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卒業論文 先住民族~ニュージーランドのマオリ族~ 国際学部国際学科 20627003 赤堀由貴 牧田東一ゼミ 1

先住民族~ニュージーランドのマオリ族~...1.序章 先住民族についてそれほど深く興味をもったことのない筆者が、このテーマに決めた主

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卒業論文

先住民族~ニュージーランドのマオリ族~

国際学部国際学科 20627003 赤堀由貴

牧田東一ゼミ

1

目次 序章・・・・3 ページ 第 1 章 ニュージーランドの歴史・・・・5 ページ 第 1 節 マオリの起源 第 2 節 ワイタンギ条約 第 3 節 都市のマオリ 第 2 章 各国の先住民―ニュージーランド・カナダ・オーストラリア ・・・・11 ページ 第 1 節 先住民の定義 第 2 節 比較考査 第 3 章 国際法との比較―マオリの実情・・・・22 ページ 第 1 節 比較考査から各国の先住民の特徴 第 2 節 国際法の定めるもの 第 3 節 現在のマオリ 終章・・・・30 ページ 参考文献・HP・・・・31 ページ

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1.序章

先住民族についてそれほど深く興味をもったことのない筆者が、このテーマに決めた主

な理由は、2008 年のニュージーランドへの留学経験である。そこで大きな影響を与えられ、

また多くの疑問を感じた。筆者はニュージーランドについて下調べなどあまり行わずに現

地に行ったため、現地について数日後、初めてマオリという先住民族の存在を知った。筆

者がスーベニアショップでアルバイトをしていた時に初めて、「マオリ」に関するさまざ

まなグッズを目にしたのがきっかけである。その店ではマオリ語の本、ポストカード、マ

オリの民族衣装を身にまとった人形などさまざまなグッズを取り扱っていた。観光ツアー

にも「マオリ村観光」など、ニュージーランドで先住民族マオリは観光業の一部となって

いる。また、マオリが戦いの前の儀式として行っていた伝統的な踊りは、現在ラグビーの

試合を始める前に行う「ハカ」として非常に迫力があり、一つのパフォーマンスとして有

名である。

筆者が滞在していた場所はニュージーランドでは最大の都市と呼ばれるオークランドで

あり、移民が最も多く住居する都市といわれている。たしかに多くの移民を見かけていた

が、筆者が滞在中、マオリ人を日々の生活の中で見かけることはほとんどなかった。筆者

がカフでアルバイトをしていたとき、そのカフェの周りはビルが立ち並ぶビジネス街で、

お客としてくるのはスーツを着たビジネスマンが主だったのだが、その多くはヨーロッパ

系の白人、またはインド人、中国人だった。観光業では有名なマオリだが、普段の生活の

中で彼らはどのような立場におかれているのだろうかと筆者は疑問を感じた。

しかし筆者の友人はニュージーランドに滞在中、マオリの友人も多く、よく彼らを見か

けていた。友人の話によるとマオリ族は普通に現代の社会の中で生活し、近代的な生活を

送っているという。文献をいくつか読むなかで確かにマオリは現代の社会の中に馴染み、

大きな問題もなく暮らしているということが分かった。しかし、次の文献ではこのように

述べている。「マオリは、世界の先住民のなかでもっとも近代化した民族といえるであろ

う。一見、ニュージーランド国家の構成員として馴染んでいるかのように思われる。けれ

ども、マオリあるいはマオリ社会の根底にはそれ特有の矛盾を抱え、マオリ文化とヨーロ

ッパ文化との関係は表面的な理解ではすまされない[平松 2000:9]。」一見社会の中に溶け

込んでいるように見え、何の問題もないように見えても、実際のところを理解するにはや

はりさまざまな資料・文献から調査する必要があると考え、筆者はこのテーマに決めた。

この論文では、国際法で定められている世界の先住民族の権利をベースにし、ニュージー

ランドの先住民族マオリについて研究していく。研究内容としてまず、第 1 章でマオリの

起源・歴史を明らかにし、第 2 章でマオリの現状(人権・雇用・教育など)を世界的な現

状と比較する。比較の対象とするのは、先住民権について進んでいるカナダのネイティブ

カナディアン、同じオセアニアとして隣国するオーストラリアのアボリジニーとする。第 3

章で、比較の結果で見えてきた問題に対し、その違いについて課題を掘り下げていく。終

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章で結論とこれからの課題をまとめる。このテーマを研究することで、先住民族の歴史・

現状を理解し、先住民族の実態を明らかにすることが目的である。それと同時に先住民族

について理解した上で、現地で彼らと接する機会がある際に、個人レベルではあるが、こ

の研究によってよりよい関係を築けることも目的とする。

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第1章 ニュージーランドの概要

第 1 章では、マオリがどのような経緯を経て現在のような状況に置かれたのかについて、

まずマオリの起源・歴史について明らかにしていく。そこから、現在にまでつながる問題

や、彼らを不利な立場にしてしまった原因などを突き止めていきたいと思う。 まず、ニュージーランドの基礎情報として、2009 年 6 月に行われた NZ 統計局の推計に

よると人口は 432 万人。そのうち先住民マオリ系・アングロサクソン系は約 64 万 3 千人で

全体の 15.1 パーセントである。公用語は、英語とマオリ語である[外務省ニュージーランド

HP 2009, 12.6]。

第 1 節 マオリの起源 マオリはニュージーランドのことを「アオテアロア」と呼んでいる。1991 年の統計によ

るとマオリはニュージーランド総人口300万人余のうち12~13パーセントを構成している。

マオリの歴史は約一千年前にさかのぼり、マオリが東ポリネシア諸島からカヌーでアオテ

アロアにやってきたことから始まる。マオリが 14 世紀半ばにやってくる以前に、ポリネシ

ア民族のモリオリ族という少数民族が存在していたが、彼らはマオリとの戦いによって消

滅の一途をたどり、1933 年に最後のモリオリ人が亡くなったことにより、モリオリ族は現

在では存在しない。マオリは樹木や岩、水などの自然には霊的な源や力が宿っていると信

じ、作物を栽培するなどして部族ごとに暮らしていた[平松 2000:11-15]。 1769 年、ヨーロッパからキャプテン・クックがアオテアロアに上陸し、それをきっかけ

に 1815 年頃からヨーロッパとの交流が始まる。彼らの多くは、アオテアロアには船の製材

に適した、丈が高くまっすぐな樹木が大量にあるとの情報を聞きつけ、豊富な木材、また

鯨油などを目的にやってきた。しかし白人との接触により起きた影響は、それまでマオリ

の間では全くみられなかったインフルエンザや結核といった西欧の病気の拡大である。さ

らに 1820 年のヨーロッパの文明移入と交易の始まりにより、マオリ社会を戦争・無法状態

へ導いた[同上 15-16]。 当初マオリは、ヨーロッパ人の到来について比較的友好的に捉え、隣国であるオースト

ラリア、ヨーロッパにも関心を持った。しかし、ヨーロッパ人により輸入されたマスケッ

ト銃によって、マオリの本拠地北端のアイランズ湾地域で 1820 年から 30 年にかけ、無政

府状態が続いた。当時、アイランズ湾地域では勢力を伸ばしている北部と南部の二大部族

連合が存在していた。これらの部族連合間の土地戦争・主権争いをもとにした内戦は、マ

スケット銃により当時 4 万人を超えるマオリを死に追いやった。マオリの各部族は自分た

ちの防衛のため、また敵に対して用いるためにも銃を獲得したため、争いの規模は急速に

拡大していったのである。このようなマオリ部族内での戦争・無法状態のなかフランスか

らも探検家が上陸したが、内戦の壊滅的な打撃で弱体化したマオリはこのフランスに脅威

を感じ、イギリス国王に保護を求めた。その結果、イギリスからの宣教師がマオリ保護の

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道徳義務を要請し、また、マオリ社会の平定が示唆され 1834 年に、イギリス国王から「マ

オリ旗」が贈られ、イギリス国王によって彼らの権利が認められた。[同上 17-18] その 1 年後、1835 年 10 月にマオリ「独立宣言」がなされた。この独立宣言は、北島の

マオリ主権を確認した国際的宣言であり、故にニュージーランド近代史の始まりでもある。

マオリのリーダーたちはこの独立宣言に対し、文明国家であるイギリスが彼らの独立に友

好的に支持してくれると期待したのだが、この独立宣言時に既にイギリス型国家形成のも

くろみがあった。なぜなら、部族社会であるマオリにはアオテアロアの地の一元的な「国

家」形成というのは無理であったため、主に北島部族の一部のみの国家を展望するにすぎ

なかったからだ。これらは、フランスからの脅威に対応するための措置であり、イギリス

が形成する近代国家つまり植民地化への一歩だった。19 世紀以降の経過について、本書で

は次のように要約している。[同上 18-22]。

① マルクス的経済的理解 アオテアロアの資本主義化は、先ず、1840 年前後のイギリス資本主義との

接触を始まりとする。しかし、その頃パケハ1人口は 2 パーセント弱(2 千人

弱)にすぎず、資本主義体制が整ったとはいえない。その後しばらくのマオ

リ戦争の時代も、単なる略奪の時代であったといえる。 1858 年にパケハとマオリの人口が逆転し、私的所有制度・資本主義的生産

が展開し、資源からマオリを分離する法と強制力がイギリス型資本主義国家

としてのニュージーランドを確固たるものにした。 そして、今日まで、いわば新植民地時代といえる資本主義的インフラの展

開によって、マオリ社会は一気に崩壊していく。 ② ウェーバー的社会的政治的理解

マオリ社会の資本主義化は、19 世紀後半期の植民地化とともに進行した。

土地は豊富であったが労働力が十分でないことから、地方で農本主義が展開

し、イギリス型の法がその制度的支えとなった。 それより先、イギリスから来た宣教師は、先住民マオリをキリスト教化す

ることによって、マオリの市民化をもくろんだ。それは、必ずしも「アオテ

アロア」を植民地にするところではなかったが、結局は、マオリの市民化を

柱とする資本主義化と植民地化の始まりを意味した[平松 2000:22-23]。

1 非マオリまたはヨーロッパを問わず、マオリ以外の独自の価値や文化をもつ構成員を意味

する

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第 2 節 ワイタンギ条約 「ワイタンギ・デイ」とは、マオリと白人が和解した日としてニュージーランド最大の

祝日である。しかし、ワイタンギ条約には次のような歴史があり、これは現在に至るまで

さまざまな議論の争点になっているのである。そこで、なぜワイタンギ条約がお互いの同

意の上で結ばれたにもかかわらず現在も論争の争点になっているのかについてみていきた

い。1840 年 2 月 6 日、ワイタンギ条約締結時、「アオテアロア」から「ニュージーランド」

にするためにマオリとの話し合いを決定したイギリス国王の代表は、副総督が提示した和

合案についてマオリの首長たちとの話し合いを行った。マオリはイギリスとの友好関係、

マオリ族の中での部族統率力の強化、土地売却の歯止めになることを願い、期待しこの条

約に署名した。下記がワイタンギ条約の一部である。

第一条 酋長が主権者として行使していた権利と権限を、イギリス女王に割譲する。 第二条 イギリス女王は、マオリが所有する土地・森林・水産資源を保障する。

それら土地・森林・水産資源に対する「排他的先買権」を女王に認める。 第三条 女王は、マオリを保護し、英国民としての権利と特権をマオリに授ける。 (第四条)信仰の自由 [平松 2000:27]

要するにこの条約は、全てのマオリ族は英国女王の臣民となり、ニュージーランドの主

権を王冠に譲るものである。 マオリの土地保有権は保障されるが、それらの土地は全てイ

ギリス政府へのみ売却され、マオリはイギリス国民としての権利を認められる、という内

容である。しかしこれらの条約について、文化・言語の違いなどからイギリス側とマオリ

側に微妙な違いが生じていたのである。そして、その相違点が土地権に深く関係している。

先ず「主権」であるが、英語の sovereignty 割譲は、領土の統治権がマオリからイギリス

に移行することを意味する。しかし、マオリ語の kawanatanga という言葉を使用すると、

統治者はイギリス国王であるが、酋長の部族的な権限は残すということを意味する。つま

りこれについて、マオリたちは、マオリの「アオテアロア」からイギリスの「ニュージー

ランド」になるといったことは考えていなかったのである。さらに、英語版にでている「所

有の保障」はマオリ語版では「土地への主権」となりこれは、マオリが希望する限り存続

する、という意味になる。「権利」についても、マオリにイギリス市民権が与えられるのは

確かであるが、マオリの義務・法を適用するのかといった点が不明である[同上 23-29]。

このようにワイタンギ条約には曖昧性があり、当時のイギリスの首相は、この国に限り

堅い拘束はなくワイタンギ条約を良き関係の基礎と言っている。ワイタンギ条約締結後、

マオリは積極的にヨーロッパ文明を取り入れ、ヨーロッパ型の学校の建設・マオリ農業へ

の技術移入も行われた。1858 年にはかなりの移民が増えたため白人人口がマオリ人口を上

回り、国中のいたるところでマオリと移民者との間で衝突も起きたのだが、この移民によ

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りマオリ人の間で文字の読み書きの急速な広まり、新しく持ち込まれた作物の栽培の成功

など、物質的に恩恵を受けたのは確かである[同上 29-30]。

このころ、侵入者による武力的な土地あさりを規制する意図をもって締結されたワイタ

ンギ条約に基づいて、政府はマオリから土地を買収する方針をとっていたのだが、これは

買収というよりも収奪であった。しかし当初、マオリはイギリス側の意味する「土地所有」

の概念についてよく理解していなかったため、後にそれが「土地の永久放棄」と気づいた

とき「マオリ戦争」へとつながったのである。マオリ戦争のきっかけとなったのが「第一

次タラナキ戦争」であるが、これはイギリス総督がマオリの売買禁止令を無視し、一部の

小部族長からの土地売却を受け入れたことをきっかけに始まった[同上 30-32]。

マオリ戦争について詳しくみていくと、イギリスの土地買収に対する抵抗運動そして主

権を争うものであるのが分かる。1858 年、イギリス法令でイギリスの基本法であるコモン

ローがニュージーランド法であるとされ、次に定住法や植民地化法が制定された。また、

国王特許状による裁判所・治安判事・行政の整備が行われるなど、イギリス植民地化とし

ての「ニュージーランド」が徐々に確立されていた。それに加え 1863 年の原住民土地法2

によってイギリスによるマオリ支配が決定的にされた。これはワイタンギ条約の曖昧な部

分であり、白人に都合の良い解釈を施したのである[同上 31-32]。

その後 1863 年から 1864 年にかけ「ワイカト戦争」が起こり、その後も 64 年から 67 年

の間に、土地没収と軍事的定住に関する民族戦争が各地で起きた。このような争いの後、

政府がその部族を罰則するために部族の土地を没収することを決めた。その結果 1600 万エ

ーカーの 40 パーセントが法的正当性を持って買収され、マオリに残った土地は国土の一割

になってしまった。ほとんどの土地を失ったマオリの多くはその後、季節労働者となり、

貧困・悪住宅・悪健康に陥ってしまった。その当時、マオリは消滅するであろうと考えら

れていたが、そこで消滅しなかったのは白人との同化が根源にある。イギリスによる、マ

オリ部族共同体とその文化、習慣を壊す「同化」政策が推進され、またマオリ自体も白人

の生活スタイルに影響されることで近代的な技術が導入され、一部では経済的改善がみら

れた[同上 31-36]。

このような状況の中で、1890 年代にマオリ独立運動が展開した。独立運動の一つであり、

政治運動にまで展開した自治権取得運動である「コタヒタンガ運動」は、白人政府に敗れ

てしまうという結果になったが、特に若いマオリに刺激を与え、「キンギタンガ運動」へと

発展することになる。この運動により、マオリ王国独自の二院制議会と内閣が設置され、4

2原住民土地権原制度によってマオリ土地の所有権・売買を認め、マオリの共同体的所有制

度を廃止し、酋長・部族長を所有者とし、彼らが部族メンバーに相談することなく自由に

処分できることを認める

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歳以上の者に人頭税を課して「アオテアロア王国」づくりのための財政制度も検討された。

しかし、「アオテアロア王国」の樹立に関しては、財政難などにより現実となることはなか

った。そのため、白人に同化せざるをえなかったマオリは、1890 年代からの「青年マオリ

党運動」により自立から同化が決定的となった。この運動は共存というかたちでマオリ部

族社会の解体をもたらすが、マオリの近代化に大きく影響する。この運動の指導者の多く

はマオリと白人との混血であり、彼らはマオリ伝統とヨーロッパ文明を結びつける共存運

動を始め、青年マオリ党のリーダーは国会議員になることでマオリの法的地位の向上と近

代化に貢献した。マオリ戦争後から今世紀にかけて、ニュージーランド国家の形成はマオ

リと白人との同化が中心となっている[同上 36-39]。

第一次大戦後、「ラタナ運動」というマオリによる新しい民族運動が展開した。この運動

は主に信仰運動であるが、信仰や病気治癒だけでは根本的な救済にはつながらないとして、

マオリ救済のため政治的運動へと発展したのである。このラタナ派は国政選挙で、マオリ

票の半数を獲得し、4 つのマオリ議席を独占した。また、1935 年の総選挙後には労働党政

権誕生に力を貸しているのだが、この労働党政権にラタナ派議員が官僚として加わったこ

とによりマオリ政策の新しい扉を開いたのである。マオリ貧民救済法、マオリ社会経済促

進法が制定され、マオリの住宅・雇用・健康・教育の改善が国家事業として扱われるよう

になった。1940 年代の新しいマオリ政権と、第二次世界大戦でのマオリの活躍は大きく、

白人との調和の時代とも呼べるほどであったのだが、しかし実際にはマオリにはわずかな

土地しか残されていなく、民族としてのアイデンティティの確立からは遠い状況に置かれ

ていた。ワイタンギ条約は白人によるニュージーランド形成の神話として機能したのであ

る。これらの歴史から、ワイタンギ条約がマオリの生活に影響を及ぼしたのは確かであり、

白人によるニュージーランド国家形成の起源と考えられる。また現代にまで続く土地問題

もワイタンギ条約が深く関係していると考える[同上 40-41]。

第 3 節 マオリの都市化 マオリの都市化の要因として挙げられるのが、第二次世界大戦である。第二次世界大戦

後マオリ兵の多くは、都市・田園計画法によるマオリ土地開発への制限により、追われる

ように都市に移動し、25 パーセントのマオリが都市労働者になったのである。また 1947年頃からマオリは“Native”から“Maori”と呼ばれるようになった。その背景にあるのが、

マオリの都市化に伴う白人との格差であり、それは都市社会における「マイノリティ」と

して新たな状況を迎えたことを意味する。それは単に少数民族というだけでなく、本来都

市民ではないマオリが都市の底辺に追いやられたという意味でのマイノリティである[平松 2000:42-43]。

1949 年、国民党政権のポーランド首相はマオリの同意なしに、同化よりもさらに徹底し

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た統合政策を打ち出した。また 1960 年、都市化したマオリ問題について議会委員会報告書

が提案した統合政策は 60 年代の国民党政権の基礎となった。これらは、マオリの現代化を

はかるための教育の充実を柱としたものであったが、マオリは知的に遅れていて現代国家

にはなじまないという差別的な政策であった。また、統合政策は後にマオリ関係の法律と

なって次々と展開することになる[同上 43]。 1953 年、マオリ問題法はマオリ問題省を設立しマオリ土地の商業化を意図した。続いて

1962 年、マオリ共同体発展法はマオリ問題について政府に助言する「ニュージーランド・

マオリ評議会」を設立し、都市化したマオリ若者の部族文化離れを促進した。このような

統合化に対する抵抗はワイタンギ条約における土地返還デモとなり、これは今日でも続い

ている。さらに、1980 年代に 80 パーセントを超えるマオリ人口の都市化によりマオリに

関する諸問題が一層浮上したため、それに対応する人種関係法が制定され、格差を緩和す

る人種関係調停員制度が敷かれた。このような経過を経て、国民党政権は 1975 年、改めて

マオリ若者の教育による同化に力を入れ、マオリ評議会も伝統より教育を重んずるとし、

同化への方針を支持した[同上 44-45]。 しかし、転換するマオリ政策とマオリ内部の複雑な状況は時に、同化政策に対抗するマ

オリの抵抗を過激なものにした。このような状況の中、白人もマオリも同じ地位に置く方

向を理念とし今日まで路線を敷いてきたのは行革路線である。行革に手をつけた労働党政

権は改めて共生主義政策を宣言し、全マオリ部族代表を集めマオリ経済サミットを行うと

いった新しい政策を打ち出した。これらの共生主義はマオリに対する社会的経済的サービ

スを部族共同体に回し、マオリについての国家責任を回避する方向で行われる。こうして、

ワイタンギ条約を根拠にするマオリ資源とマオリ自決権の復活がはかられ、またそれはマ

オリの経済的自立を促す政策であり、その基盤形成にとって必要な「富の再配分」の対象

をマオリ共同体に求めるものである。マオリの世界は、白人が主導権を持つ政治社会の中

で、部族の伝統、対白人の抵抗・自立運動を踏まえた各様の思想的政治的システムから成

り立っているのである[同上 45-46]。

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第2章 各国の先住民―ニュージーランド・カナダ・オーストラリア 第2章ではまず先住民とはどのような人たちのことを呼ぶのかについて明らかにし、そ

の上でマオリとアボリジニー、ネイティブカナディアンとを比較考査していく。 第1節 先住民の定義 以下の定義は、国連人権委員会の付属機関である「国連先住民族に関する作業部会」に

よって採択された。これらは、植民地化されたアメリカ・太平洋の先住民・アジアの部族

民を含む。 「先住民とは、別の地域から異文化、異なった民族的起源を有する人々がやってき

て、地元住民を支配、定住その他の手段によって圧倒し、彼らの人口を減少させ、

非支配的な立場、もしくは植民地的な状況へ追い込んでしまった時代に、現在の居

住地域かその一部地域に生活してた人々の現存する子孫たちのことである。先住民

は現在、主として支配的な人々の集団の民族的、社会的、文化的特徴を取り入れた

国家構造のもとで、彼ら自身を取り込んでしまっている国家の諸制度よりはむしろ、

彼ら自身の社会的、経済的、文化的習慣や伝統に従って生活していることが多い。 彼らは、異文化や異なった民族的起源をもつ他の集団がその地へやってきた時代に、

国内に住んでいた集団の子孫である。 国民の他の部分から隔離されているため、彼らは祖先からの習慣と伝統をほとんど

無垢のままに保存してきた。それらは「先住民」として特徴づけられているものに

類似している。

彼らは、少なくとも形式上は、自分たちとは無縁の民族的、社会的、文化的特徴

を取り組んだ国家構造の下におかれている〔ジュリアン・バーガー 1992:12〕」

先住民の権利とは 第一次大戦後、ヴェルサイユ体制の下でマイノリティ(少数者・少数民族)の権利に関

する国際的な権利保護制度が確立された。現在の国際人権法も、マイノリティに属する個

人の権利という形で先住民の権利についてある程度の保護を守ってきたのだが、ここで先

住民の権利という場合、西欧型の人権と先住民族の権利の考え方を区別する必要がある。

西欧型の人権=個人の人権だが、先住民族の権利=集団的権利として主張されることが多

く、先住民の集団が民族として自決権の主体となり、自分たちの生活にかかわる意思決定

に参加するという考え方がある。先住民の人権問題は、抽象的な個人の権利ではなく集団

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的権利としてみる必要がある[平松 2000:107-108]。 国際法上、先住民の権利を承認した最初の条約は、1957 年に採択された ILO の 107 号条

約「独立国における先住民、種族民及び準種民族の保護と統合に関する条約 [平松 2000:109]」である。また、1989 年には国家の意思決定への先住民の主体的な参加に重点が

置かれた 169 号条約「独立国における先住民及び諸民族に関する条約[平松 2000:109]」が

採択された。現在はこの2つの条約が先住民の権利を対象とした国際文書である。また 1972年ごろから、世界各地の先住民がマイノリティ一般としてではなく、先住民としての固有

の人権問題を抱えていると認識されるようになった。このとき、先住民に対する差別問題

の特別報告者として任命されたマルティネス=コボは、1981 年から 1983 年にかけて人権

小委員会に最終報告書を提出し、その提言によって先住民の権利に関する国際基準を作成

するための「先住民作業部会」が設置された。この作業部会は国際的な公式の場で政府と

先住民が自由に意見交換することを可能にし、国内に相当数の先住民をもつ主な国のほと

んどが作業部会の議論に積極的に参加している[同上 109-112]。 第2節 比較考査 2―1 先住民の人権に関する比較 マオリの現状~人権~ ニュージーランドは現在多くの国際人権条約に加盟しており、その条約のなかで先住民

の権利に関する規定をもつのは人種差別撤廃条約と国際人権規約の2つである。人種差別

撤廃条約とは先住民のみを対象としているわけではなく、人種差別一般を対象としている。

しかし、人種差別の問題全般のほかマオリについても多くの部分が費やされている。人種

差別撤廃委員会はニュージーランドがマオリの状況改善のために行っている努力を評価し

ているが、マオリと白人との間に残る経済的社会的格差の大きさについて指摘している[平松 2000:112-115]。 続いて、国際人権規約の中の自由権規約と社会権規約が先住民の権利に関する重要なも

のである。自由権規約の 27 条はマイノリティの集団それ自体ではなく、それに属する個人

の権利を定めたものである。また、その権利を否定されないと規定する。次に、国際人権

規約の自由権規約及び、社会権規約の共通第 1 条に掲げられた民族自決権についてみいて

いく。1960 年に国連総会が「植民地独立付与宣言」を採択して以来、民族の自決権は国際

法上の権利として認知されるようになった。自決権とは本国から分離独立する権利を意味

しているのではなく、国家権力からの不当な介入や操作を受けることなく、代表者を選出

し国政を運営させることを要求する権利である。マオリの場合は、人口の少なさ・軍事力

の欠如・白人との通婚による混血マオリの増加などから、国から分離独立し自治政府を作

るというよりも、先住民としての権利承認を求めて政治解決を模索するという方向が現実

的である。次に自由権規約とニュージーランド国内法についてみていく。1979 年に国際人

権規約の自由権規約に加入する以前の 1977 年に「人権委員会を設立し、国連の国際人権規

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約に一般的に合致してニュージーランドにおける人権の向上を促進するための法」を制定

している。これにより今日に至る人権委員会と機会均等審判所ができ、その後の 1990 年に

権利章典法、1993 年には人権法が制定された[同上 116-133]。 続いて、社会権規約についてみていく。「国際人権社会権規約は、経済的及び社会的権利、

またとくに文化的権利の保護を規定する点で、先住民の権利に大きな関わりをもつ条約で

ある[平松 2000:134]。」社会権規約委員会は、特に弱く又は不利な立場にあるグループの状

況をあげ、これは先住民も含まれている。例として、11 条・十分な生活水準に対する権利

―、13 条・教育に対する権利―、15 条・文化的生活に参加する権利がある。社会権規約委

員会は、マオリと太平洋諸島の人々の失業・低収入・低学歴の人々の占める割合が依然と

して多いことに懸念を表明し、政府に対して教育・訓練・雇用への平等なアクセスを確保

するように進めている[同上 134-137]。 ネイティブカナディアン~人権~

20 世紀の 60 年代以後、法的な権利を主張する先住民の政治運動が盛んに行われるように

なった。1763 年に発布された国王宣言はヨーロッパ人と先住民の住み分けを示し、本来の

先住民の権利を全て認めたものではなかった。しかし、近代の先住民の運動のなかで土地

所有権を主張する根拠となり、土地の本来の所有者と解釈する。1969 年、土地権益請求が

盛んになったことで政府は「インディアン政策に関する白書」を発表し、インディアンを

特別扱いせず、カナダ人と同等にみることとした。また、インディアン省が行っているサ

ービスは、一般カナダ人へのサービス同様に連邦政府や州政府の部署で行うようにするた

め「インディアン法」も廃止した。これについては、先住民のアイデンティティを全く無

視したものであり、先住民はこれを容易に受け入れられるものではなかった。白書に反発

した先住民首長会は、インディアンは単なるカナダ国民ではなく特別な権利を持っている

「市民3プラス4」であるとした。つまり、先住民である彼らはカナダの国民ではあるが、そ

れ以上の資格を持っていると解釈できる[2004 浅井:132]。 1982 年、インディアン・イヌイット・メティスを先住民として定義し、条約上の権利を

含めて先住民の権利を「現存する権利」として表現した憲法案が出来上がった。この先住

民の権利は「権利と自由のための憲章」と呼ばれる憲法の重要部分に含まれ、基本的自由・

法的に守られる権利・差別を受けない権利などを謳ったものである。しかし、この優れた

条文には先住民との間に異なった見解が存在した。 1991 年から 1997 年までファーストネーション全国会議の会長を務めた

Ovide Mercredi は、次のような指摘をしている。「われわれは権利を個 人の権利としてではなく、集団の責任と見る傾向がある。少なくとも両

3 市民権の「市民」または「国民」 4 「それ以上の存在」という意味

13

者の強いつながりと見るのである」と。彼は個人の権利を尊重すべきで あるが、先住民政府については例外だというのである。「われわれはファ ーストネーションの個人の自由に反対はしない。しかし自分たち自身を 治める伝統的な形や、ものごとの決定方法が破壊されないように守りた いのである」自治について彼は言う。「先住民であるわれわれは、われわ れの持っている価値、風習、伝統を保持しながら、またインディアン相 とインディアン省の支配を受けることなく、われわれ自身を治めるとい 単純な観念を持っている。自治へのわれわれの希望は同じく単純なもの で、自己保存である。インディアンの自治は、同化という強力な歴史の 中にあって、唯一の生き残りと繁栄の道なのである[浅井 2004:134]。」

つまり、先住民の権利は本来持っていた権利とするべきということである。そして、1994

年インディアン相の Ronald A. Irwin は 1982 年憲法 35 条にある「現存する権利」として

本来先住民の持っている権利を認めると発表した。 アボリジニー~人権~

1967 年、オーストラリア邦政府主導の先住民政策を可能にする上で重要な意義をもつも

のになったのが、連邦議会が先住民政策に関する立法権を得たことである。またこの年は、

先住民問題に対する一般世論が喚起された点でも重要な転機である。差別的な法律は、ア

ボリジニーの復権運動の高まりとともに 1950 年代から修正され始め、1980 年代に完全に

廃止された。しかし、白人オーストラリア人とアボリジニーの間の生活水準の格差が縮ま

ることはなかった。1970 年代に提唱されてきた先住民による自主決定は、社会福祉サービ

スの配分などの対先住民行政の決定および運営に、先住民の参画を求めるという政策の指

導原理の面が強く、アボリジニーの代表が連邦政府の先住民政策に対して助言を行ったり、

社会福祉サービスの配分やアボリジニーの経済活動への支援を行う機関が連邦政府の下に

設置された。1989 年に成立した「ATSIC5」により、連邦政府の行政委員会として、選挙

によって選出された先住民評議員には先住民に対する社会福祉サービスの配分を決定する

権限が与えられることになった。先住民評議会から構成される地域評議会や中央委員会は、

各コミュニティで構成されている先住民組織からのプロジェクト申請を審査し財政支援を

行い、またこのプログラムは経済的自立支援、教育支援など多岐にわたる。しかしATSICの運営は、白人の先住民ビジネスを潤わせているだけでアボリジニー共同体への経済効果

は低いなどの批判も多く、アボリジニーからの広い支持は得ていない。だが、連邦政府の

行政機関として州政府の政策とも連携を強めながら、政策決定および実施・運営に先住民

自らが携わる制度が確立されたことの意義は大きく、オーストラリア政治制度へ内側から

5 アボリジニ・トレス海峡諸島民委員会

14

のアボリジニーの参加が可能になっていった[小山 2002:86-89]。 先住民族としての権利の主張の根幹は、失われた土地に対する権利であるという主張か

ら、アボリジニーの復権運動は、1970 年代を境に市民権の回復から先住民族の権利の承認

へと重心を移行してきた。1968 年、鉱山開発が聖地を破壊するとしてアボリジニーは開発

差し止めを要求し裁判にでたが、結果はアボリジニー側の敗訴で終わった。しかしこの訴

訟を契機に、アボリジニーの土地権を擁護するための法制度の不備が指摘され、1976 年に

「アボリジニー土地権法」成立した。1993 年には「先住権原法」が成立し、先住民共同体

による先住権原の認定を求める手続きが法制化された。それにより先住権の法的根拠が確

認され、土地権が認定されていない先住民共同体であっても、土地の開発に関わる交渉権

を獲得する可能性が出てきた。しかし、1996 年のウィック判決で牧場借地においても先住

権を認めたために、先住民を優遇しすぎるとして「先住権原法」は修正されることとなっ

た。これにより、先住権原の認定や土地の交渉をめぐる交渉のプロセスが複雑になったこ

となどで、先住民の権利は縮小される結果となってしまった。アボリジニーを優遇しすぎ

ることに対してオーストラリア社会では不安・反発が根強い。ただし、過去 30 年以上にわ

たる復権運動と先住民に関する法制度の改革の積み重ねにより、アボリジニーはオースト

ラリア国民国家の成員としての対等で正当な地位を回復してきたのは事実であり、彼らの

根本的な課題は彼らの市民としての権利と、先住民としての権利の整合性をどう確立する

かという点である[小山 89-92]。 2―2 雇用をめぐる比較 マオリ~雇用~ マオリの都市化にともない、農村=マオリ、都市=白人といったニュージーランドの社

会構図が根源から変化した。それによりマオリの雇用状況は一気に変わり、都市化された

マオリは中小製造業や建築関係の未熟練労働者として働かざるを得なかった。80 年代にな

ると、イギリス本国の EU 加盟や行政改革によって急激に低下した畜産業や民営化した国

鉄・郵便局などの影響で、90 年代の初めにはマオリの失業率は 30 パーセントにまで達した。

その後、産業構造の変化により、マオリの雇用は製造業・建設業から小売業・レストラン・

ホテル業などサービス業へと転換することになる。1995 年にはサービス業に就くマオリが

増加し、その数は 13700 人にも上る。これは 3 年前に比べ 45 パーセントを超える増加率で

あるが、白人のなかではわずか 9 パーセントほどの増加率である。白人の多くは専門職・

行政職に就き、多くのマオリは工場労働・肉体労働に就くという職種間の格差が存在する。

このような雇用上の格差はマオリの犯罪問題にも影響している[平松 2000:89-93]。 ネイティブカナディアン~雇用~ ここではカナダの先住民の中でも「イヌイット」についてみていく。元々イヌイットは

冬には海氷上でキャンプ生活を営み、夏になると沿岸部や内陸部に移動するなど季節的な

15

移動生活を送っていた。1960 年代にカナダ政府はイヌイットをいくつかの村に定住させ、

国民化をすすめる政策を実施し、1970 年ごろにはほぼ全てのイヌイットが村の中で生活す

るようになった。現在、カナダの北極地域には 53 のイヌイットの町村があり、それらの規

模は 150 人程度から約 4000 人までさまざまな規模である。「現在のイヌイットの経済は、

自家消費用の狩猟・魚撈活動という生業経済と賃金労働という貨幣経済の 2 つのシステム

の混交的な共存によって特徴づけられるため、二重経済や混交経済と呼ばれている[綾部 2007:104]。」1980 年代の半ばにアクリヴィック村で調査されたものと 2000 年時のものを

比べると、イヌイットの仕事に対する考え方が大きく変わってきている。かつてはフルタ

イムの賃金労働の職に就くと、好きな時に狩猟や魚撈、キャンプに行くことができなくな

るため、定職につこうとするイヌイットの数・実際に長期間にわたり定職についているイ

ヌイットの数は少なかったが、現在では男女を問わずほぼ全てのイヌイットが定職に就く

ことを望んでいる。アクリヴィック村をはじめとする極北の村には、村全体の世帯数約 90世帯に対し、イヌイットの就くことができる実際の定職の数は約 45 余りで就労可能な人口

数に比べて定職の数が絶対的に不足しており、村役場の担当者はすべての世帯に仕事が行

き渡るように季節労働や臨時の仕事など配慮しながら雇用をしている。現在のイヌイット

は、生活の全ての面において現金が必要であり、重要であることをはっきりと認識してお

り、ヌナヴィック地域では雇用の 62 パーセント以上が村役場や学校などである。それ故に

イヌイットの親たちは子どもにはしっかりとした教育を受けさせ高収入の定職に就くこと

ができることを希望している。 イヌイットの最大の関心事である狩猟・魚撈でも、現在の狩猟活動で現金収入は絶対で

あり、それらによって村人意識や社会関係が維持される。また獲物を配分することにより、

食料がない人でも食料を入手でき、経済的な相互扶助制度としてイヌイットの福利に貢献

しており、このような経済活動によって生み出されるイヌイットの生活は、イヌイットと

しての文化的アイデンティティを支える源のひとつとなっている[綾部 2007:112]。しかし、

カナダ先住民(15 歳から 64 歳)の就業率は 54 パーセントなのに対し、同世代の非カナダ

先住民の就業率は 71 パーセントであり、収入にも格差がある。これはカナダ先住民の就い

ている職業が低賃金であるためと思われる。高収入の金融や不動産などといった業種に就

くカナダ先住民はほとんどいない。主に第一次産業に就く先住民が多いのが現状である[同上 103-113]。 アボリジニー~雇用~ 労働者として、アボリジニーと白人オーストラリア人は同じ権利を有している。しかし、

83 パーセントのアボリジニーが未熟練・半熟練労働に従事しており、白人オーストラリア

人が主に管理職・専門職に就いている。アボリジニーの中でこの種の職業に就いている割

合は、わずか 3~5 パーセントである。また、アボリジニーの多くは季節労働者や牛肉生産

用の牧場での仕事であり、賃金は市場価値やその年の状況によって大きく変動し、彼らの

16

貢献度にかかわらず賃金は不当に低く抑制されているといった状況がある。このような悪

条件の下での労働について、ミドルトンは次のように述べている。健康状態の悪さ、教育

レベルの低さ、それに付随し職業訓練を十分に受けられないこと。また多くのアボリジニ

ーはオーストラリア大陸の北部・中央部に滞在しているため、仕事の数が大都市の集中し

ているシドニー、メルボルンなどと比べると圧倒的に少ない。この2点に加え、差別的・

偏見的状況がさらに事態を悪化させている[鈴木 1986:86]。また、季節労働者・未熟練労働

者に従事しているアボリジニーは仕事のある時期、ない時期によって移動することが多く、

その子どもたちは親の移動に伴い学校も移動する、または辞めざるを得ない状況に置かれ

ることがあり、そのような状況から教育レベルの低さという問題に関連してくる。失業率

の高さに関しても人種差別的な要素が関係していることは確かである[鈴木 1986:85-92]。 2―3 教育をめぐる比較 マオリ~教育~ マオリの教育を高めるということに異論を唱える者はいない。それどころか、マオリ教

育を同化政策の一環として、マオリをヨーロッパ型人間にするという観念形態であったと

いえる。マオリの国家的な学校教育は 1870 年代の原住民学校から始まる。基本的には、マ

オリと白人の子どもは分けられ、それぞれ原住民学校・通常の学校に通っていたのだが、

マオリの少ない地域では白人の通常の学校にマオリが通い、マオリ地に在住する白人の子

どもが原住民学校に通うことがあった。しかし、原住民学校は過疎問題を抱えさらに同化

政策の影響で多くのマオリが白人の通う学校に通うようになった。ニュージーランドの教

育制度は、5 歳から 12 歳までの初等教育、13 歳から 17 歳までの中等教育、それ以降の高

等教育というように分けられる。マオリの就学率は 1935 年当初はたった 8 パーセントであ

ったのに対し、現在では 70 パーセントにまで伸びてきている。しかし、その多くが中等教

育・高等教育に進学することなく、義務教育を終えた時点で学校を去ってしまう。マオリ

の若者の雇用の低さの要因となっているものは、中等教育を卒業する学生の少なさにある。

中等教育を卒業するマオリの割合は増加傾向にあるのだが、白人と比べるとやはり大きな

差がある。1961 年にはマオリ女子の中等教育修了率を高めるためマオリ教育募金が創設さ

れ、その後カリキュラムにマオリプログラムが取り入れられた。これらの政策は、必ずし

も効果を見せるとは限らないうえ、これらの政策に伴いマオリ学校の廃止という声が出て

いる。1980 年代半ばには行政改革に伴い、低収入家族の就学問題が生じマオリ女子にも影

響を与えている。マオリの高等教育に関しては、1990 年から 95 年の間に急激に伸びたの

であるが、その多くは大学ではなく専門学校である。大学入学資格取得者と奨学金資格取

得者にマオリの学生が目立ってきたのだが、白人の学生と比べるとその差はやはり大きい。

また、大学に進出するマオリの割合が増えてきてはいるが工学、医学部などへ進学するマ

オリは極めて少ない[平松 2000: 85-88]。

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ネイティブカナディアン~教育~ カナダ先住民の伝統的な教育方法は、家族とコミュニティの中で日常生活における観察

と模倣である。初めは、親の狩猟方法や衣服の作り方などを近くで見ているだけであるが、

そこから徐々に実際に参加していくことにより技術を身につけていく。また、コミュニテ

ィや部族の行事に参加することにより、彼ら自身の価値を基本とした世界観を身につけて

いくのである。しかし、このような伝統的教育は西洋の学校教育により阻害されることに

なる。1759 年、英国政府はインディアン統治の方向を大筋定めるインディアン政策設定に

着手したが、その初期の条約に教育に言及しているものはひとつも無かった。しかし、オ

ンタリオ州などのインディアン行政官が学校教育の政策づくりに着手した。「その政策目標

はインディアンにキリスト教の信心を固めさせ、定住地に落ち着かせ、インディアンの子

供達にふさわしい学校を与えることにより『インディアンを白人のレベルにまで上げるこ

と』であった[関口 1988:198]。」しかしそこには、インディアンも一般社会の一部として存

在すべきだったが、その実現のためには一般社会から保護されなければならないという逆

説が存在した。英国植民地行政機関とその教育機関である伝道協会は、インディアンが権

利を手に入れるには白人のようにならなければならないだろうと考えた。そこで、伝道師

団が宗教の教えを説こうとしたが、多くの部族は「字を書き、帳簿がつけられるようには

なりたいが、キリスト教徒になろうとは思っていない」という考えがあり、インディアン

の子供たちの多くは全く学校に顔を見せなかったり、たまにしか行かなかった[同上 197-199]。 1867 年には、カナダ連邦政府がインディアンの責任を負うことになった。1880 年にイン

ディアン法の教育に関する項が施行されてから 70 年間、インディアンの教育における教会

と国との関係が改めて問われることは一度もなかった。インディアンの学生たちは宗教属

派が違うということだけで就職の機会が拒まれることもあったため、教会は寄宿学校への

補助金の増額を訴え続けた。1969 年には連邦政府が「インディアン政策の白書」を刊行し

た。「連邦政府は政策を『インディアンの子供達の教育に関連するすべての決議や活動にの

がすことなくインディアンが参加し、協力することを可能にする』と変えなくてはならな

いだろうと述べた[同上 204-205]。」 1972 年、全国インディアン協会の政策書である「インディアンの教育のインディアンに

よる統制」がインディアン諸事大臣に提出された。大臣は、長年の政策であった統合も少

なくとも時には他の学校教育制度に譲らなくてはならないだろうと示唆した。北西準州で

初めてのインディアンの統制による学校が開校し、この政治的方針決定がカナダのインデ

ィアンの統制による学校のその後の発展の主な核心になっている。「州の運営による学校に

通うインディアンの子供の数は 1966 年から 1979 年に 43%から 53%へと増加し、インデ

ィアンのバンド運営の学校の数は 1979 年の 8%から 1983 年の 21%へと増加した[関口 1988:207]。」インディアンの言葉と文化は今日、たいていのインディアンの学校で教えら

れ、州の教材から人種差別的で型にはまった題材は取り除くようにとの処置もとられた。

18

しかし、インディアンの子供の学年レベル達成度と全国の達成度との差が狭まることはな

く、調査によるとインディアンの子供で高校の最終学年を卒業するのは 20%と低い数字で

あるが、全国の生徒の比率は 75%である[同上 205-208]。 現代のカナダの学校制度は、初等教育として幼稚園・小学校、中等教育として高等学校

がある。先住民教育の最高責任者はインディアン相であり、先住民教育に関しては「イン

ディアン法・115 条」に次のように記してある。 ・学校に関する建物、備品、授業、教育、視察、しつけについての基準に

関して規則を考え、定めることができる。 ・子供たちの学校への往復の交通機関を用意することができる。 ・宗教団体によって運営される学校で教育を受けている子供たちの援助と

扶養に関して、当教団と協定を結ぶことができる。 ・寄宿学校に在学している子供のために支払うことができる金額の全部ま たは一部を、その学校における該当する子供の生計費に当てることがで きる〔浅井 2004:238〕。 アボリジニー~教育~ イギリスのオーストラリア入植初期には、アボリジニーに対して教育を施すという考え

はないに等しかった。しかし、アボリジニーの労働力が評価されるようになるとしだいに

教育の必要性が高まってきた。これは白人との意思疎通を目的として、主に語学教育であ

る。その後、4 年間の初等教育がなされるようになり、19 世紀を通じ非公式ではあるがあ

る程度の教育を受けることができた。第二次大戦終了後にようやく公的教育制度のなかに

組み入れられた。第二次大戦後、大量の移民者の流入に伴いアボリジニーも国内の異文化

グループと認識されるようになり、同化政策がアボリジニーに適用された。1960 年代後半

には、政府が人種の相違から生じる文化的な差異の存在を認め、統合政策が打ち出された。

しかし実質では、同化政策・統合政策ともに平等さにかける、表面上の政策というものに

過ぎなかったため、教育の結果も当然異なっていた。1973 年には自己決定政策が採択され、

必要に応じて特別なプログラムをすべてのレベルで提供されるべきであるという、教育の

機会均等が提唱されたのである。しかしアボリジニーの教育状況は機会均等からかけ離れ

ていた。確かに全く教育を受けていないアボリジニーの割合は 1966 年の 34.5 パーセント

から 1971 年の 23.5 にまで減少している。その要因としてあるのは、今まで以上に英語に

よる知識を日常生活の中で求められる機会が増えたということ、社会階層を上がるための

手段として教育を考えるアボリジニーが増えたということが挙げられる。しかし、多くの

アボリジニーは低学年で学校を去り、アボリジニーとアボリジニー以外の人々との間で教

育レベルの格差は広がっている。なぜなら、オーストラリアの教育制度が白人を中心にし

て行われているため教育をうける子どもたちがアボリジニーとしてのアイデンティティを

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失ってしまうかもしれないという不安、また教育が自分たちに何の経済的援助を与えない

という考えがある。また、経済的に困難な状況であるため子どもの教育費が賄えないとい

う現状に加え、親の教育レベルの低さが子どもの教育レベルに影響を与えている。そして

初等・中等・高等教育の就学率の低さが大学教育・専門教育分野での就学率にも影響を及

ぼしている。大学在学者数は約 16 万人のアボリジニー人口で 1 パーセントにも満たず、大

学院の修士課程または博士課程を修了しているのは僅か 0.3 パーセントである[鈴木 1986:93-100]。 2―4 土地請求権問題の比較 土地請求問題~マオリ~

第二次世界大戦後の、大英帝国自治領、世界的な先住民権利の承認、マオリ自らの権利

主張の拡大といった動きにより、ワイタンギ条約が再び注目されるようになった。1877 年、

ワイタンギ条約の公式的理解は、ニュージーランドの全国土を無主地として先住民の土地

ではないとした。しかし1975年にワイタンギ条約法によってワイタンギ審判所が設立され、

ワイタンギ条約違反についての請求が積極的に認められた。また、1985 年のワイタンギ条

約改正法は少なくとも、1840 年以降の植民地化、つまり白人の土地収奪をワイタンギ条約

に反するマオリ財産権の侵害として構成した。これにより現在、国土の三分の二は不法略

奪と想定されており、ワイタンギ審判所の役割はマオリ財産権の回復の武器になっている

のである[綾部 2007:115-129]。 土地請求問題~ネイティブカナディアン~

第二次世界大戦後、先住民の土地が不当な手段を通じ白人により収奪されたという先住

民の主張に耳が傾けられるようになった。カナダでは 1964 年に、アメリカで成立された「イ

ンディアン土地請求委員会」と似たような委員会が連邦政府により設けられた。設立当初

の頃は実質的効果に乏しかったのだが、後に司法機関などの調停や判決よりも当事者間の

直接的な「政治交渉」により問題解決をはかろうとする傾向がみられるようになる。そし

て 1973 年、連邦最高裁が土地所有権紛争で画期的な判決を下したことで、先住民の土地所

有問題に関する流れが一気に変わった。同判決でこの部族の直接的な所有権は否定された

のだが、抽象的・法律的な意味では先住民の権利が存在すると認められた。この判決によ

り連邦政府は土地請求問題に対応する必要性を考え、従来までの消極的な姿勢を改め 1974年、インディアン省の中に土地請求問題を取り扱う部局を設置させた[加藤 1990:135-136]。 土地請求問題~アボリジニー~

1788 年に英国がオーストラリアの植民の開始を宣言した時から、アボリジニーと白人の

間で土地所有権をめぐる問題が実質的に発生した。オーストラリアの土地所有権問題で重

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要なのは、アメリカやニュージーランドで見られたような原住民と入居者との間での妥協

が、オーストラリアでは一切見られず、アボリジニーの存在自体が認識されていないに等

しかった。1960 年代から土地所有問題が活発化し、政治課題となった。1975 年、自由党・

全国地方党政権によってアボリジニー土地所有権法6が国会に提出され成立した。これによ

り国有地についてもアボリジニーの所有・返還要求のための手続きが明確化された。しか

し、所有が認められた土地は個人所有ではなく、アボリジニー土地信託と呼ばれる組織に

よって土地の運営・管理がされるようになった。進展したと思われる点は、アボリジニー

の所有となった土地内での鉱山開発については以前と異なり、アボリジニー土地委員会の

同意、つまり当事者となるアボリジニーの同意が必要となったことである [鈴木 1988:129-137]。

6 連邦政府の管轄であるノーザンテリトリーにおける昔からのアボリジニー居留地に対し

て何人も侵すことのできない自由土地所有権を伝統的な生活を営んでいるアボリジニーに

与えることを可能にした。

21

第 3 章 国際法との比較―マオリの実情 第 3 章では、第 2 章で見えてきた各国の先住民の特徴や違いを述べ、次に国際法ではど

のように定められているかを明らかにする。最後に、これまでの歴史で、今日のマオリは

どのような立場に置かれているのかを調べていきたいと思う。

第 1 節 比較考査から各国の先住民の特徴 第 1 節ではまず、第 2 章での比較考査から見えてきた各国の政策の違いや、その背景に

ある要因などを明らかにしていく。 まず人権について、カナダではカナダ憲法が成文法と不文法の二つの側面を持ち、成文

法としては「英領北アメリカ法」がある。しかし、慣習や司法判決といった不文法的要素

もあり、カナダ憲法はイギリス的な不文法の中に成文法的特徴を含むという複雑なものに

なっている。このような背景のなか、カナダでは先住民の権利がカナダ憲法と結び付く。

しかし、カナダ憲法では多くの課題が未解決であり、例えば、憲法改正権はカナダ議会に

はなく、ウェストミンスター(英国議会)にあったため、カナダが母国との関係を維持す

ることは可能でも、憲法改正権が旧母国にあっては不都合であった。また加えて、英領北

アメリカ法は連邦国家の技術的解説が主で、連邦国家の理念やニュージーランドが加盟し

ているような人権規約などが欠如していた。政治理念や人権規約がないことで、カナダに

民主主義が成立しないわけではないが、しかし近代国家としての原則や市民の政治的権利

が憲法に明記されていないことは重大な欠如である。そのような中でカナダ先住民が展開

した様々な活動は、例外的にも憲法に彼らの権利を明文化することに成功したのである[加藤 1990:138-141]。 一方オーストラリアでは、1930 年代から続けられていた市民権獲得運動の結果、1967

年に初めて他のオーストラリア人と同じ権利が与えられたのである。しかし、ニュージー

ランドでは 1840 年にワイタンギ条約が締結されたときにすでに、他のヨーロッパ人と同じ

市民権がマオリに与えられていた。だが、マオリの場合はこのワイタンギ条約に対する先

住民と白人の解釈の違いから現在に至るまでわだかまりが残っている。マオリが自ら様々

な活動を展開するきっかけとなったのが、アメリカのブラックパンサー運動やカナダ先住

民の先住民権獲得運動などを目の当たりにしたことであり、自国での都市化やテレビの影

響などについて懸念を抱き始めた。そして、マオリの言語と文化にプライドを復活させる

団体が各地に誕生し、ワイタンギ条約違反・マオリ主権などの問題意識・過去の不平等な

どを裁判所に告訴した。これらはマオリ側の敗訴に終わったのだが、1967 年に国民党政府

により導入されたマオリ所有地の土地形態を一般用地への変換可能とさせる法案は、全国

のマオリが大々的な土地行進を繰り広げるきっかけとなった[原田 1999:151-153]。 マオリ・ネイティブカナディアン・アボリジニーともに先住民の権利と失われた土地に

対する権利という主張は根強く関係していると考える。これまでに先住民は様々な運動を

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展開し、多くの権利を獲得してきた。しかし、実際には先住民と白人との間にある経済的

社会的格差は依然残っている。先住民が奪われた土地を取り戻すことにより、先住民は他

の白人と同じ権利を持っているという意識のうえにさらにそれ以上の存在という意識を認

識し、新たな運動を展開する際の原動力につながるのではないかと考える。 また雇用に関しては、ニュージーランド・カナダ・オーストラリアともに先住民の失業

率が高いのが現状である。また、職種に関しても非先住民、白人が管理職や行政職につき

先住民は工場労働や肉体労働に就くといった傾向がある。しかしカナダのイヌイットに関

しては、伝統的な生活に対する意識の変革はあるものの、それぞれの村の村役場の担当者

がすべての世帯に仕事がいきわたるように配慮をしている。それは、マオリとアボリジニ

ーが第二次世界大戦後に先住民の都市化という事態が起きたのだが、カナダのイヌイット

に関してはカナダ政府により伝統的な移動生活から村での定住という生活のスタイルにす

るという、国民化を進める政策がとられたからである。また、マオリもアボリジニーと同

じく季節労働者・未熟練労働者という職種に就くことが多かったのだが、マオリの場合は

イギリス本国の EU 加盟・行政改革などの変化から、レストランやホテル業といったサー

ビス業へ転換する。しかし、同じイギリス植民地であったオーストラリアがなぜニュージ

ーランドと同じ影響を示さなかったのかについては、これといって断定できるものはない

が、マオリとアボリジニーの、先住民と白人との関わり合いのあり方についての意識・捉

え方の違いがあると考える。マオリは比較的、白人の入植時から交流を友好的に捉えてい

たが、オーストラリアに関しては、白人の入植時にアボリジニーは彼らの訪問を攻撃的な

対応で迎えた。初めは入植者たちを自分たちの祖先の蘇りだと捉えていただろうアボリジ

ニーだが、白人の入植以来変化する自分たちの土地や、昔からの聖地がいとも簡単に破壊

されるのを目の当たりにし、入植者たちを友好的には捉えていなかったのである。アボリ

ジニー研究を行った Broome は、今日のアボリジニー・白人関係を決定付けた 3 つの要因

を次のように述べている。「1.オーストラリア植民地が、流刑植民地であったこと。 2.英国人入植者が、オーストラリア大陸へ上陸した時、オーストラリア・アボリジニーについ

て偏見的な先入観を有していたこと。 3.オーストラリアに上陸した入植者たちが、一方的

にアボリジニーから土地を奪い、何の協定も結ばなかったこと[鈴木 1986:25-26]。」また、

オーストラリアに流刑された囚人たちは、英国国内では貧困に苦しみ、流刑された後も厳

しい管理下におかれ、政府の役人からは軽蔑されるという苦しい状況に置かれていた。そ

んな中で囚人たちのはけ口がアボリジニーに向けられたのである。「つまり、オーストラリ

アを流刑植民地と位置付けたことによって、アボリジニーは、抑圧されていた白人層の不

満のはけ口となっただけでなく、同時に、アボリジニーに理解を示し得るような一般入植

者の移住も活発化しにくかったのである[鈴木 1986:26]。」このような歴史的背景が、アボ

リジニーと白人との友好関係に距離をもたらし、マオリとは違った捉え方で変化が進んだ

のではないかと考える。 そして、イギリス入植者の土地の占有の仕方について、ニュージーランドとカナダでは

23

共通している点があるが、オーストラリアではこの 2 カ国と異なった歴史がある。まずカ

ナダでは、入植時初期に、ヨーロッパ諸国が競い合って進出したため原住民の扱い方には

各国に差異があったものの原住民との接触という経験を通じ、先住民の権利についてそれ

なりの認識とヨーロッパ人の法体制における原住民の権利が確立されていった。これらの

権利はヨーロッパ人が有利になってはいたが、土地の所有権をめぐる争いは様々な試行錯

誤の後に協定という形でまとまっている。ニュージーランドの入植はオーストラリアとほ

ぼ同時期であるが、ニュージーランドの場合、イギリス入植者たちはカナダと同じように

先住民マオリの抵抗を受けた。その結果、イギリスとマオリとの間にワイタンギ条約が締

結され、マオリ族は土地・不動産・森林・漁業などを含む財産権の外部からの不可侵の権

利を保障された。カナダ・ニュージーランドともに、原住民は自分たちの権利を白人入植

者たちに主張できる社会体制を保持しており、このことが、入植が進むにつれ原住民と白

人入植者の関係に影響を与えたのである。しかしオーストラリアの場合は、力によって入

植者に妥協を求め得るほどの強力な社会組織・軍隊組織などは有していなかった。広大な

土地の割に人口の少ないアボリジニーはさらに大小約 500 の部族に分かれており、白人入

植者に対して散発的な抵抗を示したが、ほとんど効果は見られなかった。その結果、白人

のアボリジニーについての認識が変化するほどではなく、白人のアボリジニー観はほとん

ど入植時と同じままであった。1863 年に行われたアボリジニーの土地所有についての裁判

では、「人口の少なさと政治組織の欠如ゆえにアボリジニーは、自分たちの占有していた土

地地域の所有を主張する自由で独立した部族集団の一員とは認めることはできない。」とい

う判決が下された[鈴木 1986:30-32]。」 教育の面でみると、ニュージーランド・カナダ・オーストラリアともに先住民に対する

配慮が条約などで規定されてはいるものの、白人と比べた時にやはり就学率は劣っている

というのが現状である。オーストラリアでは、不利な立場にある先住民アボリジニーに対

する教育の保障が、教育の機会均等の理念から積極的に推進され、イギリス人の渡来直後

から宣教師を中心に行われてきた。また、教育の水準を先住民自身で上げさせるために「ア

ボリジニー教育協議会」や「全国アボリジニー教育委員会」、「アボリジニー訓練計画」の

設置など先住民中心の教育を奨励してきている。しかしアボリジニーとしてのアイデンテ

ィティの喪失の懸念、教育に対する考え方の違いから白人との間で教育レベルに差が出て

きている。それに対しニュージーランドの教育は、マオリ文化を継承しようとする方針で

行われている。マオリ学校では、マオリ語を使い、マオリの文化や価値観に基づいた教育

を行っており、マオリ語と英語の両方に堪能な子どもの育成を目標にしている。この目標

は、マオリとしてのアイデンティティとニュージーランド人としてのアイデンティティ求

めている。カナダについては、先住民としてのアイデンティティの両方を考慮した教育と

いうよりも先住民の教育水準を上げようという方針のもと行われているという印象が強く、

カナダもオーストラリアと同じく先住民が主体となって行う学校が開校されるなど、先住

民による統制の学校を推進している。カナダではこれが後に学校に通う子どもの数の増加

24

に大きな役割を示している。 第 2 節 国際法の定めるもの ここでは、国際人権法では先住民の権利はどのように定められているかについてみてい

く。まず、先住民族と土地との関係について明らかにしていく。ここでいう土地には、単

に陸地という地理的な領域を指し示すものではなく、彼らの生活を成り立たせている環境

全体7とそれに深く結びついた伝統的知識、信仰または神話などの世界観を含んだものであ

り、土地と資源に対する権利を主張することは先住民族の文化とアイデンティティを守り、

回復することにつながる。 「この土地権は、民族集団の全体の生存と発展にかかわるものであって、集団的

な性格を持つものとなる。ILO の先住民族条約の第 13 条によると、条約適用の際に

先住民族が占有もしくはその他の形で利用する土地(または領土)がこれらの民族

にとって文化的及び精神的に価値の上で『特別な重要性』を有することを、政府が

認め土地と民族との間にある『集団的な側面』を尊重すること、が求められている[渡部 2009:168]。」

次に、ILO 条約では締約国政府に対し、次のような土地権の保障を求めている。 まず先住民が「伝統的に占有する土地」につき、関係民族の所有権および

占有権が認められる。一方で、占有はしても狩猟、牧畜、採集などその民族 の生業または伝統的活動のために土地への立ち入りをおこなってきた場合に は、所有権でなくこうした活動のための利用の権利が認められる。そして前 者の場合には伝統的な占有の対象である土地を政府が認定し、条約で認めら れた権利を「実効的に保護」するための措置をとることが求められている (第 14 条)。 一方で、土地に属する資源については、先住民族の権利をとくに保障するこ と、そうした権利には、資源の「利用、管理および保全」に対する関係民族 の「参加」権を含むとされる。さらに地下の鉱物資源について政府に所有権 がある場合に、地上部分を先住民が所有または占有していても、こうした地 下資源の探査・開業を政府が認可する前に、先住民の「利益」への影響を評 価するため、関係民族との「協議」の手続きを設けるよう求められている (第 15 条)。 また一般的には先住民は、先祖伝来の土地とは慣習に基づく占有または利用

7 大気、水域、海氷、生物その他の自然資源を含む

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をおこなってきたが、国家に組み入れられた後に、そうした慣習上の権利を 法制上否認されたりしてその土地からの立ち退きを強制されることが多い。 この点につき条約は、こうした立ち退きが「例外的な措置」として必要とさ れる場合、関係民族の「自由でかつ十分な情報を得た上での同意」があると きに、認められるとする。そしてそうした「同意」の得られぬときには、「 公聴会」など関係民族による意見表明の場を国内法上設けるよう求められて いる(第 16 条)[渡部 2009:169]。

続いて、人権条約機関と土地権の関係がどのような保障をしているのかについてみてい

く。自由権規約そのものに文化についての詳しい定めはないが、規約人権委員会は、「土地

の資源の利用と結び付いた生活様式」などの形をとるものであり、自己に影響する開発事

業に関し関係民族が意思決定に効果的に参加できる手立てを取ることを求めている。また

人種差別撤廃条約では、先住民族の土地権を特定した規定は置かれていないが、人種差別

撤廃委員会は、先住民族の土地・領土および資源に対する所有、開発、管理または利用す

る権利を承認し、尊重することを求めている。それに加え、その自由で十分な情報を得た

上での同意なくして奪われた土地・資源については、それらの返還をおこない、返還が不

可能な場合においてのみ、正当で公正な補償をもって代用することも挙げている[渡部 2009:169-170]。 次に先住民族の言語と教育について、国際法ではどのように定められているのかについ

てみていく。自由権規約および子どもの権利条約所定の言語への権利は、言語的少数者と

しての先住民族に対して保障されている。さらに、ILO の先住民族条約では、教育の機会

均等とさらに、関係民族との協議を経て国が民族教育を認めるように求めている。特に第

26 条と 28 条では子どもに対して、先住民族の言語のみに限らず、公用語での授業というに

言語教育を要請している。また国連宣言では、第 14 条 2 項で子どもについて国家の教育で

のすべての段階と形態に対する権利を定め、第 14 条 1 項では大人を含めて民族全体が、そ

の文化に適合する教育と学習の方法で、民族語での教育をおこなう教育制度と施設を設置

し管理する権利も定めている[渡部 2009:180-181]。 ILO8は労働者の権利を「雇用および職業における差別待遇9の撤廃」で次のように定めて

いる。 「雇用および職業についての差別待遇を除去するために、人種・皮膚の色・性・

宗教・政治的意見・国民的出身・社会的出身による『差別、除外または優先で、雇

用または職業における機会及び待遇の平等を無にするか、害する結果となるもの』、

その他各国が労使協議のうえ、それぞれの手続きに従って定義する差別10が、採用時

8 International Labour Organization: 国際労働機関 9 特定の人を、業績や職務の必要性とは無関係な特徴に基づき、区別し不利に取り扱うこと 10 年齢、障害、HIV/エイズ、性的嗜好、組合活動への加入・従事的など

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11および採用後の勤務時の両側面において、きわめて網羅的に禁止され、平等原則の

実施のために、国情に即した政策を作成し実施に向かう義務が課せられる(第 111号条約)[渡部 2009:137]。」

また、国連機関には先住民族の権利に関する専門家機関と先住民の人権に関する特別報

告者が存在するが、両者の分担と役割については 2009 年の現時点でははっきりとしていな

い。 第3節 現在のマオリ これまで、マオリの歴史や条約・法律についてみてきたが、次にそのような歴史を辿っ

てきたマオリが今日ではどのような立場に置かれているのかについてみていこうと思う。

第 1 章でも述べたとおり 2009 年現在、ニュージーランド人口 432 万人のうち先住民マオリ

系は約 64 万 3 千人で全人口の 15.1 パーセントを占めている。ニュージーランドではもと

もとヨーロッパ人入植時から通婚が盛んであり、混血マオリが増え続けている。混血マオ

リが代を重ね、さらに都市で両者が混じり生活する現在では、名前や容姿などでマオリか

非マオリであるかの区別をつけることは難しい場合が多い。かつての国勢調査では、血の

割合など政府の規定に従い、混血者をどちらかに分類していたのだが 1986 年以来、自己申

告制となった。これにより、例えマオリの血がわずかしか入っていなかったとしても、本

人がマオリと自覚すれば調査時にマオリと申請することも可能である[青柳 2008:321]。 そして次に、現在一般のマオリの生活様式は、衣食住のすべての分野にわたってほとん

ど多数派庶民と変わりないのが事実である。しかし、マオリの生活条件は、非マオリの人々

より恵まれていないことは統計上から確かである。1999 年にマオリ振興省が行った統計に

よると、マオリの平均週給は 300 ニュージーランドドルであるが、非マオリは 331 ドルで

あった。しかし、このマオリの収入の 45 パーセントは、失業給付・家族給付・住宅補助と

いった政府からの補助金であった。非マオリではこの割合は 31 パーセントである。しかし、

有資格者を見る限り、マオリと非マオリの収入や地位に格差はなく、つまりマオリの低所

得は資格の欠如からきているのである。2006 年の全国統計によると、何らかの理由により

学業を離れるマオリの 15 歳男女は 1000 人中 152 人であり、これは太平洋諸島民の 56 人・

アジア人の 5 人・ヨーロッパ系住民の 49 人に比較して大きな数字である。マオリ児童が学

業に興味を持てない理由として挙げられているのが、授業内容が彼らの文化と無関係であ

ることなどであるが、これは太平洋諸島民やアジア人も同様の条件下に置かれているため

必ずしもそうとは言い切れないのが現状である。学校からの早期離脱により、無資格のま

ま世に出て、失業、低所得、貧困という悪循環に陥ってしまう可能性がある[同上 321-322]。 次に、ワイタンギ条約についてみていく。ワイタンギ条約はこれまでマオリの度重なる

訴えにもかかわらず顧みられることはなく、法廷においてもこれまで何度か争点となって

11 事前の職業訓練も含む

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きた。例えば 1877 年に行われた、マオリの土地をめぐる裁判では首席判事がワイタンギ条

約を「全くの無効である」と主張した。理由は以下の通りである。 「ニュージーランドに対するイギリス国王の主権の主張は、発見と所有の優先権

に基づくものであり、そこにはただ『野蛮人』が住んでいただけだから、ワイタン

ギ条約は文明国と『野蛮人集団』の取り決めであるに過ぎないからである[青柳

2008:310]。」

しかし、このワイタンギ条約には英語版とマオリ語版とでいくつかの相違点があったこ

とは第 1 章で述べた通りであり、その後マオリは活発な土地権や言語の復活を要求する運

動を行い、1975 年にワイタンギ条約法12が発行され、これにともないワイタンギ審判所13

が創設された。これにより初めてマオリが法に則った手段を用いて過去の不正を問いただ

すことが可能になり、1987 年にはマオリ語法14が制定された。「このようにマオリは、ワイ

タンギ条約を遠い昔に結ばれた過去完了的な法的決定事項ではなく、現代に続く社会的な

約束として巧みに位置づけているのである[青柳 2008:312]。」

上記のような権利の回復のみならず、20 世紀後半にはマオリの芸術・工芸の復興が目覚

ましくみられる。マオリ芸術の代表格として位置づけられる彫刻(ファカロ)は、マオリ

芸術・工芸学校などを中心にその技術の継承が図られ、80 年代半ばにマオリ自身が携わっ

た「テ・マオリ展」がアメリカで成功した。これにより、マオリの彫刻は世界的に有名に

なった。その他、マオリの伝統である入れ墨(モコ15)は近年徐々に復興されてきている。

これは伝統的には個人の社会的地位の高さを表現するものだったが、現在では、自らがマ

オリであることを表明する手段であると同時にファッションとして、若者を中心に様々な

身体部位に施す人が増えている。彫刻やニュージーランド麻を使用した編み物などは現在、

正規科目として教える大学も多く、またワークショップや教室が各地で盛んに開かれてい

る[同上 315-318]。

「近年では観光産業や芸術産業の成長に伴い、マオリ芸術・工芸が売買される市

場が急速に拡大している。これを受けてマオリの知的財産権を保護する必要性が認

識されるようになり、2002 年には政府組織であるクリエイティブ・ニュージーラン

ドのマオリ芸術委員会が中心となって、『トイ・イホ』という商標が登録された。マ

オリ芸術・工芸はマオリにとって今や文化資本であると同時に、重要な経済資本な

12 条約の英語版とマオリ語版の相違点を初めて認めた 13 ワイタンギ条約の実際の適用に関して、マオリが提起する請求について調査し、一定の

事項が条約の原則と合致するかどうかを決定する機関 14 マオリ語が公用語となり、裁判手続きにおいてもマオリ語を使用する権利が認められた 15 男性は顔全体、女性は唇から顎にかけて入れる

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のである[青柳 2008:318]。」

マオリは、非マオリと比べた時に教育レベル・経済レベルの面で劣っているという統計

がでてはいるが、マオリ伝統のダンスや彫刻はニュージーランドにとって欠かすことので

きない観光産業であるのは間違いないと筆者は考える。それらすべてを踏まえた上で、マ

オリの特徴を生かした多くの教育・就職・産業の道を開く必要性があり、またその後ニュ

ージーランドは移民の国としてこれから大きく成長するのではないかと筆者は考える。

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4. 終章 ニュージーランドのマオリ族と白人は、同じ都市に交わりながら住居し、現在ではそれ

ほど大きな問題を抱えていないように見える。しかし、1 章から 3 章を通じて、実際には未

だに多くの複雑な問題が存在していることが分かる。それらは、これまでの歴史のなかで、

先住民が主体となって起こしてきたさまざまな運動により改善されつつあるが、根本的な

問題の解決のためには、先住民と非先住民の意識改革が重要なのではないかと考える。現

在までに、先住民に関するさまざまな条約が結ばれ、それらは国際法に当てはまるものも

ある。しかし、実際に条約として機能していないものや、効果を見られないものがあるの

は、先住民の文化・伝統がしっかりと理解できていないために生じる、先住民への配慮の

欠如が一番の問題点ではないかと考える。例えば教育に関していえば、カナダ・オースト

ラリアともに、経済的な問題もあるのだが、なぜ西洋文化を学ばなくてはいけないのかと

いった学問に対する疑問、先住民としてのアイデンティティ喪失への不安から、学校へ行

く先住民の数は非先住民と比べて明らかに低い。また、先住民としてのアイデンティティ

を守り、西洋の文化と交わる意思があるとないのとでは、結果に大きな違いをもたらす。

マオリ族に関しては、西洋の文化をこれまでの歴史のなかで積極的に取り入れてきたこと

で、実際にマオリ族の間で文字の読み書きの急速な広がりや、作物の栽培の成功など、物

質的に恩恵を受けたのは確かである。現在の教育方針に関しても、マオリ学校ではマオリ

族のアイデンティティとニュージーランド人としてのアイデンティティの両方を求める教

育が行われている。先住民が西洋の文化と交わる理由を明白にすることで学業に対する姿

勢が変わり、また、先住民としてのアイデンティティを尊重されることで、劣等感やアイ

デンティティ喪失といった不安がなくなり、先住民と白人との間で互いに良い効果を望め

るのではないかと考える。ニュージーランド全ての学校で、マオリ学校と同じようなカリ

キュラムを組むことで、マオリの意識変化のみにとどまらず、非マオリの意識変革につな

がり、先住民と共存するということがどのようなものであるか、明白に理解できるのでは

ないかと考える。実際にニュージーランドでは、先住民マオリ族の伝統ダンスや、マオリ

村観光などはニュージーランドにとっては欠かすことのできない観光業であり、そのため

には伝統文化の継承は必須である。確かにマオリ族は、経済レベル・教育レベルで見たと

きに、非先住民より低い数字がでているが、マオリ族の存在なしでニュージーランドを語

ることはできない。

現在、ニュージーランドは多くの国からの移民が滞在する移民の国として知られている。

この先、様々な文化・思想を持つ移民と、先住民族マオリが互いに共存していくためには、

白人が入植する前からニュージーランドに住み、歴史を作ってきた先住民を尊重する社会

を作っていく必要があると考える。そのためには、共通語であるマオリ語の普及、文化の

継承を積極的に行い、ニュージーランドという国について理解することが欠かせないと筆

者は考える。

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