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調 綿 使 稿 使 奉納和歌に見る言語遊戯

れ 木 七 明 文 山 奉 歌 は 明 等 綿 そ 十 石 書 学 納 …...は じ め に 近 世 期 に お い て 、 玉 津 島 社 ( 現 和 歌 山 市 )・ 住 吉

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  • 近世期において、玉津島社(現和歌山市)・住吉社(現大阪市)・

    明石柿本社(現兵庫県明石市)・高津柿本社(現島根県益田市)へ

    (注�)

    は、該四社が各々和歌三神として敬われていたこともあり、堂上

    歌人や地下歌人から多数の和歌短冊・懐紙、および和歌関係文書が

    奉納された。筆者たち「奉納和歌研究会」(代表

    鶴﨑裕雄

    帝塚

    山学院大学名誉教授)の調査によれば、四神社所蔵の和歌関係資料

    (文書類を含む)はそれぞれ、玉津島神社十八点、住吉大社三十点、

    (注�)

    明石柿本神社(月照寺)三十七点、高津柿本神社九十点で、計百

    七十五点を数える。

    そして、これ等の奉納和歌の中には、〈折句〉〈かぶり歌(冠歌)〉

    〈木綿襷〉と称された言語遊戯などを駆使したものが含まれる。そ

    れ等は次のごとくである。

    玉津島社奉納

    堺田通節の言語遊戯

    住吉社奉納

    冷泉為村の言語遊戯

    明石柿本社奉納

    岸部延・秦正珍・川井立斎他四人(杉本遂

    川名部光慶

    横谷恒幸)・桑門三余・藤原良徳・冷泉為村らの言語遊戯

    高津柿本社奉納

    桑門慈延・越智盛之・冷泉為村らの言語遊戯

    本稿では、彼等の言葉遊びを駆使した奉納和歌を紹介し、各々の

    作品について私見を述べてみたい。

    一、近世奉納和歌の概略

    江戸時代の禁裏御所では、古今伝授をはじめ天爾遠波伝授・三部

    抄伝授・伊勢物語伝授・源氏物語伝授など、様々な御伝授が盛んに

    催された。これら御伝授事の背景には、元和元年(一六一五)に前

    将軍徳川家康や将軍徳川秀忠らが制定公布した、天皇と公家の守る

    べき法「禁中並公家諸法度」の第一条に、「天子御芸能の事、第一

    奉納和歌に見る言語遊戯

    奉納和歌に見る言語遊戯

  • 御学問也」と謳ったことがある。つまり、天皇は和歌等の学問を第

    一とすべきことがこの時代の流れとなったのである。

    しかし、これ等の御伝授事や和歌会は、右のような理由からだけ

    で行われた訳ではない。例えば、室町後期の歌人三条西実隆が正月

    (注�)

    一日の恒例の行事として、柿本人麻呂の肖像画の前で上達を期し

    て和歌を詠んでいたように、江戸時代の天皇や堂上方も、真剣に上

    達を願い研鑽していたのである。

    その一端は、当時、禁裏御所から永代勅願所の勅命を賜っていた

    明石柿本社別当月照寺に残る、「御祈祷記録写」や「書状綴」から

    も窺うことができる。そこには、禁裏御所から命ぜられた、古今伝

    授の折の御祈祷、天爾遠波伝授・三部抄伝授・歌道繁栄などの御祈

    祷の記録が頻出する。

    ところで、古今伝授は「古今和歌集」の難解な歌や語句の解釈を

    師から弟子へ、秘伝として伝え授けることを言う。「古今和歌集」

    の歌の解釈は、同歌集が和歌の規範であったこともあり、平安時代

    末頃から、各歌道の家々で独自のものが伝えられていた。しかし一

    般的には、室町時代後期に二条宗祇流と二条堯恵流が成立し、口伝

    ・切紙・抄物による伝授形式が定まってからを言う。二条堯恵流は

    後に断絶するが、二条宗祇流は三条西実隆、細川幽斎、八条宮智仁

    親王などを経て、後水尾天皇へと相伝される。さらには、歴代天皇

    ・堂上方へと継承されて、いわゆる〈御所伝授〉として確立するの

    である。

    天爾遠波伝授は、和歌における仮名遣の伝授(定家仮名遣など)

    を言い、三部抄伝授は、藤原定家の著作とされる「詠歌大概・秀歌

    之体大略」「百人一首」「未来記・雨中吟」の読み癖や注釈の秘伝を

    伝えるものである。ともに古今伝授と並んで江戸時代の禁裏御所に

    おいては重要な御伝授事となっていた。

    さて、禁裏御所で古今伝授が行われた時には、伝授を受けた天皇

    が堂上方とともに、いわゆる〈古今伝授後

    御法楽五十首和歌〉を

    和歌三神四社に奉納するのが習わしであった。玉津島社をはじめ、

    住吉社、明石柿本社、高津柿本社には、歌題と詠者が異なった五十

    枚の兼題和歌短冊一式が各々奉納されている。

    なお、霊元法皇の御意向で、享保八年(一七二三)に催された柿

    (注�)

    本人麻呂千年忌を機に、それ以降、殊に地下歌人からの柿本社奉

    納和歌が数を増すようになる。また、古今伝授後御法楽和歌が明石

    と高津の両柿本社に奉納されるようになるのも、人麻呂千年忌以

    降、すなわち延享元年(一七四四)五月の古今伝授(烏丸光栄より

    桜町天皇への御伝授)からである。

    二、折句・冠歌・沓冠歌の技法

    和歌の表現手法の一つに、先述した折句がある(一頁上)。高等

    学校の古文の教科書などによく引かれる部分だが、例えば「伊勢物

    語」(第九段│東下り│)に見る和歌、

    か�ら衣/き�つつなれにし/つ�ましあれば/は�るばるきぬる/た�

    奉納和歌に見る言語遊戯

  • びをしぞ思ふ

    のように、一首の各�句�の�頭�に「かきつはた(杜若)」などの語を一

    音ずつ詠み込むのが本来の折句である。そしてその一類に、ある語

    句を各歌の冒頭に置いて複数首を詠む遊びがある。このような手法

    を、当時は冠歌と言っていた。それは、次からも明らかである。

    和歌指南冷泉家第十五代為村に学んだ涌蓮という僧がいる。彼に

    のり

    は歌集「法のえ」がある。宝暦十一年(一七六一)一月に、法然上

    人の五百五十年忌が行われたのを機に、上人の一枚起請文を仮名に

    し、一字ずつを各首初句の頭に据え、三百四十二首を詠んだもので

    ある。「法のえ」は「かぶり歌」の別名を持つが、これは、その一

    字ずつを各歌の頭に置いて詠んでいることに由来する。つまり、当

    時この類の歌は冠歌と称されていたのだ。

    この冠歌や、冒頭に置くと同時に、各歌の結句の末尾に言葉を据

    える、〈くつかぶり歌(沓冠歌)〉という手法も古くから行われてい

    た。例えば、平安中期の歌人源順の家集である「源順集」には、藤

    原有忠や藤原輔相と互いに詠み競った「あめつちの歌四十八首」と

    題するものが残っている。今、始めと終わりの何首かを『続国歌大

    観』(角川書店

    傍点筆者)によって引用すると次のごとくである。

    ・あ�らさじと打返すらむ小田山の苗代水にぬれて作るあ�

    ・め�も遥に雪まも青く成に鳬今日社野べに若菜摘みてめ�

    ・つ�く波山咲ける桜の匂をば入て折らねどよそ乍ら見つ�

    ・ち�ぐさにも綻ぶ花の匂ひかないづら青柳ぬひし糸すぢ�

    (中略)

    ・な�きたむる涙は袖に満汐の干るまにだにも逢みてしがな�

    ・れ�ふ師にもあらぬ我こそ逢事を照射の松の燃え焦れぬれ�

    ・ゐ�ても恋臥ても恋るかひもなく影浅ましくみえぬ山の井�

    ・て�る月ももるゝ板まの逢はぬ夜は濡れこそ渡れ返す衣手�

    これは、古くから行われた手習詞の類で、二十一の語句、計四十

    八文字からなる〈あめつちの詞〉(左参照)を、右引用傍点部のご

    とく歌の冒頭と末尾に詠み込んだ、いわゆる沓冠歌と称されるもの

    で、これもまた折句の一種である。

    あめ、つち、ほし、そら、やま、かは、みね、たに、くも、き

    り、むろ、こけ、ひと、いぬ、うへ、すゑ、ゆわ、さる、おふ

    (注�)

    せよ、えのえを、なれゐて、

    また、時代は下るものの、沓冠歌の例として良く知られている吉

    田兼好と頓阿法師の贈答歌が、頓阿の家集「続草庵集」中にある

    (『新編国歌大観』角川書店

    CD-ROM

    版│傍点と「/」は筆者

    │)。

    世中しづかならざりし比、兼好が本より、よ�ね�た�ま�へ�ぜ�に�

    も�ほ�し�、といふ事をくつかぶりにおきて

    ・よ�もすずし�/ね�ざめのかりほ�/た�枕も�/ま�袖も秋に�/へ�だてな

    きかぜ�返

    し、よ�ね�は�な�し�ぜ�に�す�こ�し�

    ・よ�るもうし�/ね�たくわがせこ�/は�てはこず�/な�ほざりにだに�/

    奉納和歌に見る言語遊戯

  • し�ばしとひませ�

    これは、詞書にある兼好の「米�た�ま�へ�銭�も�ほ�し�」、頓阿の「米�は�

    な�し�銭�少�し�」という各語句を、両者ともに各句の頭に初句から順に

    「よねたまへ」「よねはなし」と置き、各句の末尾に結句から逆順に

    「ぜにもほし」「せにずこし」と置いて詠んだ沓冠歌になっている。

    続いて、各社奉納和歌中の言語遊戯を見てみよう。便宜上、「玉

    津島社」「住吉社」「明石柿本社」「高津柿本社」の四つに分け、

    各々の作品を紹介して論じてみたい。

    三、玉津島社奉納和歌の場合

    玉津島神社の所蔵する十八点の奉納和歌中に、堺田通節が元禄十

    三年(一七〇〇)に奉納した和歌一点がある。内題には「奉納

    うだすき

    津島大明神木綿襁

    和歌」と記されるが、内題中の「木綿襁�」は、

    普通「木綿襷�」または「木綿手�襁�」と表記される。いわゆる木綿襷

    と称されるもので、折句をさらに複雑化したような十二首から成る

    遊びである。

    実は、この言葉遊びも古くから行われていて、例えば、藤原定家

    の曾孫にあたり京極派創始者である、鎌倉後期の歌人京極為兼(同

    家第二代)の和歌にも見られる。彼は、持明院統政権を支持し政治

    活動を成したため、永仁六年(一二九八)に佐渡へ流罪となるが、

    この配流中に詠んだ和歌の一つがそれである。

    それ等を、天明元年(一七八一)に書写された、宮内庁書陵部図

    (注�)

    書寮文庫蔵の「為兼卿卅一首沓冠并折句

    和歌

    」で確認してみよう。同資料

    には三十一首が詠まれるが、各歌の冒頭と末尾にも各々、

    ・冒頭…会ふことをまたいつかはと木�綿�襷�か�け�し�誓�ひ�を神にまか

    せて

    ・末尾…頼みこし賀茂の川水さてもかくたへなば神をなをやかこ

    たむ

    という意図の歌が隠される。つまり沓冠歌になっていて、合計三十

    三首が詠まれているのだ。さらに、三十一首の各結句が、前一首の

    結句末尾音を受けて始まる〈文字鎖〉、すなわち各首の結句が尻取

    図Ⅰ 為兼の木綿襷(図式)…矢印方向へ線上の各文字を各句頭に置き十二首を詠む

    奉納和歌に見る言語遊戯

  • 歌のようになっている。

    また、右第一例、各冒頭の一字を繋いだ一首中に、傍点部「木�綿�

    襷�かけし誓ひ」とあるごとく、計三十三首全体の前には「阿弥陁婦

    津(阿弥陀仏)」を折句にした縦の五首を基に成る、この木綿襷手

    法の和歌(前頁図Ⅰ参照)が添えてある。そして、いずれの作品も

    彼の切なる思いや神への願いに満ち溢れている。

    なお、同資料の跋文は、これ等の和歌によって京極為兼は許さ

    れ、嘉元二年(一三〇四)に佐渡から上洛した旨を記す。

    さて、堺田通節の作品に戻ろう。彼の「木綿襁和歌」も、為兼の

    場合と同様、縦・横・斜、それぞれの歌の交わる箇所を同一の文字

    になるようにして詠む、折句に準じた木綿襷の形をとっている。そ

    れらを確認すると、

    ・《縦列の和歌》右から順に左へ

    ①題「梅」……各句頭に古歌五文字「なにはつに」を用いた折句

    ②題「郭公」…各句頭に古歌五文字「あさかやま」を用いた折句

    ③題「月」……各句頭に古歌五文字「やくもたつ」を用いた折句

    ④題「氷」……各句頭に古歌五文字「わかせこか」を用いた折句

    ⑤題「神祇」…各句頭に古歌五文字「たまつしま」を用いた折句

    ・《横列の和歌》上から順に下へ

    ⑥題「春」……各句頭に《縦》で用いた各五文字の各一字目

    「なあやわた」を置いて詠む

    ⑦題「夏」……各句頭に《縦》で用いた各五文字の各二字目

    「にさくかま」を置いて詠む

    ⑧題「秋」……各句頭に《縦》で用いた各五文字の各三字目

    「はかもせつ」を置いて詠む

    ⑨題「冬」……各句頭に《縦》で用いた各五文字の各四字目

    「つやたこし」を置いて詠む

    ⑩題「恋」……各句頭に《縦》で用いた各五文字の各五字目

    「にまつかま」を置いて詠む

    ・《斜の和歌》縦の「梅」と横の「春」の間から斜め左下へ

    ⑪題「賀」……各句頭に各《縦》と各《横》が交わる五文字

    「なさもこま」を置いて詠む

    ・《斜の和歌》縦の「神祇」の左から斜め右下へ

    ⑫題「賀」……各句頭に各《縦》と各《横》が交わる五文字

    「たかもやに」を置いて詠む

    という手法の十二首になる(次頁図Ⅱ参照)。折句をさらに複雑に

    した、相当に手の込んだ言語遊戯と言える。

    なお、本作品の跋文に「元禄十三庚辰歳正月吉祥日

    薩摩国

    堺田

    通節」と記すごとく、通節は薩摩の人である。「称名墓志」(『新薩

    藩叢書』三)は「境�田通節」と表記し、目が不自由であったこと、

    和歌に長けていたことなどを述べる。

    盲人にて好んで和歌を詠ず。世人「鳴ぬ夜の通節」と呼べり。

    ところで、景色のよい場所は目にもいい、といった俗信が日本各

    地にあるようで、例えば、島根県平田市の一畑薬師などは、古くか

    奉納和歌に見る言語遊戯

  • ら眼病治癒の信仰を集めている。医術の面で未熟であった当時、眼

    病治癒は、神仏頼みが唯一の方法であったろうことは、想像に難く

    ない。また、住吉明神の鎮座する住吉浦や、玉津島明神の鎮座する

    和歌浦も風光明媚な地として有名で、万葉集をはじめ多くの歌集

    に、その景色の素晴らしさが語られる。住吉大社の方では聞かない

    が、玉津島神社には、遠北明彦宮司によれば、古くから眼病治癒の

    信仰があった。その一つに、眼病を患った霊元天皇が玉津島社で治

    癒祈願をしたところ快復した、という伝承がある。その時に寄進さ

    れた燈籠が境内に現存するという。

    このように、玉津島社に眼病治癒の信仰があったことを思うと、

    目の不自由であった堺田通節が、玉津島社に本「木綿襁和歌」を奉

    納したのは、和歌上達の祈願であると同時に、眼病治癒の祈願が込

    められていたと考えられる。

    四、住吉社奉納和歌の場合

    住吉大社の所蔵する三十点の奉納和歌中、言語遊戯の見られるの

    は冷泉為村が奉納した二点の和歌懐紙である。各々内題に、①「報

    賽五首和歌毎首置字」、②「九月十三夜

    詠三十一首和歌毎歌首

    令冠字」と記され

    る。

    ア、「報賽五首和歌毎首置字」

    為村の前者①の作品は、内題の部分に「毎首置字」と添えられて

    いるごとく、ある語句を各歌の冒頭に一字ずつ置いて詠むというも

    ので、冠歌になっている。この作品は為村の自筆で書かれており、

    全文を示すと左のとおりである。

    報賽五首歌毎首置字

    民部卿

    藤原為村

    ・や�をあひのしほせのとけき夕なきにかすみてうかふ泡路しま

    山・ま�つたかきかけたちよりて暑さをもわすれ草おふるきしのし

    ら波

    図Ⅱ 通節の木綿襷(図式)…矢印方向へ線上の各文字を各句頭に置き十二首を詠む

    奉納和歌に見る言語遊戯

  • ・ひ�さしくも咲にほふきくや此浜の真砂につきぬ秋をしるらむ

    ・い�くとせか雪もつもりのうらさひてふりゆく松のかけそ木ふ

    かき

    ・ゆ�たかにもつるの毛衣立春のめくみかさぬる住よしの浦

    春、夏、秋、冬、祝の順に配された五首の各頭に置かれた、傍点

    部の文字を第一首目から順に拾ってみると、「やまひいゆ(病癒

    ゆ)」となる。

    為村は、宝暦十一年(一七六一)十月十九日に、唇が右に歪んで

    食べたものが口からこぼれ落ちるという、中風の症状に似た病にか

    (注�)

    かった。この病が全快したことの謝意から、宝暦十二年五月に住

    吉社を遥拝して詠んだものであることを、和歌懐紙の端裏書「住吉

    社遥拝

    宝暦十二年五月吉日」によって知る。この時為村は五十一

    歳であった。

    イ、「九月十三夜

    詠三十一首和歌毎歌首

    令冠字」

    後者②の和歌作品にも、内題中に「毎歌首令冠字」とあるので、

    冠歌になっていることがわかる。和歌懐紙に、冷泉流書体の自筆で

    三十一首がしたためられている。奥書には、

    久しく霊夢の感応をたうとみあふきなかく月明の恩光をつたへ

    かしこまりて謝し奉る

    安永二年秋

    京極黄門五百三十三回にあたるとし

    沙弥澄覚上

    とあるが、かつての夢で、和歌の神(住吉の神)よりお告げのあっ

    たことを尊く感じ、今日にまで続くその恩恵を感謝するというもの

    で、住吉社を敬う歌人為村がここにはある。「京極黄門」は、為村

    が敬愛した冷泉家遠祖藤原定家のこと。定家は仁治二年(一二四

    一)八月二十日に八十歳で没しているので、折しも、安永二年(一

    七七三)は定家の五百三十三回忌にあたる。「沙弥澄覚」は為村の

    法名。

    また、内題中に「毎歌首令冠字」とあるごとく、この奉納和歌

    は、前掲「報賽五首和歌毎首置字」と同様、冠歌の手法を用いたもので

    ある。三十一首の頭に置かれた各一字をつないでみると、

    つきかけはあきのよなかくすみのえのいくちとせにかあひおひ

    のまつ

    すなわち、

    月影は秋の夜長�く�住之江のいく千歳にか相生ひの松

    (今宵八月十五夜の、美しい月の光りを浴びている住吉の荘

    厳な相生の松は、幾代ここに根を張り続け、その間、幾度こ

    のような美しい月と逢い、秋の夜を共にしたのだろうか。幾

    久しい夫婦のように。│歌意筆者│)

    のような和歌になる。これは、定家が貞永元年(一二三二)八月十

    五夜の「名所月歌合」で詠んだもの。つまり、為村は定家の歌を用

    いて三十一首の冠歌としたのである。ただ、第二句傍点部は「なが

    ら�」となるのが本来である。それを「長く�」に変えたのは、ラ行音

    では詠み出しにくかったからだろう。古く、大和言葉にラ行で始ま

    奉納和歌に見る言語遊戯

  • る語はない。

    そして歌意の裏に、長くにわたる住吉の神からの恩恵を感謝し、

    和歌の神と共にあり上達を願う、為村の心を重ねているようにも感

    じられる。さらに、奥書の「京極黄門五百三十三回にあたるとし」

    を重視して憶測すれば、住吉の神(和歌神)は定家とも重なってく

    る。つまり、遠祖定家への感謝である。

    ところで、藤原定家の日記「明月記」に目を通すと、月に関する

    記載の多いことに気づく。そして、特に六十五歳あたりを境に、老

    の寂しさと結び付けて月を見るようになる。また、各年の九月十三

    日には、月に関する記録をほぼ欠かさない。

    冷泉家現当主令室貴実子氏によれば、冷泉家においては、藤原定

    家を歌聖と称して特に神聖視し、その筆跡になる典籍をも学問の対

    (注�)

    象とし、家学を支える拠り所として今日まで来ているという。し

    たがって、冷泉家中興の祖と謳われた為村が、本来の歌学と直接関

    係がないとはいえ、定家の日記を読んでいたであろうことは想像に

    難くない。

    為村も「明月記」を読んで、右のようなことは感じ取っていたの

    だろう。殊に定家の老後の記載については、自らを重ねながら読ん

    だのではなかったか。だからこそ、定家の月を愛でる心に照応させ

    て、安永二年九月十三日に「九月十三夜

    詠三十一首和歌毎歌首

    令冠字」と

    題する奉納和歌を詠んだのである。ちなみに、この三十一首には

    各々歌題が施されているが、それ等は全て月に関するものである。

    「十三夜月」で始まり「寄月祝言」で終わっている。

    翌安永三年七月二十九日、為村は六十三歳で世を去った。

    五、明石柿本社奉納和歌の場合

    別当月照寺を通じ明石柿本社に奉納された和歌関係資料は、現

    在、月照寺に三十七点が残っている。その内の八点に、左の作者た

    ちによる言語遊戯が見られる。

    ・岸部延…一点

    ・秦正珍…一点

    ・川井立斎他四人(杉本遂

    川名部光慶

    横谷恒幸)…一点

    ・桑門三余…一点

    ・藤原良徳…一点

    ・冷泉為村…三点

    ア、岸部延の言語遊戯

    言語遊戯の見られる岸部延の作品「岸部延

    奉納三十二首」は、

    柿本人麻呂の千年忌にあたる享保八年(一七二三)三月十八日に奉

    納されている。

    自序に「かの御�神�詠�を�歌�の�か�し�ら�に�い�た�た�き�、三十あまり二首の

    歌をつゝり」と言うように、柿本人麻呂の歌として「人丸集」や

    「古今和歌集」に見る「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島がくれ行く

    舟をしぞ思ふ」の御�神�詠�を、各々の歌の頭に置いて詠んでいる(左

    奉納和歌に見る言語遊戯

  • の引用歌傍点部参照)。すなわち、冠歌を用いた言葉遊びである。

    本作品の序と跋、および本文の初めと終わり各数首を掲げておく。

    和歌のとをつひしり柿本大明神ことし千年にみてたまへ

    りとてかけまくもかしこきおほせことくたりうへなき御

    位を贈りまいらさせ給ひけるとなんされは道に心をよす

    る人々千歌百歌の手向有とそ我�師�以�敬�斎�の�ぬ�し�も此時に

    むまれこのときにあへることをよろこほひてあまたの門

    葉にもすゝめ物しつゝ奉納の歌おさめたてまつらるわれ

    もおほけなきものからかの御神詠を歌のかしらにいたた

    き三十あまり二首の歌をつゝりおなしくおさめたてまつ

    ることになん有けらし

    ・ほ�しさえし冬の名残の大空も春にかすみてあくるのどけさ

    ・の�どけしな霞むそなたの山まゆに匂ひいでたる春の日影は

    ・ほ�のかなるをのがはつ音はまださかぬ花にやおしむそのゝ鶯

    ・の�こりなく山の深雪も打とけて霞むをまゝの春の夜の月

    ・と�きをえし山の桜にみな人はこゝろの花やひらけそふらし

    (中略)

    ・し�たひくる友こそなけれふる雨にぬれて軒端を頼む山鳩

    ・袖�ぬれて波にかたしくかち衣うらこぐ舟の夜のとまりに

    ・お�もひねに見るあらましもかげつかでとだえがちなる夢のうき

    橋・も�ろこしのふみにまさりて国の風たえず吹そふやまと言の葉

    ・ふ�く聲も千世よばふ也石見がたたかつの山の松の春風

    享保八卯のとしやよひ中八日

    岸部氏女

    敬白

    岸部延は、跋文に「岸部氏女

    敬白」と記すごとく女性であ

    る。また、序文に「我師以敬斎のぬし」と言っていることから、以

    敬斎すなわち有賀長伯(一六六一〜一七三七)に師事したことが知

    られる。

    有賀家は、代々京都で医師を勤める家であった。しかし、長伯が

    家業を捨て、大坂の地で和歌を志して以降、江戸時代における地下

    和歌を継承する宗匠家へと変わってゆく。長伯は地下和歌の第一人

    者であった。有賀家は長伯以降、「長因│長収│長基│長隣」と続

    くが、和歌に携わったのは江戸末期の長隣までである。子長因は本

    居宣長の和歌添削も行ったというが、和歌指導に最も力を注いだの

    は孫長収(一七五〇〜一八一八)であろう。彼は、寛政三年(一七

    九一)から文化二年(一八〇五)までの十五年間にわたり、年三度

    の定期的な和歌指導を行い、その時の百四十人・千六百二十六首の

    和歌を巻子十五巻に分かち収め、「有賀長収ほか奉納和歌」として

    住吉社に奉納している。なお、初代長伯も「有賀長伯ほか連名百

    首」を、享保五年(一七二〇)九月に住吉社へ奉納している。

    イ、秦正珍の言語遊戯

    秦正珍の奉納した「正一位柿本大明神社奉納和歌

    詠三十二首和

    歌」は、跋に「享�保�八�年�三�月�十�八�日�

    齢八十二

    外宮内人秦正珍」

    奉納和歌に見る言語遊戯

  • と記すごとく、人麻呂千年忌にあたっての奉納である。

    巻頭には「詠三十二首和歌

    ほの��との御歌を一字つゝはしめ

    に置て」とあり、岸部延の作品と同様に、人麻呂歌とされる「ほの

    ぼのと〜」の三十二文字を、各首の頭に置いて詠んだ冠歌となって

    いる。最初と最後を紹介しておく。

    詠三十二首和歌

    ほの��との御歌を一字つゝはしめに置て

    立春

    ・ほ�しはまたひかり残れるあかつきの空こそかすめ春やたつらむ

    ・の�も山も草木にわかぬ春を先色そ出てもかすみたつ空

    ・ほ�のかにも風のさそひて匂ひ来る梅は誰すむ垣根なるらん

    春月

    ・の�き端もる影を憐むはるの夜の月にそむけしねやの灯

    見花

    ・と�し��に見馴し花はそれなから我身老木の春そかなしき

    (中略)暁

    ・し�きりぬる八声の鳥に起馴て神に詣るみちいそくなり

    田家

    ・そ�てぬれて水せき分る賤の男は門田よりまつ鋤そめにけん

    ・お�もひやる故郷かなしたひ衣立かへる日をいつとしらねは

    述懐

    ・も�にすめるわれから世をも嘆く哉浦につりする海士ならねとも

    ・ふ�りにける跡とて世ゝに仰くそよ神のつたへしやまと言の葉

    齢八十二

    享保八年三月十八日

    外宮内人秦正珍

    この作品は、跋文に「外宮内人秦正珍」と記すとおり、伊勢外宮

    うちんど

    の内人である秦正珍が八十二歳の時に奉納したものである。ちなみ

    に、内人は、古く伊勢神宮などにおいて禰宜の下にあって奉仕した

    神職をいう。

    伊勢神宮に奉仕した秦氏の中には和歌に打ち込む人が比較的多か

    ったようで、住吉大社には秦末統・秦吉博・秦惟石・秦紀貞・秦家

    義・秦千弘らの奉納した和歌が残っている。これは「百首和歌」と

    称される作品で、和歌指南家冷泉為村の指導を受けた、伊勢神宮内

    人と思われる秦氏の右六名・荒木田氏の二名・度会氏の四名が、宗

    匠為村と共に詠み奉納したものである。

    ウ、川井立斎他の言語遊戯

    川井立斎をはじめ、杉本遂・川名部光慶・横谷恒幸の四人が連名

    で詠んだ「奉納和歌三十二首」も、岸部延・秦正珍の場合と同じ手

    奉納和歌に見る言語遊戯

    一〇

  • 法が用いられている。すなわち、人麻呂歌「ほのぼのと〜」の三十

    二文字を各歌の頭に据えて詠む冠歌である。

    跋文に「安永二年癸巳

    三月十八日」とあることにより、安永二年

    (一七七三)、つまり人麻呂千五十年忌の奉納であったことがわか

    る。初

    めと終わりを記しておく。

    奉納

    人麿社

    和歌三十二首

    ほの��とあかしのうらのあさきりにしまかくれゆく

    ふねをしそおもふ

    ほ早春河

    川井立斎

    ・ほ�の見えし朝川わたりかすむなり柳になひく春のはつ風

    の島霞

    杉本遂

    ・の�とけしな春にかすみの立そひてなかめことなる浦の初島

    ほ若木梅

    川名部光慶

    ・仄�かなる色香やめてむ霞む夜ににほふ若木の梅のはつ花

    の江春月

    横谷恒幸

    ・軒�近き入江に満る夕しほにかすめる月の影そえならね

    と交花

    立斎

    ・年�ことに立そふ花やあたなりとうつろふ人の心をも見む

    (中略)

    し麓柴

    恒幸

    ・賤�の男も心ありてやかり残すふもとの柴につもる白雪

    そ礒松

    立斎

    ・空�にすむ月はさなから礒山の松よりしらむ波の明ほの

    お窓竹

    ・生�そへていくよみとりの呉竹やまなひの庵の友と社なれ

    も旅行

    光慶

    ・も�ろ共にいてゝ幾夜か明石潟旅のそらなる月におもへは

    ふ神祇

    恒幸

    ・ふ�ることも代��に朽せぬ神垣の光を仰け敷島の道

    安永二年癸巳

    三月十八日

    右のごとく、各歌題の右肩に人麻呂歌の各文字を示し、それに従

    って、春七首・夏三首・秋七首・冬三首・恋七首・雑五首の計三十

    二首を詠んでいる。詠者四人については経歴不詳。

    エ、桑門三余の言語遊戯

    桑門三余が奉納したのは、表紙外題に「柿本社奉納和歌」と書か

    れ、跋に「享保十五庚戌暦秋八月十八日」と最終奉納の日付が記さ

    れた和綴本である。冒頭に、

    奉納三所

    正一位柿本大明神

    法楽和歌

    播州明石社

    五十首

    石州高角社

    五十首

    奉納和歌に見る言語遊戯

    一一

  • 和州歌塚廟

    六十首

    とあるごとく、三部に分けて三所の柿本人麻呂に奉納する形をとっ

    ている。「播州明石社五十首」は享保八年(一七二三)七月吉日、

    「石州高角社(高津柿本社)五十首」は享保十年三月吉日に詠んだ

    旨の各奥書がある。また、「和州歌塚廟(天理市櫟本)六十首」は

    享保十年正月下旬に詠まれているが、この六十首に言語遊戯が用い

    られている。

    (注�)

    それは、「柿本講式」に載る人麻呂の歌十二首の各々から、人麻

    呂歌の各句を借りて五首を詠むというものである。つまり、作者桑

    門三余の詠む五首中第一首の初句に人麻呂歌初句を、第二首の第二

    句に人麻呂歌第二句を、第三首の第三句に人麻呂歌第三句、第四首

    の第四句に人麻呂歌第四句、第五首の結句に人麻呂歌の結句を借り

    るという具合なのだ。具体的には、次のようにして詠まれる。

    講式

    人麻呂

    ▼梅の花

    それとも見えす

    久方の

    あまきる雪の

    なへてふ

    れゝは

    桑門

    三余

    ①・梅の花めつる天みつ神もさそむかしは神に祈る言の葉

    ・よし野山それとも見えす雲とのみ今も昔を花に残して

    ・木の本に出しはあやし久方の天足彦の末も知られて

    ・浦浪もかたみやかけてあかし潟あまきる雪の島もかくさす

    ・梅か香に人のなさけもかくとしるたか袂にもなへてふれゝは

    講式

    人麻呂

    ▼あすからは

    若菜つまむと

    かた岡の

    あしたの原は

    けふそ

    やくめる

    桑門

    三余

    ①・あすからは春のきぬれと年の内の空は霞そ立をくれぬる

    ・里のめは若なつまむと春の野をかたみに袖をうちはへて行

    ・立帰る家路は遠しかた岡のおれるわらひの手もたゆけなり

    ・いつしかと深谷を出て春のきしあしたの原は鴬のなく

    ・絶ぬるものほる煙は時きぬと峰の炭かまけふそやくめる

    このように、「柿本講式」の一首につき五首を詠むのだから、十

    二首で合計六十首になる。古歌の語句を借りて詠むという、〈本歌

    取〉にも似た手法だが、同じような遊びが高津柿本社奉納和歌中、

    桑門慈延の作品にも見られる(第六節ア項参照)。

    さて、本作品全体の跋として作者桑門三余は、「後ヘニ

    賦シテ

    一絶ヲ一

    伸フ二

    老懐ヲ一

    」の題で一編の七言絶句を添えている。また、自身に関し

    ては「桑門三余」「禾水堂原三余(七十四歳)」「禾水老翁」などと

    記す。「桑門」という語を冠しているので僧侶であったのだろう。

    しかし、その他のことは良くわからない。

    オ、藤原良徳の言語遊戯

    藤原良徳の「奉納和歌」と題する作品にも冠歌の遊びが見える。

    各歌題の右肩に、その歌の頭の一字を置いて詠んでゆく手法は、前

    奉納和歌に見る言語遊戯

    一二

  • ウ項川井立斎他の場合と同じであるが、基になる歌は「ほのぼのと

    〜」の一首ではない。

    自序によれば、ある夜の夢で人麻呂大明神から一首の和歌を賜わ

    った、その夢想歌を一字ずつに分けて、人々に請い自らも詠んで、

    明石柿本神社に奉納するのだ、と言う。すなわち、夢想歌「しき�し

    まの和歌の浦人なれをしそあはれとはおもふとしの経ぬれは」を一

    首目に置き、二首目からは夢想歌初句の「き」(右傍点部)以降の

    各一字を和歌の頭に据えて計三十一首を詠むのである。また三十一

    首の他に、序の中に一首、三十一番歌に次いで一首、跋の中に一首

    と、合計三十四首が詠まれている。

    なお、序の中に「多枯の浦のそこさへにほふ藤なみをかさしてゆ

    かむみぬ人のため」の歌を引用し、御神詠つまり人麻呂歌であると

    言うが、この歌は「万葉集」では内蔵忌寸縄麻呂の歌とされる。

    本作品の初めと終わりの部分を引用しておく。

    奉納和歌

    人麿明神へ年��月��歌よみて奉りけるに多枯の浦の

    そこさへにほふ藤なみをかさしてゆかむみぬ人のためと

    いへる神詠にもとつき藤の題にて多この浦のそこさへに

    ほふそれならてあはれはかけよ屋との藤浪かくよみて此

    道に志の年は有る事を歎き告け奉ける夜の夢にまさしく

    も神慮より一首の歌を給ふと見るそのゝち又思ひはから

    すも頓阿の彫刻し尊像を得たり是によりかれによりて

    おもひめくらせは年月の感返ならんと仰けはいよ��高

    きおもひをなしぬよりて夢想の歌を一字つゝわかちて人

    ��にも請ひみつからもよみて播州あかしのみやゐに奉

    納し侍る其ことはりを誌す

    夢想歌

    ・し�きしまの和歌の浦人なれをしそあはれとはおもふとしの経ぬ

    れは

    き立春

    貞臣

    ・聞�つたふかせも和らく神垣のもとつ心の春やたつらむ

    し霞

    朝貞

    ・し�ら雪はやゝきえそめて山のはの霞やふかき色をみすらむ

    ま梅

    正直

    ・ま�かへみしあまきる雪の言の葉を仰くも高き春の梅かゝ

    の春月

    貞国

    ・の�とけしな雲はのこらす晴なから朧月夜の影そかすめる

    (中略)

    の夕

    定考

    ・の�こる日は山のそなたにかけろひて夕ゐる雲の立なひく空

    へ山旅

    良徳

    ・へ�たてゝは遠きさかひもあしもとに出たつ旅の道のうらやま

    ぬ滝

    良安

    ・布�引の名にもたかはてしら糸のすちもみたれす落る滝つせ

    奉納和歌に見る言語遊戯

    一三

  • れ山家水

    良徳

    ・れ�いすいの清きなかれも山ふかくむすふいほりの身のたつきな

    は祝

    良徳

    ・花�におほひ月にみかきて言の葉のつゆも色そふ春秋の空

    筆をひかへて

    ・すりくるはひろふかひある浦なみ

    にかくやもくつの身をもわすれて

    天明二年壬寅

    仲夏

    行年七十四歳

    前和歌所三条西亜相公福卿門人

    藤原良徳謹書之

    夢想の歌に汝をしそあはれとはおもふとあるに人

    ��の詠共かきはてゝ後おもひつゝくるまゝにかき

    そへて奉る

    ・神も猶あはれとやみるする玉に立ましりても波の藻くつを

    (中略)

    奉納主

    藤堂将監良徳

    敬白

    跋には「天明二年壬寅仲夏

    前和歌所三条西亜相公福卿門人

    年七十四歳

    藤原良徳謹書之」とか「奉納主

    藤堂将監良徳

    白」などとある。そこから、作者藤原良徳は藤堂氏の一族で近衛府

    将監だったことがわかる。また、本作品が天明二年(一七八二)、

    七十四歳の時の奉納で、若い頃には、歌道の家で知られる三条西家

    の公福に師事していたことも知られる。三条西公福は当時の著名な

    歌人であった。

    カ、冷泉為村の言語遊戯

    冷泉家十五代為村が、冷泉家中興の祖と謳われる著名な歌人であ

    ったことは第四節「住吉社奉納和歌の場合」でも述べた。彼が明石

    柿本社に奉納した和歌や文書類は四点になるが、その内の三点に言

    葉遊びが見える。各々について述べてみよう。

    1、為村十八首和歌(冷泉為村

    柿本尊像寄進状)

    明和七年(一七七〇)為村五十九歳の夏、月照寺僧孝道を通じ、

    頓阿法師作の人麻呂尊像を月照寺へ奉納した時の書状に、十八首の

    和歌が添えられている。この「為村十八首和歌」は冠歌に準ずる手

    法によって詠まれている。

    それは、十八首和歌の序に「歌�の�上�下�の�句�の�か�た�に�字�を�な�ら�へ�十

    八首となし」と言うごとく、各歌を上句と下句の二つに分けて、初

    句の頭と第三句の頭に、ある語句を据えて詠むのである。為村は、

    この時に「柿本の神像頓阿法師の作れるを月照寺に長く納む」とい

    う文を、次の三十六文字に置き換え、計十八首を成している。

    かきのもとのし�む�し�や�う�とむあほうしのつくれるをく�は�つ�せ�う�

    し�になかくおさむ

    なお、傍点部「しむ│

    しやう」は、呉音では「しむ│

    ざう」で神像

    奉納和歌に見る言語遊戯

    一四

  • のこと。「くはつ│

    せう│

    し」はグワツセウジ、すなわち月照寺のこ

    とである。次に、「為村十八首和歌」の最初と最後の数首を、各歌

    とも上句と下句の二つに分けて挙げておく。

    ・か�たえまつさきて春しる梅かゝや

    き�ゝの雪消のはしめなるらむ

    ・の�とかなる花のゆふはへくれそひて

    も�るかけ霞むはるの夜の月

    ・と�しことのやよひのまつりいくかへり

    の�とかなる世のはるをかさねむ

    ・し�けからぬ言葉の木かけこゝかしこ

    む�らくみえてさける卯花

    ・し�のひ音のころすきぬれは夏ふかき

    や�まほとゝきすをちかへりなく

    (中略)

    ・せ�けはなを涙そてこす思河

    う�き名なかさぬしからみもかな

    ・し�はしたゝとけしや契りありし夜に

    に�ぬつれなさのかたき紐

    ・な�にたかきひかりも代々にます鏡

    か�みのみかけをうつす神垣

    ・く�りかへし神のしめ縄なかゝれと

    お�もふこゝろにかくることの葉

    ・さ�ちあれとめくむもしるき神慮

    む�かふひかりそ道にあまねき

    ちなみに、この時に奉納された頓阿作の柿本人麻呂尊像と、尊像

    を安置するために為村が作らせた御厨子は、月照寺に現存してい

    る。

    2、冷泉家柿本神像法楽和歌

    右に述べた「為村十八首和歌(冷泉為村

    柿本尊像寄進状)」に

    関連あると思われる和歌が、月照寺に残っている。それは「冷泉家

    柿本神像法楽和歌」で、内題には左のごとく記す。

    明和七年四月十三日於冷泉家

    ママ

    柿本神象尊前法楽和歌

    十首

    詠者は、冷泉家の澄覚(為村の法名)・為泰・為章をはじめ九人

    で、澄覚が二首、他は一首の計十首を詠んでいる。最初と最後が澄

    覚の歌なので、澄覚すなわち為村の主催であったろう。

    前「為村十八首和歌」の序にも「柿�本�尊�像�頓阿法師作去年の冬より

    三度に三�座�おもはす感�得�す�る�事�あ�り�」と書かれているが、願が叶っ

    て得られた人麻呂像三座、その人麻呂尊像への御法楽がこの作品で

    ある。ここには「明和七年四月十三日」の日付があり、前の「為村

    十八首和歌」にも「明和七年夏」とあるので、内題に記すごとく、

    冷泉家で人麻呂尊像御法楽が催された後に、三座中の一座が、本

    「冷泉家柿本神像法楽和歌」とともに月照寺へ奉納されたものと考

    える。

    奉納和歌に見る言語遊戯

    一五

  • なお、本作品にも冠歌の言葉遊びが見られる。この十首は「浦

    霞」「見花」「郭公」以下の各歌題のもとに詠まれるが、この各歌題

    の右肩に、その歌をどの仮名で詠み出すかが記されている。その仮

    名、つまり十首の各頭をつなぐと「しむしやうのそむせむ(神像の

    尊前)」となる。

    左に全文を載せておく。筆跡は為村の自筆、つまり冷泉流書体で

    は書かれていない。

    明和七年四月十三日於冷泉家

    柿本神象尊前法楽和歌

    十首

    し浦霞

    澄覚

    冷泉入道前大納言

    ・し�まくの雪も消ぬらし朝日影あかしの沖にかすむうら波

    む見花

    源証

    自性院権僧正

    ・む�かしにもかはらぬよそめ雲ふかくさかりの花をみよしのゝ山

    し郭公

    祐之

    杉本相模守

    ・忍�ひかね山ほとゝきすすむ月のあかしの岡へあかすなくらし

    や野萩

    光昌

    竹内松月

    ・や�ちくさの花なるのへのにしきにも真萩ははなのたちもまされ

    う沖月

    為泰

    冷泉左衛門督

    ・う�ら波の名にたつ影はさやけしな明石の沖のあきの夜の月

    の雪深

    善行

    佐々木典膳

    ・の�きちかく松ふく風もうつもれてけさしろたへに雪そつもれる

    畝カ

    契恋

    蕙□

    三品仁兵衛

    ・袖�の露かけしちきりもけふよりはかはらぬ中とたのむゆく末

    む顕恋

    貞雄

    松永鴻之進

    ・む�は玉のよるの衣にしめしよりしられ初ぬる人のうつり香

    せ眺望

    為章

    冷泉少将

    ・せ�とかけてみるめはてなき明石潟浦なみは□(虫損)風もしつ

    けし

    む祝言

    澄覚

    ・む�かひあふく神影かしこみ三度えて千世もとこむる瑞籬のうち

    3、為村書写「柿本講式」中の三十一首

    (注�)

    明和七年(一七七〇)に、為村が書写させ奉納した「柿本講式」

    は、本文に続き月照寺僧孝道の跋文と為村の跋文がある。さらに、

    為村詠三十一首が付され、ここに言語遊戯が見られる。

    それは、為村が跋に「巻�軸�の�御�歌�をかしらにをき

    法楽の和歌三

    十一首」と言うごとく、冠歌の手法となっている。傍点部「巻軸の

    御歌」とは、「柿本講式」の人麻呂歌十二首中、

    さゝ浪やしかのおほよとよとむともむかしのひとに又あはめや

    という一首(「玉葉和歌集」に言う人麻呂歌)のことである。次に、

    為村詠三十一首和歌の最初と最後を少し引用してみよう。

    巻軸の御歌をかしらにをき

    法楽の和歌三十一首沙

    弥澄覚上

    奉納和歌に見る言語遊戯

    一六

  • ・さ�くはなはあまきる雪にまかひてもはるかせしるくにほふむめ

    かゝ

    ・さ�となれぬほともまかきにうつる音やはねならはしのえたのう

    くひす

    ・な�ひきあふかけより水のはるみえてこほりなかるゝきしの青柳

    ・み�ねとをきかすみのうちにいてぬらしのとけさそへてにほふ月

    かけ

    ・や�まふかくいらはいくもとふもとたに木々うちかすむみよし

    のゝ花

    (中略)

    ・あ�かしかたよするたまもはいにしへのひかりをいまにうつしつ

    たへて

    ・は�りま路やあかしにてらす玉かきのもとのひかりそ代々にくも

    らぬ

    ・め�くみしるあまのしわさのもしをくさあかしのなみをかけてく

    たさし

    ・や�くもたつみちのまもりによろつ世のさかへをこめてあふく神

    かき

    ・も�とありしためしつたふる一巻のむかしを神もくりかへさなむ

    欠字

    はりまのくにあかしの月照寺孝道によせて

    神前に奉納

    す志願は雑のうたにのふ

    明和七年冬

    なお月照寺には、本作品の載る「柿本講式」とは別の「柿本講

    式」がある。中に引かれる人麻呂歌十二首は、為村が書写させたも

    のと歌も配置順も同じである。しかし、〈本節エ項〉で論じた桑門

    三余の言語遊戯に見る人麻呂歌十二首とは、三首が異なっている。

    六、高津柿本社奉納和歌の場合

    別当真福寺を通じ、高津柿本社に奉納された和歌や文書は、明治

    初年の廃仏毀釈により、真福寺が廃寺になった時に神社側に移され

    た。現在は、高津柿本神社に九十点の和歌関係資料が残っている。

    その内の五点の奉納和歌に、左三名による言語遊戯が見られる。

    ・桑門慈延…一点

    ・越智盛之…二点

    ・冷泉為村…二点

    以下に、彼らの言葉遊びを用いた奉納和歌を紹介しよう。

    ア、桑門慈延の言語遊戯

    桑門慈延の作品は和綴本で、「奉納三百首和歌

    慈延」と書いた

    木箱に入れて保管されている。表紙には外題がなく、内題に「詠三

    百首和歌

    桑門慈延」とあるものの、跋はなく奉納年月も不詳であ

    る。内容は三部構成になっていて、それぞれ「古今集仮名題百首」

    「後撰集仮名題百首」「拾遺集仮名題百首」という題が付いている。

    合計三百首を詠んでいるが、各冒頭を二首ずつ見てみよう。

    ▼古今集仮名題百首

    奉納和歌に見る言語遊戯

    一七

  • 春�た�つ�け�ふ�の�

    ・雪のうちも春�た�つ�け�ふ�の�峯の松まつひとしほの色や見す覧

    と�く�る�氷�の�

    ・なかれてや四方にみつらむ谷陰にと�く�る�氷�の�末の深水

    ▼後撰集仮名題百首

    歳�も�こ�え�ぬ�る�

    ・春と吹す磨の浦風あくるよの関路霞て歳�も�こ�え�ぬ�る�

    霞�を�わ�け�て�

    ・暮ふかき霞�を�わ�け�て�山のはにほのめく影や春の三か月

    ▼拾遺集仮名題百首

    年�立�か�へ�る�

    ・花鳥の色音の外の春なれや年�立�か�へ�る�今朝の心は

    山�も�霞�み�て�

    ・春のたついつこはあれと九重の都は四方の山�も�霞�み�て�

    各々の仮名題は、「古今和歌集」「後撰和歌集」「拾遺和歌集」の

    古歌から、七文字句を借りたもので、それを自歌に折り込むという

    手法をとっている。右に引用した仮名題の本歌は、次のとおりであ

    る(『新編国歌大観』〈C

    D-ROM

    角川書店〉)。

    ▼古今和歌集

    紀貫之

    ・袖ひちてむすびし水のこほれるを春�立�つ�け�ふ�の�風やとくらむ

    源まさずみ

    ・谷風にと�く�る�こ�ほ�り�の�ひまごとにうちいづる浪や春のはつ花

    ▼後撰和歌集

    元平のみこのむすめ

    ・あらたまの年�も�こ�え�ぬ�る�松山の浪の心はいかがなるらむ

    よみ人しらず

    ・山高み霞�を�わ�け�て�ちる花を雪とやよその人は見るらん

    ▼拾遺和歌集

    素性法師

    ・あらたまの年�立�帰�る�朝よりまたるる物はうぐひすのこゑ

    壬生忠岑

    ・はるたつといふばかりにや三吉野の山�も�か�す�み�て�けさは見ゆら

    んこの慈延の手法は、前〈五節エ項〉で見た明石柿本社奉納和歌

    の、桑門三余の言語遊戯によく似ている。三余の場合は、人麻呂歌

    の各句を借りて五首を詠むというものであった。古歌の句をそのま

    ま引用して自歌を詠むという点は共通しているが、言葉遊びという

    面で見れば、慈延の方法に比べ三余の方が工夫を凝らしていると考

    える。

    なお、桑門慈延は、信濃国の出身で俗姓は塚田。京都に住む天台

    宗僧であったが、隠遁し冷泉為村の門弟となり、為村門下四天王と

    呼ばれた。

    イ、越智盛之の言語遊戯

    越智盛之(本理院競)は、津和野藩に仕えた藩臣である。辞職後

    の八十八歳時、高津柿本社へ奉納した「奉納和歌

    本理院競」に冠

    奉納和歌に見る言語遊戯

    一八

  • 歌の手法が見える。また盛之の没後、子之通によって奉納された

    「奉納和歌二百首」中に、盛之九十歳の詠百首があり、そこにも冠

    歌の手法によった和歌を確認することができる。

    1、奉納和歌(本理院競)

    この和歌作品は巻子で、木箱に入れて奉納された。箱蓋の表に

    「奉納和歌

    本理院競」と書かれている。跋文によれば、寛保元年

    (一七四一)八月、八十八歳の年にこれを成し、翌二年六月、八十

    九歳の時に奉納したものである。

    この巻子の中には、三編の自詠和歌、合計百首が見られる。そし

    て各編の初めに、題と、どのように詠むかの説明が施されている。

    それは、次のごとくである(①は第一編、②は第二編、③は第三

    編)。①岩�

    手�越�智�本�理�院�競�八�十�八�之�賀�和�歌�百�首�、と云真名字十七字を、

    仮名字二十八字にやはらけ、歌の上句毎一字つゝならへ、和歌

    二十八首をつゝりぬ。

    傍点部を「いわておちほむりいむきほふはちしうはちのか

    わかひやくしゆ」という文字に置き換え、それを各歌の頭

    に据えて二十八首の冠歌を詠む。

    ②石�見�之�国�高�角�戸�田�之�里�柿�本�正�一�位�大�明�神�奉�納�、と云真名字二十

    字を、仮名字三十六字にやはらけ、歌の上句の頭毎に一字つゝ

    ならへて、和歌三十六首をつゝりぬ。

    傍点部を「いわみのくにたかつのとたのさとかきのもとし

    やういちいたいめうしむほうのう」という文字に置き換

    え、それを各歌の頭に据えて三十六首の冠歌を詠む。

    ③恐れありと云へとも、愚老か出生の年号支幹月日、并誕生之人

    と云四つの文字を、真名字仮名字取更て、歌の上句の頭毎に一

    字つゝならへて二十四首を綴りぬ。

    承�応�三�年�甲�午�二�月�二�十�二�

    日�誕�生�之�人�

    傍点部を「せうをうさむねむ甲午にくわつにしうににち

    ひと

    誕生の人」という文字に置き換え、それを各歌の頭に据え

    て二十四首の冠歌を詠む。

    そして、第三例③(第三編)の和歌に続いて左のように記し、さ

    らに十二首を添える。

    ④右二十四首(筆者注=

    ③の二四首)を、序(同=

    ①の二八首)

    跋(同=

    ②の三六首)の和歌六十四首に加て、八�十�八�首�を�年�賀�

    の�数�として謝したてまつる。年賀によせて、十二ケ月の和歌に

    人を祝ひ身をも祝ひ、折に触れことによせつゝ、老の心はせを

    四季にわかちてつゝりぬ。

    右の説明の許、十二ケ月に各歌題を設けて十二首を詠む。

    各々の題と歌の頭の文字は、次のごとくである。

    なお、歌題の下〔

    〕内は、歌の最初の文字で、つなぐと

    「はちしうはちとしのいわい(八�十�八�歳�の�祝�)」となり、こ

    れも冠歌である。

    ・正月=立春〔は〕

    ・二月=

    桜〔ち〕

    ・三月=

    桃〔し〕

    奉納和歌に見る言語遊戯

    一九

  • ・四月=

    うの花〔う〕・五月=

    菖蒲〔は〕・六月=

    祓〔ち〕

    ・七月=

    七夕〔と〕

    ・八月=

    名月〔し〕・九月=

    きく酒〔の〕

    ・十月=

    神無月〔い〕・十一月=

    衾〔わ〕・十二月=

    歳暮〔い〕

    右の①②③が八十八首、④が十二首なので、合計百首を詠んだこ

    とになる。これが、「越智盛之(本理院競)奉納和歌」のあらまし

    である。大変に手の込んだ言語遊戯と言える。

    2、奉納和歌二百首(越智盛之・之通

    父子)

    越智盛之は、前和歌作品の二年後(寛保三年春)にも、九十歳の

    賀を冠歌の手法で詠んでいる。百首の詠であるが、この中に言葉遊

    びが見られる。それは、後鳥羽院の御製、

    桜さくとを山鳥のしたり尾のなか��し日もあかぬ色かな

    を、三十一文字の仮名に直し、各首の頭に据えて詠むというもので

    ある。それは、春七首・夏三首・秋七首・冬三首・恋四首・雑七首

    の三十一首。

    次いで、〈年中行事十二カ月の和歌〉として、正月から十二月ま

    での各月の歌の頭に、九十歳のこの年「寛保三癸亥(くわむほうさ

    むみづのとい)」を、十二の仮名文字に置き換え据えて冠歌十二首。

    右の冠歌計四十三首に、七首を添えて五十首。さらに、人麻呂千

    年忌の折、霊元法皇が高津柿本社に奉納した堂上方の「御法楽五十

    首和歌短冊」の歌題を借りながら五十首。つごう百首としている。

    この百首は十三年の後、盛之の没後に、子越智之通によって奉納

    された。之通は自らの百首を「堀河百首」の歌題を基にして詠み、

    父盛之の百首と共に巻子「奉納和歌二百首」としてまとめ、宝暦六

    年(一七五六)三月十八日に奉納している。

    ウ、冷泉為村の言語遊戯

    冷泉為村は、高津柿本社へ四点の和歌懐紙を奉納している。享保

    八年(一七二三)二月、人麻呂千年忌の折に霊元法皇の奉納した

    「五十首和歌短冊」中の、「紅葉」短冊が為村の最初の奉納短冊で、

    その時に彼は十二歳であったから、十三年後の奉納再開となる。

    ①「秋日詠百首和歌」…元文元年(一七三六)十一月奉納……25歳

    ②「柿本社奉納十五首和歌」…明和四年(一七六七)七月奉納…56歳

    ③「春日詠五十首和歌」…明和五年(一七六八)二月奉納……57歳

    ④「詠五首和歌」…年月不記〈安永二年(一七七三)奉納〉…62歳

    為村の言語遊戯に関しては、既に詳述しているので、ここでは簡

    単な紹介に止どめる。言葉遊びが見られる作品は、第二例②「柿本

    社奉納十五首和歌」と、第四例④「詠五首和歌」の二点である。

    1、柿本社奉納十五首和歌

    第二例②番和歌は、冒頭に「柿本社奉納十五首和歌毎哥首

    置一字

    民部卿

    藤原為村」とある。内題には「毎哥首置一字」と添えられているの

    で、冠歌の手法を用いていることがわかる。

    懐紙にしたためられた十五首の、各頭の文字をつなぐと、「いは

    みのくにしむふくしにおさむ(石見国真福寺に納む)」となる。為

    村は、このような意を込めて十五首を詠んだのである。

    奉納和歌に見る言語遊戯

    二〇

  • 冷泉為村は門弟を各地に有しているが、高津柿本社の別当真福寺

    僧良栄とも関係が深かったようだ。本「柿本社奉納十五首和歌」の

    跋には次のように記されていて、明和四年七月、僧良栄が為村に入

    門を乞い面謁していたことがわかる。

    明和四年七月十日、真�福�寺�良�栄�来入朝、幸時之故即吟清書。翌

    十一日、彼�僧�歌�道�入�門�面�謁�之次、附之捧幣代。

    そして、良栄の訪問を機に、彼を通じて本作品「柿本社奉納十五

    首和歌」を真福寺へ奉納したのである。

    2、詠五首和歌

    第四例④番和歌は、冒頭に「詠五首□□□□□□

    澄覚」と書かれて

    いる。虫損で正確にはわからないものの、内題「詠五首」の下に

    は、恐らく「和歌毎首置字」と記してある。つまり、前の「柿本社奉納

    十五首和歌」と同じ冠歌になっているのだ。

    各五首の頭に置いた文字を拾ってみると、「千いそとし」という

    語句になる。本作品の奉納年月日は不記であるが、「千いそとし」

    すなわち「千五十年」の語を折り込んでいることにより、柿本人麻

    呂千�五�十�年�忌の折の奉納、つまり、安永二年(一七七三)三月十八

    日の奉納であったことがわかる。

    冷泉為村は、人麻呂千五十年忌に際し、人麻呂への思いを込めつ

    つ詠じて、この和歌作品を別当真福寺を通じ奉納したのである。為

    村六十二歳の時のことで、死去前年のものである。

    近世期に、和歌三神四社へ奉納された百七十五点の和歌資料の中

    から、言語遊戯の施された作品十六点を見てきた。それ等は、次の

    とおりであった(氏名の下の数字は作品数)。

    ・玉津島社奉納…堺田通節1

    ・住吉社奉納…冷泉為村2

    ・明石柿本社奉納…岸部延1・秦正珍1・川井立斎他四人(杉本

    川名部光慶

    横谷恒幸)1・桑門三余1

    ・藤原良徳1・冷泉為村3

    ・高津柿本社奉納…桑門慈延1・越智盛之2・冷泉為村2

    玉津島社に奉納された堺田通節の木綿襷や、高津柿本社に奉納さ

    れた越智盛之の冠歌などは、大変に根気のいるものであったと推察

    される。だが、やはり言語遊戯を以ての奉納和歌は、各社に現存す

    る作品の数から見ても、折々の気持や事情を的確に表す言葉を用い

    たり、その場に適した和歌を用いたりする点から見ても、為村の得

    意とするところであったと認めざるを得ない。言語遊戯での奉納

    は、冷泉為村の独擅場に終始していると言えよう。ここにこそ、為

    村奉納和歌の特徴の一つがある。

    また、第三節で堺田通節の木綿襷を見た時に、京極為兼の「為兼

    卿卅一首沓冠并折句

    和歌

    」についても触れた。彼の作品は、沓冠・文字鎖

    ・木綿襷といった複雑な言語遊戯を駆使して切なる思いを綴り、神

    奉納和歌に見る言語遊戯

    二一

  • 仏に祈願し捧げられたものであった。同作品の跋によれば、この和

    歌によって彼は許され、上洛が叶ったのだという。為兼の例などか

    ら察するに、奉納和歌における言語遊戯は、単なる言葉の遊びでは

    ない。これ等の手法を用いた和歌は、普通に詠む場合に比べ、数倍

    の時間と機知と根気が必要となろう。

    このように、苦心し一所懸命に詠んだ和歌を神仏に謹み献上す

    る、そういった意図が奉納和歌における言語遊戯にはあった。この

    ことをも確認し考察を終える。

    注注1…和歌を守護する三柱の神のことで、和歌と関連ある神や秀れた歌人を

    挙げたもの。近世期、一般的には玉津島明神・住吉明神・柿本人麻呂を

    指す。ただし、玉津島明神・住吉明神・天満天神、柿本人麻呂・山部赤

    人・衣通姫とする説などもある。

    注2…和歌の奉納などは、明石柿本社と高津柿本社の場合、別当寺である月

    照寺と真福寺を通じて行われた。ところが、高津の真福寺は明治初年の

    廃仏毀釈により廃寺となり、その折に和歌関係資料のほとんどが高津柿

    本神社に移された。月照寺の場合は廃寺を免れたので、奉納された和歌

    資料や関連文書のほとんどが同寺に現存する。「明石柿本社(月照寺)三

    十七点」としたのは月照寺所蔵の意である。

    注3…三条西実隆の日記「実隆公記」(『続群書類従』〈同完成会〉)には、正

    月一日における自宅の恒例行事として、例えば、

    朝膳之後於柿�本�影�前�詠二首和歌矣(明応六年正月一日条)

    などと、人麻呂の肖像画の前で和歌の上達を願いつつ歌を詠んだ旨の記

    事がよく見られる。

    注4…近世期の歌人たちは、享保八年三月十八日を柿本人麻呂の千年忌であ

    ると考えていた。それに合わせ、霊元法皇の御意向のもと禁裏御所より、

    石見国高津と播磨国明石の両柿本社に祀られる柿本人麻呂に、〈正一位〉

    の神位と〈柿本大明神〉の神号を与える旨の宣旨が下された。高津柿本

    神社には〈正一位柿本大明神〉の「位記」「宣命」および命令を下達する

    「太政官符」が、明石柿本社別当月照寺には「女房奉書」が各々現存す

    る。さらに、この時に霊元法皇より「五十首和歌短冊」が両者に授けら

    れている。

    また、これ以降、古今伝授後御法楽和歌が高津と明石の両柿本社にも

    奉納されるようになる。

    注5…この語句には「え�のえ�を(榎の枝を)」と、「え」が二つ入っている。

    これは、奈良時代にはあったイエオ各段の甲乙の書き分けが、平安時代

    初頭頃に大部分は混同して一音になってゆく中、依然として存在したア

    行のエ(e│榎│)とヤ行のエ(ye│枝│)との書き分けを反映したも

    のである。

    つまり、「あめつちの詞」は平安時代の初期に作られたものと推察され

    る。ついでながら、両者の区別をしていない「いろは歌」は、平安時代

    中期頃の成立と考えらる。この「いろは歌」が一般化するまでは「あめ

    つちの詞」が手習詞として用いられた。

    注6…国文学研究資料館の公開している電子資料による。「為兼卿卅一首沓冠并折

    句和歌

    」(http://base

    1.nijl.ac.jp/iview/Fram

    e.jsp?DB_ID

    =G0003917K

    TM&C_

    CODE=0020−04312&

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    )│平成27年5月5日│

    注7…久保田啓一「堂上和歌の伝統と文化圏」(『日本の近世12

    文学と美術

    の成熟』中央公論社)による。

    よう

    注8…冷泉貴実子「冷泉家の筆道│定家様│」(『定家様』五島美術館)によ

    る。

    注9…柿本人麻呂の十二首を例に挙げて、和歌が人々に及ぼす功徳などを讃

    えたもの。平安末期の歌人俊恵法師の作とも、鎌倉初期の歌人藤原家隆

    の作ともいう。

    注10…この「柿本講式」は、冷泉為村が門弟の杉本祐之(御室御所諸大夫)

    奉納和歌に見る言語遊戯

    二二

  • に依頼し書写させた。杉本は「柿本講式」の本文から為村の跋文までを

    書写した。

    ││平成二十七年十月一日││

    なお、本稿は拙著『和歌三神奉納和歌の研究』(和泉書院)を基にまとめ

    て、加筆したものである。

    奉納和歌に見る言語遊戯

    二三