18
一橋論叢 第121巻 第3号 平成11年(1999年)3月号 (46) 『失われた時 もう眠りにつかなくてはと恩うとかえっ まどろみ しまい、とぎれとぎれの徴睡の合問を縫って回 くような夜々に、プルーストの小説世界は開かれる 「私は、まだ手にもっているつもりの本を置こうとし 燭を吹き消そうとするのだった。眠りながらも、私は読 んだばかりのことについて考えをめぐらすのを止めてい なかったのだが、そうした考えはいささか特別な展開を してしまっていた。私には、その著作の語っていること に白分白身がなっているように思われるのであった。す なわち教会や、四重奏やフランソワ一世と力ール五世の (1) 抗争にである」。語り手「私」の枕元にある読み物は、 作品構想の初期のカイエ(一九〇八年末-一九〇九年)、 〔2〕 カイエ5や1、カイエ8では「新聞」であり、第一校正 刷の上では「ある建築考古学概論」も挙 築」「彫刻」にとりわけ注意が傾けられていた それが今のようなかたちに落ち着いたことについて レイヤッド新版第一巻の校訂者はきわめて的確な指嫡を している月すなわちここに提示された三つのテーマは、 『失われた時を求めて』を支える「建築的、音楽的、歴 ^3) 史的」構成法に対応するものであるということである。 小説のパースペクティヴの象徴とみられる枕頭の書の 三つの内容のうち、まず「教会」と「四重奏」がプルi ストの小説美学の根幹に関わるモチーフであることに異 論はあるまい。自らの小説の構成を教会建築の諸要素に 例えて語った作者の言葉はよく引かれるものであるし、 言語芸術の可能性について語り手の思索を促すヴァント 4 5 4

『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

  • Upload
    others

  • View
    0

  • Download
    0

Embed Size (px)

Citation preview

Page 1: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

一橋論叢 第121巻 第3号 平成11年(1999年)3月号 (46)

『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書

 もう眠りにつかなくてはと恩うとかえって目が冴えて

           まどろみ

しまい、とぎれとぎれの徴睡の合問を縫って回想が渦巻

くような夜々に、プルーストの小説世界は開かれる。

 「私は、まだ手にもっているつもりの本を置こうとし、

燭を吹き消そうとするのだった。眠りながらも、私は読

んだばかりのことについて考えをめぐらすのを止めてい

なかったのだが、そうした考えはいささか特別な展開を

してしまっていた。私には、その著作の語っていること

に白分白身がなっているように思われるのであった。す

なわち教会や、四重奏やフランソワ一世と力ール五世の

     (1)

抗争にである」。語り手「私」の枕元にある読み物は、

作品構想の初期のカイエ(一九〇八年末-一九〇九年)、

                  〔2〕

カイエ5や1、カイエ8では「新聞」であり、第一校正

中  野

知  律

刷の上では「ある建築考古学概論」も挙げられて「建

築」「彫刻」にとりわけ注意が傾けられていたのだが、

それが今のようなかたちに落ち着いたことについて、プ

レイヤッド新版第一巻の校訂者はきわめて的確な指嫡を

している月すなわちここに提示された三つのテーマは、

『失われた時を求めて』を支える「建築的、音楽的、歴

                      ^3)

史的」構成法に対応するものであるということである。

 小説のパースペクティヴの象徴とみられる枕頭の書の

三つの内容のうち、まず「教会」と「四重奏」がプルi

ストの小説美学の根幹に関わるモチーフであることに異

論はあるまい。自らの小説の構成を教会建築の諸要素に

例えて語った作者の言葉はよく引かれるものであるし、

言語芸術の可能性について語り手の思索を促すヴァント

454

Page 2: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

(47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書

ウイユの七重奏曲は、執筆の初期の段階では「四重奏」

として構想されていたものである。そして語り手が言及

する第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一

ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プル

ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、

ユスト修道院での滞在と死』(一八五七年)と同じ著者、

歴史家フランソワ・ミニェ(一七九六-一八八四)によ

るものである。一八九九年九月十四日の母宛の手紙でプ

ルーストは、「今のところ[『]力ール五世の譲位[』]

に関心が向いているので、歴史に傾倒するロベールの気

                 (4)

持ちが分かります」と告げているのである。

              (5)

 「才ーギュスタン・ティエリの年」と自ら呼ぶ一八八

六年に読み耽ったティエリの歴史書、ウォルタi・スコ

ット、ヴィニーの『サンHマール』、デュマやバルザッ

.クの歴史小説への言及が書簡に濫れていることからみて

も、プルーストが歴史を題材にした書物に深い関心を寄

せていたことが察せられるし、読んだ本から想を得て、

歴史の素材を白由に編成した細部を自らの小説に埋め込

んでいることもよく知られている。それにしても自分が

読んだ移しい数の書の中から何故、プルーストは小説の

冒頭ぺージの主人公の枕元にこの本を選んで置いたのか。

そして『失われた時を求めて』を書くうえで、歴史モチ

ーフの意味をどう考えていたのだろう。

話題のヒーロー

 フランソワ一世と力ール五世、二人の宿命的な「ライ

バル関係ユ毒=蒜」を歴史書でたどってみると、プルー

スト研究者が心惹かれずにいられないO団昌耳巴の名に

出会う。小説第一巻第一部「コンブレー」の名前の由来

でしぱしぱ引かれるこの町では、一五二九年、フランド

ルからブラバントをも支配下においていた旧ブルゴーニ

ュ公領の所有をめぐって、両雄の代理を務めるそれぞれ

の母と伯母が講和を結んだのだった。「ゲルマント家の

            (6)

祖先、O彗彗蒜く①急零き彗〔と名の縁をもつブラバ

ント地方の歴史にまつわるカンブレー条約1『失われ

た時を求めて』の冒頭ぺージにこの歴史書が現われてい

るのは、コンブレーとゲルマントという虚構世界の重要

な名へのめくばせなのだろうか。

 また、一九〇〇年以前の執筆と推察されている「エム

リー.ド.ラ.ロシュフコー大公夫人のサロン」にもこ

455

Page 3: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

一橋論叢 第121巻第3号 平成11年(1999年)3月号 (48)

の歴史的人物への言及がある。ヴェルトゥイユにあるエ

ムリー伯の「歴史的城館」には「幾人もの君主が立ち寄

り、とりわけカール五世が館の木陰に歩を止めた。その

犬きな部屋部屋では、消え去った時一窪詩昌寝2ω寝-

;ωを喚起できるだろう。ヴェルトゥイユを歩き回るこ

              (7)

とは、フランス史を繕くことなのだ」。それと同じ思い

を、一九〇三年十月十目に寄胃oq-雪-零窃器の教会を

                  (8)

訪れた際にもプルーストは感じたのだろうか。そのゴチ

ック・フランボワイヤンの美しい教会と付属の修道院は、

カール五世の後見人であった伯母マルガレーテが亡き夫

のために建立を計画し、力ールがその遺志を継いだもの

である。回想される部屋部星-失われた時の喚起-歴史

書を読むこと……『失われた時を求めて』冒頭に現われ

たテーマ系の結び目をなす9邑睾O巨葦は、作家に

とって特権的な固有名詞であったのだろうか。実のとこ

ろ、この歴史的ヒー口1たちのライバル関係は、歴史書

好きの一個人のレベルの関心の枠を越え、第三共和政期

の言説のな-かで独特の色付けを帯びているように思われ

るのである。

宿命のライバルー独仏関係の表象の起源

                     ンヤルル ー

 『エルナニ』(一八三〇年)でも準主役をはづた力ール

カ   ン

五世が、第三共和政期の人々にとって親しみ深い歴史上

の人物であることは別に不思議ではない。ユゴーの他の

劇作と共に第二帝政下しぱらく上演を禁じられていた

『エルナニ』は一八六七年に大成功のうちに舞台に戻っ

てきた。プルーストは一八九五年二月、ルメール夫人と

                      (9)

ともにコメディー・フランセーズでこの劇を観ている。

また、ユーモア作家アルフォンス・アレーは、『エルナ

ニ』の中でスペイン王として登場しているカールが聖廟

で力ール大帝に呼び掛ける言葉、「今日ではどんな文学

概論のなかでも力ール五世の独白として知られているあ

の有名な対話」についての、自称”歴史通”の読者の質

                    ^10〕

問を種にしたコントを一九〇〇年に発表している。

 しかしながら、一八六六年五月にティエールが国民議

会で行なった演説をみると、十九世紀前半、例えばシャ

トーブリアンが、「フランソワ一世、力ール五世、 ヘン

リー八世の戦争」、すなわちヨーロッパ地図の塗りかえ

をもたらす三強国の力関係として十六世紀初頭の情勢を

456

Page 4: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

(49)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書

 (H〕

とらえ、またユゴーが青春時代の力ール五世を主人公に

描くことも考えていた時代とは異質な視線で、この歴史

上の人物がとらえられているのが分かる。フランソワ一

世のかつてのライバルは、ティエiルの言葉の中で、フ

ランスの宿敵ドイツの象徴となっているのである。サド

ワでオーストリアに勝利したことで、プロシァは「新た

なるゲルマンの帝国、力ール五世のあの神聖ローマ帝国

をつくり直すことになるだろう[:-・]諸君はフランス

の利益の名のもとにそうした政策に抵抗する権利をもっ

   (12〕

ているのだ」。一八六八年の革命後のスペインの王位候

補に、一八七〇年七月プロシア王家支流のレオポルトが

選ぱれたことによって、かつてヨーロッパの覇権を握っ

たハプスブルグ家の力ール五世時代の再来を危倶する声

が高まる中で、普仏戦争は起ったのだうた。そして、敗

戦後にいや増したドイツヘの敵対意識を濃厚に投影した

歴史モチーフ、フランソワ一世と力ール五世のユ童=a

は、第三共和政下の教育で脚光を浴びていく。

 第二帝政期に公教育大臣を務めたヴィクトールニアユ

リュイの『フランス現代史』(一八七二年、第六版)で

は八-十章に渡って「フランスとオーストリア両王家の

                 (鳴) ポリテクニツク

抗争ユく竺蒜Lの三段階が講じられている。理工科犬学

校の歴史.文学教授ジヨルジュニァユリュィが出した一

八九六年版の小学校高学年用の歴史教科書では、「フラ

ンソワ一世と力ール五世の戦い」と題された単元で両者

の「ライバル関係」が語られているばかりでなく、普仏

戦争も、「恨み」と「復響」を「密かに育んできた」プ

         、   、   、   、   、   、

ロシアにとっては「仇敵との闘い」(イタリックで強調

されている)に他ならなかったとされている。しかるに

フランスの方は「この危険な隣人」に注意を怠り、「軍

務が十分に奨励されておらず」、「作家たちは祖国への聖

       ユ マ ニ テ

なる愛よりも、人間性への暖味で曇った愛を称揚するこ

とを仕事にしてきたのだった」1「我々は戦う前にす

         (M)

でに負けていたのである」。十六世紀のユく竺試は、「道

        (15)

徳的かつ愛国的な教育」における歴史的教訓であったの

だ。

第三共和政下の一生徒のノートから

 「フランソワ一世と力-ル五世の抗争」が、プルース

トの読んだ可能性のある一著作の題名であるだけでなく、

当時の歴史教育における大きな主題でもあったことは、

457

Page 5: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

一橋論叢 第121巻第3号 平成11年(1999年)3月号(50)

先に挙げた教科書に呼応する形で生徒たち自身が記した

課題ノートにも見て取れる。 一八七八年生まれのo彗①-

く尉くΦ一≦o『冨∋gがリョンの内oo宥oユ目巴亮oo∋・

                    ^16〕

8旨竺Φで使っていた歴史の学習帳を覗いてみよう。一

八九〇年代初めに使用されたこのノートで、フランス史

は「民族大移動の前のガリア」に始まり、「民族大移

動・クローヴィス」「メロヴィング朝」「カロリング朝の

起源」と学習が進められており、やがて「フランスとオ

ーストリア王家の抗争」と題された単元が堂々と現われ

る。「

四月二十八日ヨく昌蒜ま旨~竃8go巴印…。コα.>亨

↓ユo=①

1 原因 ー あまりにも強大なオーストリア王家力

ールの神聖ローマ皇帝への選出で、いっそうそのカは増

し、ヨーロッパ特にフランスにとって脅威となった 2

選挙で負けたフランソワ一世の嫉妬が闘いの口実となる

皿 スペインとフランス フランソワ一世とカール五世

- 両国のカは均衡をとっていた 領土  カール五世

の国家は巨大であったが散在しており、政治的統一がと

れず、しばしば動揺した。フランソワ一世の国家は狭か

ったが、結束が固く治めやすかった 国力-力ール五

世にはアメリカ大陸ガら運ぱれてくる金、フランドルの

財カがあり、フランソワ一世には、定期的に納められる

税収入があった 2 性格面での力ール五世の有利さ。

フランソワ一世は勇敢で恐れ知らずの騎士道精神の持ち

主であったが、政治手腕の巧みさに欠け、臣下に離反さ

れる。力-ル五世は慎重で本心を隠す人間で、政治的に

巧みで、執勘で、ライバルのあらゆる欠点を利用する術

を知っていた。彼には腕利きの将軍がついていたが、フ

ランス軍を率いていたのは二流の将軍達だったLl以

下、両雄の抗争が段階別に詳述されている。

 時代を下って吋8τ一亭sgo雪色昌目凹↓α⊆?o目①・

目o弍雰一-2に通う-竃…①岸竃o豪a(一八九九年生

れ)のノートを見てみよう。一九=ハ年二月の課題は、

その母親の世代の歴史学習とほとんど変わっていないよ

うに見える。「フランス史宿題ーライバルあらそいの

戦争、その原因。敵対者たちの性格と相互の国カを示し

なさい。その戦争について、地図を添えた表のかたちで

簡潔に要約すること」。ノートには五ぺージに渡って地

図をまじえた解説が書き留められ、ライバル問の第六次

458

Page 6: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

(51)r失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書

対戦までが事細かに学ばれていたことがわかる。そのな

-かには次のような定義の書込みがある。「十六世紀、フ

ランソワ一世およびアンリニ世の治下に、オーストリア

王家の力を押さえてヨーロッパの均衡を取り戻すために

行なわれた戦争をΩ冨弓霧詩雪く筈蒜と呼ぶ」。ユ畠■

=蒜は第一次世界大戦に至るまで、学校で行われる歴史

教育の主要テーマであり続けたのである。

 日付をもたない不眠の夜に始まるプルーストの小説の

扉にそっと置かれた語り手の枕頭の書は、第三共和政期

の心性を映し出す小さな鏡であったのかもしれない。

歴史書の主題としてのカール五世

  -歴史小説から歴史研究へ

 o§ミ、bざミo茗篶良§篶ミe雨δg、ミ姜包浮貢-甲

8易ω①」o。塞⊥o。まは、関連事項も合めて三ぺージにも

渡る解説を《O麸まω一〇邑鼻》に割いている。力ール五

世とその「競争相手」フランソワ一世との《ユく巴岸9、

両雄間の「敵対行為」と「果てしない戦争」の記載があ

るのは勿論だが、それにもまして興味深いのは、この主

題をめぐって歴史記述が逸話・物語風の年代記から身を

引き離し、実証的方法によって一つの厳密な科学として

生まれ変わろうとする動きがそこで語られていることで

ある。

 項目の執筆者日く、「小説的な年代記」によって人口

に階灸してきたエピソード、例えばヴォルテールも描い

ているように、隠遁後の力ール五世が振り子時計の分解

作業に執着したとか、「精神錯乱」に陥って自分の葬儀

を催し自ら出席したといった話は、「歴史家たちに広く

受け入れられ再生産されてきた考えで、今なお一般にあ

まりにも信じられていることである」。「カール五世の人

生の最後の局面が正確なかたちで知られるようになった

のはつい何年か前からのことであり」、それはωま竃-

8ωで発見された古文書の研究に負うものである。それ

によって、従来「狂気」とみなされてきたものが、ある

状況で「必然性」を持っていたことが判明し、「幻影や

妄想は消え失せて、真実が空想の産物に取って代った」。

すなわち「伝承」とは違って、歴史的「真実」としての

力ール五世は、ユステのヒエロニムス修道院に準備させ

た屋敷に一五五七年に引きこもった後も、息子フェリペ

ニ世の治世を見守り国際関係に目を光らせていたのであ

必9

Page 7: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

一橋論叢 第121巻第3号 平成11年(1999年)3月号 (52〕

り、病篤くなった彼が生前に自らの葬儀を行なう気にな

ったのも、子供の時分にリエージュの司教が自分のため

の葬儀を行なうのを見たことがあったからで、相談を受

けた聴罪司祭も何ら不都合を唱えな-かったのだという。

一八五四年にミニェが出した『力ール五世、その譲位、

ユステ修遭院での滞在とその死』は、ピショ、ガシャー

ルの著作と並んで、この新たに見出された資料に基づい

て「歴史の復元」に努めたものであり、一八六七年の時

点で「フランソワ一世のライバルの考えを理解するため

に不可欠な著書」と紹介されている。

 もっとも、先立つ世代の歴史書に比べて実証性が高い

とはいえ、今日では物語派とされているミニェの著作の

性質、歴史への興味を掻き立てる本としてプルーストが

挙げていたこの書の、「伝記」的「逸話」を盛り込んだ

「年代記」風の色調を、十九世紀ラルースは見誤ってはい

ない。そして、逸話に対する読者の好奇心を満たすべく、

↓oε竃目♀>-①■①目α『Φα①■印く實oq一一p-o巨ω宛⑦<σ印⊆〇一

霊邑,=昌ξ竃Oに見られるように、「シャルル、カン

の常軌を逸した隠遁生活と生前の葬儀は、文学表現で頻

繁に言及され統けている」と十九世紀ラルースは言い添

える。実際、プルーストのやり取りした手紙のなかで言

及されているのもまさにこの二種のエピソードである。

クレルモン・トネール公爵夫人、ギッシュ公爵夫人らに

宛てた手紙でロベール・ド・モンテスキウの死を語る際

には、「シャルル・カン風の埋葬で棺が空っぽであった」

ために、葬式に「シャルル・カンのように出席して、わ

たしたちを驚かそうとしている」のではないか、彼の

「死は嘘」ではないかと思うと述べているし、また文通

相手のリ才ネル・オゼールからは「あなたの魅力的なお

手紙を読みながら、シャルル・カンが十二の振り子時計

の時刻を合わせることができずに絶望する気持ちがよく

分かりました」という書き出しで始まる手紙を受け取っ

 (17)

ている。

 こうした関心の示し方といい、また、かつて愛読した

作家の『メロヴィング王朝史話』(一八四〇年)第一章

を締括る逸話を、後に自らの小説のなかに引用したこと

  (㎎〕

といい、若い頃のプルーストが歴史書の物語的な部分を

大いに楽しんだであろうことは疑いようがない。しかし

その頃、逸話めかした歴史記述は、大学の歴史家たちか

らの激しい糾弾に晒されていたのである。「ソルボンヌ

064

Page 8: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

(53)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書

の新入生に忠告するという観点からL纏められたセニョ

ボスとラングロワの共著『歴史学研究入門』は、「私的

な行動」や「事件の枝葉末節」にかかわる「逸話」につ

いて、「伝説と同じように、特定の人物や事件に付きま

とうあやふやな記憶、暗示、問違った解釈、妄想などか

ら生まれるものであり」、「伝説に起源を持つ主張は、い

かなるものであれ、拒否することがルールである」と説

   (19)

いている。さらにセニョボスは、Aニアィエリの『メロ

ヴィング王朝史話』を名指しで挙げて、「具体的な細部

が分からないのに、推測によってその細部を付け加え

た」「歴史物語」、「過去の片鱗を甦らせ」ようとして

「史料からとられた部分と自分で想像した部分の区別が

示されない」ために、全体として「不正確な」ものとな

づてしまった「歴史小説」として厳しく非難する。また、

ティエリの出世作『ノルマン人のイングランド征服』

(一八二五年)のほうは、「史料の出典が調べられて、た

ちまち権威を失墜した著名な歴史書」とラングロワに罵

倒されている。十九世紀の「すべてのロマン派歴史家に

とって、主題、構想、証拠、資料、文体などの選択」は

「科学的とは言えない関心、すなわち文学的な関心によ

って決定されたのであづたL。その良い例が、というか、

歴史学を志す者にとっての悪しき見本が、若きプルース

トに歴史への興味を植え付けた当のティエリの著作だと

    〔20)

いうのである。ちなみに、ティエリはシャトーブリアン

の歴史小説『殉教者』に感動して歴史家の道を志したの

だが、それについてもセニ目ボスは、「過去の出来事に

対してかつてオーギュスタン・ティエリがその職業を決

めたとされる、ロマン派的な魅力に惹かれた」などとい

う「たわいもない動機」は、今後歴史学を志す者には許

されない、と先の書の「序」で釘を刺している。

 日常的な細部を記した回想録に親しみ、さまざまな歴

史小説に書簡でも頻繁に言及し、逸話や物語に溢れた歴

史書を読み耽ったことのあるプルーストは、歴史に対す

る若き目の興味のありかたを真っ向から否定する時代の

主張にどう反応したのか。「少年時代の魅カ的な読書体

験」について彼が語づていること、書物の価値とは、そ

れが伝達する内容の価値ではなく、「書物を読んだ場所

や日々のイメージ」を織り込んだ「回想」を今の我々に

返しながら「”読書”と呼ばれる独特の創意に富んだ心

                     (”)

理的行為を精神のなかに再創造させる」ことであるとい

!64

Page 9: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

一橋論叢 第121巻 第3号 平成11年(1999年)3月号 (54)

う、よく知られたプルーストの考えは、読み手の立場か

らの一つの答えとみなされよう。勿論それは、研究者以

外の読者にとっての歴史書の可能な効用の主張であって、

歴史研究のありうべき形についての直接の反論にはなら

ない。というより、プルーストはその点について議論す

るつもりはないのであって、むしろ彼が問うことになる

のは、小説の書き手にとって兄過ごしにできない問題、

文学に対する歴史家達の実証的読みの問題、小説と歴史

的事実との境界についてなのである。

一九一一二年に「小説と歴史の交流」を語ること

 「修正しなくてはならない何千ぺ-ジもの校正刷に囲

まれていた」一九二二年六月初旬、プルーストは、クロ

ード・フェルヴァルの筆名をもつピェールブール夫人に

宛てて、その著書『二重の愛ールイーズ・ドニフ.ヴ

ァリエール』(一九二二年)への賛辞を述べ、「あなたの

豊かで富んだ簡潔な恩考」が「麗しい主題に、小説もし

くは歴史書のなかで見事な均整を与えておられます」と

書いている。

 「大昔からの偽りの技巧のなかでミイラ化してしまっ

ていた一つの文学的”ジャンル”をそうした技巧から引

き離し、そ牝を人生に変え、小説または評論においてと

同じく自由に、自分の考えの全生命をそこに移し入れる

作家に出会うたび、私は驚嘆してきました。つい最近も

博物誌文学において、そのようなやり方で『蜜蜂の生

活』が博物学のはるか上に、まったくその外に、聲え立

つのが見られたものです。

 おそらく、小説と〈歴史〉とのこうした交流は、いっ

そう感動的なものでしょう。というのも、それは事実に

対するある無関心を主張し、ある書物が心理学的に真実

でありさえすれば、事実上も何なら真実でありうると言

ってよいのだ、と明言することにまでなるからです。真

の小説家は、小説に多大な真実を要求するものですから、

彼にとっては、歴史に真実であることの証明をさせるこ

とこそが、小説の尊厳にかなうものとして歴史を認め受

け入れることなのです。[:…・] 一つの小説が”生じた”

ということは、それが真実でありえない理由にはならな

いのです-もし歴史家・小説家が彼の真実のすべてを、

彼の心のすべてをそこに吹き込むのであるならば。必要

なのはただ、労苦を惜しまず、そして才能を持って小説

264

Page 10: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

(55)r失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書

を書けぱ、それが歴史を真正なものと認証することにな

    (犯)

るでしょうL。

 小説と歴史との交流を楽しみながらも、プルーストは

両者の本質的な差異を混同してはいない。「歴史に小説

が真実であることを証明させ」、「小説の真理が歴史の真

正さを認証する」1小説における心的真実は、歴史的

な事実に対する見方を提供するものであり、歴史と小説

とが対等に競合し、互いに相手の真正さを保障しあう関

係にあるというのが、ここでの「交流」の意味だろう。

想像カと推察カで組み立てる世界が、歴吏家の事実検証

する世界と、図らずも一致すること-二つの質の違う

精神活動の領域が互いに照らし合って自らを律し合うこ

の厳しさのなかに、プルーストは小説家として身を置こ

うとしているのではあるまいか。歴史的な出来事の連鎖

に頼って、虚構の可能性の追究のみが見出し得る真実を

放棄することは、文学に携わる者にとって大きな誘惑で

ある。この書簡で甘やかな賛美を贈られている歴史小説

が、ともすればジャンル問の馴合いに陥る危険はきわめ

て高いのである。

 そもそも、彼白身はなぜ歴史小説を書こうと考えなか

ったのだろう。プルiストが愛読したシャトーブリァン

やフローべールやバルザックをはじめ、「作家たちの多

くが、現代風俗小説と歴史小説のあいだでためらったこ

  ^鴉)

とがある」のに対して、『楽しみと日々』も『ジャン・

サントゥイユ』も、歴史を舞台に構想された形跡はない。

一九二二年の時点で、作者自身がかつて読んだことのあ

る歴史書らしきものをベッドで手にしている『失われた

時を求めて』冒頭の男には、どのような意味で、歴史記

述に対する小説家プルーストの考えが投影されているの

か。そうした問題についての作家の思考の軌跡を垣問見

せているように思われる三つのテクス、トを検討する前に、

一九二二年に小説と歴史のスリリングな関係の魅カを語

ることにはどういう時代的意味があったのかを確認して

おこう。

文学研究は文学的であるべきではない

 著書卜s『;室~§Φ完魯§~尽§&㊦吻-§ミ吻一ω豊p

おooωのなかでアントワーヌ・コンバニオンは、百年前

の世紀の変わり目における文学状況をきわめて明快に描

きだしている。

364

Page 11: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

一橋論叢 第121巻第3号 平成11年(1999年)3月号 (56)

 「歴史は、今日、文学と手を切った」と、ギュスター

ヴ・ランソンは論文「文学と科学」(一八九二年)で公

 (刎)

言する。歴史はもはや文学ではないーセニ目ボスによ

れば、それは十九世紀半ば頃を境とする歴史学の変化で

あった。「一八五〇年頃までの歴史学は、歴史家にとっ

ても、大衆にとっても、依然として文学の一ジャンルで

 (25)

あった」。そして、その傾向はミシュレ、テーヌにおい

てさえ消えてはいないとセニョボスやラングロワは言う

(実証精神の伝導者の一人テーヌは文学教師を務めた経

験がある)。旧い歴史叙述には文献考証の科学的方法が

欠如しており、「文学的歪曲」に満ちた事実解釈の「不

正確な総合」となっている。「精神的混乱、無知、怠慢

は文献考証の著作ではきわめて目立つ存在となるが、歴

史書の場合はある程度、文学的に隠される」。要するに

「文学的」であるということは「疑ってかかる」べきも

のということであり、セニョボスやラングロワは彼らの

新しい歴史学の科学性を強調するために、好んで文学と

            (脆)

の対決の婆勢を打ち出している。

 フユステル・ド・クーランジュは「歴史学は芸術でな

               ^η〕

く、純粋な学問である」といったが、まさしく「芸術

的L「文学的」であることは、歴史学者にとって負の形

容詞となったのだ。文学部の将来に関する講演で、セニ

ョボスは、文学部という名称はふさわしくないとさえ述

ぺた。文学は文献学・文学史を柱にした実証的研究とし

て生まれ変わるし、哲学は哲学史と心理学と社会学に還

元しうるもので、歴史学が席巻する文学部(前世紀末の

二十年の問に歴史学とその関連科目の教育職ポストの増

大はきわめて顕著である)は、人問諸科学の経験的で実

証的な研究教育の場であって、柳かも「文学的」ではな

      〔閉)

いというのである。

 十九世紀末のこうしたソルボンヌの動きは、普仏戦争

敗北後に敗因の一つと考えられていた旧体制の教育、す

なわち人文学を柱とする伝統的な教育方法を脱し、科学

的精神と実証主義の方法の重視した教育の必要性が意識

されたことによるものだった。第三共和政の公教育改革

政策が、国民皆学の必然性に応じた学問形態の再編成を

めざして進められるなか、「文学的」という言葉は、専

門的「実証的」精神からは外れたものと位置づけられた

だけではなく、公教育の領域には不要な、ディレッタン

トな営みとして位置づけられることになったのである。

464

Page 12: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

(57)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書

 一八八O年代、大学を実証主義の精神に拠った科学的

研究の場とすることをめざす共和派の教育改革の時代を

生き延びねばならない、あるいは自ら進んでに同調し、

ソルボンヌにおいてその推進にたずさわった文学部教授

たちのモットーは、従って次のようなものとなる-歴

吏は文学であってはならない-文学研究は歴史学の如く

あらねばならない-文学研究は、文学であってはならな

い…-。〈文学Vという語がこれほどまで狭い意味でと

らえられたことはかつてなかったろう。ランソンは「文

学の歴史への還元」を提唱し、歴史学の方法にならった

文学研究をソルボンヌで実践する。「歴史学を科学、〃精

密科学”の域にまで高めた」のは原典考証、テクスト批

判・校訂の作業であり、研究の基礎となる「文献考証な

くしては歴史学はない」とラングロワは言明したが、そ

れに呼応するようにランソンは、文献学と文学史を確立

し、研究資料として文学テクストを扱う方法を呈示する。

文学の歴史的解釈に則って「技術的、限定的なテーマに

関して論文を書く」専門家の育成をめざす文学部が誕生

    (29)

するのである。

 歴史学をモデルにした諸学問分野の変容に対して、主

に従来人文学の華とされてきた領域からの抵抗がはっき

りした形を取り始めるのは世紀が明けた頃からだが、当

時の議論の提供者らがプルーストとなんらかのつながり

を持つ人々だったことは興味深い。哲学は諸学問の源泉

にあるもので、専門化した経験的諸科学と混同されるべ

きではないとして従来通りの哲学の復権に努めたエミー

ル・ブートルーの講義をプルーストはソルボンヌで聴き、

                      ユ    マ

敬愛する師として名を挙げたこともある。また、古典人

二    子

文教養を無視した機械的博識と分析技術しかもたない凡

庸で視野の狭い職業的文学研究者を生産することによっ

て、しなやかな想像カと個性的天才の創造活動にほかな

らぬ文学への無理解を広めているとして、一九一〇年

卜、o忌ミ§誌上でソルボンヌ文学部に挑戦状を叩きつけ

た、アガトンこと若きアンリ・マシスは、「アクショ

ン・フランセーズ」の闘士であり、プルーストの知己で

あったモーリス・バレスやレオン・ドーデやシャルル・

モーラスらに近いところにいた。

 アガトンの巻きおこした論争は、直接には大学教育で

の文学研究および中等教育文学教育のありかたを問うも

のだっだが、そこには必然的に文学とは何かという問題

564

Page 13: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

一橋論叢 第121巻第3号 平成11年(1999年)3月号 (58)

提起が合まれていたと言えるだろう。そして一九一〇-

一一年頃、自らの小説の意味を問う場となる『見出され

た時』の初稿を書きつつあったプルーストにとって、そ

れは無視し得ないものであったはずである。プルースト

は、文学を作者の日常生活に還元するサント・ブーヴの

方法に抗するだけでなく、この時期の文学の置かれた状

況、すなわち歴史学的方法に傾倒した文学研究者たちの

見方に対して、自分なりの答えを出すことを考えて小説

を書こうとしていたのではないか。『スワン家の方へ』

の冒頭ぺ-ジに歴史書を配することは、文学と歴史学の

ユ§=蒜に翻弄されていた時代への挑戦ではなかろうか。

「不純な」小説

 私立政治学学校で外交史を担当していた歴史学者アル

ベール・ソレルが、 一九〇四年七月、『アミアンの聖書』

仏訳に対して旨ぎ§菖紙に好意的な書評をよせた際

に、プルースートはかつての師に宛てた礼状で、文学テク

                    (30)

ストの歴史学的な読みについての考えを述べている。

 「歴史を〃論証”なさるのを何度も聴講ざせていただ

いた先生が、どんな些細なことであれ文学的嗜好を、こ披

露下さる場合、かつて『暗黒事件』や『現代史の裏面』

に関する御論考によって目覚めた私としましては、そこ

に多くの情報を求め、多くの逸話を点検しようとしてき

たものですL。「バルザック通」ソレルはト§§ミωミ貧9

ユ§sと題する書(一八九四年)でこの作家を論じた

ことがあり、一九〇一年にはG・ルノートルの著作『帝

政時代のノルマンディーのふくろう党蜂起』についての

書評を書いている。書簡の注釈者によれば、大革命期の

逸話に富んだ秘史を専門にする歴史家兼ジャーナリスト

のルノートルは、この書でバルザックの小説のモデルと

みられる実在の人物について語っており、ソレルの書評

              (帥〕

でもそれが問題にされているという。さらにプルースト

は、〕フスキンにおける〃歴史”についてLソレルが

「これほど美しく敬度な伝説の〃資料的価値”に注意を

向けることは、美を扱った本の場合には重苦しく不当な

ことだろう」と述べているのに目を留める。そして、

「ラスキンにおいては、詩人としての才能が歴史家、経

済学者、哲学者としての見方を阻害している」ように思

われるが、一方「偉大な歴史家」ソレルは「歴史的な出

来事の《倫理》を著しながらも」、音楽的な文体を駆使

466

Page 14: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

(59)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の奮

し、文学への愛を失わず、「芸術作品を援用してさまざ

まな解釈の比較検討」を行なっていて実に見事だと、賛

辞を振り撒くのである。

 しかしながら、恩師への私信では讃えられている歴史

家の文学分析は、一九〇六年に刊行された『胡麻と百

合』翻訳の序文「読書について」において、プルースト

が作家として公に自らの考えを表明する際には、厳しく

答められるものとなる。このテクストは、翻訳刊行に先

立って一九〇五年六月に「ルネサンスニフティーヌ」誌

に掲載され、一九一九年には若干の修正を伴って『模作

と雑録』の中に「読書の日々」の題で収録されることに

     (32)

なるものだが、その中に次のような一節がある-

「時々は[……]ベッドのな・かで、タ食後に長い時が経

って、宵の最後の何時間かが私の読書を迎え入れてくれ

ることもあった。本が終ったら一晩申不眠が続くかもし

れない危険を冒して[……]、両親が休むやいなや、私

           (33)

は再び蟷燭を灯すのであった」。『失われた時を求めて』

の冒頭場面を想わせるような夕べに手にされた二冊の

愛読書Lは、パルザックの歴史小説『ふくろう党』と似

          (脳)

たエピローグを備えている。その最後のべージが蜷られ

るとき、現実の生よりも夢中になって読んでいた本の中

の世界は一挙に「遠ざけられ」「まづたく無縁な」もの

になってしまうのだが、それが悲しくて、実人生を書物

の世界と関らせ続けたい、書物の中の生についてもっと

他の「情報を得たい」と思うとき、「その書物の価値に

ついて私たちはひどく恩い違いをしていたのだった」。

 ところがこの「恩い違い」を支援する読み方がある、

とプルーストは註で言う。それは、アルベール・ソレル

のような歴史家が「研究者の精神でもって」、小説に描

かれた出来事の事実性を検討し、そこから情報を引き出

そうとして行なう読みである。しかも、そうした「詩人

かつ歴史家」の「研究」にふさわしい文学テクストも実

はあるのだ。「純粋な想像から成っておらず、歴史的な

実体をもつ書物に対しては、一種の迂回によってそれを

試みることができる。たとえばバルザックがそうであり、

いわば不純なぎ君冨その作品は、ほとんど変形加工さ

れていない生のままの現実と精神が混ざり合っていて、

時として奇妙にこの種の読みに適しているのである。ま

たは少なくとも、バルザックは、そうした〃歴史学的読

者-8冨弓ω巨go『昼罵ω”のひとりを、『暗黒事件』と

467

Page 15: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

一橋論撞 第121巻第3号 平成H年(1999年)3月号 (60〕

『現代史の裏面』について比類なき試論を書いたアルベ

             (肪)

ール・ソレル氏のなかに見出したL。

溶ける現実、さまよう時問

 一方、史料として読まれるのに適した小説の書き方に

ついて、プルーストは一九〇九年四月以降に、再ぴバル

ザックを例にさらに深く論じることになる。『サント・

ブーヴに反論する』の一断章をなすこのバルザック論は、

筑摩『プルースト全集』の吉川一義氏による見事な訳註

が示している通り、『失われた時を求めて』への変容の

                 (蝸)

きわめて重要な段階に位置するものである。

 「バルザックは自分の小説に文学作品を求めてくれな

い読者大衆に囲まれた」とプルーストは断ずるσ「あま

りにも現実的な細部」が「芸術作品としての生命感を害

ねてしまっている」からである。というより、現実の迫

カを「余す所なく吸収し」「全体の美へとその特徴を溶

かしこんで」「均質な実体に」変えていく作業がなされ

ていないがために、読者はテクストよりも現実に気をと

られてしまうのだ。ここでプルーストは『見出された

時』でも見られる独自の文体論を展開する。「文体とは、

作家の思想が現実に対して加える変形のしるしです。し

たがってバルザックには本来の意味での文体がないので

すL。「すべての要素は、未消化でまだ変形されずに」残

っていて、「不純なもの享O冒蒜」に留まっている。あ

       (w)

の「巨匠たちのニス」のかかっていないバルザックの小

説世界は従って「現実以上のものではない」のである。

 問題は書物の主題が歴史的であるかどうかではない。

「作者の思想に貫徹され」文体によって制御されていな

い、生のままの濃厚な現実感が、まだ文学という変成作

用の手前にあるもの、「芸術の領域に属さないこと」へ

の興味を誘い出してしまうのだ。つまり「社会の観察の

正確さ」を吟味し、そうした歴史的事実の叙述が「偽で

ないかどうか」を検討する「〃知的な”読者」に、不幸

にも恵まれてしまうのである。「そうした細部が一つの

時代に関わっていて、その古びた遺物の外観を示し、時

代背景を大いなる知性でもって判断してみせるので、小

説としての興味が澗れてしまっても、歴史家の資料とし

ての新たな命を持ち始めるのだ」。そんなとき「アルベ

ール・ソレルが現われて、作品の登場人物のうちにこそ、

執政政府時代の警察や王政復古期の政治を研究すべきで

468

Page 16: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

(61)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書

あると教えてくれるL。また、文学としての魅力が消え

てしまう前にも勿論、そうした「アカデミックな」関心

に出番が回ることもある。小説を読み終って虚構世界と

の別れを悲しむ読者に「ソレルは言うのだ、”とんでも

ない、これは夢ではありません、研究してごらんなさい、

これは真実です、歴史なのです〃と」。

 歴史学的方法に拠って文学を科学にしようと躍起にな

っていた時代の潮流に対するこの痛烈な皮肉こそは、小

説家としてのプルーストの立場表明なのではなかろう-か。

歴史年表のうえに焦点を定め得ない、溶解した時問の小

説の構想へと彼が向かったのは、単に美学的な理由から

だけではなく、文学を取り巻いていた時代と社会の意向

を鋭く意識していたからではないのか。「異なった時期

                    (珊)

の溶岩が混在している土地のような、時間の重層性」の

なかで、モデルとなった多くの人間、多くの事物の現実

の輪郭が溶けだして一つの統一的なヴィジョンのうちに

新たな現実感をもつ小説を書くという作者の意志が、

『失われた時を求めて』に対する歴史学的社会学的考察

を長らく控えさせてきた所以であったが、その反動とし

て今、小説に含まれる現実についての検証ブームが起こ

っている。そしてそれは、作家による変形作業の射程と

効果を見なおすために、ある意味で必要なことであるし、

また可能でもある。「もはや一つの塊を成している回想

には、本当の裂目や断層ではないまでも、少なくともあ

る種の岩や大理石における産地、年代、〃形成”の相違

を明らかにするあの雑多な色模様が、見分けられないわ

   (3g)

けではない」のだから。それでもプルーストの小説は、

おそらくそうしたレフェランス研究の証歌する時代をも

また潜り抜け、しかも検証の成果をたっぷりと吸収した

われわれの目にいっそう豊かなものとなって再生するだ

ろう。そして、作家が生きた現実そのものへの関心では

なく、言葉のカで一つのどこにもない世界を支えるその

わぎ業

によっ.て、あらためて読者を惹きつける時がまたくる

だろう。

(1)…胃8;『o易一!ざミoぎ§ぎ§鳶§葛忘辻ぎ目昌-

 毒=og巨o目ま5雪9}ま」竃†-竃o①二8牟ムく〇一-〔以

 下完弓と略し巻数と頁数と記す〕一-ω■

(2)完宅し』貞震戸雷ω-

(3)完宅一二〇〇。9

(4)Oo§畠oき§§きき§一‡量黒聾季o彗雲一言

964

Page 17: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

(62)一橋論叢 第121巻第3号 平成11年(1999年)3月号

 六〇員旨く〇一.二竃o⊥8ω〔以下ooミ.と略し巻数と頁数を

 付す〕一=も.竃-1  ・

(5)Ooミ」ら」量o.=oI

(6)完宅L」①o1

(7)O§§蟹{ミ雨由§§一b忌&§きき隻SS9§-

 -§鷺餉g窒§§b竃ミωミミぎ-§竃.監-凹=凧一ぎp

 冨ご〔以下oωbと略す〕一君」竃よ窒

(8)9ミ.;君.も9亀o。-§⑩.

(9)Ooミー-署.ωご-彗ド

(10) ≧oぎ易o≧巨9.、Oコo〇一葦ψぎ巨『雪、.,き§竃

§o書菖μ(冨8)一8§ミ吻§“ぎ§員雲竃冨「竿

 ざ目庄一屋OOPOO.Oξ1漫OO1

(11) 向『凹目o9ω・河①目心Oす印↓o凹=σユ凹目P㌧s菖雪}雨§{}oミ茗“雨

 き』§段o甘ミ§、§ss一-o0M①一『獄2ごop-軸↓回巨①

 宛o巨p;oo。一暑.窪o。-曽o■一八三八年に;目①qHミg勺o冒一

 ;片から出た版のop雪㊤-①o。トも参照した。

(㎜) b泳oo畠『眈も8『膏§雨S,S“§㎞ 、雨ミ §}雨葛一↓.×’O竺・

 昌彗目宗くさ冨o。ごp①鼻〇一竃o.

(13) く-〇一〇『-∪=ヨ』メき段9ミ~軸吻ざ§吻§o巨雨§軸的、魯s涼

 忘艶㌧§§、~』嚢ふ。蜜’}四99亘冨鼻OO’8--墨

(14) Ω8『oq鶉O…ξ一§吻§ミ吻o§§ミミきざ、§§雨き-

ミ{二S§Oミ§卜§渚曽意}§.~』曽9葦9§自暮§-

 きs.ざ眈§}§的音ミω..一↓巾凧2巨o目轟叶昌α亮8目・

 8『昌耐昌昌↓四妄召ooq轟ヨ霧旨轟]與…一胃冨oρ〇一窃需

 ま需冥蒜∋p匡曽烹箏p-竃①もo」㌣ω9轟㌣ω富.

(15)宰冨9〔三窒PO§隻o妻、ぎ竃雪雨§§“§ぎ§ト

 ーo.o.9p昌o.一八八八年からソルボンヌ教授となるラヴィ

 スは、小学校用の歴史教科書を七〇年代から執筆しており、

 一八九〇年代以降の教育改輩の主導者の一人となる。

(16) 裏表紙には「一八八二年三月二十八日の法令」により

 「フランス共和国」下の「公教育」の場で「無償で支給」

 されたものであることが明記されている。この文言は、今、

 日のフランスの教育制度にまでつながる義務・無償・非宗

 教の三原則に基づいたジュール・フェリーの教育改革を裏

 書きするものである(初等教育の無償を定めた一八八一年

 六月六日付法律、六-十三歳までの義務教育と非宗教性一

 八八二年三月二十八日付法律)。これは後述の』、箏彗■

 ○す彗αのノートとともに、く9oコ五一』①奉至と一≦印『討一

 〇一彗まミ至の、こ厚意で転写させていただいたものであ

 る。家族内で保管してこられたその他多くの貴重な文書を

 提供してくださったことに、この場を借りて心より御礼申

 しあげたい。

(17) Ooミ×さ一〇、窪(一九二二年二月二〇日の手紙)、

 oo…×〆p畠一(一九二一年十二月十八日の手紙)、

 ooミ」〆oPM0・-畠(一九〇九年一月二十九日の手紙)。

(18) 完-矢-2.

(㎎) Oすーω9血q目〇一〕O閉①一〇ブ.-く.-凹目OqHO云一§ミo乱冒oミoミS畠旨

 母§sミgo‡§婁匡彗す警p(冨竃)一み&L旨↓(σ。g.)一

 p×く一〇1一富.

(20) ω9oq;σoω9-竃oq巨μo,o芦P=㎝もPぎ-ミー

074

Page 18: 『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 URL Right · (47)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書 ーストが書簡で触れている本『カール五世、その譲位、ミ“包軸ぎS8涼、S軋⑮OきsミS-Oミミ一Hoo畠は、プルする第三の主題をそのまま題名にとった書物卜亀嚢§一として構想されていたものである。そして語り手が言及ウイユの七重奏曲は

(63)『失われた時を求めて』の語り手の枕頭の書

(別)  oωb一りol-一M一-↓トー

(22) Ooミ×戸署二蟹-冨o。(一九ニニ年六月六月の少し後

  の手紙)。

(鴉) ]≦ざ7色カ生∋Oコ♀卜雨カoミー富ぎ>『目5目αOO=P-ooooo’

  o.雪’

(以)  〔}=眈{凹く①-唖コωoコ一、[回-{↓片心『団↓目『①①一 -}蜆o-o目o①..-コ

 完雨e畠雨}-雨s雨一N杜ω①o.o↓-冊、ooけ.-oo㊤N.

(脆)  ω①-oq目〇一〕oω〇一-凹=①q-o{9o専.oミニo.M①N.

(%) -}{軋一一〇1--蜆一

(η) 勺一』ω片①-O①OO=-ψコ晒o9嚢}“o}ミ軋雨防{ミ肪“註豊註oS吻bo5一

 まqs軸防軋軸-,昌茗o{“sミ軸ぎsop=凹o=①↓叶①一-oooooo’け自-℃.ωN1

(蝸) Oす-ω9胴目Oげ09、向目ω9的目①目一〇目↓ω⊆O⑭ユoO『..-自卜尚S一

 防雨耐s雨§雨曽、雨、~“§oo§ま㊦一>-o凹コ’-oogoo.M蜆⑩-M00o〇一

(29) o1「饅目眈o目一、-而ω伽ゴ」o①伽コ一〇匹o『目①ωρo目ω-.o目蜆9oq目?

 目一①コ一ω①oo目〇四{『o、 -目卜馬、ぎos}}os、雨』8』“§oo§註雨’>〒

 oΦ目一-ooω.泊1-oo↓uωo-oqコoσoω①一-與目oq-o-μ8.o{、1’o-ooo.

(30) Ooミ」く一〇〇.-↓①1-ooo1

(31) 話題にされているバルザック小説のモ、デルζ昌o黒

 OO目9ξについては、拙論「ノルマンディーのプルース

  ト巡礼L(『昌目語文化』第三十五巻一橋大学語学研究室、一

  九九八年)君、艶-2を参照のこと。

(㏄)  Oωb一〇℃一-蜆01-O{-

(33)  Oωb一〇1-①㊤一       -

(34) Oω員oLぎ一卜蕩Oぎ§§を『人間喜劇』に取り入

  れた際にバルザックが書き加えたエピローグを振ったもの

  ではないかと校訂註は指摘する。

(35) Oωbら、ミー.Po。昌昌詩ムが記載しているパリ国立図

 書館所蔵の原稿の断章には、一九〇四年のA・ソレル宛の

 手紙でプルーストが示唆していた、『アミアンの聖書』訳

  の書評のなかのソレルの文章をふまえたものと恩われる表

 現が認められる。

(36) Oω員暑』竃-M竃一『プルースト全集14』(筑摩杳房、

  一九八六年)OPま①-ミω一ヨ㌣蜆鵠を参照のこと。

(37) Ooミ」く一〇」寓(一九〇四年六月十二または十三日の

  ノァイユ夫人宛の手紙)。

(oo山)  oωb’o.Mooo.

(39)  完ヨ“-’-oo{.

                             (一橋大学助教授)

174