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地理の写真館
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2011年12月24日〜 30日の7日間、JICA東北主催の教師海外研修に参加し、2004年のスマトラ沖地震津波で大きな被害を受けたインドネシアのアチェ州バンダアチェ市を訪ねる機会を得た。研修は「災害からの復興」を主テーマとし、東日本大震災後の教育活動に生かすべく、東北地方の小中高の教員22名が参加した。 2004年12月26日、現地時間の午前7時58分にスマトラ島の西海岸沖に位置するスンダ海溝のプレート境界で発生したマグニチュード(M)9.1の巨大地震により発生した巨大津波は、震源域からほぼ東西方向に広がり、わずか30分足らずでアチェ州都バンダアチェ市を襲った。押し寄せた30mを超える巨大津波は、海岸から最大約5kmほど遡り、市街地はガレキで埋まった。インドネシア全体で約22万人、アチェ州で約17万人、バンダアチェ市で約7万の死者・行方不明者が出た。国内の流失家屋は12万7,325戸、損壊家屋は15万1,653戸に及んだ。また、地震の影響で海岸部では最大1.5mもの地盤沈下が生じた。日本では防災にかかわるものとして、1854年の安政南海地震の津波がもととなった「稲むら火」や東北の三陸地方での「津波てんでんこ」という先人の言い伝えが語り継がれているが、現地ではインドネシア語やアチェ語に津波にあたる言葉はなく、住民に津波の知識がなかったことや津波警報システムの未整備がより被害を甚大にしたとされる。 私たちが訪れたシロン集団墓地では、2haほどの敷地に約4万6,000人が眠る。遺体の埋葬は、損傷が激しい上に腐敗も早いため緊急を要した。政府が空き地のこの土地を用意し、津波から3日後には土葬を開始。遺体の身元の確認はできず、何層にも重ねられ埋葬された。市内には同様の墓地が全部で5か所ある。現在でも毎日50人ほどが訪れ故人の冥福を祈る(写真①)。 復興にあたっては、2005年4月に設立されたアチェ・ニアス復旧復興庁(BRR)がマスタープランを掲げ、復興事業を推進した。教育や医療、基礎インフラ開発、生活再建に重点が置かれ、海岸地区は護岸整備やマングローブを植林。幅5〜 15mの避難道路が市内の東西、南北に張りめぐらされた。ただし、津波浸水地域である海岸部については、インドネシア政府は当初、居住制限を掲げていたが、同じ村にとどまることを希望した住民たちにより受け入れられず、結果として、バンダアチェ市をはじめとする海岸部では多くの住宅が元通り再建されることになった。復興事業には世界各国から競うように資金が提供され、総額7,000億円が復興事業に投じられた。 このうち、日本の援助により建設・再建され、私たちが訪れた場所を紹介したい。一つは、バンダアチェ市内のウレレ地区にある2008年完成の津波防災ビルである。ウレレ地区は
当時の住民約5、6千人のうち8割以上が犠牲になった激甚被災地区で、現在は水没を免れた土地に、各国の支援で住宅が再建されている。住民の数は被災前の半分程度。津波避難ビルは市内に全部で4か所あり、うち3か所は日本の援助で建設されたものである。建物は4階建てで、平屋が多いこの地区ではひときわ目立つ。1階はコンクリートの柱だけの構造にして津波に対する強度を高め、屋上のヘリポートにはスロープを使い避難できる(写真②③)。私たちが訪れた当日は、地元の住民や高校生らと津波、防災についての意見を交わした。学生の多くは、津波てんでんこの考えに理解を示したが、実際には家族のことが気になって1人では逃げられないと回答したのが印象的だった。 もう一つは、公立ランジャバット第11中学校である。海から約2km弱離れた住宅密集地内に位置する。海との高低差はほとんどなく、津波により平屋の校舎は全壊した。津波があった日は日曜日で、ほとんどの生徒は自宅で被災した。全校生徒500人のうち85%にあたる428人が犠牲になった。生き残ったのはたったの72人。それまで学校では避難訓練を行ったことはなく、地域にも防災無線等はなく、多くの人は津波が来ていることに気づかなかった。校舎は1年後に同じ場所に再建された。中庭を設けたスクエアな2階建ての建物で、避難場所の屋上に通じる避難階段が4か所設けられている。頑丈な造りで、図書室やホール、礼拝堂を備え、スマトラ島内で珍しいほどの豪華な学校だという。現在の生徒数は208人。地理や物理、宗教の授業で津波を教え、また、2007年に開所した地元のシャクアラ大学の付属機関TDMRC(津波災害軽減研究センター)と連携し、年に3回避難訓練実施している。学校周辺のマップをもとに災害時はどの場所に避難するか教えている(写真④)。 一方、土地の水没により住居を失ったため高台移転を余儀なくされた人々もいる。政府は、国有地であった土地を造成し、支援を申し出た国際機関や非政府組織が無償で住宅を供給した。私たちが訪問したバンダアチェ市ブラモ地区は、映画スターのジャッキー・チェンが資金提供し、中国政府の支援により住宅建設が進められ、現在612世帯、約2,000人が居住する。入居に際しては、各コミュニティ(村)に入居可能戸数が割り当てられ、抽選により希望者が入居した。したがって、入居者の出身コミュニティはばらばらである。住宅は、平屋造りで、朱色の屋根にやや黄色味がかった壁が特徴的である。地区での生活は利便性が低い。幼稚園と小学校はあるものの中学校や高校はなく、スーパーマーケットもない。当然職場もなく、街中まで出かけなくてはならない。また、生活用水については、上下水道は整備されておらず給水車が頼みの綱である(写真⑤)。
特別編 スマトラ沖地震 津波からの復興
〜インドネシア・スマトラ島アチェのいま〜
写真・文 岩手県立盛岡第四高等学校 朝倉雄大
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私は、訪問したお宅で運よく家の中まで入れていただき、お話を伺うことができた。ラストリさん(29歳)家族は、兄と妹の3人暮らし。話を聞くにつれ、この3人は実は互いに血のつながりのない被災者同士であることがわかった。当初はラストリさんと妹さんの女性2人の暮らしだったが、次第に心細くなりお兄さんを迎え入れた。このような新しい家族形態は決して珍しいものではないという。現在、生計はおもに家の前に出した小さな出店での駄菓子販売により立てている(写真⑥)。住宅は無償給付されたが、現在生活費に対する支援はなく、給水にかかる費用も全額自己負担である。聞き取りは、家のリビングで行った。間取りは2LDKで、暑いアチェの気候に適した風通しのよい開放的な造りで、広さ8畳ほどの部屋に大型テレビやダイニングテーブルなどの調度品が置かれ、若草色の壁には、近所の子どもたちの写真とともに亡くした家族の写真が掲げられていた。ラストリさんは、現在の生活に幸せを感じているという。生活の利便性に課題はあるものの、少しずつ悲しみを乗り越え、新しいコミュニティの人々と心を通わせお互いに助け合う過程のなかで、家族を失った無念さが少しずつ癒されていることを感じた。 ここ数年、バンダアチェ市では、津波の痕跡を伝える遺産を観光資源、防災教育に生かそうとする動きがある。2011年5月に開館したばかりの津波博物館は、津波避難ビルの機能も備えるもので、内部には、犠牲者の名前を刻むホールや津波の高さを示す回廊、また、当時の映像資料やパネル、市街
地の浸水範囲を示す模型、津波が襲ってきたようすを表したジオラマなど約500点の資料が展示されている(写真⑦)。また、港から市街地まで5km流されてきた発電船が現在もそのまま残されている。全長63m、高さ20m、重量4,500tと大きいもので、船の下には20軒以上の民家が下敷きになっているという。現在、周辺は公園として整備が進む。他にも、民家に乗り上げた木造の漁船が、そのまま撤去されずに残っている。地元住民からは「ノアの方舟」とよばれる。今では、船に登るスロープが取り付けられている(写真⑧)。 最後に、津波が発生した12月26日に合わせ、毎年行われている州政府主催の追悼祈念式典を紹介する。7回目にあたる今回、私たちは来賓として参列した。バンダアチェ市近郊のロッガ地区の会場には、草地にテントが設置され、式典には遺族ら約5,000人もの人々が参列した。コーランの一節が響く中、式典が行われた。家族を失った女性が悲痛な思いを述べ周囲の涙を誘う場面が印象に残る(写真⑨)。会場敷地内の一角には、大阪市のNPO法人が用意した、阪神淡路大震災の被災者が東日本大震災で被災した東北の人々に向けたメッセージが記された花のオブジェを植えて、花畑を作る催しも行われた(写真⑩)。アチェ州は、かつて30年近く独立をめざす武装組織と政府軍が内戦を続けていた場所でもある。イルワンディ・ユスフ州知事は、万感の思いを込め「心に空いた穴を埋め、平和になったアチェを守っていこう」と参列者に呼びかけた。
写真① シロン集団墓地
写真③ 津波防災ビルからのながめ・近所の女の子と再建された住宅
写真② 津波防災ビル 外観と屋上ヘリポート
写真④ ランジャバット第11中学校
地理の写真館
スマトラ沖地震 津波からの復興〜インドネシア・スマトラ島アチェのいま〜特別編
写真⑤ 高台移転地区 給水に頼る生活
写真⑦ 津波博物館・内部のようすと外観
写真⑨ 津波7周年追悼祈念式典・家族を失った悲痛な思いを述べる女性
写真⑥ 高台移転地区 ラストリさん
p.25、26のつづき
写真⑧ 民家に乗り上げた漁船
写真⑩ 花のオブジェに見入る子ども