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檜山の地名由来とヒノキアスナロの歴史 ヒノキアスナロの歴史・文化に関する調査報告書【概要版】‐ 北 海 道 檜 山 支 庁

檜山の地名由来とヒノキアスナロの歴史...「檜山ひやま」の地名由来 各町(村)史などの調査について この調査にあたっては、江差、上ノ国、厚沢部の各町(村)史や北海道史を文献とし、特に林業やヒノキアス

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檜山の地名由来とヒノキアスナロの歴史

‐ ヒノキアスナロの歴史・文化に関する調査報告書【概要版】‐

北 海 道 檜 山 支 庁

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調 査 の 目 的

かつて檜山南部地方には、ヒノキアスナロがうっそうと繁茂し、松前藩草創以来、藩を担う貴重

な資源となっていたが、約 300 年前の大規模な山火事やその後の伐採などで、その資源も非常に減

少してきている状況であったことから、檜山支庁では「檜山の檜(ヒノキアスナロ)森づくり推進

事業」を平成 10 年度から展開し、ヒノキアスナロの資源回復に向けた地域ぐるみの取り組みを開始

した。

ヒノキアスナロは郷土樹種であり、地名の由来ともなっていると言われるくらい檜山の歴史・文

化にも密接に関連していると伝えられている。

この歴史・文化を後世に引き継ぐため、「檜山ひ や ま

」の地名由来やヒノキアスナロが地域に果たしてき

た役割について、調査を行うこととした。

「ヒノキアスナロ」 檜 山 の 檜

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「檜山ひ や ま

」の地名由来

○ 各町(村)史などの調査について

この調査にあたっては、江差、上ノ国、厚沢部の各町(村)史や北海道史を文献とし、特に林業やヒノキアス

ナロに関することを基本に進めていった。

ヒノキアスナロの伐採は、16 世紀後半頃から松前藩の管理のもとに進められ、藩の経営基盤を支えるための重

要な財源となっていた。

この間、ヒノキアスナロの伐採管理のため、松前藩は檜 山ひのきやま

番所・檜 山ひのきやま

奉行などを設け、檜の稚樹を伐ること、

皮をはぐこと、伐採後の植栽などを義務づけ山林保護に努めていた。

しかし、1695 年 4 月、大規模な山火事の発生により立木の過半数を失い、この後の伐採事業は著しく衰退して

いった。

当時ヒノキアスナロは、その材質が「ヒノキ」に似ているところから、これを 檜ひのき

と呼び、生育している山を檜木山ひのきやま

(檜 山ひのきやま

)と呼んでいたが、地図などには、「檜 山ひのきやま

」あるいは「檜山ひ や ま

」という特定の地名を見ることは出来なかっ

た。

明治に入ってからは、蝦夷地の名称が北海道と改められ、国郡制施行により、現在の檜山南部地方が初めて「檜山ひ や ま

郡」と命名されていることが確認された。

○ 松浦武四郎の建議について

現在の「檜山ひ や ま

郡」は、明治 2 年の国郡制施行

にあたり、松浦武四郎「蝦夷地郡名之儀取調書」

の建議によるものである。

を存し置度存候事

この調書によれば、小砂子村より石崎・

羽根指は ね さ し

・汐吹・木の子・上の国・北村と此の川

筋(天の川)・五勝手・江差港・泊村・厚沢部沢

の目通り(目の届く範囲)・乙部村との境である

五厘沢までと、東は木古内村との境である峠の

頂上までを郡の区域とし、郡名は、昔からこの

あたりが檜山となっていて、檜山奉行が支配し

てきていることや江差港の税金も檜材から取り

立てていることから、檜山ひ や ま

郡と名づけたいとして

いる。

○ 秋田檜山の安東氏について

千葉稲城著「最近の富の北海道」(明治 44 年 7 月

係る下國は津輕安東氏の開創にして此二館主の部属

といふは山中檜多きより取りしといふ説あれど秋田

へる書に『河北の檜山の郡司舜広是江指の城主なり

上ノ国村史などにおいても、同様の内容の記述がな

檜山ヒ ヤ マ

郡 東小砂子村ヨリ石崎羽根指ハ ネ サ シ

汐吹木の子上の

国北村并此川筋五勝手江差湊泊り村厚沢部

沢目通り乙部境五輪沢ニ境ス并大島附之事

但シ上の国川筋両岸村々東木子内村峠上ニテ境ス

此処ハ上の国哉又ハ江差郡ニ致度けれ共江差ハ則江差

斗の名にして有住古此辺惣而檜山にして檜山弾正と申候者

領し江差湊運上の取方も檜材の運上ヨリ起り松前函館

の取立ヨリ其規則違居候間往古檜山の有し辺へ此郡名

(松浦武四郎「蝦夷地郡名之儀取調書」より)

3 日発行)では、「傳へ言ふ上國は秋田檜山の安東氏の草創に

は截然二派に分かれ各本支の分を守りたり。此邊一帯を檜山

檜山の館主が開創したるより名を取りしが如し。年々記とい

。』とありて河北は阿北の誤説ならんと。」と記述されており、

されていた。

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○「檜山ひ や ま

」の地名由来の調査結果について

今回の文献等について調査を実施してきた結果、ヒノキアスナ

ロ( 檜き

)が生育している山を指して、「檜 山きやま

」という記述がさ

れているが、特定の地名を表わす「檜山や ま

」あるいは「檜 山きやま

」と

いう記述は確認できなかった。

ひの ひの

ひ ひの

ひの

ひ や ま

明治 2 年の国郡制施行にあたり、松浦武四郎が明治政府に提出

した建議書において、「古くから檜 山きやま

のあったあたりを、郡名と

して残したい」という事由で、ここで初めて「檜山郡」と命名さ

れていた。 このことから「檜山

ひ や ま

」の地名由来は、檜 山ひのきやま

からきているもの

と考えられる。 なお、秋田檜山の安東氏に係る資料については、前述以上の

ものが見当たらなく、その内容を確認するまでには至らなかった

檜山のヒノキアスナロ(羅漢柏)の推移

緒 言

海道開拓使、国郡制施行に

しょう

に登っ

ひ や ま

オトドマツの南限の天

明治 2 年(1869)北

あたり、その国・郡制の名称並びにその区画につ

いて、松浦武四郎がその 掌 にあたった。

武四郎は江差渡航の折、度々笹山や元山

てその西方眼下に展開するヒノキの美林に感動し、

このヒノキ山を消滅してはならないという思いが、

「檜山郡」と命名した武四郎の心情と思われる。

大正 11 年(1922)10 月、江差町椴川山の一部 506.75ha が、ヒノキアスナロの北限、ア

(北海道国郡図より)

椴川ヒノキアスナロの天然林

(天然記念物)

林として保存・保護するために、国の天然記念物に指定を受けることになった。

武四郎の思いが通じたのである。

檜ひのき

山やま

の 伐 採 ノ国 両河川の挟む流域は、樹木がよく繁茂し、松前藩草

つまび ひのきやま

に出店を開設し、ヒノキ材を

上 天の川と厚沢部川の

円空仏(柏森神社)

以来、藩を担う貴重な資源となっていた。その様は「波打際より良材茂り」と

云われ、昔から建築用材、薪炭材として伐採されていた。なかでもヒノキアスナ

ロ(通称ヒノキ・ヒバ)の天然林が、見事な林相を形成し伐採されてきたが、そ

の推移は 詳 らかではない。 檜 山伐採の起源は、文録 3 年(1594)の「天の川に山

神神社創建」や慶長元年(1596)「檜山番所上ノ国に設置」等の檜山関連事項を勘

案すると 16 世紀を下るものではない。17 世紀を迎え徳川幕藩体制の確立が進む

なかで、城下町の建設・商都市の建設が盛んとなり、建築用材特にヒノキ材が高

級用材として需要が高まり、ヒノキアスナロの伐採が盛んに行われた。それに呼

応して松前藩の財政や藩体制が確立していった。

寛永 7 年(1630)には、近江両浜商人が江差など

貨、輸送、販売して巨利を収めていたことから、城下福山・江差・函館の三港

に沖の口番所を設置し、交易業務・口銭取立機構も確立していったのである。

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また、寛永 14 年(1637)福山城が火災で焼失し、寛永 16 年再建されるが、その用材は上ノ国目名山のヒノキ

と檜 山ひのきやま

伐採は、江差から厚沢部の山々へと拡大し、伐採の最盛期を迎えることにな

るひのきやま

さ い ど

あると伝えられている。

さらに 17 世紀中期になる

。寛文 4 年(1664)「江差山神社」が創建され、ヒノキアスナロ山守護神総社として江差に建立されたことは、

江差が檜 山経営の基地になったことの証である。寛文 5 年山林条令も制定されたと伝えられ、同年僧円空が来

島、江差笹山や久遠太田山等に参籠して、仏像(円空仏・木彫)を彫り、上ノ国から熊石に至る沿道の寺社に寄

進して、庶民済度を祈願しているが、作仏の用材は総てヒノキアスナロ材であった。

何れにしても 檜ひのき

山伐採事業は盛期に向かっていたことは確かである。

御山お や ま

七山ななさん

と陪山そえやま

制度の完成

福山秘府によると、延宝 6 年(1678)厚沢部羽板内は た な い

山(畑内山)の開発を機に、檜 山ひのきやま

奉行が上ノ国から江差

と拡大し、初めて内地山師に請負許可を出して、運上金によ

沢部畑内山の杣入そまいり

許可は、檜 山ひのきやま

行政の改革完備で、御山お や ま

七山ななさん

(運上山)と陪山そえやま

外でも、雑木

と び き

そえやま

御山七山

山や ま

、戸渡川と ど が わ

(椴川)山、 ふるひつ べ な い

はたない

山七山は延宝 6 年(1678)以降「御運上山」ともいわれ、伐採希望の

地元の山林伐採業者・木材商のことで、杣夫の立場

檜ひのきやま

移転したが、これは山林行政と沖の口番所(取引運送手段)を総括することであり、松前藩ヒノキアスナロ山

行政にとって、一大転機の年となったのである。

即ち厚沢部畑内山が開かれ、檜山の藩直轄が七山

藩収入を計ったのである。

また、この年の延宝 6 年の厚

の完成であった。即ち上ノ国天の川と厚沢部川の挟む流域のうち、特にヒノキアスナロの美相をなす天然林七

ヵ所を指定し、「御山七山」と称して、特にきび

しい監視下としたのである。

藩は御山七山に指定した区域以

中に「ヒノキアスナロ」が混じって繁茂して

いる沢が、天の川や厚沢部川の奥にあり、それ

を「飛木」と称して、地山師の家業として、運

上金なしで、年限の定めもなく永久に伐出しを

許していた。この飛木のある山を陪山と呼んで、

御山七山(運上山)と区別していた。

上ノ国目め

名な

古櫃(フルベツ)山、豊とよ

部内山、

田沢山、厚沢部目名山、厚沢部畑内

行は城下表重役へ上申書を付して伺いたて、重役評議の上で許可を与

伐採が許可され、大資本を背景とする山師の請負伐採となり、檜山から

また、陪山は御山七山(運上山)と区分されて運上金もなく、地山師

ていたのである。

地山師というのは、

山奉行から陪山に杣入できる特権が与えられており、藩直営の業者と

‐3‐

者は、「杣入そまいり

願」を檜 山ひのきやま

奉行に提出し、

からは親方であった。また、地山師は、

御 山 七 山 の 図

える定めとなった。即ち内地山師の運上

の伐出しが最盛期をみることになる。

に家業として杣入を許可し、伐出しを許

も見ることのできる実務者であった。

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ヒノキアスナロ山の荒廃

檜 山のきやま

禄 8 年(1695)4 月、青天の霹靂へきれき

というべき山火事に見舞われるのであ

。ひのき

山荒廃に拍車をかけるものに盗伐があった。

藩財政に大きくひびき、重要財

採を始めた。

の枯渇は、藩興廃の問題ともなって急

速とめやま ひ ば

実施は、宝暦 8 年(1758)を手初めに漸次檜山で実施し、明和 7 年(1770)厚沢部目名山・畑内山で実施、そ

廻りを厳重に行い、その現状を藩に報告した。

を招くに

至そま

が運上山となって 17 年たった元

る。江差檜山からの摩擦による自然発火で、椴川山から

上ノ国目名山、厚沢部山と「御山七山」全域に延焼、数

日間燃え続け、立木の過半を失うという大打撃を受けた

これを契機に 檜 山は衰退の途をたどることになる。

しかし、大火で檜山は相当荒廃したと見られるのに

松前藩は檜材の伐採を継続し、藩収入の増額を優先する

伐採一辺倒であったことから、檜山は荒廃するばかりで

あった。

さらに檜

藩は「山方御条目」や「檜山高札」で厳しく取締ったが、

盗伐は断えなかった。

御山七山の荒廃は直接

源であった砂金が枯渇したこともあり、新たな財源とし

て蝦夷地山を開放してエゾヒノ木(エゾ松・トド松)の伐

松前藩のこのような安易な増収一辺倒の財政政策にも限度があり、資源

(江差町字椴川 国有林内)

現在でも焼け残ったあとが見られる

な財政転換を余儀なくされていた。遅ればせながら、将来性を考慮した財政策として、林力回復の強力な方策

をとるために、荒廃の甚だしい檜山から「留山」の制を実施して、伐採の禁止、檜葉資源の培養をはかることに

した。

留山の

て御山七山の檜山全部に留山の制が施行された。

御山七山の留山の実施にあたっては、檜山奉行が山

松前藩の山林行政は、財政の穴埋めに天然林を山師にまかせて伐採し、結果は乱伐によって財政困難

った。しかも林力培養の方途も、留山という消極的な対策に過ぎず、たとえ延享 2 年(1745)上ノ国目名山の運

上杣取証文に見られるように、植樹方途がなされたとしても藩財政補填のために留山中でも杣入を繰返していた

ことは、留山の制も空論に過ぎないものとなっていた。資源培養の成果は実を結ばず、荒廃を進めるだけであっ

た。

檜ひのき

山やま

紛ふん

擾じょう

松前 、資本家である内地山師を入山させ、伐採の年限、伐採の区域、伐採の石数を定

、御山七山の運上請負に関した単独なものではなく、多くは蝦夷檜山の請負と合体した

代表的な紛争については、知内山騒動(宝永元年)、江差一揆(明和3年)などがあるが、何れ

藩の山林経営の主体は

、その運上金の納入法、山林条令を厳守する旨の誓約書を入れての請負伐採であったが、この請負は大きな

利潤を伴う事業であっただけに、山役人と請負人、藩重役と請負人、請負人相互の間には、常に忌まわしい争

いが絶えなかった。特に明和 2 年(1765)以来、権臣の醜態は目に余るものがあり、その失政無能は度々公訴に

まで発展している。

檜山に関した事件には

のであった。それは内地山師が大手業者で、御山七山や蝦夷檜山の請負人でもあった複合請負人となっていた

からである。

山林にからむ

藩吏と商人との利権をめぐる汚職を含む争いとなっており、商取引を藩是とする松前藩の宿命的なものに根ざ

しているとはいえ、こうした争いの繰り返しが藩政の弱点をさらし、藩権の失墜を深めて行く結果となる。

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檜ひのき

山やま

稼かせぎ

檜山番所年間行事によると檜山伐採の一年は、「十一月、杣稼人別帳提出。木鑑札下さる」の規定によ

っひのきやま せ つ き

ひのきやま

11 月に始まるという定めは、檜山の伐採は『冬山造材』

日を山神の日とし、山稼ぎを休んで神事を

差碇町(現陣屋町)山神社の創始は古く、奉行

所ほこら

杣夫そまふ

の入山

れる運上金を納入して檜御山の伐採にあたる請負人や、陪山の杣取りにあたる株仲間の地山師や ま ご さきやま

や ま ご ひのきやま

、土着杣夫(地山子)と渡わた

りご

よき そま

ビ」だ し こ び き ま さ や

て、11 月に始まり翌年 10 月の檜 山の節季(勘定期)で終る周期であるこ

とが示されている。 檜 山杣入の周期が

松前藩第 10 代藩主

松前章広献額「山神」

主体で、「四月材木川流しはじまる」との年中行事の規定は、檜山の伐採

材は融雪による河川の増水を利用して山出しすることで、この規定も『冬山

造材』と不可分のものである。 檜山番所年中行事で、月の 12行するよう定めており、特に 1 月 12 日と 12 月 12 日を山神祭日として、

番所中心に大神事を施行し、藩の施政の中で檜山伐採と山神信仰を不可分の

ものとして結合している。 現に檜山総括の祈願社、江

の中に安置した 祠 を、藩命によって碇町に移転安置したのに始まる。山

稼と山神信仰は不可分のものである。

運上山師といわ

は、木材伐採業者・資本家である。彼等は実際に伐採労務にあたる伐採労務者(山子)を雇用して、先山(現場

主任・監督)といわれる責任者に委ね、食糧・伐採用具等を仕込んで入山する。

伐採労働者は当地では一般に山子といわれているが、江差周辺の檜 山の労務者は

山子や ま

といわれる南部・津軽等の出稼ぎ杣夫の別がある。又伐採作業の内容により種々専門職の別がある。

即ち鋸のこ

や斧を手にして伐採にあたる者を杣と呼び、伐採した木材を山出して土場まで運送にあたる者を「ト

とか「ヒヤトイ(日雇)」と呼ぶ。ほかに 筏いか

師・木挽・柾屋等がある。

山子が作業に携行した必需用具は、次のようなものがあった。

夫の用具

斧・ヨキ(小おの

形の斧)・鋸のこ

・楔 類くさびるい

・皮はぎ・てこ・掛か

け矢や

(大きな木づち)・縄・墨つぼ・差し金等である

がふし

、その用途により、ネキリヨギとかメドヨギ・節切り斧・割斧等数丁必要とした。鋸類もネギリノコ・コシ

ノコ等用途によって使い分けた。

ビの用具

搬出・山出しに必要な用具も数種あるが、主なものに鳶とび

口・ツル(はさるツルともよばれ、木材を引き上げ

そり やまそり

るのに用いる)・角まわし・ホマワシ(ろくろ)・シュラ(修羅し ゅ ら

と呼ばれるものに 2 種類あり、木材を運搬する

橇状のものと、木材を運搬する道に丸太や小枝を敷きつめて作った運搬路を呼ぶ)・山橇等、馬を使用する場

合はその用具等である。

装・その他の携行品

労働着(サグリ・ハンチャ・ミジカ等の上衣と 山 袴やまばかま

とハンチャと呼ばれるものは毛皮を用いるのが一般的

でてっこう わ ら じ ふかぐつ

ほおかぶ

づる

と い し

あったという)・脛巾(はばき)・手甲・手袋(ボコテブクロ)・たすき・草鞋・つまご・深靴・カンジキ・

腰あて(毛皮を用いた)・頬被り布等や、その他の携行品として、コダシ(植物性繊維で編んだ小型の袋)・エ

ジコ(ぶどう蔓や、ふじ蔓等で編んだ大型の袋)・ワッパやメンツ(べんとう箱)・水入れ・火打道具・矢立・

煙草入れ・トブクロ(砥石を入れる袋)等を携行する。

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冬山造材

中行事』に檜 山ひのきやま

伐採の周期を 11 月から翌年 10 月までと定めているが、これは檜山の伐採が、

冬あ

悪環境を十

① 山の下草が枯れ、広葉樹は葉を落し、灌木の多くは雪に埋れ、林の見通しが良くなる。このことは立木切

② 伐採の作業で不可欠な条件の一つに、切倒す足場の 設しつら

えがある。これについても積雪が地表を覆い平坦へいたん

③ そり し ゅ ら

④ 融雪による増水を利用して材木を川流しして、土場(貯木場)に集材する。

伐採・山出し作業

服装を整え、伐採用具を携行して伐採作業にとりかかることになるが、伐採労働は常に危険を伴う作業であ

式」である。先山が祭主とな

が終って「初斧入はつおのいれ

」となるが、これを「マサ

しと信じた。こうし

でとび

合は現場の情況により、地橇を馬に曳かせたり、角挟みで地

『檜山番所年

山造材であったことの 証かし

である。北辺々境の冬山、厳寒豪雪の中での伐採、実に過酷なものであった。蝦

夷が島の南部江差地方とは申せ、地球温暖化の進む今日とは比較にならぬ厳しいものであった。

冬山造材はこの厳しい気象条件との闘いであり、それを克服しての労働であった。ところがこの

承知の上で、敢えてこの時期を最良の伐採期であると特定し、檜山に杣入した事由は、気象の悪条件を差引

いても、冬山の伐採は、尚大きな利点があったからである。

倒にとっては好条件なのである。

してくれている。それで容易にカンジキで切倒す立木の周りを踏み固め足場を設えることができる。

雪を活用しての橇・修羅による材木の山出しは、何物にも替えがたい冬山の利点である。

だけに、安全操業を念ずる心情が、労働そのもの総てが神の信仰とともにあり、神の加護を信じて作業にあ

たった。伐採・運搬等には幾多の神事が、伝統とし

て結びついていた。

先ず「初山入りの儀

組夫全員が、山神に安全操業、神の加護を祈願す

る。

儀式

リダテ」という。杣夫は最初に切り倒す立木に斧

とヨキを立てかけ、神酒を供えて呪文をとなえる。

「山の神様、どうぞ木を譲って下さい。お願いしま

す。」という意味のことを唱えるのだという。そし

て山神のお告げは、切って悪い木だと斧やヨキが自

然に倒れるが、倒れない場合は伐ってよいとのお許

切り倒した木は枝を払い落として、定めている長さ(三間丸太・二間丸

れまでが杣夫の受持の仕事で、その後はトビの仕事として引き継がれ

次にトビによって山出し作業にかかる。山出し作業は、その伐採現場

シ」②「谷ダシ」③「川流し」と三段階の作業に分かれている。

先ず「山オトシ」と称する作業は、伐採現場で枝を伐落した丸太材

、トビ役の者が、鳶口・ツル・角廻し等の道具を巧みに操り、丸太を

が活躍する。積雪を利用する山橇は非常に有利で、地曳と比べて数倍の

かった。

夏山の場

次の作業は「谷ダシ」である。即ち流送可能な水元まで運搬する作業

面を利用して谷に落とし、水元に集材する一連の作業で、積雪を利用

の作業でも積雪が極めて有利である。こうして谷ダシされた丸太は、集材

‐6‐

勝 手 鹿 子 舞

る。

材とする。

にもよるが、一般的に①「山オ

、川流れのある谷近くに集材することやまそり

曳する場合もあった。

丸太を、山の

太・寸甫等)に切って丸太

て伐採の作業が始ま

る。

の情況

運搬するが、それには山橇(シュラ)

能率をあげ、丸太を損傷することもな

である。山オトシされた

して雪の上を滑り落とすのである。こ

されて谷川の増水期を待つのである。

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そして「トビ」の最終作業「川流し」である。雪解けの増水を待って川流し(流送)となるが、川流しを始

めへいそく

そえやま

ノ国天の

川むか ば やなぎさき ど ば

(4 月)が近づくと檜山奉行所から下代・手

め」と称して、出役により一

所有材木

役人が出役して、材木積間

集落の発生と信仰

檜山を媒介として、江差港周辺や河川流域一帯に集落が発生する。そ

発生した集落には、実に多くの山神社及び山神(

いたずさ

よりしろ

侵け ん お

るにあたって「川流し祝ひ」の行事がある。先ず流す丸太として良質なものを選び、材の先端に幣束をかざ

り、御神酒を献げて川口の土場まで無事に流れつくように祈願し、流送を開始する。トビ連中は長柄の鳶とび

口を

手に、土場までの川筋の要所に待機して、川の瀬や両岸の岩に丸太がひっかからないよう見張り、そのなかを

丸太が列をなして、筏師の待つ土場にむかって流れて行く。かくて丸太は総べて無事に河口付近の土場に流れ

つき、集材されて「トビ」の仕事は終了する。

檜山七山や陪山の集材所、いわゆる土場は、上

の河口「向 浜いはま

土場ど

」と厚沢部川河口の「柳 崎土場(通

称どんば)」が、その代表である。土場は流木を止める「留

め(川幅いっぱいに大材をつなぎ並べて、木留めとする)」

の施設と、流送された木を陸上げして貯木(材木をマクと

いう)する広場とからなり、この二施設全体の区域を土場

と称した。

流送の時期

・山廻りが出役する。

土場着の丸太は「棚立改

々々極印が打たれ、材質・材種・切り出し山別(檜山か

陪山の別)によって課税(十分一役・山師冥加杣役金等)

する。この「棚立改め」が完了して始めて、山師(荷主)の

し、或は丸太のままで売買し、売買契約が成立すると、丸太や角材の場

し港(江差)に送られて、船積みされた。

津出しは沖の口番所の所管となり、収納係

○ばいかい

することはできないが、鰊漁業に先がけてより早い時期である。西在

元禄期を一つの原点としているのに対して、檜山関連地帯では元禄期を

ある集落に成長していることは確かである。しかしそれを確認する文献

座する神社の創立年暦や、山岳神仰の神事の伝承等、集落成立の経過を

江差姥神大神宮や上ノ国八幡社に残る古記録をもとに、「檜山と山神社

次のようである。

江差周辺河川流域に

る。しかも合祀社もほとんど愛宕社・稲荷社・神明社・諏訪社で、そ

ものである。元来山林伐採の作業は危険を伴うもので、それに 携 わる山

神(大山祗神)の信仰と習合し、伐採行為に欠くことのできない神事と

神秘性は、古来から山を神の依代として神格化し、大山祗神(山神)を

聖を侵す悪魔である火災から山を守護するのは、雷神(愛宕社-火伏せ

し、あるいは生産の神・稲荷信仰等とも習合し、複雑な信仰形体をかも

それが山神をよりどころとする、檜山周辺の杣夫集落信仰となっている

杣夫と山神信仰の結合は、彼等の労働の場である山の神秘性、その神

すという自己嫌悪、この矛盾を、山神を祀り、信仰することで神のお

ると確信できるものである。そこに山神の信仰によってのみ安全操業が

‐7‐

檜山屏風(土場作業の様子)

で加工

尺役を取立てる定めとなっている。

れは何時ごろか、その起源を 詳つまび

らか

する

大山おおやま

祗つみの

神かみ

)を合祀ご う し

した神社が鎮座して

山を伐採という行為、それを自ら

合は、筏師により筏に組まれて、津出

して、木挽こ び き

(製材)・柾割の手

郷において鰊漁業による集落の発生は、

さかのぼる延宝期には、相当な活力の

資料は無に等しいが、これは各地に鎮

暗示しているものと思われる。

・鹿子舞の伝承地」の関係を作図

れ自体山岳信仰や生産信仰にかかわる

師・杣夫が安全操業を祈る心情が、山

して固定化されてきた。山そのものの

山の守護神として信仰し、一方山の神

の神・防火の神)という信仰とも習合

しだしつつ特殊な杣夫信仰を形成し、

聖な

ゆるしが得られ、神の御加護が得られ

保障されると信じたのである。

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この杣夫の山神信仰という特殊性は、檜山伐採の杣夫

る南部や津軽の杣夫が、檜山伐採

のど ば よ

00)松前藩が幕府に提出した『島郷帳附図』

「上ノ国・喜多村・とど川・古べち村・こかって村・

これによると江差付近 檜山関係での地名・集落名が

あかし

ができる

てお は ら し し ま い

舞は、三頭立てと五頭立ての二

とっても絶対的なものであり、江差周辺の各河川流域

集落に残る山神社及び、それに伴う神事である鹿子舞の

伝承は、その集落が檜山との関連のもとに発生したこと

を物語るものである。

山林事業の先駆者であ

ため渡海、それぞれ檜山伐採作業の基地や、木材山出

しの土場に居住し、彼等の守護神である山神等を拠り所

として、集落へと発展したものであろう。こうして発生

した集落は、先進和人地として松前藩初期の支えとなる

のである。

元禄 13 年(17

よると、江差周辺の地名は次のようである。 き た む ら

もしり村・つばな村・江差村・とよべ内村・つめき

石村・おこない村・とまり村・目名沢村・ふし木戸

村・こりんざわ村」

当登載されているのに対して、鰊場関係の地名は簡約

であった。このことは附図作製の時点で、鰊漁業は未発

達であるのに対して、檜山の伐採事業中心の時代であっ

たことの 証 と考えられ、江差周辺の集落は鰊漁にさき

がけて、檜山の伐採によって集落が形成されたとすること

古櫃山・椴川山・豊部内山の檜山で働く杣夫達が、椴川や五勝手

、集落を形成するが、危険な伐採作業に従事する杣夫は、山神の

一方山神の御祓い神事に関連する「鹿子舞」は、檜山各集落に発

のに、大留鹿子舞(上ノ国目名山)・五勝手鹿子舞(椴川山・古

これら鹿子舞は津軽鹿子・南部鹿子の系統を顕著に受けており、そ

を伝える民族遺産となっている。

檜山郡に伝承保存されている鹿子

ししまい』と呼称するものに「獅子舞」と「鹿子舞」が伝承され

もので、一般に神社神楽として伝承されているものが多いのに対し

いう信仰から、集落の土俗的要素が強く、民衆のなかに伝承されて

結 語

松前藩政 は檜山奉行は山林管理の官府であった。その後山林

理ひのきやま

林行政を踏襲していった。

期に

は江差檜山奉行が所管し、藩政終焉まで松前藩山林行政の基地は

しかし 檜 山 は、濫伐・山火・後を断たぬ盗伐・役人と請負人の

を憂い「山林条令」「留山の制」を施行、或は山師に植栽を義務

保護育成につとめた。

開拓使もこの松前藩山

‐8‐

ひのきやま やまのかみ し し ま い

檜 山と山 神信仰・鹿子舞の関連図

・豊部内(南部町)に住みつい

伝承されている

類型で、基本的に踊りの構成が異質である。

(寺小町)

加護を信じ入山する。

生したと思われるが、現在

櫃山)・江差鹿子舞(豊部内山)等がある。

の発生・伝承経過と同時に集落の構成過程

ているが、前者は日本古来の神楽をうける

て、後者は山神の神獣・化身が鹿であると

いる。

経営が蝦夷地山に拡張された後も、その管

著であった。藩は資源枯

江差であった。

汚職で、荒廃が顕

づけたり、山方掛の山廻を強化する等山林

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檜 山 関 係 年 表

西暦 年 号 内 容 出 典

1596 慶長元 檜山番所を上の国に置く。 江差町史年表

1639 寛永16 この年福山城修造。材木はすべて上の国山の羅漢柏(あすなろ)を用いる。 松前家記(新北海道史)

1664 寛文4 江差山神社建立 福山秘府(上の国村史)

1665 寛文5 4月山林条令制定、厚沢部羽板内山開かれる。 江差町史年表

1678 延宝6 この年松前藩、西部厚佐部山中の檜木を初めて山師に出させる。 福山秘府(新北海道史他)

冬アツサフ山中の檜樹始めて開発に依り官府を江差に移す 明石系譜略伝(厚沢部町史)

1681 天和元 2月青山平八、檜山奉行となる。 福山秘府(新北海道史他)

1685 貞享2 9月江差より材木を積取って出船の秋田藩手船の乗組員、難風のため本船を捨て伝

馬にて松前へ到着。銭500文、米2俵を下付すれども受用せず。 福山秘府 (新北海道史)

1688 元禄元 檜山奉行、「問屋心得」布達。 江差町史年表

1689 元禄2 檜山奉行、「惣問屋触書」布達。(船役金・船役米・宗旨改) 江差町史年表

1691 元禄4 3月工藤瀬兵衛矩義、檜山奉行に任じられる。 福山秘府(新北海道史)

1693 元禄6 この年松前藩、能登の総持寺の五院の一つ、洞川庵の勧化につき材木を奉加する。 松前代々記(新北海道史)

1695 元禄8 4月江差の檜樹山に火災発生。止々河・上の国・女奈・阿津左不諸山に延焼。

この地方の檜樹(羅漢柏)に大打撃を与える。 福山秘府(新北海道史他)

1701 元禄14 江差郷杣人一千百人、内二十一人知内山杣夫也。ねぶたより熊石まで旅人杣夫四百五十八人。 福山秘府・江差町史第5巻

1707 宝永4 4月蠣埼伝右衛門、檜山奉行となる。 福山秘府(新北海道史他)

1709 宝永6 4月北川岡左衛門、檜山奉行となる。 福山秘府(新北海道史他)

1717 享保2 近年迄摂洲大阪唐金屋と申者請伐仕候 松前蝦夷記(江差町史)

1726 享保11 7月岡口彦兵衛、檜山奉行となる。 福山秘府(新北海道史他)

1727 享保12 山神社を檜山奉行所構内に再建鎮座。文化12年に碇町に遷座。松前藩主の祈願所、

毎年の例祭に檜山奉行の代参あり。元山神祇とする。 江差町史年表

1737 元文2 2月檜山奉行蠣崎元右衛門広光退職。藤倉友右衛門が檜山奉行となる。 福山秘府(新北海道史他)

1740 元文5 3月檜山奉行藤倉友右衛門、諸山にて約9984本の盗伐を報告。 福山秘府(新北海道史他)

1745 延享2 3月飛騨屋久兵衛、江差山師中と等分に当丑年より巳年までの5カ年間北村目名御

囲檜葉御山及び沢々の寝木・埋木・枯木の杣取りを出願、許可。運上金は久兵衛分

のみ5カ年間2300両。

飛騨屋蝦夷山請負関係文

書(新北海道史他)

1750 寛延3 11月熊野屋菊地忠右衛門、江差椴川御山檜材木伐出請負を申付けられる。 熊野屋菊地忠右衛門前々

由来書(新北海道史他)

1753 宝暦3 この年熊野屋菊地忠右衛門、江差北村御山の材木伐出支配を申付けられる。

その後、引続き江差檜御山7カ山の支配請負をなして明和8年に至る。

熊野屋菊地忠右衛門前々

由来書(新北海道史他)

1756 宝暦6 8月工藤瀬兵衛、檜山奉行となる。 和田本福山秘府

1758 宝暦8 松前藩、ヒノキ山資源保護のため留山の制を実施。(豊部内山) 江差町史年表

1761 宝暦11 松前藩、上の国目名山に留山実施。 江差町史年表

1764 明和元 2月今井市左衛門、檜山奉行となる。 旧記抄録(新北海道史他)

1765 明和2 7月高橋郡兵衛、檜山奉行となる。 旧記抄録(新北海道史他)

この年、戸渡川御山・古櫃御山・留山実施。 江差町史年表

1766 明和3 8月戸切地惣百姓、檜山取次役人小林喜多右衛門が材木442本盗伐の由、また樺剥

2人も材木盗人の由を檜山方を通じて注進。時に山々盗材木改方は志村丈右衛門・

寺沢伝八の両人。

旧記抄録(新北海道史他)

8月9日江差村惣百姓、材木商伊藤甚五兵衛ならびに松兵衛の退去・帰国を求める

願書を名主・年寄中に提出。名主・年寄中は甚五兵衛が藩の山先役であるとの理由

で藩への取次ぎを拒否。よって翌10日惣百姓は観音堂に集合、甚五兵衛および下

代川口八郎兵衛宅に押寄せ、家蔵・諸道具を打潰す。13日江差百姓徒党の報が福山

に到達。藩は檜山奉行高橋郡兵衛ならびに吟味役として麓小兵衛に下向を命じる。

福山秘府(新北海道史他)

10月松前藩、檜木・雑木御山の柴を村々名主預けとする。 松前福山諸掟(新北海道史)

1767 明和4 この年飛騨屋の旧雇人南部屋嘉右衛門、松前藩士と結託して運上金のほか年々米1

万俵の上納を条件に飛騨屋請負中の蝦夷檜山請負を出願。これに対抗して飛騨屋は

城内普請の手助けとして500両を献金し、かつ1ヵ年600両の運上金を1000両に増額

することを条件に蝦夷檜葉ならびに椴山惣山請負を出願、許可。

飛騨屋蝦夷山請負関係文

書(新北海道史他)

この年、田沢檜御山留山を実施。 江差町史年表

1769 明和6 この年飛騨屋久兵衛、松前藩に先納運上金および用立金合わせて4795両の返金を約

束させて蝦夷檜山の請負を返上。(蝦夷檜山請負に含まれている蝦夷檜類木類の請

負を飛騨屋久兵衛に許可するのは不当であり、かつ経営難を招くとしてこの措置を

とる。よって11月より南部屋嘉右衛門が蝦夷檜山を引請ける。

飛騨屋文書『安永八亥年訴

訟書留帳』

(新北海道史他)

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西暦 年 号 内 容 出 典

1770 明和7 4月厚沢部目名檜御山羽板内檜御山留山仰出実施。 江差町史年表

5月檜山奉行高橋郡兵衛義辰、依願退職。 和田本福山秘府(新北海道史他)

9月新宮屋伊藤久右衛門、松前藩の手山の取り扱いを命じられる。手山の支配人南

部屋嘉右衛門は石狩山の杣入を藩に具申。 旧記抄録(新北海道史他)

1771 明和8 10月明石半蔵檜山奉行となる。 旧記抄録(新北海道史)

この年江差檜山の支配・請負人熊野屋菊池忠右衛門より提出の休山願、許可。

熊野屋はその冥加として御用囲材木を江差番所に献納。

天保14○願書写書『熊野屋

忠右衛門前々由来書』

(新北海道史)

1772 安永元 2月、江差檜山奉行の組織変更が具申される。 江差町史年表

5月、山方御条目制定される。 江差町史年表

5月、檜山七山留山、陪山杣入仕法仰達せられ並びに沖の口仕法改正。 江差町史年表

松前藩この年より蝦夷地場所請負人へ規定の礼金上納を条件に請負場所にて蝦夷

檜以外の材木を伐採して、弁財船を造ることを許可。

寛政十年沖之口諸御役控

並問屋議定控(新北海道史)

1773 安永2 2月因藤与惣治、檜山奉行となる。 旧記抄録(新北海道史)

6月松前藩、鰊さきり・鰊桁・鰊柱に檜の使用を禁止。 松前福山諸掟(新北海道史)

9月飛騨屋久兵衛、松前藩への貸金8183両(蝦夷地檜山運上金先納金・囲材木

代金・江戸屋敷月割上納金)のうち2783両を冥加として献上、代金5400両

の引当として来午年より20年間、エトロフ・アッケシ・キイタップ・クナシリ4

か場所、夏商場を受け取る。

飛騨屋文書他(新北海道史他)

1776 安永5 11月檜山奉行定法相心得仰出される。同江差奉行心得定法仰出される。 江差町史年表

12月檜山七山留山に付、山廻しに付仰出される。 江差町史年表

1779 安永8 12月松前藩、新宮屋伊藤久右衛門に故役・当役連印の山方証文手渡す。

改めて請負期限を12ヵ年。1ヵ年運上金1000両とする。 北海道史第1(新北海道史)

1788 天明8 この年、村山伝兵衛、7年間蝦夷地の蝦夷檜伐採を許可される。 北海道史付録年表(新北海道史)

1789 寛政元 この年田村重次郎、江差檜山を請負う。 村林源助著原始漫筆風土

年表(みちのく双書)

1800 寛政12 上の国目名山/椴川山とも留山中であるのに両山を南部川内の仙台屋重兵衛に3

ヵ年運上金千二百両で二万四千石の伐採を許可。

檜山番所申送書

(江差町史第5巻他)

1802 享和2 厚沢部目名山・田沢山とも留山中であるが両山を南部大畑の田村屋重治に運上杣取

りを許し、2ヵ年に八千石・運上金400両で契約。

檜山番所申送書

(江差町史第5巻他)

1805 文化2 引続き目名山(留山中)の末木(こずえ)伐出しの名目で田村屋重治1ヵ年運上金3

0両伐出高1316石の定めで杣入を許可。

檜山番所申送書

(江差町史第5巻他)

1806 文化3 同じく目名山(留山中)の寄檜(良材)800石と椴1200石の伐採を田村屋重治

に運上金80両にて杣入を許可。

檜山番所申送書

(江差町史第5巻他)

1807 文化4 厚沢部羽板内山(留山中)を田村屋重治に対して、2ヵ年で4000石の伐採を運上

金80両で杣入を許可。

檜山番所申送書

(江差町史第5巻他)

1820 文政3 馬付薪役新設 江差町史第5巻

南部大畑の熊野屋忠右衛門に椴川檜山にて運上金千石に40両,三千石で120両

と別に冥加金として20両、計140両で杣入を許可。

江差両御役諸役御収納廉

書全(江差町史第5巻)

1821 文政4 厚沢部羽板内山(留山中)を田村屋重治に対して、2ヵ年で4000石の伐採を運上

金80両で杣入を許可。

檜山番所申送書

(江差町史第5巻)

この年より5年の両年、椴川・北村目名の透伐を熊野屋忠右衛門に2ヵ年で1万石

運上金千石につき40両の合計400両と他に冥加金四十両の合計440両で許

可し、伐採したが、材木積石船の入港不足のため、大半土場囲になった。

江差両御役諸役御収納廉

書全(江差町史第5巻)

1822 文政5 12月檜山仕法その他沖の口仕法、改め方仰出される。 江差町史年表

1825 文政8 この年より、椴川・北村目名両檜山の運上杣入を中断し、天保6年までの11年間、

松前藩の藩直営となる。

江差両御役諸役御収納廉

書全(江差町史第5巻)

1835 天保6 8月南部大畑の熊野屋常八(菊池常八)、この年より3カ年間北村目名山・椴川の

請負を許される。松前藩は檜山の手捌をやめ、熊野屋の下請に委ねる。 湯浅此治日記(新北海道史他)

1843 天保14 11月江差檜山関係の事務、以後町年寄の管轄となる。 湯浅此治日記(新北海道史他)

1853 嘉永6 11月松前藩、檜山7ヵ山及び茅部山とも都合8ヵ山を向こう10カ年間伐採禁止

にする。 長岡鶴蔵伝(新北海道史他)

1859 安政6 御勧請奉行伊達林右衛門、御目付明石廉平、檜山御見分に出役 関川平四日記(江差町史第5巻)

1869 明治2 明治政府は蝦夷地を北海道と改称し、11カ国86郡の国郡制を公布する。 法令全書(内閣官房局)

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ヒノキアスナロとは

ヒノキアスナロは、ヒノキ科アスナロ属「アスナロ」の変種で一般にヒバと呼ばれてい

ヒノキアスナロは日本固有種で、主に北海道では渡島半島の檜山、松前、爾志、上磯の

郡、青森県の津軽、下北、夏泊半島、岩手県の早池峰山、新潟県の佐渡などに分布して

り、特に青森のヒバは日本三大美林の

つにあげられている。

材はヒノキと変わらぬ良材で殺菌性の

るヒノキチオールを含んでおり、耐久

、保水性が高く、地中・水中での使用

も適していることから、建物の柱・土

などの建築用材、土木用材、船舶材、

槽などによく用いられている。

檜山管内では、厚沢部川と天の川には

まれた地域に純林がみられ、江差町椴

の自生地は、1922 年(大正 11 年)10

、国の天然記念物に指定されている。

檜山の地名由来とヒノキアスナロの歴史 ‐ヒノキアスナロの歴史・文化に関する調査報告書【概要版】‐

平成 15 年 2 月 発行 北海道檜山支庁

ご意見・お問い合わせは下記までお寄せください。

北海道檜山支庁経済部林務課 〒043-8558 檜山郡江差町字陣屋町 336-3

TEL. 01395-2-1010(代表) FAX. 01395-2-4219