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台湾における「統一」・「独立」論争の起源と展開
― 「中華民国」の立場からの考察 ―
五十嵐 隆幸
はじめに
台湾の政治がメディアで語られるとき、往々にして「統一派」か「独立派」
かという色分けで政党や政治家の特徴が説明される 1。「独立派」は「国家とし
ての独立を目指している」と解説されるのに対し、「統一派」は「親中派」と
して説明され、場合によっては台湾が「中華人民共和国」に併合されるのを望
んでいる人々と見なされる傾向がある。
今日、中国と台湾の統一について議論する際、「中華人民共和国政府」が主
導して統一するものとして考えるのが一般的であろう。その理由として、台湾
と比べ物にならないほど大きな地積、人口、経済規模のほか、国連の常任理事
国としての国際的な存在感があげられる。しかし、中国と台湾は、第二次世界
大戦後に東西冷戦構造が形成される過程で固定化された「分断国家」だという
ことを看過してはなかろうか。つまり、中国と台湾の統一問題を読み解く際、
一方の当事者である「中華民国政府」の主張にも耳を傾けなければ、問題の本
質を見誤ることとなる。だが台湾は、本来ならば「統一」を指向して当然の「分
断国家」でありながら、なぜ「統一」と「独立」といった対立的な議論が生起
するのであろうか。そして、現代台湾政治を「統一派」対「独立派」といった
単純な対立軸で色分けしてもよいのであろうか。
台湾では、1996年の第9回総統選挙以降、国民大会 2が総統を選出する間接
選挙制から、「中華民国自由地区」 3に籍を置く国民全体による直接投票で総統
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を選出する直接選挙制へと改められた。その後、2000年の第10回総統選挙に
おいて、野党・民主進歩党(以下、「民進党」)が勝利して初めての政権交代を
実現させ、2008年の第12回総統選挙で中国国民党(以下、「国民党」)が政権
の座に返り咲いた。そして、2016年の第14回総統選挙で再び民進党が勝利した。
民選開始以降わずか20年で延べ3回の政権交代を経験してきた台湾は、国民党
と民進党による二大政党制が概ね根付いているといえよう。
ここで国民党と民進党の特徴について簡単に説明したい。国民党は、1884
年に孫文が清朝打倒を目標に創設した「興中会」を起源とし、1912年の中華
民国成立を挟んで1919年に結党された。そのルーツを中国大陸に持つ国民党は、
今もなお党章(党規約)において「中華民国の統一実現」を明記している。一
方の民進党は、1986年に国民党の一党独裁体制と「全中国を代表する正統国家」
としての中華民国体制に批判的な勢力が結集して結党された。そして、1991
年に修正した基本綱領で「主権が独立した自主的な台湾共和国の建設」を掲げ
た「独立」志向の強い政党である。国民党と民進党は、「中華民国」をめぐる
立場、すなわち自国の位置付けや中国大陸(中華人民共和国)との関係といっ
た対中政策について対極的な主張を掲げていたことから、双方の対中政策が総
統選挙における最大の争点と言われてきた。
台湾の総統選挙については、民主化の視点から多くの研究者に注目され、と
りわけ日本では、地理的な近さや京都大学へ留学経験のある李登輝元総統の印
象も相まって関心が高く、少なくない成果が蓄積されている 4。だが、総統選
挙における「統一」と「独立」の論争については、「中華民国」の立場で学術
的な検証がなされてきたとは言い難い5。
そこで本稿では最初に『中華民国憲法』の制定と修正の過程を概観し、台湾
の法的地位に関する問題を整理したうえで、国民党と民進党の主張をあらため
て確認する。次に、本来であれば「統一」を指向して当然の「分断国家」であ
りながら、「統一」と「独立」といった対立的な議論が生起する理由について、
台湾社会におけるエスニシティとアイデンティティに着目して考察を進める。
最後に、有権者の選好に着目することで、台湾社会における「統一」と「独立」
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の対立構造を考えてみたい。
1.『中華民国憲法』と台湾
(1) 中華民国政府の台湾移転
今日、多くの国が国家として承認せず、地域として非政府間の実務関係を維
持している「台湾」(TAIWAN)、その台湾の政府は自らの国号を「中華民国」
(Republic of China)と称している。
中華民国は、1912年1月1日に中国大陸において、孫文を臨時大総統として
成立した。そして、現在の中華民国政府の起源は、1925年に成立した中華民
国国民政府に遡る。その後、『中華民国憲法』の制定は国共内戦が続く1946年
12月25日まで遅れ、翌年の12月25日に施行された。
1947年中頃までに国民党が指導する中華民国は、その勢力範囲を中国大陸
の大部分に広げていたのだが、貨幣の大量発行に起因するインフレによって民
衆の支持を失い、農村部を中心に中国共産党(以下、「共産党」)が勢力を盛り
返していった。そして共産党勢力の拡大を前に、中華民国政府は1948年5月10
日に国家総動員と共産党による反乱の鎮定を謳った『動員戡乱時期臨時条款』
を公布し、事実上憲法の諸制度を停止する戦時体制へと移行した。
1948年9月12日に始まった遼瀋会戦で国民党が敗北を喫すると、戦局は一挙
に共産党の優勢へと転じた。国民党の敗色が濃くなると、蔣介石は12月に腹
心の陳誠を台湾省主席に任命し、1949年2月に台湾警備総司令、さらに3月に
は国民党台湾省党部主任を兼任させ、台湾撤退の準備を本格化させた。そして
4月23日に首都・南京が陥落すると、5月19日、台湾全土に「戒厳令」を布く
ことで中央政府を台湾へ移駐する準備を始めた。
1949年10月1日、毛沢東が北京で中華人民共和国の成立を宣言すると、蔣介
石は12月7日に中央政府を台北に移転させ、台湾を「祖国統一」のための復興
基地として位置付けた。こうして、中国全土を適用範囲とする『中華民国憲法』
の下、「全中国を代表する正統国家」としての中華民国体制を維持した政府に
よる台湾の統治が始まり、加えて『動員戡乱時期臨時条款』と「戒厳令」に依っ
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て、共産党政権との内戦状態が法的に継続されたのであった。
(2) 憲法修正による総統直接選挙の実現
1949年10月1日を境に「中国」を自称する二つの政府が台湾海峡の両岸で対
峙することになったが、多くの国が中国を代表する正統政権として認めたのは、
第二次世界大戦の戦勝国であり、国連の安全保障理事会で常任理事国となった
中華民国であった。
その立場が逆転するのは、1971年のことである。10月25日に国連総会で「ア
ルバニア決議」が採択され、共産党が指導する中華人民共和国の国連加盟が認
められると、「漢賊並び立たず(漢賊不両立)」の立場を採る中華民国政府は、
同決議に抗議する形で国連からの脱退を決めた。そして、常任理事国となった
中国は、「一つの中国」原則を掲げて諸外国に中華民国との断交を迫り、断交
した多くの国は「台湾」との非政府間の実務関係を維持した。
その後、『動員戡乱時期臨時条款』と「戒厳令」に依って中華民国側が規定
した法的な内戦状態に変化が現れるのは1986年のことである。10月7日、蔣経
国総統は戒厳令を解除する方針を示し6、翌1987年7月1日に中華民国政府は『動
員戡乱時期国家安全法』を制定・公布したうえで、15日に38年間続いた戒厳
令を解除した 7。ただし、戦時体制を規定する『動員戡乱時期臨時条款』は廃
止されず、法的な内戦状態は継続された。
1990年8月、中華民国政府は、中国大陸に関する政策策定の機能を強化し、
将来における国家統一事業の準備を目的に「国家統一委員会」の設置を決定し
た。この決定に基づき、李登輝総統は10月に国家統一委員会を設置し、大陸
政策の新たなガイドラインとして『国家統一綱領』の策定を開始した。1991
年2月には、国家統一委員会第3回会議において『国家統一綱領』が議決され、
3月の行政院第2223会議において同綱領が採択された8。そして4月22日、国民
大会臨時会議において『動員戡乱時期臨時条款廃止案』が通過し、5月1日に
国家総動員と共産党による反乱の鎮定を国家目標としていた反乱鎮定動員時期、
つまり法的な「国共内戦」状態を一方的に終結させた。
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また同日、『中華民国憲法増修条文』を公布し、前言で「国家統一前の必要
性から」と但し書きをしたうえで、憲法の条文そのものを改正することなく、
条文を追加する形で憲法の修正を行った。この初めての修正において、中華民
国を「自由地区」と「大陸地区」に区分し、実際に統治権が及ぶ「自由地区」、
すなわち「台湾地区」のみから中央民意代表を選出することを規定した。そし
て、1992年の第二次修正、1994年の第三次修正を経て、「台湾地区」に籍を置
く国民による直接投票で正副総統を選出する制度へと改められ、今日に至って
いる。
ここであらためて指摘したい。台湾の政府は国際的承認の多寡を問わず国号
を「中華民国」と称し、中国全土を適用範囲とする『中華民国憲法』の下、「全
中国を代表する正統国家」としての中華民国体制を維持している。つまり、現
代台湾政治を読み解く際、台湾、澎湖、金門、馬祖などを実効統治する政府を
「台湾政府」としてではなく、「台湾地区を統治する中華民国政府」といった視
点で考察することが必要ではなかろうか。
2.台湾の法的地位問題
(1) 日本の降伏と連合国による台湾の「接収」
1945年8月、日本がポツダム宣言9の受諾を決めると、連合国最高司令官マッ
カーサー(Douglas MacArthur)は対日一般命令第1号において、中国大陸(満
州を除く)、台湾及び北緯16度以北の仏領インドシナにいた日本軍に対し、中
国戦区最高司令官である蔣介石への降伏を命じた10。9月2日、連合国に対する
「降伏文書」の調印式が行われ 11、9月9日には南京において、中国戦区に関す
る投降典礼が行われた。そして蔣介石から台湾省行政長官兼台湾省警備総司令
に任命された陳儀は、10月25日に蔣介石の代理として台湾総督兼日本軍第10
方面軍司令官である安藤利吉から降伏を受け、台湾及び澎湖諸島を中華民国の
「台湾省」として編入することを宣言した。
連合国の一員として中華民国が台湾などを「接収」したことについて、それ
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が暫定的な接収、管理にとどまるのか、事実上の領有であるのかについては、
さまざまな立場や見解が見られるが、それは大きく二つに分けることができる。
一つは、中華民国政府が「カイロ宣言」に基づき台湾を自国の領土として接収
する意思があったとの立場によるもの、つまり事実上の領有という見解である。
もう一つは、講和条約締結までは台湾の主権が日本に残る、または帰属が未定
で、原則上は連合国の共同管理下に置かれているとの見解である 12。前者の立
場に基づくのが「接収」を行った当事者たる中華民国政府と、同政府を「承継」
したと主張する中華人民共和国政府である。また、後者の立場は、日本及び「台
湾」の独立を主張する勢力である。以下、それぞれの見解を整理していく。
(2) 台湾の法的地位に関するそれぞれの見解
まず、「台湾」の主権を持っていた日本の立場である。1951年9月8日、日本
はサンフランシスコ講和会議における「日本国との平和条約」(以下、「サンフ
ランシスコ講和条約」)の締結を経て、多くの連合国構成国との間の「戦争状態」
が終結し、主権国家として国際社会に復帰した。この条約において、日本は「台
湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権限及請求権を放棄」した。つまり、「台
湾の帰属決定を連合国に委ねたので何も言えない」というのが日本の立場であ
る。この日本が「放棄」したことに立脚して「台湾の法的地位は未定」である
とし、民族自決を原則とする「大西洋憲章」と「国連憲章」を掲げ、台湾住民
によるレファレンダムで決めることを主張するのが「台湾」の独立を主張する
勢力の立場である。
次に、「接収」を行った中華民国政府の立場である。「カイロ宣言」、「ポツダ
ム宣言」、「降伏文書」により、中華民国に「返還」されたという前提の下、「サ
ンフランシスコ講和条約」の発効直前(日付は同日)の1952年4月28日に調印
した「日本国と中華民国との間の平和条約」(「日華平和条約」)により、日本
が「サンフランシスコ講和条約」において「台湾及び澎湖諸島に対するすべて
の権利、権限及請求権を放棄」したことを承認するのが中華民国政府の立場で
ある13。
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そして、中華民国を承継して中華人民共和国を建国したと主張する中華人民
共和国政府は、「カイロ宣言」、「ポツダム宣言」、「降伏文書」によって台湾は
中華民国に「返還」され、それを引き継いだという立場をとっている14。
なお、台湾の法的地位に対する日本の立場について、理解を複雑にする出来
事が1972年9月29日の日中国交正常化である。日本は、「日本国政府と中華人
民共和国政府の共同声明(日中共同声明)」において、中華人民共和国を中国
の唯一の合法政府として承認した。この共同声明では、台湾に関して「中華人
民共和国政府は、台湾が中華人民共和国政府の領土の不可分の一部であること
を重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解
し、尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」と述べられている。
だがこの文言は、それぞれの政府が自らの立場を述べたものであり、その見解
が一致していないことを示している。つまり、日本は「中国の唯一の合法政府」
として承認する政府を中華民国政府から中華人民共和国政府へと変更したもの
の、「台湾の帰属について何ら物を申すべき立場にない」という従来の立場を
堅持している15。
このように台湾の法的地位に関してはさまざまな立場や見解が見られるが、
ことに台湾社会においては、中華民国に「返還」という立場と、帰属は「未定」
という対極的な主張が混在している。この前者の立場を代表するのが、台湾を
「中華民国の台湾省」と見なす国民党である。そして、後者の立場を代表する
のが、基本綱領で「主権が独立した自主的な台湾共和国の建設」を掲げた民進
党である。両党は1996年の総統民選開始以降、「統一」と「独立」を総統選挙
における争点の一つとしてきたが、その根底には「台湾の法的地位問題」に対
する見解の相違といった原因があったのである。
3.「統一」または「独立」を指向する各政党の主張
(1) 国民党の対中政策基本方針
冒頭で簡単に説明したとおり、国民党は中国大陸にルーツを持ち、今もなお
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党章において「中華民国の統一実現」を明記している。
1949年12月に中華民国政府が台湾へ移転した後、約50年にわたり政権を担っ
てきた国民党は、2000年の総統選挙で民進党に敗北し、初めて野党に転じ、
2004年の総統選挙で再び民進党に敗北した。その後、2005年の党主席選挙に
おいて、クリーンなイメージで世代交代と党改革を訴える馬英九が勝利した。
2005年8月の国民党第17回全国代表大会で党主席に就任した馬英九は、民進党
政権下で悪化している中台両岸関係の改善を党の重要方針と定めた。そして、
民進党政権が受け入れを拒んでいる「一つの中国」問題については、「92年コ
ンセンサス」 16を前提とし、「中華民国」の主権独立を堅持する一方、国号の
変更や台湾独立、中華人民共和国が掲げる「一国二制度」、つまり中華人民共
和国への併合にも反対する立場を政策綱領に明記した。さらに馬英九は、中台
両岸を直ちに統一する意思はないとの見解を示し、現状維持の立場を明確に打
ち出した17。そして2008年の総統選挙では、政権末期に「台湾独立」と見做さ
れかねない急進路線を走った民進党に対し、「現状維持」路線を掲げた馬英九
が民意を獲得して勝利を収め、国民党は8年ぶりに政権を奪回した 18。また、
2012年に再選を果たした馬英九は、その2期目の就任演説において、「一つの
中国」が示す「中国」とは「中華民国」であることを強調したうえで、中台両
岸関係の「現状維持」を主張している19。
しかし、2008年からの2期8年を通じ、馬英九は中国との関係改善による経
済交流の拡大で景気浮揚を目指したのだが、その恩恵を広く行き渡らすことが
できず、有権者の不満が高まっていった。そして、支持率低迷に悩む馬英九は
中国との「平和協定」に言及し、それが世論に「統一」への懸念を持たせてし
まった。さらに馬英九が2013年6月に中国と「両岸サービス貿易協定」を締結し、
それを立法院委員会で強行採決しようとしたことに対し、学生らのグループは
立法院を占拠して馬英九政権に抗議した(いわゆる「ひまわり学生運動」) 20。
こうした馬英九政権に対する不満を背景に、2014年12月の統一地方選挙で国
民党は惨敗し、馬英九は国民党主席の辞任を余儀なくされ、総統の任期を約1
年半も残して馬英九はレームダック化していった。その後、国民党の有力者は
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勝ち目のない総統選挙への立候補を見送り、党内が混乱したまま選挙戦に突入
したため、2016年の総統選挙では下馬評の通り国民党は敗北を喫した。
それでは、2017年8月20日に修正した政策綱領から、野党・国民党の対中政
策を見てみよう。
中華民国憲法の枠組みの下、「統一せず、独立せず、武力行使せず」の現状
を維持し、「92年コンセンサス、一つの中国は各々が解釈する」の尊重を基礎
として、両岸の交流を推進し、中華文化を積極的に発揚し、相互に尊重・寛容
し、両岸の永続的発展を促進し、もって台湾海峡の平和と安定の継続を確保す
る21。
この政策綱領で示された「現状維持」路線は、馬英九政権期間の基本方針を
継承したものであり、当然ながら党章で明記された「中華民国の統一実現」を
目指したものでもある。無論、独立志向が強い側からは、国民党は「終極統一」
の立場を放棄していないとの指摘があがっている。しかし、ここまでの考察を
通じ、国民党は終始一貫して「中華民国としての統一」を目指しており、「中
華人民共和国」への併合を認めていないことが確認できる。
(2) 民進党の対中政策
民進党は、国民党の一党独裁体制と「全中国を代表する正統国家」としての
中華民国体制に批判的な勢力が結集し、政党結成の自由が認められていなかっ
た1986年9月に結党された。そして、同年11月の第1回全国党員代表大会で定
められた基本綱領では、「台湾の前途は、台湾全体の住民により、自由、自主、
普遍、公正をもって平等な方式によって共同で決定する」 22と記された。民進
党の創設メンバーは、結党前に「独立」や「建国」を掲げて非合法活動を展開
していたのだが、結党時の基本綱領では「独立」について言及されなかった。
その後、民進党が初めて公式に「独立」を明言したのは1987年11月に開か
れた第2回全国党員代表大会の時である。その大会決議において、「人民には
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台湾独立を主張する自由がある」と強調された 23。また、翌1988年4月の臨時
大会において「台湾の国際的な主権は独立しており、北京を首都とする中華人
民共和国に属したことはない」と主張するとともに、「四つのもし」決議文を
通過させた。その「もし」とは、「もし国共のどちらか一方が和平を交渉しよ
うとしたら、もし国民党が台湾人民の利益を売り渡そうとしたら、もし中国共
産党が台湾を統一しようとしたら、もし国民党が真の民主憲政を実施しなけれ
ば、民進党は台湾独立を主張する」というものである24。
そして1989年に政党結成が解禁されて合法化されると、党内論争の末、
1991年に基本綱領を修正して「主権独立自主の台湾共和国の建設」を掲げた。
この基本綱領が、いわゆる「台湾独立綱領」であり、民進党が「独立」志向の
強い政党と見なされる所以である。
ここで、民進党が掲げる「独立」とは、民進党は「何」から独立しようとし
ているのかを考えてみたい。まず、「中華人民共和国に属したことはない」と
主張していることから、「何」は中華人民共和国ではないことが指摘できる。
それならば「何」からの独立か。それは「四つのもし」で示された「国民党」、
つまり国民党政権のことであり、外来政権としての性格を持つ「中華民国政府
を指すのではなかろうか。つまり、初期の民進党は「中華民国からの独立」を
目指していたのであった。
それでは、2000年の初めての政権交代は、台湾の民意が「独立」に傾斜し
たことを意味していたのであろうか。民進党は、台湾住民の8割以上が「現状
維持」を望んでいることを認め、1999年5月の全国党員代表大会において「台
湾の前途に関する決議文」を圧倒的多数で採決し、政権交代を視野に入れて柔
軟な方向転換を行った。従来、民進党は「中華民国」という国号は国民党が主
張する呼称であって、「全中国を代表する政府という国民党の虚構」という立
場を採ってきたが、同決議文で「中華民国」を国号として公式に認めたうえで、
「我々は既に独立した主権を持つ国家」とし、「台湾独立綱領」の解釈を修正し
た。そして、民進党が総統候補として選んだのは、後年の一般的イメージとは
異なり、現状維持志向の強い穏健派の陳水扁であった25。
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次に、2016年5月に発足した蔡英文・民進党政権の対中政策について、蔡英
文の就任演説からその方針を確認してみたい。
私は中華民国憲法に基づいて総統に当選し、私には中華民国の主権と領土を
守る責任がある。東シナ海及び南シナ海の問題については、我々は争議の棚上
げと共同開発を主張する。
(中略)私が述べた政治的基礎とは、いくつかの重要な要素がある。第1に、
1992年に両岸の両会による会談という歴史的事実と求同存異という共通の認知、
これが歴史的事実である。第2に、中華民国の現行憲政体制。第3に、両岸の
過去20数年にわたる協議と相互交流の成果。第4に、台湾の民主主義の原則と
普遍の民意である26。
まず、中華民国憲法に基づいて総統に当選したとの主張のほか、政治的基礎
として中華民国の現行憲政体制を説明していることから、蔡英文が「台湾の前
途に関する決議文」に沿って中華民国体制を受け入れていることが確認できる。
また、中華人民共和国との関係については、李登輝・国民党政権において「中
国と台湾は特殊な国と国の関係」とする「二国論」を立案した蔡英文らしく、「統
一」や「独立」に触れることなく対等な立場を意識しており、蔡英文・民進党
政権は「現状維持」路線を指向していることが読み取れる。
無論、凍結状態とはいえど「台湾独立綱領」を廃棄していないため、統一志
向が強い側からは、民進党は「台湾独立」の立場を放棄していないとの指摘が
あがっている。しかし、ここまでの考察を通じ、民進党は党是や理想に従って
「中華民国からの独立」を訴えることはせず、「台湾にある『中華民国』は既に
独立した主権を持つ国家」とのスタンスに立って「現状維持」を主張している
ことが明らかである。
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4.台湾社会のエスニシティとアイデンティティ
(1) エスニシティ:「外省人」と「本省人」
台湾のエスニック・グループは、4つに大別される。最大のグループは、日
本統治が始まる1895年以前に福建省から台湾へ渡ってきた閩南人73.3%、次
いで同じく広東省から移住してきた客家人12%である。この2つのグループを
合わせて「本省人」または「台湾人」と総称される。3番目のグループは、第
2次世界大戦後に国民党とともに来台した人々で、「外省人」と称され全人口
の13%を占める。4番目のグループは、古くから台湾に定住していたマレー・
ポリネシア系の「原住民」であり、僅か1.7%しかいない27。この原住民を除き、
台湾の人口の98%以上は本省人であれ外省人であれ、中国大陸に由来する漢
民族である。しかしながら、そのエスニシティの間には根強い分離傾向が存在
し、それが完全に消え去る気配は見られない28。
1945年までの台湾は日本の植民地支配に置かれていた。日本の敗戦によっ
て台湾は異民族の支配を脱し、漢民族主体の「中華民国」に組み込まれること
となった。台湾の人々は大陸から「中国人同胞」が来ることを歓迎した。しか
し、台湾省行政長官として来台した陳儀らは、日本の教育を受けてきた台湾人
を「中国人化」すべく厳しい統治を行った。そして1947年2月27日、台北市で
闇煙草を販売していた女性を官憲が摘発して暴行を加えたことに起因し、台湾
全土で民衆が反乱を引き起こした。これに対して国民党政府は強硬に弾圧し、
18,000から28,000もの台湾人が虐殺された(いわゆる「二・二八事件」)。こ
の事件によって、本省人と外省人の溝がさらに広がった。そして、本省人の目
には、外省人を主体とする中華民国政府が日本に取って代わる「外来政権」と
して映ったのである29。
歴史的経緯から見ると、中国大陸から台湾へ渡ってきた外省人が中国大陸へ
の帰還を望み、その外省人を主体とする中華民国政府が「中国統一」を指向す
るのは自然なことである。しかし、中国大陸から渡ってきた外省人は台湾社会
の中で1割にも満たず、台湾は「分断国家」と言えども一方の「中国」とは縁
が薄い台湾生まれの本省人が大多数を占めるエスニシティ構造となっている。
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このことは、中華民国政府の目標が「中国統一」であったとしても、台湾社会
には見知らぬ中国大陸との「統一」を必ずしも望まぬ意見が孕まれていること
を意味していた。
(2) アイデンティティ:「中国人」と「台湾人」
1960年代に入ると、台湾社会では厳しい言論統制下にあっても「独立」を
主張する声が聞こえるようになった。この社会の変化を観察した若林正丈は、
本省人の中に「統一」を主張する者がいれば、外省人の中に「独立」を主張す
る者もいると指摘し、「外省人」対「本省人」の二元性と重なりつつも全く同
じではない「中国ナショナリズム」と「台湾ナショナリズム」の対立構造を提
示した 30。中華民国政府の来台初期であれば、外省人が「統一」を指向し、圧
政に苦しむ本省人が声に出せずとも「独立」を望む傾向が見られたであろう。
しかしながら、本省人と外省人の通婚が進み、かつ、外省人であっても実際に
大陸で生まれた者が減っていくことを鑑みると 31、単純に外省人を「統一派」、
本省人を「独立派」と二分することはできなくなっている。
若林は、それぞれの分裂体統治当局(国民党政府と共産党政府)がともに掲
げる統一中国国家の理想を「中国ナショナリズム」と定義した。一方で、戦前、
日本の統治に対抗する形で形成された「台湾人アイデンティティ」が、終戦と
中華民国政府の来台によって「外省人」に対抗する形で再び「台湾人アイデン
ティティ」が出現したと指摘する32。
それでは、台湾社会に住む人々は自らを「台湾人」と意識しているのか、そ
れとも「中国人」なのか、アイデンティティに関するアンケート結果を見てみ
たい。台湾の政治大学選挙研究センターの調査によると、自らを「台湾人」と
意識しているのが55.3%、「台湾人でもあり中国人でもある」が37.3%、「中国
人」が3.8%、無回答が3.7%であった(2017年12月付)33。この結果を見ると、
4割近くが「台湾人でもあり中国人でもある」と中庸の回答をしており、台湾
社会を単に「台湾ナショナリズム」と「中国ナショナリズム」の対立構造で二
分するのが難しいことがわかる。
-40-
もちろん、このアイデンティティが「統一」や「独立」といった態度に直結
しているとは言えない。しかしながら、自らを「台湾人」として意識している
者は、たとえ「独立」を求めていなくても「中国」の国民として「統一」を望
む意識が欠けているといっても過言ではなかろう。そして、自らを「中国人」
として意識している者が「台湾人でもあり中国人でもある」との中庸の考えを
合わせても4割程度にとどまり、半数以上が「台湾人」だと意識している現状は、
台湾を単純に「分断国家」の枠組みで説明することが難しいことを表している。
5.台湾社会における「統一」と「独立」の対立構造の実態
(1) 台湾の政党システム
台湾では国民党の一党独裁体制と「全中国を代表する正統国家」としての中
華民国体制に批判的な勢力が結集して民進党が結成され、民選開始以降わずか
20年で国民党と民進党による「二大政党制」が概ね定着している。そこで、「保
守」対「革新」の伝統的なイデオロギーを例として二大政党制のメカニズムを
説明したダウンズのアプローチを使い、「統一」と「独立」の対立軸を例にとっ
て台湾の政党システムを考察してみたい34。
仮に台湾の有権者の選好が図の「双峰型」のように「統一」対「独立」で両
極に分かれている場合、統一寄りの政党も独立寄りの政党も共に対立する政策
を徹底し、有権者の少ない中点Mに向かうことは考えられない。このように有
権者の選好が両極に分かれているのであれば、台湾政治を「統一」と「独立」
の対立軸で読み解いても問題ないであろう。だが「双峰型」は、政治が不安定
になり、革命に通ずる傾向があることから、20年以上も民主的な選挙で政権
交代を繰り返してきた台湾には、当てはまらない。
実際、台湾の有権者は12.5%が「統一」、22.2%が「独立」、58.3%が「現状
維持」に賛成しており、図の「単峰型」のように選好が中央に寄っている 35。
この「単峰型」では、両党の主張が中点Mから等間隔の安定状態にあった場合、
統一寄りの政党が政策を左端に動かしたとすれば元のAの位置で支持を受けて
-41-
いた有権者が離反する。反対に、政策を端ではなく中央寄りに動かすことによっ
て、より多くの有権者の支持を得ることができる。そのため、統一寄りの政党
が政策の軸を中央に動かすと、独立寄りの政党も対抗して中央に動かし、結果
として両党の政策は以前よりも中点M寄りの等間隔で安定状態になる。
図 ダウンズの2大政党制モデルの応用(「統一」−「独立」の軸)
(出所) ダウンズ・アンソニー『民主主義の経済理論』吉田精司監訳(成文堂、1980年、
121-124頁)を参考に筆者が作成。
このように、台湾の近年における政党システムは、ダウンズによる「単峰型」
の二大政党制として説明することができる。
(2) 政党システムからみた台湾の政権交代とその特徴
台湾で初めて政権が交代した2000年の中華民国総統選挙以降、2008年に「独
立」を指向した民進党から「統一」を指向した国民党へ再び政権が交代し、さ
らに2016年に再度民進党へ政権交代した過程について、ダウンズの「単峰型」
を活用し、説明していく。
2000年から始まった陳水扁・民進党政権は、李登輝・国民党政権の後期に
中国と対立関係に陥ったこともあり、当初中国との関係改善を求める「融和的
政策」を追求した。ところが、中国側からポジティブな反応が得られなかった
ため、陳水扁は再選のために対中政策を独立路線に転換した36。そして2004年
の総統選挙では、「台湾人アイデンティティ」に訴えた陳水扁の選挙戦略が成
-42-
功し、0.229%の僅差で陳水扁は勝利した37。
だが、陳水扁の急進路線は、次第に多数を占める中間派選挙民の支持を失っ
ていった。そして2008年の総統選挙では、民進党内で穏健路線を掲げる謝長
廷が総統候補として出馬したものの、既に「現状維持」を望む中間派選挙民は
民進党から離反しており、「現状維持」を主張した馬英九・国民党候補が中間
派選挙民の受け皿となって勝利を収めた38。
2008年の選挙で壊滅的な打撃を受けた民進党は、その再建に向け、学者出
身で党歴が浅く、党内派閥のしがらみがない蔡英文を主席に選出した。2012
年の総統選挙における蔡英文の選挙戦略は、現職の馬英九に有利な対中政策を
争点から外し、馬英九の弱点である経済格差の問題を争点化させるというもの
だった 39。だが、中国との関係改善によって経済的な成果を出している馬政権
に対し、蔡英文は魅力的な経済政策を示すことができなかった 40。また、「92
年コンセンサス」を軸として対中政策と現状維持路線で勝負する馬英九に対し、
同コンセンサスの存在を否定して十分に説明できなかった蔡英文は、中国との
交流で経済的恩恵を求める民意を得ることができなかった41。結局、2012年の
総統選挙は「92年コンセンサス」を巡る対中政策が最大の争点となったが、
それは「統一」対「独立」の立場を争うものではなく、経済的観点から中国と
の関係を重視する民意の表れであった。
2016年の総統選挙では、蔡英文は2012年の敗因となった対中政策の公約を
敢えて発表しなかった。当初の国民党候補であった洪秀柱は、対中政策で蔡英
文に論争を迫ったのだが、蔡英文は「現状維持」と曖昧なままにした。むしろ
洪秀柱の過激な発言が「統一派」と見なされて世論の反発を買ったため、国民
党は朱立倫主席を新たな総統候補として擁立し、挽回を図ろうとした。だが台
湾の世論は、馬英九が自らの業績のために「平和協定」や「両岸サービス協定」
などで中国に過剰な譲歩をすることを危惧していたため、国民党政権に対する
支持は低迷していた 42。そのため、「現状維持」を望む中間派選挙民は民進党
を支持し、蔡英文の圧勝で再び政権が交代した。
この流れを整理すると、2004年の総統選挙では、現職総統の陳水扁が政策
-43-
の軸を「独立」に動かしたものの、民意を得た陳水扁が民進党候補として僅差
で勝利した。だが、陳水扁が更に「独立」へと傾いたため、2008年は後継候
補の謝長廷が影響を受け、「現状維持」を掲げた国民党候補の馬英九が勝利した。
2012年は現職総統の馬英九が中国との関係改善によって経済的な成果を強調
する一方で、民進党候補の蔡英文は魅力的な経済政策を示すことができず、馬
英九が再選を果たした。そして2016年は、馬英九が中国に対して過剰に譲歩
する姿勢を見せ、かつ当初の国民党候補が「統一」指向の発言を繰り返したこ
とにより、「現状維持」を掲げた民進党候補の蔡英文が有権者の支持を集め、
大差をつけて勝利を収めたのであった。
ここまでの説明で、台湾の総統選挙では、それぞれの政党が対中政策を「独
立」または「統一」といった端に向かって動かすか、もしくは有権者がそのよ
うに捉えた場合、「現状維持」を掲げた候補がより多くの支持を集めて選挙戦
を制する傾向が明らかになってくる。つまり、有権者の間におおまかながら「現
状維持」といった合意があるため、現代台湾政治は安定した均衡状態を維持し
ていると言えよう。
また、「政策を中央寄りに動かす傾向」は浮かび上がってこないが、2016年
の総統選挙で蔡英文が対中政策を敢えて発表せずに勝利したことは、ダウンズ
が主張する「二大政党制の下では、綱領を曖昧かつ不明瞭にして、有権者が非
合理的になるよう助長することが、各政党にとっては合理的なのである」とい
うことを証明している。
両党は「統一」または「独立」を目標とした綱領こそ変更していない。だが、
選挙において相手よりも多くの票を獲得するためには、有権者の半数以上が望
む「現状維持」に訴えざるを得ず、結果として互いに似通った「現状維持」へ
と対中政策を調整することになってしまうのであった。
おわりに
中華人民共和国と中華民国は、1949年を境に台湾海峡両岸で対峙を続ける「分
-44-
断国家」である。だが、中華民国政府が置かれている台湾は、「分断国家」の
一方として本来ならば「統一」を指向して当然であるにもかかわらず、「独立」
や「現状維持」といった主張が存在している。
これまで、中国と台湾の統一について議論する際、中国大陸にある中華人民
共和国政府が主導して統一するものと考えるのが一般的であった。そのため、
本稿では「台湾は、本来ならば『統一』を指向して当然の『分断国家』であり
ながら、なぜ『統一』と『独立』といった対立的な議論が生起するのであろう
か」という問いを立て、一方の当事者である中華民国側に着目して分析を進め
てきた。
その結果、第一に、1945年の終戦に起因する「台湾の法的地位問題」に関
して、台湾には「中華民国に『返還』」という立場と、「帰属は『未定』」とい
う主張が混在しており、その前者の立場を代表する国民党と、後者の立場を代
表する民進党が、総統選挙で「統一」と「独立」を争点として争ってきたこと
を確認した。
第二に、国民党と民進党の主張を歴史的に整理すると、国民党が主張する「統
一」とは、終始一貫して「中華民国としての統一」であり、「中華人民共和国」
への併合には反対する立場にあることを確認した。一方の民進党も「中華人民
共和国に属したことはない」との立場にあり、「独立」の主張については柔軟
な方向転換を行い、「台湾にある『中華民国』は既に独立した主権を持つ国家」
とのスタンスに立っていることを明らかにした。
第三に、エスニシティとアイデンティティの面から考察すると、台湾は「分
断国家」と言えども「中国」とは縁が薄い台湾生まれの本省人が住民の大多数
を占め、また自らを「中国人ではなく台湾人」と意識する者も半数以上に達し
ており、必ずしも「統一」を望まぬ意見が醸成されやすい環境であることを明
らかにした。
第四に、台湾では対極的な対中政策を掲げる二大政党が総統選挙を争ってき
たため、社会にも「統一」と「独立」の対立構造が存在するものと捉えられが
ちであったが、有権者の半数以上が中台関係の「現状維持」を望んでいること
-45-
から、必ずしもその対立構造で台湾社会を説明することができないことを明ら
かにした。そして、現代台湾政治を「統一派」対「独立派」といった単純な対
立軸で色分けすることもできないのである。
最後に、国民党と民進党は、「現状維持」を選好する中間層の支持を得るため、
今後ますます「統一」または「独立」といった党是を曖昧かつ不明瞭にし、と
もに「現状維持」路線で選挙戦に挑む傾向が強まっていくであろう。また、
2012年と2016年の総統選挙では経済成長の停滞を背景に両党の経済政策が関
心を集めていたことを鑑みると、今後の総統選挙では有権者が自らの生活に直
結する政策を選好して投票する傾向が強まり、「統一」や「独立」といった将
来ビジョンは総統選挙における主要な争点にならないことを指摘し、本稿の結
論としたい。
注
1 本稿では、特に断らない限り、「台湾」については実効支配領域の変化や国際的承
認の多寡を問わず「中華民国」と称し、その政府を「中華民国政府」と称する。
2 「国民大会」とは、総統、副総統の選出及び解任、憲法改正、立法院の提案する憲
法改正の承認などを行う権限を持つ中華民国における国民の政権行使の最高機関で
ある。1947年の第1回選挙で定数3,045人のうち2,961人が選出され、1948年5月の
第1回会議で蔣介石を総統に、李宗仁を副総統に選出した。代表の任期は6年。大会
は6年に1回開かれることになっていたが、1947年以来代表は全面改選されず「終
身代表」となった。代表の老齢化につれ人数が減ったため、1969年以降、欠員の
補充選挙が行われた。その後、終身代表の全員引退を受けて1991年12月に第2回選
挙が行われた(若林正丈、劉進慶、松永正義編『台湾百科・第2版』大修館書店、
1995年)。
3 「中華民国自由地区」とは、1991年に『中華民国憲法』が初めて修正された際に規
定されたもので、中華民国政府の実効支配領域を指す。同じ意味を持つ言葉として、
1992年に施行された『台湾地区と大陸地区人民関係条例』では、「台湾地区」との
用語が使われており、その適用範囲については、「1.台湾地区とは、台湾、澎湖、
金門、馬祖及び政府の統治権の及ぶその他の地区を言う。2.大陸地区とは、台湾地
区以外の中華民国の領土を言う」と規定されている。
4 小笠原欣幸は、フィールドワークで積み重ねた蓄積に基づく精微な分析で導かれた
選挙予測の正確性の高さから、台湾の主要メディアで大々的に紹介されている(「被
『姚神』推崇神人級預測『他』再断言:国民党難再起」『自由時報』2016年1月20日〈http://news.ltn.com.tw/news/politics/breakingnews/1578537〉2018年1月23日ア
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クセス)。また、台湾と対峙する中国側が主催するフォーラムに、小笠原をはじめ
とする日本の研究者が招聘されているように、その選挙分析は高く評価されている
(「我所挙辦2016年第三次“両岸政策観察論壇”」『中国社会科学院台湾研究所HP』2016年3月11日
〈http://cass.its.taiwan.cn/jdt/201603/t20160311_11407777.htm〉2018年1月23日アクセス)。
5 総統選挙に関する研究ではないが、「中華民国」側の視点から「中国統一」に関し
て論じた研究の多くは蔣介石時代の「大陸反攻」を主要テーマとしている。その代
表的な研究は松田康博によるものであろう(松田康博「台湾の大陸政策(1950-58年)
―『大陸反攻』の態勢と作戦」『日本台湾学会報』第4号、2002年など)。
6 「希望尽早解除戒厳令」蔣経国先生全集編輯委員会『蔣経国先生全集』第15冊、台北:
行政院新聞局、1991年、175-178頁。
7 中国大陸に近接する金門及び馬祖の戒厳令解除は、約5年後の1992年11月7日になっ
てからである。
8 「国家統一委員会」の設置と「国家統一綱領」の策定については、若林『台湾の政
治―中華民国台湾化の戦後史』182-183頁を参照。
9 「ポツダム宣言」(1945年7月26日署名):8 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク
又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラ
ルベシ。なお、「ポツダム宣言」に継承された「カイロ宣言」(1943年11月27日署名)
では、「同盟国ノ目的ハ日本国ヨリ千九百十四年ノ第一次世界戦争ノ開始以後ニ於
テ日本国ガ奪取シ又ハ占領シタル太平洋ニ於ケル一切ノ島嶼ヲ剥奪スルコト竝ニ満
洲,台湾及膨湖島ノ如キ日本国ガ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返
還スルコトニ在リ」とされている。
10 Office of the supreme commander for the allied powers, “General Order No.I,” September 2, 1945, <http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000097066.pdf>, accessed on February 4, 2016.
11 1945年9月2日に東京湾上のミズーリ号で調印された「降伏文書」には、「『ポツダム』
宣言ノ条項ヲ誠実ニ履行スルコト」と記されている(“Instrument of Surrender,” <http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000097065.pdf>)。
12 川島真、清水麗、松田康博、楊永明『日台関係史1945-2008』東京大学出版会、
2009年、25頁。
13 「サンフランシスコ講和会議」の開催にあたり、その合同招聘者たるアメリカとイ
ギリスがそれぞれ中華民国政府または中華人民共和国政府を承認していたために対
立し、「中国」に招待状を送付しなかった。そして米英両国は、日本と中国の関係
は日本が決めるということで決着し、同会議とは別に日本が「中国」と平和条約を
結ぶこととなった。
14 中国政府の台湾に対する立場は、次の白書で示されている。中華人民共和国国務院
台湾事務弁公室「台湾問題与中国統一」1993年9月1日 〈http://www.gwytb.gov.cn/zt/baipishu/201101/t20110118_1700018.htm〉(2017年
4月12日アクセス);中華人民共和国国務院台湾事務弁公室「一個中国的原則与台湾
問 題」 2 0 0 0年2月 〈h t t p : / / w w w. g w y t b . g o v. c n / z t / b a i p i s h u / 2 0 11 0 1 /t20110118_1700148.htm〉(2017年4月12日アクセス)。なお、「台湾問題」とは、
中華人民共和国政府が台湾の主権に関する問題について用いる用語であり、今日で
は、同政府及び中国共産党の宣伝工作によって国際的に定着しつつある。しかし、
元来、日本がサンフランシスコ講和条約で台湾の領土権を放棄したことに端をなす
-47-
この問題は、国際的にも「台湾の地位に関する問題」、「台湾の法的地位に関する問
題」、「台湾の政治的地位に関する問題」などと呼ばれていた。また、台湾側も「台
湾問題」という用語は認めておらず、以前は台湾の主権をめぐる中華民国と中華人
民共和国間の問題という意味で「中国問題」と称していたが、近年では「両岸問題」
という用語が定着している。
15 「第75回国会衆議院外務委員会議事録」(1975年2月28日):共同声明におきまして
中国側の立場を理解し尊重するということを認めたわけでございますが、日本国政
府といたしましてはポツダム宣言の立場を堅持するということでございまして、そ
の意味するところは、台湾の地域というものが中国政府に帰属するものであること
を当然に認めたものではなく、日本政府といたしましてはそれに関しては何ら物を
申すべき立場にないということでございます。
16 「92年コンセンサス」とは、1992年に中台双方の窓口機関による事務レベルの交渉
過程で形成されたとされ、2000年以降にこの名称で呼ばれることとなった。これ
を中国共産党側が「一つの中国原則を口頭で確認した合意」と解釈する一方で、台
湾の国民党側は「一つの中国の中身については、各々(中華民国と中華人民共和国)
が述べることで合意」と解釈している。
17 松本充豊「国民党の政権奪回―馬英九とその選挙戦略―」若林正丈編『ポスト民主
化期の台湾政治―陳水扁政権の8年―』アジア経済研究所、2010年、107-108頁。
18 同上書、114-117頁。
19 中華民国総統府「中華民国第13任総統、副総統宣誓就職典礼」2012年5月20日 〈http://www.president.gov.tw/NEWS/16612〉(2018年1月10日アクセス)。就任演
説の中で示された「92年コンセンサス」とは、92年に中台双方の窓口機関による
事務レベルの交渉過程で形成されたとされ、2000年以降にこの名称で呼ばれるこ
ととなった。これを中国側が「一つの中国原則を口頭で確認した合意」と解釈する
一方で、台湾側は「一つの中国の中身については、各々(中華民国と中華人民共和
国)が述べることで合意」と解釈している。なお、本論文において「両岸関係」は、
中国と台湾の関係の略称である「中台関係」と同義語として取り扱う。
20 竹内孝之「2016年台湾総統選挙、立法委員選挙:国民党の大敗と蔡英文次期政権
の展望」アジア経済研究所、2016年2月、3-4頁〈http://www.ide.go.jp/Japanese/IDEsquare/Eyes/2016/RCT201602_001.html〉(2018年1月19日アクセス)。
21 中国国民党「中国国民党政策綱領―革新・団結・重返執政―」2017年8月20日 〈http://www.kmt.org.tw/p/blog-page_3.html〉(2018年1月27日アクセス)。
22 李筱峰「民主進歩党」文化部『台湾大百科全書』2009年9月24日 〈http://nrch.culture.tw/twpedia.aspx?id=3882〉(2018年1月27日アクセス)。
23 民主進歩党「譲国家繁栄 譲人民安心」2016年11月22日、38頁 〈https://www.dpp.org.tw/upload/download/20161122103115_link.pdf〉(2018年1
月27日アクセス)。
24 同上。
25 松本はる香「最近の台湾情勢(平成11年度)―台湾総統選挙と陳水扁政権下の中台
関係―」平成11年度日本国際問題研究所自主研究『アジア太平洋の安全保障』研究
会報告、2000年、4頁。
26 中華民国総統府「中華民国第14任総統、副総統宣誓就職専輯」2016年5月20日〈http://www.president.gov.tw/Page/251〉(2018年1月30日アクセス)。
27 菅野敦志によると、台湾では省籍による人口統計が存在しないため、現在に至るま
で言語学者黄宣範による1989年の統計が広く引用されている(菅野敦志『台湾の
-48-
国家と文化―「脱日本化」・「中国化」・「台湾化」』勁草書房、2011年、9-10頁;黄
宣範『語言、社会與族群意識―台湾語言社会学的研究』台北:文鶴出版、1993年)。
なお、「原住民」について、日本語の場合は「先住民族」の名称を使用すべきだが、
台湾では「原住民」の名称が正式名称であるため、本稿でも「原住民」と表記する。
28 菅野『台湾の国家と文化―「脱日本化」・「中国化」・「台湾化」』、10頁。
29 台湾の人々は、日本人は煩くても番犬として役に立つが、大陸から来た外省人は寝
て食べているだけで役に立たないという意味を込め、「犬が去って豚が来た」と揶
揄した。
30 若林正丈『台湾―分裂国家と民主化』東京大学出版会、1992年、28頁。台湾にお
けるナショナリズムやアイデンティティに関して詳細には、若林正丈の研究を参照
されたい(若林正丈「台湾をめぐるアイデンティティの政治―民主化・エスノポリ
ティクス・ナショナリズム」毛利和子編『現代中国の構造変動七 中華世界―アイ
デンティティの再編』東京大学出版会、2001年、255-279頁;同「現代台湾におけ
る台湾ナショナリズムの展開とその現在的帰結」『日本台湾学会報』第5報、2003年5月、142-160頁)。
31 かつて国勢調査で省籍に関する調査を行っていた時期においては、大陸出身者の男
性を筆頭とする通婚世帯を「外省人」のカテゴリーに記録していた。また、大陸生
まれの者が台湾の人口に占める比率については、1950年の約15%が1985年には5.7%に減少している(田弘茂『台湾の政治』中川昌郎訳、サイマル出版会、1994年、
47-48頁)。
32 若林『台湾―分裂国家と民主化』、22-28頁。
33 1992年以来、台湾民衆のアイデンティティに関する意識を調査してきた政治大学
選挙研究センターの報告資料による〈http://esc.nccu.edu.tw/course/news.php?Sn=166〉(2018年2月6日アクセス)。
34 ダウンズ・アンソニー『民主主義の経済理論』吉田精司監訳、成文堂、1980年、
121-124頁。
35 1994年以来、台湾民衆の統一と独立に対する意識を調査してきた政治大学選挙研
究センターによると、2017年12月の時点で、統一に賛成12.5%(速やかに統一2.2%、
統一寄り10.3%)、現状維持58.3%(現状維持後に決定33.2%、永遠に現状維持
25.1%)、独立に賛成22.2%(独立寄り17.2%、速やかに独立5.0%)、無回答6.8%であった(統一については中華人民共和国または中華民国といった立場は問わず、
独立についても中華民国や台湾などの名義は問わない設問形式)
〈http://esc.nccu.edu.tw/course/news.php?Sn=167〉(2018年1月31日アクセス)。
36 松田康博「改善の『機会』は存在したか?―中台対立の構造変化―」若林編『ポス
ト民主化期の台湾政治―陳水扁政権の8年―』、232-233頁。
37 若林正丈『台湾の政治―中華民国台湾化の政治史』東京大学出版会、2008年、292-293頁。
38 松本「国民党の政権奪回」若林編『ポスト民主化期の台湾政治』、114-115頁。
39 松本充豊「民主進歩党と蔡英文の挑戦」小笠原欣幸・佐藤幸人編『馬英九再選―
2012年台湾総統選挙の結果とその影響』アジア経済研究所、2012年、86頁。
40 佐藤幸人「選挙の争点に浮上した経済問題」小笠原・佐藤編『馬英九再選』、54-55頁。
41 小笠原欣幸「選挙のプロセスと勝敗を決めた要因」小笠原・佐藤編『馬英九再選』、
34-35頁。
42 竹内「2016年台湾総統選挙、立法委員選挙:国民党の大敗と蔡英文次期政権の展望」、