勢を覗て、救助せよ、ということである。
圃乃可以見不然必馬呉禽従之五人以其私卒先撃呉
師呉師奔登山以望見楚師不権復逐之侍諸其軍
@呉は、ひきかえして五子を迫い、その本軍に達したので
ある。
圃簡師曾之
呉師大敗
透固辞鳩
釘鳩潰
( 71 )
八月楚減釘鳩
@五子は、呉の師を敗ると、そのまま進んで子木に追いつ
き、いっしょに圃んで、釘鳩を減したのである。
附注の「呉子」の「子」は、諸本に従って、「師」に改め
る。圃衛献公入子夷儀
@下の、夷儀から(使いをやって)甫喜と話をしたこと、
のために本を張ったのである。
脚下の停文に「衛献公自夷儀使輿宵喜壬一Eとある。
圃鄭子産献捷子音
@陳に入ったという功名(だけ)を献じて、賓際の停虜は
献じなかったのである。
附上の停文に「子美人数停市出」とあり、注に「但敷其
所獲人数不時以蹄」とある。また、下の偉文に「用敢
献功」とある。
圃戎服将事
@「戎服」は、軍肢の衣で、朝服と異なる。
圃晋人間陳之罪針日昔虞闘父局周陶正以服事我先王
@「悶父」は、舜の後育である。周が興起すると、闘父は、
武王の陶正となった。
圃我先王頼其利器用也
血(其紳明之後也
@舜は聖であるから、これを「紳明」と言っているのであ
る附『易』繋酔上に「聖人以此古川円戒以紳明其徳夫」とある
のを参照。
圃庸以元女大姫配胡公
@「庸」は、用である。「元女」は、武王の長女である。
「胡公」は、闘父の子の満である。
附注の「庸用也」については、旺公十四年の惇文「而謀
召君者庸非二平」等の誼に、同文がみえる。なお、そ
の附を参照。
注の「胡公闘父之子満也」については、『史記』陳世
家に「陳胡公満者虞一帝舜之後也」とあるのを参照。
圃而封諸陳以備三格
@周は、天下を得ると、夏・殿二王の後育を封じ、さらに、
舜の後育を封じてこれを悟と呼んだ。(つまり)二王の
後育をあわせれば三園〔三番目〕となり、(一方)それ
に封する槽は、(二王の後商と比べて)やや降格し、敬
を示すだけであるから、「三格」というのである。
附荘公十六年「久ム十有二月命日膏侯宋公陳侯衛侯鄭伯許男滑
伯牒子同盟子幽」の注に「陳侯介於二大国之間而震三
格之客」とある。また、疏に「二代之後則各自行其正
朔用其躍築王者尊之深也舜在二代之前其曜時降
( 72 )
格敬也封其後示敬市己故日格雄遁二代昂三
其二代不偲稿悟唯陳属悟耳」とある。なお、『爾雅』
糟詰に「悟敬也」とあるのを参照。なお、異説として、
『櫨記』郊特牲「天子存二代之後猶尊賢也尊賢不遇
一一代」の疏に引く許慣『五経異義』に「古春秋左氏説
周家封夏殿二王之後以馬上公封黄帯莞舜之後謂之
三悔」とある。ちなみに、『瞳記』集記に「武王克殿及
商未及下車市封黄一帝之後於蔚封帯莞之後於蹴封
帯舜之後於陳」とある。
なお、注の「馬一園」の「一」は、諸本に従って、「一一こ
に改める。
圃則我周之自出至子今是頼
@陳は、周の甥であり、今に至るまで周の徳に頼っている、
ということである。
附成公十三年の侍文「康公我之自出」の注に「晋外甥」
とある。なお、その附を参照。また、顧炎武『日知録』
〈出〉に「爾雅男子謂姉妹之子盛岡出停中九言出者
皆是外甥左氏妊二十二年陳属公禁出也信七年
申侯申出也成十三年康公我之白出(註菅外甥)裏
二十五年我周之自出(註言陳周之甥)叉桓公之乱
禁人欲立其出二十九年膏平公杷出也三十一年菖
去疾奔費膏出世展輿呉出也昭四年徐子呉出也
公羊文十四年俸接菌音出也寝E膏出也史記秦本紀
膏裏公之弟名薙秦出也漢書五行志王子量楚之出
也而公羊裏五年停蓋男出也則以男甥属男出失(後
漢書光武十王停賓太后及憲等東海出也ごとあるのを
参照。なお、異説として、『舎筆』に「外侮作陳我大姫
之後也自出言自周而出輿下文自立自入字例正同
(中略)下文立其出之出是甥也此出不容説甥言陳之
出自周家也」とある。
圃桓公之乱察人欲立其出
@陳の桓公飽が卒したとき、陳は蹴れた。事は、魯の桓公
の五年にある。禁の「出」は、桓公の子の属公である。
附桓公五年の停文に「春正月甲成己丑陳侯飽卒再赴也
於是陳蹴」とある。また、荘公二十二年の侍文に「陳属
公禁出也」とある。
圃我先君荘公奉五父而立之
@「五父」は、佐で、桓公の弟である。(五父が)大子見
を殺して、これに代わったので、鄭の妊公は、そのまま
彼を君位につけた。
附すぐ上の附にあげた桓公五年の停文のつづきに「文公子
位殺大子克而代之」とあり、注に「位桓公弟五父也(中
略)克桓公大子」とある。
圃禁人殺之
( 73 )
@自八刀達の出〔外甥〕を立てようとしたからである。
附上の偉文に「禁人欲立其出」とある。
圃我叉輿禁人奉戴属公
@「奉戴」は、奉事と同じである。
圃至於荘宣皆我之自立
@陳の「荘」公・「宣」公は、いづれもみな、属公の子で
ある。
圏夏氏之蹴成公播蕩叉我之白人君所知也
@「播蕩」とは、居場所を失って流浪することである。宣
公十年に、陳の夏徴訂が霊公を拭したため、霊公の子の
成公は、音に奔り、青から、鄭にたよって(陳に)入っ
た附宣公十年に「突巳陳夏徴許試其君卒園」とあり、また、
同十一年の惇文に「陳侯在晋」とあり、注に「霊公子成
公午」とある。なお、『圏一泊巴晋語二に「隠悼播越託
在草奔未有所依」とあり、章注に「播散也越遠
也」とあるのを参照。ちなみに、昭公二十六年の傍文に
「蕊不穀震渥播越蜜在剤費未有倣底」とある。
なお、注の「十一年」の「一」は、授勘記に従って、前
文とみなす。
圃今陳忘周之大徳蔑我大恵
陵我倣邑不可億逗
棄我姻親
介博楚衆
以1唇、
@「一億」は、度〔はかる〕であり、「逗」は、蓋である。
附異説として、王引之『鰹義述聞』に「家大人日杜訓億
昂度逗魚蓋不可度量殊馬不辞今案信者満也
逗輿盈古字通言其欲不可満盈也文十八年惇日侵欲
崇修不珂盈厭一意輿此同説文日意満也方言日
臆満也漢書買詰博日好悪積一意意一意臆詑輿億同
是億局満也左氏春秋昭二十三年沈子浬穀梁作沈子
盈左氏停禦盈史記作禁運叉昭四年俸浬其心以厚
其毒新序善謀篇浬作盈是浬即盈也贋雅日盈臆
満也小雅楚茨篇日我倉既盈我庚維億易林乾之
師日倉盈庚億漢巴郡大守奨敏碑日持満億盈是億
盈皆満也」とある。
圃我是以有往年之告
@鄭伯が、稽首して晋に告げ、陳を伐つ許可を請うた、こ
とをいう。
附二十四年の停文に「是行也鄭伯朝昔話重幣故且請
伐陳也郵伯稽首宣子酔子西相日以陳園之介侍
大圏市陵虐於敵邑寡君是以請罪罵敢不稽首」とあ
る。圃未獲成命
@まだ陳を伐つ許可を得ていない(うちに)。
圃則有我東門之役
( 74 )
@前年に、陳が、楚に従って、鄭の東門を伐った。
附二十四年の停文に「多楚子伐鄭以救膏門子東門次子
椋津」とある。また、上の偉文に「初陳侯舎楚子伐郭」
とある。
圃嘗陳隠者井埋木刊倣巴大悟不一競而恥大姫
@(「恥大姫」とは)かしこくも(算き)大姫の霊を辱し
める、ということである。
圃天誘其衷啓敵巴之心
@「啓」は、開である。我々の心を聞き導いてくれたから、
勝利を得ることが出来た、ということである。
附注の「啓開也」については、信公二十三年の停文「天
之所啓人弗及也」等の注に、同文がみえる。なお、そ
の附を参照。
注の「開道其心故得勝」については、信公二十八年の
停文「今天誘其衷」の佳に「衷中也」とある。なお、
『詩』百南〈野有死曹〉「吉士誘之」の毛停に「誘道
也」とあるのを参照。また、『孔子家語』正論解「天誘
其衷」の王謂佳に「誘導衷善也天導其善大克
陳也」とあるのを参照〔つまり、注の「道」は、停の「誘」
にあたり、注の「心」は、惇の「衷」と「心」にあたる、
ということ〕。
圃陳知其罪授手子我
用敢献功
晋人日
何故侵小
主t
目先王之命唯罪所在
@「酔」は、誌である。
附『孔子家話巴正論解「先王之命惟罪所在
の王粛誼に「昨諒」とあるのを参照。
圃且昔天子之地一折
@千里四方である。
附『孔子家五巴正論解「
E昔天子一折」の王覇注に「地方
千里日折」とあるのを参照。
圃列園一同
@百里四方である。
附『孔子家一拍巴正論解「列園一同」の王粛注に「方百里日
同」とあるのを参照。
圃自是以衰
@「衰」は、差降〔次第に減る〕である。
附昭公三十二年の停文に「遅速衰序」とあり、注に「表
差也序次也」とある。なお、『孔子家詰巴正論解「自
是以表」の王甫注に「大園方百里従是以屑差伯方七
十里子男五十里」とあるのを参照。ちなみに、『孟子』
蔦草下に「天子之制地方千里公侯皆方百里伯七十
里子男五十里凡四等」とある。
圃今大圏多敷折失若無侵小何以至罵
服針日我先君武妊第平桓卿士
( 75 )
各致其昨
各致其辞」
晋人目
何故戎
@鄭の「武」公・「旺」公は、周の「平」王・「桓」王の卿
士をつとめた。
附隠公三年の偉文に「鄭武公荘公馬卒王卿士」とある。
圃城濃之役文公布命日各復嘗職
@音の文公である。
圃命我文公戎服輔王以授楚捷不敢康王命故也
@「城濃」は、信公二十八年にある。
附信公二十八年の偉文に「丁未献楚倖子王(中略)鄭伯停
王用卒檀也」とある。
圃士荘伯不能詰
@「士妊伯」は、士弱である。
附九年の偉文に「晋侯問於士弱」とあり、注に「弱士渥
濁之子荘子」とある。
圃復於超文子文子日其酔順犯順不鮮乃受之多
十月子展相鄭伯如晋拝陳之功
@音がその功績を受け入れてくれたことに拝謝したのであ
る。圃子西復伐陳陳及郵平
@前回は、陳に入ったけれども、服従させただけであった
から、あらためて伐って、和平を結んだのである。
附粧の註には「陳描未服」とあって、ここの誼と甑酷して
いる。
圃仲尼日志有之
@「志」は、古書である。
附『孔子家話巴正論解「孔子聞之謂子貢日
王甫症に「志古之書也」とあるのを参照。
圃言以足志文以足言
@「足」は、成と同じである。
附『孔子家語』正論解「言以足志」の王粛註に「言以足成
其志」とあり、同「文以足圭一Eの王覇注に「加以文章
以足成其==己とあるのを参照。
圏不言誰知其志言之無文行而不遠
@一臆は通じるけれども、遠くまではとどかない、という
ことである。
附『孔子家五巴正論解「言之無文行之不遠」の王覇注に
「有言而無文章雄行而不遠也」とあるのを参照。
圃音馬伯鄭入陳非文融不属功慣鮮哉
@戸のくるるや石弓のひきがね(つまり、物の要所)の動
かし方が、祭・辱を左右する(『易』繋僻上〕。
附疏に引く都玄『周易註』に「橿戸樋也機脅牙也
戸幅之毅或明或闇響牙之謹或中或否以誓言語之
説明有祭有辱」とあるのを参照。
なお、停の文末の「也」は、諸本に従って、「哉」に改
める。ちなみに、『孔子家語』正論解に「非文僻不馬功
志有之」の
( 76 )
小子慣哉」とある
圃楚鷲掩馬司馬
@鷲子高の子である。
附下の停文に「楚子以減釘鳩賞子木辞目先大夫鷲子之
功也以輿薦掩」とあり、注に「往年楚子持伐釘鳩鷲
子鴻請退師以須其叛楚子従之卒獲釘鳩故子木闘賞
以輿其子」とある。
圃子木使厄賦
@「厄」は、治である。
附『圏諸問』魯語下「夜厄其家事雨後即安」の章注に「厄
治也」とあるのを参照。
なお、停文の「匠」は、諸本に従って、「木」に改める。
圃敷甲兵
@貼検させたのである。
附九年の偉文「一商一人閲其耐敗之嬢」の注に「閲猶敷也」と
ある。
圃甲午鷲掩書土田
@土地の逼性を記録したのである。
圃度山林
@山林の材をはかつて、園の用に供したのである。
附文公十八年の偉文「事以度功」の注に「度量也」とあるロ
圃鳩薮津
@「鳩」は、棄である〔『爾雅』稗詰〕。薮津を一箇所にま
とめて、民が焼いてだめにすることが出来ないようにし、
それを田遡の場所にあてようとしたのである。
附『周檀』津虞に「若大田遡則東津野」とあるのを参照。
なお、異説として、陸祭『左停附注』に「鳩緊若周
宮津虞使其地之人守其財物以時入之子王府者也宣
専以備田猶哉」とあり、また、王引之『鰹義述聞』に「厳
津乃天地自然之利非人所能緊而成之也不得云緊成薮
津鳩首謹馬究爾雅度究謀也大雅皇失篇日愛
究震度究猶度也度山林究薮津皆取相度之義鳩
究二字皆以九鋳聾小雅小弁篇不許究之輿属馬韻
則究讃若鳩故輿鳩逼古字多偲借後人失其讃耳
究鞍津者度其出賦之多寡故下文透云量入惰賦非以
備田強也」とある。
圃排京陵
@「緋」は、別である。非常に高い所を「京」という。大
きなおかを「陵」という。これを巨別して、墓地にした
のである。
附誌の「耕別也」については、上の惇文「男女排姓」等
の注に、同文がみえる。なお、その附を参照。
注の「紐高日京」については、『爾雅』稗丘に「紹高魚
( 77 )
之京」とあるのを参照。
注の「大阜日陵」については、『爾雅』稗地に「高平日
陸大陸自阜大阜日陵」とあるのを参照。
注の「別之以儒家基之地」については、信公三十二年の
惇文に「最有二陵駕其南陵夏后皐之墓也」とある。
圃表淳歯
@「淳歯」は、やせた土地である。しるしを立てて、そこ
の賦税を軽くしたのである。
附『稗名』碍地に「地不生物日歯函櫨也如蝿火慮也」
とあるのを参照。また、『漢書』食貨志上「若山林薮津
原陵淳歯之地」の注に「晋灼日淳重也白鳥函之田不
生五穀也」とあるのを参照。
なお、疏に「買達云淳麟也」とある〔なお、技勘記
に「浦鎧正誤也作地」とある〕。
圃敷彊療
@境界に流れや水たまりがあった場合は、計算して、その
八刀の租税を減らしたのである。
附疏に「鄭衆以昂彊界内有水療者」とあるのを参照。なお、
異説として、疏に「貰達以彊昂彊禁填塙之地」とあり、
また、「孫蹴讃矯彊溌注云砂楳之田也」とある。なお、
これらの異説については、李胎徳『春秋左惇買服注輯述』
に「周植草人彊繁用責注彊葉彊堅者填塙准
南子原道訓昔舜耕子歴山芽年市田者雫庖填塙以封
壌肥観相譲填本作暁漢書景一帝一紀郡園或暁限無所
農桑般畜注暁謂暁拍痔薄也買以彊葉訓彊填塙訓
涼鄭衆以馬彊界内有水漬買血〈之異者以山川敷津以
下皆封翠其名此濁言一揖内有水則是涼一名失故不同
之以填涼聾相近因以填塙馬訓以彊嘆類相従也」と
あり、また、王引之『鰹義述聞』に「水療所集不必在
一誼界且上文之山林薮津京陵淳歯下文之値諸原防隈皐
街沃皆二字平列此彊源不慮濁異鄭衆之説非也孫
蹴讃馬彊涼蓋彊崎之謂爾雅山多小石撒郭瑛桂
云多一遍際稗文彊居羊反引{子林云磯也説文
際小石也玉篇崎同膿力的切衆鰹音義巻八引
通俗文云地多小石謂之彊磯是彊開者有石之地
逸周書文停篇所謂礎石不可穀樹之葛木以属綿裕以
居間材用者也不可樹穀故計敷減其租入也孫説盛岡長」
とあるのを参照。
圃規値諸
@「値箱」は、低棋の地である。そこの水のたまり具合を
はかったのである。
附異説として、『周躍』稲人「以荷畜水」の注に「玄謂僅
箱者畜流水之肢也」とある。
圃町原防
( 78 )
@贋くて平らなところを「原」という〔『爾雅』蒋地〕。「防」
は、隈である(『説文』〕。隈防の聞の土地は、井田のよ
うな員四角がとれないから、別に小頃町〔小匝董〕をつ
くったのである。
附疏に「史遊急就篇云頃町界畝」とある。
圃牧隈皐
@「隈皐」は、水遁の低濃地であり、(そこを)放牧の用
地にしたのである。
附桓公三年の惇文「逐翼侯干沿隈」の注に「扮隈扮水遁」
とある。なお、その附を参照。また、『詩』小雅〈鶴鳴〉
「鶴鳴子九皐」の毛停に「皐津也」とあるのを参照。
圃井筒沃
@「市沃」は、平らで肥えた土地であるから、『周槽』の
ように、董定して井田にしたのである。六尺(四方)を
「歩」といい、歩百を「畝」といい、畝百を「夫」とい
い、九夫を「井」という。
附注の「桁沃平美之地」については、疏に「買達云下
平目前有概日沃」とあるのを参照。また、『園話巴魯
語下「沃土之民不材逸也」の章注に「沃肥美也」と
あるのを参照。
注の「如周檀制以屑井田」については、『周躍』小司徒
に「乃鰹土地市井牧其田野」とあり、注に「節司農云
井牧者春秋惇所謂井前沃牧隈皐者也」とあるのを参照。
注の「六尺属歩云云」については、疏に「六尺魚歩以下
皆司馬法之文」とある。なお、すぐ上にあげた『周檀』
小司徒のつづきに「九夫馬井」とあり、注に「司馬法日
六尺馬歩歩百屑晦晦百信夫夫三馬屋屋三筋
井」とあるのを参照。
なお、疏に「自度山林以下至此有九事責達以魚賦税差
品其注云山林之地九夫馬度九度市首一井也鼓
津之地九夫馬鳩八鳩市富一井也京陵之地九夫属
耕七緋而嘗一井也淳函之地九夫馬表六表市首一
井也彊潔之地九夫員数五敷而嘗一井也値猪之地
九夫魚規四規而嘗一井也原防之地九夫儒町三
町而嘗一井也隈皐之地九夫矯牧二牧而嘗一井也
桁沃之地畝百馬夫九夫昂井」とある。この説につい
ては、『周檀』小司徒「乃鰹土地而井牧其田野」の註に
「玄謂隈皐之地九夫属牧二牧而富一井今造都郡
授民固有不易有一易有再易通率二市嘗一是之
謂井牧」とあるのを参照。
圃量入筒賦
@九種の土地の出来高をはかつて、それぞれの賦視を定め
たのである。
圃賦車籍馬
( 79 )
その毛色や年齢を登録して、
軍の用に備え
@「籍」とは、
たのである。
附『舎韮』に「疏
圃賦車兵
@「車丘(」は、甲士である。
圃徒兵
@歩卒である。
附信公二十八年の偉文「徒兵千」の注に「徒兵歩卒」と
ある。なお、その附を参照。なお、異説として、疏に「劉
怯云兵者鞍器車上甲士輿歩卒所執兵各異也」とあ
る停文の「卒」は、諸本に従って、「兵」に改める。なお、
技勘記を参照。
圃甲楯之敷
@武器が二疋の敷になるようにしたのである。
圃既成以授子木曜也
@園を治める檀にかなっている、ということである。停は、
楚が興起したわけを言っているのである。
記注也」とあるのを参照。
圃十二月呉子諸奨伐楚以報舟師之役
@「舟師」は、二十四年にある。
附二十四年の停文に「夏楚子属舟師以伐呉」とある。
圃門子出来
@由来の門を攻めたのである。
制妊公十八年の停文「遂門子楚」の症に「攻楚城門」とあ
る。なお、その附を参照。
圃集牛臣日呉王勇市軽若啓之将親門
⑪「啓」は、門を聞くということである。
附上の惇文「啓倣口巴之心」の注に「啓開也」とある。
圃我獲射之必撞
@「殖」は、死である〔『爾雅』稗詰〕。
附隠公九年の停文「衷戎師前後撃之墨殖」等の注に、
同文がみえる。
圃是君也死彊其少安従之呉子門罵牛臣隠於短描以
射
之
卒
附停文の「彊」は、諸本に従って、「彊」に改める。
( 80 )
圃楚子以減釘鳩賞子木
掩⑪往年、楚子が釘鳩を伐とうとしたとき、鷲子恒例が、師を
ひいて相手が叛くのを待つよう進言し、楚子はこれに従
ったため、結局、野鳩を獲得できた。だから、子木は賞
を辞退して、その子に輿えたのである。
附二十四年の停文に「呉入信楚舟師之役故
僻日
先大夫鷲子之功也
以血(鷲
召釘鳩人
釘
鳩人叛楚楚子師子荒浦使沈戸蕎輿師祁埜譲之釘鳩
子敬逆二子而告無之
E請受盟二子復命王欲伐之
蓮子日不可彼告不叛且請受盟而叉伐之伐無
罪也姑蹄息民以待其卒卒而不震吾叉何求若猶
叛我無僻有庸乃還」とあり、また、上の偉文に「辞
鳩人卒叛」とある。なお、上の停文「楚驚掩馬司馬」の
注に「蔦子鴻之子」とある。
圃音程鄭卒子産始知然明
@前年に、然明が、程鄭は死ぬだろうと言い、今ここで、
その言葉通りになったから、彼の人物を認めたのである。
附二十四年の惇文に「晋侯嬰程鄭使佐下軍鄭行人公孫
揮如晋鴨程鄭問罵日敢問降階何由子羽不能針
蹄以語然明然明日是将死矢不然将亡貴而知憧
健市思降乃得其階下人而己叉何問駕且夫既登
而求降階者知人也不在程鄭其有亡費平不然其
有惑疾牌死而憂也」とある。
圃問震政罵酎日現民如子見不仁者諒之如鷹鴎之逐
鳥雀也子産喜以語子大叔且日他日吾見蔑之面
市己
@「蔑」は、然明の名である。
附二十四年の惇文「子羽不能封
蹄以語然明」の注に「然
明融蔑」とある。
圃今吾見其心矢子大叔問政於子産子産日政如農功
日夜思之思其始而成其終朝夕而行之行無越思
@思い、その後で行なう。
附異説として、陸禁『左停附注』に「言所行不越子所思由
故下云如農之有昨」とある。
なお、諸本に従って、惇文の「タ而行之」の上に、「朝」
の字を補う。
圃如農之有昨
@順序がある、ということである。
附異説として、『曾筆』に「言其有界限而不敢蹄越即上
文行無越思之輸杜云有次不切」とある〔なお、これ
は、すぐ上の附にあげた陸築設にもとづく〕。
圃其過鮮尖
( 81 )
圃衛献公自夷儀使輿甫喜言
@固にかえることを求めたのである。
附註の「翠」は、諸本に従って、「求」に改める。
圃甫喜許之大叔文子聞之
⑪大叔儀である。
附十四年の侍文に「衛人使大叔儀剖」とある。
圃日烏呼詩所謂我肝不説皇価我後者慰問子可謂不他
其後失
@「皇」は、暇である。「詩」は、小雅(小弁)で、”わ
が身さえ容れられない朕況なのに、どうして子孫のこと
まで心配する暇があろうか”ということである。(つま
り)寄子が、必ずわが身に禍害を受け、子孫のことなど
心配できない、ことをいう。
附鄭箸に「故自決云我身向不能自容何暇乃憂我死之後
也」とあるのを参照。ちなみに、都風〈谷風〉にも同句
がみえ、その毛停に「閲容也」とあり、鄭筆に「軒
身
違
暇
価
憂
也
我
身
向
不
能
自
容
何
暇
憂
我
後
所
生子孫世」とある。
圃将可平哉殆必不可君子之行思其終也
@しまいまで全うさせることを考える。
附上の停文に「思其始而成其終」とある。
圃思其復也
@くりかえし行なうことが出来るよう考える。
圃書日慣始而敬終終以不困
@逸書である。
附荘公八年の偉文「夏書日皐陶逼種徳」の注に「夏書
逸書也」とある。なお、その附を参照。ちなみに、ここ
の文は、備古文の〈察仲之命〉に拾われ、「慣厭初惟
厭終終以不困」と改掛宣されている。なお、『逸周書』
常訓解に「慎微以始而敬終
圃詩日夙夜匠解以事一人
@「一人」とは、それによって君のことを晴えたのである。
附文公三年の侍文「夙夜匪解以事一人孟明有罵」の注
に「詩大雅美仲山甫也一人天子也」とある。
圃今宿子硯君不如奔棋
@「奔」は、園棋である。
附『説文』に「奔園莱也」とあるのを参照。また、『方
ニ一日』第五に「園葉謂之奔自闘而東歳月魯之間皆謂之
奔」とあるのを参照。
圃其何以克平奔者邸中棋不定不勝其棋而況置君市弗定
乎必不克失九世之卿族一翠而減之可哀也哉
@筒氏は、衛の武公に出自し、喜までで九代である。
乃不困」とある。
( 82 )
圃舎子夷儀之歳費人城那
@二十四年にある。軍に「夷儀で舎した(歳にごと言わ
ない(で、さらに「賢人が姉に城いた」と言っている)
のは、二十五年の夷儀の舎と匡別するためである。
附二十四年に「公舎晋侯宋公衛侯鄭伯曹伯菖子郁子牒子醇
伯杷伯小郁子子夷儀」とあり、同年の停に「費人城郊」
とある。また、二十五年に「公舎晋侯宋公衛侯鄭伯曹伯
菖子邪子勝子醇伯妃伯小郁子子夷儀」とある。
なお、健文の「郊」は、諸本に従って、「郊」に改める。
圃其五月秦音信成晋韓起如秦准盟秦伯車如晋粒盟
@「伯車」は、秦伯の弟の錨である。
附二十六年の偉文に「春秦伯之弟鍋如晋筒成」とある。
圃成市不結
@堅固ではなかった、ということである。(この)停は、
後年〔二十六年〕の「惰成」のために本を起こしたもの
であるから、(通例として)前年〔二十五年〕の末につ
づけて置かれるはずなのに、特別にここ〔二十六年の始
め〕に跳んでいるのは、停寓の際にまちがえたのである。
附疏に「丘明作傍使文勢相接魚後年之事而年前謹端
者多矢文十年停云厭籍之舎菓子逃輯十一年云
楚子伐襲宣十一年俸云腐之役鄭伯逃開十二年間
云楚子園鄭皆偉在前巻之末橡居後巻之始此馬後
年修成殺其前成不結其事輿彼相類不宜濁載巻首」
とあり、また、「親晋儀誼需章表別起行頭者謂之
跳出」とある。
なお、この注から、杜預の本では、ここの停文が、二十
六年の始めにあった、ことがわかる。
( 83 )