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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 春日直樹編『現実批判としての人類学: 新世代のエスノグラフィへ (Kasuga Naoki (ed.) Anthropology as Critique of Reality) 著者 Author(s) 土井, 冬樹 掲載誌・巻号・ページ Citation 神戸文化人類学研究,5:42-54 刊行日 Issue date 2014 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81009026 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81009026 Create Date: 2018-06-27

Kobe University Repository : Kernel · Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 春日直樹編『現実批判としての人類学:新世代のエスノ グラフィへ』(Kasuga

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春日直樹編『現実批判としての人類学:新世代のエスノグラフィへ』(Kasuga Naoki (ed.) Anthropology as Crit ique of Reality)

著者Author(s) 土井, 冬樹

掲載誌・巻号・ページCitat ion 神戸文化人類学研究,5:42-54

刊行日Issue date 2014

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81009026

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81009026

Create Date: 2018-06-27

はじめに

(書評〉

春日i直樹編

『現実批判としての人類学:新世代のエスノグラフイへ』

世界思想、社 2011年 11月 320頁

土井冬樹

ポストモダン論争の後、人類学が行ってきた「批判」のあり方は弱体化し、いまだふさ

わしい形態を持っていないという [p.9:ページ数のみの記載の場合、本書の該当箇所を指

す]。本書は、そうした状況を前提に、人類学に新しい現実批判のあり方を提起すること

を目的としている [p.9J0 ただし、この「新しし、」現実批判のあり方とは、実はかつてか

ら「再帰性」の議論の陰に隠されながら諸処で展開されていたものである [p.10]。そう

した議論を展開してきたとして本書で挙げられているのは、例えばブ、ルーノ・ラトウール

であり、アルフレッド・ジェルであり、マリリン・ストラザーン、エドワルド・ヴ、イヴェ

イロス・デ・カストロ、そしてロイ・ワーグナーである。そのため本書の目的とは、それ

らの人類学者個人の見解を統合することで、人類学の新しい土台として定式化させること

であるともいえよう。こうしていわば人類学の舞台裏で起こっていた動きを、ここではへ

ナレ、ホルブラード、ワステノレの三人に倣って「人類学の静かな革命」と呼んでいる。こ

の静かな革命とは、どのような特徴を持って、人類学の新しい地平となりうるのだろう

か。本書評では、 「静かな革命」の基盤をなすアブダクションに触れながら、 「現実を批

判する」あり方について考える。

l 本書のポイントと構成

さて、この静かな革命の議論のポイントは、1)ラトウールが提唱した法則や概念、信

仰さえも人間やモノ、人工物が混交的に関係し合うことによってつくられるという、アク

ターネットワーク理論を用いた関係論的なものの捉え方 [pp.13-14]、また 2)所与のもの

とされがちの主体と客体、自然と文化のような二分法的な思考を崩し [p.18,20J、3)部

分から全体を導くような超越的な、またある存在同士の固定的な関係だけをとりあげるよ

うな定まった点からの視点ではなく、ある存在と他の存在との関係が関係論的に構築され

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続けるのであるから、常に様々なアクターと関係を構築し、その相互作用から差異を見い

だすという「定点のない視点」をもつこと [pp.15-19Jである。それはすなわち、存在論

的転換を引き起こすとし寸。序章で挙げられている例は、一つの自然に多文化が想定され

る多文化主義に対して、一つの文化に多自然があるというヴィヴェイロス・デ・カストロ

が提示する「多自然主義」で、あったが、本書には前提とされている存在の枠、例えば多文

化主義という考え方を壊そうとし、それを転換させようとする意気込みを感じさせる論文

が多数含み込まれている。そのために用いられる手法が、上の 1-3のポイントなのであ

る。そして、最終的にはそれらをもとに、パースが提唱し、アルフレッド・ジェルが活用

する、演繰や帰納ではない第三の推論、アブダクションを用いながら、観察される側の自

身に対して行う分析や知識に寄り添いつつ、人類学者は人類学の知をもって対象者の分析

と水平的に分析を構築すること [p.306J、すなわち「水平的反響」を目標にしながら議論

を進めることを目指しているのだという [p.17J。つまり、対象者のある行動や言動から

その行動の原理や原因をアブダクトすることで、自分なりに解釈し、 「世界を制作=認識

するJ [p.50J。それは、対象者と全く同じ経路をたどってその行動の位置づけを行うこ

とにはならないが、人類学的知識を用いた上で対象者の行動の起源を探ることができる、

ということであろう。なお、アブダクションについては後述する。

以下では、本書について簡単にまとめ、とくにラデ、イカルな展開を図った 10章と 12章

の分析を軸としつつ、存在論的転換の妥当性、 「静かな革命」の有用性を考察してみよう

と思う。

序章「人類学の静かな革命:いわゆる存在論的転換J (春日直樹)

第一部「軌跡と展望」

第一章「世界を制作=認識する:ブルーノ・ラトウール×アルフレッド・ジエノレJ (久

保明教)

第二章「所有の近代性・ストラザーンとラトクールJ (松村圭一郎)

第三章「どうとでもありえる世界のための記述:プラグマティック社会学と批判につい

てJ (中川理)

第二部「人類学の推進力」

第四章「民族誌機械:ポストブルーラリズムの実験J (森回数郎)

第五章 r~揺れ』について:地震と社会をめぐる実験・批判・関係性J (木村周平)

第六章「脳死の経験とその正当性J (山崎吾郎)

第三部「現実という批判」

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第七章「監査される事件、監査されざる場所:ある盗難事件をめぐる(静かな革命〉へ

のパースベクティヴJ (猪瀬浩平)

第八章「呪術的世界の構成:自己制作、偶発性、アクチュアリティ J (石井美保)

第九章「病気の通訳・血糖自己測定の実践における現実としての批判J (モハーチ・ゲ

ノレゲイ)

第十章「使えない貨幣と人の死J (深田淳太郎)

第四部「潜勢態としての現実」

第十一章 rW性転換』という迷路 w性同一性障害(者)~における性自認をめぐる欲

望と現実J (市野津潤平)

第十二章「身体の宙ぶらりん:インド、オーディシャーブランコ遊びと現実批判J (常

国夕美子)

第十三章「人間の(非)構築とヴィジョンJ (春日直樹)

以上が本書の構成である(括弧内は著者名)。以下では、その内容を簡単に説明する。

本書の最初の第一部は、理論的な役割を果たしている。ラトウールやストラザーンなど

を主に参考としながら、 「静かな革命Jの理論的な基盤を紹介している。モノはそれぞれ

が関係することによって、混ざり合うことによって成り立っているというアクターネット

ワーク理論や、近代において想定されている客観的な自然と主観的な文化とは、実は完全

に分離しているものではないとする近代におけるハイブリッド、異種混交性などについて

である。それらを土台に提唱される人類学の現実批判のあり方とは、現実の記述、という

ものである(第 3章)。様々なものが関係し合うことで成立、変化しているはずの現実

は、ある時点で他の関係から切り取られ、一つのまるで自明な前提として扱われるように

なってしまう [pp.79-80J。現実の記述は、その現実を形作る小さな細部の積み重ねを記

述し、その一つ一つにおいていかにして選択肢が排除され、あるいは採択されるのかを明

らかにする。このような民族誌的な記述によって、現実がどのような細部で生成している

のかを詳細に検討しつつ、前提化された現実を再び様々な関係へと結びつけることで、そ

の現実の自明性を揺るがす可能性を探るのだという。それはすなわち、パラレルワールド

への可能性、 「どうとでもありえる世界」を具体的に示そうとする [pp.84-85,90・91J。

次の第二部では、 「静かな革命」を迎えたことによって変化する民族誌、そして研究そ

のものの方法論を展開する。ここではいわば上で述べたポイント 3に相当する定点のない

視点を重視しながら分析する方法の可能性を示している。たとえば、 4章「民族誌機械:

ポストブルーラリズムの実験」では、日本の農業用機械がタイで用いられたときに生じさ

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せた不具合ということが一つの出発点となり、その不具合が両国の土壌の違い、農作業へ

の取り組み方の違いなど、それぞれの国の農業事情における差異を次々と想起させていく

過程を示している。このように、農業機械の不具合などのある一つの事柄が別のものへと

連関し、さまざまな新しい変化や発見を生み出していく様を分析している。

そして第三部では、実際に「静かな革命」にのっとった批判のスタイノレを具体化する論

考が続く。ここでは主に、ある現実の構築過程の分析が、そのまま現実に対する批判を紡

ぎだす様を見せている。例えば第7章、 「監査される事件、監査されざる場所:ある盗難

事件をめぐる(静かな革命)へのパースベクティヴ」では、多くの人や物事が、他者に対

して納得してもらえるようにある活動について評価や認定をし情報開示をするとしづ監査

文化から逃れられなくなっている現実を受け止めながら、農作業用機械の盗難事件をきっ

かけに生じた、監査文化に回収されない、関係者たちの新しい出会いやつながりという別

の現実が立ち現れたことを記述している。このような詳細な記述によって、当然と考えら

れている前提としての現実(ここでは監査文化)が、それにはまとめられない別の事象

(ここでは関係者たちの新しい出会いやつながり)、本書に基づけば、 「どうとでもあり

える世界」と接続していることについて記している部である。

最後の第四部は、三部の議論の延長線上にあり、ありえることの実現を拒む現実が、理

想の世界、望まれる現実への熱望を表している様、本書では現実の潜在力と言われている

ものを記述している。 12章「身体の宙ぶらりん:インド、オーディシャープ、ランコ遊びと

現実批判」で例を挙げるなら、インドにおいて理想的な、あるいは空想的な「平等な世

界」は、カースト制という厳しい階層社会にあって実現はできないが、そのためにむしろ

その世界に対する希求が現れてくるという。完成されない「理想の世界」への欲望が、潜

在的な「どうとでもありえる世界」を想起させるのである。

2 現実の記述」について

さて、論題を見てみると、人類学でいわゆる伝統的に調査されてきたものと同時に、

「脳死」や「病気」、 「性転換」など、 「近代Jが関わっている、あるいは中心を占めて

いる話題を積極的に取り入れていることがわかる。特にポストモダン論争以降、人類学の

研究の対象は大きく広がり、いわゆる西洋技術をもその対象としてきた。以下では、その

いわゆる西洋近代の創り出した現実を批判する論考、 6章と 11章を取り上げて、 「静かな

革命」の行う現実批判についてまとめる。その二つの論考の評価を踏まえた上で、別の論

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考において行われる現実批判を批判的に検討し、最後に「静かな革命」のあり方を評者な

りに考えてみたい。

6章「脳死の経験とその正当性」の「脳死」についていえば、取り上げられたのは「脳

死=死」という医療判断と、 「脳死=生」という脳死判定をされた子どもの親との問の現

実のズレ、で、あった [pp.l41-142J。脳死をめぐる問題は、特に臓器移植とともに諮られ

ることが多い。なぜなら、脳死は脳が機能しなくなり、また回復する可能性もない状態を

指すが、呼吸はしているレ心臓も動いている。そのため、 「生きたまま」の心臓やその他

の臓器を移植できるようにするために脳死を人の死と位置づける必要が出てきた [pp.144・

145J。ただし、上述の通り脳死状態の患者は呼吸もしており、成長もするのだという。

脳死判定をされた子どもの親にとって、それはまさしく生きているということを示してい

た。脳死は人の死である、という法的な現実と、それを批判する脳死しでも人は生きてい

る、とし、う親にとっての現実が記されている。しかし、現在すでに脳死は人の死と定めら

れており、それをある個人の経験のみで批判することは難しいという。脳死が人の死とな

ったのは、クやローパルな政治や経済の問題が絡んでいるため、ある他人の経験のみでその

決定を覆すことはほとんどできないからである。そこで、 6章で取り組まれた現実批判の

あり方は、いかにして脳死が人の死と定められるようにいたったのか、その過程を細かく

記し、現在では後景に退いてしまった議論や論拠に、再び今日の文脈において議論を始め

直すために光を当てることで、あった [p.l58J。そうすることで、何との関連で言い立てら

れ問題化しているのかを理解し、主題の別の連関を見つけ、ありえた「脳死問題」の行方

へと接続する可能性を捉え、現実を別様に想像・創造するための契機を提供しているのだ

という [p.l58J。

また、 11章 r~性転換』という迷路~性同一性障害(者) .1における性自認をめぐる

欲望と現実」では、 「男と女」とし、う所与のものと考えられがちな二項対立的な捉え方さ

えも、 トランスジェンダ一、 トランスセクシュアノレ、性転換などの多様な変化の中で「男

一女」とし、うスペクトラム的なものとして解釈しうる、ということを示している [pp.252-

254J。

この二つの論考に共通している点は、民族誌的な現実の記述をもとに、所与とされてい

る現実、あるいは当然とされ得る現実は、たとえばマジョリティや、 「近代」の感覚など

によって与えられているだけであり、自らのその感覚を押し付けずに注意深く聞き取り、

分析を行うことで、そうでない現実を見る可能性を開いている点である。それが、本書の

言う、近代の語る現実ではない別の現実、あるいは潜在的な現実、現実を超える現実とい

う「どうとでもありえる世界J [p.25Jを見せている。

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本書の全体をまとめてみても、この「静かな革命」において、現実とは時にマジョリテ

イが考えていることであり、それを「どうとでもありえる世界」によって打ち壊そうとす

る試みが行われている、ということになろう。すると、ポストモダン論争のあとに展開さ

れる新しいと言われる批判のあり方は、自文化中心主義を批判したかつての人類学者が行

ってきたことと同じなのではないだろうか? そういう疑問が読者から上がってくること

だろう。しかし、この「静かな革命」の持つ意味とは、これまでマジョリティ=西洋/マ

イノリティ=非西洋となりがちで、あった関係を-1L崩し、西洋的近代的認識の中にも「ど

うとでもありえる世界」を発見・創造しようとする点であろう。これまで各所で取り上げ

られてきた民族誌は、ある民族が何かをし、自分たちとは違っているということを示して

いた。しかし、それは、文化相対主義の名において、 「異文化を他者として、そして自文

化は自分たちのものとして設定しているJ [吉岡 2008:77J としづ本質主義的な感覚を根

本に持ち得ていた。しかし、 「静かな革命」が提供する視点では、西洋と非西洋、主体と

客体、人間と自然、というような区分自体が崩れた地平で [p.20J批判が行われるのであ

る。ここでは、いわゆる自己と認識されがちな西欧近代的な価値観でさえその土台を暖昧

模糊にされる。そのため、文化相対主義を掲げながら他者を自己との連続性を断絶したも

のとして捉えるのではなく、むしろ互いがそれぞれ閉じくあやふやな土台の上に生きてい

る、ということを突きつける。ポストモダンの文化人類学的研究が、相変わらず「他者」

を調査してきたことについて、そしてその「他者」を表象する問題を正当化しきれなかっ

たことについて、 「静かな革命」のパースベクティヴは、その「他者」をめぐる研究であ

りながら、 「他者」を他者化している「自己Jという存在さえも同じように批判的に見よ

うとする。アクターネットワーク理論が言うように存在が関係性の不断の生成によって顕

現し続けるならば、自己や他者という存在の分析もまたそうした関係性の一部を形成して

その存在へと働きかけてし、く行為となる [p.20J。この「静かな革命」の持つ視点とは、

自分が立っていると考えている文化的な土台さえも-1L崩して現実を記述するという意味

合いで、他者を「他者化j してしまわずに、自己や他者に対してラトウールの言う「対称

性J [p.17; ラトウール 2008:165-169Jをもった文化相対主義的な分析の視点を提供する

のではないだろうか。

ところで、本書のいくつかの章で語られる現実は、二つに区別されるべきものであろ

う。一つは、具体的な例を挙げれば、 6章において用いられる脳死が人の死であるという

現実である。その現実に基づいて、人々の実感はどうあれ、脳死が法律で定められること

によって医療実践などは行われてしまう [p.141J。また、 11章で例を挙げるなら、 「男

女」というこ分法的な性別の分け方である。これらは、そう決められることによって、あ

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るいは広くそういう認識があることによって、公然と正当性を持とうとし、それ以外を

「異」とみなそうとする。いわば、それこそが唯一の正当性をもつものとして語られると

いう意味での「大きな物語J [リオタール 1998:63J としての現実である。それに対し

て、いわば「小さな物語J [リオタール 1998:59J としての現実がある。 6章において、

それは脳死しでも人は生きているとする、実際脳死と宣告された子の親にとっての現実で

あり [p.l42J、11章で言えばトランスジェンダーやトランスセクシュアルの人々の持

つ、簡単に「男女」と二分できない男女観である [p.249J。ここでは便宜的に、前者にお

ける現実を「現実」とし、後者における現実をそのまま現実と記そう。

そうすると、本書は現実を用いて「現実J (あるいは近代の思い込み、ともいえるのだ

ろう)を批判するというもので、あったように思う。しかし、上述した通り、現実の記述に

おける批判とはあくまで「どうとでもありえる世界」の可能性を示すものであり、著者が

「現実」を否定すればいいというものではない。なぜなら、どこかの、ある誰かが生きて

いる現実を、 「現実」と対比させたとしても、いぜん「現実」は例えばマジョリティの中

では、近代の思い込みなどではなく、現実として生きている可能性があるからである。

「現実」をただの近代の思い込みであるとして否定し、それを別の現実へと読み替えたり

すり替えたりするのは、ある現実を特定の人々と結びついた唯一の現実に絞りこむことと

なってしまう。先に評者が述べた「自己/他者」という区切りを崩し得るこの現実の記述

は、その点において、かつての「他者」を「他者」として設定してしまう文化相対主義の

視点よりも「対称」的な手段であるかもしれないが、最終的に「現実」でなく現実こそが

あるべき姿、と一方的に唯一の現実を提示したとき、その「対称性」は崩れさる。そし

て、唯一の現実を正当化し、それ以外の現実を「異」にしてしまう。それは、すなわち近

代の思い込みとしての「現実」を再生産する作業に他ならない。むしろ、文化相対主義が

様々な文化の存在を認め、それぞれを尊重するのと同じように、あるいはまた「どうとで

もありえる世界」のための記述をするのであるなら、数多の現実があってこそしかるべき

ではないのか。そして、 6章のまとめに「現実を別様に想像・創造するための契機を提供

するJ [p.l58J とある通り、現実を構成するアクターともなる読者にも再考を迫り、その

人自身に現実を再構成させる機会を与え得る内容である必要があるようにとも思う。

3 現実を構築するための記述

3・1 現実の構築とアブダクション

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以上の議論を踏まえた上で、ここでは特に 10章と 12章について考えてみたい。 10章

「使えない貨幣と人の死」では、パプアニューギニアの貝貨タブを使うトーライ人のこと

をめぐった議論がなされる。人は、他者とモノを交換することによって取り結ぶいくつも

の関係の中で相対的に位置づけられ、意味付けられるものとして存在するという

[p.225J。 トーライ人も、員貨タブとモノを交換することによって生じる関係の網の目の

中でその結節点として存在する。しかし彼らはそれらの関係のネットワークから離脱し、

関係的に意味付けられない絶対的な存在、 「他でもない私」になることを目指して生きて

いるのだという。以下でその議論を簡単に説明する。

貝貨タブは、モノとモノを交換するときに貨幣のような役割を果たし、それぞれの関係

を取り結ぶが、一方で流通せずに、人々の手元にとどまり続ける傾向もあるという。それ

は、 トーライ人がタブを使わずに貯め込み、貯めた大量のタブを車輪状に束ねて、ロロイ

と呼ばれる状態に加工するためである。ロロイに加工されると、タブは家の中にしまい込

まれ、他のものと交換されたり支払われたりしなくなる。そして、ロロイはそれ自体が価

値をもつものとなり、所有者の力を表すだけでなく、神秘的な力を帯びるともされている

[p.233J。この論考では、そのように人と人とを関係づける特徴を持った員貨タブを使わ

ずに貯め込むという行為を、レーナルトの指摘するような、人聞が自らのうちに抱える

「空白Jを埋めていく行為として捉えている[レーナノレト 1990:265-293 J 0 I空白」を

埋めていく行為とは、周囲との関係において意味を与えられる自分を、他者との関係には

よらない、それ自身で意味を持つ自分として形作っていく行為 [p.227Jである。

先にも言った通り、 トーライの人々は、貝貨タブを使って売買などをするが、人はそれ

を使わずに貯め込み、 「使われない貨幣Jであるロロイをつくる [p.238J。いわば、ある

ものと交換することで意味を持つ貨幣である貝貨タブを、そのネットワークから切り離し

てしまうのである。そのため、ロロイの制作とは、 「空白」を埋めていく作業に他ならな

いという。ネットワークから切り離されたロロイは、 「私のロロイ」となり、自分を表象

するものとして用いられる。たとえば、葬式のときには、死者と密接なかかわり合いのあ

った者がロロイを飾るのだという。葬式の会場では、 「これは死者と00な関係にある

口口のロロイである」と紹介される [p.236J。そのとき、葬式会場で飾られるロロイはそ

の所有者を表象している。しかし、貝貨タブが「使われない貨幣」ロロイとして交換のネ

ットワークから切り離されても、それをつくっている個人は、他の人々との関係性の上に

存在を認められる人間である。それが、最終的に自らも死んで人々との関係のネットワー

クから退場したときに、関係性が一気に変わってくる。それまでロロイは誰かのものであ

り、その人を表象していたが、死ぬことによってオリジナルを失ってしまう。しかし、誰

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かを表象するロロイの存在は、その「誰か」の不在を否定する。そのとき、ロロイは本来

存在しない死者の存在を示すものであり、それはいわば所有者そのものになるということ

だという [pp.239幽240J。このとき、ロロイも死者も、その他の関係のネットワークから

切り離された存在であるため、所有者そのものとなったロロイは、他者との関係性によら

ない「他でもない私」ということになる。このように、 トーライ人は死ぬときに、 「他で

もない私Jを手に入れることを欲望し、ロロイを制作しているのだという [p.242J。だか

らトーライ人は、所与として考えられる「現実」を生きているのではなく、ロロイと一体

化することを目指しているのであり、それはすなわち仮構を生きていることである、と結

論づけている [pp.243-244J。

ここで確認しておきたいのは、この論考で著者は、貨幣とされるタブPを貯め込みロロイ

をつくることを、レーナルトの指摘するような、人聞が自らのうちに抱える「空白」を埋

めていく行為としで捉えることをそもそも前提としている点である [p.227J。ここでは、

「空白」を埋めていく行為を前提とすると、貝貨タブを使わずに貯め込んでロロイを制作

するという不可思議な行為は、トーライの人々が仮構を生きているからである、という

「静かな革命」においての特徴的な議論である水平的な分析、すなわちアブダクションを

用いた議論が展開されているように見える。

アブダクションとは、演緯でも帰納でもなく、しかしある事実からそれを説明する理論

を考えるものであり [Peirce 1934:90J、 「静かな革命」の議論をするにあたって、

「我々」とは異なる仕方で世界を作り上げていることを理解するために重要な理論だとす

る [p.48J。その定式とは、 rJ)意外な事実Cが観察された。 2) しかし、もし Hが真で

あれば、 Cは当然の帰結だろう。 3) よって、 Hが真であると考えるべき理由がある」

[p.46; Piarce 1934: 117J というものである。そのときにアブダクションは結論を導く原因

として妥当性をもったものとして受け入れられる。例を挙げるなら、 rJ)陸地の内部で

魚の化石が見つかる(=意外な事実 C) 0 2) しかし、化石が見つかったこの一体の陸地が

かつて海で、あったのなら当然のことであろう(=仮説 H) 0 3) よって、仮説Hが真であ

ると人々は思う J [米盛 2007:53-54 J。この仮説 Hが真である妥当性は、しかし単純に

得られるわけではない。魚の化石が見つかった例にしても、たとえば恐竜の糞かもしれな

い、異星人が持ち込んだのかもしれないなどの推論はあり得るが、プレートテクトニクス

が認められており、エベレストが形成されるように大地が隆起することがある、という事

実などを検討することで、もっとも理にかなった仮説として上の仮説Hが真と考えられる

のである。アブダクションは、その結論を推測的に言明しているにすぎないが、それは意

識的で、熟慮的で、自発的で、かつ統制された行為であり[米盛 2007:49-50J、明確な

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理由や根拠によって得られるものであるという[米感 2007:61-62J。この推論のあり方

は、厳密な推論であり、パースは科学的な理論はすべてこのアブダクションによってつく

られたとも述べている [Piarce1934:90J。また米盛はニュートンを例に、万有引力の法則

がこのアブダクションによって築き上げられたことを紹介している[米盛 2007:57・59J。

そこでは、なぜリンゴはわきの方ではなく垂直に落ちるのか、という彼にとって説明を要

する驚くべき事実があり、それを説明するために地球の中心にモノを集めようとする「引

力」があることを考えついた。そして、一つの物体が他の物体を引くとしたら、その引力

の大きさには比例関係がなくてはならず、またさらにすべての物体が引力をもっているの

なら、全宇宙に広がっていると考えなくてはならない、として万有引力の恩想に思い至っ

ているという。

さて、このようなアブダクションの定式に 10章の議論を当てはめてみよう。すると、

rl)人々が貝貨タブを使わずに貯め込み、ロロイをつくっている。 2) しかし、もしトー

ライの人々が自分の「空白」を埋め、ロロイと一体化するために仮構を生きているのだと

したら、ロロイをつくるのは当然のことであろう。 3)よって、 トーライ人が仮構を生きて

いると考えられるJということになる。ここでは、ロロイと一体化するという「仮構に生

きていること」をトーライ人たちの現実として提示しているのだろうが、 「仮構に生きて

いることJが真かどうか、その妥当性の判断は難しい。なぜなら、ロロイと一体化するこ

とを目指して生きているのであるなら、ロロイを制作するとともに自ら命を絶つことがも

っとも早く一体化する道であるが、葬式のときなどにロロイを飾るというのだから、そう

いうことではないようである。とすると、 「ロロイとの一体化を目指して仮構に生きてい

る」という仮説は成り立たなくなる。そもそも、使える貨幣としてのタブ、使えない貨幣

としてのロロイなのかどうかの妥当性も関われていない。ここでは、ただ仮説的な理論的

枠組みにトーライの人々の生活をはめ込み、議論をそこでの人々の現実に還元しないま

ま、あるいはできないままに終わらせている。すなわち、仮説Hが真であるかどうかの議

論は保留にされているままに、 「仮構に生きていること」をトーライの人々の現実として

打ち出しているのである。

また、 12章「身体の宙ぶらりん」の分析にも似ているところがある。ここでは、ロジョ

祭において、未婚の女子がブランコに乗りながら歌を歌うことが分析されている。そし

て、著者はブランコをこぐことには「往復と反復の永遠の動きの中に自己が融解していく

ような酪町の感覚Jがあり [p.277J、女子はその状態で「日常の社会関係から解放された

恋愛への希求を表現J [p.283Jする歌を歌い、 「世俗的な階層構造を超えた人間同士の純

粋な情愛J [p.284Jを希求しているのだという。しかし、このブランコ遊びは、仮説的な

51

理論的解釈に基づいて「ブランコ遊び」を構築すればそう捉えることはできょうが、 10章

の分析と同じようにその仮説的な理論的解釈の妥当性が関われていない。すなわち、ブラ

ンコ遊びをする未婚女子たちがどのような気持ちで歌を歌い、ブランコをこいでいるのか

はわからない。そこには、少女たちの見ている現実への認識が欠けているのである。ある

いは、著者自身が「多くの歌はイメージの連鎖からなるもので、特に意図や目的があるわ

けではないJ [p.277Jと述べていることを考えると、この著者が仮説理論的に説明するブ

ランコ遊び、と未婚女子たちのリアリティとしてのブランコ遊ひ守とは、むしろかけ離れたも

のとなりそうな気さえする。これらの分析で行われているのは、厳密な推論ではなく、推

論を思いつく閃きの段階 [Piarce1934: 113 Jであり、憶測にすぎない。上で示した通り容

易に反論が見つかつてしまい、仮説的な推論が精査されていないことが分かる。そしてこ

こでは、それを精査しようとしないままに、ある人々の現実として熔印を押してしまって

いる。

3-2 現実を構築するための記述

かつてサルベージ人類学が批判され、虚構としての民族の描き方をやめようという議論

が盛んになった。しかし、この 10章、 12章で行われた分析は、仮説的な理論を先行さ

せ、 トーライの人々の生活やロジョ祭における未婚女子のブランコ遊びをいわば「どうと

でもありえる世界」を描き出すために虚構化している。 トーライ人は、タブを貯めてロロ

イをつくり、それと一体化することだけに生きているわけではなく、最後までタブをもの

の交換のためにも使っているし、法定通貨であるキナも使っている【深田 2006J。その

「現実」を切り離して「どうとでもありえる世界」を構築するような部分だけを抽出して

いるのだとしたら、すなわち人類学者が特定の「現実」の転倒を目指して生活の一部分を

他の生活のネットワークから切り取り分析すること、そしてさらにそれをまるで「彼/彼

女らの現実」として提起することは、かつて「し、ま現在」の現実を無視して、架空の過去

を作り上げようとしていたサルベージ人類学日育水 1999:569Jが行ってきたことと構造的

に同じではないだろうか。サルベージ人類学とは時間的に別方向に虚構を構築するだけで

ないのか。 r静かな革命」における議論で、現実批判としての人類学の目指す方向として

ラデイカルさを備えた結論が多数現れているが、そのラデイカルさとは、ときに人々の生

活を仮説的な理論上の虚構世界に閉じ込めるものとなっている感がある。それを「水平的

反響Jと呼ぶのなら、どのように、そして誰によって、現地の人と分析者の分析が水平だ

と認識されるのだろうか。むしろ、 「どうとでもありえる世界」は仮説的な理論に構築さ

れるのではなく、前半部で評した通り、 6章や 11章で取り組まれたような民族誌に、ある

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いは少なくとも民族誌とともにある現実の記述において生じ得るのではなかろうか。その

点について、筆者らはどのように考えているのか問うてみたい。

ただし、 「静かな革命」が関係論的な現実の生成を中心にして、自己と他者、主体と客

体などの二元論からの脱却を図ろうとし、新たな視点を提唱していることは評価できる。

関係論的なものの見方はある一つの事象だと思っていたものに様々な角度からの視点を必

要とさせるし、所与とされていたもの、あるいは大枠から入るのではなく、内部の差異を

発見すること、 6章と 11章が取り組んだような、ある出来事に直面している人々の実際の

感覚から「現実Jに対して批判的に議論を展開することは有用なことであろう。こういっ

た視点を本書にしたがって「どうとでもありえる世界」のための記述と呼ぶならば、 「ど

うとでもありえる世界Jを構築するための記述は、先にも評したように本末転倒である。

そこの距離感を正確に捉えながら現実批判としての人類学を展開していく必要があるだろ

フ。

ただ、 「どうとでもありえる世界」のための記述に関して、あらためて民族誌的な記述

を主とするとして、そこに理論を構築するのは難しいのではないかという評者の疑問もあ

る。 rどうとでもありえる世界j を理論化してしまえばそれは「どうとでもありえ」なく

なってしまうのではないか、言い換えるなら、現実を「現実」へと読み替えてしまうので

はないか、という疑問である。あるいは、何かの現実を理論化したしたときには、そうで

ない別の現実が現れるのが常で、そうだとすると「どうとでもありえる世界」はゼノンの

パラドックスのようになってしまうのではないだろうか。それを、そもそも人類学が理論

を構築するものであるという「現実」を批判している、というのなら、それこそが本書の

行うもっともラデイカルな現実批判になるのではないか、とも思う。

おわりに

序章で、編者はこの「静かな革命Jに「対抗勢力として論駁につとめるか、賛同者とし

て完遂の一翼を担うか、あるいは態度を保留して行方をみまもるか、そのいずれを選ぶに

せよ」、これから「静かな革命」が人類学の主流になることは間違いないとしている

[pp.27-28J。評者もどうやらこの議論にすっかり巻き込まれてしまった。そんな中で最

後に一つ指摘しておきたいのは、 「静かな革命」に立脚した形で捉えるなら、この「静か

な革命Jという考え方でさえ、人類学世界における「どうとでもありうる」現実のーっと

いうことである。とするなら、この現実がかつてからの「現実」に対抗するものではな

く、 r ~静かな革命~ /かつての人類学」という二分の線を引かず、この新しく体系づけ

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られたアプローチ自身も謙虚になった状態で、実践を通じて人類学を再構成していくこと

がこれから求められてくることになろう。

参照文献

深田淳太郎

2006 パフ。アニューギニア・トーライ社会における自生通貨と法定通貨の共存の様

態J r文化人類学j]71 ( 3 ) :391-404。

ラトウール、ブノレーノ

2008 r虚構の「近代科学人類学は警告する』川村久美子訳、新評論。

レーナルト、モーリス

1990 rド・カモ:メラネシア世界の人格と神話』坂井信三訳、せりか書房。

リオタール、J. F.

1998. rこどもたちに語るポストモダン』管啓次郎訳、筑摩書房。

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1青水昭俊

1999 忘却のかなたのマリノフスキー 1930年代における文化接触研究J r国立民族

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米盛裕二

2007 rアブダクション:仮説と発見の論理』勤草書房。

吉岡敬徳

2008 ポストコロニアノレ論争は人類学にとって自殺行為だったJ rくにたち人類学』

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