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1 「松下の系列販売店 の復活はあるのか」 ~台頭する家電量販店の中で松下幸之助の精神 を守れるか~ 中央大学商学部河邑ゼミ 99C1111007 I 入 俊樹

「松下の系列販売店 の復活はあるのか」 - 中央大学c-faculty.chuo-u.ac.jp/~hjm_kwmr/9/past/soturon-iri.pdf1 「松下の系列販売店 の復活はあるのか」

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1

「松下の系列販売店

の復活はあるのか」 ~台頭する家電量販店の中で松下幸之助の精神

を守れるか~

中央大学商学部河邑ゼミ

99C1111007 I

入 俊樹

2

目次

Ⅰ.はじめに

Ⅱ.開発

1.製品開発

(1)製品開発のあり方

(2)日本の家電メーカーの製品開発

2.松下の商品開発

(1)松下の商品開発の始まり

(2)松下の研究開発の特徴と松下幸助の事業観

①社会必要性に基づく研究開発

②困難でもやり抜く

③技術独占はせずに機能で勝負

④量産の前提

⑤生産技術の重視

⑥人作りの重視

⑦事業部を核とした分権的管理

3.海外における研究開発

(1)海外研究開発

(2)海外研究開発の理由

(3)日本での研究開発

①白モノ家電

4.日本の家電製品のシェアと動向

(1)テレビ

①推移と現況

②今後の展望と販売店との関係

(2)ルームエアコン

①推移と現況

②今後の展望

(3)VTR

①推移と現況

②今後の展望

(4)冷蔵庫

3

①推移と現況

②今後の展望

(5)洗濯機

①推移と現況

②今後の展望

Ⅲ.生産

1.松下の生産

(1)大量生産・大量販売

①大量生産・大量販売

②大量生産・大量販売の限界と系列販売店

(2)ダム経営

(3)日本的経営システム

①日本的生産システム

②日本的生産システムと系列販売店

2.海外生産

(1)日本の家電メーカーの海外戦略

(2)海外現地生産

①海外現地生産の目的・意義

(3)海外現地生産の発展

①アジアでの海外生産

②欧米での現地生産

③中国への進出

(4)海外生産比率

①海外現地生産の本格展開

②産業の空洞化

(5)国内に生産を残す取り組み

Ⅳ.販売

1.松下の系列販売店の歴史

(1)始めに

(2)戦前における販売系列の形成

①営業所網の展開

②卸売商・小売店の系列化

4

(3)1950年代における販売系列の形成

①販売系列の再建

②販売系列の設立

(4)マルチチャネル時代の到来

2.家電量販店の台頭

(1)家電量販店

①コジマ

②ベスト電器

③ヤマダ電機

3.系列販売店と家電量販店

(1)松下の系列販売店の現状と努力

①系列販売店の現状

②松下電器商学院

③支配体制のリストラ

④「悪平等」の解消

⑤熱心な店が救われる販促組織

⑥プロショップ道場

⑦日本最大の系列家電販売網で介護関連商品レンタルの展開

(2)日本的経営との関係

①終身雇用

②年功序列

③能力主義

(3)事業部制

①事業部制と松下幸之助

②事業部制と系列販売店の関係

(4)週休2日制

①日本初の週休2日制の始まり

②週休2日制実現へ

③週休2日制と系列販売店

(5)企業ブランド

①ナショナル・パナソニックの始まり

②ブランドと系列販売店

Ⅴ.市場調査

1.調査目的・意義

5

2.調査内容

3.調査結果

4.感想

Ⅵ.総括

・ 図表一覧

・ 図表

・ 参考文献

Ⅰ.はじめに

日本の家電産業は、日本を代表とする産業であり、戦後から日本の製造業を牽引してき

たトップ産業である。

その日本の家電産業の中で、最も規模が大きい販売網を持っているのが松下である。

「販売の松下」とも言われるその松下の販売力の強さは、販売系列の果たした貢献なしに

は考えられない。敗戦後、松下幸之助は戦前の販売代理店制度の復活を直ちに始めたくら

い販売というものを重要視していた。そして、強固な流通販売網を築き上げた。しかし、

1970年代になり、量販店が参入、次第にシェアを拡大し、1985年には日本での家

電製品の総販売額の50%を売るほどに成長した。

1960年には最大4万店あった松下の系列販売店も、徐々に数を減らし、1992年

には2万5千店、そして現在では2万店弱に減少した。私の家の回り(中学校の学区内)

にも松下の販売店が3店舗あるが、家電量販店やディスカウントストアと比べると何とな

く元気がないというのが現状である。それでも、コンビニエンスストア大手のセブンイレ

ブンの現在の店舗数が約1万店であるから、その2倍はあることになる。

ここまでを見ると、松下の系列販売店はますます衰退していくように見える。しかし、

店舗数の減少や量販店・ディスカウントストアの台頭等を見て、松下の系列販売店は今後

衰退し、松下も崩壊すると言っていいのであろうか。松下の系列販売店は家電量販店やデ

ィスカウントストアに押しつぶされてしまうのか、また、消費者の地域販売店離れは続く

のか。

この疑問を明らかにするため、私は、卒業論文のテーマを「松下の系列販売店の復活は

あるのか」とし、サブテーマとして、`台頭する家電量販店の中で松下幸之助の精神を守

れるか`とした。そして、テーマについて私なりの結論を論述しようと思う。

では、章立ての説明をする。私は、このテーマについて開発・生産・販売という3つの

6

面からテーマについて論述する。

2章では、開発という立場から論述する。製品開発とは何なのか、日本の家電メーカー

の商品開発、松下の商品開発、そして海外での開発と論述し、最後に日本の家電製品5つ

のシェアと今後の動向について述べる。これは、系列販売店で取り扱うことに多い商品で

ある。

3章では、生産という立場から論述する。ここでは、松下の生産、そして主には海外生

産について述べる。海外生産と系列販売店の疲労には何らかの関係があると思われるので

それを明らかにしたい。

そして4章では、販売面から論述する。松下の系列販売店の歴史から、現状、そしてど

のような努力をしているのかを検討したい。また、日本的経営もしくは松下が最初となっ

た事業部制や週休2日制などから見た販売店と量販店について論述する。

5章では、市場調査をする。松下の系列販売店、もしくは家電量販店について実際に現

状について肌で感じたい。

そして6章では総括をする。最初に系列販売店の問題点をいくつか述べた上で、開発が

販売に対してどう影響を及ぼすか、また生産が販売にどう影響を及ぼすかということを含

めて総括をし、結論を論述する。

Ⅱ.開発

1.製品開発

(1)製品開発のあり方

製品開発は、将来の顧客の満足や期待を取り込んだ製品コンセプトを形成(製品企画)

し、それを技術的な仕様に置き換え(製品計画、基本設計)、それに基づき製品、部品の

詳細設計(製品設計)が行われ、同時に生産のための生産準備がされ(工程設計、治工具

設計、量産試作)、生産が立ち上げられるまでを指す。さらに広義には、生産を立ち上げ

品質問題や設備故障が安定化するまで(初期流動期間)を含めることもある。

このようなプロセスで、最終的に顧客にとって品質面でもコスト面でも魅力的な製品を、

タイムリーに市場に投入するためには、(図表1)に示すように、ちょうど製品ライフサ

イクルを製造の前で折り曲げた対応関係での各ステップの活動が求められてくる。

すなわち製品コンセプトを創造する段階では、技術やマーケットの動向を読んだ上で、

将来の顧客を想定しその顧客の満足や魅力を引き出すコンセプトを打ち出せる必要がある。

そしてそれを具体的な仕様に落とし込む製品企画(計画)では、自社の保有する技術や必

7

要開発技術のスケジュールを念頭に入れた上で、コンセプトを具体化しかつそれを合理的

な売価と LCC(ライフサイクルコスト:売価+顧客の運営段階にかかるコスト)を実現す

るための方策を立案する必要がある。

さらに製品・部品設計では、品質、コストの目標がブレークダウンされ、同時に顧客の

使用・運営上における潜在的な品質上(マイナスの品質)の問題点をデザインレビューな

どを通じて抽出しておくことも必要不可欠なことである。さらにこの段階で製造容易性な

ども、製品・部品設計の重要な目標、制約となる。

最後に製品・部品設計を受けた工程設計では、生産立ち上げからすぐに安定した品質や

設備が稼働できるように、製造上の潜在的な問題点の抽出を行い、短期に生産を安定化さ

せることが求められる。1

このように製品開発は、将来の顧客の満足と魅力を引き出すためのコンセプトを正しく

実現するために、顧客の購買・使用プロセス、そして製造プロセスを目標とした一種のシ

ュミレーション活動の連続ともいえる。すなわち目標を達成するための「設計ー試作ーテ

スト」の繰り返しである。ここでいう設計とは、具体的仕様の指定や図面だけでなく仮説

的な概念も含む、また試作やテストも、実物試作だけでなくコンピュータモデル及びそれ

に基づくシュミレーション、さらにはより簡単なイメージ図などによる技術検討も含んで

いる。

(2)日本の家電メーカーの製品開発

家庭電機業界は、戦後急成長を遂げた産業である。戦前は、家電製品としては、ラジオ

を除くと全く微々たるものであった。しかし、戦後、生活の落ち着きと国民所得水準の上

昇、消費者意識の変化による電化生活の普及とともに家電ブームが訪れ、家電業界は開花

した。昭和30年代に入って、家電メーカーは、競って、①大量生産方式の確立による価

格の低下、②販売体制、サービス体制の確立、③消費者信用給与体制の整備を図るなどに

より販売促進を図った。

この結果、昭和30年代には僅かに680億円の生産規模であった家電業界は、昭和3

5年には4345億円(6.4倍)、昭和40年には7137億円(10.5倍)、昭和

45年には2兆5148億円(37.0倍)と急速に拡大し、昭和48年には3兆円、昭

和53年には5兆円、昭和55年には6兆円、昭和57年には6.8兆円の規模を超える

巨大産業に成長した。

家電製品には、電熱応用機器として、電気アイロン、電気ストーブ、電気こたつ、電気

がま、電器温水器、電子レンジなど、モーター応用機器として、扇風機、電気洗濯機、電

気掃除機など、冷凍機応用機器として、冷蔵庫、ルームクーラー、それに、テレビ、VTR、

1 園川隆夫・安達俊行、「製品開発論」、1997年、5~7ページ。

8

ラジオ、テープレコーダー、ステレオなどと極めて広い範囲にわたっている。

家電製品は、需要動向の変化によって、主力商品は時代とともに変化している。すなわ

ち、昭和30年代は、3種の神器と言われている、白黒テレビ、電気洗濯機であったが、

昭和40年代はカラーテレビ、昭和50年代は新4 C 商品であるステレオコンポーネント、

クーラー、電子レンジ、セントラル冷暖房機器となり、昭和50年代後半からは VTR と

変化している。2

ちなみに、白黒テレビ、カラーテレビ、VTR の生産台数及び出荷金額の推移を見ると

(図表2)のとおりである。

家電産業は、①量産に巨額な投資が必要である、②高性能製品の生産であるため、高度

な生産技術を必要する、③販売網の掌握が必要である、などによって、参入障壁が高い産

業であり、家電部門への大企業のニュー・エントリーは、昭和33年以降はみられなくな

っている。

家電業界は、旺盛な国内需要とともに、輸出の伸長によってその発展が支えられてきた。

しかし、家電業界は今や成熟産業であり、将来は、より高級化・高品質化を志向とすると

ともに、新技術による新製品を開発する必要があり、一方、対外的には貿易摩擦問題があ

り、適切な対応が求められている。

2.松下の商品開発

(1)松下の商品開発の始まり

明治43年(1910)10月、松下幸之助は大阪電灯会社(現・関西電力株式会社)

幸町営業所へ内線見習工として入社した。そして早くも3ヶ月目には熱心さと技能が認め

られ、内線工事担当者へと異例の昇進をしていた。

大正6年(1917年)6月、7年間勤めた大阪電灯を退社した松下幸之助は、独立自

営の意気に燃えて以前から興味を持って研究をしていたソケット製造の準備に取りかかっ

た。この時22歳の松下幸之助の手元には、100円にも満たないわずかな資金があるだ

けであった。最初の作業場も、当時住んでいた大阪市の借家の一部屋であった。ここで、

義弟の井植歳男(後の三洋電機株式会社社長)と電灯会社時代の同僚2人を加えてソケッ

トの製造を開始した。

苦労して製造した最初の製品であったが、このソケットは売れなかった。改良工夫を加

え、開発者をして良い製品と思えるものでも、使用者の側から見れば必ずしもそうでない

2 川越憲治、「最新 販売店契約ハンドブック」、ビジネス社、1986年、317~3

19ページ。

9

こと、使用者から見て必要な商品でなければ売れないことを、幸之助は事業のスタートの

時点で学習させられる結果となった。

電気器具として最初に製造したのは、「改良アタッチメントプラグ(アタチン)」であ

った。古電球の口金を応用した、モダンな新しい型のもので、価格も市価よりも3割も安

く、好評でよく売れた。

次に考案発売したのが、「二灯用差込みプラグ」であった。当時、東京と京都で既に製

造され、便利な器具として売れていたが、品質的に見てまだ改良の余地があり、色々工夫

し実用新案をとって売り出した。これもアタチン以上に好評であった。この2つの製品に

よって松下の事業基盤が築かれ、業界にも認知されるようになっていった。

当時は、東京電気が配線器具のトップメーカーであった。松下もこれらに伍して配線器

具の業界への進出を企図した。そのために商品ラインになかったキーソケットの製造販売

を考えた。しかし当時のキーソケットは研究しつくされ大きな改良の余地はなかった。市

場を調査してみると、東京電気は市価よりも高い独自の値段を付けていたが、その他の企

業は激しく競争していた。

製品ラインを整えるためにはキーソケットが必要であったが、他のメーカーと競争しな

がら製造販売していくことは困難と考えられた。他の種類の製品の改良や、考案のしやす

いものに改良を行い製品を増加していく方が安全で有利と考えられた。このためにキーソ

ケットの製品化は延期した。

製品開発者としての松下幸之助の独創性を示すのが、「電池式自転車ランプ」の開発で

ある。幸之助は自転車店に奉公していた経験から、自転車用品を製造したいという気持ち

を持っていた。

自転車ランプとして、当時は、高級品にはアセチレンガス・ランプも使われていたが、

石油ランプやローソクランプが多く使われていた。自転車に乗って用足しに出たときに、

日が暮れてローソクランプをつけると、風のためによく消えて、その手数に閉口していた。

電池ランプもちらほら見受けられていたが、電池が2、3時間で消耗し、実用にはならな

かった。ローソク・ランプのように途中で消えないこと、明るいこと、この条件を満たす

電池ランプができれば相当売れるのではないかと考えられた。3

構造が簡単で、故障が起こらないこと、電池が少なくとも10時間以上もつこと、この

条件を満足する製品を開発するために、幸之助は、夜遅くまで図面を引き、試作をした。

6ヶ月余り工夫し、試作品も100個近く作った。流れる電流の少ない豆球を使い、電池

も標準品を組み直して特殊型とし、砲弾型のランプに組み込んだ。その結果、30時間か

ら50時間も点灯が持続し、従来品の10倍も長持ちする製品ができた。

3 坂下昭宣、「日本的経営の本流~松下幸之助の発想と戦略~」、PHP 研究所、1997

年、85~87ページ。

松下電工60年史、3~4ページ。

10

部品の多くが外注であった。最初から量産を前提とし、価格もできるだけ下げる努力が

行われた。販売開始の当初は、販売店は乗り気ではなかった。それまでの電池ランプが故

障が多くて評判を落としていたからである。このために電器屋ではなく自転車屋に、しか

も問屋ではなく小売店に、電池ランプを預け、その点灯時間を実験してもらうことによっ

て、製品の優秀さを実感してもらうことを考えた。この販売方法が成功し、自転車ランプ

に革命を起こした。

(2)松下の研究開発の特徴と幸之助の事業観

①社会的必要性に基づく研究開発

松下幸之助は、人々の生活に役立つ品質の優れたものを次々と開発し、それを適正な価

格で、過不足なく十分に供給するというところに、企業の本来の使命があると考えた。幸

之助はエジソンと極めて類似点が多く、エジソンも幸之助も、自分の発明したものを事業

家としていかに世の中に役立てようということを、発明そのものと併せて常に考えていた

という。

このために松下の研究開発は、社会的必要性から行われる。社会の中の潜在的ニーズを

発見し、それを製品として実現するために技術の開発が行われる。その良い例が、ラジオ

の開発のケースに見られた。

もう1つのエピソードとして、非常に優れた乾電池が開発されたときに、ある人が、

「いいことはいけれども、金額はたいしたものではないなあ」と言ったのに対して、幸之

助は非常に怒った。確かに乾電池はテレビのような高額製品に比べたら、売り上げは1桁

か2桁小さいかもしれない。しかしたとえ高額商品でなくでも、世の中に必要なものであ

れば、これこそ松下がやるに値することではないかということなのである。金額の多寡を

問わず、世の中の必要とするものを優れた技術を用いて供給することこそが我が社の理念

であるということを、幸之助は指摘したのである。今現在も、松下は私達が必要としてい

る商品を提供してくれている。

②困難でもやり抜く

社会的必要性から行われる研究開発は、たとえ困難でもやり抜かなければならない。こ

れは松下幸之助の強い考えであり意思である。松下通信工業の幹部会議で、トヨタ自動車

からカーラジオの値段を20%下げて欲しいという要求があり、苦慮しているという報告

を受けたことがあった。トヨタが何故そのような要求をしてきたかというと、貿易の自由

化に直面し、今の値段では海外のメーカーと太刀打ちできない。このままでは日本の自動

車産業が滅んでしまう。だから必死で原価引き下げに努力しているが、カーラジオも部品

の1つなので、値下げしてほしいということであった。

利益率は3%で、常識的に考えれば、断るのが普通かもしれないが、トヨタの立場に立

11

てば自分も同じ要求を出したかもしれず、できないと断るのではなく、なんとしてでも値

段を下げなければならないと、幸之助は考えたのである。そのためには、1時的に損害を

出てもしかたがないから、小手先の変更ではなく、根本的な設計変更をし、20%値段を

下げても利益の出る製品開発するよう指示を出した。技術陣は、根本から設計を見直し、

1年後には要求通り値下げをし、利益も適正なものを得ることができるようになったので

ある。

③技術は独占しないで、機能で勝負

松下幸之助は、技術を差別化の手段とは考えていない。技術に関する特許やノウハウは、

それを開発したところが独占すべきものではなく、すべて適正な価格で公開することが望

ましいと考える。それによって、国家的にみて、同じ研究開発が2重、3重に行われるよ

うなムダが少なくなり、社会全体としての技術の進歩、発達もより進むからである。4

幸之助は、実際に、ある発明家がラジオの重要部分の特許を買収し、業界全体の発展の

ために、同業メーカーが自由に使えるように無償で公開した。

しかしこのことは、企業として独自のものを開発することを否定するのではない。むし

ろそのことにいかに成功するかが企業発展の大きな鍵となる。つまり技術は公開したうえ

で、独自の機能を生み出す製品を開発することが重要なのである。5

④量産の前提

松下幸之助は、産業人の使命は、生産につぐ生産をもって、物資を水道の水のように安

価で無尽蔵にし、貧乏を克服することであると考えた。この哲学は、研究開発においても

貫かれている。

松下の事業は、主として一般大衆を対象とした事業である。このために研究開発の分野

が、日立や東芝などの総合電機メーカーの研究開発領域に比べて限定されている。家電産

業を支える研究開発が中心となり、大型コンピューター、火力発電・原子力発電機器など

が研究開発の対象外となっている。

また松下では、製品開発をするときに量産を前提とする。物資を水のように安価で無尽

蔵にするためには量産が必要だからである。アイロンの開発を手掛けたときに、幸之助は

部下に対してこのように言った。

4 松下幸之助、「実践経営哲学」、PHP 研究所、1978年、62ページ。

5 同上、62ページ。

12

「アイロンは、便利だが価格が高く多くの人に使ってもらうことができない。そこで合

理的な設計と量産によって、できるだけ安いアイロンを作り、その恩恵に誰もが受けれる

ようにしたい」6と。

⑤生産技術の重視

量産をするためには、優秀な生産技術が必要である。このために松下では、生産技術の

研究開発が重視される。さらに具体的な製品を念頭において研究開発を行うから、基礎研

究そのものを独立には考えない。基礎研究の位置付けについては次のように考えられる。

最初に、成果を利用すべき方向を明確にして、研究テーマを設定する。要求すべき目標

を製品コストまで含めてはっきりと提示する。その結果として、既存技術を前提とした研

究方法で超えられない壁にぶつかり、基礎研究の必要が生まれる。開発と基礎研究は、相

互にフィードバックしながら進む。といった感じである。

⑥人作りの重視

松下幸之助は、経営において、「人をつくる」ことを重視した。しっかりした使命感、

経営理念を持ち、現在の能力ではなく、可能性で人を見て、これと見込んだ人に思い切っ

て仕事を任せ、自分の責任と権限において自主性を持った仕事ができるようにしていくこ

とが必要であると考えた。7つまり人を育てる経営である。その姿勢は、研究開発において

も変わらない。

研究開発を誰に任せるかを決める場合に、幸之助は、誰にやらせればその仕事がうまく

いくか、誰がこの問題を一番積極的に考えているかということを最優先とし、いつもなか

なかいいことを言うとか、性格が円満といったことで担当者を決めない。

例えば、こんなことがあった。ある社員が開発した新製品のテープレコーダーを幸之助

に見せたときにこう言った。「商品というものは抱いて寝るくらい可愛がれ。そうすると

必ずもの言いよるで」と言った言葉を、ある社員は今でも忘れられないらしい。8

実際には商品はそんなことは言わないが、それだけ集中して真剣に物作りに対処したな

らば、必ず商品の声が聞こえる、そういう境地にまで達しないと本当にいいものはできな

いのだという非常に大きな教訓を得ることができる。研究開発に対するこの「真剣さ」似

対して幸之助は仕事を任せるのである。

6 PHP 総合研究所編、「人を見る眼~松下幸之助エピソード集」、1990年、22~2

3ページ。

7 前掲、「日本的経営の本流~松下幸之助の発想と戦略」、98ページ。

13

⑦事業部を核とした分権的管理

幸之助は、個々の仕事(事業)の1つ1つを独立の会社にするなり、あるいはそれに近

い姿勢で経営していくことを重視し、それぞれの部門は、その分野ではどこにも負けない

という姿を目指さなくてはいけない、と考えていた。つまり全ての分野が独立経営体とし

て成果をあげていくということである。そのために事業部制組織が生み出された。研究開

発においてもこの考えが貫かれている。

各研究所、各事業部に研究開発活動を分権化し、本社は全社的視点に立った調整的サー

ビスに専念し、それ以上に統制しようとしない。むしろときには、起こりうる重複を含め

た競争的研究開発の展開を許容する。

例えば、研究所間で全く同一の研究テーマを同一の研究開発で取り組んでいる場合には

調整されるが、違った方法で行われているときには放任される。正解が事前にわからない

ことも多いからである。それだけではなく、例えば、事業部による開発の場合に、ほとん

ど同一の開発が並行して行われる場合でも、チェックはしない。事業部は製品開発の自主

性を持っており、市場でどちらがよいか評価されればよいとするのが原則である。もちろ

んグループ担当役員が一定の役割を果たすし、また複数事業部にまたがった複合商品の開

発については技術本部などで調整が行われる。9

3.海外における研究開発

(1)海外研究開発

我が国企業による海外研究開発は、1980年代後半以降、貿易摩擦や急速な円高の進

行といった国際環境の変化により、我が国企業による海外現地生産が急増し始めたのを契

機として、その現地生産に付随するかたちで進展していった。こうした経緯もあり、これ

までの日本企業の海外研究開発拠点のあり方としては、現地での生産活動のサポートがそ

の主要な役割であったと思われる。

しかしながら、今日、技術環境の変化により、今後ますます国際的な技術的相互依存関

係が高まり、国際的な技術上の協力の必要性が増大してくるであろう。

(2)海外研究開発の理由

一番多い理由は、現地市場のニーズに迅速に対応するためである。(図表3)全体の7

8 前掲、「日本的経営の本流~松下幸之助の発想と戦略」、98~99ページ。 9 同上、100~101ページ。

14

9%がこれを理由にあげている。各国や各地域の現地市場のニーズの変化に迅速に対応す

るためには、日本の親会社で集中的に製品開発や製品改良を行うよりも、現地市場に近い

ところで研究開発する方が望ましい。現地の事情に適したものを開発することは、製品だ

けでなく生産設備についても当てはまる。生産規模、作業者や技術者の技能水準や教育水

準、材料や部品などの関連企業の発達の程度、物流の状況など生産をめぐる状況は日本の

状況とは違う。現地の生産の状況に適した生産設備を開発することは、海外生産を成功さ

せるための重要なポイントになる。

次に多い理由は、現地で研究開発から製造販売までの一貫体制を確立するためである。

48%の企業がこの理由をあげている。第3番目に多い理由は、現地市場で親会社の製品、

設備、技術などの展開、応用をはかるためである。この理由をあげるところが全体の4

4%である。

表には出ていないが、日本企業が海外で研究開発をする理由の1つに原材料、部品の現

地調達の増大がある。

(3)日本での研究開発

①白モノ家電

白モノ家電と言えば松下電器である。他のメーカーと比べても生き残りが確実なのは松

下くらいではないかと思われる。白モノ家電でシャープと三洋電機の間で提携の動きが出

始めているが、この分野で事業の統合再編が一段と進むのは不可避ではないかと思われる。

その白モノ家電では、特に国内市場では猛暑・冷夏で需要が大きく変動するエアコンの管

理さえきちっとすれば、安定した収益をあげられる。

白モノ家電は生活に密着した部分がありローカル性が強く、海外製品の参入が少ない分

野である。その理由としては、日本の狭い住宅事情では、大容量でもスリムな冷蔵庫が好

まれる。大量に買った商品を冷蔵庫にためておきたいアメリカ人とは求めるニーズが違う

のだ。また、屋内でも靴を履くという習慣がある欧米と靴を脱いで生活する日本とでは、

掃除機に求められるニーズも異なるからである。このため、価格の下落傾向が続いている

とはいえ、AV 機器と比較すればそのテンポは緩やかである。また、成熟分野であるが、

主婦層の心をつかむと意外と大ヒットする商品が出現してしまうことも見逃せない。

こういったことを見ると、やはり地域販売店の重要さというものが見てとれる。主婦層

の意見をより身近に聞くことのできるのは家電量販店よりも地域販売店の方が明らかに優

れている。また、それぞれの地域、大きく言えば国によって家電商品のニーズが違ってく

ると上で述べたように、地域やそれぞれの国に密着した地域販売店を置くことによってそ

ういったニーズにもより近く聞くことができる。何より商品を使うのは消費者であり、白

モノ家電にいたっては主婦が中心であるから、系列販売店の重要性がここで見ることがで

きる。

15

4.日本の家電製品のシェアと動向

(1)カラーテレビ(図表4)

①推移と現況

消費税率引き上げ前の駆け込み需要の反動で、98年、99年と加工していたカラーテ

レビの出荷量が、2000年再び上昇した。前年比4.4%増の1002万台を記録した。

消費の後押し役はシドニー五輪と BS デジタル放送の開始である。

シェアトップは松下電器産業の18.3%。これを『ベガ』でシェアを伸ばしたソニー

が17.7%と僅差で猛追している。ソニーに抜かれた12.7%の東芝と12.0%の

シャープは3位争い。全家電メーカーが参入する激戦地である。

②今後の展望

期待のデジタルテレビは高価格とコンテンツ不足で出足が悪い。当初の目標を大きく下

回りそうだ。代わってプラズマテレビの方に人気が出てきている。高価格で大画面、デジ

タルのライバルはプラズマである。また、ブラウン管カラーテレビの市場が成熟した今、

デジタル化や薄型化へのニーズが高まりを見せ、液晶カラーテレビのマーケットも無視で

きない。ブラウン管では大きく差をつけられているシャープが液晶技術の強みを生かした

市場戦略に出ようとしており、液晶を含めたテレビ市場のシェア争いはより一層、加熱し

そうである。

(2)ルームエアコン(図表5)

①推移と現況

エアコンの2000年冷凍年度の出荷量は702万台。猛暑の影響もあってか前年より

8.5%増加した。ここ10年間よりエアコンの出荷量は、かなり乱高下しながら推移し

ている。最近のピークは812万台を記録した96年。この年は2年続きの猛暑だった。

冷暖兼用とはいえ、動くのはやはり夏場。89年にはまれにみる冷夏で473万台しか売

れなかった。96年と比較すると、その差は339万台にもなる。エアコンも他の家電の

ように、毎年新機能が付加されてきたが、天気の前にはきめ細かな機能も影が薄い。冬場

の仕掛けが弱いので体質が季節商品になってしまっている。

シェア争いはかなりの乱戦である。他の家電より参入企業が多い。トップは17.9%

の松下電器産業だが、2位とそれほど離れていない。

②今後の展望

各社暖房機能を強化し、やっと冬場対策を講じ始めた。エアコンというと、どうしても

16

冷房というイメージが今だに強いが、冷暖房両方付いたエアコンとなると、またシェアや

販売台数の方も変化してくるであろう。また、やはりキーとなるのは気温のようで、ここ

数年の猛暑頼みの販売からの脱出や、91年の猛暑時の買い換え時期もきている。

近年、健康意識の高まりや環境問題への配慮、機能面の充実、デザイン性、外観の良さ

が売れ行きを左右する部分が大きい。

(3)VTR(図表6)

①推移と現況

据置型 VTR の2000年の出荷量は641万台、前年より6.1%減少した。カラー

テレビは前年より増えているのに VTR は減少。連動効果も効かなくなっている。出荷額

は1150億円、前年比12.2%減。ここ数年続いている低価格化がまだ止まらない。

S-VHS や D-VHS など高画質機も3万円程度で買えるようになったが、普及率は15.

4%と今ひとつ伸び悩んでいる。BS 内蔵型は21.5%。こちらも思うように伸びていな

い。買い換えがかなりあるようだ。

シェアは松下電器産業が23.2%で1歩リード。2位のソニー以下、4社が2桁のシ

ェアでこれを追っている。元気のいいのは日本ビクター。高画質中心の戦略で徐々にシェ

アを伸ばしている。低価格化ばかりが拡大戦略ではない。

②今後の展望

アナログ戦争からデジタル戦争へとシフトして行くと思われる。HD 録画機、DVD 録画

機などが VTR 市場を侵食する。テープからディスクへの流れは止めようがない。

(4)冷蔵庫(図表7)

①推移と現況

2000年の冷蔵庫の出荷量は487万台。出荷額は4360億円。数量、金額共にほ

ぼ前年並みの需要を維持した。ここ10年の出荷量を見ても、多少上下はあるものの、比

較的安定した需要で推移している。普及期が終焉して30年も経つ製品としては大健闘で

ある。

シェアトップは松下電器産業の21.7%。2位以下は東芝、日立製作所、三洋電機、

シャープと続くが、シェアはいずれも14~17%で差はわずか。上位6社が2桁シェア

の混戦市場となっている。

②今後の展望

今後の展望としては、新機能戦争が続くと思われる。各社年々きめ細かくなってきてい

17

るが少々ネタ切れの感じになってきた。よほど斬新な機能でないとシェアは上がらない。

新機能、猛暑、家電リサイクル法をどうとらえるかがポイントとなる。

販売店の店のスペースでは家電量販店のようには冷蔵庫を置くことができないというの

が難点である。やはりメンテナンスの面での検討に期待する。

(5)洗濯機(図表8)

①推移と現況

洗濯機の2000年の出荷量は443万台。前年より1.8%減少した。洗濯機は家電

の中で最も早く普及し終わった製品だが、そのわりに需要は大きく落ちていない。需要を

支えてきたのは、冷蔵庫と同様、企業が次々と繰り出す新機能の魅力だ。静音、節水、時

短、ステンレス槽、風呂水吸水、色褪せ防止、遠心力。こうした新機能の付いた6㎏超の

大型機に移行しているので移行しているので、単価が落ちずに低価格化の波も受けていな

い。2000年は出荷量は減少したが、出荷額は逆に増えている。

シェアの首位争いは熾烈である。日立製作所、松下電器産業、東芝の3社が僅差でトッ

プを争っている。3社を追う三洋電機、シャープも2桁のシェア。力接近の激戦区である。

②今後の展望

洗濯機の場合、特に消音や省スペースといった利便性の面が売れ行きを左右しているよ

うだ。今後の展望は、ドラム式の全自動選択乾燥機が伸びそうである。注目は超音波を使

って汚れを落とす洗剤のいらない洗濯機。三洋電機が市場投入し、シャープが追随してい

る。

Ⅲ.生産

1.松下の生産

(1)大量生産・大量販売

①大量生産・大量販売

松下の生産方式としては、やはり松下幸之助が社会の発展に貢献する具体的な方法とし

て掲げた、「良いモノを大量に生産して安く売る」という水道哲学であった。水道哲学と

は、水道をひねって水が出てくるように消費者に商品を生産し販売するという哲学である。

「精神的な安定と豊富な物資が相まった、誰もが幸福な楽土を建設する」との理想を掲げ

18

た幸之助は、高度成長期、大量生産・大量販売に適したビジネスモデルを作り上げた。そ

して、水道哲学を誰の目にもわかりやすい形で実践した。

②大量生産・大量販売の限界と系列販売店

高度成長期の大量生産・大量販売の時代は終わり、低成長の時代を迎え、水道哲学を旧

来のように実践するのは困難になってきた。モノが溢れる日本にあって「物資の無尽蔵な

供給」は社会の目的でなくなったばかりではなく、批判の対象になっている。大量生産・

大量販売は大量廃棄という行為を伴う。大量廃棄は地球環境に重大な損害を与え、人類の

生存を脅かす。

急速に進化する技術、衰退する自然、増加する人口の調和をとりながら企業を運営する

時代が目の前まできている。松下は、メーカーと販売店の共存共栄をスローガンとして掲

げているが、地球のことを考え、地球(自然環境)と松下の共存共栄という方針のもと、

これからやっていくべきであろう。これは、松下だけでなく、日本いや、世界の製造業に

とっての掲げるスローガンとすべきである。

また、地球環境の問題とともに、同時にデジタルネットワーク化が進む。商品を単品毎

に売ったらそれで終わり。故障などの問題が起きたら個別に対処するのが大量生産・大量

販売のビジネスモデルである。しかし、あらゆる機器がネットワークでつながる社会では

「モノを提供するだけではなく、モノの運用を含めたサービスとして提供する」新たなビ

ジネスモデルが求められる。系列販売店は家電量販店に比べて商品の流動性が低く、大量

生産・大量販売に適していないかもしれないが、モノ(商品)を提供してからのメンテナ

ンスの面で、家電量販店を上回っており、今後地球環境保護の問題からモノを大切にする

という地球のニーズと、モノを長く使いたいという消費者のニーズに対して家電量販店よ

りも優れていると思われる。

(2)ダム経営

「ダムというのは、何のために造られるかというと、川の水を流れるままに放っておい

て、その値打ちを生かさないというのはもったいない。また、もし1度に水が増して洪水

になれば、多くの被害が出るし、日照りになって水が足りなくなっても困る。そこで河川

の適正なところにダムを設けて流水の調整を図り、あるいは水力発電に利用するわけであ

る。つまり、天から受けた水は、一滴もムダにしないで有効に使おうじゃないかというの

が、ダムを造る目的だと思う。また、そうしておけば安全である。会社の経営についても

同じことが言えるのではあるまいか。」10つまり経営にもダムが必要ではないかというこ

とである。

10 松下幸之助、「松下幸之助、夢を育てる」、2001年、121~122ページ。

19

松下幸之助の言う「ダム経営」とは、最初から、例えば1割なら1割の余裕設備をもっ

ているということである。そうすれば、経済的に少々の変動があったり、需要の変化があ

ったとしても、それによって品物が足りなくなったり、値段が上がったりすることはない。

そのときは余分の設備を動かせば事足りる。その逆に、もし品物が余り過ぎるようだった

ら、設備を少し余計に休ませればいい。これはあたかもダムに入れた水を必要に応じて

徐々に流していうるようなものだ。資金、在庫、人材にも同様のダムが必要である。

(3)日本的生産システム

①日本的生産システム

ここでいう日本的生産システムとは、日本1の自動車メーカーであるトヨタ自動車に代

表されるトヨタ生産方式、リーン生産方式のことをいう。

トヨタ生産方式たるものは、戦後、日本の自動車工業の背負った宿命、すなわち「多品

種少量生産」という市場の制約の中から生まれてきたものである。欧米ではすでに確立し

ていた自動車工業の大量生産に対抗し、生き残るため、永年にわたって試行錯誤を繰り返

すために、なんとか目途のついた生産方式及び生産管理方式である。その目的は、企業の

中から企業の中からあるゆる種類のムダを徹底的に排除することによって生産効率を上げ

よういうものである。

必要なものを、必要なときに、必要な量だけ手に入れるという「ジャスト・イン・タイ

ム」生産や、それをするための運用手段としての「かんばん」、機械に人間の知恵を付与

する「自働化」、省人化や少人化、生産の平準化、1人の作業者が多数の工程を担当する

「多工程持ち」など、まだまだ沢山あるが、様々なものからなっている。

②日本的生産システムと系列販売店、家電量販店

日本的生産システムとは、上に書いたようなものである。家電業界ではなかなか実践さ

れにくいものであるが、果たして系列販売店、家電量販店とはどのような関係があるので

あろうか。

日本的生産システムは優れているという立場にたち論述すると、系列販売店の方が日本

的生産システムを実践するのに適していると思う。

2.海外生産

(1)日本の家電メーカーの海外戦略

日本の家電メーカーの海外進出は、1959年に松下電器がアメリカに家電製品の販売

20

を目的に現地法人を設立したことに始まり、60年代に入り本格化している。海外進出の

件数を見ると(図表9)、60年末にはわずか2件である。これは先の松下電器の例と、

同59年にソニーがスイスに自社製品の販売を目的に現地法人を設立したものである。

海外進出は、市場志向型と生産志向型の2つに大別できるが、家電業界の海外進出は、

先進国向け輸出の拡大を狙った市場志向型から始まったといえよう。この時期は、まだ我

が国の賃金コストも低く、労働力も余裕があったため、海外での生産工場建設の動きは見

られない。それが60年代後半からの日本の高度成長に伴う賃金上昇により、台湾、シン

ガポール、韓国、香港、マレーシアなどでラジオ、白黒テレビ、テープレコーダーの生産

が始まった。(図表10)の通産省が調査した海外進出の誘因をみても、電気機械で労働

力事情の悪化がトップになっている。

その後、国内の人手不足と特恵関税の享受を目的に、発展途上国への生産志向型海外進

出は急速に増加しはじめた。海外生産の品目も、ラジオ・カセット、カーステレオ、ホー

ムステレオ、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、カラー・テレビなどへと順次拡大されていった。

一方、先進国での生産工場の建設はソニーが最初だった。ソニーは「市場に近い所で生

産する」という方針の下に、1972年米国カリフォルニア州サンジェゴにカラーテレビ

工場を設立した。当時の米国の賃金水準は日本の3倍以上で、しかも米国のテレビメーカ

ーが台湾、メキシコなどへ工場を移した時期なので、この米国工場の成功を危ぶむ声もあ

ったが、ソニーは見事に成功させた。ソニーはその後もイギリスのブリジェントにもカラ

ーテレビ工場を建設し、西独のエレクトロニクス・メーカーであるベガ社を買収するなど

先進国での海外生産に最も積極的であった。

アメリカへの生産投資でソニーに続くのは松下電器である。松下は1974年、モトロ

ーラ社のテレビ部門であるクウェーザー・エレクトロニクス社を買収した。同社の買収に

要した費用は約1億ドルであり、その後工場設備を改修するために行われた投資はこれを

上回るとみられ、カラーテレビ生産を順調な軌道に乗せるまで非常に苦労をしたと言われ

ている。

1976年になると、今度は三洋電機がアメリカのカラーテレビ・メーカーであるワー

ウィック・エレクトロニクス社を買収し、その社名を SMC(サンヨー・マニュファクチュ

アリング・コーポレーション)と変更した。三洋の場合は当初から比較的スムーズに SMC

の経営を黒字にすることができた。

1977年の7月から米国向けカラーテレビ輸出セット、シャシー合わせて年間175

万台に抑えるという自主規制が始まり、円高の影響も加わって、残りの日本のカラーテレ

ビ・メーカーも一斉に米国での現地生産に乗り出した。すなわち、1978年に入ってか

ら三菱電機がカリフォルニア州のアーバインに、東芝がテネシー州のナッシュビル郊外に

それぞれカラーテレビ工場を建設し、生産を開始した。日本電気は GE と共同で GTA(ゼ

ネラル・テレビジョン・オブ・アメリカ)というてれび会社を設立した。

米国への生産投資はカラーテレビ以外に次のようなものがある。

21

まず、1975年には三洋電機が音響の名門フィッシャー社を買収した。また、三洋電

機が79年に生産開始予定(月産2万から2万5000台)のアンプ・チューナー工場を

サンジェゴに建設することを発表している。

1977年の後半からは、円高による賃金コストと材料費の高騰により、付加価値が低

く競争力の弱い商品を台湾、シンガポール、韓国の子会社へ生産移管する傾向が強まって

いる。例えば、三洋電機は77年11月から78年5月までの期間に、白黒テレビ、ラジ

オカセット、カーステレオなどの品目のうち、競争力の弱いものを178億円も生産移管

したと発表している。

円高による東南アジアへの生産移管は、完成品だけでなく部品も活発に行われた。19

77年の日本メーカーの海外生産金額ランキングをみると、松下が1位で8億8400万

ドル、三洋電機が2位で5億8200万ドルと、家電業界が国際化に熱心であることが分

かる。

(3)海外現地生産の発展

①アジアでの海外生産

第2次世界大戦後、アジア各国は工業化を推進した。それまで輸入していたものを自国

で生産するように変えることによって、自国に工業をもたらそうとした。しかし、様々な

弊害が起こり、日本からの輸出は困難ないし、実質的に不可能になる。関税が大幅に上が

ったり、、輸出の数量制限が実施されるからである。日本企業の多くは、輸出市場を維持

し防衛するために各国に工場をつくって現地生産を始めた。

1960年代当時、繊維と電機の2つの産業が中心となって東南アジアなど発展途上国

への海外製造業投資がなされていた。電機産業のリーダー企業の松下電器産業は次のよう

に海外生産を展開した。

松下の海外での現地生産はタイでスタートする。1961年にナショナル・タイを設立

した。そして翌年から乾電池の現地生産を開始している。以後、ラジオ、テレビ、扇風機

など製品品目を増やしていった。

松下は1971年までにアジアの発展途上国を中心に合計16の海外製造子会社を作っ

た。松下の当時の現地生産には次のような特徴が見られた。

第1は、現地政府の輸入代替工業化政策への対応のために、日本からの輸出を現地生産

に変えたことである。

第2の特徴は現地生産向けの多品種少量生産である。海外の製造子会社では電池、ラジ

オ、テレビ、扇風機、冷蔵庫など多くの種類の製品を生産し、それを進出先の現地生産市

場に向けて販売した。海外の製造子会社は家電の総合メーカーの松下のミニチュア版であ

るということから、松下の社内ではミニ松といわれることがある。

第3の特徴は完成品の組立工程の海外進出である。海外製造子会社は原材料や部品を日

22

本から輸入し、それを現地で完成品に組み立てた。

第4の特徴は小規模な投資である。タイ、台湾等各国の市場規模は小さく、また、アッ

センブルのための設備はそれほど多額の投資を必要としないからである。

第5の特徴として、進出先の輸入販売代理店との合弁をあげることができる。アジアな

ど発展途上国では日本企業の100%出資の完全所有子会社は認められない。なお、松下

の場合にはメーカーの直接輸出であるから、合弁パートナーには総合商社は参加していな

い。11

②欧米での現地生産

1970年代後半以降、製造企業はアメリカに工場をつくって現地生産を始めるように

なる。今日では製造業投資についても、最大の受け入れ国はアメリカになっている。

アメリカでの現地生産の展開の背後には日米間の貿易収支の変化、円とドルの為替ルー

トの変化、そして日米間の貿易摩擦がある。

1ドル360円の固定為替制は1971年に終わり、1973年から変動相場制がはじ

まる。円と対ドル為替ルートはときには安くなったこともあるが、30年間の全体をとる

と円高の動きを続けてきたといってよい。1950年代から60年代頃にかけては、日本

企業は自由にアメリカに輸出できた。ところが1970年代になると、アメリカは輸入制

限的な動きをとるように変わってくる。繊維、鉄鋼、カラーテレビなどの分野において、

日本企業は輸出を自主規制するようになる。その後、工作機械、自動車、半導体など重要

な輸出商品の多くについて、アメリカの輸入規制の動きが見られるようになる。日本企業

からすると、日米間の貿易は戦後約20年間は自由貿易だったが、1970年頃を境に管

理貿易の性格を強めてきているのである。12

さて、日本企業のアメリカでの現地生産の最初の本格的な動きはカラーテレビの現地生

産である。1972年からソニーはカリフォルニアでカラーテレビの現地生産を開始した。

1974年には松下がモトローラ社からカラーテレビ事業部門をクエーザーを買収してア

メリカで生産を開始した。以後、アメリカにカラーテレビを輸出していた他の企業も、カ

ラーテレビの現地生産を開始する。カラーテレビのアメリカでの現地生産の直接的な理由

は、カラーテレビをめぐる日米間の貿易摩擦である。日本からの輸出が困難になったので、

各社は現地生産に乗り出したのである。

アメリカでの現地生産の2回目の本格的な動きは乗用車の現地生産である。この論文に

おいては、これについては触れないことにする。詳しく聞きたければ、直接私に聞いて欲

しい。

11 吉原英樹、「国際経営」、有斐閣、2001年、101~103ページ。 12 通産省産業政策局対米投資問題研究会編、「対米投資の実態と環境」、ダイヤモンド

社、1978年、77~83ページ。

23

③中国への進出

家電各社が生産体制の再編を急いでいるのは、家電事業は低収益であるが安定した事業

であり、生産コストや在庫をコントロールできれば、以外にうまみのある市場であるとい

うことが頭にあるからではないかと私は考える。そして最近の各社の目指す方向は中国で

一致しているといってもいい。松下にいたっても、どんどん中国に進出している。

生産拠点というより、日本の10倍の人口を持つ家電の新市場が動き出すと見られるか

らである。また、日本人と中国人の体型や文化などは似ている部分が多く、高度経済成長

時代の日本が現在の中国であるとなれば、これは利用しないわけがない。今後、各社は今

以上のスピードで中国への生産シフトを進めるのが確実である。早ければ10年後には、

日本の家電の多くは中国で生産され、逆輸入されることになるだろう。その時に、日本に

どの程度の生産拠点が残るか、全く予想ができない。そしてこれは、松下及び日本の家電

産業の課題であり、系列販売店に与える影響は大きい。

(4)海外生産比率

①海外現地生産の本格展開

1970年代の初期までの20年以上にわたって日本企業は海外市場にもっぱら輸出の

方法でアクセスした。たしかに、1950年代の後半から繊維と電機の企業を中心に東南

アジアなど発展途上国に企業進出して現地生産をする企業がみられた。しかし、輸出の規

模と比較すると海外生産の規模は小さかった。

戦後20年以上続いた1ドル360円の固定相場制は1971年に終わった。1973

年から変動相場制が始まった。そして以後、円高が進行した。円高の進行と貿易摩擦の深

刻化の国際経営環境のもとで海外生産は増大した。しかし、輸出はそれ以上のテンポで増

大を続けた。1971年から1985年までの15年間においても、日本企業の国際経営

戦略の中心はやはり輸出だった。輸出がメイン、海外生産はサブ、だったのである。

1985年に始まった円高とその円高の定着という国際経営環境のもと、日本企業の国

際経営戦略が大きく変化する。それまでのように輸出を中心に国際経営戦略を推進するの

ではなく、輸出と並んで海外生産にも力を入れるように変化する。各社は輸出比率を低下

させ、かわって海外生産比率を増大させようとした。輸出から海外生産へのシフトである。

日本企業の海外生産比率は1979年に1.6%だった。海外生産比率はその後ほぼ一

貫して上昇傾向をたどっている。(図表11)その語、上にも書いたように中国における

海外生産が増えるなど更に増加傾向にある。

1986年には11.5%だった海外生産比率はその後増大傾向をたどり、その後もさ

らに増加すると思われる。輸出比率が1985年をピークにして低下したのに対して、海

外生産比率は1986年から現在まで増大傾向を続けている。輸出比率の低下と海外生産

比率の増大は、輸出から海外生産へという国際経営戦略の示していると言えるであろう。

24

②産業の空洞化

産業の空洞化とは、簡単に言うと円高や様々な規制などによって、国内の製造業が生産

拠点を海外に移す結果、国内の生産能力が衰退することである。

空洞化は、次の3種類に分けることができる。

①日本の生産の相対的減少

②日本の生産の絶対的減少

③日本の生産の中心部分がなくなる

日本での生産より海外での生産の方が速いテンポで増加するという①の空洞化は、すで

に15年以上も前から進行している。1985年秋のプラザ合意の後、円が急騰した。そ

して、円高が定着するとともに、輸出から海外生産へと戦略シフトが起こった。日本での

生産より海外生産を優先するようになったのである。

日本での生産を減らして海外生産を増やすという②の空洞化は、テレビ、ビデオのよう

な AV 機器では15年以上前から始まっていたが(図表12)、多くの製品や産業で進行

しているのが現状である。ただ、白モノ家電にいたっては、そういったことが少ない。こ

の理由については(5)で述べる。

①の空洞化では、日本の生産はまだ増加していた。ただ、海外生産の方が増加していた

だけだった。ところが、最近の②の空洞化では、日本での生産が減少しているのである。

今みた①と②の空洞化は、生産の量に関するものである。これに対して、③の空洞化は、

生産の質に関わる。生産の重要な中心部分が日本から海外に移ることを意味している。成

熟製品やローテクの製品だけでなく、新製品、ハイテク製品の生産が日本から海外に移る。

完成品だけでなく、日本が得意にしている材料、部品、ロボット、生産設備、金型など生

産財ないし生産支援材も海外に移る。日本企業の生産の中核的な技術とノウハウが海外に

うつるかもしれない。このことが起きると、生産の中心部分がなくなるから(ドーナツ化

現象)、文字通りの空洞化である。

(5)国内に生産を残す取り組み

(4)で述べた空洞化に対して、日本の家電各社は雇用確保の観点からも国内での生産

を出来る限り残そうとしている。各社はどんな方向を目指しているのだろうか。

第1は、高付加価値の追及である。特に注目されるのはソニーの動きである。ソニーは

AV 機器の生産に関して、明確なポリシーを持っている。テレビのような重くて輸送に手

間がかかる商品は、出来る限り現地で生産する。

逆に最先端の高密度実装が必要な小型の機器は、日本国内で集中生産するというもので

ある。 このためデジタルビデオカメラの「ハンディカム」や、パソコンの「バイオ」な

どは、ほぼ全量を国内で生産して世界各国に輸出している。こうしたビジネスモデルは今

となっては非常に珍しい。

25

第2は、ローカリズムの追及である。家電、中でも白モノ家電は、国民性や文化の差が

出やすい商品だ。特に日本人は使い勝手や機器の小ささ・軽さ、見た目の感覚に注文が多

く、世界的にも非常に「うるさい顧客」と言われている。こうした点を逆手にとれば、海

外から輸入されてくる汎用的な製品と差別化し、国内生産を維持することも可能になる。

最近は、少なくとも白モノ家電については海外への工場流出が一段落したとも言われる。

第3は、相互 OEM 供給による生産量の確保である。家電業界では、松下ー日立に続い

て三洋電機ーシャープも提携した。

現時点での提携内容は、松下ー日立は次世代技術の開発中心、三洋ーシャープも部分的

な製品の相互供給に過ぎない。しかし国内大手メーカーのグループ化が進んでいるのは明

らかだ。

この他エアコンでは松下ーダイキン工業の提携、AV 機器では前述した三菱電機ー船井

電機も親密といえる。今後、各社が量産メリットを追及していけば、こうした提携関係が

さらに深まり、本格的な相互 OEM が始まるのは時間の問題だと考えられる。

Ⅳ.販売

1.松下の系列販売店の歴史

(1)始めに

松下の販売系列は戦後に初めて誕生したわけではない。それはすでに、ほぼ1930年

代頃からしだいに輪郭を明瞭にし始めていた。同社の販売系列の形成は、当時、先駆的な

試みの1つとして注目されたのである。しかし、特に急速に整備され出したのは、日本に

も家電産業が1つの「産業」として認知され始めた戦後の1950年代以降のことである。

家電産業における販売系列形成の先頭に立ったのは戦前の松下であったが、戦後にはいく

つかのメーカーも同社に続くことになった。

1918年に大阪に誕生した松下電気器具製作所は、当初は全く小さな個人企業にすぎ

なかった。しかし、その後の成長はまさしく急速であった。同社の成長の軌跡とはそのま

ま日本経済の成長のそれであり、日本における家庭電器産業の成長と重なっていた。また、

家電産業の成長とは、旺盛な製品の多角化の歴史でもあった。急激な製品多角化の結果と

して、同社は1933年には日本の企業として初めて意識的に分権的な事業部制組織を導

入したが、これら各事業部はそれぞれの製品の製造だけでなく販売についても責任を負う、

いわゆる「自主責任経営」の基礎単位となった。つまり、それらは製造現場が販売(市

場)と密接にコンタクトを取り合う「製販一致」の単位として構想されたのである。

26

しかしながら、同社の事業部制の時代は長く続かなかった。同社はその後の2年後には

先に見たように、それら事業部を更に子会社として分社化することになった。事業部はそ

れぞれ「分社会社(分社)」としてスピンオフされはじめたのである。また、同時に、販

売部門もいくつかの販売子会社に、例えば松和電器商事や松下電器直売、あるいは松下電

器製品配給に分社化された。こうして、同社は次第にいくつかの子会社からなる新たな企

業体を、いわゆる「松下電器グループ」を形成し始めたのであり、それ以降、製品の多角

化と販売網の拡張とによって、1945年(敗戦時)までに次々と48もの子会社を設立

した(あるいは傘下に取り込んだ)のである。13

(2)戦前における販売系列の形成

戦前における松下の「家電メーカー」としての実質的な事業活動の時期は、1918~

37年の20年間である。この期間に同社は意欲的に販売流通系列を作り上げていった。

14

松下の販売網は、基本的には、同社自身の内部組織である地域の営業所(支店)と、そ

れらの下に管理されることとなる外部の諸単位、すなわち既存の卸売商・小売店の再編、

と言う構造から成っていた。したがって、以下、①営業所網の展開と②卸売商・小売店の

系列化、とに分けて論述することにする。

①営業所網の展開

松下が最初に設立した営業所は、1920年の東京支店(当初は出張所)であった。そ

の後、20年代の末から30年代前半にかけて同社製品の市場拡大につれて、福岡・名古

屋・大阪・札幌などの主要都市に、あるいは仙台・金沢などの地方都市に、さらには台

湾・朝鮮など植民地にも、支店網が相次いで形成されていった。15この1930年代前半

とは、松下が生産・販売の両面にわたって急速に基礎固めを行った時期であり、その当時

で店員(社員)200余人、工員1000余人を抱え、製品種類も200余り、工場も1

0を数えるまでに成長していた。それぞれの支店は販売担当区域を分担し合っており、そ

れぞれの下に編成されることになった卸売商・小売店を通じて全国を隅なくカバーしたの

である。

松下は本社の営業部による統括の下に数多くの支店を網羅し、積極的に販路を拡張して

いった。しかし、事業部制の導入、特に35年からの分社化の時代以降になると、それら

13 下谷政弘、「松下グループの歴史と構造」、有斐閣、1998年、180~182ペ

ージ。

14 松下電器産業、「松下電器・営業史」、1979年。

27

事業部や分社などの分権的単位ごとに独自の営業課が設けられることとなった。つまり、

それらによる直接販売・直取引の体制へと移行することになったのである。したがって、

これまでの本社中央の営業部は廃止されることとなり、集権的な支店網の管轄は分権化さ

れ、それぞれの事業部や分社に移管されていった。言い換えれば、「自主責任経営」単位

たる事業部や分社によるそれぞれの「製販一致」の体制が、すなわち、製造と販売をより

接近させ、市場のニーズが直接的に反映するシステムがしだいに構築されていったのであ

る。しかし、この体制は、前に触れたように、戦時の統制経済の時代に入ることによって

中断させられてしまった。16

②卸売商・小売店の系列化

以上は松下本体における支店網の形成プロセスである。同社はこうした全国的な支店網

を形成するとともに、それらの下に既存の卸売商(代理店)あるいは小売店を階層的に系

列化していったのである。

言うまでもなく、まだ規模も小さかった創業期の数年間は、自ら各地の卸売商や小売店

などへの直接売り込みに努力しなければならなかった。しかし、1923年、新製品の自

転車用電池ランプの販売にあたって、同社は初めて新聞広告で「代理店」を募集すること

になった。また、その後、アイロン、角型ランプ、電気ストーブなどの新製品の発売にと

もなって、ほぼ20年代後半にかけてしだいに代理店制度が整備されていったのである。

当初は代理店計画といっても口頭契約にすぎなかった。しかし、29年以降に書式契約に

改められた。30年代の初めには以後の同社の飛躍的な成長の契機となる新製品、すなわ

ちラジオ及び乾電池の製造も開始されたため、多くの卸売商が代理店を引き受けたいと申

し込むようになった。

15 前掲、「松下グループの歴史と構造」、185ページ。 16 同上、186ページ。

28

ところで、当時の代理店(卸売商)は、一般的に、同じ品種の製品であっても数メーカ

ーの製品を並行的に広く取り扱っていた。松下が取引きする代理店の場合も同様であった。

例えば、松下の代理店として契約していても、一方で競争メーカーの同種製品も同時に卸

し売りするのが普通であった。そこで松下は、1932年、「松下の製品の販売に専念し

てもらうため」に、また「より深く松下電器の経営や販売の方針を理解していただく」17

ために、このような一般的な代理店契約を製品別契約に改める努力を開始した。つまり、

特定の製品については松下のものだけしか扱わないという製品ごとの専売代理店制を推し

進めたのである。そのためには、こうした専売代理店に対して特定の恩典を与えることが

必要であった。すなわち、33年からの配当金積立制度の開始であり、これは、各専売代

理店の松下かたの毎月仕入額の3%分を、それぞれの代理店名義で松下が積み立て、年2

回の決算期に松下の当期の業績を勘案して配当金として贈呈するものであった。

こうした積極的な製品ごとの専売代理店網の形成によって、松下の販売体制は、前に見

た本体の全国支店網の下に、製品別専売代理店ー小売店という販売網としてしだいに形成

され始めた。

しかし、松下の販売網の形成プロセスにおいてむしろ特徴的なのは、メーカーである松

下が当初から中間の代理店を通り越して、さらに小売店と直接的にコンタクトを取ろうと

したことである。当時、創立者松下幸之助は次のように述べていた。「これからはメーカ

ーが市場を左右する時代である。市場はいかにあるべきか、また市場において販売網をい

かに築いてゆくか、そしていかなる姿において販売するか、これからは、今後メーカーが

決定すべき仕事である」18と。例えば、注目すべきは1927年から小売店向けの機関誌

『松下電器月報』を発刊し始めたことが挙げられる。その創刊号には「これまで双方接す

る機会なく、十分の認識理解も得られがたかったが、今後は親密な連絡のもとに相互の理

解を深めたい。なにとぞ積極的なご意見を投じて頂きたい」と述べられていた。すなわち、

末端の流通段階にまで直接的に踏み込んでいこうとする松下側の極めて積極的な姿勢が表

現されていたのである。同誌は戦争中には中断されたが、戦後1947年から月刊『ナシ

ョナルショップ』として再刊された。

こうした積極的な姿勢は、実際には1935年からの小売店の系列化、いわゆる「連盟

店」制度の創設ということに具体化された。すなわち、家電製品をめぐる市場では30年

代から激烈な値引き競争そ顧客争奪戦が展開されていた。この連盟店制度の創設は、乱売

合戦に疲弊し尽くしていた代理店及び小売店を救済し、メーカー・代理店・小売店3者の

「共存共栄」を図ろうとする目的をもっていた。つまり、3者の間に安定的な製品の流れ

を作り出そうとするものであった。具体的には、各代理店ごとに主要な取引小売店をリス

トアップし、それらを「連盟店」として登録した。登録された小売店(連盟店)は1代理

17 「松下電器社史資料」、⑨、20ページ。 18 前掲、「松下グループの歴史と構造」、188ページ。

29

店だけから仕入れることになり、代理店単位ごとの小売店の系列化を目指したのである。

この連盟店制度の導入によって、代理店の経営が安定し始めたことは指摘するまでもない

であろう。また、小売店の方も代理店との取引が安定し、顧客へのサービスと販売増進に

傾注できるようになったという。また、代理店からの報告によって、松下は各連盟店に対

しその仕入実績に基づいて、年2回、感謝配当金を贈呈したのである。連盟店の数は全国

的に増大していき、1941年末には1万店を超えるまでになった。

しかし、時代はすでに戦争経済に突入していた。戦前に作り上げられたこれらの流通系

列網は、戦時経済の中でほとんど解体してしまったのである。それらが実質的にその役割

を果たすことになるには第2次大戦後まで待たねばならなかった。

(3)1950年代における販売系列の形成

さて、敗戦後の1954年からの数年間は、敗戦による混乱や戦災被害、あるいは GHQ

による様々な制限という困難の中で、事業活動の再建のための努力が払われなければなら

なかった。同様に戦時中に機能マヒに陥っていた販売系列の再建も始まったのである。

松下が戦後直ちに、販売組織(代理店・販売店)の強化を始めたことは驚くべきことで

ある。何故なら多くのメーカーは、生涯態勢をどう再建するかに手一杯だったからである。

すなわち松下は、昭和21年早くも戦前の代理店制度の復活を試み、販売代理店契約をと

りかわしたのである。

そして、戦後には新しい動きが出始めたことも注目されなければならない。それは、5

0年代から開始された「販売会社」の設立であった。販売会社は戦後の家電産業における

販売系列の中軸を占めるようになるのである。19また、それは関係会社(子会社、関連会

社)として「企業グループ」のメンバー企業でもあった。

①販売系列の再建

敗戦直後からの数年間にはいくつかの家電専門メーカーが誕生した。しかし、多くの零

細メーカーは1945年のデフレ不況で倒産した。戦後日本の家電産業の復活は、デフレ

不況を乗り切ったメーカーによって50年代の初めからはじめられたのである。

さて、不況と混乱に陥っていた日本経済の景気は1950年代半ばからの朝鮮戦争によ

る特需ブームによって一気に好転した。50年代には、主力製品であったラジオの他にも、

冷蔵庫、(白黒)テレビ、(噴流式)洗濯機などの新製品が登場し、これらは「3種の神

器」といわれた。これらは戦後の「家電ブーム」のスタートであり、日本の家電製品の生

産高は急増していった。51年からは民間放送も開局され、そして53年にはテレビ放送

の開始などもあって、1953年には「電化元年」とさえ言われたのである。こうしたブ

19 同上、190ページ。

30

ームの中で、家電専門メーカーの間での激しい競争が始まった。

(図表13)は、1950年代後半における白黒テレビの各社のシェアの変化を示して

いる。メーカー数は56年には32社もあったが、激しい競争の中でしだいに陶太され、

60年には19社に、さらに62年には10社にまで減ったのである。こうした50年代

を通じての激しい競争の中で、松下にとって販売系列網を再建強化することは最重要課題

であった。

まず、松下における営業所網の再建から見ていくと、45年12月には営業部を設置、

再び事業活動が再開された。翌46年からは、全国の主要都市(東京、大阪、名古屋、広

島など7都市)に相次いで営業所(支店)が設置された。また、49年からはさらにその

下に多くの出張所が設けられ始めた。

(図表14)はその数が急速に増大していったことを示している。戦前の場合と同じよ

うに、全国をいくつかに区分して、それぞれの地域の販売について責任を負う体制が築か

れたのである。

31

次に代理店制度についてみると、それが復活したのは早くも敗戦の翌年、1946年

からであった。契約更改にあたっては、販売力旺盛にして我が社に対する協力度の強い代

理店のみを厳選した。49年には代理店を会員とする「ナショナル共栄会」が結成された。

同会は代理店の間での相互の連携・交流を図ることを目的とし、松下本社の営業所単位ご

とにそれぞれ地域区分会が結成され、50年には第1回の全国総会が開かれた。当初、代

理店の数は240店であった。しだいにその数は増大していき、(図表14)に見るよう

に、55年には580店を数えるまでになった。しかし、後に述べるように、代理店の数

は「販売会社」制度の導入とともに、再び減少することになる。また、それらの多くは多

メーカーの製品も扱う混売代理店であったが、しだいに松下専売代理店へと移行していっ

た。さて、以上のような卸売段階における体制整備を並行して、小売段階における系列化

の方も積極的に開始された。すなわち、戦争によって中断されていた「連盟店制度」が4

9年から再び復活したのである。当時の小売店は、「1部を除き、戦後スタートした電球

の販売、ラジオの組立・販売・修理を行う<ラジオ商>が中心であった。20当時、連盟店

制度はラジオ、電球、乾電池など製品別の制度として始まった。例えば、ラジオの連盟店

制度の場合を見ると、小売店は販売したラジオに添付されている「共益券」10枚以上を

松下に返送すると自動的にラジオ連盟店として登録された。登録されると「連盟店レポー

ト」や各種の資料などが産業本社から送付され、また、半年ごとに共益券の返送実績に応

じて販売奨励金が贈られる仕組みになっていた。しかし、しだいに販売製品の品種が多様

化するにつれて、必然的に連盟店制度は個々の製品別のものから全製品を扱う「総合連盟

店制度」へと移行せざるを得なかった。すなわち、1952年末から始まった同制度は、

家電各製品に製品単価ごとの点数を表示した「共栄券」を添付し、1定以上の券を貼り付

けた台紙1枚以上を返送した小売店は「ナショナル連盟店」として登録される、というも

のであった。成績優秀な小売店の表彰制度も始まった。こうして連盟店の数は当初は合計

6000店ほどであったが、50年代の後半には、(図表14)のように、約4万店にま

で増えた。

連盟店制度の復活と前後して、地域単位に、あるいは代理店単位に、これら小売店と結

集して「ナショナル会」の結成が始まった。同会では販売促進研究会、技術講習会、工場

見学会などを催し、メーカー、代理店、小売店の3者間の交流を図ったのでる。すなわち、

「連盟店制度は、いわば松下と全国の販売店を結ぶ制度として、ナショナル会は、地域市

場において代理店を軸に販売店との交流・緊密化をはかる組織として21動き出した。

こうした総合連盟店制度は、個々の連盟店(小売店)にとって取扱い販売製品の拡大や

事務の効率化をもたらした。他方では、松下の側にとっても、連盟店からの券の返送状況

を集計分析することによって、地域別・製品別の販売状況など市場動向についての貴重な

20 家電製品協会、「我が国家電流通機構の発展と変遷」、1984年、16ページ。 21 前掲、「松下グループの歴史と構造」、195ページ。

32

データを得ることができるようになったのである。その後、この連盟店制度は、運営面で

さらにキメ細かく改正されていったが、一貫して同社の「基幹的販売制度」として浸透し

ていき、小売店の系列化に貢献することとなった。

例えば、ナショナル会は1957年には、「ナショナル店会」に改組されることになっ

た。ナショナル店会は、地域ごとに、一定以上の成績をあげた優秀なる連盟店だけを選別

して結成された。同会では、特に販売店の経営改善や販売力・技術力の向上に重点を置か

れ、そのための様々な企画が催された。結成時には110店会、加入店数4300店であ

ったが、翌58年末には248店会、1万300店に増大した。さらにまた、同じ57年

から「ナショナルショップ制度」も始まった。これは、連盟店の中でもとりわけ有力で専

売度の高い店をショップ店として選び出し、一層の連携強化を図るために設けられたもの

であった。ショップ店は松下製品の専売を基本原則としており、通常の特典以外にも、店

舗改装やネオン看板の助成、あるいはボーナスが与えられた。当初のショップ店数は92

5店であり、翌年末には2715店に増加した。

このように、松下は数多くの連盟店を組織するだけでなく、さらにそれらを数段階にラ

ンク付けし、その内の優良店だけを松下製品の専売店とすることによって、強固な流通販

売網を作り上げたのである。

②販売会社の設立

松下の流通系列の基本的な形はほぼ戦前に出来上がっていたと言うこともできるであろ

う。戦後はそれらの復活と整備完成に力が注がれてきたのである。しかし、次にみる地域

ごとの「販売会社」の設立は戦後の新しい現象であった。

日本経済は1950年半ばからいわゆる「高度成長期」に突入した。高度経済成長期に

おける家電業界の将来の発展には測り知れないものがあった。

すでに戦前、1936年の「松下の経営精神に就いて」の中では次のように言われてい

た。「メーカーは代理店の工場であり、代理店はメーカーの支店・出張所である。22また、

戦後直後の混乱期に松下幸之助は全国の代理店を回って、「今後の発展を目指すためには、

代理店と松下とが真に一心体にならなければならない」と呼びかけていた。しかしながら、

反面では、当時の個人企業的、問屋的色彩の強い代理店の経営体制では時代の要請に応じ

切れなくなることが予測されていた。当時においてすら、代理店の多くは、家電製品とい

う新しい耐久消費財の販売には不慣れであり・・・・電球の販売代理店、ラジオの部品調

達、モーター類の販売代理店、金物雑貨系の総合問屋、自転車の販売代理店など、雑多な

構成から成っていたという。23つまり、それらは単なる物流の取次店の域を出す、マーケ

ティングに精通しているとは言えなかった。

22 前掲、「松下電器・営業史(戦前編)」、131ページ。 23 前掲、「松下グループの歴史と構造」、197~198ページ。

33

また、1950年代の半ば頃には重電機メーカーの本格的な参入があり、家電業界にお

ける競争は一層激しくなっていた。コストを無視した乱売や値引き競争によって市場の秩

序は乱れていた。例えば、56年には名古屋地区の3デパートがテレビ、扇風機、洗濯機

などの2割近くの値下げ販売をはじめ、この「自由価格販売」は、漸次、大阪・東京など

へも波及しつつあった。これは、その原因として1つは、メーカー間の競争による押込み

販売にあり、1つはそれを容易に受け入れてる販売店の側にも問題があるとされ、同年に

は、主要メーカーによって家庭電気器具市場安定協議会が結成された。同協議会は色々な

取り決めを行い、市場安定のためのいわゆる「正常販売運動」を開始した。しかし、結局

は翌年、景品付き・招待付き売出し中止の申合わせや、メーカー共同による乱売品の買取

り、出荷中止などが社会問題となり、公正取引委員会によって廃止を余儀なくされたので

ある。

「正常販売運動」が挫折した結果、既存の代理店網を整備強化することはますます重要

な課題となった。すなわち、代理店の卸機能を的確に果たしてゆくためには、資金面・販

売力・商品知識・サービス技術等の各面にわたる体制整備とともに、・・・・経営力の強

化や経営管理システムの近代化が強く要請されるようになったのである。

「販売会社」の設立こそは、以上のような時代背景のもとで、より確実性の高い販売系

列網を確立しようと意図から出たものであった。すなわち、松下は主要な代理店に自らが

資本参加することによって、つまり代理店と「一心同体になることによって」、積極的に

販売会社を設立し始めたのである。(図表14)で見たように、すでに1950年代の前

半から販売会社は誕生しつつあった。しかし、その設立が全国各地で本格的に始まったの

は57年からであった。同年には9つの販売会社が設立された。この57年とは、前述の

ナショナル会の「ナショナル店会」への改組、あるいは「ナショナルショップ制度」のス

タートに見られるように、販売系列の再編成が開始された年であった。

次々と設立された販売会社は、原則として1地域1販売会社であり、それは卸売段階に

おける担当地域制(テリトリー制)の確立を意味していた。また、販売会社は松下と代理

店との共同出資の形態をとって設立された。経営者はほとんど旧代理店の経営者が継承し

たが、1部は松下から出向した。24

以上のように、松下は既存の主要な代理店に資本参加し、それらを「販売会社」に転換

することによって、より深く自らの系列網に取り込み始めたのである。つまり、それまで

グループの外側にあった代理店の主要部分は、その子会社あるいは関連会社として松下グ

ループの内部に取り込まれた。すなわち「企業グループ」の内部に取り込まれていったの

である。

したがって、販売会社の設立とともに、代理店の数はしだいに減少し始め、1960年

半ばにはその数はゼロとなった。代理店の削減は、1面、松下の販売網政策に不満をもっ

24 前掲、「松下グループの歴史と構造」、199ページ。

34

て去っていった企業があることを示しているが、松下の販売網が卸売段階において系列化

を完了したことを意味していた。また、代理店だけでなく出張所の数もしだいに減少し始

めた。58年には1挙に17の出張所が廃止された。産業本社の出張所は販売会社にその

任務を継承し、解消した。このことは、まさに、販売会社が法的に独立会社とはいえ、松

下の販促組織の構成部分であることを示していたのである。

(図表15)に見るように、この時期には他の主要5メーカーも同様にそれぞれの系列

網を完成させていった。しかし、松下の場合、その形成が早かったため、優秀な代理店を

取り込むのに成功したといえる。松下はこう考える。その後同業各社も、我が社とほぼ同

様の流通政策を採用し始めた。各社それぞれに、卸機構や月販体制の整備、専売小売店の

育成に乗り出し、家電業界の流通はしだいにメーカー別に色分けされていくことになる。

そしてこのころから、誰というとなく<系列化>という言葉が使われ始めたのである。

(4)マルチチャネル時代の到来

以上、松下グループにおける販売系列の形成について、戦前と1950年代に分けてみ

てきた。

販売系列とは、一方でのシェア及び価格を安定させたいというメーカー側の要望と、他

方の、まだ弱体だった当時の代理店や小売店が乱売競争から保護されたいという要望とが

合致して生まれたものであった。それは、大量生産ー大量販売を必然とさせてきた戦後の

家電産業において、メーカー側の市場競争の形態を、直接的な価格競争(値引き競争)で

はなく、品質・モデル競争あるいは広告宣伝競争という形態へと転換させてきたといえよ

う。あるいは、また必然的に、ますます増大する製品・品質モデルの多様化に対応する製

品フル・ラインアップ戦略の維持という課題を系列店に対して強いる結果をもたらした。

しかし、系列店毎ごとにそれを顧客固定化への要請と結びつけて行うことの無理はしだ

いに明らかとなっていくことになる。

まず、家電産業の成長停滞による影響である。戦後の家電産業は必ずしも一本調子で成

長したわけではなかった。大きな落ち込みは1960年代前半に現れた。松下の場合、市

場の飽和状態と売上高の低迷は、例えば、62年には連盟店の数をそれまでの約4万店か

ら一挙に3万2千店へと激減させた。販売会社の中にも赤字に転落するものが激増した。

幸之助ら幹部と全国の販売会社・代理店の社長との3日間にわたる白熱した懇談会が行わ

れたのは64年7月のことである。危機的状況は、販売体制全般にわたる諸改革の実施に

よって、また、その後の「いざなぎ景気」の到来や輸出の好調によってかろうじて切り抜

けられたのである。

しかし、やがてまた、次の波が襲うことになる。すなわち、より大きな変化として、ほ

ぼ1970年代からの量販店やスーパーといった各種の「非系列」流通チャネルの急速な

台頭であった。それは、家電製品の流通チャネルの多様化、いわゆる「マルチチャネル時

35

代」の本格的な幕開けを意味していた。ディスカウントショップも急成長し始めた。これ

まで強固な販売系列網は、その中で、次第に基礎が揺らぎ始めたのである。例えば、家電

総販売額に占める量販店やスーパーのシェアは、72年の15%弱から79年の30%へ、

さらに85年の50%へと増大した。その背景には、何よりも、販売流通系列の存在その

ものがメーカーによる価格支配であるとして、一般消費者からの強い反発を招き、消費者

の足が系列店から遠のき始めたということがある。

すなわち、利益を第1次的にうけるのは、まずメーカー、ついで系列販売店網に所属す

る販売店であるということはいうまでもなかったのである。(図表16)は、80年代に

系列販売店数が減少し始めたことを示している。

今日、こうした「マルチチャネル時代」における激しい競争戦の中で、松下は販売系列

の見直しを迫られている。これについては、後ほど論述する。

2.家電量販店の台頭

(1)家電量販店

家電量販店の台頭については上に述べた通りである。ここで、日本にある家電量販店の

代表的な3社を簡単に説明することにする。

①コジマ

栃木県発祥で激安路線の仕掛け人的存在である。大型店中心に大量出店を継続中。小売

店の閉鎖に消極的な店舗戦略に特徴がある。売上げ至上主義に偏り、効率面でライバルの

ヤマダ電機に遅れをとる。新 POS システムや物流体制の再構築で巻き返しを図る。

②ベスト電器

家電量販店の老舗大手。九州、中国を基盤にいち早く全国展開をした。FC 店から直営店

主体にして店舗の大型化を加速。新宿の高島屋など百貨店内への出店も盛んである。シニ

ア世代に的を絞った製品などオリジナルブランドも強化中である。

③ヤマダ電機

群馬県発祥の家電量販チェーン。激安路線で台頭し、最大手になった。大型店を中心に

積極的に出店している。現在は西日本攻略を進めている。パソコンや AV 製品に品揃えを

絞った新業態店の展開も始動した。自社物流センターや POS システムを駆使した効率経営

に定評がある。

ヤマダ電機が急成長してきた足取りは、バブル崩壊後の1990年代の家電量販店業界

36

の激しい競争の歴史でもある。上位をしめていたベスト電器、上新電機、ダイチチ(現デ

オデオ)などの`西日本勢`や東京・秋葉原の大手家電量販店に対抗して、宇都宮市に本

社を置くコジマ、前橋市に本社を置くヤマダ電機という`北関東勢`が急ピッチで台頭。

品揃えや、顧客への製品説明などサービスを重視する西日本勢に対し、北関東勢2社は商

品数を絞り込み、価格を徹底的に下げる`ディスカウント戦略`を採った。

この時期、コジマとヤマダ電機は「コジマさんで7800円の商品が、ヤマダ電機では

7300円」など、互いの価格を引き合いに出した露骨な比較広告合戦を展開し、「コジ

マーヤマダ戦争」などと評され、マスコミに話題を提供してきた。それが、「価格が安

い」という両社のイメージを定着させ、販売拡大に弾みをつけた。

3.系列販売店と家電量販店

(1)松下の系列販売店の現状と努力

①松下の系列販売店の現状

松下の系列販売店政策の基本は今も幸之助が説いた『共存共栄』の理念に基づいている。

飽和する家電市場、大型家電量販店の台頭、ライフスタイルの変化・・・・。様々な要

因が絡み合い市場環境が激変する中、「販売の松下」と一般的に言われる際の看板である

系列店網が疲労している。

松下の販売店の数が減ってきていることは前に述べた。現在の松下の系列販売店は全国

に約2万店。かつては、テレビ、冷蔵庫、エアコン、ビデオといった戦後の生活必需品を

日本の隅々に届け、家電王国・松下を支える強力な販売チャネルであった。

系列店は全国に22社ある販売会社の松下ライフエレクトロニクス(LEC)から商品を

仕入れて顧客に販売する形態を取っており、松下にとって大切な「お客様」だ。だから松

下は細心の気配りで系列店に接し、これまで機嫌を損ねないように対応してきた。

しかし、系列店を守る方針を貫く限り、各店の販売競争力を高めなくては、松下の更な

る飛躍はないのではないかと私は考える。そこで99年秋、松下は系列店への対応を大転

換した。従来、松下側が費用負担して受講してもらっていた系列店向け講習会を、系列店

自ら費用を負担して、店側の意思で研修を受ける形に180度切り替えた。「あなたの街

の電器屋さん」に攻めの経営力をつけてもらい、量販店にはできないきめ細かなサービス

で収益力を高めてもらう新研修制度「プロショップ制度」である。

松下は、電機メーカーで最大規模の巨大流通網を誇っている。「開発で遅れても、販売

でライバルを逆転する」とばかりに、『2番手商法』と皮肉られた松下が、周囲を黙らせ

る原動力となってきた。ところが、量販店の安売り攻勢に、松下の販売店は収益の低下に

あえぎ、販売力依存は必ずしも勝利の方程式ではなくなっている。

37

系列店が弱っているという最大の理由は前に論述したように、まずは大口購入を売りに

安値攻勢をかけるヤマダ電機やコジマなど郊外型量販店の台頭。品揃えが豊富で価格が安

い量販店へと消費者は流れた。若年代の家庭は以前ほど近隣と密接な付き合いをしないた

め、系列店の強みを発揮しにくくなったという社会的な要因もある。 事実、松下の国内

家電に占める系列店ルートの比率は1992年度の約60%から2000年度は約50%

に低下した。(図表17)国内家電市場の全体規模もこの間、伸び悩んだ上での比率低下

だ。

②松下電器商学院

後継者問題、これは系列販売店の抱える問題点の一つであると私は考える。そんな後継

者がいなくなるとのナショナルショップ店主の悲鳴を受けて、松下幸之助は、松下電器が

彼らに代わって後継者を育てる「松下電器商学院」という後継者育成のための学校を創設

した。そして松下幸之助は、高杉晋作や伊藤博文など多数の有能な人材を輩出した吉田松

陰の松下村塾を理想として、松下の関係者に全国を駆け回らせ、モデルとなるような私塾

を探させたのだった。しかしいずれも一長一短があり、そこでそれぞれの良さを集めて独

自に手作りの学校の設立に至るのであった。

かくして、「松下電器商学院」は昭和45年(1970)年5月、滋賀県の草津市に創

立された。場所は松下電器のエアコン事業部(工場)の側近くで、小高い丘の上にあった。

当初は男女共学であったが、昭和60年に奈良県大和郡山市に「女子部」が独立し、それ

以降は男女別学となっている。学校の立地だけを見ても、松下が関西の会社であるという

こともわかる。

別学になったのは、共学時代、男女の学生が恋に落ちて卒業後に結婚するケースが続出

したからである。跡取りのつもりで商学院に入学させた女子学生の親たちにすれば、死活

問題で見過しには出来なかった。松下電器としても親たちの抗議はもっともで、2店の後

継者を育成するつもりが、結婚で1店を潰すのでは後継者育成に失敗したことになるから

である。

松下電器商学院には、毎年150名前後の男子と15~20名前後の女子が入学してく

る。2000年3月時点での累計卒業生数は実に4400(うち女性、340)名に達し、

この卒業生のほとんどがナショナルショップの経営者となっているのだから、いかに松下

幸之助の作った商学院が強力な松下電器の販売網を支えているか一目瞭然である。また、

エアコンの取り付け工事など店を継ぐために必要な国家資格「電気工事士(第2種)」の

取得を必須科目としている。その合格率は全国平均が50%を切るのに対し、商学院卒業

生は90%を超える優秀さを誇っている。

38

もちろん商学院にも学費はあるが、校舎や学寮の建設・維持、講師の派遣など学校運営

に必要な経費はすべて松下電器が負担しており、そのため松下の負担は単純計算しても1

学生あたり学費の3倍以上にものぼる。25

③支配体制のリストラ

松下の系列販売店復活の努力の一方で、系列店全体の競争力低下に応じた支援体制縮小

の動きも始まった。地域別の系列店担当販社28社のうち22社を松下ライフエレクトロ

ニクス(松下 LEC)に統合、2001年10月に新体制がスタートを切った。

新 LEC の宮裡静雄社長は北九州を振り出しに京都、滋賀、大阪、四国、東北、北海道と

日本全国で営業を経験した人である。1969年入社のある社員は、「私が若かったころ

はカラーテレビの普及期。日が沈んだ後も地域の系列店主と一緒にカラーテレビを積んだ

トラックに乗り、白黒テレビのアンテナが立つ家へ飛び込み営業をした」26と昔を懐かし

んでいる。

このある社員の若手時代は系列店にとって「古き良き」時代だったと思われる。店にと

っても利益率の高いテレビを大量に売り、今も残る財産をたくわえた店主も数多いと言わ

れる。

時代が変わり、担当販社が統合されたことは「系列店の成功体験を地域を超えて共有で

きる」27などメリットもある。しかし、それ以上に目立つのが統合と並行して実施した組

織のスリム化だ。

京都府、奈良県、滋賀県の系列店を支援する旧近畿松下ライフエレクトロニクスは20

01年春に早期退職者を募った。2001年10月以降は松下 LEC の1部門として活動し

ているが、京都支店の営業社員を半減するなどリストラが避けられなかった。大幅に人が

減った京都支店は定例の早朝ミーティングを廃止したり、事務連絡を携帯電話の電子メー

ルで済ませたりして営業員が現場を回る時間を確保している。勤務時間もフレックスに切

り替えている。

④「悪平等」の解消

ここでは、松下 LEC 京都支店の例をあげる。優良店である「プロショップ」の約60店

を選んだ。選考はまず店主と妻を京都支店に呼び、今後も松下 LEC と協力していくための

条件を提示。受け入れた店だけがプロショップになれる。

松下 LEC は人繰りが厳しい中でもプロショップへの支援体制はむしろ強化している。京

都支店のプロショップ担当は営業員一人当たり12~13店しか担当を持たず、各店に頻

25 立石泰則、「ソニーと松下~21世紀を生き残るのはどちらだ!~」、講談社、20

01年 26 喜多恒雄、「松下復活への賭け」、日本経済新聞社、2002年、123ページ。 27 同上、123ページ。

39

繁に顔を出す。プロショップ限定の勉強会や情報提供も用意した。販売キャンペーン時に

は各店の販売状況の速報を他店に流し、プロショップ同士の競争をあおる。

同支店は逆に仕入額が少ない約500店は電話だけで対応している。中級店舗は営業員

一人当たりで40~50店を抱え、営業員は必要に応じて出向く。プロショップになれな

かった有力店には幹部が1店舗ずつ支援縮小を説明しに赴き、松下側の事情を説明したと

いう。松下と系列店がともに痛みを伴いながら、長く続いた「悪平等」を解消している。

東京でプロショップに選ばれた村田電器商会(世田谷区)店長の村田不二緒の持論は「専

門店は電器製品の開業医。故障一つでも気軽に声をかけてもらうためには、自分が色々な

ことに興味を持たないといけない。」プロショップも「自分の意識を高めるために手を挙

げた。休日をつぶして研修に励んでいる。」28 松下はこうしたやる気のある店に支援を

集中する体制を明確にしたのだ。松下 LEC の経営を考えると、支援する店も選ばざるを得

ないというのが本当のところであろうか。数量の伸び悩みと単価ダウンで京都府の系列店

向け販売額は10年前の60%前後の水準にまで落ち込んでいるという。

松下 LEC の販売下落や人員削減は京都府に限った話ではない。東京の南支店(渋谷区)

の営業員は2001年春、約3分の2に減っている。

⑤熱心な店が報われる販促組織

1992年に創設した販促組織「MAST(マスト)」。幸之助時代の「ナショナル店

会」を改組した MAST は原則として松下商品を月間百万以上仕入れる有力系列店が加入し、

地域ごとに20~60店前後のグループを構成。松下の資金支援を受けながら新商品の合

同展示会を開くなど松下の販促政策の一翼を担ってきた。

その MAST も転機を迎えている。2001年11月に、「2002年春から MAST を

会費制にする。」29と、京都府、奈良県、滋賀県にある16の MAST を統括する近畿ナシ

ョナル MAST 連合会会長の牧野伸彦マキノデンキ社長は、集まった各 MAST 会長に切り

出した。

親睦団体が発展した MAST が集める資金として店主旅行などに使う親睦費は一般的だ

が、会費制は珍しい。MAST を統括する MAST 連合会レベルでの導入は全国でも極めて異

例」(牧野)。牧野が提案した案では、会員店は親睦費とは別に月5千円の会費を支払う。

合同展示会の開催費用などはこれまで参加店からそのつど、徴収していたが、今後は会費

から充てるという。

会費制の導入に対し近畿 MAST 連合会傘下の MAST からは反対論が噴出し、各 MAST

で議論するとして2001年10月の段階では結論を保留した。しかし、牧野の決意は固

く、2ヶ月後の2002年1月に同連合会として会費導入を決めた。

28 前掲、「松下復活への賭け」、125ページ。 29 同上、126ページ。

40

京都市生まれの牧野は高校を卒業して地元の信用金庫に就職したが、1970年頃に得

意先の電気店に誘われ22歳で住み込み店員に転じた。

結婚を機に独立したいと考えていたころ叔父の新居を訪れ、住宅ラッシュに沸く宇治市

への出店を決めた。1976年、同市内に7坪の小さな店舗を構えてから商売は順調に拡

大。宇治市の敷地を広げる傍ら京都市に支店を構え、合計12人の従業員を抱えるまでに

なった。年間売上高3億6千万円を上げ、松下系列店でも販売額上位の常連だ。

優良店のマキノデンキも1997年度から2年間は赤字に苦しんだ。周辺には上新電機

やミドリ電化といった量販店が合計3店も大型店を連ね、客数も販売単価も落ち込んだた

めだ。そのころ廃業した系列店の事業悪化の経緯をまざまざと見ているだけに、系列店運

営の危機感は人一倍強い。

自らの店舗運営について牧野が実践する成功の秘訣は、量販店などライバル業種があま

り力を入れていない分野を全面に出すこと。マキノデンキの入り口付近には得意商と位置

付ける便座がいくつも壁に掛けて陳列してある。「便座をきっかけに他の住宅改装の受注

をもらえる可能性もある」として毎年百台以上の便座を販売している。

牧野は MAST 連合会会長として異例の会費導入を決断したことに「会費を払えない店の

切り捨てだと言う声もあるだろうが、やる気のある熱心な店が報われる組織運営が望まし

い」と説明する。会費制の導入は今後も事業拡大を目指す意欲があるかどうか、MAST が

仲間に対して設定した`踏み絵`である。

MAST は自らが選別に動き出した背景には松下の支援姿勢の変化がある。近畿ナショナ

ル MAST 連合会の場合も、会長の牧野が松下から耳打ちされた計画が改革を決断したきっ

かけになっている。

松下が各 MAST 連合会会長に説明した計画は、全国の MAST を2002年3月末にい

ったん解散し、同年4月1日に「ナショナル・パナソニックの会」として再スタートする

もの。その際、系列店の加盟を改めて審査すると同時に、松下から販促組織への支援金の

算定方式を変えるという。

支援金算定法の変更は販促組織の運営に大きな影響を与える。松下は各 MAST に対して

加盟店舗数に応じた支援金を提供してきたが、今後は加盟店舗の売上高や仕入額の合計金

額に応じて支援金も決める方向だ。現 MAST は経営不振店舗を加盟させておくと、優良店

に回せる支援原資が少なくなる可能性もある。

例えば京都府の MAST 加盟店はもともとは約400あったが、実は本来の加盟基準であ

る月間百万円以上の仕入れを満たしているのは半数程度にすぎないという推測もある。な

かには閉店休業状態の店さえあり、新算定方式では現 MAST にとって重荷となる。

近畿ナショナル MAST 連合会は「(経営不振店舗という)重いものを載せ続けていては

MAST が沈没船になってしまう」(牧野)という危機感を募らせ、会費制導入による加盟

店の`選別`に踏み切った。過去からの付き合いだけで松下系列店を名乗れる時代は去っ

た。

41

⑥プロショップ道場

プロショップ道場とは、系列店向け販売会社の松下ライフエレクトラニクス(LEC)が

主催しているものである。現在全国の松下系列店約1万9千店のうち2千6百店が参加し

ている。「3年間で売上高1.5倍、利益2倍を目指せ」という風な目標のもと、生き残

るための経営・販売戦略を徹底的にたたき込むといったものである。講習会には店主、奥

さん、後継ぎの3グループに分け、外部講師を招いて月に1回程度実施される。店主には

経営戦略、奥さんには CS(顧客満足)戦略や商品実演、後継ぎには従業員管理や販売戦術

といった役割別の講習内容になっている。それまでの慣習にとらわれた店舗経営を、18

0度転換させることもあるという。

道場では商圏を店から半径500メートルに絞り込む近距離戦術を指導している。しか

し、地方の店舗などは、遠方の顧客宅に商品を配達するだけで午前中の業務が終わるケー

スがある。それでは新規顧客の開拓ばかりか、来店客の対応すらままならない。代わりに

近隣の顧客をくまなく開拓し、商圏内の販売シェアを高めるといったこともしている。一

日に百件の顧客を訪問し、使っている家電製品のメーカー名や使用年数を調べることも指

示している。「系列店の近隣商圏内の販売シェアを20%に高め、売上高を1.5%にし

たい」という松下 LEC の目標がある。

成果はどうなっているのかというと、徐々に出始めている。2002年4ー6月の家電

製品販売額の前年伸び率は、系列店の全国平均が1%に対し、プロショップ道場参加店の

平均は7%。昨年10月からプロショップを対象にインターネットを通じて販売状況や顧

客データを分析し、販促支援策を提示するサービスも始めた。松下はこうした施策をテコ

に2002年度末までにプロショップを3千5百店に拡大する予定である

⑦日本最大の系列家電販売店網で介護関連商品レンタルの展開

松下が日本最大の系列家電販売店網を通じ、介護関連商品レンタルを2000年10月

より本格展開した。同社では、全国に約2万店ある系列販売店を抱えるが、既に2000

年9月より、そのうちの20%にあたる約4000店で介護関連商品販売を開始し本格展

開をスタートしている。一方、レンタル事業は約600店で開始した。

現在、販売されているのは、補聴器などの同社製品約100品目に加え、介護用ベッド

や車いすなど松下以外のメーカー製品約1000品目となっている。販売店内に専用売場

を設置、カタログで注文を受けて後日配送するシステムである。

地域密着のきめ細やかなサービスがセールスポイントの地域販売店。福祉用具販売を希

望する販売店には、福祉用具専門相談員資格を取得させ、福祉用具レンタルの窓口となる

場合は、福祉用具貸与事業者の認定を取得さることにより、販売店ならではのきめ細やか

なサービスを提供している。

高齢化に伴い、介護問題を真剣に考える時が来ていると私は思う。そんな中、日本最大

の系列販売店を抱える松下の取り組みは、今後ますます重要視されるであろうし、会社と

42

しても必要不可欠な事業となることは間違いない。上にも書いたように、地域密着できめ

細かなサービスを売りとしている地域販売店でしかできないことである。地域販売店の必

要性がここで見ることができる。

(2)日本的経営との関係

①終身雇用

長い間、日本企業における雇用の特徴は、終身雇用という言葉で表現されてきた。終身

雇用とは、文字通りに理解すれば、「終身」=「死に至るまでの生涯」にわたる雇用、

「学校を卒業してから死ぬまでの生涯を1つの企業に雇用されること」という意味である。

実際は、「定年までの雇用」、「学校を卒業してから定年まで1つの企業に雇用され続け

ること」と理解して良い。

終身雇用のメリットはモチベーションを保てることである。この理由は終身雇用下で労

働者と企業は運命共同体であるため必然的に労働者のモチベーションが保てるのである。

これは企業の成長と労働者自身の経済上、仕事上の発展が密接に関わってくるために企業

活動に対する投下労働量が大きくなるということである。また企業内で熟練が形成できる

というメリットもある。これは長期にわたって雇用されるためである。そして労働者を関

連する他の職場へも配置転換をしながら OJT(職場内訓練)によって従業員の能力を相互

に関連づけながら育成できることである。

しかし終身雇用制にはデメリットもある。企業が業績不振に陥っても雇用保証が優先さ

れるため雇用調整が遅れがちになり、構造転換が進まず、国際競争力の低下を招く。また

終身雇用の下では人件費は固定費であり、結果として固定費を高める.また高い固定費を

持つ企業は創業度を維持するために利益よりもシェアの確保を目指した戦略をとる傾向が

ある.そのため低収益の下で激しい同質的競争が生じ、これが集中豪雨的輸出をもたらす

こともある。

定年までの雇用というふうに考えても、終身雇用という言葉は、実際から相当かけ離れ

たものになってしまっているのである。更に、終身雇用と強く関連すると思われる雇用に

関する各種のデータ(勤続年数)には、企業規模別、男女別、雇用形態別に大きな差があ

り、終身雇用は日本の企業の中でも、ほぼ大企業男の正規従業員にしか当てはまらない現

象であることも指摘されている。それにも関わらず、依然として日本の企業が終身雇用で

あるとする認識は根強く存在し続けているというのが実体である。30

販売店、松下の系列販売店において、終身雇用という要素は存在しないと言い切ってい

いのではないだろうか。松下の販売店で仕事をしていれば一生が保証されているわけでも

ないし、実際販売店の数はピーク時の半分になっているわけで、松下の販売店の復活に終

30 関口定一、「現代の人事労務管理」、八千代出版、2001年、37~40ページ。

43

身雇用という要素は必要ないと私は考える。

②年功序列

年齢や勤続年数の多少によって地位の上下をつけること年功制をいう。これを算定基礎

とする賃金体系を年功序列型賃金と呼ぶ。「年功賃金」とは、勤続年数の増加に連れて賃

金額が増加することを意味する。強調されるべきは「勤続年数」に連れてという点であり、

単なる「年齢に応じて」ではない。年齢に応じるように見えるのは、基本的には勤続に応

じて上昇することの結果であるにすぎない。また、勤続に伴う賃金額の上昇は、「能力主

義」評価との合成物であることはもちろんである。年齢でなく「勤続」をあえて強調する

のは、日本企業の「年功賃金」にみられる重要な特質は、その賃金上昇が組織個別的であ

り、端的に言って転職によって他企業に引き継がれないところにある、ということだ。

年功序列は、企業という社会の中で身分が上がっていき、また、年功にふさわしい格の

仕事につくことができるので、いったん入社した場合、とどまり続けようという要因を与

えることができ、この事が企業メンバーとの長期結合関係を支えていた。この事から、年

功序列は終身雇用が前提となっていると言えるだろう。年功は、短期的に明確な差異とな

っては現れない。特に勤続の短い若年従業員の場合にそうである。従って、終身雇用制下

の年功主義では、学歴別に処遇の出発点は異なっているが、当初は原則として画一的処遇

が行われ、年功の違いが明確になるに連れて、それに応じた処遇をするようになる。年功

の評価は、上司によって行われるが、職場集団の「和」を維持するため、特定の人間に挫

折や屈辱の感情を与えて「恥」をかかせない事が肝心である。そのためにも、勤続の短い

若手従業員の評価は、機械的・画一的としている。31

年功序列の意味を理解した上で、年功序列は「ヒト」のことであるが、「ヒト」を「系

列販売店」に置き換えて論述する。私は年功序列という要素は今後の松下の系列販売店の

発展に必要ないと思う。何故なら、何十年も長く営業している販売店が、売上が悪いけど

まだ数年しか営業していない販売店で売上が非常にいいところより優遇されていたらそれ

は明らかに矛盾だからである。実際、松下の販売店においてこういったことは行われてい

ないが、もしこういったことをずっとしていては松下の販売店の復活はあり得ないと私は

思う。

③能力主義

能力主義という言葉は、すでに昭和30年代、技術革新の進行する中で終身雇用と年功

賃金制の修正が叫ばれ始めた頃から言われてきた。意味は、従業員の能力をフルに発揮さ

せ、その能力に見合った処遇を与えるように賃金制度や資格制度などを改めていこうとい

31 鈴木良治、「日本的生産システムと企業社会」、北大刊行会、1994年、183~

185ページ。

44

うものである。その「目的」は、従業員個々の能力を的確に発見し、最大限に開発・活用

し、そして仕事に対する意欲を喚起することによって生産性をより一層向上させ、新技

術・新製品・新市場開発の効率を高め、企業の競争力を強化し、企業ならびに従業員の繁

栄を確保するということである。そこで、「能力の定義」を明らかにすると、能力とは、

企業における構成員として企業目的達成のために貢献する職務遂行能力(=仕事をする上

で求められる能力)であり、業績として明らかにされなければならないものである。32

具体的には、能力者選抜のための試験制度とか、選ばれた人材を経営幹部候補生として

育成するための定期異動(ローテーション計画)の整備などが精力的に推進された。しか

しながら、このような能力主義管理は、全従業員の中の少数の選ばれた能力者を対象とす

るものにすぎなかった。年功制度の否定をねらいとしていたために、能力者の選抜と処遇

に目を奪われ、大多数のものが日常の職務遂行に当たって働きがいをもちえるための配慮

に欠けていたといえる。

能力主義の概念と系列販売店との関係については非常にわかりやすいと思う。能力主義

の目的はは上に書いたようなことである。つまり、販売員個々の能力が最大限に発揮され

るようにメーカーが指導し、販売員も努力する。そしてメーカーが新製品を開発すること

によって販売員のやる気を起こさせるというものである。また、優良店の選抜や選ばれた

店は報われるなどといった優遇制度を松下は行っており、まさしく年功制の否定、すなわ

ち長く店をやっていれば売上げに関係なく、優遇されるなどといったことは松下では行わ

れていない。「能力主義」とは、松下の販売店が今後切磋琢磨しながら成長していく上で

必要な要素であり、これは松下のみならず、日本いや世界中の企業に必要不可欠なもので

あると私は考える。

(3)事業部制

①事業部制と松下幸之助

松下電器産業、松下電工の創業者である松下幸之助は、「経営の神様」と言われた。

松下幸之助が経営の神様と言われるのには理由がある。一代で、世界的な巨大企業であ

る松下電器産業と松下電工とを無一文から作り上げたことが第一の理由である。

しかも、両社ともにその発展の原動力となったのは、単一の製品や技術ではなく良い経

営であった。実際に幸之助氏は、経営の歴史にも大きな足跡を残された。事業部制は世界

中の巨大企業のほとんどが採用する経営方式だが、その確立は日本初だったし、世界初の

デュポン社とは数年しか違わない。今は常識となっている週休二日制もいち早く採用し、

日本の雇用制度の模範を示された。この足跡の大きさが、経営の神様と呼ばれる第二の理

由である。

32 山本勝也、「労務管理」、泉文堂、145~146ページ。

45

事業部制の試みは、昭和42(1917)年1月、品質が良くて安い「誰でも買える電

熱器」を松下で売り出すことを計画した時点に始まる。新しい事業を始めたがっていた米

穀商 T 氏と松下幸之助が、共同出資で電熱部を創設した時である。

次に事業部制を説明する。「事業部制組織とは、本社と複数の独立した事業部からなる

2元的・分権的な階層の構造をいう。本社は事業部の業務を計画・調整評価し、必要な経

営資源を配分する役割を担う。事業部は担当する製品や地域の業績に独立した利己責任を

持つ」33という制度である。

②事業部制と系列販売店の関係

事業部制の意味を理解した上で、事業部制と松下の系列販売店との関係について述べよ

うと思う。松下の系列販売店では、事業部制の利点を発揮していると私は思う。例えば、

系列販売店によって取り扱う商品が違い、家電量販店と比べると、その商品に対する熟知

度は非常に高い。これは松下幸之助の人材適所という精神を思う存分発揮していると私は

思う。また、販売店の中に電球を取り付けたりエアコンを取り付けたりなどといった工事

を担当する工事部というのがある販売店がほとんどで、電話一本で無料もしくは低価格で

工事をする。また、その工事を主に取り仕切っているのが松下電工である。皆さんも松下

電工を書かれた青い看板を見かけることもあるであろう。

つまり、系列販売店では、松下幸之助が始めた事業部制という要素をうまく発揮してい

ると思われる。ただ、欠点を言うと、取り扱う商品もしくはメーカーが家電量販店と比べ

ると圧倒的に少ないため、消費者の商品に対する欲求の充足という点で家電量販店に劣る

かもしれない。しかし、これに対して調査したところ、松下の販売店でも他のメーカーの

商品も買うことができるし、お店にないけど欲しいという商品も取り寄せることができる。

(4)週休2日制

①日本初の週休2日制の始まり

松下は、労使関係の中から仕事別賃金制度、日本初の完全週休2日制、35歳持ち家制

度、経営参加制度など、いくつもの画期的な制度を生み出し、実行に移してきた。

昭和35(1960)年1月10日、恒例の経営方針発表の席上で、松下幸之助当時社

長は、「昭和40年度実施をめどに、週休2日制を実施する」という驚くべき発言をした。

これが、松下における週休2日制実施の始まりである。

幸之助のこの発言の要旨は次の通りである。

①海外メーカーとの競争に勝つためには、工場の設備を更に改善し、オートメーション化

するものはオートメーション化し、能率の大幅な向上をはからなければならない。

33 経営学用語辞典、151ページ。

46

②そうなると、非常に毎日が忙しくなって、8時間労働では相当疲れる。従って、5日間

働いて1日は余分に休まなければ体はもとにならない。アメリカはすでにそうなっている。

そのかわり、アメリカは日本の何倍かの一人あたりの生産を上げている。

③経済活動の向上とともに、人生を楽しむという時間を増やさなくてはならない。半分は

高まった生活を楽しむためには休み、半分は疲労が増えたために休むという形になって、

土曜も休みになる、というように松下をもっていかなければ、松下の真の成功ではない。

④5年先には週2日の休みをとって、給与もまた他の同業メーカーより少なくならないよ

うにもっていくところに、会社経営の基本方針を持たねばならない。

すなわち、週休2日制の導入の意図は、国際競争の激化、能率の拡大に伴う従業員の疲

労回復、及び余暇時間の増大にあったのである。

②週休2日制実現へ

現在では、多くの企業が週休2日制を行っており、労働条件としてさほど目新しくなく

なってきているかもしれない。しかし、当時の松下幸之助の発言は、「極めて時代の先端

をいくもの」と評価できると思う。

昭和40年4月16日、日本で初めての完全週休2日制が松下で実施された。さらに、

ただ実施するだけでなく、成功させなければという幸之助の信念から。「一日教養、一日

休養」のスローガンをもって2日連続休日の利用の心掛けが PR された。現在の日本の企

業の基本は、土日二日連続休暇となっているが、これは幸之助の考えからきたといってよ

いだろう。感謝したいものである。また、同時に余暇活動の充実のために、スポーツ設備、

文化的活動のプログラム、全国に散任する保育所の設備の充実が図られた。ここにまさし

く、幸之助の「企業と人の共存共栄」という考えが出ていると思う。そして人を大切にす

る松下らしい発想である。

松下が完全週休2日制を実施して以来、日本中の企業で週休2日制の導入が図られるよ

うになった。それは何故かというと、生産性を低下させるどころかむしろ向上させ、従業

員が有利になったり、欠勤率が低下するなどの週休2日制の積極的効果が徐々に認められ

るようになったためである。仕事もスポーツと同じで、休暇を入れないと良い成果は上げ

られないということである。しかもやっているのは人間であるのでその辺はよく分かるで

あろう。

週休二日制の普及状態を見ると、昭和46年の段階では完全週休二日制を採用する企業

は日本全体のわずか0.4%にすぎなかったが、現在ではほぼ全ての企業が実施している

と言って良い。

③週休二日制と系列販売店

47

週休二日制とは、販売店が週に二日休むということでなく、人が週に二日休むというこ

とである。ただ、販売店の場合、お客が土日に多く来るということもあり、販売店で働く

人の休みは、不定期というのが現状であろう。また、店としては、週1定休日、もしくは

定休日無しというのが現状である。そして、その土日に多く来るであろう消費者を狙って、

年中無休の家電量販店やディスカウントストアは、週末に新聞に折り込みチラシを出して

いる。折り込みチラシなどほとんどない系列販売店にとっては、週休2日制の招いた思わ

ぬ落とし穴であると言える。

(5)企業ブランド

①ナショナル・パナソニックの始まり

優れた商品の提供こそブランドを高める

松下の主要ブランドはナショナルとパナソニックである。ナショナルは松下幸之助が1

925年、新聞に掲載されていた「インターナショナル」の語にヒントを得て「国民の」

「国民のための」意を込めて商標にすることを決定した。1927年、自転車用角型ラン

プを発売した時に初めて使用した。

パナソニックが誕生したのはそれから30年以上たってからのことである。北米でブラ

ンドを決めるときに「NATIONAL」はすでに他社が登録済みだったため、数百の候補の中

から当時スピーカーの相性として使用していた「PANASONIC」が商品イメージに合うと

して1961年に採用した。

「全、総、汎」を意味する「PAN」と「音の、音速の」という意味を持つ「SONIC」を

組み合わせた言葉だ。1988年から日本でもパナソニックを使い始めた。34

②企業ブランドと系列販売店

ナショナル・パナソニックがどのように名付けられたかがわかったところで、私がずっ

と疑問に思っていることを論述する。それは、「何故、松下は企業名をブランド名として

使わないのか。」ということである。日立にしても、東芝にしても、ソニーにしても自動

車にいたってはトヨタにしてもホンダにしても企業名をそのままブランド名として使って

いる。

松下電器産業にいたっては、白モノ家電等については「ナショナル」、AV 機器などに

ついては「パナソニック」と使い分け、海外輸出商品は全て「パナソニック」で統一され

ている。松下電工は、ほとんどの商品に「ナショナル」を使い、住宅関連商品には

「NAIS」というブランド名を使っている。こんなに様々なブランド名を使用しているメー

カーは松下くらいなものであろう。

34 前掲、「松下復活への賭け」、241~242ページ。

48

「ナショナルショップ」として日本中の人の頭に残っているナショナルと、世界的に有

名なパナソニックというブランド名。でも企業名は松下。私のイメージを言うと、保守的

で国内で知名度が高いのが「ナショナル」で、先鋭的で国際的なのが「パナソニック」で

ある。今後も、恐らくこの兼用は続き、松下という企業名はブランド名として使われるこ

とはないであろう。そして、松下の販売店はずっと「ナショナルショップ」である。

松下の販売店がカラーを変えるために、「松下ショップ」、もしくは「Pana ショップ」

などとしてみると、消費者の興味が変わり、ナショナルショップのイメージも変わり発展

するのではないかと私は考えている。

Ⅴ.市場調査

1.調査目的・意義

「百聞は一見にしかず」という諺があるように、私は市場調査(アンケート)を実施し

た。

意義としては、やはり自分の目で直接見たモノ、聞いたモノが自分自身の結論を決定す

る要因になるであろうと考えたからである。市場調査をすることによって明らかにしたい

ことは、当然、現在のナショナルショップの現状であり、そこで働く人たちの考え方や、

また商品に対するメンテナンス面、もしくは松下に対しての要望などを聞きたい。また、

家電量販店やディスカウントストアと比較した優位性や問題点も見たいと思っている。

調査した店舗は、八王子にあるナショナルショップ7店である。何故八王子かというと、

私の地元であり、秋葉原に次ぐ家電の街といわれているからである。

2.調査内容

質問は以下の通りである。

・(経営形態)

1.貴店は個人経営か法人経営ですか。

・(総従業員数)

2.貴店の従業員数は現在何人ですか。

・(主な取り扱い商品)

3.最近1年間で、貴店の取り扱い数量が多かった製品はどれですか。

49

・(製品に対する消費者からの要望・苦情)

4.貴店では最近1年間に製品の品質機能や安全面について消費者(ユーザー)からどの

ような要望や苦情がありましたか。

・(要望・苦情の処理方法・・・・修理)

5.これらの要望・苦情に対して、製品の修理あるいは部品交換を必要としたケースがあ

りましたか。

・(処理責任)

6.この場合、修理はどのように行われましたか。

・(処理内容)

7.貴店が責任を持って修理を行った場合、その結果はどのような内容に落ち着きました

か。

・(メーカーへの求償)

8.この場合、貴店ではメーカー(サービスステーション、サービスセンターを含む)に

その保証を求めたことがありますか。

①ある→その結果はどうなりましたか。

②ない場合→その結果はどうなりましたか。

・(メーカーへの要望)

9.消費者からの要望や苦情に関連して、貴店ではメーカーに対してどのような対応を

希望しますか。

10.家電量販店との比べて良さと課題を教えて下さい。

11.上と関連しますが、系列販売店しかしかしかできないこ教えて下さい。

12.松下をずばり一言で。

3.調査結果

1.販売店のうち個人経営と法人経営の比率は、ナショナルショップの 7店中、6店舗が

個人経営で、1店舗が法人経営であった。

50

2.平均従業員数は、事業主が一人とその他の従業員が家族を含めて2~3人というのが、

系列販売店の平均像であった。家電量販店は、系列販売店とは桁が違う多さであった。

3.取扱商品の多いもの5つをあげると、カラーテレビ、洗濯機、冷蔵庫、VHS、照明

(順不同)であった。そして、エアコンと電子レンジがその次に続いた。また、系列販売

店によっては、クッキングヒーターや電子レンジなど、その店一押しの商品もみられた。

4.家電製品の品質・機能及び安全面に関して販売店が受けた消費者苦情や要望のなかで

多いものは、「特に苦情とかはなく、その商品の使い方について知りたがるお客さんが多

い」という意見が多かった。その場合、系列販売店は、商品を買った消費者の家まで行っ

て説明したりするようである。また、販売店によっては「苦情はいっさい無かった」「そ

ういったことを言うお客さんはいない。いいお客さんばかりだから」といった回答もあっ

た。系列販売店のメンテナンスもしくはアフターケアが優れている例として、商品を購入

した消費者の家に、定期的にその商品の調子がどうかを調査しに行ったりするということ

をしているようである。また、家電量販店で購入した商品を、使い方、取り付け方がわか

らないから結局系列販売店に来て、説明を受けたり商品を取り付けてもらったりする消費

者が非常に多いようである。

5~8.これに関しては、苦情が無かったという店に対しては回答はない。欠陥品や故障

商品については、1年以内なら無償で取り替えもしくは修理をし、1年経っている商品に

ついては多少お金をとっているようである。また、欠陥品などに関しては、メーカーに直

接連絡をし、直してもらうか新品と取り替えるようである。

9.メーカーに対しては、「製品のさらなる品質の向上と安全性重視」、「欠陥商品に対

する迅速・かつ適切な対応」、「より良い製品の開発」などといった意見が多く見られた。

これに関しては、我々消費者の要望と同じ様な感じである。また、家電リサイクル法が始

まったが、そういった廃家電製品処理に関することをいう販売店もあった。

10.この市場調査において一番聞きたかったことである。

・消費者との密接な関係が作れる。→お客さんに「お誕生カード」を贈ったりしている。

・信頼感がある。→長年取引をしているため、信頼感ができ電話一本でお客さんのところ

に駆けつける。

・メンテナンス、アフターケアが断然優れている。→上にも書いたが、例えば、商品を購

入した消費者の家に定期的に商品の調子がどうかを調査しに行ったり、大手家電量販店で

購入した商品を、結局系列販売店に使い方がわからないから持ってきた消費者に対して、

51

親切に対応する。すると、お客さんの方から、家電量販店は確かに値段は安いけど、販売

店の方が親切に対応してくれるし、これからは販売店で購入しようという風になるという

ことである。

・商品に対する熟知度→これについては、系列販売店の店員が、エアコンの取り付けから

照明の取り付けまでを(工事部があるところもある)一手に担っているため、量販店と比

べると熟知度は明らかであろう。また、長年勤務している人がほとんどといったところか

らもわかる。

11.これは、10とほぼ同じ内容であった。

12.ブランド力がある。消費者は多少値がはってもナショナルだから買う。これからも

良い商品を作って下さい。多少値段は高いけど、いいモノを作っているなどといった意見

があった。

4.感想

市場調査を行ってみてナショナルショップの現状を生で感じることができ、非常に良か

ったと思う。この調査によって、上に書いたように、家電量販店やディスカウントストア

と比較しての優位性が非常に多くみることができた。

また、問題点もいくつかある。例えば、後継者の問題である。ナショナルショップは、

「農業離れ」と同じで「ナショナルショップ離れ」みたいなものも進んでいるようである。

調査を行ったショップのうち、親子で店を経営しているショップもあったが、やはり主と

して働いているのは、中年かそれ以上の元気の良いおばちゃん、おじちゃんが多かった。

これは、今後松下の系列販売店が抱える課題であり、克服すべきものであろう。

次に、やはり量販店と比べて、取り扱う商品の数量、種類が圧倒的に少ないということ

である。これに関しては、ナショナルショップであっても他社の製品、店に無い製品を購

入できるのだが、これを知る消費者が少ないことが現状であろう。

3つ目に、やはり若者離れに代表される、何となくお店に入りにくいオーラを出してい

る店があることである。これは、例えば、外装を変えたり、宣伝をしたりして、更なる顧

客の獲得が必要になってくる。実際、私自身も今までナショナルショップで買い物をした

回数は、数えるほどしかない。

最後に、この市場調査に協力してくださったナショナルショップの皆さんに大変感謝し

たい。アポ無しで突然訪問したにも関わらず、快く受けて下さった。そこで感じた一番の

印象は、家電量販店の台頭に対してあせりはなく、私たちは私たちの良さがあり、やり方

があるよといった感じであった。これからも、良さ、らしさを存分に出して、日本一の販

売網を誇る松下の商品を販売して欲しいと思った。

52

今回の卒論では八王子のナショナルショップ 7店しか調査できなかったが、卒論報告会

までの春休み中に、松下以外のショップや、海外の販売店なども調査してみたい。

Ⅴ.総括

私は、「松下の系列販売店の復活はあるのか」というテーマで論述してきた。そして、

開発、生産、販売という3つの面からこのテーマについてみてきた。まず、開発と生産が

どう販売と関係するのかを論述しようと思う。

開発と生産と販売は、メーカーにとって欠くことのできない3つの要素である。「モノ

を開発し、それを生産し、そして販売する」。こうやって言葉にすると非常に簡単である

が、この3つの要素がうまくいかないと製造業は成り立たない。今回の論文では、松下の

販売を中心に、開発や生産を見てきた。結局、開発があって生産があってそして販売が成

り立つという、ことを改めて認識した。いくら良いモノを開発したり、生産したりしても、

モノを売ること(販売)がうまくいかなかったら意味がない。これは松下のみならず、世

界のどの企業にも言えることである。言うなれば、販売は、メーカーにおいて最後の関門

なのではないかと私は結論づけることができた。

「販売の松下」と言われる松下の販売の生命線である系列販売店。現在は疲労している

と一般的には言われているが、果たして復活はありえるのであろうか。最後これを論述し

ようと思う。

私がもしこの論文をやらなければ、「松下の系列販売店と家電量販店は、共存共栄して

いけばいいのではないか」という簡単な思いをもって今後も生活していたであろう。しか

し、実際このテーマで論文をやってみて、こう結論付けるに至った。ずばり、「松下の系

列販売店の復活」はあると思う。その要因については論文の中で色々と論述したが、決め

手となったのは、やはり系列販売店が人(お客さん)を大事にしているということである。

これは、本を読んでもわかることであるし、何より実際に販売店を調査してみて私はその

ことがより確かなものとして認識することができた。

家電量販店やディスカウントストアなどと比べると確かに規模も小さいし、値段も高い。

また、従業員数も圧倒的に違う。しかし、「ヒト、モノ、カネ 」という3要素を何より

も大事にしているのが松下の系列販売店である。お客さんを大切にし、製品に対する熟知

度や親愛度が違い、値段が量販店と比べて高くてもよりよいモノを販売する。といったよ

うに、販売店は、何が何でも商品を販売すればいいという量販店とは明らかに違う。また、

系列販売店は、文中にも述べたように、色々な努力をしている。これは、松下としても販

売店としても現状から変わらなくてはということを強く認識しているからである。

「松下の系列販売店の復活」の決め手となったのは上に人を大事にしているからと論述し

たように、「人と人の共存共栄」を実行しているからである。わかりやすく言うと、「販

53

売店とお客さんの共存共栄」である。これは、メンテナンスの面であったり、そこからう

まれる信頼感であったり、地域密着であったりと様々な面で見ることができる。そこには、

お客さんを何よりも第一と考え、お客さんが喜ぶには何をしたらいいかと常に考える販売

店の姿がある。「人と人との共存共栄」とは、経営の神様と言われた、人を育てるで有名

な松下幸之助が一番願うことである。つまり、松下幸之助の精神を継承しているのは系列

販売店であり、今後も必要不可欠な存在であると私は考える。

今後、松下の系列販売店にとって、現在もあるような問題点というものは沢山あると思

う。また、高齢化や地球環境問題、IT 化に対する対応等々、課題も沢山ある。松下の系列

販売店では、これらの課題や問題点も解決してくれると私は考える。

「あなたの街の電器屋さん」、この言葉の重みを噛みしめながら、系列販売店にはこれ

からも松下を支えていって欲しい。そして、上にも述べたように、松下幸之助の精神を、

これからも承継し、不撓不屈の精神で猪突猛進して欲しい。

54

図表一覧

図表1 製品開発プロセス

図表2 白黒テレビ、カラーテレビ、VTR の推移

図表3 海外研究開発の理由

図表4 カラーテレビ

図表5 ルームエアコン

図表6 VTR

図表7 冷蔵庫

図表8 洗濯機

図表9 海外進出の状況

図表10 海外投資の要因

図表11 海外生産比率の推移

図表12 ビデオの内外生産

図表13 テレビの生産台数と市場シェアの推移

図表14 松下の家電販売チャネル

図表15 他社の流通の形成

図表16 主要 家電メーカーの系列小売店舗数

図表17 松下電器の系列店数と松下の国内販売に占める比率

55

・図表1 製品開発プロセス

出所)園川隆夫・安達俊行、「製品開発論」、1997年、6 ページ。

・図表 2 白黒テレビ、カラーテレビ、VTR の推移

出所)川越憲治、「最新販売店契約ハンドブック」、ビジネス社、1986年、318ペ

ージ。

原出所)「機械統計年報」、(通産省編)

56

・図表3 海外研究開発の理由

出所)吉原英樹、「国際経営」、有斐閣、2001年、147ページ。

57

・図表4 カラーテレビ ・図表5 ルームエアコン

出所)2002年版、市場規模&業界シェア、日本実業出版

58

・図表6 VTR ・図表7 冷蔵庫

出所)2002年版、市場規模&業界シェア、日本実業出版

59

・ 図表8 洗濯機

出所)2002年版、市場規模&業界シェア、日本実業出版

60

・図表9 海外進出の状況

出所)中江剛毅、「日本の家電産業の海外戦略」、61ページ。

原出所)東洋経済、「海外進出企業総覧」。

・図表10 海外投資の誘因

出所)前掲、「日本の家電産業の海外戦略」、61ページ。

原出所)通産省、「我国企業の海外事業活動より」

61

・図表11 海外生産比率の推移

出所)前掲、「国際経営」、113ページ。

原出所)通産省、「我が国企業の海外事業活動」第24回、1995年、12ページ。

・図表12 ビデオの内外生産

出所)前掲、「国際経営」、117ページ。

原出所)日本電子機械工業会、「民生用電子機械データ集」。

62

・図表13 テレビの生産台数と市場シェアの推移

出所)下谷正弘、「松下グループの歴史と構造」、有斐閣、1998年、192ページ。

原出所)岡本康雄編、「我が国家電産業における企業行動」、20ページ。

・図表14 松下の家電販売チャネル

出所)前掲、「松下グループの歴史と構造」、193ページ。

原出所)1960年11月までは、孫一善「高度経済成長期における家電流通機構の変

化」、それ以降は、岡本康雄編、「我が国家電産業における企業行動」、243ページ。

63

・図表15 他社の流通系列の形成

出所)前掲、「松下グループの歴史と構造」、199ページ。

原出所)家電製品協会、「わが国家電流通機構の発展と変遷」、40ページ。

・図表16 主要メーカーの系列小売店舗数

出所)前掲、「松下グループの歴史と構造」、203ページ。

原出所)矢作敏行、「小売競争の進展と流通系列化~家電流通機構論」、経営志林、19

91年、61ページ。

64

・図表17 松下電器の系列店数と松下の国内家電販売に占める比率

出所)喜多恒雄、「松下復活への賭け」、日本経済新聞社、2002年、120ページ。

65

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