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「マレーシアの高等教育における日本の国際教育協力」について

開発第 1 部 マレーシアの「ルック・イースト政策」は、1981 年に当時のマハティール首相の提唱に

より始まった。日本や韓国の成功と発展の秘訣は国民の労働倫理や勤労意欲等にあるとし、

マレーシアの国造りのためには、マレーシア国民が留学や研修によってこれらを直接学ぶ

べきとの考え方から、これまで多くのマレーシア国民が日本に派遣されてきた。例えば、

日本の高専、大学、大学院への留学プログラムでは、これまで、約 4,000 名が留学してお

り、現在日本で学ぶ外国人留学生の中でもマレーシア人留学生数は第 4 位(2002 年)を

占めている。 JBIC では、ルック・イースト政策による日本への留学を円借款により支援してきてい

る。なかでも、1992 年に開始した「高等教育基金借款事業(Higher Education Loan Fund Project: HELP)」は、マレーシアの高校卒業生に日本の大学理工系学部への留学機会を与

えるプログラムであるが、単なる留学事業にとどまらず、我が国大学の協力を得て、マレ

ーシアでの現地教育と日本への留学を組み合わせた「ツイニング・プログラム」を我が国

で初めて開発・導入するなど、マレーシアにおける日本型大学教育の実施を視野に入れた

ユニークな試みを行っている。すなわち、1992 年の第一期借款では、2 年間の現地教育で

大学予備教育と日本語教育を実施後、日本の大学 1 年生に入学する「現地教育 2 年間+日

本 4 年間の学部留学プログラム」により、5 期 310 名の留学を支援した。1999 年の第二期

借款では、2 年間の現地教育にて大学教育の一部を行った後、日本の大学の二年生に編入

学する「現地教育 2 年+日本 3 年間のツイニング・プログラム」を導入し、5 期 280 名の

学部留学を支援した。さらに、本年供与した第三期借款では、現地教育をさらに強化し、

3 年間の現地教育の後、日本の大学 3 年次に編入学する計画である。こうした新たな試み

を実施するうえでは、国際化を目指す我が国大学側の積極的な協力が得られたことが成功

の要因となっている。 1996 年以降、マレーシアでは、一連の高等教育関連法規が改訂され、公立の高等教育機

関の拡充や、私立高等教育機関の新設・拡充、欧米やオーストラリア等、海外の大学の分

校設置や、これら諸外国の大学とのツイニング・プログラムの積極的推進等、多様な方法

により高等教育の拡充がはかられている。本調査では、こうした状況を踏まえ、開始後四

半世紀を経たマレーシアのルック・イースト政策の今後の方向性、マレーシアの高等教育

政策の動向、高等教育分野での国際協力に関する政策的潮流、及び、HELP におけるツイ

ニング・プログラムの意義と課題について分析を行った上で、今後のマレーシアにおける

留学生支援事業、及び、他国での人材育成支援事業の検討にあたっての提言を試みたもの

である。調査の実施にあたっては、関連分野に通暁した 4 名の先生方にお願いした。まず、

埼玉大学山田満教授には、ルック・イースト政策の概観及び、ポスト・マハティール体制

でのルック・イースト政策の方向性の分析をお願いした。また、前マレーシア理科大学の

モリー・リー教授(現 UNESCO)には、マレーシア高等教育セクターの再編と改革を分

析して頂いた。なお、翻訳については、早稲田大学大学院学生の北村明子氏に労をとって

頂いた。早稲田大学黒田一雄教授には、高等教育分野での国際協力の政策的潮流、特に世

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界銀行での、途上国の高等教育の現状と諸課題の認識とこれに対する開発政策を整理検討

頂いた。そして、全体のとりまとめと、HELP におけるツイニング・プログラムの意義と

課題、及び留学生支援や高等教育分野における国際教育協力に関する提言については上智

大学杉村美紀講師にご担当頂いた。 人材育成、特に高等教育分野への支援は、我が国の国際協力にとって今後益々ニーズの

高い支援分野になると思われ、なかでも、ツイニング・プログラムといった日本と裨益国

の連携に基づく双方向のプログラムは、両国にとって意義深い協力方法であり、本調査の

成果が、今後、他国における高等教育政策、国際協力事業形成の一助となれば幸いである。 以上

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目 次 「マレーシアの高等教育における日本の国際教育協力」について···················· ⅰ

開発第 1 部 目次 ········································································· ⅲ

はじめに ····································································· ⅶ

第 1 章 ルック・イースト政策の概観とポスト・マハティールの課題と展望

山田 満(埼玉大学教養学部) 1.1 はじめに······························································································ 1 1.2 ルック・イースト政策導入以前の対日関係················································· 2

1.2.1 戦後賠償問題 ·············································································· 2 1.2.2 対外依存における日本の位置づけの推移·········································· 3 1.2.3 権威主義的開発体制の登場と対日関係············································· 6 1.2.4 福田ドクトリンと MAJECA/JAMECA の存在································ 8

1.3 マハティールの「ルック・イースト政策」導入の背景 ································· 10 1.3.1 ルック・イースト政策導入に関するマハティールの個人的背景 ··········· 11 1.3.2 「日本型モデル」の中身······························································· 15 1.3.3 EAEG(東アジア経済グループ)/EAEC(東アジア経済協議体)構想·· 18

1.4 ポスト・マハティールのルック・イースト政策 ·········································· 20 1.4.1 アブドラ首相とルック・イースト政策············································· 21 1.4.2 2004 年総選挙の大勝利とアブドラ時代の到来 ·································· 22 1.4.3 ルック・イースト政策の今後の行方················································ 23

1.5 本章のまとめ························································································ 25 第 2 章 マレーシアにおける高等教育の再構築

モリー・N・N・リー (UNESCO アジア太平洋教育事務局、前マレーシア理科大学)

翻訳:北村明子(早稲田大学大学院) 2. 世界的動向、国家政策、および教育機関の対応:高等教育の再構築

2.1 要約···································································································· 28 2.2 序論···································································································· 28 2.3 グローバル化と高等教育········································································· 29 2.4 高等教育制度の変化··············································································· 31 2.5 高等教育の国家政策··············································································· 33 2.6 私立高等教育機関(PHEIs) ·································································· 35 2.7 法人化された公立大学············································································ 36 2.8 強固な干渉主義国家··············································································· 38 2.9 結論···································································································· 39

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第 3 章 発展途上国の高等教育開発への国際協力の潮流と世界銀行の処方箋

黒田一雄(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科) 3.1 はじめに······························································································ 41 3.2 発展途上国の教育をめぐる世界銀行の協力動向 ·········································· 41 3.3 発展途上国の高等教育への投資に対する批判的見解 ···································· 42 3.4 教育セクター内での優先順位に関する研究と高等教育 ································· 43

3.4.1 収益率分析 ················································································· 43 3.4.2 クロスナショナル分析·································································· 44

3.5 高等教育の開発効果の諸問題··································································· 45 3.5.1 高等教育の費用-その高コスト体質················································ 45 3.5.2 高等教育の便益-高学歴失業と頭脳流出に見る非効率························ 45

3.6 世界銀行の高等教育に対する認識と処方箋 1-1994 年政策文書から ·············· 46 3.6.1 HELE に見る世界銀行の高等教育観 ··············································· 47 3.6.2 HELE の提示する処方箋 ······························································ 47 3.6.3 高等教育機関の多様化·································································· 48 3.6.4 公立高等教育の財源の多様化とインセンティブ体制の整備 ················· 49 3.6.5 高等教育における政府の役割の再定義············································· 51 3.6.6 高等教育改革の最優先目標···························································· 52 3.6.7 HELE に示された世界銀行への教訓 ··············································· 52

3.7 世界銀行の高等教育に対する認識と処方箋 2-2002 年政策文書から ·············· 53 3.7.1 HELE 以降の世界的動向と CKS の発展途上国高等教育観 ·················· 54 3.7.2 貧困削減と高等教育····································································· 54 3.7.3 国家が高等教育に投資する根拠······················································ 55 3.7.4 高等教育に対する適切な投資水準··················································· 55 3.7.5 高等教育開発のための政府の役割の変容·········································· 56 3.7.6 1970-80 年代の世界銀行の高等教育協力からの教訓························· 56 3.7.7 CKS の世界銀行への提言······························································ 56

3.8 HELP に対する世界銀行 2 政策文書からの示唆に関する考察························ 59 第 4 章 日本の高等教育基金借款事業と留学生教育

-日本マレーシア高等教育大学連合プログラムの事例- 杉村美紀(上智大学総合人間科学部教育学科)

4.1 マレーシアの高等教育政策における留学生政策 ·········································· 64 4.2 日本マレーシア高等教育大学連合プログラム(JAD プログラム)の

概要と特徴··························································································· 68 4.2.1 高等教育基金借款事業Ⅰ(HELPⅠ) ············································· 68 4.2.2 高等教育基金借款事業Ⅱ(HELPⅡ) ············································· 69 4.2.3 「日本マレーシア高等教育大学連合プログラム」(JAD プログラム)の

導入経緯 ···················································································· 70 4.2.4 JAD プログラムの内容 ································································· 71

4.3 ツイニング・プログラムとしての JAD プログラムの課題····························· 76

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4.3.1 マレーシア国内における JAD プログラム実施上の課題 ······················ 76 4.3.2 日本・マレーシア間の高等教育基金借款事業の課題:東方政策留学との

比較をふまえて ··········································································· 78 第 5 章 高等教育支援における留学生教育に対する提言

本報告書調査団 5.1 マレーシアの高等教育政策と HELP の将来構想に対する提言 ······················· 83 5.2 マレーシアに対する高等教育基金借款事業と日本の留学生政策 ····················· 89

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図表目次 第 1 章 ルック・イースト政策の概観とポスト・マハティールの課題と展望

図表 1-1 国別輸出入(単位:100 万マレーシア・ドル)···································· 5 図表 1-2 マレーシアにおける外国人投資残高··················································· 6 図表 1-3 対日貿易収支の推移(単位:100 万ドル)·········································· 7 図表 1-4 1999 年および 2004 年のマレーシア総選挙結果 ··································· 23

第 4 章 日本の高等教育基金借款事業と留学生教育

図表 4-1 マレーシアの高等教育人口の推移······················································ 67 図表 4-2 JADプログラム予備教育・大学 1 年次の授業科目と時間数 (2000 年度) ·· 72 図表 4-3 JADプログラム予備教育・大学 1 年次の授業科目と時間数 (2000 年度) ·· 73

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はじめに 本報告書「マレーシアの高等教育における日本の国際教育協力」は、国際協力銀行開発

第 1 部の委託を受け、マレーシア政府派遣留学生に対する日本の「高等教育基金借款事業

(Higher Education Loan Fund Project:略称 HELP)」を検証し、日本とマレーシアの

間の国際教育協力における高等教育支援の方向性を留学生教育という視点から明らかにす

ることを目的とする。 「高等教育基金借款事業」(Higher Education Loan Fund Project、略称 HELP)は、

日本の対マレーシア円借款事業として 1992 年から実施されてきた円借款事業である。第 1 期

HELPⅠに続き、1999 年から第 2 期 HELPⅡが実施され、2005 年現在では、マレーシア

政府からの第 3 期 HELPⅢの要請を受けてその準備が進められている。教育セクターにお

ける対マレーシア円借款事業としては、この HELP の他に「マレーシア大学医学部付属病

院建設事業」、「サラワク大学建設事業」、ならびに「東方政策借款」があるが、留学に対す

る支援策として行われてきたのが、HELP と東方政策借款である。このうち、東方政策借

款は、マレーシア政府による日本への留学・研修プログラムである東方政策が、1997 年の

アジア経済危機により存続が危ぶまれた際、それを支援するために 1999 年に開始された

ものである。以後、2008 年までの 9 年間にわたり、①学部留学、②高専留学、③日本語

教師、④大学院の四分野を対象に、述べ 1,400 人の学生の日本留学を支援するというプロ

グラムが展開されている。 これに対して、本報告書で対象とする HELP は、主としてエンジニアや技術者の育成を

目的として、日本の大学の理工学部及び大学院への留学を支援するものとして計画された。

このうち、1992 年から実施された HELPⅠでは、マレーシアの高等学校を卒業後、現地

で日本留学のための予備教育を実施し、私費留学生統一試験、日本語能力検定試験(1 級)

を受験したうえで来日し、その後、国立・私立大学を選択・受験して大学 1 年から入学する

というシステムがとられた。他方、1999 年から実施された HELPⅡでは、HELPⅠでの実

績をもとに、ツイニング・プログラム(twinning program)と総称されるシステムが採用

された点に大きな特徴がある。このプログラムは、予備教育だけでなく、日本の大学の学

位取得のための大学教育の一部も含めた 2 年間の教育をマレーシア国内で行い、その後、

HELPⅡに協力している「日本マレーシア高等教育大学連合(通称:日本大学コンソーシ

アム)」の加盟大学に 2 年次から編入し、残りの単位を履修して学士号を取得するという

制度である。 こうした留学支援プログラムは、多分野にわたる円借款事業のなかでも特別な意義をも

つ。教育セクターにおける国際協力は、いずれも当該国の国家経済発展を担う人材育成に

関わるものであるが、なかでも留学支援事業のように実際に教育を受ける人物が特定され

て行われる場合、ミクロとマクロ両方のレベルでさまざまな影響を及ぼすからである。従

来、留学は一般的には個人的な所作であると考えられてきた。留学生本人にとって、留学

生活は、一生のなかの一時期を相手国との関わりのなかで過ごすことになり、将来的にも

留学で得た知識や情報、人間関係などさまざまなネットワークがその人物の一生を左右す

るほど大きな影響を及ぼすことが多い。この点で、留学支援事業は、より具体的で直接的

な人材育成のための国際協力であるといえる。

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同時に、留学生は単に個人として留学生活の影響をうけるだけでなく、留学終了後は、

送り出し国と相手国の間のパイプ役として両国間に影響を与える存在でもある。留学を通

して学んだ専門知識以外にも、相手国の言語や文化、生活習慣を身につけている留学生は、

両国間の橋渡し役となる例が多い。留学生のなかには単に文化面での国際交流にとどまら

ず、時には、留学先の国で就職し、政治・経済関係のけん引役となる場合も多々見られる。

この点で、国際協力における留学支援事業は、個人ではなく、国家間のマクロレベルにも

大きな影響を与えうるものである。 こうした留学が持つ政治的・経済的意義は、今日、オーストラリアのように、留学を教

育の一形態であると同時に「留学産業」とみなし、国家発展戦略として位置づける国の登

場により、一層注目を集めるようになった。今回の調査対象であるマレーシアもそうした国

のひとつである。マレーシアでは、1990 年代後半以降、民営化・多様化を軸とした高等教

育セクターの大幅な改革が進められているが、そこでは、従来は認められてこなかった私

立高等教育機関が新たに認められるようになり、それに伴って、欧米先進国の高等教育機

関と連携を結び、単位互換プログラム、先行学習プログラム、フランチャイズ学位などの

導入が積極的に図られている。また、マレーシア国内に国外の高等教育機関の分校を誘致

し、それによって実際に海外に行かずとも学位が取得できるような「国内留学」の動きも

盛んである。このように、民間セクターの力を借りながら高等教育の拡充を図る戦略によ

り、1990 年代半ば以降、マレーシアは従来の留学生送り出し大国としての位置づけから、

アジア地域を中心とした留学生の受入れにも積極的に乗り出し、近い将来、東南アジアの

知的拠点(Center of Educational Excellence)となることを目指している。 こうしたマレーシアの高等教育の動向に示されるように、留学生派遣という点で高等教

育政策と密接な関連があるルック・イースト政策(Look East Policy)とそれをとりまく社

会的環境は、20 数年間の間に大きく変化したといえる。マハティール首相から政権を引き

継いだアブドゥラ首相は、引き続き東方政策を継続する意向を示しているが、一方、マレ

ーシアの高等教育戦略が変化するなかで、今後、マレーシア人留学生の日本への送り出し

がどのようなヴィジョンのもとに進められているか、あるいは進められるべきかという問

題は、高等教育における人材育成施策と密接な関連を持っていると言う点で、マレーシア

高等教育政策の再構築を考える重要な課題である。 他方、このようなマレーシアの高等教育・留学政策を検証することは、留学生を受け入

れる側の我が国にとっても、日本の高等教育・留学政策の方向性を考えるうえで重要な点

である。本報告書で扱うのは、マレーシアからの要請を受けて進められてきたルック・イ

ースト政策、及びその枠組みのなかでの対マレーシア高等教育基金借款事業(HELP)で

あるが、本報告書で重点をおく HELPⅡについては、従来の東方政策留学や HELPⅠには

なかったツイニング・プログラムを導入し、マレーシア現地での教育と日本で受ける教育

に、教育課程などの点で一貫性をもたせたプログラム作りが目指されている。ツイニング・

プログラムを導入したのは、日本の高等教育支援では HELP が初めてのケースであり、今

後、日本の留学政策を考える上でツイニング・プログラムの有効性と課題を知る上で有効

である。また、ツイニング・プログラムの特徴から、両国が協力してプログラム作りや運

営を行う必要があるため、そこでは必然的に、従来の留学プログラムのような一方向的な進

め方ではなく、双方向のパートナーシップが必要とされることにも注目する必要がある。

このようなツイニング・システムのあり方を模索することは、国際教育協力としての留学

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ix

政策のモデルを提示すると同時に、「留学生受入れ 10 万人計画」をついに達成し、新たな

留学政策を模索している日本にとって、これまでの留学政策のあり方に新たな視点を持ち

込むことになろう。それは日本の高等教育の方向性を見つめなおす作業にもつながるもの

と考える。 本報告書では、以上述べた視点に基づき、HELP とその成果・課題はもちろんのこと、

HELP の実施を実質的に支えているマレーシアのルック・イースト政策及び高等教育政策

について検証し、また国際協力における高等教育支援のあり方と言う観点もふまえたうえ

で、今後の対マレーシア高等教育支援の方向性を探ることを目的とした。 本報告書の構成は以下の通りである。 第 1 章山田満論文「ルック・イースト政策の概観とポスト・マハティールの課題と展望」

では、マハティール前首相のルック・イースト政策に焦点をあて、同政策導入前の対日政

策の検証ならびに政策導入の背景を明らかにしている。そして、そのうえで、2003 年 10月にマハティールから政権を継承したアブドラ首相のルック・イースト政策に対する対応

をふまえ、今後のルック・イースト政策の課題と展望を考察している。 第 2 章モリー・N.N.リー論文(北村明子訳)「マレーシアにおける高等教育の再構築」

では、グローバリゼーションの潮流のなかで、マレーシアの高等教育が 1990 年代にどの

ような再編をみせたか、その改革の全体像を分析している。そこでは、1990 年代半ばまで

は認められていなかった私立高等教育機関の拡充とそれに伴う多様化、ならびに国立大学

における民営化・企業化に焦点をあて、マレーシアにおいて 1990 年代後半以降、国家発

展のための人材育成を担う高等教育改革がどのように進められてきているのかを明らかに

している。 第 3 章黒田一雄論文「発展途上国の高等教育開発への国際協力の潮流と世界銀行の処方

箋」では、高等教育分野での国際協力に関する政策的潮流を、特に、国際開発金融機関で

ある世界銀行に焦点をあて、発展途上国の高等教育の現状と諸課題に対する認識と、その

開発のための政策・アプローチの提案という視点から整理している。そのうえで、国際協

力銀行が HELP を今後継続していく際の施策展開についての示唆を得ようとしている。 第 4 章杉村美紀論文「日本の高等教育円借款事業と留学生教育:日本マレーシア高等教

育大学連合プログラムの事例」では、HELP そのものをとりあげ、高等教育基金借款事業

としての概要とその実状、ならびにこれまで HELPⅠ、HELPⅡを通して明らかになった

課題について考察している。ここでは、HELP 留学生のマレーシア現地での教育を行う「日

本マレーシア高等教育大学連合プログラム」(Japanese Associate Degree Program:通称

JAD プログラム)をふまえ、ツイニング・プログラムのもつ意義と課題を明らかにし、高

等教育基金借款事業としての留学生教育の可能性を探ろうとしている。 最後に、第 5 章「高等教育支援における留学生教育に対する提言」では、本報告書調査

団の総括として、留学が双方向にとって有意味な政策として志向されるべきであるという

視点にたって、今後の日本・マレーシア間の高等教育基金借款事業に対する 5 つの提言を

まとめている。 本報告書でとりあげる対マレーシアの高等教育基金借款事業とそこでの成果ならびに高

等教育支援についての提言は、それがそのまま他国・地域の高等教育セクターにおける円

借款事業にあてはまるわけではない。しかしながら HELP がこれまで 10 年以上にわたっ

て培ってきた国際教育協力としての成果は、「世界的な大学の質保証ネットワーク構想」が

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進み、高等教育機関のネットワークを国や地域の枠組みを越えてインターネット上に構築

することで、「世界標準」に基づいた国際間の大学比較が実現を始めようとしている今日、

留学生をめぐる国際間競争を考える上でも、留学のもつ意義をもう一度根底から見直す上

で重要な視点を提示している。ユネスコと経済協力開発機構(OECD)理事会が、「国境を

越えて提供される高等教育の質保証に関するガイドライン」として検討していることにも

示されているように、世界的に高等教育が産業化するなかで、同時並行的に質の劣化・低

下が深刻化している今日、高等教育とそこでの留学生教育をめぐる戦略は、今後、これま

で以上にその重要性が高まるものといえよう。こうした動向をふまえると、長年にわたり

これまで HELP が築いてきた国際交流の絆、ならびにツイニング・プログラムというトラ

ンスナショナルな高等教育プログラムから得られる成果は、今後の高等教育分野における

国際教育協力のあり方を考えるうえで重要な示唆を与えるものであると考える。

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1

第 1 章 ルック・イースト政策の概観とポスト・マハティールの課題と展望 山田 満

(埼玉大学教養学部) 1.1 はじめに ルック・イースト政策(Look East Policy)は、マレーシア前首相のマハティール

(Mahathir bin Mohamad)が、1981 年 7 月に第 4 代首相に就任した翌年 1982 年 2 月に

発表した政策であった。その意味では、ルック・イースト政策はマハティールの個人的色

彩の強い政策であったことが窺える。 しかしその一方で、ルック・イースト政策の根幹をなすマレーシアの「工業化」「近代化」

の模範としての「日本」は、単にマハティールの個人的な思い入れとは別に経済大国とし

ての存在感を国際社会で示していた。例えば、エズラ・ボーゲル(Ezra Vogel)は 1979年に『ジャパン・アズ・ナンバーワン』を出版し、チャルマーズ・ジョンソン(Chalmers Johnson)は 1982 年に『通産省と日本の奇跡』を著している1。これら二人のアメリカ人

の学者による著書は、1970 年から 1980 年代にかけての日本経済の急激な発展と影響力の

大きさを示していた。 また、日本はアジアの中で、西欧列強による植民地化を回避し、アジアで も速く近代

化を成し遂げた国として、近代化の「モデル」と考えられてきた。特に 1868 年の「明治

維新」は、封建国家から近代的な工業国家へと生まれ変わる転換点であったことから、ア

ジアの指導者から注目されてきた。さらに、第二次大戦後、戦争で疲弊した国民がどのよ

うに立ち直り、荒廃した国家をどのように短期間のうちに復興・再建したのか。そして、

どのようにして 70 年代から 80 年代への驚異的な経済発展へとつなげられたのか。このよ

うに日本の戦後の急速な復興と経済発展は明治維新同様に大きな関心事であった。 日本の近代化、工業化への歩み、さらには戦後の急速な経済発展は、マハティール以前

の指導者にも、そしてマレーシアに限らずアジア諸国の指導者にとっても「経済発展」の

「モデル」として当然意識されてきた。 それではマハティール以前のマレーシアの政治指導者の対日姿勢はどのようなものであ

ったか。つまり、マハティールのルック・イースト政策とそれ以前の指導者の対日姿勢の

違いは何であったのか。マハティールのルック・イースト政策には「経済発展」の方法を

学ぶ、つまり「科学技術」の修得や移転を促すことだけではなく、「経済発展」へ導いた日

本の社会文化も学ぶことが含まれていた。「日本の労働倫理」、「日本株式会社」、「総合商

社」などの政策導入は、日本の社会文化的背景の理解なしには導入できないシステムであ

る。だからこそ日本に留学させたマレーシア人(実際はマレー人であるが)学生には「日

本語の習得」を義務付けたのである。 マハティールのルック・イースト政策は、それ以前の 3 人の首相が、社会文化的手本を

旧宗主国イギリスに求めていたことを考えると、大きな政策の転換であったといえよう。

本章では、上記のような問題設定を前提に、第 1 節ではマハティール以前、つまりルック・

1 Ezra Vogel. F, 1979, Japan as Number One: Lessons for America, Harvard University Press.

Chalmers Johnson, 1982, MITI and the Japanese Miracle: The Growth of Industrial Policy, 1925-1975, Stanford University Press.

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2

イースト政策導入前の対日政策を検証してみる。第 2 節で、マハティールのルック・イー

スト政策導入の背景を検証してみる。 そして第 3節では、2003年 10月にマハティールから政権を継承したアブドラ(Abdullah

Ahmad Badawi)首相がマハティールの政策の継承を原則的に発表してはいるものの、

2004 年 3 月 21 日の下院選挙の圧勝を背景に、ルック・イースト政策に対してどのような

立場を今後とっていくのかを考察してみる。 後に、マレーシア人研究者の分析を交えて、ルック・イースト政策の今後の課題と展

望に言及してみたい。 1.2 ルック・イースト政策導入以前の対日関係 ルック・イースト政策は確かにマハティール前首相が強力に推進した政策の一つであっ

た。しかし、ルック・イースト政策を「対日政策」、あるいは「対日関係」に置き換えて考

えてみると、その政治経済的な関係はマハティール以前の首相にとっても重要な意味があ

った。特に、経済的関係では、太平洋戦争後に再びイギリスの植民地化がなされる一方で、

他方で日本の軍事占領期に多くの被害を受け、反日意識が強かったはずの中国系ビジネス

マンとの密接な経済関係が持続されていた2。 このような中国系ビジネスマンとの継続した経済関係が、その後急速な経済発展を遂げ

ていく日本との貿易関係を強化していくことになる。日本にとっては、熱帯 1 次産品、原

料の主要な輸入国であったし、マレーシアにとって日本は主要な輸出先になっていく。こ

の経済関係を中心とした対日関係が、後のルック・イースト政策をマレーシア社会に受け

られていく土壌を形成していったのである。 1.2.1 戦後賠償問題

1951 年に締結されたサンフランシスコ講和条約第 14 条により、かつて日本軍が進駐し

た地域を含む国々に対して賠償を行う義務が日本に課せられた。日本の戦後賠償は、第 1次世界大戦後のヴェルサイユ条約によって巨額な賠償要求を課せられたドイツが、その経

済復興を妨げられ、結果的に第 2 次世界大戦への大きな要因になっていったことに鑑みて、

日本が「存立可能な経済を維持」できるような範囲の賠償に規定された3。 つまり、連合国の賠償要求に対しては「沈船引揚げその他の作業における日本人の役務」

を賠償の基準として与え、「原材料からの製造が必要とされる場合」は「原材料は、当該連

合国が供給しなければならない」と平和条約第 5 章に謳われた。日本の戦後賠償は、東西

冷戦を背景にした国際関係の中で、特にアメリカの冷戦政策の中で決められたといっても

過言ではないであろう。 次に日本の戦後賠償を規定したサンフランシスコ平和条約に関する東南アジア諸国の反

2 Khadijah Md. Khalid & Lee Poh Ping, 2003,Whither The Look East Policy,Penerbit Universiti

Kebangsaan Malaysia, pp.45-46. 3 山田満、1985 年、「戦後の東南アジアに対する日本再進出:1951 年から 1974 年」(『経済と法』第

22 号)。山影進、1985 年、「アジア・太平洋と日本」(渡辺昭夫編『戦後日本の対外政策』有斐閣)を

参照。

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3

応をみてみよう。南ベトナムはサンフランシスコ平和条約に署名・批准し、インドネシア

とフィリピンは同条約に署名したが、批准はしなかった。ビルマ(現ミャンマー)は同条

約会議に出席しなかった。また、カンボジアとラオスは賠償請求権を放棄した(ただし、

準賠償という形で賠償が行われた)。 このような各国の反応を背景に賠償交渉が行われた。戦争賠償を請求したビルマ、イン

ドネシア、フィリピンとの交渉は難航した。例えば、フィリピンへの賠償は 1956 年から

1976 年までの 20 年間続き、総額 5.5 億米ドルが支払われている。結果的にフィリピン、

ビルマ、インドネシア、南ベトナムの賠償請求諸国への賠償支払い総額は約 11.5 億米ドル

に達した。 それでは本章の主題であるマレーシアに対する賠償問題はどうであったか。マレーシア

は、シンガポールとともに 1951 年のサンフランシスコ平和条約の締結時には依然イギリ

スの植民地であった。そこで交渉相手は宗主国イギリスであり、独立を維持していたタイ

と同様に賠償請求権のない国として位置づけられた。 1957 年にマラヤ連邦として独立を果たした後の対応をみると、初代首相アブドール・ラ

ーマン(Abdul Rahman)は日本を重要な経済上のパートナーとして認識していたので、

他国の賠償交渉の難航過程をみて、改めて賠償要求を持ち出し、日本との関係を悪化させ

るよりも経済協力を求めて、経済関係の強化を推進する方が得策であると考えた4。 ラーマン主導の独立間もないマラヤ連邦の対日関係は、対立よりも協調関係を求める政

策を採用した。このようなラーマンの対日姿勢は、1957 年日本国首相で、戦後初めて東南

アジア諸国を歴訪した岸信介がマレーシアのクアラルンプールを訪問したときに、他国の

指導者が「賠償問題」を積極的に議題に挙げたのに比べ対照的であった。 しかし、日本との経済関係重視の姿勢で政権担当者間の合意はあったものの、1960 年代

初期に日本軍占領でもっとも被害を受けた華人社会から「血債(blood debt)」5問題解決

に向けての要求が高まった。それゆえ、ラーマンは一度だけこの問題解決に向けて特使を

日本に派遣した。その結果、佐藤栄作政権は「準賠償」扱いで、1967 年にマレーシアとシ

ンガポール両国に 2500 万マレーシア・ドルを支払うことで決着した。とは言うものの、

ラーマン政権は日本との経済関係重視を前提に、その支払い額を日本製の 2 隻の船の購入

代金に当てている6。結局ラーマンの対日姿勢は「戦後賠償」ではなく、一貫して「経済協

力」を求めていたことがわかる。 1.2.2 対外依存における日本の位置づけの推移 マレーシアは、1957 年 8 月にマラヤ連邦としてイギリスから独立した。初代首相はアブ

ドル・ラーマンであるが、ラーマンはマレー人、中国系、インド系の各主要エスニック・グ

ループを代表する政党、UMNO(統一マレー人国民組織)、MCA(マラヤ「後にマレーシ

ア」華人教会)、MIC(マラヤ[後にマレーシア]インド人会議)からなる連盟党(Alliance

4 Khalid & Ping, 2003, pp.42-45. 5 マレーシア(シンガポールも含んで)では、「戦争賠償」ではなく「血債」問題として、日本の戦争犯

罪への補償が考えられていた。Ibid.,p.43. 6 Ibid.,p.44.

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4

Party)を政権与党にして、エスニック・グループ間の融和・協調路線で政治運営を行った7。 ラーマン主導の連盟党は一貫して対日経済関係重視の姿勢を採ったが、他方で英連邦と

しての立場も重視していた。ラーマン自身は 16 歳でイギリスに留学し、2 度目の留学で弁

護士資格を取得している。ラーマンをはじめ連盟党の指導者たちも英語が操れて、イギリ

ス留学の経験者も多かった点で、イギリスの自由放任主義の強い影響を受けており、その

意味で独立後の 12 年間の対外政策の中心はイギリスであった8といえよう。 また、一般の華人コミュニティの対日感情が悪かったのに対して、日本占領期において

も華人ビジネスマンは、戦争前からの日本人企業家との経済交流を継続していた。日本人

投資家はマラヤのゴムと鉄鉱石に何よりも関心を持っていたし、他方マラヤの華人コミュ

ニティは日本占領期であったときでさえも錫鉱石の供給源として信頼されていた。また、

華人ビジネスマンは、戦争前にイギリスによって生産されていた綿花よりも安価な日本製

の方が地元の人々に人気があることを知っていた9。 このような華人ビジネスマンと日本企業家との経済関係は、第二次世界大戦後のイギリ

スによるマラヤの再植民地化時代においても、秘密裏に行われていた。したがって、1957年のマラヤ連邦独立を契機に多くの華人投資家が日本人企業家とともに新たなビジネスの

参入に向けて動き出した。例えば、1957 年初期にはホンダのバイク受け入れをする会社が

華人ビジネスマンによって設立されている10。 デンカー(Mehmet S. Denker)は、マハティールが首相に就任する以前の日本の対マ

レーシア投資を二つの時期に分けて説明している11。まず初代首相ラーマンが主導した

1957 年から 1969 年まで、次に第 2 代首相ラザク(Abdul Razak)と第 3 代首相フセイン・

オン(Hussein Onn)が政権を担当した 1970 年から 1980 年までの 2 時期である。 まず 1957 年から 69 年までの特色について要約する12と、1968 年末までに 48 の日本企

業が進出し、内 40 社が共同企業体であった。1969 年末までのマレーシアにおける日本の

投資総額は 3,220 万ドルに達し、他の外国企業数と比較して第 5 位となっていた。つまり、

ラーマン時代には 54 企業が設立され、その内 33 社が製造業部門であった。 さらにその内訳をみると、7 企業が石油化学、10 企業が鉄鋼金属、3 企業が木材パルプ、

2 企業が食品飲料、1 企業が織物、3 企業が電気電子、4 企業が輸送機器、3 企業がその他

の製造業であった。これら製造業における日本の投資内容は、マレーシアの天然資源の加

工が主で、結果的には日本の産業に供給する加工品であった。また、21 の製造業以外の企

業の 15 社も錫、鉄鉱石、銅などを扱う貿易会社で、日本企業と密接に絡んでいた。 次に、1970 年から 80 年までの日本の投資傾向をみてみると、ラザクおよびフセイン・

オンはラーマン時代よりもいっそう日本の投資を歓迎した。ラザク自身が「お金を持てば

7 金子芳樹『マレーシアの政治とエスニシティ』晃洋書房、2001 年。山田満『多民族国家マレーシアの

国民統合』大学教育出版、2000 年などを参照。 8 Khadijah Md. Khalid,2004, “Malaysia-Japan Relations under Mahathir: ‘Turnig Japanese’?”, in

Bridget Welsh ed., Reflections: The Mahathir Years, SAIS, Johns Hopkins University. 9 Khalid & Ping, 2003, p.45. 10 Ibid.,p.46. ペナンのロー・ブン・シュウ(Loh Boon Siew)が 1957 年初期にマラヤとシンガポール

で唯一の販売店カー・モーターズ(Kah Motors)を開店した。後にタン・チョン・モーターズ(Tan Chong Motors)が設立され、日本車の販売を始めた。

11 Mehmet S.Denker, 1994, “The Evolution of Japanese Investment in Malaysia”, in Jomo K.S.,ed.,Japan and Malaysia Development: In the Shadow of the Rising Sun, Routledge.

12 Ibid.,pp.44-47.

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5

持つほど、よりいっそうの発展を成し遂げることができる」13というプラグマティックな

発言をしているが、それを裏付けるように日本の投資を積極的に受け入れる政策を採った。 実際この時期にマレーシアに進出した日本企業は、製造業が 104 社、非製造業が 70 社

で合計 174 社となっている。製造業の内訳は 14 企業が石油化学、10 企業が鉄鋼金属、8企業が木材パルプ、3 企業が食品飲料、11 企業が織物、18 企業が電気電子、9 企業が輸送

機器、31 企業がその他の製造業となっている。投資額においては、1975 年の時点で 200社以上が存在していて、総計 6 億 2500 万マレーシア・リンギであった。これらの内 143社が共同企業体、20 社が完全な日本所有企業であった。 また、1972 年における日本との輸出入の内訳では、輸出では原材料が全体の 65.6 パー

セントに対して、輸入では重化学工業製品が 85.3 パーセントを占めていた。図表 1-1 はラ

ーマンからラザクへの政権移行期の国別輸出入額の推移を示している。特に国別輸入額の

推移をみると、ラザクに代わってから対日輸入額が急増していることがわかる。

図表 1-1 国別輸出入(単位:100 万マレーシア・ドル) 国別輸出

国名/年度 1966 1968 1970 1971 シンガポール 697.8 847.9 1,110.6 1,124.1

日本 483.0 776.6 939.0 912.4 アメリカ 274.2 644.0 670.3 636.7 イギリス 248.7 272.2 339.7 327.3

ソ連 119.9 201.9 212.3 152.3 イタリア 3.4 113.4 170.5 146.8 西ドイツ 86.0 86.6 161.9 136.9

オーストラリア 90.8 126.7 115.5 91.8 フランス ― 68.8 111.5 100.3

中国 85.9 76.4 66.2 55.6 その他 1,756.1 908.1 1,264.9 1,324.0 合計 3,845.8 4,122.6 5,162.4 5,008.2

国別輸入

国名/年度 1966 1968 1970 1971 シンガポール 391.2 296.8 311.7 335.7

日本 405.6 484.0 751.0 859.8 アメリカ 213.7 228.7 367.4 294.3 イギリス 634.8 501.5 579.5 642.8

ソ連 ― ― 11.1 10.9 西ドイツ 142.3 153.9 207.8 202.7

オーストラリア 188.5 257.5 239.7 255.9 中国 240.0 243.1 226.5 201.4 香港 106.7 82.7 579.5 642.8 タイ 208.0 206.7 151.1 130.7

インドネシア ― 188.8 207.4 147.0 その他 939.1 907.9 690.6 666.6 合計 3,3379.9 3,551.6 4,323.3 4,390.6

出所:『アジア動向年報』、1973 年版で作成。

このような日本企業の進出、日本の投資が急激に増大していく過程をみると、少なくと

も経済関係においては、ラーマン、さらにラザク、フセイン・オンとマハティール以前の

3 代の首相時代においても親密な関係があったといえる。この日本とマレーシアの経済関

13 Ibid.,p.47. Straits Echo(21 January 1984)でのラザクの発言を紹介している。

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6

係の深化の過程は、他方で長年マラヤの資源産業を支配し続けたイギリスの経済的プレゼ

ンスの低下を意味した14。

1.2.3 権威主義的開発体制の登場と対日関係 イギリスの植民地であったマレーシアは、1957 年にマラヤ連邦として独立を果たすが、

基幹産業であるゴムと錫の生産においては当分の間イギリス資本が圧倒的優位を示してい

た。表 1-2 はラザクに政権が移行した翌年の外国人投資額である。シンガポールは 1963年にマレーシア再編に加わるまではイギリス自治領であったし、香港はまだイギリスの自

治領であったことを考慮にいれる必要もあろうが、イギリス単独でみた場合でも外国人投

資総額の 21 パーセントに及んでいる。当時の日本の約 2 倍の額であった。

図表 1-2 マレーシアにおける外国人投資残高 (1971 年 12 月末、単位 1000 マレーシア・ドル)

国名 投資残高 シンガポール 116,200 イギリス 84,520 アメリカ 60,665

日本 44,885 香港 33,558 バハマ 14,000

プエルトリコ 13,000 オーストラリア 7,649

カナダ 6,147 オランダ 4,121 その他 10,526 合計 395,271

注)パイオニア産業法適用企業に対する外国人投資額に基づく。

出所:1972 年版『海外市場白書<第 2 分冊>』、81 頁。

例えば、1966 年のゴム植付面積は 434 万エーカーで、その内イギリス系ゴム園が 181

万エーカー、生産量で 51 万トン、他方中国人とマレー人の農家経営は 253 万エーカーで、

生産量が 39 万トンであった。そして、ゴム園の 60 パーセントがイギリス中心の外国資本

であった。経営規模では、欧米系農園が平均 3000 エーカー、中国人農園が 500 エーカー、

中国人小農が 15 エーカー、マレー人小農が 5 エーカーであった15。 また、錫生産についても、イギリスが生産性の高いドレッジ(浚渫船)方式の採掘を行

い、50 ほどの錫鉱山の全生産量の 60 パーセントをイギリス系企業で占めた。さらに、錫

精錬に関しても、その 90 パーセントがイギリス資本の精錬会社に占められた16。これらマ

レーシアの代表的資源のゴム、錫をはじめ、多くの一次産品がイギリス系資本に握られて

いたのである。

14 マラヤ連邦独立後もイギリス資本の優位は 1960 年代中頃ぐらいまで続いた。 15 松本重治監修、滝川勉編『新・東南アジアハンドブック』講談社、1988 年、103~105 頁。 16 同上書、105 頁。

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7

図表 1-3 対日貿易収支の推移 (単位:100 万ドル) 項目/年度 1968 1969 1970 1971 1972 輸出 253.72 304.03 306.77 296.12 355.36 輸入 158.12 188.15 245.35 280.28 293.61 バランス +95.60 +115.88 +61.42 +15.84 +61.75 出所:松本重治監修『新・東南アジアハンドブック』講談社、1988 年、110 頁。

イギリス系資本のオーバー・プレゼンスが峠を越す契機となったのが、第 3 次中東戦争

による中東危機、貿易赤字の拡大、EEC(欧州経済共同体)加盟の失敗などを原因とする

1967 年 11 月のポンドの大幅な切り下げであった。この 2 度目のポンド危機がイギリスの

スエズ以東の軍隊の撤退を余儀なくさせた。そして、イギリスのマレーシアでの政治経済

的支配力の後退と軌を一にしてアメリカと日本のプレゼンスが高まっていくことになった。 イギリスのプレゼンスの後退は、イギリスの対外政策の転換による理由だけではなかっ

た。それは 1960 年代半ば頃から東南アジア諸国に登場した権威主義的な開発体制の影響

も大きかった。つまり、独立闘争を指導してきたカリスマ的指導者が独立後もなお政治的

革命路線を継続した結果、国民経済が軽視され、国内の政治的・経済的混乱を引き起こし

たので、新たに登場した指導者は強権的手法を用いて「開発」を政権の正当性に掲げる政

治手法を採ったのである。 開発体制は、「(1) 国際政治・社会秩序の安定という冷戦体制への対応と、(2) 半植民地

経済政策を採用した戦後体制期に疲弊した国民経済の確立と自立、を課題とした体制」で

あった17。タイのサリット=タノーム政権(1957 年)、インドネシアのスハルト政権(1966年)、フィリピンのマルコス政権(1972 年)、マレーシアのラザク政権(1970 年)、シンガ

ポールのリー・クアンユー政権(1972 年)が、それらに該当する体制であった。 これらの指導者は、政治的には強権的な支配を用いて、「上から」の諸政策と社会変革を

行う一方で、経済的には積極的に外国資本を受け入れする投資法を制定して、外資導入政

策を実施した18。 マレーシアではラザク政権が開発体制を導入した。ラザクは 1969 年 5 月 13 日のエスニ

ック・グループ間の大規模な衝突事件(5・13 事件)が、ラーマンのエスニック・グルー

プ間の融和・協調路線政策に起因すると考え、翌 70 年に首相に就いてからはマレー人優

先のブミプトラ(マレー語で「土地の子」の意味)政策を導入した。 ラザクのブミプトラ政策は、経済政策の側面では新経済政策(NEP)として推進された19。

NEP はマレー人優先政策を唱える国民戦線(NF)の中核をなすマレー人政党 UMNO の

強力な支援を背景に、(1)貧困の撲滅、(2)エスニック・グループを反映した経済社会の

17 山本信人他著、1999 年、『東南アジア政治学』(補訂版)成文堂、125 頁。 18 同上書、123~134 頁。岩崎育夫編、1994 年、『開発と政治』アジア経済研究所、などを参照。 19 鈴木佑司は「新経済政策」における日本の投資の意義を以下の 3 点にまとめている。①マレーシア政

府にとり、植民地時代から続いているイギリス資本との「不平等な」経済関係を清算するため、「対等

な」関係にある日本の投資は歓迎できる点、②産業構造をゴムと錫といった伝統的な一次産品主体か

ら、多様な産業、ことに製造業部門の発展に転換するために、資本と技術を持つ日本の投資を受け入

れることが必要だと見ている点、③政治的に大国ではなく、非西欧社会で近代化に成功した唯一の例

として、日本の経験がマレーシアのような中小国にとって比較的受け入れやすく、しかも資源に恵ま

れたマレーシアにとって、日本との相互依存関係は作り易いと見ている点の 3 点であった。鈴木佑司、

1988 年、『東南アジアの危機の構造(新版)』勁草書房、197~198 頁。

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8

再編の 2 本柱からなっていた。具体的には、華人の経済的支配の是正をめざし、マレー人

の所得の向上と経済機会の拡大をめざすことであった。 政府主導によるマレー人の資本所有の比率を高めること、マレー人の雇用を確保するた

めに職業別にエスニック・グループの人口構成比を反映させた。UMNO の絶対的な支配

を背景にした政府主導の政策は、5・13 事件後のマレー人の特権に関する公的討議の禁止

(「敏感問題」)で守られ、同時に裁判なしの「国内治安法(ISA)」での逮捕を容易にする

強権体制への道筋を築いた。 このような政治経済体制の下で、ラザクの積極的な対日経済関係が築かれていった。ラ

ザク時代の対日経済関係はすでに前項で述べたように急激に深化していく。1969 年は 5・13 事件で政治的な危機を迎える一方で、経済的には贈与、直接投資、海外投資、輸出信用

の総額でみると、68 年の 180 万マレーシア・ドルに対して 10 倍以上の 1,848 万マレーシ

ア・ドルに急増している。また、70 年には、初めて日本が輸出総額で第 1 位を占め、輸入

総額でもシンガポールに次ぐ第 2 位の順位となった(図表 1-1 参照)20。 ラザクの新経済政策は 1971 年から 1990 年まで継続された。つまり、1981 年にフセイ

ン・オンから政権を引き継いだマハティールも就任後当分の間は新経済政策を推進したの

である。また、マハティールのルック・イースト政策もこのような新経済政策との整合性

を求めて出発したといえよう。 1.2.4 福田ドクトリンと MAJECA/JAMECA の存在

1974 年 1 月に、田中角栄首相は東南アジアを歴訪したが、タイやインドネシアで激し

い反日暴動に出会った21。それは戦後の日本経済の積極的な進出が、結果的に日本経済の

オーバー・プレゼンスを引き起こしたからであった。 ASEAN(東南アジア諸国連合)への関係修復は、1977 年 8 月の第 2 回 ASEAN 首脳会

議に出席した福田赳夫首相が、ASEAN5 カ国の 終訪問国のフィリピンのマニラで発表し

た「福田ドクトリン」によって行われた。福田ドクトリンは、①日本は平和に徹し軍事大

国にはならない、②東南アジアの国々との間に、政治、経済のみならず社会、文化等、広

範な分野において、真の友人として心と心のふれ合う相互信頼関係を築きあげる、③日本

は「対等な協力者」の立場に立って、ASEAN 及びその加盟国の連帯と強靭性強化の自主

努力に対し、志を同じくする他の域外諸国とともに積極的に協力し、また、インドシナ諸

国との間に相互理解に基づく関係の醸成をはかり、もって東南アジア全域にわたる平和と

繁栄の構築に寄与する、ことの 3 本柱からなっていた22。 「福田ドクトリン」は戦後初めて日本の対東南アジア政策の原則を明らかにしたもの

で、概して東南アジア諸国から評価される内容であった23。福田がマニラで述べた演説内

容には、対 ASEAN への経済協力以外に、上記②の中で触れられている「日本と東南ア

ジアの人々が、頭だけではなく、心をもって理解し合うことの必要性」(「心と心のふれ

20 松本監修書、108~109 頁。 21 1974 年 1 月の田中首相のジャカルタ訪問時に起きた反日暴動は、日本経済のオーバープレゼンスだけ

が原因ではなかった。インドネシア国内の政治闘争、華僑・華人資本の圧倒的支配などが背景にあっ

た。 22 細谷千博監修/滝田賢治・大芝亮編、2003、『国際政治経済資料集(第 2 版)』有信堂、220~221 頁。

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9

合い」)、「物質的充足のみでは飽き足らず、精神的な豊かさを求めるのは、アジアの伝統

であり、アジア人の心」「同じアジアの一員」「同じアジア人」などのフレーズが多く含

まれていた。 福田がこのような「アジア的価値」観に言及した背景には、第二次世界大戦中の南方特

別留学生制度24で日本の大学で学んだ東南アジアの指導者たちとの個人的友好関係の存在

があった。福田は東南アジア諸国に存在するこれらの知日家、親日家との関係維持とネッ

トワーク化の必要性を感じていた。実際、福田は 1974 年クアラルンプールで開催された

アジア開発銀行(ADB)年次総会に大蔵大臣として出席したときに、ヒルトンホテルで、

かつて日本で学んだ 20 人のマレーシア人留学生と面会している25。 福田は、南方特別留学生のような「留学生」が日本や日本文化を直に理解し、日本と東

南アジア地域間の認識の相違を埋めてくれる、あるいは橋渡しをしてくれる存在であると

信じていた。今回、首相としてクアラルンプールを再訪したのを機会に、1957 年に設立さ

れていた日本マレーシア協会を復活させた。同時に福田の提案で南方特別留学生の年次同

窓会(集い)を組織化することになった。 初の集いは 1974 年に開催され、それが 1977年 6 月 10 日設立のアセアン元日本留学生協議会(ASEAN Council of Japan Alumni:ASCOJA)誕生への契機になった26。

1977 年 8 月のマニラでの福田の演説(「福田ドクトリン」)における「心と心のふれ合

い」の重視は、福田の上記のような個人的信条と地道な交流が背景にあったことが理解で

きよう。だからこそ当時の ASEAN 諸国リーダーにそれが受け入れられたし、他方で戦後

残っていた反日感情、特に経済関係重視を背景にした田中首相訪問で 高潮に達した対日

不満を、文化的側面重視を唱えることで「もう一つの日本」を演出し、同地域の対日不満

を減少し、緩和させるのに大きく貢献した。 また、福田の対 ASEAN 諸国政策(対マレーシア政策も含んで)は、個人間のつながり

を重視した。例えば、マレーシアではフセイン・オンやマハティール政権で内務大臣や外

務大臣を務めたガザリ・シャフィエ(Ghazali Shafie)との友人関係が、日本とマレーシ

アの親密関係を確かなものにさせた。後に、マハティールのルック・イースト政策が発表

される場を提供したマレーシア・日本経済協会( Malaysia-Japan Economic Association:MAJECA)と日本・マレーシア経済協会(Japan-Malaysia Economic Association:JAMECA)の設立にもこのような福田の人脈が大きな役割を発揮した27。

マハティールは、1982 年 2 月 8 日開催の第 5 回 MAJECA-JAMECA 合同年次会議の

23 Khalid & Ping, 2003, p.61. 24 1943 年 2 月、日本の軍部、大東亜省、文部省間で協議された「南方特別留学生育成事業」という政令

により制定された。1 期生(106 名)、2 期生(89 名)がそれぞれ 43 年、44 年夏に来日した。半年間

の日本語、日本事情などの教育を受け、翌年 4 月に日本各地の大学、専門学校、陸軍士官学校、警察

訓練所などに進学した。これら教育機関で 3 年間の教育を受けることになっていたが、敗戦でこの事

業は頓挫した。母国に帰った留学生たちの中から首相、閣僚、大使、大学総長、会社社長などが生ま

れ、今日、政・財・学界で指導的立場にある(明石陽至「南方特別留学生」、石井米雄他監修、1999年、『東南アジアを知る事典』増補版、平凡社、211 頁)。なお、マラヤ・シンガポールからは 13 名の

青年が選抜された(明石陽至、1994 年、「日本との交流」、綾部恒雄・石井米雄編『もっと知りたいマ

レーシア(第 2 版)』弘文堂、271 頁)。 25 Khalid & Ping, 2003, pp.57-59. なお、福田は戦時中にインドネシア、フィリピンから来日した南

方特別留学生にも接触を試みている(同上書同頁)。 26 Ibid.,p.58. 27 Ibid.,p.62.

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演説で「私は 近日本に学べと呼び掛けているが、この方向付けはマレーシアの発展に決

定的に重要である」28と述べている。また、福田元首相と当時の中曽根首相が、ルック・

イースト政策に対して特別な理解を示し、様々な形の支援を施してくれたことに言及して

いる29。 後に、ルック・イースト政策を内外に公式に示す契機を提供した MAJECA-JAMECA

について触れておきたい。ルック・イースト政策は、マハティールが首相に就いた翌年 1982年の第 5 回 MAJECA-JAMECA 合同会議で発表された政策であった。MAJECA と

JAMECA は、1970 年代のマレーシアと日本の関係が深化していくのに対応する形で、前

者はマレーシア側に、後者は日本側に設立された。 両組織の設立は、当時の福田赳夫首相とフセイン・オン首相の強力な支援の下で、両国

の経済界が、特にマレーシアにおける日本経済の進展を促進する観点から合同年次会議を

開催することで決められた30。1977 年の設立以来、MAJECA はマレーシアの 高レベル

の政治的指導者から支援を受けてきた。MAJECA の上級メンバーが内閣府をはじめ他省

で実際に官僚として従事していたことからもそのことが窺える。 また、MAJECA はブミプトラのみならず非ブミプトラ経済界からも広く会員を有し、

それら協会の会員は日本人や日本企業とビジネスを展開している企業の個人会員であった。

このような日本とマレーシアの両国の強力な政治家の後ろ盾で、そして両国の経済界、商

工会議所などの密接な経済交流を背景に、1970 年代半ば以降日本の投資が急増していった。

経済交流の深化と福田首相が促進した文化交流がマハティールのルック・イースト政策に

結実していったことは想像に難くない。 1.3 マハティールの「ルック・イースト政策」導入の背景

1982 年 2 月、MAJECA-JAMECA の第 5 回合同年次会議の場で公式にマハティールに

よってルック・イースト政策は発表された。マハティールは、前年の 1981 年 7 月病気を

理由に首相職を辞したフセイン・オンの後を引き継ぎ、第 4 代目のマレーシア首相に就い

た。爾来 2003 年 10 月 31 日にアブドラ・バダウィに首相職を手渡すまで 22 年間にわた

って首相職を務めた。 22 年間のマハティール政権の評価に関しては様々な文献が出版されている31。本節では

この長期にわたるマハティール政権において、ルック・イースト政策がどのような位置づ

けにあったのかを考察することである。ルック・イースト政策は通常「日本型発展」を支

えた労働倫理、日本政府と企業との密接な関係を重視した「日本株式会社」をまねた「マ

レーシア株式会社」構想、日本の貿易を促進した「総合商社」などの導入に代表される32。

28 『日本経済新聞』1982 年 2 月 9 日記事。 29 Khalid & Ping, 2003,p.62. 30 Ibid.,p.66. 31 Bridget Welsh ed.,2004. Khoo Boo Teik, 2003,Beyond Mahathir: Malaysian Politics and its

Discontents, Zed Books Ltd. Jomo K.S.,2003,M Way: Mahathir’s Economic Legacy, Vinlin Press Sdn Bhd.など多数の英書が出版されている。また、『アジ研ワールド・トレンド』2004 年 4 月号(第

103 号)では「マレーシア-マハティール政権下の 22 年」の特集が組まれている。金子芳樹「開発体

制の限界-マハティール政権の評価を通して」(黒柳米司編『アジア地域秩序と ASEAN の挑戦-「東

アジア共同体」をめざして』明石書店、2005 年)も参照。 32 ルック・イースト政策は、日本のみならず韓国、場合によっては台湾、シンガポールなども「発展の

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また、ルック・イースト政策が前節で考察してきたようにマハティール以前の首相が取

り組んできた対日関係の延長線上にあると理解できる一方で、なぜマハティールが「ウェ

スト」ではなく「イースト」にこだわったのかを考える必要があろう。この点はマハティ

ールの個人的バックグランドをみていく必要があると同時に、マハティールが強く進めた

EAEG(東アジア経済グループ、後に EAEC:東アジア経済協議体)構想も視野に入れて

考察する必要がある。これらの分析枠組みを通じてマハティールのルック・イースト政策

を考察してみたい。 1.3.1 ルック・イースト政策導入に関するマハティールの個人的背景 なぜ「ルック・イースト」(東を見ること)が必要であったのだろうか。言うまでもなく、

マレーシアはイギリスの植民地として、たえず「西を見ていた」(実際は「西を見る」こと

を余儀なくされていた)ことに対応した表現であった。1957 年にマラヤ連邦として独立す

るまでは、直轄植民地である海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)とマラヤ連

合州(ペラ、パハン、ヌグリ・スンビラン、スランゴールの各州)、被保護国のマラヤ非連

合州(ぺルリス、クダ、クランタン、トレンガヌ、ジョホールの各州)に分けられ、19 世

紀以来支配されてきた。 イギリスの植民地行政は、直轄植民地に関しては行政・立法権を行使できる総督が支配

し、マラヤ非連合州では駐在官の管理下に置かれた。このような植民地行政下でマハティ

ールは少年期を過ごした。マハティールは「英国は初め、保護者として振舞っていたが、

間もなく、マレー各州の支配者としての座を占めることになる。英国の制度や価値観が、

土着民、移民を問わず、マレー各州の人々によって、進んで取り入られるようになった。

その結果、マレー各州の人々は、“近代化”され、これまでのごく素朴な農業経済の制度を

廃し、貨幣中心の複雑な通商制度や行政制度を採用するようになった」33と述べている。 これらの制度を取り入れることを「西欧化」と呼び、マレーシア人に役立つものと評価

しつつも、他方で「残念なことに、今やヨーロッパ文明は衰退の兆しが、はっきりしてい

るのである。道徳心は低下し、倫理観も荒廃して、社会に実害を及ぼすようにさえなって

きている」と指摘し、さらに「ヨーロッパの新しい価値観の基本になっているのは、個人

の権利である。たとえ、それが社会や国家の利益を損なうものであっても、個人の権利は

大切に守られ、誰もあえてそのことを非難しようとはしない」34と、ヨーロッパの個人主

義的価値観に対して疑問を呈している。 このようなマハティールの対イギリス(ヨーロッパ)感情の背景を、マラヤ大学のカー

リッド(Khadijah Md. Khalid)は、マハティールとルック・イースト政策を結びつけて

手本」としているが、本稿ではルック・イースト政策の学ぶべき中心的モデルが「日本」である点か

ら、「日本」を念頭にして論述する。 33 マハティール・ビン・モハマド、1970 年、『マレー・ジレンマ』(高多理吉訳)、井村文化事業社、263

頁。 34 同上書、264~265 頁。『マレー・ジレンマ』は、1970 年に出版されたが発禁処分となった著書である。

当時ラーマン首相への痛烈な批判を展開していたマハティールの考え方を理解するうえでたいへん役

立つ著書である。引用文は、1983 年の日本語版出版にあたり、マハティールが寄稿した一文である。

すでにルック・イースト政策を発表した後の文章である。

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3 つの視点から分析している35。 ① イギリスの植民地支配の影響とマハティールのその後の対イギリス認識 ② マレー人に対するマハティールの矛盾する見方 ③ マハティールの対日本への個人的な期待と連携 まず第 1 の分析視点であるが、上記の引用文にみられるように、マハティールの対イギ

リス、対西欧への嫌悪感は植民地支配に遡る。マハティールは首相に就いて、翌年のルッ

ク・イースト政策を発表する前に、「イギリス製品を 後に買おう」政策(the ”Buy British Last”policy)36を明らかにしている。

マハティールの親日感情の芽生えは、日本が長年にわたっていたイギリスの植民地支配

を短日時の内に打ち負かしたことであった。西欧列強を打ち負かした同じアジアの日本の

存在は少年期のマハティールにとって鮮明な記憶として残った。しかしその一方で、「私ば

かりではなく多くのマレーの人々にとり、英国の支配は生まれた時から自然に受け入れて

いたことだった」ので、「だから、私ばかりではなくマレーの若者にとり将来の夢は、英語

を学び、王国政府、つまり植民地政府の役人になること」37に何の疑問を抱かなかった。

つまり、イギリスの植民地支配にマハティール自身も当初大きな不満は持っていなかった。 このようなマハティールの親英感情が嫌英感情へと転換する契機が訪れる。まず日本の

敗戦後、イギリスが提案した「マラヤ同盟」(Malayan Union)政策であった。この政策

の導入はマラヤにおける先住民族としてのマレー人の特権を損なうものとして、マレー人

社会から大反対を受けた38。マハティールもイギリスの提案した「マラヤ同盟」案の導入

に対して失望と怒りを強く感じた。実際、マハティールは仲間とともに政治組織クダ・マ

レー統一戦線やクダ・マレー青年統一戦線を結成して、その両方の事務局長に就任して、

反対運動を展開した39 このようなマハティールの強烈なマレー・ナショナリズムに基づく活動は「マレー・ウ

ルトラ」(Malay Ultra)の異名を取った所以であった。このときの反英活動から「英国側

ばかりではなく英国の意向も踏まえながら働いていたマレー人政治家たち、さらに中国系

の人たちにも『危険人物』との印象を与え始めた」40と述懐している。そのこともあり、

マハティールはイギリス留学をするうえで必要なイギリス奨学金の給付を拒絶された。さ

らに、同奨学金は、初代首相ラーマン、第 2 代首相ラザクのような王族、貴族出身のマレ

ー人には担保されていたが、平民出身のマハティールが獲得するには難しかった。 マハティールは「私はイギリスで法律を勉強したかったが、しかし奨学金を取得するこ

とはできなかった。イギリスに留学していた大抵の学生は奨学金を得ていた。私は彼らが

35 Khalid & Ping, 2003, Chapter3,pp.98‐108.“The Mahathir Factor and its Implications for

Malaysia’s External Orientation in the post 1981 Period”を参照。 36 “Buy British Last”政策は、1981 年 9 月頃から始まった。首相府は直接投資は含まないものの、公式

的に、しかし限定的にイギリスの商品やサービスをボイコットする政策を採った。これは従来役所が

イギリス企業からの入札を優先的にしてきたことに対する措置で、非イギリス企業で代替できないと

きにだけに、イギリス製品を購入する政策。Koo Boo Teik,1995, Paradoxes of Mahathirism: An Intellectual Biography of Mahathir Mohamad, Oxford University Press, pp.54-55.

37 「私の履歴書」『日本経済新聞』1995 年 11 月 3 日。 38 詳しくは、金子前掲書、山田 2000 年前掲書など参照。 39 「私の履歴書」『日本経済新聞』1995 年 11 月 7 日。 40 同上新聞「私の履歴書」記事。Khalid & Ping, 2003,p.100.

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羨ましかった」41と後に回顧している。このときの個人的な挫折が後に伝統的な権限を有

する封建主義の変革、具体的にはスルタンの政治介入を抑えるような政治の近代化に向け

た憲法改正につながっていったように思われる42。 結果的に、マハティールはシンガポールのマラヤ大学エドワード 7 世医科専門大学に進

学し、奨学金を得て医者の道を選んだ。この選択は、マハティールの前任者たちがイギリ

ス留学を果たし、イギリス生活で体得していったイギリスの社会文化をマレーシアに適応

させていったのに対して、マハティールは留学経験を持たなかったことで植民地宗主国イ

ギリスを相対的に判断・評価していくうえで大きな影響を及ぼした。 マハティールは、1960 年代の専門的知識を有したマレー人政治家の中で、王族、貴族階

層出身ではない数少ない人材であった。そのことが UMNO の中で平民出身の知識人政治

家としての評価を高めた43。また、マハティールは明確にラーマンの親英的政治スタンス、

エスニック・グループ間の融和・協調路線に批判的であった。その意味で、彼の政治スタ

ンスは 1960 年代の親英的政治指導者たちからは厄介者としてみなされていた。 上記のようなマハティールの個人的経験が、マハティールの強い反植民地・反英的意識

を生起させたのである。そして、1981 年に政権に就いたときには、反英意識(the”Buy British Last”policy)として明確になり、同時にルック・イースト政策を提起させること

につながった。 第二の分析である、マレー人に対するマハティールの矛盾した見解について考えてみよ

う。マハティールは、“マレー・ウルトラ”の政治家として人気を獲得し、マレー人の擁護

者としてみなされた。しかし他方で、マハティールはマレー人の態度と後進性に対しては

自著『マレー・ジレンマ』の中で問題化していたように、その習慣と保守的な伝統を時々

批判していた。そしてその理由を、イギリスの植民地政策と長年の支配に求め、マレー人

の仕事に対するマレー人の精神性を運命づけたと同著で述べている。 マハティールは、特にマレーシア経済における華人とイギリス人の経済的支配がマレー

人の犠牲のうえに成り立っていたことに強い関心を持っていた。彼は“ブミプトラ(マレ

ー語で「土地の子」)”としてマレー人が特別の地位を与えられているにもかかわらず、独

立以来マレー人の社会経済的地位の改善がなされていない理由を、華人とイギリス人の経

済支配に求めた44のである。 また、マハティールが“マレー人”にこだわった理由として、個人的出自が関係してい

ると思われる。マハティールは、母親がマレー人であったが、父親はインド南部のケララ

州の出身であった。前任者や同僚の性格と比較した場合、彼の非マレー的性格や好戦性は

実は彼の混血マレー人としての出自に由来するものであると説明されることがあった。 実際、UMNO におけるマハティールの有力なライバルで、後に 46 年精神党(Semangat

46)を設立して UMNO を割ったラザレイ(Razaleigh Hamzah)は、マハティールの“イ

ンド人との混血”の出自に言及して、彼が“純粋”なマレー人リーダーとしては疑わしい

と指摘し、マハティールを引き摺り下ろす攻撃材料にした45。 41 Ibid.,p.100. 42 マハティールの国王・スルタン制度改革に関しては、鳥居高「マハティールによる国王・スルタン制

度の再編成」(『アジア経済』1998 年 5 月号)など参照。 43 Khalid & Ping, 2003,p.104. 44 Ibid.,p.111. 45 Ibid.,p.112.

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マハティールの政治的スタンスは、調和と安定を重視し、対立を避けることを強調する

マレー文化とは違っていた。その姿勢は、すでに述べたように 1969 年の 5・13 事件後の

ラーマンのエスニック・グループ間の融和・協調路線への痛烈な批判と、ラーマンを政権

から引き摺り下ろした行動にみられた。 親英的なラーマンに相違して、イギリスに対するマハティールの感情は、過去の経済的

な搾取とマレー人大衆に対する不公平な扱い、マレーシア社会に対して特別な権益を求め

る国として良好ではなかった。マハティールの首相としての役割は、マレー人の思考を改

め成功に導き、国家の生産性を高めることであった46。 それゆえ、マハティールは強烈な個性を発揮して、マレー人優先の新経済政策(NEP)

を推進し、マレーシアに相応しい発展のモデルを求めなくてはならなかった。そのモデル

が日本であり、韓国であり、そしてルック・イースト政策に結実したのである。 第 3 の分析視点は、1970 年代以来のマハティールの対日本への個人的なつながりから

指摘されている。マハティールは、1970 年代に個人的専門的レベルの両方の立場から、日

本および日本の経済界との近い関係を発展させた。例えば、マハティールは日本の経済界

と投資家と近い関係を築き上げる契機になったマレーシア食糧産業(FIMA)の会長を短

期間であったが務めている47。 この期間、マハティールは日本企業や日本人ビジネスマンと多くの知己を得ている48。

これらの友人を通じて、マハティールは日本への理解を深め、後にこれがルック・イース

ト政策に結実していくことになる。また、日本との関係を通じて、イギリス資本と華人資

本に握られていたマレーシア経済の 30パーセントをマレー人資本に置き換えるという「新

経済政策」を推進しようと考えた。つまり、「日本経済(および日本人企業家)」を媒介と

したマレー人企業家の育成プロジェクトを考えていたのである。日本への留学生、研修生

派遣もその一環として捉えられよう。 萩原宜之は、その著書『ラーマンとマハティール』49で、マハティールがルック・イー

スト政策を導入した背景について述べている。それは、①イギリスの植民地支配に批判を

もち、その経済的・文化的支配から脱却したいと考えてきたこと、②マレーシアにおいて

もブミプトラ政策下の経済の活性化により個人主義的風潮が高まってきたことへの懸念が

あったこと、③西欧文明を個人主義的なものと捉え、日本や韓国、ひいてはアジアを集団

主義的なものと対比させることによって、個人主義の弊害を抑え、④組織や集団の優位の

下に、日本や韓国からの援助をうけてさらに経済を発展させ、⑤西欧的なものとアジア的

なものとのバランスをとろうとしたもの50と指摘している。 ルック・イースト政策は、あくまでも「アジア型」(「日本型」「韓国型」など)の開発

モデルを見習うことで、「日本化」や「韓国化」を目的にすることではなかった。つまり、

46 Ibid.,p.115. 47 「私の履歴書」『日本経済新聞』1995 年 11 月 16 日で詳しく記述している。 48 その後、マハティールがもっとも親しい友人としてあげたのは、三井物産常務でクアラルンプール駐

在の鈴木一正氏であった。鈴木氏は後にマレーシア経済と両国関係の発展に寄与したことで「タン・

スリ」という高い称号を授与された。FIMA の仕事を通じて、パイナップル缶詰の米国向け輸出拡大

で三井物産(鈴木氏ら)、缶詰に使うブリキで川崎製鉄、川崎商事の人々との長い付き合いがあったと

述べている。Khalid & Ping,2003,p.118.および「私の履歴書」『日本経済新聞』1995 年 11 月 17 日。 49 萩原宜之、1996 年、『ラーマンとマハティール:ブミプトラの挑戦』岩波書店。 50 同上書、170 頁。

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それら「開発」モデルを学ぶために、マハティールは日本、日本企業、日本人ビジネスマ

ンとの交流を重ね、日本が成功した要因を一つ一つ発見していき、その成功要因を生かす

ことでマレー人社会の底上げをめざしたのであった。マハティールが MAJECA-

JAMECA の設立に大きく関与したのもその考え方の一環と捉えられよう。 1.3.2 「日本型モデル」の中身 ルック・イースト政策がめざす「アジア型開発モデル」の代表格である「日本型モデル」

の中身をみてみよう。19 世紀の西欧列強が支配する中で、日本はいち早く「明治維新」を

遂行して「近代化」「工業化」を達成した。その結果、西欧列強の植民地化を回避できた。

また、第二次世界大戦で破壊され、疲弊した社会を急速な経済発展を実現させることで早

期に再建した。1979 年にはアメリカの学者ボーゲル(Ezra Vogel)が Japan as Number One を出版するなど、アングロサクソンを経済的に打ち負かす経済大国に成長した51。 このような「日本の成功」から学ぼうというのがルック・イースト政策であった。それ

では具体的に何を日本から学ぼうとしたのか。マハティールは「日本の成功」と日本の倫

理的文化的な要因を切り離せないと思った。つまり、マレーシアの経済発展には日本の「強

い労働倫理」「高邁な東アジア的価値観」「学ぶ受容能力」「競争の奨励」「自立心」「国民

的誇り」などを学ばなければならないと思ったのである52。 以下本項では特に(1) 労働倫理の導入、(2) マレーシア株式会社構想、(3) 総合商社への

取り組みについて見てみる。 (1) 労働倫理の導入 個人主義に基づく西欧の文化的・倫理的価値観では、マレーシアの経済発展は成功しな

い。日本の発展は労働倫理と労働の価値が重視されてきたことによる。マハティールは戦

後の日本を築いてきたもっとも尊敬する経済人として、ソニーの盛田昭夫とパナソニック

の松下幸之助をあげて、それを近著で述べている53。 マハティールは、盛田の著書を読んで「日本国民の強い愛国心と犠牲を払っても復興に

かける献身的な姿は、私に深い感銘を与えました。労働者は支給される米と醤油だけで一

生懸命働き、近代的な産業を育てるため寝る暇を惜しんで技術を磨いていったのです」54と

述べている。 マハティールが日本を 初に訪れたのは1961年で、当時の日本はまだ復興途上にあり、

爆弾の爪跡が残されていた。その一方で、「大阪では水田の真ん中に立つ松下の工場が私の

度肝を抜き、オリンピックの準備中の東京では、日本橋の上に高速道路が建設されつつあ

るのを目にしました。……人々が国の再建と経済を発展させるために献身的に尽くす光景

は、今もまぶたに焼きついています。その後も訪れるたびに発展していく日本の姿を見て

きたからこそ、首相になったとき私は日本と日本の人々から学ぼうと思ったのです」55と、

51 Koo Boo Teik,1995,p.66 & pp.70-71. 52 Ibid.,p.68. 53 マハティール・モハマッド、2003 年、『立ち上がれ日本人』(加藤暁子訳)、新潮社、19~20 頁。 54 同上書、19 頁。 55 同上書、20 頁。

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ルック・イースト政策導入の個人的背景を述べている。 また、マハティールは日本の労働倫理導入の動機を述べている。戦前の日本製品が「安

かろう悪かろう」であったのに比べ、戦後の製品はたえず品質改善がなされたこと、労働

者の職業倫理観が優れ、管理能力が高かかったことが戦後の急速な経済発展を支えた。さ

らに、日本の大企業が欧米企業と違って、終身雇用制度と企業内組合を導入したことが高

い生産活動を支えたと述べている56。 マハティールは、日本の労働組合と経営者との関係が、個人主義を背景にする欧米企業

とは違って集団主義に基づいている点を重視した。日本の労働組合は、終身雇用制度に基

づく労使関係で成り立っている。したがって、「能力主義・業績主義」を要求する欧米企業

がストライキを多発することと比較して、労使の話し合いが行われ生産がストップするこ

とが少ない日本の労働組合制度を日本人の労働倫理の一つとして評価した。 例えば、マハティールは「日本の大企業では、経営者と一般社員との格差は、ほとんど

目立たない。経営者も労働者も同じユニホームを着用するし、経営者は事務室で過ごす時

間よりも、現場で過ごす時間の方が長い。生産に関する意思決定がなされる時も、ほとん

ど全員が相談を受ける為、全労働者が意思決定に対してコミットするような雰囲気が生ま

れる。労働組合と経営者には対立が見られず、そのことが企業の安定と信頼につながって

いるように思える。日本企業の社員との関係は、明らかに温情主義で、それに対して社員

は忠誠心で応えている」57と、日本企業における労使の関係を述べている。 また、ルック・イースト政策が単に経済関係だけに収斂するものではないことを次のよ

うに述べている。「日本の奇跡的な経済発展の原因を、日本独自の文化に探ろうとする経済

学者やビジネスマンがいる。彼等はまた、このような文化的要因は、他国にはマネできな

いと主張する。こうした考え方に対して、私は常に反対の立場をとってきた。日本文化が

重要な役割を果たしたことは否めないが、社会的慣習も含め、学習できない要素は何もな

い」58と述べ、改めて日本文化を学ぶことを通して、マレーシアに応用可能な労働倫理の

導入を唱えた。 (2) マレーシア株式会社構想 マレーシア株式会社構想は「日本株式会社」のマレーシア版である。マハティールは 1983

年 1 月に首相就任後初めて日本を公式訪問している。当時の中曽根弘康首相とシーレーン

問題、円借款、ルック・イースト政策などについて話し合っており、その中で特に日本か

らの技術移転を要請している。帰国後、マレーシア行政研究所の演説で「日本株式会社」

に習った「マレーシア株式会社(Malaysia Incorporated)」構想を発表した59。 マレーシア株式会社構想は、①公共・民間両部門の溝を埋め急速な工業化を進め、②政

府が民間部門にサービスを提供することを柱にしている60。マレーシア株式会社構想は、

日本の経済発展の要因を政府と企業の密接な関係に求めるものであった。つまり、西欧の

56 同上書、20~21 頁。 57 マハティール・ビン・モハマッド、1999 年、『マハティール:日本再生・アジア新生』(福島範昌訳)、

たちばな出版、158 頁。 58 同上書、158~159 頁。 59 萩原宜之、1996 年前掲書、175~176 頁。 60 同上書、175 頁。

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企業が日本市場に参入するときに、日本政府の設けた複雑な規制に直面し、まるで「日本

全体を敵に回して戦っているようだ」61という批判を否定するものであった。 マハティールは「西欧には、日本全体が日本という一つの会社組織に組み込まれ、国家

の利益の為に働いている、というイメージが存在する。個人主義で、しかも高い競争力を

有する西欧にしてみれば、こうした集団主義的な考え方が肌にあわないのも当然である」

と述べ、「概ね、日本企業はこれまで政府の堅固な後押しとガイダンスを得てきた。日本経

済が成長するまでの間、日本企業は、政府の保護と保証を享受したのだった」62と、「日本

株式会社」のマレーシア導入の必要性を訴えた。 「日本株式会社」において大きな役割を果たしたのは、1982 年にチャルマールズ・ジョ

ンソン(Chalmers Johnson)が出版した MITI and the Japanese Miracle で注目された

通商産業省(現、経済産業省)の存在であった。通産省は、政府が産業界に直接、間接に

介入し、産業界の国際競争力を強化する産業政策を担当する機関であった。戦後復興期の

「傾斜生産方式」を導入して、石炭・鉄鋼、電力などの基幹産業の育成を行い、1960 年代

からは重化学工業化へ産業の構造転換を行い、同時に海外からの積極的な技術導入の推進、

設備投資を産業界に指導してきた。 このような政府主導の産業化の一例として、国産車プロトンサガ・プロジェクトが挙げ

られる。マハティールは、日本の三菱自動車の支援 63をもとに国家自動車工業社

(PROTON)を設立した。このプロジェクトは、裾野の広い自動車産業を興すことで、ゴ

ム、電子工業、金属加工などへの波及効果を期待し、併せて雇用機会の増大を狙ったもの

であった64。 (3) 総合商社 総合商社は、通常の会社と違って「ほとんどいかなる生産物でも取引するということで

ある。そしてどんな品物でも、どんなに少ない生産物でも、売買するのに制限がないとい

うことである。その貿易はまた、世界中の国ぐにをカバーしており、どんな商品や生産物

でも取引する国際的な商人」65として理解された。 マレーシア政府が「総合商社」の設立を考えた理由は、①日本経済発展の重要な要因と

して考えられたこと、②製造業や資源産業の発展の触媒として、またそれら製品の輸出を

促進する役割を担えること、③まだマレーシア企業には単一で海外からのバイヤーに対応

するノウハウを持っていなかったこと、④中南米、南太平洋、アフリカ、西アジアのよう

な新しい市場の開拓が求められていたこと、⑤日本への資源輸出の支援確保で、その見返

りでマレーシア側の生産物輸出が容易になること、などが背景にあった66。 政府の意向により 1983 年にはサイム・ダービイ・ペルナス(SDP)がサイム・ダービ

61 マハティール・ビン・モハマッド、1999 年前掲書、161 頁。 62 萩原宜之前掲書、161 頁。 63 マハティールは首相就任前から国民車構想を持っていた。 初はダイハツ工業に打診したが難色を示

された(後に前向きな回答がでたが遅かった)から、1981 年秋に東京で三菱商事の三村傭平社長に構

想実現への協力を求めて、国民車プロジェクトが進んだと述べている(「私の履歴書」『日本経済新聞』

1995 年 11 月 22 日)。マハティールの日本人経済界との深いつながりを示している。 64 M・ラジェンドラン、1993 年、『マハティールの夢:先進国をめざすマレーシア』(安藤一生訳)、サ

イマル出版会、131 頁。 65 同上書、138~139 頁。 66 Jomo K.S.,2003,pp.47-51.および同上書、138~144 頁も参照。

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18

イ社とペルナス社の合弁企業として設立された。その他、多目的国際貿易会社、マレーシ

ア鉱山会社とフェルダ、クオック兄弟で設立した NASTRA、ユナイテッド・モーターズ

などで設立した MATRA、大手 10 社が中心になって設立したマレーシア海外投資会社

(MOIC)などの総合商社が設立された67。しかしこれらマレーシア版「総合商社」は失

敗に終わった。 マラヤ大学のラジェンドランはマレーシア版「総合商社」の失敗理由を、①これらの企

業の設立が、マレーシアの景気後退の時期であった。それゆえ、概してほとんどの企業が

事業を縮小し、援助できる状態ではなかった。②日本の総合商社がすでに国際市場で大き

な実績を有しており、太刀打ちできなかった。さらに、韓国や台湾の総合商社の新規参入

もありマレーシアの総合商社の入る余地がなかった点を述べている68。 また、同様にマラヤ大学のジョモは、日本の総合商社が元来低いマージンで広く商品を

扱うことで利益を稼いでいるのに対して、マレーシアの「総合商社」は会社を維持するだ

けの広大なコミュニケーションも輸送機関もなく、費用を分散させる能力を有していなか

ったこと69を失敗の理由に挙げている。 1.3.3 EAEG(東アジア経済グループ)/EAEC(東アジア経済協議体)構想 マハティールが首相就任直後に表明した外交政策の優先順位は、第 1 に東南アジア諸国

連合(ASEAN)、第 2 にイスラム諸国会議機構(OIC)、第 3 に非同盟運動諸国(NAM)、

後にイギリス連邦(the Commonwealth)であった。それゆえ、マハティールは 1981年 9 月のオーストラリアのメルボルンで開催されたイギリス連邦首脳会議に欠席した。そ

れ以降、マハティール政権の対イギリス関係は急激に悪化していき、すでに述べた“Buy British Last”政策にまで及んでいくことになる70。

他方、マハティールの対イギリス関係の悪化と軌を一にしてルック・イースト政策が発

表されたことはすでに述べた。また、マハティールの個人的な体験を通じたルック・イー

スト政策導入の背景も述べた。しかしルック・イースト政策導入の背景には、「開発」の促

進以外に、イスラム的価値の復興というもう一つの意図があった71と言われている。 マハティールは「開発」を促進する目的で、ルック・イースト政策を導入し、日本の労

働倫理を学ぶことを積極的に推進した。つまり、個人主義に基づく欧米の労働価値観では

なく日本(東アジア)の集団主義の導入をめざしたのであった。日本の労働倫理観は国家

発展へ向けた勤勉性、企業への忠誠心、社会の安定などを生起し、マハティールはこれら

の価値観を「アジア的価値」として唱えたのである。しかしその一方で、これらの価値観

は「イスラム世界に古来存在していたものである」72とも主張している。 ルック・イースト政策は日本を中心とするアジア型開発モデルである一方で、他方でイ

67 Ibid.,p.47. 68 ラジェンドラン前掲書、141~142 頁。 69 Jomo K.S.,2003,pp.47-51. 70 マハティールの外交政策の優先順位、並びにイギリスとの関係悪化の過程については「私の履歴書」

(『日本経済新聞』1995 年 11 月 20 日)に詳細に掲載されている。 71 鳥居高、2002 年、「マハティールの開発戦略と ASEAN」(山影進編『転換期の ASEAN』日本国際問

題研究所)、60~61 頁。 72 同上論文、60 頁。

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スラム的価値の復興の側面を有していたのである。1983 年にはバンク・イスラム・マレー

シア(BIMB)が世俗的金融制度と並存する形で設立された。また、同年にイスラム国際

大学、1984 年にイスラム保険会社がそれぞれ設立されている73。マハティールは、政府主

導の開発戦略に反対するイスラム復興運動を抑え込む政策の必要性を認識していたのであ

る74。 マハティールがルック・イースト政策を推進することは、他方で発展途上国とイスラム

国としての新しい経済発展のあり方を内外に提示することにつながった。1990 年にはクア

ラルンプールで、スハルト・インドネシア大統領、シン・インド首相など 15 カ国首脳と

ニエレレ南南委員長が集まった G15(南南サミット)を主催している。マハティールは存

在に行き詰まりを持ち始めていた非同盟運動の新たな展開を主導した。 マレーシア首相として 22 年間務めたマハティールの存在は、国内における強権的指導

者の姿としてだけではなく、そのビジョン、行動力を背景に発展途上国を代表するスポー

クスマンであった75ことは誰しも認めるところであろう。EAEG/EAEC 構想はこのような

マハティールの内外におけるリーダーシップが発揮される過程の中で提案された政策であ

った。 EAEG 構想は、1990 年 12 月にマレーシアを訪問した中国首相李鵬の歓迎晩餐会で、マ

ハティールが明らかにした構想である。「欧米の経済ブロックに対抗するためのアジア太

平洋諸国のブロック形成」をめざしたものであったが、「経済ブロック」という表現が欧米

の反発を生起するという意見もあり、東アジア経済グループ(EAEG)へと改称された76。 構想は日本、中国、韓国、ASEAN など東アジア諸国が協力して経済発展をはかろうと

いうものであった。1970 年代から 1980 年代にかけての西欧世界の経済の衰退に対して、

日本をはじめ、韓国、台湾、シンガポール、香港のアジア NICs(新興工業国)の経済発

展にみられる東アジア地域の経済協力は EAEG 構想の大きな動機づけになった。 EAEG 構想の背景には、対外的要因では関税貿易一般協定(GATT)のウルグアイラン

ド(多角的貿易交渉)が、先進国側の思惑で難航していたことである。マレーシアを含み

輸出拡大で経済成長を遂げていた ASEAN にとって GATT の進展状況は重要であった。

1990 年 12 月のブリュッセルの閣僚会議では特に農業問題でアメリカと EC(当時のヨー

ロッパ経済共同体)が対立し、結果的に交渉中断となり、1993 年 12 月まで延期されるこ

とで会議を終えた。結局 1993 年の会議で GATT は WTO(世界貿易機構)へと発展的解

消を遂げた。 マハティールは、アメリカ主導の GATT 体制に大いに失望しているときに、国際貿易産

業省から EAEG 構想の提案を受け取った。マハティールは「私はかねて、早期妥結を期待

する発展途上国の意向は無視して自分の利害だけで動く欧米諸国の態度に我慢がならなか

ったので早速、政策として取り上げた」77と述べている。 このように EAEG 構想の背景には西側主導の GATT 体制への失望があった。この構想

73 桑原尚子、1998 年、「金融制度へのイスラーム法の導入-バンク・イスラーム・マレーシアを事例に

して-」(『アジア経済』1998 年 5 月)を参照。 74 山本信人他前掲書、1999 年、173~174 頁。 75 R.S.Milne and Diane K.Mauzy, 1999, Malaysian Politics under Mahathir, Routledge,pp.133-135. 76 佐藤考一、2003 年、『ASEAN レジーム』勁草書房、84~90 頁。EAEG/EAEC に関する ASEAN 内

の対応を詳しく説明している。 77 「私の履歴書」『日本経済新聞』1995 年 11 月 26 日。

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に拍車をかけたのが、1989 年のアメリカ・カナダ自由貿易協定、翌年 1990 年のアメリカ・

メキシコ自由貿易協定、そしてこれら 3 カ国からなる北米自由貿易協定(NAFTA、1991年から交渉が始まり、1992 年 8 月に終了、1994 年 1 月に正式発足)の設立であった。そ

して、同様にヨーロッパに存在していた EC(ヨーロッパ経済共同体)の存在であった。 NAFTA は包括的な自由貿易協定であった。貿易の自由はもちろん、サービス貿易、投

資、知的財産権、紛争解決、政府調達などを含む、貿易と投資に関する総合的な取り決め

であった。マハティールにとって、NAFTA の設立は「経済ブロック」を認めないとする

アメリカを攻撃する材料であった一方で、「経済問題を協議する」EAEG を正当化する根

拠にもなった。 マレーシアの EAEG 構想は、すでに述べたようにインドネシアの提案を受け入れて東ア

ジア経済協議体(EAEC)に改称することで、1992 年の ASEAN 首脳会議で議題とされ、

オーソライズされることなる。他方、EAEG 構想設立の国内的要因をみてみると、その中

核的概念が「アジア的価値観」であった78ことが読み取れる。 マハティールは「アジア的価値観」を共有概念として、アジア型の経済発展をめざした。

特にマレーシアでは、20 年間に及んだマレー人優先政策を前提とした新経済政策(NEP)を終える段階で、新たな経済発展へ向けたコンセプトが必要であった。

EAEG/EAEC は、「東アジアの奇跡」79を構成する日本、韓国、台湾、香港などの東ア

ジアの先進工業国と新興工業国群(NIEs)を起爆剤として、マレーシアおよび ASEAN諸国の経済発展を促し、これら地域(東アジア地域)全体の経済の活性化を考えた構想で

あった。また、マレーシアと中国の関係でいえば、1974 年に他の ASEAN 諸国に先駆け

て国交を樹立している。EAEG/EAEC 構想は、結果的にはアジア通貨危機をへて、

ASEAN+3(日中韓)の APT(ASEAN Plus Three)の枠組みに収斂していくことになる。 このように EAEG/EAEC の共有概念は「アジア的価値」を有していることであった。

「アジア的価値」観はすでにみたように、ルック・イースト政策導入の根幹をなす概念で

あった。EAEG/EAEC 構想は、明確に欧米を除外している点80でも、マハティールの政

治姿勢を背景にしたルック・イースト政策の延長線上の政策と理解できよう。 1.4 ポスト・マハティールのルック・イースト政策 マハティールは日本経済新聞のインタビューで、「私が採用したルック・イースト・ポリ

シーは勤労精神にあふれた日本人の良い面を模倣するためでした。いまの日本の若者は髪

を茶色に染めて、欧米人のようになろうとしています。われわれはいま、そんな日本人を

まねすべきではないと考えています」81と、現代の日本社会を批評している。 さらに、ルック・イースト政策の柱であったかつての日本の「労働倫理」に対して、「日

78 鈴木早苗「マハティール政権の東アジア地域協力政策」(『アジ研ワールド・トレンド』No.103、2004

年 4 月)26~27 頁。 79 世界銀行著、1994 年、『東アジアの奇跡-経済成長と政府の役割-』(白鳥正喜監訳)東洋経済新報社

を参照。 80 日本は、アメリカの EAEG/EAEC 構想への強い反対を受けて、オーストラリアとニュージーランド

をメンバーに加えようとしたが、マハティールの明確な拒絶で実現しなかった。ASEAN もマハティ

ールに同調した。 81 『日本経済新聞』2004 年 6 月 2 日。

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本の若者は日本人の良き特徴を次々と失っています。例えば会社に定着せず、楽しみを優

先してまた別の会社に移ってゆく。生活を楽しむだけでは日本の発展は難しい」と指摘し、

「私は欧米追随が茶髪だけにとどまってくれることを願っています。しかし、いまの若者

は行動までも日本人的でなく」、それゆえ日本の競争力の低下と同時に、非常に勤勉で器用

な中国の経済力が日本を勝ることになるだろうと述べている82。 あまり表舞台に出なくなったマハティール前首相の現代の日本社会への指摘である。し

かしこの指摘はむしろ、景気後退から脱出できない日本への直言とも取れよう。このよう

なマハティールの対日苦言に対して、2003 年 10 月 31 日に政権を継承したアブドラ

(Abdullah Ahmad Badawi)首相の対日政策、およびルック・イースト政策への対応は

いかなるものかを考察することが本節の主題である。 1.4.1 アブドラ首相とルック・イースト政策

2003 年 12 月 11 日からの日本と ASEAN の特別首脳会議を前に、アブドラ首相はルッ

ク・イースト政策の継承に関して、「多くの学生が日本で学び、技術を持ち帰り、産業発展

に貢献した」と評価し、アブドラ政権下においても継承する意向を述べている83。しかし

アブドラが継承するというルック・イースト政策と、マハティールが唱えたルック・イー

スト政策の中身は同じものであろうか。 2002 年 6 月の UMNO 党大会で、マハティールは党総裁、連邦首相兼蔵相の辞職を発表

した。その後、マハティールと党 高幹部の話し合いで 2003 年 10 月をもって引退し、後

継者としてアブドラ副総裁・副首相兼内相の昇格が合意された。マハティールは一部で言

われたシンガポールのリー・クワンユーのような上級相として院政を敷くことなく、予定

通りアブドラに首相職を継承させた。 官僚出身のアブドラは実務的手腕に関しては評価されつつも、政治指導力に関してはマ

ハティールのようなカリスマ性がない点で、政権の脆弱性が当初から懸念されていた。そ

の意味では、政権を引き継いだアブドラがその政治指導力を発揮するうえで必要であった

のは「マハティールの政策継承」であったことは間違いないであろう。 マハティール政権との政策の連続性がマルティ・エスニック国家を運営するうえで極め

て重要な選択肢であることは、実務家出身のアブドラは十分に理解していた。マハティー

ルの政治的パフォーマンスに対して、アブドラが積極的に取り組んだ政策は①金権政治の

撲滅と②財政支出の削減という国内改革重視の政策であった。 まず金権政治の撲滅であるが、マハティールの 22 年間に及んだ長期政権の中で、特に

政権与党 UMNO の地方幹部の腐敗が深刻な状況となっていた。拡大する公共事業の受注

をめぐる UMNO 幹部とその関連する企業との間における贈収賄が日常化する「金権政治」

(Money Politics)84を生み出していた。そして、国民の UMNO(与党国民戦線:NF)離れを確実に引き起こしていた。アブドラは地方政府機関幹部を摘発し、2004 年には連邦

82 同上記事。 83 『朝日新聞』(衛星版)2003 年 12 月 10 日。 84 Edmund Terence Gomez and Jomo K.S.,1997, Malaysia’s Political Economy: Politics, Patronage

and Profits, Cambridge University Press, pp.120-137.

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閣僚の一人を起訴して実際に汚職撲滅の行動を起こした85。 UMNO の金権政治による政治不信は、1999 年 11 月の前回総選挙における UMNO の予

想以上の敗北を導いた要因であった。マレーシア半島部のクランタン州、トレンガンヌ州

や北東部諸州の PAS(全マレーシア・イスラム党)の躍進と勝利は、マハティールが解任

した前副首相アンワル(Anwar Ibrahim)への支持が北東部諸州の伝統的マレー人社会に

浸透した点に加えて、UMNO の KKN(汚職、癒着、縁故主義)への強い批判がこれらマ

レー人社会に広がっていたからであった86。 アブドラにとって、まずマレーシアの「金権政治」を撲滅することが第一義的課題であ

った。次に、肥大化した財政支出を健全化することであった。クアラルンプール国際空港、

巨大行政都市のプトラジャヤ、マルチメディア・スーパー・コリドー(MSC)の中心的ハ

イテク都市サイバージャヤなど大型の建設が続き、2003 年予算では歳入に対して歳出が前

年比で 9.2 パーセント増加し、6 年連続の赤字予算(赤字幅は国内総生産の 3.9 パーセン

ト)となっていた87。まさに国家財政は火の車状態であった。 このような財政状態の悪化の中で、アブドラは公共事業に代表される物理的インフラ建

設から人的資本形成に政策の重点を移行させた。例えば、財政支出の優先的プロジェクト

として、人々の福祉を保障する健康管理、教育、農業、他の社会経済的プロジェクトを挙

げ、その代わりとして 145 億マレーシア・リンギの費用を要する鉄道複線化プロジェクト

を延期した88。 実務家としてのアブドラの国内政策は、第一に金権政治の撲滅、第二に財政支出の抑制

と均衡予算の復活を果たし、国民からの信頼を回復することであった。そしてそのうえで

自らの手で選挙を実施し、勝利を勝ち取り、実質的なアブドラ体制を築き上げることであ

った。 1.4.2 2004 年総選挙の大勝利とアブドラ時代の到来

2004 年 3 月 21 日にアブドラ政権 初の選挙が実施された。言うまでもなく、アブドラ

の政治指導力の是非を問われる選挙であった。前項で述べたように前回 1999 年の選挙で

は、UMNO を中心とした与党国民戦線の KKN に対する批判票、さらにはアンワル問題も

絡んでマレー人社会の票が割れ、UMNO から PAS へ明確に票が流れた。 2004 年選挙でも、華人、インド人の非マレー人の票は国民戦線に流れた。これら非マレ

ー人はマレーシアの「イスラム国家」化を恐れており、前回選挙と同様な投票行動にでる

と思われていた。また、穏健で実務重視のアブドラとは副首相時代から密接な信頼関係が

85 木村陸男、2004 年、「特集にあたって」(『アジ研ワールド・トレンド』No.103)、2~3 頁。同論文に

は UMNO の指導体制の変革について、「下院選挙増加の機を捉えて、党 高評議会の下に総裁、副総

裁、副総裁補、幹事長などで構成する運営委員会における協議、集団指導により、全党の支部委員会

を臨時委員会に再組織」して、新たな集団指導への忠誠の確認と支部委員会での一定の世代交代を進

めた、と述べている。 86 山田満、2000 年、「マレーシア政治の新たな方向性と課題-1999 年総選挙結果を踏まえて-」(『ア

ジア・アフリカ研究』アジア・アフリカ研究所)を参照。 87 『アジア動向年報』2003 年版、335 頁。 88 New Straits Times, 12 December 2003.

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築かれていた。 そこでやはり問題はマレー人票の行方であった。選挙結果をみると、マレーシア連邦下

院議席総数 219 議席(前回に比べ 26 議席増)の内、与党国民戦線は約 9 割を超える 198議席を獲得する歴史的な勝利であった。UMNO の議席数も前回が 71 議席(全 193 議席、

BN148 議席)であったのに対して、109 議席(全 219 議席、BN198 議席)を獲得し、全

議席数での割合で 13 パーセント、BN 内の議席数においても 7.1 パーセントの伸び率を示

した。 このような結果をみると、アブドラの進めてきた「金権政治」(KNN)根絶の取り組み、

また大型公共事業から均衡予算をめざした財政再建重視の政策が、華人、インド人の非マ

レー人だけではなく、前回選挙で割れたマレー人社会からも歓迎され、高い評価を得たも

のと考えられる。

図表 1-4 1999 年および 2004 年のマレーシア総選挙結果 政党名/総選挙年 当選者数(下院)

1999 年 2004 年 当選者数(州議会) 1999 年 2004 年

与党国民戦線(NF/BN) UMNO MCA MIC グラカン その他

148 198 71 109 29 31 7 9 6 10 35 39

281 453 176 302 69 76 15 19 21 30 0 26

野党 PAS DAP 国民正義党 その他

45 20 27 7 10 12 5 1 3 0

113 51 98 36 11 15 4 - 0 0

無所属 0 1 0 1 合計 193 219 394 505

出所:The Star Online: Malaysian Election 2004 (http://thestar.com.my/election2004/results/results. html)、2004 年 6 月 27日アクセス。

1.4.3 ルック・イースト政策の今後の行方

2004 年総選挙における歴史的大勝利によって、自らの政権維持に自信を深めたアブドラ

首相はルック・イースト政策に対する考え方を変化させるのであろうか。 後に、ルック・

イースト政策の今後の行方をアブドラ政権の政策から検証してみたい。 アブドラ政権は、政権の安定のためにもまずマハティール政権との政策の連続性を基本

に打ち出して、当面は大幅な政策の変更をしないであろう。つまり「ヴィジョン 2020」、2020 年までに先進工業国入りをめざしたマハティールの政策を基本的に継承するものと

思われる。ただしその一方で、官僚出身で内政を重視するアブドラ首相は、引き続き大型

公共事業、従来型の製造業重視よりも、国民の福祉向上をめざした健康管理、教育、農業、

他の社会経済的プロジェクトに財政支出の優先度を置くものと思われる。 ここで少しアブドラ首相の個人的バックグランドをみてみよう。北西部ペナン州出身で、

祖父、父ともにイスラム学者で、アブドラ自身もマラヤ大学でイスラム学を専攻している。

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この点は、前回選挙で離反したマレーシア北東部諸州の伝統的なマレー人社会からの票の

奪還に良い影響を与えたことは確かである。 UMNO との関わりは古く、父親が UMNO の初代青年部長であり、アブドラ自身は 1978

年に政界入りを果たした。その間、キャリア官僚として実務を経験し、行政手腕を身につ

けた。マハティールとの関係では、UMNO 総裁選挙でマハティールのライバルであった

ラザレイ派支持に回ったために、国防大臣を解任された経験を有している。しかし、ラザ

レイ派が党を割って新党を結成したときには加わらなかったことで、1991 年には外相とし

て内閣の一員に復活した。 教育相、国防相、外相、内相など重要閣僚を経験しており、温厚で庶民的な人柄、清廉

な政治姿勢から「ミスター・クリーン」とも呼ばれていた。出自をみると、母親はマレー

人と華人の混血で自ら福建語を話し、エンドン夫人の母親は日本人で、マレーシア日本人

社会との交流もある。また、ルック・イースト政策発表後の計画策定にも加わっている89。 このようなアブドラの経歴を勘案して、自身で述べたようにルック・イースト政策の継

続性は高い。問題はルック・イースト政策のどのような内容を引き継ぐのかである。マハ

ティールですら 1990 年代の長期にわたる日本の景気低迷を受けて「反面教師」としても

日本から学ぶことはあると述べ、ルック・イースト政策継続への揺らぎを呈した。 ルック・イースト政策で派遣された国費留学生や研修生は、日本の大学で学び、あるい

は日本企業で研修することで、単に知識や技術を修得するにとどまらず、日本語や日本文

化を学ぶことを通じて、日本の労働倫理、職業倫理を学ぶことが期待された。このような

留学生や研修生は、帰国後は日系企業への就職が半ば約束されていたこともルック・イー

スト政策の継続してきた客観的な要因であった。 しかし、日本の景気低迷と日本企業のマレーシアからの撤退(多くは中国への移転)、中

国の経済発展などマレーシアを取り囲む国際経済環境は大きく変わってきている。このよ

うな国際経済の変化を背景にしてもルック・イースト政策が以前と同様の中身のままで継

続していくことは考えにくい。 本節の冒頭でマハティール自身が言及しているように、日本人の「労働倫理」観は大き

く変わってきている。若者たちの「欧米志向」は日本に限らず、マレーシアにおいても同

様である。筆者らのマレーシア調査においても、若者の留学先としてもっとも人気がある

のはアメリカやイギリスであり、マレーシアの若者においても同様な動きが窺える。 そうであればいまさら「日本の文化や価値観」を学ぶ理由はないであろう。それゆえ、

マハティールの個人的色彩の強い反欧米思想を前提としたルック・イースト政策の中身の

検証が求められてきているのは事実であろう90。穏健なアブドラであるが、現実的な政治

家として今後対日関係を見直していくものと思われる。 大勝した 2004 年下院選後の組閣でも、アブドラ首相は大幅な人員の入れ替えをしなか

った。むしろ教育省の他に高等教育省を新設するなど、公約通り内政重視の政治運営を行

っていく決意を示した。したがって、ルック・イースト政策に関しても大幅な中身の転換

というよりも、優先順位の高いプロジェクトを遂行するうえで中身の変更が行われていく

89 『朝日新聞』2003 年 11 月 1 日、および『読売新聞』2003 年 11 月 1 日。 90 マレーシアの政治評論家ジェームズ・ウォン氏はインタビューで、後継者のアブドラもルック・イー

スト政策の継続を表明しているが、「政策の中身を検証する時期に来ている」と述べている(『神奈川

新聞(共同通信)』2003 年 10 月 30 日)。

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ことになるであろう。むしろルック・イースト政策の政策としての継続性の有無はアブド

ラ後の指導者に委ねられていくものと思われる。 1.5 本章のまとめ 本章の役割は今後のマレーシアへの ODA(政府開発援助)支援を継続するうえで、そ

の基本的枠組みとなっている“ルック・イースト政策”を検証すること、およびポスト・

マハティールにおける同政策の行方について考察することである。 マレーシアはすでに一人当たりの GNI(国民総所得)が、2001 年度で 3,640 米ドルで

あり、世界銀行では高位中所得国(2,976-9,205 米ドル)(『世界開発報告』2003 年版)

として位置づけされている。その意味では、ODA 対象国としては卒業している(1997 年

の通貨危機を契機に復活)。 このようなマレーシアにあってルック・イースト政策を検証してきた。広島市立大学の

オマールはルック・イースト政策を①イデオロギー的側面、②動機的心理的な側面、③組

織的な側面、④実質的技術的側面、⑤外交的側面の 5 つの側面から分析している91。 イデオロギー的側面からは西欧的価値観に対応した点、動機的心理的側面では日本・韓

国から労働倫理を学ぼうとした点、組織的な側面では日本株式会社などのような組織化を

学ぼうとした点、実質的技術的側面からは日本・韓国の技術・知識を学ぼうとした点、

後に外交的側面では日本、韓国とマレーシアとの友好関係の強化を考えた点を挙げて、そ

れぞれの視角から分析しようとした92。 また、マレーシア理科大学のリーは、商工業で活躍するブミプトラ企業家育成をめざし

た新経済政策(NEP)で求められている時間厳守、総体的合意、忠誠、企業家精神などの

強い労働倫理を学ぶ社会文化的側面と、市場、技術、経営革新を通じた経済規模の拡大を

発展させる経済的側面に分けてルック・イースト政策を分析している93。 これらマレーシア研究者によるルック・イースト政策の分析手法を参考にして、本章で

筆者が検証してきたマハティール以前からの対日関係や、マハティールのルック・イース

ト政策を考察することで、ポスト・マハティールのルック・イースト政策の課題と展望を

明らかにしていきたい。 第 1 に、オマールが指摘する①のイデオロギー的側面からみてみよう。まずアブドラ首

相はマハティールほど反欧米的思考を有してない点で、この側面からのルック・イースト

政策は弱まるであろう。しかしその一方で、国民の過半数がイスラム教徒である国情を背

景に、マハティールの強い英米批判ほどではないにしても、例えば今回のイラク問題に対

して、アブドラ首相は「米国は戦争に勝ち、平和の確立に敗れている」と述べ、イラク復

興に関しても国連の枠組みでない限りは協力しない旨を明言している94。

91 Omar Farouk Bajunid,2002, “Look East Policy and the Continuing Applicability of the Japanese

and Korean Model: An Evaluation,” A Compilation of Papers Presented at The International Conference on Malaysia’s Look East Policy: Challenges and Contributions, 22-23 April 2002, Kuala Lumpur, Coordinated by Ambang Asuhan Jepun, Pusat Asasi, Universiti Malaya, p.63.

92 Ibid.,p.63. 93 リー(Molly N. Lee)教授からのご教示による。なお、リー教授は本プロジェクトのマレーシア側か

らの参加者である。本ディスカッションペーパーの第 2 章を担当されている。 94 『朝日新聞』(衛星版)2003 年 12 月 10 日。

Page 38: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

26

ただ、アブドラは 63 歳で首相に就いている点を考えると、次期首相の 有力候補であ

る 50 歳の副首相兼国防相に選任されたナジブ・ラザク(Najib Razak)の考え方が大きな

影響を及ぼしていくものと思われる。ナジブは第 2 代首相ラザクの長男であり、すでに

UMNO 内においても大きな影響力を有している。 第 2 に、②の動機的心理的側面では、すでに日本社会においては、マハティールが交流

してきた古い世代とは大きく異なる「茶髪」の若い世代が増大している。これら若い世代

が短絡的に「欧米志向」とは結論づけられないが、しかし確実に「労働倫理」観は変化し

ている。若者の欧米化志向は韓国にも当然伝播していくと思われる。 また、日本の労働倫理を支えてきた終身雇用制度や年功序列制度は、企業年金問題にみ

られるように大きく揺らいでいる。むしろ欧米型の年俸制を導入する企業も増えてきてい

る。企業内組合も長期にわたる景気停滞で形骸化しており、労使協調というよりは一方的

な経営者側のリストラ要求に組合としての実質的な役割を果たしていない。つまり労使関

係の協調は崩壊状態にある。そうなると、第 2 の観点からはルック・イースト政策の継続

は困難と思われる。 ただ現地調査で明らかになった点からいうと、日本の大企業ではなく、日本の中小企業

からは依然学ぶべき点は多いという指摘を受けた。もし第 2 の点が生き残るとしたら、日

本の中小企業に残る勤勉さ、技術力、さらに企業家精神ではなかろうか95。 第 3 に、組織的側面からは、「日本株式会社」、総合商社などが範例として挙げられた。

産業政策を主導した通商産業省は経済産業省に省庁再編され、名称が変わった。政府主導

の経済は 1990 年代の長期不況に鑑みて、産業、行政の構造改革が推進され、政府の介入、

政府の役割は低下する方向で動いている。 日本の経済発展を推進した総合商社の勢いも大きく後退した。海外での日本経済の競争

力の低下と軌を一にして総合商社の役割も低下している。不況にあえぐ日本企業は、商社

に頼る前に自前で輸出入業務を行っている。系列を有する財閥系商社はともかく全般的に

商社の役割は低下しているといえよう。 第 4 に、実質的技術的側面であるが、マレーシアにとって情報技術(IT)産業の育成は、

マルチメディア・スーパー・コリドー(MSC)構想実現において 重要課題になっている。

IT 産業を基幹産業に位置づけるためにもいっそうの技術者が求められている。その意味で、

依然ルック・イースト政策における技術者養成のための国費留学生や研修生の派遣事業は

重要課題であると思われる。 第 5 に、外交的側面におけるマレーシアと日本・韓国との友好関係は深まっている。マ

ハティールの推進した EAEG/EAEC 構想が、1997 年のアジア通貨危機後の ASEAN 首

脳会議で日本・中国・韓国の首脳が非公式ながら会議に参加したことで、ASEAN+3(日

本・中国・韓国)の協力関係が実質化したといえよう。さらに FTA(自由貿易協定)も進

み、特に外交関係における経済協力の側面が進展している。 以上のようにオマールとリーの提起したルック・イースト政策の分析枠組みを利用して、

95 例えば、ルック・イースト政策同窓協会(ALPES)のザバ(Zaba Youn)会長は、大学在学期間や卒

業後の企業、特に中小企業での研修もルック・イースト政策に含めるべきであると述べた(2003 年

12 月 12 日聞き取り)。同様な意見は、YPM(日本マレーシア連合プログラム)の永富輝昭氏(12 月

8 日)、異文化マネジメントコンサルタントの河谷隆司氏(12 月 9 日)などからも聞いた。

Page 39: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

27

今後のルック・イースト政策存続の中身を考えると、社会文化的側面におけるルック・イ

ースト政策の役割は低下する一方で、日本の経済的停滞で経済的役割は同様に低下してい

るとはいえ、新たに ASEAN+3 などの枠組み強化がなされ、FTA などを含む経済的側面

の関係ではルック・イースト政策がはいっそう深まっていくものと思われる。 それゆえ、マレーシアの科学技術、IT 産業などの発展に寄与する人材育成の観点からは、

当分日本の科学技術修得のための留学生、および企業研修生の派遣は継続するものと思わ

れる。またそのニーズは高い。しかし他方で、従来の日本語習得を含む日本の社会文化ま

でを学ぶ留学生派遣制度は、確かに知日・親日家を増大させる手段として見返りの大きい

制度ではあったが、政策の転換期を迎えているものと思われる。

Page 40: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

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第 2 章 マレーシアにおける高等教育の再構築 モリー・N・N・リー

(UNESCO アジア太平洋教育事務局、 前マレーシア理科大学)

翻訳:北村明子(早稲田大学大学院) 2. 世界的動向、国家政策、および教育機関の対応:高等教育の再構築96 2.1 要約

1990 年代における重要な世界的動向の一つに、高等教育制度の再構築がある。この再構

築のプロセスの本質は、高等教育機関と国家、そして市場という三者の関係の再定義化と、

教育機関の持つ自主性の急激な減少にある。本稿では、高等教育の民営化と公立大学の法

人化という背景のもとで行われた、マレーシアにおける高等教育の再構築のプロセスを分

析する。当分析においては、グローバル化時代の高等教育改革の背景や、高等教育改革の

主な傾向、そしてこのような世界的動向へのマレーシアの対応に重点を置く。また、本稿

では教育機関レベルに焦点を合わせ、民営化と法人化によってもたらされた公立大学にお

ける管理構造や文化の変容、私立の高等教育の拡大と多様化についても検討する。 2.2 序論 グローバル化と、グローバル化が教育に与える影響に関する研究は、これまでにも数多

く行われている。教育の専門家は、この世界的規模のプロセスが、どのような形で直接的、

あるいは間接的に各国の教育制度に影響を与えたか、という点を考察している。どの特定

の社会における教育変革も、その社会の社会経済的および政治的な発展状況だけでなく、

世界的な圧力や動向によって左右されるものである。この世界的な圧力は、国家の経済的、

社会的、政治的、文化的な背景に影響を及ぼすことから、政府は教育改革に着手すること

で、そういった世界的規模の要請に対応していく必要がある。また一方で、多くの国が教

育に関する世界的動向に、「制度的同型化」(DiMaggio and Powell, 1983)や「教育借用」

(Halpin and Troyna, 1995)といった方法で追随する傾向にある。 高等教育における世界的動向を調査すると、経済のグローバル化や、社会保障制度の衰

退、知識の商品化が、高等教育に重大な影響を及ぼしていることが分かる。(Schugurensky, 1999)経済のグローバル化では、相対的に人や物、資本、知識、技術、そして革新的なも

のが自由に流動することによって世界市場を開放し、経済成長に大きな可能性を与えてい

る。グローバル化した知識経済の出現は、高等教育の役割と価値に大きな影響をもたらし

ている。そのような経済において生産性は、科学、技術、知識、発想に大きく依存してお

96 本稿は、2002 年 7 月 15‐19 日、英国ロンドンのロンドン大学教育研究所にて開催された、ヨーロッ

パ比較教育学会にて発表されたものである。

Page 41: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

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り、それらはすべて大学教育に含まれる領域である。多くの国民国家が大学の役割を、世

界市場におけるシェア確保の中枢を担うもの、として認識している。経済のグローバル化

と平行して起こるのが、福祉国家の縮小である。福祉国家は、社会支出の削減や、経済の

規制緩和、資本税の引き下げ、民営化や労働の流動化によって経済的な国際競争力を強化

する、新自由主義国家に取って代わられている。このことは、高等教育への財政的支援が

徹底的に削減され、健康、教育、居住、運輸といった分野に関わる公営企業が民営化され

ることを意味している。また同時に、知識の生産と普及が、徐々に商品化されつつある。

つまり、高等教育は絶えず商業化され、また民営化されているのである。高等教育機関は、

国家による財政的支援に完全に依存するのではなく、多様な財源の模索と再編成の必要に

迫られている。国家による介入が減り、高等教育の条件は次第に市場力学によって制御さ

れ始めている。 高等教育制度の抜本的な再構築は、1990 年代の特筆すべき世界的動向である。この再構

築のプロセスの本質は、高等教育機関と国家、そして市場という三者の関係の再定義化と、

教育機関の持つ自主性の急激な低下にある。(Schugurensky, 1999)結局のところ、高等

教育の再構築は多くの異なる国々において、文化の伝播や制度的同型化を通じて発生して

いる。しかしこれは、すべての高等教育制度が完全に同一のものである、ということでは

ない。なぜなら、世界的な圧力への対応の仕方は、政治経済や国民文化、そして特定の教

育制度の構造的特徴などによって、変わってくるからである。 本項の目的は、高等教育の再構築に関する世界的動向について、それらの動向を招いた

と考えられるいくつかの世界的なプロセスの分析を通して、検証することである。次項で

は、その世界的動向がマレーシアの高等教育の発展にどのような影響を与えてきたか、と

いうことを、特に近年の高等教育の民営化および公立大学の法人化に関するマレーシア政

府の政策に焦点を当てて、考察する。第三項では、急速な変化の渦中にある民間の教育機

関と公立大学の例から、高等教育機関側の対応をいくつか分析する。最終項では、グロー

バル化が進む世界のなかで、比較的自主性を保持しているマレーシアの事例を分析する。

マレーシア政府は、国家の政治的主導権をもって、自国が縮小しつつある福祉国家ではな

く、むしろ強固な干渉主義国家であることを実証している。マレーシアの事例は、国境を

越えた教育という観点だけでなく、高等教育の民営化や法人化という点でも、世界的動向

に見られる多くの特徴を有している。しかしここで重要なのは、世界的な傾向だけでなく、

それに対する国や教育機関の対応にも注意を払うことである。 2.3 グローバル化と高等教育 グローバル化はしばしば世界経済や世界政治、世界文化の領域において展開される多面

的なプロセスと見られがちである。グローバル化のプロセスを実現可能にするのは、金、

もの、人、情報、技術、そして概念の流動性を伴う新たな情報通信技術である。(Appaduria, 1990)グローバル化と高等教育の関係は、二つの観点、すなわち経済のグローバル化と世

界的動向から分析することが出来る。経済のグローバル化の視点では、高等教育改革の形

成に際して世界市場が持つ統制力に焦点を合わせる。その一方で、制度上の観点では、世

界中の国々が様々な領域をグローバル化の圧力に適応させ、また再構築しており、高等教

育に関する世界的動向もそういった国々によって取り入れられ、適応されているものであ

Page 42: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

30

るという立場をとる。本項では、高等教育にグローバル化が与える影響と、その過程でど

のように高等教育がグローバル化されていくのか、ということを考察する。 グローバル化時代における高等教育の役割の変化は、脱工業化経済の出現と密接に関連

している。脱工業化経済においては、生産性が主に科学、技術、知識、経営によって左右

される。この変化は、新経済が次第に情報処理活動を基点とするようになり、規格化大量

生産が特注方式の柔軟な生産へと移行されつつある先進国において、特に顕著である。国

内市場の保護や労働組合の組織化、官僚的および階級的な経営、規格製品の大量生産、と

いった原則に基づくフォード主義経済は、新しい技術や、労使間の新たな関係によって加

速する世界経済において、もはや実用的ではない。(Brown and Lauder, 1997)新自由主

義者は、フォード主義について、国際競争が企業の縮小やコスト削減、そして労働組織の

柔軟性を推し進める新フォード主義に取って代わられるべきだと主張している。新自由主

義は、公共機関の民営化や、国家による規制の緩和と税金の引き下げ、そしていわゆるコ

ストのかかる社会保障制度の撤廃によって、企業の収益を高め、経済効率を上げることを

求めるものである。(Carl, 1994)新自由主義者は、資源を配分する主体として、市場が国

家に優先するという理念を持っている。(Wells, et al., 1991) 経済のグローバル化と平行して起こるのが、福祉国家の縮小である。福祉国家は社会支

出の削減や、公的部門の民営化、その他の手段によって、経済的な国際競争力を強化して

いる新自由主義国家に取って代わられている。国家が、教育や居住、健康、社会保障とい

った公共サービスを全国民に提供するという責務から手を引くということは、結果的にそ

れらのサービスが市場の力学によって大幅に規制されることにつながっている。

(Schugurensky, 1999)福祉国家が縮小されるということは、社会福祉や教育に使われる

資金が減るということであり、高等教育にとっては深い意味を持つ。新自由主義者は、大

学への財政的支援の大幅な削減や、高等教育の民営化を求めており、さらに高等教育機関

におけるアカウンタビリティや効率性、生産性に関する問題を提起している。 世界経済はまた、急速な勢いで知識経済へと移行しており、この意味で高等教育は、世

界市場でのシェアを確保するための国家政策の中心である、と考えられることが多くなっ

てきた。高等教育の役割と価値は、世界市場において国家に競争力を与える社会的および

経済的な計画の作成にどれだけ寄与するか、ということで決まる。大学は、国家が世界経

済における競争に勝つために保有する、数少ない貴重な人材が多く集まる場所である。

(Slaughter and Leslie, 1997)国富の創造には、高度な技術や科学技術の発達が不可欠で

ある。それらは、新たな製品や製法の発見を導き、高給で高度な技術を要する仕事の増加

を促す。大学は高度な人材育成や、研究と産業との間の連携を提供する場である。民間企

業は、科学に基づいた製品やプロセスを世界経済の市場に売り込むための研究大学へと変

貌を遂げつつある。それゆえ高等教育は、この急速な変化を続けるグローバル化した知識

経済へ対応するため、絶えず変化している。要するに、グローバル化は、高等教育に対す

る国家の予算割当の縮小、市場と密接に関係している通信科学や関連分野の重要性の高ま

り、そして製品開発や技術革新における多国籍企業と公的機関の連携強化、といった点で、

高等教育にとって非常に大きな意味を持っているのである。 高等教育の再構築は世界的な現象であり、1990 年代に多くの先進国で見られた再構築の

過程には、共通する傾向が見られる。(Singh, 2001)第一に、一般的に高等教育機関は、

様々な方面、特に高等教育における主要な財源である政府から、効率性やアカウンタビリ

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31

ティ、生産性を明示するよう求められるようになってきた。しかしながら、公的資金の額

は減少し、高等教育機関は、より少ない資金でより多くのことを行うよう求められている。

大学は、高等教育に企業的な手法を取り入れることで多角的な財源の確保を行い、また企

業の経営手法を制度化して費用効率を上げなくてはならない。多くの国では、民間の教育

機関の設立を承認したり、公共機関における清掃や特別な学術分野のコース提供といった

サービスについて、非公的機関と管理契約を締結するなどして、高等教育の民営化が進め

られている。資源配分についても、関心主導の研究から、目的を絞った研究、あるいは商

業的、戦略的な研究へと重点が移行している。これらすべての傾向は、国家経済がより大

きな国際的な競争力を有するために作成された他の社会計画と大学とを同調させる、国家

の政策枠組みに影響を与えている。 教育機関のレベルでは、その他にも高等教育の変革をもたらす大きな圧力がある。まず、

より多くの国々が自国の高等教育制度の拡大に努めたことから、過去 40 年にわたって学

生の入学者数が飛躍的に伸びてきた。高等教育へのアクセスが増えただけでなく、高等教

育制度の拡大で、マイノリティ学生の入学も増えた。このかつてないほど高まっている高

等教育への社会的ニーズを満たすため、新たな高等教育提供者が多く現れ、需要過剰に対

応するとともに、教育を受ける側へより多くの選択肢を提示している。多くの教育機関は

往々にして学生を有益な市場と捉えており、“営利目的”で運営されている。また、変革に

関するもう一つの圧力として、全世界的な技術の進歩がある。技術の進歩は、高等教育の

性質を変える非常に大きな可能性を秘めている。情報通信技術の進歩によって、高等教育

における国境を越えた往来が増進される。(Marginson, 2002)高等教育における国境を越

えた活動には、外国の学生が他の教育提供国で学ぶことや、外国にて教育提供機関を運営

すること、また国境を越えたオンライン学習や、教育機関間の連携と共同体の設立などが

含まれる。 様々な国で行われている高等教育の再構築に関する研究によれば、資源配分や新たな収

益の獲得、新たな需要の再調整をどのように行うか、また、コストを下げて、効率性や生

産性、教育の質を向上させるために、どのような体系付けを行うか、といった問題に関し

て、高等教育における政策概念の収束が見られることが分かる。(Slaughter and Leslie, 1999; Gumport and Pusser, 1999; Rhoades, 1995)しかしながら、環境によっての違いは

ある。というのも、政策概念は異なる政治的背景や国家基盤、国家的イデオロギーの中で、

異なる理解や解釈をされるからである。(Ball, 1998)次項では、マレーシアにおける高等

教育の再構築の展開について、外部および内部からの変革への圧力に対する制度レベルの

対応と、教育機関の対応の両者を分析することによって検証する。 2.4 高等教育制度の変化 多くの諸外国の場合と同様、マレーシアの高等教育は、かつてない社会的需要の増加が

招いた大規模な拡大に直面している。社会需要の増大は、一部中等教育の民主化やマレー

シア社会における豊かさの拡大よってもたらされた。国家はしばしば高等教育を、国民の

同一性や結束を高めるための手段であると同時に、社会的流動性を促す道であり、人材開

発や経済成長の方法であると考えている。1970 年に「新経済政策」を導入して以来、マレ

ーシア政府は、経済的機能によって少数民族の帰属意識を取り除き、マレーシア社会を再

Page 44: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

32

構築するための手段として、高等教育へのアクセスを捉えている。社会的公正を実現する

試みの一環として、マレーシア政府は、公立の高等教育機関への入学が生徒の民族性に基

づくという、民族別の入学割り当て枠を設ける政策を導入した。また、マレーシア政府は、

既存の大学を拡大し、新たな高等教育機関を多数設立した。2002 年の時点で、公立大学が

11 校、ユニバーシティ・カレッジが 5 校、技術専門学校が 6 校、教員養成カレッジが 27校あり、さらに国会議員選挙区 193 区に一校ずつコミュニティ・カレッジを作る計画があ

る。 かつてのマレーシアでは、政府が中心的な存在として高等教育の提供を行っていた。し

かし、高等教育の大衆化と共に、その拡大の維持に関する予算上の制約がきつくなり、マ

レーシアは高等教育を民営化し、公立大学の法人化を進めた。過去 10 年では、高等教育

を受ける学生の数が飛躍的に増加している。高等教育レベルの学校に入学した学生の総数

は、公共セクターと民間セクターを合わせて、1990 年から 2000 年までで 2 倍に増え、23万人から 38 万 5,000 人となった。(Tan, 2002)大学における 19 歳から 24 歳までの世代

の就学率は、1989 年から 1999 年までに 2.9%から 8.2%へと上昇した。これと同時期に、

民間の高等教育は大きく拡大した。私立の教育機関の数は 1992 年の 156 機関から 4 倍以

上増加して、2002 年には 707 機関となった。1995 年の時点では私立大学はひとつも存在

しなかったが、2002 年までに 12 校の私立大学が設立されている。これらの民間の教育機

関に入学する学生の数は、1990 年には約 3 万 5,600 人であったが、2000 年には 20 万 3,000人となり、高等教育を受けている学生全体の 53%を占めていた。(Tan, 2002)高等教育の

民営化には、公共機関において、高まる需要に対応する余地がないことが背景としてある。

この問題はさらに、民族別割り当て制度や、海外留学費用の高さ、そして 1997 年のアジ

ア経済危機におけるマレーシアリンギット(RM)の暴落などによっても深刻化している。 1998 年 1 月 1 日、マレーシアで最も古い歴史を持つマラヤ大学(UM)が法人化され、

それに続いて 1998 年 3 月 15 日にはマレーシア科学大学(USM)、マレーシア・プトラ大

学(UPM)、マレーシア国民大学(UKM)、そしてマレーシア工科大学(UTM)の 4 つの

公立大学が法人化された。これらの公立大学の法人化は、大学を企業化し、市場での競争

力をつけるために大学内で企業文化や企業的な体質をはぐくむ、という世界的動向と完全

に一致している。この動向は、オーストラリアにおいて大学が法人化され、シンガポール

では公立大学が“企業型大学(entrepreneurial universities)”に、インドネシアおよび

タイでは“自治大学(autonomous universities)”に変化していることにも反映されてい

る。大学は、企業のように経営される目的で設立されるようになってきている。大学は、

知識を一つの社会財として生産および伝達を行うのではなく、市場向き売買可能な商品と

して知識を産出することに重点を置いている。つまり大学は、市場関連の活動に従事して

いるのである。どのような授業を行うべきか、どのような研究に資金を提供するか、どの

学生集団をサービスの対象とすべきか、また、どんな入学政策を実施するべきであるか、

といった事柄については、すべて市場動向によって決定されることが増えている。

(Buchbinder, 1993)マレーシアの教育機関は、それが公共セクターのものであっても民

間セクターのものであっても、高等教育に商業的な手法を取り入れていることが分かる。

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33

2.5 高等教育の国家政策 高等教育の拡大や多様化に伴って、マレーシア政府は自らの役割を、第一の高等教育提

供者から、高等教育の調整者、あるいは擁護者にまで拡大しなくてはならない。(Lee, 2000)高等教育の提供者として、国は高等教育機関に資源を配分し、奨学金や学費援助、

研究、設備投資に資金を提供する。擁護者としては、高等教育へのアクセスを改善し、社

会的平等を推進する政策を策定すると共に、学問的なカリキュラムの質について監視をす

ることによって、消費者保護の機能を果たす。また、調整者としては、教育機関へのライ

センス供与やプログラムの認定を通じて、新しく設立される教育機関の監督を確実に行う。

さらに、高等教育サービスのための市場を構築することによって、行政における優先事項

と一致した成果を生み出す。国は、以上のような追加的な役割を、立法上の介入を行うこ

とによって果たしている。 1996 年に、国家高等教育評議会法が可決された。この法律は、国内の高等教育の発展の

方向性を決める単独の管理機関を設置する、という政府の意向を反映したものである。こ

の評議会の主な機能としては、高等教育の発展に向けた国家の政策や戦略を、企画、考案、

および決定することである。(Malaysia, 1996a)また評議会の役割は、教育機関の持つ使

命と学問的な提供内容が同等のものであることを保証するために、公共および民営セクタ

ー双方の教育機関を監督することである。政府は民間セクターが公共セクターの活動を十

分に補完することを望んでおり、また民間セクターがより職業的かつ技術的なカリキュラ

ムを提供するよう指導する努力を行っている。評議会の設立以来、マレーシア政府と高等

教育の関係においては、国が高等教育を管理するという関係から、監督するという関係へ

と徐々に変化している。高等教育の法人化と民営化によって、その変化は、学生の選択の

余地を広げ、急速に複雑化する社会秩序のニーズに応えることを目的とした、市場を基盤

とする政策へと向かってもいる。しかしながら、国は依然としてアクセスの平等や消費者

の保護、そして国家のアイデンティティを保証する中心的役割を担っており、さらにそれ

らは市場を越えた、より広い意味での社会的、文化的な目標である。 1995 年には、すべての公立大学を法人化するという枠組みを構築するため、1971 年制

定の大学および大学カレッジ法が改定された。法人化によって、公立大学は政府からの官

僚的な資金提供を受けるという束縛から解放され、法人企業のように運営されている。法

人化された大学は投機的事業への着手や寄付金の増額、会社の設立、金利の獲得や保持と

いった、市場関連の活動に従事する権限をもっている。マレーシア政府は、依然としてほ

とんどの公立大学の資産を保有しており、新規のプログラムや高額の資本財に対して開発

資金を提供している。しかし、法人化された大学は運営コストにおける負担分の一部を増

額するという重荷を背負わなくてはならない。 この一連の改定で、大学議会は廃止され、大学委員会は役員会に変更された。また大学

評議会の規模は大幅に縮小されて 300 人から 40 人となった。(Malaysia, 1995)この規模

の縮小は、大学の管理における大学教員の影響力の衰退と見ることができる。伝統的に、

大学評議会は通常、大学副総長、大学副総長代理、学部長、教授会代表、そして学問的な

政策を策定するすべての大学教授で構成されていた。大学評議会が確固たる方針を持たな

い場合、教員が大学の政策に対して協議や評価を行う機会は減少すると考えられる。 民間の高等教育機関に最も直接的な影響を与えた法律は、1996 年に可決された私立高等

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34

教育機関法と国家アクレディテーション委員会法である。(Malaysia, 1996b and 1996c)前者は、すべての私立高等教育機関(PHEIs)に対する政府の取締管理を規定した法律で

ある。この法律によると、PHEI の設立、あるいは特定の機関におけるプログラムの提供

の前に、教育大臣の承認を得る必要がある。私立大学は、教育大臣の推薦がなければ設立

することが出来ない。外国の大学もマレーシア国内に分校を設立することが出来るが、や

はり教育大臣による推薦がなければ不可能である。さらに、すべてのコースには公用語を

用いることが義務付けられているが、教育大臣が承認すれば、英語やアラビア語で教える

ことの出来る科目もある。また、すべての PHEI では、マレーシア学(イスラム文明とア

ジア文明を含む)、イスラム学(イスラム教徒の学生向け)、道徳教育(イスラム教徒でな

い学生向け)、の三つが義務科目となっている。これらの科目を教えることの論理的根拠は、

マレーシアが教育上の独自性を確立することにある。この法律では、新しく設立される

PHEI や、提供されるカリキュラムの種類について、政府が厳格に管理することが認めら

れている。 しばしば LAN97とも称される、国家アクレディテーション委員会を生んだ、国家アクレ

ディテーション委員会法は、PHEI が提供するすべての教育プログラムの水準や質を監督

し、管理するものである。LAN には二つの基本的な機能がある。すなわち、(1) PHEI が提供するすべてのプログラムが、委員会によって定められた最低限の基準を満たしている

ことを保障すること、(2) PHEI が授与する免状、ディプロマ、学位に対する認定証を授与

すること、の二つである。必要とされる最低水準のレベルに達しているかどうかを判断す

る基準とその認定は、教科課程、教授陣、すべての教科のシラバス、利用可能な機材、管

理体制、そしてその教科課程を実施する理論的根拠、といった点に基づいている。

(Education Guide Malaysia 2000)あらかじめ定められた基準は同じであるが、最低水

準レベルを達成して認定を受けるために必要な評価や点数は異なる。なぜなら、基準の達

成のほうが認定よりも要求される得点が低いからである。すべての PHEI は講義を行うた

めの承認を得て、LAN によって規定された最低限の水準を満たすことが求められているが、

認可の申請については任意である。講義を実施するために必要な最初の承認申請費用は、

免状およびディプロマコースで RM700、学位コースで RM1,000 かかる。もし申請が認め

られれば、PHEI はその承認がおりる前にそれに見合った額を支払わなくてはならない。

見合った額とは、免状およびディプロマコースで RM10,000(3 年間有効)、そして学位コ

ースで RM15,000(5 年間有効)である。これらの高額な料金の導入で、財政的に恵まれ

ていない PHEI のなかには、その料金を払うことができないという理由で閉鎖せざるを得

ない状況に追い込まれた機関もあった。 以上が、マレーシアにおける高等教育の再構築のための、国家的政策枠組みを提示した

四つの法律である。次に続く 2 項では、民間セクターおよび公共セクターの多様な教育機

関が、新たな環境において、その政策や機能にどのように対応してきたか、ということに

ついて分析を行う。

97 LAN:Lembaga Akreditasi Nasional の略

Page 47: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

35

2.6 私立高等教育機関(PHEIs) 民間による高等教育の拡大は、教育機関と学習プログラムの多様化によってもたらされ

ている。ここ数年で、民間の教育機関は異なるオーナーシップの形態を生み出しており、

その中には営利目的の事業も非営利目的の事業も含まれる。(Lee, 1999)営利機関は、個

人経営者や民間企業、企業連合体、株式上場企業、政府関連法人などによって設立された。

他方、非営利機関は、財団法人や慈善団体、あるいは地域共同体における資金調達などに

よって設立された。高等教育に対して民間資源と社会的資源の両方を活用し、最大限に利

用するために、政府、非政府組織、民間セクター、地方自治体、宗教団体の間で、様々な

形の連携が生まれた。一人の個人起業家とイスラム団体との連携によって誕生したプルキ

ムグーン研究所や、オリンピア経営大学のような、メソジスト協会と企業団体による合弁

事業の例がある。また、ペナン医科大学のように企業団体と州政府との合弁事業もあれば、

トゥンク・アブドゥル・ラーマン大学のように、政党が所有している大学もある。一般的

に、オーナーシップの形態は、大学の開発と運営の下地となる、資源基盤の規模によって

決まってくる。そのため、その形態は、教育プログラムの質だけでなく、プログラムの提

供にも直接的な影響を与える。より多くの PHEI が、ペナンにある INTI 国際大学とスタ

ンフォード通信教育大学のように、限られた資金を集約する目的で、合併している。 オーナーシップの形態の違いのほかにも、市場への対応の仕方によって、PHEI はそれ

ぞれ異なっている。PHEI のなかには、大学前教育から大学院課程まで様々な学問分野に

おける幅広いプログラムを提供しているところもある。その一方で、医療分野や芸術・デ

ザイン、語学、音楽、情報技術など、特定の分野に特化している PHEI もある。後者の

PHEI の戦略は、他の大学と同じ土俵で勝負するのではなく、独力ですき間市場を開拓す

る、というものである。民間の教育セクターが、変化する市況のニーズにより適切に対応

できるようになるためには、教育機関の差別化こそが有効である。大きな市場があり、多

くの人材が集まっているという理由から、ほとんどの PHEI はクランバレーにある。しか

し、近年では、INTI 大学やインフォマティックス、そしてスタンフォード大学といった

比較的大きな大学がマレーシア国内の別の場所にもキャンパスを設置している。より企業

化された大学のなかには、このアジア・太平洋地域にある他国で合弁事業を立ち上げるこ

とを行っているものさえある。例えば、INTI カレッジは、中国、ベトナム、タイ、イン

ドネシアの 4 国に進出している。 他の国々の場合と同様に、マレーシアで PHEI が生き残れるかどうかは、顧客である学

生により多くの選択肢を提供するために、様々な種類の学習プログラムの試行および開発

を行う能力があるか否か、ということにかかっている。マレーシアの PHEI によって提供

されているプログラムは、いわゆる(1) 内部プログラム、(2) 国際プログラム、そして(3) 外部の団体の資格認定を受ける対象となるプログラム、の 3 つである。(Lee, 1999)内部プ

ログラムは、PHEI の内部で設定されたカリキュラムや試験に基づくもので、プログラム

終了時に、生徒はその特定の PHEI から免状あるいはディプロマを与えられる。学位を与

えることは、マレーシアの私立大学では許されていない。この制約を克服するため、多く

の私立大学が、様々な形で外国の大学との組織的な連携体制を築いており、異なる形式の

学位プログラムや専門資格を提供している。今日では、この慣行が拡大し、私立大学と地

方の公立大学との組織的連携も始まっている。外国の大学と連携しているプログラムは、

Page 48: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

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国際教育プログラムとしても知られており、これにはツイニング・プログラムや単位互換

プログラム、外部学位プログラム、遠隔教育プログラムが含まれる。ツイニング・プログ

ラムは、生徒が学位プログラムの一部を自国の教育機関で勉強し、その後外国の大学にて

プログラムを修了するという、学位分割プログラムである。典型的なツイニング・プログ

ラムの形式は、“2+1”(自国の大学に 2 年、外国の提携大学に 1 年在籍する)、あるいは

“2+2”である。しかし、1997 年に経済危機にみまわれた際、マレーシアリンギットの

下落で、外国で勉強を続ける余裕がある学生の数が減少したことから、多くの私立大学は

“3+0”のプログラムの提供を始めた。1999 年には、12 校の私立大学が“3+0”制を提

供しており、マレーシア国内には外国の大学の分校キャンパスが 3 つ(モナーシュ大学、

ノティンガム大学、カーティン大学)存在した。つまり、マレーシアの人々は外国に行か

なくても外国大学の学位を取得することが出来るのである。 他の国々のように、マレーシアのほとんどの PHEI は会計学、法学、経営学、コンピュ

ータ学といったソフトな学問のプログラムを提供しており、どれも大きな設備投資を必要

としない。PHEI は、公共セクターに対して、より困難で費用のかかる課題を課している

ことになる。さらに、上記のようなプログラムは、国内、海外、双方の学生の間で非常に

人気がある。教授言語は主に英語である。なぜなら、ほとんどのプログラムは、外国の大

学、もしくは専門機関によって作成されているからである。また、私立大学には、インド

ネシア、中国、タイ、といった近隣諸国からきた膨大な数の留学生が在学している。2000年には、マレーシア国内におよそ 1 万 5,000 人の留学生がいたが、2001 年には 1 万人程

度にまで減少している。(Sunday Star, 2002)国内の学生に関して言えば、PHEI は主に

プミプトラではない学生を集めている。プミプトラではない学生は、民族別の割り当て政

策のために、公立の高等教育機関に入学する許可を得ることが出来ないからである。 2.7 法人化された公立大学 公立大学の法人化にはどんな意味があるのであろうか。4 年前に法人化が行われた公立

大学では、どのような変革が起こっているのであろうか。以上は、私がマレーシア科学大

学(USM)を事例研究の対象として、本項で解明を試みる研究の問いの一部である。デー

タは、大学にあるコンセプトペーパーおよび政策方針書、年次報告書、戦略計画と、大学

の主な役員に対して行ったインタビューから収集した。この事例研究では、管理構造に起

こった変化や、財源の多様化、そして企業的な管理政策の制度化、という 3 点に重点をお

いている。 法人化からの USM の管理構造は、現在 8 人の役員98を擁する役員会によって構成され

ており、大学評議会には 40 人の理事99がいる。大学副総長は、議題の内容や必要に応じて、

1 人の大学教員を大学評議会のメンバーとして選出することが出来る。重要な管理構造の

変化は、大学評議会における大学教員の代表者の削減である。学問が政策決定のプロセス

にどれ程の影響を与えるかという点については、大学副総長が政策決定のプロセスにおけ

98 役員会の構成は、議長、大学副総長、地域社会からの代表者 1 名、政府代表者 2 名、役員会へ十分な

貢献できる程度の知識と経験をもつ民間セクターの代表者等を含むその他の 3 名である。 99 大学評議会の構成は、議長である大学副総長、すべての副総長代理、すべての学部長と研究所長、副

学総長によって任命された 20 人以上の教授である。

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る大学教員の参加をどの程度希望するかにかかっている。大学副総長は、希望すれば、自

分と同じ意見を持つ大学教員を任命し、政策決定のプロセスを小規模なグループに制限す

る権限をもっている。幸い USM の副総長は、出来る限り多くの大学教員を大学評議会や

他の作業部会に参加させ、政策決定のプロセスがより包括的に行われるよう、全力を尽く

している。 USM は法人化された機関であるため、本来運営コストの負担の割合を増やすはずであ

った。というのも、1996 年には 86.6%であった政府の補助金の割合が、徐々に削減され

て 2005 年には 60%程度になる、と予測されていたからである。(USM, 1996)しかし近

年の景気の停滞を理由に、マレーシア政府は公立大学に対する財政的支援の削減を保留し

ている。したがって、公立大学はただ“管理面で法人化された”だけであり、財政的に法

人化されているわけではない。当初は、法人化された大学における教員と管理職員の賃金

は、それぞれ 17.5%上がっていた。しかしこの賃上げも、財政危機のために見送られてい

る。それでは“管理面での法人化”が意味するところは何か。端的にいえば、法人化され

た大学が多様な財源を確保し、また同時にアカウンタビリティ、効率性、そして生産性を

向上させるための企業的な経営手法を用いる必要がある、ということである。 法人化された大学は、市場関連の財源を増やすことが求められている。しかし、授業料、

特に学部レベルの授業料については、値上げすることが許されていない。授業料の値上げ

については、金額に関わらず国家高等教育評議会(National Council on Higher Education)の許可が必要である。そのため、法人化された大学は、私費留学生の募集、

研究助成の取得、コンサルタント業の実施、教育プログラムのフランチャイズ化、大学施

設の貸与、投資による利子や配当金の獲得、といった他の多様な財源を開拓するために、

戦略的な計画を実施しなくてはならない。USM は近隣諸国から、私費留学生を募集する

計画を立てている。(USM, 1996)2003 年までに、外国人学生の数は大学院生の総数のう

ち 30%、学部生では 6%を占めることが予想される。2001 年の時点で、USM の学生の数

は 2 万 3,000 人でそのうちの 15%が大学院生である。学部レベルの外国人留学生に課せら

れる授業料の額は、マレーシア国内の学生が支払う額のおよそ 3 倍である。 USM の法人化にあわせて、1998 年には USAINS という持ち株会社が設立されている。

(USM, 1998)大学の企業部門としての機能を持つこの会社は、大学のために収益を生み

出す責任を負っている。すなわち、USM の商業活動の一切を取り扱う唯一の代理店であ

り販売店である。USAINS は、コンサルタント事業、試験の実施、委託研究の受注、学内

施設の貸し出し、継続/発展コースの運営、USM のディプロマおよび学位プログラムのフ

ランチャイズ化、などの商業活動を担当している。もう一つの新しい展開は、1998 年の私

学連絡課(Private Education Liaison Unit)の設立である。これは、USM がフランチャ

イズプログラムを提供する私立大学と連携をはかる、唯一の機関である。近年 USM は、

12 校の私立大学に対して 23 の教育プログラムをフランチャイズしている。ほとんどのフ

ランチャイズプログラムは経営学やコンピュータ学、工学、薬学、そしてマスコミ学、と

いった人気の高い学問分野のものである。 財源の多様化のほかに、USM は内部の組織運営の改善にも着手している。世界的動向

に合わせて、USM はアカウンタビリティ、効率性、そして生産性を改善するために、す

べての分野において “企業文化”を象徴的にとらえ、適用している。(Currie, 1998)綱

領や戦略計画、総合的品質管理、ISO 認証、規模の適正化、ベンチマーキング(価値基準

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の設定)といった民間セクターの経営技術が、USM で制度化され始めている。すべての

スクールおよび研究所において、戦略的な計画を遂行し、中期および長期のビジネスプラ

ンを用意しておくことが求められている。持続可能でないと考えられるコスト・センター

は、閉鎖されるか合併されるかのどちらかである。例えば、大学入学許可センター

(Matriculation Centre)は、1998 年以来閉鎖されている。天文学や大気科学の研究部門

はイスラムセンターと合併し、COMBITS 事務局はコンピュータセンターに吸収された。 総合的品質管理(TQM)の概念は、組織の特定の受益者や彼らのニーズ、そして最高の

顧客満足を獲得する方法について詳細に記載された使命を掲げることの重要性を強調する

ものであり、キャンパス内にあるほとんどすべての管理部門とスクールにて導入されてい

る。大学の登録所や図書館、USM 教員病院内の薬局は、すでに ISO9000 の認証を受けて

おり、他の管理部門も ISO 認証の取得に着手している。ベンチマーキングも、効率性と生

産性を持続していくために導入されている手法の一つである。USM は、目下 USM の出

版部とマラヤ大学の出版局との間でベンチマーキングを行っている。 すべてのこういった経営手腕の変革は、大学の中央権力が資源管理や、各部門の活動の

方向付けおよび統制を行ううえで、より強力な役割を果たすものとして受け止められてい

る。副総長は最高経営責任者(CEO)に近い存在で、外部の環境に応じたトップダウン形

式による決定を求められることも多い。役員会の構成にも反映されているように、政策決

定は外部からの参加者を含めた、上層部の小さな組織の中に限定されがちである。現実性

のある政策決定や運営を行う組織を形成するために、部門をより大きな組織に編成し直す

動きもでている。この他にも、収益創出活動のための産業界との連携や、組織開発という

目的を持った部署もある。 2.8 強固な干渉主義国家 マレーシアにおける高等教育の再構築に関する以上の分析から、マレーシアという国家

が縮小された福祉国家ではなく、むしろ強固な干渉主義国家であることが分かる。1980年代半ば以降、マレーシアに現れたのは、“正当性を原則として、開発を促進し、維持する

ための能力を確立する”強固な開発国家である。(Castells, 1992)経済用語で言えば、開

発国家とは、ある国家目標の達成に向けて、その国の経済活動を主導し、統制するために

常に介入を行う国家のことである。マレーシアの場合、焦点は収入の再分配による成長で

あり、厳しい貧困の削減、ブミプトラの商工団体の振興、人材開発の強化、そして経済成

長を促す民間セクターの尊重、といったことに取り組んでいる。(Jomo, 1994)教育は、

国家の統一、社会的平等、経済成長を実現するための手段と考えられている。それゆえ、

国は教育支出を削減するのではなく、教育と人材開発へ莫大な投資を行い、2020 年までに

先進国の仲間入りを果たすことを目指している。マレーシア政府は、平均してGNPの 5.3%、

あるいは年間の総予算の 15.5%を、教育に充てている。(Bray, 2002) マレーシアは、教育をマレーシア社会再構築の手段として利用している。特に高等教育

レベルにおいて、学業成績の民族間格差を減らすため、これまでに様々な差別是正措置が

採用されてきた。政策としては、民族別割当制度(ethnic quota system)100による公立の

100 民族別割当制度は、2002 年より暫定的に能力主義政策(meritocracy policy)に変更された。公立の

高等教育機関の学生受入数に関する制度。

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高等教育機関への入学、大学入学許可クラス(matriculation classes)の提供、ブミプト

ラの学生のみが専門的、技術的分野で活躍するための準備をするマラ工科大学の設立など

がある。大学レベルの高等教育は、社会的流動性を高める手段として考えられていること

から、国は高等教育へのアクセスを管理する手段として、これらの教育政策を利用してい

る。民族別割当制度や公立機関の受け入れ人数の制限による影響で、ブミプトラではない

多くの学生がこれらの教育機関への入学を拒否され、海外で教育を続けざるを得ない。

1980 年代半ば、海外の大学の学費が急激に値上がりした際、国内における高等教育へのア

クセスを拡大するよう、政府に対して強力な政治的圧力がかかった。その結果、政府は民

間セクターによる高等教育機関設立を奨励することによって、教育政策の自由化を行った。 前述のとおり、マレーシア政府はもはや高等教育の唯一の提供者ではない。1980 年代か

ら、主に“営利目的”で設立される私立の教育機関の数は爆発的に増え続けてきた。民間

による高等教育が拡大を続けているのに伴って、国はそれらの機関へのライセンス供与や

プログラム認定などを通して、高等教育の質に関する監視や規制を行うという、別の役割

を担うようになっている。また国は、公立、私立に関わらず、高等教育機関への資源配分

を続けており、高等教育の更なる拡大のために財政的支援を行っている。公立大学の多く

が 1998 年以降法人化されてきたにもかかわらず、マレーシア政府はこれらの法人化され

た大学に対する資金援助額を減らしていない。つまり、法人化された大学は、企業的な活

動を通して独自の財源を創り出すことも、政府からの財政支援を全額受け取ることも許さ

れている、ということである。民間セクターでは、ペトロナス技術大学、テナガ・ナショ

ナル大学、マルチメディア大学という 3 大私立大学がそれぞれ政府企業に属している。

1980 年代に民営化された公共団体もある。マレーシア政府は、高等教育の提供者に補助金

を出すだけでなく、顧客、すなわち学生にも補助金を出す、という世界的動向にならって

いる。1990 年代の後半には、マレーシア政府は国家高等教育基金(National Higher Education Fund)を設立し、財政支援を必要とする学生が利用することのできる、ローン

の提供を始めた。このローンは、私立機関の学生でも、認可を受けたプログラムを受講す

るということであれば利用可能である。 マレーシアは、ただ高等教育に大金を投じているだけではなく、様々な法律をもってす

べての高等教育機関を厳しく統制している。国立高等教育評議会を通して、政府は国内に

おける高等教育の発展のすべてを監督し、導いている。公立大学の法人化によって、大学

では学問的文化が、官僚的で企業的な文化によって圧倒されている。(Lee, 2002)共通に

与えられた権限を特徴とする自己統治という考え方は抑圧され、市場目標を念頭に置いた

企業的な経営体制へと移行している。私立機関に関して言えば、政府による厳しい統制に

ついて私立高等教育機関法と国家アクレディテーション委員会法の両者の中に正式に記さ

れている。 2.9 結論 高等教育の再構築は、公共機関の民営化による経済効率の向上や社会保障制度の縮小を

主張する、新自由派経済のイデオロギーに大きく影響されている。この世界的動向が、マ

レーシアの高等教育に関する国家政策の転換や組織開発を促した。新しい政策枠組みのも

と、高等教育は民営化され、公立大学は法人化された。本稿によるマレーシアの事例分析

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からは、高等教育を受ける学生、特に民間セクターで高等教育を受ける学生の数が急速に

増えていること、そして学生の間で経営、商取引、IT といった分野の人気が高まっている

ことが分かる。また、法人化された大学において、所得創出のための戦略や費用効率とい

ったことがより重要視されていることが明らかになっている。法人化された大学における

構造の変化からは、合議的な運営の形が脇に追いやられ、企業的な活動が増えて、企業の

経営手腕が制度化されていることが分かる。 しかしながら、マレーシアの事例は他の OECD 諸国で多く見られるケースときわめて異

なっている。他の OECD 諸国では、福祉国家が徐々に解体されていく段階にある。マレー

シアにおける高等教育の再構築は、強固な干渉主義国家において行われている。マレーシ

アは、世界的な動向に反し、国家の役割を高等教育における擁護者、提供者、そして調整

者へと拡大している。依然としてマレーシアは、高等教育への予算を削減することなく、

あらゆる資源を配分し、国内における高等教育の拡大を維持している。差別是正措置から

プログラムの認定に致るまで、様々な国家政策を導入することによって、国が高等教育に

介入する役割を担っているのである。マレーシアは、経済成長や社会的平等、そして国民

統一を確実に実現するために、高等教育に多額の投資を行っているのである。

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第 3 章 発展途上国の高等教育開発への国際協力の潮流と世界銀行の処方箋 黒田一雄

(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科) 3.1 はじめに 本章では、HELP を初めとする、国際協力銀行のマレーシアに対する高等教育協力の将

来構想に資することを目的に、高等教育協力に関する政策的潮流を整理し提示する。特に、

代表的な国際開発金融機関である世界銀行が、発展途上国の高等教育の現状と諸課題をど

のように認識し、その開発のためにどのような政策・アプローチを提案しているか、に焦

点を当てて検討する。 3.2 発展途上国の教育をめぐる世界銀行の協力動向 世界銀行は 1962 年に最初の教育プロジェクトを実施して以来、しばらくの間は世界銀

行が行っているインフラ建設のプロジェクトのために必要な人材を確保することを目的に、

職業訓練を中心とした教育プロジェクトを実施していた。しかし、このような傾向は 1970年代には大きく変化していった。世界銀行は 1971 年と 1974 年に教育分野の政策研究を行

い、政策文書を発表しているが、これらの報告を契機として、世界銀行の途上国の教育開

発への取り組みを大きく転換していった。特に 1974 年の政策文書は初等教育やノンフォ

ーマル教育の重要性を示唆し、世界銀行のこの分野での一層の関与を提言するものであっ

た。70 年代を通じて、世界銀行の初等教育への援助は伸長していった。1980 年、Aklilu Habite の手によって書かれた第 3 の教育分野の政策文書においても初等教育の重要性が

指摘された。 1990 年代には、様々な国際会議を経て、初等・基礎教育振興の重要性は国際援助界にお

いてますます認知されるようになっていった。1990 年、世界銀行、ユニセフ、ユネスコ、

国連開発計画によりタイ・ジョムティエンで開催された「万人のための教育世界会議」は、

初等教育への資金の優先配分を提言し、国際機関のみならず、各国政府の教育政策に大き

な影響を与えた。1996 年、OECD で策定された「新開発戦略」でも、初等教育の完全普

及が国際的な目標とされた。2000 年にはダカールで「世界教育フォーラム」が開催され、

基礎教育重視の気運は益々高まった。また、同年の国連ミレニアム総会において、「ミレニ

アム開発目標」が採択され、その重点目標に基礎教育の普遍化と男女間格差の是正が盛り

込まれた。これらのことからも明らかなように、現在、基礎教育重視は国際社会が共有す

る政策目標となっている。このような国際会議は途上国における教育分野一般への関心を

高め、資源の配分を促しただけではなく、教育セクター内での高等教育から初等・基礎教

育への優先順位の移行を推進する大きな原動力となった。 1990 年代の基礎教育重視の方向性は、一方で高等教育・職業教育へのリソース投入の低

下を意味した。それは、次節に示すような、途上国の高等教育に対する構造的な批判を背

景にしたものであったが、特に 80 年代後半から 90 年代にかけて途上国の高等教育セクタ

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ーは財政の自己充足率を上げることを求められ、予算の削減、授業料の引き上げや、産学

連携の促進などが政策的に推進された。しかし、学生運動の先鋭化や高等教育の質の著し

い低下等の課題を残した国も多かった。このように 90 年代の中盤まで、高等教育はその

非効率を批判され、リソース投入のプライオリティを基礎教育に渡してしまっていた。 しかし、90 年代後半の情報通信技術の急速な発展は、教育セクターにおける知識経済へ

の準備の重要性を再認識させ、特に 1998 年の「ユネスコ高等教育世界会議」、1999 年の

世界銀行とユネスコによる高等教育共同報告書『Higher Education in Developing Countries-Peril and Promise』の出版以降は、発展途上国における高等教育の重要性が再

認識されるようになっている。 3.3 発展途上国の高等教育への投資に対する批判的見解 先進国からの技術移転・適正技術の開発研究や行政官・経営者・技術者・医師・法律家

他の専門家の育成等、途上国の社会経済開発において高等教育の役割が大きいことは、明

白である。しかし、上記のような基礎教育重視の国際的潮流が生まれたことは、単に人権

的な観点や開発政策的な観点から基礎教育の重要性が明らかになったことだけではなく、

途上国における高等教育の構造的な問題が明らかになり、厳しい批判を受けるようになっ

たことにも起因している。 第一に、途上国の大学はその生成の過程から先進国と途上国の従属関係の中で、そうし

た関係を固定するようなシステム形成がなされてきた、との批判がなされた。国際化が進

んだ学術研究の世界では、必然的に知識の体系が、「中心」と呼ばれる先進国において決定

される傾向がある。「周辺」に位置する途上国の大学は、先進国の文化や消費形態を崇拝し、

自国の文化や社会システムに根ざした知識のあり方を軽蔑・否定する、「周辺」における「中

心」としてのエリートを養成することによって、知識の従属関係を絶ちきる方向ではなく、

より構造的なものにしてしまっているという批判がなされてきた。(Galtung 1971, Frank 1971 他) 第二に、多くの途上国において初等教育ですら、完全就学を達成していないのに、高等

教育を拡大していくのは教育機会の平等の原則に反するという議論がなされた。多くの途

上国において、高等教育への進学機会を得られるのは、富裕層や都市住民に偏っており、

高等教育の不均等な拡大は、こうした人々と貧困層・農村住民との教育格差とその結果と

しての社会経済格差を拡大させる可能性がある、と指摘された。結果的に高等教育の裨益

者は富裕層が大半であるため、政府が高等教育に対して多額の財政支出・援助を行うこと

は、貧困層から集めた税収入を富裕層に還元する機能を有しており、不平等な優遇補助金

政策であると指摘された。(Psacharopoulos 1982, 1987) 以上のように、発展途上国の高等教育に対して、従属論的な観点や平等の観点から、批

判的な見解が呈されたが、高等教育への投資を途上国政府の開発政策の一部、投資対象と

して見た場合にはどのような議論がなされているのであろうか。この点に関して、まず教

育セクター内での投資優先順位に関する教育経済学の議論を整理してここに提示し、その

上で、このような問題が高等教育のどのような構造・性質によるものなのかを考察する。

Page 55: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

43

3.4 教育セクター内での優先順位に関する研究と高等教育 教育経済学においては、教育セクター内での投資優先順位を決定するために、教育の各

段階がどのように途上国の社会経済開発に貢献しているかについて、定量的な研究が数多

く行われてきた。古くは Adam Smith が、その代表作「国富論」において、初等教育の普

遍化に対する公共投資は国民経済の発展のために必要であるが、職業教育や高等教育に対

しては自由競争の観点から政府は補助金を与えるべきではなく、個人が自らの教育のため

に投資するかたちにすべきだ、としている。John Stuart Mill も同じく初等教育普遍化の

重要性を指摘し、公共投資の必要性を訴えている。 ここでは、教育セクター内での投資優先順位の設定という実践的課題に最も大きな影響

力のあった教育経済学の方法論を二つ紹介するとともに、高等教育セクターをめぐるその

主な研究成果とこれらの研究方法を紹介する。 3.4.1 収益率分析

1960 年代から T.Schultz や Becker によって盛んになった人的資本論は、教育が経済

成長に必要な人的資本を増加させるという考え方を分析的な手法を用いて明確にし、世界

銀行や各国政府の教育政策に大きな影響を与えた。T. Schultz(1961, 1963)は機会費用

を含めた教育の社会的費用という概念と個人の所得向上への教育の私的効果、社会の経済

成長における教育の社会的効果という人的資本論の基礎的な枠組みを概念化した。これを

受けて、Becker(1964)は教育の収益率分析の手法を確立した。この手法はやがて世界銀

行の Psacharopoulos の貢献によって、途上国の教育開発をめぐる実践的・学術的議論に

多用され、大きな政策的影響力をもつに至った。後に概説するように、収益率分析の最も

影響力のあった発見は初等教育の収益率の高さであり、1980 年代から現在に至る、初等教

育優先の潮流の重要な学術的論拠となっている。 収益率分析は私的収益率と社会的収益率の計算の二つからなる。私的収益率は個人の立

場で、自らにかけた教育費用、つまり授業料と就学中に労働していれば得られるはずであ

った収入(機会費用)と、教育による収益、つまり教育を受けたことによって増加した収

入を測定し、教育の個人にとっての投資効果を数字で表したものである。社会的収益率の

計算には費用に教育に対する政府の公的投資を含め、収益に教育による収入の増加によっ

てもたらされた税収の増加などを含める。 世界銀行の Psacharopoulos は世界各地で行われた教育分野の収益率分析の結果を集約

して、鳥瞰分析を行い、次のような傾向があるとしている。(Psacharopoulos and Woodhall 1985, Psacharopoulos 1993)

① 社会的収益率は私的収益率よりも低い。 ② 先進国においてより、発展途上国においての方が社会的収益率は高い。 ③ 発展途上国においては、教育の社会的収益率の方が物資的な資本への投資の社会的

収益率に比べて高い。 ④ 初等教育の社会的収益率の方が高等教育の社会的収益率に比べて高い。 ⑤ 女性に対する教育の社会的収益率の方が男性の教育の社会的収益率に比べて高い。 特に④のような初等教育の社会的収益率の高さがこの分析手法から証明されたことは、

Page 56: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

44

世界銀行などの国際開発金融機関における融資優先度の決定にも大きな影響を及ぼした。 3.4.2 クロスナショナル分析 クロスナショナル分析は収益率分析と並んでこれまで頻繁に用いられてきた、教育と経

済発展の関係を示す研究手法である。これは教育を独立変数、経済発展を従属変数として

相関分析、回帰分析の手法を用いて両者の関係を分析する研究手法である。ここではこれ

までの研究を概観することにしたい。 経済発展に対する教育の影響をクロスナショナル分析によって初めて明らかにしたのは、

1964 年の Harbison と Myers の研究であろう。彼らは 80 カ国の教育の各段階における就

学率や理系・文系の学生の割合などの教育指標と一人当たり国民総生産が高い相関関係に

あることを発見した。また、一人当たり国民総生産によって国をグループに分類し、同じ

相関分析を行うことにより、より低開発な国においては初等教育が、経済水準の高い国に

おいては高等教育や科学教育が経済と高い相関を示すことを発見した。 1979 年の Lee と Psacharopoulos の研究は、経済指標として一人当り国民総生産の他、

経済成長率を用いた相関分析であった。彼らは先進諸国においては就学率と経済指標の相

関が一定でないことを発見した。特に職業学校の就学率と人口 1000 人当りの博士の割合

はほとんど経済指標と相関がなかった。しかし、一方で初等教育就学率と識字率は経済指

標との相関が高いことが明らかになった。 同年の 1979 年 Meyer、Hannan らのグループは重回帰分析の手法を用いて、1950 年の

就学率が1950年から1970年までの経済成長にどのような影響を与えているかを研究した。

彼らの研究では、初等教育と中等教育の就学率は統計的に有意に経済成長を促進するのに

対し、高等教育就学率は統計的に有意ではないが経済成長にマイナスの影響を与える結果

になった。また、中等教育の方が初等教育よりも経済成長に対して貢献するという結果も

でた。これらの傾向は、国々を裕福な国と比較的貧しい国に分けて分析を行った場合にも

同じく見られた。 1987 年の McMahon の研究は教育投資(政府の教育予算)と経済成長の関係を初めて

あつかった研究である。彼はアフリカ 30 カ国について重回帰分析を行い、初等中等教育

への投資は経済発展を大きく促進させるが、一方で高等教育への投資は経済成長を遅らせ

る方向に働くことを明らかにした。1989 年の Benavot の研究でも、初等中等教育が経済

成長を促進するのに対し、高等教育に反対の傾向が見られることが分かっている。 このように、重回帰分析による教育の貢献に関する研究も、初等教育が高等教育に比し

てより大きな経済効果があることを示してきた。もちろんこうした研究手法に対しては、

独立変数間の相関の問題や、高等教育が初等教育・中等教育から独立して存在するわけで

はなく、それらの基礎の上に存在することを指摘した批判がある。ただ収益率分析に比較

して、よりグローバルな社会現象の傾向性の把握に適したクロスナショナル分析により、

このような結論が導かれ続けてきたことは、途上国の教育投資の在り方、特に世界銀行の

政策決定に大きな影響を与えてきた。

Page 57: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

45

3.5 高等教育の開発効果の諸問題

3.4 節で示されたように、発展途上国における高等教育の開発への効果や効率性に関し

ては、教育経済学の観点から批判的な論考が行われてきた。それでは、本節ではこのよう

な状況がどのような高等教育の性質・限界によるものなのかを検討する。 3.5.1 高等教育の費用-その高コスト体質 費用便益分析では、初等教育に比して、高等教育の収益率が低いことが明らかになった

が、その主な原因は下記のような高等教育の便益(開発効果)が低いだけではなく、その

費用が初等教育に比して、格段に高いという事実も重要な要因となっている。Cocco と

Nascimento(1986)は、高等教育の就学者一人当たり費用は、中等教育と比較して 7 倍、

初等教育に比較すると 57 倍に達するという試算をしている。同じく、Wolff(1984)も東

アフリカ地域において、高等教育のユニットコストは初等教育に比して、平均 50 倍以上

になっていることを示している。また彼は、この地域において、高等教育にかかる就学者

一人当たりの費用がこの地域の一人当たり収入の 10 倍に及ぶことも指摘している。この

ような多額の費用を途上国政府が少数者のために支出することには、現在厳しい目がむけ

られているが、これは平等という観点からだけではなく、効率という観点からも途上国に

おける高等教育の重大な構造的課題であろう。 また、Psacharopoulos(1993)の研究によれば、高等教育の私的収益率は社会的収益率

に比して、はるかに高くなっており、これは高等教育の費用を、高等教育を受ける個人で

はなく、社会が負担していることが一因となっていることが類推され、問題の構造をより

複雑かつ深刻にしている。 高等教育の費用が他の教育段階に比して、格段に高い理由として、Wolff(1984)は、

以下の 4 点を挙げている。 ① 教師一人当たり学生数が初等中等教育に比して、高等教育は格段に低い。 ② 初等中等教育の費用の大半は教員給与であるが、高等教育の費用における教員給与

の比率は 50%以下であり、実験機材や施設・図書など、他の部分に費用がかかってい

る。 ③ 初等中等教育の教員と比較して、高等教育の教員の教育時間は格段に少ない。 ④ 高等教育機関の施設や機材は高価で、かつ使用頻度が極端に少ない。

3.5.2 高等教育の便益-高学歴失業と頭脳流出に見る非効率 卒業者の高学歴失業、頭脳流出は多くの途上国において深刻な問題である。上記のよう

な高い社会的費用をかけて教育された高学歴者がその知識を現地の社会に還元できないと

いう事実は、途上国の労働市場のニーズに対して高等教育が十分に対応していないことを

示している。 高学歴失業の要因としては、第一に、一部の途上国で高等教育セクターが拡大しすぎて

おり、その経済規模における労働市場が高学歴者を十分に受け入れることができないとい

う状況が考えうる。特に高等教育への国民的需要が過大な国において、政府が迎合的に高

Page 58: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

46

等教育を肥大化させた結果、労働市場のバランスを欠いた例は数多い。 第二に、例え労働市場が高等教育を受けた人材を必要としている場合でも、高等教育機

関やシステムに労働市場の人材に対する質的なニーズを把握する能力がなく、結局雇用に

値する人材を養成していない状況が考えられる。特に高等教育機関の硬直的な専門分野別

定員性や人事・予算配置はこのような状況を生み出しかねない。 第三に、高等教育はその学生に対し、自分たちの将来に過大な期待を抱かせてしまう傾

向をもつ。多くの途上国において、高等教育を受けた人材が、市場には仕事があるにもか

かわらず、自分の期待する仕事ではないとして就職しない、という状況が存在する。 また、途上国の高等教育を受けた人材が、より高い収入と自らの専門性を生かせる仕事

を求めて、主に先進国に移住もしくは留学後に定住してしまう状況(頭脳流出)も、発展

途上国における高等教育投資を躊躇させる要因になっている。 頭脳流出は歴史的な現象であるが、特に 1960 年代に、米国が「スプートニックショッ

ク」に立ち向かうために、科学技術の振興を政策的に推進し、米国への技術者や研究者の

移民が急増したことから、顕在化した。また、70 年代には、途上国の工業化努力が本格化

したにもかかわらず、高学歴人材が、途上国から米国だけでなく西ヨーロッパや多国籍企

業・国際機関に移動し始め、問題化した。(Grubel and Scott 1977)現在は経済と人の移

動の飛躍的なグローバル化や人権としての移動の自由に関する議論の進化により、「頭脳」

が国境を越える状況は、「頭脳流出」という途上国側からの問題提議のみでは議論できない

ほど多様な見方を内包する課題となっている。 3.6 世界銀行の高等教育に対する認識と処方箋 1-1994 年政策文書から 途上国の高等教育は以上のような批判を受けて、全世界的な流れとして、そのアカウン

タビリティを高めるための様々な提案がなされている。ここからは、国際協力銀行と同種

の国際開発金融機関として、この分野における経験を蓄積し、大きな影響力を有している

世界銀行がどのように途上国の高等教育をとらえ、どのような政策・戦略を打ち出してい

るかを検証する。 世界銀行は、1964 年のパキスタンの農業大学設立プロジェクト以来、様々な途上国の高

等教育プロジェクトやセクター支援に関わってきた。70 年代、80 年代には、教育関係融

資の 30%以上が高等教育であった。基礎教育が重視された 90 年代になっても、年間 5 億

ドル近い融資をこのセクターに行っている。97 年にアジア金融危機の影響でアジア向け高

等教育融資が一旦落ち込むが、先にも述べたように知識経済構築における高等教育への再

評価に伴い、その融資額やプロジェクト件数は増減を繰り返しながら、一定の規模を確保

している。 世界銀行は融資プロジェクトのみならず、他の分野と同様に、高等教育分野においても

様々な調査研究を行ってきた。その最も代表的な成果報告書は、1994 年の『Higher Education- The Lessons of Experience(以下、HELE)』と 2002 年の『Constructing Knowledge Societies: New Challenges for Tertiary Education(以下、CKS)』であろう。

また、2000 年にはユネスコと共同で『Higher Education in Developing Countries-Peril and Promise』を刊行している。ここでは、マレーシア高等教育における国際協力銀行の

活動の指針を検討する一助とするため、これらの報告書のうち前者 2 つを中心に検討し、

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47

世界銀行の高等教育観とその政策を概観したい。

3.6.1 HELE に見る世界銀行の高等教育観 世界銀行は、HELE において、途上国の高等教育への投資が経済的成長や社会開発にと

って重要であるということが明白であるにも関わらず、高等教育は危機的な状況にある、

との認識を示している。その理由としては、①その最も重要な課題である財政的な改革が

著しく困難であること、②就学率が低いために、就学者数拡大の圧力を抑制するのが困難

であること、の 2 点を挙げている。特に 80 年代には、当の世界銀行が主導した構造調整

政策の影響もあり、高等教育への政府支出が急激に落ち込み、多くの国で高等教育と研究

の質の低下が顕著になってきている。その傾向はサブサハラアフリカ等の最貧地域で特に

深刻である。 このような高等教育予算の劇的な縮減とあいまって、予算の減少という問題をさらに悪

化させているのは、資金の非効率な運用である。先に、高等教育における費用の箇所(3.5.1)で一部述べたように、多くの発展途上国において、教員当たり学生数が低いこと、設備が

十分に活用されていないこと、退学や留年の割合が高いこと、学生の住居や食事、その他

サービスなど、教育以外に使われる支出の割合が極めて大きいこと、などが挙げられてお

り、結局このような政府支出が富裕層に対する補助金になってしまっている現状に警鐘を

鳴らしている。 3.6.2 HELE の提示する処方箋 以上のような問題認識から、高等教育セクターのアカウンタビリティの改善のために、

HELE は、①私立大学・専門学校の振興など、高等教育機関の在り方を多様化させること、

②高等教育への政府以外からの財政的投入を振興すること、③高等教育機関の自治を拡大

し、政府との関係を見直すこと、④教育・研究の質の向上と教育機会の平等の実現を優先

して高等教育システムを変革すること、などを提言している。 ただし、その前提条件として、HELE は、高等教育改革のための必要条件や政治経済状

況は地域や国によって大きく異なっており、ここに示した改革の方向性が全ての国に適用

可能ということではない、としている。特に、その国の所得水準や教育発展の程度(例え

ば、初等および中等教育がどれだけ普及しているか、あるいは私立の教育機関が存在して

いるかなど)によって違ってくる。また、前節でも述べたように、発展途上国の高等教育

に対する公的支出は、裕福で、しかも政治的な力を有している家庭にとって利益がある。

また、補助金を減らされ受益者の負担が増え、学生の特権を奪われる方向性にある高等教

育改革に、不満を持つ学生の学生運動は政治的安定に対する脅威となる可能性がある。そ

れゆえ HELE は、政府は、既得権益をもち、比較的大きな政治的影響力を有する家庭や、

政権の不安定化を招く可能性のある学生運動に影響を与えるような改革を行う際には、用

心して段階的に行っていくことが必要だ、としている。このような配慮は、世界銀行が主

導した 1980 年代の急激な構造調整政策が、多くの国で政治的混迷を招いたことへの反省

が基となっている。 このような配慮を前提に、ここでは HELE の 4 つの提言を具体的に紹介し、その内容に

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48

ついて国際協力銀行の対東南アジア・マレーシア高等教育協力を念頭に考察を行う。

3.6.3 高等教育機関の多様化 「象牙の塔」と呼ばれる伝統的な大学像は、途上国においても、高等教育が形成される

過程で範となっていた。しかし、高等教育が国立の研究大学に独占されるようなシステム

では、社会的な費用が大きく、社会のニーズに適切に応えきれず、高等教育全体を効率的

に運営することは難しい。このような現状認識から、HELE は、私立大学や大学という形

態をとらない専門学校のような教育機関の方が社会のニーズに対して柔軟に対応できる可

能性が高く、また、このような高等教育機関の増加によって政府は学生一人当たりの財政

支出を少なくし、拡大する高等教育需要により有効に応えることができるとして、政策的

にもそうした高等教育機関を振興すべき、との提言を行っている。 専門学校のような大学でない高等教育機関は、プログラムが比較的短く、受講の形態が

柔軟に選択できるものが多い。これは、勤労機会を犠牲にする期間を短縮し、あるいは職

業をもちながら履修することを可能にし、学生にとっての機会費用を小さくすることがで

きる。また、そのカリキュラムの内容は学生の就職や需要を意識するため、労働市場の変

化にも柔軟に対応できる。HELE は、専門学校の以上のような利点を踏まえ、従来型の大

学に問われてきた社会的な説明責任の低さや高費用といった批判を背景に、専門学校のよ

うな非大学高等教育機関の振興は、高等教育改革への一つの回答となるとし、その振興を

提案している。一方、遠隔高等教育機関の振興も、同様に、受講生にとっての利便や、学

生一人当たりの費用の低さ等から推奨されている。 また、HELE では私立大学にも注目している。私立大学は、労働市場の動きにも敏感に

対応することができ、また比較的少ない公的支出で、高等教育の量的拡大を図ることがで

きる。フィリピン・インドネシア・韓国・日本などを含む東南アジアや東アジアの一部の

国は、私立大学を振興し、拡大し続ける高等教育への需要を吸収した成功例として高く評

価されている。 本報告書では、政府が高等教育において健全な私立セクターの活動を推進する際には、

授業料設定の統制などの制約要因を取り除き、私立の高等教育機関の認定、監督、評価の

体制を含めた政策や規制の枠組みの整備が必要である、と指摘している。低い社会的費用

で就学者数の増加を図ることができるという理由から、私立の発展を促進するために、財

政的なインセンティブを提供している国もある。公立私立に区別を設けずに、一定の財政

支援に対して、申請プロポーザルを提出させ、支援する機関を選定し、教育の質の向上を

図るための公的な財政支援を行うことは、公立私立を区別しない全ての高等教育機関のた

めに健全な競争の場を提供することになり、ひいては、全体的な高等教育の質の向上と拡

大を効率的に行うための体制の整備につながる。ちょうど、近年日本でも文部科学省、日

本学術振興会が盛んに実施するようになってきた、公募による競争ベースの教育・研究資

金の配分方策と同様に、民間の活力を最大限活用するための方策としてこのような方式が

提案されている。HELE では、チリやブラジル、韓国においての、研究助成金獲得のため

の競争が高等教育改革に効果的であったことが紹介されている。 ただし、このような高等教育機関の多様化や私立大学の振興には、従来の国立(公立)

大学とここで提案されているような多様化された高等教育機関と私立の大学との協調や競

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争を整合性のある形で促進する政策フレームワークが必要とされる。現在の東南アジア諸

国においても、多様化・民営化を目指した高等教育改革は急速に進行しているが、その政

策的な整合性を整備するキャパシティの構築には、大きなニーズがあると考えられる。 3.6.4 公立高等教育の財源の多様化とインセンティブ体制の整備 今後、私立の高等教育機関の役割が強化され、新しい就学者が私立に流れることになっ

たとしても、多くの国において、公立大学が多くの学生を教育し、研究や大学の社会的活

動をリードしていくことに変わりはないだろう。HELE は、世界銀行のこれまでの経験か

ら、公立の高等教育機関が、質や効率性の向上を目指すためには、財政面において以下の

3 点を目標とした徹底的な改革を行う必要がある、としている。

(1) 民間財源の動員 公立の高等教育機関の財政改革にとって、最も重要な方向性は、財源の多様化である。

HELE では、学生とのコストシェアリング、卒業生等からの寄付資金の導入、収益活動の

振興を提案している。 第一に、公的な高等教育の財政基盤は、必要な教育費用における学生自身の負担割り当

てを増やすことによって強化することができる、としている。つまり、授業料の導入や増

額である。高等教育を受けた結果、生涯にわたって高額の収入を得ることが見込まれる学

生や、家族が子どもの教育費用を援助するだけの十分な能力を有している学生からは、し

かるべき授業料をとるべきである、との提案である。HELE ではこれを「学生とのコスト

シェアリング」と呼び、政府が私立大学に対して自由に授業料を設定することを許可し、

教育の裨益者(学生)とのコストシェアリングに対して、無用な規制を設けない必要があ

る、としている。このような学生とのコストシェアリングを導入すれば、学生は自分の学

習のプログラムを慎重に選択するようになり、より速く学習を修了しようという意志をも

つという点で、高等教育の効率化にとっても重要なインセンティブとなる、という副次的

効果も期待されている。高等教育に市場メカニズムを導入し、その全体を効率化するため

には、重要な政策であろう。また、高等教育の受益者は比較的裕福な家庭の出身である可

能性が高く、社会的公正の観点からもこのような政策は正当化されよう。しかし、このよ

うな学生の負担増は、後述するような奨学金の充実と同時になされなければ、貧しい学生

の高等教育就学機会を損なう結果となり、より不公正な状況となる。また、前述のような

授業料値上げ反対闘争に端を発した学生運動激化の政治的リスクにも留意する必要がある。 民間からの二つ目の資金源としては、卒業生や民間企業による寄付や贈与がある。この

ような寄付行為に対し、優遇税制が導入されればさらに有効であろう。また、経済基盤が

脆弱な小さな国家においては、最初の段階で外国援助の支援を得て信託基金を設立するこ

とも有効、としている。ただ、これは英米の大学をモデルとして提言されているが、途上

国の運用では、一部企業や個人による大学支配を生んだり、学問の独立への過剰な干渉を

生む可能性もあり、注意が必要である。 第三に、HELE は、政府が公立の高等教育機関に対して、短期コースの導入、ビジネス

のための委託研究、コンサルティング業務など、収入を生み出す活動を行うことを奨励す

ることを提案している。その第一段階として、公立大学が他の資金源から集めた増分資金

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50

を、政府が予算配分を減らすかたちで、相殺するような歪んだインセンティブ構造を是正

すべきである、としている。政府は、外部資金を大学が積極的に得ようとするインセンテ

ィブ体系を整備しなければならない。 以上のように、HELE は、教育とは直接関係のない部分への補助金の削減、授業料の導

入、寄付金の徴集、そして収入を生み出す活動の振興を通じて、高等教育に対する民間財

源を拡大化することで、高等教育機関はより多様化し、またより安定した財政基盤を持つ

ことが出来る、と提案し、このような政府以外の資金源から経常支出の 30%をカバーする

収入を生み出すことを目標として提示している。しかし、このような提案はアングロサク

ソンの伝統を反映しており、途上国において果たして現実的な提案であるかは議論があろ

う。 ただ、東南アジアにおいても、このような高等教育に対する民間資金の導入が本格化し

ている国もある。例えばベトナムでは、急速に進む経済の市場化に対し、変化する労働市

場からの人材養成ニーズが高まり、大学が英語や経営学といった研修コースを提供するこ

とで、大学の収入拡大を図っている。このような改革を本格的に実施するためには、大学

に民間の運営手法を一部導入したり、民間資金の導入に向けて、制度や人材を整備する必

要がある。

(2) 貧困な学生に対する財政支援 高等教育における授業料徴収の強化を公平に導入するためには、教育に必要な資金を借

りる必要がある学生に対する融資制度や、能力のある貧しい学生に必要な財政支援を行う

奨学金制度の整備が必要であることは言うまでもない。しかし、従来の学生融資制度や奨

学金制度の経験からは、大幅な金利優遇や債務不履行の割合の高さ、そしてその制度を維

持するためのコストの高さが原因で、満足の行くものになっていないことが HELE では報

告されている。限定的な給付型の奨学金の可能性を探ることや、奨学金の返還に関して、

所得税や社会保障の制度が整っている国であれば、そうした制度との連携が有効であろう。 貧困学生への支援なしに、私立大学の振興や、公立大学での授業料の徴収強化を、高等

教育改革の一部として実施することは、すなわち貧困学生の就学機会を奪うことを意味す

る。教育における公正を促進し、適切な人材の活用を図るためには、様々な困難はあって

も、貧困学生への財政支援が、高等教育改革の全体的な動きの中で、最重要な課題であろ

う。

(3) 効果的な公的資金配分とインセンティブの供与 多くの国において、高等教育機関に対する公的資金配分は国によって決められた予算に

基づいている。そのため、効率的な資金の運用や教育の質の向上に対するインセンティブ

が損なわれ、さらに状況の変化に応じて財源の配分を調整することが難しくなる。日本の

国立大学の独立行政法人化に見られるように、OECD 諸国でも財政支援と実績とを連関さ

せた政策がとられる傾向があり、発展途上国も同様にそのような政策を視野に入れるべき

であると、HELE は提案している。優秀な生徒を獲得した数によって公共あるいは民間の

機関に資金を流す、というチリの革新的なプログラムが高等教育の質の向上につながって

いる、として本報告書では紹介されているが、東南アジアにおいても、このような財政支

援の方向性は顕著である。タイやインドネシア・マレーシアの国立大学の公社化は、資金

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51

の運用の柔軟性を増して、その効率的な運用を高等教育機関に委ね、代わりに、その資金

によって達成された成果を評価し、その後の資金配分に反映させることにより、質の高い

教育、より効率的な資金運用、といった点で、相当のインセンティブとなっている。 また、日本の 21 世紀 COE 型の資金配分が大学の機構改革や研究・教育の質の向上にも

たらした効果を考慮すると、運営資金だけではなく、教育や研究に対する追加的な資金の

配分に対しても、高等教育機関間の健全な競争と連携を促すような制度設計が望まれてい

る。 3.6.5 高等教育における政府の役割の再定義 以上のような改革のためには、多くの国で政府と高等教育機関との関係において重大な

変化が必要になることを、HELE は指摘している。特に、政府はより効率的に公的資金を

配分し、高等教育への介入の程度や目的、形式の変更をしなくてはならない。また、同様

に政府は、高等教育における私立の大幅な拡大も考慮しなくてはならない。政府の責任は、

直接的な統制というよりはむしろ、公立・私立の両方の高等教育機関に対して適切な政策

環境を提示し、これらの機関が全国的な教育や研究のニーズに適切に対応することが出来

るように、財政支援を行うことであろう。このような高等教育改革成功の鍵として HELEは、以下の 3 点を挙げている。

(1) 一貫した政策フレームワークの策定 専門学校や私立大学を振興し、高等教育を多様化していくためには、システム全体を統

括する法的枠組みと一貫性のある政策が求められる。そこで、高等教育政策の考案やモニ

タリング・予算配分・入学予定者のための各機関の評価と公表、といった役割を担う独立

した監視機関を設けることが HELE では提案されている。日本でも近年の高等教育改革の

流れの中、徐々に高等教育機関の評価システムが整備されている。高等教育関係の政策決

定にあたる行政官や行政システムのキャパシティビルディングも欠かせない。

(2) 政策実施におけるインセンティブの重視と情報公開 HELE は、労働市場や就学におけるひずみを修正する必要がある環境では、政府は各教

育機関の学生の受け入れに対して直接指導を行うのではなく、奨学金や融資といった学生

のインセンティブになる政策手段に重点を置く、市場を活用したアプローチを推奨してい

る。また、政府は、国家レベルの統一入学試験を実施することで、学生選抜を公正で効率

的なものとすることも、提案されている。一方で、学生が健全な選択を行うためには、そ

れぞれの高等教育機関の教育の質と学費、さらにその修了者に対する労働市場の需要とい

ったことについての、適切な情報が必要となる。政府は、各機関にかかる費用や相対的な

実績、修了者が労働市場で得る収入の額などの情報が広く公表されることを促進し、アク

レディテーション等による高等教育機関の質の保証をすることで、教育の質の強化を図る

べきである、としている。

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52

(3) 高等教育機関の運営自治権の拡大 授業料の設定、職員の採用、支出項目に対する柔軟な資金運用の権限を含む高等教育機

関を運営する上での重要な決定の権限を、政府から当事者である高等教育機関に委譲する

ことは、特に資金提供の多様化や資金のより効率的な運用、また政策的なインセンティブ

を個々の機関が認識し個別の努力をするうえで、必要不可欠な改革である、と HELE は位

置づけている。しかしながら、自立性の向上にともなって、高等教育機関は自らの学術面

および運営面での実績に責任を持つことを求められるようになる。そのアカウンタビリテ

ィを保つためには、政府による精緻な評価や高い監督機能のキャパシティが必要となる。

また同時に、高等教育機関の経営能力の向上も大切になる。HELE は、このような改革の

先進例として、フランス、日本、オランダ、チリ、タイ、ベトナム、香港などを挙げてい

る。 3.6.6 高等教育改革の最優先目標 以上のような議論を踏まえて、HELE は、高等教育改革の最優先目標として、教育と研

究の質の向上、労働市場の需要に対する対応、社会的公正の実現、の 3 点を挙げ、その達

成のためのアイデアを提示している。 第一に、質の高い教育と研究のために必要な要素として、初等教育や中等教育における

教育の質、信頼性のある高等教育の選考過程、質が高く意欲のある教員や、コンピュータ

ーなどの設備、国際的な交流等を挙げている。そして、その質を維持し向上させるために

は、教育や研究の質に対する評価・モニタリングが重要であるとし、外部評価を行える専

門機関の設置と、自己評価のキャパシティビルディングが必要であるとの認識を示してい

る。 第二に、HELE は、高等教育を経済開発に有機的につなげていくためには、高等教育機

関の意思決定機関(理事会等)に民間、特に経済界から人を招く必要性を説いている。産

学連携による共同研究や、学生の企業でのインターンシップ、ビジネスの第一線にある人

を大学に非常勤講師として招くこと、などは大学と経済界の連携を深めることにつながる。

よって政府も連携促進のための資金援助を検討すべきであることを、東アジアの NIES 等

の成功例を引きながら、HELE は述べている。また、最貧国や人口規模の小さい国が単独

で高等教育システムを構築することは極めて困難であるとして、南太平洋大学や西インド

大学のように、いくつかの国が協力して、大学を設置することが費用効率の高い方法であ

る、として、地域協力の重要性を指摘している。 第三に、HELE は、より公正な高等教育を実現することは、社会正義のみならず、安定

的な経済発展にとっても重要なことである、とし、低所得層や少数民族・女性の学生の割

合を増やすための優先入学政策を推奨している。 3.6.7 HELE に示された世界銀行への教訓

HELE では以上のような、発展途上国における高等教育に対する認識のもと、世界銀行

の高等教育協力に対して、以下のような提言を行っている。 ① 高等教育の改革、特に授業料の導入や増額・私立の振興・産学連携を通して、高等

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53

教育に対する民間資金を動員する政策は、国が初等・中等レベルで質やアクセスを改

善するために必要な増加分の民間資本を自由化することにつながる。世界銀行の優先

課題は初等中等であるべきだか、世界銀行の高等教育に関する融資は、その意味で、

初等中等教育へのリソースの配分にもつながる。 ② 持続可能性のない、単独または少数の大学でのプロジェクトに融資するのではなく、

より公正で効率的な質の高い制度を確立しようとする高等教育の財務面や運営面にお

ける改革にこそ融資すべきである。そのような包括的な政策改革は、国別の状況や所

得水準によって様々な形態があろうが、多くの場合、以下のような方向性が基準とな

りうる。 ・学生の効率的で公正な選考基準を設け、社会的費用のかかる高等教育へのアクセス

を制限する。 ・各高等教育機関が、独自のプログラムや使命を持って発展することを促進する。 ・私立の高等教育機関に対して好意的な環境を作る。 ・高等教育の裨益者である学生とのコストシェアリング(授業料の導入や増額)や、

その他の民間資金の導入を促進する。 ・すべての才能ある生徒が高等教育を受ける機会を持てるように、奨学金制度や学生

融資制度を整備する。 ・透明性が高く、質や効率性を向上させるやり方で、公的資金を競争的な環境の中で、

高等教育機関へ配分する。 ・私立の高等教育機関が資金の調達や運営、また学生の受け入れを行う際に、自律性

を持たせ、規制を少なくする。 ③ 以下のような高等教育行政の組織的な能力強化を支援する。 ・監督評価機関を設立、あるいは強化して、予算要求の評価、高等教育機関の業績の

評価、そして機関の実績に関する情報の学生への提供、などを可能にする。 ・公共の高等教育予算配分のための、透明性を有するシステムを構築・導入する。 ・学生融資制度や奨学金制度を立ち上げる、あるいは改善する。

④ 世界銀行の高等教育への投資は、以下の点に重点をおき、教育と研究の質的向上を

明確に優先させている国家計画と統合されるべきである。 ・国家計画や地域計画を優先して支援する。 ・財政支援に当たっては、高等教育機関が競争ベースで獲得するようにする。 ・成果の評価制度の確立を支援する。

以上のような HELE に示された世界銀行への教訓・提言には、国際協力銀行の高等教育

における活動を考察するうえで、有益な示唆が数多く含まれている。 3.7 世界銀行の高等教育に対する認識と処方箋 2-2002 年政策文書から

2002 年に刊行された CKS は、HELE で示された政策の方向性を継承しながらも、90年代後半から、急激に変容しつつある、高等教育を取り巻く世界的状況に対応することを

目的として、発展途上国における高等教育に関する、次のような問いに答えるべく、作成

された政策文書である。 ① 経済社会開発における高等教育の役割は何か。

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54

② 発展途上国や移行経済国が高等教育の有する可能性を最大限に活用するには、どの

ように体制を整えればよいか。 ③ 世界銀行やその他の開発関係機関は、上記 2 のプロセスにおいて、どのような支援

を行うべきか。 この文書は、21 世紀における発展途上国における高等教育の新たなる展開を考察する際

の、主な論点を整理して提示しており、国際協力銀行の高等教育協力事業にも、有益な示

唆がもりこまれている。本節では、その概要を紹介しながら、特に東南アジア・マレーシ

アにおける国際協力銀行の高等教育協力を意識しながら、考察を行う。 3.7.1 HELE 以降の世界的動向と CKS の発展途上国高等教育観

CKS は、HELE で展開された議論の多くをさらに発展させたものであるが、以下のよ

うな新たな世界的動向を反映して、執筆されている。 ① 経済発展の主要な担い手としての知識の役割の増大 ② 「国境なき教育」という環境における、高等教育システムの変容 ③ 情報通信革命の結果としての、高等教育の伝達形式や組織構造の変容 ④ 高等教育市場の生成と高度な技術を有する人的資本に対する国際市場の出現 ⑤ 世界銀行に対する途上国からの高等教育改革や開発に対する財政支援の要請の増加 ⑥ 教育におけるバランスのとれた包括的な視点の必要性が認識されてきており、高等

教育は、その人的資源開発への貢献だけでなく、社会資本の構築に対する役割や、国

際社会における重要な公共財としての側面が認識されてきていること。 3.7.2 貧困削減と高等教育 既に見たように、1990 年代、教育経済学を中心とした研究の成果により、途上国の開発

への優先課題として、世界銀行は、初等教育へより高い投資の優先順位を設定している。

また、ウォルフェンソン前総裁のリーダーシップの下、世界銀行全体の政策目標も、「貧困

削減」を最終的な目標とする方向に転換してきている。それでは、なぜ世界銀行が途上国

の高等教育開発に協力するのか、CKS は以下のような観点からその理由を説明している。 高等教育は、グローバル経済における途上国の生産性の向上に寄与し、その競争力を高

めるものである。高等教育は高度な良質の労働力(科学者や専門家、技術者、初中等の教

員、そして公務員や経営者を含む)を養成するとともに、新しい技術や知識を創造し、か

つグローバルな知識の蓄積へのアクセスを確保し、その知識のローカルな活用を促す。こ

れによってもたらされた知識主導型の経済成長は貧困削減につながる。高等教育機関は教

育・研究・社会貢献という 3 つの機能を統合し、相乗効果を生み出すという点においても

独自性がある。また、高等教育へのアクセスは社会的に弱い立場にある貧しい学生に、よ

り良い就労と収入の機会を与え、エンパワーメントとなり、社会的な不公平性を減少させ

るものである。 また、CKS は、国連ミレニアム開発目標(MDGs)の達成に対しても、高等教育の、教

師や校長の養成、カリキュラムの策定や教育研究への高等教育機関の専門家の参加なくし

てその教育分野目標の達成はありえない、としている。また、医師を初めとする医療技術

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者を養成するのは高等教育であることを考慮すると、基礎保健分野の MDGs の達成も、高

等教育なしではありえない、としている。 3.7.3 国家が高等教育に投資する根拠 以上のような貧困削減に対する高等教育の役割とともに、CKS は、高等教育に国家が投

資することに対して、以下のように、外部性の存在、公平性の問題、高等教育による教育

システム全体の支持、という 3 つの理由を説明している。 ① 外部性:高等教育への投資は技術革新を促進し、知識経済の基盤となる。特に、農

業、保健、環境等のセクターの進歩は、そのような革新の応用によるところが大きい。

これは、労働力の質的な改善だけではなく、研究開発という機能を高等教育が有する

からである。また、いわゆる経済的な効果だけではなく、CKS では、高等教育が一層

の社会的統合、社会への信頼の醸成、民主的参加と言論の自由、そしてジェンダー・

エスニシティ・宗教・社会階級等の多様性の認識を促進することで国に貢献し、さら

に社会科学や人文科学の研究が、多元的で民主的社会の構築に貢献していることも、

指摘されている。また上記の MDGs のところでも触れられたように、医療関係者の改

善された保健衛生行動と成果もまた強い社会便益を生み出す。 ② 公平性:国家は、能力ある個人の高等教育へのアクセスを確保するため、奨学金制

度や学生融資制度の整備を通じて、高等教育に関わっていくべきことが、CKS には示

されている。 ③ 初等中等教育に対する効果:高等教育は初等・中等教育の発展において重要な役割

を果たす。高等教育は、教師や校長・教育行政官の養成、カリキュラムの開発、教育

研究、などを通じて、初等・中等教育の発展に寄与している。よって、ミレニアム開

発目標を意識しつつ、CKS は教育セクターのバランスある発展のため、高等教育へも

適切な投資がなされるべきであると、主張している。HELE では高等教育を支援し改

革することにより、初等中等教育へよりリソースを配分できるといった論理立てがな

されていたが、CKS では、高等教育の貧困削減や初等中等教育の開発に対する貢献に

関して、より踏み込んだ記述がなされている。 3.7.4 高等教育に対する適切な投資水準 以上のように、CKS は教育システムの全体的なバランスのとれた発展のためには、その

国の経済発展・教育発展のレベルや財政状況を考慮した、初等・中等・高等へのバランス

の取れた予算配分と高等教育に対する一定の投資を妥当としているが、その投資の水準・

程度に関しても、議論の対象とし、教育全体への公的支出を国内総生産(GDP)の 4-6%を適切な範囲とし、高等教育への支出は一般に全公教育支出の 15-20%が適当としている。

また、教育予算の 20%以上を高等教育に投じている途上国、特に初等教育の普遍化が達成

されていない国はエリート主義の大学システムを増長する歪んだ予算配分を行っている、

と批判している。同様に、高等教育予算の 20%以上を学生への補助金といった教育外の支

出に費やしている国は、教材、設備、図書等の質の高い学習のために必要なインプットに

十分に投資していない可能性があると指摘している。

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3.7.5 高等教育開発のための政府の役割の変容

CKS は、高等教育に国家が資金を提供し、統制する従来型の統制モデルが、今後変容し

ていくべきで、政府は首尾一貫した政策的フレームワークを構築し、適正な規制やインセ

ンティブを通じて高等教育を牽引していくべき、としている。 第一に、知識経済や情報革命という急速に変容しつつある外部状況に効果的に対応する

ためには、高等教育に関する長期的視点に立った包括的で明確なビジョンに基づいて、政

策フレームワークを構築すべきことの重要性を、CKS は指摘している。 第二に、革新的な公的機関や民間セクターが良質な高等教育へのアクセス拡大に向け行

う努力を奨励するべきで、新しい高等教育機関(バーチャルなものも含む)の設立に関す

る規制は最低限の品質確保にとどめるべきであり、新規参入に関して壁を設けるべきでは

ない、としている。 第三に、未だに、多くの国において、公的な資金供出は高等教育の主要な資金源である

が、これは新しい方法に変わりつつあり、政府以外のリソースからの補助も増加する、と

予測している。また、政府の政策もそうした変容に対応しなくてはならない、としている。 3.7.6 1970-80 年代の世界銀行の高等教育協力からの教訓

HELE でも論じられたように、従来世界銀行が行ってきた高等教育協力は、長期的・包

括的な視点を欠き、一部の高等教育機関を支援し、「アカデミックオアシス」を作り出すよ

うな、持続可能なものではないことが多かった。特に、世界銀行で 1992 年に実施された

これまでの高等教育協力に対する総合評価は、このサブセクターに対する以下のような問

題点と教訓を導き出している。 ① 包括的改革への支援は断片的な支援よりも効果的である。特に授業料の導入や私立

の高等教育機関の拡大、コストの削減、収益活動の促進などを視野に入れた高等教育

財政の改革は、インセンティブの整備なども含み包括的でなくてはならない。 ② 高等教育改革の政治経済的側面への留意が重要である。1990 年代初頭までの改革へ

の支援では、政府内での合意の必要性のみに関心が向けられ、高等教育改革の政治経

済的側面にはほとんど関心が払われなかった。しかし、実際に実行段階になると政治

的な問題が政府内の合意を覆すことが多かった。高等教育改革のためには、政府だけ

ではなく、大学人や学生、経済界を含む、コンセンサスの形成が鍵を握っている。 ③ 高等教育改革には、インセンティブの整備が重要な意味をもつ。とくに、競争的資

金の提供によって、高等教育機関に教育や研究の質の向上を提案・実施してもらう形

式は、世銀のこれまでの経験から成功の可能性が高い。

3.7.7 CKS の世界銀行への提言 以上のような認識を基として、CKS は世界銀行に以下のような提言をしている。これら

は、今後の国際協力銀行の高等教育分野での協力を考えるとき、示唆に富む内容である。

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(1) 政策対話と知識の共有化の推進 高等教育改革は常に政治的なリスクにさらされている。そのようなリスクを回避するた

めに、関係者間の政策対話を推進すべきである、と CKS は主張している。世界銀行が世

界中の様々な高等教育改革に携わった経験を有しているということや世界銀行が経済改革

と高等教育改革を連動させることができるという、比較優位を有しているという認識のも

と、その比較優位を生かすためには、特定の機関を援助するよりも、全体的な開発フレー

ムワークや教育セクター全体を包括するアプローチをとるべきである、としている。

(2) プログラムやプロジェクトを通じた改革の支援の方向性 CKS は、世界銀行が高等教育改革に資するため、以下のようなプログラムやプロジェク

トを優先してきている、と説明している。 ●生涯学習への対応や入学時期の柔軟化を視野に入れた高等教育機関の多様化 ●その国の比較優位となる選別された分野での研究開発能力の増強 ●高等教育の妥当性と質の改善 ●不利な立場にある学生のアクセスや機会を創出・拡大する公正なメカニズム(奨学金

や学生ローン)の一層の推進 ●持続可能で柔軟な高等教育財政システムの確立 ●情報システムの導入などを通じたマネジメント能力の開発 ●デジタルディバイドを克服するための情報通信技術の普及と拡大 また、CKS は、最近の経験からの教訓により、世界銀行の高等教育協力は以下のような

点に留意して実施されるべきである、としている。 ●高等教育協力においてその国の固有の状況が十分に考慮されていること ●高等教育協力を国家レベルでの戦略計画に十分に位置づけること ●高等教育機関の自治と説明責任の促進に焦点をあてること ●高等教育協力を長期的な視点に立って、首尾一貫したものにすること ●高等教育に影響する政治的事項に敏感であること 次に CKS は、世界銀行が高等教育協力を実施する主な基準を、変革の必要性・緊急性

と政府の改革への意志としながら、その支援形態の選択に当たってはいくつかの基準を提

示しているが、そのうち、日本の国際協力に対して参考になるもののみをここに挙げる。 ●高等教育改革のためのプログラム融資は、戦略フレームワークが構築され、政治的安

定性のある国において望ましい。このような国では全体的で長期的なアプローチを採

りうる。また環境の整備が今一歩であっても、プログラム融資の第一フェーズでは改

革の戦略フレームワークと関係者のコンセンサス構築に焦点をあてることもできる。 ●政府が高等教育セクターで変革に着手することに関心を寄せているが、その実施のた

めの条件が十分に整っていないような国においては、包括的な改革戦略の策定や国家

的コンセンサスの形成や大規模なパイロットプロジェクトに融資を使用すべきである。 ●私立の高等教育をも対象にした融資は、高等教育機関の質の向上や高等教育セクター

全体のため、競争的資金の提供や、学生融資制度の設立等のシステム全体への協力と

する。 ただし、上記のような条件は、中所得国に特徴的なものであるとして、特に移行経済国

と、最貧国、規模の小さい国という 3 つのグループに対しては、以下のような基準と方向

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性を提示している。 ●移行経済国-東ヨーロッパや中央アジアなどの移行経済国における高等教育改革に向

けた融資は、カリキュラム改革や短期のプログラムの促進、教育の質や多様性の確保

といった市場の要求に応えるように、高等教育改革を推進するような公的資金提供の

システムの構築に向けられるべきである。また、学生への経済的支援の提供・大学の

意思決定への外部者の参加・大学経営の専門性の向上などが、考えられる。 ●最貧国-低所得国における高等教育への協力は以下の 3 つが優先事項となる。 ・初等中等教育改善のための教員や校長の養成・現職研修 ・公立・私立の非大学機関で連携し、プロフェッショナルや専門家の養成を効率的に

行うこと ・高度な訓練・研究の比較優位のある分野で対象を選別して投資を行うこと。

●規模の小さい国-このような国での最優先事項は以下のとおりである。 ・ネットワーク化した大学の設立に向けた近隣国とのパートナーシップの構築 ・高等教育機関の分野や種類を精査し、集中的に投資すること ・外国の高等教育機関とのフランチャイズ提携 ・国際的な高等教育の提供者による遠隔教育の提供など。

(3) 国際的公益フレームワークの促進 CKS では、急速に進む教育と人の移動のグローバリゼーションとボーダレス化は、途上

国の発展に重要な分野におけるローカルキャパシティの低下を引き起こし、適切な国際的

資格認可制度の欠如や、海外の高等教育機関提供者への法的認可の欠如、遠隔教育プログ

ラムの健全な発展を確保するための知的財産法の欠如、インターネットを含む情報通信技

術へのアクセスに関する障害などにより、高等教育の健全な発展が阻害されている、と認

識し、その上で以下のような課題やその対処方法を次のように説明している。 ●頭脳流出問題への対処 ・Joint Degree プログラムの推進 ・ドナーの資金提供による奨学金に、帰国後学生が必要とする最低限の設備と再研修

のためのコストを算入すること ・インドなど熟練労働力が供給過剰の途上国における最高水準の高等教育機関に、留

学生を派遣すること ・帰国する研究者や専門家にとって好ましい就労環境の創出

●国際的な質保証フレームワークの構築 ・国家的な枠組みとは別に地域的質保証システムの構築を希望する国のグループへの

専門的・経済的協力 ・分野別のグローバルな質保証イニシアティブへの協力

●海外の教育提供者の認可 ・最低限の施設・設備・教職員の基準の設定 ・海外の教育提供者に関する適切で正確な情報の提供 ・キャパシティビルディングのための海外の教育提供者と現地の機関間のパートナー

シップ ・途上国で提供されたプログラムで取得した単位や資格に関して、教育提供国での完

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全な認定を与えることとそれに見合った教育水準の確保 ●知的財産権の尊重 ・世界銀行は、出版社、先進国の大学、途上国の高等教育機関間のパートナーシップ

の創出と醸成を支援する役割を担う。 ●デジタルディバイドの克服 ・グローバルな公益への戦略的貢献の一部として、世界銀行はミレニアム科学イニシ

アティブにあるように、先進国と途上国間のデジタルディバイド軽減のため、高等

教育の ICT インフラストラクチャーへの投資を通じて貢献する。 3.8 HELP に対する世界銀行 2 政策文書からの示唆に関する考察 以上見てきたように、HELE や CKS は、途上国の高等教育への支援に向けて、これま

での豊富な経験を基として、急速に変化しつつある外部状況をも考慮しながら、政策・戦

略を提言している。一方、国際協力銀行と世界銀行は、二国間と多国間という違いはある

ものの、国際開発金融機関として多くの共通点を有する機関である。したがって、世界銀

行の政策文書の提言は、国際協力銀行にとっても、その活動に現実的・具体的かつ有益な

示唆を与えるものであろう。 HELP事業は、第 4章で詳述されているように、国際協力銀行の高等教育協力の中でも、

優れて戦略的で、かつ高等教育のグローバリゼーションを強く意識したプロジェクトであ

る。このような HELP 事業に対して、世界銀行の 2 つの政策文書からは、以下のような示

唆が読み取れる。ここでは、提言の概要を示すが、その詳細については最終章で考察する。 ① 世界銀行の 2 つの政策文書からは、民間資金の導入と裨益者である学生とのコストシ

ェアリング、及び貧困学生に対する財政支援による公正の確保が提言されているが、

HELP においても費用の学生による一部負担や私費留学生の取り込みなどを検討すべ

きではないか。また、そういった負担と共に、貧困で有能な学生には、奨学金を用意す

ることも検討すべきであろう。 ② 世界銀行の文書では、繰り返し、少数の高等教育機関を対象とした国際協力ではなく、

高等教育政策・計画の全体に協力して行くことの重要性が指摘されている。HELP 事業

は従来型の大学を対象としていない協力としてユニークであるが、高等教育政策・改革

の方向性における位置づけを明確にすることは不可欠であろう。 ③ 世界銀行の文書では、高等教育改革を円滑に実施するためには、政治経済的側面への

配慮が欠かせない、とされた。マレーシアでは政権交代もあり、HELP の政治経済的な

側面の分析が、プロジェクトの今後の方向性を考える際に必要となる。(第 1 章参照) ④ 急速に進展する高等教育のグローバリゼーションの中で HELP 事業をどのように位

置付けるかは、JBIC 事業としては革新的な本事業の経験を今後の JBIC の高等教育協

力に生かしていく上でも、重要な課題である。世界銀行の文書では、頭脳流出、国際的

質的保証ネットワークの構築、海外教育提供者の認可といった観点が示されたが、それ

ぞれに HELP 事業の位置づけを考察する必要がある。 ⑤ 貧困削減は、現在の国際協力の潮流において、重要な目標であり、高等教育案件とい

えども、その目標のためにどのような貢献ができるかを問わずには、案件の形成・継続

は困難である。世界銀行の文書においては、高等教育と貧困削減に関して、詳細な検討

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60

が行われていた。HELP においても、その研修分野の選定などで、貧困削減に直接的に

貢献できる分野への優先度を高めるなどの提案が可能であろう。 ⑥ 経済界との連携は、世界銀行の文書において、インターンや産学連携のための共同研

究、高等教育機関理事会などへの経済人の受け入れなどとして提案されていた。HELPにおいても、このような提言は十分に実現可能であり、検討されるべきであろう。

Page 73: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

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団国際協力総合研修所 馬越徹編(2004)『アジア・オセアニアの高等教育』玉川大学出版部 米澤彰純・木村出著(2004)『高等教育グローバル市場の発展-アジア/太平洋諸国の高

等教育政策から得た示唆と ODA の役割』JBICI Working Paper No. 18, 国際協力銀

行開発金融研究所 国際協力銀行開発金融研究所(2003)『高等教育支援のあり方-大学間・産学連携-』

JBICI Research Paper No. 22

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64

第 4 章 日本の高等教育基金借款事業と留学生教育 -日本マレーシア高等教育大学連合プログラムの事例-

杉村美紀

(上智大学総合人間科学部教育学科) 本章では、日本の高等教育基金借款事業(Higher Education Loan Fund Project、通称

HELP)における留学生教育について、「日本マレーシア高等教育大学連合プログラム」

(Japanese Associate Degree Program、以下、通称である JAD プログラムと記す。)の

事例を通してその意義と課題を明らかにすることを目的とする。 これまで第 1 章の山田満論文「ルック・イースト政策の概観とポスト・マハティールの

課題と展望」では、日本とマレーシアの間で展開されてきたルック・イースト政策をとり

あげ、歴史的経緯をふまえてマハティール時代ならびにポスト・マハティール時代の政策

の変容を検証した。第 2 章の Molly Lee 論文「マレーシアにおける高等教育の再構築」で

は、マレーシアの人材開発政策の一環として高等教育改革をとりあげ、特に 1990 年代後

半以降、民営化・多様化を軸に私立セクターに大きく依存したかたちで高等教育の拡充が

図られている実態を分析した。一方、第 3 章の黒田一雄論文「発展途上国の高等教育開発

への国際協力の潮流と世界銀行の処方箋」では、発展途上国の高等教育開発に対し、国際

機関、特に世界銀行がどのように関わっているかを整理し、HELP をはじめとする高等教

育分野での国際協力構想に対する示唆を得た。 これを受けて、本章では、日本とマレーシアの間で、1992 年から実施されてきた高等教

育基金借款事業による留学生教育支援が、マレーシアの高等教育改革のなかでどのような

成果と課題を持つものであるのかを分析することにより、高等教育基金借款事業がもつ留

学生教育に果たす役割ならびに国際教育協力としての可能性を明らかにしたい。ここでの

作業は、JAD プログラムというマレーシアの事例に限定した分析ではあるが、他方、同プ

ログラムは、マレーシアで一定期間教育を行った後、日本の大学に編入し教育を行うこと

で、日本の大学の卒業資格をとることができるツイニング・プログラム(twinning program)を日本の高等教育支援で初めて採用したプログラムであるという特徴をもって

いる。その点で、マレーシアにとっての留学生教育の検討という意味にとどまらず、今日、

日本を含め様々な国で大きな注目を集めているトランスナショナル・プログラムの有効性

を考えるきっかけとなると考える。 以下では、まずマレーシアの高等教育政策における日本の高等教育基金借款事業の位置

づけを整理する。次に第 2 節で JAD プログラムの概要と特徴を説明する。そして第 3 節

で、JAD プログラムをめぐる課題を、先行研究、ならびに 2003 年 12 月にマレーシアで

行った調査結果をもとに明らかにする。 4.1 マレーシアの高等教育政策における留学生政策 本節では、JAD プログラムの検討に入る前に、第 2 章で Molly Lee 論文が論じたマレー

シアの高等教育政策を、同国の留学生政策の転換という観点から整理する。 マレーシアの高等教育政策は、1990 年代にはいってグローバリゼーションの流れのなか

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65

でその性格を大きく変容させた。それは人材開発のための高等教育の拡充を図るという目

的のもとに、高等教育機関の多様化、民営化を軸とし、国立大学の法人化、私立高等教育

機関の認可と急増、外国の高等教育機関の参入などを促した。そこで生まれた新しい高等

教育のあり方とは、従来、高等教育機関としては国立大学しか認めず、国家だけが国立大

学をごく一部の学生を対象としたエリート教育機関として管理・運営してきたのとは大き

く異なり、大学の大衆化を進め、潜在的な高等教育需要に応えようとするものであった。 従来、マレーシアは、高まる高等教育需要に、海外の高等教育機関に依存した留学生送

り出しと言う形をとって対応してきた。それは、大きく2つの形態に分けられる。ひとつ

は、マレー系優先政策(ブミプトラ政策)に基づいたマレー系中心の留学教育である。独

立以来、多民族国家ゆえの国家課題として国民統合と経済発展という問題を抱えてきたマ

レーシアにとって、マレー系を中心とするブミプトラ(「土地の子」の意味)の社会的経済

的立ち遅れの是正は必須課題であった。第 1 章山田満論文でも述べたとおり、マレー系優

先政策のひとつとして実施されたブミプトラの人材育成もそうした政治的配慮のうえでの

ことであり、マレー系に特権的に留学の機会をあたえることで、ブミプトラ・エリートの

育成を図ってきた。東方政策や JAD プログラムが実質的にはブミプトラだけに対象を限

定してきたのもこうした背景があると考えられる。 それに対して、中国系やインド系など非ブミプトラの留学は、もっぱら私費留学のかた

ちをとってきた。中国系やインド系は、その高い高等教育需要にもかかわらず、1970 年代

以降進められてきたマレー系優先政策により、マレーシア国内の国立大学への入学定員が、

民族別比率制度(クォータ制度)によりマレー系対非マレー系 55:45 と限定されてきた

こともあり、教育に関心が高い中国系などはその大半が私費留学によってアメリカやカナ

ダ、イギリス、オーストラリア、台湾、日本などに留学してきた。 こうした海外依存型の高等教育政策をめぐっては、従来から頭脳流出問題があった。国

家発展を担う優秀な人材が、留学というかたちで海外に流出してしまうことは、マレーシ

アにとって長年の懸案であった。そうした状況のなかで、限られた国家財政のなかでどの

ように国内の高等教育と人材育成を拡充していくべきかという課題に直面したマレーシア

が着目したのが、民間セクターとの連携による高等教育の多様化であり民営化であったと

いえる。この施策は、90 年代後半にはいりアジア経済危機が起こり、経済的問題から留学

先からの帰国や、留学そのものを諦めざるを得ない者が急増したことで、それまで留学に

頼ってきた高等教育人材育成の構図を見直す必要性が高まり、さらに拍車がかかった。こ

うしてマレーシアの高等教育政策の見直しは、国立大学の法人化と私立高等教育機関の設

立を軸とする多様化によって行われた。国立大学の法人化については、すでに第 2 章 Molly Lee 論文で述べたとおり、1995 年に行われた「1971 年大学・カレッジ法」の改定によっ

て進められた。 他方、私立高等教育機関については、1996 年に施行された「1996 年教育法」において、

高等教育だけでなく、国民教育全体のなかで、私立学校が就学前教育から初等・中等教育

さらに高等教育のいずれにおいても国民教育機関として認められるようになったのを受け、

同年制定された「私立高等教育機関法」ならびに「国家アクレディテーション委員会法」

により、その設立及び認可が正式に制度化された。こうした私立高等教育機関の容認は、

単に国内における機関数の増加を促しただけではなく、国外の教育機関の参入、あるいは

国外の教育機関との提携を加速させた。もともと、マレーシアでは、1980 年代より、一部

Page 78: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

66

の高等教育機関では、海外の高等教育機関との提携によりマレーシア国内での履修と相手

国での履修を組み合わせて相手国教育機関の学位取得を目指すツイニング・プログラム

(Twinning Program)がディプロマレベルの学校では認められていたが、1990 年代には

いると、先行学習プログラム(Advance Standing Entry Program)、単位互換制度(Credit Transfer Program)、外部学位プログラム(External Program for Degree Qualification)、スプリット・ディグリープログラム(Split Degree Program)、遠隔地学習プログラム

(Distance Learning Program)などの、国外の教育機関との連携による柔軟な高等教育

制度が次々と導入された。 このうち、ツイニング・プログラム(Twinning Program)は、Split-Degree Program

の一種で、マレーシアではもともとは 1980 年に導入されたのが最初であった。「1+2」、「2+2」、あるいは「2+1」などのシステムがあり、それぞれマレーシア本国で 1 年ない

し 2 年勉強し、提携先の相手国で 2 年ないし 1 年勉強することで、留学と同様に相手国の

高等教育機関の学位が取得できる。 このツイニング・プログラムをさらに発展させた形態をもつのがフランチャイズ学位プ

ログラム(Foreign University Degree Franchised Program)であり、ツイニング・プロ

グラムにある「2+1」にかえ、相手国に渡航することなく、マレーシア国内にいながら海

外の学位が取れる制度となっている。たとえば、「3+0」と言う場合には、マレーシア国

内での 3 年間の勉強で海外の高等教育機関の学位取得が可能となるわけである。 「先行学習プログラム」(Advance Standing Entry Program)は、ツイニング・プログ

ラムと類似しており、マレーシア国内の私立カレッジの diploma を取得後、提携先の

degree プログラムに編入するものである。「単位互換制度」(Credit Transfer Program)

は、マレーシア本国で取得した単位が提携先の高等教育機関の単位として認められる単位

の相互承認制度であり、逆に相手国の単位をマレーシア本国で認める場合もある。 さらに「外部学位プログラム」(External Program for Degree Qualification)は、マレ

ーシア国内にいながら、直接海外の高等教育機関へ履修登録を行い、学位取得を目指すも

ので、たとえばロンドン大学のプログラムをマレーシアにいながら履修することができる。 他方、プログラムを提携させるのではなく、国外の高等教育機関がマレーシア国内に、

当該教育機関そのものを分校として開講し、教師も教材も相手国から送られたものを使用

して行うという私立大学も 4 校(2004 年現在)ある。それらは、モナシュ大学(オース

トラリア)、カーティン大学(同)、スウィンバーン大学(同)、さらにノッティンガム大学

(イギリス)である。このほか、通信教育の形態をとる「遠隔地学習プログラム」(Distance Learning Program)がある。このように、マレーシアの高等教育にみられる国外の高等

教育機関との連携は実に多様である。 このような国境を越える高等教育の動きとトランスナショナルプログラムの導入は、オ

ーストラリアがとっているオフショアプログラムに追随するかたちで、今日一層加速する

様相をみせている。そして、こうした高等教育の再構築の結果、マレーシアは今やかつて

の留学生送り出し大国から受入れ大国へと変貌しつつある。しかも、マレーシア政府が従

来送り出してきた国費留学生については、その絶対数を縮小する方向にあり、むしろこれ

からは国内の高等教育機関での人材育成に重点をおこうとする姿勢さえみえる。図表 4-1は、1980 年代半ばから 1990 年代末にかけてのマレーシアの高等教育人口の推移を示した

ものであるが、ここからわかるとおり、高等教育人口が増加するなかで、国立大学の在籍

Page 79: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

67

者数は、一貫して約 51~53%となっている。それに対して、1980 年代半ばにわずか 9%弱

図表 4-1 マレーシアの高等教育人口の推移 1985 年 1990 年 1995 年 1999 年 国立大学 86,330

(51.1%) 122,340 (53.0%)

189,020 (51.5%)

296,889 (51.5%)

私立大学・カレッジ (PHEIs)

15,000 (8.9%)

35,600 (15.4%)

127,594 (34.7%)

250,000* (43.3%)

海外留学 68,000 (40.0%)

73,000 (31.6%)

50,600 (13.8%)

30,000* (5.2%)

計 169,330 230,940 367,214 576,889* 出典:Molly N.N.Lee, “Private Higher Education in Malaysia: Expansion, Diversification and

Consolidation”, in Molly N.N.Lee, 'Restructuring Higher Education in Malaysia', School of Educational Studies, Universiti Sains Malaysia, Monograph Series No.4, 2004, p.21.(1999 年

の*を付した数値は推計値である。)

であった私立大学・カレッジ(Private Higher Educational Institutions, 略称 PHEIs)在籍者数は、その後大幅にその割合を増やし、1999 年には 43%余りまでになっている。

それとは対照的に、かつて高等教育人口の約 40%を占めていた海外留学者数は、逆に減少

し、1999 年にはわずか 5%余りとなってしまっている。ここには、かつての海外留学者組

が、今日では国内の PHEIs に進学し、留学する者は一部の国費留学生を除いて極端に減

少してしまっている状況をよみとることができる。前述の通り、もはや海外に留学しなく

とも、トランスナショナルプログラムの普及により、マレーシア国内にいながらにして海

外の高等教育機関のカリキュラムを履修したり、あるいは学位を取得できるようになった

ために、従来、私費留学で海外に留学していた層がマレーシア国内での進学を選択するよ

うになったためである。 PHEIs については、すでに第 2 章 Molly Lee 論文でその詳細について触れたとおりであ

あるが、上記のような学生の増加に伴い、私立カレッジについては、1992 年に 156 校で

あったものが、2000 年には約 600 校までにふくれあがっている101。また私立大学につい

ては、1995 年の段階でまだなかったのが、2001 年には 12 校に急増している。このなか

には、前述の海外高等教育機関の分校も含まれる。 こうした PHEIs には、従来の国立大学に無い特徴がいくつかある。そのひとつは、マ

レーシアの国立大学が、ほかの公教育機関と同様に、従来、国家政策の一環として国語(マ

レーシア語)を教授言語(medium of instruction)としてきたのに対し、主として英語を

教授言語としているという点である。前述のように、PHEIs のなかにはトランスナショナ

ルプログラムを導入している機関が多く、その場合、教授言語はどうしても英語とならざ

るを得ない場合が多い。 もうひとつの特徴は、PHEIs の学生の多くが中国系やインド系などマレー系以外の生徒

101 Tan Ai Mei(2002)によれば、1995 年の時点で私立高等教育機関(PHEIs)の機関数は 280 校であ

ったのが、1999 年には 616 校になったという数値を示している。(Tan Ai Mei, ‘Malaysia Private Higher Education: Globalization, Privatisation, Transformation and Marketplaces’, ASEAN Academic Press, 2002, p.124.)

Page 80: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

68

であるという点であり、その割合は約 8 割にのぼるといわれる。これは、従来、私費留学

により海外に留学していた非マレー系層が、国内に進学先を転換した結果であり、国内の

高等教育の拡充を図ることにより、頭脳流出問題への対応とそれによる人材の確保を図ろ

うとする政府側の政策意図が具現化されているのをみてとることができる。 以上のべたようなマレーシアにおける高等教育構造の転換ならびに留学政策の変化を考

えた場合、マレーシア政府が、80 年代からの東方政策留学に加え、90 年代にはいりあえ

て日本の円借款を利用して対日留学生教育を行うようになり、引き続き継続の方向をとっ

ているということはどのような意味をもつのだろうか。本調査がマレーシアでの訪問調査

を行った際に最も問題としたのも、東方政策の意義づけと高等教育基金借款事業の必要性

という二つの点であった。東方政策の開始時とは異なり、日本経済の長い低迷が続く今日、

かつての日本経済の発展に支えられた対日留学生教育は、どのような点でより特徴付けら

れようとしているのだろうか。また、第 1 章の分析にあるとおり、ルック・イースト政策

自体がポスト・マハティールの時代の中で転換期を迎えていることをふまえると、マレー

シアと日本の間の留学生交流は今後どのような役割と意義付けを担っていくべきなのか。

そしてそれは、第 3 章でも指摘されているように、「高等教育協力の中でも戦略的でグロ

ーバリゼーションを強く意識した」といえる高等教育基金借款事業としての留学生教育に、

今後どのような指針を与えるものなのだろうか。以下では、JAD プログラムがどのような

成果をおさめ、かつ課題を抱えているのかを分析する。 4.2 日本マレーシア高等教育大学連合プログラム(JAD プログラム)の概要と特徴102 「日本マレーシア高等教育大学連合プログラム」(Japanese Associate Degree

Program:通称 JAD プログラム)は、日本の対マレーシア円借款事業として 1992 年から

行われてきた「高等教育基金借款事業」(Malaysia Higher Education Loan Fund Project:通称 HELP)の第Ⅱ期事業として 1999 年から実施されているものである。対マ

レーシア円借款事業の教育セクターに関する事業としては、この「高等教育基金借款事業」

の他に、「マレーシア大学医学部付属病院建設事業」、「東方政策借款」ならびに「サラワク

大学建設事業」がある。このうち、「東方政策借款」は、1981 年にマハティール首相が提

唱したルック・イースト政策のもとで、マレーシア政府が行ってきた日本への留学・研修

プログラムである東方政策(以下、東方政策留学とする。)が、1997 年のアジア経済危機

によってその存続が難しくなったことを受けて、1999 年に「東方政策借款」が開始され、

9 年間にわたり 1) 学部留学、2) 高等専門学校留学、3) 日本語教師、4) 大学院の四分野

を対象に、延べ 1,400 人の日本留学を支援することになった。 4.2.1 高等教育基金借款事業Ⅰ(HELPⅠ) 「高等教育基金借款事業」は、マレーシアの経済発展を担う技術者の養成を目的とし、

日本の大学の国公私立大学の理工系学部への留学を支援するものとして 1992 年から開始

102 本節は、拙稿「留学生教育における国際教育協力の可能性:日本マレーシア高等教育連合プログラム

を事例として」(『国際教育協力論集』第 5 巻 1 号、広島大学教育開発国際協力研究センター、2002年 7 月、125-136 頁。)における JAD プログラムの概要紹介をふまえて整理した。

Page 81: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

69

された。1992 年から開始された第Ⅰ期事業(HELPⅠ)では、マレーシアの高等学校を卒

業後、現地で日本留学のための 2 年間の予備教育を受け、私費留学生統一試験、日本語能

力検定試験(1 級)を受験したうえで来日し、その後、各人が日本の国立・私立大学の理

工系学部を選択・受験して学部第1学年に入学するというシステムをとっていた。マレー

シア側の実施機関はマラ教育財団(Yayasan Pelajaran MARA、通称 YPM)であり、事

業概要としては、1) マレーシア国内での予備教育、2) 留学生への奨学金(学費・生活費

等)、3) コンサルティング・サービス(留学生の世話、予備教育の教員派遣)があげられ

る。マレーシア国内での予備教育は、クアラルンプール郊外のバンギにある日本留学予備

教育センターで実施された。HELPⅠの具体的なプログラムは、1993 年 7 月にマレーシア

国内での留学事前研修が開始された後、1995 年 4 月に第1期生 58 名が日本の大学に入学

し(そのうち 1999 年春に 53 名が卒業)、以後、第 2 期生 76 名、第 3 期生 94 名、第 4 期

生 42 名、第 5 期生 40 名と合計 310 名が日本へ留学した。この HELPⅠ留学生に対して

は、概ね良好な満足のいく成績を残したという評価がなされている。 4.2.2 高等教育基金借款事業Ⅱ(HELPⅡ)

JAD プログラムは、こうした HELPⅠの成果をふまえ、マレーシア政府からの「高等教

育基金借款事業」の継続要請を受けて導入されたものであるが、HELPⅠにはなかったツ

イニング・プログラム(twinning program)を導入した点、ならびに学部だけでなく、大

学院修士課程への進学も対象とするようになったという 2 つの点で特徴をもつ。 このうち、ツイニング・プログラムは、日本留学費用のコスト削減のために導入された

ものである。HELPⅠ実施にあたって最大の問題点は、日本留学にかかる費用の高さであ

った。そこには、日本の生活費が高いことのほかに、渡日前の現地での教育における派遣

教員の費用、日本語能力試験や入学試験など手続きに関わる費用などが含まれ、欧米への

留学費用と比べて高い点が問題とされてきたからである。一般に、日本への留学は、HELPⅠに限らず、欧米の英語圏への留学に比べて約 4~5 倍の多額な費用がかかるといわれて

きた。HELPⅠの実施機関である YPM では、当時、すでに HELP プログラムとは別に、

実際にアメリカ、イギリス、オーストラリア及びアイルランドの一部の大学と提携し、ア

メリカについては 2 年、その他の国は 1 年の大学教育修了後、提携先の大学へ進学するシ

ステムを導入していた。こうした事情のもとで、日本とのツイニング・プログラムは、他

国とのツイニング・プログラムに比べれば費用が高いものの、HELPⅠと比較するとコス

トがかなり削減されるという試算から、日本への留学についても、一定期間、大学教育を

マレーシア国内で実施し、その後日本の大学へ編入するという制度が提案されたのである。

こうした経費面での効率化を勘案し、政府留学生数の縮小という方針をとっていたマレー

シア政府も、HELP に関しては、将来のマレーシアの経済発展に必要な人材育成のために、

引き続き継続することを決定した。 この結果、1999 年から始まる HELPⅡでは、マレーシア国内において予備教育を 1 年

間、その後、大学教育の一部も含めたかたちでさらに 1 年間マレーシア国内で教育を行い、

その単位を日本の大学が認定し、日本の大学へは 2 年次から編入させるという制度がとら

れることになった。また日本側は、私立 13 大学から成るコンソーシアムが留学生受入れ

を担当し、1999 年からは国立大学もツイニングのプログラムの導入及び参加を検討するこ

Page 82: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

70

とになったのである。 HELPⅡのもうひとつの特徴は、大学院課程まで含めた留学制度にしたという点である。

これは、すでに HELPⅠに参加している 5 期(310 名)、及び HELPⅡの第 1 期から第 3期までの学生の一部を理工系分野の大学院に 2 年間留学させ、修士号を取得させるという

ものであり、候補者は、希望者の中から HELP の実施担当機関が選定し、日本の各大学院

の試験の合格を受けて最終的に決定されることになった。

4.2.3 「日本マレーシア高等教育大学連合プログラム」(JAD プログラム)の導入経緯

HELPⅡにおけるツイニング・プログラム導入にあたっては、私立 13 大学のコンソーシ

アム参加大学、すなわち慶応大学、明治大学、武蔵工業大学、東京理科大学、芝浦工業大

学、拓殖大学、東京電気大学、東京工科大学、早稲田大学、東海大学、立命館大学、近畿

大学、岡山理科大学の各大学を中心に、1997 年 6 月以降、たびたび検討会が開かれた。

検討会では、共通カリキュラム・シラバスの作成や編入学の受入れ方法、単位認定の問題、

マレーシアにおける現地教育への日本人教員派遣、衛星通信機器を使った遠隔授業実施の

可能性などが議論された。そして、最終的に「2 ヶ年にわたる十数回に及ぶ粘り強い討議

を経て 13 大学が合意できるものを作成」したが、他方、この過程は、「大学設置基準の大

綱化以来、各大学のカリキュラムの個性化が進んでおり、共通カリキュラム・シラバスの

作成は容易ではなかった。」とされるように、各大学間の調整や討議の努力の結果でもあっ

た103。 こうした準備や調整を経て、1999 年 4 月に国際協力銀行(JBIC)とマレーシアの間で

総額 52 億 8,500 万円の円借款契約が締結された。また、JAD プログラムの管理・調整に

ついては、特定非営利活動法人であるアジア科学教育経済発展機構(Asian Science and Education for Economic Development、通称 Asia SEED)にそのコンサルタント業務が

委託された。 さらに、1999 年 5 月には、前述の私立 13 大学から成る「日本マレーシア高等教育大学

連合」というコンソーシアムが結成され、その日本のコンソーシアムと YPM の間で正式

なツイニング・プログラムの協定が締結された。「日本マレーシア高等教育大学連合に関す

る協定書」では、日本のコンソーシアムを形成する各大学(加盟校)が、YPM で実施さ

れる教育プログラムについて、以下の 6 点、すなわち 1) カリキュラム・シラバスの作成

と提供、2) 教員の派遣、3) ツイニング・プログラム卒業生の単位認定と「加盟校」への編

入学受け入れ、4) マレーシアへの「加盟校」学生の派遣、5) 「加盟校」と「YPM」関係者と

の共同研究及び教育活動、6) その他「加盟校」が必要と認めた事項、に関して協力するこ

とが取り決められ、2009 年 3 月までを有効期限として締結された。このようにして、ツ

イニング・システムの導入と、大学院も視野に入れた日本マレーシア高等教育大学連合プ

ログラム、通称 JAD プログラムが実施にうつされたのである。 103 小暮剛一「留学生受け入れのための新たな試み」、文部科学省高等教育局学生課(編)『大学と学生』

(特集・留学生支援)平成 15 年 470 号、32 頁。

Page 83: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

71

4.2.4 JAD プログラムの内容 マレーシアにおける JAD プログラムは、YPM カレッジ・バンギ校の一角で行なわれて

いる。同校は、クアラルンプールから車で 40 分ほどのセランゴール州郊外に位置し、教

室、物理・化学実験室、コンピュータールームのほか、カレッジ全体の共有施設として、

図書館、食堂、プール、体育館、バレーボールコート、グランドがあり、学生はすべて寮

生活をしている。 学生の選考は、高校卒業時(日本の高校 2 年修了時に相当)に行われる修了資格試験「マ

レーシア教育資格試験」(Sijil Pelajaran Malaysia:SPM)の成績によって第一次選考が

行われ、次いで日本・マレーシア両国の面接官によるインタビューが行われる。これら学

生の成績は、一般的に同一学年の上位 3%の成績を修めた優秀な学生であるといわれる。 日本側の受入れ大学としては、コンソーシアムに加盟している 13 大学のほか、文部科

学省により、さらに国立大学がアソシエイト・メンバーとして位置づけられた。第1期生

が日本の大学へ編入した 2001 年の時点で同メンバーとなっていたのは、東京農工大学、

九州大学、千葉大学、群馬大学、神戸大学、名古屋大学、長岡技術科学大学であったが、

その後、メンバーが増え、2004 年の時点で、前記7大学のほか、大阪大学、京都大学、埼

玉大学、電気通信大学、東京工業大学、山口大学、広島大学、名古屋工業大学、横浜国立

大学、新潟大学、豊橋技術科学大学、北海道大学が加わり計 19 校となった104。 JADプログラムとして具体的に設定されたマレーシア国内での2年間のカリキュラムは

図表 4-2 及び図表 4-3 に掲げるとおりである。前述のとおり、まず 1 年目に図表 4-2 にあ

るとおり、日本語の基礎学習を中心とした内容となっており、あわせて理工系科目の基礎

を履修する。カリキュラムの中にある Islamic Study ならびに Malaysian Study とは、マ

レーシアの高等教育機関で国立私立を問わずに、すべての機関でイスラム教関連科目なら

びにマレーシア研究が一様に義務付けられているためである。2 年目になると、図表 4-3にあるように、専門科目も多く取り入れられ、特に集中講義では、専攻別の科目も編制さ

れる。こうした専門科目は、日本に来日した後の、大学教育のカリキュラムと連動する形

となっている。 104 コンソーシアム結成初期の様子については、在マレーシア日本大使館「東方政策支援に係る経済協力

評価調査」2001 年 3 月、28 頁参照。

Page 84: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

72

図表 4-2 JAD プログラム予備教育・大学 1 年次の授業科目と時間数(2000 年度) (1 年目開講科目一覧)1 コマ=60 分

週当たり授業時間数科目名

前期 後期 90 分授業 換算コマ数 現地単位数

初級日本語 聴解 初級日本語 漢字・語彙 初級日本語 読解 初級日本語 文法 中級日本語 文法 中級日本語 読解 中級日本語 漢字・語彙 中級日本語 聴解 工学日本語 1 科学技術日本語 1 英語 1 数学基礎(微分積分の初歩) 数学基礎(線形代数の初歩)

4 5 5 6

2 3 3

4 3 4 3 3 3 2 3 3

45 57 68 68 61 46 61 46 46 46 53 80 80

2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 4 4 4

物理基礎 化学基礎

4 4

107 107

6 6

Islamic Study Malaysian Study Workshop(工学製作実習)

1

1 2

11 15 31

1 1 1

計 37 39 1017 47

出典:アジア科学教育経済発展機構(Asia SEED)「日本マレーシア高等教育大学連合プログ

ラム」(2001 年度版)

Page 85: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

73

図表 4-3 JAD プログラム予備教育・大学 1 年次の授業科目と時間数(2000 年度) (2 年目開講科目一覧)1 コマ=60 分

科目名 前期 夏期集中 後期集中 後期 90 分授業 換算コマ数

現地 単位数

上級日本語 1 文法・読解 上級日本語 1 聴解・読解 科学技術日本語 2 文章表現法 1 日本の文化と歴史 1 日本の経済と経営 1 上級日本語 2 文法・読解 上級日本語 2 聴解・読解 文章表現法 2 日本の文化と歴史 2 日本の経済と経営 2

3 3 2 2 1.5 1.5

5+5

3 3

1.5 1.5

34 34 23 23 17 17 34 34 13 17 17

2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2

英語 2 英語 3

2

2

23 23

2 2

体育実技 健康・体育理論

1.5 1.5

17 17

1 2

数学 1(微分積分 1) 数学 2(微分積分 2) 数学 3(線形代数 1) 数学 4(線形代数 2)

3

3

3

3

34 34 34 34

2 2 2 2

物理学 1 物理学 2 物理学実験

3

1

3 1

34 34 23

2 2 1

化学 1 化学 2 化学実験

3

1

3 1

34 34 23

2 2 1

情報処理 1 情報処理演習 1 情報処理 2 情報処理演習 2 細胞生物学

2 2

3.75+7.5

2 2

23 23 23 23 15

2 1 2 1 2

地球と環境 先端工学特別講義

10 10

20 20

2 2

(次ページへ続く。)

Page 86: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

74

図表4-3(つづき) JADプログラム予備教育・大学1年次の授業科目と時間数(2000年度) (2 年目開講科目一覧)1 コマ=60 分

科目名 前期 夏期集中

【前半】

後期集中

【後半】後期 90 分授業

換算コマ数 現地 単位数

選択科目(各々2 科目 4 単位選択) 【機械工学系】

機械工学概論 熱力学

【情報工学系】 情報工学概論 通信システム

【電気・電子工学系】 電気・電子工学概論 電磁気学

【土木工学系】 土木工学概論 地盤工学

【建築系】 建築工学概論 建築計画

【材料工学系】 材料工学概論 材料組織学

【工業化学系】 工業化学概論 有機化学

【生命工学系】 生命工学概論 生命工学基礎

15

15

15

15

15

15

15

15

15

15

15

15

15

15

15

15

20 20

20 20

20 20

20 20

20 20

20 20

20 20

20 20

2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2 2

合計

36

24

28

39

865

65

出典:アジア科学教育経済発展機構(Asia SEED)「日本マレーシア高等教育大学連合プログラム」(2001

年度版)

Page 87: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

75

HELPⅡでは、2005 年 4 月までに第 1 期~5 期の合計 280 名が大学に留学し、そのうち

2005 年 3 月までに 93 名が卒業した。また大学院には 59 名が留学し、うち 52 名が卒業し

ている。 JAD プログラムでは、ツイニング・プログラムとして、マレーシア国内で行われる教育、

特に日本語教育、ならびに日本の大学の 1~2 年次の理数・工学基礎教育を現地でいかに

教育するかという問題が常に焦点となってきた。実際には、日本人教員の中・長期派遣に

加え、夏期を中心とした集中講義のための教員短期派遣、学生チューターの中期・短期派

遣、インターネット、衛星放送等の機器を利用した遠隔講義の実施などを利用し、日本語

教育と工学系基礎教育を現地で実施している。特にそこでは、日本の大学での工学系教育

への編入をよりスムーズに実現するために、1) 大学での工学教育を理解できることに重点

をおいた独自に開発した日本語教材による教育、2) インテンシブな数学・物理・化学など

の基礎教育の展開と、教育に情熱を持った教員集団による教科を離れた教育、3) 日本の大

学の雰囲気をそのまま伝える遠隔講義の実施、4) 日本人学生チューターによる演習と両方

における共同生活、5) モニタリング結果を現地教育へフィードバックさせて、現地におけ

る教育方法の継続的改善に役立てる、といった実践上の工夫と施策がとられてきた105。 たとえば、JAD プログラムにおいて日本語教育を担当している教員グループは、日本語

教育と教材開発について以下のような本プログラムならではの特徴ある取り組みを報告し

ている。すなわち、JAD プログラムでは、日本の大学の理工系学部への編入を念頭におい

ているため、そこでの日本語教育の第一の目標は、「工学系学部の授業や研究に必要な日本

語能力の育成」にあると考えられている点に特徴がある。JAD プログラムは、発足当初よ

り「特定の専門分野・領域のための日本語(Japanese for Specific Purposes: JSP)」とし

ての「科学技術日本語」(または「理工系日本語」)を目標としており、そこでは主として

科学技術分野に特有な語彙(専門用語)や表現などが扱われてきた。しかしながら、それ

には当然のことながら専門的な知識が必要であり、日本語教師もそれらを網羅することが

必要であった。そこで、日本語教師は、専門分野の教員との連携を求める一方、自らも率

先して「科学技術日本語」を扱うように努めてきた。当初は、そのための適当な教材もな

かったため、「一般日本語」教材を使って授業を進めながら、JAD プログラム独自の「科

学技術日本語」教材の開発が進められた。こうして初年度に作成された教材は、その後大

幅な改訂を経ながらも、『サイエンスヒストリー』及び『科学技術日本語』という名称でそ

の後も使用され、今日にいたっている。このように、JAD プログラムでは、単に日本語教

育を行うのではなく、理工学部への大学編入を視野に入れ、専門科目の内容との関連性に

も考慮して日本語教育を実施している。このことは、日本へ留学する前の渡日前教育を、

単にガイダンス的なもので終わらせるのではなく、それ自体が、日本語教育であると同時

に、留学後の専門教育を視野に入れて展開されていると言う点で、ツイニング・プログラ

ムならではの特徴といえよう。「科学技術日本語」の教育は、日本語科と理数科の教員が連

携して行われているが、それは規模の比較的小さい JAD プログラムだからこそ実現でき

ることであり、そのことがまた JAD プログラムが持っている強みであるとも考えられて

105 小暮剛一「留学生受け入れのための新たな試み」、文部科学省高等教育局学生課(編)『大学と学生』

(特集・留学生支援)平成 15 年 470 号、32-34 頁。

Page 88: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

76

いる106。 4.3 ツイニング・プログラムとしての JAD プログラムの課題

以上述べたように、JAD プログラムをめぐっては、教育方法や教材開発という点で一定

の成果がみられる。特に、マレーシアと日本双方の協力のもとに実現されたツイニング・

プログラムとしての効果は、マレーシアと日本の間の新たな留学形態を提案したことのほ

かに、プログラムを推進する一連の過程のなかで両国間の協調・協力関係を促し、国際交

流としても大きな成果を生んだという点で高く評価されるべきであると考える。 他方、こうしたプログラムを、両国の高等教育が抱える状況をふまえたうえでより有効

に生かすためには、今後、いくつかの課題が検討される必要がある。以下ではそうした課

題を、これまでに JAD プログラムに関して行われた先行調査、ならびに実際に JAD プロ

グラムを担当している YPM でのインタビュー調査を通じて得られた情報をもとに整理す

る。 4.3.1 マレーシア国内における JAD プログラム実施上の課題 (1) マレーシア人学生の学習・留学意識の変化

JAD プログラム実施に当たって今日問題となってきているのが、学生側の学習ならびに

留学に対する意識の変化である。JAD プログラムが主として対象としているのは、前述の

とおりブミプトラであるマレー系学生であるが、YPM における JAD プログラム担当教員

のなかには、高等教育借款事業(HELPⅠ)が開始されてからこの 10 年の間に、学ぶ側の

学生の意識が変化してきたという印象をあげる教員がいた。HELP留学生に選抜されるマ

レー系学生は、同一学年のなかで上位 3%を占める優秀な学生であるといわれるが、かつ

ては地方の貧困層の出身者が多く、素朴ながら熱心に学ぶ貪欲な学生が多く見られた。と

ころが、今日では留学に対する意識についても変化がみられるという。具体的には、留学

に対する目的意識の希薄化、学習意欲の低下などがあげられるが、この背景には、以前と

比べて国内外における高等教育機会の拡大し、留学についても、中産階級層の増加に伴い、

従来のように国費留学を中心とする留学から、私費留学の可能性が広がった結果、JAD プ

ログラムのようにわざわざ国費留学のプログラムに応募しなくともよいという状況が広ま

ったことがあげられる。

(2) 留学生教育の実践上の問題 YPM での実践では、2 年間という期間のなかで、日本の大学編入にあたって求められて

いる目標レベルをいかにカリキュラムのなかで達成していくかという課題も指摘されてい

る。YPM では、JAD プログラムに入学する以前に全く日本語を勉強したことがない学生

を、全く白紙の状態から 2 年間で日本の大学 2 年次編入のレベルに引き上げなければなら

ない。そこでは、マレーシアでの教育基準を満たす一方、編入先である日本の大学側の要

106 阿久津智「ツイニング・プログラムにおける日本留学前の日本語教育について」、日本マレーシア高等

教育大学連合 JAD プログラム日本語科『Report on Japanese Language Teaching in JAD Program, 2002』、2003 年 6 月、2-4 頁。

Page 89: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

77

求にも応え得る水準が要求される。そこで、YPM での実践においては、何よりもまず大

学への編入を当面の目標においてカリキュラムを実践している107。 その際、第一に問題となるのは理工系学部レベルの日本語取得の問題である。前述のよ

うに、理工系学部への進学を前提としている JAD プログラムでは、「科学技術日本語」の

日本語教育が実施されており、日本語科の教員が、理工系学部編入に配慮した指導や教材

作成を行っており、その努力や実績は、2 年間という限定された期間を考えると、高く評

価される。 実際、マレーシアでの 2 年間の課程を終え、日本の大学に編入する学生のために JBIC

主催で開かれる激励会では、留学が実現し、希望に燃えて来日した学生が、その抱負を見

事な日本語で語る姿がみられる。たとえば、2003 年 3 月に開かれた激励会では、「大学の

3 年間、私たちは大変な責任をもって勉強していることを忘れないようにしようと思いま

す。その責任とは、日本の技術を学び、その知識を自分の身につけ、さらにそれをマレー

シアの発展に役立たせるという責任です。みんな JAD での思い出を胸に、自分の道をし

っかり歩みましょう。」(2003 年 4 月東京理科大学編入,アイザンさん)といった発言や、

「日本に来てびっくりしたことは、バスのスケジュールや電車のシステムのような大型の

ものから、ゴミ処理のような細かいものまで効果的な管理システムがたくさんあるという

ことです。社会システムにも優れ、時間管理も世界一だと思います。こうした環境のなか

で、勉強や研究を深め、マレーシアのためにはもちろん、世界の将来の役に立ちたいと思

っています。これまでもがんばってきましたが、これからが本番。自身や勇気、ネバーギ

ブアップの精神で一つ一つ取り組んでいきます。私たちに、日本留学というすばらしいチ

ャンスを下さった皆さまに、心よりお礼申し上げます。」(2003 年 4 月東京工業大学編入、

アミル君)といった挨拶をしている108。 しかしながら、実際に日本の大学に編入した後、理工学部の日本語での授業等に実際ど

れくらい対応できているかという点については、受入れ先の日本の大学から、学生のレポ

ート作成能力が十分ではないことが指摘され、JAD プログラムでも課題となっている109。

そのことは、すでに日本で大学生活を送っている学生のモニタリングからも伺える。2003年度に行われた HELP 学生に対するインタビュー調査では、ほとんどの学生が日本での日

常生活においては日本語の問題はほとんどないものの、大学の講義については、授業での

日本語が理解できない、あるいは難しいと感じている学生が多いという結果になった。日

本語を含め、何か問題にぶつかった時に相談できる友人や知人が周囲にいる学生について

は、比較的問題も少ないものの、全体的には、授業についていくのが大変であるという意

見が多数を占めた。 日本語の問題とともに、日本の大学で学ぶ上で問題とされるのが「基礎学力」である。

専門科目については、大学に編入してはじめて日本の学生のレベルとの格差が大きいこと

に気がついたという意見が多く、ほとんどの学生が、理解できない科目があると答えてい

る。マレーシア人学生の場合、特徴的なのは、そうした基礎学力の低さを自分自身の不勉

強というかたちで自己責任としてとらえやすいことである。この際も、日本人ないしマレ

107 YPM での日本語科教員、阿久津智教諭へのインタビューによる。(2003 年 12 月 8 日) 108 『国際開発ジャーナル』、2003 年 6 月号、84-85 頁。 109 藤原由紀子「学習者の複文生成における問題点」「日本マレーシア高等教育大学連合 JAD プログラム

日本語科『Report on Japanese Language Teaching in JAD Program, 2002』、2003 年 6 月、66 頁。

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78

ーシア人いずれでも、友人や仲間がいる学生にとっては、いろいろな意味で励ましや支え

があってそうした問題に対処できる場合もあるが、たとえば、留学先の大学でJADプロ

グラムからの留学生が一人だけというような状況のなかでは、生活面を含め留学生が孤立

しやすい傾向があることが指摘できる。 こうした状況に対して、留学生の側からは、JAD プログラムと大学編入後のレベルの格

差を認識し、両者の連携が少しでもスムーズにいくよう、マレーシア国内にいるうちから、

日本の大学及び大学生のレベルが把握できるようにすべきだという意見がだされている。

たとえば日本の学生の書いたレポートを事前に読んで勉強するといったことや、演習形式

の授業を取り入れること、レポートやグラフの書き方などより実際的な内容を JAD プロ

グラムに盛り込むこと、といった提案である。

4.3.2 日本・マレーシア間の高等教育基金借款事業の課題:東方政策留学との比較をふま

えて 以上、JAD プログラムの概要とその課題について述べたが、ここではさらに、同じく留

学生借款事業として、JAD プログラムよりも長い歴史を持ち展開されてきた東方政策留学

との比較を行うことにより、日本とマレーシア間の留学生教育の役割と課題を検討する。 第 1 章の山田満論文で詳述したとおり、1982 年にマレーシア側の「労働倫理と知識を

求めて」という要望に基づいて始められた東方政策留学では、ブミプトラであるマレー系

を対象に人材育成を主眼として様々な分野で多くの人材を受け入れてきた。高等教育への

留学分野としては、日本の大学学部への留学を目指した日本留学特別プログラムと高等専

門学校への留学を目指したプログラムがある。このうち、大学学部への留学を目標とした

日本留学特別プログラム(Ambang Asuhan Jepun:略称 AAJ)は、マレーシアの人事院

の管轄下におかれ、教育上の運営は日本から派遣された日本人教師によって行われている。

開設当初、1982 年の第 1 期生は 40 名ほどであった定員は、4 期生から 100 名となり、10期生 120 名、11 期生 140 名、16 期生 160 名と年々増え、2003 年の 22 期生は 180 名とな

っている。マレーシア政府は近い将来、プログラムの定員を 200 名にまで増やす予定との

ことである。16 期生までは社会科学系、人文科学系コースがあり、経済学部、経営学部、

商学部などへ留学する学生もいたが、17 期以降は理工系だけに限定されるようになった。 この東方政策留学については、これまで概ね順調に推移してきたといわれる反面、学生

数の増加をめぐって以下のような点が課題として指摘されている。第一に、東方政策の留

学生の学習ならびに留学に対する意識の問題である。日本の高校から派遣され、現在、マ

ラヤ大学予備教育部で東方政策の留学生指導にあたっておられる教授陣によれば、マレー

系学生は、日本の高校生と比べ、遅刻や欠席も少なく、総じて授業態度もよいが、受け身

的で応用力が弱いことをあげている110。こうしたマレー系学生の学習・留学に対する意識

の変化については、東方政策の元留学生同窓会のメンバーも言及している。特に、比較的

初期に日本に派遣された元留学生は、自分たちと今の若い世代の留学生では留学に対する

110 マラヤ大学予備教育部日本留学特別コース(AAJ)での坂本守義団長、立花正副団長、男澤弘教諭、

千野司教諭、根元和昭教諭へのインタビューによる。(2003 年 12 月 11 日)。

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意識が明らかに変わっているという111。すわなち、自分たちが留学した東方政策初期の頃

は、留学生も政府から選抜され、なかば強制的に日本へ留学した。留学先でもそれまで留

学経験のある先輩がいるわけではなく、常に自分たちが初めてのケースであることが多く、

緊張感もあり大変であった。しかしながら、留学を通じて自分たちで日本社会の良い面・

悪い面を積極的に学び、様々な体験ができたという。それとは対照的に、昨今の若い世代

の留学生は、奨学金がもらえるから日本へ留学するという感覚が強く、しかも代々先輩が

留学しているからという安心感もあり、自分たちの頃のような緊張感をもって留学するも

のが少なくなってしまったというのである。また、留学が希少な機会であり、その意味づ

けが大切であった時代とは異なり、第 5・6 期生頃からは少しずつ留学生の気質の違いが

みられるようになったのではないか、との意見も出された112。ここには、マレーシア国内

での大学進学が難しく、将来の不安を抱えながら、奨学金がもらえるのであれば留学先は

問わないと考える若者像がよみとれる。 こうしたマレーシア系留学生の学習・留学に対する意識の変化は、前述の JAD プログ

ラムの課題とも共通する観点である。東方政策が開始されてから 20 年余りを経て、この

ように留学生当事者の意識が変化していることは、今後の日・マレーシア間の留学政策の

あり方を考えるうえで重要な要素である。以前のように、政府も、また送り出される留学

生も、日本型企業経営や労働倫理、勤労意欲、起業精神を日本に学ぶことを認識した上で

留学しているのとは異なり、単に、奨学金授受という経済的観点から日本留学を選択する

としたならば、日本留学の意義付けも異なるものとなろう。また、東方政策の留学生から

は、日本に留学することに対して各人が夢を描きにくいという声も一部きかれる。すなわ

ち、日系企業では、管理職には日本人しか昇進することができず、帰国留学生は通訳や現

場管理といった仕事に配属となり、帰国後、留学中にせっかく学んだ専門や技術を生かせ

ない職業に就かざるを得ないという場合が多いことが指摘されている113。もっとも、この

ような状況はあるものの、英米など欧米先進国への留学希望がある一方、引き続き日本へ

の留学希望が根強いことをふまえると、日本留学の今日的意義を、送り出す側と受け入れ

る側双方ともに今一度重視し直す必要があるといえる。 第二の課題は、マレーシアにおける予備教育で行っているレベルと、留学生が渡日後入

学することになる日本の大学教育レベルとの格差の問題である。前述のように、マレーシ

ア人学生は、授業態度は良いものの、受身的で応用力が弱いことが指摘されている。そう

した状況の中で、マレーシアでの予備教育では、日本語で大学の講義を受けられるだけの

レベルにまで学力を上げる必要があるわけだが、現実問題としてそれは相当大変である。

しかも、特に理科系の場合、高校と大学の間のカリキュラムには相当なギャップがあり、

日本人学生でもその隔たりをうめるのは至難の業であるだけに、マレーシア人留学生の場

合、いざ日本へ留学しても必ずしも良い成績を上げにくいというのが現状である114。なか

111 東方政策による元留学生同窓会における Za’ba Hj.Youn 氏(会長)、Jamaludin bin Karim 氏、Mohd

Nizam B.Mohd Amin 氏、Zamree Bakar 氏へのインタビューによる。(2003 年 12 月 12 日) 112 同上。 113 JBIC, Intercultural Management Sdn.Bfd., ‘New Strategies for Alumni Look East Policy Society’,

May 2003, pp.21-24. 114 マラヤ大学予備教育部日本留学特別コース(AAJ)での坂本守義団長、立花正副団長、男澤弘教諭、

千野司教諭、根元和昭教諭へのインタビューによる。(2003 年 12 月 11 日)

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80

には、大学入学後なかなか日本の大学生活に慣れず、途中で帰国する学生や、精神的問題

を抱えている学生、あるいはカウンセリングを必要とするようなケースもみられるように

なっている115。この点も、JAD プログラムで指摘されていた編入後の日本の大学の水準と

の格差という問題と共通する点である。こうしたことから、日本語教育ならびにそれと平

行して実際の科目の教授学習過程を相当水準まで引き上げるという実践は、2 年間という

期間で行うのは難しいというのが実態である。 さらに第三の課題として、マラヤ大学予備教育部における教員派遣制度の制約があげら

れる。日本からの教員派遣任期は 2 年間となっているが、この任期は、ようやく現地での

指導になれた頃に交代しなければならず、過去の経験の蓄積が十二分に伝えきれないまま

に次へ引き継がれることもあり、中途半端な感を免れないということが往々にしてある。

この点で、今後、指導実績の蓄積を後に残せるような方策を探るべきであるとの意見が出

されている116。教員派遣の問題では、学生数は急増したものの教員数が少なく、したがっ

て教師一人に対する学生数が増え、教育的効率が低下したこともあわせて指摘されてい

る117。以上述べたように、東方政策留学で指摘される問題点はいずれも JAD プログラム

と共通するものが多く、マレーシア国内と日本国内での連携を軸とした留学生政策につい

ては、その実践上の問題点をあらためて見直す必要があると考えられる。 JAD プログラムの課題については、プログラムの運営主体である日本側の大学コンソー

シアムが、JBIC 及びアジア科学教育経済発展機構(Asia Seed)ならびに現地日本大使館

広報文化センターと一緒にこれまでにもすでにたびたび「日本マレーシア高等教育大学連

合運営委員会」を開催し、運営実践上の問題点を話し合っている。その中で指摘されてき

た改善点としては、たとえばチューター制度があげられる。これはコンソーシアムを形成

している各大学より日本人大学生をチューターとして YPM に派遣し、JAD プログラムで

の実験や演習の際、教員のアシスタントとして活動するというもので、すでに実践に移し

ている大学からは、日本とマレーシアの学生双方にとってお互いに良い刺激を得ることが

でき、大変有意義な交流となっていることが指摘されている。チューター実習期間は 3 週

間程度のものから 4 ヶ月にわたるものと様々であるが、この制度の課題は費用の問題であ

り、航空運賃を学生の自費とするなど、日本人学生の負担とボランティアに頼って実施さ

れてきた。そのため、制度として定着させるためには財政的にどのような支援策が考えら

れるかが今後の課題となっている。 また、JAD プログラムの講義方法についても様々な工夫がなされている。JAD プログ

ラムでは、現地での教育のほか、日本から派遣される講師の集中講義が行われている。こ

れは、派遣教員の問題として、日本から長期に派遣されることが本務校との関係で難しい

こともあり、日本との連携のもとにプログラムを構成している好例であるが、こうした工

夫に加え、インターネットを利用した「仮想研究室構想」というアイデアも具体化してい

る。これは、JAD 学生と日本留学中の先輩学生がいる研究室が連絡をとれるような環境を

115 渡辺淳一「マレーシア政府派遣学部留学プログラム:現状、問題そして将来にむけて」、文部科学省高

等教育局学生課(編)『大学と学生』平成 15 年第 470 号(特集・留学生支援)、11 頁。 116 マラヤ大学予備教育部日本留学特別コース(AAJ)での坂本守義団長、立花正副団長、男澤弘教諭、

千野司教諭、根元和昭教諭へのインタビューによる。(2003 年 12 月 11 日) 117 渡辺淳一「マレーシア政府派遣学部留学プログラム:現状、問題そして将来にむけて」前掲論文、11

頁。

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81

設定し、マレーシアにいながら日本の様々な情報が得られるようにする制度で、JAD プロ

グラムが実践されているマレーシアの YPM カレッジバンギと日本のコンソーシアム大学

をより密接に繋ぎ、JAD プログラムの活性化を促すものとして期待されている。 以上、日本とマレーシア間の留学生政策としての課題を述べたが、何よりも根本的な問

題は、すでに第 1 節でも述べたように、政策開始から 20 年余りを経た今日、東方政策の

今日的意義をあらためて明確にする必要があるという点である。JAD プログラム関係者に

対する調査結果として明らかになったことは、対日留学生教育を積極的に推進する際に重

要なことは、留学交流プログラムを通じ、具体的にどのような人物を育成するか、あるい

はそうして育成された人材に、日本とマレーシアそれぞれの社会において将来的にどのよ

うな活躍を期待するか、さらにそのためにはどのような教育を行うべきかという点を明確

にすることの必要性である。マレーシア側は、東方政策継続の理由として、マハティール

前首相が重視していた日本型企業経営や労働倫理、勤労意欲、起業精神を学ぶことの重要

性を強調している。そして、東方政策のもとでの留学生政策の継続・拡充を引き続き推進

する方向で取り組みたいとする積極的な意向を示している118。 同時に、マレーシア側は、同じく東方政策の対象国として留学生を送り出している韓国

についても触れ、たとえば 2003 年度の場合、日本への留学生 200 人に対して韓国へは 72人を送り出した実績にもみるように、留学先としては引き続き日本を重視したいという意

向をもっているようである。その理由として、労働倫理や起業化精神を残している日本と

の交流により一層期待をかけているということであった。ここには、今日なお、日本から

の技術移転や経営管理方式の導入が依然としてマレーシア側の根強い日本留学観を支えて

いることがわかる119。 これまで長年にわたり行われた東方政策、ならびに JAD プログラムを含む HELP にお

いて、これまで、14,000 人余りにのぼる留学生や研修生の教育が行われてきた。こうした

留学生・研修生は、いわばマレーシアと日本両国の社会に精通した貴重な人材であり、両

者のパイプ役としてさまざまな場面での活躍が期待される。しかしながら、こうした人材

育成やその後のフォローについては、各プログラムがそれぞれ別個に取り組んできたケー

スが多く、日本とマレーシア間の留学生教育がネットワーク化されて総体的にとらえられ

てきたことはなかった。このことをふまえると、今後のマレーシアの政策展開においては、

前述のように、マレーシア側の積極的なプログラム継続に対する姿勢をうけ、複数の主管

官庁や政府組織がそれぞれ別個に取り組みを行うなかにも、相互の連携を図りながら集約

的な取り組みを行うことが必要とされよう。 このことは、日本側の対応にもあてはまる。東方政策の開始時点と比べ、マレーシア側

も、また日本側も、それぞれの社会状況が大きく変化した今、今日的意味をあらためて見

直す必要があろう。たしかに、マレーシア人留学生を毎年一定数輩出したことで、日本語

のできる知日家や親日家を育て、個人的な企業人を育てることに貢献した。この 20 年余

りの事業の継続性と、それを支えてきた日本とマレーシア両国の関係機関の努力は、大い

に評価されるものであると考える。今後は、そこで培われてきた人材育成と交流を、いか

118 東方政策の所管官庁である人事院東方政策担当 Mohd.Tajudin bin Don 氏へのインタビュー調査

(2003 年 12 月 9 日)ならびに YPM・HELP 担当者 Normawati Mahat 氏へのインタビュー調査(2003年 12 月 8 日)による。

119 同上。

Page 94: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

82

に両国間の、さらにはアジアを含む国際社会のネットワーク作りに生かしていくかという

ことが重要な課題になろう。この点に関連して、江渕一公(1997)は、日本における「大

学の国際化」を考える上で、従来のように、「国の政策や制度や組織など、国家の枠組みの

なかで展開する国際教育交流、すなわちインターナショナルな人物交流に」から、今後よ

り広い視野で、トランスナショナルな側面に注目し、「ヒトの流動化の一形態としての留学

生交流」という捉え方をすることの必要性を説いている120。こうした高等教育基金借款事

業としての留学生教育の蓄積を将来的に生かすためにも、今後は、両者間の高等教育基金

借款事業の今日的意義と方向性が今一度見直される必要があるといえるだろう。それは、

日本とマレーシアの両社会を繋ぐリーダーの育成であり、その潮流を作り出す作業である。

120 江渕一公『大学国際化の研究』玉川大学出版部、1997 年、268-269 頁。

Page 95: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

83

第 5 章 高等教育支援における留学生教育に対する提言 本報告書調査団 本報告書では、日本の対マレーシア留学生円借款プログラムに焦点をあて、マレーシア

ならびに日本のそれぞれの高等教育をめぐる状況がめまぐるしく変化するなかで、東方政

策の継続とそこでの高等教育基金借款事業(HELP)のあり方を検討した。以下では、は

じめに、マレーシアの高等教育の動向に鑑みて、今後、どのようなプログラム内容がより

効果的であるかを、主としてマレーシア側の状況に照らして提案し、そのうえで、日本の

高等教育・留学生政策においてもそれらがどのような意味を持つかを考察する。そして最

後に、高等教育基金借款事業を日本とマレーシア双方にとって有意味な双方向の留学生教

育として志向すべきであることを述べる。 5.1 マレーシアの高等教育政策と HELP の将来構想に対する提言 マレーシアの東方政策については、これまでの 20 年間の歴史を通じ、14,000 人余りの

留学生や研修生を受け入れることで、マレーシアの人材育成に貢献してきた。しかしなが

ら、前章でも述べたように、高等教育をめぐる状況が著しく変化するなかで、留学生教育

の位置づけと役割も異なってきている。こうしたマレーシアにおける留学交流をめぐる変

化は、今日のように長引く日本経済の不況のもとで、そもそも学ぶべき対象だった日本の

労働倫理観や雇用形態そのものが変化してしまっているという事実を重ねた時、一層重要

な検討課題となるといえよう。こうした事態を考慮することなしに、旧態依然の留学生教

育を行うことは、留学生送り出し・受け入れにかかる莫大な費用と人手を考えた場合、学

生を送り出すマレーシアにとっても、受け入れる日本側にとっても決して有意義な留学生

政策とはいえない。その意味で、今こそ、留学交流がもっている相互理解・交流と、相手

国とのパイプ役を育てるという目的をあらためて見直し、双方にとって有意味な留学政策

のあり方を模索する必要があると考える。 この点で、本報告書でとりあげてきた高等教育基金借款事業で模索されてきた JAD プ

ログラムは、いくつかの課題を抱えながらも、マレーシアの高等教育の動向をふまえつつ、

ツイニング・プログラムの導入を図ることで少しでも有意味な方向性を模索してきた事例

といえる。ツイニング・プログラムは、本来、日本留学にかかるコスト高を少しでも解消

するために導入されたものであるが、実際にそのプログラムが展開されるなかでは、マレ

ーシア側と日本側が双方向の協議を行い、その議論を通じてあらためて日本留学の意義付

けを問い直す実質的な作業を地道に行っており、日本留学の目的をあらためて明確にとら

えなおすグッド・プラクティスであるといえる。 こうした高等教育基金借款事業による留学生教育の展開を、今後より一層実り多いもの

とするためには、東方政策全体に共通して求められているビジョンの明確性をよりはっき

りとしたものとし、かつその成果をマレーシア社会に還元できるような構想のもとに、

HELP の活性化を進める必要があると考える。そのために、本報告書では、マレーシアの

高等教育の動向をふまえ、以下のような提言を行いたい。

Page 96: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

84

提言 1:ツイニング・プログラムの活用と日本国内における教育の重視 第 1 の提言は、JAD プログラムにおいて導入されたツイニング・プログラムの特徴を最

大限活用するとともに、日本国内における教育を重視するという点である。ツイニング・

プログラムの導入は、既述のように、欧米に比べて高い留学費用の軽減という点で大変有

効であり、その成果は大いに評価できる。特に、マレーシアの場合、ツイニング・プログ

ラムはすでに一般的に普及している高等教育プログラムでもあり、日本留学におけるツイ

ニング・プログラム導入という施策は、これまで経済的負担が制約となっていた日本留学

に関する関心を高める意味でも大きな意味がある。 しかしながら、そうした利点がある一方で、マレーシアでよくみられるフランチャイズ・

プログラムのように、国外での修業年限を縮小し、自国で 2 年間、相手国で 1 年間の履修

を行う「2+1」や、あるいは究極的には海外に行かなくとも自国内における 3 年間の履修

だけで相手国の学位がとれるような「3+0」といったプログラムの方向性については、日

本の高等教育基金借款事業としてのプログラムである限り、単に経済的コスト軽減という

意味だけで日本国内での教育年限を極端に短くするような施策は望ましい方向とはいえな

い。HELP ならびにそれを理念的に支える東方政策借款の目的の根本には、日本留学を通

じて、日本の労働倫理や起業家精神を学ぶという観点があり、それらは同時に、日本文化

や日本社会の構造や価値観・文化体系も含めて学ぶことではじめて身につくものであると

考える。そのことを踏まえた時、日本国内で学ぶ期間を短縮ないし全くゼロにして日本の

大学の卒業資格を取得したところで、果たして本来の目的が達成されたかどうかという問

題が起こるであろう。このことは、すでにマレーシアで一般化している他国との「3+0」プログラムにおいても生じている問題であり、留学を単位学位さえ取れればそれでよいと

するのかどうかという問題にもつながる点である。この意味で、日本国内における留学経

験という従来型の留学生教育の意義を今後再確認する必要があろう。 提言 2:HELP プログラムにおける私費留学生の受け入れ 次に、HELP プログラムを、政府給費生だけに限定するのではなく、私費で留学を希望

する者に外国人学生を含めその一部を開放することを考えてはどうであろうか。前述のよ

うに、マレーシアは今日、かつての留学生送り出し大国から受け入れ大国へとその留学政

策を大きく転換しており、アジア地域を中心とする各国からの留学生数も増えつつある。

マレーシア政府は、今後もますます留学生受け入れを積極的に進める方針であり、2010年までに 10 万人を受け入れる計画であるという。こうした傾向は、周辺諸国との留学生

教育の戦略をめぐる競合関係のなかで今後一層激化することが考えられる。たとえば隣国

シンガポールは、マレーシアが東南アジアにおける教育の拠点(Center of Educational Excellence)を目標としているのに対し、”Educational Hub”になることを標榜しており、

現在でもすでに人口 425 万人の 1.5%にあたる留学生 6 万 6 千人余りを擁しているが、西

暦 2012 年までに受入れ留学生数を 15 万にまで拡大するという計画を示している。そこに

は、世界トップクラスのビジネススクールの連携や、留学生に対する奨学金等のバックア

ップなどが含まれる。またシンガポールの場合には、高等教育段階にとどまらず、初等・

中等教育段階でもアジアの各国から留学生を受け入れている点も特徴的である。そこには、

留学生を受け入れることが国家経済の発展にも役立つという試算のもとに留学生政策を推

進しようとする戦略がある。

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85

同様の動きはタイ、ベトナムなど他のアジア各国にも見られるが、なかでも中国の高等

教育・留学生政策は、その規模と拡がりの点で大きな影響力をもっている。中国が取る留

学生送り出し政策ならびに受入れ政策により、そのほかのアジア諸国への中国人留学生の

流れも以前に比べて一層大きくなった。マレーシアについても例外ではなく、今日、マレ

ーシアの受け入れ留学生の約三分の一にあたる約 1 万人余りは、中国からの留学生である

といわれる。また、巨大教育市場としての中国は、今日すでに欧米各国の大学と様々な国

境を越えたトランスナショナルプログラムを展開するようになっており、なかには北京語

言大学のように、タイのバンコクに分校を設けて教育活動を国外で展開している例もみら

れる121。 こうしたアジア諸国の留学生政策の動きをふまえると、アジア諸国から集まってくる留

学生を含め、私費留学生にも HELP プログラムを開放すれば、マレーシアの留学交流にと

って有効な戦略となるのではないだろうか。すなわち、マレーシア以外の私費留学生にも

門戸を開くことは、HELP プログラムの拡充を促し、日本留学への関心と影響力を拡大す

るという点で有効である。これまでブミプトラの奨学生だけを対象としてきたのに対し、

私費で HELP へ参加する学生を募るということは、日本留学に熱意をもつ学生をマレーシ

ア内外から募ることができるからである。同時にそのことは、教育分野において、東南ア

ジアの知的拠点たらんとしているマレーシアにおいて、マレーシアにとっての高等教育の

拡充に繋がると同時に、日本にとっても、アジア地域における高等教育戦略の展開の糸口

とし得るものである。ただし、その際に留意すべきは、少子化の中で学生数を確保すると

いう目的のために、安易に留学生獲得に乗り出すことがないように、真の意味で留学交流

の意義を見出した上で行うという点であろう122。 同時に、こうして私費でプログラムに参加する学生を受け入れることで、学生の学習及

び留学に対する意識にも違いがでてくることが期待できる。すなわち、私費で HELP プロ

グラムに参加したいという意識の高い学生がともに学ぶことで、マレー系のブミプトラ学

生たちにも日本留学の意義を見つめなおす上で大きな刺激となると考えられるからである。 提言 3:大学院プログラムの拡充

第 3 の提案は、HELP で学ぶ教育レベルと内容について、従来の理工系の学部中心とい

う方針に加え、大学院プログラムの拡充を図るという点である。かつて、東方政策留学が

始まったばかりの 80 年代初期の頃は、マレーシア国内における高等教育の受け入れキャ

パシティはまだ少なく、国内の高等教育需要を満たすには物足りない状況であった。この

ため、東方政策留学でも、人材育成の観点から、主として学部レベルの高等教育需要を満

たすために、学部への派遣が重視された経緯がある。こうした状況は、HELPⅠが 90 年代

はじめに導入された際にも同様であった。しかしながら、すでに第 2 章でも述べたように、

121 中国の高等教育における諸外国との教育提携の実態については、王剣波『跨国高等教育与中外合作辧

学』山東教育出版社、2005 年 1 月に詳しい。 122 実際に、少子化の影響を留学生で補うことで補填しようとしていた東北地方の短大が、経営に行き詰

まり、とうとう文部科学省が同短大に対して解散命令を出したという例は、現在の日本の留学生教育

が一部では日本側だけの都合で進められている事実を象徴している。(「留学生頼みで破たん:安易な

運営抜け出せず」『朝日新聞』、2004 年 7 月 14 日付。)また、不法残留の留学生を多数在籍させていた

大学が、法務省東京入国管理局の指摘で留学生管理の不備を認めている例も、留学生政策を見直すう

えで大きな問題である。(「留学生管理不備認める」『朝日新聞』、2004 年 7 月 13 日付。)

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86

90 年代後半以降のマレーシアの高等教育の拡大、特に私立高等教育機関の激増には目を見

張るものがある。前述のとおり、東南アジアにおける教育の拠点を目指しているマレーシ

アの高等教育は、いまや学部レベルにおいては国内での需要を十分に受け止められるだけ

の量を確保しつつある。しかしながら、急増した私立高等教育機関の多くは、学士号では

なくディプロマまでを授与できるカレッジが大多数をしめており、学部卒の資格を得るの

は必ずしも容易ではない。ましてや大学院レベルの教育についてはまだまだ拡充が進んで

いない状況にある。こうした状況を踏まえた場合、これからは、質を重視した大学院教育

に対する需要が伸びることが考えられる。その意味で、HELP プログラムの今後の継続発

展を考える場合にも、その対象を大学院修士レベルまで拡大した HELPⅡのように、大学

院教育の充実をあわせて図るほうが、現実的なニーズにより合致すると考える。 同時に、今後、HELP のプログラムを、大学院に重点をおいたものとするという案は、

日本にとっても重要な戦略となるといえる。前述のように、今日のマレーシアでは、高等

教育機関が少なく高等教育需要が満たされなかった東方政策留学の開始時と比べ、国内の

高等教育機関数の増加によって、学部段階の教育需要にはある程度対応できるようになっ

た。大学院の拡充を優先するというマレーシア側の今日的事情を考慮することは、日本側

からすると、真にマレーシアと日本の間のパイプ役として、両国関係の間に立ちリーダー

シップをもった人材を育てることにつながる。特に、HELP プログラムの場合、対象とで

きる受入れ人数にも限りがあることから、大学院教育を重視することは、数的には決して

多くなくとも、以後、質的に高い人材を育てるという意味で有効であろう。 提言 4:産学連携による企業インターンシップ及びフォローアップの制度化 第 4 点目として、HELP プログラムを企業インターンシップと連携させ、マレーシア人

学生に日本企業の現場を体験させることで、労働倫理や精神、日本企業のシステム、さら

には日本社会のなかでの企業のあり方などを実体験をふまえて学ぶことのできるプログラ

ムの推進を提案したい。既述のように、マレーシアでは高等教育が急速に拡大しているが、

大学へのアクセスビリティの向上を待つばかりではなく、今後さらに「k-エコノミー」

(knowledge economy)の実現にむけ、理工系大学院の質の向上、ならびに理工系院生の

量の拡大が望まれている。マレーシアでは、これまでにも産学連携というかたちのもとに、

主として工学・技術・IT・科学分野でインターンシップが学位取得の一環として実施され

る場合が多く、そこには、奨学金の支給や産学協同研究も含まれてきた123。こうしたマレ

ーシア国内の事例を、今度は日本で計画し、HELP 留学生が日本に滞在中に、日本国内の

企業でインターンシップが経験できるように制度化すれば、東方政策の主旨により合致し

た学びの場となるのではないだろうか。 インターンシップの重要性は、東方政策の元留学生で組織されている日本留学経験者同

学会(Alumni Look East Policy Society、略称 ALEPS)でのインタビューのなかでも指

摘されている。留学を通じて単に知識や技術を身につけるだけでなく、企業の現場を経験

することは、東方政策本来の目的と合致するばかりでなく、留学後、実際に就職した際に

役立つからである。開発金融研究所が 2001 年に行った日本留学に関するアンケートのな

123 JBIC・開発金融研究所『高等教育支援のあり方―大学間・産学連携』、2003 年 5 月、JBIC Research

Paper, No.22, 101-102 頁。

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かで、すでに実施されている大学と企業の連携プログラム「U-I リンケージプログラム」

(University-Industry Linkage Program)についての感想を求めたところ、回答者であ

る ALPES 留学生 53 名のうち、まず参加した理由としては、実践的な知識を得るためと

いう回答が 75%と最も多く、次いで同プログラムに参加するのが卒業要件であったとから

という回答とともに、実務経験や技術を積むためのブラッシュアップといった意見がそれ

ぞれ 50%ずつよせられた。また実際にどの点で役に立ったかと言う質問については、勤務

倫理及び勤務姿勢が身についたという回答が 75%と最も多く、他に専攻分野での理解・知

識が広がった、専門的技術が身についた、共同研究を経験できた、企業との人的ネットワ

ークができたといった回答がそれぞれ 50%ずつであった124。ちなみに ALPES は、将来

的に自分たちの組織活動に期待する内容としても、ビジネスネットワークづくりや研修の

増加を多く期待しており、次いで起業のための資金コンサルタント、同窓生相互の交流を

あげている125。 ただし、インターンシップの連携とそれによる日本の労働文化の獲得が、時としてマレ

ーシアの労働文化と摩擦を起こす可能性もある。たとえば、日本企業でよくみられる深夜

まで会社に残って仕事をするといった慣行は、マレーシアの習慣にはそぐわない。この意

味で、マレーシア人留学生には、日本の企業でビジネスにおける日本スタイルを学ぶと同

時に、それをマレーシア社会で応用する場合に、マレーシアの現状にあった修正を行うこ

とが求められる。マレーシアの経済発展にとって核となるのは過剰労働や労働方針、効率

性といった観点ではなく、強い政治的リーダーシップや構造変革に対応できる力であり、

そのためには国の内外の様々な個々の価値観を学び取る必要がある。 さらに、インターンシップと同様に必要なのは、留学を終えた後のフォローアップであ

る。留学で学んだ知識や文化は、実際にそれを実生活のなかで使うことによってはじめて、

生き生きとした知識であり文化になるといえよう。東方政策や HELP の留学生の場合も、

日本で身につけた技術や知識を本国に持ち帰った際に、帰国留学生らがそれらを用いて社

会的・経済的活動を行うことができる環境整備が必要であろう。その場合には、インター

ンシップとフォローアップのいずれも、それらを調整する専門のコーディネーターも必要

となってくる。 このように、企業でのインターンシップを制度化することは、留学生にとって日本の企

業について現場で学ぶ良い経験になるばかりでなく、日本にとっても、将来必要とする人

材とコネクションをつくり、あるいはマレーシア人留学生がもっている特性を見極めてそ

れを企業活動に生かすきっかけが得られる。この点で、留学生が異文化マネジメントのカ

リキュラムを履修することも、マレーシア人と日本企業の間の溝をうめるのに役立つと考

えられる。日本とマレーシアの文化の違いや価値観の相違をふまえたうえでそうしたイン

ターンシップに参加することは、留学生にとっても、また企業にとってもこれまでたびた

び問題となってきた誤解や行き違いを少しでも少なくするからである。 こうした日本企業でのインターンシップが制度化されれば、他のプログラムと異なる

HELP の特徴として、日本の企業力を実際に日本で学ぶことができるという観点を具体化

124 JBIC・開発金融研究所『高等教育支援のあり方―大学間・産学連携』、2003 年 5 月、JBIC Research

Paper, No.22、付属資料:アンケート集計結果、ANNEX20-23 頁。 125 JBIC/Intercultural Management Sdn.Bhd., ‘New Strategies for Alumni Look East Policy

Society’, May 2003, p25.

Page 100: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

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できることになる。前述のように、フランチャイズ学位により、相手国に行くことなく国

内で学位がとれる「3+0」プログラムが一般化しているマレーシアにおいて、わざわざ高

い留学経費をかけてまで日本国内で学ぶという最大のメリットは、日本社会がもつ価値観

や労働観であり、それに基づく企業力といえるのではないだろうか。特に、現在のマレー

シアの産業構造を考えた場合に、そこで求められるのは、大企業がもつノウハウだけでな

く、むしろ日本の中小企業がもっている企業力であり、起業を支えるたくましいリーダー

シップであるといえる。 提言 5:HELP プログラムへの異文化マネジメントの導入 さらに、第 5 点目として、HELP プログラムの中に、異文化マネジメントの領域も含め

るべきであると考える。東方政策の元留学生の意見によれば、彼らの場合、留学を終えて

マレーシアに帰国し、日系企業に就職した場合、多くの者が日本人スタッフとマレーシア

の現地雇用者の間の調整役を任されることが多い。元留学生たちは、留学を通じて、日本

語の他、日本人とのコミュニケーションのとり方や慣行、社会的価値観や生活スタイルな

どを学んで知っているわけだが、日本流のやり方が現地においてマレーシア人の価値観や

行動様式との間でかみ合わなかった場合、どうすべきかということについてまでは学んで

いない。この点で、HELP の中でそうした異文化マネジメントのプログラムを学ぶ機会が

あれば、就職後も日本とマレーシアの間の異文化葛藤に対してリーダーシップを発揮する

ことができるであろう。 同様のことは、同じ帰国留学生でも欧米留学組と日本留学組では、マレーシア帰国後の

雇用形態が異なると言う点でも問題になっている。すなわち、欧米留学組にはより優位な

条件で企業に勤める者が多く、他方、日本を含めたアジアなど欧米以外の留学経験者は、

雇用機会や条件などの点で差をつけられることが多いといわれる。これは、欧米留学組が、

個人主義的で能力主義に応じた公平・平等な評価に慣れ親しんでいるのに対し、日本留学

組は、人間関係を重んじ、かつ物事を丸くおさめようとする傾向が強いからであるといわ

れる126。 こうした意味では、これまでも指摘されてきたことだが、異文化接触で重要となる「異

文化間能力」の養成ということも視野に含めることが今後一層重要になろう。異文化教育

の分野では、こうした能力は、「カルチュラル・アウェアネス」(自文化への理解、非自民

族中心主義、外国文化への興味)、「自己調整能力」(寛容性、柔軟性、オープネス)及び「状

況調整能力」(コミュニケーション、マネジメント、判断力、対人関係、知的能力)に分け

られ、これら 3 つの能力に共通するのが感受性であるというひとつの見方が示されている127。

このように異文化教育の分野での研究の蓄積を実践に結びつけ、それを留学生政策の中で

活用することで、単に技術や知識だけを習得するのとはまた違った留学生教育のあり方が

可能になるのではないだろうか。

126 Diversity Strategies Sdn.Bhd.代表の河谷隆司氏へのインタビュー(2003 年 12 月 9 日)ならびに、

マレーシア現地で人材派遣会社 JAC Recruitment Sdn.Bhd.の末次隆夫氏、伍家華氏へのインタビュ

ー(2003 年 12 月 10 日)による。 127 山岸みどり・井下理・渡辺文夫「『異文化間能力』測定の試み」渡辺文夫編『現代のエスプリ』299(国

際化と異文化教育)、至文堂、1992 年 6 月、201~214 頁。及び、横田雅弘「在日留学生への異文化オ

リエンテーション・プログラム」渡辺文夫編『現代のエスプリ』299、同上書、109~117 頁。

Page 101: JBICI DISCUSSION PAPER No - JICA

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5.2 マレーシアに対する高等教育基金借款事業と日本の留学生政策 マレーシア政府は 2004 年に HELPⅢの要請を日本政府に提出した。HELPⅢ要請に際

し、マレーシア側が同プログラムに求めているのは、従来の HELPⅠ及び HELPⅡの成果

を認めた上で、引き続き日本へ留学することであり、研究開発や科学技術分野のリーダー

を育てることにあるとしている。なかでも注目すべきは、試案の段階で、HELPⅡまでに

実施されてきた大学院修士レベルの留学に加え、博士レベルも視野に含めるとしているこ

と、ならびに「3+2」のツイニング・プログラムを提案していることである。すでに述べ

た提案にも含めたとおり、マレーシア側が学部にとどまらず、今後は大学院の博士課程ま

でを視野にいれている点は大変興味深い。このことは、留学生送り出し大国から留学生受

入れ大国へとその位置づけを大きく変えようとしているマレーシアが、さらに円借款によ

り、あえて日本とのツイニング・プログラムを継続しようとするのは、引き続き日本の高

等教育に対し、次世代リーダーの養成を期待しているからであることを示している。日本

の企業家精神や勤労倫理など、マレーシア側が HELP を通じて日本へ期待していることは、

東方政策が当初から目指してきた構造そのものである。 しかしながら、本報告書で論じてきたように、ポスト・マハティールの時代となり、マ

レーシア側の高等教育構造が東方政策が始まった頃とは大きく変化した今日、HELP のよ

うな高等教育基金借款事業が果たすべき役割には、従来の留学生教育に無かった点として

見落としてはならない点があると考える。それは、HELP が国際教育協力のひとつであり、

しかもそれは一方向的なものではなく、関係国双方にとって意味があるものとなってはじ

めて、真に社会に貢献できる人材を育てるプログラムとなるという点である。そのことは、

HELP が単なる留学生送りだし・受入れ制度ではなく、留学生を通じた草の根的な国際交

流であるという観点に立った時、一層重視されるべき課題である。 従来、高等教育基金借款事業を含む国際教育協力の分野では、援助国から被援助国への

流れが重視され、そこでは常に「与えるもの」と「与えられるもの」という関係が目に付

きやすかった。東方政策留学をふりかえっても、その当初の目的は、マレーシア側が日本

や韓国の労働形態や起業家精神を学ぶというものであり、もっぱらマレーシア側にとって

の有意味性が重視されてきた。しかしながら、HELP の JAD プログラムにおけるツイニ

ング・プログラムのように、相手国との提携や協力あってはじめて実現が可能になってく

るカリキュラムの場合は、単に一方が相手国に知識や技術を求めて学びに行くというので

はなく、双方が事前に教育内容を調整したり、あるいは教員を派遣しあうなど、必然的に

両者が対等な立場にたち、双方向に情報を交換したり、あるいは調整を図る必要がある。

その際には、双方の国の高等教育ならびに留学教育政策もふまえ、自国の利益だけでなく、

相手側の立場に立つことも求められよう。そうした相互の交流があってこそはじめて、より

質の高い、かつ魅力にあふれる国際教育としての高等教育が実現できるのではないか。そ

のことは、OECD で検討が進められつつある「世界的な大学の質保証ネットワーク構想」

や、ユネスコ総会と経済協力開発機構(OECD)理事会で検討が進められつつある「国境

を越えて提供される高等教育の質保証に関するガイドライン」などにより、各国・地域の

高等教育が「世界標準」のもとに位置付けられようとしている今日、高等教育の質拡充を

図る上でも重要な視点であるといえよう。 それはまた次のように言い換えることもできる。すなわち、今後の東方政策や HELP に

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よる留学は、従来のように、日本の企業家精神や理念・技術を学ぶことだけにとどまらず、

マレーシアと日本の間の文化的差異を乗り越える意味から、それぞれの文化の差異にどう

適応し、相手を理解し、どう自分の問題として考えていくことができるかという適応調整

能力であり、マレーシアと日本の双方にとって身につけていくべき重要なスキル獲得のプ

ロセスである。留学を通じた教育内容が、そうしたより深いレベルにまで達してこそ初め

て、留学と言うことの本来の意味づけがなされるといえる。 以上のように考えるとマレーシアの高等教育・留学政策に対するマレーシアへの円借款

事業、HELP のもつ最大の意義は、マレーシア側にとっての人材育成政策や、日本側にと

っての高等教育戦略の見直しと同時に、双方向の国際教育協力のあり方を提示し、自国と

相手国双方がともにそれぞれの発展を支えあうような協力関係を演出できるという点にあ

るといえよう。言い方をかえれば、そうしたお互いに学びあい、支えあうような関係をマ

レーシアと日本がそれぞれ意識した上で交流を進めてこそ、パートナーシップに支えられ

た国際教育協力関係が成立し、人材育成に携わる留学生教育が実現できると考える。

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JBICI Discussion Paper Series

Number Author(s) Title Date

1 Eiji Ogawa The US Dollar in the International Monetary System

after the Asian Crisis 2/2002

2 Sayuri Shirai Banking Sector Reforms in India and China: Does

India's Experience Offer Lessons for China's Future

Reform Agenda?

3/2002

3 Takatoshi Ito Is Foreign Exchange Intervention Effective?: The

Japanese Experiences in the 1990s 6/2002

4 Sayuri Shirai The Impact of IMF Economic Policies on Poverty

Reduction in Low-Income Countries 8/2003

5 Eiji Ogawa

Kentaro Kawasaki Possibility of Creating a Common Currency Basket for East Asia

9/2003

6 Eric Hillebrand

Gunther Schnabl

The Effects of Japanese Foreign Exchange Intervention: GARCH Estimation and Change Point Detection

10/2003

7 Keisuke Orii A New Regression Approach to Early Warning

Systems: With Emphasis on Different Crisis Types

between East Asia and Latin America

12/2003

8 Shigeru Ishikawa Supporting Growth and Poverty Reduction: Toward

Mutual Learning from the British Model in Africa and

the Japanese Model in East Asia

3/2005

9 黒崎 卓 一時的貧困の緩和と円借款への期待 1/2006

10 杉村美紀

山田 満

黒田一雄

マレーシアの高等教育における日本の国際教育協力 6/2006

Discussion Paper 及びその他の刊行物は、国際協力銀行ホームページからダウンロードす

ることができます。

http://www.jbic.go.jp/japanese/research/

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本 Discussion Paper は、国際協力銀行における調査研究の成果を内部の執務参考に供するとともに

一般の方々に紹介するために刊行するもので、内容は当行の公式見解ではありません。

発行 国際協力銀行 開発金融研究所 〒100-8144 東京都千代田区大手町1丁目4番1号 TEL: +81-3-5218-9720 FAX: +81-3-5218-9846 E-mail: [email protected]

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ISSN 1347-9148