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―普照寺の裏にひっそりと佇む紀念碑について― 川崎市公文書館 菊地悠介 「第四回伊浜のむかし」報告スライド 2019/10/20 於伊浜山村活性化支援センター 菊地悠介(川崎市公文書館) 「この碑何の碑?―普照寺の裏にひっそりと佇む記念碑について―」 1

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―普照寺の裏にひっそりと佇む紀念碑について―

川崎市公文書館 菊地悠介

「第四回伊浜のむかし」報告スライド

2019/10/20於伊浜山村活性化支援センター

菊地悠介(川崎市公文書館)「この碑何の碑?―普照寺の裏にひっそりと佇む記念碑について―」 1

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普照寺の裏に碑があるのをご存知でしょうか?

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これ!!

翁生山普照寺(真言宗)裏

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菊地悠介(川崎市公文書館)「この碑何の碑?―普照寺の裏にひっそりと佇む記念碑について―」 3

互いの距離感はこんな感じになっています。

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全体像はこのように

なっています。

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碑に刻まれている内容を見ていきましょう!

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菊地悠介(川崎市公文書館)「この碑何の碑?―普照寺の裏にひっそりと佇む記念碑について―」 13

・内容要約⇒斎藤富之助という人物が亡くなったため、その死を悼み、建てられたことが分かる。→人物―①20~30歳ぐらい、②三浜村伊浜生まれ、③定右衛門長子→事蹟―①駿州・遠州より遠く及ばない豆州の茶業開拓に従事

②静岡県立農学校を卒業③静岡県立農事試験場茶業部に就職し、実務・勉学に励む。④今後の活躍によって豆州まで茶業が盛況になることを期待されていた。

→死因―①大正13年1月に帰省のため搭乗していた駿河湾汽船の愛鷹丸が遭難した。→君の逝去は望みを後に起こし、この俊秀である君を継ぐ遺志者の気持ち。

⇒愛鷹丸事件(法学博士青木談「会社は賠償の責あり[愛鷹丸沈没と責任 (二)]」大正3年1月11日『東京朝日新聞』神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫、海上保険1-059、公益財団法人日本海事広報協会ホームページ)

→駿河湾汽船という会社(東京湾汽船の子会社として明治42年に設立)で保有していた「愛鷹丸」が伊豆沿岸西岸航路を運行【図2】

→大正3年1月、戸田村舟山で沈没。死者乗客乗員合わせて121名(それ以上との説も)、生存者25名。定員26名の木造和船であった(鉄道はいまだ高価)。

→駿河湾汽船は遺族へ賠償をおこない、その後依田汽船に吸収合併される。→沼津市三津(旧三津村)にも「愛鷹丸遭難横死者供養塔」あり。→西伊豆沿岸は江戸時代から荒海が多い(伊浜「(伊浜村明細帳下書)」)。風待港【図2】、長津呂村の文書(添田仁「南伊豆の海難と救助」『南伊豆を知ろう会』5、じゃんぴん)・「南伊豆町肥田家文書」中に破船・難船に対応する文書が多い。。

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図2 (江戸期)「浦方略絵図」

「石廊崎小沢氏所蔵文書」南伊豆町教育委員会蔵(『石廊崎小沢氏所蔵文書長津呂浦における海難文書』南伊豆町教育委員会、1999年所収を加工引用)

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菊地悠介(川崎市公文書館)「この碑何の碑?―普照寺の裏にひっそりと佇む記念碑について―」 15

・関連人物について(地域関係)①齋藤定右衛門:江戸期から定右衛門襲名(家号)

明治38年に区長、斎藤家(慎一郎→徳太郎家とは分家筋ヵ)。明治12年地持(山林)、明治12年下白根(畑)。

②三浜村村長・会長、伊浜村小学校長・区長、妻良区長、子浦区長・西部長、伊浜消防組長、伊浜青年会一同:村内・区内の要職などが名を連ねる。

③伊浜村の人々:重役以外でも、元々要職についていた人物が含まれている(肥田惣右衛門、肥田榮助、斎藤慎一郎)。

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・関連人物・機関について(茶業関係)①茶業組合中央会議所:明治17年に中央茶業組合本部が設立(「茶業組合準則」公布)→明治20年に茶業

組合中央会議所に改組(「茶業組合規則」公布)。現在は公益社団法人日本茶業中央会。大正13年の会頭は(尾崎→松浦→中村→)大谷嘉兵衛。

②大谷嘉兵衛:弘化元年12月2日伊勢国飯高郡谷野村(三重県飯南郡飯高町)に生まれる。文久2年に横浜で製茶貿易に従事、慶応3年横浜のスミス=ベーカー商会の製茶買入方。明治元年独立して製茶売込店を開き、横浜における最大の製茶売込商となった。茶業組合中央会が設置されるや24年以後議長として活動。横浜貿易商総代に選ばれるなど、日本の茶業界において確固たる地位を築いた。明治28年日本製茶株式会社を設立して茶の直輸出に努めた。明治40年頃から昭和初年に至るまで茶業組合中央会議所会頭を務めた。

③静岡県立農学校:卒業したため、校長・職員一同の名がある。明治29年中遠簡易農学校→明治33年静岡県立農学校→大正8年静岡県立中泉農学校→昭和23年静岡県立岩田農業高等学校

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④静岡県立農事試験場:明治39年小笠(現掛川・菊川・袋井市周辺)・榛原(牧之原・島田・焼津・藤枝(茶業部) ・御前崎市、川根本町周辺)両郡有志者組織の静岡県茶業研究会が小笠原郡河城

村に設置→明治41年静岡県茶業研究会が県営となり、農事試験場茶業部となる。就職先であり、同僚であったため、農事試験場の技師・職員、茶業部の技師・技手・練習生一同・一般2名の名がある。

丸尾文雄:大正14年時に静岡県茶業組合連合会議員特別議員。牧之原入植を推進した丸尾文六の孫。内田忠正:牧之原開拓士族の一人。川崎正一:大阪府泉南郡沼野村(現岸和田市)出身で静岡県農事試験場技師、同茶業組合連合会技師、

京都府農業技師、同農事試験場技師を務め、昭和8年から昭和11年まで岸和田市長。⑤小笠郡長加藤節次:農事試験場茶業部は小笠郡に存在したため、郡長が撰文をおこなったと考えられる。⑥浜松測候所所長:詳細不明。また、なぜ浜松測候所が名を連ねているのかも不明。

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・茶業と茶業組合⇒茶業組合→明治17年3月静岡県内で茶業組合準則裁可(製造販売者は届出の上、加盟し許可を得る)。【史料2】→明治17年3~4月賀茂郡(旧1,2,3区を除く)那賀郡合同で下田茶業組合を組織。【史料2】→下田茶業組合幹事・副幹事を同業者で公選→請書→明治17年5月達(峯村山木近吉・松崎村石田米太郎)【史料2】

→明治21年賀茂那賀郡茶業組合となる。大正14年時賀茂郡茶業組合長山本五平。⇒茶業→明治元年12月天城山麓村々で茶を試したが製茶は熟練できずとの茶製造請負三島宿朝日猪兵衛から韮山江川代官役所への報告(明治元年「乍恐書付を以奉申上候」「伊豆国韮山江川家文書」江川文庫蔵)。伊豆の村々には不向きヵ。

→製茶伝習所:明治28年賀茂郡対馬村、那賀郡仁科村。→明治44年手石港 嗜好品類輸入高が第1位(茶も含まれる)『南豆風土誌』→大正10年調査 茶園反別及び産額 三浜村で3町歩、80貫、430円。賀茂那賀郡域で最小の内の一村【図2】

→昭和期の聞取調査:昔、多くはないが植えていた。『長野県木曾郡王滝村野口・静岡県賀茂郡南伊豆町伊浜 民俗調査報告』(成城大学民俗学研究会、1970年))

★三浜地区の茶業発展を期待された優秀な人間の追悼碑であった。★斎藤富之助は、茶の生産量・価額ともに低い三浜村地域の茶業発展の光明であったが、その死は少なからず発展の停滞に影響を与え、南伊豆町域にとっても大きな影響であったと考えられる。

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2019/10/20於伊浜山村活性化支援センター

菊地悠介(川崎市公文書館)「この碑何の碑?―普照寺の裏にひっそりと佇む記念碑について―」 19

図2 静岡県製茶産額図(大正10年)

『静岡県茶業史』(静岡県茶業組合連合会議所、1926年)から加工引用。

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【史料1―

1】紀念碑の釈文

(表)

紀念碑

茶業組合中央会議所会頭従

五位勲三等大谷嘉兵衛題額

小笠郡長七位加藤節次撰

茶業者

本県唯一之産業也、駿遠

二州最盛而獨豆州遠不相及、有

指者為所概歎而不已也、齋藤富

之助君生于豆州三濱村伊濱父

云定右衛門君其長子也、少壮而 鋭意以豆州茶業之開拓為己任、

夙学静岡県立農学校卒其業君

不為自足、奮然入于静岡県立農

事試験場茶業部服実務餘暇孜

々学而不倦頞通学、藝與技術正

施之實、際而不幸本年一月駿河

湾汽船愛鷹丸有遭難之事、君偶

歸省搭乗之終委命于滄波鳴呼

悲哉、為人剛正敢為以茶業為

生命観茶業之盛衰銷長猶観自

己之利害休戚以是豆州迄茶業

俟、君而将開一生面而遭此厄痛

惜曷耐同志之士深悲君之夭折

勒碑傳之、不杇如此者不獨非君之長逝希後起之俊秀有継君之

遺志者意乎也、

大正三年十一月

三濱村農会長

勲七等清田賢治郎書

(サイズ)

高一九五センチ、幅九三センチ

(裏)

建設発起人

浜松測候所長

長嶋

美涼

静岡県立農事試験場長技師

縣立農学校

職員

一同

農学士

狩野

辰男

茶業部

練習生一同

同縣立農学校長

内田

忠正

農学士

細田多次郎

淺倉

友吉

同縣立農事試験場茶業部技師

三濱村長

清水安太郎

農学士

丸尾

文雄

三濱村農会長

清田賢治郎

技師

川崎

正一

伊浜小学校長

高橋慎一郎

技手

浅羽光次郎

伊浜區長

稲葉國太郎

小野

一郎

妻良區長

飯作米三郎

賛成員

子浦區長

大戸七三郎

農事試験場職員

子浦西部長

小久保純壽

田崎桂一郎

肥田

榮助

鈴木

進一

石垣

熊谷新一郎

石田粂之亟

細木

斎藤慎一郎

益田暦之助

齋藤惣兵衛

清水嘉太郎

小川妙

松本

仲吉

斎藤徳次郎

堀田

雅三

肥田惣右エ門

杉山

辰郎

稲葉五右エ門

岡田

忠男

肥田

壽作

松村小重郎

地引

幸八

吉田 嘉七

高橋

佐吉

鈴木権太郎

伊濱消防組長

高橋徳右エ門

伊濱青年會一同

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【史料2―

1】紀念碑(表)の現代語訳

茶業組合中央会議所会頭従五位勲三等大谷嘉兵衛題額を記す

小笠原郡長七位加藤節次分を選ぶ

茶業は本県唯一の産業である。駿州(旧駿河国域)・遠州(旧遠江国域)の二州が最も盛んであり、独り豆州(旧伊豆国)は遠く及ばず、(そのため、)有

識者はしきりに慨嘆するところである。齋藤富之助君は豆州三濱村伊濱に生まれ、父

は定右衛門君と言い、その長子である。若く(二〇~三〇歳ヵ)意気盛んで、鋭意をもって豆州に茶業の開拓を自身に課し、

早く学び静岡県立農学校を卒業し、その業(技術)を自身の満足のために使わず、奮い立って静岡県立農

事試験場茶業部に入り、実務に服し、余暇は一生懸命に励み努力して学んで怠けず通学し、芸と技術を正しく

施したことは事実である。極めて不幸(なことに)本年一月に駿河湾汽船の愛鷹丸が遭難し、君は偶に

帰省(するため)搭乗し、この滄波に命を委ねて終わり、ああ悲しや。人のため剛く正しく敢えて茶業をおこなう

生命観のため、茶業の盛衰(によって)自己の利害も喜びと憂い(を帯びると)考え、これをもって豆州まで茶業が(盛況になることを)

期待した。君は将に新しく開いた方面に巡り合っていた。この厄災の痛惜にどのようにか耐え、同志の士(として)深く悲しみ、君の夭折を

碑に刻み、これを伝える。このような不朽な者は孤独ではなく、君の逝去は望みを後に起こし、この俊秀である君を継ぐ

遺志者の気持ちである。

大正三年十一月

三濱村農会長

勲七等清田賢治郎書

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【史料2】

(表紙)

「明治十六年五月廿四日

公布留

伊濱村戸長役場

(本文)

(前略)

郡勧第八拾六号茶業人員調

(中略)

右調之儀日限■返及日限切迫之分有之候処、其組合分未タ取纏メ不

相成不都合ニ候條、組合村々督促之上未差出分至急差出候様可取斗

候旨相達候也、

十七年三月七日

加茂那賀郡役所

(中略)

郡勧第二百二十九号

本県甲第弐拾弐号達茶業組合準則ニ基キ今般静岡ニ於テ県下同業者

集議ノ上規則決定裁可ヲ請ヶ候処、右製造販売スルモノハ鉄取締組

合加盟ノ上証票所持セザレハ自用(所有ノ生葉茶ニ製スルモノヲシ

テ自用)ヲ除クノ外多少之論ナク製茶販売(所有ノ生葉ヲ販ルスル

及之レヲ仲買スルモノ)不相成義ニ有之、若シ之江加盟セス多少製

造売買致候トキハ相当御処分可相成候條心得違無之様為致候、然ル

ニ先般茶業人員取調候処、其調査ニモレタルモノ有之哉ニ相聞候、

果シテ然ルトキハ御達ノ趣意ニ戻ル直ナラズ実業者ノ不都合言ベカ

ラザル義ニ候間茶商人ハ生葉売買スルモノマテ此洩人名届出加盟証

票所持致候様可為致、就而ハ時期切迫候條本月十日限り有無届出候

様可取計此旨諭達候也、

明治十七年四月七日

加茂那賀郡役所

(中略)

勧第三百二号

下田茶業組合幹事副幹事同業者ノ公撰ヲ以テ左ノ人名両役ヲ得候之

事相達候処受書当之致候条其村同業者へ通知可致此旨相達モノ也、

幹事

峯村

山木近吉

副幹事

松崎村

石田米太郎

十七年五月十九日

賀茂那賀郡役所

(後略)

「公布留」1―

158

「(南伊豆町伊浜)肥田家文書」(個人蔵)

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図1 記念碑の画像(表)

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図2 記念碑(裏)