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『日本が誇る産業遺産・三河ガラ紡』 愛大中産研 生活産業資料館展示室開設記念 座談会・実演見学会 2005 10 8 日 於:愛知大学研究館 1 階第 1・第 2 会議室 <資 料> 作成:愛知大学中部地方産業研究所 ★展示コンセプト★ 三河ガラ紡の発展史をたどる(三河特有の産業として栄えたガラ紡とその発展史) 独創的なガラ紡績機の仕組みを知る(洋式紡績との比較とガラ紡の独創性) ガラ紡関連機械の動態保存(歴史的産業遺産としてとしてのガラ紡の復元と展示) 教育・研究と創造の場の提供(歴史教育・研究等への資料提供) 社会教育の場の提供・地元への社会貢献(地域への施設開放) 写真-愛大中産研 生活産業資料館展示のガラ紡績機

『日本が誇る産業遺産・三河ガラ紡』‚¬ラ紡.pdf10,433.2 8,949.6 7,258.2 5,981.2 6,175.8 4,476.9 4,040.1 1 反は約300 坪(9.9 アール)。 明治40 年 273.7

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『日本が誇る産業遺産・三河ガラ紡』 愛大中産研 生活産業資料館展示室開設記念 座談会・実演見学会

2005 年 10 月 8 日 於:愛知大学研究館 1 階第 1・第 2 会議室

<資 料>

作成:愛知大学中部地方産業研究所 ★展示コンセプト★ ① 三河ガラ紡の発展史をたどる(三河特有の産業として栄えたガラ紡とその発展史) ② 独創的なガラ紡績機の仕組みを知る(洋式紡績との比較とガラ紡の独創性) ③ ガラ紡関連機械の動態保存(歴史的産業遺産としてとしてのガラ紡の復元と展示) ④ 教育・研究と創造の場の提供(歴史教育・研究等への資料提供) ⑤ 社会教育の場の提供・地元への社会貢献(地域への施設開放) 写真-愛大中産研 生活産業資料館展示のガラ紡績機

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★ 綿から糸にするしくみ★

① 綿花の伝来と三河木綿 綿種が日本に伝わった最初は、延暦 18 年(799)に三河国(現在の西尾市天竹町付近)

に崑崙人が漂着したときといわれる。ここには天竹神社ができて、この崑崙人を「棉祖神」

として祭っている。 三河地方が綿花の栽培地として文献に現れるようになるのは 15~16 世紀のことである。

江戸時代には河内国、摂津国などと並んで国内有数の綿作地に成長する。とくに矢作川下

流域でさかんに栽培され、知多木綿、三河木綿の産地を形成することになった。 しかし、三河地方の綿花は明治 20 年代になると綿花輸入の増大や輸入関税の撤廃などに

より壊滅的打撃を受けることになる。 棉祖神 天竹神社

いずれも天野武弘氏提供写真。

愛知県の綿の作付面積の推移 年 作付面積(反)

明治 23(1890)年 明治 24 年 明治 25 年 明治 26 年 明治 27 年 明治 28 年 明治 29 年 明治 30 年

11,765.2 10,433.2 8,949.6

7,258.2 5,981.2 6,175.8

4,476.9 4,040.1

1 反は約 300 坪(9.9 アール)。 『明治 30 年愛知県勧業年報』他より。 明治 40 年 273.7

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② 道具の時代の糸づくり 綿花から糸にするには、綿によりを掛けながら引き伸ばして行う。日本では江戸時代末

期から明治初期にかけて機械が輸入されるまではすべて手紡ぎであった。 その工程は次のように道具を使って行われた。10 月頃に収穫された綿の種を綿繰り具で

繊維と種子を分離し(「綿繰り」)、弓のつるではじいて綿繊維をほぐして(「綿打ち」)紡ぎ

やすくした後に、撚子(よりこ)をつくり、これを糸車にかけてよりを掛けながら引き出

して巻き取る(「糸紡ぎ」)。紡いだ糸は、煮ることでより戻りが止められてから、綛糸(か

せいと)に仕上げる(「綛揚げ」)。 綿繰り 弓打ち

糸紡ぎ

安城市歴史博物館『日本独創の技術ガラ紡』1994 年。

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③機械による木綿糸づくり 機械による糸づくりを実現させた紡績機械の開発はイギリスで始まった。1764 年ジェニ

ー紡績機、1768 年ウォーターフレーム(アークライト)、1777 年にはミュール精紡機が発

明された。こうした発明は、紡績産業を大きく発展させ、衣料革命にはじまる産業革命の

端緒をつくった。明治初期に日本が紡績業振興のために輸入したのはミュール精紡機であ

り、その後アメリカで発明されたリング精紡機が導入された。とはいえ、洋式の機械紡績

は、最終製品としての糸を得るまでに「混綿」-「打綿」-「梳綿」-「練条」-「粗紡」

-「精紡」-「綛上げ」など多くの工程と関連するさまざまな機械を必要とした。 イギリス・プラット社製のミュール精紡機(左)と梳綿機(右)

中岡哲郎他編『産業技術史』新体系日本史 11、山川出版社、2001 年。

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★三河ガラ紡のあゆみ★ ①ガラ紡とは ガラ紡は、日本で発明された世界に類例をみない紡績法といわれる。この紡績機械とし

てのガラ紡績機を発明したのは、長野県出身の臥雲辰致(がうんときむね)であった。臥

雲の発明したガラ紡績機は、1873(明治 6)年に完成し、改良が加えられたのち、1877(明

治 10)年の第一回内国勧業博覧会に出品され、「本会中第一ノ好発明」として最高賞にあた

る鳳紋褒賞を受賞した。 ガラ紡績機は、一度に何本もの糸が引けるように機械化したものであった。その工程は

「混綿」-「打綿」-「撚子(よりこ)巻き」-「精紡」-「綛揚げ」と洋式紡績に比し

てきわめて少なく、したがって関連機械も少なくてよかった。しかも、国産綿など繊維が

短い綿に適していた。 出品されたガラ紡績機と賞状

安城市歴史博物館『日本独創の技術ガラ紡』1994 年。

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② ガラ紡機械の発明者・臥雲辰致 臥雲辰致は、1842(天保 13)年に現在の長野県南安曇郡堀金村に生まれた。本名を横山

栄弥といった。小年の頃から足袋底製織の仕事をする父親を手伝うかたわら、紡績機械の

考案に没頭していたという。20 歳の時に出家し、26 歳で臥雲山狐峰院の住持となるが、同

院は 1871(明治 4)年に廃仏毀釈のあらしのなかで廃寺となり還俗した。このとき、狐峰

院の山号をとって臥雲辰致と名乗り、再び紡績機械の考案に取りかかった。そして 2 年後

の 1873(明治 6)年、最初のガラ紡績機を完成した。 臥雲辰致は、1875(明治 8)年に紡績機の専売免許を申請したが、このとき日本にはま

だ特許法が制定されておらず、公売が許可されただけにとどまった。しかし、翌年ガラ紡

績機の効率のよさに注目した長野県官吏の勧めで、ガラ紡績機の量産を計画するともに、

第一回内国勧業博覧会への出品を決定した。 臥雲辰致の肖像 臥雲辰致の記念碑(岡崎市郷土資料館)

村瀬正章『臥雲辰致』吉川弘文館、1956 年、北野進『臥雲辰致とガラ紡機』アグネ技術セ

ンター、1994 年。

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③ ガラ紡、三河に普及 全国でガラ紡が最も普及・発展したのは岡崎、豊田、額田を中心とする三河地方であった。

三河地方最初のガラ紡績機は、第一回内国勧業博覧会の直後に、三河ガラ紡草創期の功労

者甲村瀧三郎によってもたらされた。はじめは 40 錘の手廻しガラ紡績機であったが、これ

を水車に結合して水車紡績としたのが 1879(明治 12)年であった。3 年後の 1882(明治

15)年には、三河地方に 6 万 8 千錘という水車動力のガラ紡績機が普及し、その使用は、

明治 10 年代後半にかけて爆発的な広がりをみせた。 一方、1878(明治 11)年には、同じ水車紡績でも船の両側に水車を付けて停留させ、川

の流れで水車を回して船に積んだガラ紡績機を運転するという船紡績もはじまった。これ

は幡豆郡の鈴木六三郎が矢作古川で操業したのが最初であった。最盛期の 1898(明治 31)年頃には、ガラ紡船は矢作川全体で 100 隻余におよんだ。

矢作川下流の船ガラ紡と 内部のしくみ(下)

海野福寿編『技術の社会史』3、有斐閣、

1982 年。

玉城肇『三河地方における産業発達史概説』愛 知大学中部地方産業研究所報告第1号、1955 年。

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④ 洋式紡績の台頭とガラ紡績 1878 年、政府は綿製品の輸入紡遏と国産綿栽培の保護育成をはかるため、広島と岡崎に

官営紡績所の建設を決定した。1881(明治 14)年、岡崎に官営愛知紡績所が完成し、模範

工場としての役割を担うことになった。その後東海地域には、三重紡績(1882 年)、名古屋

紡績(1885 年)、尾張紡績(1887 年)などの大規模な民間紡績会社が次々と設立された。

これら洋式紡績は、明治 20 年代には原料を国産綿や中国綿からインド綿へと転換すること

によって均質な細糸を量産するようになっていった。 このためガラ紡は 1888(明治 21)年をピークに衰退をたどった。しかし、ガラ紡は 1893

(明治 26)年以降、中国綿や洋式紡績工場の落綿などを原料とする太糸生産に方向を転換

し、帆前掛生地、布団袋、足袋底、帯芯などに活路を見出していった。 三河地方のガラ紡業者および生産額 年 製造戸数 職工数 数量 価格 明治 18(1885)年

明治 20(1887)年

明治 29(1896)年

明治 33(1900)年

明治 36(1903)年

明治 39(1906)年

明治 40(1907)年

501 戸 668 289 125 89 88 91

2,433 人 2,591 - 684 708 1,147 1,210

99,942 貫 333,004

322,198 705,589 358,944 437,543 420,656

159,280 円 531,147 442,147 1,038,152 586,790 874,816 655,853

玉城肇『三河地方における産業発達史概説』愛知大学中部地方産業研究所報告第1号、1955年。

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⑤ 三河ガラ紡のその後の展開 ガラ紡糸の市場開拓と原料転換によって、ガラ紡は明治 30 年代後半頃から次第に生産高

を伸ばし、昭和 10 年代には水力から電力へと動力の転換もすすみ、紡錘数は 170 万錘を超

える盛況をみせた。しかし、1943(昭和 18)年の戦時統制による企業整備の実施により、

全国一の生産量を誇っていた愛知県でも約半数の 500工場近くが転廃業を余儀なくされた。 ガラ紡は、敗戦直後の衣料不足の時代に、ガラマン時代と称される最盛期をむかえた。

1949(昭和 24)年には、全国のガラ紡績機の紡錘数は 409 万錘に達した。しかし、紡績業

の復興によってガラ紡は急速に衰退を余儀なくされた。その後、ガラ紡は三河地方を中心

とする地場産業として細々とではあるが生き残り、今日にいたっている。 愛知県のガラ紡糸生産額の推移

産業技術記念館パンフレット『「モノづくり」と「研究と創造」』1997 年。

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★ガラ紡績機の独創性★ ①ガラ紡績機のしくみ ガラ紡紡績機は、図のようなしくみを持っている。 まず、綿を筒状に巻いた「撚子(よりこ)」と呼ばれる原料綿を入れるブリキ製の「つぼ」

があり、木製のつぼ底の中心には鉄製の「つぼ芯」がついている。つぼ芯の下端は天秤に

接触して「おもり」との間でバランスをとっている。水車などからの動力はベルトや歯車

を介して「上ゴロ」と「下ゴロ」と呼ばれる木製の駆動軸にそれぞれ伝えられる。「下ゴロ」

から「ハヤ糸」によって中心に孔の開いた「遊鼓(ゆうご)」と呼ぶ木製のプーリーに伝え

られる。つぼ底と遊鼓には羽根(鉄片=クラッチ)が付いており、この接触によってつぼ

が回転する。

上右:込め竹(こめたけ)でつぼに撚子(より

こ)をつめるようす 上左:つぼ各種、込め竹、綿はさみ 下右:下ゴロ・ハヤ糸・遊鼓のようす(つぼと糸

枠ははずしてある) 下左:下右写真の上方の上ゴロにのせる糸枠 天野武弘氏提供写真(左)他。

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②ガラ紡績機の精紡のしくみ 運転がはじまると、回転するつぼと「上コロ」が回す糸枠の張力によって、つぼ内の撚

子(よりこ)の表面では綿繊維が引き伸ばされ、撚り掛けされながら糸が紡ぎ出されてい

く。つぼの回転速度が糸枠の巻き取り速度よりいくぶん早く設定されている。このため、

やがて撚りが強くなり天秤のバランスがくずれて、つぼごと引上げられることになり、羽

根がはずれてつぼの回転が止まる。この間も巻き取りによる引き伸ばしが行われるため、

撚りがあまくなってつぼは下降し、再び羽根が接触すると撚り掛け行われる。 このように天秤機構によって撚り掛けと引き伸ばしが交互に繰り返し行われるところに

その特徴をみることができる。 ガラ紡績機の精紡のしくみと天秤機構

産業技術記念館パンフレット『「モノづくり」と「研究と創造」』1997 年、安城市歴史博物

館『日本独創の技術ガラ紡』1994 年。

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③ガラ紡績機の独創性 ガラ紡績機による精紡法は、ミュールやリングといった洋式紡績機の精紡法とどのよう

に違うのだろうか。洋式紡績機は、紡錘による撚り掛け引き伸ばし(スピンドルドラフト)、

または回転速度の異なるローラーによる引き伸ばし(ローラードラフト)と撚り掛けとい

った方法をとる。いずれの場合も、精紡するためには混打綿から粗紡までの前工程で多く

の機械を通して粗糸(そし)をつくる必要があった。このため工場の規模は大きくならざ

るを得なかった。 これに対してガラ紡績機は、回転する綿(撚子)から直接糸を紡ぐとともに、天秤機構

によって撚り掛けと引き伸ばしを自動制御するというものであった。ただし、この機構で

は、前工程は省略できるものの、均質な糸の紡出が難しいという欠点をもつ(ガラ紡績機

および同機による精紡のしくみについては玉川寛治「ガラ紡精紡機の技術的評価」『技術と

文明』第 3 巻 1 号、1986 年を参照)。 参考:ミュール精紡機と精紡のしくみ

①粗紡篠巻(A)からローラー

(B)によって粗糸が引き伸ば

されて送り出される。②その速

度にあわせてレール上の可動台

を図の左手に移動させながらス

ピンドル(E)を回転させて糸

に撚りを掛ける。③E’のとこ

ろまできたとき、スピンドルを

巻き取りの位置にする。④スピ

ンドルに糸を巻き取りながら可動台をもとの位置までもどす。この操作を何回も繰り返す。

(海野福寿編『技術の社会史』4、有斐閣、1982 年)

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④ガラ紡工場の生産システム ガラ紡績の作業工程は、下図に示すような工程を経て行われる。ガラ紡工場では一般に

原料綿を混綿したりほぐしたりする「ふぐい」と呼ぶ機械が 1 台、綿繊維を揃えて引き伸

ばす打綿機が 1 台、打綿された綿を「つぼ」に詰めるために棒状の綿に巻く「撚子巻き機」

が 1 台、そして 1 台 8 間 512 錘(片側 256 錘)のガラ紡績機が 2 台、さらにできた糸を数

本合わせて合糸する「合糸機」が 1 台、合糸した糸に撚りを掛ける「撚糸機」1 台を設備し

ている。このようにガラ紡工場は、工場内ですべての作業工程を行うことができる一貫工

場でもある。 動力にははじめは水車が使われたが、昭和期に入ると電動機の導入が進み、その比率は

1940 年(昭和 15)には電力利用工場が水力併用をふくめると 70%を超えるまでになった。 現在のガラ紡工場の工程

愛知の産業遺跡・遺物調査保存研究会『和紡績と日本の木綿展』1986 年。 元小野田和紡績工場平面図

天野武弘氏提供。

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★新しい息吹-ガラ紡の現状と新たな展開 ①三河ガラ紡の現状 三河のガラ紡産業は、昭和 40 年代になると工場数の減少に拍車がかかり、1985 年(昭

和 60)には、稼動するガラ紡工場は 16 工場(約 1 万数千錘)を残すのみとなった。2005年(平成 17)現在、操業をつづけるガラ紡工場は、岡崎に 1 工場、豊田に 2 工場の計 3 工

場(約 3000 錘)となり、今やその歴史的使命を終えたといってよい。しかし、ガラ紡績機

は、日本繊維産業発展の一翼を担った独創的な紡績技術として貴重な産業遺産の一つに位

置づけられている。 1980 年代のガラ紡工場の分布図

愛知の産業遺跡・遺物調査保存研究会『和紡績と日本の木綿展』1986 年。

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②産業遺産としてのガラ紡 ガラ紡工場は、かつては水車を動力としたことから河川沿いに立地することが多かった。

電動機の導入とともに街中に立地する工場も増え、水車を動力とするガラ紡工場は、昭和

30 年代にはほぼ姿を消した。その水車動力のための堰堤や水路の遺構をはじめとする工場

遺構は、いまも岡崎・豊田の山間部をはじめとする川沿いに数多く残され、独特な景観をつ

くりだしている。 また近年、ガラ紡績機を復元・展示する博物館も増えているが、長さ 1~2 間というもの

が多い。本学所蔵のガラ紡績機は、昭和 30 年代に豊田市内で収集されたもので、長さは 3間(約 5.5 メートル)ある。長さ 3 間のガラ紡績機の動態展示は日本初であり、合わせて合

糸機、撚糸機を展示するところも他では見当たらない。

天野武弘氏提供写真。

③ガラ紡の新たな展開 ガラ紡の糸をよく見ると太さにむらがあり、撚りも甘く、全体にやや太めである。均質

で細糸嗜好の今日において、かえってガラ紡糸で織られた布の風合いや吸湿性のよさが見

直されはじめている。それだけでなく、ガラ紡の環境へのやさしさもあらためて注目され

るようになっている。

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