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-文 芸- 草の丘 第 10 号 2016 年 6 月 印旛文学の会 URL http://bungeikusano-oka.raindrop.jp/

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-文 芸-

草の丘 第 10 号

2016 年 6 月 印旛文学の会

URL http://bungeikusano-oka.raindrop.jp/

芸 草の丘

第十号(二〇一六年

六月)

目次

草の丘

第十号

《詩》 ふ

かみどりの路地

中川とら

……………

《短編》 切

畑中康郎

……………

そよのバアバの空中サロン

中川とら

……………

一五

《連載小説》

ラン博士の館(第一話) 唐

瀬 光 ………………

二二

《評論》

カポーティ「冷血」の真実

畑中康郎

…………… 五〇

《連載SFファンタジー》

アプとズコ(APPU&ZUKKO)

―第九回

完結編―

香取

………………

五五

《カット》

高橋より

ふかみどりの路地

中川とら

ふかみどりの路地を

いくつもはいって

古民家の離れに住んでいる

あなたを

よく訪ねた

タバコを気だるく

くゆらせながら

あなたがいれてくれるコーヒーは

きまって

モカのアメリカン

情熱と倦怠

尊敬と嫉妬

概念と情念

共感と反発

連帯と孤独

希望と不安

膝を抱え

互いに

揺れる心と心を剥き出しにして

とっぷり日の暮れるまで

夢中で

話はなし

したね

あの日から

いくつもの時代の峠を越えて

- 1 -

今 あなたは何を思って生きている

すでに 遠くではなくなった

私たちの完結の日を

思索しているかしら……

- 2 -

畑中康郎

はじめに、お断りしたい。

筆者は映画「切腹」(小林正樹監督

仲代達也主演

昭和三十三年芸

術祭参加)を観て鮮烈な感動を覚え、これを小説化することにした。

したがって、ストーリーは筆者のオリジナルではない。そして、文章

化にあたっては映画の場面をなるべく忠実に再現したが、意図的に脚

色している部分もある。

原作は、滝口康彦氏の「異聞浪人記」。

なお、その影響を受けないよう原作に目を通していない。

寛永七年(一六三〇)五月十三日のことであった。

徳川家譜代、井伊家の外桜田町上屋敷に粗末な身なりの浪人が訪れ

た。手入れの行き届かない髷と伸ばし放題の無精髭、そのうえ袖口、

襟元が擦り切れた武家装束。

浪人は、屋敷玄関口で次のように口上した。

「拙者、元和初期に改易となった元芸州広島福島家の浪人、津雲半四

郎と申す者でござる。浪人となり地元で刻苦すること数年、芽はつい

に出ず、江戸に出て仕官を求めたがこれも叶わず、最近は日々の暮ら

しにも事欠く有様。平和な世になれば武士は無用の存在でござろう。

- 3 -

本来の勤めを果すこともできず、生き恥を晒しておる次第。考えつめ

た末、ここは潔く腹を掻っ捌いて死ぬことに思い至った。ついては、

死に場所として貴家のいずれの場所でも結構、ご提供いただきたい」

取次ぎを受けた家老の齋藤勘か

解げ

由ゆ

は、また来おったか、と思った。

と言うのも、今年の一月に同じような申し出があったからである。そ

のとき切腹した浪人は、千々岩

求もとめ

と名乗った。

千々岩が切腹したとき、斉藤には寝覚めの悪い思いだけが残った。で

きれば二度目は避けたい。

「実は、去る一月にも貴殿同様の願いをもって当家を訪れた者があっ

た。そのときも、芸州広島の福島家浪人と言ったが、貴殿は千々岩求

という浪人をご存知かな?」

思わぬ問いであった。津雲は平静を装って答えた。

「いや、存じ上げませぬなぁ。なにせ、福島家には盛時一万二千もの

家臣がおりましたから、見たこともない武士も中にはおりましょう」

「成程そうであろうな。では、そのときの様子を話す故、その話を参

考にされては如何かの?」

「拙者、話を聞いた後に思いを翻すようなことはない。しかし、一応

は承ろうか」

齋藤はこのとき思った。

『話を聞けば、この男、きっと切腹を思いとどまるに違いない。それ

でもやると言うなら、今回も前回同様の処置にすればよい。どうせ、

浅ましい魂胆で訪れた輩であろうからな』

齋藤が切腹事件の様子を話し始めた。それは次のようなことであっ

た。 最

近、浪人が切腹を申し出て来ることが多くて困っている。最初は

数町ほど先の仙石家の上屋敷であった。そのとき、仙石家では心がけ

殊勝ということで同情し、浪人をお納戸役に取り立てた。

以後、その噂を聞きつけたのか、他家のいくつかにも何人かの浪人

が訪れた。が、取り立てるほどに役職の空きがなかったため、仕方な

く某かの金銭を持たせて引き取ってもらった。そういうことが続けて

起きて以来、事件は流行りのようになっていたのである。

だが、井伊直政の赤備えとして武勇の誉れ高い井伊家では、家老を

始めとしてそうした軟弱な対応を嫌った。

千々岩から切腹したいとの申し出があったとき、井伊家は初め、千々

岩を座敷に上げ、馬回り役の河辺梅之助が対応した。

河辺が言った。

「申し出の儀、まことに武士の鑑とするところである。その思い、甚

- 4 -

だ殊勝。いま江戸表におられる当家お世継ぎ、千之助様のお目通りが

許された。ついては、その衣服ではまずかろう。まずは一風呂浴びて

からしかるべき衣服に着替えられよ」

それを聞き、千々岩の心を覆っていた暗雲は一気に晴れた。何とい

う幸運だろうか。お世継ぎに目通しが許されるならば、召し抱えも夢

ではない。早くも有頂天に近い状態になった。

風呂に入り、お世継ぎの目通りに相応しい装束に着替え、再び座敷

に坐ること半刻。襖を開け、武士が現れた。が、現れた武士は最前の

河辺ではなかった。

「拙者、お納戸役の面高彦九郎と申す者でござる。早速でござるが、

そのお召し物、着替えていただこうか」と、その武士は唐突に言った。

千々岩は怪訝に思った。たったいま着替えたばかりである。どんな

装束に着替えるというのか?

そのとき襖が開き、そこに新たな装束

が差し出された。愕然とした。千々岩にとって絶対にあってはならな

い、それは切腹の儀式に使う白装束であった。

あっ、と思わず声に出してしまった。全身に冷たい血が流れた。

「これは、何としたことか。最前、河辺殿と申された方は、お世継ぎ

様にお会いできるとおっしゃった」

狼狽の色は隠せない。あまりの落差であった。天にも昇る気持ちか

ら絶望の淵に一気に落とされたのである。

「河辺殿が?

そうか、そのようにおっしゃったか。だが、それはそ

こもとの勘違いでござる。千之助様は、武士の鑑となるそのような申

し出は敬服に値する。申し出のままにお腹を召していただき、当家の

武士たちの鑑とさせていただくように、との仰せでござった」

千々岩の目が焦点を失って宙を泳いだ。落ち着きもなくなり、言葉

は哀願の響きに変わった。

「お願いでござる。一両日待っていただきたい。拙者、必ず立ち戻っ

て参る。逃げも隠れも致さぬ。拙宅には病気の妻子が待っている。ど

うか、一両日。どうか」

だが、面高から発せられた言葉は冷ややかなものだった。

「それはなりませぬなぁ。一度武士の口から出た言葉、易々と取り消

すことなど許されるものでもあるまい。そこもとは初めから死ぬ気で

当家を訪れたのであろう。さりながら何をいまさら一両日の猶予とは、

奇態なことではないか。さ、着替えていただこう」

その言葉は実にゆったりとしたものだった。それが千々岩に一層残

酷に響いた。尚も懸命の表情で猶予を訴えたが、それは命乞いともと

れるものであった。

面高は千々岩の願いをどうしても許さない。井伊家は卑怯者を極端

- 5 -

に嫌う家風なのである。

千々岩はついに覚悟を決めた。一度覚悟を決めると、その目には強

い光が戻った。彼も以前は福島家のれっきとした武士なのである。白

装束に着替え、庭先の白布を掛けた畳二枚の上に正座した。見物なの

か、大勢の井伊家の武士が庭先を囲み、千々岩の一挙に興味の眼差し

を注いでいる。

ところが、ここで奇妙なことが起きた。覚悟を決めたはずの千々岩

の態度が、目の前に置かれた短刀で明らかに落ち着きのないものに変

わったのだ。

「お願いでござる。短刀は拙者のものではなく、貴家のものを拝借し

たい」

実は、切腹に使うことになった短刀は、千々岩が腰に下げてきたも

のであった。

千々岩は必死に訴えたが、介錯役の面高彦九郎が言下にこれを拒否

した。

「それは異なことを申される。借り物の刀で切腹など言語道断。武士

の魂である御自らの刀を使わずに切腹もあるものか。貴殿のもので成

されよ。切腹は本来の作法に則り、見事横一文字に切り裂いた後、十

字に切り上げられよ」

千々岩にとっては、これ以上非情な言葉はなかったのである。もは

や、自身が持参した短刀を使わざるを得なくなった。

彼が絶望した理由は何であったか?

それは短刀が竹光だったから

だ。竹光では腹は切れないのである。それでも強行すれば、大変な苦

痛が伴う。

困窮していたため、腰の大小を含め、彼は金目のものをすべて売り

渡していた。竹光を差して井伊家に切腹を申し出ていたのである。

井伊家の家臣たちは、着替えの際、腰の物を預かった段階で、それ

が竹光であることを知った。知ったうえで真剣を貸与しなかったので

ある。それは彼らの残酷さに他ならない。

竹光による切腹がどれほど大変なものか、想像すれば容易にわかる。

腹に突き立てようとしても、簡単には刺さらないのである。

事実、切腹が始まったとき、千々岩は何度も力一杯に突いた。だが、

無駄だった。その度に腹の弾力ある筋肉に撥ね返された。何度努力し

てみても深くは刺さらなかった。仕方なく体重をかけ、竹光に覆いか

ぶさった。ようやく竹光の先端から十寸ほどが千々岩の腹に沈んだ。

酷い苦痛が襲ってきた。すでに夥しい血も流れている。だが、そこか

ら先がまた厄介だった。切腹の作法通りにやるなら、刀を左から右へ

と引かねばならない。だがそれは所詮不可能なことであった。苦痛の

- 6 -

ためか、徐々に力も失われている。それでも彼は努力した。脂汗を流

しながら渾身の力を籠めた。一寸だけ、やっと右に動いた。が、それ

以上はやはり無理だった。筋肉が収縮し、竹光を締め上げる形になる

ので動かないのである。苦痛ばかりが彼を襲っていたが、意識はいつ

まで経ってもなくならない。一方、介錯役の面高が刀を振り下ろす気

配は一向になかった。

耐え難い苦痛となり、顔が歪み歯を食いしばった。もはや限界に達

したときだった。

「あぐっ!」声にならない声を出し、千々岩は、見苦しくもそこで舌

を噛み切った。そしてそのときになって、やっと介錯の刀が首に振り

下ろされたのである。

庭先に敷かれた畳二枚の上に掛けられた白布は、夥しい血で真っ赤

に染められ、血溜まりを作った。そして前方には両目をカッと開き、

歯を食いしばり、顔を歪めたままの千々岩の無念の首が、胴を離れて

転がっていた。

齋藤が話し終えた。

「どうであろうの?

当家では、お望みならそのまま貴殿に切腹をし

ていただくことになるが、いまなら止めることもできる」

「いや、拙者もとより死は覚悟の上でござる。いまさら話を承って決

心の鈍ることはござらん。いやそれよりも、ご家老の言われた話は事

実に相違ござらんな?」

津雲は動揺を見せることなく、念を押すように質した。

「勿論、嘘偽りはない」

津雲は頷き、齋藤は面倒なことになったな、と思った。

半刻ばかりが経ち、津雲は死に臨もうとしていた。庭先に正座し、

静かに瞑目している。周囲にはまたしても見物なのか、家老の齋藤を

始め、家臣一党の好奇の眼差しが注がれていた。

津雲が目を開いた。その瞳には一点の曇りもない。心に動揺がない

のである。もとより覚悟の上で井伊家を訪れている。彼の心底には死

を免れ、役職や金に有り付こうなどという浅ましい考えは一切なかっ

た。

齋藤が、「それでは、始めていただこうか。介錯は、そこにいる橋田

十内にさせる」と言った。

そのときだった。津雲が大きな声を上げたのである。

「あいや、しばらく」

齋藤は、そのとき、何かしら意外な思いを抱いた。

- 7 -

「橋田ではご不満かな?

それとも誰か介錯人に希望の者でも?」

「されば申し上げる。介錯は神道無念一流にして貴家髄一の使い手と

聞く、面高彦九郎殿にお願い申す。何の滞りもなく見事拙者の首を刎

ねていただけるであろう」

面高が神道無念一流の使い手であることをどうして津雲は知ってい

るのか、齋藤は瞬時訝しく思った。が、そんなことはどうでもよかっ

た。

「あいわかった。面高はおるか? 面高彦九郎は?」

齋藤が周囲を見渡した。が、面高の姿は見えなかった。それで傍らの

重臣に尋ねた。

「面高はどうした?

姿が見えないが」

「面高は体調を崩し、ここ数日休暇届けが出ておりまする」と重臣が

答えた。

齋藤が怒った。

「なんぞこれしきのこと、体調が悪くても介錯には影響しない。おい

っ、使い番!」

指呼された使い番が、床机に座っている家老の目前まで走り寄った。

「急ぎ面高の役宅に行き、出仕するよう呼んでまいれ」

使い番が急いで外出した。そのため、いくばくかの時間の余裕がで

きた。

斉藤は、津雲を正面から覗き込むようにして言った。

「津雲殿、いくらか時間が出来た。一度書院にでも上がり休息を取ら

れたらどうかの?」

優しい言葉をかけられた津雲であったが、

「いや、座敷で休息ともなれば決心が鈍り申す。よってここを離れず

に、むしろ拙者の身の上話などをご一同にお聞きいただきたい。よろ

しいかな?

我が境遇が、貴殿らにとって明日は我が身となるやも知

れず、話の一端でもお汲み取りいただければ何かの役に立つというも

の」と答えた。

『明日は我が身とはどういうことだ?』齋藤は不審に思い、それを許

した。

「話が長くならないように、それでは手短に頼む」

津雲が許しを得て語ったこと、それは思いがけないものであった。

彼はこう語ったのである。

「千々岩求は、忘れようにも終生忘れることなどできない男でござっ

た」

家臣一党から微かなざわめきが起きた。齋藤にも僅かな衝撃があっ

た。

- 8 -

津雲の語った話は次のようなことである。

元和三年(一六一七)、芸州福島家では広島城の修築を図った。その

年、大雨が広島地方を襲い、城の本丸、二の丸、三の丸、そして総構

えまでが破損した。その修築を図っただけのことだった。ところが、

二代将軍秀忠はこれに難癖をつけた。城の修築を無断で実行したこと

は、武家諸法度に触れるというのだ。が、実は無断ではなかった。正

則は口頭ではあったが、家康側近の本多正純に修築を申し出ていたの

だ。 し

かし正純も秀忠も元来が福島家を改易に追い込みたいから、その

事実を無視した。秀忠は、正則に修築済のすべてを破壊するように命

じた。しかし正則には武士の面子があった。本丸部分の石垣を形だけ

破壊し命令に従わなかった。

結果、元和五年、福島家は改易になった。正則の所領は没収され、

四十九万石から四万石に落とされてしまった。さらに信濃の国高井野

に蟄居させられ、ほどなくその地で没した。

修築の設計を行なったのが、千々岩の父陣内である。彼は責任を取

る形で腹を切った。この陣内が津雲の親友であった。

この取り潰しで、福島家一万人以上の武士とその家族が路頭に迷うこ

とになった。収入の当てがまったくなくなり、日々の食事にも事欠い

た。多くの武士が慣れない傘張り、提灯張りなどを仕事としたが、手

内職程度では、家族に十分な食事を取らせることも出来ない。だから

望みは他家への仕官だったが、容易に叶うものではなかった。

津雲には男手ひとつで育てた愛娘の美保がいた。彼女は美しく成長

し、藩がお取り潰しにあった後で千々岩に嫁いだ。幼馴染であった二

人は、ずっと以前から一緒になる気持ちがあったようだ。二人は仕合

わせであった。やがて長男の金吾が生まれた。

事件があったとき、求は二十六歳、美保二十二歳、そして金吾は一

歳になっていた。彼らは貧乏ではあったが、家族が健康でさえあれば

十分に仕合わせと思っていた。金吾もすくすく成長している。何事も

なく時は流れるかのように見えた。

だが不幸は急いでやってきた。もともと蒲柳の質であった美保が、

労咳にかかり血を吐くようになったのである。

さらに悪いときには悪いことが続く。金吾が風邪をこじらせ、高熱

が長く続くようになった。一向に下がる様子もない。栄養のある物を

食べさせ、医者に薬を処方してもらえば何とかなったかもしれない。

だが、そんな金はどこにもなかった。

貧すれば鈍す、という。千々岩は物事を悪い方にばかり考えるよう

- 9 -

になり、ついに魔が差した。以前の彼なら、考えるはずもないことだ

った。それは高利貸しからの借金である。返すあてなどまったくない

のに借金をすれば、結果は必ず借金の踏み倒しになる。だが、そんな

ことを考える余裕すらなくなっていた。とにかく医者に二人を診ても

らわなければならない。

彼は、借金をするために家を飛び出した。義父に行き先とその理由

を述べ、夕方までには帰ると伝えた。津雲にとっても、高利貸しから

の借金を否定する理由がなかった。背に腹は代えられなかったのであ

る。 彼

は駆け出した。二人の命をただ救いたかった。

高利貸しに向かって外桜田町の近くを通ったときだった。ふと、目

の前に井伊家上屋敷が見えた。そのとき天啓のように頭に閃いたこと

があった。それは、切腹を申し出て金を手に入れたという、同じ境遇

の浪人の話であった。これだと思った。正常なときの彼なら決して考

え付かない浅ましいものであった。

津雲がそこまで話したとき、面高を呼びに行った使い番が帰ってき

た。

「ご家老様、面高殿は家人によりますれば、いよいよ高熱のため出仕

叶わぬとのことでございます。さほどに熱は酷く……」

「ええぃ、わかった。なんと情けない。武士たる者、平素より体を鍛

えておくべきなのだ」

齋藤はそう言ってしばらく沈黙したが、ついにはこう言った。

「津雲殿、お聞きのとおりじゃ。面高はここに来れぬ。よって介錯は

さきほど名指しした橋田にお任せくだされ」

橋田はそれを聞くと、すぐに抜刀しながら津雲に歩み寄った。死を

前にした静寂が再び訪れようとしていた。すると、津雲が再び声を上

げた。

「しばらく!」そう言って、右の手のひらを齋藤に向け、同時に睨み

ながら周囲の動きを制止した。

「そういう事情なら仕方ない。だが拙者も覚悟して貴家に切腹を申し

出た身、最後くらい我がままを許されてしかるべきであろう。それで

は河辺梅乃助殿にお願いしたい」

齋藤はどうでもよくなっていた。とにかく早く津雲に切腹させ、井

伊家の体面を保つことだ、と思った。

「よかろう」齋藤はそう言って、河辺を目で探した。が、河辺も見当

たらない。河辺は?

と聞くとこれも体調を崩して休暇願いが出てい

るという。斉藤は舌打ちをした。

- 10 -

「津雲殿、相済まんが河辺も休暇じゃ。ここは橋田で勘弁してくれぬ

か!」

「いや、勘弁できませぬな。それでは、矢崎隼人殿にお願いしたい」

斉藤は嫌な予感がしたが、再び周囲を見回した。何としたことか、

やはり、矢崎も休暇願いが出ていた。

「津雲殿、いやはや何とも情けないことでござる」

そのときだった。津雲が突然大声で笑い出したのである。

「はっはっは、思った通りであったな。彼らにそんな気概があるとは

思えない。武士だ、魂だ、井伊家の赤備えなどと、ただ言葉では大き

なことを言っているが、いざとなれば何もできぬ腰抜けどもばかりだ」

「なにー!」怒りを沸騰させたのは、その場にいた家臣全員であった。

すでに抜刀して津雲に詰め寄ろうとしている。

「待て!

もう少し話を聞け!」

津雲はそう言うと、懐に手を入れ何かを取り出し、それを前方に投

げ捨てた。見ると、髷である。侍の命とも言える武士の魂であった。

家臣一同に大きなざわめきが起きた。

「それは河辺殿の髷じゃ。ほれ髷に白い布が付いておろう。河辺殿の

名前がついている」

確かに白い布が髷らしき物に巻き付いており、そこに何某かの文字

が見える。

「ほれ、もうひとつ。それはな、矢崎殿の髷じゃ」津雲が再び投げた。

この髷にも白い布が巻き付いていた。

「すると、面高の髷もあるというのか?」

齋藤の顔が醜く歪んだ。井伊家の面子が丸潰れとなったのだ。

「勿論、これにある」

津雲がそう言ってもうひとつの髷を取り出したとき、齋藤が床机か

ら立ち上がった。家臣たちも抜刀したままの姿勢でさらに津雲に詰め

寄った。

「井伊家の腰抜けの皆様、三人の顛末がお聞きになりたくないかな?」

面高の髷が放り投げられた。

齋藤は仕方なく決心した。井伊家の体面を保つために後々必要な話

に違いない。聞かねばならなかった。

「相わかった。それでは、貴殿の話を聞こうではないか」

「はっはっは!

おわかりいただけたか。それでは続編をお聞かせ申

す」と、言って再び津雲は語り出した。

津雲と美保は高利貸しに借金に出向いた千々岩をじっと待っていた。

夕方までには間違いなく帰ってくると言っていたが、帰ってこない。

- 11 -

二人の心は大きく乱れていた。

それから何刻かが過ぎ、夜更けてからのことであった。長屋住まい

の千々岩家、その引き戸を叩く音がする。津雲が開けた。見ると、そ

こには筵を掛けられ、顔の部分が白い布で覆われた遺体らしき物が戸

板の上に横たわっている。傍らには三人の武士が佇んでいた。

「千々岩家の方でござるな。拙者、井伊家お納戸役、面高彦九郎と申

す者。当家、庭先にて見事切腹をなされた千々岩求殿のご遺骸を持参

致した。確かに送り届けたので、確認を願いたい」と、その武士は言

った。鉛を呑んだような面持ちで津雲は遺体を見た。白布を取り去り、

顔も見た。首は胴を離れていたが、体裁よく首の根元に置かれている。

確かに求の首であった。その両眼は大きく見開いたままで、無念の表

情が読み取れる。津雲はこみ上げる激情を押さえ、そっと両眼を閉じ

てやった。そして、

「そちらのお二方の姓名も承りたい」と静かに尋ねた。

「それがしは、馬回り役、河辺梅之助」。「同じく馬回り役、矢崎隼人」

と名乗った。

「いや、それにしても情けない世の中になったものよ。切腹をだしに

使い、金銭にありつこうなど、武士の風上にも置けぬ。いざ切腹が決

まると、今度は命乞いである。一両日待ってくれ、と言う。情けない

男であった。切腹にあたっても、最後は舌を噛み切るなど武士の魂も

ない。見下げた奴だった」

そう言ったのは、矢崎であった。面高も河辺も正座している津雲と

美保を傲然と見下ろしている。三人の表情には薄ら笑いも浮かんでい

る。

「確かに、送り届けたぞ」面高はそう言った。それから三人は引き戸

を大きな音を立てて閉め、帰って行った。

三人が帰るとすぐに、美保が泣き出した。涙を堪えていた彼女は、

求の遺体に縋りつき、号泣したのである。

さすがの津雲も放心したのか、正座したままでいくばくかの時間、

そのままの姿勢で動けなかった。しばらくの時が経ち、改めてゆっく

りと求の遺体を検分した。そこで、初めて津雲は気づいたのだ。求の

腹部は横に切れていなかったのである。不思議に思い、傍らの刀身を

見た。

「あぁ」津雲は天を仰いだ。嘆息とともに涙が流れた。

「おれは武士の魂と称して、真剣を手放さなかった。だが、求は、求

は真剣を金に換えていた。竹光で切腹させられたのだ。何と言う惨い

ことだ。苦しかっただろう。情けなかったであろう。舌を噛み切って

当然だ。その無念を井伊家の奴らがわかるはずもない。ぬくぬくと腹

- 12 -

いっぱいに食を取り、日々の生活に何の心配もない。そんな連中に求

の心底がわかるはずもない」

求の死から一ヶ月後、金吾が高熱から冷めないまま世を去った。そ

して二ヶ月後には労咳を患っていた美保が後を追った。ついに津雲は、

天涯孤独となってしまったのである。このとき、この世への未練の一

切を失った。

それからのことである。津雲は求の遺体を送り届けてきた三人の日

常を注意し始めた。まず、河辺の行動を探った。河辺が下番する時間、

帰りの道順を調べたのである。それを決行したのは五月六日のことで

あった。

屋敷町の土塀が続く道で刀を抜いた。だが始めから殺す気はない。

ただ、あることを確かめたかったのである。それで河辺を組み伏せた

とき、その髷だけを切った。もともと河辺など津雲の敵ではない。髷

を切られたまま、河辺は逃げ出した。

次は、矢崎であった。矢崎とは寺の門前で勝負に及んだ。五月八日

のことである。これも津雲の敵ではなかった。簡単に髷を切り取り、

矢崎を放免にした。殺す気などないのに、矢崎はそのとき見苦しくも

命乞いをした。

面高のときは、少し苦労した。神道無念一流を名乗るだけのことは

あった。

実は、河辺と矢崎の様子を知った面高は、五月十日に自ら津雲のあ

ばら家を訪れ、決闘を申し込んできたのである。

決闘は翌日、護持院ケ原で行なわれた。背丈の高い雑草が生い茂る原

野と言ってよかった。戦闘は小半刻ばかり続いたが、これも津雲の勝

利に終わった。袖口を浅く斬られたものの、最後には面高の刀を打ち

落とした。

それでも面高には面子の欠片くらいはあった。殺せと何度も叫んだ。

しかし津雲は殺さなかった。髷を切り取ると、蹲ったままの面高をそ

の場に残し、護持院ケ原を去ったのである。

津雲は井伊家の庭先で正座しながら、ここまで語ると再び大声で笑

い出した。

「三人の井伊家の武勇に長けた皆様が、これはまたどうしたことだ?

髷を斬られた皆様が、堂々と武士らしく切腹したとは、拙者には聞こ

えてこない。三人が三人とも体調を崩して休暇願いとは見下げた武士

の魂であることよ。時間が経てば髪も伸び、髷も結える。それを待っ

ているのであろう。これが、井伊家の武士の魂という奴か。なんとも

情けない、口先だけの武勇であることよ。

- 13 -

そして、もうひとつ言っておく。求が一両日の猶予と言ったとき、

何故、待ってやらなかったのだ。それが武士の情けというものではな

いか。恵まれた立場の人間には貧乏の本当の辛さは理解できぬと見え

る。何という自分本位の連中だ。武士の体面を語る前にもっと人とし

ての情けを知ったらどうなのだ!

武士たるよりも、まずは人間たる

べきであろう」

齋藤は恥ずかしさに瞬時俯いたように見えた。しかし、すぐに言い

放った。

「津雲、よくもほざきおったな。皆の者!

津雲を討ち取れ!」

津雲は立ち上がった。すでに自らの手で命を捨てる気はなくなって

いた。あるいは、始めから自決する気などなかったのかもしれない。

むしろこうなっては、井伊家在勤の出来るだけ多くの武士を斬りたく

なった。

津雲が刀を構えると、いきなり三十人に余る家臣たちが殺到してき

た。

だが、かつて剛の者と戦場で怖れられた津雲を簡単には討ち取れな

かった。見事な太刀捌きだった。四人が殺され、負傷者は十数人に及

んだ。

戦闘は長引いた。が、結局は多勢に無勢。さすがの津雲も最後は疲

れ切ってしまった。その疲労も限度に達し、刀を構えたままで休息を

取ろうとした。

そのときだった。卑怯にも鉄砲隊が出てきたのである。そして発砲

された複数の銃弾が津雲に命中した。彼はここでついに絶命した。

やっと、求や美保、金吾の待つ世界へと旅立つことが出来たのだった。

津雲が死んだとの知らせを別室で受けた齋藤は、報告にきた重臣に

命じた。

「面高、河辺、矢崎に即刻切腹を申しつけよ。そしてこのような不様

は厳に内密にせよ。井伊家は真に武士たる魂を持った家柄なのだ。卑

怯者を育てた覚えは断じてない!」

齋藤はそう叫ぶと、頭を抱えて蹲った。

この事件―。

当初、藩の中では知らない者はなかった。しかし、厳重な箝口令が

布かれたうえに、公式記録に残されることがなかったため後世に一切

伝わっていない。

〈了〉

- 14 -

そよのバアバの空中サロン

―その一

白痴

はくち

美び

中川

とら

冬の北風がピタリとやんだその日は、午前中からポカポカと気持ち

のいい陽射しがふりそそいで、体中をつつみ込むように暖めてくれま

す。

そよのバアバのベランダも、パンジーやビオラがさぞかしよろこん

で花びらを広げていることでしょう。

和音

かずね

ちゃんは、小学校6年生。そよのバアバは、お母さんの実のお

母さんです。名前を、中川そよのと言います。十年ほど前に夫である

おじいちゃんを病気で亡くし、それから近くのマンションで一人暮ら

しをしているのです。

「おばあちゃんが寂しがるから、あなた時々顔を見に行ってあげてね。」

お母さんは、働いていて忙しいので、いつも口癖のように和音ちゃ

んに言います。

「はい、分かりました。」

和音ちゃんは、少しもいやがらず学校が終わると、毎日といってい

いほどおばあちゃんの家に寄って行きました。

おばあちゃんの家は、高層マンションの十三階。南東と北西にちょ

っと幅の広いべランダが付いていて、鉢植えの草花がお行儀よく並ん

でいます。空気が澄んで晴れた日には、北西に筑波山、南西には、遠

- 15 -

く小さいスカイツリーと浮世絵のような富士山が重なって見えました。

それは、おばあちゃん自慢の景色で、お客様を喜ばせ、うらやましが

らせるものでもありました。

またおばあちゃんは、お掃除好きなので、玄関を入ると清潔で、い

い匂いがします。お部屋もきれいに整理整頓され、トイレはいつもピ

カピカでした。

風邪を引くことも滅多になく、元気でニコニコ笑って、楽しそうな

ので、今はまだ少しも心配ありません。それでもお母さんに言われた

ことをきちんと守るのは実は、和音ちゃん自身におばあちゃんに会い

たい理由があったからなのでした。

それは、一つはおやつ、二つに笑顔、そして三つ目はお話でした。

おやつはおばあちゃん手づくりのものが多く、それはそれは、おいし

いのです。シフォンケーキには、いつも甘い生クリームがたっぷりの

っていましたし、スイートポテト、チーズケーキは、お店で買ったも

のよりズッとこくがありました。時々、御漬け物やお野菜の煮物が出

て来る時もありましたが、そんな時は、必ずかわいらしい絵模様のつ

いた小皿に形よく盛りつけてくれるのです。そして、色も香りも深い

緑茶をそえてくれることも忘れません。

「めしあがれ」という時のおばあちゃんは、何とも言いようのないや

さしい目をしてほほえみます。だから和音ちゃんは、しっかり正座を

して「ありがとうございます!

いただきまーす」と思わず手を合わ

せてしまいます。

お友達をさそうときもありましたが当然、おばあちゃんのおやつは

大人気で、「またさそってネ!

約束だよ、和音ちゃん」と、だれもが

リクエストをしました。それで和音ちゃんは、高学年になってからは、

おばあちゃんが困らないようにと、さそうのは順番に一人と決めまし

た。そして三つ目の「お話」は、どれも興味をひかれるものでした。

おばあちゃんは、実にいろいろな話を表情ゆたかにしてくれるのです。

その内容は一様でなく、魅力的でした。どういう風にと聞かれても、

ちょっと説明はむずかしいのですがつまり、あきない、いやな気持ち

にならない、なぜかいつまでも心にやきついてはなれなくなるという

のが一番あたっているでしょうか。

お友達の中には、たまにおやつを食べ終わるとさっさと先に帰って

しまうお調子者もいましたが、おばあちゃんは、「さようなら、お気を

付けてお帰りなさいね」と必ず玄関までお見送りをしてくれました。

今日は、小学校の卒業式も近づいて、おそらくお友達をさそうのは、

これが最後の日になるかも知れません。和音ちゃんは、だれをさそお

うか迷っていましたが、どう考えても思い浮かぶのは、まりえちゃん

- 16 -

でした。まりえちゃんは、口数は少ないのですが、お行儀がよく、落

ちつきがあり、何より人の話をしっかり聞くことができるからでした。

今日は、待ちに待ったその日でした。ポカポカと暖かい陽射しにつ

つまれながら、マンションまでの道のりを、和音ちゃんとまりえちゃ

んは、大した会話もせず、でも時々顔を見合わせては、ニコニコ笑い

ながら歩きました。もうすぐ中学生になる今日、いったいどんなおや

つが出て、どんなお話が聞けるか、それを考えると和音ちゃんはワク

ワクする心を抑えられません。(まりえちゃんだって、何も言わないけ

れど、きっとそう思っているにちがいない)

「走ろうか!」

「うん」

二人の背中で、少し小さくなったランドセルがカタカタと音をたて

はじめました。

おやつは、めずらしくおばあちゃんの手作りではなく、大きくて、

ピカピカのイチゴでした。真っ白なフルーツ皿に真っ赤なイチゴが三

つ、お手ふきのおしぼりといっしょに並んでいます。

「どうぞ

召し上がれ」

おばあちゃんはいつもの笑顔で二人にすすめます。まりえちゃんの

ほっぺがほんのりさくら色になって、つやつやしてきました。

「ありがとうございます

いただきます」

イチゴは口にふくむと独特の春の香りを放ちます。みずみずしくて、

ほんのり甘酸っぱくて、飲みこむとのどがゴクンと音をたてます。思

わず「おいしい!」と和音ちゃんが言うと、まりえちゃんは目を細め

てコックリとうなづきました。

「それはよかったこと」

おばあちゃんは、二人の顔をかわるがわるに見てはニコニコしてい

ます。

食べ終わり、おしぼりでくちをふき、和音ちゃんはひざをくずして

横すわりになりました。まりえちゃんは、緊張しているのか、足をく

ずしません。和音ちゃんは、まりえちゃんのひざをスカートの上から

トントンとやさしくたたいて自分の足元を指しました。すると、まり

えちゃんはうなずいて「大丈夫」と小さい声で答えました。

「おばあちゃん、私たちもうすぐ中学生になるでしょ。何かいいお話

をしてくれる。お祝いだものねー、まりえちゃん」

和音ちゃんがそう言うとまりえちゃんは、首をかしげて、ほほえみ

ながらおばあちゃんを見ました。

- 17 -

「ほんとうに

アッという間だったね」

目を細めて二人を見ていたおばあちゃんは「そうそう、私があなた

達と同じ六年生のときのお話をしましょうかしら……、五十五年も前

のことよ!」と照れ笑いしました。

「まりえちゃん、足をくずして楽にしたら?」

そう言うとおばあちゃんの話は、始まりました。

それが、どういう訳かはっきり覚えているのよ。そう、あれは確か

卒業式がちかづいて、だれもが何となくソワソワ腰のおさまらない日

だったと思うワ。担任の先生がお休みをされて、代わりに学年主任の

木村先生という方が入ってこられたの。先生のあだ名は『きむらや』、

どうしてそんなあだ名がついたかというと、先生はきむらやのあんパ

ンにあまりにそっくりだったからね。

そこまで言うとおばちゃんは、クスクスと思い出し笑いをしました。

二人は意味がよく分からずポカンとしていました。多分、顔のまん

まるな人なんだろうぐらいに思っていました。するとおばあちゃんは

「きむらやのあんパンは真ん中にゴマと桜の花の塩づけがポツンとの

っていてね、まあるいお顔にちょっと中心に寄ったつぶらな瞳の先生

のお顔はまったく、そっくりだったのよ」と解説しました。

「アンパンマンみたいネ!」と和音ちゃんが言うと「そうそう、そん

な感じかしら」とおばあちゃん。

いよいよ話は本題に入りました。

先生は、さっそうと教室に入ってこられたかと思うと、「きょうは担

任の市川先生が出張されていますので、自習です。が、それも退屈で

しょうから、一つ私がやがて卒業されていく皆さんに、お祝いの話を

します。」

そう言われ、黒板に向かってチョークを持ちました。そして、大き

く男子と書き、それから少し間隔をあけて女子と書きました。はらい

の正確な美しい楷書です。まず男子!

と言われたけれどそのあとの

こと、つまり先生が何を書かれ、どんなお話しをされたか全く記憶に

ないのよね。ただ男の子たちがクスクス笑ったり、時々ざわついたこ

とだけを覚えている、それだけ。でも、次は女子と言われた先生のは

りのある声は忘れられません。おもむろに新しい白いチョークをにぎ

った先生は、大きなくっきりとした文字をゆっくり書かかれました。

白痴美

教室はシンと静まりかえって、何人かの男の子が「なんだ、なんて

読むんだ?」とつぶやいています。

みんなの方に振り返られた先生は、「はくちび

と読みます!

聞い

- 18 -

たことある人。」と言いました。

手を挙げる人は、一人もいませんでした。わたしも、はじめて耳に

する言葉でしたよ。

「女の子はこれからだんだん女性になります。お姉さんのいる人は思

い当たることがあると思いますが、中学生になると、おそらく今より

もずっと自分自身の顔かたち、姿が気になるでしょう。」

みんな真剣な顔をして先生の口もとをみていましたよ。美しさには、

目に見えるものと、心に感じるものがあります。中から、にじみでて

くる美しさを大切に身につけていってほしいというのが、私の願いで

す。どんなに塗りたくっても、どれほど着飾っても、心の美しさ、内

面の豊かさが乏しければ、人を振り向かせることはできません。まし

てや、自分を真に幸せにすることは不可能です。特に女子はそれが大

切です、と先生はきっぱりおしゃいました。

人の言動や行動にはその人の個性がでるでしょう? その個性を、

美しく豊かにしていくことが大事です。先生は学者でもなければ、医

者でもないので、美についての知識があると言えませんが、経験や体

験から感じていることを話しています。なかには、化粧する人も出て

きますね。

昔だったから、みんな「えーっ」とか「いやだー」とか言っていま

したよ。先生は、そのあと一気にこう言われました。

美しくなりたいと誰もが強く願うでしょう。そうしてやたら鏡を見

て、もう少し目が大きかったら、もう少し鼻が高かったら、もう少し

肌が白かったら、もう少しウェストが細かったらと、自分自身の姿に

満足できず、執着が始まるのです。悪いことですか?

いいえ、そう

思うのはごく自然なことです。むしろそれは皆さんの成長の証です。

その気持ちがあるからこそ、女子はだんだん女らしく、きれいになっ

ていくとも言えますね。しかし、度をこすと、人と比較して自分に幻

滅したり、こだわったり、中には自信を失うようになってしまう人も

でてきます。こうなってはいけませんよ、というのが今日、私がみな

さんに贈る言葉です。どうか愚かな見せかけの美人にはならないでく

ださい。

先生はお話を終え、チョークをおき、みんなをなごりおしそうに見

つめ、それから小さい目をいっそう小さくして微笑みました。

そよのバアバの話は終わりました。和音ちゃんもまりえちゃんも一

点をみつめて、言葉がありません。

「長い話になっちゃたわね」そう言ってキッチンに立って行ったおば

あちゃんは、温かいミルクティーを入れてきてくれました。それをき

- 19 -

れいにいただいて二人はおばあちゃんにお礼を言い、さよならをしま

した。帰り道、まりえちゃんは相変わらずおしゃべりをしませんでし

たが、和音ちゃんは、まりえちゃんを誘って、本当によかったと思う

のでした。

一週間ほどして、学校の帰り、和音ちゃんはまりえちゃんと帰るこ

とにしました。

「気になることがあるの、まりえちゃん一緒に帰ってくれる?」

「いいよ」

道中いつもと違う路地をいくつか入ったところで、「白痴美の話、ま

だ覚えてる?」

和音ちゃんが聞きました。まりえちゃんは、「うん」と笑顔で答えま

した。やがて道はさらに細くなって、緑の茂みに突き当たりました。

よく見ると、その中に一軒の古くて立派な家が建っています。

「あの家」

「なに?」

「あの家に住んでいる女の子」

「……?」

和音ちゃんは、木々に囲まれた三角屋根の瀟洒な家の窓辺に目をや

りました。耳をすますと、かすかにピアノの音色が聞こえてきます。

「とってもきれいなのよ」

「だれが?

その女の子?」

「うん、いつか見たアニメの主人公にそっくりだった。わたし、何度

か窓が開いているときに見かけたの」

「そう……」

その時でした。突然、そう本当に突然、突風のような風が吹き、二

人は目を細め、身をかがめました。その瞬間、まりえちゃんの肩に柔

らかい何かがからみついたのです。

風が弱まったので、まじまじと飛んできたものを見るとシフォンベ

ルベットの桜色のストールでした。

「あの家?」

「きっとね」

和音ちゃんは、門に取りつけられたチャイムを鳴らしました。する

と、ほどなく、広い庭の奥の玄関ドアが開きました。

「あっ」

和音ちゃんはびっくりしてくぎづけになりました。

大きな目、肩まで伸びたまっすぐな髪、透きとおるような肌をして

確かに綺麗な女の子です。レースのブラウスにチュールのスカートを

- 20 -

はいたその人は良く見ると和音ちゃんたちより年上に見えました。こ

ちらに向かって何かいっているようですが、後を追ってきたこれまた

形のいい白いスピッツがキャンキャンとヒステリックに吠え続けるの

で声が聞き取れないのです。

そうしているうちにおかあさんらしい人が出てきて、こちらに歩い

て来ました。女の子も、イヌを抱き上げ、やってきます。

「何か?」

女の人がそう言いかけたとき、うつくしい女の子がまりえちゃんの

もっているストールをゆびさし、「ママのストール!」と言って取り上

げました。犬はキャンキャンとうるさくて落ち着きがありません。

「いい子、いい子」

女の子は犬に頬づりをしながら頭をなで、ありがとうとも言わずそ

そくさと家の中に戻って行きました。まりえちゃんが「風に飛ばされ

てきたので、こちらのものかと思いました。」と言うと、その人は「そ

うよ、どうも。じぁ」

そう言って愛想なく門の戸を閉めました。

二人とも無言のまま少し歩いて、和音ちゃんが言いました。

「あのイヌ、綺麗だったけどうるさいね。スピッツよね。初めて見た」

「うん、白チビだね」

「……?

やだ、まりえちゃんそれダジャレ?」

「女の子も

ひょっとして」

まりえちゃんがそう言ったあと二人は声をそろえて、「白痴美!」と

小さく叫びました。

その日のランドセルは教科書が一冊はいっているだけだったので軽

く、二人は肩を組みながら無性におかしくてキャッキャッと笑ったの

でした。

〈その一

おわり〉

- 21 -

ラン博士の館(第一話・入院騒動)

新編・青い実り

唐瀬

プロローグ

八王子の西にそびえる高尾山の麓に、中高一貫教育の全寮制舞鶴

まいづる

女学園

がある。通称『鶴女

つるじょ

』と呼ばれる学園の敷地は、山麓の森を含む広大な面積を

有し、外部との境界には万里の長城よろしく、人の背丈四、五倍もあるかと思

われるコンクリートの塀が、敷地全域を囲んでいる。塀の上端には鉄の忍び返

しと赤外線センサーが張りめぐらされ、人の出入り(特に男)を厳しく制限し

ている。

ぼくはクラブ活動を終えると、そのまま学園の西に広がる緑深い森に向かっ

た。夕飯までにはまだ二時間ほどある。その間に、どうしても気になる、ある

建物を見ておきたかった。

「西の森に廃園があるでしょう。あの西洋庭園は、昔、明治時代に華族の一家

が造ったんだけど、戦後、持ち主がいろいろ代って、手入れも行き届かず、荒

れはててしまったのよ。そこを学園の理事長が買い取ったの。だけど、なぜか

あの方は整備もせず、そのままにしている。まあ、理事長の私有地だといって

も、学園を囲む塀の中にあるから、生徒たちは自由に出入りしているけどね」

昨夜、ルームメイトの尾お

鈴すず

美雪

(愛称、お雪ゆ

)は、すでにベッドの上でまど

ろみ始めていたぼくに向かって、学園にまつわる長たらしい話を始めた。

「塀が高くて、外には、なにがあるかわかんないんだけど、一軒だけ見えてる

- 22 -

家があるの。廃園のずうっと端、森が始まっている所にレンガ造りの洋館があ

るわ。その三階の屋根と丸い塔だけが、塀の向こうに覗いているの」

「それで……」

半分眠りかけているぼくは(聞くのも、めんどうくさい)という返事をする。

「それでね、コラ!

シン、聞いてるの?」

二段ベッドの縁に彼女の怒った顔が現れた。ソバカスを散りばめた小作りの

顔に大きな目玉が二つ、こちらを睨んでいる。たちまち眠気が吹き飛んだ。不

承不承、お雪の方に顔を向ける。

「その家は人が住まなくなってから、もう何十年も経つの。壁のレンガなんて

もうボロボロ。屋根までツタにおおわれているわ」

彼女はベッドの端に両手をかけ、丸い目でぼくを見つめる。部屋の灯は細い

豆電球に落としてあるので、彼女の顔が黒く、本物のオバケのように映る。

「その塔だけど、深夜、草木も眠る丑三つ時、ぼうっとローソクの灯りがつい

て、人の形をした黒い陰がいくつも動き始めるらしいよ」

(いよいよ、コイツの得意な都市伝説が始まったか)

「家の持ち主でも来てるんじゃないのか。それとも、子供の肝試しとか」

ぼくは(あほらし~い)というニュアンスで答えた。

「家主なら昼間に来るでしょう。また、あんな山の中に、それも真夜中、子供

が遊びに来るはずないじゃん。これは、きっと、なにか秘密の会合よ。それと

も、あの家にとりついている自縛霊が、夜な夜な現れるのかも知れないわねえ」

お雪は「くくっ」と不気味な含み笑いを残して、下のベッドにもぐり込んだ。

ぼくは「ばかばかしい」とつぶやきながら、薄い夏布団をかぶったが、なぜ

か目が冴えて眠れない。下からは彼女の健康そうな寝息が聞こえる。

(あいつめ、オレの睡眠を奪いやがって)

結局、その夜は明け方にうつらうつらしただけで朝を迎えた。学校が夏休み

に入ってなかったら、授業中に居眠りをしていたに違いない。

ぼく……おっと、自己紹介がまだだった。名は『立花

たちばな

芯しん

』という。もちろん

立花が姓で芯が名前。この『芯』の字は普通なら誰でも『シン』と呼ぶだろう

が、戸籍上の呼び名は『ココロ』。名付けた親父は、どういうわけか『芯』とい

う字が好きで、男なら問題なく『シン』で通るのだが、あいにく女の子だった

もので、苦し紛れに『ココロ』と呼ばせたのだ。

だが、ぼくは生まれてこのかた『ココロ』と呼ばれた記憶がない。みんな『シ

ン』で済ましている。友達も兄弟も、名付けた親さえも。

そう、ぼくの身体は正真正銘の女性。ところが、頭の方は男脳。考え方、感

じ方が男そのもの。胎児の頃、ホルモン異常かなにかで、脳の構造が男性のそ

れになってしまった。医学的には性同一性障害というらしい。だが、ぼく自身

はちっとも障害者なんて感覚はない。

確かに小さい頃は『オトコオンナ』と言われて、クラスメイトたちから理不

- 23 -

尽ないじめを受けた。だが、高校を受験する時、親父の姦計にあって、この全

寮制女学園に入学せざるを得なかった。でも、ここに入ってからというもの、

これまで悩まされて来た『オトコオンナ』の違和感から全く解放された。

なにせこの舞鶴女学園は、先生はもちろん、事務員から用務員、警備員から

掃除のオバサンに至るまで皆女性。比較する対象がないのだ。ここでは自分の

ことを『オレ』とか『ボク』、相手を『オマエ』とか『キミ』と言っても、みん

な平気な顔をしている。現にこの学校には『普通の女』でも、そういう言葉を

使う女子が、二、三割いるのではないだろうか。昔、女子校で、自分のことを

『僕』と言うのが流行ったと聞くが、ここは、まさに、その世界なのだ。

それにこの学園には、理事長をはじめ、一年上級の蘭ら

先輩(七な

島しま

蘭らん

)、同学年

では黒木

カズや福地

さぎりなど、同じ性質を持つ仲間がかなりいて、友人には

ことかかなかった。

さらにここには、女同士の婚姻である聖婚

せいこん

というのがある。それは、心と心

のつながりを求めて、女生徒同士がパートナーになるという、男と女の結婚に

似た制度なのだ。そのパートナーとなったペアを称して日ひ

見み

子こ

という。世間流

に言えば夫婦という間柄であろうか。

ぼくも先月、二年生の健康美人、伊東

葵あおい

さんと聖婚の式を上げ、日見子にな

ったばかり。今まさに、これまでの人生で、最も幸せな時を満喫していた。

入院騒動

校舎の西に広がる緑の森を抜けると、荒れはてた西洋庭園に出る。南の丘に

は、白い大理石のギリシャ神殿が夕日に映えてまぶしく輝いている。休日にな

ると、いつも聖婚の儀式で賑わうのに、今日は誰の姿も見えない。夏休みは婚

姻のシーズンではないのだろうか。

ぼくは、夏用の薄いジャージ姿で、崩れたレンガ塀を避けながら、雑草の生

い茂る廃園の小道を一人歩いて行く。七月の下旬、この真夏日に、薄い生地と

はいえ、長袖の上着にくるぶしまでのズボンでは、さぞや蒸すだろうと思って

いたが、高尾山からおりて来る涼しい風にあおられて、とても心地よい。

しばらく行くと、学園を囲む高い塀に突き当たった。侘わ

び、寂さ

に満たされた、

風情のある廃園の外側を、上端に鉄の棘を埋め込んだコンクリートの塀が囲っ

ている姿は、なんと興ざめなことか。

それに、なぜか灰色の壁面には、ツタカズラの一本さえついてない。誰かが

こまめに取り除いているようだ。ここの生徒や外部の人間が、張りついたツタ

をたどって、こっそり出入りするのを防いでいるのに違いない。

その証拠に、塀に沿って軽自動車がやっと一台通れるくらいの砂利道が通っ

- 24 -

ている。塀を守る作業員たちが使っているのだろう。

(でも、歩きやすいのはいいことだ)

そう思いながら、わだちのついた砂利道をたどって西の方に向かった。

庭園が終わって森に変わる。だが、それらしき建物はない。

(塀の真下なので見えないのか)

ぼくは塀から離れて、森の中に入った。すると木立の間に建物の屋根らしき

ものが見え隠れしている。もっとよく見ようと、近くの大きなカシの木に手を

かける。幼い頃から男の子とばかり遊んでいたので、木登りはお手のもの。す

るすると幹をよじ登り、横に伸びた太い枝の上に立った。

すると、塀越しにレンガ造りの西洋館が見えた。青銅色の屋根が横に連なり、

その端に丸い塔のようなものがついていた。塀の高さから推し測って屋根の所

が本館の三階部分だとすると、塔は五階建てのようだ。

なるほど、お雪の言う通り、屋根にも塔にもツタが絡みつき、壁のレンガは

あちこち欠けている。窓にはめてあるガラスは黒く変色し、ところどころヒビ

が入っている。中には枠ごと抜け落ちている箇所もある。長年にわたり修理も

手入れもされてないようだ。とても人が住んでいるようには見えない。

(なるほど、昔は豪華な洋館だったようだが、今ではすっかりおばけ屋敷)

真夜中になると塔の窓に灯りがついて、人の話し声が聞こえるというが、近

所の子供が肝試しをやっているか、廃屋趣味の輩が集まっているのに違いない。

(一度、葵さんと行ってみるか)

あの館に行くには、学園の外に出なくてはならない。校外に出るには学校当

局の外出許可がいる。その許可をとるのが一般の生徒には至難の業。いちいち

申請書を書いて事務局に持って行くのだが、その度に指導の先生が来て『どこ

に行くの?』とか、『誰に会うの?

用件はなに?』と、うるさいのなんの。最

後に保護者にまで電話が行き、その承諾がないと許可が下りない。

もっとも、大きなホテル並みに、娯楽場やショッピングセンターまで備えて

いる女子寮。また、広大な学園の敷地には、キャンプ場など遊ぶ所がふんだん

にあり、校外に出なくても、この世界だけで楽しく過ごすことができる。そう

いうわけで、夏休みに入っても、生徒たちの多くが学園に留まっている。

ところが、高校の生徒会役員なら、その許可がすぐ下りるのだ。学園を経営

する理事会では、運営にたずさわる委員会に高校生の代表を加えている。

その学校運営委員会は、理事長を中心に七人の委員で構成されているのだが、

その中に生徒側から生徒会長、寮長、会計長の三人が入っている。

つまり生徒会は、学園を運営する大人たちと対等の権限を持っており、生徒

会三役を始め、十委員会の長たちは、先生と同じような行動をとる資格を持っ

ているのだ。

生徒会書記の葵さんも当然この権利を持っている。だから、葵さんと一緒な

ら、届けを出すだけで自由に学園の外に出られる。

- 25 -

(明日、彼女に話してみよう)

葵さんとは先月に日見子の関係になったばかり。まだアツアツの間柄、ぼく

の言うことならなんでも聞く……いや、聞くに違いない。

そう決めて、カシの幹を滑るように下りた。そのまま下草の生い茂る森の中

を、寮のある東に向かって帰途につく。

だが、ちょっと歩いた所で、女の人が草むらに倒れているのを見つけた。そ

の成熟した雰囲気から、生徒ではなさそう。薄汚れた白衣をつけ、雑草の上に

うつぶせになっている。赤い靴下をはいた足には、くたびれたサンダルが、か

ろうじて引っかかっていた。

あわてて駆け寄り、彼女の肩を揺すった。だが微動だにしない。胸の下に片

手を入れ、抱きかかえるようにすると、身体が反転して仰向けになった。その

顔を見て「あっ!」と叫んだ。

(ハマちゃんだ!)

なんと、舞鶴女子大の付属病院に新米ドクターとして勤務しながら、ここの

寮に寝泊まりし、松原先生の助手もしている切き

原ばる

浜はま

美み

女医ではないか。

「ハマちゃん、ハマちゃん!

どうしたんですか」

だが、ぼくの腕に頭を乗せたその顔は、青白く、生気がどうも希薄。

(死にかけている?)

だが胸に耳を当ててみると、はっきりと心臓の鼓動が聞こえる。それに、の

どの奥からは「すう~

すう~」と寝息のような音。

(なんだ、眠ってるだけか)

ちょっと気抜けした時、腕の中で急に彼女の目が開き「さわるな!」と、片

手で思いっきり頬をはたかれた。

「な、なにするんです。いきなり!」

抱えていた身体を放り出して叫ぶ。

彼女は片方のサンダルも脱ぎ棄て、前屈みに立ち上がると、脇を締め、両手

のこぶしを顔の前に構えるボクシングのポーズをとった。

「この痴漢野郎め。あたしゃあ、鶴女の元チャンピオンだったんだからね。チ

ンピラなんかに負けるもんかい!」

彼女は左右のこぶしを交互に突き出しながら「さあ、かかって来い!」と腰

を低くして威嚇する。

元気になったのはいいが、なにかひどく勘違いをしているようだ。

「違います。オレ、女ですよ。ここの生徒です。怪しい者じゃありません」

手の平を左右に振りながら「違う、違う」を連発した。それでも不審な顔を

しているので、ジャージの前を開いて、突起のない喉と、胸に小さく盛り上が

った二つの丘を見せた。

「なんだ、女の子か」

切原女医は安堵したように力を抜く。

- 26 -

「それにしても、なんで男の格好してるのさ。髪は短いし、スッピンだし、胸

にはサラシ、いや違った、ナベシャツでオッパイ押さえてるし。雰囲気が男そ

っくり。女の可憐さが少しもないわね」

彼女は、ぼくの頭からつま先まで無遠慮に眺めまわしながら、まだ疑わしそ

うな顔をしていた。

「これはオレ……いや違った、自分のスタイルですよ。そう、いつものスタイ

ル。それに可憐さなんて必要ないです」

その丸い顔をにらみつけるようにして言い返す。

彼女は「自分のことをオレと言うし……」と、なにかを思い出すようにして

いたが「あっ、わかった!」と指をピストルの形にしてぼくの鼻に当てた。

「あなた、蘭の言っていたシン君ね。おもしろい後輩がいるって聞いたけど、

なるほど……」

アゴに手を当てて納得したようにつぶやく。

「蘭先輩を知っているんですか」

驚いて見返す。

「知ってるもなにも……」

彼女はなにか言いかけたが「あっ、これ言っちゃダメなのよね」と、あわて

て口をつぐむ。

「なにが、言っちゃダメなんです。ハマちゃん……いや、切原先生は蘭先輩と、

どういう仲です?

まさか日見子?」

それを聞いて彼女は「蘭とパートナーだって?

こんなに年が離れているの

に」と口を大きく開けて笑った。

「どうして、こんな森の中で寝ていたんですか」

ぼくは最初に思った疑問を口にした。よく見ると、彼女の着ているくたびれ

た白衣には、肩や袖などに泥や埃がついている。それに、蜘蛛の糸みたいなも

のもこびりついていた。

「ああっ……疲れてたのよ。なにせ昨夜からずうっと、世田谷の大学病院に詰

めていたの。ここに帰ったとたん、そのまま眠りこんだようね」

彼女は、なぜか戸惑うようなしぐさを見せた、

「変ですね。ここは校門からかなり離れた所。寮に帰るなら、この森を通るこ

とはまずないでしょう」

ぼくはアゴに手を当て、不思議そうに小柄な彼女を見おろす。

「それは、その……たぶん頭がボーッとしていたのよ。方角を間違えたようね」

うろたえたように腰を引くと「じゃあ、あたしはこれで」と言って、急いで

サンダルを突っかけると、森の小道を白衣の裾をひるがえしながら、足早に行

ってしまった。なんだか通い慣れた道を歩くように、しっかりとした足取りで。

(あやしい……外から帰ったばかりにしては、バッグもなにも持ってない)

- 27 -

ぼくは彼女が倒れていた辺りを見まわした。そこには草を踏み分けて人が通

った跡が幾筋もついている。不思議なことにその足跡は、ある一ヵ所に収束す

ると唐突に切れていた。そこには鋭いトゲを生やしたイバラの木が群生して、

人が分け入るのを激しく拒絶していた。

(なにかがあるのでは)と、しばらく藪の中を眺めまわしていたが、高尾山に

夕陽が落ち、まわりが次第に暗くなって来た。もう寮に帰ろうと思い、雑草を

掻き分けながら木立の中を歩く。見上げると、塀の上にレンガで造られた洋館

の塔が覗いている。ツタの絡みついた黒い窓は、まるで巨大な怪人の目。その

不気味な瞳が、すごむようにぼくを見おろしていた。

夏休みに入って数日が過ぎた。あと少しで八月になり、さらに何日か経つと、

クラブ活動も二週間の盆休みに入る。寮に残って練習を続ける生徒もいるが、

半数ぐらいは学園を出て実家に帰る。そこで家族や幼馴染たちと、つかの間の

休みをとるのだろう。中には海外旅行としゃれこむ者もいるに違いない。

ぼくも当然、その期間は家に帰る。ただ家といっても、親兄弟のいる練馬の

実家には、二、三日ぐらい。後の十日ほどは、高尾山の近くにある、ぼくたち

の住宅で過ごす。

『ぼくたち』と複数形にしたのは、もちろんパートナーとなった葵さんと二人

という意味で、彼女の元実家(母親が再婚したため、今は空き家となっている)

で水入らずの生活をするのだ。

今日は武道館での練習はせず、葵さんと二人、柔道着に着替えて中学校の道

場に向かった。これから女子チューセイたちに、稽古をつけに行くのだ。

中学生といってもバカにしちゃいけない。体格もよく、すでに黒帯の者もい

る。ナメたらひどい目に遭う。

中学柔道部の主将なんかもそうだ。背が高く、落ち着いた感じの子。同じ初

段だが、先月黒帯になったばかりのぼくより数か月早く段をとっているから、

たぶん、かなり強い。

それに気配りもきくのだろう、先月、校庭の隅で葵さんがぼくのプロポーズ

を受け、新たなカップルが誕生した時、そこに居合わせた彼女が、お祝いに黄

色い野花を摘んでくれたこともある。

「今日は高校柔道部より、伊東二段と立花初段に来ていただきました。皆さん、

存分にご指導をお願いしてください」

白い柔道衣に黒帯をきっちり締めたその子は、やや顔を赤らめながら、五十

名ほどの部員に葵さんとぼくを紹介した。

「よろしく、お願いしまあす!」

- 28 -

乙女たちの、生気あふれる声が唱和する。

ぼくは(うむ、うむ)とうなずきながら、彼女たちの顔を一渡り眺めた。

ただ、今日はあまり気乗りがしない。昨夜からお腹がキリキリ痛むのだ。女

のアレが始まったのかと思ったが、痛みが違う。食あたりでも起こしたのだろ

うと、ルームメイトのお雪から胃薬をもらって飲んだが、あまりよくならない。

それでも葵さんのパートナーとして、無理を押して出て来た。

「それでは、まず基本の受け身から学習しましょう。それでは主将のあなたと

シンの取り組みで行います。受身役はシン。みんな、よく見ているのよ」

葵さんは投げられ役のぼくを捕まえると、無理やりこの子と組ませた。

やはり彼女は強い。おとなしそうな顔をしているが、いざ組み合うと眼光鋭

く気迫満々。技も優れ、本気を出しても、ぼくは勝てないかも知れない。

それに色白の美人と来ているから、高校生になれば、さぞや聖婚の申し込み

が殺到することだろう。

だが今日のぼくは、美少女との取り組みを喜ぶ余裕はなかった。何度も投げ

られて受身のやり方を見せているうちに、次第にお腹の痛みがひどくなる。つ

いに立ちくらみがして、相手の少女に抱きついてしまった。

「だ、だめよ、シン!

なにやってるの!」

葵さんの怒声と、少女たちの笑い声が、薄れ行く意識の中に聞こえたような

気がした。

「で、どうなんですか」と聞く葵さんの声で気がついた。

うっすらと目を開けると、白い天井が見える。眼球を左右にまわすと、狭い

室内に、ハサミやピンセット、パソコンの画面などが目に入った。

(医務室だ)

どうやら、腹痛で倒れ、ここにかつぎ込まれたらしい。

「おっ、気がついたようだね」

校医をやっている松原女史の男性的な声がした。

葵さんの心配そうな顔が覗く。

意識がはっきりして来ると、たちまち下腹に痛みが走った。「痛い、痛い」と

お腹を抱えて身体をよじる。

「どこが痛いのぉ?」

三人目の疲れたような声。消毒くさい臭いが近づいて、ぼくの下腹あたりを

さする。

(ああっ、ハマちゃん)

一昨日、森のはずれで眠り込んでいた切原女医だ。

「ハマ、なんだと思う?」

松原先生がためすように聞く。

研修期間を終えたばかりの駆け出し女医は、青い顔をしてぼくのお腹にこわ

- 29 -

ごわ手を当てていたが、松原校医の顔を恐る恐るという感じで覗うと「キュ、

キュ、急性盲腸じゃないでしょうか」と言った。

「『ないでしょうか』って、私に聞くのか。君も医者の端くれだろうが」

「ハッ、ハイ、盲腸です」

直立不動で答える。なんだか敬礼でもしそうな感じだ。

「急性なら、すぐ切らなければならない。間違いないのだな、本当に」

松原女史は白衣のポケットに両手を突っ込んで、疑うように新米女医をねめ

つける。

「マママ、間違いない……と思います」

「なんだ、その自信のない態度は!」

二人が問答している間に、また痛みが襲って来た。

「痛い、痛い、痛ぁい!」

身をくねらせて暴れる。

「うるさい患者だな。これじゃハマの指導もできやしない。メグ、マッサージ!

葵ちゃんも手伝って」

先生は後ろに控えていた看護師(通称、ナースのメグさん)と葵さんに指示

を出す。ぼくは無理やり、葵さんに両肩を仰向きに押さえつけられ、メグさん

がお腹をさする。しばらくそうやっていると、少し痛みが引いて来た。

「正確な病名は、盲腸ではなく虫垂炎というのだ。駆け出しでも、医師なら正

確な病名を使え。これだけ痛がっているなら、かなり進んでいるな」

松原先生は、切原女医にそう言い聞かせると、カーテンの隙間から顔を覗か

せている受付の子に指示する。

「とにかく、ここじゃ手術ができない。すぐ付属の本院に運ぶから、カオリ、

その手配をしてくれ」

カオリと呼ばれた子は、あわててカーテンから首をひっこめると、受話器を

とってどこかに連絡していた。

すぐ校内クリニック(医務室)の車で、世田谷の大学病院に向かった。松原

先生が運転し、ハマちゃんが助手席。後部座席に横になっているぼくには、ナ

ースのメグさんと葵さんが付き添っている。三人では狭いのでぼくは頭の方を

葵さん、両足をメグさんの膝に乗せていた。

舞鶴女子大の近くに来ると、交通事故のせいで道が渋滞していた。かなりの

事故だったようで、なかなか動かない。再び腹痛がひどくなったが、葵さんが

しっかり手を握ってくれた。そのせいか、なんとかがんばることができた。

病院には救急車がひっきりなしに出入りしていた。まるで大地震でも起こっ

たような騒ぎだ。なんでもこの近くでバスとトラックが衝突し、ガードレール

を突き破った観光バスが、下の空き地に転がり落ちたとか。

ストレッチャーも足りないらしく、こちらにまわって来ないので、メグさん

- 30 -

に胴の部分を、葵さんに両足を抱えられて待合室まで運ばれた。

(二人とも、力、ツェ――

でも、いい気持ち……)

額にあぶら汗を掻きながらも、赤ん坊になったような甘えた気分を味わって

いた。

待合室には、知らせを受けた親父とお袋がめずらしく一緒に座っていた。ぼ

くらを見ると、すぐ飛んで来る。親父なんか、ぼくの肩に触って「どうした、

どうした」と例のだみ声で話しかけて来たが、葵さんの(近寄らないでくださ

い!)というような険しい顔に怯んだように手をひっこめた。

ところが、待てど暮らせど、手術が始まらない。痛みが激しくなったので、

またメグさんにマッサージをしてもらった。

しばらくたってから、やっと手術室に運び込まれたが、担当は松原先生とハ

マちゃんだ。当直医は大事故の急患に追われて、ぼくのような『軽い』オペに

まで手がまわらないという。

松原先生がこの病院で働いているハマちゃん女医を連れて直接院長に掛け合

ったが、当の院長まで手術に引っ張り出されていた。

「今日は休診日なので、今この病院にいるのは当直だけです。至急呼び戻して

いますが、まだ二、三時間はかかるでしょう。一刻を争うなら自分たちでやり

なさい。あなたたちも外科医なんでしょう、一応」

彼女は血のついたメスを握りながら、二人にそう言ったと聞かされた。

オペ室には青い手術衣に着替えた松原先生とハマ女医、ナースのメグさんが

いる。葵さんは、親父たちと一緒に廊下で待機している。

メグさんは頭の所に陣取り、「だいじょうぶよ。すぐ済むから」といいながら、

ぼくの両肩をしっかり握っている。萎えそうになるぼくの気持ちを励ますつも

りだろう。でも、手に力を込めているところをみると、暴れ出すのを抑え込む

役にも思えるのだが。

松原先生がぼくの腰に注射針を当てる。下半身麻酔をするという。針が刺さ

る時、思わず目をつむりメグさんの手を握り締めたが、痛みは全くなかった。

(うまい!

さすがベテラン医師。ダテに博士号持ってるのじゃないな)

変な感心をしていると、ハマちゃんの怯えたような声が聞こえた。

「そ、それでは、は、始めます。執刀は私、切原が行います。よ、よろしく、

お、お願いします」

「えーっ」

思わず腰が抜けそうになった。もっとも麻酔のせいで、下半身の感覚はなく

なっているが。

「ちょ、ちょっと待ってください。なんでハマちゃんなんです?

なぜリッち

ゃんがやらないのです?」

「私もやりたいの。でも脳外科だからね。内臓は専門外なの」

リッちゃんこと松原

まつばら

律子

先生は、首を横に振る。

- 31 -

「専門外なんて、そんな……優秀な外科医でしょう。医学博士なんでしょう。

一度も失敗したことないのでしょう。手術なんて、チョイ、チョイでしょう」

「脳を切るのはね。でも腸なんて、もう何年もやってないの」

「何年も……って。それでもハマちゃんよりマシでしょう」

「お腹はハマが専門なんだよ。なにせ名前が『キリハラ』って読めるからね」

先生はマスクの中で、くぐもった笑い声を上げた。

「そ、そんな。切り間違えたらどうするんです?

誰が責任を……」

ぼくは必死に食い下がった。これには自分の命がかかっているのだ。『専門』

とか『専門外』とか言っている場合ではない。

「まあ誰でも初心者のうちは、そういうこともある。でも、それを恐れていた

ら、一人前の外科医にはなれないよ。ハマはまだ一度も執刀の経験がない。こ

れはチャンスだよ。君はハマの第一号患者。将来、この女医がノーベル賞をと

ったら、君の名も歴史に残るのだからね」

「歴史に残らなくてもいいです!」

ぼくは顔を上げて、メグさんに目で訴えた。

「だいじょうぶよ、シン君。先生方を信じなさい。信じれば治ります」

「それは宗教の勧誘でしょう。この場合はオレの命が……」

続けようとすると「ええい、うるさい!」と松原先生の甲高い声が響いた。

「ゴチャゴチャぬかすんじゃない。騒ぐとよけい間違えるよ。そうでなくとも、

ハマは初めての手術で興奮しているんだから。ごらん、手が震えているだろう」

見るとハマちゃん女医は、右手にメスを握りしめたまま固まって震えている。

その顔は青白く、今にも貧血を起こしそうだ。

「ハマ、早くしないと手遅れになるよ。いいから、とにかくメスを入れな!」

松原女史のがなり声がする。思わず起き上がろうとしたら、すかさずメグさ

んに押さえつけられた。

「シン君、静かに!

すぐ終わるから」

メグさんもこの学園の出身。ウエイトリフティングの選手をしていたという

だけあって力が強い。なんとか逃れようと最後のあがきを試みたが、腰から下

は麻痺して動かないし、どうにもならなかった。まるで、まな板の鯉だ。

「ハマ、なにしてる。スパッとやれ!

大根を切る要領でスパッと」

「だ、大根と一緒にするな!」

身体をよじって、死に物狂いの抵抗を試みる。

「こう暴れちゃできないね。私の受け持ちの子なら、もっと聞きわけがよさそ

うなものなのに。しかたがない。メグ、全身麻酔!」

ぼくのクラス担任でもある松原先生の、イラついた声が響く。

「よ、よし。やります!」

ハマ執刀医は眉を吊り上げ、すごみを帯びた目つきをすると「キエ――ッ!」

と奇妙な気合を入れて、ぼくの下腹に鋭いメスを突き立てた。そのショックで

- 32 -

目の前が曇り、意識が薄れていくのを感じた。

「先生、シン君、気絶したようです」

「全身麻酔、いらないね」

メグさんと松原先生の会話が、遠くで聞こえたような気がした。

うっすらと目を開けると、白い天井が見えた。さっきまで頭上に輝いていた、

いくつもの丸いライトがない。寝ているベッドの縁には落下防止用のフェンス

がついている。どうやら普通の病室に運ばれたらしい。もう手術は終わったの

だろうか。

そうっと首を横に振ると、そばの椅子に中年のオバサンが腰掛けて、うつら

うつら船をこいでいる。

(お袋だ)

しばらくその姿を眺めていた。顔に小じわが増え、髪には白いものが交じっ

ている。四か月合わない間に、なんだが急に老けたような気がする。

(いや、もともと、こんな感じだったか……)

ぼくはいつの間にか、産みの母である菖蒲

しょうぶ

尼に

様と比べるようになっていた。

(どっちが、本当の母親だ?)

見つめていると、お袋が目を開けた。目が合うと立ち上がって枕元にやって

来る。

「シン、気がついたの?」

「ああっ、オレ、生きてるみたいだな」

「長い手術だったけど、すっかり取れたそうだからね。もう安心だよ」

そう言いながら、熱を計るように、ぼくの額に手を当てる。

「葵さんは?」

室内を見まわしたが、どこにもいない。

「アオイさん……あの奇麗な生徒さんのことかい?

先生と一緒に帰ったよ。

明日また来るって」

「そう……」

「ずいぶん親しいお友達なんだね。さっきまで、あんたにつきっきりだったよ」

お袋は片手を伸ばして、ぼくの右手をつかむと、薬指にはめてある銀の指輪

をなでながら「お前は、ほかの子と違って指輪なんか見向きもしなかったのに」

と不思議そうな顔をした。

「ああ、それ……」

「そう言えば、アオイさんという子も、これと同じような指輪をしてたねえ。

あの子は左手だったか……」

ぼくは、なんと説明しようかと首をひねった。『これは聖婚指輪で、先月葵さ

- 33 -

んと伴侶、つまり女同士のパートナーになった印だ』と言っても、きっと理解

してもらえないだろう。レズビアンだぁ、なんだぁと騒ぎ立てるに決まってい

る。あの学園の風習は世間の常識では計れないのだから。

「学校では、かなりの子がしてるよ。シンボルなんだ。ここの生徒の」

当たり障りのない答えを返す。

「ふ~ん……」

それでも、なにか腑に落ちない顔をしている。

ぼくは話題を変えようと「ところで、今、なん時だよ」と聞いた。

「夜の十時」

お袋は壁にかけてある時計を指差した。ずいぶん長い間眠っていた。いや、

気絶していたものだ。

「お袋は帰らないのか」

「寝袋を持って来たから、今夜はこの床で寝るよ。ここは個室だから、誰にも

迷惑かけないしね」

そう言って、部屋の隅にある大きなリュックを指差した。きっとあの中に寝

具が入っているのだろう。お袋と同じ部屋で寝るなんて何年ぶりか。

「あっ、そうだ。あんたが気づいたことを、先生に知らせてこなくちゃ。医局

で心配なさっているだろうからね」

「先生は帰ったんだろう?」

「帰ったのは、もう一人の先生さ。主治医の方か

は残っているよ」

「主治医って?」

嫌な予感がした。

「もちろん、キリバル先生だよ。お若いのに腕がいいんだね」

そう言うと、お袋は急ぎ足で部屋を出て行った。

(キリバル……)

切原と書いて『キリバル』という。なんでも父親が九州出身だとか。あちら

では『原』の字を『バル』と読むらしい。

(なるほど、西南戦争の古戦場を『田原坂

たばるざか

』というもんな)

ぼくはテレビでしか見たことのない、遠い九州の地に思いをはせた。

(キリバル……キリハラ……腹切り女)

考えていると、また目の前が暗くなって来た。

やがて廊下をバタバタ走る音がして、ハマちゃんこと切原先生が、口にスナ

ック菓子をくわえたまま駆けこんで来た。丸ぽちゃの顔が破顔している。

「シン君!

シン君!

シン君!」

彼女は、スナック菓子を白衣のポケットにねじ込むと、ぼくの顔を平手でバ

チバチひっぱたく。

「い、痛い!」

- 34 -

思わず、叫び声を上げる。

「わあ『痛い』と言った。生きてる!

まだ生きてる!」

彼女は感極まったように「生きてる、生きてる」を何度も繰り返す。

「あ、あたり前じゃないですか!」

頭に来たぼくは両手で上半身を支え、ベッドの上に起き上がろうとした。と

たんに下腹に痛みが走る。

「あっ、だめよ。起きちゃダメ。しばらく安静にしてないと傷口が開くわ。深

く切り過ぎたから」

ハマちゃん先生は、両手でぼくの肩を押さえつける。

「『切り過ぎた』って、それ、失敗したってことですか?」

「いいえ、失敗じゃないのよ。ちゃんと悪いところは切ったわよ。ただ、その

まわりの部分をね、ちょっと……」

彼女はうろたえたように口ごもる。

「やっぱり、失敗じゃないですか!」

「そ、そんなことないわ。『最初は誰だってこんなモン』だって、『初めてにし

ちゃよくできた方』だって松原先生は言ってた。『これで、ハマも立派な外科医』

だって、ほめてくださったわ」

そう言って、ほこらしげに胸を反らす。

「これも、あなたが患者になってくれたおかげよ。これからバンバンやるから」

『キリハラ』外科医は、ポケットから細長いスナック菓子を取り出すと、そ

れをメスのように振りまわしながら、自信たっぷりに言い切った。

「今夜は医局に詰めているわ。気分が悪くなったらベッドについている赤いボ

タンを押すのよ。すぐ飛んで来るから」

そう言い残して、スキップしながら部屋を出て行く。

「先生、ありがとうございました」

いつの間に戻っていたのか、お袋が小じわの目立つ顔に笑みを浮かべ、うら

若い小娘のような新米女医に、深々と頭を下げていた。

こちらが夏休みでも世間は暦どおり。平日に、お袋がここに来られるのは夜

だけだから、午前中にぼくの世話をするのは、もっぱら葵さん。当然、面会時

間外に出入りするのだが、介護人と家族や親族などの身内は病室に入れる。

葵さんは家族扱い。面会簿の関係者欄にパートナーを示す『日子』または『見

子』と書けば家族になる。聖婚をして日見子になった者は身内。もちろん、こ

の舞鶴女子大の附属病院だけでのことだが。

今朝も十時きっかりに葵さんがやって来た。彼女は制服ではなく、白いブラ

ウスに青いスカートをはいている。いつでも病院に来られるように、高尾にあ

- 35 -

る母親の持ち家に寝泊まりしているという。

持って来たリュックから、ぼくの下着やパジャマ、洗面用具などを取り出し

て、ベッドの下に入れる。

「シン、寝てばかりで退屈でしょう。本を持って来たから」

さらに、学園の蔵書マークのついた数冊の単行本を取り出して枕元に置く。

「あなたが好きなSFものよ」

「へ~え、H・Gウェルズ。タイムマシンもあるの?」

「そう、タイムマシン。透明人間。それにモロー博士の島」

「モロー博士の島……」

ぼくは、海に囲まれたジャングルの中を、白いヒゲを生やした老人が、なに

かを探しているようなイラストの本を手に取った。

「太平洋の孤島にこもった科学者が、動物たちに知性を与えて、人間のような

姿に変える話し。なんだか、今の私たちに似ていない?」

彼女は本を出し終えると、リュックを置いて、そばの椅子に座った。黒い瞳

が顔の上に来る。

「葵……」

ぼくは片手を伸ばして、小麦色のふっくらした頬をなでた。

「シン」

卵型の顔がおおいかぶさって来る。ぼくはそっと目を閉じた。

その時、いきなり入口のドアが開く。葵さんがあわてて離れる。

「ほおお、ほおお!」

奇妙な声を発しながら、白衣の小柄な女性が入って来た。

「ハ、ハマちゃん!」

ドアをちょっと入った所で、切原女医が長い診察衣のポケットに両手を突つ

っこんだまま、おもしろそうにぼくたちを眺めている。彼女の後ろには、ナー

スのメグさんが、診療具を乗せたカートを押しながら続いている。

「な、なんの用ですか。いったい!」

いいところを邪魔されたぼくは、二人に向かって怒鳴り声を上げた。

「『なんの用ですか』はないでしょう。もちろん回診よ。私はあなたの主治医だ

からね」

彼女は『主治医』というところに声を強めた。

「いつ主治医になったんです?

ここは大学病院でしょう。先生なら、ほかに

いっぱい……」

言い終わらないうちに、ハマちゃんの背後からメグさんが口を出した。

「みんな事故の患者で手いっぱいなのよ。空いているのは、このセンセーだけ」

「『このセンセーだけ』とは、なによ!」

切原女医は眉を吊り上げてメグさんを睨みつける。

「院長先生に『お手伝いしましょうか』って言ったらね、『いや、ここは私たち

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でなんとかするから。それより、あなたは自分のクランケをしっかり診てなさ

い。とても難しい患者だから』って。そんな難しい人を任されるほど、信頼さ

れているのよ、私」

彼女はそうまくし立てると、首から下げた聴診器をいじりながら、自信たっ

ぷりに胸を反らす。昨日のおどおどした態度は、みじんも見られない。

「それって、足手まといになるから、体よく追い払われただけでしょう。盲腸

のどこが難しい病気なんです?」

「院長は難しい病気とは言わなかったわ。単に『難しい患者』と言ったのよ」

「確かに難しい患者ですけど。よく騒ぐし」

メグさんが同意すると、ハマちゃんは「そうでしょう、そうでしょう」とう

なずく。

「あのう、先生」

それまで黙って聞いていた葵さんが、横から口を出す。

「回診にいらしたのじゃないのですか」

それを聞くと、ハマちゃん「ああっ、そうだった」と、両手を打ち鳴らした。

「そういうわけで、君のことは外科医であるこの私が、しっかり診てあげるか

ら、安心していいよ」

彼女は『外科医』という言葉を強調すると、おもむろに首から聴診器をはず

して、ぼくの胸に当てる。

「胸なんか診てどうするんです?

患部はお腹でしょう」

「うるさいわね。心臓の音を聞いてるの。ちゃんと動いているかどうか」

「動いてますよ。でなきゃあ、死ぬじゃないですか」

その言い合いがおもしろかったのか、そばで見ている葵さんが吹き出す。

「まあ、切る時にかなり出血したからね。生きてるのが不思議なくらい」

ハマ先生は聴診器をはずすと、また自分の首にかけた。

「えっ、そんなに血が……たかが盲腸の手術で?」

「化膿していたから、ちょっと多めに切り取ったのよ」

「多めにって、どれくらい?」

「大腸を丸ごと」

「ぎゃあ!」

また気が遠くなりかけた。

「あっははは!」

ハマちゃんの笑い声が狭い病室に響く。

「先生!

悪い冗談はやめてください。シンは初めての手術で、気が参ってい

るんですから」

葵さんが見かねて抗議すると、そばからナースのメグさんが言い添える。

「ほんとに、この人、腸をズタズタにするところだったのよ。松原先生が青く

なって止めていたわ」

- 37 -

メグさんは、この先生をまったく信用してないらしい。ぼくも同感だが。

「まあ、切り過ぎたといっても虫垂炎だからね。一週間で退院できるわよ。心

配しなさんな」

切原女医は「安心しなさい」と胸を張り、「メグ、行くわよ」と言い残すと、

ドアを勢いよく開いて廊下に出て行った。

「いつの間に『メグ』なんて、呼び捨てにされるようになったのかしら」

ナースのメグさんは、ぷりぷり怒りながら診療用具を片づける。

「あんな小娘でも一応医師だからね。こちらは看護師。身分が違うのよ」

彼女は、あきらめたように首を振ると、カートを押しながらドアを出て行く。

葵さんは昼過ぎに帰って行った。

「もう帰るの?」

不満そうに聞くと「ここは完全看護。付き添いはいらないのよ」と言う。

「それに、これから、お見舞いの人がたくさん来るよ。さびしくないから」

彼女はぼくの唇に軽く接吻すると「また明日ね」と言って部屋を出て行った。

葵さんの言葉通り、まずルームメイトのお雪がやって来た。暑いのか、セー

ラー服の襟を片手でパタパタさせながら、扉を押して入って来る。丸い頭の両

端に、ツインテールの髪束が跳ねるように揺れている。

「シン、だいじょうぶ?

まだ生きてる?」

相も変わらず辛辣な言葉。

「心配したのよぅ~お。すぐ来たかったけど、智と

世よ

様や美里

様に止められたの。

『今は手術中だろうから』って。でも、よかったあ。また話せて」

彼女は(こちらの生死などどうでもよい)というような言葉をはきながらも、

ぼくの手を握ると、うるうると涙をこぼした。ソバカスの散った丸っこい顔に

大きな涙目が二つ、頭上にどアップになり、思わず首を引いた。

今日はこの後、蘭先輩と福地さぎり。その後に宮とカズが来ると言う。

「みんなと申し合わせたのよ。はい、これが予定表」

お雪はB5判のプリントをぼくに渡した。

それによると、明日は生徒会長の高

たかじょう

智とも

世よ

と副会長の一ひ

ッっ

葉ば

美里

。その後、

寮長の秋あ

月づき

貴子

と寮総務の宮浦

みやうら

朋とも

江え

。そうそうたるメンバーだ。

明後日は柔道部と美術部の正副部長。それに、ぼくと葵さんの聖婚式にギリ

シャ巫子の姿で祭伺を務めた祭礼研究会の会長……通称『女神様』

その次の日は(えっ、チューボー?)

女子中学生たちが集団で押し寄せるらしい。

(なにしに……)

一週間の入院中に、クラスメイトや寮生たちがぞくぞくやって来る。その中

- 38 -

には名前も顔も知らない生徒が交じっている。

「こんなに来るの……」

予定表を見て驚いた。急にお腹の傷が痛み出す。

「あんたは有名人だからね。もっとも有名なのは学内だけで、それも尊敬でき

るようなすばらしい人というんじゃなく、お笑いタレントかなにかと勘違いし

て、お見舞いっていうより、その憔悴した顔を覗きに来るって感じなんだけど」

「ひどいなぁ。まるで、動物園の珍しい生き物にでもなった気分だ」

悄然としてべッドの上に丸くなる。

「珍しい生き物には違いないわね」

追い打ちをかけるようなお雪の言葉に、ますます気が滅入る。

「違う、違う!

それは、シンさんの人徳ですよ、人徳!」

突然、甲高い声が響いて、一人の小柄な少年(?)が入って来た。短いスポ

ーツ刈りに日焼けした黒い肌。着ているセーラー服と全く釣り合わない。ぼく

と同学年で陸上部の福地さぎりだ。

「なによ、小憎!

入って来るならノックぐらいしなさいよ」

すかさず、お雪が睨みつける。

「小憎とはなんだよ。ボクのどこが男の子に見える?」

彼(?)は、女の子がするように、スカートの裾をつまんで、ちょっと膝を

曲げ、かわいらしいポーズをとった。

「ゲッ!

気色わる~ぃ」

お雪が一歩飛び下がる。

「どう見ても小憎にしか見えない子が、セーラー服を着ているんだもの。『似合

わない』を通り越して、吐き気がして来たわ」

「なんだと、怒るぞ、コラーッ!」

「なによ、このチビ!」

「どっちが、チビだぁ!」

狭い病室で取っ組み合いが始まった。互いに小さな手で相手の襟をつかみ、

スカートの裾を振り乱しながら、ののしりあっている。その様子は、まるで幼

い妹たちが兄弟喧嘩をしているように見える。

「いいかげんにしないか!」

ぼくはベッドの上に半身を起して、怒鳴りつけた。二人は我に返ったように

手を離す。

「オマエたち、見舞いに来たんだろうが。患者の前で喧嘩とはどういうことだ」

激しく叱咤すると、二人とも顔を赤らめて恥ずかしそうにうつむいた。

それから、お雪は持って来た白いバッグを手に取ると「時間になったから、

もう帰るね。なにかあったら、すぐに来るから」と言って、部屋を出て行く。

廊下に出た所でドアの後ろを覗き、一瞬変な顔をしたが、こちらを振り向く

- 39 -

と、手を振りながら行ってしまった。

大きな声を出したので、またお腹が痛み出した。そのまま仰向きに倒れ込む。

「シンさん、しっかり!」

さぎりが走って来て、黒く日焼けした腕でぼくの頭を支える。

「オマエこの頃、お雪と会うたびに喧嘩してるようだけど、なにかあったのか」

腕枕をしてもらいながら、小憎(?)の顔を下から覗く。

すると、さぎりは「いや、その……」と口ごもりながら「なんでもない」と、

そっぽを向く。褐色の頬に赤みが差している。

(ふ~ん……)

頭の中で二人を並べてみる。背丈はほぼ同じで、中学生ぐらいにしか見えな

い。顔も丸っこく、ほぼ同じつくりだが、雰囲気はまるで違う。

お雪は世話好きな普通の女子。

さぎりは、活発で理論派の男子という感じ。もっとも彼(?)は、ぼくと同

じ男脳だから、その行動様式は男そのもの。まさに、お雪の言った『小憎』以

外のなにものでもない。

(似合いのカップルじゃないか)

あらためて彼(?)の姿をとくと眺める。

「な、なんだよう。ボクの顔になにかついてるのか」

「オマエ、お雪と……なぁ~るほど。でも、その時は早めに言ってくれよな。

オレが仲人することになるんだから」

からかうように言うと「バ、バカな。あんなやつ!」と言って、ますます顔

を赤らめた。

「ところで、蘭先輩はどうした。一緒に来るはずじゃなかったのか」

ぼくは話題を変えて、お雪からもらった面会予定表に目を通しながら尋ねる。

「ああっ、ハクシ……いや、蘭先輩」

さぎりは、あわてて言い直すと、開いているドアに向かって「いませんよ~

お、いませんよ~お」と、ささやくような声で呼びかける。

その不審な様子に目をドアの方に転じると(おずおず)といった調子で、髪

を後ろに束ねた少年(?)が顔を見せた。

「先輩!」

これも半袖のセーラー服を来た蘭先輩が、腰を屈め片手を額に当てて、なに

かを探すようなしぐさで入って来る。シーツの裾をつまみ上げて、ベッドの下

を覗いたりする。

その様子に思わず吹き出した。

「なにやってんですか。変なしぐさ!」

「いないか。いないな」

さぎりに念を押してから、ようやく安堵したように背筋を伸ばす。

「なにが『いないか』なんです?」

- 40 -

問いかけると、「まあ、いいじゃないか」と照れ笑いしながら、こちらにやっ

て来た。

不思議に思って、さぎりを振り向くと、声を出さずに口真似だけで、なにか

を伝えようとする。その唇が『アオイサマ』と言っているように見えた。

「あおい様?」

言葉に出すと、さぎりはあわてて顔をそらし、蘭先輩は「こらぁーっ」と彼

(?)を睨みつける。

(ははあ……)

その態度で読めた。蘭先輩は葵さんが苦手なのだ。先々月、講堂裏の空き地

で大勢の女子生徒が見守る中、葵さんと一対一の『決闘』をして、みごとに敗

れた。そのことがトラウマとなり、もっか『葵恐怖症』に罹っている様子。

葵さんが帰ったと聞くと、蘭先輩は急に態度がでかくなった。小柄な身体を

弓なりに反らし「シン、腹イタで倒れるとは、片腹痛いな。がっははっ!」と、

下手なジョークを飛ばして大笑いする。

「先輩、からかいに来たんですか!」

頭に来て、この自負心の強い座敷わらし、いや座敷荒らしのような小娘をね

めつける。これでも、ぼくより一つ上の二年生。剣道部の副部長に生物部の副

部長。おまけに副寮長を兼ねている。小柄で暴れん坊。肩書きに『副』ばかり

つくので『小鬼の副長』とか呼ばれている。

一渡りぼくの憔悴した姿を揶揄してから「もう時間がない。福地クン、行く

ぞ」と言って、さっさと部屋を出て行った。

「ま、待ってください。ハク……いや、先輩」

あたふたと後を追う福地クン。

「おい、そんなに急いで、これから、どこに行くんだ?」

小僧のような後ろ姿に声をかけたが、さぎりは「言っちゃいけないもんで」

と、人差し指を口に立て、部屋を出て行った。

(あやしい……)

二人の不可解な言動に、なんとなく違和感を覚えた。

彼(?)らと入れ替わりに、宮とカズのペアがやって来た。宮はたおやかな

和風美人。カズと聖婚してから一層なまめかしくなった。しなやかな身体に丸

みを帯びたセーラー服がよく似合う。

一方、カズは身長百八十センチの巨体。空手できたえた強い筋肉。ほかの男

(?)を近づけまいとするかのように、いつも宮にピッタリ寄り添っている。

『美女と野獣』が二人のニックネームだ。

ぼくは、カズの姿を見て「ぷっ!」と吹き出した。校門を出入りする時には、

必ず制服を着用しなければならない決まりがあるので、しかたがなかったのだ

ろうが、この大きな胴体に、夏用セーラー服を無理やり着込んでいる。背中に

- 41 -

垂らした四角い襟。裾の長いスカート。まるでマウンテンゴリラが女子のセー

ラー服を着て、街をのし歩いているようなものだ。

コイツ、途中で着替えないのだろうか。ぼくならバッグにジャージなんかを

詰め、それを持って校門を通り、駅のトイレで着替えたりするのに。

「シン、苦しかったでしょう。でも、もうだいじょうぶ。あなたの痛みを、あ

たしたちにわけてちょうだい」

彼女は背後のカズが顔をしかめるのもかまわず、ぼくの手をしっかり握り締

めた。

(宮だけだ。こんなやさしい言葉をかけてくれるのは)

ホロリと涙がこぼれる。

「でも来てよかったわ。ここのレストラン、とても美味しいのよね。それに外

の眺めも抜群だし」

「カフェもあるよ。帰りに寄って行こうか、宮」

カズが後ろから、彼女のなめらかな両肩に手をかける。

「そうね、あのお店から、とてもいい香りがしてたものね」

宮はそう言って、カズの頑強な腰に手をまわす。

「じゃあ、行こうか」

「うん、行こう。ついでに大学の校内も歩いてみよう。とても素敵な庭園があ

るのよ。今日は、おかげで楽しい思いができそうね。なにせシンのお見舞いに

行くって言ったら、すんなり外出許可をくれたものね」

宮はカズの手を取り「じゃあシン、お大事に」と言って、ドアの方に向かう。

「シンさん、ありがとう」

カズも楽しそうに、ぼくに向かって片手を振ると、宮の手を握って廊下に出

て行った。

(な、なんなんだ、あいつらは……見舞いに来たんじゃないのか)

あきれはてて、またまたベッドに横になる。こうして、ぼくの入院二日目が

終わった。

なにをすることもなく、ただ寝ているだけの生活は、さぞや退屈だろうと思

っていたが、実際やってみるとそうでもなかった。

朝、窓に光が射して、夕方、部屋に電灯がつくまで、何度も浅い眠りに引き

込まれるから、その間は時を感じない。よくSF映画なんかで、宇宙飛行士の

身体を低温に保ち、冬眠と同じようにして、新陳代謝を遅らせる場面が出て来

るが、あれに似た状態になるのだろうか。

まあ、ぼくの場合は、見舞客、それも特異な客が多くて気が紛れたし、午前

中は葵さんがいてくれる。また夕方には、お袋か親父、年の離れた兄貴たちが

- 42 -

交代で来てくれたので、退屈を感じる暇もなかった。

見舞客といえば、あの方と、あの者たちは特に印象に残った。

四日目、柔道部と美術部のメンバーが帰った後、軽い睡魔にまどろんでいる

と、ドアがスッと開いて金色の光が入って来た。

(女神様!)

流れるようなブロンドの髪。海のように青い瞳。白い面長の顔。今日は八王

子にあるという彼女の実家からやって来たのか、いつものセーラー服ではなく、

軽い私服を着用している。その淡い水色のワンピースからは、純粋なきらめき

がもれて来るようだ。

アメリカ人の血が混じったハーフだというが、街で見かける白人の粗く角張

った体形とは違う。背丈はぼくと同じぐらいだから、平均的な日本女性より高

いが、目立つほどではない。皮膚はきめ細かく透き通るように白い。まるで青

い目をした天女が黄金の髪をなびかせて、地上に舞い降りて来たような感じ。

混血は時として、とんでもない美人をこの世に出現させるのか。

生きた女神そのままの方が入って来ると、天井あたりに巣食っていた魑魅

魍もう

魎りょう

どもが、パチンと弾けるような音を残して、どこかへ消えてしまった。

(すごい!)

ぼくは口を半開きにして、その美しい姿を眺めた。

「どお、シン君。少しはよくなった?」

祭礼研究会の会長を務めている三年生の諸県

もろかた

暁あけ

美み

様は、にこやかな笑みを浮

かべて枕元に近づいて来る。

ぼくはあわてて起き上がると、ベッドの上に正座して「ははあーっ」と頭を

下げる。この時、不思議にも、腹の痛みはまったく感じなかった。

「あっ、起きちゃダメ。横になって、さあ」

彼女がぼくの肩に軽く触る。するとどうしたことか、身体が自然にベッドの

上に倒れた。

「メ……いや、暁美様は超能力が使えるのですか」

うわの空で尋ねると、彼女は首を傾けた。

「超能力?

なにそれ?」

「今、わかりました。みんなに『女神様』と呼ばれている理由が。ただ姿が美

しいからだけじゃないんだって」

ぼくは興奮して声高に言いつのった。どうやら、ぼくもこの人の信者になっ

てしまったらしい。

「なに言ってるのかわからないわ。まだ夢の中?」

彼女は指の先で、ぼくの額をチョンとつついた。

しばらく話してから、暁美様は帰って行った。ぼくは見送ろうとして、ベッ

ドから床に下り、そのまま廊下まで歩く。やはり痛みは感じなかった。

- 43 -

病院の薄暗い廊下。いや、天井の蛍光灯は間違いなく明るい光を放っている

のだが、なぜか、ひんやりとして妙に暗く感じる。ここで亡くなった人たちの

思念でも染みついているのだろうか。だが、彼女が歩いて行く所、そこら中が、

陽光が射したように明るく変わってしまう。

廊下の向こうから、死んだように青い顔の老婆が車椅子に乗せられてやって

来た。だが彼女とすれ違うや、椅子から立ち上がり、なんと歩き始めたではな

いか。そのロウのような皮膚に赤みが差し、顔には微笑みさえ浮かべている。

付き添いの介護人も唖然として、なにが起こったかわからないという顔をし

ていたが、お婆ちゃんが一人で廊下を歩いて行くと、あわてて、その後を追い

かけていた。

なんと、この方は悪霊退散だけでなく、ヒーリングの力もあるらしい。

(この人を教祖に立てて新興宗教を起こしたら、大儲けできるな)

そういう思いがチラッと頭をかすめたが、もちろん、すぐ首を振って、その

不遜な考えを追い出した。

五日目は天敵との会合だ。

天敵とは、もちろんこの学園をわがもの顔に闊歩

している女子中学生たち。

四ヶ月前、入学早々寮で騒動を起こしたことから、チューボーたちに目をつ

けられた。それ以来ずうっと折り合いが悪い。彼女らは実に残酷な言葉で、ぼ

くをからかい、欠点をあげつらう。まるで、たちの悪い小悪魔そのもの。

おもしろくないことに、少女たちには悪気というものがないのだ。ただ、見

たまま、感じたままを、すなおに表現しているだけ。それを聞く相手がどう思

うかなど、考えたこともないに違いない。

一人では心細いので、午前中に来た葵さんに「一緒にいてほしい」と懇願し

たが「なに言ってるの。相手は中学生でしょう」と一蹴された。

しかたがない。葵さんが帰り、ぼく一人になるとヤツらがどう出て来るか、

脳細胞を総動員してシュミレーションしてみたが、皆目見当がつかない。相手

はグレムリン並みの怪奇生物なのだ。

そのうちトントンとドアをノックする音がした。

(来た!)

ぼくはあわてて身を守るものを探した。枕元に読みかけの本がある。葵さん

の持って来てくれた、ウェルズの小説、モロー博士の島。それをつかむや、急

いでタオルケットの下に隠す。

「どうぞ!」

ぼくは入り口に向かって怒鳴った。肩を怒らし、精一杯虚勢を張る。

ドアが静かに開いて、夏用セーラー服を着けた一人の少女が入って来た。

「キミは……」

先週、中学校の道場で柔道を教えていた時、急にお腹が痛み出し、耐え切れ

- 44 -

ず相手の子に抱きついてしまった。まさにその少女だ。

黒いセーラーカラーに二本の白線を縫いつけた背の高い少女は、ベッドの縁

まで来ると、やや顔を赤らめながら一通の白い封書を差し出した。

「中学柔道部を代表いたしまして、わたくしがお見舞いに参りました。この中

には部員たちの寄せ書きが入っております。みんな、シン様が一日も早くよく

なられますようにと、心から願っております」

ぼくは中学生にしては、とてもすばらしい挨拶と、落ち着いた態度に感銘し

て、その封筒を押しいただいた。

その中には、折り畳んだA3判の用紙が一枚入っていた。それには一面、寄

せ書きがしてあった。赤や青のペンを使い『がんばってください』とか『早く

お元気に』とかの言葉を添えて、クマやウサギ、ネコやネズミなどのイラスト

が描かれてある。

ぼくを揶揄してばかりいたチューボーにも、こんな心やさしい一面があるか

と思うと、我知らず涙がこぼれた。

彼女は、そんなぼくを見て、やわらかい笑みを浮かべる。

「シン様って、見かけによらず心のやさしい方ですね」

『見かけによらず』というところが、ちょっと気になったが、この子が自分を

ほめてくれたのには心底感動した。

「チュー、いや、中学生からこんなのもらったの、初めてだからさ。キミ、名

前なんていうの?

いつか、ほら、キャンプ場でサインした時、名乗っていた

よね。でも、ゴメン、忘れてしまったよ」

ぼくは照れ笑いしながら尋ねる。

「あの時は大勢いましたから、覚えていらっしゃらなくても当然ですわ。わた

くしの名前は、ほら、ここにあります」

少女は寄せ書きの一つを指差した。

そこには、山中で滝行をしているイラストの下に『矢研菫』と記名してある。

「ふ~ん『ヤケン・スミレ』っていうの?」

「いえ『ヤケン』ではなく『ヤトギ』と読みますの。みんな間違えますけど」

少女は口の中で「ヤケン」とつぶやくと、わずかに顔を赤らめて「ふふっ」

と小さく笑った。

(うわ~っ、カワイイ!)

「いい名前だね。キミにぴったり」

「ありがとうございます。そう言っていただけるの、シン様だけですわ。みん

な変な顔をするだけで……」

しばらく二人で話していたが、彼女は「お次の方たちが、お待ちしておりま

すので、わたくしはこの辺で」と言って帰るそぶりを見せた。帰り際に真剣な

面持ちでぼくの手を取る。

「シン様、また柔道を教えてください。お願いいたします」

- 45 -

そう言うと一礼して部屋を出て行った。

(う~ん、しっかりしている)

ぼくはドアを出て行く少女の後ろ姿を眺めながら、しきりに感心した。

彼女が出て行くや否や、急に廊下が騒がしくなった。

「きゃーっ、出て来た、スミレが無事に出て来たよ」

「どうお、抱きついたりされなかった?」

どうやら、彼女だけではなかったようだ。

「かなり弱ってたからね。キョウボウ性はなかったよ」

スミレちゃんの声がした。先ほどとはうって変わった声色だ。

「あたしたち、入ってもいいかな?」

「いいんじゃない。わたし一人でも、だいじょうぶだったのだから」

「そうよね、変なことしたら、みんなでとっちめてやればいいんだし」

廊下にはかなりの人数がいるようだ。ドアの隙間から、わあわあ騒ぐ声がも

れ聞こえる。

そのうちドアが少し開いて、小さな顔が覗いた。一つ、二つ、三つ。目から

上だけをドアから出している。ぼくが睨むと、素早く引っ込める。しばらくす

ると、また覗いて来る。

ぼくは、あきれてその顔たちに、ぶっきらぼうに言い放った。

「お次の方、どうぞ!」

次の瞬間、ドアが大きく開け放たれて、セーラー服の少女たちが、わらわら

入って来た。その数、十いくつ。壁にいくつか立てかけてある折り畳み椅子を

セットして、二人一組で座る。はみ出した者は、ぼくの寝ているベッドに断り

なく腰掛ける。そして一斉に話しかけて来る。誰がなにを言ってるか、さっぱ

り聞き取れない。

(うわあ!)

ぼくは騒々しい女子中学生たちに囲まれて、アップ、アップの状態になった。

次にサイン攻め。いろいろな色紙をぼくの前に突き出してねだる。腕が痛く

なるまで、下手な文字を書かされた。

(オレのサインなんか、いったい、なにに使うんだ?

額に入れて飾るとか。

まさか、よからぬことに使うのじゃあ……)

まるで、多数の悪魔(小悪魔)と契約を交えているような気がして来た。サ

インを求められるって、有名人(?)になった証拠だから、まあ、悪い気はし

なかったが。

その時、開いているドアから二人の若い男が入って来た。一人は痩せ型で中

くらいの背丈。もう一人はゴリラのような巨漢。両方とも、上は白い半袖シャ

ツ、下はジーンズといった、十代の高校生にしては、普通の私服。

小悪魔たちが一斉に振り向く。とたんに驚愕した様子を示した。

- 46 -

「きゃーっ、男、男、男。本物の男。きゃーっ」

少女たちは、たちまち恐慌状態に陥った。紙を投げ出して隠れ場所を探す。

あろうことか、ぼくの寝ているベッドに飛び乗って、タオルケットの中にもぐ

り込むヤツもいる。

「こら、苦しい。離れろ!」

ぼくは肩や胸に取りついている小悪魔たちに怒鳴った。

男たちは入り口で硬直したように動きを止め、互いに顔を見合わせた。

「なあ、俺たち、いけないところに来ちゃったみたいだな」

痩せたのが困惑した表情で、ゴリラ男を見上げる。

「そうだな、シンがこんなにモテてるなんてなあ」

「どうりで、鶴女から出たがらないわけだ」

「出直して来るか」

「そうよな」

二人は踵を返して、廊下に出て行こうとした。

「こらあ!」

ぼくは、あわてて二人を呼び止める。

「誰がモテてるか!

助けてくれ。おい、助けろ、ユウ、タカシ」

必死に彼らを手招きする。

「でも、どう見てもラブシーンだよな、これ」

清瀬

祐ゆう

がにやつきながら部屋の中を見まわす。

「そうだな。あの子なんか、シンにほっぺた、くっつけてるものな」

ゴリラのような巨漢、持田

崇たかし

が同意する。

「こっちのカワイ子ちゃんは、シンの胸に張りついているし。いいなあ、俺た

ちも一度経験してえな。畜生!」

中学時代の親友二人は、好き勝手なことを言いながら廊下に出る。すかさず

チューボーたちがドアに殺到する。まさに(ドドドッ!)という感じで、あっ

と言う間に部屋から出て行った。

「なんだ、キミたち。もう帰るの?」

祐の残念そうな声が廊下から聞こえた。

「いやあ、助かった。殺されるかと思った」

ぼくは、再び部屋に入って来た祐と崇に感謝した。

「大げさな。たかが女子中学生だろうが」

祐が(あきれた)という風に、軽く両腕を開く。

「いや、子供だと侮るとひどい目に遭う。特にウチの生徒は」

ぼくは「ほぉ~っ」と息をついて、ベッドに横になる。

「ところで、シン。お前、なんかやつれてない?」

祐が顔をかしげて覗き込んで来る。

- 47 -

「腹を手術したからな。それが、ひでえヤブ医者でよ。ほんと殺されるところ

だったんだ。これ、マジ」

「ふ~ん、ここは優秀な病院だと聞いたんだが」

「タイミングも悪かったんだ。日曜でよ、当直しかいなかったからな。それに

よ、この近くで大きな事故があったんだ。ほとんどの医者はそっちにかかりき

りでよ、あのヤブしか手が空いてなかったんだと。アイツ、駆け出しでよ、手

術するのは初めてだったんだと」

ぼくは昔の調子に戻っていた。長年(四か月間)自制していた男言葉が、よ

どみなく出て来る。

祐はぼくの話しを聞きながら、おかしそうに笑う。

「シン、お前、口が悪いの、相変わらずだな。顔が白くなって、ますます美人

になったなあ、と思ったら『アイツ』だの『でよ』だもんな。幻滅するぜ」

「美人……?

祐、まさか、おまえ、オレのこと、女と見てんじゃないだろう

な。そんなのごめんだぞ」

睨みつけると、彼は「ない、ない」と片手を振った。でも、相変わらず顔が

にやけている。その祐を隣に立っている大男が小突く。

「あやしいもんだ。こいつは女の形をしたものに目がないからな。でも安心し

ろ。シンに変なことをしたら、この俺がひねりつぶしてやる」

身長百九十センチの巨漢が「任せろ!」と、ゴリラのように自分の胸を四、

五回、力強く叩いた。

崇の心強い言葉に安堵したぼくは、改めて二人を眺めた。

「ところで、入院してること、どうして知ったんだ。オレ、連絡してないよ」

病院に来るなり、すぐ手術で、知らせる暇なんてなかった。

(親父か、お袋か……まさか、盲腸ぐらいで……)

思案していると、祐がまたニヤついた顔で答えた。

「イトウさんって人から電話があったんだ。『シンが初めての入院で心細い思い

をしているから、見舞いに行ってあげてください』って。その人、お前の彼女

だろう。なんか、お姉さんって、感じだったが」

「葵が……」

(なんでだろう?

電話番号は教えてなかったはず。親父にでも聞いたのか)

「コノヤロー『アオイが』だって。呼び捨てにするほどの仲なんだ」

「だって、いつか手紙に書いたろう。オレと葵は『日見子』だって。世間で言

えば夫婦なんだぞ」

「やけるなあ、やける。その人、俺たちに紹介しろよな。別にとらないから。

俺たち親友だろう。水くさいのナシにしようぜ」

「ああ、そのうちにな。それより、オマエたちの彼女はどうした。この前、オ

レに紹介するって手紙に書いてあったじゃないか」

「逃げられちまった。俺も崇も」

- 48 -

祐は無念そうに頭をかく。

ぼくは「ふ~ん、それは、お気の毒に。でも、よくあることさ」と慰めるよ

うに言った。

ところが「ものは相談だが」と祐が身を乗り出す。

「鶴女の女を紹介してくれないか。恩に着るからさ」

彼はハエが手をするようにして、こちらを拝む。

「それは難しいな。ウチの生徒は男を敵視してるからな。さっきの女子中学生

を見ただろう」

ぼくは舞鶴女学園の男性排除教育を、この二人に語って聞かせた。だが、あ

まり本気にしていない様子。世間では『恋愛は男と女の間でしか通用しない』

という常識に疑問をいだく者は少ないのだろう。

入院してから一週間が経った。傷口を縫っていた糸も取れた。食事も普通の

ものが食べられるようになった。いよいよ今日の午後に退院。

生まれて初めての手術で気が動転したが、思えば誰でも一生に何度かは入院の

経験をするだろう。世の中には何か月も寝たきりの人がいる。自分なんか、と

ても軽い方だ。

それに、多くの見舞客がやって来た。自分がこんなに多くの生徒たちに注目

されているとは夢にも思わなかった。それは、なにもぼくが理事長の姪だから

というだけではないと思う。

「あなたには、人を引きつけるものがあるのよ」

葵さんは、そう言っていたが。

(だが、あの人は来なかった……)

あの人とは、ぼくの産みの母。学園の奥にある尼寺、翔鶴院の住職代理を任

されている理事長の姉、菖蒲

しょうぶ

尼に

様のこと。ぼくは、親父が彼女と浮気してでき

た子なのだ。

ぼくが産まれた時、親父は知り合いの産婦人科医に頼んで『行きずりの男女

が産み落とした子』と説明させ、男の子ばかりで、女児に恵まれなかったお袋

に引き取らせたらしいが、彼女はことの真相を知っている様子なのだ。

ぼくは、菖蒲尼様が見舞に来て、お袋と鉢合わせする場面を恐れていたが、

来てくれないかと、心待ちにしていたのも事実だ。

(まあ、いい経験をした。退院したら寮にも実家にも帰らず、高尾にある葵の

家で、二人だけの夏休みを過ごそう。あっ、そうだ。学園を囲む塀の外にある、

あの古い西洋館にも行ってみなくちゃあ。お化けの正体を突き止めるのだ)

ぼくは退院後の生活に思いをはせた。うきうきして自然に鼻歌が出る。時計

を見るともう十時。そろそろ葵さんの来る時間だ。

(第一話・了

第二話につづく)

- 49 -

往年の名女優オードリー・ヘップバーンが主演した、名画「ティフ

ァニーで朝食を」の原作者はトゥルーマン・カポーティである。

「ティファニー」が公開されたとき、すでに彼は小説家として著名で

あり、話術の巧みなこともあって作家でありながら社交界においても

中心的な存在であった。

その地位に座り続けたいのが彼の本心であり、そのためには次の作

品をどう仕上げるかが大きな課題であった。そんなとき、しばらく筆

をおいていた彼の目に留まった出来事が、ある殺人事件だった。

ニューヨーク・タイムズに掲載されたその事件は、一九五九年十一

月十四日に起きた。カンザス州西部ホルカム村で、中農クラッター家

の一家四人がロープで縛られたうえ散弾銃で至近距離から射殺される

という残虐な事件であった。それは全米に衝撃をもって報じられた。

人口は事件当時、二百七十人。急行列車も止まらないカンザスの田舎

村であった、ホルカムはこうして一躍有名な土地になったのである。

興味を持ったカポーティは、早速現地に飛び、捜査本部を訪ね、殺

人現場を検証した。そのうえ四人の遺体も自分の目で確認した。

足跡という物的証拠は残されていたものの、動機がまったくの謎だ

ったため、当初は迷宮入りが囁かれた。が、小さなきっかけから犯人

が割れる。それは、カンザス州立刑務所に服役中のフロイド・ウェル

カポーティ「冷血」の真実 畑中康郎

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ズという男の証言であった。

ウェルズはクラッター家で一年ほど働かせてもらった元使用人であ

った。辞めた理由は本人にもわからない。ほんの気まぐれであったろ

う。給料はよかったから、本当はもっと働いていたかった。クラッタ

ー氏は気前がよかったし、努力が認められれば臨時ボーナスも出た。

それに、クラッター氏や親切な家族全員に対して好意も持っていた。

それなのに辞めてしまった。居心地がよすぎて、かえって不安になっ

たのであろうか。

その後は仕事を転々とした。結局、同じところで努力することので

きない人間だったのである。そして最後は窃盗を働いて服役した。

そのため、クラッター家の内情に詳しかった。このウェルズが刑務所

で知り合ったのが、リチャード・ヒコックという男である。ウェルズ

はヒコックに吹聴した。まさか、後に大事件に発展するとは思わない。

ただ、吹聴してみたかっただけだ。自分の知っていることを自慢げに

話したくなったのだ。

『クラッター家は豪農であって、金庫がある。そこには大金が眠って

いる』

ところが、それはウェルズの思い違いであった。ウェルズという男

もいい加減で、給料がよかったから豪農、豪農なら金庫がある。単純

にそう思い込んでいたのである。

クラッター氏は現金でのやり取りを好まず、取引は小切手で支払う

習慣であった。したがって家にも現金は置かない主義であった。

そのヒコックが同じ刑務所で仲間になった、ペリー・スミスという

男をクラッター家襲撃に誘った。ヒコックもスミスも軽率な男である。

犯罪の重大さが全く認識できていない。罪の意識もなく、露見しなけ

ればそれでよいといった程度の考えであった。

襲撃は、ヒコックが立案し当初から一家全員を殺すつもりであった。

目撃者は残さないとの考えだ。クラッター家にはもともと三人の娘と

一人息子がいた。そのうち、上の二人の娘は一人がすでに嫁ぎ、もう

一人は結婚目前で家を出ていた。家に残っていたのは、クラッター夫

妻と娘のナンシー、息子のケニヨンの四人であった。

事件は深夜に起きた。犯罪など起きたことのない土地柄で、その夜

も戸口に鍵はかかっていなかった。易々と侵入した犯人たちは、次々

と四人を縛り上げ、クラッター氏に金庫の場所を聞き出そうとした。

だが、金庫など元々ないから、氏はその存在を否定するしかなかった。

結局、ヒコックとスミスはわずかな現金を奪うだけで四人を至近距離

から射殺した。

迷宮入りも取りざたされた事件であったが、ウェルズの証言でヒコ

- 51 -

ックとスミスが捜査線上に浮上した。

警察はまず捜査対象をヒコックに絞り、身辺を内偵した。その結果、

ヒコックと、彼と一緒にいたスミスの二人を、事件から一ケ月半後の

十二月三十日に別件逮捕した。

逮捕理由は小切手詐欺である。ニセの小切手を振り出し、手当たり

次第にテレビや冷蔵庫等を購入、それを現金に換える手口であった。

当然、被害の届け出は相次いだ。一時はメキシコに逃げたが、結局、

そこに住むことはできず、アメリカに戻ってきた。

警察は二人を厳しく追及した。おそらく当時のことだ。拷問に近い

ことも行われたことは想像に難くない。決定的な証拠となったのは、

スミスが履いていたスニーカーである。彼は殺人現場で履いていたス

ニーカーを捨てずに持ち歩いており、それが現場に残った靴跡と一致

した。靴跡は血だまりを踏んだことによりできたものだった。

二人はついに自供した。自供によれば、結局、金庫はなかったし、

奪った金品もわずか四十三ドルだった。

殺人に際し、二人に特別の感慨が見られない。動物を殺すような気

軽さなのである。人間は環境によって、どうにでも変化できる存在な

のだろう。殺人を実行後も後悔や反省、良心の咎めなどはまったく感

じられなかった。人間とは時に恐るべき存在である。

二人が逮捕され、これで真相が究明できると考えたカポーティは二

人のうち、ペリー・スミスに接近した。理由は、カポーティとスミス

は、幼少時の境遇が似ていたからだ。二人とも両親が離婚し、貧困の

中に育っている。だがカポーティは独学で作家になり、一方のスミス

は殺人者へと転落する。カポーティの人生がどんなものであったか、

記録が手元にないので二人の比較はできない。しかしこの違いがどう

して生じたのか、追究のテーマになりそうで興味深い。

それにしても、ペリー・スミスという男の人生は悲惨であった。父

は白人だったが、母はインディアン。混血で黒人同様の差別を受けた。

四人の兄弟姉妹であったが、一番上の姉も兄も自殺。ただ、姉の方は

宿泊していたホテルの上階からの墜死であったため、自殺かどうかは

判然としない。母は離婚後、ペリーが五歳のとき、アルコール中毒で

死亡。

施設に預けられ、そこでも虐待を受けたから、人間不信に陥っても

無理はないと思われる。やがてオートバイ事故で足を痛め、一生、鎮

痛薬が手放せなくなった。そして、その事故の影響なのか、彼の下半

身は成長が止まってしまい、異常なほどに足が短い。だから上半身と

下半身は異常なほどアンバランスであった。

もともと音楽や詩、そして文学の才能があった。しかしその才能を

- 52 -

伸ばす資金も時間も彼にはなかった。人生は理不尽だ、と思い詰めた

かもしれない。いや、そこまで考える余裕も考える能力も、そして感

性もないかもしれない。

カポーティは、そうした生い立ちからスミスに親近感を覚え、三年

にわたって刑務所を頻繁に訪れてはインタビューを重ねた。

その間カポーティは二人のために自弁で優秀な弁護士を手配した。

二人のために、何故そこまで便宜を図ったのか。理由ははっきりして

いた。二人が死刑になっては困るからだ。小説を書くために事件の背

景や、事件当日の詳細等々を聞き出す必要があったのだ。スミスたち

に味方と信じ込ませ、なにくれとなく面倒を見た。裁判は長びき、十

分な取材ができた。記録した資料は、六千ページにも及んだという。

そうなると、二人のことが心配といいながら、それまで頻繁に訪れた

刑務所から足が遠のいた。専ら資料の整理と執筆に余念がなくなった

からだ。

一方、カポーティが頼りの二人は、刑務所に訪ねてくれることを何

度も要請したが、彼はそれどころではなくなっていた。二人はすでに

用済みの存在だったのだ。

三年を費やし、小説がほとんど完成に近づいた頃、事前出版記念講

演が開催された。

カポーティと出版社が出版前に宣伝を兼ねて開いたのだ。聴衆も新

しい作品に大いに期待し、一刻も早く本の内容が聴きたがった。

本のタイトルも「冷血」(I

N COLD BLOOD

)に決まった。しかし、当

然のことながら、小説の結末はまだ書かれていない。だが、その結末

はすでに決まっていた。二人が死刑になる筋書だ。早く書き上げ出版

したいから、今度は、二人に早く死刑になって欲しくなった。

一方で、死刑囚の二人はカポーティの助力を得ながら、最高裁に上

告することを目指していた。何とか死刑執行を先延ばしにしたいので

ある。カポーティに弁護士をつけてもらいたいと再度要請した。が、

カポーティは弁護士を探す気などなかった。

スミスを刑務所に訪ねたカポーティは、弁護士が見つからなかった

旨を、断腸の思いを装いながら伝えた。そのうえカポーティは、本の

執筆がまったく進捗していないと二人に語っていた。とくにスミスに

対しては、事件当時は心神耗弱で、これを理由に無罪にもっていくこ

とを期待させていた。インタビューはその見返りだったのだ。

それに対し、スミスはどこから情報を仕入れたのか、事前講演会や

本のタイトルが「冷血」に決まっていることを知っていた。そして、

それはおかしいとカポーティを責めた。

しかし、とうとう弁護士がみつからないまま、二人に最高裁から上

- 53 -

告棄却の決定が出た。犯罪の重大性からどのみち死刑になることは逃

れられないものだった。

二人にも半ば理解できていたから、特別カポーティに恨みがましい

ことは言わなかった。黙って死んでいったのである。

死刑執行は一九六五年四月十四日であった。カポーティは失望を顔

に出しながら、その実、安堵したのである。執行にも立ち会った。そ

れは小説の現実感を増すためにほかならない。

こうして結末を得た傑作小説「冷血」は完成し、目論見どおりベス

トセラーになった。カポーティはこれまでにない徹底した取材とリア

ルな筆致でノンフィックションという新分野を切り拓いたことになる。

絶賛を浴び、小説界で確固不動の地位を築いた。

しかし、問題はその後のカポーティの作家活動であった。次の作品

が一作も書けなくなったのである。実際、書けなくなったのか、ある

いは書かなかったのか、それはわからない。しかし何らかの影響があ

ったことは間違いないだろう。人間の心というものは、それほど強い

ものでもなく、また冷酷を徹底できるものでもないからだ。

「冷血」が最後の作品となった彼は、一九八四年、アルコール中毒で

六十歳という、さして長くもない生涯を終えた。

<

了>

「印旛文学の会」について

・本会は、「印旛文学の会」と称し、文芸「草の丘」を

年に2回発行する等の文芸活動を行う。

・文芸「草の丘」は、簡易製本の冊子を若干部発行する

とともに、ウェブサイトにその全文を発表する。

・会員は、印旛地域に関係がある、もしくは関心がある

人で、詩や小説、随筆等を創作し、発表する者とする。

・会員は、年会費千円を負担すること。ただし、年会費

では対応できない費用が発生した場合には、会員は

その費用を分担するものとする。

・会員は、自作の未発表作品を投稿できるが、掲載に

ついては編集会議でその可否を検討する。

・作品の長さについては特に規定しないが、1回に掲載

できる枚数は、原稿用紙で100枚以内とする。

・その他、会の運営に関する重要事項の変更については、

合評会等の場で、会員に諮って決するものとする。

- 54 -

アプとズコ(Appu & Zukko

―第九回

完結編―

香取

アプが出発した翌日、ズコは早速、六歳児のコロニーに向かいま

した。厨房を取り囲む食堂の端を通って、彼は〈九月生まれ〉の表

示がある入口を潜り抜けます。長い廊下の左右には小型ベッドが縦

横に並び、黄色い服のハウスキーパーが所々で掃除をしています。

ホサピたちの寝所を奥に進むと、幾つもの教室が連なっていました。

ズコは手前にある教室のドアをそっと開けます。

「今日は、イカタック星人様が使った洋ダルの掃除について……」

と、五十がらみの男ホサピが、教壇に灰色の洋ダルを載せて話して

います。その脇には、実技担当と思われる若い女が立っていました。

男は、洗浄機で洗った洋ダルの水垢

みずあか

をきれいに拭き取り、内側まで

ピカピカに磨き上げることが大切だと説きます。話が一段落すると、

次は実習に移ります。生徒たちは数人のグループに分けられ、教材

の洋ダルと布が配られていきます。

ズコは、ホサピに混じって訓練を受ける人間の子供たちを目で追

っていました。すぐ近くにアリセがいます。彼女は席を立つとき、

ズコを見上げてにっこり笑いました。ズコは彼女に笑顔を返し、右

隣のグループに二、三歩移動します。そのグループには、頭にチッ

プを埋め込まれたナリセがいました。彼はグループの輪から一歩離

21

- 55 -

れて訓練の様子をぼんやり眺めています。ズコが肩を叩いて、「元気

を出して」と小声を言うと、彼は初めてズコに気付いてコクリと頷

きました。

教室をくまなく回って、せ組の子供たちに会うと、ズコはコロニ

ーの中央に戻ってきました。引き続きお組に……と思いましたが、

建物の出口にテロウが立っています。彼はズコに「昼食にしよう」

と声を掛け、ズコを食堂の真ん中に連れて行きます。白い服で埋ま

った食堂の厨房の近くに、緑色の服で囲まれた幾つかのテーブル。

その一つにテロウは席を取り、周囲の教師たちにズコを紹介します。

昼休みが終わると、ズコが初めて実技指導に当たる体育の時間で

す。彼は、先輩のテロウについてグランドに出ました。

「皆さん、今日は体操の新しい先生を紹介します!」と口火を切っ

た担任は、横に立つテロウに発言を促します。それを受けて、テロ

ウが言いました。

「いままで私が担当してきた体操は、これからズコ先生に変わりま

す。ズコ先生は、ホサピレースで何度も優勝している有名なレーサ

ーでもあります」

ズコは、テロウの紹介に合わせて、ペコリと頭を下げます。

「それから今日はいませんが、もう一人、アプという女の先生も体

操を教えてくれます。でも、新しい先生たちはホサピレースにも出

なければならないので、ズコ先生とアプ先生は、毎月交代します」

そこまで話すと、テロウはズコの背に手を当て、前に押し出しま

す。

「こんにちは、ズコです。僕は、この訓練所を十歳のときに巣立っ

てから、ずっとホサピレースの選手をしています。駆けっこが得意

なので、これから体操を受け持ちます」と言って、隣に立つテロウ

を伺いました。しかし、彼はズコに続けて話すように目配せをして

います。

「それでは早速、駆けっこから始めますー」と叫びながら、ズコは

雪が融けたグランドに棒きれで三メートルほどの線を引き、その線

から直角に三十歩前に進みます。そこで立ち止まり、また手に持っ

た棒で地面に同じ長さの線を平行に引きました。

「いま、僕が引いた線と線のあいだを、できるだけ早く走ってくだ

さい。一度に走る人の数は、そうですね、六人にしましょう」

六人の子たちは、ズコが立っているゴールを目指して一斉に走り

出しました。しかし、その子らのフォームは実にぎこちないもので

す。ある子は両手をだらりと下げて前につんのめるように、ある子

は反り返って後ろに倒れそうです。それらの子を引き離して、真っ

すぐ走ってくる子がいました。それはネハセで、手もしっかり振れ

- 56 -

ています。ネハセは、後ろの子を数メートルも引き離してゴールイ

ン。ズコは、「一当賞」と叫びながらネハセの小さな肩を抱きしめま

す。そして、「後でお話があるから」と小声で言って、二着のゴール

に備えました。

その次、さらにその次の組でもトップは人間の子供で、ホサピと

の違いは一目瞭然です。最終の組にはアリセとナリセがいましたが、

アリセはトップ、頭にチップを植え込まれたナリセも三位でした。

全員が走り終えたところで、ズコは生徒を周りに集めました。そ

して走る要領を口で言って、実際に数メートルを走って見せます。

それが終わると、今度はスタート地点に向けて、もう一度走ること

を指示しました。

ズコは、第一組がスタートラインに並ぶとき、端に立ったネハセ

にそっと耳打ちをします。

「ホサピの振り、ホサピになりきって」と小声で言い終えると、「さ

あ、いま先生が言ったことを頭に入れて力一杯に走りましょう」と

大声で言って、ポンと手を打ちます。走り出した子たちは一斉に担

任の教師が立つゴールラインに向かって走り出します。途中でトッ

プに立ったネハセは、後ろを振り返りました。そして、前に出過ぎ

たことに気づいてスピードを緩めます。その拍子に彼は転んで、着

順は後ろから二番目まで下がりました。

第二組、第三組にも人間の子供がいますが、彼ら彼女らはもう要

領をすっかり呑み込んでいました。最終の組ではアリセが三着、ナ

リセは五着になり、駈けっこの訓練は終了です。五十がらみの教師

は、「あとは私の方で」と言い残し、クラスを体育館の方に引率して

行きます。入れ替わりに、テロウが別のクラスを連れてきました。

ズコは、最初と同じように駆けっこの訓練をしながら、人間の子供

たちに『目立たない走り』をさりげなく指導しました。

午後の三時に、その日の訓練はすべて終了しました。テロウは、「夕

食の六時までは自由時間。怪我に注意すれば、何をさせてもいい」

と言います。

ズコは早速、グランドの向こう端にゆっくり歩きます。途中で子

供たちに声を掛けると、数人がついて来ました。その数は次第に増

えて、グランドの隅では四、五十人になっていました。ズコはそこ

で立ち止まり、子供たちを座らせます。

「良い子の皆さん、久しぶりですね。元気でしたか」とズコが言う

と、「

はーい」

と明るい声が返ってきます。

「僕は、体操の先生になったので、これからずっとここにいます。

また一緒に字を読んだり書いたり、いろいろな事を勉強しましょう」

「はーい、でもズコ先生、どこで勉強を?」とアリセが訊きます。

「そうですね、天気のいい日はここ、このグランドのどこかで。雨

- 57 -

の日は体育館の中かな」

翌日からズコは、午後の三時が過ぎると子供たちをグランドの隅

に集めました。そして、地面に先が尖った棒で文字を書きます。半

年余り勉強が途切れたので、多くの子供たちは平仮名を忘れていま

した。しかし、彼は自分の名を地面に書きつけ、復習を開始します。

次に子供たちに夫々の名を書いて読ませていくうちに子供たちは文

字を思い出しました。平仮名が書けたら、次はカタカナです。彼は

グランドに二種類の文字を書きならべて、子供たちに読み書きを繰

り返し教えます。

このような授業は、イカタック星人はもとより、他の教師たちに

も知られたら危険です。しかし、緑色の服を着たズコの周囲を、二、

三十人の子供たちが取り巻いている光景はごく自然で、違和感はま

ったくありません。最初は警戒しながらの授業でしたが、日が経つ

につれて安全なことが分かってきました。イカタック星人がグラン

ドや体育館に来ることはなかったし、テロウをはじめ、他の教師も

まったく関心を示さなかったからです。

雨の日はグランドが使えないので、訓練は体育館の中で行われま

す。ズコは、室内でも駈けっこやケンケンをしましたが、大抵は床

にマットを敷いて前転や横転、ときには跳び箱の登り降りなどを指

導しました。

午後の自由時間は、体育館の隅で童話の読み聞かせです。訓練か

ら解放された子供たちに声を掛けると、近くにいた二十人余りがズ

コを囲んで座りました。そこで彼は、イソップ童話の「北風と太陽」

の話を始めます。最初は絵本なしの素話

すばなし

ですが、子供たちは眼を輝

かせてズコの話に聞き入りました。

話が終わると、ズコはマットや跳び箱を収納した倉庫に子供たち

を連れて行きます。そこで、「北風と太陽」の絵本を取り出して、も

う一度絵を見せながらの読み聞かせ。話の途中で、「マントと言うの

はね、旅人が着ているこの服」という具合に説明を加え、子供たち

の理解を促しました。

最初のグループが終わると、ズコは体育館に戻って次の子供たち

に声を掛けます。再び二、三十人の輪ができると、彼は同じ童話を

繰り返しました。

またたく間に一ヶ月が過ぎて、四月も最終日を迎えました。ズコ

の教師役はこの日までで、五月からはアプと交代になります。その

日の朝、ズコが食事の片付や掃除を済ませたところにパーリオの車

が到着しました。ズコが迎えに出ると、ワゴン車からアプだけがス

ーツケースを抱えて降りて来ます。運転席のパーリオは、「夕方の五

時過ぎに戻ってくるから」と言い残して、そのまま本庁の仕事場に

- 58 -

向かいました。

ズコは、アプとの再会を喜ぶ

暇いとま

もなく、訓練所でやってきたこと

を引き継ぎます。午後の体操についてはベテランのテロウに教えて

もらえば良いこと、自由時間にグランドや体育館に子供たちを集め

て行う秘密の授業は安全で、むしろ正々堂々とやった方が自然であ

ること。そうは言っても、絵本は他の教師役に見つかると危険なの

で、体操用具が収納された倉庫の中で用心深く見せていることなど

です。

コロニーでの様子を事細かく話したズコは、アプを伴い訓練所に

出向きました。ちょうど昼どきなので、彼は食堂に入って、親しく

なった教師仲間にアプを紹介して回ります。

アプとズコは、毎月入れ替りで訓練所の教師を務めました。月末

には引継ぎを丁寧に行いましたが、それでも細部まではよく伝えら

れません。そこで二人は、同じことを意味もなく繰り返さないよう

に記録を残すことにしました。子供たちに教えたことを日記のよう

に書き留めておくのです。この取り組みを提案したアプは、小さな

ノートを用意しました。そこに四月三十日は引き継ぎ、翌日は左右

のケンケン、翌週はスキップ。自由時間の読み聞かせでは『アリと

キリギリス』。翌月、そのノートを受け取ったズコは、陣取りゲーム

やボール投げに『羊飼いとオオカミ』、という具合です。

この記録ノートで子供たちの教育は重複や大切なことの欠落もな

く、順調に進んでいきます。文字の読み書きでは、やさしい漢字も

教え始めます。最初は一から九までの数字や人、山、川、さらに目

や口、耳などで、子供たちの覚えも極めて順調でした。

すぐに一年が経過して、九月生まれの子供が七歳児のコロニーに

移される時がやってきました。その時、コロニーで教えていたのは

アプでした。彼女は、七歳になるせ組の子供たちをグランドや体育

館の隅に集め、しばらく会いにくくなることを話します。

「とくに体操の時間は目立たないように注意するのよ」とアプが、

子供たちに念を押すように言いました。

「分かった。でもアプ先生と、また会えるのは何時になるの?」と

輪の中にいたアリセが寂しそうな顔で訊きます。

「何時でも会えるわ、三時を過ぎたら私はあなた達のコロニーにも

行くから。でも、今までのように毎日という訳にはいかなくなるの」

「でも、アプ先生は必ず来てくれる?」

「ええ、行くわ、週に二回か三回はね」と約束をして子供たちと別

れました。

翌十月にはズコがお組の子供を見送り、十一月には再びアプが次

の子供たちを送り出します。そして、二人は自由時間に足繁く七歳

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児のコロニーに通って、子供たちとの約束を果たしました。

春が来て、アプとズコの受け持ちは七歳児のコロニーに変わりま

した。場所は以前より五百メートルほど奥になりますが、訓練生た

ちはみんな顔見知りの子供ばかり。二人は人間の子供たちと再び午

後の体育の時間でも交流ができるようになったのです。

やがて子供たちが十歳を迎える時がやってきました。大抵の子供

は、わずかな玩具や身の回りの品を持って隣のコロニーに移ります

が、特殊な訓練を受ける子供だけは一足早く訓練所を出ます。かつ

てアプとズコが、レーサーになるためにここを出たのも十歳でした。

それと同じことがいま、行われようとしています。ホサピ牧場では、

世界中から届いたさまざまな注文に応じて、適性のある子を選んで

送り出します。アプとズコも、担任やテロウと共にイカタック星人

から命じられた選定作業に当たりました。二人は、出来ることなら

人間の子供たちは出したくない、十五歳になるまで訓練所に留まら

せて一斉蜂起のときに備えたいと思いました。しかし、選定作業の

場では、そのようなことを口に出すわけにはいきません。何度かの

討議で、サーカスからの求めには敏

びんしょう

なアリセが、格か

闘技

とうぎ

には体

が大きくて力持ちのネハセ。ほかには、アプたちのようなレーサー、

歌ったり踊ったりするホサピ、目に障害のある星人のための盲導ホ

サピなどが決まっていきます。アプとズコは懸命に人間以外のホサ

ピの子を推薦し続けました。しかし、それらの多くは聞き入れられ

ず、二十名の内

一五名は人間の子供という結果になってしまいまし

た。いくらホサピの振りをしていても、やはり人間の子供は身体能

力も知的能力も優れていましたから。

九月の末に、選ばれたホサピたちを送り出す儀式が体育館で開か

れました。舞台に並んだ子供たちのホサピ番号と行く先が読み上げ

られ、イカタック星人の施設長が

餞はなむけ

の言葉を述べます。これから

新しい飼い主のもとで厳しい訓練が待ち受けていると思うが、ここ

で身につけたことを活かして夫々の道で活躍するように。そして、

フロアで見送る大勢の児童には、イカタック星人に大事にされ、高

く評価されるホサピを目指して、日々の訓練により一層励むように

という訓話でした。

その儀式が終わった日の自由時間に、アプとズコは選び出された

一五人の人間の子供を体育館の隅に集めました。

「皆さん、今月は十歳になりましたね、おめでとう!」とアプとズ

コが声を掛けてもいつものような返事はありません。床に座った子

供たちは、両手で抱えた膝のあいだに顔を埋め、なかには肩を震わ

せている子もいます。

「無理もないわね、急に知らないところに行けって言われたんだか

- 60 -

ら。でも、私もズコも同じだったの。十歳のときにパーリオってい

うイカタック星人に売られて、半年後にはホサピレースに出るよう

になったのよ」

アプの言葉に、四、五人の子供が少しだけ顔を上げます。

「そう、そうなんだ。僕も最初はとても不安だったよ。だけど、行

ってみたら結構大事にされたし、それほど辛いことはなかったよ」

とズコが補足します。彼の楽観的な言葉で、子供たちはみんな縮ま

った背を伸ばしました。

「私は、サーカスに行くみたいだけど、同じようになる?」とアリ

セが不安げに訊きます。

「そうね、アリセちゃんが行くのはロシアという国のサーカスだけ

ど、いきなりむずかしいことをやらされることはないと思うわよ」

とアプ。

「僕は、東京シティにあるジムみたいだけど、レスリングとかボク

シングをやらされるのかなぁ?」とネハセも口を開きました。

「ウン、多分やるんじゃない。だけどネハセ君は力が強いから大丈

夫。むしろ、対戦相手に怪我をさせないように注意しなければなら

ないかも」とズコが明るく答えます。

「そうかぁ、あんまり心配することはないんだ!」

それまで沈んでいたネハセが大声を上げ、明るい表情を取り戻し

ました。それにつられて、落ち込んでいた子供たちの顔に生気がよ

みがえってきます。

「でも皆さん、このことだけは必ず守ってください!」とアプがネ

ハセを凌ぐ大声を張り上げました。

「皆さんはホサピとして、夫々のご主人様に買い取られていくので

す。ですから、どんなときでもホサピとして振る舞うこと、ホサピ

になりきることが大切です。決してこのことは忘れてはいけません」

「そうです。重ねて言いますが、皆さんはこれから行く先々でホサ

ピに成りすまして生きることです。どんなに辛いことがあっても耐

えて、逆らうとか反抗的な態度を取ってはいけません」とズコが念

を押します。しかし、床に座った子供たちは俄に

かには納得しかねる

表情です。隣同士で顔を見合わせたり後ろを向いて小声で話したり。

そのうちにアリセが手を挙げて質問をしてきました。

「ホサピの振りには慣れているし、よく分かっています。でも、私

たちは何時までもご主人様の家畜なの?

ただ、我慢して生きてい

くだけなの?」

「いいえ、違います。ホサピの振りはこれから五年間、アリセちゃ

んや皆さんが十五歳になるときまでです。十五歳になったら、もう

ホサピの振りはしなくてもいいの。家畜の生活は終わりになります」

とアプが、力を込めてきっぱり言いました。すかさずズコが、落ち

- 61 -

着いた声で話を繋ぎます。

「皆さんとはもう会えないかも知れないから、先のことを少し話し

ておきましょう。皆さんは明日この施設を出ていきますが、ここに

残った千人に近い仲間たちも十五歳になったときには世界に向けて

飛び出します。その時がチャンスなのです。僕らは力を合わせて必

ずイカタック星人をやっつけます。そして、人間の世界を取り戻し

ます。だから、その時が来るまでの我慢、五年間の辛抱です。分か

りますね」

ざわついていた子供たちの態度が変わりました。全員が真剣な表

情でアプとズコを見つめ、言葉の一つ一つに頷いています。

「それから、皆さんがここを出るのに合わせて記念の品を用意しま

した。これから、その品を渡しますので、順繰りに倉庫にきて下さ

い」

アプは倉庫の扉を開けて、ズコと共に跳び箱や積み上げたマット

の隙間に入り込みます。そして、前から用意しておいたお守りを取

り出しました。

「これはね、深い洞窟の奥で生きのびていた源蔵爺さんと千佳婆さ

んが、あなた達の無事を願って作ってくれたお守りというものです。

肌身離さず、大切にしてね」と、アプが一人ひとりに手渡します。

長さ五センチ、幅が三センチほどの白いお守りは、千佳が丹精を込

めて縫ったものでした。色は目立たないように、子供たちの服の色

に合わせて作られていました。

「このお守りの中にはね、AZの経典が入っているんだよ、ほらっ」

とズコが自分自身のお守りを開けて中身を見せます。そこには小さ

な紙に印刷された経典が小さく折り畳まれて入っていました。

「時折、この紙を開いて経典を読むようにしようね、生きている限

り決して忘れてはいけない大切なことだから。それから、このお守

りは紛失しないこと。もし、イカタック星人の手に渡ったら大変だ

からね。絶対に手放しては駄目だよ」と言って、子供たちを送り出

しました。

十月には、お組の子供たちの中から、やはり二十数人の先遣隊

せんけんたい

もいえるメンバーが選ばれます。その中には、アイクとフリオをは

じめ、十人余りの仲間たちが入っていました。さらに十一月にはサ

チノやサトノたち十数人の仲間が選び出されて、訓練所から世界中

のいろいろな都市に向けて旅立って行きました。

仲間の数は数十人も減ってしまいましたが、十歳児のコロニーに

大きな変化はありませんでした。徹底した訓練の成果で、人間の子

供たちはホサピとまったく区別がつきません。ただ、午後の自由時

間に、アプかズコを取り囲んだ集まりのときだけは様子が違ってい

- 62 -

ました。そこでは新たな漢字の読み書き、ローマ字や簡単な掛け算

という具合に、子供たちの学習は着々と進んでいきます。ときには

好きな童話について、感想を発表したり互に話し合ったりすること

もあります。そのようなとき、子供たちの目はきらきら輝き、発言

をするときの表情は溌剌

はつらつ

としていました。アプやズコを取り囲んだ

子供たちの輪は、本来の人間らしい喜びで溢れていたのです。

そのような平穏な日々が続いていきましたが、子供たちが十二歳

になる月に、奇妙な知らせ届きました。最初に気付いたのは九月生

まれのせ組の男子で、誕生日が早い順に増産所に来るようにと言う

呼び出しです。用件は不明ですが、八月生まれの子たちの話では、

どうやら『馬乗りの儀式』が行われた模様です。

そのとき、訓練所にいたのはズコでした。彼はアプとの引継ぎを

終えて、九月の初日にコロニーに出向きます。そこで、増産所から

の呼び出しを子供たちから知らされました。彼は、儀式の名を聞い

た途端に、「あ、もうその時が来たか!」と小声で叫び、すぐにパー

リオの別邸に引き返します。そして、押し入れの奥に仕舞い込んで

いた『あるもの』を取り出しました。

彼は、『あるもの』を入れた袋を手に、再びコロニーに急ぎます。

そして、せ組の子供の誕生日を調べて、早い順にリストを作成して

いきます。例えば、ウノセは三日生まれで、リストでは一四番目。

恐らく儀式の最初のグループに組み入れられるでしょう。木馬乗り

が執り行われるのは月曜と木曜日、今日は金曜ですから一時の猶予

も許されません。

ズコは先ず、誕生日が一日から五日までの子供たちに声を掛ける

ことにしました。休憩時間や午後の体育の合間に該当する子供のす

べてに会って、午後の三時を過ぎたら必ず体育館に集まるようにと

伝えます。そして、時間になると『あるもの』を入れた袋を抱えて

体育館に向かい、倉庫から跳び箱の最上段だけを取り出しました。

午後三時のチャイムが鳴り、声を掛けられた子供たちが集ってき

ました。その数は二六名、すべて九月の一日から五日までの間に生

まれた男子です。

「これからとっても大事な話をするから、しっかり聞くように!」

とズコは大声で言い、隅に置いた低い跳び箱に

跨またが

りました。

「皆さんは来週の月曜に、増産所に行くようにと言われましたね。

そこで何をするか、これからお話しします」とズコは、『馬乗りの儀

式』について身振りを交えて説明を始めました。子供たちがやるこ

とは簡単で、跳び箱より一回り小さな木馬に二、三分跨っていれば

済んでしまうということ。しかし、それは成人になりかけた子供た

ちの睾丸に放射線を当てて去勢し、生殖能力を奪い去る恐ろしい処

置であり、出来ることなら避けたいことを手短に伝えました。

- 63 -

「ズコ先生、そんなひどいことは嫌です、増産所には行きたくあり

ません」

ウノセが真っ先に手を挙げ、拒否の態度を表明しました。ほかの

子供たちも口々に嫌だと言います。

「行きたくはない、それは分かる。しかし、僕らはここでは普通の

ホサピだよ。儀式を拒否して逃げ回ったら正体がばれてしまう。そ

うなれば、去勢どころか命が危ない」

「じゃあどうすればいいの、ズコ先生は僕らを恐怖に

陥おとしい

れたいだ

け!」と、ウノセが叫ぶように言いました。

「いや、対策は考えてある。だから安心して」とズコは持参した袋

の中から三角形の『あるもの』を取り出しました。

「源蔵爺さんのことは何度か話したことがあるけど、これもその一

つで放射線を通さないスイムサポーターだ。パンツの下に、このサ

ポーターを着けて儀式に臨めば去勢は回避できる」

子供たちの悲痛な表情に少しだけ安堵の色が浮かびます。

「その三角のものは、どうして放射線を通さないの?」と、ウノセ

の隣に座った子が質問してきました。

「これはタングステンという金属で出来ていて、放射線を通しにく

い。洞窟の奥で源蔵爺さんが苦心して作ってくれたサポーターなん

だ」

ズコは少し得意げな口調で、袋の中を広げてみせます。

「ここにある十枚には、一枚一枚に番号が付けられています。これ

から誕生日が早い順に配りますが、使い方は倉庫の中で話します。

先ず九月一日生れのアニセ、アチセ……それに二日生まれのイトセ

までの六人は倉庫に来るように」

そう言って、ズコは袋を手に提げたまま倉庫の扉を開きます。そ

こに名を呼ばれた六人が、跳び箱の最上段を抱えて中に入ります。

ズコは、体育館に残った子供たちにしばらく待つように伝えて、扉

を締めました。

「それでは、一番のスイムサポーターはアニセ、二番はアチセだ。

恐らく五人一組で儀式が進むから、君たちは五つ並んだ木馬のいず

れかに並ぶことになる。五人が木馬に座ったら、二、三分で放射線

の照射は終わる。その後は控室に戻されるから、アニセは順番を待

つ次の人、十一番目のウチセにサポーターを渡すこと。渡すと言っ

ても控室では無理だから、二人でトイレに行って受け渡しをすれば

いい」

ズコは、午前中に作成したリストを見せながら、サポーターを十

番先の子にバトンタッチするよう指示しました。

「ズコ先生、渡す人は分かったけど、これをどのように使うの?」

- 64 -

とアチセが訊きます。

「ウン、それはこれから教えるから、ズボンを脱ぎなさい」

「えっ、ここで脱ぐの!」

「そうだ、パンツの下に着けるものだから、スッポンポンにならな

ければ練習はできないよ」

ズコがそういうと、子供たちは仕方なくズボンとパンツを脱ぎ始

めました。

「もっと陰嚢をしっかり包み込んで。放射線は下から照射されるか

ら、とくに下側を丁寧にガードすることが大事だ」とズコは、跳び

箱にアニセを座らせ、下からの放射線をブロックするサポーターの

着け方、さらにその上にパンツをはいて、外からはスイムサポータ

ーが見えなくなる方法を伝授しました。

最初の六人に丁寧な説明をした後は次の六人、さらに次と繰り返

して、ズコは集めた児童への指導を終えました。できることならズ

コも子供たちに付き添って増産所に行きたいところです。しかし、

教師の同伴は認められません。スイムサポーターがイカタック星人

に見つからないことを、そして、去勢の照射から子供たちが守られ

ることを祈るばかりです。

月曜の朝、増産所から迎えのバスが二台到着しました。赤い服の

ナースホサピが降りてきて、九月一日から四日までに生まれたホサ

ピはバスに乗るようにと指示します。訓練所の教師たちも手伝って、

番号順に児童を並ばせ、最初のバスに誘導します。ズコも作業に加

わり、ホサピに混じった人間の子供たちに声を掛けます。先頭から

二番目はアニセ、四番目にはアチセ、七番目はアツセです。ズコは、

その子供たちのお尻をポンと叩き、「しっかり装着したな、儀式が終

わったら間違いなくバトンタッチしろよ」と小声で言って送り出し

ました。

午後になると二台のバスに分乗した児童が帰ってきました。総勢

は六十人余り、そのうちの二十一人が人間の子供たちです。バスを

降りる子供たちの表情は明るく、遠足から帰って来た時のように見

えます。ズコは、彼らの表情から儀式が何のトラブルもなく行われ

たことを察知しました。

その日の午後に、ズコは増産所から帰ってきた子供たちに会って

儀式の様子を聞き出しました。かつて、パーリオに連れられて見学

したときと同じことが行われたということですが、握り棒に掴まる

と木馬はリズミカルに揺れて、楽しいくらいだったと言います。彼

は、十枚のスイムサポーターを子供たちから回収して、次の木曜日

の儀式に備えます。

一回の儀式に呼び出される男子はおよそ五十名で、その三分の一

前後が人間の子供たちでした。ズコはそのペースに合わせて儀式を

- 65 -

受ける子供たちを集め、イカタック星人の陰謀をブロックしていき

ます。すぐに月末になり、せ組の男子の儀式はすべて終了、翌月か

らはお組の男子が呼び出されます。そして、教師役もズコからアプ

に引継になります。

ズコは月末に木馬乗りの儀式に呼び出されるお組のリストをアプ

に渡し、去勢の処置を防ぐ方法を丁寧に伝えます。そして、十枚の

スイムサポーターを彼女に預けました。しかし彼女は、サポーター

の装着についてはうまく教えられるか、自信がないと言います。そ

こでズコは、既に経験済みのアニセやウノセに助手役を命じ、サポ

ーターを装着する練習は彼らに指導させることにしました。

十一月は再びズコが、十二月はアプとズコが揃って指導に当たり、

すべての男子が儀式をクリアーしました。それと同時に、十一歳児

のコロニーに人間の子供は一人も居なくなりました。ズコとアプは、

一月になるとせっせと十二歳児のコロニーに足を運び、男子を体育

館の隅に集めます。

「君たちは約束を忠実に守ったので去勢を免れることができた。先

ずはおめでとう。これで、みんな立派な男になれるし、将来は好き

な女性と結婚してお父さんにだってなれる」とズコは子供たちの行

動を誉めて祝福しました。

「しかし、喜びと同時に義

デューティ

も生まれる。それは何か、分かるかな?」

ズコを囲んだ子供たちは突然の質問に首を傾げ、互いに顔を見合

わせます。

「それでは、AZの経典の五番目は?」

「ハイ、暴力と性的虐待を禁じます。理性を失う薬物の乱用も許し

ません」と、床に座った子供たちが口を揃えて答えました。

「そうです。男になると強い性の衝動が生れる。女性を見るとムラ

ムラしたり、飛び付きたくなったり。それが異性への悪戯

いたずら

や強姦な

どの性的虐待につながる、分かりますね。しかし、そのような性の

欲望や衝動は自制しなければいけない」

いままでは空々

そらぞら

しく感じていた経典の五番が、このとき子供たち

の胸に実感を伴った戒めとして染みわたっていきました。

「僕自身も経験したことだけど、これから成長するにつれて性の欲

望はますます強まると思う。でもその欲望に負けて、女性に淫み

らな

行為をすれば、たちまち君たちはあの『木馬乗り』の場に引き戻さ

れる。だから絶対に女性には手を出してはいけない」

ズコは自分自身にも言い聞かせるように、最後の部分を繰り返し

ました。

「ズコ先生、それは僕らが家畜だからでしょう。人間の世界を取り

- 66 -

戻したときには、もうそんなことは考えなくてもよくなりますよね」

と一人が訊きます。

「いや、違う。違うからこそ経典の五番目に入れて、永遠に守らな

ければならないのです。自制することができない性、衝動のままに

暴れ狂う性であれば、それは去勢するしかない。でも去勢されてし

まったら男ではなくなる、人間らしさも奪われてしまう。そうです

よね」

床の上で子供たちがウン、ウンと頷いています。

「この訓練所にいるときはもとより、人間の世界を取り戻しても、

性的虐待はしてはいけません。特に僕ら男性は、女性に乱暴をふる

ったり女性を傷つけたりしてはいけない。そのようなことをしたら

男としての価値がなくなります」

ズコたちは連日、子供たちに成人男子になることの意味と、それ

に伴う義務や戒めを説いて回りました。もちろん、女子にも木馬乗

りの儀式があったことを包み隠さず伝えて、性の本来的な意味と、

将来、健康な赤ちゃんを産むためにも自分の体と性とを大切にする

ことを教え諭しました。

四月の末に、アプは久々に洞窟を訪ねました。無人ボートで真っ

暗な湖面を渡ると、ゴツゴツした岩場で源蔵が出迎えました。

「こんにちは、お久しぶりです」

「やあ、いらっしゃい。アプに会うのは半年ぶりかなぁ」

「そうですね、この前来たのは確か十一月の初めでしたから」と言

いながらアプは足元に注意してボートを降ります。

「あれ、この袋はなんですか?」とアプは、洞窟の壁際に積まれた

麻袋の山を見上げて尋ねます。

「ああこれか、大豆だよ。ファームで増産した大豆を千佳さんが研

究所で大量に使うのでな。すぐに運び込めるように入口に積んであ

るのさ」

「そうですか、準備は着々と進んでいるのですね」

「ああ、進んでいる。まあ、中に入ろう」

二人は細い通路からリビングに入り、アプは濡れた足を拭い、源

蔵は熱いコーヒーをテーブルに運びました。

「千佳さんは、大豆から白い粉を作っているのですか?」とアプは、

コーヒーを一口啜って源蔵に尋ねます。

「ああ、豆乳状に加工してね、それを培地に混ぜるのだよ。研究室

では納豆菌によく似た細菌を大量に培養して、このような粉末にし

22

- 67 -

ているのだ」

そう言いながら源蔵は棚に置いた褐色の瓶を取り上げ、アプに見

せます。

「この白い粉がイカタック星人には猛毒になるのですか?」

「そうだよ、人間や動物には無害だが、イカタック星人に対しては

強力な武器になる」

アプは茶色いガラス瓶の蓋を開けて、中を覗いたり臭いを嗅いだ

りしています。

「臭いもしないし、何の変哲もない粉ですね」

「そうだ、これをポリエチレンの袋に密閉して、訓練所を出ていく

子供たちに持たせたいのだが……」

「それならお守りがいいわ。十歳で巣立って行った子供たちにAZ

の教典を持たせたときも、目立たなくてよかったわよ」

「そうかい、それなら今度もお守りにするか」

「ええ、それがいいと思います」

「ちょっと待てよ、千佳さんにも相談してみるからな」と源蔵は奥

に入り、研究所との回線をつなぎました。そして、戻ってきて言い

ます。

「千佳さんもお守りがいいのでは、という意見だったな。こちらに

来て話さないかと誘ってみたんだが、いまは手が離せないそうだ」

「私のことはどうか気に掛けないで」

「分かった。でも検討しなければならんことが一杯あるから、君た

ちも一緒に考えておくれ。もう時間がないんだ!」

「あと五ヶ月しかないんですよね。九月生まれの子供たちが発つま

で……」

アプは、解決しなければならない問題を源蔵から聞き出し、小さ

なノートにメモを取ります。そして、月末にイカタックシティでズ

コに会う時に伝えることを約束して洞窟を後にしました。

翌月の初めには、ズコが洞窟を訪れました。昨年の十月以来で、

源蔵たちと会うのは七ヶ月ぶりです。この日は千佳が研究室に入る

前だったので、ズコたちは三人で作戦会議を始めました。

先ず、白い粉はお守りに入れて子供たち一人ひとりに持たせるこ

と。しかし、千個ものお守りは千佳の手縫いでは間に合わないので、

今回はロボットにミシンで縫わせること。さらに、ホサピの販売は

全世界にわたっていたが、可能であれば五大陸に万遍なく人間の子

たちを配置するように工夫すること。そして一番の問題は、世界中

に散らばった子供たちが同時に白い粉を振りまくタイミングにあり

ました。三人は、互いに額が突き当たるほどに身を乗り出して、一

斉蜂起のやり方を考え、知恵を絞ります。

山積する問題を解決するためには、一日では到底足りません。ズ

- 68 -

コは、その日は夕刻前に引き上げましたが、ホサピレースの合間を

縫って何度も何度も洞窟に足を運びます。六月に入り、作戦会議の

メンバーがアプに替わっても話し合いは続きます。そして、諸々の

課題がすっきり解決するまでに三ヵ月を要しました。

その間に白い粉を詰めたお守りも着々と準備されて、リビングに

積まれていきます。そのお守りを七月の末にズコが四百個、八月に

はアプが四百個をイカタックシティにあるパーリオの別邸まで、密ひ

かに運びました。

暑さもだいぶ和らぎ、ススキの穂が秋風に揺れています。そのス

スキを背に、アプがグランドの隅に集まった子供たちに話しかけま

す。

「皆さん、いよいよ九月になりました。この訓練所での生活はもう

少しで終わります。いま、訓練所の本部では皆さんの行く先を協議

していますが、決まり次第、一人ひとりに知らされ、二十日過ぎに

は移動することになります」

子供たち、と言っても十五歳の誕生日を迎える訓練生たちは、皆

大人びた顔つきで、アプの言葉に耳をそばだてます。

「先月、ズコ先生から聞いていると思いますが、この訓練所にいる

仲間が全部ここを出て、世界中に散らばった時がチャンスです。最

初で最後、たった一度だけの戦いですから失敗は許されません。全

員が取決め通りに行動して、必ず人間の世界を取り戻しましょう!」

真っ黒に日焼けした子供たちが、アプの言葉に大きく頷きます。

「重ねて言うけど、次の三つは必ず守ってください。一、決行のと

きは111

わんわんわん

のトリプルワン。二、出来るだけイカタック星人が多く

集まる場所に振り撒くこと。三、ばら撒いた後は日常生活に戻って

成り行きを静かに見守ること。分かりましたね」

ハイ、と言う返事が大半でしたが二、三人が小声で囁き合ってい

ます。

「そこのひと、何か疑問があるのですか?」

「あの、アプ先生。三番目のことが、静かに見守れということが、

よく理解できません」と質問したのはウノセでした。

「それは、粉薬が効くまでに時間が掛かるということです。爆弾や

毒ガスのように、粉薬はすぐには効きません。だからイカタック星

人が死んでしまうまでは、目立った動きをしてはいけません」

ウノセたちが、了解したという表情で頷きます。

「それでは、これから皆さんにお守りに入れた粉薬を渡します。体

育館の倉庫に来てください」

そう言って、アプは体育館に向かいます。倉庫に入ると彼女は、

体育用具の隙間に入り、一人ひとりに丁寧な言葉を添えてお守りを

- 69 -

手渡し、別れを告げます。

翌日は朝から教師の控室に出向いて、ホサピの出荷先の調整です。

イカタック星人は、注文のあった得意先に対し機械的にホサピを振

り分けたリストを作成しました。個々のホサピの体力や能力などは

まったく分からないので、アプたち教師に調整を命じたのです。

アプはそのリストを見て、出来るだけイカタック星人に接触する

機会が多い職業に人間の子供を当てはめていきます。例えば、農園

や鉱山で働く仲間をビルやホールの清掃役と入れ替えたり、病院や

介護施設で働くナースやハウスキーパーに組み入れたり。また、世

界中の主要な都市に万遍なく行き渡るように、行く先を入れ替えた

りもしました。このような作業は厄介なので、ほかの教師は何もし

ようとはしません。時折、彼女が「これでいいかしら?」と尋ねて

も、返事はすべてOKの一言でした。

午後の自由時間はグランドに出て、出発が近づいた子供たちを隅

に集めます。もちろん雨天の場合は体育館ですが、彼女は決行のと

きや心構えを言い含めてお守りを手渡していきます。彼女が三百人

を超える子供たちにお守りを渡し終えたのは九月一八日、出発の二

日前のことでした。

月末になると、ズコが残り三百個のお守りを隠し持ってイカタッ

クシティにやってきました。彼は到着した夜にアプと綿密な引継ぎ

をして、翌朝、訓練所に出向きます。そして、アプと同じようにお

組の子供たち一人ひとりにお守りを手渡し、教師の控室ではホサピ

の配置先の調整にも当たりました。

十一月は再びアプがの組の子供を見送り、十二月にはズコも加わ

って十二月生まれの数十人を送り出しました。

すべての子供を送り出した翌日、アプとズコは教師の控室で、放

心状態に陥っていました。窓外に眼を向けると、いつの間にか雪が

積もり、周囲は白銀の世界になっています。

「もうこの施設に用はなくなったから、引き上げてしまおうか」と

ズコが独り言のように呟きます。

「駄目よ、ズコ!

一斉蜂起は目前に迫っているのよ。ここで私た

ちが変わった動きをしては駄目よ!」

「そうだね。何ごともなく振る舞って、トリプルワンに備える」

「それまではお仕事、お仕事。お互いに頑張りましょう」

二人は緩んだ気持を再び引き締め、コロニーにいるホサピの子た

ちの訓練に向かいました。

二四二九年元旦の早朝、空は青く晴れ渡り、風もほとんどありま

せん。アプとズコは近くの高台に上って、初日の出に手を合わせま

す。これから始まるイカタック星人との戦いに勝利できますように、

- 70 -

そしてこの地球を人類の手に取り戻すことが出来ますようにと。

あと数時間後に迎えるトリプルワン。一月一日の午後一時、千人

を超える子供たちの誰もが忘れないであろうタイミング、誰ひとり

として間違うことがないであろう日時で一斉蜂起を取り決めていま

した。このホサピ牧場を巣立っていった仲間の一人ひとりが、もう

すぐお守りの中から白い粉を取り出し、世界中でばらまきを始める

でしょう。その取決めが滞りなく決行されることを、そして憎きイ

カタック星人を滅ぼすことができますようにと、二人は長い時間を

かけて祈りました。

金色に輝く太陽のすべてが空に昇ると、二人は急いで家に引き返

します。そして、用意していた朝飯をしっかり食べ、残りはおにぎ

りにします。さらに非常食や水、懐中電灯に防寒具などをリュック

サックやウエストポーチに詰め込みました。

次にズコは、冷蔵庫の上の小箱からワゴン車の鍵を取り出します。

その鍵は、パーリオが年末にこの家に置いていったものです。彼は、

三日前に妻と共にこの別邸にやってきました。正月を海外で過ごす

のが習慣で、今回はアフリカに行くとのことで、リビングで休憩。

夫妻は乗ってきたワゴン車を車庫に入れて、タクシーで空港に向か

いました。ズコは、車の鍵をどこに置くかを注意深く観察していま

したが、パーリオは何の警戒もなく冷蔵庫の上に置いて行ったので

す。

ズコはリュックサックを右肩に、モップやポリバケツを抱えてワ

ゴン車の後部に積み込みます。アプもリュックや幾つかの小道具、

それに源蔵と千佳から預かったお守りの残りを持ち込みました。そ

れが済むと、彼女は自室に戻って緑色の衣装から黄色の服に着替え

てきました。これから始める戦闘行為は、ハウスキーパーの服装の

方がはるかにやりやすいと考えたからです。

ズコは、段ボール製の大きな筒を抱えて運転席のドアを開けます。

イカタック星人は洋ダルに籠って運転をするので、ハンドルの前は

平らです。ズコは風呂で使う腰掛のような台を床に置いてその上に

尻を載せました。そして、抱えてきた灰色の筒の中に入り、頭だけ

を突き出します。その頭に、アプが後ろから肌色のストッキングを

被せました。

「こうすればイカタック星人に見えるだろう」

ズコは、バックミラーに写る自分の姿を覗き込みながらアプに訊

きます。

「遠目には区別はつかないと思うわ。でも、ズコは運転できるの?」

「大丈夫さ、何時も助手席で見ていたし、時折パーリオ様がいない

ときには練習もしてきたから」と言って、ズコはエンジンを始動さ

せます。

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「それに、この車は殆ど自動運転だから、簡単、簡単」

そう呟きながら、彼はワゴン車を発進させました。そして、街路

に出るとイカタックシティの真ん中にあるIC中央駅に向かいます。

駅裏の路地に車を停めて、アプがお守りを一つ、それに予備をも

う一つ持ってワゴン車から降りました。手には清掃員らしくモップ

とポリバケツを抱えています。時刻は一二時五十分、トリプルワン

まであと十分。彼女は広大な駅舎に入り、構内をぐるりと見回しま

す。イカタック星人で混み合う正面入口から突きあたりの改札口あ

たり、彼女はその広いスペースに照準を定めて近くのトイレに駆け

込みます。お守りの中から素早くポリ袋を抜き取り指先で千切る、

そして破れた袋を頭の上にかざして髪の毛の中に白い粉を振り注ぎ、

その上から黄色い帽子を斜めに浅く被りました。

トイレから飛び出したとき、大時計の針は丁度一時。アプは、長

い柄の付いたモップを手に壁際を清掃する振りをしながら頻し

りに手

を上げ、頭を掻いたり帽子で叩いたり。傍を行き来するイカタック

星人には見えない粉を目一杯ばら撒いて歩きます。

彼女は広い構内を一巡すると、ポリバケツを置いた先ほどのトイ

レに戻りました。するとそこには本物の清掃員が女子トイレの清掃

をしています。アプはすかさず予備のお守りを取り出し、ポリ袋を

開けます。女ホサピの背後に回って、「ちょっと失礼」と言いながら、

髪と

項うなじ

に白い粉を振り掛けました。しかし、年配の女ホサピはまっ

たく気付きません。黙々とモップで濡れたトイレの床を擦っていま

す。「ごめんなさい、非常事態だから許して」と小声で呟き、モップ

とポリバケツを手に、トイレから出ました。

中央駅で首尾よく目的を果たしたアプたちは、次の標的に向かっ

てワゴン車を走らせます。ホサピ牧場と逆方向に少し行くと、高く

そびえる観覧車やドーム球場の銀色の屋根が見えてきました。そこ

は新年で賑わうアミューズメントセンター、ズコは正面入り口を避

けて裏口の近くに車を停めます。そこで再びアプが降り立って、清

掃員の恰好をして門を入ります。

最初に彼女は遊園地の切符売り場で髪の毛をボリボリ、頭をパタ

パタ。無数の見えない粉がイカタック星人の洋ダルの中に拡散して

いきます。

ドーム球場の中では人気のロックバンドが新春公演の最中で、三

万を超えるイカタック星人で盛り上がっています。その熱気を帯び

た客席の通路を歩きながら、アプは帽子や髪の毛に手を伸ばして白

い粉を存分に振り撒きました。

イカタックシティ以外の都市の様子はどうでしょう。東京シティ

の中央駅では二人の男女が構内を隈なく歩き回って、白い粉を盛ん

に撒き散らしています。やはり、お守りに入れた粉を自分の頭に振

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り掛けるやり方で。男女はいずれも背が高くて、とても一五歳の子

供には見えません。彼らはベテランの清掃員になりきって、約束通

りの行動を忠実に果たしていました。ほかにも後楽園を模した遊園

地、ディズニーランドに似たテーマパーク、武道館のような巨大ホ

ール、そして大きな病院では赤い服のナースホサピが待合室や病棟

に白い粉を振り撒きます。

大阪、名古屋、福岡に札幌、海外ではニューヨークにロンドン、

モスクワ、パリ、ベルリン、サンパウロにシドニーと主要な都市の

至るところで千佳が作った白い粉がばら撒かれていきます。

イカタックシティの増産所を出るとき、もし111の大切なとき

に身動きが取れない場合の対応も考えてありました。それは、外に

出掛けるホサピの協力を得ること、具体的には本人の了解をとって、

頭髪の中に白い粉をたっぷり含ませることでした。その約束を全員

が果たせば、千個以上のお守りの中の白い粉は、すべてイカタック

星人が集まる場所に振り撒かれていく手筈です。

アプとズコは、アミューズメントセンターを出た後、ICセント

ラル病院に向かいました。この病院には優れた医療スタッフと最新

の医療器具が揃っていて、全国から重症の患者、治療が困難な患者

が集まってきます。恐らく白い粉により引き起こされる病気は治療

法が分からず、患者がここに押し寄せてくるに違いありません。そ

のICセントラル病院のスタッフに大きなダメージを与える作戦は

極めて重要になります。

ズコは、病院の裏口近くにワゴン車を停めました。移動のあいだ

に赤い服に着替えたアプが職員になりすまして通用口から入って行

きます。イカタックシティは敵の首都にあたる重要な都市ですが、

昨秋に配置した子供たちの数が少な過ぎました。その反省から、二

人はイカタックシティでのばら撒きについては自らが先頭に立って

行うことにしていたのです。

陽が傾き、イカタックシティに夕闇が迫ってきました。アプとズ

コは主要な場所のすべてにばら撒きを終えました。しかし、手元に

はまだ三個のお守りが残っています。そこで二人は市街地の北西、

季節風が吹きつけてくる風上の丘にワゴン車を走らせ、粉薬を全部

取り出しました。ポリ袋を指先で破ると、吹きつける風に粉が舞い

ます。袋の穴をさらに拡げて市街地の方に向けると、粉薬は夕闇に

白い線を描いて飛んで行きました。

夜の

帳とばり

が下りて、ズコは一日中被っていたストッキングや洋ダル

を模した筒から解放されました。すっきりした気分でワゴン車のエ

ンジンを掛けます。

アプも助手席のシートを引き出して、安全ベルトを締めます。彼

- 73 -

女は何時もワゴン車の後部ばかりで助手席に乗るのは初めての経験

です。カーナビも珍しく、パネルにタッチするズコの指先をじっと

見詰めています。ズコは、何度も試行錯誤を繰り返した末に、目的

地をパーリオの自宅に設定し終えました。すぐにナビが開始され、

彼は表示されたルートに従ってワゴン車を発進させました。

二人はこれからパーリオ邸のホサピ舎に戻り、夜が明けたら洞窟

に向かいます。そして、源蔵や千佳と合流してイカタック星人との

戦いの行方を見守っていくのです。

ワゴン車は市街地を通り抜けて高速道路に入りました。走行する

車の数は少なく、どこまでも一本道が続いています。時おり、アプ

が声を掛けるとズコの気だるそうな声が返ってきます。しかし、そ

の返事もいつか途切れてしまいました。どうやらズコは寝入ってし

まい、車は自動運転で走行しているようです。

真っ暗闇の中、起きているのはアプ一人、眼の前のカーナビには

直線の道がただ一本示されています。その単調さに飽きた彼女はパ

ネルにそっと触れてみました。白い直線が拡大して太くなったり、

小さくなったり。あちらこちらに触っているうちに、画面はテレビ

に切り替わりました。番組はニュースで、イカタックシティのアミ

ューズメントセンターが現れました。カメラはエントランスから公

演会場に入って、ロックバンドの激しい演奏と熱狂するファンを映

し出します。アナウンサーは公演の盛況ぶりと、入場者数が三万五

千人を超えたことを伝えています。

次のニュースは大阪や京都の新春風景、さらに海外の様子も伝え

られていきます。それらの映像は、いずれも穏やかな正月を祝うイ

カタック星人の平和な光景ばかりで、アプとズコ、それに千人の仲

間たちが仕掛けた行為にはまったく触れてはいませんでした。

「アプ、なに?」と、暗闇に声が響きました。

「ニュースよ、イカタック星人のテレビ番組」

「ヘーッ、カーナビで受信ができるの!」

「パネルに触っていたら、突然映ったのよ」

「アプ!

そのカーナビ、取り外すことはできない?」

彼女は、車内灯を点けてカーナビの周辺を調べます。薄型のディ

スプレイは車体から切り離されています。アプは身を乗り出してデ

ィスプレイを持ち上げてみたり、右に押したり左に引っ張ったり。

それを繰り返すうちにディスプレイが外れました。

「やったーズコ、うまく外れたわ!」

「それがあれば敵の動きが丸見えだよ!」

「これを洞窟に持っていけばいいのね」

「ウン、それに取説

とりせつ

があれば完璧。探してみて」

アプは、ダッシュボードを開けて中を探します。リュックに詰め

- 74 -

ていた懐中電灯が早速役に立ちます。しばらくして彼女は、それら

しき冊子を見つけ出しました。確認すると、それは確かに目的の取

扱説明書でした。

翌朝早くに、アプとズコは大きなリュックサックを背負ってパー

リオ邸を出ました。ズコのリュックには、昨夜ワゴン車から取り外

したカーナビと説明書が入っていることは言うまでもありません。

玄関を出たところで立ち止まり、二人は後ろを振り返ります。十

歳でこの屋敷に来てから十八年。そのあいだ、飼い主のパーリオと

妻のペクールからは家族のように遇され、二人にとっては生家のよ

うにも感じられます。しかし、夫妻にもう二度と会うことはなく、

恩を仇あ

で返すことになってしまう……。二人は万感の思いを込めて、

住み慣れた家に一礼しました。

真冬の洞窟への道は初めてのことです。アプとズコは雪や氷が心

配でしたが、暖冬のためか、積雪は一、二センチ、谷川の結氷も一

部にとどまっていました。想像していたほどではなかったものの、

二人の手足は凍てつき、洞窟に辿りついたときには震えが止まりま

せんでした。

地底湖の先にあるリビングでは源蔵と千佳が二人の到着を待って

いました。乾いたタオルで濡れた手足をよく拭い、温かい飲み物で

体を内側から温めます。そのあいだに二人は、奪った車でイカタッ

クシティに粉薬を存分に振り撒いたこと、ワゴン車にあったカーナ

ビはテレビの受信ができるので、リュックサックに詰めてきたこと

などを話します。

冷え切った体が暖まると、ズコはカーナビとその付属品、取扱説

明書などを抱えてスクールに向かいました。源蔵は、この洞窟の奥

深くでもテレビが受信できると言うのです。かつてこの洞窟に人間

が逃げ込んだときにはまだ地上にも人が残っていて、互いに連絡を

取り合っていたとの記録がある。通信のために地上の目立たない所

にアンテナが立ててあり、地下のスクールと回線で繋がれていると

のことです。

スクールに入ると、源蔵は古びた書類を手に部屋の隅々を探しま

す。しばらくしてそれらしきジョイントを発見、さっそくズコが持

参したカーナビとの接続を試みます。しかし、小さなディスプレイ

には白い線が水平に走ったり消えたり、全体が真っ白くなったりす

るばかり。ズコが説明書とにらめっこで何度も操作を繰り返してい

るうちに突然画像が現れました。さらに調整を加えると、見やすく

安定した画面が得られました。

しかし、カーナビの画面は小さくて見にくいので、スクールに設

置された大画面への投影を試みます。ズコと源蔵は、説明書をさら

- 75 -

に詳しく調べて大型ディスプレイに画像を映し出す努力を重ねまし

た。

夕方にはアプと千佳もスクールにやってきました。スクールに閉

じこもっているズコたちの様子を窺いながら、夕食の準備が整った

ことを知らせに来たのです。彼女たちはスクールに入るなり、ディ

スプレイの映像に驚きました。とくに千佳は、初めて見るイカタッ

ク星人の姿や地上の光景に目を見張ります。番組はニュースで、正

月の伝統行事が各地から紹介されていきます。そこに映し出される

イカタック星人、カラフルに飾り付けた洋ダルの中の星人たちは穏

やかな新年を心の底から祝っている様子です。

六時を過ぎたとき、ディスプレイに臨時ニュースのテロップが流

れました。

――国内の各地で奇妙な皮膚症状と発熱を伴う病気が発生し、休

日診療所は押し寄せる患者で溢れています……

「始まった!」

アプとズコ、それに千佳と源蔵が声を揃えて叫びました。四人は

夕食のことをすっかり忘れて、ディスプレイの前に釘付けです。数

分で画面が切り替わり、年配の男性アナウンサーが現れました。

『臨時ニュースをお知らせします。本日の午後からイカタックシテ

ィを始め主要都市の休日診療所に奇妙な患者が大勢押しかけていま

す。患者の症状は、発熱と皮膚に粘々

ねばねば

した液が浸出してくるのが特

徴です。本日は病院や診療所が休診のため、休日診療所に患者が殺

到し、診療所は待合室に入りきれない患者で混乱を極めています』

「そうそう、そうなるのよ。私が設計した通りの展開だわ」と千佳

が画面を食い入るように見ながら呟きます。

『臨時ニュースを続けます。今入ってきた情報によりますと、休日

診療所の混雑は患者が多いだけでなく、医師や医療スタッフもこの

病気に罹患していて、診療が思うように進まない事態に陥った模様

です。IC政府の保健衛生局と医療局は緊急事態とみて、先ほど幹

部を非常招集して対応策の検討に入りました』

『さらに今入ってきた情報によりますと、この病気は国内に限らず、

海外の主要都市でも同様の広がりを見せています。IC政府は対応

策を国際レベルに拡大して、海外の首脳とも連絡を取りあい、病気

の実態の把握と原因の解明に当たると表明しています』

アナウンサーは狼狽を隠すこともなく、次々と回ってくる原稿を

読み上げています。それを見て、アプたちは互いに顔を見合わせて

何度も頷きます。昨日撒いた白い粉が狙った通りに宇宙からの侵略

者、イカタック星人に取り付き、いま正に彼らを滅亡に追い込もう

としているのです。

- 76 -

「私の予測では明日から明後日がピークになると思うの。しばらく

はこの状態が続くだけだから、私たちは食事にしましょうよ」と千

佳が提案。

「そうだな、奴らの狼狽ぶりを見ているのは愉快だが、腹が減って

戦いくさ

はできぬというからな」と源蔵も腰を上げます。アプとズコ

も老夫婦に従って、ダイニングを兼ねたリビングに向かいました。

翌朝、食事を手短に済ませ、四人はスクールに入りました。テレ

ビの番組はどの局も新しい病気に関するニュースで占められ、登場

するアナウンサーの顔も憔悴し切っていました。

『IC政府は昨日から大流行している病気を白皮

はくひ

粘液熱と呼ぶこと

にしました。これは発熱と皮膚が白ないしは灰色に変り、ネバネバ

した粘液が出てくる症状に因んだものです。現在、政府は医師や専

門家を招集して病気の原因究明と治療法の開発に当たっていますが、

患者さんは外出を避けて暖かいところで安静を保つこと、十分な水

と栄養を摂取するように努めてください』

アプとズコは、シートの背もたれを後ろに倒して高みの見物と言

う格好ですが、千佳は身を乗り出して、映像を食い入るように見詰

めています。

画面には、ICセントラル病院の内科部長が金色の洋ダルに籠っ

て登場してきました。彼は患者に共通した症状を説明しながら、数

枚の写真を呈示します。それらは、イカのように光沢のある皮膚に

白い斑点や水膨れができて、やがてそこから粘々した白い液が滲み

出しているものでした。

一月四日の朝を迎えました。四人はスクールに入り、テレビのス

イッチを入れます。しかし、なかなか映像が現れません。ズコが何

度かチャンネルを回すうちに、IC国営テレビのニュースが途切れ

途切れに映りました。どうやら報道関係者の多くが白皮粘液熱に侵

され、民放局ではテレビ放送もままならなくなった模様です。画面

にはIC国営テレビのマスコット人形が大写しにされ、音声だけの

ニュースが流されています。

『白皮粘液熱は壊滅的な被害を地上のあらゆる都市と地域に及ぼし

ています。死者も多数発生していますが、その多くは咽頭から気管

支に粘液が詰まることによる窒息死と細菌性の敗血症です。国民の

皆さんは不安なことと思いますが、もう少し辛抱して下さい。IC

政府は原因の解明と対策に全力を傾注しております。もうすぐ原因

を突き止め、治療法も見つけ出します。ですから無闇に動かないこ

と、体力を温存するためにも自宅で安静を保ってください』

- 77 -

アナウンサーの声は悲痛でした。画像が無いのは、アナウンサー

の病魔に侵された姿を映し出せない、という事情だからでした。

テレビには映せないイカタック星人の実態はどうなっていたので

しょうか。国営テレビのアナウンサーの顔は灰白色に変り、額や頬

には粘液が融けた蝋ろ

のように幾筋も滴り落ちて、顎あ

から氷柱

つらら

のよう

に垂れ下がっていました。

街中の光景も悲惨を極めていました。首都のイカタックシティで

は、多くの市民がテレビの呼び掛けに反して、自宅からとび出して

きています。路上を埋め尽くす市民たちは右を向いたり左を向いた

り、吸盤だらけの手を高く振り上げて助けを求めています。中には

声も枯れ果て、泣き崩れる者も出てきました。やがて市民の泣き叫

ぶ声は弱まり、上半身を支える腕力が衰えてきました。そうなると

洋ダルの縁に掴まってはいられずに、柔らかい体が底にズルズルと

沈んでいきます。ちょうど樽詰の塩辛状態に陥ってしまうのです。

粘液に埋もれて呼吸ができなくなったイカタック星人は、苦し紛れ

にタルを倒します。洋ダルから道路に這い出した宇宙生物の姿はグ

ロテスクでした。イカによく似た身体は白く浮腫

んで、その表面に

は灰色の粘液が幾重にもへばりついています。そのような瀕死状態

のイカタック星人が車道にまで溢れ出して、首都は地獄の様相を呈

していました。

話しを、洞窟の中の様子に戻しましょう。アプたちがスクールで

受信できるのはIC国営テレビ一局だけで、それも固定化された画

面と録音されたメッセージの繰り返しでした。

「このままイカタック星人は全滅?」とアプが何の変哲もない画面

に見飽きて、質問してきました。

「だといいんだけど……」と千佳は、歯切れの悪い返事です。

「どういうこと?

彼らが息を吹き返すっていうこと?」

「その可能性があるの、だから成り行きを静かに見守りましょう。

ホサピ牧場を出て行った千人の子供たちにもそう教えたのを覚えて

いるでしょう」

千佳は、アプやズコたちを諭すように言いました。その一言を契

機に、四人はテレビを見続けることを中止しました。しかし、いつ

何時変化が起こるか、予断は許されません。そこで、リビングに設

置した小さなディスプレイで引き続きIC国営テレビをモニターす

ることにして、四人は夫々の生活に戻って行きます。

一月五日の夕方のことです。リビングのテレビが奇妙な音を立て

- 78 -

始めました。その音と共に画面が変化して、『試験放送実施中』のテ

ロップが流れます。やがて『間もなく放送を開始します』と画面の

表示が変わりました。アプたち四人は、急いでスクールに駆け込み

ます。そして、夫々がディスプレイ付きのシートに座りました。

放送開始です。画面には、久々に中年の男性アナウンサーが登場

してきました。

『こちらはIC国営テレビです。しばらく中断していた放送を再開

します。視聴者の皆様には大変ご迷惑をお掛けしたことを心よりお

詫び申し上げます。では、早速、次の映像をご覧ください。本日午

後四時ごろ、東京シティの上野の森で取材クルーが撮影したもので

す』

ディスプレイには小高い丘が遠景で映し出され、銅像の跡と思わ

れる方形の台に紫色の衣装のホサピが駆け上りました。その周囲に

は大勢のホサピ、黄色や青色に混じって赤や緑色の服を着たホサピ

たちが集まっています。その群衆の中から、もう一人、紫色の衣装

のホサピが抜け出して台に駆け上ります。

「万歳!

万歳!

我々は勝った!

イカタック星人に勝った!」

台上の二人は両手を高々と上げて勝利を宣言し、周囲を取り囲ん

だホサピたちにも一緒に万歳をしようと呼び掛けています。

カメラはズームアップして、台上の二人を大きく映し出します。

「あーっ、あれはネハセとフリオ!

間違いない!」

アプとズコが同時に叫びました。二人は夫々格闘技とレーサーの

特殊訓練のためにホサピ牧場を十歳のときに出て行ったネハセとフ

リオでした。

「駄目よ!

早過ぎる!

まだ喜んではいけない!」と千佳が叫び

声をあげました。その時、ヴァーンという銃声がとどろき、青白い

閃光がネハセの胸に突き刺さりました。次の銃声と閃光は、フリオ

の胸を正面から射抜きました。閃光を浴びせられた二人の体は石の

ように硬直して、右手を高々と上げた姿勢のまま地面に落下しまし

た。

光線銃で二人を狙撃したのはイカタック警察の特殊部隊でした。

二台の装甲車で駈けつけた隊員たちは、開いた車両後部のスロープ

から次々に降りてきます。彼らは、小型の戦闘用タンクに一人ずつ

乗って、狼狽

うろた

えるホサピたちを蹴散らすように方形の台に近づきま

す。そして、地面に落ちたネハセとフリオに銃を向け、とどめの光

線を浴びせ掛けました。

23

- 79 -

『皆さん、ご覧のように我がイカタック警察の特殊部隊は、反逆の

烽火

のろし

をあげた二頭の有害ホサピを一瞬にして殺害駆除しました。こ

の有害獣の煽動で集まっていたホサピたちは、すでに鎮圧されて日

常の仕事場に戻っています。

申し遅れましたが、特殊部隊の隊員たちも正月の二日から白皮粘

液熱に侵され、しばらくは動きが取れませんでした。しかし、政府

が組織した医療チームの最新の治療で病状が改善し、今回の暴動鎮

圧に当たることが出来たのであります』

アプとズコ、源蔵と千佳は背筋の凍る思いで映像を観ていました。

立派に成長した十五歳の少年、ネハセとフリオが目の前で撃たれ、

地面に落下した後も心臓が止まるまで神経麻痺光線を浴びせられた

のです。事態の余りにも急な変化に、四人とも声も出せずにディス

プレイの前で固まっていました。

『次に、ICセントラル病院の医療チームの救助活動をお知らせし

ます。映像は、IC中央駅の構内と駅前広場の様子です』というア

ナウンスとともに、アプが元旦に白い粉を振り撒いた改札口の周辺

が映し出されました。

そこには、横転した洋ダルが幾つも転がり、白く浮腫んだイカタ

ック星人が巨大なナメクジのように蠢いています。画面に赤い服の

ナースホサピが二人、ストレッチャーを押して現れました。彼女ら

は瀕死の星人を抱き上げ、患者搬送用担架に乗せます。すかさず金

色の洋ダルに籠った医師が近付き、患者の吸盤に覆われた腕に注射

をします。

次にまた、空のストレッチャーを押すナースホサピが現れました。

彼女らは次の患者を速やかに抱き上げ、医師と共に治療に当たって

います。

駅前の広場でも、同じような救助活動が繰り広げられていました。

カラータイルの広場に横たわった重症患者には注射が、洋ダルに籠

っている軽症患者には内服の薬が配られます。それらの活動をサポ

ートしているのは、病院から駆り出された大勢のナースホサピです。

救助活動とは一線を画すように、花壇の高みから拡声器で呼び掛

ける星人もいました。恐らく保健師と思われる女の星人が、いま配

った内服薬で病気はすぐに治る、二、三日で治るから自宅に戻って

静養をするように、と患者たちに大声で呼び掛けています。

『御覧いただいたのは、イカタックシティの様子ですが、明日から

は国内各地で本格的な救助活動が開始されます。医師をはじめ医療

関係者も白皮粘液熱でしばらく診療が出来ませんでした。しかし、

有効な治療薬で医師たちは速やかに回復しております。ですから皆

さんは落ち着いて自宅で待機してください』

アプとズコは青ざめた顔を互いに見合わせ、次に千佳に激しく問

- 80 -

い掛けます。

「千佳さん、これはいったい何ですか!

たったの三日間、三日天

下だったんですか!」

「ウッ……まだよ、まだ終わってはいないわ!」

「千佳さん! ネハセが、フリオが殺されてしまった!

いまテレ

ビで見たでしょ!」

興奮したアプとズコは、千佳を睨みつけて罵ります。

「二人とも冷静に、まだ終わったわけではない。それにあの二人に

は伝える術がなかった。イカタック星人が完全に死ぬまでは動いて

はならん、目立ったことをしてはならんということを……」

源蔵が悲痛な表情で二人を諌めます。その声で、アプとズコは鉾

先を千佳から自分自身に向けました。

「畜生!

僕らがいけないのか。でも、世界中に散らばった子供た

ちに伝える方法はなかった!」とズコが頭を掻きむしります。

「出て行ったのは五年も前のことだもの、どうしようもなかったの

よ!」とアプも顔を掌で覆って嘆きます。

その夜、アプとズコは寝付くことが出来ませんでした。脳裏にネ

ハセとフリオが現れてくる、そして光線を浴びた瞬間の苦しそうな

表情が大きく膨らんでくるのです。アプはベッドに横たわっていら

れずに室内を、ズコは寝室を出て地底湖の畔を疲れ果てるまで歩き

回りました。

明け方近くに少しだけ眠ったでしょうか。アプとズコは渋い目を

擦りながら朝食を済ませ、重い足取りでスクールに向かいます。ド

アを開けると、すでに千佳がテレビに釘付けになっていました。

『ここで政府から重要なお知らせがあります。本来は官房長官が国

民の皆さまに直接お話しする予定でしたが、長官は事態収拾に当た

っている関係で、国営テレビからメッセージをお伝えします』と前

置きをして、アナウンサーが話し始めました。

『今回の白皮粘液熱の原因でありますが、変性枯草

こそう

菌、卑近な例を

挙げれば納豆菌によく似た細菌であることが判明しました。政府の

緊急対策本部は、この菌に対してペニシリン系の抗生物質がよく効

くことを突き止め、一月三日から全国の主要都市で治療を開始して

おります。ただ、治療といっても薬剤の供給に限度があり、副作用

の心配もあります。そこで優先順位を決めて医師とナース、警察、

消防署の職員、報道関係者の順に患者の治療を行いました。その間

に政府は、治療薬の保有状況をつぶさに調べ、製薬会社や商社には

備蓄の全面放出と緊急増産を要請しています』

「なあんだ、これじゃあ茶番劇だ!

薬ですぐに治るなら、イカタ

ックの奴らには痛くも痒くもないよ」

「そうね、千人の子供たちと命がけでばら撒いたのに、あの白い粉

- 81 -

はこの程度のものだったのね……」とアプもズコに同調します。

「アプとズコ、まだ先があるよ。なあ千佳さん」と遅れてやって来

た源蔵が二人を諌め、千佳の顔を見ます。

「はい、私が十年も掛けて研究してきた成果はこんなことで終わり

はしません。もう少し静かに見守りましょう」

その声で、アプとズコは口を噤みました。二人とも成り行きを静

観することはよく判っていました。しかし、イカタック星人に次々

と手の内が知られてしまうと、黙ってはいられなくなるのでした。

『ただいま入った重大ニュースをお知らせします。今回の白皮粘液

熱の病原菌をばら撒いた犯人が判明しました。犯人はイカタックシ

ティのホサピ牧場で二四一三年の秋に生まれた複数のホサピで、五

日に上野の森で反乱を企てたのもその一味でした。上野の森で殺処

分した二頭のホサピ番号はIC2413092403

ならびにIC2413102809

あり、司法解剖でこの二頭は正規の遺伝子処理が施されていなかっ

たことが判明しています。恐らくこの時期に遺伝子操作を潜り抜け

た有害獣はかなりの数に上るとみて、警察はさらに調査を進めてい

ます』

『さらに詳しい情報が入ってきました。今回の卑劣極まる犯罪は、

二四一三年の九月から十一月にかけてICホサピ牧場で生まれた有

害獣によるものであり、白皮粘液熱の発生状況から、元旦の昼ごろ

に細菌がばら撒かれた模様であります。警察は防犯カメラの解析か

ら、細菌の散布に関わった有害ホサピの捜索に全力を挙げるととも

に、該当する時期に生まれたホサピの全数検査を実施して、有害獣

を一頭残らず駆除することを宣言しました』

次々に事実が暴かれていく報道に、アプもズコも座ってはいられ

ません。シートから立ち上がり、狭いスクールの中をぐるぐる歩き

回ります。テレビでは、患者救助の様子が各地から中継され、パニ

ック状態が徐々に収まっていく様子を伝えていました。

午後に入り、臨時ニュースのテロップが流れました。しかし、度

重なるテロップに見飽きていて、スクールの誰もが気づきません。

その二、三分後に聞き慣れたアナウンサーの声が流れてきました。

『臨時ニュースを申し上げます。イカタック警察は、今回の凶悪犯

罪の首謀者を特定して、全国に指名手配しました。首謀者はホサピ

番号IC2399112611

とIC2400011413

、通称アプ号とズコ号と呼ばれる

レースホサピです。ICホサピ牧場に出入りする女性職員の告発に

より、防犯カメラ等で調査したところ、二頭のホサピに不審な点が

数多く認められました。即刻、警察は飼い主のパーリオ氏から事情

聴取を行ったところ事件の全容が判明してきました。パーリオ氏は

イカタック政府の主要ポストに就いていますが、警察はパーリオ氏

の行為は国家反逆罪に当たるとして、海外旅行から帰国した同氏の

- 82 -

身柄を空港で拘束し、取り調べに入っています』

この報道に、アプとズコは飛び上がるほど驚きました。細菌の散

布にとどまらず、作戦のすべてが敵に見透かされたことになります。

恐らく、警察に告発したのはペリーゼに違いありません。彼女は、

アプとズコの世話をしながら、いつも敵意をむき出しにしていたこ

とが昨日のことのように思い出されます。

夕方になるとパーリオ邸の家宅捜索の様子が伝えられ、離れのホ

サピ舎も放映されました。カメラはアプとズコの部屋の中に入って、

豪華なベッドや家具をズームアップ。このような贅沢がホサピに許

されてよいものかと非難に満ちた声でアナウンスしています。さら

に、逃走に用いたワゴン車が邸内に放置されていることから、指名

手配中の二頭はいずれも近くに潜伏していると考えられ、近隣の住

民には十分注意をするようにと呼び掛けています。

アプとズコは敵の素早い動きに、背筋が凍るような恐怖に襲われ

ていました。

「源蔵さん、ここは大丈夫?

見つからない?」とアプが悲鳴に近

い声を上げました。

「多分、大丈夫だと思う。もし見つかったとしても、奴らはこの洞

窟の中には絶対に入ることはできない」と源蔵がきっぱり。

「そうだよね、ここにいれば安全だよね」とズコが自分自身に言い

聞かせるように呟きます。

しかし、口では否定をしてみても、すぐ近くにまで追手が……と

いう恐怖感は拭えません。アプとズコはその夜、ベッドに横たわり

ましたが、眠れぬままに朝を迎えました。

一月七日のテレビは見ること自体が苦痛でした。しかし、ほかに

情報を得る手段がないので、アプたち四人は朝食後にスクールに入

ります。国営放送のニュースが始まりました。

『九時のニュースをお伝えします。昨日の午後、国家反逆罪で逮捕

されたパーリオ容疑者の家宅捜索を行った結果、指名手配中の通称

アプ号とズコ号は容疑者の車からテレビ受像機を持ち去ったことが

判明しました。犯人は持ち去ったテレビをどこかで視聴しているも

のと考えられます。国営テレビでは、本日から、放送の中で犯人に

自首を促す取組みを開始します。凶悪な犯人の迅速な逮捕、さらに

再発防止に向けた重要な取り組みですので、視聴者の皆さまのご理

解とご協力をお願いします』

どうやら敵は、テレビ放送を用いた作戦に出てくる模様です。ス

クールに陣取った四人は、互いに顔を見合わせ番組の展開を見守り

ます。

『一昨日、上野の森で二頭の有害ホサピの殺害駆除の様子をお伝え

しましたが、今日は京都シティでの駆除、さらに海外から届いた同

- 83 -

様の映像をお伝えします』と前置きがあり、京都盆地のほぼ中央、

かつての四条烏丸

からすま

辺りにある大通りが映し出されます。そこに集ま

ったホサピの群集と分離帯の高みで盛んに拳を振り上げる紫色と赤

い衣装のホサピ、それは十歳で牧場を出て行った少女サチノと少年

サトノでした。やはり駆けつけた特殊部隊の銃撃にあえなく倒れて

しまいます。

海外からの映像では、モスクワシティのかつての赤の広場が紹介

されます。苦しみもがくイカタック星人を尻目に無数のホサピたち

が集まっています。その群衆を率いて、シュプレヒコールを上げて

いるのはアリセ。十五歳になった

アリセがジャンヌダルクのように

旗を振り上げ、勝利を叫びながら鋭い閃光に撃たれてどっと倒れる。

それを見たホサピたちは、クモの子を散らすように広場から逃げて

いきます。

『アプ号とズコ号、いま大写しになったホサピたちは君たちの親し

い仲間の筈だ。我々に楯突き刃向うものは、誰でもいま見たように

なる』と言いながら、画面に現れた人物は警察のトップである警視

総監。アプとズコに直接話しかける作戦のようです。

『お前たち人類はいまから三百年も前に地上から滅びた。原水爆戦

争で自滅したのだ。その愚か者の子孫であるお前たちが少しばかり

の仲間と組んで抵抗をしたところで我々に勝てる望みはない。この

放送を見ていたら速やかに抵抗を止めて自首をしなさい。今回の犯

罪について自供をしたら、お前たちの命は保証する』

アプとズコは顔から血の気が失せて蒼白です。いまにも気を失っ

てしまいそうです。源蔵と千佳は、二人に席を外すように勧めまし

た。連夜の寝不足もあるから寝室で横になるようにと。しかし、二

人は首を横に振って動こうとはしません。「これは戦いだから、イカ

タック星人との戦争だから」と言って、椅子にしがみついています。

午後のニュースが始まりました。画面には後ろ手に両腕を縛られ

た少女と少年たちが大写しになります。場所は分かりませんが、床

に座らせられているのは少女のアイセ、少年のアニセ、それにウノ

セでした。いずれも昨年の秋に訓練所を出て行った子供たちです。

彼女たちは言いつけをしっかり守って、今回の事態を静観していま

した。しかし、疑いのあるホサピから遺伝子の全数検査が始まり、

九月上旬生まれの彼女らは真っ先に有害獣と判定され、逮捕されて

しまったのです。

「助けて!

ズコ先生、アプ先生、お願い!」とアイセが叫ぶ声。

「自首して僕らの命を救って!

アプ先生とズコ先生!」とアニセ

が、さらにウノセが涙を浮かべて訴えます。

『アプ号とズコ号、見ての通りだ。これから逮捕者はどんどん増え

てくるが、彼らの命はお前たちの出方次第。おとなしく自首をすれ

- 84 -

ばすべて生かすが、さもなければ殺すまで。お前たちが手塩にかけ

て育てた子供たちを救いたくはないかね』

先ほどの警視総監が再び現れ、アプとズコに自首を呼び掛けます。

いまにも画面から飛び出して来そうな警視総監の気迫に、アプたち

は押しつぶされてしまいそうです。

「もう駄目だ、我慢できない!」と叫んでズコが立ち上がりました。

「あの子たちを見殺しにすることはできない!

アプ、悔しいけど

ここを出て、自首をしよう」とアプの手を引っ張ります。

「そうだわ、私も行く!」とアプも立ち上がりました。その二人の

前に源蔵が立ちはだかります。

「馬鹿なことを!

これは策略だ、君たちを誘お

き寄せる陰謀だとい

うことが分からないのか!」

「そんなこと判っています!

たとえ陰謀でも、ここで子供たちの

死を眺めているよりはましです」

「駄目だ!

ここを出たら殺されてしまう。二人とも思いとどまっ

てくれ!」

懇願する源蔵を押しのけ、ズコはスクールから飛び出しました。

その後にアプが続きます。二人はごつごつした岩場を駆け抜け、ボ

ートが係留されている桟橋に来ました。その二人の眼の前でボート

が桟橋を離れて、暗い湖面を遠ざかって行きます。

「畜生!

源蔵さんがボートを!」と叫び、ズコは拳を暗闇に振り

上げます。

「こうなったら力ずくだ、源蔵さんからボートを奪い取る!」と彼

踝くびす

を返します。その足にアプが飛びつき両手でしがみつきます。

片足を掴まれたズコは岩場にズシンと音を立てて倒れ込み、アプも

弾みで倒れました。

「ズコ、暴力は駄目!

例えどんな理由があっても!」

ズコは、両肘と腹を突き出た岩に強く打ちつけ、鋭い痛みに唸り

声を上げました。彼は、体をくの字に曲げて痛みに耐えます。やが

て、その痛みが和らいでくると空白の頭に「暴力は駄目」というア

プの声が響いてきました。

ズコは自分がいま、暗い岩場に何故倒れているのか、解からなく

なっていました。そして、『暴力はいけない、何ごとも話し合いで解

決を』という言葉を、闇のなかに聴きます。目を開けると、アプが

心配そうに自分を覗き込んでいました。

「ズコ、大丈夫?」

「うん。それより源蔵さんたちに会おう、そしてお願いをしよう」

と言いながらズコは起き上ります。まだ肘の痛みは消えていません

が、ズコはスクールに向かいました。しかし、そこには誰もいませ

ん。二人がリビングを覗くと、老夫妻がテーブルに向き合っていま

- 85 -

した。

「源蔵さん、千佳さん、ごめんなさい。つい、感情的になってしま

いました」とズコが謝り、アプも一緒に頭を下げます。

「それでも、行かせてください。僕は子供たちが処刑されるのを見

ていることはできません!」

「私も、です。子供たちを見殺しにする訳にはいきませんから!」

ズコとアプは静かに老夫妻にお願いをしました。源蔵が何度も頷

きながら答えます。

「君たちの心情はよく分かる。よく分かるが相手は人間ではない。

いま出て行ったらすぐに殺される。子供たちの命も同じことだ」

「どうして?

源蔵さんは何故そんなことが言えるの?」

「それは相手がイカタック星人だからだ。もし相手が人間なら、と

ことん話し合えば解決策も見つかるかも知れない。しかし、相手は

人間ではないからだ」

「でも、僕らが自首すれば誰も殺さないと言っている」

「それを信じてはいけない。もし仮に、殺さなかったとしても君た

ちは家畜にされるだけ。いつか暴力をふるった子供たちのことを話

してくれたことがあったよね」と源蔵はズコに問い返してきました。

「ああ、ナリセとコナセの喧嘩ですね」

「そう、そのとき奴らは子供たちに何をした?

知的能力、人間ら

しい意思や判断ができない家畜化の処置をした、そうではなかった

かね?」

「ハア」

「多分、奴らは殺さないだろう。しかしその場合には、君たちや子

供たちを改めて家畜に仕立て直す」

「厭だわ!

家畜にされるくらいなら、ひと思いに死んだ方がい

い!」とアプが思わず叫びます。

「そうだろう。いまここを出たら、君たちは人間として生きてはい

けない」と、源蔵は言葉に力を込めます。

「じゃあ、どうすればいいの?」と再びズコが訊きます。

「もう少しだけ待って。まだ、可能性は残っているのよ」と千佳が

口を開きました。

「私が十年以上も研究した成果はこれからなの。納豆菌をばら撒い

ただけでは限界がある、それが分かっていたから研究を重ねてきた

のよ。だから辛いけど、いま動いては駄目、動かないで!」

鋭い声で言う千佳を、アプもズコも凝視します。

「アプとズコに改めて言うが、この世で最も大切なことは生きると

いうこと、人間として与えられた生を

全まっと

うすることだ。まだ戦いは

始まったばかり、どんなに辛く苦しいことがあっても最後の最後ま

で生き抜く。それを二人とも約束できるかな」

- 86 -

「はい、分かりました」

一月八日の朝、簡単な食事を済ませ、アプたち四人はスクールに

向かいました。今までとは違い、そこはイカタック星人との駆け引

き、戦いの場に変っています。アプもズコも敵の挑発には乗らない、

乗せられない……と自分に言い聞かせながら、ディスプレイ付きの

シートに腰を掛けます。

『ただいまビックニュースが入りました。IC警察は、白皮粘液熱

の病原菌をばら撒いた凶悪犯、通称アプ号とズコ号の逃亡先を先ほ

ど特定しました。二頭が潜んでいるのはパーリオ邸から数キロ山中

に入った谷間にある洞窟で、発見には警察犬が大いに役立ちました。

ホサピ舎の遺留品で臭いを覚えさせた犬が、二頭の逃走経路を明ら

かにしたものです。警察は現在、大型ヘリで必要な資器材を谷間に

搬入して、洞窟内の捜索を開始しました。情報が入り次第、またお

知らせします』

ニュースを聞いて、アプとズコは震え上がりました。冷静に、冷

静にと言い聞かせたばかりなのに、もう頭に血が上って心臓も早鐘

を打っています。

「見つかってしまいましたね!

源蔵さん」とズコが嘆くと、「ウー

ム、警察犬を使うとはなぁ!

しかし、グズグズしてはいられない。

敵が来る前に防備を固めよう」と源蔵が叫びます。その声でアプた

ちも立ち上がり、飲料水と非常食、毛布や寝袋などを取り揃えてス

クールに持ち込みます。そして、入口の扉を厳重に締めて、再びデ

ィスプレイ付きのシートに腰を沈めます。

午後のニュースでは、洞窟内の様子が放映されました。警察は狭

い洞窟の入り口から蝙蝠

こうもり

型の偵察機を飛ばして洞窟内を隈なく捜索

します。地底湖を渡った先は洞窟がアリの巣のように枝分かれして、

水の流れを利用した発電装置とその電気を用いた農場や養魚場、さ

らに生産に携わる数多くのロボットなど。アナウンサーは、アプ号

とズコ号は恐らく洞窟内のどこかに隠れているものと推測され、さ

らに捜索を進めること、今回の白皮粘液熱も洞窟内に生き残ってい

た人間の入れ知恵による犯行と断定したことを立て続けに伝えます。

それから一時間後には、さらに大きな動きが発表されました。

イカタック政府は、三百年前に滅亡したと認識していた人類が洞

窟の奥深くに生息していたことに衝撃を受け、生き残った人間とそ

の地下組織を直ちに壊滅させることを宣言、人類が使い残した原子

爆弾を洞窟の中に持ち込んで炸裂させること。そのため、総理は直

ちに陸軍に出動を命じ、陸路と空路で重機を投入して洞窟の入口の

拡幅工事に取り掛かる……というものでした。

アプとズコ、源蔵と千佳は互に顔を見合せました。想定をはるか

- 87 -

に超えた敵の動きに度肝を抜かれ、交わす言葉も見つかりません。

そこに追い打ちをかけるように警視総監が現れました。

『アプ号とズコ号、この放送を見ていたら直ちに出てきなさい。出

てくれば、お前たち二頭と仲間の命は保証する。期限は入口の拡幅

工事が終了するまで、その後は猶予しない。原爆の炸裂で崩れ落ち

る岩盤の下敷きになって死ぬがよい。もし仮に、頑丈な密室に入り

込んで生きながらえても、大量の放射線がお前たちの生存を許さな

い。これが最後

つうちょう

になる。洞窟の奥で犬死するよりは生きてい

た方がいいとは思わないかね。生き残るため、そして多くの仲間の

命を救うためにも、すぐに出てきなさい!』

アプとズコは、もう何も感じることができません。度重なる脅迫

で、恐怖心も仲間の子供たちを救いたいという心も麻痺していたの

です。二人は両手を胸の前にしっかり組んで祈りました。もし、こ

の洞窟と洞窟を包み込む山に神が宿っているなら助けてください、

どうか私たちを原爆の炸裂から救ってください……と。二人の祈る

心は源蔵と千佳にも伝わり、老夫妻も胸の前に手を合わせて、ひた

すら祈りました。

一月九日の朝、八角形に設置されたディスプレイ、ミュートにし

ていたそれらのテレビ画面に、幾つかの画像が現れました。静寂で

あったスクールに突然音声が響いて、その音でアプとズコは目覚め

ました。

ミュートを解除したのは千佳でした。彼女は夜を徹してディスプ

レイを監視していましたが、放映の開始とともに国営テレビを食い

入るように視聴しています。

洞窟の入り口には昨夜のうちに重機が据えられ、拡幅工事がすで

に始まっていました。一角獣の角に似た先端を岩盤に突っ込む掘削

機や平地を急造成したブルドーザー、出番を待つショベルカーなど

が映し出され、アナウンサーは原爆を運び込むトンネルがすぐに完

成することを伝えています。

一方、入口の天井岩に設置してある監視カメラからも状況はモニ

ターできます。そのモニター画像では、狭い入口とその周辺が小刻

みに揺れて、掘削機の音が洞窟内に微かに伝わってきます。拡幅工

事が進んで、トンネルが開通した暁には、このカメラに

眩まばゆ

い外の光

がモニターされることになりそうです。

洞窟の入口の長さは十メートルと少し。トンネルが開通するまで

に、一体どれぐらいの時間が掛かるものなのでしょうか。ズコが、

その時間を老夫妻に尋ねました。源蔵が、敵の掘削機の性能が分か

らないので正確には読めないが、それでも通常は数メートルから十

- 88 -

メートルぐらい、であれば一日から二日ではないかと推測しました。

国営テレビは放送開始からずっと掘削工事の状況を実況中継して

います。トンネルの入口が大きく開き、その中に掘削機の前半分が

隠れてショベルカーが粉砕された岩石を運び出します。興奮したア

ナウンサーの声に掘削機の岩盤を激しく削る音、四人はもう生きた

心地がしません。アプが、「もう、その音は厭、勘弁して!」と悲鳴

を上げました。ズコと源蔵も同意して、テレビの音声を消すことに

しました。しかし、千佳はイヤフォンを耳に挿して、鋭い目つきで

画面を睨み続けています。

午後の三時を過ぎたとき、国営放送はトンネルの掘削が一〇メー

トルを超えて、残りは僅かであること、恐らく夕方には貫通するで

あろうと実況しています。そうなると洞窟内に設置したモニターが

気になります。短い仮眠で元気を取り戻したアプやズコ、それに源

蔵も目を見開いて音声をオンに切り替えました。スクール内は再び

掘削機の振動音と興奮したアナウンサーの声でいっぱいになります。

左端のモニター画面に大きな変化が起こりました。岩肌の一部が

裂けて、そこから眩しい光が差し込んできたのです。同時に岩盤を

砕き削る掘削機の大きな音が室内に

轟とどろ

きます。ズコが大慌てでモニ

ターの前に駆け寄り、テレビの音声と同程度にボリュームを下げま

す。

「早過ぎる!

お願いだからもう少し時間を!」と千佳が叫びまし

た。

「岩盤が、恐らく岩盤が柔らかかったのだろう。万事休す、これで

おしまいか……」と言って源蔵も項垂れてしまいました。

「諦めないで!

源蔵さん。最後の最後まで生き抜く、生きること

が一番大事だと言ったばかりじゃない」とアプが励まします。ズコ

も「貫通したって直ぐには運び込めないよ。入口で阻止する方法だ

ってあるかも知れない」と加勢して言います。

「静かに、静かにして!」

そのとき、千佳が鋭い声を上げ、テレビの音声をミュートにしま

した。左隣のモニター画像から、それまで鳴り響いていた掘削機の

音が消えています。画像も停止して、岩の隙間から差し込む光にも

動きが見られません。

「間にあった!

多分、間にあったと思うわ!」

「そうだな、まだ明るいし、工事を止める時間ではないからな!」

と源蔵も、消沈していた顔に生気を取り戻します。

「何が起こったんですか?」とアプとズコが声を揃えて訊きます。

「もう少し待って、もう少し情報を集めましょう!」

千佳はそう言って、国営テレビの画像を正視しました。いつの間

にか実況放送は中断されて、映像が乱れています。その乱れは激し

- 89 -

くなり、やがて『試験電波発信中』の静止テロップに変りました。

右隣りには幾つかの民放テレビがミュートの状態で受信されてい

ました。それらの画像も乱れがひどく、中には真っ白の画面も見ら

れます。唯一、右端のディスプレイにアナウンサーが映っていまし

た。そのテレビ局の音声をオンに切り替えると、掠か

れた声が聞こえ

てきました。

『昨日の午後から、奇妙な病気が多発しています。白皮粘液熱とは

まったく違う病気と思われます。本件については強い報道規制が掛

けられていたため、これまでお伝えすることが出来ませんでした。

しかし、もはや報道規制を遵守しているような状況ではありません。

この病気は軽い咳で始まり、短時間のうちに喉が腫れあがって呼吸

ができなくなる模様です。患者の数は急速に増えて、各地の医療機

関では対応しきれない状況に陥っています。いまニュースを読み上

げている私も喉の調子が悪く、お聞き苦しい……』

アナウンサーの声が掠れて聞き取れなくなりました。そして、ウ

ウッという声を残して、二本の手と頭部がズルズルと洋ダルに沈み

込みます。『ストレッチャーを!』という叫びと共に画像は消えて、

ディスプレイは白一色に変りました。

千佳は、改めて数局のテレビ画像を見渡します。いずれの画面も

真っ白で、静止テロップを流す局も見当たりません。

「何だろう、どうして?」とアプとズコが千佳に訊きます。

「多分、仕組んだ通りになったと思うわ。白い粉を撒いてから一週

間から十日、それが決着の目途だったんだけど」

「そうかぁ、今日は八日目、だもんね」とズコ。

「いま民放のアナウンサーが言っていましたね、咳から始まって短

時間のうちに呼吸が出来なくなると。その直後に、アナウンサーが

自ら実演してくれました」

「あの後、イカタック星人は死んでしまうの?」とアプが訊きます。

「そう、喉頭

と気管が急速に浮腫

むから呼吸ができない、その後は

黒紫になって死ぬはずよ」

「僕、これから外に出て確かめたいな」

「いえ、もう暗いから明日の朝にしなさい。それに早過ぎるとその

分、危険に晒されるから」

「そうですね、慌てることはないですね」とズコは、素直に千佳の

言葉に従いました。

四人は久々にスクールを出て、リビングに向かいます。全員で夕

食の準備をして、源蔵がとっておきの白ワインを開けました。その

ワインで乾杯をして、彼らはゆっくり食事を始めます。

「それにしても何故ですか?

千佳さんは何を仕組んだの?」とア

- 90 -

プとズコが、グラスを傾ける千佳に尋ねます。

「それはね、ウイルスなの。ウイルスによるパンデミック、爆発感

染とも言うわね」と彼女は誇らしげに答えます。

「そのウイルスって?」

「あなた達がばら撒いた納豆菌の中に閉じ込めたの。納豆菌は見せ

かけで、本命は新種のウイルスだったのよ」

「あの白い粉は納豆菌で、その中にウイルスがねぇ」とアプとズコ

は驚嘆の声を上げます。

「私が開発したウイルスは、納豆菌を抗生物質で殺菌すればするほ

ど毒力が増すように設計したの。だから医師やナース、警察や報道

関係の順に感染が広がったと思うわ」

アプとズコは、千佳の言葉に何度も頷きます。ウイルスには潜伏

期間があって、感染してもすぐには症状が出ないことも、彼女に丁

寧に教えて貰いました。

翌朝、アプとズコは久々に紫色の衣装でリビングを出ようとしま

した。その二人に、千佳が「少し待って」と声を掛け、奥に入りま

す。数分後、彼女は源蔵と共に着膨れした姿で現れました。片手に

は分厚いコートも抱えています。

「あれッ、千佳さんも源蔵さんも、行くんですか!」

「それはそうよ、勝ち戦をしかとこの目で確かめたくては。ねえ、

源蔵さん」

「そうだとも、ここに籠って生きてきた人たちの悲願だったからね

ぇ。地上を見ることもなく生涯を閉じた人たちの代表として、見届

けなければな!」

「冥土の土産話としてね、あの世に逝ったら沢山の人たちに話して

あげるのよ!」と千佳は笑顔で言います。

四人は、暗い岩場を注意深く進んで桟橋に係留してあるボートに

乗り込みます。ズコが操縦席につき、その隣にアプ、後部席には源

蔵と千佳が座りました。

「四人揃って乗るのは、久しぶりですね」とアプが声を弾ませまし

た。

「この日が来るのが夢であったが……。千佳さん、本当に大丈夫か

ね?」

「あなた、何を

仰おっしゃ

いますの。それをこれから確かめるのですよ」

湖面の前方が少し明るくなってきました。ボートが縦揺れするた

びに明るさが増して、一筋の光が湖面に映し出されます。やがて、

対岸の岩場が見えてきて、掘り削られた岩盤の穴から差し込む光で

24

- 91 -

目が眩みそうです。ボートを桟橋に係留して、一行は平たい岩に降

り立ちました。アプとズコが出入りしてきた狭い通路は押しつぶさ

れて跡形もありません。ズコが崩れ落ちた岩のあいだに駆け上がり、

年寄りでも通り抜けられるコースを探します。鋭く割れた岩石の向

きを変えたり動かしたりして、人ひとりが通れる通路ができました。

先ずアプが、岩穴に駆け上がり、千佳の手を引っ張ります。岩穴の

外側では、ズコが降りるのをエスコート。その次は源蔵の順で、四

人は掘削中のトンネルの中に立ちました。

目の前には巨大な掘削機が、機体の後部を外に出したまま放置さ

れています。ズコが垂直な鉄梯子を駆け昇って、運転台を覗き込み

ました。

「死んでいる!

黒紫、ブドウのように黒紫だ!」とズコは、見上

げる三人に伝えます。

「私にも見せて!」とアプが叫び、ズコと入れ替わりによじ昇りま

す。

「本当に黒紫だわ、手で喉のところを押さえている!

源蔵さん、

千佳さんも見ますか?」

「いいや、ワシ等はいいよ。梯子をよじ登る力もないし、イカタッ

ク星人が死んでくれればそれで十分だよ」と老夫妻は声を揃えまし

た。

掘削機の脇を外に進むと、すぐ後ろにショベルカーが控えていま

す。その運転席にも黒紫に変色した死骸が横たわっていました。

狭い谷間は白銀の世界ですが、トンネルの前だけは黒茶色の土の

ダムが造られています。その盛り土の上に、ブルドーザーや迷彩色

の戦車、雪上車などが放置されたままです。四人は、それらの一台

一台を見て回ります。どの車両にも黒紫に変色したイカタック星人

の死体、真冬の寒さで凍てついた死骸ばかりです。

何を思いついたのか、ズコがキャタピラーのついた雪上車に駆け

寄りました。運転席のドアを開け、イカタック星人の遺体を外に放

り出します。そしてエンジンを掛けると、オレンジ色の車両の運転

を試みました。黒茶色のダムを降り、雪の斜面を登ったり降りたり。

それを二、三度繰り返して、元の位置に停めます。

「これがあれば誰でも山を降りられる。源蔵さん、千佳さん、これ

から僕らはイカタックシティに向かいますが、一緒に行きましょ

う!」

ズコの提案に、源蔵と千佳は互に顔を見合わせました。そして、

小さく頷き合って源蔵が答えました。

「ワシらは行かないよ、この住み慣れた洞窟で生涯を終える」

「でも、これからは命の危険もなく自由なんですよ。せっかく取り

戻した地球ですもの、一緒に暮らしましょうよ!」とアプが強く誘

- 92 -

います。

「アプ、有難う。気持ちはよく分かるけど、私たちは地上で暮らす

術を知らない。いまだって、この明るさや寒さが身に応えるの。だ

からあなた達二人だけで、行って」と千佳が頑なに断ります。

「そうですか、では僕らだけで首都の様子を見てきます。とりあえ

ず洞窟の中に戻りましょう」

「いや、あの程度の岩場ならワシらだけで越えられる。心配はいら

ないから、一刻も早くイカタックシティに行きなさい」と源蔵が言

います。

「ではここでお別れします。僕らはこの雪上車でパーリオ邸まで戻

り、そこから先は別の車で……」

「それがいい、くれぐれも注意してな」と言って、手を振る老夫妻。

その二人に見送られて、アプとズコは谷川沿いに山を下りて行きま

す。

一五分ほどでパーリオ邸に着きました。住み慣れたホサピ舎を覗

くと、愛用の品やタンスの中の着替えなど、ありとあらゆるものが

消えています。屋敷の方も家宅捜索を受け、扉が開けられた家具や

段ボールで雑然としています。パーリオと妻のペクールを探しまし

たが遺体はどこにも見当たりません。恐らく、当局に連行されたの

でしょう。アプとズコは、お世話になった夫妻の亡骸

なきがら

を見なくて済

んだことに、内心、ほっとしていました。

駐車場にはワゴン車が停められています。こちらも捜索を受けて、

ダッシュボードの中身が抜き取られていました。しかし、エンジン

を掛けるとスムーズに始動します。ズコは、ホサピ舎にいたアプを

呼び寄せ、助手席に乗せます。そして、イカタックシティに向けて

スピードを上げました。

首都に入ると、そこは廃墟と化していました。道路の車両はすべ

て停まり、その運転席には黒紫の死骸が洋ダルの底に沈んでいます。

繁華街の喧騒が嘘であったかのように音が消えて、交差点の信号も

点滅しません。歩道や広場には空の洋ダルが散乱して、所々が黒紫

の塊。近づくとそれらは折り重なって息絶えたイカタック星人の死

骸でした。

「気持ちが悪い!

私たちにはうつらないのかしら?」とアプが悲

鳴を上げます。

「大丈夫だよ、千佳さんが研究に研究を重ねて……と自慢していた

もの」と応えるズコ。人間や牛馬には危害を及ぼさないということ

を千佳が繰り返し話したことを思い出したのです。

「これで、イカタック星人の滅亡は確認できた。次は、何をしたら

- 93 -

いいんだろう」と呟きながら、ズコは車を止めました。大小さまざ

まな車両とその間に吹き寄せられた洋ダルでそこから先には進めま

せん。彼はワゴン車をターンさせて、一旦、市街の中心部から離れ

て行きます。

「ズコ、私の考えを言ってもいいかしら」と助手席のアプが訊きま

す。

「もちろんだよ、いい考えがあれば教えて」

「まず、報道機関じゃないかしら。何人ぐらいの子供が視聴するか

判らないけど」

「そうか、一緒に戦った子供たちに勝利を伝える、そこからだ!」

「でしょう。となるとIC国営放送が一番かな」

「そうだね、国営テレビのスタジオに行こう!」

ズコは、そう叫ぶとハンドルを切って、IC国営放送の建物に向

かいました。とはいっても、なかなか前に進めません。二人は度々

車から降りて、進路をふさぐ死骸や洋ダルを道路の脇に寄せて国営

テレビに辿りつきます。

テレビ局のエントランスや廊下にも黒紫の死骸が転がっていまし

た。それらの間を縫うように、二人はスタジオに向かいます。その

途中で、廊下をうろつく三人の青い服、主人を失った労務ホサピに

出遭いました。彼らは、目の前で飼い主が次々に倒れて死ぬ場面を

見て、狼狽しきっていました。彼らは指示や命令がなければ、自ら

は何も行動することが出来ないのです。

「君たち、スタジオはこの先かな?」とズコが声を掛けます。

「ダダダダッ、そ、そうです」とたどたどしい言葉が返ってきます。

「私たちをスタジオに連れて行って」とアプがやさしく頼みます。

「ダダダッ、こ、こちらに」と一人が手招きをして、アプたちは歩

き始めました。

「ズコ先生―ッ、アプ先生―ッ」

大声を上げながら、こちらに駈けてくる青い服の少年、その軽快

な走りは明らかにホサピではありません。

「あーッ、イトセ君!

無事だったんだ!」

少年は、九月に訓練所を巣立って行ったイトセでした。彼はビル

メンテナンスの使役に就いていて、このテレビ局には毎日のように

出入りして荷物の運搬や技師たちの手伝いをしています。

「やりましたよ、先生!

僕はこのビルや隣のビルに目一杯、ばら

撒きましたから」

「有難う、イトセ君。遂にイカタック星人をやっつけたね。これは、

みんなで力を合わせた成果だよ」と感慨深げにズコが言います。

「でも、二、三日前は怖かったです。イカタックの警察に捕まらな

いようにと、必死で逃げ回ったもの」

- 94 -

「そうよね、私たちもテレビで脅迫されて、生きた心地がしなかっ

たわ」

「でもよかった、こうして先生たちとまた会えたことがとても嬉し

いです」

「だからイトセ君、この勝利をみんなに伝えて。共に喜びを分かち

合いたい」とズコ。

「それで先生たちはここに……。それならスタジオにどうぞ」

「君は、テレビ放送のやり方が分かるのかね?」とズコが尋ねます。

「多分、僕はいつも技師たちの作業を見てきたから」

そう答えながら、イトセはアプたちをコントロールルームに案内

します。そして、二人をニュース専用スタジオに招き入れ、労務ホ

サピにはテレビカメラを移動させて、撮影の態勢を整えます。準備

が整うと、イトセはコントロールルームの監視机からアプたちに放

送開始の合図を送ってきました。

「こんにちは、この放送をお送りしているのは、私アプとズコです。

イカタックシティの牧場で幼い時から共に学んだ皆さん、見ていま

すか!

そして、源蔵さん、千佳さんも洞窟の中でご覧になってい

ますか」

「こんにちは、ズコです。いまイカタック星人の首都、イカタック

シティの中心部を見てきましたが、街は廃墟になっています。道路

は乗り捨てられた車両と黒紫の死骸で溢れていました。皆さんのお

住まいの地域はいかがでしょうか。おそらく、首都と同じように、

イカタック星人はすべて死に、都市機能はどこもマヒしているので

はないでしょうか」

ズコが言い終わると、アプがその後を続けます。

「この勝利は、111

わんわんわん

の合言葉で皆さんが一斉に白い粉をばら撒い

た成果です。力を合わせ、約束通りに行動したから手に入れること

が出来た輝かしい勝利です。みんな、本当にありがとう!

そして、

おめでとう!」

アプは、テレビのカメラに両手を高々と上げて、万歳をしました。

ズコも並んで手を上げながら、次の話に入ります。

「僕らはいま、地球を我ら人間に取り戻しました。もう、イカタッ

ク星人の家畜ではありません。三〇〇年を超える屈辱の歴史にピリ

オドを打ち、私たち一人ひとりが自由な人間であることをここに宣

言します」

ズコは、さらに言葉をつなぎます。

「地球を取り戻したといっても喜んでばかりはいられません。家畜

は住むところと食料が支給されますが、人間には誰も何も与えては

くれません。自ら食料と、住むところを確保しなければならないと

- 95 -

いうことです。また、自由であることには責任が伴い、自立が求め

られます。イカタック牧場に生まれ育った少年と少女の皆さん、す

ぐに、新しい国家の建設に当たってください」と。

少し話が堅くなったので、アプがズコに替わって、やさしく話し

掛けます。

「皆さん、手始めにイカタック星人の死体を片付けましょう。さい

わい力強い味方、清掃に長た

けたホサピがまわりに一杯いますね。そ

の人たちの力を借りて町の中をきれいに清掃しましょう。それが出

来たら、次は新しい国造りですね」

「そうです、アプ先生が言うように、皆さんがリーダーになって、

皆さんが住む地域に新しい国を造ってください。その際にとても大

切なことがあります。

もし仮に、皆さん一人ひとりが思い思いに新しい国を作ったとし

たら必ず衝突が起こります。その衝突はやがて戦争になり、三〇〇

年前に滅びた人間と同じ過ちを繰り返すことになるでしょう。国に

よって考え方や価値観が異なるからです。

ですから新しい国、新しい世界には、必ず共通の規範が必要にな

ります。その規範はアプとズコの経典、AZの経典です。皆さんは

幼い時から習ってきたので、よく覚えていますね」とズコは、テレ

ビの向うにいる子供たちに話し掛けます。

「ズコ先生、それはとっても大切なことだから、ここでもう一度お

さらいをしませんか」

「そうですね、それではアプ先生からお願いします」

「ハイ、それでは一からゆっくり言いますね」とアプが姿勢を正し

て暗唱します。

一、人は人を殺してはいけません。どのような理由があっても。

二、仲良く暮らすことが大切です。揉め事はすべて話し合いで解決し

なさい。

三、神を信じることは大切です。しかし、他の神や宗派を認め、これ

を尊重し、共存することが前提になります。

四、人には人らしく生きる権利が保障され、そのためには教育が第一

となります。

五、暴力と性的虐待を禁じます。理性を失う薬物の乱用も許しません。

六、盗んではなりません。物に限らず、発明・発見等の知的財産も含

めて。

七、偽りの証言ならびに詐欺をしてはなりません。

「アプ先生、有難うございました。テレビをご覧の皆さんも思い出

しましたね。AZの経典は新しい世界の大切な規範です。皆さんは

- 96 -

この規範を常に念頭に置き、しっかり遵守して新しい国づくりに当

たってください」

「ズコ先生、もう一つ付け加えてもいいですか」と隣でアプが手を

上げました。ズコは、もちろんと言う表情で微笑みます。

「皆さんは弱い者苛い

めをしてはいけません。自分より弱いものを苛

めるのは卑怯者のすること、人間として恥ずかしいことです。皆さ

んの周りには沢山のホサピがいますね。ホサピはイカタック星人に

よって人間としての優れた能力、思考力や意志、闘争心などを奪い

取られた犠牲者です。元々は私たちと同じ人間、仲間なのです。で

すから、酷使や虐待は絶対にしてはいけません。皆さんは人間らし

い優しさと思いやりをもってホサピに接して下さいね。お願いしま

す」

ズコは、アプの隣で何度も何度も頷いています。そして、アプが

話し終えると、彼女の手を取って立ち上がりました。

「さあ皆さん、新しい国を創造するために立ち上がりましょう。そ

して、二度と滅びることのない平和な世界、地上に住む人間の一人

ひとりが活き活きと幸せに暮らせる世の中を築き上げていきましょ

う!」

画面いっぱいにズームアップされた二人の顔は、眩しいほどに輝

いていました。

〈了〉

【あとがき】

本誌の創刊号から連載してきた「アプとズコ」が完結。原稿用紙

に換算して六二〇枚ほどの長編になった。

ストーリーを思いついたのは今から四半世紀前、本州の北端、下

北半島をドライブしていたときのこと。見渡す限り青草が茂る牧場

に、牛がのんびりとくつろいでいる。仕事に追い回されていた私は、

「何と穏やかな光景」と牛たちを羨みながら癒された。が、牧場の

出口で巨大な看板を目にして気分は一転。そこには『青森県食肉増

産組合』と大書されていたのである。

私は、牛たちは幸せに見えるが、立場が変わって人間が家畜にさ

れてしまったら……と考えたのである。以来、岩泉の龍泉洞に取材

したり、様々な書物を渉猟したりしながら何とかゴールにたどり着

くことができた。

途中、丁寧な描写を意識し過ぎて冗長になった章が見受けられる。

そのような箇所は駄文を取って、五百枚弱の長さに書き直した。タ

イトルも「人間奪回、アプとズコ」に改め、ホームページの「香取

淳の本棚」に掲載した。該当する

web

をご覧いただければ幸いであ

る。

- 97 -

【編集後記】

■文芸「草の丘」は、二〇一一年の秋に創刊号をインターネットに掲

載して以来、年に二回のペースで文芸作品を世に送り出してきた。ス

タート時は三人であった会員も号を追うごとに増えて、多い時には八

名を数えた。その後、家庭の事情などで辞めた方もあり、現在は六名

になっている。しかし、会員の創作意欲は高く、毎回、独創的でバラ

エティに富んだ作品が発表されてきた。

■本誌は「w

eb

同人誌」であるが、最大の特徴は作品を広い地域の多く

の方に読んで頂けること。そして作品を発表する人にとっては掲載料

が殆ど掛からないこと。いかに長い作であっても、お金のことを心配

しないで掲載できる点にあると思う。

■本会に似たものとして、「小説投稿サイト」が幾つかある。しかし、

投稿サイトにアップしても、掲載作を真剣に読み、的確に批評してく

れる人はまず期待できない。やはり創作仲間が集まって、互いに批評

し合う「合評会」がなければ、創作の腕は中々上がらない(書き始め

の頃は誰でも自惚れがひどいものである)。

そのような見地から、本誌では原稿提出の段階から編集会議、さら

に合評会と機会がある度に互いの作を批評し合い、発表するまでに完

成度を高めてきた。そして、これからもそのような取り組みを続ける。

■本会では、新たな会員を募集している。小説に限らず、詩や随筆、

書評や紀行文などを書かれる方、是非、左記までご連絡を!

なお、本会の会則等については、本誌の五四頁をご参照願いたい。

〈香取

記〉

【会員と連絡先】

いんば

華子

[email protected]

唐瀬

[email protected]

中川

とら

[email protected]

畑中

康郎

[email protected]

香取

[email protected]

高橋より(イラスト)

junko328p@soft

bank.ne.jp

草の丘

第十号

二〇一六年六月二五日

編集兼発行人

印旛文学の会

香取

連絡先メール

katorijun2

[email protected]

URL

http://bungeikusano

-oka.raindrop.jp