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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title スハルト体制期インドネシアの華人同化運動 : バコム(Bakom-PKB)予備的考察(Chinese-Assimilation Movement in Indonesia under Suharto Regime : Preliminary study of Bakom-PKB) 著者 Author(s) 貞好 , 康志 掲載誌・巻号・ページ Citation 国際文化学研究 : 神戸大学大学院国際文化学研究科紀要,29:15-52 刊行日 Issue date 2007-12 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81000851 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81000851 PDF issue: 2020-02-02

Kobe University Repository : Kernel理解普及のためのコミュニケーション週間J(Pekan Komunikasi Peng-hayatan Kesatuan Bangsa) が開催された。最終日の23 日、代表26名が署名

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Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

スハルト体制期インドネシアの華人同化運動 : バコム(Bakom-PKB)の予備的考察(Chinese-Assimilat ion Movement in Indonesia underSuharto Regime : Preliminary study of Bakom-PKB)

著者Author(s) 貞好 , 康志

掲載誌・巻号・ページCitat ion 国際文化学研究 : 神戸大学大学院国際文化学研究科紀要,29:15-52

刊行日Issue date 2007-12

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81000851

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81000851

PDF issue: 2020-02-02

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スハルト体制期インドネシアの華人同化運動

ーバコム (Bakom-PKB)の予備的考察-

白〈 好康 志

はじめに

本稿は、スハルト体制期のインドネシアで中国系国民=華人の「同化」を推

進するため1977年に設立された半官半民組織、 Bakom-PKB(パコム・ベーカー

ベ一、以下パコム)の成立の経緯と背景、初期の陣容と言説について分析・考

察するものである O

東南アジアの大国インドネシアで総人口の約2~3%、実数ではおそらく 500

万人規模と推定される華人の存在と動向をめぐって生じる「華人問題」は、イ

ンドネシアの国民国家統合にとって独立以来の懸案であり、いまなお解決され

ていない重要な課題の一つである。華人問題には政治・経済・社会・文化など

諸局面があり、しかも囲内の問題と中国・台湾との関係をはじめとする国際問

題が密接・複雑に絡まりあっている O また、問題の主体という観点から最もお

おまかにみても、インドネシア国家や政府にとっての問題、同国の社会一般に

とっての問題、さらに誰より当事者である華人自身にとっての問題など、立場

によって、問題の所在も意味合いもさまざまである O

スハルト体制最末期、首都ジャカルタをはじめ全国各地で激しい「反華人暴

動」が頻発した。内外の少なからぬ論者は、国軍や政権内部の特定勢力がその

黒幕だと非難し、華人をプリブミから社会的に隔離し、スケープゴートに仕立

て上げたスハルト政権自体が華人問題を意図的に「創出」したのだとさえ主張

した。筆者もそうした側面のあることを否定しない。だが、「反華人暴動」は

結果的に権力者たちのコントロールの域を超え、「反スハルト」のエネルギー

と相互に増幅しながら結びつき、とりわけ1998年 5月中旬のジャカルタ中華街

を主な標的とする大暴動がスハルト退陣の直接の引き金になったことを思えば、

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スハルト政権も(他の諸問題と併せ)華人問題に呑み込まれた側面がある D そ

うならぬようスハルト政権なりに予め「解決」を試みてきたが、結局は失敗し

たのだとみる方が大局的には妥当だと考える O

スハルト政権はどのように華人問題を解決しようとしてきたのか。それは華

人の「同化」を通じてであった、というのが一般的な理解である O 事実、スハ

ルト政権は発足早々の1966年頃からインドネシア国籍を有する華人について同

化の方針を明言し、中国語による学校教育やメディアの禁止、華人独自の組織

(特に政治団体)の解散、中国式姓名からインドネシア風の名前への改名奨励

など、同化政策と呼ぶにふさわしい諸策を実行してきた。同化政策の背景には、

華人と中国(特に中華人民共和国や中国共産党)とのつながりを国防治安の観

点から本気で↑崖れたスハルト政権特に軍部の意向と、経済復興と開発のため

「華人資本の大動員」を行なうにあたって、社会の中の反華人感情に配慮し

「華人を華人でなくする」、ないし「華人の華人性を不可視化する」狙いがあっ

た、とかつて筆者も分析した[貞好 1996; 2000] 0

スハルト政権の崩壊後、同化政策を強権的なスハルト体制ならではの産物と

捉え、その後の諸政権は華人を含めたインドネシアの「多元的統合」を新たに

模索している、とする見方が広がっている O そのような側面は筆者も認める O

ポスト・スハルト期における新しい動向は、単に華人問題の領域にとどまらず、

インドネシア・ナショナリズムやインドネシア社会全体の性格において長期的

に重要な変化につながる可能性を秘めており、注視してゆく必要がある O ただ

しその際、ポスト・スハルト期の傾向をスハルト体制期と対照させるあまり、

「華人同化(主義・政策)Jと「スハルト体制Jをイコールで結んでしまう、す

なわち華人に対する同化政策を全面的に「スハルト体制の抑圧性」に帰したり、

同体制の華人政策を同化政策の一語で、括ってしまうのは、あまりに図式的・一

面的であり、幾つもの重要な事柄を見落としかねない。

それは第一に、「同化」という言葉(インドネシア語で asimilasi,pem-

bauranなど)を用い唱導する主体は、スハルト体制期の政治家や権力機構に

限らない、ということである O インドネシア現代史の中で様々な出自や立場の

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人々がこの言葉を使ってきた O 特に、同化政策の対象と考えられがちな華人自

身、特にインドネシア生まれのプラナカン知識人の一部にそれを主張する人々

が存在した。彼らが華人同化の必要性を唱導し始めたのはスハルト政権の成立

にむしろ先立つていた、という事実がこの点における重要なポイントである

[貞好 1995; 1996L

第二に、「同化」という言葉はきわめて暖昧ないし多義的であり、それを口

にする主体や時期や論脈によって、そこに込められる意味合いがおおいに異な

ることが多いということである O 逆にいうと、同じ同化という言葉でも(ある

いは日本語の同化に相当するインドネシアの類義語のうちどれを)、誰がいつ

いかなる文脈でどのような意味を込めて使ったのか、注意深く見極めなければ、

スハルト体制が企図した「同化J、華人の知識人が目指した「同化」、プリブミ

や華人の一般大衆が受け止めた「同化」を(いま挙げたそれぞれも決して一つ

ずつではないのに)混同してしまい、スハルト体制における華人政策、華人側

の動向いずれをも誤解するおそれがある O

第三に、一口にスハルト体制期といってもそれは32年の長きにわたっており、

その聞に同じ主体であっても(政府であれ特定の華人知識人であれ)同化とい

う言葉に込める意味や、実際の華人政策との整合性が少なからず変化している

可能性があるということである O そもそも同化政策を支える制度や政令や組織

も一朝一夕にできたわけではなく、きめ細かな歴史的考察を要する O 体制自体

の形成や変容と並行して同化政策も整備されたり、逆に空洞化したりした。そ

してあるタイミングで同化運動とよぶべきテコ入れが発動されたわけである O

その同化運動を組織の形で体現するのが、ほかならぬバコムである O この組

織こそ上述した三つのポイントを考える上で格好の対象だと考える D なぜなら

第一に、バコムはスハルト体制の後押しを受けた半官組織であると同時に、か

ねてから同化を主張してきた華人知識人が中心的役割を果たした半民組織でも

ある O この点と関連して第二に、バコム自体の内に「同化」をめぐる政府と華

人社会双方の様々な思惑をみてとることができる O 第三に、パコムの形成と展

開を跡付けることは、スハルト体制やインドネシア社会全体の動向を考察する

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こと抜きになし得ない。逆に言うと、バコムについて考察することは、スハル

ト体制下の華人問題の様相をみる上で重要であるのみならず、同体制自体の再

検討、さらに大きくは、インドネシア・ナショナリズムやこの国全体の来し方

行く末を考察することにもつながると筆者は捉えている D このように重要な組

織であるにも関わらず、バコムは単に「スハルト体制の御用機関jとみられた

ためであろう、本格的に研究の対象とされることがこれまでほとんどなかっ7

0

本稿では紙幅の都合上、パコム発足の経緯と背景、設立初期の陣容と言説の

検討に焦点を絞る O 主な依拠資料は、パコム自身や内務省など関係機関の発行

物、関係者の出版物や同時代の新聞・雑誌記事などである O 以下、まず第 1節

で設立の経緯と背景、第 2節では初期の陣容について分析する O さらに第 3節

で、は初期パコムの代表的言説を検討する。最後に当面の総括と残る課題を述べ

て結びとする O

第 1節.バコム設立の経緯と背景

(1 ) 発足の経緯

パコムが設立されたのは既に述べた通り 1977年である O 同組織の発足に直接

関わる事実をこの年に限って述べるとすれば、三つの段階に分けられる O

まず、 5月に行なわれた総選挙から約 2カ月後の 7月17日から23日にかけて、

内務省社会政治総局長が、当時26あった全州の「華人代表者」をジャカルタに

招き、政府関係者やプリプミの名士と対話をもっ、「民族の一体性についての

理解普及のためのコミュニケーション週間J(Pekan Komunikasi Peng-

hayatan Kesatuan Bangsa)が開催された。最終日の23日、代表26名が署名

した「声明」が、「民族の一体性と統一の促進に関する考察の大要」および

11.国籍地位に関する意見書、 2.集団と個人に対する呼称に関する要望書」

を附録文書として採択・発表された。

この流れを受け、恒常的組織としてのバコムが発足したのは、同じ年の「青

年の誓い」記念日の10月28日である O この日「民族の一体性に関する理解普及

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のための連絡協議会」すなわちパコム (Bakom-PKB)の設立集会がジャカル

タで関かれ、シンドゥナ夕、ハシム・ニン、スラエマン、ニョー・ハンシアン、

リドワン・サイデイ、サフィウデイン、ロー・ギンテイン、およびユヌス・ヤ

ビヤの 8名の有志の署名になる「バコム設立憲章jが発表された。同時に、シ

ンドゥナタを議長 (KetuaUmum)とする執行部はじめ役員構成が示された O

役員構成の詳細は次節で検討するが、内務大臣が「庇護者J(Pelindung) と

して筆頭に掲げられていることなどから、内務省の影響下での設立であったこ

とがうかがえる O

さらに同じ1977年末日、すなわち12月31日に内務大臣とパコム執行部のメン

バーが顔を合わせ、内相がパコムの設立を正式に公認する行事 (Peresmian)

が執り行われた。内務省社会政治総局長による挨拶、バコム執行部議長シンドゥ

ナタによる報告、書記ロー・ギンテインによる役員名簿の読み上げ、内務大臣

アミルマフムド(Amirmachm ud)による訓示 (pengarahan)および懇親会

がその内容であった。

以上は、ジャカルタに所在するパコム中央組織の設立過程である O これと並

行し(やや遅れて)、 5月の「コミュニケーション週間」に集まった各州代表

を中心に、全国の地方執行部も組織化されていった。まず8月25日に内務大臣

から全国知事に宛て、各州政府社会政治部の中に「民族の一体性に関する理解

普及J(PKB)の連絡相談のための組織作りを補助するように、との指令が電

報でなされている o [DDN: 9L 12月31日にパコム中央組織の正式公認に際し、

内務省社会政治局長が「今後、パコム地方支部の設立も引き続きなされるべし」

との発言がなされた。相沢 [2005a]によれば、パコムは中央において内務大

臣の直轄下に置かれたのと同様、地方においては州知事直属の補佐機関と位置

づけられたO

(2) 設立の背景

前段で、はバコムを成立せしめた直接の動きを、 1977年後半の三つの出来事に

即して見た。しかし、もう少し長い(10年前後の)中期的視座から眺めると、

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このタイミングでパコムの成立が必要とされた、またそれが可能になった、幾

つかの複合的要因が浮かび、上がってくる O

A. 内務機構の整備と華人同化政策の社会化

スハルト体制の屋台骨は軍と官僚機構のヒエラルキーである O 後者のうち、

全国の末端にまで行政権力を及ぼす中心となったのは内務省であった。内務省

中央に社会政治総局 (SOSPOL)が設置され、その下に華人政策を担当する民

族一体性促進 (PembinaanKesatuan Bangsa)部が設けられたのは1975年、

各州政府の知事直属機関として同名の部局が置かれたのは1978年のことである O

これら官僚組織と密接に連携をとりながら、「華入社会の声」を吸い上げ、そ

の実態を踏まえて華人政策(同化政策)を推進するために、民間人を取り込ん

だ補佐的機関として設立されたのがパコムだと理解される O 社会政治総局に代

表される内務機構の整備とバコムの中央・地方組織の設立はほぼ並行して進ん

だのである O

1973年、与党ゴルカル以外にはインドネシア民主党 (PDI)と開発統一党

(PPp)のみに政党を限る野党統合が強権的に行なわれていること、 1977年 5

月に総選挙でゴルカルが勝利し、翌78年3月には学生運動などの反対を封じス

ハルトが大統領に三選されていること、ほぼ同時に国家イデオロギーたるパン

チャシラの上からの普及運動 (P4 )が発動されることなどを考え合わせると、

軍による物理的強制力だけでなく、選挙においてゴルカル(ひいては大統領ス

ハルト)を恒常的に勝たせるための、内務省による住民監視や動員のシステム

が出来上がったのがこの頃である O パコム設立の流れを作った「コミュニケー

ション週間」の開催が1977年総選挙の僅か 2カ月後であったことを思い起こせ

ば、内務省によるパコム設立の隠れた狙いの一つが、華人の票や資金の獲得を

念頭にした「選挙対策」にもあったとみて、おそらく誤りではあるまい。

B. マラリ事件後の「プリブミ優先策」における華人のつなぎとめ

1974年 1月15日にジャカルタで起きた暴動は、当初の「反日Jに留まらず、

「反華人」さらに「反政府」暴動に発展した(マラリ事件)0スハルト政権発足

後、 70年代初頭には既に、スハルトの私設補佐官などの政府高官、日本に代表

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される外国資本、両者とつながりながら急速に成長してきた華人資本三者の癒

着や、インドネシア社会における経済格差の広がりが、学生運動やイスラーム

勢力による批判の槍玉に挙がっていた。その中で起きた首都ジャカルタでの大

規模な暴動は(前年1973年8月には西ジャワのバンドゥンでも「反華人暴動」

が起きていた)政府に衝撃を与え、事件後、多くの新聞・雑誌の発禁処分など

の強権策と並んで、幾つかの新たな経済政策が打ち出された。外資規制、国営

企業の拡大、プリブミ優先、華人資本の規制がそれである O このうち、とりわ

けコインの裏表といえる後二者は、折からの石油価格の高騰にも支えられて導

入されたものの、隣国マレーシアのブミプトラ政策ほど徹底せず、結果的には

あまり実効性がなかったといわれる D

とはいえ、外国企業の合弁相手や株式所有比率などにおいて、インドネシア

側の主体が「プリブミ」か「非プリブミ(実質的に華人)Jかを逐一問題にす

る政策が導入されたことは重要である O 同じインドネシア国民であっても、

「プリブミJと「華人」を個人レベルで「区別」する実務的必要が生じたから

である O スハルト体制成立初期(l966~68年頃)に「華人同化政策」が打ち出

された時には、社会的にも経済活動の上でも「インドネシア国籍を取った華人

(WNI)は同じインドネシア民族の一員であり、一般の国民と区別してはなら

ない」という方針がスハルト自身の口から何度も強調されたが、ここへ来て

「区別」と同時に「同化」を要求するという矛盾した構図が鮮明になってきた

のである O プリブミ優先のための「区別jは、華人からみればそれ自体「差別」

である o I差別IjJしながらなお華人と彼らの資本・経済活動を「祖国への忠誠」

という政治的論理でインドネシアにつなぎとめる必要が生じたのが、 1970年代

半ば以降の状況であり、バコムの設立はこの文脈においても理解できると筆者

は考える O

C. 中国との復交とそれに伴う国籍問題解決への環境整備

中華人民共和国とインドネシアはスハルト政権発足から間もない1967年10月、

激しい非難の応酬の末、国交を凍結している O これに伴って、 1955年の「二重

国籍に関する条約Jと60年からの国籍選択以降、ょうやく解決の途につきつつ

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あった華人の国籍問題は宙に浮いた形となっていた。インドネシア側の内政が

一応の安定を回復、中国でも文革が収束し改革開放政策へ向かう中で、両国の

国交正常化が本格的に模索されたのが1980年前後である。おそらくこれと関連

して、インドネシア側では、 1976年に国籍法が一部改訂されたり、 1976~78年

にかけて中国系住民の人口が集計・発表されたり、 1979年にも国籍を問わず全

ての華人を再登録させるなどの動きがみられた。さらに1980年には100万人規

模の外国籍華人の帰化が促進され、約半数がインドネシア国籍を取得したとい

われる O

これらの動きの中でインドネシア政府がやろうとしたことは、 1)中国系住

民の実数を国籍の実態と共に把握した上で、 2)中国との復交前になるべく中

国籍者の数を減らしておこうとした、 3)同時に、インドネシア国籍を取得し

た者に対しては、「民族の一体性」という論理で、中国ではなくインドネシア

への「唯一の忠誠」を確保しようとした、の 3点に集約できるであろう O そし

て、 2)において、通常の帰化より手続きを簡素化する便宜が図られたとはい

え、なお多くの華人住民にとっては煩演な国籍取得手続きを同じ華人の立場か

ら補助する草の根の全国組織、同時に 3)の観点からインドネシア国籍取得者

に「インドネシア民族となる心得」を周知させる華人中心の組織が改めて必要

とされた、それがほかならぬパコムであったと推測されるのである O

D.政府の動きに乗った同化派華人

以上にみたA~C は主として体制側の要因であるが、これらと同時に、パコ

ムで中心的役割を担う同化派華人の存在と企図を考え合わせることを忘れては

なるまい。 1960年の「同化論争」以来、主にバブルキと対峠しながら60年代の

同化運動を担った彼らにとって、拠点組織だったLPKBが1967年に解散させら

れたことは不本意な事態だった。「平等にして一体の国民化」という意味合い

での「同化」の精神をスハルト体制発足期の対華人政策の言辞中に盛り込むの

に貢献した、というのが少なくとも彼ら自身のアピールだったからである[貞

好 1996: 15L LPKBの解散からちょうど10年後、同じく内務省傘下の機関

としてバコムを創設する動きに指導者として招聴されたことは、彼らの自負心

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を回復する出来事だったであろう O

加えて、 10年前とは異なる問題が表面化しつつあった。 Bでみたように、国

民経済におけるプリブミ優先策をとることは、華人を「区別」し「差別」する

ことである O また、 Cで触れた華人の再登録は、それ自体、既にインドネシア

国籍を取得していた者にとっては不愉快な事態であったが、いっそう悪いこと

に、この時からスハルト時代を通じ、ポスト・スハルト期に至るまで華人の区

別・差別の象徴となる国籍取得証明書 (SBKRI)制度が法制化されたり(197

8年)、住民登録証 (KTP)に華人であることを示す特別コードが(初めはあ

からさまに、後には暗に)付されるなどの慣行が始まりつつあった。同じ国民

となった以上、一切の区別や差別をしないという意味で「同化」を唱導してき

た華人知識人にとっては、本来の精神からの骨抜きないし逆行であり、単に華

人社会に対して呼びかけるだけでなく、政府や一般社会に対しても華人の不満

を代弁して意義申し立てをする必要が出てきていた。そのために、政府が主導

した新運動発動の動きに「渡りに舟」と乗ったのが、同化派華人たちの実情で

あったろう。

これらの推測をいっそう裏付けるためにも、次節でまずバコム成立初期の陣

容を見た上で、次々節ではその時期の代表的言説を幾っか取り上げ、分析して

ゆこう O

第 2節.成立初期の陣容

(1 ) 全体的特徴

バコム中央の役員は、組織運営への関与の度合いにおいて三つのグループに

分けられる O

第一は、前記した「バコム設立憲章jへの署名者8名である O 彼らは、内務

省が主導したバコム設立の動きに積極的に呼応し、設立後も執行部員や後援役

員として中心的な役割を果たしてゆく人々である。第二は、執行部メンバーで

ある O 憲章署名者6名を含め、全部で17名から成る O 彼らはパコム中央の組織

を日常的に運営してゆく任を負う D 憲章の署名者以外の11名は、署名者や内務

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省などの関係者にリクルートされたものと思われる O 第三は、執行部の上に立

つ「後援役員J(penyantun)のメンバーである O 憲章署名者 2名を含み14名

から成る O 彼らは日常的な組織運営には携わらないが、「庇護者」の内務大臣

に典型的なように、役員に名を連ねることにより、バコムにある種の権威(政

府による公認)を与えたり、あるいは逆にバコムを監視してその活動を政府の

思惑通りに方向づけるべく影響力を及ぼす役割を持った者とみてよいであろう O

後援役員の中にはまた、バコムの運営を資金的に支えたと思われる著名な大企

業家も加わっている O

パコムの人的構成において、いま述べた三つのレベルいずれにも共通する特

徴がある O それは、華人として知られている人物と、華人ではない(プリブミ

の)人士がほぼ半々に混在していることである O 特に執行部では、議長のシン

ドゥナタが華人であるのに対し、副議長にはプリブミのスワルノが据えられて

いる O また、経済、法、文化、社会の 4領域ごとに二人ずつの長を置いている

が、その多くはおそらく意識的に華人とプリブミを一人ずつ組み合わせて配置

している O これは、バコムが「華人だけの排他的組織ではない」こと、「バコ

ムの組織構成それ自体が『同化』を体現している」ことの証左として対外的に

繰り返し強調されてゆく特徴となる D とはいえ本稿では以下、便宜上、まず華

人の主要メンバーについて、次にプリブミの主要メンバーについて、 }II買に分析

してゆこう O

(2) 華人の主要メンバー

華人のメンバーは、おおまかに三つのタイプの人々から成る o A) 1960年代

以来、同化主義の論客ないし活動家であった人々、 B)大企業家、 C)それ以

外の人々、である O

Aのタイプに属するのは、シンドゥナ夕、ロー・ギンテイン、ユヌス・ヤヒ

ヤの 3名である D このうち、執行部議長となったシンドゥナタ (Sindhunatha,

Kristoforus.中国名は OngTjong Hai)は、 1933年ジャカルタ生まれ、イン

ドネシア大学法学部在籍中からインドネシア・カトリック学生協会 (PMKRI)

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で活動する O 卒業 (61年)後、華人としては珍しく海軍の法務部スタッフとし

て勤務した。折しもバブルキに反対する同化運動が起きるとその中心に身を投

じ、 1963年にLPKBが設立されると議長に任命され、 67年に同組織が解散する

までトップを務めた。政府と結ぶついた同化運動の指導者としては、バコム設26

立以前から第一人者として知られていたわけである O ロー・ギンテイン (Lo

S.H. Ginting,中国名 LoSiang Hien)は1921年中ジャワのヨクヤカルタ生ま

れ、 1948-55年にかけてオランダのカトリック経済高等学校(旧制)で学び、

インドネシアに帰国後は労働省に勤務した。 1960年に『スター・ウイークリ ~j

誌上で「同化論争」が起きると、同化派の論客の一人となり、翌日年の「同化

憲章Jにも署名者として名を連ねた。 1955年以来カトリック党に加わり、 1966

年~71年には同党から国会議員にも選ばれている O もう一人のユヌス・ヤヒヤ

(Junus Jahja,中国名 LauwChuan Tho)は1927年ジャカルタ生まれ、ロー

同様オランダ(ロッテルダム大学)で経済学を修めた O 帰国早々の

1960年「同化論争Jに加わり、 1961年の「同化憲章」、 1963年以降の LPKBに

も名を連ねるなど、同化派華人の最も熱心な論客・活動家の一人として有名に

なった。やがて1979年にはそれまでのプロテスタントからイスラームへ個人的

に改宗しただけでなく、パコムの活動と並行し(半ば一体的に)同化運動の一z8

環として華人のイスラーム改宗運動を進め、この面での第一人者となる O 以上

の 3名は、パコム設立憲章に名を連ねると同時に、執行部の中心メンバーとなっ

たO シンドゥナタは1995年まで18年にわたって議長を務めバコムの顔となる O

設立時、ロー・ギンテインは正書記、ユヌス・ヤヒヤは社会交流・福祉部門の

長に就いている O

Bのタイプ、すなわち華人企業家に属するのは、設立憲章に書名し、執行部

にも入ったニョー・ハンシアン(N yoo Han Siang) と後援役員メンバーに名

を連ねたウィリアム・スリヤジャヤ (William Soeryadjaya,中国名Tjia

Kian Liong)の二人である O ニョーは1930年ヨクヤカルタ生まれ、中等教育

を中国の慶門で受けるが、国共内戦期に香港を経て1950年インドネシアへ戻る O

ジャカルタやスマランで各種ビジネスに従事した後、 1968年にインドネシア国

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民党 (PNI)系の銀行バンク・ウムム・ナシオナル (BankUmum Nasional)

を買収した頃からインドネシア屈指の華人系実業家として台頭するfスリヤジヤ

ヤは1922年西ジャワのマジャレンカ生まれ、青年時代から各種の商業や製造業

に携わるが、 1957年に設立したアストラ・インターナシオナル杜 (PT.Astra

In ternasional)が最初は農産物などの輸出入業、 1970年代には自動車産業に

おいて発展し、スハルト体制最盛期の1980年代、スリヤジャヤが総帥として率

いるアストラ・グループは、スドノ・サリム (SudonoSalim,中国名 Liem30

Sioe Liong)が創始したサリム・グループと並称される巨大財閥に成長する O

華人企業家たちの関与がとりわけ重要と思われる理由の一つは、バコムの財

政ひいては組織としての基本的性格に関わると思われるからである O パコムの

財源を明示する資料を筆者は持ち合わせないが、インドネシア華人研究者のソ

マースによれば、「パコムは官僚機構とリンクしているが、財政的には民間に

支えられた組織」であるという O 仮に内務省関連の政府予算が皆無で、なかった

にせよ、中央から全国支部にわたるバコムの日常的な活動資金は、財閥級の大

企業家から地方の中小実業家まで、基本的にパコムに関与した華人たち自身が

賄った(賄わされた)、とみるのが自然であろう O この点と、執行部や後援役

のメンバーがバコムの役員に任命されたからといって(もともとそうである者

を別として)政府の官僚になったわけではない、という 2点をあわせ、バコム

を正式な政府機関とみるより、半官半民組織とみる方が適切だと思われるので

ある O

バコムの華人メンバーのうち、 Cグループに属する (Aでも Bでもない)の

は、いずれも執行部で、経済部門の長に据えられたクイック・キエンギー

( K wik Kian Gie) と社会交流・福祉部門の書記に任命されたクリステイアン

ト・ウイピソノ (ChristiantoWibisono,中国名 HuangJianguo) の二人で

ある O このうちクイックは、 1935年中ジャワのジュウォノ生まれ、インドネシ

ア大学経済学部卒業後、渡蘭し、 1963年にオランダ経済高等学校(現・ロッテ

ルダム・エラスムス大学)から経済修士の学位を得る O インドネシア帰国後は

ビジネスの傍ら、教育分野に関与 (1970年トリ・サクティ大学の運営委員に加

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わるなど)するほか、スハルト体制期の華人には稀なことに政治面でも積極的

に発言し続けた O 特に1973年の野党統合で誕生したインドネシア民主党

(PDI)に入党して以来、歯に衣着せぬ論客・政治家として頭角を現してゆく O

他方、ウイピソノは1945年中ジャワのスマラン生まれ、インドネシア大学社会

政治学部に学ぶ。その最中に起きた1965年の 9.30事件以降、スカルノ独裁の

打倒を叫ぶ学生運動のメディア紙『ハリアン・カミ j(Harian Kami) の編集

を務めるなど、いわゆる 166年世代」の学生活動家の一人として知られる o 19

70年代以降は主にジャーナリスト・批評家として活躍するが、 1980年には前述

の企業家ニョー・ハンシアン及び元副大統領のアダム・マリク (Adam

Malik) と共にインドネシア・ビジネス・データ・センター (PusatData

Business lndonesia)を立ち上げ、企業コンサルテイングの分野でも国際的に34

活躍してゆく O クイックもウイビソノも多くの肩書きを持つが、広い視野と明

断な論理、自己の信念に基づき、必要ならばスカルノ政権であれスハルト政権

であれ時の権力をも舌鋒鋭く批判する知識人だという点で共通している O 彼ら

がパコム設立時の執行部に加わっていた事実は筆者にとって驚きであり、パコ

ムを単なる官製翼賛組織として済ますわけにゆかない、と考えた所以の一つで

もある O

(3) 華人以外のメンバー・関与者

プリブミにおいても、官民さまざまな立場の者がバコムの役員に名を連ねて

いる O 彼らは、 D)内務省関係者、 E)それ以外の政府関係者、 F)華人同化

運動に思想的にまたは人的なつながりから関心や共感を持ったと思われる民間

人、の 3グループに分けられる O

まず、 Dの内務省関係者は、役員一覧トップの「庇護者」である内務大臣、

後援役員のトップである社会政治局長ともに、個人名でなく、職名で記されて

いる点が目をヲ|く。当時の内相アミルマフムドや社会政治局長エルマン・ハリ

ルスタマンが私的・個人的に華人同化運動を支援するわけでなく、あくまで機

構としての内務省特に社会政治局がバコムの後ろ盾になるのだ、という姿勢を

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強調したものと思われる O 内務省からは社会政治局・民族一体性促進部の責任

者スワルノが、議長シンドゥナタの補佐役ないし目付け役として執行部副議長

に座っている O

Eのグループを代表する重要人物は、後援役員で社会政治局長に次ぐ 2番目

に名を連ねている軍人スナルソ (Soenarso,1925年生まれ)である O 彼こそは、

1967年 4月に発足した「チナ(中国・中国人)問題解決のための政策立案国家

委員会J(Panitya Negara Perumus Kebidjal王sanaanMenjelesaian Masalah

Cina)の委員長に任命されて以来、スハルト体制初期の対中国・華人政策を35

立案してきた中心人物であった。このほか、スナルソに次ぐ 3番目の後援役員

に名を連ねているスナリオ (Prof.Sunario SH, 1902年生まれ)はスハルト

体制期にはもはや実権を持っていないが、 1955年中国との二重国籍問題に関す

る条約が締結された時のインドネシア側代表(外務大臣)であることから、シ

ンボリックな意味合いで担ぎ出されたものと推測される O なお、バコム設立憲

章に署名し執行部でも社会交流・福祉部門長をユヌス・ヤヒヤと並んで務める

スラエマンについては不詳だが、大佐 (Kolonel)の称号を持つ軍人であるこ

とから、スハルト体制の中枢につながる人物の可能性がある O

Fのグループに属する民間人のうち、執行部の「国政および法律」部門長に

任命されたリドワン・サイデイ (RidwanSaidi)はイスラーム系の開発統一

党から国会議員にもなった知識人であり、ユヌス・ヤヒヤの親友でもある O 後

援役員の一人ヤコプ・ウタマ (YakobUtama)は、 1960年の同化論争で同化

派華人のトップ・リーダーだ、ったオヨン (P.K.Ojong) と共にインドネシア

随一の日刊紙『コンパスJ(Kompas)を創刊したジャーナリズム界の重鎮、

執行部で「社会文化」部門の長に任命されたグナワン・モハンマド

(Gunawan Mohammad)は、 1971年に創刊した週刊誌『テンポJ(Tempo)

を、やはりインドネシアのオピニオン・リーダー誌に育ててゆく著名なジャー

ナリスト・詩人である O 華人メンバーにおけるクイック・キエンギーら同様、

グナワンはスハルト政権期において最も鋭い体制批判を表立つて行なってゆく

稀少な人物の一人である O 彼ら知識人と並んで、企業家のハシム・ニン

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(Hasyim Ning)が後援役員に名を連ねているのが日をヲlくO 西スマトラ出身

で成功したプリブミ実業家の代表格と目されていた彼は、 1979年には「プリブ37

ミ優先」を唱えつつ、インドネシア商工会議所 (KADIN)の会頭に就任する。

第 3節.成立期バコムの諸言説

本節で、は成立期バコムの言説の概要と特徴を、 1977年に発表された三つの声

明や役員の談話を主な材料に分析してゆく O 三つの材料とは (1)10月28日パコ

ムの発足にあたって 8名の中心メンバーが署名した「バコム設立憲章」、 (2)12

月31日内務大臣との会合で議長シンドゥナタが行った「一般報告」、および (3)

それに応えて同日の会合で内務大臣アミルマフムドが指令した「訓示」である O

(1) バコム設立憲章 (1977年10月28日)

インドネシア(とりわけスハルト体制期)の公式文書の多くに共通する特徴

は、本文の前段で、法の制定や組織設立の基礎となる精神を長々と謡い、何ら

かの制度的基盤となる過去の政治的文書や政治指導者の演説の題目・日付など

を列挙することである O パコム設立憲章もこのような形式を踏襲している O ま

ず、「基礎となる精神」の説明で筆頭に挙げられているのは、この日が49周年

の記念日であった「青年の誓いJ(注目参照)である O

1928年10月28日の青年の誓いが「一つの祖国、一つの民族、一つの国語、すなわ38

ちインドネシアを実現しようと全員一致して決意し誓った。

次いで言及されているのは、スカルノ政権末期からスハルト体制期に入って

いっそう、インドネシア国家の基盤精神として神聖性・無謬性が強調され始め

た、パンチャシラ(注14参照)と1945年憲法である O

パンチャシラと1945年憲法こそ、青年の誓いに調われた民族の一体性と団結とい

う理想に向かつて[自分たちを]高めそれを実現するための、理想的で法に適っ

た基礎である O

続けて憲章は、パンチャシラ5項目のうち「インドネシアの統一 (Persatuan

Indonesia) Jに含まれている青年の誓いの精神は、民族の一体性と団結を高め

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てゆくこと、そのためナショナルな連帯感(solidari tas N asional) を損なう

あらゆる障害を取り除くことを政府・人民双方に命じている、と述べる O さら

に、ナショナルな一体性 (kesatuanNasional)という理想、が、スハルト体制

下で国策大綱に書き込まれたワワサン・ヌサンタラ (WasasanNusantara)

概念にも沿っている、とつけ加えた上で、民族の一体性と団結に対する理解を

継続的に高めてゆくには、それらの努力を結集するための何らかの機関が必要

だとの結論が打ち出される O

ここで、その機関設立の裏づけとなる「過去の政治的文書や政治指導者の演

説」が五つ列挙される O それらは順に次の通りである O

1 .スハルト大統領による1967年8月16日の国政演説。

2. 1977年7月19日[実際は17日]から23日までジャカルタで聞かれた、民

族の一体性の理解普及のためのコミュニケーション週間における、内務大

臣の開会および閉会演説。

3 .上記コミュニケーション週間の参加者たちによってなされた声明と考察

概要。

4 .内務大臣からインドネシア全土の一級自治体すなわち各州の知事へ宛て

て1977年8月25日付で発信された電信 (Nomor600/KWT /SOSPOL/D2

/VIII/1977) 0

5. 1961年 1月15日にバンドゥンガンの国民的覚醒セミナー (Seminar

Kesadaran N asional)の中で生み出された同化憲章。

以上を踏まえ、やはりインドネシアとりわけスハルト体制期の公的文書や演

説における決まり文句、「全能にして唯一の神の慈悲により」を添え、ょうや

く「ここに民族の一体性の理解普及のための連絡協会 (BAKOM-PKB) を設

立を宣言する」と本旨が述べられる O 最後に地名(ジャカルタ)と日付、 8名

の宣言者の署名がなされて設立憲章は完結する O 全体として、インドネシア・

ナショナリズムに関わる定型句と、スハルト体制期の政治文書に必須の語群が

散りばめられた、抽象度の高い文書である D 華人社会から生み出された1961年

の「同化憲章Jもバコム設立宣言の基盤文書・演説のーっとして 5番目に言及

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されてはいるものの、大統領・内相の演説や内務省が主導した「コミュニケー

ション週間J宣言などの後に位置づけられているに過ぎない点に注目しておく

べきかもしれない。

(2) シンドゥナタの一般報告 (1977年12月31日)

バコム発足から 2カ月を経たシンドゥナタのこの談話は、「庇護者Jである

内務大臣らを前にした報告 (Laporan) と題されその体裁をとってもいるが、

内容的には、なぜ、バコムが設立されねばならなかったのか、華人問題の歴史的

経緯に関する彼の見解を述べると共に、その問題解決のためにパコムを活用し

ながらどのように対処してゆくつもりか、についての所信表明となっている O

当初から文書として作られた設立憲章に比べ、口頭演説であるこの報告は、具

体的な表現が比較的多い上、プラナカン華人としての心情の吐露も垣間見られ

るO

冒頭に一通り出席者(内務大臣、内務省社会政治局長、パコム後援役員およ

び執行部役員、政府の他機関や華人社会代表などと思われる招待客)に対し挨

拶を述べた後、シンドゥナタはまず、バコム成立を必要とした「問題」の所在

を概略次のように述べる O

「外国系、特に中国系インドネシア民族の住民集団 (golonganpenduduk

bangsa lndonesia keurunan Asing Cina)として今なお認識される住民グ

ループをめぐる違和感 (keganjilan)や不安感 (keresahan)がずっと以前か

ら、今も広くインドネシア社会に感じられている O この問題は複雑な諸要因が相

互に影響し合っており、過去の負の遺産でありながら、現在にいたるまできちん

と克服できていない。

次いでシンドゥナタは、問題解決に向けた努力の歴史について語る O

ネイション・ピルデイングの観点からこの問題を適切に解決すべく様々な努力が

なされてきた。 1928年の青年の誓いに始まって、 1945年憲法の策定、ハッタ副大

統領による1945年11月1日の政治宣言、故スカルノ前大統領[の努力]、 1961年

バンドゥンガンにおける同化主義者たちの声明、 1963-1967年の LPKBの闘争プ

ログラム、さらに1966年以来今日までのスハルト大統領の元での新秩序体制政府

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の政治的確約に及ぶ。

「これだけ多くの明噺で決然とした取り決めの努力に関わらず、我々が理想と

する社会生活の状態を生み出すに至っていない」と総括するシンドゥナタは、

彼のいう理想的社会を次のように描く O

人の出自に対する偏見に毒されることがもはやない、完全で均質な (bulatdan

homogeen)杜会である O

この後、シンドゥナタの語りはインドネシアにおける華人社会のありように

移る O

中国系インドネシア国民は代々にわたってインドネシアで生活してき、生まれ故

郷・干且国 (tanahair kelahirannya)としてインドネシアしか知らないプラナ

カンである O つまり、そこで生き、生計を立て、忠誠を誓い、やがて死んでゆく

祖国 (tempattumpah darahnya)としてインドネシアしか知らない。彼らの

大多数は、既にかつ今に至るまで忠誠の対象がインドネシアのみに帰一

(manunggal)する、との証しをず、っと立ててきた。彼らはインドネシア社会に

既に統合され同化している (berintegrasidan berasimilasi) 0 彼らはインド

ネシア人なのである。

ここでの第 1のキーワードは、代々インドネシアで生まれ生き死んでゆく、そ

れゆえにインドネシアを祖国と仰ぐ「プラナカン」である O プラナカン華人が

生まれに基づく原初的な紐帯をインドネシアとの聞に有するという論理は、

1960年代の同化論争における同化派にもしばしば見られた。他方、第 2のキー

ワードは、インドネシアに対する心性と態度を表す「帰一J(manunggal)と

いう言葉である O 元来ジャワ語の権力概念であったこの言葉が、インドネシア

国家に対する忠誠の唯一性や、その忠誠が特定の権力中心や政治イデオロギー

に収殺すべきという意味で頻繁に用いられ始めたのは、スハルト体制期の特徴

である O

シンドゥナタはインドネシア華人の大多数はプラナカンとして歴史的にイン

ドネシアへ同化統合されてきたとの持論を展開する一方、次のようにも述べる O

しかし残念なことに、中国系出身のインドネシア国民の中にはインドネシアに対

し唯一の忠誠心を持たない連中も依然として存在する O 自己の最大限の利益だけ

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を考え、国家と同胞に損害をもたらす輩である O 密輸をしたり政府の役人と結託

して汚職をする連中、彼らの慣行こそが目立って新聞に報道される O しかも常に

「中国系」というレッテルを加えられて O これらの結果、中国系の国民はまだ100

%のインドネシア人ではない、という清疑と偏見に満ちたイメージが生み出され

るのだ。

このように、一部の「悪い華人」の行いゆえに、大多数の「良い華人」までが

混同して誤解されているという論理も、 1960年代以来の同化派華人にしばしば

見られたものである O

次いでシンドゥナタの舌鋒は、「よりアスリ (asli,本来の)ないしプリブミ

と呼ばれる、華人以外のインドネシア国民」に向かう O いわく:

むろん大多数の人は、中国系国民が「青年の誓い」の理想、に則り、インドネシア

へ唯一の忠誠をもっ証を日々の態度や行いの中で示している限り、たまたま外国

系であっても100%の同胞として受け入れることができる O だがここでも残念な

ことに無責任な輩たちがまだ見出されるのだ。料簡が狭く、嫉妬や憎しみと混じっ

た人種的偏見に満ちた人々、あるいは単に私的な利益を求めて華人から搾り取ろ

うとする役人、あるいはただ個人的なもうけのためだけに密輸や汚職をするよう

な華人たちと深い考えもなく結託するような連中だ。こうした連中は社会一般の

中にも政府の中にもいて、その言動の結果、インドネシアについて歪んだ印象を

生み出している O インドネシア国家が中国系出身の国民に対して不公平で差別的

な行いをしているという批判もあれば、逆に中国系グルーフ。に偏った利益を供与

しているという印象を持つ人々もいる O 私の描写は簡略なもので完全ではないだ

ろうが、政府と社会とが協力して徹底的に対処すべき援合的問題の現状を描いた

つもりでいる O

このように、「民族の一体性J(ないしその言い換えとしての「同化J)の実現

のため、単に華人側の意識改革と一方的な努力を説くのでなく、プリブミ社会

や政府の汚点をも指摘し、適切な改善努力を呼びかけるのは、 1960年代の同化

論争や同化運動での同化派の言説にあまり見られなかったものであり、注目に

値する D

「政府と社会とが協力」し、互いに情報を交換しながら「民族の一体性と団

結についての理解を啓発し、その実現を促進」するための機関、 7月の「コミユ

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ケーション週間」での運動をさらに推し進める常設機関が必要となったのだ、

と述べた上で、シンドゥナタは、その機関すなわちバコムの目指すところを改

めて次のように宣言する O

(パコムの目的は)民族の一体性と団結を高めるべく円滑化・促進に努めること

である O それは、インドネシア国民の全ての構成要素の問の、生活の凡ゆる領域

にわたる、融合と同化 perpaduanserta pembauran (asimilasi)の過程を

通じて行われる。パコムはそのために、社会の善意の構成員同士、すなわちイン

ドネシアのネイション・ピルディングの観点から団結と一体性の感情をず、っと強

め続けることの大切さを共に認識している国民同士、さらにそうした国民社会と

政府の聞をとり結ぶ、情報交換と相談の受け皿として機能することを欲する O

ここでは、パコムの使命とする「民族の一体性と団結Jの促進が、彼の言う国

民の構成要素、具体的には華人とプリブミとの間の「融合・同化Jを通じて実

現されるという観念が明言されていること、バコムが第一義的に華人とプリブ

ミ、また両者を含めた社会と政府を仲介する連絡機関として位置づけられてい

る点カfポイントであろう O

その上で、パコムはまた民族の一体性と団結に関わる問題群についての観察・

分析・情報センターともなることを目指すと同時に、その目的に役立つと思わ

れる具体的な社会活動の旗振り役・推進役ともなるであろう、とされる O さら

に当面の活動として、まずはインドネシア社会と政府諸機関にパコムの役割に

ついて広く知らしめることだと述べた際、「とりわけ経済分野と国籍問題に関

する、システマティックで方向性のある調査プログラム」を推進することを広

報と並ぶ活動の柱の一つに据えたい、とシンドゥナタが特に「経済問題J及び

「国籍問題」へ言及している点に注目しておきたい。

最後に、パコムが取り組もうとしている問題(華人の問題)は、インドネシ

アにとって致命的に重要なネイション・ビルデイングの一つの構成要素である

こと、今後時間をかけて末永く活動してゆく必要があるだろうと述べたシンドゥ

ナタは、そのために「青年の誓いの高遇な理想精神をまだ保持し、物質中心主

義にまだ毒されていない全てのインドネシア人民 (rakyat)Jは、血統やエス

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ニシティによる出自 (asalketurunan dan kesukuan)に対する偏見に害され

ることのない、「一つの、完全で均質なインドネシア民族 (Bangsalndonesia

yang satu, bulat dan homogeen)Jについて理解し実現するためにバコムと

共に闘いを続けよう、と呼びかける O このような精神に基づき、政府の祝福と

内務大臣閣下のさらなる訓示を請う、と挨拶して彼は降壇したのであった。

(3) 内務大臣アミルマフムドの訓示

内相はバコムの役員 (pengurus)筆頭に名を連ねているが、政府を代表す

る「庇護者J (pelindung) として、一段高い所からパコムの設立に祝福

(restu)を、また今後の運営に指示 (petunjuk)を与える、というのがこの訓48

示 (pengarahan,原義は「方向付けJ)の趣旨なので、厳密には「パコム(内

部)の言説」と言えるか、微妙な所である O だが、パコム設立を主導したスハ

ルト政府特に内務省がこの新組織にどのような役割を期待しているのか、その

思惑を読み取るには格好の材料だと思われる O

訓示の冒頭で、アミルマフムドは概略次のような「前言」を述べる O

「青年の誓ぃ」の精神に含まれた、一つの祖国・民族・国語すなわちインドネシ

アの実現という意義を高く掲げ、しっかりと団結を誓った諸君に謝意と敬意を表

する O 我々はこの闘争精神こそを指針として、民族の一体性の教化普及、パンチャ

シラに則った公正で繁栄した社会の実現へ向けて共に努力してゆくのだ。 7月の

「コミュニケーション週間」の際にも言った通り、民族の一体性の問題は、イン

ドネシア民族全体の責任であり、われわれの国籍の基盤的理念、すなわち、国民

の地位は全く同等であり (samaderadjatnya)、同等の権利と義務を持ち、エ

スニシティ (suku)や血統、宗教信仰、性別、社会的地位、肌の色などによって

区別されることがあってはならないという理念に沿って社会生活・国民生活の中

で実現されねばならない。インドネシア民族が一つの偉大で完全な民族となるべ

く結合する過程には、相当長い時間と少なからぬ犠牲を要する、ということをよ

く考えなければならない O 完全なインドネシア民族の実現へ向けた一体化

(penyatuan)ということそれ自体が一つのプロセスであり、インドネシア民族

の全ての成員の態度と行動の中で実現さるべく、既にある概念的・構造的基盤を、

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文化的な事実という中身で埋めてゆかねばならない。

民族の一体性の問題(実質的にここでは「華人問題」ととらえてよい)が、イ

ンドネシア・ナショナリズム精神の粋とされる「青年の誓い」、およびスハル

ト体制の国家イデオロギーとして活用され始めたパンチャシラを基礎に解決さ

れるべき、としている点は設立憲章やシンドゥナタの報告と共通している。ま

た、シンドゥナタ同様、内務大臣も国籍の問題に特に言及している点は注目し

ておいてよかろう O 以上を前置きとして、アミルマフムドは問題分析と「解決」

のための方向づけを次のように展開してゆく O

上述した主要問題と関連し、我々は、民族の一体性と団結の促進において人種主

義 (rasialisme)に向かう動きに足をとられないように、と述べた大統領[スハ

ルト]の態度と提案に注意を払う必要があるだろう。独立宣言以降、法的にはイ

ンドネシア国民と外国人の違いがあるに過ぎないとはいえ、社会実態としては

「アスリ(本来)Jの国民と外国系人を区別する傾向が依然みられること、それが

しばしば社会生活の中で不安感を引き起こしていることを、我々は共によく認識

する必要がある O

「スハルト大統領の態度と提案」を示した例として、アミルマフムドは二つを

挙げたO

a. 1975年 7月21日にジャカルタで行なわれたインドネシア・ウラマー協会の全

国大会の開会式で、「国民的 (Nasional)な調和と団結は、インドネシア民族

という大家族 (keluargabesar bangsa lndonesia)の中での各集団内部、

また諸集団同士の調和と団結がなされた時にのみ、実現できるJと[大統領は]

明言された。

b. 1975年 5月29日の国民的民間企業家の育成戦略セミナーの開会にあたって、

大統領は次のように提案された Iこの問題に蓋をしたり、陰で噂される話の

種として放っておいたりすれば、社会的緊張の芽を大きくさせ、開発と国家的

連帯を阻害する要素となるであろう。どの立場の者も、人種主義を退け、偏見

をなくして、この問題を適切に位置づけて直視しなければならない。

この問題=華人問題の根本的な要因として、アミルマフムドは次のような所見

を述べる D

まず最初に、この問題は我々の社会のうちにある不調和 (ketidakselarasan)

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に端を発していることを認めねばならない。それは何十年にもわたって、植民地

支配期の歴史的要因によって引き起こされたものである O さらに観察すれば、こ

の問題は経済の問題として表面化する、より広くいえば社会的公平性の問題とつ

ながっている[ことがわかる]。しかし実の所、複雑な問題を含んでいる O と言う

のは、国民の統合性 (integritasN asional)の問題と関連しているからである。

こうした見地からこそ政府は、問題解決のために、全ての社会層の参加、とり

わけ民族の一体性の重要性を深く理解していると思われる社会の名士たちに参

加を呼びかけるのだ、とアミルマフムドは言う。さらに彼は、問題解決の上で、

我々の中にある差異をあれこれ探してはならない、特に意見を相違を言い立て

るために血統の違いを持ち出すべきでない、と強調する O 他方で、次のような

見方を提示する O

我々の社会生活中の事実として、 WNI問題はインドネシア国籍を取った華人

(WNI)の聞に次のような [2グループがある、という]見方と切り離すことがで

きない。すなわち、

a.インドネシア国籍民となった華人の中で、 「アスリ」のインドネシア人たち

と既に同化 (sudahberbaur)している人々。

b.インドネシア国籍民となったものの、[本来のインドネシア人=プリブミと]

まだ同化していないか、同化しようと努力している最中の華人。

その上で内相アミルマフムドは、彼のいう「同化」についてこのような考えを

示す。

理想的な状態をいえば、同化 (perbauran)というものが今述べたように[数段

階のグループ類型を伴いながら]既に進行し、やがては外国系といわれていた人々

が、ワワサン・ヌサンタラ[としての唯一・一体のインドネシア]の中に溶け込

みCluluh)、一体化 (manunggal)することである。

しかし現実にはそのような理想的状態の実現を阻む要素がまだ多くある O その

中で「既に同化した」華人には、次のような特徴が見られるとアミルマフムド

は言う O

a.彼らが用いている生活慣習 (adatistiadat)は現地[インドネシア内の各

居住地]のものである。祖先[中国]の慣習の残津も依然として若干見られる

けれども O

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b.現地社会の生活規範に従い、それを吸収し実践することが既に可能である。

C. 社会的な交際 (pergaulan)は大半がアスリのインドネシア人たちとの間で

なされ、血統の違いとか、生活水準がより高いなどといった差異を感じて問題

にすることがもはやない。

このような見方に続いて、内相はバコムの使命を次のように断言する O

政府を助けて民族一体性の教化理解のプログラムを成功させることがパコムの責

任である O それはインドネシア民族の建設 (pembangunanBandsa lndone-

sia)に外国系国民の潜在力を活用することを通じてなされる O この問題は我々

共通の問題であり、適切に対処しなければ、予想もできない、また容易に克服す

ることもできない厄介な紛糾を呼び起こすであろう。従って、これらの事柄を深

い思想基盤に則った一貫した態度で受け止め、慎重に取り扱い、社会的な緊張や

紛争に発展しないよう務めなければならない。

スハルト体制が目標とする建設(プンパグンナンpembangunan) は、必ずし

も経済分野に限らず、広く政治・社会・文化的な建設をも含むキーワードだが、

ここで打ち出されている「外国系国民の潜在力の活用」は、主として「華人の

経済力の動員・活用」に読み替えることができそうである O またその動員・活

用にあたって生じかねない「社会的な緊張や紛争jを予め抑え込むことこそが、

パコムの使命すなわち「民族一体性の教化理解」だという論理が浮かび上がっ

てくるのを看て取ることができるであろう O

さらにアミルマフムドは、「全てのインドネシア民族の一体化 Cmanunggal)J

を目指す努力の中で、次のような具体的努力が必要となる、と 4つの方策を列

挙する O

a.インドネシア民族の成員一人ひとりが自己教育をすること O パンチャシラ的

人間 (manusiaPancasila)となりワワサン・ヌサンタラに適合したインド

ネシア民族となるような教育を通じて自己教育のための理想と哲学を創り上げ

ること O

b.全てのインドネシア民族のイデオロギー精神のj函養。、それは社会文化的側面

に重きを置いた様々な方法の教育を通じてなされる。その中では[精神の]破

壊的側面を建設的側面に振り向けるような実践が行われる O

C. パンチャシラ的民主主義についての的確な理解を根付かせること O これは、

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国民生活を整序する一つのシステムとして、またインドネシア民族の成員同士

が相互に相対するとき、完全にパンチャシラに則った態度をとる規範としての

民主主義である O

d.村や町の中のデサ (desa,行政の最小単位)をパンチャシラ的人間形成の戦

略的基盤とすること。

4つの方策といいながら、「パンチャシラ的な人間の育成」や「パンチャシラ

的民主主義」が、国防治安と結びつくワワサン・ヌサンタラ概念と共に、内相

アミルマフムドの「方策」を貫く最大のキーワードであることが一目瞭然であ

ろう O 実際、「パンチャシラの理解と実践のための指針 (P4)Jが国策大綱に

盛り込まれ、教育文化省や内務省の肝いりで P4普及運動が全国の学校や職場

で大々的に展開され始めるのは、この演説から僅か 3カ月後、 1978年3月以降

のことである O

さらにアミルマフムドは、社会文化的建設を支える価値観や態度を育成発展

させるための具体策を 8項目にわたって述べるのだが、次の 4項が特に注目さ

れる O

a.民族としての一体感を育成すること、インドネシア民族および国民 (bangsa

dan warga negara lndonesia)としての自覚を高めること。ここでいうイ

ンドネシア民族および国民とは、国民的・国家的な利害 (kepentingan

Nasional)を、個人的利害、エスニツクグループの利害、地方やその他の集

団の利害よりも優先させる者のことである。

d.インドネシア語の使用頻度と質を高め、科学・技術的知識の言葉として、ま

た民族の成員同士が交流するための言葉として、いっそうよく機能するよう努

めること。

e.インドネシア民族の個性 (kepribadianbangsa lndonesia) に適合した

経済システムを発展させること O

g.人々が質実な生活を実現できるような雰囲気を創り出すこと。警沢な暮らし

を競い合いたくなるような刺激を与えてはいけない。

最後に内務大臣アミルマフムドは結語として 5つの事柄を述べる O あたかも

政治文書の如く既に見た定型匂ばかりが繰り返される 3~5 項を省略し、最初

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の2項目の概要を訳出する O

1.近代的世紀の今日にあっては、もはや単一の血統のみから全成員が生まれる

ような民族 (Bangsa)は存在しない。従って、[政府・社会の]全ての関係者

が民族一体性[がどのようなものであるべきか]について理解することは、ワ

ワサン・ヌサンタラ概念の中で意図されたょっな、完全で一つに統合された

(yang bulat bersatu padu)一つのインドネシア民族を実現するための共同

の責務である O

これらの言葉を、ワワサン・ヌサンタラというスハルト体制特有の政治用語を

現役の内務大臣が述べている、という文脈からいったん離れ、やや一般的な意

味合いに敷桁し直してみると、国籍要件などにおける「血統主義」ではなく、

ヌサンタラすなわちインドネシアという地理的広がりの内への居住事実に即し

た、ある種の「領域主義」に基づいた「民族J(Bangsa)形成を(おそらく本

人はさほど自覚せず)語っている結果となっている点が、筆者には興味深い。

とはいえ、バコム設立によって推進しようとしている「民族一体性」、華人に

おいては「同化」と換言されるのであろう理念をスハルト政権の内務大臣がど

のような論理で「理想的状態」だと言おうとしているのかは、続く第 2項の方

に鮮明であろう O

2 .全ては今後の闘争にかかっている。既に据えられた概念的・構造的な基礎の

上に、継続的なプログラムや運動の実践によって内実を埋めてゆくだけでな

く、 [一般の人々の]実際の態度やおこないによって完全なものとされねば

ならない。それは文化的価値を単一化・均質化 (manunggalkan dan

meluluhkan)するためであり、最終的にはインドネシア民族の全ての成員の

態度や行いからその文化的価値が放射されることになる O それこそが真に、イ

ンドネシアの個性 (Kepibadianlndonesia)と色合いを示すことを意味する

のである O

おわりに

本稿で検討したのはパコム成立最初期の経緯と背景、陣容と言説に限定され

ている O だが、組織立ち上げの時期であればこそ、何のためにそれが必要なの

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か、問題の所在をどこにみるか そのためにいかなる対策を何に拠ってなすべ

きか、についての関係者の考えが比較的よく発現しているのではないかと筆者

は考えた。とりあげた三つの言説はいずれも精綴に体系だ、っているとは言い難

く、建前と本音が交錯する中で様々な事柄が絢い交ぜに語られている O とはい

え、これらをトータルで見た時、少なくとも二つの立場と論理が同じバコムの

中に当初から調和しきれぬまま同居し、せめぎ合っているさまを看て取れるの

ではないか。

一方は、内相の訓示に顕著な、スハルト体制の思惑に発する論理である O そ

こでは「インドネシア(という民族と国家)への一元的忠誠」が「スハルト体

制への一元的忠誠」にすり替えられている O 本来次元の異なる両者をつなぐ道

具立てはパンチャシラとワワサン・ヌサンタラである O そして、これらの体制

イデオロギーへの帰一 (manunggal)を通じて初めて、華人も他の国民同様、

インドネシア民族と国家に一体化できる、それこそがバコムを通じて実現され

るべき華人の「同化」にほかならない一おおよそこれが内相訓示の論理的構造

であろう O

他方は、同化派華人の代表者・シンドゥナタの発言に垣間見える、独自の企

図である O 彼は生まれと生活歴によって本来的にインドネシアと結びついてい

るプラナカン華人、ましてインドネシア国籍を得た華人は、既に十全たるイン

ドネシア人としてプリブミと区別なく受け入れられるべきだと主張する O ただ

し、インドネシアに対する華人側の「唯一の忠誠」が前提条件である O 華人が

そのような精神態度を示している限り、負の歴史遺産や一部の不心得者のため

に根強く残る偏見の産物とはいえ、区別や差別をする側が責められるべきとの

立場を打ち出している O 華人がもはやプリプミから区別されることのない社会、

もしくは両者の融和的な関係が実現されることを指して「同化」と呼ぼうとす

る傾向が、シンドゥナタの言葉のそこここに認められる o 1960年代以来の同化

派華人の多くと同様、おそらくこれが本音である O

しかし、シンドゥナタの論理において、華人とプリブミの区別をしないこと、

両者の平等にして一体的な関係の実現は、あくまで共通のナショナリズムによっ

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て担保される O インドネシア・ナショナリズムの出発点たる「青年の誓い」や

それを下敷きにした「同化憲章jの精神に則るべきことは、 1960年代初頭から

20年近くにわたって繰り返し唱えられており、それらはもはや建前というより

信念として響く O パコム発足期のシンドゥナタの言説で(彼が署名者の一人で

あったパコム設立憲章も合わせ読んだ時)注意を引くのは、これらの古典的言

辞に加え、スハルト体制が翼賛イデオロギーとして本格的に採用し始めたパン

チャシラやワワサン・ヌサンタラなどのキー概念をも積極的に援用している点

である O 組織としてのバコムがスハルト体制に後援されている以上、同化運動

の正当性を主張する上で巧みに活用したと言えなくもないが、反面、部外者の

日からみて、同化派華人がスハルト体制に全面的に取り込まれ、その代弁をす

る機関がパコムだとの印象を与える面も否めない。

パコム発足から約20年後、スハルト体制が崩壊した翌1999年、バコムと同化

運動におけるシンドゥナタの盟友ユヌス・ヤヒヤは、「我々の同化プロジェク

トはスハルト体制に乗っ取られた(がために失敗したのだ)J という意味のこ

とを口にする。この発言の評価は保留するが、少なくとも、半官半民の複合組

織バコムが、スハルト体制の思惑と、その枠組にできるだけ沿いつつ華人社会

の利害を彼らなりに代弁しようとする同化派華人の企図との切り結びの中で、

当初から矛盾を内包しつつ出発したことは、本稿で、扱った限られた事例の検討

からも示すことができたのではないかと思う O

バコムの抱えた矛盾は、 1980年代、スハルト体制が絶頂期を迎え、 1990年代、

加速度的に綻びを露呈し始めるにつれ、社会矛盾の増大と並行して拡大してゆ

くO スハルト体制は幾つもの変容を重ね、バコムもまた弟子余曲折をたどる O 総

じていえば「平等にして一体の国民共同体」という建前と、あらゆる政治的ス

ローガンを空疎に響かせるような社会的不公正・経済格差の拡がりという現実

の矛盾、それに対する無策、矛盾のさらなる再生産、インドネシアの人々のそ

れに対する怒りのマグマに、スハルト体制もパコムも呑み込まれてゆくのであ

るO もっとも、これらの過程の本格的検討は、別稿に委ねるべきであろう O

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Y王

パコムの正式名称はBadanKomunikasi Penghayatan Kesatuan Bangsa、

字義に即して訳せば「民族の一体性に関する理解普及(教化)のための連絡協議会」

となるが、長いので以下「パコム」と略称する。

2 インドネシアの華人人口は長らく公表されず植民地時代 (1930年)の調査を参考に

総人口の 2~3% と概算されてきた。 2000年に独立後初めてエスニシティ帰属を含め

た国勢調査が行なわれたが、華人について公表されたのは200万人台と予測を大幅に

下回る数字だったため、調査のやり方そのものや集計段階での操作を疑う声が多く、

華人団体の発言やメディアの報道などでは、依然700万人 ~1000万人という数を華人

人口として語ることが多い。 2000年国勢調査の研究者による分析として貞好 [2004:

89-90J、Mackie[2005Jを参照。

3 プリブミ (pribumi)は、「外来」とされる華人などに対し「土着」とされる大半

の国民を指す集団呼称。

4 そのような論調は、 Heryantoの秀作[1998Jをはじめ、研究論文や政治運動リー

ダーの主張に枚挙に暇がないほど見られる O

5 Suryadinata [2003Jをはじめ、このような見方も研究論文や華人組織の出版物記

事などに非常に多くの事例がある O

6 プラナカンは元々、華人男性と現地(主にジャワ)女性の混血に由来する、現地生

まれの 2世以降を指し、トトッ(中国生まれの移民一世)との対比で成立した概念で

ある。インドネシアの独立後は混血のニュアンスは薄れ、インドネシア生まれ、かっ

中国系諸語でなくインドネシア系諸語を母語とする華人を主に意味するようになった。

特にジャワでは20世紀前半既に、華人人口の三分の二以上を占めていた。

7 パコムを正面からとりあげてはいないが、断片的に言及し、比較的有用な研究は幾

っかあり、適宜活用する。 Coppel[1983J, Setiono [2003J, Somers [1992J, [相

沢 [2005a,bJなどがそれである。

8 詳しくは論末の参照文献一覧に列挙する。このうち一次資料には長い名称の政府機

関や組織が発行者であることが多いので、便宜上、 BKM,DDNなどと略号を付し

た。

9 行事名の冒頭の語、「週間 (Pekan)Jを「機関 (Badan)Jに入れ替えると、その

ままバコムの正式名称となる。名称後半の PKB (Penghayatan Kesatuan

Bangsa)が共通するキーワードである。相沢はこれを明快に「国民統合統括」と訳

しているが、 Penghayatanというインドネシア語は日本語一語に置き換えにくい D

働きかけを受ける一般国民(特に華人)の側からみれば「包括的理解」の意味に近く、

働きかける側(政府・バコムなど)を中心に考えると「普及・教化」という語感にも

なる。また、 Kesatuanは「一体性と団結 (Kesatuandan Persatuan) Jというイ

ンドネシア・ナショナリズムの慣用匂を一語で代表させた言葉だと筆者は考えるが、

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話者・論脈によっては状態・性質としての Kesatuan(一体性・唯一性)とそれへ向

けた動き・努力としての Persatuan(一致団結)が微妙に使い分けられることもあ

るので、あえて「統合」とせず「一体性」としておく O さらにBangsaも「国民」と

訳す方がふさわしい場合と、「民族」とする方が適切な場合があるので、適宜訳し分

けてゆく O

10 以上、パコム設立についての公式文書(内務省発行)である DDN、および設立の

顛末を半年後に取材した報道記事 [TMP: 5Jによる O

11 オランダ植民地期の1928年10月28日、当時のパタピアで開催された第 2回インドネ

シア青年会議で「一つの祖国・インドネシア、一つの民族・インドネシア民族、一つ

の国語・インドネシア語」の尊重と実現が調われた O この出来事が一般に「青年の誓

い」として知られるようになり、 10月初日は、独立記念日の 8月17日に次ぐ、インド

ネシア・ナショナリズムの最も重要な記念日とされるようになっていた。

12 [DDN: 10J.なお、この時点で、南スラウェシと西ヌサトゥンガラの二州では既

にパコム支部が設立されていることが報告された。

13 社会政治総局を中心とする内務機構の整備過程については主に相沢 [2005a;2005bJ

を参考にした。

14 パンチャシラ (pancasila)は元々スカルノによって提起され、 1945年憲法前文に

書き込まれたインドネシア共和国の国是。①唯一神への信仰、②公平で文化的な人道

主義、③インドネシアの統一、④協議と代議制において英知に導かれる民主主義、⑤

全人民に対する社会正義、の五原則から成る O 本文中に記した通り、 1978年 3月から

「パンチャシラの理解と実践のための指針J (Pedoman Penghayatan dan

Pengamalan Pancasila,略して P4)が学校の教科や公務員の研修などの形で導入

され、スハルト体制を思想面で支えるイデオロギーとして徹底的な普及浸透が図られ

たD

15 自治体国際化協会『インドネシアの地方行政j(1998)第3節(2)一(4)によれば、内

務省社会政治局の主な任務として、「圏内の社会・政治全般の安定確保、維持Jr国家

イデオロギー(パンチャシラ)の普及Jr国家統合の強化(外国籍の人々の帰化対策

など)J r市民防衛隊 (HANSIP)の管理、運営Jr総選挙における自由・秘密投票保

護のための適切な社会情勢の確保」が定められている O

16 マラリ事件とそれを受けた経済政策については、佐藤 [2002: 256-261J,ロピソン

[158-193Jを主に参照。

17 スハルトによる強調は、例えば1967年8月の独立記念日演説[貞好1996: 12-13Jを

見よ。

18 マラリ事件から半年後の1974年8月、首都ジャカルタに限ったバコムの前身組織と

いえる BPKB(Badan Pembina Kesatuan Bangsa dalam wilayah D.K.I.)

がジャカルタ州知事の音頭、本文で後述する国家情報調整局 (BAKIN)の後援で発

足した事実を、このことの証左のーっとして挙げられよう O 注23も参照。

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19 この結果は中央統計局 (BPS)によって1980年に発表された。スハルト体制期に中

国系住民の人口が公式に発表されたのは、この時が最初で最後である。

20 1979年の一括再登録については梅津 [89、注20Jなどを参照。

21 梅津[前注に同じ]、 Setiono[1024Jなどによる O

22 この点において、パコムの中心となる同化派華人たちは皮肉なことに、彼らのかっ

ての政敵で9.30事件の後に解散させられたパプルキ(インドネシア国籍問題協議会)

と同じ「華人の世話係」の役を担うことになる o 1955年二重国籍条約を受けた58年イ

ンドネシア国籍法の発布、 60年からの国籍開始とほぼ同時に「同化論争J(1960年)

が起きたこと[貞好 1995Jと、凍結されていた国籍問題が再び動き始めた1980年前

後バコムに代表される「同化運動」が再発動されたことは、偶然ではない類似現象だ

と筆者はみる。

23 注目で触れた BPKBの設立には同化派華人の組織「民族の芽」協会 (Yayasan

Tunas Bangsa) も加わっていた。 1962年に作られた同協会の1970~80年代の議長は

シンドゥナ夕、書記はユヌス・ヤヒヤが務めていた [LKA:149-151と裏表紙など]。

また、本節(1)で述べた1977年5月「コミュニケーション週間」最終日の声明には、イ

ンドネシア国籍を得た華人をその後も特別の名称で区別したり、差別することを一切

やめるよう呼びかけた意見書が、おそらく同化派華人の意向を盛り込んで付されてい

る [DDN:55回 56J。

24 役員構成の全容は論末参考資料①を参照されたい。

25 これは、 1950~60年代、実質的に華人だけの大衆組織として発展したパプルキを

「排他的」と非難し政治闘争を繰り広げた旧同化運動の系譜上にパコムが設立された

ことと関↑系している。

26 以上、シンドゥナタの履歴については、 Suryadinata[1995: 151-152Jや2005年

8月16日に彼が逝去した時の言卜報記事 [Kompαs,18 Agustus 2005Jなどに拠る。

彼は海軍には1971年まで在籍、その後は軍籍を離れて経営コンサルタントを務めるな

どした。逝去後はジャカルタの国家英雄墓地に葬られた。

27 以上、ロー・ギンティンの履歴については主に Suryadinata [1995: 22Jに拠る C

彼はまた経済学修士として教育分野でも活躍し、特に1960年代から70年代初頭にかけ

て、ジャカルタにあるカトリック系のアトマ・ジャヤ大学の学部長や学長も務めてい

るO

28 ユヌス・ヤヒヤの人物については、 Suryadinata[1995 : 46J、彼の移しい著作の

著者プロフィール楠などのほか、 1991年8月の 2回にわたる面談に基づく O

29 ニョー・ハンシアンについては、 Suryadinata [1995: 109-110Jのほか、 Tempo

1978年 2月18日号の特集記事7頁などに拠る.

30 ウィリアム・スリヤジャヤとアストラ・グループについては、 Suryadinata[1995 :

155-156J、佐藤[1989Jのほか、佐藤論文を掲載した『国際経済j304号(インドネシ

ア特集)の関連諸論文・記事,ロピソン [263-270Jを主に参照。

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31 Somers [1992 : 15RJ。ただし、彼女のこの簡単な記述に論拠は示されていない。

バコム設立時に定められた規約第14条には単に「バコムの財源は政府補助、社会から

の寄付、および他の合法な事業から得られる」とのみ記されている [DDN: 28J

32 華人に関わる政府系組織の運営や独立記念日などの行事に際し、地方華人社会のリー

ダーたちが「自発的」寄付の形で資金調達を担わされるさまを、 1995~97年に中部ジャ

ワ州都スマランで行なった現地調査で、筆者自身しばしば見聞した。同じ中部ジャワ

のルンバンで津田浩司が行なった研究でも、県政府や軍関係者の資金集めにパコム支

部が利用される事例が多く報告されている[津田2007(12月刊行予定日。

33 クウイツク・キエン・ギーについては Suryadinata [1995: 73-74Jのほか、クイツ

ク自身が著した幾つかの著作の著者紹介、 Tempoをはじめとする雑誌記事などによ

る。彼はスハルト体制期の野党・インドネシア民主党(のち分派した闘争民主党)の

幹部だったが、 1998年以降は、ポスト・スハルトの歴代政権で経済担当調整大臣や国

家開発企画庁長官などを歴任するほか、国民協議会の副議長も務めることになる。

34 クリステイアント・ウイピソノについても Suryadinata[1995 : 221-222Jのほか、

彼自身の著作の著者紹介、多くの雑誌記事中の情報による O

35 スハルト体制初期の華人政策立案におけるスナルソの役割や人物については、相沢

[2005b : 27-31, 40-42 Jに詳しい。 1967年4月の委員会発足当時、彼はインドネシア

国軍最高作戦司令部第5部門=領域安全保障部門の長官を務める准将であった。スナ

ルソはその後、 1973年 6月国家情報調整本部 (BAKIN)の中に創設されたチナ問題

調整庁 (BKMC)長官にも就任する O スハルト体制の華人政策における影の統括者と

いうべきスナルソのラインと、当初から表立つて活動したパコムの関係は必ずしも明

らかでないが、 r(スキスマン Skismanをはじめスナルソの協力者はいずれも)華人

で、はなかった上に、中国専門家で、あったため、華人についての知見獲得や情報収集は外

部に協力を仰がざるを得なかったj という相沢 [2005b: 82Jの指摘が示唆的である。

36 リドワン・サイデイについては「イスラーム系知識人」として紹介した Tempo

(1990年9月1日号)の記事やユヌス・ヤヒヤの出版物などに拠る O 彼は後に(おそら

く2001年以降)パコムの第4代議長になる。

37 ハシム・ニンについては主に『国際経済j304号附録の人物リストに拠る O

38 以下、パコム設立憲章の原文は、資料 DDN[22-23Jに拠る。

39 Wawasan Nusantaraは、本節(3)で検討する内務大臣アミルマフムドの定義によ

れば、「一つの政治的単位、経済的単位、社会文化的単位であり、国防治安の単位で

もあるインドネシア列島 (KepulauanNusantara,ヌサンタラはインドネシアの美

称)の実現を目指す」ビジョンとして、スハルト体制期に打ち出された。

40 注目で記した独立記念日演説を指す。

41 この声明 (Pernyataan) と考察概要 (Pokok制 pokokPikiran) も文書 DDN

[45-54Jに収録されており、興味深い論点を幾つも含むが、かなりの部分が次に分析

するシンドゥナタ報告に百|き継がれていることもあり、本稿では紙幅の都合上、割愛

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する。

42 同化憲章 (PiagamAsimilasi)の詳細については貞好 [1996J(附録として全文

も訳出)を参照せよ O

43 以下、原文は資料 DDN[11-14Jに拠る。

44 これらのうち、ハッタによる政治宣言とは、初代副大統領ハッタ (M.Hatta)の

署名で1945年11月1日発表された、独立インドネシアの当面の内政や外交方針につい

ての声明を指す。この中で「アジア系やヨーロッパ系の混血マイノリテイ (Indo-

Asia dan Eropa)を早急に真正のインドネシア人、愛国者、民主主義者となさしめ

る国籍規定を伴う人民主権の実行」が植われた [JJ-91: 25J。

45 ジャワの伝統的権力概念としての i(君臣)帰一Jmanunggalについては、土屋

[1982 : 40-43等]に詳しい。

46 貞好[1995J; [1996Jなど参照。ただし1961年の「同化憲章Jには政府や一般社会

への協力要請の言葉も含まれていた O

47 さらに付け加えるならば、 1960年代の同化論争や同化運動では外来語の asimilasi

で語られていた「同化j概念を表現するのに、インドネシア語の pembauranという

言葉が使われ始めた (asimilasiが補説的に括弧に括られた)点も、「同化」概念と

用法の変選という観点から見逃せない。パコム発足と同じ年に『中国人の哲学と心理』

[資料DPKJを出版した教育文化省の「同化プロジェクト」では、まだ同化に

asimilasiの語を充てていた例などと対照せよ。

48 資料 DDNの序言 [9-10Jで、内務省社会政治局長の ErnanHarirustamanが、

内相の訓示についてそのような位置づけを明言している O

49 以下、資料 DDN[15-21]に拠る O この資料は内相の演説の要点 (Pokok-pokok)

を掲載したものである O

50 このセミナーの資料を入手できなかったので正確なことは言えないが、文脈からし

て、スハルトのいう「この問題」とは、インドネシア国民の経済生活の中で華人一般

とプリブミ一般の経済格差、少なくともそのような格差があるという認識が広がって

いること、また外資を導入した開発路線の中で急成長しつつあった企業家のほとんど

がプリプミでなく華人で占められる傾向があるということ、すなわち華人問題の中の

「経済(格差)の問題」のことを指すと思われる。この発言が第 1節(2)で触れたマラ

リ事件 (1974年)の翌年になされている点に留意せよ O

51 WNI (W arga N egara Indonesiaの略)は字義通りには「インドネシア国家の成

員Jつまりインドネシア国民の意味だが、華人問題を語る文脈では、一般(プリブミ)

の困民ではなく、インドネシア国籍を取った華人だけを指す。

52 ワワサン・ヌサンタラ (WawasanNusantara)については注40を参照。

53 1958年に定められたインドネシアの国籍法は血統主義であるが、住民のうち誰が

「インドネシア民族 (bangsaIndonesia) Jに属するのかについては、「血統Jない

し「人種」に根ざした考え方(この場合華人は排除される)と「生地Jないし「領域」

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に根ざした考え方(この場合華人特にプラナカンは包摂される)との潜在的・顕在的

なせめぎあいが植民地期以来、一世紀にわたって続いていると筆者は考えている O

54 ただし、シンドゥナタが繰り返し口にする「完全で均質な (bulat dan

homogeen)社会」という表現は、彼のナショナリズム理解を反映しているのであろ

うが、多様性やマイノリテイの独自性にとっては抑圧的な、古典的同化思想と受け取

られでも仕方がない。彼において、「同化」は単に「出自による区別なき国民社会J

や「友好的な住民関係」の代替語というわけでもないようである O

55 Purdey [426 Jのインタピ、ュー O 同じ頃ユヌス・ヤヒヤが同化運動を総括した論説

[JJ -99Jも参照。

附資料①バコム(中央本部)発足時の役員一覧

1.庇護者:内務大臣

II. 後援役員:

典拠 [DDN:30-31]

内務省社会文化総局長、 Sonarso,Prof. Sunario SH., Prof. Dr. Santoso S.

Hamidjoyo, Nyoo Han Siang, Dr. Hasyim Ning, Maskoen, Oei Yong

Tjioe SH., M. H. Hoesino SH., Drs. Yakob Utama, William

Suryadjaya, Edi Kowara, Prof. Dr. Fuad Hasan

m.執行部役員

1 . a.議長:K. Sindhunata SH、b.副議長 Drs.Soewarno

2.各領域の長

a.経済部門

(1) Ir. Siswono, (2) Drs. Kwik Kian Gie

b. 国政・法律部門

(1) Drs. Ridwan Saidi, (2)M. Indradi Kusuma SH.

C. 社会文化部門

(1) Guna wan Mohammad、(2)Suharso

d.社会交流・福祉部門

(1) Drs. Yunus Yahya、(2)H. A. Soelaeman (kolonel)

3. a.総書記:Drs. Lo SH Ginting

b.副総書記 Drs.M. Sjariki Dipabuwana SH.

4.会計:Mulyadi Kusuma

5.各領域の書記

a. H. Safiudin, b. Andriati Gunadi SH

c. Drs. Setiawan Abadi, d. Christianto Wibisono

6. 1"その他一般メンバーは追って定める。」

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附資料②参考略年表

(貞好作成)

1965年 インドネシア、国連脱退 ;9月30日事件

1966年 大統領権限、スハルトへ委譲される-共産党非合法化;対インドネシア援助国

会議予備会談;インドネシア、国連復帰;内閣幹部会公示で外国人学校を禁止;

陸軍セミナーで華人および中国を指す呼称として「チナ」使用の提起(翌年、内

閣幹部会回状へ);暫定国民協議会、 WNI(インドネシア国籍)華人の「同化に

よる統合」を彊う O

1967年 外資投資法・「チナ問題解決と政策立案委員会」設置、その中間報告に基づき

「チナ問題解決基本政策」が内閣幹部会指令37号として公布される;中国との国

交凍結;外国系WNI(インドネシア国籍民)に関する大統領決定240号および宗

教・信仰・習俗に関する大統領令14号。

1968年 囲内投資法・スハルト正式に大統領就任。

1969年 第一次開発5カ年計画・ゴルカル設立・国軍再編・中国との二重国籍協定破棄;

内閣幹部会内のチナ問題解決担当特別スタッフの権限が、 BAKINのチナ問題調

整局 (BKMC)に移される O

1971年 スハルト政権初の総選挙、ゴルカル勝利。タマン・ミニ建設反対の形で反体制

運動も表面化。

1972年 国民協議会正式発足。

1973年 諸政党が開発統一党、インドネシア民主党に整理統合される;スハルト再選、

国策大綱採択;バンドゥン等で反華人の要素を含む暴動。

1974年 ジャカルタで反日・反華人暴動(マラリ事件)。

1975年 内務省に社会政治局 (SOSPOL)設置、華人政策担当部署として民族一体性促

進局 (DirektoratPembinaan Kesatuan Bangsa)が置かれる (78年には同

名の部局が各州知事の下にも創設される)。

1976年 サウイト事件(反スハルト運動の表面化国籍法の一部改定(国籍喪失と再

取得に関わる規定)

1977年 第3回総選挙:I民族一体性の理解普及のための…・・・週間」開催 Bakom一

PKB設立

1978年 学生闘争白書発禁処分:P4 (パンチャシラの実践学習運動)プロジ、ェクト始ま

る;スハルト 3選;国策大綱に前年の「週間」で決議された文言「同化への一層

の諸努力の必要性jが盛り込まれる。

主要参照文献

[一次資料IBKM-81: Bakom PKB Pusat, 1981, Asimilαsi dαn Islam, Jakarta: Bakom四

PKB Pusat.

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50

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Gαgαsαηdαn Pemikirαn Bαdαη Komunikαsi Penghαyαtαn Kesαtuαn

Bαngsα. Jakarta: Bakom-PKB Pusat.

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Penghαyαtαn Kesαtuαn Bαηgsα (BAKOM-P.K.B.) Tingkat Nasioηα1

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III=第3刷、内容からみると実質的に第 3版)

DPK: Departemen P&K, 1977, Dαsαr Fαlsαfαh & Psikoligi Orα九g Cinα,

Departemen Pendidian dan Kebudayaan, Proyek Asimilasi di Bidang

Pendidikan dan Pengaturan Pendidikan Asing di Indonesia,

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JJ-89: Junus Jahja, 1989, Kisαh-kisαh SαμdαrαBαru, J,αたαrtαYayasan

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