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未来を想像する意味について - 立命館大学「読売新聞」掲載の「未来記に類する小説」で、坪内道遙は未 未来を想像する意味について

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坪内が批判を向けているのは、これら日本の作者の手になる小

説に対してである。まず、彼は「未来物の傑作」としてジュー

ル・ヴェルヌの作品(「月世界旅行」、「八十日間世界旅行」)を挙

げ、その「主眼とする所」は、想像によって「有形物」(学術や

した未来の生活を描く物語が、あるいは明治一四年一○月二日の

国会開設詔勅が出されて以来、その開設の年とされた明治二三年

(2)

を題に冠した小説が次々と出版されている。

(明治七)、近藤誠訳「新未来記」(明治二、前書とともに原著

ジオスコリデス)、井上勤訳「良政府談」(明治一五、トマス・モ

ア原著)などの翻訳小説の方法を用いて、科学技術によって進歩

来小説に苦言を呈している。明治一○年代から二○年代初頭は未

来小説がさかんに書かれた時期である。上条信二訳「後世夢物語」

はじめにl未来小説についてl

(1)

「読売新聞」掲載の「未来記に類する小説」で、坪内道遙は未

未来を想像する意味について

未来を想像する意味について

l末広鉄腸「寶中梅」と東洋学鱸をめぐってI

社会)の進歩を示すことにあるのであって、「無形の妙想」や

「人情」を描くことにはないゆえに、未来小説に「変則の小説」

という位置付けを与える。その上で、日本の作者が書いた未来小

説が、有形の社会ばかりではなく、「日本という特別なる社会の

未来の情態」を「本則の小説家が現時を写す」ように描いている

こと、そして、「人情の変遷」を説いていることを非難したのだ

った。これは、「妙想」を「直接の観察」によって感得すべきだ

という坪内の美術観からすれば、理にかなっている。現実に存在

しない未来の人間を「直接に観察」することはできないからであ

る。ただ、おそらく、この批判の目的は、彼が主張する「真成の

小説」を社会的に確立することであり、それゆえ未来小説の書き

手の意図せざるところをついている。そもそも、なぜ社会進歩を

示すことを主眼に小説が書かれるのか、道遙は問題にしていない

のだが、それについて、多くの未来小説を残す服部誠一は、次の

ように示唆的な文章を書いている。

余は元来思想を未来に馳するの癖あり。何事に拘らず未来の

大西

==

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なかった根拠が明確に示されている。

進歩の性格を含む」という一節は、人間の想像力が時間と密接に

が目的であるという、

(3)

(「一一十世紀新亜細亜」序)

ここからは二つのことがらが読みとれる。まず、「社会の進歩」

的な価値を置いていることは明かであるが、「野蛮」から「半開」、

「半開」から「開化」というように、時間の流れとともに社会が

関係しているということを語っている。

直線的に進歩すると考えていたわけではないようである。服部の

謂によれば、社会進歩は人間の想像力の働きによってもたらされ

る、言いかえれば、

未来小説の流行は、

光景を想像すれば、

事の改良、学十

像の力に依り、

ると諸ふぺし、

亦益なし、寧ろ止むに如かざらんか、否々然らず(中略)

今事物の発明進歩は、皆な此想像の力に依らざるはなく、

随て梢ゆれば随て現はれ、宛かも眼界は幻燈の影絵を写す鏡

面の如く(中略)此無形鏡面の絵画は、独り自から観て楽む

のみ、掲げてこれを人に示す能はず、又挙げてこれを人に説

な幾分か進歩の性格を含めばなり

力鄭の

ぱみ、、

必ず痴人夢を説くの誹りを免れず、

学芸の研究、器物の製造地産の増殖、実に皆な想

り、畢寛するに社会の進歩は、|に想像の力に依

何となれば想像なるものは何事に拘らず、

想像することが時を進めるのだ。

社会進歩の願望と、

この時代に未来小説が書かれなければなら

脳裏の無形紙面に種々の絵画を模写し、

次に、想像が「皆な幾分か

時間と人間の意識に対し

服部が、「進歩」に絶対

然らば則ち想ふも

このように

政古皆

未来小説「二十三年未来記」(明一九)において、彼は、国民の

書き手として、末広鉄腸を挙げることができる。最初に手がけた

する働きかけだといえよう。このことにすぐれて意識的であった

無関心の中で開設された議会が、「七八年前に出生村で国友会や

櫻鳴社の討論会を聞く擬」な空論に支配され、収拾のつかぬ混乱

ての洞察に支えられていたのである。

議会の様子を知り、

会がメチャノーになり僅々の人を除くの外は国会の事を奔走する

上の熱心を引起し政党の勢も盛んにありたれば漸次に国会の準備

も出来実に完全の議会が開けるかと思ひの外十七八年頃に至り社

ものもなくロクに政党の組織も出来ずに国会が立ったから不都合

(5)

の事が多いのぢや」と嘆いてみせる。この小説が「朝野新聞」に

(6)

褐裁きれ罪乞きの題名は「夢ニナレノ~」というものであったが、

小説の終末で、これは陣吟君の夢であることが明かされ、議会の

に陥る状況を夢物語に描いた。主人公の坤吟君は、新聞記事から

未来の物語空間を仮構するとき、書き手が社会進歩を意図して

いるとすれば、未来を語るという行為は、すなわち「現在」に対

警告を行おうとしていることは明かであろう。

混乱が現実のものとならぬように

こうした未来社会の悪夢によって、

1末広鉄腸の未来小説

「元来明治十四年の頃は日本国中一

「夢ニナレ」と結ばれている。

書き手が現在の状況に対する

時に政事

=一

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との連続性が重視されていることに気付かされるだろう。

一五○周年を祝う、明治一七一一一年三月三日の東京においてであっ

た。西暦でいえば二○四○年の日本は、おそらくこのときに鉄腸

が思い付き得た、あらゆる国家的成功を手にしているが、服部撫

松が「二十世紀新亜細亜」で描いた、都市の空に飛行船が飛び交

い、海中には潜水艦、という未来像に比べれば、執筆当時の社会

ただし、この小説では、鉄腸はより手の込んだ結構をもって国

会開設を語っている。「雪中梅」は、作品世界への案内役として

登場する二人の男の会話で始まる。彼らが出会うのは、国会開設

という警告と、国会開設に向けての政党間の団結を要求するもの

であった。

(7)

同様の危機感は、これに続いて同年上梓共これた『雪中梅」にお

いても表出されている。主人公国野が井生村楼で行った演説「社

(8)

会ハ行旅の如し」は、国会開設が五年後に迫っているのに山⑩かか

わらず、詔勅のあった明治一四年時点よりも「政事思想が退歩」

し、民間においても国会開設を準備する気運が「衰微」している

其上政事上の有様を視れ(、上に至尊至厳なる帝室有りて、

百の堅艦を撞く、

全國に普及して、

る龍動や巴里も三舎を避け、陸に数十蔦の強兵あり、海に数

の巣を張るが如く、汽車ハ八方に往來し、路上の電氣燈ハ宛

ら白書に異らず。東京港にハ萬國の商船を繁で商寶の盛大な

此四方四里餘りの東京ハー面に煉瓦の高櫻となり、電信ハ蛛

未来を想像する意味について

世界中日章國旗の雛らぬ場虚もなく、教育

文學の盛なる、萬國其の肩を比ぶる者なく、

して、冒頭に示された遠い未来の日本の社会は非常に繁栄し、西

洋の列強をしのぐ国力を得ている。四年後の国会開設はすでに過

去の出来事であり、国家が安定と繁栄を手に入れた時点から語ら

れる。作中の出来事は、それがいかに危険な冒険であれ、国家的

な危機であれ、最終的には成功が約束されているのだ。この時間

って、作中の様々な事件は遠い未来の繁栄に収束されることにな

る。これは出来事の歴史化が行われているということを意味する・

国会開設前夜の日本が完成途上の社会であり、国家であるのに対

物語の冒頭であらかじめ理想の社会を提示してみせ、作中現在

をその枠組みの中に納めるという入れ子構造を設定することによ

書籍館」から複写してきたのだと言う。本編は、彼らが小説の中

で「雪中梅」をまさに読もうとするところから始まるが、同時代

の読者は、一一一年後という近未来の、国会開設直前の時期に設定さ

れた「雪中梅」の作中現在を、「発端」に登場する二人の男とと

もに回顧することになる。

を顕彰する石碑が土中からあらわれ、それに興味を持った片割れ

が、国野の事績を記した「雪中梅」「花間鴬」の二書を「上野の

よりて、滑に内閣を交代し、憲法確定して法律能く整ひ、言

論も集会も壷く自由にして、更に其弊害なきハ古今の歴史上

に於て比類なきことと思い升

言雪中梅」発端)

やがて男たちの話は、この繁栄の礎を築いた国会創設期の政治

家国野基のことに落ちる。ながらく人々から忘れられていた国野

下にハ知識と経験に富む國會があり、改進保守雨黛の競争に

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構成は、社会の安定や国家の繁栄への願望によるものであり、ま

た、書き手が持つ、ある種の社会意識の正しさを、物語空間の中

で保証するものであるといえるのではないか。

例えば、今をどう変えるのか、という政治課題と関連して、鉄

腸の社会意識は、革命を題材にした政治小説の持つそれとは明確

に区別されている。明治一七一一一年から明治一一三年を回顧するとい

う「雪中梅』の時間的枠組みを「顧みられた未来」と呼ぶ亀井秀

(9)

雄氏は、「このような物語時間の操作によって、国会開設という

未来の出来事を日本人共有の「過去」たらしめようとしている」

と述べ、さらにこの歴史語りが、新政府の提示した一○年後の国

会開設という、「共同体に関するそれ以外の選択肢を非現実化し

て」しまうプログラムの枠の中にあることを指摘している。もち

会党や虚無党ハ感心でハないか」という須田に答える場面で国

野に「僕は与論に因って平穏に社会の改革を成就する決心だから、

前後を顧慮せぬ粗暴の事ハ真平御免ダ」(上第三回)、あるいは演

ろん、鉄腸の歴史語りによって「非現実化」される政治プログラ

ムのうちには、「革命」も入る。「雪中梅」で鉄腸は、「欧州の社

劇改良について語る場面で、「シイサァ奇談や仏国革命の伝記な

ども、余りゾットせぬ」(下策三回)と言わせている。ここでい

われている「シイサア奇談」は、坪内遁遙訳『鰯自由太刀余波

鋭鋒」(シェイクスピア原著、明一七)を、「仏国革命の伝記」と

は、桜田百華園訳而鵜西洋血潮暴風」(デュマ原著、明治一五)、

宮崎夢柳訳『鰍麺自由之凱歌」亭ユマ原著、明治一五)などの

翻訳物を指すものだと考えて間違いはないだろう。さらに宮崎夢

柳を見るなら、チェロキーのアメリカ合衆国に対する抵抗を取り

上げた『憂世の涕涙」(明治一七)、ロシア虚無党のアレクサンド

ル二世暗殺事件を扱った「鬼峨々』(明治一七、一八)など、ほ

ぼ同時代の、国家の抑圧に抵抗する者を描いた小説を次々に「翻

訳」した。これらの登場は、自由民権運動のさなか、フランス革

命やロシア虚無党に対する関心の高まりによる。鉄腸は明治九年

に、筆禍によって成島柳北とともに投獄された(『雪中梅」にお

いては、国野は手紙の書き損じからダイナマイト所持の嫌疑をか

けられ、入獄している)体験を持ち、明治の政治体制に不満を抱

いていたが、社会の混乱を伴うような変革を望まなかったのである。

(、)

レイモンド・ウィリアムズの「キーワード辞典」には、

のぐ・旨冒目(進化)の3つの語義l①生まれつきの性質に沿った

発達②計画されていない自然の歴史③速度の遅い、条件に左右さ

れる変化lが示されているが、この語が「Hのぐ・}目目(進化)と

対照される場合には、①ぐC』目目の昔の意味が一番の影響を与え

ていた」とする。

「すでに暗黙のうちに形成されていたもの(たとえば国民の

生活様式(言旦・臣罵))を展開すること」、あるいは「その

ものが生まれつきもっている性質(たとえば既存の国家体制

や経済制度)に従って発達すること(』のぐ①-8日①貝)」がふ

(u)

つうだった

鉄腸が抱いていた未来社会のビジョンは、おそらくこのような進

一二一ハ

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の出世を可能にする国家組織を創出することであった。「雪中梅」

と『当世書生気質」という、ほぼ同時期に書かれた二つの小説の

間には、道遙と鉄腸の未来小説の機能に対する評価の相違と関連

した、社会に対する認識の時間的なずれがある。「当世書生気質』

功とは質的な違いがあるといえよう。小町田や守山の出世が、既

成の国家組織の存在を前提としており、その枠内で可能であるの

に対して、「雪中梅』の世界では、国野の成功は、小町田や守山

の社会は、鉄腸にとっては未だ彼の想像の中にあり、これから創

八~一九)

られている。

主人公の個人的な成功が国家的な目標の成就とが暗に重ね合わせ

埋没していた彼の位置づけが示すように、

田愛氏は「明治立身出世主義」という明治青年の共通意識である

(辺〉

と註釈づけた。ただ、「国野基」の名と、国家の礎として歴史に

られてゆく。この小説の「妻帯を為す様では事業をなすの妨害」、

「錦を衣ねば古郷に帰らぬ」(ともに下第八回)という一節を、前

序ある社会像を正当化しているのである。

のポストを得ることであったが、それは「雪中梅」

『雪中梅』と「花間鴬』には日本が進歩する過程が明らかに描

かれているわけではなく、国野がお春と結婚し、彼女の助けもあ

を混乱に引き戻すものとして否定することで、

歩の行き着く先であったと思われる。

って鎮竺回の帝国議会に当選するという、

の小町田桀爾や守山が考える立身とは、

未来を想像する意味について

例えば東京大学に学ぶ

「一露当世書生気質』

革命や『雪中梅』においては、

いわば個人の成功が綴

「虚無党」を、社会

彼自身が望んだ秩

〈質」(明治一

官僚や代言人

の主人公の成

は以下のように記している。

東洋学館は、明治一七年から一八年にかけて上海に存在した、

日本人の経営による教育機関である。その概略を、「対支回顧録』

からすれば、彼(

考察することに、

わhK

持つ、

ょうな人材を育成しようとしたのかを探ってみたい。

来世界の内容ばかりでなく、

いだろうか。

ところで、

約二年前に、

る端緒とするために、

会にとって必要な人間の理想像を示しているともい

質」の主人公たちは、鉄腸が、「雪中梅」

り出さなければならないものなのだ。しかし、そうした意味で、

〈皿)

穏健さ・勤勉さ・規律正しさという性質をそなえた『当世書生気

恭、馬場辰猪、中江篤介、佐々友房、長谷場純孝、杉田定『

明治十七年、東洋問題を研究するを以て目的とする青年志士

を養成する機關設置の議が民間有志の間に唱へられ、末廣重

実業家を養成する教育を行おうとしている。鉄腸の小説が

理想の実現に向けて社会に働きかけるという啓蒙的な性質

2理想社会と教育

彼の「想像」と

鉄腸の経歴をたどってみると、小説を書きはじめる

上海につくられた東洋学館という学校の経営にかか

それほど無理はないだろう。

そこで彼がいかなる学校経営を行い、

社会進歩の過程で行われることを知

「現実に行われた事業」

冒頭で描いたような社

鉄腸の想像した未

えるのではな

とを並べて七

どの

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狡の已むなき場合となり、其跡始末は大隈伯の出資に依りて

(皿]

解散すろを得たと云ふ。

「朝野新聞(以後『朝野』と表記する)」に掲載された鉄腸の漬

(肥)

説「書生ノ方向」(一○月一一一日国友学術演説会演説記録)にょ

関与を確認できるのは館長就任を依頼された九月以降についてで

ある。

まず学館設立前後の経過を『朝野』の記事から追ってみる。八

月一四日の「雑報」は、東洋学館の開校とともに、明治一七年七

月の日付が入った「東洋学館趣旨書」を併記している。そこでは、

外交政策を「國家盛衰」の分岐点と位置づけているが、特に「東

洋ノ神髄」であり、日本と「輔車相椅リ唇歯相保」つ情との関係

を重視し、その「政治人情風俗言語等」に通暁した「大成有爲」

の人材を養成して、東洋の衰運を挽回することが目的であるとい

中江が学館設立の資金調達に動いていたことが勝海舟の日記中に

(皿)

見えるが、当初における鉄腸の関係については判然とせず、その

ると、「九州ノ有志家」

六年の秋であったらしい。『対支回顧録』に見える人々のうち、

平岡浩太郎、日下部正一等が其首唱となり館長に末廣重恭を

推し新井毫、宇都宮平一、大内義映、山本忠禮等が經管の任

り、校長宇都宮の如きは其携ふる所の衣類書籍等を寶却して

經瞥の賢に充つるの苦境に至ったので、

に富り宇都宮を校長として上海篦山路に創設したのである。

(中略)然るに開校未だ一年に至らざるに早くも財政難に焔

らがこの学校を発意したのは前年の明治

遂に財政難に焔り閉

う。所在地を上海に選んだ事情については、「清國上海ハ即チ東

洋ノ咽喉ニシテ金穀ノ輻マル所人材ノ來ダル所我國ヲ隔ツル遠キ

うかがわせるものであろう。明治五年にウラジオストクI長崎I

上海間の海底ケーブル敷設によって電信が通じ、八年には三菱会

社が上海l長時間の定期航路を開いている。

来、設立者の地元である九州からは、鉄道の通じていない東京よ

りも、上海へ行く方が簡単だったのである。

明治初期の上海には、有力な資本では、北海道開拓使の御用商

店であった開通社(六年八月~八年一二月)とその後身廣業洋行

(九年八月~二四年)が出店して海産物を扱い、一○年に三井洋

行が進出、さらに一三年には岸田吟香の樂善堂が開店している。

だが最も多かったのは九州出身の「からゆきさん」で、池田桃川

『上海百話』(大正一○・一二・三日本堂)によれば、渡航した

これは日本が国内の鉄道網を手に入れる以前の、

女性の「六七分通りは例の外人對手の性的商寶」に就いており、

例えば明治一五年から七年にかけて四馬路などで繁盛した遊郭

一一非ズ|棹至り易キ地ナルヲ以テ此二校舎ヲ置ク」と説明するが、

「東洋茶館」には、青木権次郎という博徒が、「長崎より数十名の

女を大輸入」したという。その周囲では、彼女らを客に当て込ん

だ小間物・雑貨などを扱う商店が出店と閉店を繰り返し、搾取の

網から抜け出すことをほぼ不可能にしていた。

洋学館は八月七日に虹口乍浦路第二三号館に開館した。東洋学館

翌一五日付の「朝野』「雑報」に載った「綱領」

じ、八年には三菱会

この航路ができて以

過渡的な状況を

によると、東

=--

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五日に掲載した論説「内ヲ視テ外ヲ忘ル凶ノ弊」で日清貿易の重

要性と学館設立の意義を説き、一○月一五、六日掲載の演説記録

「書生ノ方向」では、鉄腸は「亜細亜ノ交際貿易二従事セントス

ル者ハ東洋學舘二來タレ」と呼びかけた。この演説からは、学校

の目的、その設立にあたっての事情等を詳細に知ることができる。

日本と「前途二於テ交際上二重大ノ關係」を持ち「無蓋ノ財源ヲ

有スル」中国を、「我ガ國民ノ進ンデ利益ヲ博取スベキ好市場」

趣旨書にあたる「緒言」と、》

一○月一日から五日にかけて、

新規募集(「第一期生徒百名」)

あらわれるのはこの後である。明治一七年一○月二日付『朝野』

の雑報を見ると、学館側の依頼により鉄腸が館長に就任したこと、

れていない。金さえ工面できればぶらりと上海に行き、そのまま

入学出来るような書きぶりである。学科に関しても「支那學ヲ主

トシ生徒ノ希望ニョリテハ英佛學及和諜書敷學等ヲモ教授ス可

シ」とあるのみで、具体的な記述がなく、当初教育機関として機

能していたか判然としない。

東洋学館の経営について末広重恭(以下、鉄腸と表記)の名が

「支那語英語」

二○日までに一

は寄宿舎制で、学資金(授業料と食費で年額六六弗)は渡航前に

(〃)

長崎にある事務取扱所に払い込むことになっているが、入学資格

や身元保証人の必要性など、渡航に際しての具体的な手続きに触

未来を想像する意味について

の教師は新たにイギリス人と中国人を雇い、

○○人の生徒を募集する旨の記事のほかに、

新しく定めた規則が付されている。

各紙に東洋学館の規則改正と生徒

{肥)

の広笙ロを出したほか、一○月四、

同月

設立

山一一入ルガ如キノ畢動アルニ至ランヤ」と、九月に起こった加波

する方便であるとし、さらに、「若シ政黛員ダル者ヲシテ我ガ國

ノ外二功名ヲ成スノ地アルヲ知ラシムレバ何ゾ十六人ノ旗ヲ立テ

ないかという批判があった。「政党ヲ養成スル」ことを警戒する

声は当時過激化していた自由党員の行動を踏まえてであるが、鉄

腸はそれに対し、東洋学館の設立は、「内地ニノミ局束シテ海外

開」ではないかという疑いがあり、徴兵の忌避を助けるものでは

また鉄腸は、彼が館長に就任する以前から言われていたという

東洋学館に対する「種々の飛一一一一巳についても語っている。それに

よると、学館設立は「山師ノ所爲」であるという誹誇があり、情

仏戦争中という時期の悪さの指摘があり、

端緒ヲ開カントス」と、日清間を超えた範囲でアジア独自の資本

主義経済圏を形成しようという目論見を披瀝している。

ヲ達観スル能ハズ徒ラニ主義ノ小異同ヲ季フテ相敵視」する政党

の「弊害」を、「海外ノ事情ヲ注視セシムル」ことによって矯正

日本語、英語、中国語を教え、また日本人は招致した学生の母国

語を学び、「亜細亜諸國ノ交際ヲ密一一シ其ノ貿易ヲ盛ンニスルノ

頓スルニ及べ」ば、「朝鮮暹羅波斯等」の国から学生を招致して、

法ノ大意等ニテ其ノ主トスル所ハ東洋ノ交際貿易二従事スル者ヲ

養育スルニ在り」とその意義を強調する。さらに「校務ノ梢ャ整

とが「第一着」であり、「書生ヲシテ惠ラ支那ノ事情ト商業上ノ

事ヲ講究セシメ假令法律ノー科ヲ設クルトモ契約法商業律萬国公

と見微す彼は、対清貿易に従事するための中国語と英語を学ぶこ

Gいう誹誘があり、清

「政黛ヲ養成スルノ機九

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山事件を引き合いに出して、自由民権運動末期の「政党」のあり

方への批判に及んでいる。

賞にて生徒も四方に散乱する有様となり少年子弟の前途を誤るの

みならず自然我が国の名誉にも関係することなれば領事より至急

鉄腸が関係する以前の東洋学館は、どうやら大陸志士のたまり

場の様相を呈しており、上海では不評をかっていたようだ。この

以降の記事で、

差止の儀を政府へ上申せられし程」であったという。この学館設

立とほとんど同時期に、東京築地には文武研究所という名目の下、

壮士養成機関とでもいうべき自由党有一館が設立されており、あ

ことを知らせてくれるのは「朝野』二月九日の記事だが、これ

介・杉田定〒日下部正一・宗像政・和泉邦彦・長谷場純孝な

(旧)

ど、東洋学館の創立者と目される人たちが出席している。こうし

るいは、

そ鵠7だ。

するために東洋学館を設立したと考えることが可能であろう。

たことから、大陸に働き所を求めた壮士が、その活動拠点を確保

いく。「學館のある場所ハ實淫女の巣窟」であり、「學校は有名無

小松裕氏は東洋学館設立の契機に、この年の一二月に改正され

た徴兵令を挙げ、「徴兵のがれ」の方途を青年たちに提供すると

同時に、その真意に、清仏戦争に乗じて「支那分割」の機会をつ

(、)

くりだそうとした可能性を述べている。清仏戦争は、ベトナムの

宗主権をめぐり情とフランスとの間で起こったのだが、この経過

同年八月一○日に行われた有一館の開館式には、中江篤

これが東洋学館の性格を推測するひとつのよすがとなり

同紙は設立当初の様子を日を追って明らかにして

(別)

を、日本の各新聞は非常な関心をJbって報じた。戦況報道、戦争

シミュレーションとしての戦場の地図、そして、隣国の戦争に際

し日本がどのような立場を取るのかという外交問題をめぐって各

紙間で行われた論争が、この時の新聞紙上を支配している。こう

した記事は、読者ひとりひとりに戦争と国際政治へのイマジナリ

ーな参加l「局外中立」の名の下でのlとを促し、「国家」の内

面化と、国際政治を大所高所から見る視点を形成させることにな

るだろう。

だが、ジャーナリズムの言説が喚起する想像の世界とは相容れ

ぬ形で、中国大陸に活動の場を求めたのが、いわゆる大陸志士と

いわれた人々であった。開校当初の東洋学館に籍を置いた人々の

うち、何人かの経歴は「東亜先覚志士記伝』の列伝から見出すこ

(躯)

とができる。彼ら圭心士たちの出自や活動にはほぼ共通する型があ

る。彼らは東洋学館を経て、福州で陸軍の小沢諮郎らが企てた情

政府転覆計画に加わった。その後は官途につかず大陸や台湾でざ

従軍するなど、「大陸浪人」の呼び名に相応しい一生を送ったよ

うだ。てがけた事業が大抵失敗に終わり、不遇のうちに、あるい

は「志半ば」で死去している点も共通している。彼らは維新前後

まざまな事業を試み、

の動乱のさなかで育ち、かつ政府でイニシアティブを取ることが

到底望めない立場にあった。明治九、一○年に続発した旧士族と

の闘争に勝った維新政府は安定を増し、日本は近代国家としての

体裁を整えつつあったが、幕末・明治維新から自由民権運動の時

かたや日清戦争が起きれば語学を活かして

四○

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学年は一一一期に分かれ、それぞれ「支那学」、「英学」、「算術」が

設定された。鉄腸の抱く中国市場進出という主張に沿ってである

たな市場ととらえ、日本の国益を優先させることを明確に意識し

ての詣である。

國ト前途二重大ノ関係アリ清國ノ言語学術二通ジ世態民情ニ達ス

(配)

ルコトハ今日ノ急務」であるとうたっているが、ここにある日清

の「重大な関係」とは、両国の連帯というより、むしろ清国を新

ス語等の実学を学ばせる実業学校として再出発させるべく、組織

を整備したのだった。新しい東洋学館規則の緒言は、「我邦ハ情

は魅力ある居場所となった。そして、結果的に政府にとり、国外

で野心的な活動をする限りにおいて、彼らには利用価値があった

のである。

そうした壮士たちのたむろする、「政党臭」の強いものであっ

た初期の東洋学館を、鉄腸は、官話、算術、簿記、英語、フラン

は、次第に安定しつつある国内からは淘汰されてゆくべき存在で

あり、それゆえ、情という統一国家が衰弱しつつあった中国大陸

期までの、

此ノ学館ヲ上海二設ルノ目的ダル決シテ普通ノ学者ヲ造り出

サントスルニ非ズ支那語英語ヲ教授シ東洋ノ貿易交際二熟練

スル実業家ヲ養育シ大二国家二利益セント欲スルニ在り(中

略)支那ト我邦トハ前途二於テ交際上二重大ノ関係アリ而シ

テ無尽ノ財源ヲ有スルー大国ハ我ガ国民ノ進ンデ利益ヲ博ス

(型)

ベキ好市場二非ズヤ

社会構造が転換する混沌とした状況に親しんだ者たち

未来を想像する意味について

の学生、すなわち上海に渡航したが入学しなかった者たちlくだ

んの大陸志士を指すと思われるlに対しては、領事館が説諭を行

い、なお学業に就く意思のない者は証明書の没収と帰国命令が出

(澱)

されているが、このような不適格者の淘汰があった後、新規に入

学した生徒たちに対して、鉄腸が抱懐する経営目的に沿った教育

が開始されたのだと思われる。「朝野」に載せられた山本の報鐘

によれば、学館は二月七日に開校式を行い、同月末には小試験

を実施するなど、その滑り出しは順調に見える。「朝野』を信用

するならば、新しい学館の建物は煉瓦の二階楼で「近年の建築な

れ(資に美麗」であり、二階に寄宿舎・食堂が備わったものであ

(皿)

った。生徒たちは「一般二居留地規則ヲ遵守シ書間外出スルトキ

ハ衣服ヲ整頓シ外人一一對シ不体裁ノ畢動ヲナサズ夜二入レバ決シ

テ戸外二出デズ拮据勉勵」し、それゆえに「領事舘ヲ始〆在留ノ

は「我が領事舘に近くして私窩子の巣窟に接近せず近傍にハ耶蘇

(配)

教學校中外書院ありて頗ぶる幽静」であったという。旧東洋学館

代理として上海に渡った。

を砕いた様子が見てとれる。ただし、鉄腸自身は上海に行くこと

【町)

はなく、もと函館自由党員で、彼と同じ国友〈言の山本忠礼が館長

期では北京語を学ぶことになっている。また、生徒募集にあたつ

(配》

ては、細かな「入学生徒旅行手続」を準備するなど開館準備に心

う、「支那学」は会話重視の方針を取り、第一期では上海語、三

学館は新たに開校するにあたって「亜細亜学館」と名を改め、

一月五日に共同租界内の虹口嶌山路第八号館に移転した。そこ

四一

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徒を囲い込むことによって学外との接触を出来るだけ防ぎ、その

生活を管理しようとするものであったことが伺えるのである。

(記)

紳士ハ望ミヲ我ガ生徒二属」1」ているとある。学館の方針が、生

は、血腫い死は身近なところにあったが、東洋学館から亜細亜学

館への改変期に四散したという大陸志士たちも、そうした混乱期

との連続性を生きていたと思われる。だが、社会の進歩に信頼を

置き、近代化を推進する立場から見れば、彼らの存在はおよそ

「文明」以前のものではなかったか。福沢諭吉が極度に暗殺を恐

れたl「およそ世の中にわが身に取って、好かない、不愉快な、

(鍋)

気味の悪い、恐ろしいものは、暗殺が第一番である」lという逸

話は、個人的な性格の一面として片付けられるものではない。彼

が「文明論之概略」で示した、「開化」「半開」「野蛮」「混沌」は、

社会において人間が変死・横死を遂げる可能性の序列でもある。

混乱の中に身を置くことを生存の条件にしているような大陸志

士を学館から一掃するいつぽう、時間や規律による管理を受け容

れることのできる生徒を囲い込み、資本主義社会において「有為」

な教育を施そうという鉄腸の事業は、動乱を歴史のうちに追いや

|h叩/、

戦争や暗殺など日常的であった幕末維新期の

社会進歩を推進する動きのひとつとして位置づけることがで

おわりに

l鉄腸の未来社会が見せるものと見せないものI

「志士」にとって

きよう。亜細亜学館は一八年初頭には資金難に陥り、六月に鉄腸

から経営権が離れた後、まもなく閉校している。その失敗の翌年

に執筆することになる『雪中梅」を通して学館経営を見れば、彼

学館で生み出そうとしたのだ。

そうした意味で、東洋学館から亜細亜学館への改変は、社会の

は未来社会を現在に引き寄せようとしていたといえる。彼は、強

固な政府のもとで広大な植民地を獲得し、高度に軍事・産業化さ

れ繁栄している、想像の東京を生きるに相応しい人間を、亜細亜

近代化のあり方を端的にあらわしているということができるだろ

う・だが、すでに見たように、近代日本は、実際には、その外に

出してはいない。彼らを常に国境周辺に置いて、その行動力を清

朝の転覆工作や外貨獲得に利用しようとし、また、ある者はその

(別)

生涯を「先覚志士」の名の下に歴史の中に組み入れ、後の中国大

陸侵略を正当化することに使っている。日本は、国民国家として

出て行かざるを得なかった大陸志士たちを共同体から完全に追い

均質化したように見せながら、「近代以前」と見なされるものを

も残し、かつ利用しながら「発展」を遂げたのである。「雪中梅」

で、二○四○年の東京が整然とした姿を見せるのは、鉄腸が秩序

の外を想像しえなかったというわけではあるまい。むしろ、理想

社会から逸脱して存在するものを不可視にしようとしているので

ある。

四一

Page 11: 未来を想像する意味について - 立命館大学「読売新聞」掲載の「未来記に類する小説」で、坪内道遙は未 未来を想像する意味について

(ど「近代文学大系2政治小説集」(昭和鉛・3.加角

(u)同右皿頁

(9)「時間の物語」『文学」第8巻・第2号”・春

(U椎名美智・武田ちあき・越智博美・松井優子訳(岬.

8・犯平凡社)、薑匡§⑲駒(』閨)・罵冒・鳶皇§§盲道具

(4)「二十三年未来記」5頁

(5)同右6頁

(6)明治珀・n.3~犯にかけて「朝野』に連載

(7)上編明治四・8、下編同年u博文堂

(8)上編第二回。ちなみに、「雪中梅」執筆以前、鉄腸は実

際に井生村楼において同じ演題で、ほぼ同内容の演説を

行っている。その筆記記録は「朝野』明治四・3.躯~

泌に掲載されている。

註(1)「読売新聞」明治加・6.u、巧

(2)その例として、柳窓外史(小柳津親雄)「二十三年未来

(3)「二十世紀新亜細亜」上(服部誠一明治虹.4.m

薔莪堂)序

川書店)蠅頁。以下のように註がほどこされている。

ロミミ『面§&②Ca塁・閂●。且○貝両目白目思己の忌胃庶・

来記』(明治四・6)、服部誠一「二十三年国会未来記」

記』(明治咀・3.〃今古堂)、末広重恭二十三年末

(明治四・7.m)などを挙げておく。

未来を想像する意味について

⑲)「自由新聞」明治n.8.⑫

E)広告は管見に入ったところでは「東京横浜毎日新聞』

「郵便報知新聞」「朝野新聞」「自由新聞」に掲載されてい

て侯につき、金子借用の事、強談」とある。

(r)事務取扱所は長崎銅座町二十二番戸内山米太郎方に設

(哩「勝海舟全集虹』(蠅・8.m勁草書房)所収の明治

一七年八月二五日の日記には「中井得介、支那へ学校建

(肥)『朝野新聞」明治r・叩・巧

、)「対支回顧録」(対支功労者伝記編纂会螂第一一項

「教育施設」。、東洋學館」郷~9頁

一妻帯を為す様では事業をなすの妨害婦女子が立身出

世の妨げになるという意識は、明治立身出世主義の一般

通念。

二錦を衣ねば再び古里に帰らぬ功成り名遂げて故郷に

錦を飾ることは、明治青年の共通認識。

E)「当世書生気質』には、一方で時間厳守や規律に疎い学

る。

置された。言朝野』明治n.8・垣

を集中的に背負っている。彼は作中で「堕落書生」以下

持ち、時間を錯誤し続ける須河という学生が、この批判

生も登場する。第三回で、守山が「日本人のアンパンク

チュァル」を嘆くくだりがあるが、常に狂った安時計を

の扱いを受け、徹底的に椰楡されている。

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(型小松裕「中江兆民とそのアジア認識」『歴史評論』那号

(卿。u)

五)八月末にフランス軍が軍事行動を始めるや、各紙の報

道は熱度を上昇させ、特別欄を設けて連日にわたり大々

的に戦況を報道した。例えば『郵便報知新聞」は「佛清

事件」、「東京横浜毎日新聞」は「清佛彙報」、「朝野新聞」

では「清佛事件」、「自由新聞」は「清佛警報」という見

出しを特集欄につけ、清仏戦争関連の速報をそこに集中

掲載している。戦争関連の論説も多く書かれたが、なか

でも日本の処し方について熱心に論じられた。

論説欄の見出しを拾ってみると、「局外中立」

佛戦争ハ我邦二重大ノ影響アリ」(八月二九日)

二國一大決戦ノ場合二至ラズ」(八月三○日).

立ノ主義ヲ誤解スル勿レ」(九月二日)・「厳正中立ヲ論

ズ」(九月三・四且.「局外中立ヲ忘ル、勿レ」(九月五

日)・「戦争モ亦利益アリ」(九月七日・九日)と、この

且.「局外中立ハ商業二關係セズ」

戦争における日本の利害を論じたものが続く。

のは論題に「局外中立」という言葉を冠したものである

が、それらは日本が万国公法に則り、局外中立に立つべ

きであるとことさらに強調している。ただし、「局外中立

ハ商業二關係セズ」という題目の論説があることからも

わかるように、「朝野』においては中立国と交戦国との積

(八月二八日) 「朝野』の

(八月二七

(九月五

と、この

目をひく

ヨーア

局--,外清弓中佛清

極的な貿易が国益伸長の一方途として主張されている。

それは「万国公法ハ矢シテ交戦國トノ交易ヲ禁止スル者

ニアラズ欧米諸國二於テ局外中立ヲ布告スルモ其國民二

許シテ交戦國トノ交易ヲ自由ニシ普通ノ物品ハ論ズルヲ

侍タズ軍艦ナリ軍器ナリ勝手一一之ヲ輸出セシムルヲ以テ

常トス蓋シ局外ノ中立トハ戦争一一閥シテ中立スルノ謂ナ

益ヲ獲取スルノ道ヲ失フニ至ラシメザルノ計薑アランコ

トヲ要スルナリ」とある如く、なりふり構わぬ市場拡大

リ貿易二至リテハ中立ヲ爲スノ理由ナシ」とし、「政府ハ

局外中立ヲ布告シ國民ノ戦争二千奥スルヲ禁止スルト同

時二世ノ貿易二従事スル者ヲシテ他國ノ戦争二乗ジテ利

主義である。このようなどぎつい言説は決して主流には

なり得ず、他紙と主張が分れるのはこの点をめぐってで

ある。「郵便報知新聞」は、八月三○日より掲載した二本

の論説「清佛開戦ノ公報ヲ齋ラサスト錐モ我國自ラ中立

ヲ宣布スルノ権利アリ」「中立國ノ機利及義務ヲ論ス」で

局外中立を説くが、そこで「我國人民情」の「進退ノ様

ヲ一定」させ、且つ「鯛立國ノ体面ヲ全フシ國威ヲ場ヶ

實益ヲ保護」する事を強調している。この後、同紙にお

いても中立論は反復されるが、九月一○日の「中立ノ方

法一一生スル結果如何」では国家間の序列において高い地

位を獲得しようとの意図から、「朝野』のごとき戦争に乗

じた市場拡張論に異を唱え、翌日から「戦時ノ禁貨ヲ論

四匹

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半ばで明治三一年に没。

(翌『朝野」明治Ⅳ.n.2

(型)『朝野」「書生ノ方向」明治灯・皿・肥

(犯)同書に、尾本壽太郎(?~明治三一)、隠岐嘉雄(?~

戦時には陸軍の通訳の勤務に就いた。その後「台湾討伐」

の時期に相当しよう。上海滞在時には中国人と些細なこ

とで大喧嘩をした末殺人を犯している。長崎の裁判所で

懲役六年の判決を受け服役したものの、「憤慨の餘脱獄を

企て国又た懲役九年に加重せられた」という。「支那帰り

明治四○年)、中野熊五郎(慶応三年~大正六年一一一月)、

中野二郎(元治元年~昭和二年二月)、松本躯太郎(?~

大正七年二月)という、東洋学館に一時在籍した人々

の経歴が記されている。一例として尾本壽太郎の伝記を

まとめておく。彼は肥前大村出身。年少にして東京に遊

学し、独逸協会学校を経て東洋学館に留学した。記伝中

に「東洋學館閉鎖の後も上海に留まり馬國均に就いて支

那語を修めた】

判している。

同様の立場をとる「自由新聞」は「朝野」を名指しで批

に参加、

の同志」九十餘人のはたらきかけで恩赦がなされ、

「東京横浜毎日新聞」はやはり「厳正中立」を説き、また

ス」を連載して交戦国への輸出可能品目の限定を論じた。

未来を想像する意味について

内地に帰還してからは鉱山経営を画策したが志

とあるのは鉄腸が学校を引き継いでから

日清

〆-,

34

1933-、_〆-■

(羽)同右

(釦)山本忠礼「亜細亜学館創業意見」『朝野」明治Ⅳ.辺・

町、躯、同把・1.8

(型『朝野」明治r・n.躯

亜)山本忠礼「亜細亜学館創業意見」

(羽)「暗殺の心配」「福翁自伝」(岩波文庫版螂・皿・蛆

汕頁)

詞)例えば葛生能久「東亜先覚志士紀伝」(黒龍会出版部、

(詔)「朝野」明治r・皿・妬

(辺鉄腸が上海渡航を取りやめた理由は、朝野新聞社長成

(妬)「朝野」明治Ⅳ。n.6

(妬)「朝野』明治Ⅳ。、。、

多数の先覺志士の中には勃々たる功名の念に躯らる国者

もあって、當時中央の綱紀弛み、匪賊各地に横行して國

内の秩序乱れたる支那に赴き、自ら匪賊の頭目となって

濁立の天地を開拓し、四百餘州の一角に新しき國を建て

ようと企て歯ゐた者もあったであらうし、やがて國内に

叛乱の起るを待って之を助け清朝政府を倒して支那の更

又た欧州列強の侵略主義に對する反掻の念よりして、先

んずれば人を制するの譽へに則り、早晩欧洲虎狼の國に

生を圖らうと志した者もあったのは勿論である。

島柳北の死去による多忙が考えられる。

ま、

彼らについて以下のように評価している。

而して

四五

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『雪中梅』本文の引用は

3.卯角川書店)を用唾

を保持する最上の策と信じてゐた者もあるのである。

収めて、

ち大陸經誉なる語は自國を強くすることの必要を痛感し

侵略せらる鼠運命にある支那の國土を、

を包括する言葉であったのである。

た先覺志士が皇威國光を大陸に宣揚せんとして、

ひノーの經倫を抱いて勇往邇進した東亜復興運動の全禮

「東亜先覚志士記傳」上二○對支活動の先駆汕頁

これら虎狼の國の進出を拒ぐことが東亜の安全

を用いた。

(おおにし・ひとし

『近代文学大系2政治小説集」

本学大学院博士後期課程)

先づ我が手中に

(昭和⑬.

各自思

四六