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私家版月刊誌「羔」(No.9)1933/7/21「羔」(No.9)──藤井先生三周年記念号──

1933年7月

小池辰雄

【目次】

ハレルヤ

詩篇(9) (自由訳)

第27篇

先生と私(其1)〔一般論〕    〔著作集第6巻『随想集』/第二部「偉大な野人」/三「藤井武先生と私」/(其一)「師弟論」に掲載)

噫 藤井武先生

書翰(3)

先生のうた

雁が音〔短詩〕(4)

実存の香り            〔著作集第8巻『詩歌集』/三、近親・師友篇/藤井武先生の片影/一、実存の香り〕

噫、7月14日!(預言者の片影) 〔著作集第8巻『詩歌集』/三、近親・師友篇/藤井武先生の片影/二、預言者の片影〕

9月10日の夕(壮烈なる夕景) 〔著作集第8巻『詩歌集』/四、即興詩集/壮烈なる夕影〕

生きざま

「教理史」

5月11日夕

ある舟(ある舟路)       〔著作集第8巻『詩歌集』/三、近親・師友篇/藤井武先生の片影/三、ある舟路〕

大きな心を

「樅の日記」(9)

シオンを目指して(2)

編輯後記

ハレルヤ

先生が去られてから正に三年。私はしむ。先生は怖 (こわ)かった、しかし先生は優 (やさ)しい人であった。信頼することと生きることとが数学的に等しかった先生にはただ信頼を以てぶつかってゆけばよかった。私が先生から学んだことは自分の失敗を以てであった。先生は口よりも筆よりも行いよりも存在を以て真理を愛し、福音を伝えられたのである。

「大なる患難より出できたり、羔 (こひつじ)の血に己が衣を洗いて白くしたる者」

なる先生の故に聖名を讃える。

詩篇(9) (自由訳)

原典 ルドルフ・キッテル編

第27篇

(1) ダビデに依る。

1  エホバはわが光、(また)わが救である、誰を私は憚 (はばか)ろう!

エホバはわがの力である、誰を私は懼 (おそ)れよう!

2(2) 悪しき者らがわが肉を喰わうとして私に近づいたとき、

わが仇わが敵が私に〔近づいたとき〕、彼らは躓き倒れた。

3(3) 縦 (たと)い私に向かって陣営が張られようとも、わが心は怖れまい。

縦い私に抗 (さから)って戦 (いくさ)が起こるとも、その中にあって私は信頼 (よりたの)む。

4(4) 一つのことをエホバに(私は)願うた。れを私は求める、

エホバの家にわが生命 (いのち)の日の限り(私の)宿らんことを。

エホバの慕わしきを観、その宮にて〔エホバを〕想わんがために。

5(5) 誠に彼はの日に私をその行宮 (かりいお)の中に隠し、

私をその幕屋の奥にませ、岩の上に(私を)昇らせ給う。

6(6) さて今やわがは揚げられよう私を廻 (めぐ)る(わが)仇の上に。

されば私は彼の幕屋で歓呼の供物 (そなえもの)を献げよう!

私は歌いまた讃め称えようエホバを!

7(7) お聴き下さいエホバよ、わが声を、私は呼ぶのです。

 (そして)お憐れみ下さい、お応え下さい。

8(8) 貴神 (あなた)にわが心は申しました「汝らわが顔を求めよ」〔と仰 (おっしゃ)るのですか〕と。

 聖顔 (みかお)を、エホバよ、私はたずねます。

9(9) 〔どうか〕聖顔を私から隠し給わぬように!

〔どうか〕聖憤 (みいかり)により貴神の僕を斥け給わぬように!

 わが助けは貴神でございました。

〔どうか〕私を去りまた棄て給わぬように、

 〔ああ〕わが救の神様!

10(10) 誠にわが父わが母は私をお見棄てになった、

 然るにエホバは私をえ給う。

11(11) お教え下さい、エホバよ、貴神の道を、

平らかな道の上をお導き下さい、わが敵の故に。

12(12) 私を迫害する者のに私をまかせ給わぬように。

虚偽 (いつわり)をする者、狂暴 (あらび)を息吹く者が私に向かって興 (おこ)り起 (た)っていますから。

13(13) 若しエホバの恩恵を生ける者の地で

 見ると信ぜしめられなかったとするならば!

14(14) 俟望 (まちのぞ)めエホバを、雄々しかれ、汝の心をからしめよ、

(而して)俟望めエホバを!

先生と私(其1)〔一般論〕

1933年7月21日夜

すべてを偶然と見るか、すべてを生ける必然と見るかは、ものの見方の大きな岐 (わか)れ目である。それは単に見方と云って済ませてしまうには余りに大きな問題である。人生観の「あれかこれか」である。神を信ずる者はすべてを偶然視することは出来ぬ、盲目的運命と観ずることは彼の採らざるところである。一羽の雀が飛び立つのも、一ひらの木の葉が舞い落ちるのも、彼には偶然ではない。そしてこの人生観に徹しきって生きた人は言うまでもなく神の子キリスト・イエスであった。

一つ一つに何か意識的に有神論を証明するような意義を附加せんとする如き人間的細工は要らない。そんな味つけの人生観が神を信ずる者の本当の観方ではない。多くのことをただあるがまま、起きるがままに観ればそれでよい。ただしかし、現実主義、自然主義と異なるところは、そのあるがまま、起きるがままの事実を直ちに、意味内容の如何は別として、神の側に於て、神を本 (もと)として観るところにある。意味内容はそのとき解るも解らぬもよい。後に解らぬともよい。人生に於けるどの一つの出来事をとってもそれの全内容をあらゆる角度から視てそれを把 (つか)むことは人間のなし得る業でもなければ、その必要をもみとめない。ただそれが測るべからざる偉大なる意志から発したことであり、そうである限り、偉大なる摂理と目的の何らかの一片鱗をなしているものであることを信じ得るかどうかが要 (かなめ)の点である。

藤井先生がどうして私を弟子の一人に有 (も)たれたか、私がどうして先生を特別の意味に於ける唯一人の師としていただくことになったか。想えば不思議であり、奇縁である。けれどもその生ける必然──こんな言があるかないか私は知らないが、私はかく言いたい──を熟々 (つらつら)考うるとき私はいよいよ神の実在を実感せざるを得ないのである。また益々 (ますます)恩恵の深さ、神の道の奇 (くす)しさを感得せざるを得ない。

私と云う視角から先生を通してキリスト及び神を見奉るとき、神様と云う方はどんなに大きなものをも惜しみなく与え給う方であるのをつくづく知らしめられる。それが一つの魂を救わんがためには! して見ると人間一個の魂の存亡、即ち一人の人が救われんためには如何なる犠牲をも神は惜しみ給うことのない方であることを知る。天の救命法は合理的打算的なこの世の周到なる救助法と全然趣きを異にする。そのことはキリストが既に言われた著しき言にも明らかである。迷える小羊や放蕩息子の話をかく解して思い半に過ぎるものがある。然り、キリスト御自身が正にそれであった。彼の死は神がその義なる「無限」をもって人間の罪なる「無」と交換なさったのだとも言い得る。「無限」と「無」との交換、義と罪との与奪、これ以上に非打算的な取りひきが存在し得るだろうか。「無」なる人間を「有」にせんがために神は「無限」なるキリストを人間に与えたもうたのである。神が無から有を創られるのは、無そのものを魔術的に有とすることではなくして、無に己れを与えたもうことである。神の自己分割によって無は有となる。無はいかに加算するとも無である如く、無価値なる人間がいかに無価値なる功績をつんでも同じく無価値なる我れであるのみか、ここには別な法則がはたらいて却ってマイナスとなるのである。しかも神御自身は無限でありたもう故に、その分割によって神は永遠でありたもう。否、義なる神の自己分割は愛のわざであり、愛は分たれることによって、いよいよその真価を発揮し、愛の本質を深くしてゆく。然り、分たれていよいよ増してゆくものはひとり神の愛のみである。

神の愛の対象の最たるものは人類である。(神の聖子及び聖霊に対する関係が愛によって成立っていることは、被造物たる人類に対する愛が発せられる源をなす神の本質のあらわれであって、キリストが神の対象であるということと人類が神の対象であるというのとは意味が異なる。)人類の各個人に対する関係は有機体的であるが故に、神の愛の対象の極点は個人であり、すなわちその魂である。

神はひとつの魂を救い給うや、必ずその魂をして他の魂を救わんがための手段に用いたもう。しかしながらここにあやまってならぬことは、神は手段として用いたもう、その魂を断じて非人格的にはとりあつかわぬことである。何となれば、神に救われたということは、神の愛──キリストの十字架の愛──を受けたということである。そのことは、その救われた魂が十字架の愛をもつ器となったことであって、神の人格(?)それ自身がその人に宿ったことを意味するからである。さればその本質に神の人格──聖霊──を受けた者が手段であるはずがないからである。ただその人を用いたもう神の方法が手段に見えるまでであって、本来はどこまでも神に用いられることそのことは、〔神の〕愛のあらわれとして生きていること自体であって、その外の何ものでもない。生きることは愛することであるからである。〔そこに福音的な身証があり、伝道がある。〕

〔私という視角から見れば、〕先生はかく私のために用いられた。あだかもキリストが人を使わんためでなく、人につかえんために来りたもうたところに重大な意義があるように〔勿論キリストと我々罪びととの関係は、師と弟子の関係に直ちに類比してはならない。キリストが、弟子の脚を洗ったのは、特に贖罪の秘義をあらわすものであったが、人間の師弟関係にこれをあてはめるわけにはゆかないこと勿論である。〕私のためにというが、決して私自身が目的であるためではない。そは私の魂を救わんことは神の愛の測り知れぬわざの一つであり、神が神にてあらんための一つのあらわれ、大目的への一指の動きであるがためである。

さてしかしここにまた重大なる注意を要するは、人は断じて人を救うことができぬという一事である。卒直に言うならば、私は先生によって救われたのではなく、先生は神にあって生き、そして死なれた。その先生の生きざま──たといそこに積極的伝道がなされようとも──が神の意志からは手段となり、神の本質からはどこまでも愛のあらわれとして私にはたらきかけたのである。かのパウロの言をもって言えば、先生は植えまた水をそそいでくださった。神様が聖霊によって私を育ててくださった。この聖霊が神から降されることなくして、どんなに先生が水をそそがれようともそはいたずらである。

先生にかくして水そそがれし五年間〔1925年~30年〕は貴き恩恵の年月であった〔藤井武全集、及び選集別巻「藤井武の面影」所載の拙稿「恩寵の跡」参照〕。しかし先生の〔神信頼の生活そのものと集会への〕愛は遂に死を得るまでに至った。死の外的事実的原因〔に〕は〔いろいろの因子があるが、それは〕ここに問うところではない。死が何であるかが問題である。

〔集会の一人一人がキリストに直結した信仰生活をするように執成しの役割を果たす意味において、師として聖書を講ずる人が、無教会の「先生」であり「師」であるが、その師の生きざまが福音的であればあるほど、そのような師の死は弟子にとっていよいよ重い意味と深い人格関係をもたらし、キリストにあって永遠的な質をもつものである。勿論、師弟関係も人間関係の一つである限り、それ自体として絶対的なものではあり得ない。神─キリスト─聖霊─我の関係を措いてほかに絶対的関係というものはない。我々は生涯を通していろいろな師をもつ。人格関係は比較してはならないことをここに一言しておく。しかし人生の至深の問題であるたましいの死生の問題において、特に指導を受けた師は、魂の恩師である。〕

〔「人その友のためにおのが生命を棄つる。これより大いなる愛はなし」(ヨハネ15・13)とキリストは言いたもうた。先生は特に私のために生命を棄てられたわけではないが、先生の生き方がもっていたあるものが、先生の死を通して迫る。それはキリストに在って生きていた師がその弟子に及ぼすあるものである。〕

言うまでもなきことであるが、死が愛であることを本当に知るならば、人の魂は創りかえられるのである。天の愛は人の魂を限りなく惜しむものである。限りなく惜しむと云う意味は、人の魂を永遠のものにせんとすること、人の魂を罪の状態より救わんとする意 (こころ)である。されば天の愛はそれ自体の中に義の意志を有つ。神自ら義たらんとする神の本質的衝動は発して人を義とせんとの心としてあらわれたのである。人を義とせんとする神の心は驚くべき愛──十字架──にあらわれた。此くの如きが天の愛であるが故に、神を信ずる、或いは義しく生きんとせし者の死は此くの如き愛を多かれ少なかれ意味するものである。

はてしも知れぬ遠き彼方より来る〔太陽の〕光を受けて、地の草に宿る小さな一つの水滴が光るように、神の〔光体たるキリストの〕愛を何らかの意味において具有する〔師の〕死を見て、〔師弟の関係は、ある決定的なものとなる。〕神の義と愛とに想到せざるならば、そは禍である。而もそを悟らず、キリストの十字架を信じ得ざることの多きを想うとき、今更ながら人の罪の大と救の厳粛と十字架の恩寵の深きに胸うたるるのである。

〔私は藤井先生という存在を、主にあって永遠に感謝する。私の主はキリストである。また真の意味での師もキリストのほかにない。けれども、人間相対関係における師として、ある特別な意味において恩師とよぶべき師は、私にとっては藤井先生である。日本人固有の節義感は、人間相対界における秩序として貴いものがある。〕

キリストが地を去りたもうて、聖霊が〔その弟子たちに〕臨み、真に弟子であり得、各々その使命を全うしたように、肉の眼や耳からは完全に断絶せる神キリストの実在の世界に、我々の魂が〔聖霊にあって〕座を据えるときに、〔どんなに現実が惨めでも〕初めて、〔何か〕本当の生活を営み得、真理より真理へ、信頼より信頼へ、希望より希望へと進み得る。〔という意味においての師は勿論、主イエス・キリストである。このことは昔も今も同じである。使徒たちも私たちも同じことである。〕

測り難きは神の義とその愛の道である。底知れぬは人の罪である。罪を知りし者は、キリストの十字架の外に、人間の道などいうものはないことを知るばかりであろう。〔キリストの十字架の恩恵と来世の希望を、身を以て指示してくださった恩師の生と死であった。〕 宣 (うべ)なる哉! 預言者の声! 曰く、

「神のおのれを愛する者のために備え給いし事は、眼いまだ見ず、耳いまだ聞かず、人の心いまだ思わざりし所なり」(イザヤ64・4)

使徒の告白! 曰く、

「イエス・キリスト及びその十字架に釘 (つ)けられ給いし事のほかは、汝らの中にありて何をも知るまじと心に定めたればなり。」(コリント前2・2)

〔最後に一言したいことは、

「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ。」

というこころが、やはり内村先生のこころでもあったし、わが藤井先生の心でもあったということである。弟子を信愛して弟子をもたず。

「たとひ法然聖人にすかされまひらせて」

も師を敬慕して師をかつがず。ここにわれらの師弟道がある。]

〔付言〕

先生が去られてから玆に三年! 去る7月14日の新町に於けるお集まりに参列することの出来なかったのは誠に残念であった。私は呪われた者であるかの如く感ぜられた。ベートーヴェンの言を藉りて言うならば、私は「運命のを攫 (つか)んで」やるべくあった。新宿にあって新町を思い、バビロンに囚われたユダヤ人の嘆きを感じた。天の先生、集会の人々に済まない申訳なしと思う心は消えなかった。私が教会人にも非ず、無教会人にも非ざるように行動したか否かは神知り給う。たとい正しかるともなお私は祈り求めるの外ない。魂が悪と戦うところにはしかし生命が、力が上から来ていた。感謝。

“All is best, though we oft daubt

What the unsearchable dispose

Of highest wisdom brings about,

And ever best found in the close.”

         ── Milton : Samson Agonistes.

「すべては最善である。

   縦 (たと)い我らときには疑うことあるも、

 至高 (いとたか)き智慧の

   測り難き処置の成りゆきを。

 而も常に事のてには

   そのりしを知る。」

          ──ミルトン、「闘士サムソン」より

〔文庫編者註:この「先生と私」の文章は著作集第6巻『随想集』/第二部「偉大な野人」/三「藤井武先生と私」/(其一)「師弟論」として載せられている。その「はしがき」には、

「ここに載せる文章は今を去る27年前、1933年7月及び8月に、『羔』誌第9号と第10号に書いた旧稿そのままである。ただ仮名づかいだけを変え、紙面の関係上、適宜カットしたところがあるだけである。〔 〕内はこのたびの補足。『羔』誌というのは全く私的なもので、原稿用紙に書いたままのもので、誰に見せるというものでもなかったから、未発表のものである。」

とある。

噫 藤井武先生

7月16日告別式にて述べしところに従いて

小池辰雄

藤井武先生著月刊誌『旧約と新約』122終刊号(1830年8月)より。

〔参照〕「藤井武君の面影」拙論「恩寵の跡」(集会、学廬、散歩)

〔文庫編者註:「恩寵の跡」は著作集第9巻『感想と紀行』/第五章 人物回想/「二、恩寵の跡」に収録されている〕

「先の二つの禍害 (わざわい)に増す

 第三の禍害。地に住むものら

 哀哭 (かなしみ)歯噛 (はがみ)することあろう。」

先生のペンはここに落ちた、先生のうたは玆に絶えた!

此の春、我々は内村先生を失いました、今また藤井先生を。預言者に言ありて申します、

「しき者仆 (たお)るれども心にとむる人はなく、

愛 (いつく)しみ深き人々去りゆけど悟る者なし

義しき者の悪しき者の前より取り去らるるを。

平安 (やすら)けくゆけ! そのふしどにやすめかし、

義しくおのが道を歩みし人々!」(イザヤ)

嗚呼恩師藤井先生! 先生は忽然として逝かれました。

私に如何なる日があってものが言えるのでございますか、けれども、神様、申さねばなりませんのならば私の唇を火を以てお焙 (や)き下さい。

7月14日、一昨日の午後、こもる轟雷、むせぶ驟雨を私は

「聞きて聞けども悟らず、見て見れども認めません」

でした。雨後のきよらかなる大空を道に、先生は聖国 (みくに)に帰られたのでございました。さりとは存ぜず夕に至るもなお帰らざりし私は禍 (わざわい)なりし哉!

「牛はその主を知り驢馬はそのあるじの厩 (うまや)をしります」

然るに私は先生の病患を忘れたのであるか、

「鳩は夕にノアの許に還りました、其口には橄欖 (かんらん)の若葉がありました」

然るに私は一杯の水をも齎 (もたら)さなかったのか。ようやく新町に参じましたのはその日も終りに近かりし頃、お目にかかったのは無言の先生! 私は何ともわからぬ思いで一杯になりました。

しかしながら、混沌たる私の前に在 (い)ます先生は! その厳粛にして平安に満ちたる御顔、その瞑目仰臥の御姿! 死はそこにありますか、決して然らず!

「死よ、なんじのは何処 (いずこ)にかある!

陰府 (よみ)よ、なんじの煩 (わずらい)は何処にかある!」(ホゼヤ)

先生は凱旋されたのであります、死は勝に呑まれたのであります、大いなるが先生をシオンの山に映したのでございます。承れば先生の此の世を辞し給うや正に大風に乗りて天に昇れるエリヤの慨を偲 (しの)ばしむるものがございました由。曾 (かつ)て先生はその誌上に書いて申されました、

「今よりのち私は鷲の如く翼を張りて昇るであろう。世を去るの日来らば、恐らく雀躍しつつ去るであろう、友よ、私が召されしを聞くときは願わくは私のために悲しむことなかれ。歌いつつシオン城門の中に姿を没しゆく巡礼客を送るごとき晴れやかなる歓呼を以て私を送れ。」

本当に先生はその如く生き、その如く逝かれました。またかくも倐忽 (しゅくこつ)として立ち去られました先生を思いますとき、

「エノク神と偕に歩みしが神かれを取り給いければ居らずなりき」

と云う無雑作な簡単な、しかし静けく深き言が心に泌みて参ります。何と藤井先生らしき永遠の門出ではございませんか。野路ならば曙の星と輝く導者が、舟路ならば水面 (みなも)をも歩 (か)ち渡る案内者がまのあたりこの旅人を待って居られましたろう。

ああ「受けしところの苦難によりて従順を学び」、黙 (もだ)しつつ往かれし先生! 誰か先生の受けられし杯の苦さ辛さを知りましょう、言わんとして言い難かりし祈りの心を知りましょう、その終焉 (おわり)の御 (おん)眼差 (まなざし)の的 (まと)への愛を知りましょう! 

その翌朝未明に先生のお好きな、否、先生にとっては「生命の領土であり、存在の延長である」ところの丘陵に出ました、朝霧が立ちこめて前方の田畠は見えわかず、ただ斜面のみ浮き出ている様は天国の黎明ででもあるかの如く美わしくありました、しかしまた松の下露が本当に松が泣いている如く降るのでありました。「先生は召されたのか!」初めて識ったもののように私は口の中で。しかし外と同じく私の内も烟霧に鎖されていました。無理やりに、「神様!」と叫びました。神様は無限の沈黙でありました。さまざまの想念 (おもい)が言辞 (ことば)もなく次序 (ついで)もなく湧くようでありました。旋風に空 (か)ら舞う枯葉の方がそれより意味がありました。けれども立ち帰って静かになりましたとき、私の胸の泉が湧き出て囁きました、「本当にあの神一切の人生だ!」と。

先生がヨブに就いて曾 (かつ)て書かれし一節 (くだ)りに次の如きがございます、

「ここにひとりの人が自己充実のためでなく、却って自己献供のために苦しみ抜いたのである。自己に何の求むる所もなくただ神を神自身の故に信じ切らんがために、涙と血とを流したのである。『我が望みは消えゆくとも、主よ、みこころ成させたまえ』と祈り得んがために、曾て人の口より出でし最も深刻なる呻吟の声を発したのである。」

本当に此く深く強く静かに歩んだのは先生自身でありました。先生には一切は真剣に神に対することでありました、然り、神の現前でのことでございました。神を義とすることキリストに在る義、神命に対する従順、天父への絶対信頼、これこそは先生の骨の骨、髄の髄でありました。

されば豊かさのある厳粛は先生の品格でございました。かの円満と謂われる人々は先生の夢にも友となし得ざるところでありました。十字架ゆえの赦されたるたるは、先生の永遠の自覚でありました。神の義を慕い求むる心は、この世の滑 (なめ)らかなるもの円 (まろ)きものとは水火の如く相容れなかったのであります。

然らばあの冬枯の樹の如き風格の先生は冷かでありましたか、決して然らず! あつき熱いものがその中に宿って居りました。花ならばいさ知らず、これは冬枯の樹であります。美わしさはにはありません。しかし義の枝を隈 (くま)なく環 (めぐ)る生命 (いのち)、このあつき生命は何でありますか、愛! これはなまやさしい暖かみではなく、静けく燃ゆる熱であり、地の愛ではなく天の愛でございます、さればこの愛は先生に幸福を齎 (もたら)せし友ではなく、十字架を荷 (にな)わせたる天使であります。

「不義を喜ばずして、真理の喜ぶところを喜び、凡そ事忍びおおよそ事信じ、凡そ事望みおおよそ事耐うる」

愛、先生のこの愛を知る人々は知りましょう。大に小に隠れたるうちにどれほど自ら苦きを採って我らに甘きを与えられたことでありましょう、而もそを知らざりしこと幾度でありましたろう。しかしまた先生は辛 (から)いものを下さいました。その時はその本当の甘さを識ること如何に稀でありましたろう。先生に嘆きと祈りを積んだものは誰でありますか、憂いの弟子私でございます。羔 (こひつじ)の怒の何であり、羔の愛の何であるかは先生の歩みから学んだのでございます。

「われらの愆 (とが)のために傷つけられ、われらの不義のために砕かれ、自ら懲罰 (こらしめ)をうけてわれらに平安 (やすき)を与えし」

牧人 (まきびと)の愛をどの羊が今感じて居ないでしょうか。自らの痛苦 (いたみ)を黙 (もだ)して、共に喜ぶ人の心は既に血潮でありました。己れを

「遣わし給える者のを行い、その御業 (みわざ)を為し遂ぐる」

が文字通りに先生の食物でありました。「百合のように白い」ゼカリヤ書後半を読まれて先生の心臓は曾てこう書きました、

「傷つく心がある。愛しながら棄てられたる心である。折るまじき杖をさえ折らしめられたる心である。拒まれ、踏みつけられ、刺されて、血まみれのままひとり痛む。

 悔い泣く心がある。おのが影の黒さを見いだしたる心である。拒みしは我、踏みつけしは我とさとりし心である。之をさとりて、石に抛 (なげう)たれし陶器 (すえもの)のごとく砕け、おのれを悉く彼に引き渡そうとする。

 斯くのごとき世界にこそ真実の生活はあるのである。心より心への呼びかけである。たましひに対するたましひの反響である。涙に対する涙である。従順にむくゆる従順、死に応ずる死、之を約言すれば、罪なき者の柔和に答うる罪人の柔和である。」

アーメン、私はただ上を仰ぎます、神様、み許しのもとに更にものを言わせて下さい。

この愛の先生の存在に独特のものがありました、それは何でございましたろう。そのこころは真実、そのかおりは純潔、ああ今の世に此くの如き人格が存在したことは神の奇蹟ではございませんでしたか。先生の月刊誌、しかし雑誌の範疇にも入りませんあの『旧約と新約』は一体何でありますか。それは真実と純潔の結晶ではありませんか、盛られたる真理の生きている所以は正に玆 (ここ)に在るのではありませんか。先生の厭 (いと)われたるものにして虚偽 (いつわり)の如きはありませんでした、その愛犬すら、畜生の族 (やから)すら、いつわりの衝動を認められたときは、先生の尋常 (ただ)ならぬお叱りを蒙 (こうむ)ったと申します。また凡そ不純なるものごとが先生の耳目に触れたときほど先生の心をピリッとさせたことはなかったと思います、先生のきよさを貴ばれるまことに常人の想念を越ゆるものがございました。先生の福音に於ては義と愛とが重かったのか、真と純とがすべてであったのか、知る人はあることに首肯 (うなず)きましょう。

「みむねならばわが凡てをさえ

  捨てしめよ。はかぎりなく

  なんじの家にわしくあれば。」

先生が静かに、

「冬の晨未だ陽の昇らない頃の薄明の空にうき出ているある富士のきよらかさ!」

と申されたのは、つい此の間黙示録研究の終りに近き頃「透き徹る碧玉の如き」新しきエルサレムに譬えられたときのでございました。

かのカントの道徳哲学に限りなき然りを応えられたのも純粋を熱愛する先生の心が反響すべきものを見出されたからでありました、

「ただ透きとおる水晶も羞 (は)づる

  真実 (まこと)はすぎし空の

  満月のごとくおおどかに照る。」

ああ先生の純真を貴びこれを慕う心を何になぞらえん。

しかしながら、真実と云い純潔と云い、特に言わるべき時のほか先生の口にはのぼりませんでした。先生にとっては真理を生活から離して云々するはしき戯れに過ぎませんでした。然り、先生は真理の存在的証人 (あかしびと)でありました。けれども先生は純真を以て何ものかとなさんとする道徳家からは一番遠くありました。キリストの十字架の何たるかを涙と血とを以て具 (つぶさ)に知らしめたる先生に、そんな考えは陰府 (よみ)の真理であったに相違ありません。説明は要りません、道理にこそ生命 (いのち)の真理は宿りましょう、先生にぶつかって真と云うもの純と云うものを観た人は観たのであります。

嗚呼武蔵野の預言者、詩人、然り、本当の人間がいなくなった。一切の言がここにもの足りない。すべての思いがわれとわが身を咬もうとする。けれども静かに念えわが魂よ! 先生のいのりは何であったか、先生の望みは孰 (いず)れにあったか。人にあったか、この世に就いてか。その眼 (まなこ)の的 (まと)は何処 (いずこ)、その魂の住家は何処、暫しの幕屋か、見ゆる世界か、決して然らず!

「私の家はいずこと問うか

  かの照りはゆる昴宿のうえ

  諸天のうえのいと高きところ」

来世、新しきシオン、かの岸高き国こそは先生の本国、故里でありました。

神の聖業の成る日をねがうそのいのり、「羔の婚姻」の大いなる日をのぞむその魂! ああ曾て斯かる大いなる深き心を以て呼吸し通した人がヨハネ以来地上に幾人ありましたろう。生活原理、然り存在自体が先生に於ては来世希望でございました。身を以て真理の故にのみ説きたる真理、深きと嗟嘆 (なげき)のほか抱き得ざりし祖国への愛、宇宙に存在し歴史に出現する凡そ真理なることを喜ぶ気魂、花鳥草虫の小さきものをその眼底に親しく宿さずには居られなかった心情、如何なる些事に対しても真実なりしあの慎 (つつ)ましき態度、それら一切は誠にこの来世のいのり、いのりに源泉をおいていたのでありました。ああ先生の来世信仰、これより硬きものが何処にありましょう。

先生の多難なりしこの一年を通して我々は黙示録を始 (アルパ)より終 (オメガ)まで学びました。然るに「羔の婚姻」の下篇は途絶えました。凡百の詩人の如く歌わんために生きたのではなく、生くることが正 (まさ)しく詩であった先生の詩は破れた! 苦難の詩人ダンテの琴の緒は断 (き)れたろうか、失明の詩人ミルトンの玉の緒は途に絶えたか。然るにわが真理の詩人藤井武の讃歌 (うた)は! ああ是れ何事ぞ! さもあらばあれ、ナザレのイエスはその生命 (いのち)を全うされたろうか。アナトテの預言者の生涯はどんなものであったか。而して武蔵野の一人の人の子は! 余りに深き十字架の心! 義憤を盛られた柔和なる心、審判と恩恵とを祈らねばならぬ魂、寂しみの中に豊かさがあり、純情の陰に深刻を宿し、悲哀の底に歓喜を蔵し、矛盾の奥に調和を見出し、和らがんとして戦い、愛せんとして怒らざるを得ざりし此の涙の人は去りました、祈りの人は往きました。

「エホバよ、汝の目は真実 (まこと)を顧みるにあらずや!」(エレミヤ)

真実もて真理に生きし先生の生涯が十字架に終始いたしましたのは、神の親しく給いしところ、また何をか虚しきこの世の哀悼を為し得ましょう。

「おお何と見事な失敗の記録よ、なんじエレミヤの生涯は!」

水茎の跡新たなるこの一言はそのまま先生のものとなりました。「敗北の勝利!」破れたる完成! これが「新しき歌」の詩人の戦の跡でありました。ああかの雄大深刻なるれにし詩篇の心臓の如き「来 (きた)りたまえ」の一篇よ! 私は泣くアーメンをもて。

日本の若き預言者、東洋の詩人、世界の一人者の死! たとえこの夢の如き事実に対して限りなく不可解の雲が湧き立ちましょうとも、我々は眼 (まなこ)を上にそそぐことを忘れますまい。本当に先生の地上の生涯は神がかくあれ!とのぞみ給いし如くあった!のではありませんか。聖手によりてただ独り坐し、命ぜられるところを言いまた書き、なせと言われるところに順いてなし、神の悦びの故にのみ悦ぶことを知り絶対の信頼に生き抜いた人、十字架の故に死し聖言 (みことば)の故に希望 (のぞみ)を抱きていのちせし人が先生でありました以上、我々もまた銘々がそれぞれの道に於て真実に神に頼りて主に在りてと祈ろうではありませんか。本当にこの世に死して、腰を別の世界に据えて生きようではありませんか。わが魂よ、戦 (おのの)きて黙せ!

「ああ秋の野の野草にやどる

  白露のごとく今この山に

  数えつくせぬ顔また顔の

  ………………………  」

人の世の涙ののために深く嘆き、聖力 (みちから)の救拯 (すくい)の故に高くうたいし先生、然り、先生をしてあの如く歩ましめ、その如く詠わしめたる神、誠に一切を、神様、あなたの故に憶えさせて下さい。栄光をあなたに帰しまつり、更に聖名を讃えることが出来ますように!

み許にある先生の上に平安あらんことを。新たなる渇きの天の方々と地の御遺族に癒されん日の聖旨 (みむね)の如く来らんことを。神様、おあわれみ下さい。

「その若き日に胸に咲 (さき)いでし

  神の聖子への初の愛は

  凋 (しぼ)むを知らぬアマラントであった。

 吹きまく嵐、つんざく炎に

  小 (さ)ゆるぎもせず天そそりたつ

  櫓 (やぐら)のごとくにぞ彼は立った。」

アーメン、神様、忠実なる僕 (しもべ)の故に心から聖名を讃えさせて下さい、ハレルヤ!

書翰(3)先生のうた

・おほいなるみあしの跡をわれ見たり六千年の巻物のうへに

──1925年2月

・地のはてより歌をこよいもわれらきくいはくは義しきものにと

──1925年2月

・のみことばふくみ繰りかへし帰みちをあゆむ夕ひと時

──1927年6月

・忘れたり君のみわざはみな美しと忘れてまたもうらみにわぶる

──1927年6月

・わが足はすべりぬわれはまろび落ちぬ落ちてし見ればなほ聖手にあり

──1927年7月

・空と森と見さかひもなき野のくまに木のごとく立ち聖名をし呼ばう

──1927年7月

・まどかなる虹はたちたり武蔵野の森よりおこり森にくだりて

──1927年8月

・冬に秋に幾秋夜々に祈りしかつひに聴かるる今日をのぞみて

──1927年8月

・見いでたる真理ひとつに胸はみち誰にか頒たむただ卓をめぐる

──1927年8月

書翰(其5)

又も御病気のよし心を痛めざるを得ません。しかし相次いで襲い来る試練の中に一すじの信頼をつづけられるるは何よりも喜ばしき事であります。彼国にある兄君も感謝して居らるるでしょう。すべては必ず働きて益をなすに相違ありません。人生の大浪をくぐりつつ何処までも彼をあおぎつつ進みたくあります。御健康のためにも祈ります。御母上様によろしく。

  1926年1月27日。此の書翰は僕が高校三年の三学期、水戸に帰ることが出来ず、東京にインフルエンザで病床を守っていたとき、藤井先生からいただいたもの。先生から御返信(ハガキ)をいただいて驚き且つ感謝した。爾来先生のお祈りとして。僕は全く卒業如何の思い煩いから自由になっていた。神様は斯かるとき救って下さった。

書翰(其6)

Harnackをあのようにして戴いたのでは済みません。しかしかくも純なる御申出をどうして拒むことができましょうか。お手紙のとおり「何も言わずに」無条件で、ただ感謝のみを以てお受けいたします。ほんとうに有難う。

     6月20日

                                武

 小池君

  1929年6月20日。大学を卒業した年の初夏、先生がHarnackのDogmengeschichte(ハルナックの「教理史」)を求めて居られるのを知り、前年の7月14日に南江堂で購求したものを先生に贈ったのに対して手紙を以て衷心からかく謝意を述べて下さった。私は涙が出るほど有難かった。私が純を慕わんためにこの手紙は言い知れぬ一つの祈りである。

雁が音〔短詩〕(4)

(其10)実存の香り  〔著作集第8巻『詩歌集』/三、近親・師友篇/藤井武先生の片影〕

(其11)噫、7月14日! 〔著作集第8巻『詩歌集』/三、近親・師友篇/藤井武先生の片影〕

(其12)9月10日の夕  〔著作集第8巻『詩歌集』/四、即興詩集/壮烈なる夕影〕

(其13)生きざま

(其14)「教理史」

(其15)5月11日夕

(其16)ある舟〔著作集第8巻『詩歌集』/三、近親・師友篇/藤井武先生の片影/三、ある舟路〕

残樅

〔文庫編者註〕「実存の香り」、「噫、7月14日!」(預言者の片影)、「9月10日の夕」(壮烈なる夕影)、「ある舟」(ある舟路)は著作集第8巻『詩歌集』に収録されているが、収録に際し多くは改題され、詩文語句もところどころ直されている。本篇ではその修正前のものを載せたが、その『羔』誌原稿上においてもなお著者による修正の跡がみえるので、その修正後のものを採用した。なお、旧仮名遣い等は現代風に改め、また難解な漢字については、著者によるルビのほかに、その訓みのルビを編者により適宜付し補った。

(其10)

実存の香り

1930年7月31日作

ここ武蔵野の新町の丘を

 聖旨ゆえにピスガの巓 (いただ)きとし

 すべてを聖手にゆだねまつりて、

夏の真中の輝く日なか

 雷霆 (いかずち)白雨 (むらさめ)過ぎしあとの

 清らかなる大空を道に、

雄々しくく戦士 (ますらお)が

 天翔 (あまか)けり昇りたまいてより

 二週 (ふたまわり)の日はうつろにすぎた

日はを孕 (はら)み、夜は日を生んで

 現 (うつつ)ともなくいたずらにゆく

 時をながむるわが夢 (ゆめ)心を

破る! 悲しみは新た、

 わがはうなだれて

 木の葉美しいに。

ああわが恩師去りませり

 かの慕わしきみ姿言の葉は

 はや地にて見また聞くよしもない。

されど受けし実存の香りと

 『旧約と新約』にあふるる真理は

 わが日の果つるまで力となろう。

(其11)

噫、7月14日!(預言者の片影)

1931年7月14日、藤井先生一周年記念日に新町の集会にて感話のかわりに。(同日払暁の前後、一気呵成に書く)

真白き帆影空に漂い

 滴る緑葉幕屋を地に張り

 よろずのものの輝く真夏、

新町の里に一人の人が

 ためらうことなき夕陽の如く

 その雄々しき姿をかき消した。

語らず言わず叫ぶことなく

 ただただ悲壮なる目指 (まなざし)に 言い知れぬ愛を地には残して。その日その夕は廻り来たり 還り来まさざるはその人である。

 時の車よ、などて彼をも運ばざる!

子であり、父であり、兄弟であり、

 友であり、われらには恩師たる

 人らしき人は帰り来らざるか。ああ今は亡きか藤井先生!

 いかでかく速 (すみや)かに去り給いしよ、

 はやが過ぎゆきしとは。

人よ、われらを愛せし人。

 そのなつかしき忘れな草の

 栞 (しおり)の一ひらを思わしめよ。

ある秋のうららかなる一日 (ひとひ)        (1927年11月3日のこと)

 師を囲みて数なき我ら

 三浦半島を歩き暮した。

一包みの弁当箱をステッキに

 結びつけてやおら肩にかき

 おのれも必ず荷を負うべしと弟子らに一歩も譲らざる心、

 眼 (まなこ)を遠く海と空とに 指し向けて悠々と歩む姿、今もなおわがまなかいにあり。

 日は靉靆 (あいたい)たる雲にかくれて

 我らの歩みは未だ尽きない。歩み終りて半島の端 (はし)に

 到りつけば半月は東に。

 やがて三崎の岸頭に立つ。名にし負う城ヶ島の燈台の

 光の明滅も夢かうつつか。

 空ゆく雲は月華にえて白鳥の飛び渡るが如くにて

 時しも天心にかかれる星座 (ほし)

 白鳥 (シグヌス)と奇しき冥合を示した。やがてわれらのの渇 (かわ)きを

 察し給える新町の牧人 (まきびと)は

 大いなる銀塊をとりいだし給う。これ、さきに求められしもの、 そのありの果 (み)の味はいは

 ネクタールにも劣らなかった。

夕空に流れいでし声あり 師のより湧きたつしらべ!

 「清き岸辺に」の讃歌なりし。声に応 (こた)えて吾らも歌い、

 うたい終りていくばくもなく 師は心をこめて祈り給えり。その祈り今もわが胸に余韻をのこす。

 城ヶ島岸辺の波よ風よ忘るな、

 我ら生きて祈りに応えん。真鶴、連光寺、溝ノロの

 つづく三つの散歩の想い出

 いずれ深からざるものやある。かかる恩恵の露をして

 いたずらに涙の素 (もと)とはせず

 新たなる希望 (のぞみ)の油となさん。

さはれああ! 去りぬる年のこの夕!

 われらの師の逝きにしことは

 げに悲しみの極みにぞある。

闇よ、誰がために面 (おもて)を掩うか、

 雨よ、いかなればかくぞ降 (ふ)る。

 言よ、助けを何に求めん。

過ぎにし夏の光にかえて

 何たる暗き空の面貌、

 私は知らない悲しみの極 (はて)を。

さはれ想え! 聖旨故に

 己れを棄てて真理に生きた

 この死こそは愛の極みなり。

悲しみをかえて力となすは

 この愛への業 (わざ)なりと聖書は

 告げるキリストの十字架により。

ある時私も道のべに

 「世に死するの道」とうしるべを

 見て「可 (よ)し」と応えしことがある。

ああ忘れ得ぬ新町五年! 

 わが師に事 (つか)うる所以のものは

 涙にあらず言にもあらず、

この死の道を聖霊により

 いつかは折らるべき杖を執 (と)り

 聖言の灯火をたよりに

森を経て谷間を辿り

 川を渡りてかなたの岸の

 戦 (いくさ)のなる曠野に出でて、

幾年か神様の呼び給う日まで

 愛の戦を戦いぬきて

 曠野の死を死なんのみ。

(其12)

9月10日の夕(壮烈なる夕景)

1929年9月11日作

烈風豪雨荒れ狂いし後、

 斜光雲罅 (か)を貫きて

壮烈の気夕空を圧せし時、

 われは見つ、

人生の苦闘を戦い終えし人の 義の勝利に輝く顔を。

聖名のため、真理のため、義挙のため、 生命 (いのち)捧げし人の血潮を。

而してああかの

 十字架上の雄叫びの聖姿を。敗残の魔雲をしつつ

 真紅の陽は没し終んぬ。

(其13)

生きざま

1929年9月9日作

汝、あやまつとも、

   わが心! 誠なれよ。

汝、ただしかるとも、

   わが魂! 神に祈れよ。

人そしるとも、

   そは空しき響 (ひび)きたるのみ。

人誉むるとも、

   何の関わりかわれにあらん。

ただ十字架を仰ぎ瞻 (み)て、

   神の信頼に信頼 (よりたの)む。

(其14)

「教理史」

1929年6月16日作

「教理史」がサヨーナラと云った。

その顔が喜びに満ちていたので

「何処へ」との問いは私の咽喉 (のど)で消え、

却て見送りの遅かりしを悔いた。

(其15)

5月11日夕

1929年5月11日作

夕されば雨は歇 (や)み

 残照雲を貫きて

その日東の方に

 うち開きたり七彩の門。

脚光妙えにかがよえば

 武さしのには霽 (は)れぬ!

マッチ売りの乙女の如く

 虹の彼方に聖国を観たり。

須臾 (しゅゆ)にして消えしその影に

 永遠 (とこしへ)の美ぞゆかしかりける。

(其16)

ある舟(ある舟路)

1929年4月4日

希望 (のぞみ)の岬を廻りし舟の

 影、の中を動く、

 夢よりもしき現 (うつつ)である。暁 (あかつき)の風を真帆に孕みて

 波の音も快き伴奏の如く

 進みゆく舟足の何ぞ自由なる。

朝暉 (ちょうき)を帆桁にうけて

 玉なす朝露は碧玉の如し

 その帆影真白きは貞潔の徴か。

今し高く翻るは

 いずこの国の船旗なるか

 君見ずやこれぞ「来世」の旗印。

み霊に導かれて詩の波路

 来し方既にを閲 (けみ)し

 風雨のちたる船体は軋 (きし)む。

舵は既になく、独り帆綱をあやつりし

 船路の何ぞ多難なりしや。

 心ある人の心に映らん白波の跡。

行く手三年 (みとせ)のこの航を

  神よこの舟を光の津まで導き給え。

             アーメン。

大きな心を──藤井先生一周月記念日の感話の原稿──

1930年8月14日

目が醒めた、否、神様が起こして下さった。そのうちに目ざましが鳴った。暁の星が清らかに。東天 (しののめ)のりがややに鮮やかになろうとする。紫を帯びた青い中空、地獄から出て来たダンテをよろこばしたもの。過ぎし年月の罪と涙との谷から出て来た自分ではないか。「浄火」第一曲をロングフェロー訳でよむ。

“Sweet colour of the oriental sapphire,

  That was upgathered in the cloudless aspect

  Of the pure air, as far as the first circle,

Unto mine eyes did recommence delight

  Soon as I issued forth from the dead air,

  Which had with sadness filled mine eyes and breast.”

── Purgatorio, Cant I.13-18

「東のの妙 (たえ)なる色は、第一の円にいたるまで晴れたる空ののどけき姿にあつまりて

我かの死せる空気──わが目と胸を悲しましめし──の中よりいでしとき、再びわが目をよろこばせ」(山川丙三郎氏訳)

第一の旭光が西方の空に浮き出ている富士山嶺の白雪を射たときに七つの光が薔薇色に溶けた。日の昇るにつれて芙嶽は再び真白に帰り、青き山波と黒き井ノ頭の森影とが清楚にして雄渾なる朝景を呈した。屋根から書斎 (へや)にもどりイザヤ書40章をよむ。

新町を指して出かけた。元旦早々、かるたの読手を仰せつかった。お二階には先生が寝ておられる。畏る畏るよんだ。やがてお呼びになった。黙ってお辞儀をした。お床の中から「オメデトー」と云われた。少々面くらった。仕方がないから僕も「オメデトウゴザイス」とお応えした。僕にとっては御病気の先生にそんなことを申し上げていいものかと云う余計な心配があったからである。先生は笑って居られた。

お話の中でこんなことを言われた。預言者について書こうとして準備が出来ていざ筆を執ろうとしたらすっかり神様にヒックリかえされてしまった。それから二、三日何もしないでじっとしていた。すると全く別のことを書かされた。それがあの友情号であった由を。それからまた、パウロの晩年の書翰エペソ、ピリピ、コロサイ書の大きさ深さを口にされた。先生の心はキリストの大いなる日を待って居られる。その豊かさと力強さは此の世のものではない。先生は言われた、どうして今の基督者はコセコセしているのだろうと。僕自身素足で逃げねばならなかった。しかし僕も臆病者なればこそ大胆になりたく大きな心を有ちたいと切願している矢先であったから、先生の無造作なパチンコが僕の心に何か大きなものが天から隕 (お)ちてくる動線となった。腹の底に重いどっしりとしたものを。斯くして感謝の心を以て帰った。

元旦の富士と病床の先生とが「大きく!」と云う一語を印象づけた。ピリピ書2章に

「キリスト・イエスの心を心とせよ」

とある。余り大きすぎる要求である。しかし神様は区々たる小さな要求をなさらぬらしい。この世の如何なる道徳又は哲学の目指す星もこれほど大きな輝かしきものではあるまい。キリストは光の中の光、最大のものであるからである。如何なる人も願望を有っている。願望の大小、高低は々であろう。幸か不幸かおのが願望を達して見ると早晩幻滅の悲哀を見せしめられるのである。更にのぞめば、それだけ地獄に近づくようなものである。人の最高の要求たる道徳の完成も竟に天上の星を竿を以て叩きおとさんとするに似ていよう。一つを取ったと思ってもそれは宛ら水に影うつす一つの星影を砕いたようなもので、星そのものは高く天に澄んでいる。けれどもある時「この星を見よ!」と云う声を聞いて、それを見た人には、今までの一切の星の有無がどうでもよくなった。なくてならぬ唯一つの星! その光! これだに我がならばと云うことになった。

けれどもかつて己が短き竿と小さな腕とを以て真剣に道徳の星を叩きおとさんと努力した者でなければ、この星の光や力や生命そのものが我も有となるべき消息を知らない。

何と幸な星であろうキリストは。

「キリストの心を心とせよ」

とは最早ではない。これが道徳的命令の一であるならば再 (ま)た吾々は魂うなだれざるを得ない。これは

「キリストをよ」

と云うと同じくキリストへの信頼を促すものである。

「キリストの心を汝に与えるから、何も持たずに手ぶらで来て之を受けよ!」

と神様は仰るのである。真理なる哉! 恩恵なる哉! 

我ら若き者は先生の生きざまを現実に見て、首肯 (うなず)かねばならぬものを多くもっているはずである。聖書の始と終はキリストである。信仰のアルパもオメガもキリストである。生活の朝も夕もキリスト信頼である。旅路にはキリストの苦難がある。目的の山にはキリストの栄光がある。なやみとのぞみ、十字架と永遠の生命、これはキリストの死と復活であった。基督者のあずかるべき分である。藤井先生は正にこれを生きた。先生を想うとき、吾々は互いに「本当に生きよう!」と言うより外 (ほか)に知らぬ者の如くある。

「樅の日記」(9)

1917(大正6)年10月18日~10月31日

〔筆者〕小池政美

1917年10月18日(木)

朝西片町へ電話をかけて明後日午後の井ノ頭散歩を約す。十拳君との議論は共犯に入る、教唆犯に就いて可成の激論を戦わす。……〔内容略す〕──〇と牛込見付から赤坂へ出て九段まで歩いた日は昨年の今夜だった。……丁度FAUSTの愁嘆を聞くMEPHISTOの感がある。BASILの嘆願を聞くDORIAN GRAYの面影がある。

10月19日(金)

清ちゃんから資雄さんの病状を聞く。昨日は含塩注射を何本かした話。…………

10月20日(土)

十拳君と丸善に行く。西片町へ廻る。…………とうとうおじ様のオーバーを戴いて浅嘉町に廻る。吉彌さんに会いたいと思ったが今晩から週番とやらで駄目。何か結婚祝をあげたいと思う。

10月21日(日)

……DORIAN GRAY今日終る。…………

10月22日(月)

はて変なことになったもんだ、……「体重が増えても減ってもいいじゃありませんか」とお答えすると、「それはどういう意味か」ときかれる。「増えても減るし、減っても増えると云う事です」と申しあげるとお機嫌が大変悪い。…………

一体親不孝と云う概念はどういう事だろう、……責任能力を有し叱られるがために親不孝行為の認識があらねばならぬ、…………

親孝行とは自分の本心をそのままいて陳べても親に不愉快を与えぬ点に至って然るものと考える。……あるをありと見、なきをなきと見て其処に自分の本当の命を営まんとするものには因習や伝来的の辞は何等の意義を有せず、何等の有難味をももたない。

10月23日(火)

昨日も今日も実に好い天気。久し振りで昼間寝て、夜読む、なかなか好い。

10月24日(水)

〔略〕

10月25日(木)

朝、山内先生を訪問、昨夜遂に資雄さんがくなられた事を伺う。大事な人を失った事に就いてはもう何も言わない。

10月26日(金)

久し振りで牧野先生のお講義を承る。その後で教唆の実行行為、既遂の時など伺う。すべて思っていた通り、……

10月27日(土)

午後二時、東京駅で郁二さんに会う。……キリン麦酒会社はいい所にある。所謂生を一本呑む。少々酔った。……

10月28日(日)

お墓の美しさ、夜はたまとピンポン。

10月29日(月)

……吉彌さんへの煙草の灰皿を買う。西片町──図書館──吉原、ビールの盃を重ねて皆を驚かす。……

10月30日(火)

〔略〕

10月31日(水)

天長祝日。病院へ薬をとりに行った帰りに富士子に贈るものをと思ったが何処も此処もお休みにはがっかり。…………

シオンを目指して(2)──残樅日記──

1933年7月5日(水)

晴。6月30日から今日までの日記は今日からの追想として記さねばならぬ。6月30日(金)は晴天であった。帰宅後(病院からの)直ちに「祈の哲学」の清書にとりかかる。夕方書き終えるまでには隆さんの英語もする。例の如く切迫しての全速力である。やっと出来上がる。日は暮れる。扉に何を書こうか、考える暇をゆるさぬ時間である。観念して瞑目した。いのる。そのいのりをそのまま書く。

日記を載せる様にしたため、8号からは紙数が増える。仕方がない。擱筆してテープのような紐で閉じるときの快は格別である。内容は決して大したものではない。しかし「羔」は断じて人のをなめたようなものを書かない。私の心臓と生活の炉を通ったものの外はここにない。私は未だ齢三十、世に出でてより四年を経たにすぎぬ初心者ではあるが、全内的生活を尽くしての体験には年齢を超越したものが宿り得ざることがあろうかと信じている。酔生百年よりも醒生十年の方が遥かに貴い。年齢のみの上から言ってもキリストは三十三にして万人の万年を越えている。真理の光は一少年の心にも宿るのである。

さてまたこの日記は事実の叙述のみでなく、感想も議論も錯綜して出て来るが、私はそれを錯綜とは考えない。私は「考える人」でもありたく、「観る人」でもありたい。一人格は単なる一面であっては未だ本当とは思わぬからである。また断片的なものの連鎖は人格的統一体に於て意義を有たぬ分子であるからである。日記はたとえ時間的には断続的であろうと、また内的連続に於ては有機的なものを形成していなければならない。そして生命あるものから発したものは有機的結合を顧慮することなくして本質的に結合されているものである。どうかこの日記もつまらない事実の記述や勝手な断想などの連続でなく、どこまでも生命ある一全であるように。

その夜は「羔」を持って新町へ行く。八時を少し廻っている。お母様も御安心下さる。順子さんもその日山本の姉をまた見舞って下さった由。お二人のお祈りとお心づしを有難く思う。お二階のヴェランダに出る。白雲と星の瞬き、三年前のこの頃が思い出される。当時のわが胸の中を順子さん知りてありしやなかりしや! 星空の下にしずかな平和な時を有つ。時の経つのがはやすぎる。蜜よりも甘きとはこのことか。吾々はしかし蜜に溺れてしまう愚者とは断じてならないであろう。僕は一体面白い人間である。真に真剣なことの外は熱がこの事かの事にそそがれようとも自ら批判する余裕を有っている。大我が小我を見下している。別な吾れがもとの吾れを批判している。新しき我が旧き我を捉えている。しかしサタンはいかなる隙 (すき)に乗ずるかも知れぬから自ら自らを試みるようなことをしてはならぬ。大分晩 (おそ)くなってから辞去する。「羔」を6月の末日に約束通り持参し得てこれだけは本当にうれしく有難くあった。今日(7月)は20日までに書かねばならぬ。また可なりである。

帰途、白い二つの雲が岡のような形をして浮いていた。月も西に傾いた。星が夏の空であることを告げている。星と黒い森、美しき対称である。これはまた何を意味したか。星辰と白雲と黒林と。

塚本先生に出っくわす。神様の御いたずらと思った。どう思われても仕方がない。事実BRIDEはわがよろこびなのだから、しかしまたまじめなことも考えた。何はともあれ、あるがままにである。而して、いつかは我々も神の戦士であったことがおのずから証しせられるように神の用い給うまま従いたいのが二人のねがいである!

6月はすぎて7月1日(土)を迎える。午前9時15分前、代々木駅につく。15分すぎまで待つ。前後30分、竟に川崎君来らず。どうかしたのだろうと断念してひとりで府立高校へ行く。しばらくしてからK君来る。寝坊をして約束の時間に失礼すると云う。寝坊では仕方がないが、自分は約束を履行されないことを、最もたえがたきことの一つとする。自分ならもっと本当に心からの謝意を表したであろうのに、K君はそれほどの悪とは考えていないらしい。勿論ゆるすのにケチケチした気持はもちたくない。大きな気持で心からゆるしてしまう。しかしかかることを遵ることに於て基督者は何人にも負けてはならぬ。K君は──彼の云うところによると──前夜、森先生の博士号祝賀会の第二次会で大いに飲み相当酔ったためにその朝とてもねむかった由。

11時まで独乙語教授室内で山田章三郎先生──基督者(無教会主義)、石川錬次先生──石川鉄雄氏(藤井先生の問題の友人)の御令弟、先生、M・石川先生、白旗君(大学の同級)の五氏と快談。来てみればM・石川氏をのぞいては皆旧知の如き人々、親しくお話ができて愉快であった。自分も府立へ行きたくなった。大家連の中に居ないと独乙語は進歩しないような感じもする。と思うと例の負けじ魂が、「何を、ひとりでやってのける」とも意地をはっている。それはともかく実際愉快だった。あの教授室の本だけでも羨ましくなった。実際幼年校で小山の大将で安閑としていたらバカになるにきまっている、しっかりしろ! まさか、そんな小成に安んずるようなバカ気た俺では夢にもない。

11時から12時まで三人の鮮な講義を聴いた。山田さんの文法はやっぱり本ものだと思って感心した。石川さんは頭がすばらしい。白旗君がなかなかやっている。氏の勉強は非常なものであったらしい。昼食を共にして辞する。

山本の姉を見舞う。どんどん経過がいい。吾妻さんへお使に行く。思い出深き西片町である。十番地の九号に居たときの日よ! 愛子はあそこで亡くなった。吾妻のおば様はお留守、睦子さんが出てこられる。始めちょっとわからなかった。そのはずである。僕が中学二年のときお会いしたのみであろう。もう十数年経っている。可愛い少女はいつの間にか美しいお嬢さんになって居られた、今昔の感。僕が疲れた顔をしていたと見え、「御元気でいらっしゃいますか」とたずねられた。僕自身はちょっと面くらったが、然りとの旨を答えた。あとから思うと、さすがに女性の眼ははやいと思って感心したし、優しい心を有難くも思った。再び荒木町ヘもどる。母からたのまれたものをもって帰る。連日の奔走と心労と睡眠不足と無理とがいろいろに重なって何となく全身が疲労していた。戸山君相変わらずの元気でやってくる。翌日転居するから勉強をことわりにと云ってやって来たのである。9時に帰る。戸山君もこの夜は考えたものと見えてはやくひきあげる。

ねる。からだがあつくなってくる。ねぐるしい。のどがいたむ。扁桃腺! 来たな! と感じる。ひとりでそっと起きて湿布をしてねる。やっぱり母は耳がはやい。ききつけられて二階に来られる。「辰雄! どうかしたかい」、「ええ何でもないんです、ちょっとのどがいたいのでシップをしました」。実は何でもなくない。40度位の熱のあることを自覚したが、ガンバッテしまう、外の人をさわがせるのがいやだったから。目ざまし時計の針が青く光っている。ついに一睡も出来ず、夜を明かす、朝になってから訴える。氷、医者、……と云うわけである。頭はガンガン、のどはいたし。ねたっきり。

2日の日曜は外は暑い夏の日、内は体温39度。ただねてすごす。

3日(月)に至って8度代に降る。まだ本も読めない。ただ眠るが如く醒むるが如くの状態で床を守る。4日(火)になって7度代にまた降る。順子さんから手紙が来る。「聖知」「ちとせのいわ」来る。よみたいがまだ頭が変でよむ気力もない。矢部先生、三度の御来診にはいささか恐縮である。全く打算のない、医術を全く仁術として実行している珍しきお医者サンである。そこらあたりの医博よりはるかにいい。

今日(5日)になってやっと平熱となる。氷枕のとりかえ、吸入器、お粥等、姉に少なからず御厄介になる。優しい姉である。これもまた珍しいくらい。自分だけが道徳的に一番駄目らしい。末おそろしくなる、神の審判を思うと。これは冗談でない。しかししかし自分はもう自分についてはながすべき涙をもたない。

女中もよくやってくれた。これも気立てのいい女である。単純にして真心そのものである。貴きはかかる人々である。

順子さんが午後から見舞いに来てくれる。手には一束の花をたずさえて。薔薇とカーネーションとアスパラガスである。いずれも好きな花と草である。暖かい心を有難く思う。僕には沢山すぎるほどもって来てくれる。一輪でも三輪でもいい。病気をして人から花を以て見舞われたのはこれが初めてである──もし、この記憶にして正しければ──。

順子さんに「聖知」の中の二つを母によんでもらう。植子好枝夫人のこととパウロの道徳無用論である。アーメンを以て拝聴。

順子さんの手引きで母は丸ノ内へ行く。今晩は伊藤サンへおとまり。丸ノ内へ旧約研究聴講に出かけられなくて残念千万! しかし、神命じ給うと知れば、何でもなくなる。つつしんで籠城する。ある意味に於てこんどの病床は神が僕を打ちたもうたのであるから。GOD STRIKES ME! IT IS WELL FOR ME.と云うはこの間順子さんに書いた告白である。

月が冴えわたっている。秋の夜の様である。ひとり机に寄る。熱がないから、本もよむ。こんなに字も書いてしまった。また明日から馬力をかけるぞ! 休暇にうんと読もうと思ったら、神様にやられる。しかしよき大安息であった。心身共に安息した。多少痩せたりとはいえ、何事かあらんである。それではお休みなみさい、すべての親しき人々! 御大切になさい、山本の姉さん! それから親戚友人の病床の方々。新町によき眠りあらんことを。

7月6日(木)

晴、夜に入りて雨。すっかり夏となる。午後から学校へ行こうか行くまいかと考える。祈る。「やめ!」ときまった。姉サンに電話をかけていただく。医専の生徒はよろこんだろうが、こっちは義務を果たし得ぬことを残念に思う。定まったからにはすっかり忘れて、コツコツ読書をする。ひるねもする。一日中、昨日順子さんがもって来てくれた花が机と机の間の小さな机の上に居て慰めてくれる。バラの赤、カーネーションの白、アスパラガスの青(緑のこと)、ベアトリーチェの衣の色がこの三色であったのを思い出す。ダンテはよく美を直観し得た男である。日曜から今日まで珍しく長い籠城をした。読書の夏がまたれる。

母等は今日何を語られたか。順子さんは中野まで見送ってくれたことと思う。有難う。義雄さんや隆さんが学校の帰るさに見舞ってくれる。おいしい葡萄をもらった。彼らの純な気持がそこなわれずに大きくなって欲しい。いつも「勉強をおし」と言って注意してやる。姉がまた少し発熱した由で心配になる。どうしたのだろう、お見舞いにゆきたい。いよいよあすからまた学校。身体は害するものでない。人への心配、努力、自分への勉強の時間の損失、いいことはない。勿論、魂の問題としての病気にいかに対するかは問題がちがう。自分の身体ではない。粗末にしてはいかん。順子さんにもわるかった、ゆるして下さい。

涼しくなる雨で! もう少しやってねよう。神様、一日一日をお守り下さい。よく勉強できますように、よく義務を果たしますように。人のためになりますように。

7月7日(金)

雨。病気癒えて登校、幼年校生徒富士山麓廠営より日に焦 (や)けて帰る。授業は茫然自失の呈、無理もなき話。夜順子さんにお見舞いのお礼を書く。

7月8日(土)

雨。昨日も今日も終日雨と云うのではない。夕立の如きもの。雷鳴雷光は実に気持のいいものである。四、五本の閃光が天より地に降るを見る。落雷である。ただその害を蒙った人は誠に気の毒である。見るには壮観であるが。不慮の災で死ぬとしたら雷に打たれるのが一番いいと思う。僕は神の怒が人の悪計より徹底的であり単純であるのをこのむ。神様から叱られるときは無条件に降伏したい。そのために死ぬべくば無条件に、無言で死にたい。神の怒を表わすものとして、また怒の現われとして、雷に如くものはなかろう。神様は無条件に降参するものを、そしてそのもののねがいをあわれんで下さろう。……。そして私も怒るときは雷の様に怒る人間でありたい。そのあとはあのサッパリした大気と大空をのこす者の如く。

夜、高校生とフィヒテを読む。「第二講」をようやく終る。なかなか難物である。これで夏休前は一まず閉じる。彼も感謝している。気持のいい男である。バナナを一房持って来てくれる。窮乏の中から気の毒に思う。しかしその心を美しく思う。男でも、わけて女は美わしき心、優しき心、親切な気持の欠けているとき他の多くの善をいたく害 (そこ)ねるものである。やはり愛は徳の全きである。一つの「有難うございます」と云う感謝の気持が、一つの「いかがでございます」と云う同情の気持がどんなに人の心を和らげ、己れの心を優しく保つ泉となるかを、人々は余り気がつかぬらしい。小さな一つの優しい心が神の前に何であるかを知ってもらいたい!

7月9日(日)

晴、曇、雨。れなんとして霽れやらぬ空模様。やがて本夏が来る前曲。母のお伴をして教会へ行く。中川景輝先生のお話を拝聴する。一ヶ月に一度位先生は静養地なる千葉の海岸から出て来られる。今日とてもお顔色はよくはない。御無理と拝察する。先生としては出て来られざるを得ないのであろうが、徹底的に休まれてはどうかとも思う。「神護り給う」(マタイ11・20~30)と云う講話(説教)であった。なやみ(病患)の先生の肺腑から出る言葉であって、実によきお話であった。中川先生は教会の中に見る稀なる伝道者のようである。三谷先生の親友である一事でもわかる。此くの如き先生を戴く教会員は幸である。会員の信仰やいかに。中川先生は富永先生とは信仰が明らかに異 (ちが)う。中川先生のは純パウロ式贖罪観である。かくも明らかに信仰の異う先生をいただきながら、信仰に大なる動揺を来さなかったとするならばその信仰たるやうたがわしい。まぁ人の信仰のことなど云々すまい。やめ。先生の御健康のため祈る。しかし、先生は本当に神に生きて居られる。先生のあの豊かな態度、砕けた気持こそは、またあの愛に満ちた心こそは何よりも貴き伝道である。私は今日のこの一回のお話で、中川先生の信仰を信ずることが出来、また先生の故に神の聖名をかぎりなく讃美したい。なやみの人中川先生に祝福豊かならんことを。

青木へ行く。叔母様隻眼が開かない。頭髪は真白と云いたきほど。わが叔母様もまた人生の暮に近づきたる哉の思いがした。人生無常、常あるものは信仰に生くる者のみとつくづく思う。若き人々よ、信仰を有たずや、わが親戚に我唯一人なるはそもそも何たるさびしさぞや。さびしさを感ずるものは我よりもやがて彼らとなるならん。

斎藤サンへ行く。成城の連子サン二葉に転校するらしい。彼女のために可ならんと思う。僕は思う、日本の魂が──若き魂が──本当の基督教を把み得んがために最も必要なることは、彼ら若き女性が先ず日本の女性となることであると。日本の女性とは何ぞや。一言にして平易に言うならば、奥ゆかしき優しき女性! 之である。女性に優しさと奥ゆかしさこの二つだにあらば、日本は最優秀の国民を産むべき女性を有つと云い得る。かくの如き母に育てられざる第二の国民はやはりだめである。女性の責や大なり。女性よ、何でなくとも優しくあれ、奥ゆかしくあれ! 断じて欧米流のモダーン・ガールたる勿れ、市中を横行するあのみにくき肉感的な魂は豚よりも下劣な女性が──若き女が──将来家庭を有つ母となると思うと、戦慄と憤激にみたされる。彼らは女性でなく男性でなくバケモノである。

なでしこの如く優しく、しらゆりの如く奥ゆかしく。

僕はこの言をわが最愛の順子さんにおくる。バラや菊は花の王である。それは女性の美の象徴とはなるかも知れぬ。しかし謙遜、従順、愛情と云う女性の最も美しき性質を具象する花は、なでしこやすみれやききょうやゆりの如き花でなかろうか。大なるのかげに咲く花はなでしこでありゆりである。女性の女性たるところはどこまでもあらわれざるところにある。男性の最も男性的なるものもやはりみばえなきキリストの忍耐、受苦、十字架にある。何れにせよ、基督者男性は信仰による神の力(忍従の)にあり、基督者女性は信頼による優しさ奥ゆかしさにある。

荒木町の姉を訪ねる。床の上に身を起こして居られる。病臥一ヶ月、姉もまたおとろえたる哉。少しむらがあった由。まだ全然の安心をゆるさない。順調ならんことを祈る。

夜、戸山君とフェヒネル。相変わらず元気である。その勉強に大なる進歩をのぞむ。身体全く復旧す。また前進なる哉! よき安息日! 感謝!

神、安けきねむり師友、近親、すべての人々にあたえ給え。

7月10日(月)

僕の日記は記事録であるよりも、感想録、随感録、時に小論でさえある。自分は所謂テイブル・トーク(卓上小話)や「断片録」や「断想」と云ったものを書かぬかも知れぬ。日記と書翰は僕のハートの呼吸である。生活と離すこと出来ぬ文字である。考えて書くのでなく、生活して書くのであるから。凡そいのちなきことを僕は極端に厭う。僕のなす考える一切はそのままに生活である。偉人の例をもちださなくとも、凡そ真に生きる人の態度はかくあるべきである。わが生活からあふれることをここに盛る。そは自然なる発露である。そうでないかぎり日記はつけぬ。

今日は降りそうでとうとう降らなかった。所によっては潤いもしたが。

昭和医専の助川と云う庶務の男、快男児であるところはいいが、僕の所得の税務署への届けについて、甚だ不誠実であるので殆どケンカになりそうにまで僕の腹の虫が憤慨した。しかしジッとこらえはした。金の問題だけに気持が悪い。いかにも金なるが故にこっちが強行に判断する如く考えられるから。そうではない。彼のわが人格を無視したる不誠実なる態度が癪にさわったのである。あんな奴を相手にケンカをするほどこっちの肝魂は小さくはない。彼が神から審判かれるのみ。我は審判を神にゆだねまつり、仇を神から報いていただく。神は最も適当に彼をあしらい給うと信ずる。かくて小さな癪もフンガイも飛んで行って、わが心は秋の空の如く澄明である。感謝なる哉、彼を有つの恩恵!

連日の心労、肉体のつかれ等をいやさんためにはやくねる。

7月11日(火)

学校7時はじまり。尾田先生へお中元。本郷の古本屋を五、六軒。「カント雑考」を買う。福本に寄る。これと云う本なし。ルッター選集欠けていてだめ。染井の墓地へ。墓地をドイツ語で「平和の園 (フリード・ホーフ)」と云うが、現世と来世の橋と云う感じが確かにする。北京の兄とよく墓詣でに来た昔を思い出し、今は亡き兄を思うてさすがに哀惜の感新たなるものを覚えた。

新宿で買物。百貨店虫、相も変わらず。米澤のS君へ懐中じるこを贈る。帰宅。山本の隆さんと英語。隆さんのオンチにもあきれる。大分今日はドナル。おかげで咽喉にひびく。明日英語の試験と云うのによくもあんなノンキさ加減と二重にあきれる。あきれるばかりでない。あまり力が欠けているのでなさけなくなる。途方に暮れる。どうしたものか! 夕方まで隆さんのため。隆さんにかぎらぬ。それからいろいろな荷が僕の肩にかかって来るだろう。一番心配なのは山本の家の事だ。しかし思い煩うことはやめよう。時に応じて最善をなしてゆけばいい。一切を神の力に仰ぎつつ。何でも来れ! 最悪の死でも。而もなお神の国は我に在りである。世の中におもしろいものは一つもない。神共に在ますことが人生のすべてだ。このクリスチャンの豊かさを誰か知る。人々よ来らずやキリストのもとに。キリストを拒むものは真の幸を拒む者だ。あざける者をして嘲らしめよ。彼らは実は自らを嘲っているにすぎない。キリストの光でものを判断するとすべては義しく公平に行っている。この世で苦しむことがクリスチャンには余りにも当然で、神の大きな眼からは公平なのだ。クリスチャンには栄光が待っているのだから。一切の生活態度は竟に愛(アガペー)に尽きる。愛せん哉! 愛なる哉! しずかに! 

蝉の声がしだす。ヒグラシの声はおよそ虫の声の中のユニークなものと僕は思う。彼の身体を見るときに更にその然るを知る。あの澄みたるしかもあのさびしみをもつ声とあの透きとおる無雑な身体。

7月16日(日)

12日から15日までをずべってしまう。已むを得なかったように思う。12日(水)は暑い日であった。幼年校のお午はヒヤムギばかり食べている。あれを食べると身体が茅蜩の様に透き徹りそうである。日本人は一番清浄潔白なものごとを好む国民かも知れぬ。何しろ西洋人は動物に近いところがある。肉食を多くする者は自然、野蛮になり残忍性を有ち、肉感的に傾きやすいようである。ヒヤムギから大した論になった。

病院に寄る。姉大変によい。床の上に起きて居られる。永く永くねていた人が起きたのを見たとき復活のおもいがした。ただうれしかった。それなのに姉は僕の顔を見るなり、「辰雄さん、すっかり痩せちゃったのね……駄目じゃないの!」とやられた。姉はやっぱり気丈夫の女である。自分の腰がフラフラしているのにひとの痩せたことを攻撃する。柳本と云う看護婦がよくやっていてくれる。ミルトンとギリシヤ語の入ったカバンをさげて新町へ行く。お母様とオーストリヤ王位継承問題ならぬ伊藤家相続問�