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1.序 ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus,1401 1464)の思想解釈における重要かつ困 難な課題の一つに,その思想的一貫性をめぐる解釈がある。より具体的に言えばそれは,思想 家としてのその経歴のごく初期の段階で著された主著『知ある無知』(De docta ignorantia 1440)と,それ以降の著作との関係をいかに捉えるべきかという点に収斂する問題と言い換え ることもできる。思想史的解釈を中心とした従来の理解は,『知ある無知』にクザーヌス思想 の核心を見出す傾向が強く,他のテキストやテキスト相互の関係性について十分な検討を行な うことは少なかった。 一方,より狭義のクザーヌス研究にはこの問題をめぐる議論の蓄積がある。特にそこで一つ の焦点になってきたのは,『知ある無知』に続いて執筆されたもう一つの体系的著作である 『推測論』(De coniecturis ,1442 3)の位置づけをめぐる問題である。両著作の関係性につ いては,前世紀後半のドイツにおけるクザーヌス研究の中心的論客の一人,J.コッホ Joseph Koch)が,前者を「存在形而上学」(Seinsmetaphysik)として特徴づける一方で, 後者を「一性形而上学」(Einheitsmetaphysik)として捉え,両者の根本的な差異を指摘した。 この“コッホ・テーゼ”とも呼ぶべき見解は,その後のクザーヌス研究にとって重要な論点の 一つをなすに至った。近年では K.フラッシュ(Kurt Flasch)が,長年に亘る自らのクザー ヌス研究の集大成とも言える大著の中で,基本的にはこのコッホの議論を継承しながら,クザ ーヌスの思想的展開を詳細に跡付けている。コッホ・テーゼとフラッシュによるその更新は, 今日のクザーヌス研究におけるもっとも重要な参照点の一つであると言っても過言ではない。 「推測」と〈否定神学〉 ―クザーヌスの『推測論』を中心に― 〔要 旨〕 ニコラウス・クザーヌスの思想解釈においては,初期の『知ある無知』(De docta ignorantia ,1440)に続いて執筆された『推測論』(De coniecturis ,1442 3)の 位置づけが問題となってきた。本稿では,クザーヌス研究者によるこの問題をめぐる見 解を踏まえながら,『推測論』における「推測」(coniectura)の概念 を,『知 あ る 無 知』から継承されたクザーヌス独自の〈否定神学〉的思考の深化あるいは徹底化として 捉え直してみたい。こうした解釈は,これまで代表的論客が主張してきた両著作の相違 よりも,むしろそこに一定の連続性を見出そうとする解釈である。こうした立場は,ク ザーヌスの思想展開における〈否定神学〉の位置づけを新たな視点から照射する試みと しての意義を担い得るものと思われる。 〔キーワード〕 クザーヌス,推測(coniectura),否定神学(theologia negativa),一 性(unitas)と 他 性(alteritas),知ある無知(docta ignorantia),真理の厳密性 praecisio veritatis43

「推測」と〈否定神学〉...じられていた。それに対し『推測論』では,「対立の一致」(coincidentia oppositorum)の契 機が理性を超えた知性の特質として捉えられ,そこに肯定と否定とを結びつける能力が認めら

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Page 1: 「推測」と〈否定神学〉...じられていた。それに対し『推測論』では,「対立の一致」(coincidentia oppositorum)の契 機が理性を超えた知性の特質として捉えられ,そこに肯定と否定とを結びつける能力が認めら

1.序

ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus,1401―1464)の思想解釈における重要かつ困

難な課題の一つに,その思想的一貫性をめぐる解釈がある。より具体的に言えばそれは,思想

家としてのその経歴のごく初期の段階で著された主著『知ある無知』(De docta ignorantia,

1440)と,それ以降の著作との関係をいかに捉えるべきかという点に収斂する問題と言い換え

ることもできる。思想史的解釈を中心とした従来の理解は,『知ある無知』にクザーヌス思想

の核心を見出す傾向が強く,他のテキストやテキスト相互の関係性について十分な検討を行な

うことは少なかった。

一方,より狭義のクザーヌス研究にはこの問題をめぐる議論の蓄積がある。特にそこで一つ

の焦点になってきたのは,『知ある無知』に続いて執筆されたもう一つの体系的著作である

『推測論』(De coniecturis,1442―3)の位置づけをめぐる問題である。両著作の関係性につ

いては,前世紀後半のドイツにおけるクザーヌス研究の中心的論客の一人,J.コッホ

(Joseph Koch)が,前者を「存在形而上学」(Seinsmetaphysik)として特徴づける一方で,

後者を「一性形而上学」(Einheitsmetaphysik)として捉え,両者の根本的な差異を指摘した。

この“コッホ・テーゼ”とも呼ぶべき見解は,その後のクザーヌス研究にとって重要な論点の

一つをなすに至った。近年では K.フラッシュ(Kurt Flasch)が,長年に亘る自らのクザー

ヌス研究の集大成とも言える大著の中で,基本的にはこのコッホの議論を継承しながら,クザ

ーヌスの思想的展開を詳細に跡付けている。コッホ・テーゼとフラッシュによるその更新は,

今日のクザーヌス研究におけるもっとも重要な参照点の一つであると言っても過言ではない。

「推測」と〈否定神学〉―クザーヌスの『推測論』を中心に―

〔要 旨〕 ニコラウス・クザーヌスの思想解釈においては,初期の『知ある無知』(De

docta ignorantia,1440)に続いて執筆された『推測論』(De coniecturis,1442―3)の

位置づけが問題となってきた。本稿では,クザーヌス研究者によるこの問題をめぐる見

解を踏まえながら,『推測論』における「推測」(coniectura)の概念を,『知ある無

知』から継承されたクザーヌス独自の〈否定神学〉的思考の深化あるいは徹底化として

捉え直してみたい。こうした解釈は,これまで代表的論客が主張してきた両著作の相違

よりも,むしろそこに一定の連続性を見出そうとする解釈である。こうした立場は,ク

ザーヌスの思想展開における〈否定神学〉の位置づけを新たな視点から照射する試みと

しての意義を担い得るものと思われる。

〔キーワード〕 クザーヌス,推測(coniectura),否定神学(theologia negativa),一

性(unitas)と他性(alteritas),知ある無知(docta ignorantia),真理の厳密性

(praecisio veritatis)

島 田 勝 巳

43

Page 2: 「推測」と〈否定神学〉...じられていた。それに対し『推測論』では,「対立の一致」(coincidentia oppositorum)の契 機が理性を超えた知性の特質として捉えられ,そこに肯定と否定とを結びつける能力が認めら

本稿では,『知ある無知』と『推測論』の関連性をめぐる以上のような議論を踏まえたうえ

で,後者において提示されたクザーヌスの「推測」(coniectura)の概念を,前者から継承さ

れた「知ある無知」の否定神学(以下では〈否定神学〉と表記)の深化あるいは徹底化として

捉え直してみたい。こうした解釈は,コッホやフラッシュが主張する両著作の相違よりも,む

しろそこに一定の連続性を見出そうとする解釈である。もとより本稿では,彼らのようにクザ

ーヌス思想の全体像を俎上に乗せたうえで議論を展開するわけではない。本稿での考察の対象

はあくまでもクザーヌスの前期を代表するこれら二つの体系的論考にほぼ限定され,しかもそ

の関心の焦点も「推測」の概念と否定神学の問題,およびそれらの思想的・理論的前提や周辺

の諸概念に留まらざるを得ない(1)。とはいえこうした試みは,両著作の関係性をめぐる一解

釈としてのみならず,クザーヌスの思想展開における〈否定神学〉の位置づけを新たな視点か

ら照射する試みとしての意義をも担い得るものであると思われる。

2.コッホ・テーゼとフラッシュによるその更新

1956年,J.コッホはクザーヌスの『推測論』に関する論考 Die Ars coniecturalis des

Nikolaus von Kues を著し,それ以降のクザーヌス研究に貴重な一石を投じた。コッホによれ

ば,『知ある無知』とその数年後に書かれた本書とのあいだには顕著な思想内容の違いが認め

られる。たとえば,『知ある無知』においては「存在の類比」(analogia entis)や存在の程度

の区別,あらゆる物質的対象の本質は形相と素材によって成立しているとする教説,さらには

矛盾律の原理といった問題について論じられているが,『推測論』にはそうした議論は見られ

ない。そこではむしろ,『知ある無知』においては用いられなかった「一性」(unitas)/「他

性」(alteritas)の概念枠組みが議論の本質的な要素とされ,さらに絶対的一性(unitas

absoluta)と し て の 神/知 能(intelligentia)/魂(anima)/身 体(的 な る も の)

(corporalis)という四つの形而上学的一性と,それらに対応する認識領域の識別がなされて

いる。言い換えれば,コッホは『知ある無知』の議論を「存在形而上学」(Seinsmetaphysik),

つまり存在者から出発し,類比的な概念を用いながら神にまで登りつめる「下からの形而上

学」(“Metaphysik von unten”)として捉えつつ,それが『推測について』においては「一性

形而上学」(Einheitsmetaphysik),つまり第一所与としての絶対的一性から出発し,世界と

の関係性へと下降してくる「上からの形而上学」(“Metaphysik von oben”)に取って代わら

れたと論じたのである。コッホはこうした思想内容の変化の背景に,クザーヌスが『知ある無

知』執筆後,集中的にプラトン主義・新プラトン主義の著作に取り組んでいたという事実に注

目しつつ,クザーヌス思想の基本的な性格が,この両著作のあいだにアリストテレス主義的な

ものからプラトン主義・新プラトン主義的なものへと移行したものとして捉えている(2)。

さらに,今日のクザーヌス研究における中心的論客の一人である K.フラッシュは,こう

したコッホの議論を踏まえながら,自ら大著 Nikolaus von Kues : Geschichte einer

Entwicklung(1998)において,クザーヌス思想の展開を詳細に跡付けた(3)。650頁を超える

この浩瀚な書においてフラッシュは,クザーヌスの説教や著作のほぼすべてをその視野に収め

ているが,とりわけ彼が注目しているのが,『推測論』の位置づけについてである。フラッシ

ュもコッホ同様,『知ある無知』と『推測論』の差異を強調するが,そこで彼はコッホのよう

に Seinsmetaphysikと Einheitsmetaphysikという表現を用いるわけではない。むしろフラ

ッシュが注目するのは,『推測論』に見られる「対立の一致」(coincidentia oppositorum)に

ついてのクザーヌスの新たな見解である。フラッシュによれば,『推測論』では「知性」

44 天理大学学報 第64巻第2号

Page 3: 「推測」と〈否定神学〉...じられていた。それに対し『推測論』では,「対立の一致」(coincidentia oppositorum)の契 機が理性を超えた知性の特質として捉えられ,そこに肯定と否定とを結びつける能力が認めら

(intellectus)が「理性」(ratio)を基礎づける原理として規定され,この知性において対立

の矛盾が克服されると捉えられている。つまり,対立の一致とは知性の特徴にほかならないも

のとされるのである(4)。こうしてフラッシュは,『推測論』においては『知ある無知』に比べ

知性の能力がより高められているとし,その結果,対立の一致が知性においてこそ可能になる

と見なされていると指摘する(5)。

本稿の関心にとって興味深いのは,こうしたフラッシュの見解が,否定神学の意義や位置づ

けをめぐる彼独自の解釈にも深く関わっているという点である。フラッシュは端的に,『推測

論』においては「否定神学」(theologia negativa)が「肯定神学」(theologia affirmativa)

に対する優位性を失っているとする。フラッシュによれば,クザーヌスにとって理性とは否定

や区別を秩序づけるものであり,『知ある無知』では否定神学がこの理性のレベルにおいて論

じられていた。それに対し『推測論』では,「対立の一致」(coincidentia oppositorum)の契

機が理性を超えた知性の特質として捉えられ,そこに肯定と否定とを結びつける能力が認めら

れている。したがって知性のレベルでは,理性においてこそ優位性を保持し得るとされた否定

神学はもはや最終的なものではなく,その優位性は剥奪されたものとする。さらにそれによっ

て,真理の到達不可能性は理性の一面性を表す特徴であり,知性においては真理の到達不可能

性と到達可能性の一致こそが示されると論じるのである(6)。

以上のようなフラッシュの議論は,『知ある無知』と『推測論』とのあいだにクザーヌス思

想のラディカルな変容を認めるという点で,先のコッホ・テーゼを継承する強力な見解と言え

よう。だがフラッシュにおいては,この論点から―コッホが触れていなかった―否定神学の位

置づけの変化という新たな論点もまた同時に提起されている。したがって以下では,こうした

コッホ・テーゼとフラッシュによるその更新を参照しつつ,「推測」概念の内実を検討したう

えで,『推測論』における否定神学の位置づけについて考察していきたい。

3."ignorantia"から"coniectura"へ

クザーヌスは1440年に『知ある無知』を脱稿後,2~3年の内に『推測論』を執筆している。

その脱稿の日付は明らかではないが,『知ある無知』には既にこの書についての言及がいくつ

か見られることからも,『推測論』が『知ある無知』での議論を引き継ぐものとして構想され

ていたことは確かである。とはいえ,前著で予告された議論は必ずしもこの書の中でクザーヌ

ス自身の発言通りに取り上げられているというわけではないため,両著作の内容の検討には慎

重を期す必要がある。

まずは両著作の全体的な特徴について簡単に触れておきたい。著作の構成としては,『知あ

る無知』が全三巻から成るのに対し,『推測論』は全二巻から成る。この点に関連し,内容的

な相違としてもっとも顕著なのは,前者の第三巻で中心的に取り上げられたキリスト論が,後

者ではほとんど論じられていないという点である。フラッシュは,残存するトリーアの手稿か

ら,当初クザーヌスは『知ある無知』同様に全三巻で構想していたものを,最終的には二巻構

成にしたと推定している(7)。キリスト論の欠落という点に関するクザーヌス自身による明確

な説明は見当たらず,また彼の議論の中から推し測ることも容易ではない。いずれにせよ,そ

こで展開されている議論や用いられている概念などから判断しても,『推測論』が神学的な色

調を持った論考であることは明らかであり,その意味においては基本的に『知ある無知』の問

題意識を引き継いでいるといって差し支えない。とはいえ,その題名が示すように,本書の焦

点はあくまでも人間の精神とその能力としての推測に置かれていることが特徴的である。さら

「推測」と〈否定神学〉 45

Page 4: 「推測」と〈否定神学〉...じられていた。それに対し『推測論』では,「対立の一致」(coincidentia oppositorum)の契 機が理性を超えた知性の特質として捉えられ,そこに肯定と否定とを結びつける能力が認めら

に,議論の内容や概念枠組みについても前著に比べより構造的かつ重層的なもので,前著の理

解を前提にしてもなお,容易に理解し難いものになっている。

両著作の関係性を探るうえで,まずは『推測論』の序言に見られる以下のようなクザーヌス

の発言が手掛かりとなる。そこで彼は,前書同様,本書でも想定読者とする枢機卿ユリアヌス

に対し,次のように述べている。

あなたは私の前著『知ある無知』において…厳密な真理が到達不可能であることを見た。

したがって,真なるものについての人間のあらゆる積極的な主張は推測だということであ

る。というのも,真なるものの把握の増加には際限がないからである。それゆえ,我々の

現実的な知は,人間的な仕方では到達され得ない最大な知自体にはいかなる比をもってし

ても関わり得ないため,真理の純粋性から転落して不確実なものとなった(我々の)弱い

把握力は,真なるものについての我々の言明を推測にする。したがって,到達不可能な真

理の一性は,推測的な他性によって知られる。そして,他性の推測は真理のもっとも単純

な一性において,またそれを通して知られるのである(8)。

この発言から確認しておきたいのは以下の二点である。まずここでは,『知ある無知』の論

点の一つでもあり,また著者自身がクザーヌスの〈否定神学〉的思考の核心として捉える“厳

密な真理への到達不可能性”という事態が,この書のテーマでもある「推測」の概念に重ね合

わせて説明されている。注意を要するのは,ここで積極的な主張として語られる推測とは,真

理への到達可能性ではなく,むしろその不可能性だということである。その意味では,推測の

概念は(絶対的)真理との根本的な差異をその成立要件として自らのうちに含んでいる。この

ように,推測が厳密な真理への到達不可能性を前提としたうえでの積極的主張を意味するもの

とすれば,その含意は「知ある無知」(docta ignorantia)のそれとさしたる違いはないこと

になる。筆者は以前,「知ある無知」とは端的に「真理の把捉不可能性についての知の可能

性」を意味するものとして,その〈否定神学〉的含意について論じたことがある(9)。つまり

クザーヌスの〈否定神学〉とは,伝統的な意味における神の認識不可能性あるいは言表不可能

性をめぐる思考を超えた,「もの」(res)の真理(veritas)あるいは「何性」(quidditas)の

厳密な把捉の不可能性をめぐる思考として捉えることができる。そうした観点からすれば,こ

こで語られる coniecturaもまた ignorantiaと同様,クザーヌス独自の〈否定神学〉として捉

えることも不可能ではないはずである。

とはいえ一方で,引用には『知ある無知』においては多用されていなかった「一性」

(unitas)と「他性」(alteritas)の対概念が用いられている。もちろん,『知ある無知』でも

特に一性の概念は頻出するが,それが他性の概念とともに理論的な機軸を成すことはなかった。

だが『推測論』においては,真理についての推測が一性と他性との相互媒介性によって提示さ

れ,それが議論の全体の枠組みを成している。『知ある無知』では主に宇宙(universum)を

媒介とした神と被造物との連関をめぐる議論が展開されたが,『推測論』ではその表題通り,

人間の認識能力をめぐる議論が主要なテーマとなっている。

そもそも,クザーヌスが coniecturaという表現を新たに導入して人間の認識能力の特質を

描き出そうとしたのは,推測が常に真理を目指しながらも,厳密には,あるいはその純粋性に

おいては決して達し得ないという docta ignorantiaの了解を前提にしていたからである。だ

が,それは必ずしも人間の認識に関する否定的な側面だけではなく,同時に積極的な側面をも

46 天理大学学報 第64巻第2号

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含み持つ立場である。そのことは『推測論』の根幹をなすテーゼ,つまり神の精神と人間の精

神を一種の対応関係において見る視点に表れている。

クザーヌスによれば,「ちょうど神(の精神)が現実世界の形相であるように,人間の精神

は推測的な世界の形相である」(10)。つまりクザーヌスは,現実の世界が神に由来するのと同

様に,推測は人間の精神(humana mens)に由来するものとする。こうした見解の背後にあ

るのは,神の似姿(dei similitudo)としての人間という伝統的な神学的人間論についての彼

独自の解釈である。クザーヌスにとって,現実の世界が神によって生み出されるものであるの

に対し,人間の推測によって生み出されるのは現実そのものではなく,あくまでも推測的な世

界(coniecturalis mundus),あるいは人間が心的に創出する概念的世界(rationalis

mundus)である(11)。それが神によって創出される現実の世界には届かず,概念の世界に留ま

らざるを得ないという性格に,推測の消極的な側面を指摘することができる。だが一方で,そ

れが神の似姿としての人間の精神にのみ与えられた産出的・創造的能力という点には,逆にそ

の積極的な側面が認められるとも言えよう(12)。

このように,神の精神と人間の精神とをパラレルなものとして捉え,神の似姿としての精神

の構造を描き出そうとする『推測論』は,したがって第一義的には“認識論的”な議論の体裁

を成している。こうした認識論的問題設定は,神と被造物との連関を「宇宙」(universum)

を介して展開した『知ある無知』の形而上学的問題設定とは基本的に異なるものである。視点

や表現は異にするものの,コッホやフラッシュが両著作に根本的な相違を見出そうとするのも,

まさにこの点に由来していると言ってもおそらくは差し支えない。だが,そもそも De docta

ignorantia というタイトルが示唆するように,形而上学的・存在論的な議論が基本的な枠組

みをなす前著においても既に,『推測論』で展開されるような認識論的な問題意識は既に先取

りされていたはずである。この点をいかに捉えるかによって,両著作の理解も変わってくるで

あろう。本稿ではこれを docta ignorantiaから coniecturaへの展開・深化として捉える立場

から,次に推測の構造について検討していきたい。

4.推測における一性―他性の相互媒介的連関とその存在論的前提

推測についてより具体的に見ていくうえで導きの糸としたいのは,先の引用とは別の個所で

クザーヌスが提示しているこの概念の定義とも見なし得る発言である。それによれば,「推測

とは他�

性�

を�

伴�

い�

つ�

つ�

,真�

理�

そ�

の�

も�

の�

を�

分�

有�

す�

る�

積極的な言明である(傍点引用者)。」(13) こ

こで鍵となるのは,「他性」と「分有」(participatio)の含意である。

まず,クザーヌスにとって他性とは,縮限された被造物の存在論的条件を示す表現にほかな

らない。したがって,人間の精神による推測という営為自体が既に,必然的に何らかの程度で

他性を伴っている。そのため,推測によって生み出された世界,すなわち概念の世界にも,や

はり不可避的に遍く他性が浸透することになる。その一方で,神の似姿である人間の精神は,

それ自体が一性をなしている。というのも,神自身が「絶対的一性」(unitas absoluta)だか

らである。だが,精神は推測というあり方をとるため,やはり他性という媒介は免れない。こ

うしてクザーヌスにとって,人間の精神そのものが一性と他性の相互媒介によって可能になる

のである。

このように,精神はそれ自体が一性と他性のアマルガムとして成立するが故に,精神の推測

によって生み出される概念的世界もまた,やはり一性と他性のアマルガムとして成立すること

になる。したがって推測の世界では,絶対的一性としての神それ自身に直接的に,つまり厳密

「推測」と〈否定神学〉 47

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なかたちで到達することは必然的に不可能となる。それは,精神が持つ自らの存在論的条�

件�

しての他性に因るものである。上の引用で「他性を伴いつつ」と言われるとき,こうしたこと

が含意されている。だが同時に,精神は絶対的一性としての神自身を自らの存在論的根�

拠�

とす

るため,推測的世界における他性は,一性においてのみ,つまり一性の媒介によってのみ可能

となる。同じ引用で「真理そのものを分有する」と言われるとき,こうした精神の存在論的可

能根拠としての絶対的一性が,推測においては縮限された仕方で,つまり他性を伴った仕方で

一性として成立することが語られている。推測の世界におけるこうした一性-他性の相互媒介

的連関性を,クザーヌスは自らが Figura paradigmatica(「範例的図形」,Figura P)と呼ぶ

図形によって描き出している。(下図参照)(14)

basispyram

isten

ebrae

supremusus mundus medius mundus infimus mundus

basi

spy

ram

islu

cis

unitas alteritas

terium caelum secundum caelum primum caelum

Figura P

まずこの図では,一性と他性の二項を基軸として,一方に光のピラミッドの基礎としての一

性あるいは神(deus)を底辺とする二等辺三角形が置かれ,他方には闇のピラミッドの基礎

としての他性あるいは無(nihil)を底辺とする二等辺三角形が置かれている。一方の「最高

位の世界」(supremus mundus)は光によって満たされているものの,それは闇から完全に

自由というわけではない。同様に,他方の「最低位の世界」(infimus mundus)は闇が支配

するものの,そこでは光がまったく輝かないのではなく,むしろ光が秘匿されていると考えら

れている。そして双方が中央で交錯しながら,その頂点はそれぞれの底辺の中点に接触する形

になっている。「最高位の世界」と「最低位の世界」とのあいだには,「中間の世界」(medius

mundus)が位置づけられている。つまり,一性-他性の程度はそれぞれ異なるにせよ,あら

ゆる被造物は必ずこのあ�

い�

だ�

の世界に存在することになる(15)。注意を要するのは,この図の

一性と他性のそれぞれの底辺をなす神と無は,本来ならばこうした形で被造物と同じ図の中に

描き得るものではないという点である。クザーヌス自身がそれを自覚していたことは,彼がこ

こで神や無を quasiや utといった婉曲的な表現を用いていることからも窺える(16)。

さらにクザーヌスは,こうした一性と他性の連関性を新プラトン主義的な「発出」

(progredi, progressus)と「帰還」(regredi, regressus)という対概念で捉え,両契機の同

時性に着目する。こうした視点の背後にあるのが,『知ある無知』で多用された彼の「包含」

(complicatio)と「展開」(explicatio)の枠組みであることは明らかである。そこでは「神

48 天理大学学報 第64巻第2号

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は万物が神のうちに存在するということおいて万物を包含するのであり,また,神自身が万物

のうちに存在するということにおいて万物を展開する」と語られていた(17)。つまり『知ある

無知』においては,包含-展開の対概念が,神と被造物との連関を表すための枠組みとして用

いられていた。一方,『推測論』のこの場面では,この枠組みは人間の精神の作用としての推

測とそれが生み出す概念的世界との連関を描き出すものとして用いられている。精神における

「発出」と「帰還」のこうした円環的な運動の描出によって,その作用をよりダイナミックに,

より連続的・流動的なものとして捉えようとするモチーフが前景化している。そしてこうした

枠組みが,新プラトン主義的な流出論の強い影響下のもと,より重層的で洗練されたものとし

て示されていることについても疑いの余地はないだろう(18)。

こうした点から,確かにここでは『知ある無知』で強調された神と被造物との形而上学的懸

隔,あるいは人間の認識能力による神あるいは厳密な真理の把捉不可能性といった,人間の存

在論的・認識論的条件における限定性や消極性の指摘が後退しているような印象を受ける。だ

がそれは,果たしてコッホが主張するような「存在形而上学」から「一性形而上学」へのラデ

ィカルな移行と言えるようなものであろうか。この問題を考えるうえで注目したいのは,先の

引用にもあった「分有」の概念である。

『推測論』のクザーヌスにとっても,絶対的一性としての神の存在に与らない被造物は存在

し得ず,それはただ無に陥るほかはない。逆に,絶対的一性としての神自身にはいかなる他性

も含まれない。彼は自らの言葉でも明確に,「絶対的一性はあらゆる存在の存在性であり,あ

らゆる何性の何性であり,あらゆる原因の原因であり,あらゆる目的の目的であるが故に,そ

れに対して疑いを差し挟む余地はない」と述べている(19)。これはまさに『知ある無知』第一

巻で既に示されていた見解,つまり「存在性の分有」(participatio entitatis),あるいは「一

で最大なるものの分有」(participatio unius maximi)という論点にほかならない(20)。そのこ

とをクザーヌス自身が用いている曲線(curvum)の例で示せば,曲線はそれが線である限り

は,線の無限の「直」(rectitudo)を自らの原因・根拠として分有している一方で,その湾曲

という性質,つまりその不完全性(imperfectio)や相違性(diversitas)といった性質は,自

らの有限性に根差すものとして持っている(21)。したがって,より少ない湾曲の曲線はより多

くの無限の「直」を有しており,逆により多くの湾曲の曲線はより少ない「直」を有している

ことになる。図 Pが示すのも,まさにこのように,相異なる仕方で,つまりそれぞれの他性

の程度に応じて一性を分有するという世界のあり方にほかならない。

もっとも,既に触れたように,図 Pに示される一性とはあくまでも「第一の一性」(prima

unitas)の似姿としての一性であるということ(22),言い換えればそれは「縮限的一性」

(unitas contracta)としての世界(mundus)のそれであって,「絶対的一性」(unitas

absoluta)としての神自身ではなかった。先に,神(および無)は本来こうした図には描き得

ないものとしてあると述べたのもそのためである。それはひとえに,この図が神の産出による

現実の被造物世界そのものを示すものではなく,あくまでも推測の世界であるということに因

っている。とはいえ,分有という事態を捉えようとする視点そのものは,この二つの世界(現

実の世界と概念の世界)に共通して当てはまるものであろう。より正確に言えば,神と被造物

をめぐる形而上学的考察において語られる分有という視点があって,はじめてそれが推測の世

界に適用可能なものになるはずである。

クザーヌスはこの図 Pの意義について,総括的に次のように述べている。

「推測」と〈否定神学〉 49

Page 8: 「推測」と〈否定神学〉...じられていた。それに対し『推測論』では,「対立の一致」(coincidentia oppositorum)の契 機が理性を超えた知性の特質として捉えられ,そこに肯定と否定とを結びつける能力が認めら

図 Pは,世界に定立可能なあらゆるものが,それぞれにおいて異なった仕方で存在する

ということを示している。実際に,あるものにおいては一定の程度で一性が他性によって

のみ込まれる―またその逆も然り―一方で,他のものにおいてはまた別の程度で一性が他

性によってのみ込まれる。そのため,端的に最大なるものや最小なるものには決して辿り

着かないのである(23)。

こうして見てくると,図 Pによってクザーヌスが描く一性と他性の連関がいかに『知ある

無知』において既に展開されていた存在論的洞察に基づくものであるかが浮き彫りになるだろ

う。そこには先に指摘したような,『知ある無知』における形而上学的問題設定から『推測

論』における認識論的問題設定という変化がそこにあるのは疑えない。とはいえ,後者は必ず

しも前者における形而上学的洞察を捨象したものではなく,むしろそこから,つまり人間の精

神が不可避的に伴わざるを得ない他性的な本質への洞察を経たうえで,初めて推測という認識

論的な地平の構造的な把握が可能になったのである。そして,こうした二つの問題構成の結節

点としての役割を果たしているのが分有の概念なのである。

したがって,『知ある無知』と『推測論』との関係は,必ずしもコッホが論じたような,「存

在形而上学」から「一性形而上学」への根本的変容として捉えられるべきものではないだろ

う(24)。その表現自体の是非については措くとしても,いずれにせよそれは,あくまでも前者

の形而上学的・存在論的議論を前提としたうえで,後者においては認識理論がより洗練された

かたちで―あるいは人間の認識能力に対する反省性がより高められたかたちで―展開されてい

るものとして捉え得るものである。『推測論』における一性-他性の連関の議論は,『知ある無

知』における存在論的洞察を基盤とすることではじめて可能になったのである。

5.推測における肯定/否定の契機と真理の厳密性

では,以上見てきたようなクザーヌスの推測概念は,厳密な真理には到達し得ないとする

「知ある無知」の否定神学,つまり彼の〈否定神学〉的思考とはいかなる関係にあるのだろう

か。この問題をより具体的に検討するために,ここでは既に触れた『推測論』に関するフラッ

シュの解釈に注目してみたい。彼は基本的には先のコッホ・テーゼ同様,『推測論』を前著と

は異なる思想的立場に立つものとして捉えているが,その論点の一つにあるのが,そこでは否

定神学が肯定神学に対する優位性を喪失したとする見解であった。それによれば,『推測論』

では知性に対して一段と高い能力が与えられているため,そこに肯定と否定とを結びつける能

力が認められ,その結果,真理の到達不可能性とその可能性という対立の一致が―神のみなら

ず―知性においても可能となるのである。

こうしたフラッシュの見解を検討するうえでまず念頭に置かれるべきは,推測における精神

の円環的運動についてのクザーヌスの次のような発言である。

一性が他性へと発出することは,同時に他性が一性へと帰還することである。もしもあな

たが他性における一性を知性的に見たいのであれば,このことに細心の注意を払いたまえ。

…。もしもあなたが,発出から帰還を分かつ分別的理性を超えて,そうした秘匿された事

柄に辿りつこうと惜しみなく努力するのであれば,端的な知性的な視においては,発出は

帰還と結合しているということを把握せよ。そうした事柄は,対立物を一に包含する知性

によってのみ,より真に達せられる(25)。

50 天理大学学報 第64巻第2号

Page 9: 「推測」と〈否定神学〉...じられていた。それに対し『推測論』では,「対立の一致」(coincidentia oppositorum)の契 機が理性を超えた知性の特質として捉えられ,そこに肯定と否定とを結びつける能力が認めら

ここでは,先に触れた推測における発出と帰還の同時発生的な円環運動が,それを把握しよ

うとする人間の認識の様態に即して,つまり理性(ratio)と知性(intellectus)の区別によ

って語られている。ここでは理性が事柄を区別する能力として語られている一方で,知性はそ

うした区別を超えて,対立するものを合一させる能力として捉えられている。したがって,一

性の他性への発出と他性の一性への帰還との同時進行性を把握できるのは,理性ではなく知性

のみということになる。

確かにここで語られているのは,よく知られた「対立の一致」の教説,すなわち,端的に矛

盾律を超えた事柄を捉える把握のあり方として見て差し支えないだろう。もしそれが正しけれ

ば,フラッシュが論じるように,『知ある無知』と『推測論』のあいだでは,とりわけ知性の

位置づけにおいて大きな変化を見て取ることができる。実際に『知ある無知』においては,理

性は第一義的にはさまざまな事物を区別する能力として,具体的には事物に名称を与える能力

として語られていた。したがってそこでは,理性は決して矛盾律を超えられないとされてい

た(26)。それに対し,知性はその飽くなき探究によって真理をめざす能力とされたが,この知

性に対しても矛盾を合一する能力は与えられておらず(27),また真理にも決して到達すること

ができないものとされていた(28)。こうした見解と上に見た『推測論』の立場との差は明らか

である。フラッシュが指摘するように,『知ある無知』では認められていなかった対立の一致

を把握する能力が,すなわち,矛盾・対立を自らにおいて結合する能力が,ここでは知性に付

与されているからである。

こうしたフラッシュの解釈に関して本稿の関心から注目に値するのは,そこで彼が,クザー

ヌスの対立の一致の議論と否定神学の議論とを直結させている点である。フラッシュはまず,

『知ある無知』においては対立の一致が人間の認識能力を超えた事態として捉えられていたと

いう点に,否定神学の優位性についてのクザーヌスの主張の根拠を認めていた。したがってフ

ラッシュは,上に見たように,対立の一致が知性において可能となる事態として捉えられた

『推測論』では,『知ある無知』における否定神学の優位性の論拠が崩れると断じるのである。

しかしそうした見方では,クザーヌスの〈否定神学〉の要諦をなす厳密な真理への到達不可能

性という視座の含意が,過度に軽視されてしまうように思われる。この点をめぐる解釈が,フ

ラッシュと筆者の立場の分かれるところである。

この問題について検討するために,ここで『推測論』における肯定/否定神学をめぐるクザ

ーヌスの立場を確認しておきたい。たとえば彼は『推測論』の中で,あらゆる対立に先行する

ものとしての神をめぐる推測について,肯定と否定の枠組みに則して次のように述べている。

やや長い引用になるが,この点に関するクザーヌス自身の立場を知るうえでは極めて重要な発

言である。

否定がそれと対立する肯定を認めるもっとも真なるものそれ自体,あるいは,それがより

真であるという理由で肯定よりも否定を好むもっとも真なるものそれ自体についての推測

などあり得ない。神は把握され得たり語られ得たりするいかなるものでもないということ

(言明)が,神はそうした何かであるということ(言明)よりも真に見えたとしても,

(それでも)やはり,肯定に対立する否定が厳密性(praecisio)に到達することはない。

したがって,両対立物を選言的にも(disiunctive)繋合的にも(copulative)拒�

否�

す�

る�

理の概念こそがより絶対的なのである。すなわち,「神は存在するか」という問いに対し

「推測」と〈否定神学〉 51

Page 10: 「推測」と〈否定神学〉...じられていた。それに対し『推測論』では,「対立の一致」(coincidentia oppositorum)の契 機が理性を超えた知性の特質として捉えられ,そこに肯定と否定とを結びつける能力が認めら

ては,(神は)存在するかしないかということではない,そして(神は)存在するととも

に存在しないということでもない,といった答えよりも無限定的に答えられることはない

からである。…このもっとも難解な推測的な答えは,(神について)設定されるいかなる

問いに対してもも�

っ�

と�

も�

十�

分�

な�

答�

え�

である。だが,それは推�

測�

的�

な�

答�

え�

である。というの

も,まったく厳�

密�

な�

答�

え�

は理性によっても知性によっても語りえず,また到達し得ないま

まだからである。(カッコと傍点は引用者)(29)

ここでは,神あるいは真理をめぐる推測という認識のあり方について語られる一方で,同時

に真理についての認識の「厳密性」が,いわば肯定/否定の二項対立図式の“彼岸”にあるも

のとして語られている。つまり,一方では神あるいは真理について人間が持ち得るもっとも十

分な答えはあくまでも「推測的な答え」であるとされながらも,他方では厳密性は選言的否定

も繋合的否定も共に拒絶する真理概念にほかならず,したがって「厳密な答え」には理性によ

っても知性によっても到達し得ないとされるのである。すなわちそれは“否定の更なる否定”

といった姿勢のみが許容されるような契機と言えるであろう。厳密な真理への到達不可能性へ

の,あるいは肯定と否定とを共に超えていく否定のあり方へのこうした視点は,筆者がクザー

ヌスの〈否定神学〉の核心と呼ぶものにほかならない。そしてまさにこの点をめぐる解釈にこ

そ,筆者がフラッシュと袂を分かつポイントがある。もとよりこの問題が,クザーヌスの否定

神学をめぐる両者の了解の違いに起因するものであることは言を俟たない(30)。だが,それを

単に基本的な議論の出発点の違いといった問題として片付けることができないのは,―本稿で

も既に第二章において「コッホ・テーゼとフラッシュによるその更新」として描出したように

―この点をめぐる解釈が,今日のクザーヌス研究において彼の思想的展開のあり方を検討する

際の一つの鍵を成しているからである。

既に見たように,クザーヌスによれば,推測とは我々の精神に由来し,またそれを根拠とす

るものである。それは,現実の世界が無限の神に由来し,またそれを根拠とすることとの対応

関係において捉えられる。上の引用の中で真理の厳密性が問題の焦点となっているのは,それ

こそが,推測というかたちを取る人間の精神の認識構造が本質的に断念せざるを得ない当のも

のだからである。つまりそれは,知の可能性を推測として有する人間が不可避的に被る認識論

的条件および存在論的条件なのである。こうした真理の厳密性について,フラッシュの見解は

必ずしも明確なものとは言えない。たとえばそのことは,次のような彼の言葉からも窺われる。

かつて厳密性は,われわれには常に到達不可能なままのものであった。1442年(『推測

論』)の時点では,我々はまだそれを“所有”(besitzen)はしてはいないものの,知って

はいる(wissen)。厳密性の光の下で思考するため,我々は自らの疑いや問いを持つこと

ができるのである。厳密性は我々のそばにあるのだ。(カッコは引用者)(31)

「かつて」としてここでフラッシュが念頭に置いているのは,『知ある無知』第三章の「厳

密な真理は把握されないこと」(Quod praecisa veritas sit incomprehensibilis)というクザ

ーヌスの核心的なテーゼである(32)。つまりフラッシュは,一方で真理はその厳密性において

認識され得ないことを認めつつも,他方では,その厳密性こそが疑いや問いを可能にする条件

としてあることは知られ得るとするのである。だが,そもそも真理の厳密性に関するこうした

フラッシュの見方は,クザーヌス自身が『知ある無知』において既に示していたものである。

52 天理大学学報 第64巻第2号

Page 11: 「推測」と〈否定神学〉...じられていた。それに対し『推測論』では,「対立の一致」(coincidentia oppositorum)の契 機が理性を超えた知性の特質として捉えられ,そこに肯定と否定とを結びつける能力が認めら

クザーヌスはそこで,神/真理とは絶対的必然性(absoluta necessitas)であり,それは形而

上学的にも論理学的にも前提とされなければならないものと論じていた(33)。すなわち,本稿

の関心から問題と思われるのは,ここでもやはりフラッシュが『知ある無知』と『推測論』と

の差異を際立たせようとしている点にある。

ここで改めて指摘されるべきは,フラッシュにとって第一義的な重要性をもつところの,対

立を結びつける―つまり一致にもたらす―知性の繋合的な能力とは,あくまでも精神における

推測の世界の内�

部�

での働きだという点である。クザーヌスによれば,「推測は,現実の世界が

無限の神の理性から産み出されるのと同様な仕方で,我々の精神から発出する。」(34) したが

って推測の世界は,神に由来する現実の世界とは―対応関係としては捉え得ても―同一のもの

には成り得ない。それは,神の被造物たる人間が,その「似姿」という特別に与えられた本質

においてのみ可能となる能力だからである。推測の概念と否定神学の関係性を模索する本稿の

関心から鍵となるのは,クザーヌスが視野に収めているこうした否定のロジックが,単に推測

の世界の内部における認識に留まるものではないという点である。上の引用の中でも,「推測

的な答え」が「厳密な答え」との対比で描かれているところにそのことが端的に示されている。

つまり,筆者がここで“否定の更なる否定”という姿勢のみが許容されると思しき真理の厳密

性とは,フラッシュが注目した知性における対立の一致ですらも,更なる否定によって切り崩

されるべき契機なのである。真理の厳密性はあくまでも神の現実に抱懐されている限り,理性

によっても知性によっても人間の精神はそこに到達することはない。フラッシュが看過してい

たのは,推測が本質的に抱えるこうした〈否定神学〉的側面であったように思われる。

6.結語

『知ある無知』と『推測論』には,本稿で取り上げなかった他のさまざまな問題群が存在す

る。ここで着目してきた否定神学の問題は,表面的には『推測論』で論じられている多様で難

解な問題群の中の一局面にしか過ぎないように見えるかも知れない。しかし,それが両著作の

関連性を見極めるうえでは決して欠かすことのできないテーマであることもまた確かである。

『知ある無知』における中心的なテーマが神と世界あるいは被造物との関係性にあったのに

対し,『推測論』ではその焦点が,人間の精神の創造的な作用としての推測に置かれていた。

こうした二つの問題構成の違いは,確かに決して小さなものではない。とはいえ,まずは『知

ある無知』においても既に,docta ignorantiaというクザーヌス独自の概念に基づく認識論的

な議論の展開が認められる。さらには,そもそも推測という人間の認識能力のあり方を徹底し

た反省にもたらそうとする『推測論』の根本的なモチーフそのものが,実は『知ある無知』に

おける形而上学的・存在論的洞察なしにはあり得なかったものである。つまり,人間が神との

関係性において有する存在論的条件への反省的考察こそが,神とのパラレルな関係において自

らの精神の構造を明らかにしようとする推測の概念を可能にしたのである。前者の議論なしに

はおそらく後者の問題設定はあり得なかったはずである。そうした意味では,両著作のあいだ

には,必ずしもコッホやフラッシュが指摘したような決定的な断絶はなかったと見るほうが妥

当であろう。

また,推測を中心とした問題構成は,否定神学の位置づけをめぐる議論にも大きな影を落

とすことになった。確かにフラッシュが強調するように,『知ある無知』では神において認め

られていたはずの対立の一致が,『推測論』では知性において語られていた。だが,そうして

成立する一致はあくまでも推測の世界における一契機であり,この推測の世界と神が創造した

「推測」と〈否定神学〉 53

Page 12: 「推測」と〈否定神学〉...じられていた。それに対し『推測論』では,「対立の一致」(coincidentia oppositorum)の契 機が理性を超えた知性の特質として捉えられ,そこに肯定と否定とを結びつける能力が認めら

現実の世界とを結びつける“橋頭堡”は何ら可能となったわけではない(35)。その意味では,

厳密な真理への到達不可能性をめぐる〈否定神学〉的思考が,ここで途絶えてしまったわけで

は決してないのである。むしろそれは,推測の概念を介してさらに深められ,新たな装いをま

とって再提示されたと言えるであろう。『知ある無知』と『推測論』とをこうした〈否定神

学〉の観点から捉えなおすというこうした視点は,クザーヌスの思想的一貫性をめぐる問題を,

従来とはやや異なった角度から照射していくことにつながるのではないだろうか。

クザーヌスのテキストは以下を使用した。

Nicolai de Cusa, Opera Omnia I. De docta ignorantia, Iussu et auctoritate Academiae

Litterarum Heidelbergensis ad condicum fidem edita. ed. E. Hoffmann et R. Klibansky, 1932.

邦訳は以下を使用した。ニコラウス・クザーヌス『知ある無知』,岩崎充胤・大出哲訳,創文

社,1966年。基本的に訳文はこれに従っているが,文脈上の都合により,適宜変更を加えている。

-----------------, Opera Omnia II. Apologia doctae ignorantiae, ed. R. Klibansky, 1932.

-----------------, Opera Omnia, III, De Coniecturis, ed. J. Koch et K. Bormann, 1972.

(1) 通常,クザーヌスの思想は三つの著作期に分けて論じられることが多い。ここでもそうした

立場を踏襲し,最初の哲学的・神学的な体系的著作である『知ある無知』が書かれた1440年か

らヨハネス・ヴェンク(Johannes Wenck)によるその批判に対する弁明の書(『知ある無知の

弁明』,Apologia doctae ignorantiae)が書かれた1449年までを前期,「素人」(idiota)の対話

編三部作が書かれた1450年から新教皇ピウス2世によりローマに召喚された1458年までを中期,

その後1468年に没するまでの10年間を後期として捉えることにしたい。クザーヌスの著作期の

区分については以下の論考を参照のこと。塩路憲一「解説―クザーヌスの生涯と思想」,ニコラ

ウス・クザーヌス『観察者の指針,すなわち比他なるものについて』(ドイツ神秘主義叢書7,松

山康国訳),創文社,1992年,165―192頁。

(2) Josef Koch, Die Ars coniecturalis des Nikolaus von Kues, Westdeutscher Verlag, 1956,

SS. 22―24.

(3) Kurt Flasch, Nikolaus von Kues : Geschichte einer Entwicklung, Vittorio Klostermann :

Frankfurt am Main, 1998. フラッシュは『推測論』の位置づけに関して,コッホの解釈がク

ザーヌス研究全体に与えた功績を高く評価している。Ibid, SS. 143―145.

(4) Ibid, S. 152.

(5) Ibid, SS. 157―158.

(6) Ibid, SS. 161―162.

(7) Flasch, Nicolaus von Kues, S. 143.

(8) De coniecturis(Nicolai de Cusa Opera Omnia III, Iussu et auctoritate Academiae

Litterarum Heidelbergensis, 1972, 以下 DC ), Prologus, 2. “Quoniam autem in prioribus

Doctae ignorantiae libellis…praecisionem veritatis inattingibilem intuitus es, consequens

est omnem humanam veri positivam assertionem esse coniecturam. Non enim exhauribilis

est adauctio apprehensionis veri. Hinc ipsam maximam humanitus inattingibilem

scientiam dum actualis nostra nulla proportione respectet, infirmae apprehensionis

incertus casus a veritatis puritate positiones nostras veri subinfert coniecturas.

54 天理大学学報 第64巻第2号

Page 13: 「推測」と〈否定神学〉...じられていた。それに対し『推測論』では,「対立の一致」(coincidentia oppositorum)の契 機が理性を超えた知性の特質として捉えられ,そこに肯定と否定とを結びつける能力が認めら

Cognoscitur igitur inattingibilis veritatis unitas alteritate coniecturali atque ipsa

alteritatis coniectura in simplicissima veritatis unitae.”

(9) この点については以下の拙論を参照のこと。島田勝巳「クザーヌスの認識論と存在論―『知

ある無知』をめぐって―」,『天理大学学報』第63巻第2号(2012年2月),19―30頁。

(10) DC , I, 1, n. 5. “Coniecturalis itaque mundi humana mens forma exstitit uti realis

divina.”

(11) フラッシュはこの理論を「並行の公式」(die Parallelismusformel)と呼び,それが『推測

論』において初めて展開され,クザーヌスはそれを終生放棄することはなかったと述べている。

これは重要な指摘である。K. Flasch, ibid, S. 149.

(12) 推測概念のこうした両面性については以下の論考を参照のこと。大出哲「クザーヌスの推測

の基本命題」,日本クザーヌス学会編『クザーヌス研究序説』,国文社,1986年,69―111頁所収

(当該個所は71―72頁)。八巻和彦「ニコラウス・クザーヌス」,伊藤博明責任編集『哲学の歴史

4・ルネサンス』,131―178頁所収(当該個所は157―158頁)。

(13) DC , I, 11, n. 57. “Coniectura … est positiva assertio, in alteritate veritatem, uti est,

participans.”

(14) DC , I, 9, n. 42. 『推測論』においてクザーヌスは,推測的な精神のあり方を,二つの図形

を用いながら説明している。その際に彼がその根本的な視点として提示するのが,彼自身が

「数の秩序」(ordo numerorum)と呼ぶ独自の思考法である。これは古くはピタゴラス学派に

由来する四元数の教説,つまりその和が10になる最初の四つの整数をめぐる数学的比喩の体系

である。そこでは,合計が10になる数的前進として,1+2+3+4(=10)という数式が取

り上げられる。クザーヌスにとって,1は常に神を,つまり「第一の一性」を象徴する数であ

る。そして,このいわば「四的前進」によって生じた10を「第二の一性」として,また10の四

的前進から生じた100を「第三の一性」として,さらに100の四的前進から生じた1000を「第四

の一性」として捉えている。そのうえでクザーヌスは,先の4つの算術的な一性

(1,10,100,1000)を,点,線,面,および立体という,幾何学的な一性に組み合わせる。彼に

よれば,1は単純な点として,10は二つの点を結ぶ線として,100は三つの点の連結によって生

まれる平面(三角形)として,そして1000は四つの点の連結によって生まれる立方体(四面

体)として捉えられる。そのうえでクザーヌスは,推測的な精神におけるこうした四つの一性

に,その投影としての現実の世界の形而上学的一性を対応させる。すなわち,「第一の一性」を

神,「第二の一性」を「知性」(intelligentia),「第三の一性」を「霊魂」(anima),そして「第

四の一性」を「身体」(corpus)として規定するのである。以上のような議論から得られるのが

この Figura Pである。

(15) DC , I, 10, n. 53, “Unitatem autem in alteritatem progredi est simul alteritatem regredi

in unitatem,…”

(16) DC I, 9, n. 42. “Adverte quoniam deus, qui est unitas, est quasi basis lucis ; basis vero

tenebrae est ut nihil.” なお,この点の指摘については以下を参照のこと。Clyde Lee Miller,

Reading Cusanus, Metaphor and Dialectic in a Conjectural Universe, The Catholic

University of America Press : Washington, D.C., 2003, pp. 78―79.

(17) DI , II, 3, “Deus ergo est omnia complicans in hoc, quod omnia in eo ; est omnia

explicans in hoc, quod ipse in omnibus.” ニコラウス・クザーヌス『知ある無知』,岩崎充胤

・大出哲訳,創文社,1966年,94頁。

(18) J. Koch, ibid, SS. 34―35.

(19) DC , I, 5, n. 19, “Unitas igitur absoluta, quia est entitas omnium entium, quiditas

「推測」と〈否定神学〉 55

Page 14: 「推測」と〈否定神学〉...じられていた。それに対し『推測論』では,「対立の一致」(coincidentia oppositorum)の契 機が理性を超えた知性の特質として捉えられ,そこに肯定と否定とを結びつける能力が認めら

omnium quiditatum, causa omnium causarum, finis omnium finium, in dubium trahi

nequit.”

(20) De docta ignorantia(Nicolai de Cusa, Opera Omnia I, Iussu et auctoritate Academiae

Litterarum Heidelbergensis, 1932, 以下 DI ), I, 18, n. 52.『知ある無知』,47頁。

(21) 『知ある無知』におけるクザーヌスの存在論的洞察については次の拙論を参考のこと。「クザ

ーヌスの認識論と存在論―『知ある無知』をめぐって―」,『天理大学学報』第63巻第2号(第

229輯),2012年。

(22) DC , I, 9, n. 41.

(23)DC , I, 10, n. 46. “Ostendit autem ‹t›ibi P figura omnia in mundo dabilia in hoc differenter

se habere ; aliter quidem in uno absorpta est unitas in alteritate aut e converso, aliter in

alio secundum plus atque minus. Propter quod ad maximum aut minimum simpliciter non

devenietur.”

(24) この点に関し,八巻和彦は,クザーヌスにおいてなぜこうした関心の推移が生じたのかとい

う問いにコッホが必ずしも十分な解答を与えていないことを指摘したうえで,自らはその理由

を〈多様性〉問題の解決に求めている。八巻和彦『クザーヌスの世界像』,創文社,2001年,99

頁。

(25) DC , I, 10, n. 53. “Unitatem autem in alteritatem progredi est simul alteritatem regredi

in unitatem, et hoc diligentissime adverte, si intellectualiter unitatem in alteritate intueri

volueris. … Simplici enim intellectu progressionem cum regression coupulatam concipito,

si ad arcana illa curas pervenire, quae supra rationem disiungentem proressionem a

regression, solo intellectu in unum opposita complicante verius attinguntur.”

(26) DI , I, 24. 『知ある無知』,66頁。

(27) DI , I, 4. 『知ある無知』,16頁。

(28) DI , I, 3. 『知ある無知』,13頁。

(29) DC , I, 5, n. 21. “Non est igitur coniectura de ipso verissima, quae admittit

affirmationem, cui opponitur negatio, aut quae negationem quasi veriorem affirmationi

praefert. Quamvis verius videatur deum nihil omnium, quae aut concipi aut dici possunt,

exsistere quam aliquid eorum, non tamen praecisionem attingit negatio, cui obviat

affirmatio. Absolutior igitur veritatis exstitit conceptus, qui ambo abicit opposita,

disiunctive simul et copulative. Non poterit enim infinitius responderi ‘an deus sit’ quam

quod ipse nec est nec non est, atque quod ipse nec est et non est. …Haec quidem

subtilissima coniecturalis responsio est ad omnia questia aequa. Coniecturalis autem est,

cum praecissima ineffabilis inattingibilisque tam ratione maneat quam intellectu.”

(30) 「否定神学」の理解については,実はクザーヌス自身のそれが既に『知ある無知』の段階か

ら整合性を欠くものであったと思われる。さらに,以後の著作の中でも「否定神学」の語を用

い続けているため,多くの論者によるこの語の解釈は自ずと錯綜したものにならざるを得ない。

この問題は,クザーヌスの否定神学的思考を検討するうえでは極めて重要なテーマであるが,

本稿で中心的に取り扱うにはあまりにも大きすぎるため,別稿を設けて論じてみたい。

(31) Flasch, Nicolaus von Kues, S. 151.

(32) DI , I, 3.『知ある無知』,12頁。

(33) この点についても拙論「クザーヌスの認識論と存在論―『知ある無知』をめぐって―」,『天

理大学学報』第63巻第2号(第229輯),2012年,で触れている。

(34) DC , I, 1, n. 5. “Coniecturas a mente nostra, uti realis mundus a divina infinita ratione,

56 天理大学学報 第64巻第2号

Page 15: 「推測」と〈否定神学〉...じられていた。それに対し『推測論』では,「対立の一致」(coincidentia oppositorum)の契 機が理性を超えた知性の特質として捉えられ,そこに肯定と否定とを結びつける能力が認めら

prodire opertet.”

(35) こうした意味での“橋頭堡”なるものは,この後の思想展開の中でクザーヌスが論じていく

ある種の,つまり“神秘的”な体験的契機として語られるべきものであろう。この点は「神秘

神学」(theologia mystica)と彼の〈否定神学〉的思考との関係性を考える上で極めて重要な

論点をなすはずだが,この点は稿を改めて検討したい。なお,クザーヌスの“神秘主義”につ

いては以下を参考のこと。八巻和彦「クザーヌスの神秘主義」,竹内政孝・山内志朗編『イスラ

ーム哲学とキリスト教中世 III 神秘哲学』,岩波書店,2012年,245-272頁所収。

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