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「莫妄想」無学祖元と北条時宗€¦ · 人間はおしなべて妄想の徒である。だから、その妄想から解き 放たれ、解脱せねばならぬと。同時に、妄想に基づく妄語もまた、十悪、五

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不動心

【第 3章 】

「莫妄想」無学祖元と北条時宗

「莫妄想Jとは、妄想、を捨てすべての迷いを断ち切れという

戒めである。蒙古襲来に対処した、時の執権・北条時宗と彼

の師・無学祖元の工ピソードからこの言葉の真の意昧を探る。

判右ω舜

m

尋ゃ八

詩人、歴史作家。朝日新聞東京本社出版局編集委員。 1935年生まれ。早稲田

大学文学部卒。 71年朝日新聞入社、図書編集室長を経て91年より現職。日本

史上の武人 ・文人 ・宗教者の伝記を数多く執筆、また、江戸時代のmー諮文学

について造詣が深い。 主な著書に、 『太宰治 道化と死~ ~信波路J ~坂本龍馬』

『上杉謙信~ ~風よ軍師よ落日よ』 、詩集に 『領事館の虫』 などがある。趣味は

登山。

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森鴎外の『妄想』ぽそどういっ ふんしゅうむごう

唐時代の馬祖道一〈註 1>禅師の門下に扮州無業という人がいた。

この禅師は、生涯、 だれに、 なにをたずねられても、まくもうぞう

ただ一言「莫妄想」

とだけこたえたと 『景徳伝灯録J<註2>第 8に記されている。

妄想するなかれ一一。

妄想とは、 一般には、ありえないこと、根拠のないことをみだりにかんが

えることをいう。念のために広辞苑をヲ|いてみると 「病的原因に基づいた、

事態に関する誤った判断・信仰・確信などをいう」 とある。

ただし、 わたしたちの周辺には、 自分の思想や意見を妄想、妄語などと謙

遜する習わしがあり、森鴎外にも『妄想』 と題した作品がある。 亡くなる10

年ほどまえに書いたもので、 20代のドイツ留学のころから50歳にいたるまで

の精神の初佳一一自我について、 あるいは、時間と生、生と死、死と科学

等々 、 人生の大テーマをまえに苦悩した鴎外の、 いうなれば精神の履歴書と

もいうべき貴重な文章だが、西欧的合理主義を身につけた鴎外にしてなお、

その文章を「妄想」と題し、「書き棄てた反古」 と表現している。

そのなかで鴎外は、若いころの学問一途の生活に、 こんな疑問を感じたと

記している。むち

「生れてから今日まで、 自分は何をしているか。始終何物かに策うたれ駆ら

れているように学問ということに益説している。/併し自分のしている事

は、役者が舞台へ出て或る役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。 そ

の勤めている役の背後に、 71IJに何物かが存在していなくてはならないように

感ぜられる」

〈註 1>709-880 四川省出身。中国禅の実質的な創始者で、門下8∞人といわれる。祖慧能の弟子懐譲の法

を継いだ。「即心成仏J(心ニそが仏である)r平常心是道J(あたりまえの心が道に通じる)などの禅語で有名。

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「莫妄想」無学祖元と北条時宗

つまり、将来にそなえて学問しているつもりなのだが、人生には、なにか

もっとたいせつなものがあるようにおもえてならない。

そこで、こうもかんカfえる。

「ちょっと舞台から降りて、静かに自分というものを考えてみたい、背後の

何物かの面目を覗いて見たい/この役が即ち生だとは考えられない。背後に

ある或る物が真の生ではあるまいかJと。

終章ちかくには、「若い時には、この死という目的地に達するまでに、自

分の眼前に横たわっている謎を解きたいと、痛切に感じたことがある。その

感じが次第に痛切で、なくなった。次第に薄らいだ。解けずに横たわっている

謎が見えないのではない。見えている謎を解くべきものだとおもわないので

もない。それを解こうとして、あせらなくなったのである」と書き、「最早

幾何もなくなっている生涯の残余を、見果てぬ夢の心持ちで、死を恐れず、

死にあこがれずに」……やがて訪れるであろうおのれの死を、こころのまま

に受容しようと、老年の心境をのべている。

ここには、現実の死のまえには、若いころのさまざまの思念など、所詮は

妄想にすぎないとの鴎外の苦い逆説がこめられているようにもおもわれる。

そういえば、鴎外はかつて人にこんなふうに語ったことがあるという。

「死ぬるまでは生きているし、生きている以上その日の生活に追われるの

で、進んで社会を革新することも、退いて沈黙することもできないで、結局

何の理想も目的もなく、死ぬる日を待つ。死刑を宣告された囚人が刑の執行

日を独房で待っているような生存を続けているのだ」と。

あがな

キリストを騰った正宗白鳥

仏教では、妄想をこころの迷いから生じる正しくないかんがえだとして、げだっ もろもろ しゅUょう

それからの解脱を説く。「諸々の衆生は、妄想の夢いまだ覚めずJ<W往生要

集j<註3>)。人間はおしなべて妄想の徒である。だから、その妄想から解き

放たれ、解脱せねばならぬと。同時に、妄想に基づく妄語もまた、十悪、五

〈註 2>宋の景徳 l年 (1∞4)、承天道原が1701人の禅者の問答を編纂した禅問答集で、禅宗の基本古典籍

のひとつである。

〈註3>永観3年 (985)、源信(恵心僧都)撰の仏教学書。念仏の大切さを説き、信仰だけでなく、平安・

鎌倉期の文学・美術・思想上にも大きな影響をあたえた。

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戒のひとつとして、きびしく戒めるのである。

わたしたち党長(聖者でない俗人)は煩悩によってこころが曇っているの

で、おもうことすべてが妄想になる。つまり、邪念をいだくことになる。だ

から、禅では、まず、こころのはたらきを放棄せよ、と説くのである。

人聞は生まれおちたときから、いやおうなしに、個我の意識にとらわれ、

さまざまの迷いをいだいて生きている。ひとりのときは孤独感にさいなま

れ、集団にはいればはいったで、他人の言動に神経をすりへらし、あること

ないこと、あれこれとおもい悩む。つまり、妄想する。ことに、病気や怪

我、仕事上の挫折といった逆境におかれたとき、人は一段とやっかいな妄想

にとらわれるものだ。

鴎外は陸軍軍医をしていた30代後半、九州小倉に数年ほどとばされて不遇

をかこった時期がある。若いときからエリートコースをあるいてきただけ

に、鴎外はいたく傷つき、一時は辞官しようとさえおもったらしい。つま

り、はげしい妄想のなかで苦悩した。

しかし、そこは鴎外である。かれにとっては島流しにも等しい歳月を、脚気

の病原の研究や、フランス語の習得に活かし、さらには多くの仏典を学ぶこと

についやした。賢明に妄想を超克し逆境をプラスに転じた好例といってよい。

わたしも30歳なかばのころ、病気をして失業したことがある。からだはう

ごかないし、妻子をかかえて、いくばくの蓄えもない。鴎外とちがって、一

介の凡愚にすぎないわたしは、ただただこころぽそかった。

現在とちがい、仕事のない時代である。失業した友人たちがみなそうした

ように、わたしもまた職をもとめて知り合いを訪ねたいおもいに駆られた。

が、ものはしげな自分の顔と知人の困惑顔をおもいうかべて、土壇場で踏み

とどまった。そして、おもいついたのが断食である。卑しい振る舞いをしな

いためには、人聞の五欲のうち、もっともおさえがたい食欲を断ってみて、

それができるかどうかを試してみよう。もし、その試みに耐えられなかった

ら、そのときは見栄も恥もすてて友人を頼ろうと。

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「莫妄想J無学祖元と北条時宗

畳ひたすら空腹と闘う ことで、10日間ほど自宅で自己流の断食を断行し、

つ夜になるとい けない。か‘、聞はなんとか妄想をおさえこむことができた。

宇品昼間の無理なjJII制の反動も 加わ って、その夢が、眠れば夢をみる。まり、

きびしい現実とは反対たとえば、ことに妄想に満 ち満ちたものにな った。

そのなかには現金書留がまポス トいっぱいに友人か らの手紙があふれ、

人に頼りたい、甘えたいといとい ったたわいもない夢である。じっている、

なんと卑小この 5尺の身の、夢のなかにながれこんだものだ。う気 もちが、

とつ くづ く恥 じ入ったことであった。にして救いがたきものか、

すこし理屈っぽくなるが一一。

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JV」友、戸りた+

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事」

一」+品で教ー

ム24』 品識、舌識、

さらに、意識がそれである。識、

五イRの意識は五官によ って直接的にはたらく作用をいい、独頭の意識とは、

夢とかたとえば、五官と は直接かかわりな くはた らく こころの作用をさす。

3己憶、想像、 ↑吾りなどがそれにあたる。

妄想がおもいののなかで、この夢 (夢中意識という)わたしのばあいは、

ままに跳 梁 肱麗 したわけだ。 死ぬ しこの妄想を完全にとどめるためには、

人間にとってもっ不安こそが、その死にたいする恐怖、ところが、かない。

とも大きな妄想、の対象なのだから救われない。

普通人以上におそれているで「私は自分の死を恐れている。正宗白鳥は、

と死への恐れを 素直に告白するとともあろう J<W死に対する恐怖と不安J)

が、死を直前にして キリ ス ト自我に こだわ って宗教を忌避しつづけた。

教に逃げこんだ。「キ リス トは最後には雌鶏がヒナをかばうように自分をふ

死のいかにも白鳥 らしく、という i皿由からである。あカtな

恐怖を免れるためにキ リス トを照 ったのだ。

ところに入れてくれる」

ときむね む がくそげん

北条時宗と無学祖元

生 き物であるかぎり避け死を恐れる ことから生 じる妄想をいかに克服し、

〈註 4)1749-1823。幕臣。江戸後期の狂歌師・戯作者。大田南畝・四方赤良な どの名でも知られる。酒落

本、 滑稽本に瓢逸で誼刺のきいた才筆 をふるった。

〈註 5)親驚の弟子唯円(筆者については諸説がある)が、師の没後、異端の教義がなされるのを嘆き、親

驚 ・法然の法語を目|いてイ也力信仰の本意を説いた書。

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ることのできぬ死を、いかに受容するか 。そこで、人ははじめて、いか

に生きるかということをかんがえはじめる。要するに、人は日ごろ死のこと

など忘れている。他人ごとにおもっている。萄山人〈註 4>の狂歌に、こう

ある。

今までは人のことかと思ひしに 俺の番とはこいつあ堪らん

自分の死がまち、かになって、人はにわかにあわてるのだ。死の瞬間までの

時間をどう恐怖と闘って生きていくか。ほとんどのばあい、白鳥同様に最後

は宗教に助けをもとめる。

人が死を意識し、死とまともにむきあうのは、病気、事故、貧困、そして

戦争などであろう。さいわいに現代の日本は貧困と戦争からはなんとか免れたんにしよう はU のう

ているが、青年たちが『歎異抄j<註5>や禅書を背嚢にひそませて戦地へで、

かけていったのは、つい50年まえのことだ。

戦乱や飢鐘がっつ守いた時代には、現代よりもより切実に宗教がもとめられた。ぴょうどう

奈良、平安時代、廟堂にあって徒食し、権力争いに明け暮れた貴族たちほふ

にとっては、陰謀や闇討ちによって屠り去った政敵の怨念を鎮め、おのれの

現世の安心をえるためには、真言、天台など密教の護産皆、足〈註 6>にたよ

れば、それでことがすんだ。さらには、浄土教の念仏で、おのれ竺i丈の来世じようぷつ

の成仏が保証されれば、いうことはなかった。

ところが、武士が天下の権をにぎった鎌倉時代になると、武士は他人に殺

裁をまかせるのではなく、自分自身が日々自他の死と直接対決しなくてはな

らない。戦闘を専業として、死とむきあわせに緊張の毎日を生きる武士に

は、単なる密教的呪いや念仏による安堵だけでなく、生から死にむかつて

果敢に突入していくためのこころのよりどころとなる教えがほしい。受け身

の信仰ではない、よりポジティブで、アグレッシブな宗教が。

そこで、鎌倉H寺代にはいると、武士のあいだに禅宗を信仰する者がふえて

きた。日々きぴしく心身を鍛練する実践的な禅に、武士たちは死の恐怖心に

うち勝ち、敵と立ちむかうための不動心をもとめたのであったろう。

〈註 6>護摩はサンスクリッ卜語 homeの音写。バラモン教の火の供儀が密教にとりいれられたもので、

不動・愛染明王などを本尊に護摩壇を設け、乳木、段木を積んで燃やし、火中に五穀、五香、香j由を投じて祈願成就をねがう儀式。

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無学祖元。1226-860 宋代、 l折江

省出身。北条l時宗に招かれて、弘

安 3"F-(1280)来日。FI)'ti:寺の附

山上人となり、 EI 本臨済担j\に ~;t~~~Wをあたえた。(写真は阿党寺j桜の

木i集)

「莫妄想j無学祖元と北条時宗

ことに、部下を指揮し統率する上級武士の聞に参禅する者が多かったの

は、質素を尊び、きびしい規律のもとに日々身を修する禅に、学ぶものが多

かったからかもしれない。ときむね

弘安 4年(1281)正月、鎌倉幕府第 8代執権の北条時宗は、建長寺に師の(Jが〈 そ げん

無学祖元を訪ねた。

時宗と対座した無学は、だまって筆をとると、紙片に 3文字を記し時宗に

示 した。ま(Itんのう

「莫煩悩」

とあった。

煩悩とは、妄想と同様、人聞の心身を乱し悩ませて正しい判断をさまたげ

るこころのはたらきで、その煩悩の元となるのは、三不善恨とか、三毒とかい 〈・ち

よばれる貧欲、順書、(怒り)、思痴(無知)の 3つとされる。除夜の鐘が百

〈註 7>元窓、豪古襲来ともいわれる。文永11年(1274) と弘安 4年(1281)、元の大軍が北九州に来攻、

2度とも大嵐に遭い撤退した。

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八煩悩を消すために108回撞かれることからも知られるとおり、人聞の悩み

の種は多い。

したがって、「莫煩悩」は「莫妄想」とおなじく、いたずらにおもいわず

らうなかれ、という意味である。師に手わたされた 3文字を拝した時宗は釈

然として、その意をさとったという。

禅機による不動心の悟得の好例として、古くからしばしば引用されてきた

有名なエピソードだ。ただし、この話は無学の語録、行状録などにはのって

いないといわれる。

一説には、時宗がその意味をよく解さなかったので、無学は、さらに、

「春秋の問、博多騒擾せん。しかるに、一風にわかにおこり、万艦掃蕩せ

ん。願わくは公、慮となさざれ」

つまり、年内には蒙古(元)が博多に来襲するだろうが、大風が敵艦を吹

きはらうであろうから、あなたはなにもこころをt頁わすことはない、といっ

たという。

文永の役〈註7>につづいて、またも神風が吹くと予言したあたり、いか

にも弘安の役〈註7>の結果をみた後につけ加えられた話のようにおもわれ

る。すでに、少年時から禅学を修めていた時宗に、「莫煩悩」の意味が読み

とれなかったというのも不自然である。やはり、ここは、「莫煩悩」の 3字

から、時宗はすべてを理解したとおもいたい。

善もおもうな、悪もおもうな

この年、時宗は再度の蒙古の襲来をまえに心労の毎日をおくっていた。

最初の襲来は、時宗が執権職を継いでから 6年目の文永11年(1274) の秋

のことだった。このときは、おりからの大風で蒙古の軍船の多くが転覆沈没

し、蒙古軍は大挙上陸することもなく撤退した。が、それからの 7年間、日

本侵攻をあきらめない蒙古は、しばしば降伏勧告の使いをおくってきた。

時宗はことごとく使者を斬り、断固抗戦の決意のほどを示すとともに、西

〈註8>仏の教えや功徳をたたえる詩句。禅僧の悟境を詩の体裁で述べたものを指す。

〈註9> 638~713。広東省出身。中国禅の第 6 祖であ町、南宋禅の始祖である。弘忍に師事し、「本来無ー物」の偶を吐いてi去を継いだ。

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北条時宗。1251-84。鎌倉幕府 9

代十JLtffi。文ik・弘安の役を防衛。

円覚寺をf:IJ建。

「莫妄想」無学祖元と北条時宗

国の将士に命じて海岸線の防備をかためさせた。万一、西方の護りがやぶら

れたばあいには、東国の将兵をくりだ して防御し、朝廷を鎌倉の府に選す計

画も立てた。あわせて、朝廷とともに諸寺社に敵国降伏の祈轄をおこなわ

せ、 みずからも、円覚経、金剛経、般若経を書写 して、無学のもとにとど け

祈願をたのみもした。すペ

まずは執権として、かんがえられるかぎりの術はつくしたつもりである。

それでもなお、これ以上なすべきことはないのか……なんとも 気 もちが落ち

つかない。

無学は 2年まえ、H寺宗がみずから宋に使者をおくっ て招いた南宋禅の高師

であ る。明州慶元府に生まれ、 時宗とおなじく 13歳のとき父を亡く していきんざん

る。その後、杭リート|の浄慈寺におもむいて出家 し、 翌年には、径山の仏鑑禅師ぷしゅんしぽん

無準師範のもとで修行にはいった。

〈註10>教説のほかに体裁によってべつに伝えるもの (教外別伝) こそ禅の神髄であ旬 、文字をはなれ、ひ

たすら坐縛することで悟りがえられる とする衝の定義。

〈註11>文字どおり 、 こころをもってこころを伝えるの意。真理は文字によらず体験によって伝えられると

する禅の定義。俗に、胸の内は自然に伝わるという意味にっかわれる。

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うんしゅうがんとうさんのう

やがて、蒙古軍が南宋に侵攻したため、~!張学は難をさけて温州雁蕩山能に んじ

任寺に寓したが、ほどなく、そこにも蒙古兵が侵入してきた。寺僧はみな逃

げだした。が、祖元のみ、ひとり堂内で坐禅をつづけていた。

「生意気な坊主め」

蒙古の兵は抜き身を祖元の喉元につきつけておどしたが、祖元は微量t}Jだに

せず、一偶を吐いた。けんこん こきょう た

乾揮孤節を卓つるの地なし

しばらく喜ぶ人空にして法も空なりと

珍重す大元三尺の剣

電光影裡春風を斬る

蒙古の兵に偶〈註8>の真意などわかろうはずもなかったが、「ふりかざさ

れた剣も生死を超えた者には稲光のあいだに春風を斬るようなものだ」と 11品

破し、自若としている無学の威厳に気おされたのか、そのままおとなしく刀

をヲlいて立ち去ったという。

この挿話からも無学の肝のすわりぐあいがわかる。豪胆ではあったが、 ~!I.ri

学は性格は温Wiそのもので情にも厚く、同|叫の者にしたわれ、いよいよ日本

渡航がきまると、弟子たちは泣いて引きとめようとしたという。

来朝した無学を 11寺宗は建長寺にむかえて、熱心に教えを請うた。

無学は俗念をはらった禅僧ではあるが、その IULには漢民族の誇りがある。いてき

国を奪った夷秋蒙古にたいして、ぬきがたい敵対心があっただろう。蒙古襲

来をまえに苦悩する 11寺宗とかわす法語にも、おのずから熱がこもった。

蒙古軍の襲来をまえにして、時宗は幕府の最高責任者として、つよい不安

にとらわれている。ことばにはださぬまでも、

「老師、わたしは、これでよいのか。まだ、なすべきことがあるのではない

か。なにか助青していただけることはないか」

と、その顔が問うている。

で、無学は、まず執権時宗という自己認識をすてよ なにをどうすべきか

〈註12>629~700。白維 4 年 (653) 入唐。法相教学を学び、多くの教典を持ち帰る。全国で土木事業を興し、遺言により日本初の火葬に付された。

〈註13)1239~56o 3代将軍実朝で源家の血が絶えたあと、摂家九条家から鎌倉幕府 4代将軍に入った頼経

の子。幼くして 5代将軍を継いだが、幕府転覆の陰謀に本家九条家が関わったことの嫌疑から、♂

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「莫妄想J無学祖元と北条時宗

と、いつまでもくよくょするな、そういう迷いのすべてを断ち切れ、と諭し

たのである。えのう

中国禅の中興の祖とされる慧能〈註9>は「善もおもうな、悪もおもうな」

といった。わるいことはもちろんのこと、よいこともおもうな、というので

ある。禅においては、善と悪、真理と誤謬、迷いと悟りといったことをおも

うこと自体が妄想なのだ。

ものごとを、あれかこれかとおもうこと、その自己という我にもとづく想

念を断ち切らないかぎり、迷いから解きはなたれることはないーーと。

このあたりまでは、通俗人であるわたしたちにも、なんとなくわかるよう

な気がする。ところが、禅では、さらに、なにもおもわないこともまた妄想

になる、というのである。なにもおもわないことでおちいる妄想、これもま

た断ち切っていかねばならない。

このあたりに一筋縄ではいかぬ禅のむずかしさ、奥ぷかさがあるらしい。ふりゅうもん U

くわしい解釈を加えてほしいところだが、なにしろ禅の根本は不立文字〈註

10>、以心伝心〈註11>にある。文字やことばでつたえられるものではなく、

みずから体験し、そのなかからこたえをみつけるしかない。無学の時宗にた

いする戒語も、まさにこのあたりの呼吸である。

蒙古軍が襲来したとの報をうけたとき、時宗はただちに無学のもとに参じて、

「ただいま大事到来せり」

と告げた。無学が、

「汝、いかに」

一一どのように対処するか、と問うと、時宗はただ一言、「喝」ときげん

だという。

唱というのは禅門で、師が修行者を叱時激励したりするときに大声で発す

る「カーッ」という音のことで、さまざまにつかわれ、これというきまった

意味があるわけではない。

時宗は、無学の「莫煩・悩」を念頭にすえたうえで、あらゆる煩悩をふりす

建長4年 (1252)、将軍の座を追われた。

〈註14>1242-74.後嵯峨天皇の皇子。建長4年、追放された頼嗣のあと 6代将軍となったが、文永 3年

(1266)、謀叛の疑いありとして将軍職を奪われた。

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て、 ただ難局に立ちむかうのみ、 という決意を「唱」 の一音にこめたのであ

ろう。

北条時頼と「鉢木」

禅宗は古く白鳳時代から日本につたえられている。入唐僧道昭〈註12>げんじようさんぞう

は、 あの 『西遊記Jで知 l られる玄英三蔵の制jめで十1~ を学んで帰国し、 天干il

天皇元年 (662)、禅院を創立した。

日本天台宗の始祖最澄 (767-822)、真言宗の|刑判l空海 (774-835) も唐

の禅をもちかえり、教学のなかに加えた。 しかし、 なかなか定着せず、 一般

にも、 その教義のむずかしさのゆえか、 あるいは、 j去のきびしさのためか、

容易にうけいれられず、盛んになったのは鎌倉時代にはいってからである。みんなんようさ H

1~&1 i斉禅の日本における|刑祖となった明庵栄四(1141-1215) は、 二度にわ'っそう きあんえしよう

たって入宋し、中国臨済宗の虚庵懐倣について神を修行、帰国後、 勇躍布教

にかかったカペ 天台、真言など既成宗門のはげしい抑圧をうけた。

これをむかえいれたのが、 開府まもない鎌倉幕府で、将軍源頼朝夫人の北

条政子は栄西を閉山上人に請じて寿福寺を開創し、 ふかくリ最依;した。 2代将

軍頼家も栄西のために京都に建仁寺を創建し、 3代将軍実朝もまた、栄西を

ふかく尊崇した。健康のすぐれぬ実朝に、栄西が1111五からもちかえった茶を

献上し、 『喫茶養生日己Jを献じた話はひろく長I1られるところである。

この栄西以来の臨済禅が、鎌倉武士、 ことに上級武士のあいだに かなり

の数の信者を生んだことはすで、に触れた。 ただ、 まだ僧たちが武士のために

祈祷をおこなっていたことからも推察されるとおり、純粋禅としてではな

あくまで天台・真言密の一部としてであった。

本格的な仁11国禅が導入されたのは、鎌倉幕府 5代執権北条 H寺頼

(1227 -63) のときといってよい。

時頼は、幕政の確立と北条氏の執権独裁体制づくりにつとめた練腕家だっぜんに

た。母は兼好法師の 『徒然草』にも書かれている松下禅尼である。障子の切

〈註15>1163-12280 宋代、濁江省出身。若くして諸山を遊歴し、 1224年より天童山徳禅寺に住む。名利を

超越し、只管打坐に徹する峻厳な禅風は、弟子の道元をとおして日本の曹洞禅に継承された。

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「莫妄想j無学祖元と北条時宗

り張りをして、時頼に節倹の精神を教えたという女性だ。簡素節倹は禅の精

神そのものである。時頼が味噌をなめながら家臣と酒を酌みかわしたという

話は、おそらく事実であったろう。はちのき

能「鉢木Jは、 30歳で出家した時頼が、 一介の旅僧に身をやっして諸国を

めぐり、下々の声をじかにきいて政治に活かそうとしたという筋立てになっ

ている。 こちらのほうは事実かどうかうたがわしいが、 まぎれもない幕府中

心の専制政治家だった時頼が、 いっぽうで下級武士や庶民の声を政治に活か

し、 いわゆる慈民政策をとろうとしたことはたしかで、 その発想のうらに、

なにがしかの禅の影響をみてとることもできょう。

H寺頼は執権職をついだとき弱冠19歳だったが、就任早々、 かれを除こうと

する陰謀事件に直面し、その後も、つねに反対勢力の謀叛におびやかされつよりつく' むねたか

づけた。 その問、将軍頼嗣〈註13>を更迭して宗尊親王〈註14>をむかえると

いう荒療治もやった。世のなかは乱れ、南都北嶺の僧徒は戒律をやより、酒

色におぼれ、 しばしば強訴におよぶ。いっぽうに、飢餓にあえぐ多くの民衆

がいる。

一人間としても執権職としても、 -11寺とてこころの休まることのない毎

日、 H寺車員のこころは、 おのずから宗教に傾斜していった。鶴岡八幡宮をはじねんご

め、諸所の神社、仏閣に懇ろに寄進し、 ついには陰陽道にまで関心を示して

いる。死ぬ前年の弘長 2年 (1262) には、戒律の厳守を説き、貧民、病者のしえんえ U ぞん

救済につとめて、京畿で名声の高かった律宗西大寺の老僧忠円叡尊てLるちょう

(1201-90) を鄭重に鎌倉にむかえ、 みずから授戒した。

しかし、時頼がもっとも熱心に帰依したのは、やはり禅宗だった。そうとう どう

このころ、げん

宋から純粋禅をもちかえった気鋭の禅僧がいた。曹ili,J禅の祖道

元(1200-53) である。栄西|叶1'"1明全の弟子だった道元希玄は、 貞応、 2年によじよう

(1223) に波宋して、 天童山の長翁立11i争〈註15>のもとで学び、帰国後は京

で道場をひらいたが、栄西同様に天台、真言の迫害をうけたために、越前の

大仏寺に道場をうつして専修坐禅を布教していた。

〈註16>? -530。禅宗の開祖。南インドの王子で、中国梁の武帝に迎えられたが、問答が噛み合わず北鶏

に去って崇山少林寺で面壁、慧可に正法眼蔵(悟町の真実)を伝えられたとされる。来日して聖徳

太子と会ったとの伝説もあり、達磨人形として親しまれている。

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時頼は、この道元につよい関心をいだき、宝治元年(1247)、鎌倉に招鴨

して、みずから菩薩戒をうけた。が、たがいになじまないところがあったら

しく、やがて道元は鎌倉をで・て越前にもどっていった。道元はただ師如浄の

「権門に近づくなかれjという教えに、忠実にしたがったまでのことであっ

たかもしれない。

始祖達磨く註16>以来、禅は権力や大伽藍をもっともきびしく拒絶した宗

門のはずである。しかし、 じっさいには権力者の庇護なしには布教も宗門拡

大もはかれず、現実はその後の禅寺、禅僧のありょうが証明するとおりである。

それはともかく一一。禅の魅力に眼をひらかれた時頼は、建長元年らんけ凶どうりゅう

(1249)、宋からのj度来僧蘭渓道隆〈註17>を招いて建長寺を建立し、閉山導むみようえしよう

師とした。 I品i渓は樹の人で、臨済宗松原派の担l松原崇識の直弟子無明慧性の

門下である。前渓は宝治元年に来朝し、鎌倉の寿福寺に身を寄せていたとこ

ろを、やがて時頼の帰依をうけることになったのである。

i品j渓は建長寺にあって、きびしく坐禅の作法とそのたいせつきを説き、多

くの弟子を育てた。 H寺頼は、この蘭渓からふかい影響をうけた。つづいて、ごったんふねい

時頼は、元の侵入から逃れて博多にきていた正庵普寧〈註18>を鎌倉に招い

て参禅することで、さらに臨済禅への帰依心を深めた。

そのうち、 H寺頼は帰朝した禅僧のあいだで評判の高い宋憎の大休_TE念〈註

19>をみずからの子で招請することをおもいたち、使者を派した。しかし、はやりやま H

正念が米朝するまえの弘長 3年、 35歳の若さで急死した。流行病にかかっあづまかがみ ピょう

たのだという。『吾妻鏡.1<註20>は、時頼の最期の様子を、「袈裟を掛け縄しよう

床にのぼって坐禅をし、いささかの動揺の気なく、偶をとなえて大往生し

た」と記している。時頼は、最後は忠実な禅徒として逝ったのである。

仏を殺せ祖を殺せ

時宗は18歳で執権となった。父時頼の時代と事態はすこしもかわっていな

い。幕府内は大揺れに揺れている。時宗もまた、幼少時から大人の世界のす

〈註17>1213~78。四川|省出身。純一の宋朝禅を広め、日本臨済禅の基礎を築いた。大覚禅師という禅師号は勅訟の第 1号である。

〈註18>1197~? 。道隆とおなじ四川l省の出身。無準師範について大悟し天童山の第一座につく。ついで霊巌寺に住す。日本僧の道友に招かれ、文応元年(1260)来日、建長寺に招かれ北条時頼の帰依を♂

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「莫妄想」無学祖元と北条時宗

さまじい権力闘争にもまれて育った。

2年まえには、将軍職をめぐる争いにまきこまれ、将軍宗尊親王の手の者

にあやうく殺されそうになったこともあった。尋常の神経では、この世の修

羅場をとうてい乗りきれそうもない。おのずから、父とおなじように禅にこ

ころの安定をもとめて、老師i踊渓のもとで参禅するようになった。

文永 6年(1269)、時頼が相時した正念がようやく来朝した。 H寺宗は、と

びっくように正念をむかえた。神興寺1t持にすえて親しく法語をきき、師と

仰いだ。が、正念はあえてみずからnl!iになろうとはしなかった。

こんな逸話がのこっている。

あるとき、時宗は大休和向にたずねた。

「すでにこれ冬扇子、放下すなわち是か、欣下せざるすなわち是か」

禅師に扇子をお贈りしたいとおもったのですが、すでに冬であります。す

てたほうがよいものか、それとも、やはりすてないでお贈りしたほうがよい

ものか、迷っております。

正念はこたえた。

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11」

か底さ

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じゃくえさつ 1/ん あ しそうにょう

禅とは、まこと冷厳そのもの。普点l喫飯、病原送尿〈註21>の日常生活がさむ

そのまま禅であり、きびしい作務〈註22>、11il答く註23>によって心地を練る。

解脱のためには、仏を殺せ祖を殺せ、といってはばからない。俗情とはもっ

ともとおい世界だ。

時宗は、その冷厳な禅の世界に身をおいて日々苦悩し格闘し、なんとか、

そのなかから不動の境地をえて、現実の難局に処していこうとした。

弘安元年(1278)、蘭渓が66歳で没すると、時宗はその後継者を宋にもと

めた。そして、来朝したのが無学祖元である。

弘安 4年 6月の蒙古軍の再度の襲米は、無学禅師の予言どおりというべき

か、またしても大風雨が海上の蒙古車を襲い壊滅させた。

うけたが、 3年後、時頼が没すると帰宋した。

〈註19>1215~ 1289。温州永嘉県生まれ。文永6年 (1269)来日、道隆の客として建長寺に入る。禅興寺の主

となり、以後、建長寺、寿福寺、円覚寺を転住、晩年は寿福寺の蔵六庵に住んだ。訟号は仏j原禅師。

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時宗が妄想、煩悩するまでもなく、人知のおよばぬ天理のまえに、最大の

困難は去ったのであった。

弘安の役がおわるとまもなく、無学が帰国したいといいはじめた。無学は

宋をはなれるとき、弟弟子たちに、 r3年もたてばもどる」といいおいてで

てきたいきさつもある。時宗が蒙古の来志をクリアできたのを機会に、帰国

の念がつよくなったらしい。

時宗は、こころをつくして慰留した。

「こたぴの弘安の役で多くの彼我の将兵が命を落としました。その菩提を弔

うためにー寺を建立したく存じます。ついては、老師にぜひとも、その寺の

開山供養をおねがいしなくてはなりませぬJ

懸命に口説いた。そうして建立したのが円覚寺である。ただし、すべての

伽藍が完成するまえに、時宗は弘安 7年春、急に病を発して34歳の若さで卒

去している。法語に「了々として偶を書して長行す」とあるから、時頼同様

に遺偶をのこし、禅の信仰者として他界したことがわかる。

この時頼、時宗父子に見られるように、禅は鎌倉幕府の実力者たちとつよく

むすびっくことで日本の風土に根をおろし、次第に信者の数をふやしていく。たかとき たかすけ

時は下って、 14代執権北条高時の執事長崎高資の子に高重という勇士がい

た。高時が暗J也のせいもあって、このころ鎌倉幕府の信望は地に落ち、元弘

3年 (1333)、鎌倉は新田義貞の軍に攻められるところとなった。高時の命

をうけ、高重は幕府軍をひきいて数十度にわたり迎撃につとめたが、幕府軍

の志気ふるわず連戦連敗、ついに最後の出撃のときをむかえた。

高重は建長寺住持の南山士雲禅師に問うた。

「士は、このようなときどのように振る舞うべきか」

と。士雲はこたえた。すいもう

rl次毛〈註24)を烈しくふりかざし進んで戦うことあるのみJ

なにもおもうな、剣をとって、目前の敵に突っこんでいくのみ、というの

だ‘った。

〈鼓20>r東鑑Jとも書く。治承 4年 (1180)-文永 3年 (1266) にいたる鎌倉幕府の事績を編年体、日記

体で記した全52巻の史書で、鎌倉時代の政治・社会史研究の根本史料。

〈註21>着物をまとい、飯を食べ、排池する一一何らかわったこともない日常のことをいう。

〈註22)掃除洗濯、畑仕事など肉体労働のことで、禅では、共同で作業することを、もっとも重要な修行♂

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「莫妄想j無学祖元と北条時宗

高重はふかく感ずるところがあったのか、土雲にふかぶかと感謝のー礼を

して勇躍出陣していったという 。『太平記jに記されたー挿話で、禅が武士

に、実戦にあたっての決然たる 勇気をあたえた例証といってよいが、ただ、

物語に意味ありげに描かれたとおりに、はたして高重が生死の境を超えた不

動心を得て出撃したのかどうかはわからない。

北条政権の崩壊後、後醍酬l天皇 (1288-1339)をたすけて足利尊氏 (1305

-58)の軍と戦った楠木正成(1294-1336) も湊川の合戦の前日、摂津広巌

寺開山の楚俊禅師に教えを請うた。

「生と死のおもいを断つには、どのようにすればよろしいか」よ すさま

「両頭を裁断すれば一剣天に{寄って寒 じ」

というのが楚俊のこたえだ った。生 と死の両方のおもいを断てば生死を超

克できる、と。

士雲のこたえも楚俊の戒語も、無学の「莫煩悩Jとおなじく、なにもおも

うな、生死の境をわすれて、ただ前進せよ、というものだった。

この、いわくいいがたい禅機を短絡的に悪用したのが、さきの大戦におけ

る日本帝国陸海軍であ ったが・・

それはともかく、おもえば、死地に馳せむかう戦闘者にとって、この覚悟

以外にいったい、なにがあるであろうか。

生への執着、死への恐怖を一転、敵に立ちむかう 勇気にスイ ッチさせる。

禅は、その一瞬のために、日々こころを修して生きよ、と教えているのだ。せっ しょ

人生の切所に臨んで、決意一番、 生から死へ跳躍する。跳躍することで死か

ら生への道を見いだす、その l枚の踏切板のために、武士はひたすら坐禅えさおうしゅうけん

し、心地を練る。戦国時代、禅僧益翁宗 謙のもとに参じて禅を修した越後

の上杉謙信〈註25>が、合戦のたびに口にしたという「死中、 生あり Jの精

神がそれであったろう。

剣禅一致、ということばがある。

たしかに、 3尺の得物を もっ ていのちのやりとりをする剣の世界は、禅の

と位置づけている。

〈註23>仏法修行者(学人)と指導者(師家)がかわす教義問答のこと。仏教はもともと問答形式で布教さ

れたが、中唐以後、禅宗において盛んとなり、日本でも鎌倉以後、一休宗純の頓智日出で知られるよ

うに機知を競う禅問答として流行した。

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境と相通じるものがある。幕末維新の動乱に特異のはたらきをした勝海舟じきしんかげりゅう

〈註26>は直心影流の名手といわれたが、かれの剣の師島田虎之助〈註27>は、

「剣の奥意をきわめるためには、まず禅学をやるのがいい。それがいちばん

の早道だよ」

と勧めたという。

海舟の維新後の自慢話めいたおしゃべりは閉口だが、生涯、ついに剣をぬ

くことなく幾多の危難を切りぬけた事実には素直に感服せざるをえない。お

そらく、勝は禅を修することで、生死のあわいを無心に往来する妙諦のよう

なものをつかんだのではなかったか。

良寛は悟っていたか

良寛についてテレビ局のインタビューをうけたことがある。

あの、無心に子どもたちと笹っきに興じ、「死ぬ時節には死ぬがよく候」

と達観して死んでいったとされる良寛についてである。

「良寛は、いつ悟りをひらいたとおもいますか」

たずねられて、

「おそらく、一生、悟ったなどとはおもっていなかったでしょうね」

こたえると、インタピュアーは、わたしのこたえに失望したらしく、早々

にインタビューをうちきった。

良寛は悟っていたか、悟っていなかったか。

如実知自心一ーものごとをありのままに洞察し真理をえること、それが悟

りである、とは「大日経J<註28>に説くところである。その意味からすれ

ば、良寛の一見、瓢々とした無心放下に似た生き方は、悟りのすがたそのも

のとおもえなくもない。

良寛は、生来、自問性のつよい、ナイーブな魂の持ち主だった。それだけ

に、人聞社会の矛盾をまるごとかかえこみ、現在、深刻な社会問題のひとつ

となっている不登校児、あるいは、就職しでも実社会に適応できず出社不能

〈註24>息を吹きかけた毛をも切るほどに鋭い剣、という意味。

〈註25>1530~78。越後守護、関東管領。正義の戦いを標携した信仰に篤い武将で、天室光育、益翁宗謙、徹自由宗九らのもとに参禅した。

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「莫妄想」無学祖元と北条時宗

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良寛。1758-18310越後出宴tI崎の

U~I身。 18歳で出家 し、 filli "l' (1岡山

Wl)の曹洞宗円通寺で修行。諸国

行間lののち故郷に帰り、 生催、 河irtの乞食僧 としてすごした。(写

真提供 平凡社)

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症におちいる若者にも 似たこころの軌跡をたど って、禅の世界に救いをもと

そこでも決定的な救いを見いだせぬままに、禅の正道からドロ ップアウめ、

ゆきついたと ころが、 悩みは悩みと してひきず ったまま 、僧でもな卜して、

あるがまま に生きる こ矛盾をかかえた一個の人間として、く{谷人でもない、

とだ、っfこ。

一面、禅の戒律を ふみやぶる ことでも ある。良

の禁にそむいて故郷に帰った。「故郷に帰るなかれ」

中国禅の 6柾11芸能のもとで修行した南岳懐譲〈註29>が弟子の馬

あるがままに生 きるとは、

まず 「莫帰郷」寛は、

の教えは、

良寛その こ とをき び、 し く~Jí いた。祖道ーにあたえた偶にみえる。道元 も、

それだけではない。故郷に帰っ てもいっさい作務をその禁をやぶっ た。は、

共同して農作業や掃除などの肉体労働 をする こと

で、禅門では、 重要な基礎的修行のひとつである。びゃくじようえかい

『祖堂集』ほかに、 唐の百 丈懐海〈註3D>の

しなかった。作務とは、

のことカf「一 日不作一 日不食」

師のからだを案記されてい る。 百丈は80歳にな っても作務をやめないので、

〈註26>1823~99。 幕臣。 万延元年 (1860 ) 成臨丸で渡米。 西郷隆盛と会見して江戸無血開城に成功、維新

後は新政府の参議など。知の人であると同時に肝のすわった人物と伝えられている。

〈註27>1813~520 豊前中津生まれの剣客。 激しい気性で、 若くして武者修行で諸国をめぐり、江戸に出て直心影流の男谷精一郎に師事し、また禅を修した。39歳で病没し た。

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百じた弟子たちは作業道具をかくして労働ができないようにした。すると、

その理由をたずねるとと、弟子たちが、丈はその日食事をとろうとしない。

百丈いわく。

「一日作さざれば一日食らわず」

この百丈以後、禅の修行に労働が義務づけられるようになったとされる。ふしん

ちなみに、現在でも工事のことを普請というが、ひやくじようしんぎ

した『百丈清規Jからでている。きしや

その作務をいっさいおこなわず、人々の喜捨にたよって食をまかかんきん

三看経の第一の義務を放捕し、村人

百丈の制定このことばは、

良寛は、

二坐禅、なった。禅門における一作務、

に食を乞い、酒を供されればたわいなく酔い、詩歌を詠じ、暇さえあれば子

どもたちとあそぶ。詩歌を詠むことも、本米の禅からいえば邪道であろう。

「しばらく存命の問、業を修し学を好まんには、ただ仏道を行じ仏しようほうげんぞうずH もんき

『正法眼蔵随聞記』

道元は、

と法を学すべきなり。文筆詩歌などその詮なきなり」

とうぜん、というのだ。〈註31>のなかでいっている。ネl~の道に文芸は無用、

その無かれは、それでいて、この祖師iの教えを矢IIっていたはずだ。良寛は、

むしろ生活の中心においた。用の文芸を生涯すてようとはせず、

良寛のからだのなかにながれている詩歌の 1(11は、事IJえようとしても自然に

あふれでてしまうのだ。禅業と詩業は良寛にとって切りはなしようのないも

のだったといってよい。

わが生いずこより来たり 去りていずこにかゆくほうそう ごつごつ じんし

孤り蓬窓の下に坐し 花々しずかに尋思す

いずくんぞよくその終りを知らん

転車展すべてこれ空

尋思するも始めを知らず

現在また然り

いわんや是と非とあらんや的けJあ

宍H

らし子

ばさ些一

ずー

し 縁にしたがってしばらく従容たるに

いろいどこへ去っていくのだろうか。この生命はいったいどこからきて、

その始めがわからない。始めがわか

〈註28>7世紀初期に中インドで成立したインド密教の代表的経典。仏の知恵、つまり悟りとは何かについ

ての問答が説かれ、中国や日本の天台・真言の密教で重要視される。

〈註29>677~744。唐代、陵商省の出身。 15歳で出家し、 6 祖慧能のもとで修行。 37歳から死ぬまでの30年

問、南岳の般若寺観音堂に住まう。馬祖は一番弟子。

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そもそも、ろとかんがえてみるのだが、

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「莫妄想J無学祖元と北条時宗

らないのに終わりがわかるはずもないではないか。現在だってそうだ。およ

そうつりかわるものは、すべて空である。その空のなかに自分という存在も

しばしとどまっているにすぎないのだから、まして是だの非だのという尺度

などあるはずがない。だから、わずかでもわかることを容れ、縁にしたがっ

て、ゆったりとかまえるにしくはない……と良寛はうたっている。

生命のなんたるかがわからないのに、あれこれ理屈をこね、それにとらわ

れでもしかたがないのである。禅を修行する身でも山上の独居はさぴしくつ

らく、 11夏がへればせつなく苦しい。それを詩歌に詠んだからとて、禅僧にあ

るまじきめめしき行為と責めることもあるまい。いや、責められてもよい

か。自分は沙門でも俗人でもない大j号、なのだから。

良寛はまぎれもない破戒の人だ。だが、良寛にとって、そのようなことは

もうどうでもよかった。良寛は戒律を超えていた。

それならば、良寛は悟っていたと素直に認めたらどうか、とテレビのイン

タピュアーならずとも、いいたくなるところだ。しかしである。ランナーが

ゴールのテープをきるように、さあ、これでi苦りました。もう '1'尚むことはあ

りません、というぐあいにはいかない。人間という生き物は、そうそう簡単

に煩悩から解放され、得悟して無心の境をえられるものとはおもえない。釈

尊でさえ、長年にわたって、さまざまな苦行に専念したにもかかわらず、つ

いに悟りをえることなく、絶望して行場をくだっている。ねはん

悟りの境地にはいることを仏教では浬繋という。人間の心を束縛する煩悩

から解脱した状態をいうのだが、生きているかぎり、心の煩悩を断ち切って

も、なお肉体そのものの有する穣れはのこる、とされる。したがって、心身

ともに解脱するためには生命自体の消滅、つまり死なねばならない。

さきに触れたとおり、純粋禅の世界では、悟ったか|宮らないか、問題にす

ること自体ゆるされぬ妄想であり、禅の本質からはなれることになる。あいよ

「迷悟は相依りて成る」と良寛は詠じている。迷いも悟りもたがいに相依っさくぜん

て存在する。本来、区別されるものではないと。また、「易に日く錯然は吉

く註30>720~814。福建省の出身。馬祖道一に師事し、そのi去を継いだ。律院から独立して禅院をかまえ、

禅修行者の日常生活の規則「清規」を制定した。

〈註31>6巻。道元に随従していた懐奔が、師が折にふれて説いた教えを記録したもので、仏道修行の心得

が平易に説き示されている。

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善悪、黒白、知忠、浄機……この世ともいっている。迷悟をはじめ、なり」

で、人聞はこの種の二元対立、差異のかんがえ方にとらわれて生きている

だから、錯然これらは相依って存在している。が、大宇宙の真理界では、

そのままにうけいれて生きるのがよろしいと。さまざまなありょうを、と、

なおぎょうどう

悟りても猶行道すべし

いいおもいをして生きむくど〈

たいという単一の価値観にとりつかれてしまった現代は、本来、無功徳を主

つまりは賛沢をして、欲望、利益のあくなき追求、

旨とする禅とはもっとも無縁の時代といってよい。

宗教の無功徳性という峻厳な理想を説いたのは、禅の開祖といわれる菩提

達磨である。

当時の仏教の保護インドから中国に禅をつたえた達磨が、6世紀の初め、

者だ、った梁の武帝〈註32)とかわしたという問答がのこっている。

武帝が達磨にたずねた。

これまでに多くの寺院を建て、仏像をつくり、熱心に写経し、僧「わしは、

どのような功徳があるかな」さて、尼を優遇してきた。

達磨はこたえた。

「功徳などありませぬJ

どうしてじゃ」「それはまた、

、」キ酢たしかに形にあらわれた善行ではありますが、「帝のなされたことは、

との功徳とは申せません」

まことの功徳とはどういうものか」「では、

武帝は、慨然としてきいた。

と達磨はいいき一ーもっとからりとした空なるものだ、

った。しようぽうげんぞうずいもんき

『正法眼蔵随聞記』によれば、

「まことの功徳は」

しかんたざ

只管打坐〈註33)をとなえた道元も、「無所

といってい得、無所悟にて端坐して時を移さば、すなわち祖道なるべし」

〈註32)464-549。中国南朝梁の初代皇帝。廟号は高祖。民政に治績を上げたが、晩年は仏教に熱心なあま

り政治がおろそかにな町、侯景の叛乱に遭い戦中で病没した。

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「莫妄想j無学祖元と北条時宗

る。利益をえようとか、悟りをひらこうとか期待せず、ただ坐禅をつづける

ところにまことの衿iカfある、 と言見いているのfご。どう なおさFょうどう

「道は無窮なり。悟りても猶行道すべし」

禅の道には窮まりというものがない。悟りをえたとおもっても、なお修行

をつづけるべきだ、というのが道元禅の姿勢であった。

そもそも釈尊が亡くなるとき、最後の教えを乞う弟子たちにいいのこした

のが、「不放逸にして精進せよ」ということぽだった。生きているかぎり努

力をつづPけよ、ということであろう。悟りというゴールは永遠になきにひと

しい。俗人が、「ゴールに到達しさえすれば、あとは安心不動の境地が開け

る」と、魂のエル・ドラドを夢みる気もちもわかる。

だが、人間も人生もそれほど単純にはいかない。かの良寛も死ぬまで、迷

悟のあわいで乞食し、看経し、坐禅し、歌を詠み、子らとたわむれて生きた

のである。かれ自身、悟りの人といわれることは、おそらく迷惑以外のなに

ものでもなかったろう。

人間は骨の髄から妄想、煩悩の徒である。だから、煩悩即菩提、生死即j里

繋とあるように、日常、死ぬ日まで迷いつづ、け悟りをみつけようとして生き

る……。

釈尊も達磨も道元も、つねに努力しつづけることが人生のすべてだと説い

た。努力の道程こそたいせつなのだと。

なんとしんどいことか。これは、頭ではわかっても凡人に容易に実行でき

ることではない。現実の僧が、ご大層に始祖の教えを口にしながら、始祖の

教えとは似ても似つかぬ堕落した生活をおくっている事実が証明している。

宗教者にしてこうである。いわんや、わたしたち俗人においてをや。

現代はもはや自分一個が救われれば幸せに生きられるという時代ではな

い。一企業、一国家が満ちたりた分だけ、地球のどこかが欠けるというの

は、いまや人類の共通認識といってよい。

〈註33>ただひたすら坐禅することをいう。天童山で、名利を超越して只管打坐に徹する知浄のもとで修行

した道元は、打坐即仏法を道元禅の根本にすえ、全身心を集中して坐ることが、唯一仏i去を体得す

る道だと説いた。

〈註34>自誠は字、名は応明。経歴は不明だが、 17世紀初め(明代)の儒家で、『菜根諌jを記した。

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で、近ごろわたしが、おりに触れておもいおこすのは、明の洪自誠〈註34>さいこんたん

の『菜根謂j(註35>にある一一せめて、つつましく、ほんの少しでも妄想や

煩悩をおさえて生きたらどうかという提唱である。

「人生は少しだけ減らすことをかんがえれば、その分だけ世俗からぬけだす

ことができる。利口よるのを少しだけ減らせば、その分本性を全うできる。てかせ

その反対に、少し増やすことを努めている者は、自分の一生をみずから手柳おしかせ

足柳でしばっているようなものだ」

通俗的に説かれているだけにわかりやすく、実行にうつしやすい。わたし

たちが、いやおうなしにまきこまれている、少しでも多く得ることをよしと

する足し算の価値観を、引き算のそれにかえてみたらどうであろうか・・

「莫妄想」は究極の理想として、まずは、際限なく増殖する欲望、加算の論

理に、ほんのちょっぴりギアを入れてみたら、煩悩と妄想の呪縛から少しは

解き放たれ、こころの風通しもよくなるのではないだろうか。

〈註35>洪自誠著の 2巻本。前篇は処世術、後篇は隠棲閑居について、儒教・仏教・道教をミックスし、東洋的な人間学をのべたもの。哲学的な深みはないが、簡潔な美文で清廉な生活と人格の修練を説き、

文政5年 (1822)、日本でも版刻され愛読された。

〔⑥八尋舞右 編集・制作・発行:株式会社プレジデント社〕

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