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昭和30~50年代の和泉市内における織屋について - …昭和30~50年代の和泉市内における織屋について ――池田下町を事例として―― 1.課題と視角

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Page 1: 昭和30~50年代の和泉市内における織屋について - …昭和30~50年代の和泉市内における織屋について ――池田下町を事例として―― 1.課題と視角

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について――池田下町を事例として――

1.課題と視角

本論文は、桃山学院大学がある和泉市域に展開した織屋(織物工場)につ

いて、池田下町での現地調査にもとづいて、その実態を明らかにしようとす

るものである。

本論では、こうした織屋を、毛布と白木綿に分けて考察するが、ここでは

まず泉州地域における毛布生産に関する先行研究として『泉州毛布工業史』1)

の内容を紹介しておく。

佐賀ゼミABC班

経済学部3年 池 本 義 史

経済学部3年 植 田 那津子

経済学部3年 佐々木 達 哉

経済学部3年 辻 本 朋 香

経済学部3年 出木谷 一 宏

経済学部3年 中 岡 祐 貴

経済学部3年 納 谷 智 弘

経済学部3年 西 内 鈴 恵

経済学部3年 橋 川 恵

経済学部3年 広 沢 千 聡

経済学部3年 山 形 昌 志

社会学部3年 井 手 真梨子

社会学部3年 佐 藤 貴 子

社会学部3年 素 原 里 菜

社会学部3年 茶 円 望 美

社会学部3年 浜 本 真 衣

社会学部3年 堀 内 奈緒美

社会学部3年 松 井 志保美

文 学 部3年 江 上 友 理

<目次>

1.課題と視角

2.池田下町における織屋とその関連業

3.池田下町における毛布織屋

―中村地区を中心に―

4.池田下町における白木綿製造

5.まとめ

―141―

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戦前以来,大阪府の泉大津市を中心とする地域は,日本における毛布生産

の中心地であった。昭和43年時点の数値を見ると,全国毛布製造業者の

99.8%,登録織機の96.3%が大阪府内に集中していた2)。特に泉大津市を中

心に岸和田市,和泉市,忠岡町の泉州地域に多数の企業が集中立地し,泉州

地域の毛布工業は,他業界に類例をみないほど大きな地域的企業集団を形成

していた。

戦後,輸出の停滞傾向の中で内需向を主とした生産が拡大した。泉州毛布

の工場は昭和30年当時556あり,その約半数は泉大津市に所在していた。その

後,年々工場数は増加し,昭和40年には1526と30年の3倍弱にもなっていた3)。

工場数の増加は,特に泉大津市の外延部である岸和田市,和泉市,忠岡町で

著しく,空間的な拡大を伴っていた。

こうした昭和30~40年代の新規開業者の多くは零細工場だった。30年代半

ば以降深刻化していた労働力不足にくわえ,労働基準法による取り締まりも

強化されるなか,こうした毛布の増産が達成された背景には,家族労働を主

体とする下請賃織業者の激増という事態があり,そうしたなかでは公認され

た製織の権利を持たない無登録織機の増加もあった。

生産形態は,自家製織業者と賃織業者に大別され,賃織業者はその受注先

によって,!親機賃織,"商社・問屋賃織,#紡績・化合繊維等原糸メーカ

ー賃織の3つにわかれていた。中でも親機と呼ばれる大経営の織物工場から

注文をうけて製織を行う賃織業者である!が多数を占めた。昭和30~40年代,

織機3台以下の零細工場が,全体の67.9%を占めており4),泉州毛布は,小

零細企業と言われる下請の賃織生産に支えられていたのである。

和泉市に注目すると,最零細層(織機3台以下)の工場が泉州地域の中で

最も多く,織機台数を工場数で除した平均織機台数でみると,泉大津市4.7台,

忠岡町3.1台,岸和田市2.9台,和泉市2.7台となっており一番少ない5)。表1

―1にあるように,和泉市にあった毛布工場のじつに8割近くが織機3台以

下の零細な織屋だったのである。和泉市は,零細な下請賃織が広がった地域

の典型であったと言ってよいだろう。

桃山学院大学 学生論集 No.24

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表1-1 和泉市毛布工場の規模別工場数(昭和40年度)

備考:日本毛布工業協同組合連合会『泉州毛布工業史』(1974年)134頁より。

毛布工業は,低年齢女子労働者の低賃金を基礎に発展したが,高度経済成

長過程における若年労働力の不足により,毛布工業における雇用労働者の年

齢は高齢化した。また,労働者不足のもとでの生産力拡大は,無登録織機を

用いた農村零細業者の群生によって支えられた。

零細業者は,業主と家族従業員がその担い手になるのが主流で,雇用労働

者を持つといっても,せいぜい業主の親類・縁故の,しかも中高年の既婚女

性が多かったとされる。

以上のように,『泉州毛布工業史』は泉州地域における毛布生産の全体的な

あり方を明らかにしている。しかし,同書は,毛布生産を地域で実質的に支

えていた織屋の実態を具体的に明らかにしているわけではない。そこで本論

文では,こうした先行研究では明らかにされていない具体的な織屋の実態を,

現地調査をもとに明らかにしていく。

次に,分析対象とする池田下町の概要を述べる。

池田下地域は,古代~中世以来の長い歴史を持つ。池田下を含む池田谷地

域一帯は,中世においては池田庄と呼ばれる荘園としてのまとまりをもち,

中世~近世にかけては小領主であった高橋家の支配する領域であった。高橋

家は,池田下村が成立した近世(江戸時代)以降も,同村の庄屋としてこのせんざい がんじょう く ぼ で やまぶけ

地域の中核となった。この池田下村は中村,泉財,願成,久保出,山深とい

う5つの集落からなっており,この地区の区分は現在も,町会の範囲として

生きている。

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について

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明治時代に入り,明治22年(1889),池田下村は,「行政村」北池田村の一

部となった。北池田村には明治半ばから織物業の発展が見られ,大正~昭和

戦前期にかけて白木綿を製造する工場が多く立地した。昭和31年(1956),北

池田村は,和泉町をはじめとする7町村の合併により和泉市の一部となり,

旧池田下村が池田下町となった。昭和30~40年代に地域の織物業はピークを

迎え,泉大津市で生産された毛布の賃織を中心に,一部,白木綿なども伴い

ながら,多数の織屋が営業を展開した。なお,現在も操業している織屋の数

は,池田下町全体でも10軒に満たない。

本研究のため佐賀ゼミでは,合宿調査と追加調査の2回にわたって調査を

実施した。

!2008年9月18日(木)・19日(金)合宿調査 (A班・B班)

9月18日

中村地区・藤原和一氏の聞き取り調査(中村公民館)

藤原和一氏宅の織屋跡の建物調査(写真撮影,簡単な実測ほか)

中村地区・藤田茂行氏の聞き取り調査(中村公民館)

願成地区・門林正浩氏文書(明治~大正期の織屋の経営帳簿)の撮影(中

村公民館)

フィールドワーク(泉財地区・冨尾ミシン(冨尾利彦氏)の工場見学ほ

か)

9月19日

泉財地区・藤原永一氏の綿織物工場調査と聞き取り(藤原永一氏工場・

中村公民館)

女性3人の聞き取り調査(中村公民館)

"2008年10月23日(木)追加調査 (C班)

山深地区・藤原一男氏の織物工場調査(写真撮影,簡単な実測ほか)

藤原一男氏の聞き取り調査(一男氏自宅)

桃山学院大学 学生論集 No.24

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以上の調査をふまえ,以下の各章では,それぞれ次のような内容で考察を

進めていく。

まず第2章では,池田下町における織屋とその関連業について述べる。こ

こで1972年の商工名鑑を用いて,和泉市域および池田下町における毛布・白

木綿の織屋の分布とその特徴について論じる。第3章では,中村における毛

布織屋の概要に触れた上で,個別経営の事例を2つ紹介して,その具体像を

明らかにし,あわせて織屋経営の内部における女性の役割について述べる。

第4章では,池田下町における白木綿工場について毛布織屋と比較しながら

その特徴を簡単に述べた上で,白木綿の個別経営の事例を2つ紹介し,池田

下町の白木綿織屋の実態を明らかにしたい。第5章では,以上の分析をふま

えて,池田下町における毛布と白木綿の織屋の特徴についてまとめる。

(植田那津子・佐藤貴子)

2.池田下町における織屋とその関連業

この章では,本論文で分析する池田下町の織屋が,和泉市全体の中でどの

ような位置にあったのかを明らかにする。まず表2-1を参照されたい。こ

の表は,和泉市・和泉市商工会『商工名鑑1972』6)から白木綿と毛布の織屋を

抜き出し,地域7)ごとに区分した上で,さらに町別に分けて織屋がどのよう

に分布していたかを整理したものである。

第一に,白木綿の織屋(織布工場)の軒数が最も多い町は,内田町の89で

ある。その次は春木町,箕形町,唐国町と続き,白木綿の織屋は,松尾谷地

域で圧倒的に多かったことがわかる。

第二に,毛布は池田下町が44で最も多いことがわかる。そして次に多いの

は,いずれも池田下町に隣接している阪本町の30と東阪本町の28であった。

よって毛布織屋は池田下町を中心として,その周辺の町にも集まっていたこ

とがわかる。

第三に,池田下町は,白木綿の数ではそれほど多くはないが,白木綿と毛

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について

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表2-1 和泉市内の地域別・町別織屋分布(1971年)

備考:和泉市・和泉市商工会『商工名鑑1972』(1972年)により作成。数値は1971年4月1日現在。白木綿は「織布」,毛布は「毛布」の各分類から抽出した。は「唐口町」が1件あったが唐国町に含めた。ほかに「富田町」「藤田町」が各1件あったが,存在しない町名なので,どこにも入れなかった。

桃山学院大学 学生論集 No.24

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布の合計では和泉市内で第3位であり,有数の織屋の集中地区であったこと

がわかる。

そして地域ごとに見ると,松尾谷地域が合計数では他を圧倒しているが,

その大半は白木綿であった。他方,池田下町を含む池田谷地域も第2位であ

り,こちらは白木綿・毛布ともに織屋が多かったことがわかる。

最後に,白木綿と毛布それぞれの分布の特徴をみると,白木綿は信太地域

を除いて市域全体に分布しているのに対して,毛布は府中地域と池田谷地域

を中心に,北西部寄りに分布していることがわかる。毛布織屋がこれらの地

域に多いのは,言うまでもなく,毛布生産の中心地である泉大津市に近いか

らであろう。

次に,同じ商工名鑑から,池田下町の織屋とその関連業者について見てみ

よう。表2-2は,同書に掲載されている繊維関係の工場の中から池田下町

(本来の池田下村である5集落のほか,伏屋地区も含む)に所在した工場を

抽出したものである。ここには,白木綿や毛布の織屋以外に,紡績会社や織

屋の関連業者も含まれている。

池田下町の織屋とその関連業者の中で,資本金や従業員数から見て,最も

規模が大きかったのが和光紡績である。また,小出紡績や山本毛糸紡績など,

その他の紡績工場も,比較的規模が大きかった。すべてが会社形態(5軒中

4軒が株式会社)だった点も,紡績工場の特徴である。また,営業品目は「紡

毛糸」などであり,毛布の原料となる毛糸類の紡績工場だったことも注目さ

れる。

次に,地区ごとの工場分布の状況を見ると,池田下町の織屋とその関連業

者の3分の1以上が,中村の集落に存在していたことがわかる。そして,中

村に存在する工場の営業品目は,ほとんどが毛布である。さらに,毛布を生

産している織屋の従業員数は,多くても6~10人で,ほとんどが0~5人で

あり,いずれも小規模である。また,中村に隣接する泉財の集落でも,営業

品目は毛布が多く中村と似た特徴があった。その他の山深,願成,伏屋など

では,白木綿,ガーゼ,レースなどを生産している工場の割合が高く,毛布

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について

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表2-2 和泉市商工名鑑1972年版に見える池田下町の織屋とその関連業者

備考:和泉市・和泉市商工会『商工名鑑1972』(1972年)により作成。 データは1971年4月1日現在。集落地区は,1979年の住宅地図などと照合して追加した。

桃山学院大学 学生論集 No.24

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を生産している織屋は,それほど多くない。

まとめると,池田下町では,中村を中心として織屋が多く存在し,その織

屋のほとんどが毛布を生産していた。そして,それらの織屋の多くが,従業

員数5人以下の小規模工場であった。また白木綿などの織屋は,毛布に比べ

軒数が少なく,全体に分散していた。それに加えて,ワインダーやミシンな

どの関連業者も少なからず存在していた。つまり,毛糸の紡績工場も合わせ

ると,毛布や白木綿の織屋と関連する工程を地域全体で担っていた様子がう

かがえる。 (山形昌志・納谷智弘)

3.池田下町における毛布織屋-中村地区を中心に-

1)中村における毛布織屋の概要について

この章では,毛布織屋について分析する。なかでも池田下町の中村地区を

取り上げる。前章で見たように,池田下町は,市内でも最大の毛布織屋の集

まる地域であり,中村地区はその中心であった。

中村地区では,一番多い時で24軒の家が毛布織屋を営んでいた。図3-1

を見ると,どれだけ中村に織屋が密集していたかがわかる。特に集落の中心

を通る旧バス通り沿いに,毛布織屋が広がっている。また,表3-1で各織

屋の織機台数を見ると,多くても藤田茂行氏の5台が最高で,ほとんどが1

台である。全体的に織機の数が少ないことがわかり,周辺でおおよそ50台ぐ

らいの織機を使って小機(白木綿を織る織屋)をやっていた家と比較すると,

大幅に少ない台数だったことがわかる。

そもそも,なぜ中村地区に毛布織屋が多く発達したのか。中村近辺では昭

和30年代から,農業の衰退に伴って副業を行うことが始まり,その副業のひ

とつとして毛布織屋を選ぶところが多かったと言われる。そのため多くの織

屋は農業と兼業で営業しており,農家と兼業でやれる限度はおおむね織機2

台までだったようである。おやばた

また,中村の織屋のほとんどが賃織であった。賃織とは,親工場(「親機」)

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について

―149―

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から原料の毛糸を受け取り,それを毛布生地に織り上げて納品し,加工賃を

受け取るというものであった。これらの毛布織屋の経営は,昭和50年代前半

に毛布工業全体が衰退したことにより,廃業するところも増えた。

以下では,2つの毛布織屋の個別経営の事例をとりあげて具体的に見てい

こう。 (佐々木達哉)

2)個別経営の事例その1-藤原和一工場の場合

ここでは,中村地区で,最後まで毛布織屋を操業していた藤原和一氏の事

例について,ご本人への聞き取り(2008年9月18日実施)をもとに紹介する。

そこから中村での毛布織屋の特徴についても考察する。

創業の経緯

藤原和一氏は,昭和2年生まれ。織屋を始めたのは昭和41年であった。そ

れまで和一氏は農業をしていたが,だんだん農作物が安く,肥料が高くなり,

表3-1 池田下町中村地区の毛布織屋と設置織機台数一覧(昭和30年~50年代)

備考:藤田茂行氏からの聞き取りによる。No.24の太田弘氏の織機台数はやや不確か。

桃山学院大学 学生論集 No.24

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図3-1 中村地区の毛布織屋 着色してあるのが毛布織屋だった家。昭和54年の住宅地図を加工した(左上が北)。

どうしようかと考えて毛布の織機を1台購入し,織屋を始めた。すると思っ

た以上に収入が良かったので,その後も農業の副業(本人の表現では「ちょ

っとした小遣い稼ぎ」)として続け,昭和45~46年ごろ,織機を2台に増やし

た。農業をやっていたので,副業として田んぼと一緒にやれるのは2台が限

度だった。2台の機械であれば1人で見ることができた。

昭和55年ごろから廃業まで,和一氏は三共毛織(和泉市一条院町)の賃織

をしていた。それ以前の親機は泉大津市や岸和田市など1~2年ずつで,あ

ちこち変わっていた。材料のアクリル,毛,そして紋紙(ジャガード機にか

けて紋様の情報を機械に伝える厚紙)などは三共毛織から受け取る。材料を

もらうのは出来上がった原反を持って行く時である。

和一氏は毛布の織屋を平成14年(2002)まで続けた。中村では最後の毛布

織屋だった。

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について

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中村の毛布織屋

中村で,最初に毛布の織屋を始めたのは藤田茂行氏で昭和31年ごろではな

いかと和一氏は考える。藤田氏が中村の人たちに毛布織屋の仕事を紹介して

徐々に増えていったのではないか(後述のように藤田氏本人の聞き取りから

そうではないことが判明した)。中村での毛布の織屋の軒数は,一番多い時で

25軒くらいであった。毛布の織屋は,ほとんどが毛布で始めて毛布で終わっ

たが,毛布から敷物(絨毯,座布団,上敷きなど)に変える人もいた。しか

し,変えても長続きするとは限らなかった。多くの人は毛布の織屋を,和一

氏と同様に農家の副業とし,織機の台数も1~2台であった。織機が3~4

台になると専業にしなければならなくなり,またそれくらいの台数であれば

専業でもやっていけた。なお,白木綿の場合は,三交代で織機を一昼夜動か

すため,専業でないとできなかったという。

仕事のあり方・作業の工程

実際に毛布を織っていたのは,和一さんと奥さんの2人で,農作業も2人

で行った。農作業が忙しい時期は毛布の織機は止めていた。織機が2台なら,

家族以外の人に手伝ってもらうことはほとんどない。毛布の仕事は1年を通

してあるが,12~1月が需要のピークで,3~4月は仕事が減る。2~3月

になると親機が問屋に注文を取りに行き,見込みで今年はこの柄が売れるだ

ろうと考えて織っていく。5月からは農作業が忙しくなる。

1枚の毛布を仕上げる時間は,災害用毛布なら一番薄く簡単なので25~30

分ほどである。最も手間のかかるものでも1時間はかからない。織機を動か

す時間は毎日午前9時~夕食前くらいまでで,忙しい時はもっと長時間稼働

させる。和一氏は災害用毛布以外に,一般家庭用毛布も三共毛織に納めてい

た。織りあがった毛布(原反)は検反をする。傷がないかをチェックし,緯

糸が抜けている箇所は緯糸を通して足していくなどの作業である。検反は各

織屋で行う。次の起毛する工程は起毛業者が行う。さらに,そこからミシン

の業者に毛布が送られ,ふち縫いが行われる。ただし大きな織屋は,ミシン

も自分の工場にあったため,業者には委託せず,自分でふち縫い作業を行っ

桃山学院大学 学生論集 No.24

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ていた。和一氏の場合は,起毛もふち縫いもしていない状態の原反を親機に

直接,納品していた。

設備・織機の履歴

創業当時はハンドルで経糸の操作を行う織機を使用していたが,昭和56年

(1981)にボタン式の織機に変更した。ハンドル式は1台50万円,ボタン式

は1台300万円,2台で500~600万円した(購入した時期が異なるため,物価

も異なる)。和一氏の場合,織機の購入資金は田んぼを売らずに自己資金で用

意した。昭和56年に購入したボタン式の織機は,廃業する平成14年まで使っ

ていた。古くなった機械はどこも引き取ってくれず,毛布産業自身も衰退し

たため,譲ることもできず,鉄くずとして処分した。処分にもハンドル式の

織機で30万円と,結構な金額がかかった。

織機の修理はほとんど自分で行い,必要な部品は泉大津市にあった「器料

屋」で購入していた。主な故障の原因は,部品の擦り減りや折れるといった

ものであった。

図3-2 藤原和一工場 配置図 網かけの部分が織機を置いていた場所(江上友理作成)

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について

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考察

以上の藤原和一氏の事例からはどのような点が読み取れるだろうか。

第一に,農業が衰退し,それがきっかけで毛布の織屋を副業として始めた

という点である。最初はちょっとした「小遣い稼ぎ」として始めたが,順調

であったために台数を増やして続けた。織機を3台以上に増やして毛布の織

屋を専業とする人もいたが,和一氏のように1~2台にとどめておき,あく

までも副業として続けていく形が中村では多く見られた。和一氏の工場は,

賃織の工場でもあり,以上から和一氏の事例は,中村における農家副業とし

ての賃織毛布織屋の典型と言えるだろう。

第二に,賃織の毛布織屋を中心とする地域の毛布生産では,その工程を細

分化した分業が発展しており,織屋が担う製織以外に起毛やふち縫いがあ

り,それ専門の業者がいたことがわかる。1枚の毛布を仕上げるまでの工程

は「製織→検反→起毛→ふち縫い→完成」であったが,織屋の大きさによっ

てどこまでの工程を行うかは違っていたこともわかる。

第三に,賃織の小規模な織屋でも,開業にあたっては一定のまとまった資

金が必要だった様子もうかがえる。和一氏の場合は自己資金だったが,多く

の場合,そのために農地の切り売りをしたようである。

(橋川恵・堀内奈緒美)

3)個別経営の事例その2-藤田茂行工場の場合

この項では中村地区で最も多くの織機台数を保有していた藤田茂行氏につ

いて,ご本人への聞き取り(2008年9月18日実施)をもとに紹介し,中村に

おける毛布織屋の個別事例を追加するとともに,藤田茂行氏の毛布生産にお

ける独自の役割についても考察する。

藤田氏の履歴

藤田茂行氏は,大正14年(1925)生まれ。昭和18年(1943)に出征,21年

に兵役を終え,大阪に戻る。その後,25年から13年間,西部紡織(のちマル

ハチ羊毛と改称)に通勤した。しかし,38年に会社が倒産したため,その直

桃山学院大学 学生論集 No.24

―154―

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後に織屋を開業した。

マルハチ羊毛が倒産した際,その保有する織機は40台だったが,そのうち

20台は名古屋で中古を購入,新しい織機20台は東洋織機から買い入れたもの

だった。倒産に際して前者の20台は古いということで廃棄され,後者の20台

については,そのうち10台の買い手は見つかったが,もう10台は買い手が見

つからなかった。茂行氏は職場で織機管理の責任者であったため,社長から

10台を買い取ってして欲しいと要請され,承諾した。

茂行氏はマルハチ羊毛から買い取った10台のうち,5台分の「使用権利」

を名古屋の市場で売却した。名古屋は織屋の競争が激しく,使用権利に対し

ての規制も大阪より厳しかった。そのため売却した織機の権利には相当な金

額がつき,それで織機の買い取り費用の何割かは回収できた。茂行氏は5台

の織機を使って自身の織屋を開業した。

茂行氏が創業した頃,中村も含めた農家兼業の織屋の人たちは織機に関す

る知識に乏しかった。茂行氏は,織屋を始める人に織機を売る仲介をし,据

え付けを行った上,操作方法を教えたりもした。そうしたなか,茂行氏は泉

大津の2人のブローカーと親交を深めるようになる。2人のブローカーは織

機販売の仲介役であり,茂行氏は,彼らと地域の織屋を結びつける役割を果

たしたのである。

ブローカーはまず茂行氏のような織機の扱いに慣れている人に織機を売

り,茂行氏が各農家へ売却・据え付けを行うという販売形態を採った。その

ため茂行氏に優先的に織機が回され,茂行氏は何百台とブローカーから織機

を購入した。据え付けを手がけた機械も,岸和田市や和泉市などで135台にも

のぼったという。

茂行氏は若い頃から機械いじりが好きで,機械を解体したり組み立てたり

して仕組みを独学で理解する特技を持っていた。そのため西部紡織に勤めて

いる時期に,織機の据え付けや修理などの技術を磨き,また取引先から織物

の生地のサンプルを渡されると,その織り目の組織を復元するという職人的

な技も身に付け,取引先に重宝された。会社倒産,独立後も,近隣の織屋で

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について

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機械が故障した際には修理をよく引き受けた。

先に見た藤原和一氏の聞き取りで,中村の毛布織屋の火付け役が藤田茂行

氏であったように述べていたのは正しくないが,こうした思い込みは,以上

に見てきたような茂行氏の独自の役割があったために生まれてきたものだと

言えよう。

藤田氏の毛布織屋

昭和38年の開業当初,茂行氏は賃織をしていたが7~8年すると賃織の仕

事は減少した。この時期は親工場であったヤマケン(山健,泉大津市池浦町)

が原料を輸入した後,製品の加工を賃織に依頼し,出来上がった製品を輸出

するという形であったが,次第にヤマケンが工場を原料の産地であるタイに

移し,そこで商品を作る方が低コストで利益も上がるということになったた

め賃織の仕事は減少した。そこで,茂行氏は自家営業に切り替えた。

茂行氏は何回洗濯しても使える丈夫な生地を作ろうと試行錯誤し,2番手

半の太い糸を使い「2番2号」という強い糸を作った。通常は糸に13回撚り

(ねじること)を加えるところを茂行氏は16回にして強度を高めた。このや

り方は斬新であり,売れ行きも良かった。この糸を使用した毛布は関東方面

や広島などへも出荷した。

賃織の場合は収入が安定していたが,自家営業となると,受注,原料購入,

生産,売却まですべて自分で行わなければならず苦労した。生産は一年間を

通して行うが,販売は秋から冬にかけての時期がピークであり,シーズン以

外では販売(収入)の停滞が非常に大きかった。また資金の回収ができない

状態でもシーズンに向けて商品をストックするため,生産は常時しておかな

ければならず,経営的に大変だったという。

昭和52~54年ごろ,毛布を中心とした織物産業は衰退し,茂行氏は織屋を

廃業した。昭和55年ごろに完全に廃業するまでは,仕事をいくつか請け負っ

ていた模様である。

廃業後,織機は繊維特別措置法により織機1台につき当時の金額で20万円

(10万円分は補償金)で買い取られた。買い取られた織機はタイに中古品と

桃山学院大学 学生論集 No.24

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して売却され,現地の工場で使用されたという。

以上が,藤田茂行氏の聞き取りの概要である。

考察

毛布生産が盛んだった昭和30~40年代の中村地区において藤田茂行氏の存

在は大きかったと考えられる。彼の持つ織機の知識や技術はひじょうに高い

レベルであり,ブローカーが彼をいわば橋頭堡にして地域への織機販売形態

を確立したことからもそれがわかる。織機の据え付けや修理に関する専門知

識は近隣の同業者にとってひじょうに意義が大きく,農家兼業の賃織が圧倒

的多数を占めた中村地区の織屋たちにとって,頼れる存在だったと言えよ

う8)。

また茂行氏自身の毛布織屋を見ると,早い段階から賃織をやめ,自家営業

に切り替えたという特徴も指摘できる。織機の専門的知識や技術を持ってい

たことで賃織から自家営業への転換をスムーズに行えたのだと考えられる。

賃織が多かった中村地区において自家営業を行ったことは,旧来の構造から

脱却した先駆者的なイメージを茂行氏に付加したと考える。このことは中村

地区において茂行氏の評価が非常に高く,毛布織屋の火付け役のように述べ

られていることからも見て取れる。

以上から,藤田茂行氏は,毛布織屋が集中して立地した中村地区において,

リーダーのような存在だったと言えよう。 (池本義史・素原里菜)

4)地域の毛布関連業と女性の役割―女性3人の聞き取りから

ここでは,中村地区で織屋とその関連業にかかわってきた女性3人への聞

き取り(2008年9月19日実施)を紹介し,地域の毛布関連業と女性の役割に

ついて考察する。

3人の経歴

小泉稔好(としこ)さんは昭和10年生まれ。昭和36年にお嫁に来た頃は,

小機(白木綿の織屋)をやっていたが,その後,昭和39年ごろから毛布の織

屋に変わり,25~26年続けた。当初は賃織だったが2~3年後には自分で糸

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について

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を買って織るようになった。平成の初めごろには廃業し,その後は,自転車

にかかわる仕事を平成15年ごろまでしていた。

山口ヒサエさんは大正15年生まれで,忠岡町出身。実家の忠岡町では毛布

の織屋をしていた。昭和24年,結婚し中村へ来た後,36年から毛布をつくる

ための整経(経糸をきれいに並べて整える作業)の仕事を始めた。しかし,

その後,タフトと呼ばれる新しい機械の普及などにおされ,経営が悪化した

ので50年代に入って息子さんが山口刺繍を始め,56年頃に整経をやめ,刺繍

を本業にした。しかし,平成15年ごろに刺繍も廃業した。

戦前,山口さんの実家は毛布の織屋であり,織機が5台あり,織子5人と

管巻工2人の7~8人ほどを雇う工場だったという。

藤原初子さんは昭和11年生まれ,泉大津市板原出身。泉大津市の実家は毛

布の織屋(創業はおそらく戦後)であった。昭和39年,結婚し中村へ。昭和

40年頃から約20年間,かせくり(ワインダー)の仕事をした。

女性の仕事

毛布の織屋は,朝7時から夜6時ごろまで作業をした。機械の音がうるさ

く近所に迷惑がかかるため,夜は6時ごろまでしか織らず,その後は検反作

業を行った。

女性は織機を見ながら,その合間に家事,育児もしなければならなかった。

今のようにスイッチ1つでできるようなものはなく,子どもをおんぶしなが

ら,かまどでご飯を炊き,風呂を沸かし,一服する暇さえなかった。また,3

人とも農業との兼業であったため,農作業も,織機を動かす時と同様に朝5

時から行っていた。

そのため仕事は年中休みなしだったが,婦人会ではお盆の時期に1日だけ

出かけることができた。これがお嫁さんたちの唯一の楽しみであり,年に1

回,羽をのばせる日だった。毎月1日・15日は織屋などの仕事は休みだった

が,家事などがあり,休む暇がなかった。

5月の半ばになると,毛布の織屋で働く織子たちに夜食を出した。これが

出ると,織子は「明日から夜なべ」だということが分かった。「夜なべ」とは,

桃山学院大学 学生論集 No.24

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夜遅くまで(織子は通常6時までのところを8時や9時まで,検反を含める

と11時ごろまで)織機を動かす忙しい時期のことで,夜なべの期間は11月末

ごろまで続き,ひじょうに長かった。

毛布の関連業-整経とワインダー

ここでは整経とワインダー(かせくり)について紹介する。

山口さんが行っていた整経とは,双糸という撚った糸を糸屋から買い,「チ

ーズ」(原糸を巻いたかたまり状の物)の形に巻き,そのチーズ2000本を1本

の「ちきり」(経糸を巻く軸,ビームのこと)に巻きなおす作業である。しか

し,毛布用の経糸の整経は幅が長く,小幅の木綿と違って一度に巻くことが

できないため二段階で巻く。段々と巻いていくため,継ぎ目がきちんと合わ

なければならず,下手に巻くとちきりに巻き取る段階でうまくいかない。か

なり難しいので,作業に熟練していなければできない。

整経は納期が非常に厳しかった。整経した原料糸が納入されないと織機が

止まり,織子の仕事がなくなってしまう。織屋としては織子を1時間も遊ば

せることができない。そのため親方(整経した糸の納入先である織屋の主人)

が非常にやかましい。機械が止まると織子は「もう帰る」と言う。織屋より

織子のほうが偉い。昭和30~40年代前半は,集団就職の時代で,労働力不足

のため若い働き手は「金の卵」と言われ,中卒の人を企業が争奪し,大事に

した時期であった。

整経した糸の納入先は,泉大津のほか,岸和田市,和泉市内の横山地域に

も及び,和歌山などまでちきりを取りに行き,整経したのち,そこへ納品す

ることもあった。ちきりは織屋の持ち物で,それをあずかって来ては巻き,

納品に出向いた。そのため,運送も自分のところでしていた。主にご主人が

運送の仕事で,家では女性が織機を見ていた。

藤原さんが行っていたワインダー(かせくり)とは,紡績会社から買って

きた糸をチーズの形に巻き取る仕事である。織屋にそれを納入し,織屋はそ

れを管に巻き,シャトルにセットして毛布を織るための緯糸にする。ワイン

ダーの機械は糸を巻き取る装置が15くらい並んでいるもので,横幅はあるが,

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について

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奥行きは短いものだった。作業そのものは巻き取るだけのもので,比較的単

純なようである。

以上,中村では織屋に経糸や緯糸を供給し,その準備工程を担う業者も存

在していた。

考察

以上の女性3人への聞き取り内容から指摘できるのは,次のような点であ

る。

第一に,女性の役割について。毛布の織屋は織機1~3台程度の零細な経

営だったため,家族労働にたよる部分が大きく,しかもその中心は女性たち

であった。じっさいの生活の場面では,女性たちは「嫁」として家事や農作

業を支えていたから,1年に婦人会行事の1日しか休めないほどの重い労働

を強いられた。

第二に,毛布の関連業についてである。中村地区のような毛布織屋の集ま

った地域では,そこに整経業やワインダーのような関連業も伴う形になって

おり,これらが一体となって毛布生産を支えていた。また,関連業の労働で

も働き手は女性が中心であった。 (茶円望美・松井志保美)

4.池田下町における白木綿製造

1)池田下町の白木綿工場

本章では,前章で詳しく見てきた毛布織屋と対比するため,白木綿の織屋

を取り上げる。

まずこの項では,池田下町全体の綿織物工場の特徴を見ておく。

第2章に掲げた表2-2から,1972年の商工名鑑に掲載された池田下町の

織屋について,毛布と織布(白木綿)の工場分布状況を比較すると,毛布は,

中村を中心とした地区に固まっていたが,織布工場は各集落に点在していた

ことがわかる。

次に,工場の規模を従業員数で比較すると,織布工場18のうち,21~30人

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の工場は井阪産業!のみで,その他は6~10人の工場6,0~5人の工場11

である。井阪産業だけが突出しているものの,全体としては0~5人の工場

が過半数を占めており,家族のみか,それにわずかな従業員をくわえた少人

数で運営する小規模工場が多かったことがわかる。

さらに営業品目に注目してみると,「木綿」「白木綿」とあるのが5軒,「ガ

ーゼ」「綿ガーゼ」が6軒とあるほか,「かなきん」「綿スフ」「ポリブロビレ

ン」なども見られる。かなきん(金巾)とは,かたく撚った綿糸で織った目

の細かい薄い織物である。また,「綿スフ」は綿や「スフ」(レーヨンなどの

合成繊維)を用いた織物,「ポリブロビレン」(ポリプロピレン)も,化学繊

維として用いるものである。つまり,一部の品目には化学(合成)繊維も含

まれるが,全体としては,広い意味での白木綿を織る工場であったと言えよ

う。

以上のように,池田下町の織物工場は,比較的単純な白木綿製品を織る小

規模な工場が,各地区に点在する,という特徴をもっていたことがわかる。

(辻本朋香・中岡祐貴)

2)個別経営の事例その1-藤原一男工場の場合

この項では,山深地区で昭和45年ごろに創業し,現在も,ほぼ当時のまま

の建物で賃織の白木綿工場を営んでいる藤原一男氏の事例について,ご本人

への聞き取り(2008年10月23日実施)をもとに紹介し,あわせて山深地区の

白木綿織屋についても考察する。

工場の履歴

藤原一男氏は昭和17年生まれで,昭和45年(1970)ごろ,28歳のとき,そ

れまで勤めていた日本工機を辞め,兄の藤原米一氏と共に織屋を創業。その

1~2年後に一男氏の結婚を機に現在の場所に工場を建て(奥の1棟分),織

機を移動した。その後は,一男氏と奥さんの2人だけで操業し,従業員は雇

っていない。

現在の場所で始めたときは奥側の1棟に織機20台を置いていた(図4-1

参照)。10年ほど後に親工場の薦めもあって手前側(図の下の方)に,もう1

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について

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棟増築し,新品,モーター付の織機18台を入れた。奥側のベルトから動力を

もらって動く織機は当初から中古品で,更新時も中古品を貰い受け,その後

これまでに2回更新した。織機の値段は,動力なしのベルト式は5万円ほど,

モーター付のものは,その倍の10万円ほどだった。「ドビ」(綜絖を動かす装

置)などが5万円するなど,付属品が付くと高かった。部品は壊れたら自分

で買ってきたり(最近シャトルなどは5千円と高い),廃業工場から貰い受け

たりした。

親工場との関係

仕事は賃織で,当初は三林(和泉市三林町)の高橋織布が親工場だったが,20

年ほどして同社が倒産したため,そこで番頭として働いていた山本博文氏が

同社から6つの賃織工場(下請け)を,そのまま引き継いだ。工場名は山本

博文商店で三林にあり,一男氏は現在もその賃織をしている。作った製品は

親工場から,以前は大阪へ出されていたが,現在はすべて名古屋方面に出し

図4-1 藤原一男工場 織機配置図(西内鈴恵作成)

桃山学院大学 学生論集 No.24

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ている。

従来は,賃織と言えば,あらかじめ製品と量,加工賃などを契約で定めて

おき,製品を納入した時に,加工賃を受け取る形だったが,ここ10年ほどは

親工場が厳しくなって製品によっては契約なしで織らされている。この場合,

原料だけ渡されて織っておき,注文が入ったら製品を納め,しかもそれが売

れて初めて親工場から加工賃が支払われる。一男氏の工場では,置き場が少

ないので,あまり在庫を置けず苦労している。現在,織っている品のうち,

少し織り方が複雑な「ダイヤ」と「クロス」の2つは契約があるが,それ以

外の単純な布は中国などでも安く織られているため,契約なしの形になって

いる。

仕事の内容

操業時間は現在,朝6時から夜8時までで,朝はスイッチだけ入れ織機を

動かしておき,1時間後に工場に一男氏たちが入って作業を始める。仕事は,

自動で織っている織機の緯糸がなくなったり,切れたりした時に,糸をつな

ぐなどして動きを再開させることである。緯糸は1つのシャトルにはめてあ

る管(くだ)の糸がなくなるのに約40分かかる。以前は管に巻ける緯糸が少

なかったため15分でなくなった。経糸は1つのビーム(糸を巻いた大きな車

輪のような軸)の糸がなくなるのに約1か月かかる。ただし,より多くの糸

を使う「ダイヤ」や「クロス」などは2週間ほどでなくなる。製品ごとの紋

様(織り目)は経糸の動きを制御する「ドビ」によって織り分ける。ドビの

動きは織機にセットした木製のカードの情報によって決まったサイクルにな

る。複雑な織り目ほどカードの枚数が多く「クロス」などは14枚のカードを

セットしなければならない。

工場で織っている製品

現在,工場で織っている製品はすべて白木綿で,その種類(通称)はタケ,

キク,ブン,ソフト,ダイヤ,クロスである。それぞれの用途や特徴,加工

賃は表4-1の通りである。

タケ,キク,ソフトの加工賃は1疋(約22.8メートル)あたりであり,ダ

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について

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Page 24: 昭和30~50年代の和泉市内における織屋について - …昭和30~50年代の和泉市内における織屋について ――池田下町を事例として―― 1.課題と視角

イヤ,クロスは1メートルあたりである。工場には,38台の織機が設置され

ており,現在は10台を停止させ,28台が稼働しているが,それぞれタケを2

台で,キクを6台で,ブンを8台で,ソフトを5台で,ダイヤを5台で,ク

ロスを2台で織っている。

図4-1にあるように,織機と織っている製品が工場の中で,ややバラバ

ラになっているのは,注文があった時点で使える織機で織るように,その都

度してきたためである。

山深の織屋について

山深にこれまであった織屋は表4-2の通り。!~#が白木綿を織ってい

た家(古い順)。ただし,一男氏以外はすでに織屋を廃業している。$%は,

毛布の賃織をしていた家である。このうち,!"は賃織ではなく自分で原料

を仕入れし,織った製品を大阪の商社に売っていた。また"は,現在もワイ

ンダーを数軒の外注に出しながら営業している。

山深に織屋が,それほど多くない理由について,一男氏は,山深は,中村

などと比べ各家の所有農地も大きかったため,その分,農業経営の採算もと

れたので,織屋を始めようとする人も,少なかったのではないか,とした。

表4-1 藤原一男工場の製品(2008年10月現在)

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表4-2 山深にあった織屋

備考:藤原一男氏からの聞き取りによる。ただし,!"については庄司春雄氏に確認した。

考察

以上に見た藤原一男氏の工場の事例から読み取れることを述べよう。

第一に,一男氏の工場は,昭和45年頃創業なので,それほど早いわけでは

ないが,現在まで創業当時の建物で営業を続けている数少ない貴重な事例で

ある。

第二に,創業当時から一貫して賃織で,規模も,工場を拡張したとはいえ,

織機38台というのは小規模と言える。夫婦2人で維持できるギリギリの規模

だと考えられる。

第三に,昭和50年代以降の織物産業全体の衰退のなか,賃織に対する親工

場の扱いも厳しくなり,最近は契約なしの下請け製織でもやらねばならない

ほど苦しい状態である。

第四に,山深集落の織屋は,毛布も白木綿も全体として少数で,特徴的な

集中などは見られず,それは農業経営の規模が比較的大きかったことによる

と見られる。 (井手真梨子・広沢千聡)

3)個別事例その2-藤原永一工場(泉財)の場合

この項では,泉財地区で昭和50年代に創業し,現在も賃織の白木綿工場を

営んでいる藤原永一氏の事例について,ご本人への聞き取り(2008年9月19

日実施)をもとに紹介し,あわせて泉財地区の白木綿織屋の特徴についても

考察する。

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について

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創業の経緯

藤原永一氏は,昭和4年生まれ。昭和46年(1971)から和泉市の土地開発

公社で働き,51年に退職,52年5月から忠岡町にある川本産業の下請け(賃

織)として織屋を始めた。当時,川本産業の賃織をしていた織屋は8軒あり,

永一氏はその一つであった工場の人の紹介で,貝塚の工場にあったまだ4~

5年しか使っていない中古のベルト式織機をもらいうけ,創業した。

しかし,用地買収のために平成元年(1989)に再び市役所に呼ばれ,それ

以降,織屋と役所仕事を兼業していた。その当時から息子さんが織屋を手伝

うようになった。現在も夫婦2人と息子さんのあわせて3人で操業している。

工場の空間と設備・織機の履歴

現在,工場には織機60台と管巻機1台と製品をたたむ機械2台がある。機

械の故障は多いが,ほとんどは永一氏が修理している。廃業工場から必要な

部品をもらうこともある。

次に織機であるが,開業当初,織機は40台で動力はベルト式で,織機を親

会社から借りて操業していた別の織屋が昭和57年7月ごろに廃業したので,

そこで使っていた織機20台を引き継いで借りることにした。しかし,動力が

ベルト式の織機だと,冬はしまって回転が良いが,夏はのびて回転が悪くな

るという難点があった。

その後,会社の方針が変わったため,これまで借りていたベルト式の織機

20台を買い取ることにし,平成7~8年ごろ,モーター式の織機を30台ほど

新たに購入した。平成12~13年ごろになると,川本産業がベルト式をモータ

ー式に交換してくれ,モーター式の織機を26台導入した。こうしてベルト式

織機は順次切り替えていき,現在はモーター式のみで計60台になった。織機

60台を始めとする工場の配置は図4-2のようになっている。

現在,工場は朝6時から自動で動き,夜10時に止まる。スタート時は機械

が一斉に動くと大きな音がして近所迷惑なので,10分の間に3段階に分けて

すべての機械が動き始める。

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製品について

現在,主に包帯と手術用ガーゼを織っており,後者はレントゲンに写るよ

うに特殊な繊維を入れて織る。織り上げた布を裁断しガーゼの大きさにする

工程は,別の会社が行う。

今年(2008)年の6月まで川本産業は晒も織っていたが,晒の工程には水

を多く使うため1年に4000万円もの赤字が出る上,中国から完成品が安く入

ってくるようになったため,晒を織るのはやめた。晒の会社は堺市に多かっ

たが,現在ではだいぶ減ってきている。

加工賃については1疋(約22.8m)あたり190円で,一番良いもので1疋260

円,青印をつけた厚物は240円,赤印をつけた厚物は220円で織っている。

図4-2 藤原永一工場 織機配置図

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について

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考察

以上の藤原永一氏への聞き取りからわかることは,どのような点であろう

か。

第一に,永一氏の工場は昭和50年代創業と開始が遅かったが,役所に呼び

戻されても工場を続けるという形で副業という営業形態を長く保つことにな

っていた点である。

第二に,工場規模は藤原一男氏よりやや大きい。一貫して川本産業の賃織

を続けた。毛布の賃織に比べ,白木綿は,特定の親機の下請けを続けるケー

スが多かったのではないか。

第三に,とはいえ,中国から安い製品が入ってくるようになるなどしたた

め,作る製品も時代に合わせて変化し,聞き取りの直前にも親会社の方針が

変わっており,全体として厳しい状況にあるのは,一男氏の例とも共通して

いることである。 (浜本真衣)

5.まとめ

本研究で明らかになったのは,以下の点である。

第一に,泉州地域のなかでも和泉市は零細な下請賃織が広がった地域であ

り,本研究で取り上げた池田下町は,市内でも最も多くの毛布織屋が集まる

地域であった。特に,中村地区は毛布織屋が集中して分布した地区であった。

第二に,中村を中心として展開した毛布織屋の特徴としては以下の点が指

摘できる。多くの織屋が農家と兼業であり,兼業でやれる限度が織機1~2

台であったため,零細工場が多く,ほとんどが家族とわずかな従業員で経営

されていた。

第三に,毛布織屋が集まっている中村地区の分業のあり方を見ると,そこ

には織屋以外に,整経業やワインダー,撚糸やミシンのような関連業も伴う

形になっており,地域一体で毛布生産を支えていたことが明らかになった。

以上が本研究の大まかなまとめであるが,さらに,次の二点を追加するこ

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とができる。

一つは,上に述べた織屋を中心とする分業のあり方がどういう性格のもの

なのかという点である。藤原和一氏の毛布工場,一男氏や永一氏の白木綿工

場はどれも池田下町にあるが,親工場はそれぞれ泉大津市や忠岡町,和泉市

内の三林町などにあった。したがって,毛布や白木綿の織屋は集まっている

としても,親工場とのつながりはそれぞれ違っており,織屋を中心とした分

業は池田下町だけで完結していたわけではない。

もう一つは,なぜ中村地区に毛布の織屋が集中したのかという点である。

この点については完璧な答えは出せないが,少なくとも本研究からは二つの

ことが言える。

まず山深の織屋についての藤原一男氏の発言である。一男氏は,山深に織

屋がそれほどなかった理由として,同地区の農家は所有地の規模が大きく,

副業収入の必要性がそれほど大きくなかった点を指摘した。逆に言えば,中

村地区は所有農地の規模が小さかったため,副業収入への期待がその分大き

かったということになる。つまり,中村地区に織屋が多かった理由として,

農業経営との関係という問題があったと考えられる9)。

もう一つは,藤田茂行氏が中村にいたことである。「藤田氏が毛布織屋を最

初に始め,それがきっかけで中村に毛布が広がった」という和一氏らの思い

込みは,事実としては正しくないことがわかった。しかし,最初の火付け役

ではないとしても,藤田氏は地区の人たちから頼りにされる存在だったこと

は確かで,彼がいたことは,中村地区に毛布織屋が他よりも増加した要因の

一つにはなったと言えるのではないか。

最後に,本研究では果たせなかった課題についても触れておく。

第一に,先ほど述べた点から考えると,各織屋の本業であった農業経営と

の関係の分析が必要になるが,この点については本研究では十分に調査する

ことができなかった。

第二に,織屋を新しく始め,また営業をつづける上では,町内における親

族関係や知人関係も一定の役割を果たしたと考えられるが,こうした織屋を

昭和30~50年代の和泉市内における織屋について

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めぐる営業以外の社会的な関係については十分検討できなかった。

以上の点を分析すれば,地域の織屋の実態をさらに詳しく明らかにできる

と思われるが,これらについては今後の課題としたい。 (出木谷一宏)

1)日本毛布工業協同組合連合会『泉州毛布工業史』(1974年)。

2)同上129頁。

3)同上116頁。

4)同上133頁。

5)同上133頁。

6)和泉市・和泉市商工会『商工名鑑1972』(1972年)。ここでは「2.繊維」に掲載さ

れている工場のうち,「織布」と「毛布」の項目のところを抜き出す対象とした。

7)ここでの地域区分は,和泉市史編さん委員会が刊行中の「和泉市の歴史 地域叙述

編」で採用している五つの地域分けによった。

8)茂行氏に関するひとつのエピソードがある。茂行氏が昼間,知り合いである三井正巳氏の工場の前を通りかかった。三井氏は織機が動かないと言って困っている様子

であった。工場では織機メーカーの職人2人が機械を見ており,うまく対処するで

あろうという様子であった。しかし,その夜8時ごろに再び工場前を通ると灯りが

ついており,聞くとまだ機械が動かないという。メーカーの職人が2人もいるのに

一向に改善しない状況を見かねて茂行氏は,三井氏の工場に入り,彼が機械を見る

とすぐに故障の原因が分かり,5分でなおった。原因はとても単純なことであった

という。

9)この点について,現地調査後に,中村町会の役員の方々に確認したところ,たし

かに中村は,山深などと比べ農地規模が小さく,副業の動機づけが強かったと証言してくれた。

〔追記〕調査にご協力いただいた中村町会の皆様,聞き取りに応じていただいた皆様を

はじめ,池田下町の方々にお礼申し上げます。

桃山学院大学 学生論集 No.24

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