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• • 、
• 眼開閉
六事十日十剥m年尉k
、 陣年tnu r 三回
匁mngi,E-a -ー;;u11:1正ft
事符EZIT4n 3 一
• 第
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布 切 取n 花施 日 と
第
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JI!長 Eド 大 ハ
仁121 ホf !ll-f 田
絃慈 成 法
一一討手 隆 道 良日
•
1951 4
.
•
和
敬
と
,
〆レス特伎の掛図講和に闘する先頃の援炎は、敗験七年bz苦
悩した日本にとって・、大きく新しい一歩の前逃を約束するもの
として注局される。従来の、勝者が敗者に践んだ講和締結と著
しく踊聞きを災にした新しい性絡を
、
そこに見て我々は殊につよ
〈平和への念願を深める。
講和が験祭炊飯への大きなしめくL
りであることに謹ひはな
いが、たど
その綴織にだけたつとき、
それは後ろ向きの議和で
らる。講和は過去への終止符であるとと
もに、
新しい平和世界
への一歩の間設織でらるという脆い縞織から全てが含められる
とき、
民に前向きとなる。我々はその鍔泌を闘みて、責任を痛
感する。と共により積極的に新しい平和世界の一員たらんとす
る再生の念願をもっ。
中日来、利については製徳太子十七鱗憲法の第-に婦げられた
ように平く注目されているが、和は多くの側の存在を前提とす
る。災るところの側が夫主&に融通する闘係が和である。主に
到して幾人かの客が一座して、それらの人たちが炎々
の例性と
人絡とを保ちつ与しかも一の答無にとけこみ、}の世界を回成
するところに
、
茶道の利が成立する。だから災る例位、人絡の
懲京、||齢械が茶道にらっては製本の態度として袈求される。
敬は和に一会る道でゆめり、
また利か、」リ悠れ山山もする。
民中山山枇愈は平和を究党の以理とする以上
、
そこには
F必敬4
の裏打ちがなければならない。こう考、えた
と雪
、
講和そ論議
し、
民主主義を設〈前に、先づ我々は自らの自治に於て、来た
して宕説
明-の締紳がふかく生活に根を一卜しているかを光分反
省する
裂がある。公共の締紳というも
川端覚、
まづ和と敬との反
省から飴まる。ハ藤刷〉
f寄
目
衣
布施行に生きる
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ノ
西
行
花
t
、
吉野の下千本の槙は花のさかりであった。
わたくしは花矢合のけわしい坂を登り
、
水分榊枇のB
へ歩いて行った。とのあたりから
‘
山の卦色はまだん佑戸枯
れて、
川州純が立ち腕
、
ちらほらの以怖で
、
棉夫などの住
むわづかの円余が凡出されるばかりであり
、
それかち奥へ
は人の住むけしさも凡えたい。そとの山俸は行者たちの
大器山に通ふ道になってをり、
樵夫たちの吉野杉を伐っ
て山を下す路でもあるので、
比較的に庚く、
滑かである
が、入車をはなれてゐるので寂しい。水分紳枇から大分
臭へ入ったととるに小ひさな堂がbる。役の行者の会弟
子を犯ったととるださうである。
そのた怪から・本逃に別れて、+れの小道に入って少しば
かり歩いたととろに凶行法師の庵の枇がある。吉野を訪
ふ人たちも、飴位鰐志の人でたければ奥吉野の西行庵を
、
法
自雨
絃
-・・回‘
凪同開閉...
良日
田
たづねる人はないと見え
、
本道から岐れた西行庵までの
小揮は多柿れの本に埋もれて、かへってあはれに傘く思
はれた。西行法師が朝夕にむすび、
後世俳人芭駕が掬ん
だとくとくの清水は、
小m刊をだらだらと下ったととるに
今も衿につL
まれて湧いてゐる。
西行庵は後ろに山を負仏、前にm吹けた越山をながめる
景勝の地に寝るが
、
よくも臭ふかく、と
の寂しい山に設
をのがれたものだと思へば
、
肢の一説が温くたる思ひがし
た。そ
とで、
回行法仰とさくらについて考へて見たいと思
ふのであるが
、
凶行法師くらゐさくらにあとがれた故人
はなく、
凶行法制くらゐさくらについてすぐれた献を数
多くのとした歌人もないであらう。
つい、
とのあひだのととである。若い友人が訪ねて来
t
C 2 )
.
"~、,、,、,、,、.....内J、,、"'.'・、,、,、...... 、J、." '.~・、内h帽、"、,、... 刷、.'、,、。、t・."、,、,、計
て、「今年もすぐさくらが咲くが、今年の春
ζ
そゆっくり
集を入れて花を見ょうと思ってゐる。今までは
、
ともす
れば、忙しさに紛れてつい花を見たいで容を過ごしたと
ともあった。今年の花は今年見なければ、もう永遠に見
られないのだから」と諮ってゐた点
止白から誰れも考へた
言葉であるが、
その花を見る心がまへはありがたい。
西行法師の花を見る心がまへはとれであった。
さくらの花は西行法師にとって直ちに悌さまそのもの
であった。
かれは花が咲いたとなれば一切を投げすてh無心に花
の中に飛び込んで行った。俳さまとわが身、わが一身と
花はプ如であった。備さまに抱かれて往生を遂げん思ひ
.
の西行法師はかくうたった。
ねがはくは花の下にて春死ゑん
そのきさらぎの望月のとる
二月の望月のとろといへば詑のさかりである、浬鍵舎
のとろでもある。そしてかれはほピとの歌の通りに建久
元年の二月十六日に七十三裁で、河内の弘川寺で入寂し
てゐる。かれは文字通りにさくらの花に生き、さくらの
花に死んだ人である。
よしの山雲をばかりに零ね入りて
•• •
心にかけし花を見るかな
よしの山梢の花を見し日より
と
L
ろは身にもそは歩怒りにき
よしの山谷へたも仏びく自室は
嶺のさくらの散るにゃあるらん
吉野山一むら見ゆる白〈もは
暁治〈れたるさくらたるペし
吉野の奥に庵を結んだ西行法師の質感であらう。吉野
の嶺kk裕史する香醤を訟がめてしみじみと花広明け花
に募るh
春の日を楽しんだであら←う西行法師の姿が想ひ
やられる。「心にかけし花を見るか汝」とあるのを見れば
永い年月あとかれてゐた吉野の花を、現世に見るととの
できた満足感に浸された西行法師の子供のやうた嬉々た
る風貌も想像される。
いったい西行といふ人は子供のやうたととるを多分に
持ってゐた人であった。
藤原組長の「議抱」には西行の出家について「家官年
若、
心無欲
、
盤以遁世1
人数--美之-也」と書いである。
家を捨てたのは二十三歳の若さであり、北簡の武士とし
て、六尺塑かな偉丈夫でbり、代K
の名門で、
家は富ん
でゐた。後年、文治二年八月十五日六十九哉の西行は鎌
,
、
,
ハr・....;1"、r...、〆、,、,、,-...........、.....,.、J・'.'"、,、,、,、,、,、,、,、,、,、,、,、,、,、,、〆、.
( 3 )
-、,、,、,、,、,、,、,、,、,、,、,、,、,、,、,、,、,、,
倉で持事組朝に逢ってゐる。それも自らす
h
んで組朝に
調したわけでは友い。吾饗鏡花は「ニ品御三参開鶴岡宮4
而老併一人俳二個鳥居謹刊佐v之以--AA季令聞--共名字国給
之底
、
佐藤兵衛尉憲清法師也。今鋭=西行-一宮々」とあり、
営日西行は鶴岡八幡の烏居のあたりを歩いてゐるととる
を額朝に見つけられたのである。そとで替市市陀招かれ額
朝に歌道と弓馬のととをたづねられたととが記されてゐ
るととるを見れば、
西行在家時代の武名は相官なもので
あったととが察せられる。との官にも地位にも才にも恵
まれた青春を惜しげもなく捨てhしまった西行は無欲で
あったばかりでなく、子供のやうな人でわった。といふ
のほとの封商の席で翻朝は銀の獅を贈ってゐるが、「上人
乍v奔エ領之叶於--門外
-典--放遊先二宮々」とある泊り
、
と
れを門外に遊んでゐた宜に興へてゐる。とれには無欲以
上のものが感じられる。いやしくも今は世に時めく特車
家の賜物である。それを門前で捨てるやうにして涯にく
れてやるといふととは大人の常般を以ってすれば非砲で
あり、
将軍の志に報ゆる詮でもなく、
ともすれば将軍の
怒りに慣れないとも限らない。しかも西行は淡々
として
銀猫を宜に奥へてゐる。東の鳶もむくまLに振舞ふとと
ろ、まζ
とに天衣無縫、子供のとLろでなくてはできな
いととである。
,
との抑制朝との封商でもう一つ商白い括は歌に野するか
れの心がまへである。「詠聾者、針=花月ニ則感之折節、
佳作=品川一字-許也、
金不ν知エ英国日ごと諾ったといはれ
る。花月に鱒れて心腸の動感するがまLK三十一文字の
歌を作るばかりで、
歌の奥義といふものを認めないので
ある。子供の心である。茶人利休が茶道を設いて「茶と
は茶を結てL
のむとと友り」とい仏、さらに
俳人芭蕉が
俳諾の奥義を問はれて「子供砂郊の成すととろを見よ」と
さとしたのといかにも相通やるととろがある。
子供の心で歌をうたった両行は子供の心で花を凡た。
容になるさくらの枝は何となく
花なけれどもむつまじきかな
吉野山棺の花を日比し日より
心は身にも添はやなりにき
あくがるL
心ばさても山ぎくら
散りなむ後や九坊にかへるべき
木の下の花に今容はうづもれて
飽かぬ梢を思ひあかさん
身を分けて見ぬ梢なく盤さばや
よろづの山の花のさかりた
‘
く 4, )
•
}、,、,、.、,、,、,、,、,、,、,、,、~、f、,、,、,、_.... 炉、,、,、,、,、,、,、d、,、,、,、,、,、,、,、
花に酔弘、花に魂を投げ込んで花を見たのが西行法師
であった。かれは子供の心で花を見た。
そして子供の心
でよ
るとんだ。
をうたひっピけた。
花の喚く日だけでも西行法師の心にあやかりたいもの
である。
しかし花はあまりに早く散る。かれは子供心で散る花
のあはれを感じた。
なら悟り 信 る ν、 人 て。教 。眠 の花 後り 誕言なの仰 較に 将を .tEら ほのい光は し れ ま fキ のだ。 求を の人 よぷ いぬ 1'- り なけ 雲
つ人 敬人 はは い美めよ ては 、}~ 花し
苦て 伴侶きと 心心 風 l乙 の く 旬治宝 1J~ にさ よてし‘ 洗わ 澄ん さか う
、
抄み い長 から たも 行篭az れで 人く らつる 、 I~ っ て のの菟を はよ かでら 快眠く
、疲 て流 であ 伴はのそれ?と iiI:れれき の な る主主
るよ 部さ ある 迷も rl l い。 ν、
ると ひの tと。
の
う乎・ 。と はに 1れ1ft かし はにで 長は
、
カヨぜあ い道 るし 色
出ねる 。が 。;0; あば
。
* 遠 き つ
わぴ人の涙に似・たるさくらかな
風身にしめばまづとぽれつL
花も散り涙ももろさ蒋なれや
叉やはと思ふタ拡の益
風もよし北をも散らせいかピせむ
思HMはつればわらま誕・き枇ぞ
西行法師にとっては、
鎗て果てし世にたピ一つのなぐ
さめは器の花ばかりであった。かくてかれも六十の坂を
越した。
出仲毎の花にとLろをなぐさめ
て
むモじ
六十あまりの年を粧にける
かれは死後のために
怖にはさくらのはなを事れ
'
わが後の般を人とぷらはピ
の歌をのとしてゐる。かれは子供のごとく強心し、子
供のごとく生涯を仰さまに仕へ、子供の心で花を見、歌
,
Jの
最
遊
行
後
、
,
•
•
一、
退
法
七
不
l 5 )
人の栓を健全に生きる力が、職容を起そうとする企てを
も打砕いた事が、鶴傘の事績に仰はって居ります。制時傘が
マカグという閣の、
王合披という都の郊外の鑓鷲山という
所に居られた時に、ー阿問枇という閣豆、
此玉は若い頃に
は、緯稼に背中を向けた挺婆と一しょになっていましたが
後には熱心な仰教信者になった。ー共阿閤世主が、ヴツジ
という底を征伐しようと思い立ちました。
しかし、
かねて蹄依する鱒傘に其由を打明けて、
祉を定
めたいと思ぴ、
グツサカ
1
ラという大臣を使いに立てL
、
鰐傘の教を諦うたのであります。グツサカ1-フ大臣は輝傘
を訪歩れて、質は閤王がグツジを征伐し、グツジ人を般誠
に豆らしめようという
‘
お考えでありますがと中上げた。
、
司
〆-、
一一、.../
、
文製博士
大
野
法
這
•
すると緯骨格は、
うしろに居る阿維に「阿難よ、グツジの
人
建は、
集まるべき時にはよく集まると、日頃聞いているか」
と問われました。此集まるべき時によく集るというのは、
民主的に人k
の意見を骨格質して聞くための集合が催された
時、
よく人K
が集まるというととであります。すると阿離
は、
「そのように聞いて居ります」と答えると、
鰭魚、「かれ
らが集まるぺき時によく集まる限p、
グツジは柴えて、
装
えたり亡びたりするととはないであろう。叉阿難ょ、
かれ
ら
は足並そろえて
、
すべきととに精出すと聞いているか」
と訊かれるので「ぞのように聞いて居ります」というと
、
「然らば阿灘ょ‘
足並そろえて、ずべきととに精出だす限
り、
グツジは柴えて
、
衰えも亡びもしたいであるう。叉か
れらは定めるべから宮るととを定め歩、
定めた事を磁ら
みy
定め・た湿りに在行すると聞いているか」ときかれる。「その
•
,
く G )
•
通り
聞いてゐります」というと、
「然らば阿難よ、
定めるべ
から
ざるを定め歩、
定めた事を破らヂ、
定めた通P
K費行
する限り
、
グツジは装えも亡びもしないであろう」と震は
れました。とのやうにして「グ
ツジの人建が古老を敬い
、
古老の世間に耳を傾けるべきだとして居る限り、
大丈夫であ
る。又かれらの中の男が
、
女や小供を暴力で連れ出すとと
のない限hy、
大丈夫である。叉かれらが正しく
組先を思う
限り大丈夫である。叉かれら
が、
修行者を正官に保護して
他聞から来た修行者たちは、
グツジで安心して居れる限り
、
-X丈夫である」と官われたのであります。
之を聞いたグツサカl
ラ大臣は、
との内のどれ一つも
、
闘の力の要紫であるのに
、
七つが全部揃っているというの
では、
連もグ
ツジを征伐するなどと
は、
思いもよら虫とと
である。早く
師って闘王に此事を府・上げねばならぬと、
大
念ぎで飾っていきました。
此七つの事は、
人削として本来そうなければならない事
柄で、
いやれもhaの宇からなる自然の法を灯として、
向分
が生き
る姿であります。閣も人も、
持伶ゆが一
一言われるよろに
之によって柴えと
そ
すれ、装えるととのない、亡ぴるとと
のない、
確かな遣であると思います。之は七つありまずか
ら七不退法と官われて居りますが、
つW弘めれば、人々が心
を合せて和袈協同し、
敬うものを持って島り、正しく働〈
カは強いと
いう都だと思います。更に縮めれば、
つまり健
やかに生きる確かさをいうたものであります。
二、
人
々
と倶に
-
綿維は、
"ととまでも人々と川酬にある蒋ぴの心で、
であったととについて、と
ういう事紛があります。
一人の路子がありましたが、
眼病に掘って、
とう
/1
盲
らwいたってしまいました。が或る時、
袈裟の綻びを縫会う
と思って、
針に綜老通そうとしました。見えぬ眼のかたし
さ.
平生は勘で以てウマク通ったものが、
共日はどうした
関子か、
仰としても油らない。そとで披は、
惟かに湿して
賞わうと思って
、
m控を呼んでみた。所が生袖川散も同尉ない
のか、
一向に返事がない。そとで続けざまに呼んでいる共
践を聞きつけられた繰命。静かに彼の側へやって
来られ
て、
「私が通してるげよう
」と言われるのを、
聞いた彼は驚
いて、
「此様な雑事を世傘にし
て頂くととはできませぬ。あ
らゆる功徳を成し逢げて
、
逃〈人間から雌れた高い位世に
居たまうみ怖を
、
煩らわすとは勿惚なくて出来ませぬ」と
御僻迅しました。燦維は弟子の共言葉を遮りながら、「津山
の功徳を積みあげて、そ
とにじっと坐っているのが悌では
ない。
人の詰めになる事なら、
何時でも
、
どとマも
.
どん
念事でも
、
それをどとまでも
、
して行くものとそ働であ
る。」と極く策担るに、
締を泊してやられました。
人間には、
傘ぶものを自分から離して、
高い所に置きた
てハイ
( 7 )
、
がる鮮がありますが、綿傘自身は、"ととまでも人kと倶に
ある心でありました。叉此じっとして居らやに、どとまで・
も功徳を杭んでいくという所には「すべては・広からだ」と
いう、不断に新たなる出殻を感AYる、望みに満ちた態度が
あるのではないでレょうか。
それから入誠に近づいて、
長会躍の大林精A中日に居られる
時、
共附近にいる弟子建を講堂に呼ぴ集められて、「自分は
三月先きには入滅するととL
なδう」と申されて
、
弟子建
の一屠の精進努力を期待されました。亡くなる前から既に
共時期を強知して居られたようであります。それから締晶体
は波接という所へ行かれました。そとにチユングという
鍛
治屋をやって居る人があって、
相柑仲午の投法を聞いていたく
感激し、霊口、何命や弟子述に御供養の食事を、自宅で差
上げるととに危りました。そとで前の脆からかaAって、料
理をとしらえまし・たが、特別に絹傘には
、
連も珍らしとい
われる務檀の菌の御馳走を、
差上げるととにしたのであり
.
ます。議定通り翌日、
一同はその供養を受防ましたが
、
チ
ユングの家を僻して師る途中、m柿傘は腹がひどく痛み出し
たので、休み/\歩いて、クシナ1ラという町の郊外へ行
かれました。そとにはナイランジヤラ
ーという流れがあり
沙羅という木の林があって、共林の小に衣を四つ折にしい
て静養のための場所とし、
そとへ何縁は、顕を北にして舗
になられましたが
、
「と与で毘繋に入るのである」と決心さ
れました。クシナ1ラの町にはお新という部族の人建が居
て、以前から仰教を信じていましたので、之を聞いて
、
岩
・討のために必袈な物を持って来て会怜括をし、
一同悲痛の
心に沈んで居りました。
一一一、
八
正
_'Mュ
主昆
そとへ、
一人の修行者が走り込んできました。それはグ
シナ1
ラ
に住む修獄陀という老人で、とか/11
毅妥のある
人で、前々から鰹品ゅの事を聞いていて一度逢いたいと思い
ながら果さやにいたととる
、
と
h
で盟い病に偲られたと聞
いて‘
ぜひとも
御存命中に
較を受けて、
多年の疑問を解決
したいと駈けつけたのであります。そして共山を阿離に告
げて、
制柿傘に商品刊させて欲しいと申入れました。阿難は
、
此取込みの非常の場合、組も御引合せはできぬと断りまし
たが、
須蹴陀は
、
之で想念が入滅されたら、悔を百年に捜
すからと、しっと〈懇請する。阿難は強〈断る。その押問
答の交錯するのを聞かれた緯傘、「かまわない、
共人をとL
へ」とのととに、須敏陀は額縁に近づいて雷うようには
、
「現に印度には大路六師の教えがあって和々の道を設き
何れも円分の曾ろ所を良質としているが、どれがm旅して民
世であるかを見分けるには、
どうしたら宜しいが」と尋ね
たのであります。それに到して符鯵は八正道という訴を設
かれました。
( 8 )
•
A-泥道というのは、
八つの正心い道というととで、
簡単
に申しますと、一つ蕊見。正しく見るであります。ハツキ
リ、シツカリ、
人生を見る。見そと怠ったり、白眼観した
り、斜めに比たりしないとと、眼を開けば比えるものを、
わざと眼を閉じて見ょうとしなかったり、初めから色眼鏡
をかけたりせ十に、人生を正腕するととであります。之を
最初に出すのは
、
之がすべての本だからで.あります。
第二は正忠
、
正しく思ふであります。考へが裂な方角に
向って行かないように
、
願常に考えるとと、第三は正語、
正しい曾楽であります。思っている通りに共まL曾漢に出
すとと官襲にぷを押せるために、とんでもない喰いちがい
が起きて、事が凶滑に越ぬような例は、
いくらでも世間に
あるのであります。第四は正業、
正しいいUFであります。
とんでもも弘い幕、人様の迷惑になるような事をし
A泣いと
と。第五は疋命、正しいAM・と品むきますが、
之は疋しい職業
というととであります。モグリの、人に話も出来ないよう
な都で.一生を過ごすのは勿憾ないととであp
ます。釘六
は正精進、
能率・を上げるように努め働むとと
、
第七は正念
正しい心の置き所であります。心の置き所が援な所ヘヅレ
て居ると、高一品が狂うととに念ります。
第八は一止恕。疋しい智怨であります。が智惑と曾うても
むつかしいととを現解するというようなのとは遭う。物事
を間惑わぬように比抜くととであります。教えてみれば此
様に八つありますけれども、要するにγ磁質な根強ある質
生活陀含まれるものと思います。
今、
須践陀が、
どれが果して異質の教えであるかを見分
ける方法を帯ねたのに封して、揮命が此八定道を設かれた
のは、
結局、根搬ある円常の賢際生析をしているか居ない
かで、
きめればよいという事になると思います。領践陀は
それを聞いて、
よく納得が出来て
、
共場で締晶体の弟子とな
りました。
此街路陀が教化をうけた事訪を眺めますと、彼は始めて
聞いた八正遣の説法に感じたには遣いありませんが、
それ
よりも
.
Rい病の床に臥しながら、因縁あってやって来た
求道省を心安く迎えて、最後の日までも、雌んに自己を燃
やされる輝仲悼の‘
総かな根擦ある費生活に、裁が祷け込ん
だに遣い左いと思うのであります。
•
四、
減
も
の
び
ぬ
仰仲婚は、
いよ/\入減が近づいて、「なつかしい創徐に別
れる悲み諮る方なく」愁いに沈む弟子速に向はれ、「かねて
展言ろ通り、諸行は無常である。高物は止めどなく移り饗
る。とL
に私は入滅する。がたとえ私は逝いても、そなた
述人k
が、よく放過に陥るととなく、
戒さえ失うととがな
かったら、如来は滅するととはないであらう」と、静かに
給されて、クシナ1
ラ郊外のナイランジ
ヤラ1
の流れのほ
/
,
く 9 )
晶v'''
とり、
沙羅の林が、
十冗夜の月影に淡く照ちされるしどま
の中に、いと安らかに、
彼減の世界に入って行かれまし
た。大
勢の弟子の中の長老であった大迦薬は
、
以前から他国
へ行っていましたが、
クシナ1
ラで霊い病東にかL
られた
と聞いて、
念いで鈍る詮中、もはや師、玉は此祉を去られた
と知って、
悲款にくれつ\漸くその場所へ来た時は既に
入滅後七日であったというととで、それから前に申しまし
た末羅族の人建が棺をかつぎ、クシナl
ラの郊外で茶昆(火
耕)して、
遺骨の合利は末羅族の人連が嗣って供養をして
居りましたJ
所が、
共事を聞いたマカグ閣の阿間世王が殻
超人とたって
、
額伶婚に悶縁ある八ケ閣の岡主が仰AW利を分
けて貰い、それル\金利絡を建てh
御供繋をするととh
な
りました。
とのように
して、線維のど一生涯は終りました。八十歳
という長誌を保って
、
人を益する勤めを
、
μ以後のタペまで
続けぬかれたのでありました。がそれは大きい宗教仰
.
験が
もたらす、自然の姿であったと思います。共的蹴の心は既
に巾しました思傘の、最後の言葉の中に偲ぶととができる
と思います。それは「たとえ私は逝いても、
そなた建人々
が、
よく放過に陥るととなく
、
戒さえ失うととがなかった
ら、如来は滅するととはないであろう」と侍えられるもの
で、と与
に放逸とはズルケ心とゴマカシのと
とであり
ま
す、それを避けて戒をもっ、
戒とは
、
つまり疎そかならざ
る心で日口を捺すととで、
そとに如来は減しないであろう
とあります。之は結局
、
止めどなく
移り控る人の世に、不
滅の望みをかけられたのであります。悠久怠る
人類の替み
の中に、自己主漫し去られ・たので舟りま
す。かく
て揮命の
行かれた所は、とても-Xきな
、
賢k
とした世界であるに違
いないと思うのでるります。(おわり〉ハ二月
十凶日放治〉
f‘、
悌偽量殺像月座 a、水殺り金
子7 諮七六日寺tE年
実迄凶五護:
」ノ
五月のNEE僻教の時間
二日・
向日
七日(BE)
十 jt,四日日
十十
日目
火
器敏の賠
十八日
廿一日
廿三口
、-fd
悌教問答
廿五日・
廿八日
梯教徒の位協
働教人生案内
三十日
矢崎美盛
4・
教授結城令聞
東木関空mg
一
蹄烏敏
中外翻組側枇長
民総涙骨
1l!
大
、
•
( 10 )
•
ザV、 .............
一一ー ~
、
ltt
布 :
施 ;
行 ;
生 .
~
~
楓
本
民
回
沼岡本民老尼、八十年の生涯は、抜から政への
、
そしてかぎりな
き希総行の、骨骨いお安であったが、その聞にもいろいろの泌絡が残
れている。
ある按先での簡である。
一夜の宿を乞ひたいと思ひ、っかれた姿でらる宿巌の前に立たれ
たが、このみすぼらしい尼俗を見ては、宿旧肢の主人も、
あいにく部
日限が縫いていま
せんので、
といってすげなくことわってしまった。
悶舎のこととて、他に街位もH品格的らず、お豹子方も附りはて』いる
と、
老尼は
、
\
今夜は
、
有かないので拳ひ、お泊夜が的破る。如来さまが、
こ』
にいらっしゃると思って、みんなで心から三品枯渇阻をあげて夜を聞か
そ・ヲ、
えい
って大きた擦で、
おつとめをはじめられた・すると、病肢の
主人がらとから必っかけて来て、
大艶ありがたいお鰹の震が聞えて業ましたが、先制剤の尼僧ちま方・
尼ー
藤
慈
海
士口
だと分り
ましたので、
泊っかけて宮市ました。先刻は
、
お部品肢がなく
ておことわり申しましたが、何とかいたしまずから、
どうぞ引き返
してお泊り下さい。
と、心から申されるので、考尼もそれは有縫いと寄って、その夜は
その宿に泊られた。そして街の方たちとあ旬
がたい法談の一時を、
もたれたのでした。x
部将紛の工夫たちに、お前さん滋のおかげで、雌械に湾か通れる。
ありがたいこと
です。すまぬこと
です。
私は乞食坊主で、何ひとつ
らげるものもないので祭の様だが、
と宮いながら、袖に手を入れて
は荒銭、十銭のお金を-人一人に渡し・ 、どうか受取って下さい。と
お念仰を申し申しして、渡して行かれるのであった。それで、
工夫
壊も
、
能った尼さんだと滋ひながらも、
ありがたうございますと、
お砲を曾つ吃丸・治るのでした。
深々として衣の袖をひるがえし乍ら、湾い袋を拘
H負って遣をいそ
• ,
• く 11)
、
ぐ老尼の義、こうした人々
によって、
この闘の凪土が本命の恕味で
続般せられたのではあるまいが。
お師匠きま、
そんなに織りもせぬ人に、一々
おじぎをされては、
こちらが恥かしくて、こまります。
と、お孫子たちが宥うと、
何そ付uぅ、
毎日忙しくて、御本堂に出て、お強制押することも出来
ぬから
、
こうして遣で出縫った方におじぎをすると、阿踊瑚陀さまに
一週趨茸押したと閉じ功徳があるのだぞ
、
と
、教えられるのでした。
活で行きか号人ごとに、筋線問鞠陀仰と、}襲お念仰せよ。そし
てどうか、この人も、
お浄土への諮抽出れとなって下さるようにと心
から新念せよ。この世で結縁しておかないと後で櫨何度しようと却っ
ても、
御叫臓がないことになってしまうから、
と
、心からゆされるのでらった・
また遊厄は沼ゆく時には、常に、費丹、
ムハ締丸などの殺をもって
おられた。そして頭務、眼加に苦しむ人に争えば、そのお獲を施さ
れた。こうした老尼の徳行によって、
闘った人たちがその病荏白から
どれだけ救われたか、知れない。「有縁衆ル抗議光筒』と管うが、老厄
の行かれるところ
、
みなその懇袋の光と激化bz必らぬものはなかっ
た。
悲願行としてつづけられた。その足跡は、
AK同二十一一一勝百五十鈴ケ
町村にわたり、織物を指した戸数が六部戸、動化紡絵された求が十
碕徐に及んだということでらる。
大在十ご年の春二度の大火に襲われたH画整鋲簸川郡佐香村大字絞
滞へ、老尼が地行め依をせられたのは、同年の八月であったが、館
時の諮問を、納鍛整担氏は次のよう
に述べていられる。
貨店抽出雲仙唱方では、尼さんと一日えば、何か病弁者か不HH4脅かのよ
うに忽ふ習慣がらり、経初はまだ術物ハ配布の品〉も到着しておら
ず、
慰労見録を述べてお担りになるのを、何だか、
妙な奴が来た
、
と却って品目からワルサがられて
、
その娩はとう1\
掛け筏りの竣る
納い院の山市で、マルでタxaか何かのように、わらを得に一夜をお渇し
たされた。それでも本民尼は不平ひとつおっしゃるでなく、
-お念仰
を唱えながら一夜をお明かしになった。そして翌日役場の人がやっ
て来られて、それが一一一河からわざ
f\
お越しになった本日尼である
ことが分り、やがFLお凡鍔の白川が山と割まれ、
それが一-タ本自尼の
手によって栂災者の手に洩れなく鮒悶供されるに及んで
、浦の人・たち
はす
ルで診のよう、貨は何という無担な勿陵ないことをした
こと
か、
かh
る徐い御山出家とい号よりは、
むしろこれこそ銭きたお地鼠
さまとも申すべきおみをと、手を4Hせ漢をこぼして木口尼を努んだ
ということであります。
同氏が
、
・本銀尼のほ訴後、
親しくその剃髪された尼寺、一一一河描偶然賀
の民激的mを紡ねられての感想に
、
はるか幾百同盟外の人からまでも、ありがたく拝まれる人があるの
x
本田老尼の布施の行脚は、明治サ四年の抽被災の大地震から、大正
十三年の静務刈篠山脇滞町の震災救倣まで、
一一一十凶年問、全く官官町闘
の
•
• く 12 )
、、
に反到に自分の肉親の44からさえ
、
ありがたく思って貰えないもの
もある。その管だ。木口厄はす・〉
L
のものを拝み、すべてのものを
愛されたのだから。私た%は自分のA悶貌さえ本仲田に愛することが出
来ていないのだ。本低厄こそは本総にすべての人聞を、すべてのも
のを舜みなすった方だ。それでこそ、
また民にすべての若から、努
まれなさるのだ、本n尼こそは院に、仰におはします。
とあるが
、
この感惣文に鈎して、
一一一十後年来老尼の始終かわらぬ窓
後と
行伐とを知怒しておられる矢吹由郎防附士も、
心からの共鳴を銭
じたと述べておられる。
築家の普通になし得るところで為る。しかし弘たちは
、
老尽の泊行
が、
mなる務蛇H4繋b棋のそれではなくして、施を泌じて、お滞土へ
の悶悶同行を一人でも多く
、
結縁したいとの悲願を以てなされた宗
激的な
、
やむにやまれぬ行錯でゆめったことそ忘れてはならない
。
銭…盆持組に「市場むに民貨の利を以てす」と設かれているが
、
老尼
の布猪行もまた、民貨の利に現つけら
れてなされたところに、
@い宗致的性崎かあるのではなかろうか。
ラ
油開数に於ては、一一一輪開申告といって、指す我と
、施しを受ける者と
絡しの品物と
、
こ
の一一一つが、
こだわりなくなされるとき
、
その布織
行は
、
立法なものとなると授かれている。我々は、
よし絡をするに
して込、
いろいろのことに欽われがちでらる。普の援者が、
雑穫の
務、成似の行と、滋〈夜行せられた泌りでゆめる。
然るに本民老尼の布施行に於ては、たとえ、施しを受けるものが
袋ならずとも、強9串引のや吊.b正以て
、
織物と受施品引とそ向ら港ならし
め深化せしめうる湿の、拘怖い悲願よりなされたものであった。
商政の小授の中に、僅か-伎のお金を持って、これを絡に絡した
ら、袖仰のみ旨にかなふかと思って、絵図符を歩いたが
、
施hf』受ける
に他する人がなくて、袋しく持ち蹴ったという滞があるが、本件叫に
泌者も、受猪者も、猪物も、獲に往しτ、
都内"救出抑制附の施を行ずるこ
とは、仲土問縦である。問中なる財品ゃ、椴災者の教微なら、骨m帯感
布施行者
旗田本鍵尼
人4
の詑憶に伶ほ生きている明治大定期に布施行の符覇者と
もて銭涯を・滋られた綴ω本日尼の敏行は
、
老厄布紘の人たちの
聞にふかい敏おの念を以て餓えられてはいるが
、
その詳細をひ
ろく後に餓えるための仰句"が米だ現われていないのが惜しまれ
ていた。者尼にmm依されていた矢吹鹿町博士には口ザくこの企て
があり資務の採銭も怨み、一部は小筋子の形で活字になったが
全貌守扱くに到らずして亡くなられ
、
大円相微水mEにこのこと
が詫されたという経線がある。
議官慈海氏は俗互の委磁を受けて
、
老尼訴縁の仙畑、
有縁の人
々を訪ね、務説内の末碕とそのみh貌bz滋す段の摘を先年完成され
今度
、・
石総裁誼俗疋、久松民-民の序を附して本文一六O頁の
落ちついた袋釘で世に滋られるに到ったことは
、
民に沓びにた
えない。一割者尼の行自に接する恕ひの中に心をうたれるもの
がある。「崎市土」は今問
、
務者の特別の御好意で、同情泊中の一
部や鶴減させて頂いたが
、
之は少、しでも、
本健尼のふかく
たh
えた惑慾心のお縫きを多くの人々と共に仰向たい心からに他なら
ない。信仰の怒としてこの新著を御紹介いたします。(藤倒)
その
可益
( 13 )
一一一
切
3
願
な
4一弔問的叩
,
a伺t
,
A,
不死
の
•
、,、J、,、内相仰》角、,
~
人の死の縁は、かねて思ふにもかなひ候はや。
かに大路にて経るととも候。また大小便利のととろに
て死ぬる人も候。
tとわ
踊附土宗の組、
法然上人は、或る人への消息の山中で、
かように逃べ
られている。まことに、人の死の縁は然公で為って、どのような思
いもよらぬ鴨也慨を持つかは分らない。お脱いの併が喉につかえて死
ぬ子もあれば、都行中の列車からふり却附されて惨死する新務もあ
る。「人のAWは食務の時
、
むせて死する併もあるなり」との-御)川必は
決して跨強ではない.. 耐も.U凡の恥世ba拘先制側に於℃、何へもこれを避
けることが出来ないのである。日れも山肌附も呪法も、何物もこれを
さえぎり、
これに代えることを創刊ない。問太聞の如き波糊持丈の生
涯を・治った人も、
その一生の訟に「拶のまた少」であったことそ嘆
い℃いる。渇き去ってみれば、千夜もア夜の恕出でしかない。「たと
ひ七八十の齢を期ずとも、おもへば少のごとし」と
、
法然上人は十
二筒係問答できとされている。上人が遠く教の締と仰がれた腐の磐 ひ
在
b
ノ
,
,、'‘....-.肉、,、,、,、,、,
~-、""、,、,、,、,、
方
• 中
村
康
隆
都品判品同も
、
無常老病の迭に避けがたいことを敏いて、次のようにう
たってい、りれる。
漸々に鎚皮鶴塁、君々に行歩離髄たり。たとひ金去
、
堂に満つる
も
、殺に衰残老病を免れんや。さもゆめらばあれ、千般の肱川崎市
、
無常
つひにこれ到来せん。喰だ徳路の修行あり。但だ附掬陀仰を念ぶ』
》4・
b」@
「たとひ百年なるも、回瞬間到のごとし」とは五合法術離の中での法
照邸側の嘆きでもらった。
このようにして
、
滞土の凪飾たちが、阿捕陀仰と阿煽陀仰柑げ土と
への信仰を打ち立てるに透った自民の訴時が、人集の純情性への務
mにらったことは、疑えぬところである。A附は、
究極に於いて托
なねばならぬし、掛川もそれはいつ自己に凡紛ってくるか分らない.
いわば弘法は常に死の淵に臨んでおり
、
併に托の不安にとりまかれ
ている。たHA人は多くはそれを山川らの問胞としてそれに砥筒する弱
気を欠いているに渇きない。彼はそれからつとめて闘をそむける。
否、後はそれに背を向け
、
日を別世主,てさえいる。それなのに
、
そオも•
C 14 )
の
なのに伶ほ死の不安は彼の茨般の複に鳴い影bz時折に呪けかけずに
はおかない。そして此の暗い影に心を管かされる人は、
邸宅悦祭に
走。峨戯に狂じる。而も白川ほ飽き足りぬ想に動かさる
与
一時遂に宗教
の門をたA
〈のである。
かようにして、
人々を宗数に穆〈第一の動因が、
宛にたくない、
どこまでも生きたい、との切なる恕いに根穫しているこ
とを知る。
凡そあらゆる生の欲求の中で、此の欲求程切なる願はない。それは
生命の製本を脅かすものへ@魂の底なる叫びでらる。他のあらゆる
生の欲求ll
食欲や性欲や織勢欲の如き一一一大一本館
すらも、
これに比
べると、
写ろ波生的でらる。此の生命の援本の額
、
そこに宗数の第
τ沙がある。
った不老長認の神仙俊話も生み
出きれてくる。
しかるに、
どのように長誌を斬ろうと、究極に於て、死の迭に避
け得ない務質に直面せざるを得ないのである。金一きんとする欲求に
動かされ、殺しく自らの生に執濁して
、
より良き生を希求しつつ、
生存のあがきを綬ける人間にとって、
死は千古の訟を秘めたまえ
還に謹けがたい建命として、その行手に立ちはだかっているのであ
る。己れも己れの愛する考たちも等しく死と共に
永僚に
.
消滅すると
いうことは、知仰にしても宵い得ぬ堪え難い悲痛事たるであろう。
そこからし℃、
人は更に筒品川死を越えての生の存拙酬を組問唱し
、
不死
信仰の様々な形愈lla揺と器援の不托と死後世尽の存在との如き
ー
ーを暫さ出すに至るのである。死にたくない、生き組けたい
、
と
いう飯翠から輔じて、死んでも生命のあるようにと希うようにな
る.
アメ
P4H・
イ
yデイアγ
のベプロ族の祭品艇は、
集臨的儀樋的でφめ
ることが特徴的であるが、その宗教の第一同眼目は
.
「生きるように、
死なないように、生き長らえ℃老翁老組となることが仙波るように」
ということだとされる。お前百までわしゃ九十九まで、
とは問中に鍛
の合討議ではないのである。向じアメリカの主般的側人虫終的であ
ることが体統でゆめるウイシネパず族の宗数前目的も、成功
・串中制及
び長却を外にしてはなく、此の願問問の保磁を磁んがために、彼等は
淋しい相場所に赴いて専念し幻貨韓肢を泌じ℃自己の守臨鐙を槌縛せ
んとつとめるという。
肉臨的生命の存績と繁祭とが、死にたくない生き甑けた
いとの生
の狼本的欲求に狼差して、人間の底按な宗激的顧認となるのは
、
曲亭
ろ猛然なのであろう。そとからしτ桃仙箆とか八百比丘尼とかとい
不死信仰のm一の現われは、肉位の観活でゆめる。ミイラの作成と
保存も、ひとえに復活の信仰と精ひついている。直にアタピズムと
いわれる俗儒もそうでゐる。組父の品
wbE孫の上にH地問す、
此の遺体
的現象が、人々に飽父の艶りを恕幽閉せしめる。子供に船父の名をつ
ける期円俗さえ、
そこから行われるよ号になる。輪組とか制作誌の日仰
も、またこ‘るから援制限する。
不死信仰の第二の形態は澄魂間念である。生命観的宗怨訟を主張
した笑闘のグロ1ν
イは、その「鐙魂の観念」なる蒋越の中で
、
霊
魂の不死信仰の源泉は死肴の情愛や人絡に闘する生存者の均憶の長
さの中に存ずる、と言っている。笈際、人は死し肉肢は腐敗する。
、•
( 15 )
しかしながら、人の情感の中に総出は強〈生きている。時には幻に
見え、診に現われる。時には心の奥底で符り手となり開ぺ台、手とな
る。震魂hm仰を以て宗数の線幹と主張する英吉利の人類勝者タイラ
ーは、参や幻覚が此の信仰を生み出したとさえ言っている@これを
以て、宗教の級制怖を拶や幻覧の如き不磁貨なものの中に求め℃いる
と批際ずることは、少しく的を外れている。生と死との線、滅的事貨
から生ずる人間の情感の中に、銀々とした不死への磁釘が濁き出し
てくるのでゆめる。
兎に角、死の本質と死者に到する人間の強い情喝K刊を越えて生島目、
んことを願う飽くなき生の欲求、それが死者の鐙魂不滅の併仰とも
なるのである。従って鐙湧概念の最初の形態が死者その表に努する
祭胞に@めったととは合然であろう。生串唱は死んだ.しかし彼は澗滋
したのではない。後は以に死者となったに均きない。死務として彼
は街ほ存綬するのである。所翻鐙魂の概念が絞初死者祭犯にあった
ことには磁鐙がある。鐙胡%を示す呼名は絞初には紋人それ自也、邸
ち亡者を指すものであった。南米グI
ル抜のアマトyf
は敏人の窓
味であり、ボルネオの〆イヤグ族のアyv
は托ぜる人そのものを指
し、
スマトラのパタク族では人が死ぬとトリJデイハ鐙力が〉去って
ぺグハ姥者の聾〉となるという。仰典に渇常餓鬼と認されている発
絡には、プレタとピトリとがあるが
、
その附川町聴は問唱に死者と父凪と
を意味するのである。
所で、死者に針する生者の情感には
、
死股への恐怖と死者への毅
級感とがある。盟援の翻念にもこれが炎われ、その死後の住所に開
する嬰芯にもそれが表われるのである。
不花街仰の第一一一の形館は死後の世界の存在でゆめる。所謂他国亦袋金庫
と
呼ばる』後生の併仰で。める。死後の倣界の炎象も賃魂概念同線
、
最初には般に死者の住所を指す襲必であった。そこから天間や地獄
の如寺、様々なる怨念が花咲いたことであった。
そし℃その根源は、
飽くなき人間の生きんとする願盟
、
切なる願に存したことは疑いの
ないことである・
‘
• -
罪
はじめて銘泌を犯した人は、常に自分が揮を犯したこと
bE痛
感する。が、何度も同じ鋭治をくり返す者は||
殊に周閣の人
々も同じ銀掲の中に在る場合にはiーその者は惑の誘惑に陥っ
て、
自分のm仰を感じなくなってしまう。
我々がmw泌を犯し、それを肉貸した時分には、我々の前に一一
つの遣がひらかれる。第一の遣は邦治を認め、何とかしてこれ
をくり
返さないよう
な方訟を努めることであり、第二の遣は、
自己の良心に信頼せずに、自分の行ったその卸泌を他人が如何
にみるかを考えて、若し他人が非離しないなら、とれを報とみ
とめずに、引き飽いてくり返すというのである。
「みんながそうなんだ・何で俗だけが、世間の泊中と同じこと
をしてはいけないわけがあろうJ
そしてこの第二の坂遣をえらぷと同時に、我々は警の活から
どんなに遠く滑り洛ちるか、
自分では気附かないようになって
しまう。
( 16 )
……一
幾
い
湾
し
寺
の
A、a巴4、
山
とのヰサは、
山形鯨の草深い山中にあって、後は月山
、
葉山を負い、前はれ以上川を眼下にH見下して速く鋭王山を
望む風長絶勝の地にある。
常村は、
草履作りが盛んで
、
老も来きも
、
却も女も
‘
朝から晩遜くまぜ、一生懸命草履作り道共の側で精根を
とめている筑に
、
特別の事情でもなければ一寸の休む暇
がないので、
との寺では時々村内の人々を集めて、
慰安
の念伸行をするが
、
中でも有名な念働行は、毎月一間(十
七日〉の観骨誹である。全鰐口を十二組に分けて
、
一年
に一同づh
の話番制を設けて、
全般の世話をしてもらう
ととにしている。話番の人Kは、各自
、
章特に一口問づっ
季節々k
の料開を作って、午後一一時制まで、約十人の人
々
山がいそいそと・寺に集まって来る。そのあとを追って
、
吋Jhmおなか一九円
一
‘午詩
人-Y0
・明白川必〉、
河蛸陀械の御
42EEF
t-tagEISEE『'aE'EES'SEe・
帆日….,..,....;-
•
土
•
仰
行
•
佐
藤
叡
諦-
前で御念悌をして
、
身も心も仰様や観骨様と同様に町る
ととが出来るのだと
、
心をふくらませて
、
山の陰、
或は
山の上、森の中からと
、
にとにと顔でぞくぞくと集まっ
て来る、
その数は百十般名。
ま歩本堂に上って念働を抑制えながら阿摘陀践と視音様
陀御溜りしてから火鉢を阻んで.
十四五人づL
聞を作り
そして四方山の話にうつる。午後一時品すになると、
住職
は、
臨音様の御前で読経をする。「香備」より始めるのだ
が、
「般若心経」にうつると、
金口火蜂で
、
精榊を込めて
讃諦する。其の援にれ以上三十三所観世音菩臨御詠歌を一
同で朗詠する。〈賞地方はμ以上川流域の地であるから故上
地方と
一宮う。〉共の接、
山地、
殺林に響いて何とも一冨えぬ
有難い調子が村内に流れる。次は、
との虞光寺の御詠歌
(ふだらくや、
月ぞかがやく真光寺
、
てらされ罪は
、
泊
• ( 17 )
-v,、
JFんみ.、
・・g'
a写・
一
14b・74ト」
{一一一段段して朗詠すb。次は十何観骨
一
絡を十漣繰返す。共の熱心なととは感心する外はないJ
t
それから御念怖を五百盛岡唱
、
みな俗界を離れ忘我の境
にあって、
生きながら浮土参りをした心地である。
最後
は法悌備で終る。問問粧の後ば佐織の説教や紙芝居にうつ
る。共の時にはいつでも、梯様や観音・械が衆生前度の御
苦心と、
宗祖上人や代々の上人の布較に御奮闘なさった
とと
、
我Kは人間に生を得て拳である銘に、行常坐一臥念
仰するのが最も火切であるととを設いている。,択に御消
息文をきかせ
、
最後は御念仰を瓦十遺稿えてから御茶の
合にうつる。
ζ
れより先
、
門前零者は各自の御馳走役、丸い大きな食
時に参拝人の蚊だけ分けで入れるので‘作食絡には十顧
位の御馳走が疲られる、昭和二十六年二月に例をとると
人事の胡麻あい‘焼菜、球茶の胡桃あい、臨摩薯の葛掛
、
識の豆晦あい、
馬鈴薯の夫総難、牛欝の煮つけ、山百合
の甘煮、すみ火棋の煮つけ、芹の会ひたし、
それを本堂
の片岡に敷かれた叙の上にならべて増備をしておく、御
茶の舎の時には
、
全員板の側に坐る。そとで熱い御茶が
出る。それから食べたり、飲んだりしながら「歌の念悌」
を歌い出し、
それに合せて師り出す。
「歌と念l悌ーとの世に!なけりゃ|胸の越務がコリ
ヤいつひらくよチヨエナチヨエナl
南無阿揃陀働.南無
阿蒲陀悌、南加盟…阿掘陀悌」
「阿踊陀如来さiま|
結顕でl
どざるl
浮土諮り
l
陀
いコリ
ヤ舵を
!とるよチ
ヨ
エナチヨヱナ1
南無阿繍陀仰
•
kk
」質に朗かで柔和で、凡ての人Kの心には、
一識の妄念
・
も見受けられない。ほんとうに阿漏陀様や観音様と同格
になっている。とれが現世の極集時土だ、
いつのをにや
ら太陽が西の山に浸してしまったので‘
全員宵の明畠を
奔し訟がら来月の念働行を柴しみとして、念悌を構えつ
つ、
如来様のようた心で家にい脚
る
ので②る。柴しい
一日
である。
ハ般若・
山形制限泊村山郡一幽回総村民光寺伐強)
ハこうした現在行われている地方の仰行事をお待荷下さい。
文中奈の念仰」は本総十一月銭に紹介してらります
。
編集部〉
聖
、
•
( 18 )
•
想
や
出
、、
な
--或る目、
孫を謹れた老婆が寺へ多って京本
た。枠の命日
だから
、
お韓bz上げてくれと云
ふのちある・不・回出な身をわざ/\寺迄漣ん
で、円品チの治約供養をおこたらない此の老婆
に私は顕が下る微な以いがした。契れ丈では
無い、幼い子供を遡れて、品寸に皐'wQgが子供
への宗数々育となるのだと息ふと、些細な事
ながら私は心の底から湧く喜びが、知らず輔副
・笑となるのを、おきえ切れなかった。
傍拍別に坐って木魚をたh
いて摺緩して居る
昨吋も、
後でこの老裟と幼い子供が象を合せて
磨るのが見える搬な気がして、
いつものお勤
めよりも-府有艇かった。やがてお念仰に入
・
ると、老裟も一緒にお念仰を唱え始めた。木
魚の絢子より老誌のお念仰の方が少し湿い帥械
な祭がしたの宅、私は木魚の純子をゆるめ
•
須
隆
仙
た。そし七一一人のお念傍が閉じ調子になるの
がうれしかった。
やがて御悶肉も終り、私は老婆を茶の聞に
案内した。
茶の聞の愈から眺める継の美しきゃ、
お寺
の建物の世帯等、色の々絡が弘と老聾との聞に
交される。子供はチヨコシと坐って、
私の翻
を歌って見つめて居た。
そうして居る中に、
もう一組のお多りが来
た。若い男の人で、
これも叉老建か渇れて来
た子供と閉じ位の男の子を逃れた人だった。
「今日は随分珍らしい目だなあ」と私は思っ
た。若い男は
、
午供を怒れたま与
、まっすぐ
本堂へ行った。
老滋は
、
別のお多りが来たおか、念に「そ
れでは失鶴致します。」と去って坐を立った・
別に引留めもしなかったが、訟は心の中で、
,
もっとゆっくり休んで下されば良いのに、と
思った・
老婆が出て聞も幅削くて子供辿れの若い勾は
京堂から下って来た。そして尖の俗、土問に
下りて、殴るつもりだったらしいが
、
何やら
うろ1\
して居る・何んだか線子が鐸なので
私は土聞の所へ出℃見た。
「どうかなさいましたかごと岡くと、
「ええ
この子の靴が換えられて居るのです」
・と去ふ。
アγ、
キγ
とあの老縫が間話vえたのだな、
と私は思った・
「たった今、
お謎さんが子供を迦れて悩まし
たから、
きっと、
あの方が削遣ったのでぜ・
ぅ。まだそんなに速くへは行ってまぜんか
ら、
行って見て下さい。」
私に一去はれて、若い努は走って進縫の後を
追った。そして聞も無く錫って来た。やっぱ
りあの老獲が間遣えて行ったのである。
所が乏建か辿れて来た子供の靴と、
若い悶均
が辿わて来た子供の靴とでは、大働問なお匂から
るのである・
老婆の方の靴は、古びて磁的制して底た・者
い男の方の靴は新らしい高似なものだった。
「問謹ふはずはないのですがネ、
どうもお寺
( 19 )
に寓ホザ、も、
うっかり出来ませんよ。」
若い男は、苦笑しながら飾って行った。
夜りのこされた私は、何んとも云えぬ阿闘機
な感に打たれた。。
本格曲に問遭ったのだろうか。それと
も紋窓
に蹟き換えたのだろうか。もし故意に魔者、換
えたとすれば、あの老議は、寺に来℃窃盗孫
を犯した家になるのだが・・・:
・。
判怖は経費にそうぶいたくなかった。なる可
〈懇意に解恕してやりたかった。
然〈
、災〈前後のが柄を考えて見ると、ど
うしても、老婆の立場をお利にする市は出来
なかった・たしかに砲台に艇をおろして、老
抽嘆の事Tで子供に靴をはかしたので。める・叉双
方の靴をぬいだ位地には、多少の問踊もあっ
た。人を回世ふのは鉛である。
だが、若い闘均の「寺に来τも
、
うっかり出
・
来ませんね」と一玄ふ言葉を、否定する事も出
来なかった。臥初露だったと忠ふがn
李の木の
下で冠を砥してはならない。西瓜由的の中で靴
を直してはならない“"と云ふ嘗句がある・
物淋しい気持で胸は一ぱいであった。
大郡品別の棋でゆめるが、縫製の時、やはり傘知
人の下駄が換えられた務が幾度かあった・
たった今訟とお念仰を削えた老費たった・
念加抑信者に限って、そんな必はない、と答
定はして見たものの、やっぱり本質は4貨で
ある。
もうそろf\
路の木の茅が
、
ふくら
みかh
って居る。ー
司つぎに叉勝者のいはく
、「今来の念仰者、
私の品棋をたてえ必需棋をおそるL
は掬陀の
本願を傍ぜざる也。数越をかきぬるは一念
の往生をうたがふ也。行楽をいへば、
-念
十念にたりぬぺし、かるがゆへに象温をつ
むべからず、岡鉱祭をいへば閑寂主治なをむ
まるゆへ
.
に、緒川総-eはどかるべからず」と
いへり。この議また〈しかるべから千八開
館の紛滋にもHT字。
羽織の腐にも
あらず
もしかくのご三〈存ぜんものは総じては賭
仰の御意にたがふぺし。別しては婦陀の本
願にかなふべからず。その五逆十四四の衆生
の一念十念によりて、かのくにに往生すと
いふは、とれ観縫のφのきらかなる文也。た
HA
し沢迦をつくりて十念をとなへよ・十磁
をおかし℃一念を申せと、すh
むるにはあ
らず、それ十減をたもちて十念をとなへよ
四十八惚をまもり℃四十八闘をたのむは心
ふかくこひねがふところ也。およそいづれ
の行役もつばらにずとも、心に戒行止乞たも
ちて浮奮をまもるがごとくにし、九苛の威儀
に泊鉢をかたぶけずば、行として成就せず
と
いふ取なく、顧と
して闘減せずといふ務
なし、
しかるψ・
われら波は凶況をおかし、
ある
ひは十紙を~匂す、
かれもおかし、これ
も行ず。一人として、まこと
の減行を具し
たる者はなし・
'
諸柑総菜作、象者奉行、は一一一世諸仰の遺戒也
替を修するものは議趣の殺をえ、惑を行ず
る串唱は怒遣の泉を感すといふ。この因果の
道理をきけども、き・かざるがごとし、はじ
めて云ふにらたはず。しかれども分にした
がひて感祭をとピめ、微にふれて念仰を行
じ、
結集を期すぺし。邸入宏すてられずば
議へなんぞきらはん、つみを、おそる』は
本願をうたがふと、とのこの祭にまたく存
ぜざるところ也三
あれから幾臼か立った今回、私は一元組上への
御盤語を捜みながら、あの子供諮れの老績の
取が却晴樹されτならない。
町制な献な怨出で。める。だが然し、ぜめて「分
にしたがって慰祭そとぽめる」伎の気持交は
持ちたいものでらる。
然も災れは他人の柑ゅではない。自分自身の
事なのである・
•
( 20 )
ー
ロ'w
月
の
l ・
•
...
官執は今十八九歳の青年をあづかってゐる。
彼等は若きに満ちてその元気な接
、
澄み切っ
た限ざし、担かな顔、それ等柚慌てが私に純
無上の混と生き甲幾bz輿えて呉れ、更に反省
と闘覚めえの不断の砲ともなって呉れる。
了度-ヶ月程内私が唯-人宿直室で佼遅〈
迄仕桜b正してゐた時のことである。もうとっ
くに十時は過ぎてゐた・ガラガヲっと戸を開
ける売からる・n枯れば一一一一百前からどうも槙
子がおかしいから円械を付けねばなるまいと噂
してゐたEである・「今晩は!」ポツνと去っ
てじっと立った俊でゐる。「よら!どうした」
と反射的に答えたものの喰ならぬ祭既が感ぜ
られる。盛の上にぴたりと筋肉いて「先生分
りません。何故人聞は生きねばならんのです
か:;:
勉強なんでしたつFL・-::」小さな然も
o
赤
敏
尾
弘
•
カのこもった震でそうつぶやくとじっと私の
限を見すえて今にも泣をおしそうである。私
は忠はず魂の中心を踊れられてハツと戸惑ひ
した。人聞の一大事、「生」。「死」彼は今忠い
つめ℃ゐるのだった。
私はやっと自分をとり民すと「人聞にとっ
て-眠術大柳なこと、それは生きるということ
なんだよ、
それは潮崎憾でなしにね:・そのた
めにどれだけ必くの人が努力してゐることか
::」何らく二人の聞に沈歎が飯レた。「先生
それが分らんのです。何故だか分りません」
Eは期を抱え込む践にしてじっと身動きもし
ない「うんそれじゃ穏を型えて、おとこうし
て一しょに生活してゐて今迄に心から即惜しか
ったことはなかったかね。更に人の死や苦し
みを見て氷山品に自民げが生きFLおれてよかう・た
とか心から済まない勿飽ないと思ったことは
なかったかね」:・・:「勿倫時間的に短かくと
も叉たった一度か二度かで為っても・:・:」え
L
我を忘れる稼なことがあったととは磁かで
す。然しA7は苦しいこと許りですし『う
ん苦し
い然しもっともっと苦しい人だってらるんだ
よ・-----矢袈りそれに負けちゃいけないんじゃ
ないかね」
私は何とかいh
くるめた出憾な祭に強いてな
って兎に角夜冷えのする道をとぼf\
と袋迄
溢り返した。壁趨私漏り、父、
母、
彼の館、
いじらしさ、
その性、
碩の中に袋策するのを
費えじっと考え込まざるを制憾なかった。
それから一一一日開制緩た政限後小伎が慌てふた
めい℃「先生!先生!大畿ですよ。Eさ
んが路損宏、続に入った躍を」私はしまった
と必って心では慌てふためきながら開予は極
めて平野を縫って彼の所に行くと未だ忍んで
はゐないらしい・どぎまぎし乍らも、
うなだ
れてやつれmmてた伎からその瓶を薄いとると
静かに「今晩来るんだよ。いh
かね日Tまっち
ゃ欽目だもう少しじっくり考えて考え℃考え
抜かう。負けちゃ駄闘だ」そうい号と私自身
• ( 21 )
にも涙の出て来るのをどうしょうもなかっ
た。「い』ね、今焼却吊るんだよ」もう二慌AFAを
押すと彼は漸く
承絡の色bz浮ぺて行いた。
•
その娩九時十時を渇ぎても自宅え来ない。
私はじり
f\
し乍ら、矢張り弘の方から間銀
行った方がよかったのでなかったかと
後悔し
たり反省したりして附かけようと
する所えコ
ツコツと下駄の替がした。私は思わず立って
戸そらけると
私自山河が外へ飛ひ出した・一一人
歎って歩き出す。彼も獄って私も獄って::
:
外は憐々たる十四日
の月が私漣を心情い迄附
してゐる。何ものも照44ずば止まぬといった
mm附聞き、静かさでもって、事の一本一本、悶
の切株の一つ一つを一践の会りなく照子月、
弘は思わずEの手をとって心の中に静かに合
慾し彼の身の苦しみを人間なるが放のもだえ
を考え共感に心中が交旅した・じっと月を見
て彼をH品る。私には知らずしらず出て来る滋
然上人の
「月mwの釜らぬ患はなけれども銚む
る人の心にぞすむ」の般がらった。そうだ
之
だ私は菩に似た自信を以て彼に誇った。
「あの月を見て御覧!ね
、
こんな飲がある
よ。月修の歪らぬ悶患はなけれども:;
:ね、跳
むる人の心にぞすむ、こ
ういうんだ。月の光
は丸r.調、持も僕も照してゐる・貸しい人もお
AM持のへも、
胴船人Jm将人も、みんたみんな
探平等にね。此の良い丹念綾が何慮でどんな
気持で眺めてゐるだらう。谷眺めてゐない人
の方が多いかも知れない。然しお月緩ほそん
なこと
はプ向おかまいなし
に照してゐらっし
ゃる、之を眺められる費、居間、苦し〈℃分ら
ない分らないというれもね。:::
倹溜は何れ
死ぬだらう。多〈の人も死んだ。然しお月樺慨
は相安らずmmしてゐらっしゃる・此の鑓らぬ
光bz浴びようじゃないか。思いきり絡し〈滞
〈眺められる様な肉分になら号じゃないか。
眺める人の心にぞすむだよね。死んでしまっ
たら此の良いお月さんの光が私遂に泌み込む
だろうか
、
眺められるだらうか。・::・
彼は大き〈背いた。じっと眺めてゐる。長
い閉まんじりともせず眺め℃ゐた。やがて、
「先生分。出しました:・:・」彼は月光に照さ
れてポトりと波宏世冷した。私は共に人間の生
の骨掃さを思い悦惣の中に月にA口象した・
私はふと
立止まって回の敏から落ちる水の
菅に耳を傾け我知らずその水量Hに聞き惚れて
ゐた。ちょろ1\
洛ちる水の将、きら
f\
光
る水、何よものよりも清〈若いEの魂に食い込
む管
、
「ね!此の水晶Hが聞えるね、此の管が
伺えるかね、何て般繍なことだらうね。死ん
だ人に果し
て聞けるだらうか、私滋生きてゐ
る者にのみ聞ける音じゃなからうか。生命あ
る者にのみ:::
」ねえ、人mは脅しいよ
、
お
の様に箆創に考えれば考える程苦しいよ、
お
互に苦しい、
そういう
時にはこの放を紙い出
きう、
そしてそっと手を合すんだよ。念品抑す
れば鍬も苦しみもやがては消えると云われて
ゐるよ、
苦しい時はお念仰しよう。悲しい時
はHnの光を思い水の脅に耳bE傾けお互に手を
鐙りらって行こうよね。
彼はニγ2
リ笑うと私の手を上から抑え心
に交統する殴いものを感じたのか私が治って
ゆこうという
のを逮隠し遠慮しつ子家路へつ
いた。私は-人同んぼ遣を歩み乍ら月の光
bE
-ぱいに浴びてお念仰を綬けてゐた。
-油開稜絞ってグラウyドにボ1
ルを氾う
て脱兎の如く踊けてゐるEの妥が見られた。
私は必わず品ツコリ笑うと又小さ〈お念仰を
口筋んでゐた。ハ兵廊厳篠山農業高校殺稔)
(22)
• 悟
の
こ
.).
,
ろ
世間では悟りとは迷いの巨費で合めるといっている。だが私は前悶
に迷いのこころについて絡したが、その町、悟りは迷いを纏て始め
τ得られるものだといった。悟りは迷いの反畿ではなく、むしろ迷
いを基として出て来るものなのである。私共の日常生活の中でで
も、このことは屡々鐙除される。何かの問砲の解決に織問中して、
生懸命に考えてみ・る。と
ころが仲々によい智恵も山山て来ず
、
遠いに
は全く行きつまってしまう。どう考えてみても分らない。仕方た〈
紛らめて何か外のことをする・しばらくして
、
ふと叉もとの間期を
思い出してやってみると、なーんだと怨う穆すらすらと片附いてし
まう。考えることは迷ヲことである。別のことをして続分を改めて
蒋びやってみると分るJ
」んなことはよくある。またお者か深議な
原理や法則を設同局したり
、
義術家が偉大な作品のヒyトを得るのも
こんな風にして得る均合が多い。開館が十二月八日の聞けの閉口犯の
mきを比て忽然と俗りを聞かれたのも、矢張り、それに先立つ慾年
聞の刻苦修業制ち迷いのこころがあつなが放に、かすかな皐の光り
にも偉大なる締りのいとぐちを丸山制されたものである。
..
竹
信
常
中
‘
このように、
弘共の日常の股路線から始まって
、
仰陀掴棚倉の悟りに
護るまで、
その内附刊の惚闘い狭いはとに品川として
、
球る-一瞬tf・制して
忽然と新しい世界の聞けて釆Z・その心持ちそのものには異りがな
い。これが僑りのこころなのである。ところが払共の場合には、
時
にはチラツとそのよう
な心がひらめいても、
瞬時にして消え失ぜて
しまって、
長〈これを止めておくことは出来ぬ。それは、
私共官と
り間む現貨の統合の絵りにも災わしいのと、その災わしさに心がと
りま宮れてしまうからである・どうしても、
私共の心は現貨の、総
多にして騒がしい世相にこだわってそれから離れることが出来にく
い。それ放に、折角、瞬間的に得た悟りのこころも直ちに世相の波
の中に凡失なってしまわなければならないのである。
私共にも悟りのところはこのようにあるのでらる。ただそれをは
っきりと向霊'る槻話と川震が絡にくい定けでゆめる。それ放に
、古
来、悟りや掬き、誼に徹した名俗知識は、いづれも坐翻
・
只恕・
一一一
隊に耽ったのである。タと心とそ寂静の錦地に低いて、外界の凡ゆ
る刺織を断って、
自己の心を比つめたのである。そこに悟りが聞か
町.
〈幻〉
れたのである。悟りに蚕る道
、
これは幾多の人身によって
、
敏千年
の長きにわたって教えられ、八高凶千の法門として示めされて来
た。今夏私などがここで百円びこのことについていうのも釜なきこと
である。引帆は、むしろ、悟りそのもの、即ち悟りのところ批判ちとは
一殴どのようなものであるか、ということをお話したい。
非常に深い山の中、進りは務附として物普一つ郎、えぬ。その傍け
さに包まれてぢっと盆をみる。ふと、
二勿の烏が、東の容から商の
方へ、
ゆっくりと大窪を横切って飛んで行く。その様を見て私共は
何と感ずるであろうか。恒に-人の詩人がこれを見ていたとしたら
彼はその静けさの中に動くこmの内却を鈴として眺めたであろう。盤
家がH地たならば.nTくもその虫討を紛悠に捕えて終面に認すであろう。
更に鍛師であったなら、nT越に鋭をかまえてこれを射落そうとした
で怠ろう。ただ一須の飛ぶ烏も、これを見る人によって、色荷に嬰
化する。務としての白局、総としての
白局、餓物とし℃の庵然し烏は
悠々
と磁の漆へ消えて行く。地上に於ける人間の様々
の狭い北見と
は何の拘わりもなく飛んで行く。この降、山の一角に、深い限怨に
耽っていた修行者がいて、彼がこれを眺めたとしたらどうであろ
う・動くもの}つなく森閑と静もり反えった中を一一勿の内織がその初
桐伎をゆっくりとはピたきつL
飛ぶ。正しく静中動の姿でゆめり
、
太陽
の鰯きの下に、はるか山の峰を背最にさの一黙として浮ぶ烏の奈は
詩でもなく絡でもなく、いわんやmなる般物でもない。まことにそ
れは、その中に大宇宙のすべてを含んだ一切のものなのでるる。詩
人の心も、鍛家の心も、鎌飾の心も、その他これそ見る凡ゆる人の
心の一切を容れてなお絵りあるものでらる。とれを侭混という。そ
し℃烏の委をそのように臨ずる修行者の心を悟りのこころというの
でふめる。烏が一切を含むとは、これをみる修行務の心が凡ゆる人の
心を含んでいるからである・宇宙一切であると見るのはその心が宇
宙ご切だからでらる。mなる詩人だとか般飾だとかいった小さい偲
々の立場を綴れて、何等視覚の自分にこだわることなく、本来の心
そのものになって見るからである,mw激ではこのような心の第砲を
無心とか無我とか=一隊とかといっ℃いる。または虚心とか放心とか
ともいう。心邸ち日常の窓側刊かなく、我がない。それ放にそのもの
を在りのままにみることが出来る。
平常私共は、物をH品たり、物を考えたりするのに、どうしても自
分の立場、
自分の心構えでする。知らず知、反ずにそうなる・前はよ
く商務犠性といわれたが、今日では波書蹴意畿で人をみるといわれ
る。人をH凡たら泥伸僚と思うのも、その一つである
yこれでは本嘗の
ことは分らない。
山は也円く水は波れて白けれど
そのままもとの色にぞありける
自然法繍である。花は紅、仰は線。すぺてのものはすべてありの
ままなる委でゆめるのである。烏はあくまでも烏で。めるのであって
、
患なる詩、患なる紛ではそのこ悶しか漏えることは出来ない。私共
の平崎市の窓殴を捨てて慮心悠僚、拘らぬことろになってこそ、始め
て肉質の生きた-拐の壁伎をみることが出来るので為る・
締りのこころとはこのように、とだわりのない、何"心のこころで ,
•
( 24 )
ちる。すやすやと股むる赤身は拍仰や併にたとえられる。
いかにも無
心でゆめる。だが、
線本は金〈終っている。赤訪の無心は・制ら求めた
ものでもなく、
悩み迷った末に似たものでもない.逆に
、
これから
迷い、悩む、心なのである。放にそこには何等の働きも出て朱ない。
悟りのところも、
悟った丈けでは何にもならぬ。むしろ生悟りとい
われて簸われる・それは「悟ったよう」ではあるが、