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Vol.40 NO.5 (2016) 22 (298) 石巻赤十字病院について 講演の冒頭、「東日本大震災からもう5年たった。 特に石巻については最大の被災地となった。当時、 大変なご支援をいただいたことをこの場をお借り して御礼申し上げる」と感謝の意を表した。 当 時 の 石 巻 赤 十 字 病 院 に つ い て、「医 師108名、 病床数402床、医療圏人口は22万人だった。赤十字 病院は、入り口のところを広くし、床暖房を入れ て赤十字プラザという名前をつけた。ここに仕切 りをつけ、ストレッチャーを並べると実際に災害 時に臨時診療用スペースとして利用できる。そう いう工夫は一応していた」と、病院の移転にあわせ 震災対応の構造にしたことを紹介した。 「医療社会事業部長になって、マニュアルをつく り変えた。災害医療センターを参考にマニュアル 小委員会をつくり約1年かけて改訂した。一番の ポイントは、災害時に立ち上がる部署。その部署 の責任者が決まっていないと、実際立ち上がって から誰が指示するのかとなるので、指揮命令系統 をはっきりさせるため、あえて役職名で名指しに した。どうやって早く立ち上げるか、そのために マニュアルをつくり、さっさと対応態勢を立ち上 げれば、より早く的確に対応できる。だからマニュ アルと訓練は非常に重要になる」と解説し、自ら主 講演 東北大学病院総合地域医療教育支援部教授 *講演要旨は、当日の講演内容を弊誌編集担当者の文責においてまとめたものです。 石井 正 東日本大震災時に おける災害対応経験と 次への備え 導した改訂震災マニュアルについて語った。 「様々な機会をとらえネットワーク、コネクショ ンをつくった。全国赤十字病院の救護班の教育研 修会があり、災害医療のインストラクターの先生 方と飲み会などで交流ができた。警察、自衛隊、 医師会、DMAT等とコネクションをつくって、『何 かあったらよろしく』としておいたほうがいい。そ こで石巻地域災害医療実務担当者ネットワーク協 議会を震災の1年くらい前に立ち上げ、民間企業 を含む様々な組織と災害支援協定を結んだ。それ から地域や住民に、『病気になったら赤十字病院ね』 といった営業活動、健康祭りなどを行い、地域と のつながりを深めた」と述べ、全国の赤十字病院 にとどまらず、民間企業や行政などとの積極的な ネットワークづくり、協定の締結を進めたことが たいへん役立ったことを強調した。 「石巻赤十字病院は、年に1回の災害訓練とマ ニュアルのおかげで、発災後4分で災害対策本部 を立ち上げレベル3を宣言、トリアージエリアを すぐ立ち上げた。トリアージエリアを設置完了し て、被災者対応を開始するまで57分。これは当時 としては驚異的なスピードだ」と評価した。 トリアージとは 「トリアージとはどういうものか。通常医療の場

東日本大震災時に おける災害対応経験と 次への備え「石巻赤十字病院は、年に1回の災害訓練とマ ニュアルのおかげで、発災後4分で災害対策本部

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Vol.40 NO.5 (2016) 22 (298)

石巻赤十字病院について

講演の冒頭、「東日本大震災からもう5年たった。特に石巻については最大の被災地となった。当時、大変なご支援をいただいたことをこの場をお借りして御礼申し上げる」と感謝の意を表した。当時の石巻赤十字病院について、「医師108名、病床数402床、医療圏人口は22万人だった。赤十字病院は、入り口のところを広くし、床暖房を入れて赤十字プラザという名前をつけた。ここに仕切りをつけ、ストレッチャーを並べると実際に災害時に臨時診療用スペースとして利用できる。そういう工夫は一応していた」と、病院の移転にあわせ震災対応の構造にしたことを紹介した。「医療社会事業部長になって、マニュアルをつくり変えた。災害医療センターを参考にマニュアル小委員会をつくり約1年かけて改訂した。一番のポイントは、災害時に立ち上がる部署。その部署の責任者が決まっていないと、実際立ち上がってから誰が指示するのかとなるので、指揮命令系統をはっきりさせるため、あえて役職名で名指しにした。どうやって早く立ち上げるか、そのためにマニュアルをつくり、さっさと対応態勢を立ち上げれば、より早く的確に対応できる。だからマニュアルと訓練は非常に重要になる」と解説し、自ら主

講演

東北大学病院総合地域医療教育支援部教授

*講演要旨は、当日の講演内容を弊誌編集担当者の文責においてまとめたものです。

石井 正

東日本大震災時における災害対応経験と次への備え

導した改訂震災マニュアルについて語った。「様々な機会をとらえネットワーク、コネクションをつくった。全国赤十字病院の救護班の教育研修会があり、災害医療のインストラクターの先生方と飲み会などで交流ができた。警察、自衛隊、医師会、DMAT等とコネクションをつくって、『何かあったらよろしく』としておいたほうがいい。そこで石巻地域災害医療実務担当者ネットワーク協議会を震災の1年くらい前に立ち上げ、民間企業を含む様々な組織と災害支援協定を結んだ。それから地域や住民に、『病気になったら赤十字病院ね』といった営業活動、健康祭りなどを行い、地域とのつながりを深めた」と述べ、全国の赤十字病院にとどまらず、民間企業や行政などとの積極的なネットワークづくり、協定の締結を進めたことがたいへん役立ったことを強調した。「石巻赤十字病院は、年に1回の災害訓練とマニュアルのおかげで、発災後4分で災害対策本部を立ち上げレベル3を宣言、トリアージエリアをすぐ立ち上げた。トリアージエリアを設置完了して、被災者対応を開始するまで57分。これは当時としては驚異的なスピードだ」と評価した。

トリアージとは

「トリアージとはどういうものか。通常医療の場

Vol.40 NO.5 (2016) 23 (299)

合は、医療資源が圧倒的に豊富で、順番に診察すれば、それでこと足りる。災害のときには人的、物的な医療資源が同じでも患者が激増する。順番に診療していると、重症者や緊急に対応すべき患者が後回しになってしまう可能性がある。診療をスタートする前に、患者をあらかじめより分けるのがトリアージだ」と述べ、被災地で唯一生き残った大きな病院が、震災発生直後にマニュアルと訓練の効果を発揮し、素早い対応ができたことを強調した。病院におけるトリアージについて、「その医療施設の中で4つのエリアを臨時に立ち上げる。さらにトリアージポスト、関所を設け、ここで患者の状態を見てより分けていく。このより分けを何回もやる。例えばこの緑エリアに分類された被災者が、具合が悪くなったら黄色とか赤色につれていく。あるいは、黄色かなと思ったら、実は歩ける、大丈夫だなと思ったら緑色につれて行く、というふうに何回も何回も繰り返し行うことが重要であり、必ずしも医師でなくてもいい。入院、搬送、全てがトリアージになる。また、人が行ったトリアージに文句を言わないというルールが大事。当時の病院の中では、赤色は救命救急治療、緊急治療部の対応するところ。いますぐ診療しないと命の危ない人に対応する救命救急センター。黄色は、赤十字プラザと呼ばれ、骨折で歩けないとか、少し待てるけれど治療が必要な人のエリア。緑色は、すぐの治療は不要で軽症、歩けるような人に対応するエリア。このエリアはすぐ外に出した。次第に病院が大混雑になったので、外にエアテントを設け、そこで診療するようにした。それから死亡、もしくは助からない人は黒色エリアとした」と、トリアージの重要性や赤十字病院での震災発生後のトリアージエリアの分類とその様子を説明した。

阪神・淡路大震災との違い

「東日本大震災と阪神・淡路大震災は大きく違う。当時、地震のときは1日3000人くると言われていたのが、東日本大震災では初日には99人しかきていない。ずれている。しかも軽症が多い。重

症患者は48時間で118名だけ。津波災害は外傷が少なく低体温で内因性患者が多い。クラッシュ症候群は5.9%しかいなかった。また、阪神・淡路大震災のときは、医療現場の混乱でプリベンタブルデス、防げたかもしれない死、それが500名。うち、クラッシュ症候群が74%。すなわち阪神・淡路大震災は建物倒壊型の災害であった。今回は、津波主体の災害だった。そのプロフィールが全然違う。次の災害が東日本大震災と同じ災害で、同じ対応、同じ準備をしてそれでいいのか。今回はまったく裏をかかれた。阪神・淡路大震災のように思っていたので、そうじゃない災害なんて思ってもみなかった。つまり、次にもし、津波がきたとして、同じ災害になるのか、それはわからない」と述べ、全てが想定外であり、阪神・淡路大震災時の病態の違い、それに伴う対応の違いを解説した。「大きな反省点として、ほかの病院を調べに行かなかった。石巻市立病院に行けたのは3日後の14日。本当はもっと早く行けたはず。療養型の病院も見に行かなかった。寝たきりの人は取り残されて、大変な被害があって、水や食料等がなかった。そういったところを見に行けば、もう少し助けられた命があった。また、石巻市と本当に連携できていたのかという疑念がある。肩を組んで、連携していたのか、いまにして反省している」と述べ、同じ医療圏の他の病院との連携・支援、行政との連携などで助けられた命があったのではないかと悔やんだ。

資料を使って分かりやすく解説

Vol.40 NO.5 (2016) 24 (300)

避難所などでの対応

「震災の発生後、赤十字病院救急部は、紹介状不要で受け入れてくれた。大変ありがたかった。このおかげで、多くの県外救護チームが避難所を回って具合の悪い人を見つけた場合に、赤十字病院につれてきた。当時、赤十字病院の中はごった返していた。病院機能が低下してしまうということで近所の学校の教室を借りて、簡単な医療行為ができる救護所を設け、救護チームを派遣して対応した。4月10日でやめたが3700名くらいはここで吸収してもらった。また、様々な組織と連携して、避難してきた在宅酸素患者、妊婦、透析患者に対応する独自のシステム、ネットワークを立ち上げた。各部署、各部署がその場で知恵を出して対応した。これらのことは全部マニュアルに盛り込んである。寝たきりの人もたくさんいたが、それは後方搬送しないといけない、ということで、東北大学病院に引き受けてもらった」と述べ、震災発生時からの赤十字病院を中心とした診療体制づくりを説明した。「災害医療ブレーンなど本部の機能をどうやって獲得したか。これは災害医療研修会の顔見知りの人たちが1週間交代で来てもらった。また、チームの登録・抹消とか、いろいろな事務が山のようにある。病院の事務でもちろん対応できない。そ

れで日赤本社から、延べ1173名の本部事務支援に来てもらった。地域の医療については石巻を14エリアに分割して、都道府県ごとに救護チームを割り振る『エリアライン制』を敷いた」と述べ、本部機能を充実させる必要性と、膨大な事務量に日赤本社の事務支援があったから乗り切ることができたと説明した。診療圏内に300か所以上あった避難所への対応では、「避難所ごとに食料があるか、トイレがあるか、衛生状態はどうなのか、病気の人がいるのか等、公衆衛生的な項目中心のアセスメントシートをつくった。同じ避難所に行くたびにこのデータを更新してトレンド作成を行った。表にして評価し、トイレはどうする、食料はどうするかなど検討・対応していった。また当時は、下水がなくて衛生状態が非常に悪くなった。半壊した在宅の被災者が数万人もいたので、その人たちにもある程度簡単な治療や投薬をするための救護所をつくった。要介護者対策としては同じようなアセスメントシートをつくった。福祉避難所と呼ばれるリハビリ、お風呂、段ボールベットなどがついている施設を立ち上げ、ここで400名くらいが利用していた。それから災害弱者用。これはお子さんとかお年寄りの人たちで、こんなひどい環境の避難所に暮らしていても治らない。もしインフルエンザが発生したら隔離できないということになって、近隣病院の使っていないフロアを借りて機材とかを持ち込んで避難所化した。アセスメントシートで調べた傷病者の症状としてはせきが一番多い。ゴミ、粉塵の影響だと思われる。マスクを3万枚準備したほか、様々に対応した。結局市内では感染爆発は起きなかったが、これにもっとも貢献したのは行政だった。やっぱり力もお金も権限もあるので、いろいろな対策を実施して、それで収束した」と述べ、避難所の他に救護所、福祉避難所などの施設を立ち上げ、アセスメントシートに基づいた対応を実施する手法を評価した。

東日本大震災での対応経験を話す石井教授

Vol.40 NO.5 (2016) 25 (301)

くすりへの対応

被災者のくすりへの対応について、「自分のくすりやお薬手帳を紛失した人が多く、『いつも飲んでいる薬を下さい』という被災者のニーズが圧倒的に多い。薬だけの人に並んでもらって対面式の処方専用ブースをつくって、対面式で診察した。200名くらい並んでいたように思う。患者の話を聞いて、事務の人が作った昆虫図鑑みたいな医薬品の現物サンプルを見せて同じものかを確認した。避難所での処方薬については、医薬品を配達できるようなシステムを薬剤部の人たちがつくった。メロンパンチームと呼ばれていた。救護チームの作成した引換券つきの処方箋を預かり、病院に戻って袋に詰めて、後日、借りた車で避難所をまわって配達した。5517枚の処方箋を受けて配達した。服薬指導ができて、お薬手帳を再交付して非常に評判はよかったらしい」と述べ、緊急時の医薬品対応について様々な工夫を行ったと説明した。

後方支援とその後の検証

「宮城県での全国からの後方支援が、3633ということになる。オールジャパンであるということが、この数字からわかると思う。その中でもJMATには大変な支援をいただいた。石巻赤十字病院での支援登録は955チーム、そのうち6分の1の158チームはJMATを含む医師会チームだった。しかも、期間が長い。ずーっときてくれる、組織的に。急性期以降の主な救護活動は、患者に寄り添う地域医療に近いので、普段からそのような医療をされているJMATは、大変重要なプレーヤーだと思う。被災者である石巻医師会も石巻高校に救護所を設け8433名の診療を行った」と、特に急性期以降は、普段から患者に寄り添う医療をしているJMATの活躍を評価した。「医師会は医療の顔なので、自らも被災者なのにいろいろな対外的な仕事が増えてしまう。早く自分たちのクリニックをどうにかしたいと考えているのに。個々のクリニックが立ち上がるとそこが

1個の救護所になる。しかも地元に知られており、救護所よりはるかに設備も良くレベルの高い医療が展開できる」と述べ、全国からの医療支援に感謝しつつ、その対応に追われる地元医師会の苦労を語った。「客観性を担保するために、会議議事録、画像などのデータは非常に重要。とくに何時何分に何があったといった時系列データは全て記録しておく。あとで課題、対応の事案を検討するために重要。あとで検証すると、そこらの訓練よりもはるかにインパクトの強い体験になる。次の震災のための資料としても重要。やっぱり情報が大切。これがあって初めて分析して的確な対応がとれる。この情報をどうやってとるか」と情報収集の重要性、各種データの時系列での記録・保存・整理の重要性を説いた。これらを担保する手段の1つとして、「総務省がいま、『大規模災害時の非常用通信手段の在り方に関する研究会』を立ち上げ、災害医療のコアメンバー、通信関係、厚労省、ほかの省庁も参加して議論している。これを夏ごろまでにまとめて、国の標準的な考え方として、きちっと予算をつけて、災害時の救護のキーステーションに通信衛星を整備するようになる」と述べ、研究班の一員として災害時医療での通信手段のあり方研究を進めていることを紹介した。

講演後に行った聴講者との質疑応答